ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

楽曲から見る「東京」(20曲)

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 この記事を書くのを考えてる最中に東京周辺で震度5強地震が発生しました。被害に遭われた方が普段の暮らしに少しでも早く戻れることを祈っております。

 

 東京。日本の首都であり世界規模で見ても有数の超巨大都市であるこの存在については、東京に住んでいない多くの日本人も様々な形で無視することのできないものであり、少なからず色々な思いを抱かざるを得ない存在であり、ましてやカルチャーを少なからず追っている身としては、そこには憧れも憎しみも様々に入り混じった思いがあるものです。

 筆者は東京に住んだことは無いので*1、これはそういう者からの記事です。巨大であるが故にカルチャーが集まり、カルチャーが集まるが故に巨大になっていく、という存在である東京は、巨大メディアが集中していることもあって、日本においてどうしようもなく文化の中心になってしまう土地です。地方民としては、東京に対し様々な感情を、都民からすれば「ルサンチマン」の一言で切られてしまいかねないような感情を有しています*2が、今回はそこはそれとして、世の中に様々に存在する「東京」が出てくる楽曲について、20曲ほど集めたので、それらの楽曲の隙間から浮かび上がってくる「東京」がどんなものか、思いを馳せることとしてみます。

 

 

「東京」について

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 曲の方を純粋に見ていきたい人はこの項目は飛ばしてください。長い割にあまり面白くないです。

 このブログを読んでる人の何割が東京住みの人だろう、と思うとこの項目は必要ないかもしれませんが、20曲それぞれの楽曲を見ていくより前に、今一度「東京」というものが持つ”属性”について整理しておこうと思います。そんな簡単に整理できるほど「東京」はちっぽけなものじゃねえよ、「東京」の巨大さ舐めんな、と言われればそれまでの文章群ですが…。あと、以下の多くの内容は別に東京以外の大都市にだって当てはまる部分も多々あるんですが。

 

「日本≒」としての「東京」

 日本の光景とはすなわち東京の光景だという印象は、日本の”光”的な面を見るときにとりわけ出てくる視点だと思います。経済大国としての日本、文化の成熟した国としての日本という考え方に合致する光景は、どうしても東京のそれになりがちだろうと思います。

 そしてそういう視点があるからこそ、その光景を意地・発展させるために、より多くの投資が政府や企業から東京に対して集中的になされていく。その循環構造が、東京の飛び抜けた発展をひたすら強化していくのでしょう。

 

「日本の首位都市」としての「東京」

 東京が日本で一番大きな街であることは、本来は別にイコール「東京が一番偉い」ということを意味しないはずですが、この国で生きていると、様々なところからそういう意識が育てられていく気がします。何にしても東京こそが一番なんだと。

 本社機能が東京に集中して、地方の支社から見た上位存在としての「東京」像が生まれたりといったことも大きいのだろうと思いますが、もっと細かい部分で見ても、たとえば、電車の「のぼり」「くだり」がそれぞれ「東京にのぼっていく」「東京からくだっていく」という構造になっていることなんかは、そういう意識の醸成に役立っていると思います。どんなに「ただ便宜的にそう言ってるだけで、そんな意味はもう存在しないよ」などと言われても、そういうところから自然と、東京と地方との”上下関係”が意識づけられていくものだと思われます。「上京」という言葉もまた、東京に”のぼる”というところから来てるわけですし。この辺は参勤交代で「江戸にのぼる」制度を作った江戸幕府以来のものなんでしょうか。

 あと、メディア関係の大手企業が集中していることも、文化面における東京の上位性を大いに高めているんだろうな、と思います。テレビも新聞も雑誌も、権威あるものはほぼ全て東京にあります。これらは様々な賞を実施することでまた、それぞれの権威を高めていきます。個人的には、本気で文化面での地方分権を進めていくには、この点を変えていくことが必要になるだろうな、と考えます。

 

「出稼ぎ先・移住先」としての「東京」

 経済的繁栄の循環構造により、東京にはものすごい数の雇用が生まれます。または、職種によってはそもそも東京にしかオフィスがない、といったこともあります。それらを求めて多くの人が東京に集まってきます。昔は出稼ぎ感覚もあったのかもしれませんが、今は移住する人の方が多いのだろうと思います。

 東京の巨大な人口は、地元民よりもむしろこの移住してきた、流入してきた人たちによって支えられていると言えますが、これによって、東京は日本で最大の「様々な別々の場所にもともといた人たちが出会う場所」になっていきます。ここに東京の”ドラマチックな場所”としての機能が浮上してきます。特に、関東以北の人は大阪や名古屋に移住する傾向よりも東京の方が遥かに吸引力が高いだろうことから、西日本出身者と東日本出身者の出会う数は圧倒的に東京が大きいだろうことが予想されます。

 様々な場所から人がやってきて出会って暮らす、ということは、それぞれが元々持っていた地元の”クセ”みたいなのが次第に薄れていって、”フラットな”存在になっていく側面があります。土地の因習などから完全に切り離された、真に”属性の無い”存在になってこそ、何かしらの純粋な感情や表現が可能になるとも、各地方の”クセ”を楽しめるとも笑えるとも、言えてしまうのかもしれません。

 

「有力な都心の集合体」としての「東京」

 日本の他の大都市は中心的な都心を、持っていても2つくらいなのが普通です。大阪なら梅田と難波、名古屋なら栄と名駅、福岡なら天神と博多、みたいに。ここでいう”都心”とは、人々が仕事や娯楽のために集まる先であり、かつ文化の発信拠点でもあります。

 これについて、東京はこの”都心”を、相当な数持ってます。東京駅周辺だって、日本橋周辺と東京駅近辺と銀座・新橋とが存在するし、鉄道の一大ターミナルでもある新宿・渋谷・池袋はそれぞれ巨大な集客力・発信力を持つ。主要な都心としては、これらに六本木と上野と秋葉原を加えてもいいのかもしれません*3

 他に、情報発信力の高い地点は都内に多数存在します。原宿だったり恵比寿だったり代官山だったり下北沢だったり中野だったり高円寺だったりといったこれらは、よりサブカルチャー的なものに特化したような感じがあります。

 文化発信拠点が東京都内に溢れていることは、それだけ日本の文化発信の機構が東京に集中しまくっている証拠であり、それ自体がまた魅力となって人を呼び移住させる引力になっています。

 

「エンターテイメントの本場」としての「東京」

 文化発信拠点が無数にあり、有力メディアの殆どが集まり、それらに憧れる人たちが沢山やってくる東京という土地は、展示会やら講演会やらライブやら何やらと様々なイベントも無数に開催され、またそれらを求める客も多数存在することで経済が回るため、全国でもずば抜けてエンターテイメント産業が発達する土地となっています。客からすれば、少なくない時間と金を使ってわざわざ東京まで行かなくても、東京に住んでいれば手軽にそれらの様々なイベントに触れることができ、これがまた東京が人を吸い込んでいく引力の一部となります。

 エンターテイメント産業がきちんと収益を上げて運営できる、ということは、そこでは様々な先進的な取組もなされやすくなり、それもまた趣味人の多さによって収益がカバーされやすい構造となり持続が可能になりやすく、こうして文化の多様性がキープされ、育まれます。それを求めて東京に移住する人もまた多数現れてきます。

 地方においてインディペンデントな活動を続けていくことの難しさは、おそらくこの辺の”収益の厳しさ”が一番大きいのでは、と思ったりします。ファンベースのしっかりある収益的にも安定した日本のインディーバンドとなるとほぼ東京周辺の人たちばかりになってしまうのは、構造的に今のところむべなるかなと思ったりします。

 

「文化コミュニティが成立する場」としての「東京」

 上の内容とも被るのですが、東京は制作プロダクションの歴史があり、かつ商業的な環境も一際整備されていることから、”専業で食っていける”環境が日本で一番整った土地だと言えるでしょう。勿論、本当にそれだけで食っていけるほど稼げているのは本当に上澄みだけなんでしょうけども。

