ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

夏の楽曲集(Vol.1 〜1950年代:10曲)

 夏の曲についての記事を書こうと思って、色々とテーマを考えてたんですが、いろんな組み合わせだとか何とかを考えているうちに段々面倒くさくなって、とりあえずもうそれっぽいものを全部揃えた記事を書くようにしよう、と思って、年代別に曲を探し始めてたらなんかだんだん膨大な量になって来たので、各年代ごとに記事を書くことにしました。

 まずは1950年代までの記事を書きます。10曲程度どうにか揃えられたので、元々得意な年代でもないし、色々調べて分かったこと等を含めてサラッと書いていこうと思います。

 なお、これから何回かの記事がこの「夏の楽曲」に関するものになります。記事最後のプレイリストは新しく記事にした年代の楽曲が追加されていくようにしようと思います。気力の限り、なるべくどっかで諦めたり飽きたりして放り投げないよう頑張る所存です。

 あと、サムネの画像にした曲は、それっぽかったのでサムネ画像にしただけで、リストには入れてません。

 

(2022年8月22日追記)

 次の時代の記事です。

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 

 

はじめに:おことわり

 筆者はだいたい基本的に1960年代以降の音楽にしか基本明るくないです。1960年代以降だって興味の薄いところは全然弱いのに、1950年代から前のことなんて全然知らなくて、なので今回取り上げる記事は、この記事を書こうと思い始めてからその存在を知ったばかりの曲が殆どなので、なので以下の文章は殆ど付け焼き刃、というかここ数日での勉強(ネットで探したりしただけ)の成果だと思っておいてください。

 調べてて分かったのが、頼りにしてたブルースやロックンロールに夏の曲がなかなか見当たらないということ。てっきり「夏の南部は暑くて死ねるぜ」みたいなブルースとか、「夏だぜ最高だぜ騒ぐぜ」みたいなロックンロールとかがたくさん出てくるんじゃないかと思ってたんですが、時間を掛けて調べてもなんか出て来ませんでした。調べ方が悪いだけかもしれないけど。でもこの後の時代よりも全然出てこなくて、出てくるのはいかにもポップス然としたものとかジャズのスタンダード曲とかばかり。

 そういったこともあって、今から見ていく楽曲群に、昔から馴染んできたような親しみは全然感じてません。強いて言うなら「こういう曲が初期The Beach Boysとかに影響を与えてたのか〜」程度の興味くらい。今回のリストで唯一前から知ってるある曲が何だかとても格段に親しみの持てる感じがするのはなんともはや。

 ぐちぐち描いても仕方がないので始めます。ちなみに「歌詞から確実に夏だと言えそうにない曲」は極力この一連のシリーズのリストに入れないようにしています。「陽の光が云々」だけで夏の曲だなんて確定できないと思うので。インスト曲はまあ雰囲気で「これが夏じゃないことないだろ」でいくつか入れてますけど。

 こんなに夏の曲まとめみたいな記事にヤケクソ気味に熱を入れようとしてるのも、今年の夏がクソ暑すぎるのと仕事の日程の都合が悪過ぎて何もできないこととが合わさってなんかもうクソみたいだからです。

 

 

本編

 

 

1. Summertime / Billie Holiday(1936年)

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 元々はGeorge Gershwinが1935年にオペラ『ポギーとベス』に書いたもので、しかしその時点で彼は、当時まだ差別が色濃く蔓延っていたアメリカ南部の黒人の暮らしに焦点を当てて物語を作り、そしてこの曲を作曲した。この2年後に亡くなる彼が「この曲を黒人以外が歌うのを禁じる」と言ったとも。彼の代表作のひとつとなり、後年沢山のカバーがなされ、その中にはJanis JoplinやThe Zombiesなどの白人アーティストも多く含まれる。

