ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

大瀧詠一の全オリジナルアルバム(7枚)

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 大瀧詠一のナイアガラレーベルからの全楽曲が2021年3月21日からサブスクでリリースされます。ようやく、ようやくされます。ロンバケ40周年だけリリースされてサブスク来なかったらどうしようかと思ってたけど遂に!

 

 というわけで、今回はそんな大瀧詠一のオリジナルアルバム(と呼べそうな作品)を、サブスク解禁となる前に全部ざっくりとレビューしておこうという記事です*1

 ”全作品”と書くとすごく多そうですが、彼は意外と”オリジナルアルバム”という括りで見るとそれほど手に負えないほどの枚数を出しているわけではなく、今回のカウントとしては7枚になります。この7枚だけでは、彼の広範なディスコグラフィーの全てを満足に網羅することはできず、むしろ彼についてはCMソングだとか他者への楽曲提供とかそういったものも重要性が非常に高いですし、2枚の『NIAGARA TRIANGLE』のアルバムも純粋な彼のソロでは無いので今回扱いませんし、また1990年代以降は自身の作品としてはシングルしかリリースしていないので、それらも取り扱う範囲から除かれます。

 今回取り扱わないうちの特に重要な曲については、彼の死後にリリースされたベスト盤『Best Always』だとかセルフカバー集『DEBUT AGAIN』辺りが纏まって拾いやすく、良いかと思います。

Best Always

Best Always

  • アーティスト:大滝詠一
  • 発売日: 2014/12/03
  • メディア: CD
 
DEBUT AGAIN

DEBUT AGAIN

  • アーティスト:大滝詠一
  • 発売日: 2016/03/21
  • メディア: CD
 

 

では早々に本編に入ります。

 

(2021年3月17日追記)

 この記事を投稿した後、非常に多数の方々にこの記事を見ていただき(非常に恐縮です…)、書いた後の熱も冷めやらぬまま、さらに追加で色々調べてたらまたどんどん書きたいことが湧いてきたので、この字の色で追記させていただきます*2

 Twitterにも書いたけど、こういう追記に対しての「1度世に責任を持って出したものに後から手を加えに加えて出し直すのは歴史修正的な感じがしていかがなものか」という起こり得るご批判については、「そういうことを度重なる自作の再発のたびに何度も何度もリミックス等で行ってきた日本でも随一の人物こそが大瀧詠一さんなんですけど」というミラクルな回答が可能なため、この見苦しくも思える追記行為についてはむしろ爽やかさすら感じます。

 また、注釈も後から色々追加してますが。こちらは文字色が反映できないので、いつ追加したかを記載しておきます。

 願わくば、これらの追記で帰ってこの記事がより読み辛さを増すのを極力抑えられれば、というところ。すでに割とシンプルだった前書きがこんなに肥大化してては望むべくも無いかもしれませんけど…。

 

(2021年3月21日追記)

 サブスク来ました!しかし解禁来なかったものも残念ながらありますね…。各アルバムの箇所に可能な限りSpotifyリンクを追記しました。

 

(2021年4月23日追記)

 サブスク追加来ました…!こんな早くにそんなのありかよ…!という驚きの展開。しかし素晴らしいです。

amass.jp

 

 

注意書き

 以下、アルバムタイトル横のリリース年月については初出時のものを記載します。また、以下はCMソング集やインスト集、あとコンピレーションの類は含んでいません。

 あと、これはひとまず最後まで書き終わった後に思ったことなんですが、以下の文章は思いの外、”穏当で便利な紹介文”になりませんでした。せっかくサブスク解禁されて、大瀧詠一が誰かさえ知らないような、逆に言えば一切のしがらみなしに大瀧詠一に触れることができるような人たちにとってみれば、ここから先の文章は参考になるどころか、全く有害有毒なものではないかしら、という不安があります。なので、そういう真っさらな気持ちで彼の音楽に触れたい人で誤ってこの文章にたどり着いてしまった人は、悪いことは言わないのでブラウザバックかブラウザを消すかしていただきたい。以下の文章は、どこまでが批評で*3、どこからが感情なのか、書いてる自分で全然自信が持てませんので。特に後半は。

 

1. 大瀧詠一(1972年11月)

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 これリリース当時ナイアガラレーベルが存在してないから他のレーベルから出てるけど今回ちゃんとサブスク化されるのかな…流石に再発とか何とかでナイアガラ側に版権移ってるよな…。

 あまり「記念すべき」感の無い彼のソロキャリアの最初のアルバム。「記念すべき」感が無いのは今作が彼がまだバンド・はっぴいえんどに在籍している頃に同時並行的に製作されたものなため。

 同じくはっぴいえんどメンバーだった細野晴臣のソロ1st『HOSONO HOUSE』にも言えることだけど、とても”はっぴいえんどの延長”といった風情の感じられる作品。はっぴいえんどから連なる”日本的情緒を繊細に拾う”形式のポップソングが多く詰め込まれ、その中に同時代のカントリーロック的・スワンプロック的フレーバーが楽曲形式・演奏等の形で大いに入り込んでいる。その辺の具合も実に『HOSONO HOUSE』と似てると思うけど、最大の差別化できる点はこの時点で既に大瀧詠一の今後のキャリアで最大の拠り所となるオールディーズポップスの素養も部分的に開花を始めているところか*4

 ジャケットの感じに典型的なアメリカンオールディーズな雰囲気はあれど*5、今作ではまだ全然はっぴいえんど寄りの、地に足がついたというか、現実の日本の世界にいるような生活感のような雰囲気が全然感じられる。歌詞も情緒的な楽曲ははっぴいえんどに引き続き松本隆が担当し、また演奏陣もはっぴいえんどメンバーがちらほら見られる。大瀧ソロというよりも”はっぴいえんど feat 大瀧詠一”といった趣が強く、いなたさがかなり脱臭されたはっぴいえんどの3rdよりもこっちの方がかえってはっぴいえんどっぽいまであるかもしれない。『それは ぼくぢゃないよ』『水彩画の町』『乱れ髪』あたりは日本のフォーク/カントリーロックのクラシックに名を連ねていいクオリティで、また『風街ろまん』でみせた大瀧ソングライティングのソフト面の進化とも見做せる。中でも『指切り』の不思議な辛気臭い緊張感は、彼の曲では他に例を見ないような。

 一方で、後の大瀧ソロに連なっていくタイプの、リズムと勢い重視の、小気味良い乱暴さ・無邪気さとユーモアセンスで貫かれた楽曲も複数。『びんぼう』『五月雨』での土っぽいファンクっぷりの連発は次作『NIAGARA MOON』に連なっていくし、アメリカンポップス〜The Beach Boys的なコーラスワークも『おもい』『ウララカ』『恋の汽車ポッポ第二部』で早速結構漏れ出している。とりわけ彼のぶっ壊れたユーモアセンスが醸し出されるのが最後に収められた、彼のフェイバリットであるElvis Presleyのパロディソング『いかすぜ!この恋』*6で、そんな楽曲をさらに物凄くデッドな、ラジオから漏れてくるような録音方法で収録している。

 リリース後に細野晴臣から「中途半端」と批評されたらしい*7本作は、確かにはっぴいえんどの延長にある作品だとすごく感じる。けど、”だからこそ”好きな向きもあるだろうと思う。ある意味では、「はっぴいえんど時代の、ぱっぴいえんど的な楽曲を書く大瀧詠一」の上澄みの詰まった作品とも捉えることができ、そしてそれは、後世のアーティストが「趣味趣味音楽な大瀧詠一」や「ロンバケでポップスな大瀧詠一」よりも自分を接続しやすい、と思えるハンドメイドな要素が絶妙に感じられる作風を生み出している。つまり、サニーデイ・サービスとかそういうのに一番直接接続できる大瀧作品はこれだろう、ということ。”いなたい”とはやっぱり”程よく貧乏くさい”ということなんだなあと、今作と『A LONG VACATION』との間の飛距離を前にして思ったりした。

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(2021年3月21日追記)

 冒頭の懸念通り、ナイアガラレーベルからのリリースでないためか今回のサブスク解禁から漏れました…残念です。というか今作の権利関係今どうなってるんだ…?