 作家や漫画家なんかは特に近年は比較的地方でも変わらない制作環境がしけるようになって地方在住でも可能になってきていると思いますし、アニメも地方にある有力な制作スタジオが複数ありますが、こと音楽については、ライブ(とそこでのグッズ販売)が大事な収益の柱であることから、東京とそれ以外とでは活動のしやすさが色々と変わってくるものと考えられます。そして、それだけで稼げるか否かに関わらず、そんなアーティストが多数割と近くに住んでいて、横の繋がりが出来ていったりして、そこから豊かな作品なりシーンなりが生まれていく、という環境があるかもしれません。東京は大きすぎてシーンが細分化している、とも聞きますが、でも細分化してもシーンが成り立つだけの人が製作者側も客側も存在するのは、東京の巨大さを感じざるを得ません。

 

「行き詰まり・孤独の名産地」としての「東京」

 多くの人が仕事だったり憧れだったりの理由で東京に移住するけども、皆が皆成功するわけでは当然ないわけで、むしろ多くの人たちが思っていたのと違う暮らしを送ったり、その末に毎日ぐったりするような行き詰まりを過ごしていると思われます。勿論そういう人は他の大都市にも多数いるわけですけど、とりわけ大きな夢を抱いて移住した人が多いであろう東京において何者にもなれず低い暮らしのまま埋もれていくとか、あれだけ沢山人がいる中で誰とも出会えなかったりとか、そういった願いとのギャップの大きさもまた、東京は大きくなりがちなのかもしれません。

 人の不幸についてこのようなことを言うのは良くないのでしょうが、このような行き詰まりや孤独の中にいる人たちの中から、何かしらの独創的に飛躍しきった文化が生まれることがあります。又は、そのような人たちが文化に救いを求めて、製作者を支えたりだとか。後者は、酷い言い方をすれば「不幸や弱者を食い物にしてる」という話にもなってしまうのかもしれません。じゃあそういう風になってしまう可能性のある制作を一切やめろと言うのか、という話でもありますが。

 

外国の側から見た「トーキョー」

 ジャンルによって様々に異なるところかと思いますが、こと音楽については、時代の変遷がありますが、特に海外のアーティストが日本各地でライブツアー出来てた時代には、日本でのライブがライブ盤として出されたり、日本について言及する歌が色々歌われたりしてましたが、東京に関する歌はそのうちのそこそこを占めているような気もします。まあ日本に来てわざわざ名古屋や札幌や福岡について歌うのはレアケースだろうな…とは確かに思います。

 トーキョーについての歌は、しかし結構なアーティストにおいてはどこかリップサービス的というか、シングル曲だとかアルバムの中心を担うような楽曲というのは少ないと思います。日本ではなくわざわざトーキョーを歌に出す、ということは、トーキョーを舞台にした物語を書くことになるわけで、欧米のアーティストからすれば、まるで習慣の違う異国を舞台に自国と同じようなストーリーテリングが出来るはずもないので、どこか無難なものになってしまうのは止むを得ないものと思います。

 

本編

 延々と堅苦しいつまらない話をしてきましたが、ようやく本編です。例によって、記事の最後に20曲分のプレイリストを掲載しています。

 

1940's〜1980's

 「は…?」と思われるぐらい年代の幅大きいですが、自分の集めた20曲だと楽曲が特定の年代に偏りすぎているので、こういう区分にしてしまうのもやむを得ない、という具合です。

 

1. 東京ブギウギ / 笠置シヅ子(1948年)

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 「文化の発信地・東京」としての存在感を戦後日本において大いに印象付ける一曲。作曲者の服部良一氏は元々は大阪で生まれ育ったけど、大阪でのいかがわしい作曲活動を強いられることに嫌気がさして東京に活動の場を移したことは、皮肉な感じがする。

 戦前からジャズやブルーズを取り入れた楽曲を世に送り出していた服部氏によってここでもブギウギというアメリカ音楽のテイストを当時の日本の劇団的な伴奏と歌に忍ばせて、そして歌では色恋とか日常とかをすっ飛ばして、純粋に音楽の楽しげな感じだけを言葉に綴って、そしてそれを”女性的な”しとやかさやら艶かしさやらよりもひたすらパワフルなスウィング感ばかりでドライブさせる笠置シヅ子氏の歌が強く印象付ける。それは政治とか軍部とか、もしくは性とか欲望とかを超越した、音楽の自由な輝きのみを抽出したような見事な「戦後の開放感」の象徴として、もしくは東洋的な”クセ”そのものな歌謡の世界が次第に欧米式の音楽と交わって華やかになっていくその輝かしい出発地点のひとつとして、当時から今に至るまで存在し続けてる*4

 

東京ブギウギ リズムうきうき 心ずきずき わくわく

世界の歌 楽しい歌 東京ブギウギ

 

 

2. 東京ラッシュ / 細野晴臣(1978年)

東京ラッシュ / 細野晴臣 & イエローマジックバンド (1978) - YouTube

 そういえば細野さんもまた、日本的な湿気の高い情緒とか歌謡の感じとかに足を取られずに軽やかに「音楽のみ」をやってきた感じの人物で、なので、「しがらみから解かれる街・東京」という側面を代表している人なのかもしれない。YMOの頃を中心に、しがらみは実際には色々とありまくっただろうけど。

 当時のトロピカルでエキゾチックな作風をとりわけフワフワした音で実践し、それをブルーズ形式の曲に乗せて飄々と展開させるこの曲にもまさにそんな細野さんの「心赴くままに気楽に面白可笑しいことをする」精神が伸び伸びと手足を伸ばしている。ジャンル発祥以来のブルーズの”陰鬱でしんどい”側面は大いにスポイルされ、細野的な音楽的快楽性のみを残した形に見事に換骨奪胎される。言葉なんか、以下で引用するのもバカバカしくなるくらい特に意味は持たず、ダルダルとしたまま軽快に歌い飛ばせることに特化していると言えそう。これはおそらく、日本的な湿気に満ちた歌謡曲がメジャーであることに対する当時のオルタナティブとして存在することができていたはず。まあそのため売れもしないんだけども。

 

モスコウから ダッカから ギューッ ギューッ ギュウ

管制塔は 年がら 年中 ギューッ ギューッ ギュウ

TOKYO RUSH ハチキレ 情報ラッシュ

TOKYO RUSH スパイは 諜報ラッシュ

TOKYO RUSH 逃げろ 香港まで すっ飛び

 

 

3. TECHNOPOLIS / Yellow Magic Orchestra(1979年)

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 細野さんというが連続してしまった感じがあるけど、作曲者は坂本龍一なので許してほしい。

 かつて「世界の最先端の都市」をほしいままにしていた頃の「TOKIO」の、その時代の先駆けを成すような楽曲。当時はおそらく「最新鋭の技術を結集して作られた、東洋の大都市の繁栄を現すようなテクノな楽曲」として、時間経過による熟成が進んだ現代では「アジアンな歌謡テイストを的確に抽出しながら硬質なテクノ風サウンドに転換した楽曲」として、その位相は変わりつつも評価され続けるであろう曲。

 この曲の東京要素であるボコーダーでの「トキオ」の呟きも坂本龍一によるもの。彼曰く、ピンク・レディーの楽曲群を分析・再構築して「単に売れる曲を書いてやろう」として作られたものらしい。YMO時代の坂本龍一は後のアンビエントの大家と比べて妙に世間的で下世話なところがあって、それがこの曲でとりわけキャッチーに響いている。東洋的なクサみに溢れた数々のフレーズの的確さは、その”俗”の分析の大いなる成果なんだろう。今となってはその前時代的なクサみこそが聴きどころのように感じられる。上記の時代的な技術水準がモロに出たPVなんかも、同じようなレトロフューチャー具合が醸し出されている。

 

T-E-C-H-N-O-P-O-L-I-S

Tokyo! Tokyo!