 それにしても、『ポギーとベス』のあらすじを読んで感じられる何ともうらぶれた感じ・陰惨な空気が、このBillie Holidayのカバーにはしっかりと残っている。ビルボードで12位まで上がったことでこの曲は「スタンダード曲」としての地位を約束された。しかし彼女自身はこのようなヒットがあっても、やはり当時の社会の差別的な環境に苛まれ続け、病気になった父親の治療を数々の病院から拒絶されたことで父親を亡くし、そして1939年には差別を激しく告発する『Strange Fruit』をリリースする。

 当時だって「Summertime」の語にリゾート的な意味合いが無かった訳でもないだろうに、どうしてこういう光景の曲なのか。いやそれでも、この曲の歌詞自体はそんなうらぶれた光景の中でもちょっとした「子守唄」めいた形で綴られている。

 

夏のひととき 何の心配もない人生さ

魚は元気に飛び跳ねて 綿はどんどん生育する

 

お前の父ちゃんは金持ちで 母ちゃんは美人だ

だから赤ちゃん 静かにしてね 泣かないでね

 

ある日の朝きみは 立ち上がって歌うんだ

そしてその羽根を広げて 空に飛んでいく

 

だけどそんな朝になるまで

きみは誰からも傷つけられないよ

父ちゃん母ちゃんといる限りね

 

前半少し皮肉めいたものと思わせて、でもしっかり子供の将来を願い、子供を守ろうとする親の心境みたいな風になっていく。白人のGershwinはこの曲の歌詞にどういう気持ちや祈りを反映させたんだろうか。それをどういう気持ちで彼女は歌うんだろうか。

 いきなり重たいな。

 

 

2. Indian Summer / Glenn Miller(1940年)

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 「Indian Summer」というのは晩秋の時期の小春日和のことを意味していて、だから別にこの曲は夏の曲じゃないんじゃないか、とも思われなくもないけどまあいいか。

 元々は1919年にアメリカの作曲家Victor Herbertが書いた楽曲で、そこから20年後に歌詞が書かれた。Tommy Dorseyなる人のビッグバンドがそれで演奏し同じ年のうちにナンバーワンヒットになったらしいけど、しかしその次の年におそらく同じような演奏形態でリリースされたGlenn Millerの方が有名になってるっぽいのはやっぱ知名度の違いか。何せ『In The Mood』や『Chattanooga Choo Choo』『Little Brown Jug』など有名な大ヒット曲を沢山持つ人だもの。こういうビッグバンドジャズ門外漢の自分でも余裕で聴いたことあるもの。

 楽曲自体はとても穏やかな演奏の流れていく感じがいかにもな「昔っぽさ」を感じさせるブラスの演奏がいい。演奏ひとつひとつとしては華やかなのに合わさるととても穏やかな影を帯びる。そしてこのバージョンもちゃんとボーカルが入って、不思議な哀愁を残していく。

 

インディアン・サマー

きみは笑顔に満ちた6月の後にやってくる涙

叶うことのない夢を沢山見てるんだろう

夏がまた来る度 そんな夢に魅了されて

 

誰かが言ってくれなかった言葉で砕かれた心を

ここに来て見ているんだろう

彷徨ってたらすぐに終わってしまう亡霊なんだね

だから告げよう 「さようなら インディアン・サマー

 

何とも比喩的。っていうか「6月の後にやってくる」って、これ別に「小春日和」のことを言ってる訳でもない…?ちゃんと7月とか8月とかの夏の歌なのか。よく分からないや。

 

 

3. The Things We Did Last Summer / Jo Stafford(1946年)

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 いかにも感傷的なタイトルの付いた、その実しっかりと感傷的な内容の夏の歌。いつの頃からそうなのか知らないけど、夏は「過ぎ去った幸せ・輝き」を象徴するテーマの代表的なものとして昔も今も繰り返し繰り返し利用され続ける。

 同じ年のうちにFrank Sinatraもこの曲を歌っているようだけど、Jo Staffordの方が先っぽい。というか調べてて分かったけどFrank SinatraもBing CrosbyもNat King Coleも季節ものの曲を沢山歌ってるんだな。

