ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

2020年紅白歌合戦の感想−2人の2つの歌を通じて−

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 2021年最初の記事です今年もよろしくお願いしますです。

 先日の2020年年間ベストアルバム記事を書いてアップした後すぐに家を出て実家に帰りました。その後1月1日の朝まで滞在して昼には福岡市の居住地に帰ってきました。家では大してやることがないし(なんかやれないし)、実家で起こったトラブルの対応とかもあってなんかちょっと居心地が微妙でした。そもそも年末年始を祝う様々な慣習とかを嫌いすぎてるかもしれない。

 でも、親が録画してくれていた『岸辺露伴は動かない』のドラマと、大晦日にダラダラ見てた紅白歌合戦は、色々と素晴らしく感じて、年末はNHKに救われたな…と思いました*1

 そもそも紅白歌合戦自体、いつまで男性と女性の二項対立でやってんだよもう2021年やぞ本当にオリンピックとかやる気あんのか*2とか色々あると思います。でもそこで披露されたパフォーマンスひとつひとつが素晴らしかったりすることとは別の話だと思います。こうやって、テレビさえあれば日本在住の人みんなが観れて、そして様々な人々にも届くよう微妙な配慮も効かせたこの番組が存在すること自体は、全然素晴らしいことだと思います。

 で、紅白歌合戦で何が良かったって考えたときに、色々良かったことは他にもあるんですけど*3、やっぱり際立ってたのは星野源玉置浩二、この二人のパフォーマンスだったと思いました。何がどうグッと来たんだろう、ということについて今回はちょっと書き残しておこうと思いました。

 いつもと全然記事の目的が違ってて書いてるこっちも違和感ありますが、ひとまずやってみます。

 

 

1. うちで踊ろう / 星野源

 あのロックダウンを余儀なくされた物理的・精神的療法の閉塞感が覆った日本で流行したラフな弾き語りの「引きこもりアンセム」が、Twitter上ではEarth, Wind & Fire風と呼ばれてたスタイルのバンドサウンドで華やかにかつ実直に再構成されていたことも、とても素晴らしいとは思った。

 だけど、やはりとても素晴らしく、そしてリアルタイムに歌詞字幕を追って度肝を抜かれたのはやっぱり、今回の彼の紅白出場の目玉であった、2番以降の追加歌詞の存在だろう。以下、上に貼ったツイートにあるフルの歌詞カードを元に書きます。

 何気に冒頭も、「年を越せれば〜」の入ってるパラグラフが増えてるみたいだけど、この辺はシチュエーションに合わせたエンターテイナーとしての手腕がさらりと出ている箇所。

 しかし、それを含む4つのセンテンスの後により大きな改行があった後に続くこの追加分こそが今回の肝であり壮絶で素晴らしい点。今回この紅白出場という機会を捉えて、星野源という人物が、多くの人たちがフラストレーションで膿み倒してしまった2020年を、あまりに身も蓋もない表現さえ用いることに怯まず、様々な苦難や絶望に、なかば投げやりな具合に寄り添いつつ、せめてそれでも重なるところを求めて祈る様が、何とも痛々しくも勇敢な歌だ。細かく見ていくと、賛否両論ありそうなフレーズを抱えつつも、この曲には批判に応えようとする気持ちも感じられる。

 

常に嘲り合うよな 僕ら

”それが人”でも うんざりださよなら

変わろう一緒に

 

 2020年という年は、映画でよくあるような「お互い憎み合っている人類も共通の敵が見つかると手を取り合うことができる」といった類の信じられてきたことが、コロナウイルスという驚異を前にしても争いが止まない、むしろかえって分断が深刻に進んだようにさえ思える1年だった。ロックダウンvs経済論理のこともそうだし、Twitter上ではいつだって政治論議*4が巻き起こっていて、有名人が政治的発言をツイートするとそれを人格さえ含めて攻撃する無数のリプライが付く*5といった形で地獄が現前したり、海の向こうのアメリカでは、それこそ想像を絶するように壮絶な選挙戦により国が大きく真っ二つになってしまったりと、様々な局面で、お互いを攻撃し、嘲り倒すような表現が蔓延した1年だった。