 

何気にチアガール的なアルファベット1文字ずつ読み上げの際の、「technopolis」という語が11文字という音楽的な具合の悪さと、それを強引にかつ機械的に解決してしまっている辺りが笑える。

 

4. 俺ら東京さ行ぐだ / 吉幾三1984年)

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 『TECHNOPOLIS』の次にこの曲が来てしまうの面白いな…。というかこれ1984年なんだな。

 言わずと知れた、歌謡曲界きっての怪曲であり、また日本語ラップの開祖となってしまっている楽曲。Wikipediaにおける以下の記載が面白い。佐野元春とこの曲が並ぶのは笑える。

 

同じ1984年発売で佐野元春の「COMPLICATION SHAKEDOWN」や、アルバム『VISITORS』とともに日本語ラップの元祖と言われる。

 

興味深いのは、この曲は純然たる吉幾三作詞・作曲の楽曲で、他の誰かのプロデュースではなく、吉幾三本人によってこうなった、ということ。同時代のアメリカのラップミュージックを本当に意識し、かつ歌謡曲的なクサみも交え、むしろそこにクールさと程遠い「田舎っぺ」フィーリングを積極的に注ぎ込み、「先進的な日本語ラップ」という印象を全く与えない程にとぼけ切ってしまっている。よく聴くとベースはスラップを効かせまくってグルーヴィーだし、ギターのクリーンなカッティングも当時(より少し前)のChic等からの影響を覗かせる。そんなトラックの上で堂々と「俺らこんな村嫌だ〜」と真逆のベクトルに振り切って歌ってみせるのは、すごく大胆でスリリングで、そしてそんなことを微塵も思わせない吉幾三の”カッペ”フィールは、自然でかつ清々しいほどのフリーキーさを放っている。言うて、ここまで流れるように”カッペ”の感じを振りまけるのは他にいないだろう。

 本当は、この曲を土台に「東京と田舎」の対比の話を色々とすることもできるんだろう*5けど、そんなことやってもしらけてしまうだけだろうなって、この曲をひたすら楽しく聴いてたら思えてしまう。

 

テレビも無ェ ラジオも無ェ 自動車もそれほど走ってねェ

ピアノも無ェ バーも無ェ 巡査毎日ぐーるぐる

朝起ぎで 牛連れで 二時間ちょっとの散歩道

電話も無ェ 瓦斯も無ェ バスは一日一度来る

 

俺らこんな村いやだ 俺らこんな村いやだ 東京へ出るだ

東京へ出だなら 銭コァ貯めで 東京でベコ飼うだ

 

 リアルタイムで2010年前後のニコニコ動画文化等をつまんできた筆者からすると、一時期の「IKZO」ブームはリアルタイムで体験できて良かった。凄く面白かった。なぜ合うんだ…って当時も今も不思議で笑う。

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今思えば、その後加山雄三などでも行われた歌謡曲マッシュアップの走りでもあった訳だし、この曲は未だに新しいマッシュアップが日々生まれている。なんなら、まさにこの2021年に大手ゲームメーカーのカプコンが、ビッグタイトルそのものなバイオハザードの新作で、吉幾三本人を呼んできて歌わせてしまったことが記憶に新しすぎる*6

 

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これ企画したカプコンの中の人絶対あの頃のニコニコ動画でゲラゲラ笑い倒してた人だよ…*7IKZOは永遠。ほんと末長く健やかに過ごしてほしい。

 

 

5. Tokyo Rose / Van Dyke Parks(1989年)

Tokyo Rose - YouTube

 和式におどろおどろしい不穏さと雅さの交差するイントロを経て、Harpers Bizarreの『Me, Japanese Boy』やトロピカル時代の細野晴臣のようなのんびりしたエキゾチカに辿り着く。かつてはっぴいえんどの3rdで細野晴臣と共演した彼による、すんなりと入ってくる穏やかなポップさと”それっぽさ”に満ちた雰囲気の中に、彼の批評眼を通じて当時の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」な雰囲気の東京がさらりと描かれる楽曲。同名のアルバムのタイトル曲となっている。

 「東京ローズ」というのは、第二次世界大戦時に日本発アメリカ向けの、アメリカ兵の戦意喪失を狙ったプロパガンダラジオ放送「ゼロ・アワー」における女性アナウンサーにアメリカ軍の兵士が付けたあだ名。こういうことから、楽曲の穏やかさに反してその内に秘められた物語が完全に牧歌的なものではないことが察せられる。果たして、アルバムは当時の日米貿易摩擦をテーマとした(!)作品で、『Trade War』なる直球なタイトルの曲も存在するし、ジャケットが欧米で反感の大きい日本の文化の筆頭である捕鯨をあえてフューチャーしていることなど、色々と刺々しい雰囲気が漂う。でもこの曲では、日本の六本木におけるナイトライフが、やや毒々しい要素を持ちながらも淡々と流れていく。

 

ぼくが東京ローズと呼ぶ その女の子は青い

東京はぼくらが夜にしたいことの その真実を知ってる

ぼくらは東京時間にいる

月が石灰になって 空がラベンダー醸造所になるような

 

正直この曲の英語歌詞を読んでて、これは韻を重視して意味はあまりないんじゃないかなあ、みたいに思える箇所は多々ある。けど後半ヴァースでテンポよく「pearl」と「harbor」という単語が並べられ、また歌詞終盤のマッカーサーがどうのこうのと歌われる流れを見て、この曲もまた、日米関係の何らかの平穏ならざるところについて暗に示しているところなんだろうな、という推察はつく。いかんせんアルバム全編の歌詞を読んだ訳でもなければ、読んだところで理解できるかも怪しいので、ここで下手なことは書かない。思考停止して穏やかな曲調に緩やかに身を任せてしまいたいのが正直な気持ちなのかもしれない。

 

1990's〜2000's

 バブルの狂騒とその崩壊を受けて、バブル時代の「ジャパン・アズ・ナンバーワン」を海外に撒き散らすことの恥知らず具合の反省も出てきたのか、1990年代に様々な分野で、今の日本の文化習慣と連続するようなものが生まれて整備されてきた感じがあります。それは、欧米的なさりげなくシャレた雰囲気を取り入れながらもすっかり日本文化に吸収してしまう機構の洗練というか。

 音楽でも、1980年代的な雰囲気がバンドブームの終焉でどことなく切れて、以降の日本的なツルッとした"J-POP"的なものが現れ出す時代。でも、近年海外でウケているらしい「シティポップ」は、むしろ"J-POP"になる前のレコード達なんだよなあ、というのが、色々と考える余地がありそうなところ。考えませんけど。

 2000年代は、選曲が終わって確認したら意外にも3曲しか選んでなかったので1990年代とくっつけてひとつの項目にしました。

 

6. 東京の空 / エレファントカシマシ(1994年)

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 デビュー以来のソニーをクビになる直前に彼らが掴んだ「質実剛健なままポップになること」の大いなる一歩だったアルバム『東京の空』のタイトル曲。長尺にして重厚にして壮絶な、かつそれまでのグチャグチャしたアマチュアリズムが取れて頑強に引き締まりまくった、彼らでも随一の大曲。

 スタジオ音源では13分弱あるこの曲は、今回のプレイリストの中で一際長いけれど、この曲の厳かな緊張感と、そこに潜むいかようにも捉えられる豊かに乾いた”無音”は、きっと退屈にはならないだろう。かねてよりLed Zeppelin式なグルーヴそのものなリフ主体のロックを目指してきた彼らのひとつの到達点でもあるこの曲の、リフの重厚さ、それに追随するリズム隊の強力さは、宮本単体ではなくバンドが充実したことを物語る。「宮本の歌とそれについて行くバンド」ではなく「ハードで逞しいバンドサウンドと宮本の歌が並び立つ」というスタイルの楽曲は、彼ら全史を眺めても正直多くない*8けれど、この曲ではタフでストイックなバンドサウンドのうねりに宮本の歌と思念、そしてゲストの故・近藤等則氏のトランペットが過不足なく乗った、高度に理想的なエレカシサウンドが形作られている。

 

俺には解るぜ最後のチャンスは ああ 100度も訪れた

解らない叶わない聞こえない届かない

望めない望めない頼りない

解らない叶わない心はここにもそこにも無い ああ… ああ…

ああ 街の空晴れて ああ 人の心晴れず

 