 この時期のポピュラー音楽の伴奏って大体ジャズなのか。ストリングスの雄大でドリーミーな演奏が過ぎて聞こえてくる歌のいかにも感傷的な様には否応なしに心のどこかが少しばかり懐かしさと寂しさで熱っぽくなる感じがある。楽しかった夏の日々の具体的な内容に言及した後に、歌は最後のパラグラフでなぜ今まで延々と「楽しかったこと」を語っていたかの理由を明かす。

 

葉っぱが色褪せ始めた まるでわたしたちの約束みたい

すごく良かったような恋がどうやってダメになるのか

過ぎた夏にふたりでしたこと 思い出すんだろうね

冬の間ずっと

 

 夏との対比関係にあるために、冬はいつも「辛い、耐えられない日々」のイメージを押し付けられる。個人的に夏なんかよりも冬の方が全然好きなので、いつかちゃんと「辛いだけじゃない、輝かしいことなんかもいろいろある冬の曲」特集も書かないといけないなとは思ってる。印象として、夏ほど楽曲の絶対数が多くないような気はしてるけども。というか何で世の中には夏の曲がやたら沢山あるんだろうか。みんな夏という概念に様々なものを重ね過ぎてるんじゃなかろうか。そういうものが何か、何で夏がそんなに歌の中で尊ばれるのか、を見ていくのもこの一連の記事の目的なのに、こんなところで愚痴っても仕方がないけども。

 

 

4. In The Good Old Summertime / Les Paul & Mary Ford(1952年)

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 この曲もいかにも感傷的っぽい感じの曲タイトルをしてるけども、そんなことよりもこのバージョンは、あのLes Paul氏がアーティストしてた頃の曲だというのが興味深いところ。そう、あのエレキギターで有名なGibson社のレス・ポールさん。同業他社のFender社のLeo Fenderさんが完全に技術畑からの人物*1であるのに対して、Les Paulさんはバリバリアーティストしてた経歴があり*2、何なら「世界最初のオーバーダブを使用した楽曲のリリース」をした人という称号もある。

 3人目の妻となったMary Fordとの音楽活動はTVショウも並行してやっていて、全米1位も獲得している。そんな中で1952年に自身の名を冠したエレキギターであるレスポールが発売され、上記のこの曲の映像の中でもおそらく弾かれている。

 それにしてもこの曲の彼らのバージョンの、なんと軽妙なこと。曲自体は1902年に作られた楽曲で様々なバージョンが存在し、Bing Crosbyのバージョンなどいかにもムーディーなジャズナンバーになっているけども、ここでの彼らのバージョンはもっとずっとコミカルに、まるで大道芸人みたいに楽しげに演奏してみせる。Les Paulによる軽やかに転げ回るギターリックの細やかさや正確さには何気に驚かされるけど、特に絶妙にコミカルな厚みを音に加えるリバーブ加減がとてもいい。その分この曲の感傷的なところはブッ飛ぶのが、かえって爽やかで潔い感じ。どうやら歌詞も展開もバッサリ切り取ってワンセンテンスのみ取り出してるっぽいし。

 

古き良き夏 木陰の小径を愛しい人と歩き回ろう

わたしはあの人の あの人はわたしの手を握って

それってとってもいい感じ

ラブリーになったってこと あの古き良き夏に

 

他のセクションのもっとノスタルジックなところや屈託の入った内容を全部すっ飛ばしてここだけ歌うのはやっぱり、リスナーの感情に訴えかけるポップソングというよりももっと大道芸じみた何かに感じる。でも演奏っていうのはそういうのも大事だものね。

 

 

5. Soft Summer Breeze / Eddie Heywood(1956年)

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 この曲は歌じゃなくてジャズインストだけど、印象的な「Breeze」の語が含まれていて、なおかつ他のアーティストでなくこのバージョンこそ一番「Breeze」な感じがしたので選んだ。「そよ風」という意味のこの単語が、ある種の夏にはよく付き纏う。まあ無風状態の夏よりかはちょっとでも風が吹いてまだ少し涼しさが感じられる方が遥かに良いわけだから、なので「Breeze」という概念は「快い夏ソング」に大いに求められる要素なんだろう。

