ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『スピッツ』スピッツ(リリース:1991年3月)

スピッツ

スピッツ

 

 何度か始めようとしては頓挫してたっぽいスピッツの全曲レビューを、ひとまずこのファーストアルバムからまた始めます。『ヒバリのこころ』はかなり前にやってたけども、その続き的な。

ystmokzk.hatenablog.jpちなみにこの記事、このブログの前身の「粗挽きサーフライド」というブログの記事実質1本目だったんですが、その前身ブログを先日消去しました。記事は完全にこの現行ブログに移行できてますのでご心配なく。

 

 それにしても、この奇怪な盤がスピッツのプロキャリアの始まりというのがやっぱり不思議でならない。初期のエレカシとかといい、色々懐に余裕がある時代だったんだなあ…どっちも初期から才能ヤバすぎるけど。

 なお、リリース当時のポリドール盤ではなく、リマスターされたユニバーサル盤を元に今回書いていきます。今後も『フェイクファー』まで基本的にユニバーサルよりリリースされたリマスター盤で話を進めていきます。だって音量バランスが揃っててプレイリストとか作りやすくなってるんだもの。原盤の方が本当の良さが〜という話もあるかもしれませんが…。

 

 

1. ニノウデの世界

 曲の構造自体はアルバム1曲目、それもデビューアルバム冒頭に相応しい感じのパワーポップナンバー。なのにどうしてこうなってしまうのか。いきなり初期スピッツの毒気のようなものが色々と漂ってきて、強烈な「このアルバム」感を与えてくる。

 イギリスのネオアコギターポップな感じがアルバム全体に薄ら漂う中、この曲はストレートにポップなメロディを持って、ややマッシブなギターもドライブしながら突き進んでいく。なのに妙なことになるのは、サビのヘンテコな展開のせい。疾走感に決定的にブレーキをかけるその譜割り具合はある意味ジョン・レノン的。そんなメロディを追うボーカルもまた、骨が存在しないんじゃないかな…みたいなフニャフニャ具合で、この曲のつかみ所の難しさを担っている。

 また、ミドルエイトな部分も用意してあり、バンドの名刺代わり的な曲にしようという気合が感じられる。しかしここがまた、演奏はキラキラしながらも、妙に湿り気のある、抜けの悪目なメロディになっていて、ことに元々キーの高めなスピッツの楽曲でもとりわけかなり高い声を出すものだから、非常に奇妙な感じに仕上がっている。

 あと、最後のサビが終わった後の、同じコードで延々引っ張っていく展開は、ボーカルのかなり気だるげなフックも含めて、次のアルバム的な、シューゲイズとギターポップの中間のような、やるせなさとキラキラ具合とが奇妙に交錯する場面。何気にこの曲で1番の聴きどころかもと最近は思ってる。フェードアウトするのかな、と思えてもギリギリしない、不思議な時間。

 そして歌詞。ともかく奇妙なフレーズが入ってない曲の方が少ないこのアルバムで、冒頭から色々と複雑にこんがらがったまま閉塞しきってる。冒頭のフレーズからして薄暗い。

冷たくって柔らかな 二人でカギかけた小さな世界

 この言い回しを「誰も触れない二人だけの国」と言い換えられるようになるまでこのバンドはあと4年かかる。だけどこの時期はこのように暗く冷たい表現こそが正解だったに違いない。他の行もこのような狂気がたっぷり詰まってる。

タンタタンタン そして僕はすぐに落っこちた

しがみついてただけのあの日

おなかのうぶ毛に口づけたのも

なんにもないよ 見渡して ボーッとしてたら何故 固まった

 この曲の歌詞には閉塞と、虚しさと、そしてその中での「君」とのエロスが描かれる。そしてそれらにあと「死」を加えれば、初期スピッツのエレメントがおおよそ揃うのかなと思われる。楽曲の元気さの割にこの歌詞の醒めきった感じはなんなんだろう。冒頭から非常に奇妙な感覚を喚起される楽曲。

 

2. 海とピンク

 このデビューアルバムには、スピッツというバンドの元々の出自であるパンク、それもゲートリバーブの効いたドラムが前に出た、あの時代ならではのパンクの要素が所々に露出している。その典型例がこの曲か。それでも、確実にそれらパンクの実直さみたいなものは、初期スピッツのフィルターにより徹底的に死滅しているけども。