ここでの宮本もまた、自分の内の哲学をグダまくだけでなく、それを軸にした都市の何か暗く陰った空気を引き出そうと言葉を紡いでいる。その姿は、東京という自身の生まれ育って暮らしている街を慈しむかのような、そんな厳しい優しさが垣間見える。

 というか、初期の頃から江戸時代の古地図を持って散歩するのが好きで、歴史をつまんだりしながら”都市”というよりも”人が暮らしてきた土地”としての武蔵野の地に興味を捧げ続ける宮本浩次には、東京についての自分の出しうる蘊蓄を吐き出しまくった作品とか本とかを一度でいいから出してほしい。タモリの東京の坂道について書いた本とかそういうノリで、何か濃いものを見せてほしい、って思って、この曲を起点にこの記事を着想して書き始めたところ。

 

7. Edo River / カーネーション(1994年)

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 東京の地で重々しく空を眺めるような『東京の空』と、東京から少し離れたところに住み始めることを軽やかに歌うこの曲が同じ年に出てるのはなんだか面白い。こっちは渋谷系以降の流れで軽やかなグルーヴィーさが求められるシーンに合致して、幾らかスマッシュヒットしている。実験的で混沌とした名盤『天国と地獄』からの軽やかな転換具合は、2000年のアルバム『LOVE SCULPTURE』まで続くカラフルでカジュアルな5人組の始まりの合図だった。

 ラウンジでジャズな感じのピアノイントロに、小気味よく入ってくるボンゴとワウギターのリズム、うねるベースライン、心地よくスウィングするリズムと、ここまでは相当に洒落ているのに、ダウナー気味にラップ的に言葉を結ぶ直枝政太郎(当時)のボーカルが乗って、シャレてはいるけれどどことなく取り澄ましきれない具合の、絶妙なひねくれ感と親しみやすさが醸し出される。音楽自体は絶対にシャレたものなのに、渋谷ではなく、江戸川の千葉県側の河原でサンダル履いて踊ってるみたいな雰囲気がするのは、彼ららしい絶妙なシャイネスのあり方だろう。その気になれば渋谷形に合流できたのにあえて外す、外さざるをえない、彼らの誇らしいシャイネス。それはもう殆ど、歌詞で自分でそう説明しているかのようにさえ感じられる。

 

こうして頭の中身はゆっくりとけてく

やっぱりどこにも結果はみえやしない

もうちょい楽しい日常さがそうよ

 

ああ 東京から少しはなれたところにすみはじめて

ああ 東京から少しはなれたところにすみはじめて

ゴメン ゴメン ゴメン ゴメン

 

 

8. Tokyo Eye / Sonic Youth(1994年)

Sonic Youth - Tokyo Eye - YouTube

 Sonic Youthメジャーデビュー後の比較的売れ線狙い目な2枚を経て、グダグダに実験し倒したアルバム『Experimental Jet Set, Trash & No Star』の後ろの方にひっそりと存在する東京ソング。ダビングを極力廃した、全体的にローファイな録音とインディー回帰的なパンクだったりハードコアだったりな楽曲群の中で、中盤以降のギターのバースト具合をフックにしかし淡々と進行していく。Thurston Mooreボーカル曲。

 タイトルはBoredoms等で海外でも知られていた山塚アイに引っ掛けたもの。彼らの歌詞にどこまでいみらしい意味があるか不明だけども、しかしここでは山塚アイの出身地である「関西」の語も出てくるなど、微妙に気を使った形跡がある*9。日本のノイズミュージックの伝統に共振する彼らのリスペクト精神を最もカジュアルでテキトーな形で表出した産物なのかなと思われる。別に音楽スタイルをBoredomsに寄せてるとかそういう風ではないし。

 

トーキョーの眼 トーキョーはどこかで泣いている

内側を探してみて スーパーマンは何も見てない

7時から9時へ 運勢はこのマレーグマを取り巻いてる

夜の毛皮 関西女が出て行く

潤んだ瞳 大阪がきみのために泣く

光の中の船 水面の太陽の露に歌う

死へのチケット 星のゴミに乗るチケット

白に閉じ込められる 黒露の関西ガール

 

Sonic Youthの言葉遊びだけで作ったように感じられる歌詞をたまにこうやって訳すとなんか面白い。この曲について言えば、微妙にメロウな感じに思えてもくるのがなんだか可笑しい。

 

 

9. SEASON / Fishmans(1996年)

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 流石に30分越えの『LONG SEASON』でプレイリストを30分間埋めるのは気がひけるのでこちらの方で。佐藤伸治が不可逆的に覚醒してしまった『空中キャンプ』と宇宙に向けて無限の意識を拡散させてしまっていく『宇宙 日本 世田谷』の間にリリースされたこのシングル曲は、センチメンタルなフィールを増幅させながらも『空中キャンプ』で開いてしまった風穴をより深く眺めていくかのようなリフレインを少しばかり併せ持つ。でも、ポリドール期の彼らの曲の中ではまだポップソングとして全然聴ける機能性も備わっている。

 これを更にイメージの赴くままに30分に拡張した『LONG SEASON』は最早そういうフィールドとは異なる世界で鳴ってる感じがするけども、でも短いこちらの方では、終盤のリズムがフェードアウトしつつもギターとノイズが残る感じのもの寂しさや、割とクセ少なめに端正に流れていく歌など、この曲ならではの”儚さ”が存在している。もしかしたらこの曲程度の「程よい”儚さ”+程よくディープなダブ」な楽曲だけのアルバム、みたいなライトなやつを1枚残してほしかった、なんてヌルいことを考える自分のような人間が他にも幾らかいるかもしれない。この曲の歌詞にあるような永遠の幻想的な青春の東京の世界みたいなところに留まってぐるぐるしていたい気持ちがあるかもしれない。けれど、現実は『LONG SEASON』で『宇宙 日本 世田谷』で『ゆらめき IN THE AIR』でそして佐藤伸治の死なんだ、ということを思い出して、なんとも言えない覚醒の仕方をしてしまう。

 

夕暮れ時を二人で走っていく

風を呼んで 君を呼んで

東京の街のスミからスミまで 僕ら半分 夢の中

バックミラーから落っこちて行くのは

うれしいような さみしいような

風邪薬でやられちまったみたいな

そんな そんな 気分で

 

 

10. 東京 / くるり(1998年)

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 初期のくるりの、天然さと計算具合とが自然と釣り合った感じの”学生っぽさ”をとりわけ象徴する、彼らのメジャーデビュー曲。「東京に移住してきた人間の不慣れ具合と故郷の懐かしさ」の物語を非常にあどけなさげに書き出して、『Creep』譲りのオンオフの付いた激情オルタナティブロックに乗せたこの曲を、インディーズの頃からあったにせよ自身のメジャーデビュー曲に据える、その岸田繁の計算高さと、その計算を無視して噴き出してくるかのような感情の溢れっぷりとの拮抗具合が、この曲のアンバランスさをとてもかけがえのないものにしている。

 「地方から東京に出てきて不器用に暮らす人間のセンチメンタル」を激しいギターロックに乗せる、というフォーマットは他にいくらでもありそうな気がするけど、この曲の完成度がいきなり高すぎて、これ以上のものを聴いたことがない。この時の岸田繁の一聴して「歌が上手」となりづらいであろう不器用そうな歌唱は、その感情に振り回されたスタイルが実に曲の雰囲気に対して正解すぎて、みんな”無垢で鬱屈して不器用な学生”としてこんな風に歌ってギターを掻き毟れれば、と憧れた。はじめから込み入ったコード進行マニアでもある岸田繁の成分も間奏で少し顔を覗かせ、そして”垢抜けない学生の感じ”を特に終盤のパーパーコーラスで表現しきる。何もかも的確で、そして計算よりも自然に出てきたもののように感じられる。

 

東京の街に出てきました

あい変わらずわけの解らない事言ってます

恥ずかしい事ないように見えますか

駅でたまに昔の君が懐かしくなります

 

