ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

昆虫キッズ解散(活動終了)

はああああああああああああああああああ!!!!!????
と、仕事から家に帰り着いて暑い中扇風機浴びまくってどうにか涼をとってる時にスマホツイッターしていて、気づいて、思った。

昆虫キッズ、最初やはりその名前の可愛くもナイスな歪さに引っかかり、東京某所に行った際にアルバムを借りて聴いた。歌がかなり下手かった。音のガレージ感というか、すげえボロボロな感じがした。それはでも、当時も何となく感じたけど、今思えば、当時くらいから音楽ファンの間ですごく浸透していっていたUSインディ的な音楽、爽やかで、透明感があって、滑らかにノスタルジックで、奇麗なああいうやつとは、随分と違うところで音が鳴っていた。

『太陽さん』が好きだった。『サマータイマー』もすごくいい曲だと思った。『My Final Fantasy』はあまり聴いてなかった。変なバンドで割と聴きにくいと思って、とりわけ聴く回数の多いアーティストにはならなかった。

『ASTRA』を聴いてすごくびっくりした。

暴力的な音がとても易々と安っぽく鳴らされている。狂乱、とかいう薄い薄い嫌気がさしてくる言葉じゃまるで足りないこう、すごい勢いを感じた。それは全然真っすぐじゃなく、エネルギーに満ちあふれているのかもよく判らず、でもすごく絶妙にインパクトがあって、残虐で、快かった。当時まさに、「『NUM-AMI-DABUTZ』の再来だ…!」と直感的に思ったのは、しかし後に考えてみると、アルバム的にも3枚目だし、アブストラクトでキャッチーな具合といい、言い得て妙だと、ずっとずっと自画自賛している。

なのにすぐアルバムに手を伸ばさなかった。ぼくがアルバム『こおったゆめをとかすように』の存在を知ったのは2013年のそれぞれのベストアルバム10枚とか何十枚とかを、年末にツイッターの多くの方々がし始めた際の、何人かの一枚としてだったし、その後何かの際にレンタルして聴いたのは今年に入り、ぼくがようやく道満晴明の漫画をはじめて読んだころと同じくらいにこちらもようやく“東京インディー”なる概念が世の中にはあるっぽい!と気づいた頃だった。
すごいアルバムだった。このブログにも挙げているぼくの2013年ベストアルバムは、今のぼくの中では半分くらい意味がなくなっている。少なくともあの中に『こおったゆめを〜』『ひみつ』『Dead Montano』を入れてなかったのは、完全に失敗だった。
アルバム全体の、小手先のアレンジの多彩さと、それの割にそれほどパノラマって感じもせずむしろバンドの性質がより鮮明にモノクロームに叩き付けられたような楽曲の数々。その間にこそ生まれ得た、整然とした退屈だけどちょっと気の利いた何かとかとは全然全然全然違う、まるで正体も判らずだけど何かのたうち回って叫んで沈んで壊れきって虚しくってる感じの、情熱というのか、モチベーションというべきか。

それは個人的には、音楽に限らず作品を作る上で最もモチベーションにすべきと思ってる類のそれだった。ぼくはそれを『Pet Sounds』や『White Album』、またはNeil Youngの一部の作品に感じた、Joy Divisionの『Transmission』スタジオライブ動画や、Radioheadで時々鳴らされる訳の判らない音の破壊的なギターサウンドとか、スマパンとか、そういうモチベーションをオルタナ的にするとこうなるのだと思った。Bloodthirsty Butchers、EMI後期のとても必死過ぎるエレファントカシマシ、『図鑑』や『The World Is Mine』のくるりNumber Girl、第一期ART-SCHOOLSyrup16gの人気の二枚とか、髭の『Chaos In Apple』とか、同じ熱情を感じては自分の中で変な体系作りをした。ファン的にどこまで評価されてるのか未だによく判らない100s『世界のフラワーロード』にその復活を感じてアルバム発売前に(何かの用事のついでに)実際にフラワーロード巡りしたことがあった(アルバム大傑作だと思う)。日本のロックにおけるこういう情熱をたどれば浅井健一を経て、The Roostersに辿り着くのだ、という変な持論を作った。
いわゆる97年世代と、そこからゼロ年代前半デビューの下北系ギターロックくらいまではなんとなく一つの層。自分が日本の音楽で色々思い当たるのは、結局その層ばかりじゃないか、と次第に思うようになる。感情の老害化、上世代の崇拝とその下(=より自分に近いくらいの世代)の軽視。andymoriはドラムが変わってしまった。ミドリは順当に変化しなんか解散した。Galileo Galileiが半エレクトロ化したとき以上に『コウモリかモグラ』でヒステリックで変なシャウトを発してるときにすごくぐっときた。きのこ帝国は今すごくいい感じ。ええとあと何かあったっけ。加齢によるものか仕事疲れか、好きになれる情熱の幅が狭くなった、もしくはその元々の幅に収まるものだけを本当に好きになりたいそれ以上はもうキャパない、って感じ。