 この曲の場合、そのパンク的な要素にさらに80年代アングラチックな雰囲気も加算されて、それにネオアコギターポップ的なフレーバーも感じられるので、何気に混沌としている。Aメロは80年代的な素頓狂さがありつつ、サビの終わりには妙な気だるさとメロウさを漂わせる。そして80年代アングラ的なマッシブなギターが随所で顔を出すのもこの曲の特徴。そのくせソロが途中からお洒落なアコギのフレーズに変わったり、なんか色々である。

 そして歌唱のファニーっぷりは、むしろこの曲がアルバムでも随一に癖が強いかもしれない。ともかく力の入らない、芯を抜き去ったべちょべちょなボーカルで歌われるフレーズがまた、奇妙さとやるせなさを極めている。

ほらピンクのまんまる 空いっぱい広がる

キラキラが隠されてた

 「ピンクのまん◯」つまりは…ということ。これがこの曲の歌い出しなのですっかりいやになってしまう。そんなのを空いっぱいに広げなさんなよ…。

しんしんと花びらも 指先で小さくふるえてる

いわゆる情事の歌であることは疑いようのないところだけど、でもその当事者たる二人の距離感が妙であることも、奇妙さを尽くした歌詞の隙間からわずかに見えてくる。サビ(?)の締めのフレーズがこれだ。

そして君を見て 海を見て あくびして

この曲のけだるくもわずかに清々しいこの光景も、この後の歌詞に載ってない「チュチュチュ〜」のスキャットで奇妙に汚される。よく考えればこの曲のタイトルを思うと、この曲の歌詞は海と「空いっぱい広がる」女性器とを対比した歌なんだと気づく。なんだかなーと思いつつも、女性器を海ではなく空にたとえるところにスピッツ的な独自性を感じる。

 

3. ビー玉

 この曲もまたこのアルバム的な奇妙さを強く持っている。このアルバムの特徴である草野スキャットが一番活躍する曲であり、またシャッフルのリズムで進行する楽曲と相まって、どことなく怪しい民謡のようでもある。少なくともカントリーな感じはしない、もっとじっとり湿った何かだなあという感じ。

 冒頭から気だるさ全開の草野コーラスが楽曲をリードする。基本音節数どおりに言葉を置く彼の作詞も、特にこの曲はルーズに間延びしたような言葉の配置をしていて、なんとも気を抜かれる。サビ前でメロディー伸ばして繋ぐところなんか最高に曲がうにょーんとしてる(スタッカート気味のギターカッティングがアクセントとして効いてはいるけども)。

 サビの擬音を含めた歌唱はまさにこのアルバム的なストレンジさの極み。この、気味の悪いだらしなさの向こう側に垣間見える、堕落しきって虚無的な情感こそが、このアルバムの本質なのかもしれない。どうしてこんなにくたびれきっているのか、こんなにくたびれているとかえって、メロディがポップであればあるほど毒々しく感じられる。シャッフルのリズムに合わせたギターのアルペジオもどこか気だるげで神経喪失した夏っぽさがある。

お前の最期を見てやる 柔らかい毛布にくるまって

ゆっくりうかんだら やがて涙の星になった

スピッツの、特に初期スピッツの基調となる「死」についての描写がいよいよ、よりにもよってこのものすごく間延びしたこの曲から露骨に展開されていく。これも冒頭の歌い出しで、このアルバムはどの曲の歌い出しが強いな…。

俺は狂っていたのかな 空色のナイフを手に持って

真赤な血の海をとび越えてきたんだよ

狂ってる自覚があることが逆に怖い!このアルバムの真骨頂のフレーズを、また本当にフラットにくたびれきった感じに歌う。「空色」という語にはっぴいえんどという先人の『空色のくれよん』が少し浮かんだけど、こっちはナイフだもの。

タマシイころがせ チィパ チィパ チィパチィパ

タマシイころがせ 虹がかかるころに

このサビのフレーズは今作でもひときわ衝撃的な箇所。とにかく間延びした歌唱と相まって、寝そべったまま指で魂を、まるで手遊びのようにやる方ない感じに弄り回す光景が浮かぶ。引きこもってる時の妄想みたいな感じだ。