余談だけど、この曲が東京への移住直後の歌として、そこからしばらく住み慣れた後の鬱屈の積み重ねの表現としての『青い空』の存在感もまた、完璧だと思う。まるでこの『東京』に対するアンサーソングのように感じられる。

 

 

11. 丸の内サディスティック / 椎名林檎(1999年)

 ちゃんと歌詞に「東京」が出てくるからリストに入れた。多分この曲の「東京」は東京駅のことだろうけど。

 シングル曲ではないけど、間違いなく椎名林檎の全楽曲で最も沢山の人にコピーなりカバーなりされ続けてきた楽曲。東京か地方かに関係なく、その辺の大学の学祭に行けばひょっとしたら複数回くらい聴けるかもしれないくらいに学生バンドからやたらとカバーされている。この曲の何がそれほど学生を惹きつけるんだろう。ジャジーながらどこか昭和歌謡の雰囲気も僅かに感じさせる匙加減が、大学生になって視界が開けた女の子にとってすごく魅力的な世界に見えるんだろうか*10。日本人のDNAに所謂”王道進行”とともに深く刻み込まれた”Just The Two of Us進行”のコード進行をなぞったこの曲が何かを覚醒させるのか。キレッキレにエグみのあるクセをつけて歌う椎名林檎のスタイルに格好良さを感じるのか。

 椎名林檎は、この曲の入った1stアルバム『無罪モラトリアム』において、巧みに「福岡出身者」の顔と「東京に浸かった女」の顔とを使い分ける。そんな演者っぷりに比べると、この曲の歌詞は相当テキトーというか、元々英語で作ってた歌詞に無理矢理「地下鉄丸の内線」というテーマで言葉を捻り出し、そこに自分のスターであるBLANKEY JET CITYベンジー(浅井健一)の話も盛り込んでみた、といった趣。こんなデタラメな歌詞を全国の大学生になったばかりの軽音サークル入りたての女の子たちが歌ってるんだと思うといつでも「変なの」って思う。ついでに言えば、ギターを買うとかギターで殴ってとかなんとかの話なのに演奏にロクにギターが入ってこないのは、もしかしてギャグなんだろうか。

 

報酬は入社後平行線で 東京は愛せど何もない

リッケン620頂戴 19万も持っていない 御茶ノ水

 

マーシャルの匂いで飛んじゃって大変さ

毎晩絶頂に達して居るだけ

ラット1つを商売道具にしているさ

そしたらベンジーが肺に映ってトリップ

 

後に「東京事変」なるバンドも組んで、東京オリンピックにも絡みかけたりして、「東京の音楽家」の代表然とした存在になる彼女。彼女の「自分は東京の大人でダーティーな面をよく分かってあえてやってる」風なところは嫌いで、この曲くらいテキトーに東京の色々をブン回してくれた方がまだ清々しいなって気がしてる。

 

 

12. 東京 / 桑田佳祐(2002年)

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 椎名林檎が演出するところの「愛欲渦巻くダーティーな東京模様」を、遥か昔より歌謡曲のフィールドで冗談混じりにやってきたサザンオールスターズ桑田佳祐が、突如完全にシリアスで黒一色な重厚さで表現してみせた、曲名が『東京』な数々の楽曲の中でもずば抜けて重く鈍く輝く大名曲。ソロアルバム『ROCK AND ROLL HERO』においては、シングル曲にも関わらず作中一番重い曲としてアルバムの中心に鎮座している。納得しかない。ソロ前作『孤独の太陽』における『月』ポジションなんだろうけど、こちらの方が都会の欲望に生きる人間の”業”を、脂汗が乱反射するかのような筆致で激烈に劇的に描き出している。2001年にポップなシングル曲をソロで出しながら、ソロアルバムには収録せずに代わりにこれを先行シングルとして出した当時の彼の気合の入り方が、リリースから相当後になってようやく幾らか理解できた。

 桑田佳祐本人はこの時期の歌詞を「メッセージでも何でもない、いわば大人の漫画何ですよ」と話して居るけれど、この曲で表されたおそらく劇画的な何かは、物語としてはある程度月並な昭和の世界なのかもしれないが、それを出力するバンド演奏と歌唱の物凄さにひたすら圧倒される。冒頭の3連のピアノとヘヴィなギターと厳かなスネアロールのイントロだけで、ただごとではない空気がどこからか流れ込んできて、少ない言葉数を常軌を少し逸した風に伸ばして歌う桑田の歌唱が漆黒のムードを上塗りする。コーラス部の絶唱っぷりは、長くあの音楽業界で酸いも甘いも噛み分けてきた人間としての矜持が漲っている。漫画だと言うが、演技でこんな魂を投げ打つような歌唱ができてしまうのは、それはそれで積み重ねて来た”業”の壮絶な、狂気さえ感じられる発露であろう。日本人で桑田佳祐はじめある程度の人数しか経験したことないだろう世界を、桑田佳祐にしかできない方法で出力してしまった、東京という巨大な街の歴史の欲望の連なりから拾い出された煮凝り。濃厚にして酸鼻にして、しかしだからこその、あの街に対する慈しみを、本人が何と言おうと感じてしまう。

 

街の灯が滲むほど 雨音が窓を叩く

幸せと知りながら 心にさす傘は無い

 

東京は雨降り 何故 はかなく過去を照らす

今宵 夢の中へ逢いに来て

Just wanna do ya, I gotta do ya, ah

 

 

13. トーキョー・ストーリー / 曽我部恵一(2004年)

 この記事を書き始めた途端にサニーデイ・サービスが新曲『TOKYO SUNSET』をリリースすることが発表され、あまりにこの記事向きな曲名にびっくりしたけど、これを書いてる日の3日後にはリリースされるけど、待ってられないし、どんな曲か分からないから、予定どおりこの曲で記事を書かせてもらう。新曲、どんな曲だろう。

 香川県出身の曽我部恵一もまた、地方からの移住組ならではの「楽しくてロマンチックでメロウな東京」の表現を続けてきた人物のひとりだろう。彼の東京に対する大いなる貢献は、サニーデイ時代のアルバム『東京』に始まり、あのアルバムは当時ですらもはや幻想の向こうにあった「古き良き東京」をあえて参照し、垢抜けないまま洒落た風な幻想としての”東京”の像を浮かび上がらせた作品だった。『MUGEN』ではより大人びた東京の姿と観光でそこから飛び出す恋人たちの姿がノスタルジックに描かれた。その後ソロで2枚のアルバムを経て、自前のインディレーベルに移った後、彼は急に下北沢近辺の「冴えないロックバンドのズルズル続く青春」にフォーカスを充て始めた。ダブルオーテレサという当時あったバンドとの共作『STRAWBERRY』はそんな感じのアルバムで、ローファイなガレージロックに賛否両論渦巻いた*11

 そんなアルバムにはこの、冴えないけど楽しげな下北沢ライフを讃える楽曲も収録されている。野暮ったい下北沢のバンドによるディスコミュージック風の演奏、といったスタイルの楽曲には、今思うとこの後のサニーデイ含む曽我部恵一の音楽の中心的なところになるファンクギターが軸になっているし、その上で伸び伸びとThis is Sokabeという具合のグッドメロディが軽やかに乗っている。その上で、東京のどこかの町のことを「小さな町」などと抜かしつつ、どこか青春的なコミューン幻想みたいなものを感じさせる歌詞が流れていく。彼の歌に時々出てくる「車で海まで行く青春」みたいなシーンもバッチリ出てきて、なんだか可笑しい。

 

この美しい小さな世界 だれのもの?だれのもの?