 しかしながら、いくつかの曲は1978年に本人失意の中作られたしかし案外出来のいい”実質セルフカバーベスト”『DEBUT』に収められました。しばらくはこちらで糊口を凌ぎましょう。収められたのは『ウララカ』『水彩画の町』『乱れ髪』。特に後ろ二つが結構1980年代寄りのドラムが入ったバンドサウンドになってるのは、ロンバケ以降の曲と混ぜてプレイリストにするのに便利です。

おそらく、この救済措置から漏れてる中で一番嘆かれてるのは『指切り』でしょうかね…。

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2. NIAGARA MOON(1975年5月)

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 前作から結構間が空いているけども、その間にCMソング製作等を行い、また前作の原盤が高速で失われていくことを目の当たりにした恐怖感などもあり、遂に自身のレーベルである「ナイアガラ・レーベル」を立ち上げる。自分の名前が「大滝」であることからデカい滝である「ナイアガラ」をレーベル名にしてしまう辺りに、この後暴走し続ける彼のユーモアセンスが滲み出ている。そんなレーベルから最初に出した彼の作品が今作。

 ここで徹底的にはっぴいえんどからの距離を取ろうと努めたのか、本作は非常にリズムオリエンテッドでスワンプロック的で、また情緒よりも音そのものに目を向けた作風で、かつその上に彼の音楽的趣味についての言葉やシュール・ナンセンス気味なユーモアセンスが溢れた、何気に彼のオリジナルアルバムでもかなりエネルギッシュかつやりたい放題な方面にある珍盤となっている。やはりジャケットから感じられる雄大さや洋風さはあまり作品に関係ない*8

 はっぴいえんど時代はバンド内でJohn Lennon的な立ち位置というか、ロックンロール・荒々しさ担当的なところもあった彼だけど、彼のそっち方面のセンスが一番典型的かつ徹底的に出ているのが今作と言えそう。ソフトでメロウな歌い方は殆ど顔を見せず、ひたすらユーモラスに嗄れた声でどうでもよさそうな内容を歌い時にシャウトして見せる彼の姿は、ロンバケ等からはまた相当な飛距離がある地点で、そっちから辿ってきたリスナーが(『LET'S ONDO〜』を除いて)とりわけポカンとしてしまう作品。

 本作は彼が従来持っていた”いなたさ”をまさに全開にした作品で、かつ、ニューオーリンズサウンドを研究した結果の泥臭いサウンド、いわゆるスワンプロック的な勢いこそを前面に押し出した楽曲が詰まっている。演奏陣は錚々たるもので、細野晴臣鈴木茂林立夫松任谷正隆からなるキャラメルママ(後のティン・パン・アレー)の面々が軸となり、しかし後のプロフェッショナルさと異なり当時は実にインディーロック的な手法で、つまり手探りでハンドメイドなバンドサウンドで取っ組み合って、この和製スワンプロックを形作っている。その上で、後にあのようにスムーズなポップスばかり歌う大瀧詠一が、唾が飛ぶような勢いで歌い倒している。それはとても、演奏そのものを楽しんでる感じがありありと出た、エネルギッシュで情熱的な光景だ*9。強靭なリズム隊、特にドラムのサウンドやプレイの素晴らしさは”あの時代のいなたいドラムサウンド”の目標となり得る本当に素晴らしいもの。歌詞の主題が適当なのはむしろそういった情熱を隠すための彼なりのはにかみ方なのかとも思う。

 特定の楽曲を取り上げて「名曲」と呼ぶタイプのアルバムではなく、サウンドそのもののスリリングな移り変わり自体を楽しめるかどうか、だと思う。思うけどその上で、『恋はメレンゲ』の中南米的なリズムを少人数バンドで暴れ倒す様から、ウルフルズの『大阪ストラット』の原曲(元ネタ?)である『福生ストラット』の強靭なスワンプに繋がっていくところ*10は、大瀧詠一の他のアルバムでは決して味わえないタイプのスリリングさに満ちてる。『福生ストラット』の演奏は同時代のThe BandやLittle Featなどの”本家”にも決して引けを取らない屈強さと粘っこさをしっかり有している。Buddy Hollyの”しゃっくり唱法”自体をそのまま曲の目的にしてしまった『シャックリ・ママ』の謎なアグレッシブさも楽しい。かと思えばゆったりリラックスしたジャジーなリズムと演奏とダラダラした歌の『楽しい夜更し』へ続く緩急も絶妙で、本当に”バンド作品”としていいなあ、こういう雰囲気で演奏して、もしくはそんな演奏を間近で見たりしたら楽しいだろうなあ、っていう雰囲気に満ちている。

 一応、アルバム終盤ではロンバケ以降に繋がりようもあるメロディアスな側面を見せていて、サイダーのCMをかき集めた『CIDER '73 '74 '75』は、当時の彼的なユーモアもありつつアメリカンポップス研究家としての側面が早速存分に開花していて、またタイトル曲のリプライズ『ナイアガラ・ムーンがまた輝けば』は、ひたすら甘いオールディーズポップスの雰囲気に少しばかりオリエンタルなムードも絡んで、こちらは同時期の細野晴臣トロピカル三部作とも接続できそうなポテンシャルさえある。意外とこういうコンパクトなポップスはロンバケ以降無いので、彼のキャリアでも貴重だったりする。

 本作は「自分は世間から”ツルッとしたポップス”を求められてる」という認識が無いのか無視したのか、ひたすらバンドサウンドの快楽を追求し堪能している彼の姿がひたすら見られる。それはとても幸福そうで、これより後の緊密なスケジュールと売り上げの低さに苦労する1970年代後半とも、無我に透明なポップスを提供する機械となるロンバケ以降とも異なる、この時だけの良さがある。もしこの方向性で更に追求が進んで大成していたらどうなってたんだろう、エネルギッシュなライブを繰り広げまくる大瀧詠一、という未来があったんだろうか…ということも思いながら、でもこの時点で相当の満足を得てる感じもあり、どんなことがあっても彼は次のステップに向かったのかな、という気もする。何にせよ、作り手側の興奮をリスナーが共有できる、という側面から見れば、今作が大瀧詠一最大の傑作ともなるだろう。

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 なお、今作以降の1970年代の彼の作品の大きな特徴として、自身の東京都福生の自宅を改造した”福生45スタジオ”において録音し、そのレコーディングエンジニア、さらにミックスまで自身で行う*11、ということがある。はっぴいえんど解散以降にどれほどエンジニア的技法を試行錯誤してたのか、このアルバムで聴ける録音された楽器の音はとても良い感じがする。素人的ではなく、ちゃんと海外との同時代性も感じさせる、生々しくもデッドでタイトなサウンドは、1980年代のCD化の際にもロンバケ以降を担当した外部エンジニア(吉田保)によるリミックスを必要としなかったほど*12。そういった「インディーな録音環境なのに魅力的でダイナミックな音」という観点でもこのアルバムはロンバケ以降とは本当に異なった魅力を有している。

 

(2021年3月21日追記)

 サブスク普通に来ました。ロンバケ以降の曲中心にプレイリスト作るとき一番混ぜ込み方に苦労するのがこのアルバム。逆に1970年代中心のバンドバンドした大瀧詠一でプレイリスト組むかですかね。

 

3. GO! GO! NIAGARA(1976年10月)

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 こちらは人によっては彼のオリジナルアルバムに含めないかもしれないな…とも思う作品。彼が当時やっていた同名のラジオ番組をそのままアルバム化する、というアイディアは、しかしこれは録音設備の提供*13と引き換えに3年で12枚のアルバム製作・リリースをする(!)という契約を結び*14、その上で様々な状況により忙殺されていた彼の苦し紛れのアイディアだったという。

 そんなところから出てきた本作は、短いジングルを挟みながらも、前作から引き続きの捻くれたポップセンスといなたい演奏によるトラック群を、他者への提供曲のセルフカバーさえ厭わず「どうにかアルバムとして成立するよう捻り出した」といった風情の作品。どうにか全部で30分とちょっとの尺の中に、ある意味前作以上にユーモアセンスを様々に投げ打っていく。

