ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

平成の10枚

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「おいおい、10枚って、平成は30年以上あるんだぜ?足りんだろーやめとけよ」

「…なあ、気持ちは分かったからさ、15枚くらいで手を打たないか?」

いいえ10枚のアルバムで平成語りをします。これから5月までに出る“平成最後の名盤”なんて知らない。。。アルバム10枚で平成を語り尽くすゾ(多分内容めっちゃ偏ってる)。

 なお、今回はあくまで「平成」縛りなので、日本の音楽に限定したチョイスとなります。なんとなくディケイドごとに見出しを変えてみます。

 

★注意

 この記事における10枚の選び方はかなり恣意的です。というのも「平成語りのための10枚」という要素も入ってくるものですから、必ずしも筆者の平成年間ベスト10ということではありません。しかしながら、以下の10枚は全て、大好きなアルバムではありますが。

 

 

80年代(1989)

 (欄を作ってはみたものの、該当するアルバムありませんでした。まあ1年しか無いしね)

90年代(1990〜1999)

1. 『ヘッド博士の世界塔』Fripper's Guitar(1991.7.10)

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ヘッド博士の世界塔

ヘッド博士の世界塔

 

 尊敬を込めて「90年代の日本の音楽シーンを地獄に落とした張本人たるアルバム」と呼ばせて貰おう。所謂“渋谷系”というジャンルにおいての音楽的なアティチュード、チャラいことを言えば「海外のイイ感じの音楽をパクろうぜ!」の、手法的な革命児にして永久戦犯、2019年の平成が終わろうとする世においてもその手法の違法性により再販が絶望的という、あまりに“業”を感じさせるその状況に、当時の時代性の象徴としての印象を強烈に感じてしまう。

 洋楽のサンプリング、という手法は、それまでイギリスのネオアコギターポップシーンを模倣して洒落た音楽を作っていた彼らのそれまでのスタンスから一気に踏み込んで、よりイリーガルでドラッギー、享楽的で退廃的な世界に堕ちていった。単にイギリスのセカンド・サマーオブラブの風潮に共振しただけにも思えるその行為およびそれが後進に与えた強烈な印象は、渋谷系というムーブメントをただのオシャレなものに済ませず、より何でもありで、深刻で、オシャレとマニアックが複雑に絡み合った結果、最近で言うところの「渋谷系ブームによって日本の音楽は一気に豊かになった」的な所謂“渋谷形史観”みたいなのが生まれるわけだけれども、それもこのアルバムの存在があるから、という部分が本当に大きいように思う。大体、洋楽のオマージュという基本線で言えば、現代のある史観では渋谷系のカウンターと目される“97年の世代”(くるりとかスーパーカーとかナンバーガールとかその辺。後述します)とこのアルバムと、何の変わるところも無い。そういう意味で、日本のインディロック(的なもの)のあり方を定義したアルバムでもあるのかもしれない。

 そうした形而上学的な意味の色々だけでもこのアルバムは幾らでも語れてしまうんだろうけれども、個人的にはそれよりも、このアルバムの持つファニーで、幻惑的で、しかし深刻で虚無的で寂しげで諦観に満ちたトーンに惹かれる。セカンド・サマーオブラブなビートを基底にしながらも、その上に施されるテクスチャーの多くが60年代のロックミュージックであることに、今作の不思議なおもちゃ箱感を強く感じる。The Beach Boys『God Only Knows』のイントロがフェードアウトして曲調が切り替わる瞬間に、溢れ出してくる何とも言えないノスタルジックな感覚は何だろう。歌詞の最初の数行で、このアルバムは実は言い尽くされてしまうんじゃ無いかとさえ思う。

ほんとのことが知りたくて 嘘っぱちの中旅に出る

イルカが手を振ってるよさよなら

真珠と眠りと向こう見ずを逆さに進むエピローグへ

君がわかってくれたらいいのに いつも

 このアルバムにひたすらにあるのは、男の子な衝動と、それを大事にした結果どこにも行けなくなった切なさなのかなと思う。この辺の実はとても青臭い地点から大人な力強さを欲していくのが小沢健二のヒストリーかなとも思うし、また小山田圭吾はその地点からどんどん切なさや意味を無くして男の子の宇宙を広げていったのかな、とも思う。などと言ってみると自分の思い込みに引っ張られすぎてるようにも思う。このアルバムは渋谷系の歴史における巨大なモノリスであるとともに、そんなのどうでもいいくらいに、二人の多感な男の子の行き止まり、美しくて儚い行き止まりだったのかなと。BLに花が咲きますね。