恋人たち想う そして笑う

だれかといたい夕暮れ ただそれだけ

 

高速の分岐点 迷うこともなく right now, right now

空は哲学的に悟り開いたようないろあい

 

 この曲も入った、無理矢理青春に帰っていこうとする雰囲気の詰まったアルバムが、その後の非常にタフで多作な曽我部恵一ワークスの出発点だというのは結構不思議な感じがする。この「青春コミューン幻想」は後の曽我部恵一BANDまで続き、それが崩壊した頃から、現在のサニーデイと連続する、どこか自棄っぱちでドラッギーな雰囲気のある作風に変化していく。そのような、凄いけれども壮絶そうで大変そうな現状からすると、この曲の頃は1997年頃のサニーデイと同じかそれ以上に牧歌的なものに感じれるかも。

 

 

14. Tokyo Witch / Beach House(2006年)

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 USインディー界隈で一際存在感のあったドリームポップユニットの、その最初のアルバムの、何と2曲目に収録された、何とも言い難いシュールさに満ちた曲。正直、記事に書く曲が足りなくて探して見つけた曲だけど、様々な「なんで…?」が浮かぶ、とても不可解で、書くことに困ってしまってる曲。

 アルバム自体は、全体的にこれより後の音源よりも、音も楽曲構成もメロディもローファイ気味に纏まった作りで、シンセ等の音のいい具合のチープさ込みで、Cocteau Twins等の影響をヘッドルームで再構築したかのような手作り感が魅力なのかと思う。それにしても、そんな彼女たちのアルバムの2曲目が、どうして「東京の雀荘で恋人を寂しく待つ男性を思う歌」である必要があったんだろうか

 チープであってもどこかメロウさだったり悲しそうな感じだったりが響くアルバムの他のアルバムに比べて、この曲はどこかメロディもなんかトホホ…って感じの、ドラマチックではない冬の感じがする。この、感情の動きを無視するかのような超然としたムードの感じはこれはこれで荘厳さがあって良いと思うけれども、そんな荘厳さでもって歌われるのがなんで「雀荘で人を待つ歌」なんだ。どんなシチュエーションなんだ。何で日本人でも歌にしないようなシチュエーションで歌を書いて、それをアルバム2曲目なんていう結構大事なところに置いてるんだ…。何もかもがよく分からなさすぎて、繰り返し聴いてたら段々好きになってきた気がする。Cocteau Twins meets 雀荘なんて曲きっと世界にこの曲だけだろうから。

 

暗い冬の東京 雀荘で彼は待っている

彼の手の内を駆けていく過去を断ち切っていた

栄光は待ち人にこそやってくる

廊下にて それらは日々の赤い花々の中に横たわってた

貴方の腕の中には誰も残ってない

貴方が誰なのかもどっかに逃げちゃったね

 

 

2010's〜2021

 こと日本において言えば、この年代設定で重要な要素となるのは2011年の東日本大震災でしょう。これを転機に良くも悪くも変わって行ってしまった日本社会と、それらを反映してかしないでか不明な、過去作品に対するリスペクトが広く捧げられるようになった、悪く言えばノスタルジックさに偏った世相と、世界の進歩から置いていかれてガラパゴス化したとされる日本の状況と、そしてコロナと、東京オリンピックと。

 正直、この時期の社会の様相について真面目に考えて話をしようとするとずっと苦しい気持ちになるから、あまり色々とは書かないけれど、どうしてこんなに色んなことが困難なように見えてしまうようになったんだろう、と思ってしまいます。せめて音楽は、素敵で楽しいものがどんどん生まれてきて、それを楽しみ続けることが出来ればと思っています。

 

15. 三角定規 / ミツメ(2011年)

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 インディロック界隈から出てきたスピッツの有力なフォロワー、って雰囲気が強かった頃のミツメの、とりわけスピッツ的な柔らかな爽やかさとポップさとが感じられる初期の名曲。前にスピッツの『青い車』の弊ブログ記事でこの曲のことを『青い車』フォロワー的に扱ったけど、本当にそうかな?どうかな。

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 ただ、バンドの音としては、スピッツなどと同様に、オルタナティブロック〜同時代のUSインディーまでをよく聴いてきていたであろうところから出てくる、インディー式に歪み倒して暴れ回るギターサウンドが曲の中での有力なフックのひとつになっていることが指摘できる。スタジオ音源では時々分かりにくくなるけど、ライブでミツメを見ると、かっちりしたバンドサウンドを飛び越えて出てくる強烈なファズギターサウンドが彼らの大きな魅力だなあってよく思う。

 それにしてもこの曲の、言葉で直接言ったわけでもないのに不思議にノスタルジックさが湧き上がってくるような雰囲気は絶妙。上で挙げたFishmansと同じく、爽やかに鮮やかに東京中を駆け巡る青春の感じが浮かんできて、心地よい、その憧れの中に囚われ続けていたいような気持ちにちょっとなる。そういえば、かつての”東京インディ”というムーブメントも、そんな性質のあるものだったのかも。

 

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三角定規 三角定規持ってきて

君の家から 僕ん家までを測るつもり

あいつが嘘を あいつが嘘をついていて

懐中カメラ 東京中を回すつもり

 

もどかしい気持ちで どれ位経っただろう

あれから何年経っても

さんざん君を想ってきたんだけどなぁ

 

 

16. 帝都モダン / 相対性理論(2013年)

相対性理論「帝都モダン」Official Audio / SOUTAISEIRIRON - "Teito Modern" - YouTube

 2010年代前後に現れた相対性理論の、サブカル不思議少女×レトロフューチャーさを滲ませたニューウェーブサウンドの組み合わせは、誰もが意外に思うくらいクリティカルな存在感があって、多くの人が悔しがって、後を追って、それぞれ成功したりしなかったりした。

 彼女たちの歌詞世界のどこまでを元メンバーの真部脩一が書いてどこからをやくしまるえつこが書くようになったのかよく分からないけれど、彼女らが示した「東京」のあり方はまるでバーチャルで、というか漫画の中の不思議空間みたいな感じで、ここまでかわいい幻想めいた「東京」を描いたことは何気にひとつのエポックだったんだろうと今なら思う。上記のとおり桑田佳祐が『東京』を漫画みたいに言ったのと似てるのに、質感はまるで逆なのが面白い*12

 漫画の世界なので、この東京は気軽に水没したり崩壊したりする。この曲では崩壊して廃墟になった後の東京を、コールドスリープか何かから目覚めた主人公が彷徨う、という筋書きの歌になっている。いかにもバンド的な疾走感はギターアレンジとともに典型的な相対性理論サウンドだけど、メンバー変更後の彼女たちに特有の、変更前ほど気楽でファンタジーな感じになれない、音的にはリッチで安定した風になったのに不思議と焦燥感が増えているような雰囲気が、この曲では割と強めに感じられる。自分で書いていても嫌な感じの強くする言い方をすれば、いつの間にか時代の最先端ではなくなってた彼女らの再始動での困惑が、この曲の筋書きにダブって見えるのかも。

 

毎晩歩いてさまよい疲れて やっと見つけたあのひとの

顔と声を持つ自動人形もどうして 動いてくれないの

 

トーキョーシティ 高層ビル並ぶ

トーキョーシティ 八百八町の

トーキョーシティ はとバスでgo go

トーキョーシティ 夢と消えた都

妄想して 東京はよいとこ

妄想して 一度はおいでよ

妄想して 花やしきgo go

妄想して 夢と消えた都

 

 相対性理論、いつかちゃんと各アルバムとかの記事書きたいな。

 

 

17. TELE○POTION / 七尾旅人(2014年)

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 妄想と現実が壮大にクロスした3枚組『911 Fantasia』を境に、七尾旅人は幻想の中を漂うSSWからもっと実践的にタフに現実世界を歩んで活動していくパフォーマー的存在にシフトしていった。個人的にはこの二つは別のSSWだと捉えていて、あの頃の感じと比べると…とかあの頃に今みたいな現状認識があったとしたら…とかそういうことは考えないようにしている。だって別のアーティストを比較する必要ないじゃん。

 だけど、ごくたまにこの曲のように、そういえば両者は同じ”七尾旅人”というSSWだったですね、と感じられる曲が出てくる。不思議と夜っぽさの感じられる爽やかなメロディと疾走感とに、かつての名曲『夜光る』を思い出してしまう。あれはAphex Twinじみたビートで不思議なセンチメンタルの中を駆け抜けて、東京全域に夜行塗料が散布されてしまう歌だった。