 短いジングルを数曲挟んで擬似ラジオ的なアルバムを作るというアイディアはThe Whoなども行っているが、ここではアメリカにてオールディーズ曲をラジオ番組風に編集して製作された『Crusin'』シリーズを参考にしているという。ここでは純粋な歌だけの曲だけでなく、ラジオ的な「しゃべり」も随所で挿入され、彼の剽軽なセンスが時にナンセンスに時にメタ的に展開していく。前作や次作*15への言及や、当時のレコードの片側が終わったことをひっそりお知らせしたりするなど、苦し紛れから出たとはいえ様々なやりたい放題の手法を尽くし、これらは後にPizzicato Five『女性上位時代』などをはじめとした諸作品に影響を与えたと言えなくもない。

 楽曲的には、前作とサウンド的にも雰囲気的にも直接陸続きなものが複数収録され、そのいなたさとシュールなくだらなさと細やかな様々な洋楽等からの引用に彩られた世界観が、「売れないながらも精一杯に賑やかさを演出する大瀧詠一」の姿を、上記の演出のこともあって前作以上にはっきりと感じさせる。提供曲のセルフカバーは2曲あり、特に沢田研二に提供した『あの娘に御用心』は本人的に一番苦肉の策だったようだけど、今作でもとりわけエネルギッシュでかつノベルティ/パロディの域を脱した、彼独自のポップセンスの熟成の度合いが垣間見える作品になっている。一方で、ネタ切れゆえか前作よりもベタにアメリカンポップス等の要素を出していく様は、逆にこの時点でもそういったアレンジを高度に援用できるだけの手腕が窺われる。特にB面以降はこっちの要素の方がユーモアセンスよりも前に出て、楽曲自体は弱いけど、彼的にはこういったアレンジの実験場として展開してる節がある。様々な形でThe Beach Boysっぽさなども覗いてくるので、そういった部分を楽しめると楽しい、という、やっぱり渋谷系っぽい楽しみ方が求められる節がある。

 多分これを「最高傑作」と呼ぶ人は相当に限られると思うし、前作から直接次の『NIAGARA CALENDAR』に繋がっていくことも雰囲気的に全然あり得そうだけども、でもここでの厳しい環境における様々な実験、特にポップスへの揺り戻しは、確実に『NIAGARA CALENDAR』の充実に繋がっている。

www.youtube.comともすればスタジオ音源よりスリリングなスタジオライブ音源。

 

(2021年3月21日追記)

 これもサブスク来ましたね。プレイリスト組むときは曲間を繋げてるが故の前の曲の末尾がイントロに入っちゃう現象とかがちょっと気になります。

 

4. NIAGARA CALENDAR(1977年12月)

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上が1977年当時のオリジナルジャケット。下は1981年再発時のもの。

なおこの1977年版と1981年版とでは楽曲のアレンジも様々異なっている。

 

 この作品は沢山言いたいことがあって、個人的には大瀧詠一で一番好きな作品で、正直単独で全曲レビューとか書きたいタイプの作品なので、あっさりと書きます。けど、やっぱこの作品の重要性だけはしっかり書いておきたい。

 1月から12月までそれぞれの月の楽曲を製作し、それぞれの月についてこれまで培ったヘンテコなセンスも、ポップスや周辺的リズム音楽等への挑戦の蓄積も、何もかも注ぎ込んだ結果、1970年台の彼の自由奔放さ・いなたさと、1980年代以降の和製ウォール・オブ・サウンドな性質とを併せ持つこととなった作品。見方によっては”中途半端”と評すこともあるのかもだけど、でもロンバケ等で入った人がこの作品を通じて1970年代のバンドサウンド大瀧詠一を聴いていくきっかけにもなるし、何よりも彼のユーモアセンスとポップス職人っぷりが最も理想的な形で融合し結晶化している。多忙な中でこれだけの充実作を製作したにも関わらずこれが売れなかったことにより、レコード会社から契約を切られ、1970年代のナイアガラ・レーベルが終了してしまうというきっかけにもなってしまったけども。

 本当に、「これまでの大瀧詠一」と「これからの大瀧詠一」がここには期せずして集まっている。いきなりElvis Presleyのモノマネでお正月を歌う『Rockn' Roll お年玉』のバカバカしさで始まり、しかしすぐ次にバレンタインデーの「チョコ貰えなかった」という割とショボい発想をメロウでノスタルジックなバラードにまで展開してしまう『Blue Valentine's Day』が来るという、振り幅の強烈さ。人によっては支離滅裂と思ってしまうんだろうけど、個人的にはこのカラフルさこそ、1970年代に彼が目指してた”賑やかさ”の最高到達点だと思う。ネタ切れから過去の自分の曲をリメイクした『五月雨』もギャグとパロディとガチの境界で荘厳なバラードとして成立し、そしてポップスサイドでは極め付けに、『青空のように』という、この時点での彼のPhil Spectorの研究成果として最上の名曲に繋がっていく*16。この完璧なポップスはロンバケ以降に繋がるようでもあり、しかしロンバケ以降では得られないリズムの軽快さも持っていて、彼のポップスではぼくはこの曲が1番好き。この曲に限らず、大衆的なポップスとして整理されすぎていないことによって生じる類の美しさが、今作のこっちサイドの楽曲にはとてもよく感じられる。

 ユーモアサイドでは、まさかの演歌を土台にしながら、自身のレーベルの窮状自体をネタに歌い上げる『明月赤坂マンション』は、自虐的で破滅的なセンスを帯びつつも、それらによって演歌の土着性さえ曖昧な、謎にオリエンタルでかつ無国籍なポップスに仕上がっている。さらに極め付けは実質ラスト曲的な『クリスマス音頭』で、アメリカでとても重要なポップスのエレメントである聖夜を音頭の上に載せてしまうこの暴挙は、まさに彼が1970年代に志向したことを、全部載せできないものを無理矢理全部載せしてしまったような凄みと、それを全然感じさせない実にアホっぽい狂騒感が通り過ぎていく。そしてドゥーワップ調のボーカルのみで歌われる日本屈指のスタンダードナンバー『お年玉』で締められる今作は、はっぴいえんど時代から続いてきた彼の訳わからないユーモアセンスの到達点でもある。

 結局あっさりとは書けなかったけど、ともかくサブスク解禁したら、ロンバケやイーチタイムがいい作品だなんて分かりきったことなんだから、それよりもこの作品がより多くの人に届いてほしい。もっと直接的な言い方をすれば、サブスク解禁したらみんなこれを聴け。これこそ最高傑作だ。この記事の次の記事で全曲レビューを書くことを考えています。

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(2021年3月21日追記)

 これについては『'78』『'81』両方のバージョンがそれぞれラインナップされるという、多分今回の解禁ではかなり恵まれた形でリリースされましたね。

 

 なお、このアルバムについては弊ブログで全曲レビュー記事も書きました!こちらも是非。

ystmokzk.hatenablog.jp

 

5. LET'S ONDO AGAIN(1978年11月)

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 今作もまた彼のソロキャリアのオリジナルアルバムに含めるかどうか議論が分かれそうなアルバム。そもそも今作のアーティスト名義は「NIAGARA FALLIN' STARS」*17となっていて、「大瀧詠一プロデュースの楽団による作品」という体裁を取っている。けれども実物は、どう聴いてもどう考えても大瀧詠一のソロ作品。まさかサブスク解禁から漏れるとか無いよな…と不安になる代物でもある。

 今作を一言で言い表すのは簡単。「徹頭徹尾、完全な自棄っぱち」で、タイトルどおり音頭をベースにしつつも、彼の1970年代式ユーモアセンスとパロディとをクドささえ気にせず吐き出しまくる、時には音頭の要素さえ見失いながらもひたすら支離滅裂にはしゃぎ倒す、レーベル滅ぶなら踊らにゃ損損、とでも言うのか…といった感じの和洋折衷コミックソング大全集。ああ、この作品を聴いたことのない人にこんな文章を読んでもらっても何の意味があるんだ…というくらい、実際に聴いてもらわないとこの悪趣味の領域にスレスレの珍妙さは伝わるまい。あるいはこの作品は「土着的で日本人的な”田吾作”根性で西洋ポップス・ロックの文化を征服してみよう」という、物凄く野心的な作品なのかもしれない。ジャケットにあるところのアメリカの大都市を駆け回る農民の姿はその象徴なのかもしれない。