 

4. 五千光年の夢

 前曲よりもまだ歯切れよく、また前々曲よりも素直にパンクっぽさが発揮された楽曲。タイトルは吹っ飛んでいるけれど、前3曲の毒気や幻惑感を幾らか中和する、地味に大事なポジションの曲かもしれない。それでもサビは「ラララ」のスキャットだけどもな…。

 やはり80年代を感じさせるパンク的なツービートに、80年代を感じさせるリードギター。この曲はまだカントリーチックな雰囲気も感じさせて、草野のボーカルも内容はともかく、ふにゃふにゃ具合は幾らか後退していて聴きやすい。歌のバックのアルペジオはよく聴くとThe Smiths的な感じにも聞こえる。サビの「ラララ」もThe Smiths的なポップさだけが素直に感じられ、3分未満の尺をサッと疾走していく。

五千光年の夢がみたいな うしろ向きのままで

涙も汗も吹き飛ぶ 強い風に乗って

この曲も歌い出しが強い。初期スピッツのネガティブさと他力本願さがよく現れたフレーズだけども、特に「涙も汗も吹き飛ぶ」のくだりは、人間の感情を受け付けないような超越的な事象を求めてる、という部分でスマートな表現で、今回歌詞を読み直してて特になんか気に入ったフレーズ。

 割と短い歌詞だからともすれば全文引用しそうなので、あとは次のフレーズだけ。

頭ガイコツの裂け目から 飛び出してみよう

ゆがんだ天国の外にいて ずるい気持ちが残っているから

ちょっと照れくさくて ちょっと照れくさくて

この死生観と、罪悪感みたいなのと恥じらいと。妄想を羽ばたかせても天国に行けないその自意識の悲しさが、逆にとても潔癖なものを感じさせる。

 

5. 月に帰る

 ここにきて漸く、ストレートにポップでロマンチックな楽曲が登場する。ギターポップシューゲイザーを横目に整然と整えられた、スピッツ最初のギターロックの名曲だと思うけども、それが作曲が草野マサムネではなくギターの三輪テツヤであるところがまた面白い。

 イントロの爽やかなギターカッティングにピチカートなストリングスが絡む段階で、すでに普通に爽やかな感じがする。リズムも真っ直ぐで、メロディも捻れが少なくストレート、ブレイク後のスピッツのメロディと並べても遜色ない、人懐っこいメロディアスさがある。

 その上で、ドラムを普通に配置せず抑制し、弦楽器の存在感が目立つアレンジにしたのは絶妙。この曲のタイトルから想起される浮遊感をしっかりとキープし、またシンバルワーク等でこの曲の煌めきを高めるのに徹するドラムが渋い。

 その上で、ギターはまさにロマンチックにするためのあれやこれやを発揮する。後にART-SCHOOLなんかが頻繁に用いるようなadd9の3音アルペジオや、オブリというよりも効果音的なリードギターの演出など。特にサビ終わりのコードカッティングと、終盤の宇宙っぽさを表現すべく泳いでいくフレーズの重ね方などはとてもオルタナ・サイケ的で、かつ堕落っぽさが無く素直にロマンチック。

 そんな曲だからか、歌唱や歌詞においてもこのアルバム的な毒味は少ない。歌唱的にはサビの歌詞に乗ってない喘ぎみたいな部分が唯一このアルバムっぽいか。

真っ赤な月が呼ぶ 僕が生まれたところさ どこだろう

黄色い月が呼ぶ 君が生まれたところさ

湿った木箱の中で めぐり逢えたみたいだね

この辺りは、初期スピッツ的な毒気は含まれなくとも、『フェイクファー』より前のスピッツが一貫して有していた類の切なさの、その原型という感じがする。どこから来たのかも、どこに行けばいいのかもよく分からない二人、というのは、いつの時代も魅力的な「セカイ系」のモチーフのひとつだろう。『フェイクファー』で箱の外へ出ていく物語が綴られるまで、スピッツの世界の基本はこの「湿った木箱の中でめぐり逢えた」二人のことなんだろうか。

 