 対してこちらは、でも、歌の中身を見るとやっぱり、現実の世界に活動して、人との出会いや思いやりを大切にする”現代の方の”七尾旅人その人の姿だ。電波的なノスタルジーと哲学に打ち抜かれてた日々は遠く、妄想ならすぐに飛び越えてしまえそうな”距離”が現実ではどうしようもなく立ち塞がることに、諦めてしまいそうになるくらいのたうち回りながらも、でも少しほどのロマンチックさでもって、せめて夢の中でだけでも会おうと近づいていく。

 興味深いのは、同じ夢を見たいのに東京が雨だったり踊ってたりすることで妨げられてしまう、という構図。この、同じ夢を見ることの障害として「東京と地方」の関係が出てくるというところに、すっかり妄想が簡単ではなくなってしまった、現実をリアルに捉える七尾旅人の視点の真摯さがある。

 コロナ禍で現実的な移動が本当に封じられてしまった現代において、皮肉にもこの歌の内容はよりリアルなものになってきている。そして現実の現代の七尾旅人が何をしているかというと、SNSのギリギリの情報網を駆使したフードレスキューだ。

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突如本当に現実的な問題に対して「共助」の有力な手立てのひとつとして現れた彼の姿は、いくらかこの曲にダブる感じがある。そして、彼が政府や自治体に感じている怒りはとても真っ当なものだと思う。正当に医療を受けるべき人たちが「自宅療養」なる理不尽なワードのもと”家に放置”され亡くなっていくのを「仕方ない」などと思えるはずがない。そう思ったところで、実際にこうやって動き始められるこの人のことは、本当に不思議で、凄いな、って思ってしまう。

 

中途半端じゃ とどかない 抱きしめたいけど とどかない

とどかない とどかない とどかない

僕にはもう とどかない そんな気がしてしまうほど 遠いね

 

逢いたい気持ちには BABY 特効薬なんて ないみたいで

この街をつつむひかりの どこが本当か 考えたりもして

忘れがちな 僕らは MAYBE 100年たったら 思い出すの

同じ夢をみたいのに BABY 東京は 踊ってる

 

君に会いにゆく 君に会いにゆく 夢の中の僕らは すぐに近づく

君に会いにゆく 君に会いにゆく 夢の中の僕らは愛しあっている

 

 

18. 東京は夜の七時 / 野宮真貴(2018年)

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 この記事の1990年代のところにこの曲がなくて怪訝に思った方がいるとしたら、それはこっちの方で出すつもりだったからですすいません、と言わせていただく。言わずと知れた、「東京の光景を歌った歌」の代表格にして、Pizzicato Fiveの代表曲となってしまうであろう曲。さまざまなアレンジが既にPizzicato Fiveの時点で存在し、解散後も作曲者小西康陽本人の手でバージョンが増やされたりなどして、一体この曲は幾つのバージョンが存在するのか。

 それで、歌手の側だった野宮真貴が、2010年代に入ってしばらくしてから、渋谷系の楽曲スタンダード化計画、と号して企画盤を重ねていく中で、この曲はさらにバージョンを増やしていくことになった。盆踊りVersionって何や…。だけど、どのバージョンでも変わらないのは、野宮真貴の歌の上手さが全然変わらないことだ。還暦を超えて以降もまるでブレもかすれも感じさせない、それでいてほんのりと熟成も感じさせる、本当に素晴らしくタフな歌い手なんだなと思わされる。

 今回プレイリストに選んだのは、『野宮真貴 渋谷系 ソングブック』に収録された小林兄弟との共演バージョン。伴奏のメインをギターにしてしまうという思い切りの良さが、この曲にまだこんなバージョンがあり得たのか(というか今までそういえばこういうギターゴリゴリのバージョンは無かったか…)という妙な驚きを感じさせてくれる。勢いに満ちたギターソロでは、この曲でついぞ味わったことのないタイプの爽快感が現れて、可笑しくて笑ってしまう。

 プロデュースは小西康陽。なんでリアルタイムで騒いでなかったのか、恥ずかしいばかり。バブル崩壊後しばらくの、浮かれてるけど不穏な影が現れていた時期を切り取ったことで、未だにいくらか残念な方面へのリアリティを持っているところがやっぱり可笑しくて、悲しい。

 

世界中でたったひとり 私を愛してくれる?

待ち合わせのレストランは もうつぶれてなかった

バラの花をかえたまま あなたはひとり待ってる

夢で見たのと同じバラ

早くあなたに逢いたい 早くあなたに逢いたい

 

トーキョーは夜の七時 嘘みたいに輝く街

とても淋しい あなたに逢いたい

トーキョーは夜の七時 本当に愛してるのに

とても淋しい あなたに逢いたい

 

  

19. Kyoto / Phoebe Bridgers(2020年)

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 「京都」を題にした外国の人の曲にしてはアレンジがすげえ派手だなあ、って思ってたこの曲だけど、よく歌詞を読んだらサビのところは東京の光景を歌ってたのか。よくPVを見たら雑コラ的に挿入される光景はしっかり東京で*13、自分は今までこの曲の何を見て聴いてたのかとちょっとバツが悪くなった。

 どうやら日本に来たときの京都から東京へ移動した頃に思ったことを拡げて歌にしたような曲らしい。もしかして日本のことを歌った海外のアーティストの曲でも一際丁寧でかつ晴れやかに作られた曲かもしれない。PVも元々は日本で撮影するはずが、コロナ禍の始まり頃で来日公演が中止になったことであの自由すぎるクソコラPVが生まれたらしく、そう思うと、元々から思ってたコロナ禍の状況でのままならなさの悲しさがより深まる思いがした。

 歌詞に目を落とすと、早々に京都の神社仏閣巡りに飽きていて笑える。日本にはまだ公衆電話があるの、とか微笑ましい情景を挟みつつも、でも、歌が進むと段々話は深刻になってきて、誰かに対する恨み節とも何かしらの苦い後悔とも取れる内容が進行していく。元々はバラードとして作られたらしいこの曲は、案外元々はもっとダークな楽曲に仕上がる予定だったのかもしれない。だけどバンドメンバーの提案があり、スローな曲を作るのにも飽きたりしていたので、このとおりアルバム中最もゴージャスでアップリフティングなサウンドと歌になった。これによって、攻撃的な言葉が飛び交うコーラス部が、なんだか痛快なパンクさを得てしまっているのが愉快で、そして割と暗かった歌の内容も、意外な方向に昇華されたのかな、と思った。そしてヘンテコな合成に開き直ってよりバカバカしい映像になって、この曲はとてもポップなものに成り代わったんだろうな。偶然って本当に不思議なもの。それでこんな笑えて、かつ感動的な曲が出来たんであれば。

 

あんたを殺してやるでしょう

あんたが先に仕掛けないならね

東京の空で夢を見てた わたしは世界が見たかったの

そして海を超えてきたら 考えが変わったんだね

 

 

20. 東京の街に雪が降る日、ふたりの恋は終わった。 / PIZZICATO ONE(2020年)

 北海道出身の小西康陽が、日本の作家で一番「東京」を素晴らしく描いていると思う。Pizicato Fiveの頃から『東京は夜の七時』『トウキョウ・モナムール』『モナムール東京』といったはっきり「東京」が出てくる曲の他、まさに東京の狂騒と孤独そのものみたいな『大都会交響楽』等を書いている。それらに共通するのは、都市の享楽よりもその影にある虚しさにやたらとフォーカスしていくところで、これは計算よりも性分なんだと思う。特に野宮時代中期以降のPizzicato Fiveの、小西康陽私小説的な、様々な虚しさや、それに伴う頼りなくも可憐で美しい祈りの数々に彩られた楽曲たちは、時代に左右されようのない、どうにも根源的なリリシズムに溢れている。それらについては、もう散々語ったから、これ以上色々書くと前から読んでくれてた人に失礼になるかもしれない。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