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2. 『深海』Mr. children(1996.6.24)

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深海

深海

 

 Mr.Childrenが90年代を最も体現したアーティストだと言うと笑われるのかもしれない。でも、そう思い込んでしまうくらいの状況と、当時のバンドのある種の絶頂と、混乱と、傲慢と落胆とその他色々が、このアルバムをとても語るところの多い作品にしている。この辺も逐一指摘していたら、きっとそれだけで長いブログ記事が書けてしまうだろうから、以下駆け足で。

 ところでこのアルバムの前作に当たる『Atomic Heart』は、今聴くとなんかどうにも音に時代を感じるというか、なんか気恥ずかしくなる。まさに彼らを“時代”にするほどヒットしたアルバムだけれども、やはりこっちのアルバムはバンドが“時代と寝すぎた”アルバムなのかなと思う。最たるものが、歌詞にあまり人間・桜井和寿を感じないところか。

 それに比べると、このアルバムでは明らかに、一人の人物が苦悩し、のたうち回る状況が、しかもより肉感的でオーガニックなバンドサウンドで描写されている。重たく生々しいドラムセットの軋みが、90年代初頭までのゲートリバーブなドラムからの明らかな世相の転換をも結果的に示しているのは、プロデューサーの功績なのか、この重苦しさにさえも時代が追いついてくる絶頂期のバンドの必然か。そう、このアルバムは実は相当にThe Beatlesサウンドを追求している。『ありふれたLove Story ~男女問題はいつも面倒だ~』や、何よりも『名もなき詩』のドラムやギターのサウンドを改めて聴いて驚く。

 そう『名もなき詩』。『Atomic Heart』以降の大ヒットシングルの数々を全く無視して、本作に唯一収録された既発曲にして、ろくなPVもないままにミスチルでも最大級のヒットを記録したこの楽曲こそ、90年代の日本を最も「背負ってしまった」楽曲なのかなと個人的に思ったり。1995年という、震災とオウムとエヴァンゲリオンな年を経て届けられたこの楽曲の“剥き出し”な感覚と、言葉の載せ方の無理矢理なのに極めて滑らかな塩梅や、ひたすら過剰に畳み掛けていく曲展開に、作家桜井和寿の一つの絶頂を見いだしてしまう欲求に筆者は逆らえない。そしてサビできちんと歌を「一般人の視点」に寄せていくことで、かろうじて世の中の苦労する人たちのポップソングとして成立させてしまうバランス感覚に、ある種のズルさと誠実さとの両方を感じて昂る。一人の憂鬱を歌う様がみんなの歌になる、そのギリギリにして最も売れたラインがこの曲なんだと。それこそこの曲1曲だけでもブログ記事1本書けますよ。。。

 それにしても、このアルバムからのもう一つの大ヒットシングル『花』のとても地味なサウンドを聴いても思うのが、よく当時のレコード会社はこんな地味な音をOKにしたな、と。勿論歌が入ると一気に楽曲が華やぐ辺りに、シンガー桜井和寿の凄みも感じるのだけれども。

 そして、そんな人間・桜井和寿の、苦悩する絶望するし不倫もするしそのくせ純情を気取りもするし正義を語りもするし世間にもものを言うし、というタレント性が、ミスチルというバンドを今日まで“日本を代表するグループ”として存続させる屋台骨になっていることは言うまでもないけれども、それがこんな発作みたいなアルバムで生まれたというのが、ヒストリーとしてあまりに出来すぎているし、その発作具合がまたあまりに世相に合うものだから、やはり平成という時代とともにミスチルはあったのだなあと、いまひとつ気の利かない文句を最後に添えてみる。

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3. 『宇宙 日本 世田谷』FISHMANS(1997.7.24)

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宇宙 日本 世田谷

宇宙 日本 世田谷

 

 情報が氾濫していく過程としての90年代を、たった3枚しかアルバム取り上げずに語りつくすのは当然に無理がある。本当はもう1枚くらい取り上げておきたい気もしたけれども、それでもこのアルバムのことを思うと、まあ90年代にケリを付けるアルバムとして、これ以上のものはないんだなあとか思ったりした。リリース97年で思いの外早いけれども。

 フィッシュマンズは、(リアルタイマーじゃないので正確性がアレですが)元々は渋谷系の周辺から登場したバンドのひとつとして、メジャーデビュー当時はスピッツなどと並び称されていた。彼らのメジャーデビューは91年。そう考えると、そこから僅か6年で、ここまでどうしようもないダークサイドに至ってしまったのは、確かにバンド的にも日本の音楽シーン的にも物凄い進化だけれども、果たして彼らにとって本当に幸せな進化だったんだろうかと、この作品の後のことを思うと考え込んでしまう。