6. テレビ

 前曲でストレートな魅力を発揮できたからか、その次にこんなこのアルバム的にこんがらがり切った楽曲を放り込んでくる。奇妙さではこのアルバム随一で、歌詞の解読困難さではスピッツ史上最難関、しかし奇妙にポップでもある楽曲。

 まずイントロが変だ。80年代アングラでもナゴムとかそっち方面的な、ちゃっちくて奇妙で無茶にパンクな繰り返しから、突然演奏が切り替わって、歌も始まる。このタイミングが全然分からん。絶妙にいいタイミング!って訳でもないしとても奇怪。

 Aメロが始まっても、奇怪な歌詞とともに、Aメロ最後の譜割も気だるいスキャット分だけ伸ばされたりで不安定。そしてサビでは80年代的ツービートに回帰して爽やかといえばまあ爽やかに駆け抜けていく。このストップアンドゴーな曲展開がまた、スピッツの歴史を見回しても類例が少ないパターンで、結果的にスピッツを知れば知るほどこの曲の特異さが浮かび上がることになる。

 そんな中で、ミドルエイトの部分のタメ具合は、次のアルバムを予期させるような淡いサイケデリアが引き立つ展開になっている。歌詞はやっぱり奇妙だし、その後のギターソロ展開がまた80年代的な騒がしさの印象が強いけども。

 さあ歌詞だ。歌唱は意外とアルバム序盤ほどキモい感じでもないけれども、それでも歌詞の意味不明さは言葉に耳をすませばすぐに感づくところとなる。

君のベロの上に寝そべって 世界で最後のテレビを見てた

いつもの調子だ わかってるよ パンは嫌いだった

歌い出しがこれ。うーん分からん。性的な感じも、世界の滅亡的な「死」の要素も感じるけれども、それらが上手く繋がってくれない。比喩を多用していても、それらがギリギリのところで絡まって、そこから独特の美しい世界が見えてくる、みたいなのがスピッツの歌詞の一般的な魅力であるとすれば、この曲はその辺すら全然気にせずにひたすらにナンセンスに徹しているように思えるのだ。いやむしろ作り手的には全部の言葉がすんなりとつながって浮かぶ世界がしっかり想定されてるのかも知れないけど。

 この極度にナンセンスな詩を解釈するためにスピッツファンが努力してきた歴史はある。その結果が「葬儀」だとか「死産」だとか、そういう言葉に集約されるけども、この曲の歌詞は特に、あまりそういった結論に引っ張られすぎずに、漫然と読んだ方が面白いのかもしれない。何を考えてこんな珍妙なフレーズにしたんだ、というのをひたすら楽しむ、というのでもいいのかもしれない。さあ、ヘンテコなフレーズの数々を見ていきましょう。コメントは付けません。

さびたアンテナによじ登って 市松模様の小旗を振った

不思議な名前も似合ってるね 失くさないで ずっと

マントの怪人 叫ぶ夜 耳ふさいでたら

春の風によじれた 君と僕と君と

ブリキのバケツに水をくんで おなかの大きなママは思った

まぶたを開けても いいのかな かまわないさ どうだ

危うく全文引用しそうになったその珍妙極まる言葉の羅列から、読んだ人それぞれの世界観や物語が浮かべばいいんだと思います。混沌とはしてるけど、不思議と猥雑さは全然感じないから、そういうフィルターは徹底してる。

 

7. タンポポ

 スピッツが植物の名前、特に花の名前をタイトルにするときはまた、重かったり変化球だったりするので注意が必要。この曲は重めな方か。実際、曲の長さも本作で一番長い、唯一の5分超え。

 重苦しい3拍子のリズムで、メロディは長調なのに、ボーカルは一際やるせなさと気重さを漂わせて、その身を引きずるようにかろうじて淡々と進行していく。ディストーションとコーラスの利いたクリーントーンを使い分けるギターの様子も深刻気味。特にサビでグシャッとなる感じに、このアルバムの80年代の名残の象徴であるゲートリバーブの利いたスネアの音が、ここではとても適切な余韻となって虚しく響く。特に曲調が切り替わるような構成になっていないことも、この曲の重々しさを嫌でも印象付ける。