 重要なのは、楽曲も演奏もアレンジも非常に充実した『NIAGARA CALENDAR』を作った身分から、その手管を全てぶっ壊れたユーモアに”だけ”注ぎ込んだ作品だということ。リリース当時の視点だとこの作品の後のキャリア次第では”狂気”と捉えられることさえあるかもしれないその姿勢は、『NIAGARA MOON』で言うところのタイトル曲みたいなポジションの、所謂”真っ当なポップス”が1曲も存在しない、というところに象徴される。もう売り上げなぞ少しも期待せず、ひたすら自分の作りうる珍妙さを極めんとするその勢いにはひたすら困惑させられつつも笑わされ続ける。

 ともかく、多数のゲストも動員したキレッキレのパロディと演奏の洪水はリスナーの思惑をよそに果てまですっ飛んでいく。大瀧詠一の作品として臨んだ人は、冒頭の曲から「自分は一体何を聴かされているんだ…?」と困惑することうけあい。2曲目『337秒間世界一周』からもう早速アルバムタイトルに囚われずに自由自在に世界各地のサウンドを再現してどんどんテーマを崩しまくってリズムも変わりまくるアレンジで今作の自由さを示す。自身の過去曲のパロディといった自家中毒の極みのようなものも数曲ありつつ、ギャグとして一番強烈なのはピンクレディー関連。ファン側の精神を派手に歌った(カリカチュアした?)楽曲も面白いけど、特に『河原の石川五右衛門』はまんま『渚のシンドバット』替え歌ながら非常にシュールでくだらないことが歌われていて、リリース当時はピンクレディーの事務所から許可が降りず未収録になるほど。このくだらなさは大瀧詠一のそっちサイドの極北のような曲。本当に何で石川五右衛門がテーマなんだ…?

 アルバムタイトルとなっている”音頭”については『ナイアガラ音頭』以来の取り組みであるけど、特にアルバム後半例の石川五右衛門の後ではいよいよこの題目を半ばギャグで半ば本気で取り組み始めて、特にRay Charlesの代表曲『What'd I Say』を音頭化した『呆阿津怒哀声音頭』の、リズムが音頭であること以外は本気も本気の鬼気迫る演奏であること*18や、その後のタイトル曲で様々なパロディをやはりしつつも不思議とこれはこれで感動的な大団円を迎える様は、ここまで困惑してきた人もそれまでとは逆の意味で「自分は一体何を聴かされてたんだ…?」と思うだろう。壮絶に音頭とソウルミュージックを結合させようとするこれらの試み*19は、ロンバケから本当に遠く離れた地点にて、諧謔と本気とが不可分に入り混じった禍々しくも凛々しい大輪の花を咲かせている。

 様々なサンプリングが入り乱れる今作の作風は、やはり後の渋谷系の手法を先取りしているものではあるけど、ここまで情報量の洪水でふざけ倒した例は殆どないだろうし、強いて挙げるならPizzicato Five『さ・え・ら ジャポン』くらいのもの、というかむしろ同じくパロディと芸人含む多数のゲストでふざけ倒すコンセプトのPizzicatoのあれが今作を参考にした可能性は大いにある。ひたすらクドくうんざりもしそうな自己満足の果てに、大瀧詠一という個人のエゴがネタもガチも入り混じった形で無限に発散していく、ある種バケモノ的な作品。間違いなく、今回の7枚のアルバムで最も「ロンバケ大瀧詠一」から一番遠いアルバム。そんな今作が、まさにそのロンバケの直前の作品というのがまた面白い。ここで楽曲として吐き出せる類のユーモアを全て吐き出して、心をポップスの鬼にしてロンバケ製作に取り組んだのかなあ…とか考えてしまう。なんか居た堪れない気持ちにもなる。

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(2021年3月21日追記)

 サブスク駄目でしたね…まあ確かに「大瀧詠一」名義の作品じゃないもんな…。今作については他のアルバムに一部収録とかの救済措置も無し。まあ「大瀧詠一」名義じゃないからそうなるか…でもロンバケ以降でちょろっと大瀧詠一以外の名義のやつあるよなあ…。

 

6. A LONG VACATION(1981年3月)

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 遂にこのアルバムについても正面から何か書かないといけなくなったな…という感じがして少し気だるい。逆に、何を書いてもきっと日本の音楽史に残る大名盤、という地位は少しも傷つかないだろうから、別に何を書いてもいいんだろうけども。

 書きましょう。This is 大瀧詠一!ということになってしまった、彼のアメリカンポップスに対する深い教養とPhil Spector式のウォール・オブ・サウンド*20等の手管の充実と蓄積と、ユーモアセンスを殆ど排してひたすら”ポップス”に向かっていく作曲・歌唱、あと松本隆による歌詞や1980年代式のプロダクションも相まっての、世界でも有数の透明なポップス集となった、日本音楽界永遠の金字塔。”バブル景気”という時代概念の雰囲気や印象にも確実に何らかの影響を与えていると思われる。海外で日本の1980年代シティポップが評価される昨今においては、その透明さゆえにかえってオリエンタルさが無くて日本の外側の方々からあまり見向きされていない、ということが最近巷で言われていて、それくらいに良くも悪くも超然的な場所で鳴っている音楽なんだろうな、と思う。そう思うとあの有名なプールサイドのジャケットの場面が、とても非現実的な光景に思えてくる。

 個人的な印象をまず情緒的に書けば、あんなに実に世間的で一般的な恋愛の光景を歌っている曲ばっかりなのに、ある意味平和で豊かな光景ばかりが続く世界観なのに、なぜここまで現実感がまるで湧かないんだろう、何でこんなに身体的な質感がまるで感じられないんだろう、と思ってしまう。精神世界にどっぷりな内向的な作品でもないし、ちゃんと現実世界の登場人物の光景を描いているはずなのに、まるで現実世界から隔絶された、どこか別の世界の光景をずっと見せられてるような。本作を前にすると、たとえばサニーデイ・サービスで一番人間味の薄そうな『MUGEN』が、どれだけ人間味に溢れているかが逆に感じられる。今作の人物に比べて村上春樹の小説がまだどれだけ人間臭いか、みたいな話になってしまう。

 批判的な意味が生じるのも承知で言えば、今作は徹頭徹尾”完結した商品”としての美しい世界が盤に刻まれているんだろうと思う。確かに大瀧詠一という1人の人間がメロディを書き歌っているはずなのに、そこから一切の「大瀧詠一個人」の情報が削り取られ、「ある意味で実に月並みで退屈な、しかしだからこそ優雅で尊く、儚くも美しい光景」のために全てを捧げ切ってしまっている。ぼくはそのことが、何だかとても虚しいことのように感じられて、そこまで個人の質感を透明化してしまうことが、前作での狂気的なユーモアセンスの垂れ流しよりももっと狂気じみた、無情な行為なのではないかとか考えてしまう。歌謡曲の大家となって歌詞世界の”個人”の一般化を極めた松本隆の歌詞も、この印象を強めている。

 もっと端的に言い表したい。今作はゆらゆら帝国の『空洞です』とかとは全然違うベクトルで、あらゆる大瀧詠一個人の感覚から発されるエゴやパッションを捨象しきってしまった作品なんじゃなかろうか。ぼくが時々この作品に『空洞です』と類似の冷たさ・虚しさ・甲斐のなさを感じて、恐怖を感じて、逆に心がざわつく思いをするのは、こう考えれば幾らか言葉にできるかもしれない。恐怖を感じつつも、作品の様々な機転や機微や美しさに強く惹かれるのも、案外『空洞です』と似てるかもしれない。