 追加歌詞の最初に来るこのフレーズはそういった状況に対する彼なりの、誤解を恐れない素直な「疲れ」の表明だと思う。別に彼に「すべての対立はどっちもどっち。どちらが正しいとかは存在しない」的な現状維持派に資するような意図は無いと思う。ただただ単に「うんざり」の4文字を歌いたかっただけじゃなかろうか。それはどことなく、これより後のよりうんざりするような描写からなんとなく感じられる。

 

 追加された2つ目のパラグラフは、具体的な日常の営みをさらりと描く。その隙間に孤独についてのことや、雲と光を混ぜる、といったちょっとファンタジックで気の利いたフレーズを入れ込んでいるのは「手腕」って感じがする。

 

瞳閉じよう 耳を塞ごう

それに飽きたら 君と話そう

今何してる? 僕は一人この曲を歌っているよ

 

 紅白で見てて「嘘つけよ〜お前今みんなで演奏してんじゃね〜か〜!」と大人気なく思ったりもしたこのフレーズだけど、重要なのはそこではなく、「今年という災難に疲れ果てて、一時的に”見ざる聞かざる”の状況に追い込まれて、それすら飽きた時にどうするか」ということについて歌っていること。ここで重要なのが「君と話そう」と謳われるその行為は、実際に話すのでもなく、また電話やリモートやLINEといったものでもない、他ならぬ、「この曲を歌ってる僕とそれを聴いてくれる君」の関係こそを「君と話そう」と歌っている、ということ。

 音楽を通じて誰かに何かを伝えるというのは、いわゆる「ビン詰めの手紙」的な行為だと思う。それは特定の誰かに何かを伝えるよりもその働きは遥かに曖昧になり、そもそも届くかどうかも分からない。でも、そんな迂遠で曖昧な手段だからこそ、また音を伴った言葉だからこそ、何か感覚的に・感動的に伝わることがあるものでもあると思うので、ここで星野源が「うんざりしながら一人寂しく歌うこの歌」を通じて何処かにいる「君」とせめて繋がろう、繋がった気になれるようにしようと懇願する光景は、ひどく寂しく儚く響く。でも、たとえばコロナウイルスがより酷く進行して、本当にろくに家から出られなくなる状況が来たとして、”本当に分かって欲しい、伝えたいこと”を伝える方法のひとつが歌なのかもしれない、などと考えると、グッと来る気がする。歌という概念に肩入れしすぎじゃないかとは思うけど。

 

愛が足りない

こんな馬鹿な世界になっても

まだ動く まだ生きている

あなたの胸のうちで踊ろう ひとり踊ろう

変わらぬ鼓動 弾ませろよ

生きて踊ろう 僕らずっと独りだと

諦め進もう

 

 今回の追加の歌詞で一番思い切った、思い詰め切った表現はここ。この辺りはおそらく、彼が今みたいなスターになる前から持っていたであろう人生に対する虚無感だとか、一度2012年にくも膜下出血地震が死にかけた体験だとかが反映してか、非常に諦観の入り混じった表現になっていて、これを紅白歌合戦という大舞台で多数の日本在住民に届けたのか…と、そのさらりとヒステリックな構図が痛快で笑ってしまう。

 「まだ動く まだ生きている」は、「死んでいない」ことを「生きている」ことの条件にしているような、一番低く条件を取ったような感じに思える。これも別に、事故にあったりとかで植物状態になっている人をくさすニュアンスなどは絶対に込められていないだろうけど、そういった言いがかりがつかないか不安にはなる。要は「こんなご時世のことやコミュニケーション不全の様々なことでうんざりして、無為な日常生活を送るような状況でも、それでもまだ生きているんだ、踊るんだ」ということの表明なんだと思う。そう思うと「あなたの胸のうちで踊ろう ひとり踊ろう」のフレーズの、せめてもの感じがなんとも切なくも、切実に響く。