僕らが隣り合うこの世界も けむたくて中には入れない

山づみのガラクタと生ゴミの上で 太陽は黄ばんでいた

冒頭のこの段階で、そもそも「僕と君」は一般的な世界の「外」にいると思っていること、そして「世界」が汚れてると認識していることが分かる。2段目は普通に世間一般の嫌悪感におもねっていて、そこから太陽まで黄ばんでると決めつけるのがスピッツ的センスだけど、この徹底した潔癖感こそ、初期スピッツの奇妙さの原点なのかもしれない。

 そして「僕」は懇願する。

どうかこのまま僕とここにいて欲しい

どうかこのまま僕とここにいて欲しい

ふんづけられて また起きて 道端の花

ずっと見つめていたよ

この弱々しさ。そもそも「僕」は「世界」と関わりを持ちたくないから、「世界」で痛めつけられる道端の花を「世界」じゃないところで君と見ている、という構造。そう思えば、そんな「世界」じゃない場所から「世界」の汚い色々を覗き込む手段が『テレビ』なのかな…とかそんな風にファンは空想を広げたりするかもしれない。それでも、結局のところこの曲の重苦しさが何を表現したくてそうなっているのか、自分にはいまだによく分からないけれども。

 

8. 死神の岬へ

 このアルバムでも一押しの名曲!厭世的な目線で鮮やかに「世界」を切り取っていく、初期スピッツでもとりわけセンチメンタルでロマンチックな具合に疾走していく、ショートムービーのような楽曲。これも作曲が三輪テツヤ氏で、このアルバムにだけ言えば、正直テツヤさんの曲の方が好きです。

 この曲もまたこのアルバム的な奇妙な濁りが殆どない。シューゲイズ的なようでまた草木や砂が舞い上がるようにも感じるイントロから、ちょっとキュートにアクセントつけたカントリー調で楽曲は進行していく。歌詞にもあるとおり、ドライブな感覚で疾走していくこの曲は、本人たち的にどうかは知らんけど、間違いなく後の大名曲『青い車』のプロトタイプだと思う。爽やかなフォーキーさの後ろで奥行きを与えるアルペジオも、イメージを喚起させるノイジーボトルネックプレイも、サビの疾走感を加速させるちょっとしたオブリも、この曲はとにかくいちいちギタープレイが面白い。メロディ的にも、やはりブレイク後の曲に混ぜても遜色ないタイプの煌めきがあると思う。

 特に、終盤のサビの繰り返しには、初期スピッツでも随一の「勇敢さ」みたいなのを勝手に感じてしまって堪らない。そこからイントロのフレーズに戻って静かに曲が終わるまで、本当に鮮やかで寂しい光景がスーッと浮かんでは消えていくような感じ。

愛と希望に満たされて 誰もかもすごく疲れた

そしてここにいる二人は 穴の底で息だけしていた

この辺も、このアルバムというよりも『フェイクファー』より前まで続いていくスピッツの基調っぽいものを感じる。と同時に、前曲の歌詞と絡めると、「二人」がいる「世界」じゃない場所は「穴の底」なんだなと。「穴の底」というのも邪推がいくらでも可能なフレーズ。

 そして「二人」は何故か「世界」を散歩しに行く。

古くてタイヤもすりへった 小さな車ででかけた

死神が遊ぶ岬を 目指して日が昇る頃でかけた

この辺『青い車』はやっぱりこの物語の言い換えっぽさがあるなあと。スピッツはボロい軽自動車がよく似合う。古いビートルとかかもしれんけど。日が昇るまで二人で何してたんだろうとか思うと、出掛ける理由が語られないこの歌だけど、この二人は単に退屈だったんかなあ、とか思ったりする。

 サビの歌詞の光景はとても物寂しくて美しい。歌詞カードも工夫があって可愛らしいけども、文字だけ読んでてもうっとりする。全文引っ張っちゃいましょう。

そして二人は見た 風に揺れる稲穂を見た

朽ち果てた廃屋を見た いくつもの抜け道を見た

年老いたノラ犬を見た ガードレールの傷を見た

消えていく街灯を見た いくつもの抜け道を見た

どこまでも田舎の光景。その物寂しさと香る情緒。「死」にベクトルが向きつつある光景を車走らせる二人のことを思うと、その行き先不明の勇敢さがひたすらに愛おしい。そしてその光景の先に「死神の岬」があるんだという、子供っぽく見えて非常に理路整然としたロマンチックな妄想具合。筆者はあまりこの曲を心中の歌だと思わない。この二人はただ、年老いた童心の赴くまま綺麗な景色を探したかっただけだと思う。