 「Breeze」という語についての話だけでこの曲の説明を終えてしまいそうになってるけど、こんな小洒落たピアノジャズのインストに、自分みたいな門外漢が何を話したものやら。少なくともこの曲を聴いて「うんざりするほど暑い夏」みたいなのを想起する人はいないだろう。たとえ「Breeze」という語の入ったタイトルを隠して聴いたとしても。しかもタイトルに「Soft」まで付くから、どんだけ快適なそよ風だよ、って思ったらこの曲のこの演奏なわけで、納得しかないだろう。

 それにしても、現実でよくある「うんざりするほど暑い夏」なんてのは、正直ポップソングにそんなに求められているものでもない気がする*3。湿度が高くて気温も高い太陽の光もキツい現実の夏なんてサイテー。音楽や物語の中、もしくは思い出とかの中にしか素敵な夏なんてのは存在し得ないのでは。いや屋内で「素敵な夏」すれば良いのか…?しかしそれでは海にも山にも行けないが…。

 

 

6. One Summer Night / The Danleers(1958年)

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 普通のポップスとドゥーワップとの明確な違いも分からないままの人生を過ごしてきたけども、別にそんなものないというか、ポップスのうちの幾らかの傾向のことを何となく便利なようにドゥーワップと呼んでるだけなんだろうな。というか、ドゥーワップとウォールオブサウンドモータウンくらいまではまとめて≒古いポップスみたいなイメージで無意識に括ってしまってるかもしれない。

 この曲は典型的なドゥーワップ式の3連バラッドで、正統派的でムーディーなメロウさと良さがしっかり詰まっている。どうやらドゥーワップにはこういうムーディーなのともっとファニーで高速なのとに大別できる気がしてる。この曲のブリッジのセクションの力強く伸びるボーカルを聴くと、確かにこの人はフニャフニャしたファニーなのは歌えない方の人だなって思う。このロマンチックな楽曲は彼らの最初に発表した楽曲にして最も大きな成功を収め、100万枚売れたそうな。

 

ある夏の夜 ぼくはきみに口づけをした

ある夏の夜 もっと近くにきみを抱き寄せた

きみとぼく 愛の月の下で

 

きみがぼくに口づけた それはとても優しかった

そしてこれは愛だって分かったんだ

そしてきみを抱いて もっと重なって

誰もきみの場所を奪えやしないって分かった

 

徹底的に動詞が過去形に変化しているところに物語性を匂わせる。

 それにしても、この曲でも聴くことのできる3連のリズムで曇りなく美しいメロディの楽曲に夜の帷のようなコーラスが添えられるスタイルは、実にそのまま初期のThe Beach Boysの同系統の楽曲に繋がっていることがよく分かる。フニャフニャ系のボーカルであるMike Loveと正統派の美しいボーカルのBrian Wilsonの両方を擁するあのバンドはその点まさにドゥーワップとロックンロールを統括すべくして現れた存在だったのかもしれない。

 

 

7. Summertime Blues / Eddie Cochran(1958年)

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 やっとそれなりにまともに知ってる曲が来た!ということで、まるで全然知り合いのいない街でそんなに親しい訳でもないけどそれなりに知ってる人に会えた時のような具合の感激を味わう。同じくロックンロールの新星として活躍を始めつつも若くして死んでしまったBuddy Hollyと混同しそうになることもあるけど、メガネが無い方がEddie Cochranで間違いない。

 Eddie Cochranの大事な特徴、それはブルース以来のロックンロール定型を無視した形で、ミニマルなコード進行のリフ、強引なブレイク、ロウな楽器の音などで新しい形のロックンロールを作り出していたことだろう。彼のもう一つのヒット曲『C'mon Everybody』にもそういう特性が出ているが、特にこの、ロックンロール定型からすると大変奇妙な展開の仕方をする、音楽的にはどこにも「Blues」な要素が感じられない彼最大のヒット曲には、彼ならではのフリーな個性が表れている。