 彼らが日々の悲喜こもごもの延長のポップソングを歌っていたのは『ORANGE』までで、その後レコード会社をポリドールに移してからは、一気に豊かに日常的なポップさを削ぎ落とし、非日常的な孤独さ・不安さ・幻惑感にまみれた楽曲に移行していく。いつも思うのは、この変化があまりに不可逆的な変化だなあと思えること。その凄絶さと勇敢さに敬礼するとともに、そのデッドエンドな結末に最短距離で向かっていったかのようなヒストリーにひたすら恐怖する。

 まだ『すばらしくて NICE CHOICE』とかいうタイトルが許された『空中キャンプ』の時点なら、それでも日常の肉感的な世界に帰って来れたのかもしれない。しかし彼らは超越的な『LONG SEASONS』を経て、今作のひたすらに暗くて不確かでそれゆえに無限に思えるような“行き止まりの宇宙”に辿り着いてしまった。この後の唯一のシングル『ゆらめき IN THE AIR』はその行き止まりで、それでも何かしようともがいた結果に思えてならない。

 ここではあらゆる楽器が無駄に重ねられることを嫌い、虚空の中にどれだけ心細く響くかが追求され尽くしている。本来ファニーさに満ちた声質のボーカルのメロディラインはファニーさを全く失い、ストレンジさとイノセントさを纏って、果てのない音世界を頼りなく漂い・彷徨い続ける役割をひたすらに完遂する。シングルで唯一クラブ的なキャッチーさのある『MAGIC LOVE』より後、終盤の『バックビートにのっかって』『Walking In The Rhythm』そして『Daydream』の3曲の流れは、ひたすらに音響が生み出す時空のはざまに沈み込んで、光になって消えていくような感じがする。

 幻惑的な響きは先に取り上げた『ヘッド博士の世界塔』と一部似た部分もあることはあるけれども、ここは遥かに深く暗く、華やかで生命力に満ちた日々に戻れる気がしない地点だもの。これがバブル景気以降の“世界でいちばんレコードが集まる国”日本の、渋谷系というムーブメントから結果的に生み出された音楽の極点だと思うと、なんて虚無的なんだろう。ここには確かに『ヘッド博士』で目指された「男の子の果てまでの旅」のひとつの果てが示されている。「果て」なんてこう、悲しいなんて、虚しいなんて、どうしようもないことなんて、はじめっから分かっていただろうに、どうして男の子というのはこういう、果てを目指してしまうんだろうかと、この片道切符すぎた音楽の旅の偉大な記念碑を聴いていると、そんな幼いのに観念的なことを考え始めて、頭がぐるぐるから回ってしまうもの。

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2000年代(2000〜2009)

4. 『THE WORLD IS MINE』くるり(2002.3.20)

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THE WORLD IS MINE

THE WORLD IS MINE

 

  先に述べた「97年の世代」とは、おそらく雑誌『SNOOZER』界隈で用いられその後ネット等で正史みたいな扱いをされる概念で、主にスーパーカーくるりナンバーガール中村一義あたりの、97年かその付近にデビューしたアーティストを指す。大体のはこの4組が基本で、あとはここにTRICERATOPSやら GRAPEVINEやらpre-school やらWINOやらDragon Ashやら七尾旅人やらが論者によって含まれたり含まれなかったりする。97年世代はこのブログ記事なら絶対1枚取り上げなきゃ、と思ったけど、最後までこれかナンバガの3rdかで悩んだゾ…。

 97年世代の意義というのは色々いいように語られてきた。時代が下って陰りが目立ってきた渋谷系ムーブメントに対するアンチだとか、大衆的なバンドであるサザンやらミスチルやらスピッツやらイエモンやらジュディマリやらのアンチだとか、洋楽の影響をオシャレではなくナチュラルに表現する最初の世代だとか、後世の日本のバンドシーンに多大な影響力を持った偉大な先人たちだとか。それぞれを厳密に考えだすと色々と異論も出てくるような気がしてきたけれど、ひとまずここではそんな事柄はどうでもいい。