 この辺から、このアルバムでも一際ストレートな名曲が続いていきます。

 

9. トンビ飛べなかった

 このアルバムでも最もアティチュード的な「パンク」さを物語る楽曲。ここまでのパンクっぽい曲みたいなハネたリズムではない8ビートなので、結果的にギターロック・パワーポップみたいになっている。本作でもとりわけエネルギッシュな楽曲(それでも「当時のスピッツとしては」みたいな注意書きは付くけども)。

 いきなり頭打ちのリズムでワイルドさを醸し出す。ギターも総じて快活なドライブ感を出していて、まるでWEEZERのよう(リリース時まだWEEZERいないけど)。長調全開なAメロからさっとマイナーコードを挟んで短いBメロ、そしてストレートなサビへと進行していく構成はナチュラルで、当時から草野さんのソングライティングの普遍的なレベルの高さを感じる。

 この曲のミドルエイトがまた、ストレート気味なこの曲にうっすらとサイケデリアを付け加えていて良い。というか初期スピッツはミドルエイトを「楽曲にうっすらとサイケデリアを足す場面」と決めつけて活用し倒してる節がある。何にせよこのセクションがあるからこそ、その後の初期スピッツ的なキモさもちょっと滲んだ快活な間奏の旨みが増している。

 歌詞の方を見ていけば、これは使われる単語は捻くれているものの、実は案外シンプルに「フラれた歌」だと分かる。その上での言葉を尽くしたヤケクソ加減がいちいち可愛らしくて楽しい、と思うと、この曲こそ女子の草野マサムネ萌えの原点なのか…とか思い至ったり。こんな歌詞を、実に空元気感溢れる感じで歌う。

独りぼっちになった 寂しい夜 大安売り

ちょっとたたいて なおった でもすぐに壊れた僕の送信機

かわいい。

つぶされかかってわかった 優しい声もアザだらけ

やっと世界が喋った そんな気がしたけどまた同じ景色

正義のしるし踏んづける もういらないや

ひたすらかわいい。「やっと世界が喋った」のくだりとかスピッツの歌の恋愛観が早くもよく出てる。「正義のしるし踏んづける」というパンクな行為もよく考えたらフラれたからなのか。

トンビ飛べなかった ペンは捨てなかった

怠惰な命 紙くずの部屋にいた

この辺とか、トンビのくだりはともかく、エモバンドの歌詞みたいだ。

 

10. 夏の魔物

 前曲の可愛らしさから一転して、景色を情緒で切り裂いていくようなシリアスな楽曲。これまたスピッツの爽やかさが表出した初期の名曲のひとつ。アルバムからの2枚目のシングルとしてもリリースされ、またスピッツトリビュートアルバムでの小島麻由美の名演でも知られる。日本のフェスの名前にも使われたりしてる。

 イントロからマイナー調のコードでつんのめって、疾走していくバンドの姿がある。Aメロの長調鄙びた景色が見えてくるような使われ方で、このアルバムでも唯一の短調を基調とする楽曲であり、アルバム序盤に見られた奇妙な濁りも皆無の、非常にさっぱりして薄らヒリヒリした楽曲に仕上がっている。それこそまさにThe Smithsのマイナー調疾走曲に似たような優雅さと刺々しさがある。

 フォーキーなアコギに乗ったボーカルはかなり乾いた質感で、絡むリードギターが煌めきを付加しながら、ギターソロ等でちょっとファニーな動きを見せて緊張感を中和している。ベースも直線的なこの曲の疾走感をさらに引っ張るように小節終わりに闊達に動き回る。

 アルバムでも最もドライに聞こえる草野ボーカルが歌うのは、鄙びた光景の中での痛々しい光景。この曲は一際写実的な描写が多くて、このアルバム的な気味の悪い潔癖症の妄想の影を感じさせない。それこそ「世界」の中でのドラマの一幕のようである。