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 2021年のPIZZICATO ONEのライブアルバムの何が画期的だったかって、東京史上最強のSSWが突如誕生してしまったことだ。別に決して技術的に卓越している訳でもない、還暦を超えた男性のボーカルは、しかしあのアルバムに収められた素晴らしい楽曲たちのメロディも歌詞も書いたその本人の声で、その声で歌われるだけで、こんなに楽曲の情緒の説得力が豊かになるものか、と、すっかり驚いてしまった。

 この曲はPizzicato Five解散後に小西さんが書いた実はそこまで多くもない楽曲のひとつで、穏やかな曲調とメロディで、昭和の東京の街の片隅の光景を映画的に切り取って見せるという風情の楽曲。音楽と同じくらい映画好きな彼らしい、また彼が愛する日活映画等への憧憬を露わにしまくったその世界観は、歌詞の流れも実に映画的なそれで、むしろ歌詞だけ抜き出したら平凡にさえ思えるような、男女の惜別の光景だ。

 素晴らしいバンドに囲まれてこの曲を歌う小西康陽。女性視点の歌詞なので、本来は何かミスマッチが生じるものだと思う。だけどここではかえって、脚本家が自分の脚本を抱き締めているかのような、不思議に個人的な慎ましさや優しさが空気に満ちていく。歌詞の光景に込めた自身の拘りや慈しみや哲学感、そして彼が時々示す、”雪”に対するあどけなさすぎる感覚が、歌詞の言葉を、歌詞世界を遥かに超えて、情緒としてふわりと広がっていく。これは、小西康陽以外の人がこの曲を歌っても論理的に出てくるはずのない情緒なんだろう。そしてぼくは、この人のそういうものこそを待っていた。東京の街で雪が降って、男女が名残惜しさもありながら別れる、ただそれだけのシークエンスが何故か人生の縮図のように思えてしまうのは、何故なんだろうな。これ以上言葉をこねくり回さず、しみじみと感じ入っていたい。

 

東京の街に雪が降る日 ふたりの恋は終わったの

べつに喧嘩をしたわけでもない

けれども恋は消えていった

 

東京の街に風が吹く日 ふたりは出逢って恋に落ちた

どこにでもいる男の子と 女の子との恋だった

 

悲しくもないし つらくもないし

けれどもそれが すこし悲しい

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・

終わりに

 以上20曲でした。取り留めのない内容だった気がします。そもそも楽曲から見た東京を十分に紹介してたか?楽曲自体のことばっかりしか言ってなくねえか…?

 東京については、本当に難しい思いを抱えていて、ぼくの愛する日本の音楽のおそらく大半は東京で生まれているわけで、それは東京に人が集まって、集まった人のうちの誰かが作って、誰かたちがそれを好き好んで購入したりライブを観たりして収益となって、誰かがメディアとして広めて、それでぼくの目耳に入ってきたものだと思われるので、ぼくが今多くの日本の音楽を好きでいれるのは、概ね東京のお陰な訳です。そんな東京を恨むなんてどうかしてるんじゃないか、というところもありつつ、しかしながら日本においてもはや概念のように上部存在的に君臨する東京というものに、様々な点で反感を抱いてしまうこともまた事実。

 本当は、ぼくのその辺の微妙な感情と「東京と地方」の論理等々とを軸に各楽曲を見ていくつもりでしたが、それぞれの楽曲を聴いていると、そんなことをするのがとてもバカらしくなってしまった、というのがここまで書いてきての正直なところです。冒頭に延々と書いてた文章は何だったのか。構成面でのこの記事の大いなる欠陥だと思います。

 でも、やっぱいい曲はいいわあ、という感情は、この世でも結構ピュアで、割と誰も傷つけにくいであろう感情だと思うので、一通り書き終わって、何だかスッキリした気分です。どんな思いを東京に抱いていようと、『俺ら東京さ行ぐだ』は最高だし、『東京の空』は最高な訳です。

 この取り留めもなければ結論もこんなショボいのしかない記事でも、何か参考になる部分があったのであれば非常に光栄です。東京に住んでる人も、東京近郊に住んでいる人も、地方に住んでいる人も、東京が産んだ東京を題にしたり東京について歌ってる歌を様々に楽しめればいいなって思います。

 そして、恒例のSpotifyプレイリストです。それではまた他の記事で。

*1:というか九州の外に住んだことが一度もない。

*2:ここに書けないほど様々あるのですが、一例を挙げれば、文化に限らず、仕事も含む多くの場面で「東京こそが成熟であり模範。地方は東京の指導に従い、東京に倣った洗練を目指すべし」といった、名言化されないものの確実に存在する雰囲気には、様々な場面で遭遇しては辟易します。もしくは、東京こそが平均であり、地方はその平均から様々に「クセの付いた」存在だ、という扱いとか。

*3:品川もそうなんだろうけど、ショッピングや情報発信的にいまいちに感じる。

*4:当の笠置シヅ子本人は吉本興業の創業者の息子との交際が認められないまま死別したりと、あまり自由ではなかったのが悲しいところだけど。

*5:吉幾三の地元は青森県の旧金木町の出身で、この地は実は太宰治の出身地でもある。太宰の実家は地元の大地主で、かつ太宰の兄が戦後自民党の有力議員になるほどの家なので、下手をすると太宰が実家にいた頃から電気やラジオはあったんじゃないかと思ったりもする。勿論それは地主の豪邸だからであって、農家の集落の方にはなかったのかもしれないけども。真面目に言えば、こういう格差の歴史の話だってできるけれども、でも誰もこんな話をこの曲をテコに語りたくないもんな。この曲は楽しく聴きてえ、と、多くの人も、吉幾三本人もきっと思っているだろう。なのでここでは注釈でこの程度書くくらいに納めておく。

*6:地元がまるでユートピアって吉幾三本人が歌うこの突き抜けきったバカさ。

*7:企業のCMとして作ってるあざとさもあるのに、それ以上に実にしょうもない連想で歌詞を書き連ねて、そして最後のガバガバアナグラムでもう完全に、企画者は損得勘定抜きで、カプコンの金使ってしょーもねーことに全力出す古き良きニコニコ動画の作法をやり通してしまった、って感じで、感心するしアホらしくて最高だなって思った。この後の人形劇といい、本編のベタな四天王展開といい、バイオ8はぶっ飛んでる。

*8:それだけ宮本浩次の歌や世界観の存在が圧倒的だということではある。

*9:歌詞の言葉数を埋めるために大阪にまで話を広げた、ってところなのかなとも思う。

*10:軽音サークルに入部して最初に組んだバンドでこの曲を歌って、その後しばらくしてから何かあったのか退部する女の子を何人か見てきた人生だった。軽音サークルにおいても”歌姫”になれるのは一部の人だけなんだなって思った。退部していった人たちのことはもう全然覚えてない。今はどこかで健やかに暮らしてるんだろうか。しばらく前に『奥田民生になりたいボーイと云々…』みたいな作品があったけど、それこそ『椎名林檎になりたいガールと云々』で誰か何か書けそうな気がしたりもする。メインになるのはやっぱり、この曲のコピーだろうな。

*11:当時の人たちに「2年後には『LOVE CITY』ってアルバム出すから安心して」って教えてあげたい。本当に曽我部さんの活動は自由奔放。あの頃は今みたいにサニーデイ・サービスが現役感溢れるバンドとして復活することなんて想像もしなかったし、未来のことはやっぱり全然分からない。この頃よりもガムシャラな演奏を今のサニーデイがしてるなんて、予想できるはずかないもの。

*12:相対性理論が初めからファンタジーなものとして現実の様々なステータスを捨象してキャラ作りできたのに対して、桑田佳祐の場合いくら漫画と言ってもそこには長年の油っこいキャリアがへばり付いている訳で、そこが大きな違いなのかと。どっちがいいとかではなく、どちらもそれぞれの素晴らしさに繋がってると思う。

*13:というか、雑コラの背景が案外歌詞の内容と丁寧にリンクしてたことが、丁寧なんだけどコラがやっぱ荒くて笑う。