 特にそのブツ切れなブレイクでの奇妙な歌唱から一気に格好いいタイトルコールにつなげ、そのままシンプルが過ぎるリフに繋げていく箇所は、12小節形式の呪縛から完全に解き放たれていて、そのままパンクに接続できるくらいの、シンプルな骨組みとしての機能美が存在する。だからこそ、この曲をThe WhoBlue Cheerがカバーしようとも「古いロックンロールのカバー」という感じではなく、彼らそれぞれの味わいをもっとニュートラルに引き出すことに繋がったんだと思う。

 彼はこの曲にもうひとつ魅力を捩じ込んだ。マネージャーが「夏の曲は腐るほどあるが、夏の苦労を歌った曲は全然ない」と提案し、その結果「金も権力もない若者が感じる“やってらんねえぜ”というブルース」をこそ歌詞にしたこともまた、この曲のパンク的な属性を高めている。

 

ああ 大騒ぎするし 絶叫してやるさ

夏の間ずっと働かなきゃなんねえ このクソさに

ちょっと金を稼ごうとして 彼女に電話して

デートしようってしたら

上司が言う「おい駄目だろ 仕事残ってんのに」

時々思う どうしろって言うんだよって

どこにもありゃしねえよ

こんなサマータイム・ブルースに効く手立てなんぞ

 

(中略)

 

2週間使って 快い休暇を取るのさ

この問題ごとを国連に持ってくのさ

議員に電話してやったら こう言った

「わあ 助けてあげたいよ

 でもきみ まだ若いから投票できないよね」

時々思う どうにもなんねえだろうが

どこにもありゃしねえよ

こんなサマータイム・ブルースに効く手立てなんぞ

 

話が急に国連まで行くところがまたファンタジックだけど、なのに結果はクソみたいに残念なオチ。この曲の素晴らしいところは、ここまで楽曲はエネルギッシュなのに、歌の中では何も解決できなくて鬱屈したままなところなのかも。これまでの普通のロックンロールならフラストレーションを騒いで解決させてしまうのに、彼は社会的にどうしようもないままにやさぐれてしまう。その感覚こそがまさに、本来輝けて楽しめるはずの夏に降り注ぐ"ブルース(うんざり)"ということなんだろう。

 っていうか「There ain't no cure for…」という表現が格好良すぎる。「There is no〜」構文も格好いいし「No cure」というのも格好いいししかもそこに「ain't」という乱暴な否定の語が入るのが、ヤケクソさと絶望感とが絶妙にマッチして最高に外連味してると思うんですが、時代の離れたしかも英語が母語じゃない自分がこう思うくらいだから、おそらくは当時のアメリカの人たちはもっとこの言い回しにエキサイトしたんじゃなかろうか。

 Buddy Hollyもそうだけど、Eddie Cochranもまた死なずに、たとえば1980年代くらいまで生きてたりしたらどうなってたんだろう。歴史にifは無いからこそ、いつまでも無限に気にしていられることのできる課題のひとつだ。

 

 

8. Summertime, Summertime / The Jamies(1958年)

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 今回の記事を書くための勉強の中でなぜか幾つかの「これがPizzicato Fiveの元ネタだったのかあっ」というもを見つけることが出来た。当然この曲は『サマータイム、サマータイム』のタイトルの元ネタで、逆に、あんなにどこか思い詰めた感じの漲る名曲の元ネタが、こんなフニャフニャしてしょうもなさげなドゥーワップなのか、と驚いたりもした。まあこの曲はそのファニーさがいいんだと思うけども。

 男女混成のコーラスグループである彼らのデビューシングルにして最も売れたのがこの曲。その後二枚のシングルを出して活動が終わるらしく、さてはドゥーワップって一発屋が多いんだなって思わせる。次のシングルの名前が『Snow Train』で、季節もので当てていこうとしたんだろうかとも思わせる。