昆虫キッズは今年で29歳だという。何を隠そう今年27歳のぼくにとって彼らは、すごく直近の先輩という感じがした。それは特に、『こおったゆめを〜』という大傑作(この辺そのうちちゃんと書かないと)をものにして爆発四散してもまあ仕方ないかなあそれこそ上記のナンバガの喩えもある訳だし、と思っていたところに新作『BLUE GHOST』が登場し、その新しい充実の仕方(これについてはBELONGにて書かせて頂きました)にすごく感動した。高橋翔は遂にその爆発四散しかねないパッションを優雅にコントロールして一枚作ってしまった、何かを乗り越えていったんだ、と、別に先人と比較して優劣をどうこう言うつもり全くないけれど、とても素敵なことだと思った。乗り越えていったから、この瞬間は続くんだ、せめてもう何年かくらい、って思って、頼もしい、頼もし過ぎる、身勝手に書けばART-SCHOOLや髭に勝手に押し付けていたかすかで切なる期待を、他に、それもすぐお兄さんたちくらいの人々に向けることができる。その気になればどこまでものめり込める、と思った。

嘘じゃない、2014年上半期ベストアルバムぼくの一位は『BLUE GHOST』だと、iTunesでもなく分析でもなく、根本的な共感と羨望で決まっていた。なんでこんな少人数(大人数で感動的で大自然で重厚でシンフォニックなサウンドというのは、どこか完全に共感しきれないところがある)の、ジャリジャリギターとペポペポキーボードと基本的なリズム隊(実はここが何気に一番すごいのかもだけど)だけで、正確にあのモチベーションを増幅させてまき散らせることができるんだろう。知性だけじゃ済まない実はものすごい音楽、というぼくの身勝手な願望に、昆虫キッズの後期二枚(こういう呼び方になるのか)は完璧だった!


上記のBELONGのレビューをメンバーのひとに褒めてもらってすごく嬉しくなった。けれどこうなってしまうなんてあんまり考えてなかった。すばらしい作品を必死になって作ってくれたバンドに「次はどういった世界を見せてくれるのか期待だ」と書くのは何て身勝手で無責任で高圧的だ、と思った(しばらく前までぼくもそういう書き方をすることが多々あってとても恥ずかしい)。でも、こうなるのは考えたくなかったし、楽観的だった。

ライブを観に行きたい。できるだけ多く。大阪以西は全部行く、くらいに。そしてできればファイナルも観たい。平日水曜日というのがネックすぎて、有給を二発打ち込むか今から考えている。メンバーにお会いして、話したい。感謝したい。現在某製作中の作品のタイトルは、個人的には昆虫キッズに影響を受けたものだ。聴いてほしい。製作中のデモ持っていきたい。いやいやそんなことより、彼らの楽曲・演奏を今は、一曲でも多く聴いてみたい。サマソニ東京二日目の前日に行くかどうか迷ってた京都のチケットを速攻で購入した。明日は新幹線のチケットを博多発新大阪行きくらいで買うだろう。今月の楽しみが増えた。そういうことにして、この荒れた文章をひとまず纏めたことにして終わらせたい。


活動終了という言い方をさせてもらったのは、4人に結成したという感覚がないのが共通認識だったため、解散という言い方ではなく終了という言葉を選びました。


なんという屁理屈めいた言い回し!“始まってないから終わりとかないし”みたいな、子供じみた感じ。そこが昆虫キッズらしいと素直に思ってしまう。こういうこまっしゃくれた具合とても好きだ。絶対ライブ観る。