 以上、なんか感じ悪い風な文章を書いてしまったかもしれないけども、でも大好きな曲も何曲も入ってる作品。『君は天然色』は、The Beach Boysの永遠の名盤『Pet Sounds』の有する、ひたすら頼りなくて同時にだからこそ美しく感じるような雰囲気に、日本のポップスでもとりわけ近付くことの出来た楽曲だと思う。視点はあれよりもっとアダルティックかもだけども。この曲での様々な細やかなアレンジをシャッフルのリズムで万華鏡のように展開し、歌詞も相まってサビでノスタルジーが静かに爆発する瞬間は、今作だからこそのエモーショナルさがある。『カナリア諸島にて』のリゾート感も、こんな楽曲が似合うリゾートが現実のどこかにあるような、もしくは全く別世界の後継のような、そんな相容れない感覚の間で絶妙に華々しい眩しい光景を描いていく。『我が心のピンボール』のボーカルエフェクトやメロディラインは今作でも特殊なヘンテコさがあって、他の曲と世界観は共有しながらもいいアクセントになってる。『恋するカレン』は彼が1曲に注ぎ込めるアメリカンポップスの手管を全て尽くした結果”アメリカ本土に存在しない”アメリカンポップスを遂に作り上げてしまった、といった意味でも圧倒されるアレンジと、その割に考え方が全力で負け惜しみじみてて滑稽な歌詞との対比がなんか笑える*21。アンコール的に登場する『さらばシベリア鉄道』は今作でも例外的に日本の歌謡曲的なオリエンタルさがあって、最後の最後にいいエグみ*22になってる気がする。

 以上、今作を全肯定しきれない、だけど余裕で「大好き」だとは思ってるやや複雑な胸の内を少しでも文章にできるよう尽くしてみたけども、たとえば今回のサブスク解禁でこれを初めて聴くような人には、今作の世界観はどんな風に映るんだろう。ドリームポップやチルウェイブやヴェイパーウェイブが世界的に広まった今の時代において、今作の時代背景だとか何とかにも全然とらわれない、もっと自由でナチュラルな感覚で今作を聴く人に、どう響くんだろう。そういう人には、こんないち個人の偏見に満ちた文章など読んで欲しくないな…ということを思って、少し暗い気持ちになった。

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 なお、録音環境的にも今作は全く環境が変わっている。1970年代は自宅スタジオにおける、ともすれば宅録的なローファイさすら感じられる、お世辞にも資金が十分とは言い難い環境でしかもスケジュールに追われて製作していた。それが今作以降はレーベルがソニーに移った後、予算が潤沢に使えたこともあり、当時最新鋭の技術が注ぎ込まれたソニー信濃町スタジオにて、非常に多くのミュージシャンを集めての一1発録りが繰り広げられている。アコギだけでも4人同時に録音、等の手法はまさに音像の元ネタであるところのPhil Spectorの手法そのまま、それを1980年代式のエンジニアリングで行った、という壮大でゴージャスな録音過程からのその成果がまさに今作で、そういった制作面からも本作は日本の録音物の金字塔、とてもゴージャスにレコーディングできた記録物として評価され続けるんだと思う。

 そして同時に、その本当にゴージャスな録音環境と1970年代の”びんぼう”な録音環境とのギャップもまた、彼の作品の年代間での連続性の断絶に強く作用していると考えられる。逆に言えば、1980年代のCDでの再発時や、もしくは彼が表に出てこなくなって以降延々と続けていたリミックス作業は、1970年代作品についてはせめて少しでも1980年代以降との断絶感を減らそうという試みであったのかもしれない*23

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(2021年3月21日追記)

 当然サブスク解禁されました。それもどうやら40周年エディションが挙がっているようです。流石にインスト集『Sing A LONG VACATION』は上がっていないようですが。また、シングルになった曲のシングルバージョンは『Singles & More』という今回サブスク用に用意されたっぽいアルバムにラインナップされています。これは他のアルバムも同じですね。『青空のように』のモノラルとかそんなんあったんすね。

 

7. EACH TIME(1984年3月)

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 誰もがそう思うであろう”ロングバケーション2”たる作品。それにしても、そんな前作と陸続きの上品で透明な華やかさに溢れた作品集だろうに、どうしてこんなに殺風景なジャケットを選んだんだろう。もっとリゾート感のあるアルバムにした方が売れる、とかでレコード会社側も止めたりしなかったのか*24。それがずっと気になってて、また本作で1番目・2番目に好きな曲が両方ともリアルタイムでは未収録と知ってから、このアルバムに対する印象はひたすら混迷を続けている。

 何なんだろうこのアルバムは?ロンバケ化した大瀧詠一ルーチンワークの果て?商業的観点から無限に求められる作業に彼が疲れ果てて休業するまでの彼の最後の戦い?ロンバケ的な才能を搾り取るだけ搾り取って何とか結晶化した最後の作品?どうにも、この後に作家・大瀧詠一の長い沈黙が待つという歴史的な事実に引き摺られてか、ひたすらこの作品に対する、殺風景な印象が拭えなくて、そして上記の通りジャケットの印象がそれにとどめを刺す。最近ではロンバケメソッドの自家中毒の果ての虚無感・退廃感を相変わらず豊かなポップス群に密かに忍ばせた、ある意味ではスロウコア的な情緒さえ感じられる作品」と思うことさえある。自分で書いときながらマジかよアホかと思うけど。

 何故だか、今作は1枚のアルバムというよりもむしろ、”大瀧詠一ヒットシングル集”みたいな印象を受ける。実際はリアルタイムで本作がリリースされたときは先行シングルは1枚も無かったにも関わらず。ロンバケは1枚でひとつの世界を作ってると存分に感じられるのに、不思議とこちらではそういうのをあまり感じたことがない。単に自分がはじめから『Bachelor Girl』『フィヨルドの少女』という当時未収録だったものが追加収録されたバージョンを当たり前のように聴いているからそう思うだけかもしれない。この2曲がキャッチーさでは他より頭ひとつ抜けてると思うし、これらを除いたオリジナルバージョンの曲目と曲順なら「ロンバケと共通するリゾートでバブリーな雰囲気を纏った、ちょっと地味な楽曲で一貫した作品」と捉えられたのかもしれない。

 でもやっぱり『君は天然色』『恋するカレン』『さらばシベリア鉄道』の入ってないロンバケ、と考えてしまうと、いささか地味な印象になってしまうのも仕方ないかもしれない。風が止んで、空気が停滞感で静かに密かに澱んでしまってるような、そんな感じをオリジナルバージョンの楽曲から感じてしまう。『ペパーミント・ブルー』の空中から眺めるようなリゾート感は確かに『カナリア諸島にて』を更新しているのに、なのにどうして「いつまでもここにいていいの…?」的な焦燥感を覚えるんだろう。思うにロンバケの永遠感は1回きりしか出してはいけない類のもので、それをもう一度出そうとしているこの作品自体が不自然に感じられてしまうのか。作者のエゴが殆ど感じられない作品集の第2弾、というのもどこかしんどさがあるかもしれない。

 自分の今作のズバ抜けて好きな部分が『Bachelor Girl』と『フィヨルドの少女』の2曲に本当に集約されてしまうことに笑ってしまう。『Bachelor Girl』はいきなりサビから入るテンションの高さや、そこからタイトルコールの温度差、頭打ちのビートを多用した高揚感などの要素が、どれもが絶妙に「ちょっとだけ乱暴」な感じがして、そこがとても好きで、ロンバケ期の楽曲ではこれが1番好き。歌詞も気取り切った風ではあるけどお前ただ単にフラれただけやろ、っていう感じが滑稽でもあり可愛らしくもあり。『フィヨルドの少女』は前作の『さらばシベリア鉄道』と同じく、温暖そうなリゾートから飛び出して全然違う寒々しい世界を彷徨う冒険感があり、かつそこにメジャー調で流麗で、かつ、サビがはっきりしないことでかえって感傷の感じがより強まった作用を起こすメロディが秀逸で、後年の追加収録とはいえ、元々今作にあったかもしれない停滞感・虚無感をアルバムの最後の位置から爽やかに晴らしてしまう。そして、この2曲の突破感を踏まえて聴くと、他の楽曲に宿る(ような気がする)停滞感も、どこか安心できる、もっとエンターテイメントな演出のように感じられる(ような気がする)。