 ただ、97年世代が特にこのように「世代」で一括りにされる素地を、アーティスト側から一番積極的に作り出したのがくるり岸田繁であることはほぼ間違い無いと思う。上記基本となる4組の、自分たち以外の3組に積極的に関わり、コラボしていたのが彼であり、所謂「戦友たち」みたいなムードを作り上げた。そんな彼もまた、自分たち新しい世代の可能性を信じて行けるところまで行こうとした、良くも悪くも器用でかつ愚直な「男の子」だったのかなと、改めて思ったり。おそらくはアルバム『ワルツを踊れ』くらいまでは自身の全能さを信じた「男の子」だったのでは。この話題もまたブログ1本書けそうなのでこの辺でやめとこう。

 さてこのアルバム、「世界は俺のもの」なんて、まさに全能感に満ちた男の子そのものなタイトル。だけれども、そんなタイトルをあえて付ける時点で、自分の立場を客観的に把握した上で、かつなんらかの限界を憶えているように感じられはしないだろうか。ちなみちこのアルバムが出た2002年は、97年の世代主要4組全てアルバムリリースがあり、それぞれにバンドの限界が表出した作品をリリースしている(バンドじゃない中村一義を除く)。

 97年世代が日本のロックに影響を与えたとするなら、まずそのひとつが海外のオルタナティブロックのサウンドを日本に敷衍させたことだと思うけど、いまひとつは、ポストロックのサウンドも、彼らが導入したお陰でより広まった側面はある。特にくるりは、90年代末頃のポストロック界隈の重要人物のひとり、ジム・オルークを直接プロデューサーに呼んだりして、その部分についてミーハーに重要視していた感じがあるけれど、それの最果てがこの「全能感を皮肉っぽく表明した」アルバムなので、やはり当時の彼らのセルフブランディング力は秀でているし、また今作はそれに十二分に応え得る「世界の果て」さを有している。

 …なんか世代の説明とか何とかで文字を消費しすぎた感じがあって、中々アルバムの中身に入っていけない。しかしやっぱり思うのは、「世界の果て」はやっぱり楽しいものじゃないなあ、ということ。このアルバムを通じて広がっているフワフワした感覚、感覚としてのリバーブ感は、後に岸田本人はこれをやや失敗作などとコメントしているけれども、それは単にこうやって「全能感にまかせた男の子がなんか彷徨っちゃうところまで行ってしまった」感じに満ちた作品が気恥ずかしいだけなのではないかなとか思ってみたり。時に牧歌的で、時に頼りなさげな旅情に溢れ、時に民謡のような素っ気なさ・土着感が香るこのアルバム、本人も『男の子と女の子』という曲を用意するくらいには、やっぱり自身の「男の子」さを、キャリア中でも最も思うがままに振り回した作品なのではないかなと。東西南北の頭文字で単語を組んだ、彼ら最大のヒット曲はその象徴であり、どこへでも行けてしまう男の子たちの本質的な果てしのなさをこれ以上なくポップに示した、どこまでも行けるということはどこにも行けないってことなんだなあと思わせてくれる、この世代最大のアンセムだと思ってる。

www.youtube.comそれにしてもスピー○スターの、PVがフルで見れないやついい加減どうにかならないかなあ。あと、この名曲の名演をあえて収録しなかった当時のライブDVDもホントに謎…。

 

5. 『Love / Hate』ART-SCHOOL(2003.11.12)

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LOVE/HATE(初回)

LOVE/HATE(初回)

 

 どこまでも行けるということはどこにも行けない、ということ。若干、平成の邦楽という話を超えて、ただの筆者のポエムに落ちかかっておりますけれども、上のくるりのアルバムがそう思わせる作品なら、この作品はそんな認識にトドメを刺す感じの作品。何が何だか分からない解説だなあ。

 また世代的な話をするならば、97年の世代の後の重要な世代感のあるバンド群は2002年前後に多くメジャーデビューしている。ACIDMANASIAN KUNG-FU GENERATIONTHE BACK HORNBUMP OF CHICKENdownyGOING UNDER GROUND、MO'SOME TONEBENDER、POLYSICSsyrup16gストレイテナーフジファブリックといったバンドがどんどんメジャーデビューしたのがこの時期。この辺りも97年世代と同等に、後の邦楽ロックなるもののスタイル形成に色々影響がありそうな感じ。バンドによって温度差や方向性の差異はあるものの、やはり洋楽、特にオルタナティブロック方面への目配せが目立つ世代だと言えるかと。

 ART-SCHOOLもまた、そんな世代のバンドのひとつ。今名前を挙げた中だと、一番最初に解散寸前まで行ったバンドだけども、しかしながら現在も活動し続けている。不思議なもんだなあと思うけれど、海外でもThe Beach Boysブライアン・ウィルソンが長生きしてたりするから、その辺は分からないものなのかもしれない。