 そして、この追加歌詞で一番度肝を抜かされた「生きて踊ろう 僕らずっと独りだと 諦め進もう」のフレーズで、この歌詞のスタンスはピークに達する。思うに、この世の中の分断、とりわけネット上でも現実社会でも発生している深刻な分断は、「支配者層」「被支配者層」的な分断と、「普通」「普通じゃない」的な分断と、「赤か青か」みたいな分断と、様々なレイヤー間の緊張関係によって発生している*6。それは良くも悪くも「群れ」同士の対立とも考えられる。この歌ではいっそのこと分断をより進めて、個人個人レベルまで分断が進めば、全ての争いは個人間の喧嘩レベルになる、みたいな思いのことのようにも読める。もちろんこれも、正義の実現のために人々が手を取り合うことを否定する気なんてないんだろうと思う。

 または、数年前にその年1番と言っていいであろう国民的な歌になった『恋』で描かれた最後のフレーズ「一人を超えていけ」という思いが敗北したような切なさがあるようにも思える。けれど『恋』についても歌詞をよく読むと、「いつか夫婦となっていく1人と1人が、”1人と1人”でもあり”2人”でもある中で、世界を広げるどんな可能性を持つことができるか」という歌だとも読める。であれば、ここの「僕らずっと独りだと諦めて」というのは彼の基本的スタンスを確認しただけに過ぎない。

 「独り」という状態を当たり前のものだと肯定することで生まれる様々な”希望”にこそ、彼はこの歌で祈りを捧げているんだと思う。「人はどうせ独り」みたいな表現は諦めめいて響いてしまうし、彼もこの歌で「諦めて」と言ってはいるけど、それを踏まえた上で、社会からとか会社の人間とか日本人とかそういうレイヤーを剥ぎ取った上での、「個人」としての視野にこそ、彼は希望の基礎を置いているのかもしれない。

 

 総合すると、コロナウイルスとそれに伴ったりそうでなかったりな様々な対立と分断で混沌と疲弊を招いたあの2020年の最後の最後、紅白歌合戦というみんなが観る大舞台において、彼はこの歌で「疲弊しきってうんざりしてる孤立した一人」としてリメイクされたこの曲を、”2020年を象徴する「みんなのうた」”として高らかに歌ってみせた訳で、その倒錯しきった関係性と、その倒錯こそから生まれ得る真摯な”祈り”の感覚に、凄く胸を打たれた、と思いました。

 

 

2. 田園 / 玉置浩二

www.youtube.com

 子供の頃はまだ実家に暮らしていてテレビを見てたから、様々な「昔の日本の名曲」に触れる機会があった。時にはその曲のPVと一緒に流れてくるそれら多くの日本の名曲の中で、この曲はかなり引っかかりを覚えた印象があった。正直自分は安全地帯も玉置浩二ソロも全然聞いてない人間だけど、この曲に関してだけなら言えることが色々あるような気がしたので今回こうやって書いている。

 この曲の何が引っかかったのか。まず、映像の奇妙さ。1996年という時代的にももっと洗練された映像は作れたであろう中でこの、様々な粗さが見て取れる、不器用で、そもそも農家の格好をする彼がひたすらどんくさく感じレテ、しかし謎の勢いがあった。今改めてフルバージョンの映像を観ると、様々なキャラクターに扮した玉置氏のことやそれらにまつわる設定については、正直説明を読んでよりよく分からなくなった気さえするけども、でも様々なコスプレの向こう側から、何かを伝えようと必死にエネルギーを放出していることは分かるし、何よりも、暗く狭さを感じるスタジオでギターを掻き毟りながら歌い、終いにはグルグルと走り回る彼の、その訳は分からないけどひたすらに必死な形相に、その身の向こうにあるただならぬ情念を感じて、それがこの曲のメロディやトラックや言葉から想起されるものと混ざり合って、他のどこにも無い類の感慨が胸に滲んでくる。