古いアパートのベランダに立ち 僕を見おろして少し笑った

なまぬるい風にたなびく白いシーツ

魚もいないドブ川越えて いくつも越えて行く二人乗りで

折れそうな手でヨレヨレしてさ 追われるように

この圧倒的に爽やかな描写が初めからできたことが、後に草野マサムネスピッツが世間に広く受け入れられたことの大本になっているのは間違いないし、その中で絶妙に鄙びた舞台設定が、「初期スピッツ」における「繊細で微妙な二人」の存在を際立たせている。

 そして残酷さが挿入される。さりげなく、婉曲的に。

幼いだけの密かな 掟の上で君と見た

夏の魔物に会いたかった

殺してしまえばいいとも思ったけれど

君に似た 夏の魔物に会いたかった

1番と2番のサビの歌詞を両方読めば、何となく感じられるところの夏の魔物」とは結局、童心を幾らか抱えたまま交わってしまった二人の間の「中絶してしまった子供」なんだなあと感づかれる。この辺の描写は妄想的というよりもむしろ文学的な重みを感じる。「中絶」を意識して聴くと、この曲の疾走感も、繊細な情景描写も、ひたすら痛ましく思えてくる。終盤のリフレインなど本当に痛々しい。この曲はそんな仕組みになっている。

 ただ、この解釈はあくまでファンの間の「定説」なので、それ以外の解釈を差し挟む余地が無い訳ではないと思う。確かにこの定説で読むとこの歌詞はあまりにこのアルバム的なぶっ飛んだ「妄想」が無さすぎる。なので、何か他の解釈が無いものか、この曲の光景がもっとファンタジックになったりしないか、たまに考えたりしている。誰かこのかわいそうな「夏の魔物」を救ってあげるような物語を考えませんか?

 

11. うめぼし

 清々しさが連続した3曲を経て、この初期スピッツの珍曲に辿り着く。最初はきっとすごく脱力する。でもこの曲も、アルバム序盤の不気味な妄想は排除されているし、むしろ声もアレンジもかなり透き通ってて、それこそブレイク後の曲と本当にそのまま並べても問題ないと思う。

 非常に素朴な草野マサムネの弾き語りに、チェロ等の室内楽的なストリングスが優美に色を付ける、つまりThe  Beatles『Yesterday』的な楽曲になっている。それでこのタイトルなのが初期スピッツといえばそうだけど、典型的な「初期スピッツらしさ」はそこと歌詞くらいにしか感じられない。歌唱も非常に端正で、ユーモラスさの影も感じさせない。その方が「うめぼし食べた〜〜〜い」な歌の可笑しさが引き立つと考えたのかもしれない。それでも、この声で音を伸ばして歌うときの、ノンビブラートな、平坦な歌に宿る可憐さを、すでにしっかりと備えている。

 曲構成としても、サビ中心の構成ではなく、ヴァースとブリッジの繰り返しみたいな作りで、そこもやはり『Yesterday』的かも。間奏にはホルンまで入ってくるのでよりビートルズ感が出てる。

 歌詞について。「うめぼし」が女性器の比喩であることは、ここまで聴いてきた人なら多くが思い至るだろう。でも「うめぼしたべたい」が「今すぐ君に会いたい」の言い換えに過ぎないと思うと、そんなにどうこう考えるフレーズでもない。それよりも、この辺の世界との距離のセンスが、このアルバムがどうこうではない次元で草野マサムネだなあと個人的に思う。

値札のついたこころ 枠からハミ出せない

星占いですべてかたづけたい

知らない間に僕も悪者になってた

優しい言葉だけじゃ物足りない

優しい言葉〜」のくだりこそまさに、スピッツが常に拘り続けてきた本質的な部分のひとつなのかなあとか思った。

 

12. ヒバリのこころ

 アルバム最後に、彼らの1stシングルとなった、インディーズ最後のミニアルバムの表題曲でもあるこの曲が入ってくる。 彼らにとっても初期の中で最重要曲のひとつだろうし、このアルバムを締めるのに相応しいのかどうなのかよく分からない力強さで、フェードアウトの余韻とともに締めてくれる。