 さて、日本に「オルタナティブロック」という名称が定着する以前は、今ではそのように言われる類の音楽について「殺伐ロック」などと呼ばれている時期があったらしいけれども、このアルバムはまさに「殺伐ロック」しているなと思う。なにせバンド内の人間関係が崩壊していてこの後に解散寸前まで行くわけで、非常にピリピリした緊張感と、どこか諦めきったような退廃感・無常観がアルバムの雰囲気を支配し、結果的にサウンドの奥行きを得ることが出来ている。それでもアルバム終盤『しとやかな獣』でギリギリの開き直り、『Sonnet』で仄かなノスタルジアに憂鬱を落とし込む構成はやはりどこか晴れやかで、閉塞感の割に非常に広い世界が見えるような、どこにも行けないということも、どこまでも行けるってことなんだなあと思わせてくれるような不思議なポジティビティーがある気がするのは、まあ何だかんだでバンドが本日も存命しているからかもしれない。

 というか、このアルバムについてはもう何回も語りつくしました。詳細についてはこの辺を読んでいただければ、筆者が歴史的立ち位置とかを半ば放り投げてこのアルバムを10枚のうちの1枚に選ばざるを得なかった感じが伝わるかもしれません。最近久々に聴き返したけど、やっぱええなあ…。

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6. 『空洞です』ゆらゆら帝国(2007.10.10)

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空洞です 

空洞です 

 

 「平成の10枚だとやっぱり、このアルバムを入れるしかないのか…」という諦めた感じが、このアルバムにはよく似合いますね。『宇宙 日本 世田谷』から10年、あちらが宇宙という行き止まり辿り着いたように、こちらは空洞という行き着く先に辿り着いてしまった。バンドは今作の数年後に解散した。

 丁度フィッシュマンズと比較できるのですれば、こちらとあちらの大きな違いは「中心人物が死なずに済んだ」こと。こんな当たり前すぎて興ざめな事実について妄想を広げていくともうちょっと面白いことが言えそうな気がするので言えば、「このアルバムには徹底的に「男の子」が存在しない」ことが、フィッシュマンズのあれとの本質的な違いを生んでいるのかなあ、なんてことを考えたりする。

 このアルバムもまた、虚空の中にバンドサウンドがどう効果的に、虚無く響くかにひたすら挑戦し続けたアルバムである。ただ、フィッシュマンズの場合と大きく違うのは、こっちの音の響き方には「悲しい感じ」が殆どしないことだ。徹底的に無機質になるよう拘った、という当時のインタビューもネット上で見ることが出来るが、面白いのは、方向性としてはテクノ的なミニマルさ・無機質さを標榜しながらも、しかしながらバンドサウンドであることは特にドラムの音などから明確に感じられること。この妙なしなやかさが、今作をミニマルテクノのレコードで感じられる質感とは大きく異なる要素を持たせている。そう、この空洞は妙にべったりして、のっぺりして、ぐっしょりとしている。

 いわば、魂ごと宇宙の虚無に投げ込むようなフィッシュマンズに対して、こちらは魂を全く排除して、技巧のみで空洞を縁取っていったような感覚なのか。シンセ・キーボード類の使用も場面が限られ、基本的には基本となるバンド楽器の響きの組み合わせだけで、この嫌な感じを作り上げている。ギターエフェクトもトレモロの多用以外はそっけないもので、そのそっけないバンドサウンドが、どうしてこんなに空洞しているのか。これだけ感情の乗らない感じに、普通のバンドマンはしようと思わないだろう。つまりこのバンドは普通しない方向の技巧を極めて、その技巧ゆえに解散してしまったのか。この技巧によるサウンドは、音としては凄くぬるいはずなのに、実感としては時折すごく嫌らしい寒気がするし、その温度はとても尖っている。もしかしたら一度、このアルバムだけを延々聴いて1日を終わらせてみると、そんな尖った温度とも友達になれるのかもしれない。なんか嫌だなあ。

 それにしても、このリストはバンド解散やその危機にまつわるアルバムが多すぎないかな…。

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2010年代(2010〜2019)

7. 『シンクロニシティーン』相対性理論(2010.4.7)

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シンクロニシティーン

シンクロニシティーン

 