 正直サウンドにちょっと時代を感じてしまう原曲のトラックも、でも当時の、ワールドミュージック等が1990年代以降より広く聴かれ始めた光景の中でそういったテイストも取り入れつつ、どこか途方もない奥行きを感じさせてくれるような音でもある。そして曲自体については、これはもうJ-POPの最高峰とでも言うべき、AメロBメロで不安と混濁と切迫を感じさせた上で、サビで一気にメジャーコードとともに開かれる感覚の全能感に包まれる、日本音楽の歴史に永遠に残って欲しい大名曲だ。

 そのメロディと曲展開、そしてひたすら屈強に届いていく彼の歌が、この紅白では盛大なオーケストラによって、ベートーベン『田園』のフレーズを混ぜる茶目っ気アレンジも交えながら、しかしそのオーケストラ群よりも遥かに存在感あるものとして、お茶の間に響き渡り倒した。

 

 この曲、メロディや歌の屈強さも時代の風化を寄せ付けない重要な要素であると思うけれど、それ以上に、言葉の強さがまた、非常に強烈でかつ普遍的なものを有していることに、思いを馳せてしまう。結局こっちの歌も以下歌詞解釈になります。

 この曲の歌詞の凄さを強引に一言で言うならば「様々な人生のシチュエーションを取り上げ、自身のもどかしさ・苦しさと照らし合わせながらも、その根源的なポジティブさでブレイクスルーしていくところ」と。もう一言付け加えるならば、「そのブレイクスルーの仕方がよく分からない」こと。そしてもう一言だけ付け加えるならば「そのよく分からない具合や曖昧さによって、様々な状況を受け入れうる力場が発生している」こと。どういうことか。

 1番でも2番でも、Aメロは「僕」「君」「あいつ」「あの娘」の4つの立場から、様々な情熱や情緒や困難に直面した状況を描く。これらのシチュエーションはしかし、あまり具体的すぎないイメージの羅列になっていて、この曲の歌詞を聴く誰かが自分に当てはめやすいようになっている。特に1番の「アブラにまみれて 黙り込んだあいつ」というフレーズは幾らでも解釈のしようがあるフレーズで、ともかく、何か打ち拉がれているシチュエーションなんだろうなということは伝わってくる。かと思えば2番では「からのミルクビンに タンポポさすあいつ」と歌われ、「あいつ」の泥臭い面とファンタジックな面の双方が描かれていることは、現実的な疲弊とロマンチックな雰囲気とを、とても上手に並列させている気がする。男性の聴き手であればおそらく一番感情移入できるのは「あいつ」だろうから。

 

何もできないで

誰も救えないで

悲しみひとつもいやせないで

カッコつけてないで

やれるもんだけで

毎日 何かを 頑張っていりゃ

  

 Bメロについては、その時代における人々の無力感を、どこか自虐的にさえ思えるようなフレーズも交えながら歌っていく。この1番のBメロの特に前半部なんか、ここだけ抜き出して大槻ケンヂの歌詞だって言ってもバレないんじゃなかろうか。ただ、後半のポジティビティはこの曲ならではの、そして多くの人が愛することができるがむしゃらさに彩られている。特に「毎日 何かを 頑張っていりゃ」で、何かを言い切らずに終わってサビに繋がるところの曖昧さが素晴らしい。頑張っていりゃ救われるのか、幸せになれるのか、そういうことを言い切らないことも、この曲の射程範囲を広げているところだと思う。

 

 有名すぎるサビについては、1番・2番それぞれについて、不思議なブレイクスルーの仕方をしていく。同じメロディの繰り返しを交えながら何気に前半と後半で小節数が変わっているけれども、違和感は全くない。

 

生きていくんだ それでいいんだ

ビルに飲み込まれ 街にはじかれて

それでも その手を 離さないで

僕がいるんだ みんないるんだ

愛はここにある 君はどこへもいけない

 