 このアルバムに関するぼくのこの文章は失敗だと思う。ここまで書くほど嫌いな作品でも苦手な作品でもない、もっと好きな作品なはずなのに、なんでこんなに不安な文章になってしまったんだろう。この感覚にもっと踏み込むならば、ぼくはきっとこの作品を聴いてて覚える「本当に何も無い感じ」に、いつも聴いてるスロウコア作品とかから感じる類の「何も無い感じ」よりも遥かに大きな不安を感じてるんだと思う。リゾートの光景、男女の想い、ノスタルジー…そういった、幸福そうにも思える光景なのに、どうしてここには「何も無い」んだろう、ロンバケ以上に「何も無い」ように思えてしまう…といった思い込みが、この文章をひどくこわばらせている。

 やはりこの作品も、時系列とか予備知識とかそういった「余計なもの」から解き放たれた聴き方を、そういう聴き手を待っている作品なのかもしれない。自由な発想でこのアルバムを遥かに羽ばたかせることができる聴き手とこの作品が出会えることを、そうなれなかった自分はひとまず祈っておくことにする。

www.youtube.com『Bachelor Girl』は大瀧詠一バージョンを先に録音したのに、タイトルが文法的に合ってるか疑問が生じ当初アルバム収録が見送られ、疑問が解消した後に稲垣潤一のバージョンが本家より先にリリースされる、という不思議な経緯を持っている。これは稲垣潤一バージョン。楽曲自体どこかサッパリしてるなとこっちのバージョン聴いても思う。

 

 ここから大量に追記。記事の後に調べて分かったけど、このアルバムちょっと混沌としまくってるな…。

 

・歌詞について

 まず、上記の文章で散々言及した「痛々しく感じられる停滞感」はもしかしたらまさにその感じこそを表現しようとしていたのかもしれない、ということ。これは特に今作のスローテンポ気味の楽曲でとりわけ分かりやすいけど、前作からすでに多かった男女の別れの光景でも、今作は実に気まずさが渦巻いたものが複数ある。『木の葉のスケッチ』では、別れた女性と偶然駅のホームで再開し、ひたすら気まずさを感じ続けて、最後は引き止めてごめんと謝る男の姿が、実に穏やかながら寒々しいメロディの中で描写される。『ガラス壜の中の船』はさらに凄まじく、別れを告げて車で送ってあげるはずだったのが、車が故障してしまって立ち往生し、別れの瞬間が先延ばしになったままひたすら気まずい時間を過ごし続ける、という、甘ったるげなメロディに反するゾッとするような光景を描いている*25。そして『レイクサイド ストーリー』ではクリスマスソングみたいなサウンドの裏で、男女の典型的な三角関係を、友人に想い人を持っていかれる、スケートが苦手な程度の運動神経の男の打ちのめされっぷりを描く。最後の1行で幸せそうな光景ももしかしてこの男の妄想なのか…と思わせる辺り徹底している。

 とりわけこの3曲における松本隆の筆致は冷酷に冴え渡っていて、甘いノスタルジーではなく現実の非常に気まずくて滅入りそうな物語を的確に紡いでいて、所々のキザに詩的な文句も吹き飛ぶようなその居た堪れない光景には、彼の詩業でもとりわけ伶俐で冷酷な手腕が発揮されている*26。この辺りはロンバケ的なバカンス&ノスタルジーな雰囲気とはまるで異なっていて、本作を安易な『ロンバケ2』にしないよう、地味ながら少し壮絶なチャレンジだったのかもしれない、と思い直した*27。今作を”ノアール”と評する人が多くいるのはそういうことか、と納得したし、そういう方向から自分が今作に感じた行き詰まり感・ある意味ではスロウコア的な終わりの感覚というのも、はるかに的外れではないのかも、と思った。

 歌詞についてはもう1曲、『1969年のドラッグレース*28も興味深い。1969年という数字は、この歌詞がかつてのはっぴいえんどの3人、つまり大瀧、細野、松本の3人でその頃にドライブ旅行をしたことをモチーフにして描かれているという。そんな昔と今のこととを、男女関係のノスタルジーでカモフラージュしながらも、しかしそういう背景を知ると割とカモフラージュできていない感じがして、松本隆の歌詞らしくない、どこか彼個人の本音を垣間見る思いがする*29

 今作制作中に大瀧と松本の両名の関係性は変化し、緊張関係が生じ、製作に影響が出たりもしたと言われる。その緊張関係が、上記のようなヒリヒリした情景や妙に個人的な感傷を生んでいた、というのは、意外にもエモい話だと思った。

 

・曲順について

 今作に対する評価が非常に不思議で不安定なものに感じるのは、本作が再発のたびに曲順が変わったり、曲が追加、場合によっては削除されたりすることがとても大きいだろう。というか、こんなに同じアルバムで何度も収録曲も曲順も変わり続ける作品は本当に稀だろう。本作最大の混沌要素である。何考えてるんだ大瀧詠一…。

 このアルバムには再発等で以下のバージョンがあり、それぞれ全部曲順が違う。

 

 ・1984年初出バージョン*30

 ・1986年『Complete EACH TIME』*31

 ・1989年版*32

 ・20th Anniversary Edition*33

 ・30th Anniversary Edition*34

 

 とりわけこの混沌に一番巻き込まれてる曲が『魔法の瞳』で、1984年時点ではこのアルバムの映えある先頭の曲だったのに、1986年版では早速『夏のペーパーバック』に先頭を奪われ*35、そして1989年版ではあろうことか存在自体抹消された。マジで何故なんだ…冒頭曲だった曲を消すか普通…?その後の曲順変更でもこの曲は必ず場所が変わり、大瀧詠一はいい加減この曲をなんだと思ってるんだ、と笑えてくる*36

 元冒頭曲等の削除も含めて、1989年版の異様さはこの中でも際立っている。大体の版が冒頭曲は『夏のペーパーバック』になっているのに、これだけなぜか『1969年のドラッグレース』から始まるという番狂わせ。他の曲順も他の版とあまりに違いすぎて、混沌の極みに達している*37

 何故ここまで、同じ作品の曲順を執拗に弄り続けたんだろう。『君は天然色』で始まり『さらばシベリア鉄道』で終わる、というロンバケの曲順の鉄壁さに比べて、このアルバムの曲順はなんでこうも脆く儚い扱いをされるのか。彼の中で今作は、ひたすら終わりの見えない”終わりの作品”だったということなのか。途中からはネタでやってないか…?という気さえするけども、流石に死の直前に完成した30周年版でさらに曲順変更をしているのには謎の異様な執着を感じる。

 それでも、大体は『夏のペーパーバック』が冒頭に来てかつ『レイクサイドストーリー』が末尾もしくはラス前に来る、という大まかな傾向がある。特に『レイクサイドストーリー』は今作でも重要な作品だったらしく、この曲については1984年版のみに付された「1度フェードアウトした後また演奏が戻ってきて完奏する」という、俗に”大エンディング”バージョンというものまで存在し、しかもこれが上記のバリエーションの本当に1984年版にしか入っておらず他は全てフェードアウトでそのまま終わる、となっていることから、余計にファンを混乱させ錯乱させ再発のたびに落胆させ続けてきた*38*39。もう何が何だかわかんねえ。

 

 ということで、もしかしたら音楽本編よりもこういった非常に混沌としたエピソード群の方が面白いんじゃないか、とさえ思ったけど、この混沌の根本には、やはり大瀧詠一の中の、表ではツヤ消しなポップスを装っていながらも、裏で誰にも理解できないほどの謎な形状の情念が延々と渦巻いていたのだろう。そう思うと、本作に抱いていた虚無感もその意味を大きく変えてくる。本当は『フィヨルドの少女』で爽やかに終わるよりも『レイクサイドストーリー』の何もめでたくない歌なのに演奏だけ華やかな具合の方が趣深いのかもしれない、とさえ思ったりもしてきたけど、でも今のところ最終版である30周年版でも末尾は『フィヨルドの少女』になっている。