 ゼロ年代終盤の日本の音楽シーンを語る上で避けて通れないのが相対性理論の存在。所謂サブカル誌だったSTUDIO VOICEで上記の『空洞です』が騒がれてからしばらくした後に今度はこのバンドの特集があった時は、サブカルチャーという概念がなんか妙な形で尖ったものたちに激しく揺さぶられていることをリアルタイムで感じました。

 そんなリアルタイムのことを考慮するならば、きっとここには『ハイファイ新書』を挙げた方がよりリアルタイム感出るんだろうな、とか思ったりもするけども、筆者が好きなアルバムはこっち。そのせいでゼロ年代に入れられなかったけれども。そしてやはり改めて見ても、酷いジャケット。ジャケットのこともあって『ハイファイ新書』の方が歴史的名盤扱いされてるんじゃないかと思ってしまうくらい酷い。その点、今の所最新作の『天声ジングル』のジャケットは尖がってますね。あれもっと年間ベスト上位にすれば良かった。

 相対性理論の最大の特徴、それは言うまでもなくやくしまるえつこというボーカリストの存在感なのだけれど、しかしそれだけでは「相対性理論」にならないことは、彼女の幅広なソロ活動から逆説的に伺えるところ。結局のところ、曲作りやサウンドによって「相対性理論」の雰囲気はコンセプチュアルに形作られている。それはこのアルバムの次のアルバム『TOWN AGE』でメンバーが変わったことと作風の変化とがごっちゃになって「相対性理論っぽくなくなった」みたいな批判が少なからず出ていたことからも伺える。

 そういう意味では、メンバーが変わる前の今作までが「オリジナル相対性理論」なわけだけれども、それでも今作と『ハイファイ新書』では意外と飛距離を感じる。『ハイファイ新書』の方が、不思議キャラとしてのやくしまるえつこの超然的な感じは強かったかもしれない。それに対して、今作の彼女は意外と「ただのバンドのボーカル」寄りなところがある。それが何故かと考えると、今作がバンドサウンドを意外と前面に押し出した作りになっていること、及びやくしまるえつこが低音ボーカルや、彼女なりの張り裂け感のある歌い方を活用していることなんかが原因かなと思う。それらはつまり、人を喰ったようなロリボイスとそれによる世界観を前面に押すわけではない、バンドとしての必死さのようなものを押し出している感じがする。この後よくわからないリミックス的なアルバムを経てメンバーが半分抜けることを考えると、この時のバンド回帰感は一体何だったんだろう、と不思議に思えるけどもとても好きだ。『気になるあの娘』のよく分からないけど九龍からニューヨークにブッ飛ぶ疾走感はサブカルと必死さのバランスが謎に絶妙でとても好き。

 結局のところ、やくしまるえつこという存在はメインカルチャーとして世にはびこることは、たとえばdaokoが『打上花火』で世に広く聞かれているようなレベルのことは無かった。それはある意味では「サブカル界の女王」としての自身の存在を大切にし、ある程度揺るがない形でコントロールしてきた結果かもしれない。この人の声や歌が平成の徒花として自分のような中高年のノスタルジーの中でしか生きないのかもと思うと寂しいような気もするけども、しかし無駄に若作りしてお茶の間に媚びてほしいとも思わない。サブカルの女王という立ち位置は実はなんとももどかしいものなのかもだけど、少なくとも今作などで作品が見せてくれる不思議にズレた世界観は面白い。

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8. 『こおったゆめをとかすように』昆虫キッズ(2012.9.19)

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こおったゆめをとかすように

こおったゆめをとかすように

 

 ゼロ年代終盤から、東京のインディーシーンが次第に盛り上がり始めて来ていた。ゼロ年代終盤においては特に上記の相対性理論に加えて、ギリギリまでこのリストに1枚入れる予定だったandymori(ちなみに『革命』を入れようと思ってました)もまた、所謂「ロキノン系」みたいな具合に硬直化した何かを無視して、全力で直感と知性で突っ走る活躍を見せた。

 そして、所謂「東京インディ」と呼ばれたバンド群のシーンが現れる。Alfred Beach Sandal、cero、片想い、シャムキャッツ、スカート、どついたるねん、なつやすみバンド、ミツメ、森は生きている、吉田ヨウヘイgroup、大森靖子etc…。あんまり統一感を感じないこれらのメンツを俯瞰して思うところは、「非ロキノン系」「インディーレーベル中心の活動」「同時代のUSインディーとの共振、またはワールドミュージック等の参照」「バンド間の横の繋がりがあったり無かったり」といったところ。あとこのシーンを通じてムーンライダーズカーネーション、豊田通倫(パラダイス・ガラージ)といったベテランへの再評価が進んでいったことは特筆すべきか。