  楽曲としてはインディー時代と一緒だけれども、聞き比べるとこちらの方がギター主体のアレンジとなっていて力強い。今思うと、初期U2みたいな壮大さを意識したサウンドなのかもしれない。特にギターのカッティング等の雄大さと、ひたすらワイルドに(ややハネた調子で)ルートを弾き続けるベースが印象的。草野ボーカルも、サビで若干ヘナった高音を見せる以外は非常に端正に歌っていて、気だるさは感じられない。

 特に、3分20秒ごろから始まる長いアウトロの雄大さ、ダビングされたギターの情感のこもったプレイには、それらがフェードアウトしていくのも含めて、このアルバムでも随一に勇敢さに胸打たれる場面。

 歌詞の力強さも触れておこう。そういえばこの曲、このアルバムでは珍しく歌い出しの歌詞がそんなに強くない。むしろ2回目のAメロがいい。

白い光に酔ったまま レンゲ畑に立っていた

目をつぶるだけで 遠くへ行けたらいいのに

この素直な幻惑感の表現と、他力本願な逃避願望の表出が、この楽曲がインディーズ時代から叩き上げの楽曲であることを思わせる(まあ『海とピンク』なんかもインディーズ時代からの曲だけど)。

僕らこれから強く生きていこう

涙がこぼれそうさ ヒバリのこころ

この力強さが、彼らが特にゼロ年代以降に見せるようになった力強さに直接繋がっていく。そう思えば、この頃は涙がこぼれそうだったんだなあ、とか思ったりする。

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 総評

 以上、12曲でした。

 こうやって改めて見ていくと、結構歪なアルバムだなあと思った。最大の原因は、このアルバムで特に言及される「不可思議なキモさ・不条理さ」というのがアルバム前半に偏っていることだと思った。特に『ニノウデの世界』〜『ビー玉』までは、スピッツ初心者を寄せ付けないハードルの高さを感じさせる。一方でアルバム後半、『死神の岬へ』以降は音作りも内容も結構爽やかな作りで、初心者が聴いても割とすんなり入っていけるんじゃないか、とも思った。

 このアルバム最大の特徴だと思ってた「幼くて潔癖症な二人のセックスと死、あと外のなんか世界」みたいなイメージも、『トンビ飛べなかった』以降の曲においてはよく読むとあまり関係なかったりして、意外に感じた。

 でも、メジャーファーストアルバムというのはそんなものかもしれない。イメージを統一して鋭い作品を、というよりは、インディーズ時代の作品と新曲とを全部出し、という方が、メジャー1st感にそぐう気がするので、このアルバムのそういう歪さも、単に当時の彼らを「全出し」した結果に過ぎないんだと思った。レコーディングも初のプロ録音ということで非常に難儀したと本人たちがコメントしているし。

 しかしながら、そんな作品であっても、彼ら自身によるバンドイメージのコントロールは色々と徹底されている。まずはこのジャケット。ヒトデが2匹重なっているような、1匹はなんか半透明みたいなそれがすでに、「二人のセックスと死」を暗示させるものになっている(と同時にこのジャケットも初心者にとっての障壁になってる気もするけども…)。また、歌詞カードの歌詞縦書きや、繰り返し等でのマークの多用など、色々と拘りを見せていてる。

 この辺の拘る部分と、インディーズからの連続により混沌としてしまった部分(80年代チックなアレンジ・プロダクションも含めて)とが、次作では短期間に楽曲を揃えサクッと録音したことで整然と整理され、結果としていまだに名盤の誉れ高いアルバムに行き着くのかもしれない。けれども、そんな整然とした名盤『名前をつけてやる』には無い類の爽やかさ残酷さがこのアルバムに確実に入っていることは特筆しておきたい。初めて聴く人はともかく『死神の岬へ』から先の世界観を味わってほしい。ここにしか無い類の勇敢さや悲痛さがあるので。

www.youtube.com

 

 こんな感じでスピッツのアルバムを、ある程度までレビューしていけたらいいなと思います。「力尽きたときはそのときで 笑い飛ばしてよ」って感じです。

 あと、参考にさせてもらったブログを紹介させてもらってこの記事を締めます。いつも参考にさせてもらってますありがとうございます。

blueprint.hatenadiary.com