ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

【え】襟がゆれてる/bloodthirsty butchers

この企画の曲選び、iTunesの曲目の並び方をあいうえお順にして曲を探しているけど、頭文字がひらがなカタカナなら素直に出てくるからいいんだけど、漢字だとあらかじめ読み方を入力していない限りはその漢字の音読みの順番に並んでしまうので、「この頭文字に対応する曲は〜」と探すときに面倒くさいんです。今回のこの曲もあやうく取り逃しそうになったし。以上とても共有されづらそうな悩み。

吉村秀樹は死んだ。その後追悼のアレでトリビュートアルバムが出まくった。今確認したら4枚か?その予定が出た段階だったかで知り合いから「『襟がゆれてる』がやたらカバーされまくってる」という話を聞いた。どんだけ揺れるんだよ襟、そんな揺れるような感じに襟立ててんのかよ皆。

(今調べたところ、結局一番カバーされた回数が多いのは『ファウスト』か。いい加減宝の箱なくなっちゃうよ!)

名盤の誉れ高い『kocorono』でまさに日本の歌もの轟音ギターロックの偉大なるゴッドファーザーの座を得た後の、彼らの名曲生産力の凄さは、彼らの次のリリース時期となる1999年の、アルバム『未完成』に至るまでのリリースラッシュにて如実に現れた。『ファウスト』も『プールサイド』も『△』も、そして今回のこの『襟がゆれてる』も、この時期リリースされた楽曲。ブッチャーズのクラシックがずらり。『kocorono』で得たサウンドをさらにぐっとロッキンでキャッチーに仕上げた業前の名曲が並ぶ様は圧巻。

kocorono』で彼らが掴んだものとは何だったのか。それはギターの轟音をポップなコードに乗せ(その乗せ方は大いに独自のものがあるだろうけれど)、どっしりと骨太な「歌もの」の楽曲を作り上げたことだと思う。海外で言えばニールヤング辺りが先例的ではあるだろうけれど、ブッチャーズのそれはハードコアの出自からの、しかもハードコアという形式にも収まりきれないなんかグシャグシャしたアレを持つ男が、そのイメージをバーンと大きく弾けさせる感じに成功した類のそれだ。

つまり、ブッチャーズだけの荒野。どこまでも都会的でない荒くギラギラしたギターの歪みに、どっしりと前進していくリズム、そしてタフだからこその純真な内省をぶっきらぼうに響かせる歌。細野晴臣辺りから始まる日本のカントリーミュージック受容史の都市的な感じ(持論です。そのうち別のところで書きます)にあさっての方角から衝突するような(本人はその気はなかろうが)、和製オルタナカントリーロックの、それは登場だったのではないか(オルタナカントリーというジャンルについても、私見によって元の意味合いからかなりズレていますが)。風通しの爽やかな殺風景。

その点、この曲は『ファウスト』と共に、まさにその荒野を行くテーマソングの決定版だろう。この曲の場合、特にバッキングで歪んだエレキとともにかき鳴らされるアコギの響きが印象的だ。リードのギターも、フレーズというよりももっとこう、空気中の粉か水分か何かがきらめくような不思議な揺らぎがあり、荒野的な鮮やかで乾いたサイケさを醸し出している(まあ歌詞には「雨上がり」なんて単語も出てくるが細かいことは言いっこなしだ)。

そしてやはり、力強さ。歌詞にもある通り、彼らは確信めいたものがある訳でもなく荒野を彷徨っている風ではあるが、それは虚無感に浸っている訳ではない。やはり流麗で明確なフレーズとは言いがたいギターソロはファズったささくれがかえって無心のまま遠くに響いていく感じがするし、そのソロ終わりからの畳み掛けるような曲展開はやはりどうしたって不格好で感動的だ。

どんどん行け!どこまでも行け!世界の果てまで。そんな子供染みた気持ちを、ブッチャーズを聴いているとよく抱く。なんで奴らやぼくらは世界の果てなんてものを目指すんだろう。そこは結局のところとても寂しい道中だったり、悲しい結末だったりしそうなものなのに。冒険心か、好奇心か、旅行気分か、戯れか、ヤケクソか、言い訳か。知ったことか。普通にしゃべると全然訳分からない吉村秀樹の言葉が、歌詞というメロディの枠に嵌められることでそのロマンを多く抽出し、そしてそれ以上をギターをはじめバンドサウンドが語らずに語る。

流れるように僕は汚れた/汚れた花を指でなぞった
 雨上がり/佇む/向かい風が襟を揺らしてる

個人的には、より音が整理された『荒野ニオケル〜』よりもこの辺りの時期の方が荒野っぽさを感じるところ。アルバム『未完成』に至っては録音されたギターは一本だけなのにあの音の厚み・おおらかな殺伐さ。

あと、余談ですが「世界の果てに行く」なんて時間も金も手間もかかること現実的にはできないし、だからこそ本を読んだり映画を見たり音楽を聴いたり、ってのがあるよなあ、とは時々思います。なんか村上春樹とかも「世界の果て」願望で説明できそうな気がしてきたぞ。