 この曲自体は、イントロで4人の声が段々重なっていくところ、特にリードを取る一番高い声の女性ボーカルが入るところのシンプルな楽しさが鮮やかで、そこから一気にこのいい具合の舌足らずっぽさが効いたハイトーンの声を先頭に程よい疾走感を得てややファニーに進行していく様が実に刹那的。「Summertime, summertime, sun, sun, summertime」というもう何の意味も成してない言葉の並びが実に清々しく、ただただこの語感とリズムだけでとてもキャッチーだなって思える。ハイハットを使わないドラムとピアノではなくハープシコードで伴奏を付けるところはなかなかユニークで、声の存在感を自然に高めることに繋がり、特にハープシコードは曲の最後のメロディの繰り返しが突然途切れて代わりにメロディを弾いて終わる、という美味しい役回りもあって印象に残る。

 

ええ 本を閉じて投げ捨てて

ダルい学校の日々にサヨナラして

グズグズしないで もう全部変えちゃって

夏なんだよ…

 

もう歴史の勉強なんてしないで

地理の教科書なんて読まないで

ダルい幾何学なんてやめちゃって

だって 夏なんだよ

 

アメリカのポップソングにおいて「夏」という概念は「学校に捕らわれていた若者たちが自由を得て快活になる季節」みたいな形でもよく使われていて、この曲はまさにその王道をひた走る。そこには「過ぎ去った幸せへの感傷」ではなく、まさに今幸せの真っ只中にいることの喜びを無自覚的に追い求める、そんなひたむきさがある。一夜の恋とか何とかを関係なしにともかく「何か楽しくてたまらないもの」としての夏を追いかけるこの曲に、リードボーカルのあどけなくて屈託のないいい意味でペラッペラなトーンはピッタリだ。

 

 

9. Sleepwalk / Santo & Johnny(1959年)

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 インストで、しかも別に「夏」の語が入っている訳でもないこの曲は確かに夏の曲とは限らないかもしれないが、でも曲を聴いたら、とりあえずこれが冬の曲じゃ無いことは誰にだって分かるだろうし、春でも秋でもなさそうなら、こんなにリゾートな感じしかしないのなら、もう夏しかないだろうってなるのではないか。

 この曲のゆったりした空気感、何事からも解放されきって幸福に弛緩し切った感覚はまさにリゾートでバケーションって感じの感覚で、本当の意味でこんなリゾートのバケーションを自分がこれからの人生で取れることあるんだろうかと、逆説的に戦慄する気もする。スティールギターの甘く蕩けるような音色が実に開放的で、こういう輪郭さえ心地良い暖気の中で解けていくような感覚っていうのは何気にとても音楽的だ。こんなに緩やかさを追求し切ったかのような脱力感の中にあっては、何か言葉を発することさえも脱力感の妨げになりそうだから、この曲がインストであったことは必然的にも思える。

 真の感覚的な悦楽の中では言葉なんて不要なんだろう。でも歌無しのインストだけ聴いていたいかと思うと個人的には全然そうは思わないし、ということは別にこういう悦楽感こそを求めて音楽を聴いてる訳でもないものな、と気付かされる*4。でも、もし叶うのであれば一度だけ、こういう徹底的に骨抜きになれるような、心のどこにも不安が感じられなくなるような、そんな極楽を味わってみたい気もしないでもない。

 

 

10. Here Comes Summer / Jerry Keller(1959年)

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 1950年代も終わる年に出されたこの楽曲は、ゆるっとしたシャッフルのテンポにいい具合に落ち着いたボーカルと、程よく洗練されたコーラスワークがうまいこと配置されて、はしゃぎすぎる訳でもなく、ロマンチックすぎる訳でもなく、実にちょうどいい具合に夏してるトラックになっていると思う。「実にちょうどいい具合に夏してる」って何だよ、と書いててすぐに思ったけども。