 その中でも昆虫キッズはスカートと並んで、上記のアーティストのうちの少なくないものと横の繋がりがあって、というか昆虫キッズ・シャムキャッツ・スカート・ミツメくらいが東京インディの核だったでしょ、と全然外部にいた自分からは見えてて、2015年くらいから散々シーンは離散した離散した言われて、実際もう離散しちゃってる感じある現状を思うとなんだか寂しい感じがある。

 シーンのことや人間関係とかどうでもいい。昆虫キッズはバカで、冷たいのに優しくて、偉大で、勇敢なバンドだったということを以下では語ります。ナンバーガールスーパーカーからの影響とDeerhunter等当時のリアルタイムのUSインディからの影響とがブレンドされた上で、高橋翔の変に捻ったセンスや、勢い重視の歌唱、そして他3人のそれぞれに獰猛な演奏能力によって、昆虫キッズは当代一とも言われるバッキバキのサイケデリック・ロックンロール・バンドの名誉を(そんなに広くないシーン及び評論家の間で)欲しいがままにしていた。この「バッキバキのサイケデリック・ロックンロール・バンド」という形容詞がまさに当て嵌まるのが、彼らの3枚目のフルアルバムである今作だ。

 具体的にどの辺のどういうサウンドが、と言い出すと野暮になりそうだしまた一つ記事書けてしまうのでアレだけども、たとえば『ASTRA』の混沌とした暴走具合には端的にこのバンドの闇鍋なまま突進していく強烈なエネルギーと、それでも何かしらの美学を通していることを強く感じるし、『BIRDS』の春の日差しのようなおおらかなサウンドには、このバンドが旺盛な演奏力を可憐な情緒に変換するセンスと手法とを十二分に持ち合わせていることが伺える。

 もっと平成の出来事に寄せて話をすれば、彼ら東京インディのシーンは、その歴史の中で東日本大震災が起こってしまったことが、どうしても印象深い。東京インディのムーブメントの最高潮な年は2013年だと筆者は思っているけれども、あの震災で街も人も混乱と、正義感の氾濫とに襲われ、政治も経済も社会も何もかも「立ち直る」べくその足並みを辺な具合に揃えてしまう世の中になっていく中で、東京インディのシーンは確かに、社会になければならないユーモアと文化とをしっかりと保持し続けた。そして、その中でもこのアルバムこそが、あの震災やら原発やらで混沌と絶望にまみれた時代に対して、一番素敵な形で向き合った作品だと筆者は思う。いや、単に曲が好きなだけなのかもしれないけれども。でも『非常灯に照らされて』という曲を聴くと、なぜだかその時代の風景が見えてくるような感覚になってしまう。

 昆虫キッズの再結成なら、ライジングサンだろうと観に行きたい、とか思う。そもそも存命中にそういうフェスに出たことない気がするけども。

www.youtube.comあと『裸足の兵隊』はアルバムバージョンこそ完成系だよなあと常々思う。

 

9. 『DANCE TO YOU』サニーデイ・サービス(2016.8.3)

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DANCE TO YOU

DANCE TO YOU

 

 再結成後のサニーデイ・サービスという、完全に90年代の亡霊の一角みたいになっていたはずの存在が、突如音楽シーンの最前線に躍り出てきた時は意味がよく分からなかった。そのきっかけとなったアルバム『DANCE TO YOU』の現代における“有効性”については、正直よく分からない部分が多々ある。

 たとえば、曽我部恵一自身は現代のブラック・ミュージックにもよく通じていて、Frank OceanやらFutureやらをしっかりと受け止めた上で楽しめるだけの教養とセンスを持っているけれども、しかしながら今作にそういうトレンド的なものが含まれているかというと決してそうではない。ここに含まれている黒人要素は、Chic的なものと、そしてやっぱり曽我部さん大好きなんだろうなあ、というドロドロしたSly & Family Stone成分とかそういうのであって、アンビエントR&Bをやっている訳でもトラップしてる訳でもない。ダンスフィールだって、正直全曲にある訳でもなく、『青空ロンリー』と『パンチドランク・ラブソング』が続くあたりは盛大にズッコケる。『セツナ』に至っては、ギチギチな緊張感が薄っすらとしたプロダクションの向こうに見え隠れする具合で「楽しく踊る」みたいな感覚からはまるで遠い。