 1番のサビ。まず基本的なこととして、この曲は玉置浩二氏が安全地帯を続けていく中で様々な矛盾や問題を抱え込み、時に奇行を起こしたりしながら、遂にブレイクダウンしてしまった際に、地元北海道に帰って親から「じゃあやめて畑仕事でもするかね」と言われたことに癒しを得て、回復していった上で完成しリリースされ大ヒットした、という経緯を持つ。そんな回復の過程の中において、「生きていくこと」それ自体が素晴らしいんだ、肯定されるべきことなんだ、というギリギリのポジティビティが生まれたというのは有名な話。

 そんな有名なフレーズの後、1番では都市で”現代的な暮らし”に苦しむ人たちに手を差し伸べてみせる。この懸命さがまた人々の胸を打つ。

 ただ、この曲はサビの最後の二行が、かなり意味がよく分からないブレイクスルーの仕方をしていて、このよく分からなさこそが、この曲の射程をひたすら広くしているのかもと思う。

 だって「僕がいるんだ」はともかく、「みんないるんだ」っていうのはそれこそだからなんだよ、って話のようにも感じられる。その「みんな」のせいでお前は苦しんでるんじゃないのかっていう、そんな感想を覚えるけれど、もしかしてこの「僕がいるんだ」も「みんないるんだ」も、ただ単に状況を言っているだけで、別に「君」が救われる理由として言っていないのであれば、意味は通る。個人的にはここの「みんないるんだ」に「僕もみんなも一緒だから君も頑張れる」みたいな意味を付けたくない。

 そして愛はここにある 君はどこへもいけないだ。特に「君はどこへもいけない」は衝撃的なフレーズだ。冷戦が終わって世界中どこへでも旅行的にも経済的にも行けるようになりました、という時代のムードの中でこの断定は、まるで呪いのように聞こえる。それは、どこかワールドミュージック的なアレンジになっているこの曲で歌われるということもまた衝撃を深めている。「どこにも無理して行かなくていい」ではなくて「どこへも行けない」と断定するこの自由を縛るフレーズは、”救いと解放の歌”のように思えるこの曲において非常に大きな違和感を残し、だからこそこのフレーズの解釈によって、この曲の意味を幾らでも変えることができるようになっている。この曲の射程範囲のものすごい広さが生まれている大きな要因のひとつ。

 こと2020年の日本において言えば、まさにここのフレーズが、コロナウイルスの世界的流行によって移動自体を大きく制限され、下手すればロックダウンという、外出すら自粛を要請されるような状況にフィットしまくった。これは皮相的で浅い解釈かもしれないが、でも実際我々は一時的であれ何であれ「どこへもいけな」くなった。あの2020年の紅白で歌われるこの曲は、まさにこのフレーズが一番刺さったように思える。でも、どこへも行けなくても「愛はここにある」んだから、案外大丈夫なのかもしれない。きっと歌詞を書いた玉置浩二本人でさえ、この歌詞がこんな風に作用するなんて夢にも思わなかったんじゃなかろうか。

 

生きていくんだ それでいいんだ

波に巻き込まれ 風に飛ばされて

それでも その目を つぶらないで

僕がいるんだ みんないるんだ

そして君がいる 他に何ができる

 

 2番においても基本的なテーマは1番と一緒だけども、ここで微妙なフレーズの違い・景色の違いによって、先ほどとは別のこの曲の射程を生み出している。

 2番で最も懐の深いフレーズは「波に巻き込まれ 風に飛ばされて」だろう。リリース当時は困難に立ち向かうことの比喩だったかもしれないこのフレーズは後年、言うまでもなく、本当に文字通り、波に巻き込まれたり風に飛ばされたりする大災害に遭った人たちの暮らしを慈しむ方向にこの歌が作用するように変えてしまった。つまり、東日本大震災における壊滅的な津波被害や、近年でも様々な台風災害が発生した際の、被災地の方々が「それでも頑張って生きていく」ことを全肯定する作用を、この曲は持っている。

 そしてやはり最後の2行。特に「そして君がいる 他に何ができる」の不可解さもまた素晴らしい。やはり「僕」や「みんな」や「君」がいること、生きていること自体が幸いであり、それ以上何ができる?という、生そのものを祝福せよ、それ以上人間に何ができようか、と言う、なんか思い切ったことを言っているんだろうか。これもこんな極端な解釈じゃなしに読み解こうとすると様々な解釈が生まれ、やはり曲の射程をひたすら広げていく。