 なんなら、これをずっと聴いてた人も、もしくはこれから聴き始める人も、大瀧詠一の気持ちになって、あるいはおれの方がうまくやれるぜ!的な気持ちで『ぼくのかんがえたさいきょうのいーちたいむ』を作ってみるのもいいと思った。最早定説の曲順なんかないんだから。ぼくも以下の曲順を考えてみたけども、どうでしょうね。

 

A-Side

1. フィヨルドの少女

2. 木の葉のスケッチ

3. 恋のナックルボール(1st recording version)

4. ペパーミント・ブルー

5. 魔法の瞳

6. Bachelor Girl

 

B-Side

1. 1969年のドラッグレース

2. 夏のペーパーバック

3. ガラス瓶の中の船

4. Tシャツに口紅*40

5. レイクサイドストーリー

 

 少なくとも、こんなリストを作れるくらいには『EACH TIME』を楽しめるようになってきててとても嬉しい。

(2021年3月21日追加)早速サブスクでこの曲順を作ってみました。『フィヨルドの少女』先頭とかいうファンから石投げられそうな曲順に自らグッときてます。

 

(2021年3月21日追記)

 これも当然サブスク解禁されました。曲順は30周年エディション準拠のようです*41。こちらはシングルボックスまで含めての解禁で、さらに『Singles & More』には『ペパーミント・ブルー』のプロモーション用バージョンとかいう冒頭にストリングスが入るやつまで入ってて、一番恵まれてるかも。しかし『レイクサイド ストーリー』大エンディングバージョンはどうやらなさそうです。

 また、同時期やそれ以降の提供曲を纏めた『DEBUT AGAIN』もサブスク解禁されていて、この時期中心のプレイリストを作る際には絶好のレパートリーが集まってる感じですね。

 

 

(2021年3月21日追記)

 他のサブスク解禁状況も記しておきます。

 まず、解禁されなかったものでもうひとつ痛いな…と思ったのが『Best Always』で、おそらくファーストやはっぴいえんどの曲を含んでいるせいでしょうけど、これによってバンドサウンドの入った『夢で逢えたら』が今回解禁されませんでした…ちょっと無理矢理でもいいから『Singles & More』に入れようよ…と思いました。

 あと、90年代以降のシングル2枚と、この2枚を中心に無理矢理拵えた感じのある2020年の”オリジナルアルバム”『Happy Ending』がサブスクに上がっています。

 

・・・・・・・・・・・・・・・

終わりに

 以上、7枚について見ていきました。

 彼の作品はどうしても、1970年代と1980年代とで断絶が非常に大きくて、それぞれがまるで全然別のアーティストのように感じられて、こうやって一度に全部見ようとするとやっぱりどこかの視点が歪み切ってしまうな…ということを書き終わって思いました。大瀧詠一個人がこれでもかと露出してくる1970年代の作品群と、大瀧詠一個人の姿がかき消えてひたすら音と情景だけになっていく1980年代のそれとでは、二つはあまりに正反対すぎて、かつ、売り上げ的にも徹底的に対照的であることが、2つの年代を跨いだフラットな評価というのを徹底的に困難にしていると感じます。ぼくはいささか1970年代側を判官贔屓しすぎたでしょうか。

 思うのは、ハンディメイド時代の感覚はかなりインディーロック的で、やってること自体がなんだかとても楽しげで健康的で、でもそれだと全然売れなくて、全く逆に、プロフェッショナルでレディメイドな音楽性に転じたら記録的なヒットを成し遂げた、というその事実自体に、自分は何らかのグロテスクな感じを、衝撃を、ずっと受け続けているのかなあ、ということ。インディーロック贔屓の筆者なので、ロンバケ以降の整然としてソフィスティケーテッドで、しかしだからこその美しく整った”荒涼感”、それこそがマスに訴えかけうる、マスが必要としているものである、ということに、まるで耐えられないのかもしれないな、と、なんだか書いてて惨めになるような感想を抱きました。なんでロンバケとイーチタイムの2枚のレビュー書くだけでこんな思いしてるんだ俺は…とバカバカしくも思うんですが、今日のところは、そういう気持ちを拭うことができませんでした。でも、曲単位で好きな曲は本当に大好きなんですよ。『スピーチ・バルーン』みたいな繊細さ・ノスタルジーのあり方にはちょっと邪悪ささえ感じてしまうけど。

 最初の方の注意書きで書いたとおり、今からサブスク解禁で全く初めて大瀧詠一を聴いていく人に、この文章は読んで欲しくありません。読んでしまった方がいたらなば、そしてそれによって気を悪くしてしまった方、余計な先入観を植え付けてしまった方がいたとすれば、それは非常に申し訳の無いことです。

 だけど、こうやって自分の大瀧詠一に対する様々な認識を言葉にすることができたのは、非常にスッキリしたし、書いていってさらに認識が深まっていく思いがしました。この文章は自分がより大瀧詠一の音楽を楽しむめるようになるべく書いたんだな、とおいう気がします。そう思うと、1970年代的なバンドサウンドの楽しさで持ってロンバケ以降の”完璧なポップス”を歌う大瀧詠一も見てみたかったな…といったことを、無いものねだりを思いついてしまったり。1990年代のリハビリセッションの音源*42を聴くと、そんな可能性ももしかしてあったのかな…なんてことを夢想してしまったり。

 ということで終わります。奇特にもこれを読んで面白がってくれた方、サブスクで一通り聴いてからこれ読んで興味深く思っていただけた方がいらっしゃったら、とても恐縮で光栄です。サブスク解禁、本当に楽しみです。

 

 加筆の方も、特に『EACH TIME』の箇所の大量加筆をして終わります。

 これはTwitter上でとある方が言ってた話ですが、「(おそらくこの記事も含む)そういった他の誰かのものよりも遥かに優秀な全作品の批評を大瀧詠一本人がとっくに書いている」ということで、確かに彼の非常に饒舌でかつ詳細な自作品に対する語りはそのまま作品分析に直結する、というか分析がそれでもう完結してしまうレベルのもので、それ以上何を他人が付け足せるだろう、とその方はおっしゃっています。

 なので、このように私が書いてきたものも、それに比べれば限りなく無価値なものであることにはおそらく違いなく、この指摘を受けて*43ひどく酷く狼狽し反省し、この記事を消してしまうかもしくはこのブログごと消してしまうかまで迷い倒しましたが、こうしてぬけぬけと大瀧詠一氏のスタンスさえ悪用して記事を生きながらえさせことにしました。後年の人間はこういうことができてしまうのがズルいな、と自嘲してしまうところではあります。ご本人が亡くなっているから尚のこと。

 それでも、この記事を書くことで自分の大瀧詠一作品に対する認識が、それが印象論レベルの程度の低いものであろうと、ひとまずは整理できたことは、単純に楽しかったなと思いました。この文章を読んで、浅い理解だと不快感を覚える方々もいらっしゃるかとは思いますが、もし少しでも興味深く受け取っていただける部分があれば、その時点で自己満足以上の価値がこの記事に生まれたことになりますので、とてもとても嬉しいです。

 

 追記の本文中に書きましたが、次の弊ブログ記事は『NIAGARA CALENDAR』の全曲レビューを予定しています。できればサブスク解禁するより前に公開して、少しでもあの作品を面白がってくれそうな人にあの作品が届けば、と、書かないうちから願ってしまっているところです。

*1:2021年3月18日追記:2020年に音楽家50周年記念の”オリジナルアルバム”として『Happy Ending』というアルバムがリリースされていましたが、中身を聴いた感じこれは流石にオリジナル扱いは厳しいな…と思われたので除外します。

*2:2021年3月17日追記:ペパーミント・ブルーってこんな色でしょうかね。

*3:もっともこのブログに”批評”があったことなどかつてあったか…?という気はします。

*4:対して『HOSONO HOUSE』はよりどっぷりとカントリーロックのいなたい心地よさを追求しきってる感じがある。

*5:なおこのジャケットはかなり後の彼のシングル『幸せな結末』でセルフパロディとしてそのまま使いまわされる。

*6:歌詞の全てがElvisの楽曲の邦題で出来ているという、大瀧詠一のアホなことに全力を注ぐスタンスが最初に爆発したのがこの曲だと思う。こういうデッドな録音をしたり、コーラスに実はムーンライダーズ鈴木慶一が参加してたり、後に『LET'S ONDO AGAIN』で西田敏行ボーカル(!)で『烏賊酢是!此乃鯉 』として再録したり、彼のアホアホロックンローラーとしての側面を語る際には外せない曲のひとつ。