 このアルバムへの視点はしかし、昨年のパラダイス・ガラージの作品のインタビューでのこのアルバムへの言及で、幾らかクリアーになった。つまりこの、半ば宅録で作られたが故の少しばかりゆるい感じが、プロ的なギッチギチに整った音楽とは異なったフィールを生んでいるということ。つまり、楽曲のミックスにさえ曽我部恵一というトチ狂ったおじさんの顔が見えてくる、という部分にこそ現代みというか、何らかのリアリティがあるのだと思えてきた。そう思うと、冒頭2曲の宅録的な無骨さに、たとえば解散前最後のアルバムであった『LOVE ALBUM』には感じられなかった類の生々しさが載っかってることに思い当たる。

 このアルバムはつまり、宅録的な制作環境による、ロウで、かつサイケデリックで、どこかに殺気立った感覚を孕んだものを、メロウなメロディと軽いダンスフィールで包んだレコードだと。意外とエレキギターのまろやかに歪んだ音も作中あちこちで顔を覗かせ、やはりロックンロールでもあるのだなと、2016年時の年間ベストで書いたことと同じ印象を抱いた。当時と違うのは、そのような手法が半ば止むを得ない事情で生まれたということが分かってしまったこと。ドラム・丸山晴茂氏の逝去により、スリーピースバンドのサニーデイ・サービスは永久に帰って来なくなった。曽我部恵一はおそらく平成が終わって以降も作品を乱発し続けるだろう。いろんなやるせなさがあり、苦い思いがあり、死に物狂いがあり、仮に平成の後の時代が何らかの焼け野原になったとしても、それでもきっと彼は見える景色と見えない景色とを目指して、このアルバム冒頭『I'm a boy』の歌詞のような精神で楽曲を量産し、彷徨い続けていくんだろう。

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10. 『針のない画鋲』土井玄臣(2018.3.9)

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針のない画鋲 [NBL-223]

針のない画鋲 [NBL-223]

 

もういないきみのすぐそばにいる

どんな姿なの? ひかりでみえないよ

答えはない 夢を抱きしめるものも

触れると枯れる花を抱えていた

臆病な風がいつも吹付ける

どこまで逃げても ここにひかりが届く

 土井玄臣氏はあの震災以来ずっと、男の子のままの面持ちで何らかの鎮魂の行為を続けている。普段ならエレクトロなトラックにノスタルジアとセンチメンタルとどうしようもない断絶や荒廃とをないまぜにした美しい歌を載せる彼が、2018年の今作ではあえて殆どリズムの無いアレンジで一枚を通したこの作品は、冒頭『みえないひかり』枯らして、上記の歌詞が聞こえてきてしまう。彼の作り出す幻想はいっつも幻想なのに悲しみに満ちているけれど、これはその中でもとりわけ内臓が気持ち悪くなるくらい美しくて沈痛だ。

 亡霊は、呪いは、あるいは肉体を持たない存在なのだから、何処へだって行けるものなのかもしれない。何だってできるんだろうし、どんな光景も見せてくれるのかもしれない。でも、亡霊でしかない。筆者は今作を聴くとき、いつもそんなことを何となくぼんやり考えてる気がする。祈りは、祈り以上のものではない。それでも、祈らずにはいられない。そんな気持ちってなんだろう。たゆたうサウンドのぼんやりとした中で、色んなことがよく分からないままに煌めいている。

 かつて『あおいろ反抗ナイト』という、東京のインディーズバンド等のコンピレーションアルバムがあって、上記の東京インディと言われた時代の、それほど有名にならなかったバンドたちの楽曲が収録されている中に、彼の『マリーゴールド』という楽曲が混じっている。本人の弁によると、この曲はあの震災より前に作られた楽曲らしい。それがこの2018年のアルバムの最後に、唯一のドラム付きの楽曲として登場する様は、とてもこう、感情が静かにわななくというか、言うなれば、Radioheadの『A Moon Shaped Pool』の最後に『True Love Waits』が来る感覚と似た何かを感じるというか。

 流石に年間ベストで書いてから期間が経ってなさすぎて書けることがあまり無いけど、このアルバムのように、平成が終わっても次の時代が何であっても、何かについて儚くも気丈に祈り続けていきたいなと、ぼんやりと明日には忘れそうな小さくて曖昧な誓いを立ててみたりしてる。

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 以上、わたくしの平成のアルバム10枚でした。

 なんか自分語り、というよりも筆者の思う「男の子」語りみたいな感じになってしまったなあ。

 平成の次の年間はどんな感じになるのやら。個人的には「音楽の不毛さ」みたいなのを信じていきたいですけどね。