 

僕がいるんだ 君がいるんだ

みんなここにいる 愛はどこへもいかない

 

 2番のサビから連続で入ってくる最後のサビも、最後の2行が差し替えられ、ここで改めて「僕」「君」「みんな」が並置される。ここまで来てようやく読み取れるこの曲の一つの「ゴール」としての解釈は「僕や君や「あいつ」や「あの娘」を含むみんながそれぞれいて、それぞれの元に愛は確かにあって、それはどっかに行ってしまうようなものじゃない」というもの。愛は人それぞれの胸の元に。そんな、根源的な救いであるようにも聞こえるし、ただのお為ごかしのように捻くれて捉えることもできそうな、そんな曖昧な、だからこそなおのことどうとでも解釈できる結論をもって、この曲はアウトロの壮大なハミングに向かっていく。

 

 

3. 2人の2つの歌、そして2020年や2021年のこと

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 以上、2020年の紅白歌合戦で個人的に特に大きな感慨を抱いた二つの曲を見てきたけれど、ここまで書いて、この24年もリリース時期が離れた二つの曲が、同じ年の紅白歌合戦で歌われたこと、その半ば偶然に発生したのかもしれないことによって感じられたことを、以下書いてみます。

 振り返ってみると、まず、『うちで踊ろう』は、

「打ち拉がれた個人が諦観に苛まれつつも、そこからだからこそ繋がれるコミュニケーションを求めて祈る曲」と言えるかもしれない。

 また、『田園』は、

「僕や君や「あいつ」や「あの娘」を含むみんなの、それぞれの元に愛は確かにあって、愛はそれ以外のどこにも行かなし、また君もどこへも行けない、と告げる曲」と言えるかもしれない。長いなこっちは。

 この二つの曲は、当然リリース時期が大きく大きく開いている訳だし、別のベクトルを向いている2曲であることは間違いない。ただ、それが同じ紅白歌合戦で歌われると、2曲の間に不思議な共振があったように感じられて、それで歌詞を読み直してみた訳だけど、それで分かったことがある。それはどちらの歌も「個人に立ち返って生を捉えよう」という視点があることだろうか。

 

 2020年の状況を今一度振り返ろう。日本においても4月〜5月の緊急事態宣言時には外出の自粛が要請され、学校やら職場やら飲食店やら映画館やらライブハウスやら何やらでの人と人との繋がりは断ち切られ、人々はリモートという”せめてもの手段”はあっても、知り合いとすぐそばで話して何かをする、といった一体感を解体される、という状況に陥った。それは思えば、2011年の東日本大震災時とその復興の際に盛んに叫ばれた「絆」というものを、時勢の変化により解体せざるを得なくなった状況でもある。

 2011年以降高らかに叫ばれ続けてきた「絆」という言葉は、美しい意味合いを高らかに掲げながらも、決してそればかりの存在ではなかったはずだ。「絆」を否定する者や参加できない者への非難や排除、「絆」を最優先にして様々な問題をスルーする姿勢、「絆」を人質にして為されていく様々な不正・卑劣etc。人によっては「絆」とはすなわち「呪い」だったような、そんな気もする。

 2020年、コロナウイルスはある意味で、そういった「呪いじみた絆」も破壊した。リモートワークの普及によって働き方が楽になった人々もいたり、会社でのやたらめったらな飲み会がなくなったことに内心喜ぶ人が結構いたり、そういった新たなブレイクスルーも副作用的に生み出してきている。