*7:こう言っときながら自分もはっぴいえんど感の強い『HOSONO HOUSE』を作ってしまうところが憎めなくて好きだ。

*8:タイトル曲はこの貴重な例外。

*9:特に●●周年エディション等で聴けるボーナストラックの歌なしテイクは、このような凄腕のメンツがスタジオで実際に言葉を交わしながら楽器を1発録りで交わし合う熱そのものが繰り広げられ、普遍的な大瀧詠一作品の楽しみ方とは全く異なった楽しみ方ができる。演奏の合間の会話が多く収録されているのはまさにそうした光景こそを共有したいという意思の現れだろう。

*10:レコードであればこの2曲の間にA面B面の変わり目が入るので、続けて聴けるのはCD以降世代の嬉しいところ。

*11:クレジットに出てくる”笛吹銅次”は大瀧詠一の様々な変名の一つ。エンジニアとしての役目を一貫して務めている。

*12:最も、このアルバムのサウンドロンバケ的方面に寄せる必要性が全くない、ということもあるけれど。

*13:2021年3月17日追記:しかしこれは当時個人所有するのは困難であっただろう16トラックレコーダーの提供ということで、これにより彼は自分の家で設備的には無限に録音をすることができる環境が整ったわけで、いわば1970年代にすでにDTM環境(アナログDTM?)を整えることができた、と考えると、契約条件の厳しさがあっても全然お得だ、となり、契約を結んだときの彼の興奮っぷりが覗くようでもあるなあ、と思う。

*14:ちなみに、この過酷な契約を彼は様々な音源の連発で、どうにかあと1枚のところまで達成している。残り1枚はレコード会社側から大瀧詠一も「歌手本人である山下達郎も」関与していない山下達郎のコンピでお茶を濁して達成した。

*15:この場合それは下の『NIAGARA CALENDAR』ではなく『NIAGARA CM Special Vol.1』のこと。いよいよリリースできる楽曲に窮して、それまで作ったCMソング集をリリースしたもの。

*16:2021年3月17日追記:ただし、1977年録音のバージョンは正直ミックスがかなりデッドで、音の壁具合もあんまりで、それなり、といった感じ。この曲が本当に最高な音響・世界観を有するようになるのは1981年の本人によるリミックス以降だと思う。

*17:サザンオールスターズを意識しつつも、全然売れず契約を切られた自身を軽妙かつ深刻に自虐するアーティスト名義。

*18:なのに後半で尺の長いこの歌に対して「長い歌だねえ」と語りが入ったりする辺りのバランス感覚が、ギャグだとしてもこれはこれでなんか物凄い。

*19:逆に、彼はここまでふざけ倒した形じゃないとソウルミュージックを演奏するのが気恥ずかしかったのかもしれない。ここまでソウルし倒している場面は彼のキャリアでも他に無い。

*20:今作のサウンドの重要なところは、多くの楽曲で本家ウォール・オブ・サウンドと同じように、ダビングの積み重ねではなく多くの楽器が並んだ”一発録り”でこの分厚いサウンドを出現させていること。

*21:この曲の歌詞でもちょっと感じるけど、松本隆の歌詞は時折女性に対する目線が実にナチュラルに軽蔑的になるのが、悪い意味でとても気になる。前にもどこかで書いた気がするけど、それが一番感じられるのは『木綿のハンカチーフ』。彼の歌詞の「僕の思いでも誰の思いでもなく、みんな思うようなことですよね」的な一般性・透明性で男女の存在のあり方の非対称さが歌われるとき、どうにも嫌な気分になる。もしかしたら上で長々と書いたロンバケに対する悪感情も、単に松本隆の歌詞に由来する何かなのかもしれない。

*22:「ダサい…」って感じるかいいエグみに思えるかは人次第だと思う。カラオケで歌うと気持ちいい類のエグみなんすよ。

*23:実際それによって『NIAGARA CALENDAR』の一部楽曲はロンバケ以降とそこまで遜色ないサウンドに変化できているので、その試みは結構に成功している。

*24:2021年3月17日追記:この風景画はロサンゼルスのハリウッド・ブルーバードという、有名な大通りをイラストにしたものとのこと。この通りにはアカデミー賞の授賞式が行われるドルビーシアターをはじめ、アメリカの大衆文化における聖地のような場所が多数存在している。そう思うとゴージャスな光景に見えてくるか、とも思ったけど、でもやっぱりどこか殺風景に感じられる感覚は変わらなかった。タイトルのかなりそっけないフォントや、また本編の内容のノアール具合がそう思わせるのかもしれない。

*25:ぼくは工具とあきらめを手にしてる」という一節は、上手いこと言ったつもりかハハハ、と笑った後、その残念すぎる状況に居た堪れなくなる。

*26:でも『銀色のジェット』の「木綿のハンカチーフpart2」みたいな感じはいただけない。男性側のナルシスティックな自己憐憫、という感じ。

*27:ロンバケ2っぽさは、多くのバージョンで冒頭に来るのがロンバケの続き感全開な『夏のペーパーバック』なのが悪いと思います。『ペパーミント・ブルー』も夏っぽさ全開だし。意外と冬の曲が多いんだなこの作品。

*28:そもそもこの曲は曲自体今作では例外的に実にアグレッシブで、Bo Diddleyなビートに鈴木茂の太いファズギターが勢いよく乗り、そしてサビの箇所の不思議な声の重ね方とメロディ展開のスタイリッシュなサイケさは実験的で、そういえば大瀧詠一はロック出自の人だったなと思い返される。

*29:意味ない事を喋ってる時の/ぼくが一番好きだわって言ったね」のラインは、1970年代作品みたくナンセンスでぶっ壊れたユーモアを喋り倒す大瀧詠一の1969年当時の姿が想像されてしまう。

*30:1991年のCD選書もこれと同じ曲順

*31:当初含まれずに後年シングルカットされた『フィヨルドの少女』『Bachelor Girl』を収録したもの。

*32:シングル2曲を収録し、そして何故か『魔法の瞳』『ガラス瓶の中の船』を削除したもの。

*33:1986年版から一部曲順変更+ボートラ。

*34:20周年版からさらに曲順変更。

*35:2曲目が『Bachelor Girl』で、2曲連続でいきなり歌から始まるようにするのを避けたかったのかもしれない。

*36:本作でもとりわけ罪のないポップさを振りまく可愛らしい曲なのに。妙に尺が長い気もするけど。

*37:『レイクサイドストーリー』だけ初出と同じく末尾、というのは少しエモい。

*38:死後のベスト盤と同時期にリリスされたボックスセット『NIAGARA CD BOOK II』にようやくこの「大エンディングバージョン」が収録されたけど、このバージョン入手にはボックスセットの購入が必要、とかいう酷すぎる仕様に、爆笑を禁じ得ない。サブスクでこのバージョンの解禁なるか一部の層は気にしてるのかも。

*39:さらにややこしいことに、30周年版のインストの方では「一旦フェードアウトも無しに完奏」するバージョンになっている。インストじゃない方はいつものフェードアウトで、これは本当にひどい。ファンを弄びすぎで邪悪では…?

*40:これだけ『DEBUT AGAIN』から拝借

*41:結局『魔法の瞳』は4曲目くらい、というのが大瀧先生の最終回答だった、ということか。。リアルタイム未収録の2曲も含みます。

*42:『DEBUT AGAIN』のボーナスディスクとして封入。

*43:正確には「すでにある完璧な批評に対して完全な印象論で踏み込むのは手ではあるけど、そう感じる主体の立場はどういう時代の、どういったものに基づき形成されたものか、に対する省察が足りない文章は読みに耐えない」と一刀両断されたことに対して