 「良くも悪くも「絆」が切れたそれぞれの人々が、どうやって1人で立って、何を胸に生きていくか」ということ。極言すれば、この2曲はどちらも、そのことについて歌っていた。少なくともあの紅白歌合戦の中においてはそのように響いた。これが、この記事の結論になります*7。一人で歩いて、一人で電車に乗って、一人でご飯を食べて、一人で酒を飲んで、一人で旅行して、そういう、かつては少なくない人が憐みと蔑みの眼で見ていたであろう生活様式を、あの年のあの状況では多くの人がそのようにせざるを得なくなった。そんな時にどうやって生きていけばいいか、ということを、この2曲は歌っていたんだと思いました。一人で、いいんだよ、という。

 

あなたの胸のうちで踊ろう ひとり踊ろう

変わらぬ鼓動 弾ませろよ

生きて踊ろう 僕らずっと独りだと

諦め進もう

 

ひとり歌おう 悲しみの向こう

全ての歌で 手を繋ごう

生きて抱き合おう いつかそれぞれの愛を

重ねられるように

 

生きていくんだ それでいいんだ

ビルに飲み込まれ 街にはじかれて

それでも その手を 離さないで

僕がいるんだ 君がいるんだ

みんなここにいる 愛ははどこへもいかない

 

 なんか、今まで理屈っぽく色々書いてみましたけど、この二つの歌の二つのフレーズが紅白歌合戦という舞台で一緒に歌われたっていうことが、それ自体が、理屈でなく感動的じゃないですか。結局この記事は、この感動のことを言いたいだけの記事だったんだと思います。

 

 2021年、果たしてどうなるものか。コロナによる混乱はむしろ感染者数が前の緊急事態宣言よりも遥かに増加という状況でむしろ増し、まさに今日東京都および首都圏3県が緊急事態宣言の発出を国に求める状況にあります。

 本来であれば、この2曲が歌ってるような、ある意味人間存在の根源的に孤独な性質を歌う歌は、社会に広く受け入れられてしまうと社会の側は困るのではないか、と思われたりもします。でも、状況がそんな「困る」をさえ許せないほど緊迫していく中で、やはりこの2曲に歌われるような「個人のあり方」というのは、非常に胸に来るし、多くの人々にとってもそれらは「突きつけられたもの」になってくるのではないかと思ったりもします。それを苦痛に感じる人も、救いに感じる人も様々だとは思います。

 それでもやっぱり、我々一人一人、生きているからには、死にたくない限りにおいては、生きていかなきゃいけないし、暮らしていかなきゃならない。そういったことで具体的なことを色々とまた考えていかないといけない訳ですが、その際の杖の一つとして、2020年紅白で並び立ったこの2曲のことを、今後思ったりするかもしれません。

 

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 最後なんか悲観なのか脅迫なのか何なのかよく分からない流れになりましたが、これでこの記事を終わります。読んで頂いた方は、こんな思い込みの激しい記事をわざわざ読んでいただき、ありがとうございました。次の記事はもっと普段どおりの感想文になると思います。

*1:今住んでる家にもテレビは無いから受信料は払ってないけど、こういった素晴らしいコンテンツのためなら払おうかな…とかチラッとだけ思いました。

*2:オリンピックは本当にもうやめたほうがいいと思うんですけども。

*3:最早白組なのか怪しいくらいボーダーを超えて暴れまわる氷川きよしとか物凄かったですね。淡々と『香水』を歌う瑛人の虚無っぷりも面白かった。反面、筒美京平追悼のコーナーはたった2曲かよ…とは思いました。

*4:個人的にはこれは論議というよりも「一部ネトウヨ層による一方的な陰謀論や政府批判者・及び弱者配慮への執拗な攻撃」と考えてもいるけど、ひとまずはこの語を置いておこう。

*5:5月ごろの検察法改正問題の際のきゃりーぱみゅぱみゅのツイートの件などは、本当に地獄という感じがした

*6:1つ目や2つ目のような分断による構造を「対立」などと呼びたくはないんです。一方的な抑圧を解消していくことは、社会にとって非常に大切なことだと思います。

*7:逆に、こういう雰囲気に逆行するように思えた福山雅治の歌は、なんでこういう流れでこの曲なんだよ、今年流行ったのは分かるけど、でも白組のトリにするのはよせよ…と思いました。