 でもそれくらい、この曲のニュートラルさはさりげなく輝いてると思う。ドゥーワップ組が陥りがちなヘロヘロな疾走感にもコッテコテの甘いバラードにもならず、実に平熱で軽やかに夏のステップを踏んでいくこの感じ。熱狂するでもなしに平然と夏を満喫するかのようなその振る舞いには夏マスター的な佇まいを感じないでもないし、一瞬演奏がブレイクしてちょっと切なくなる感覚は何かしらの祈るような“純粋さ”を感じられる。何よりもこのシュッとしたトラックの整理のされ方はまさに、次のディケイドに来たるこれらのポップスを統括するロックンロールであるところのThe Beach Boysの存在感を思わせるところがある。

 …どうにも自分は、この時代のこういうポップス前半を「初期The Beach Boysの偉大なる“前座”」みたいに扱ってしまいがちなよくない癖があると思う*5。反省し注意しなければいけないよ。もっとこの曲をありのままで楽しまないと。この人自体はやはりこの曲が1番のヒットになった「一発屋」気味の人みたいだけど。

 

夏がやってくるよ

学校なんて終わり 幸せの日々さ

あの娘の手を掴んで駆け出そう

毎日 泳ぎに行こうよ

さあ 今こそ ぼくらの夏の家に陽の光よ降れ

 

学校がそんな悪い訳じゃない でも夏の方がいいね

彼女を眺めてる時間がもっと取れるんだから

輝く月夜の下 公園を歩いて行って

キスしたら あの娘がぼくの髪をカールさせるんだ

 

ああ、なんてアメリカンな青春模様。やっぱこういう曲ってキャリアの初期にしか出せないだろうしその輝きを後の年になって取り戻すのは「原理的に不可能」だって感じがする。だからこそ、2度と取り戻せないからこそ夏は尊いんだって、ちょっと反吐が出るけども、でも実際そうなんだろうな。あのThe Beach Boysだって『Do it Again』としか歌えないはずだ。

 ちなみにこの曲は、後にまさにBB5の追っかけな活動をしていたBruce & Terry*6のカバーバージョンも存在し、そちらは3連で鳴り続ける高速ピアノアルペジオ大瀧詠一めいてたり、歌詞にもっとこれでもかというほどのBB5なワードが詰め込まれたりした、1960年代前半的な華やかさを凝縮したようなトラックになっている。そちらもぜひ。っていうかメロディ追加されてたりもしてないかこれ。デモだけ作られてリリースされなかったっぽいが、歌詞をはじめ色々とやりすぎなんだよあなたたち…きっと自分たちでも作ってて爆笑してボツにしたでしょこれ。

 

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50年代の10曲:おわりに・及びプレイリスト

 以上10曲を見ていきました。

 元々は、1960年代くらいまでの楽曲と合わせて20曲くらいのリストとして書いていくつもりでしたが、思いのほか1950年代の曲が多く集められたので、単独で記事にしてみることにしました。それにより良かったことなんかも無い事もないなと思います。

 思うに、1950年代までは夏の曲っていうのは「演奏のプロがポップスの世界で演出して作り出す領域」だったのかな、という感じがします。というのも、もっとブルースやロックンロールに夏の曲があっても良さそうなのに、存外目立つものが全然見当たらない、ということに調べてるうちに気づいて、この時期はまだ夏の曲は「ヒットを目指すためのポップス業界のツール」としての側面が強かったんだろうなと、調べたり書いたりしてるうちに思わされました。

 しかしその分だけ、ロックンロールの世界から出てきて、しかも「満たされない夏・フラストレーションだらけの夏」を描いた『Summertime Blues』というのは、音楽業界的にも「夏の曲」の歴史においても革命的な存在だったのかもな、とも思い至りました。夏の曲においてはまさにこの曲こそ、1960年代へ向かう突破口であったことには疑いようがないなと、書いててセルフ洗脳されました。あと、元々は過ぎ去っていった幸せの光景として歌われがちだった夏の歌が、1950年代を経ていくうちに次第に「学校を出て楽しみに行こう」という幸せの当事者の目線に移り変わっていく感じがあるのは何気に大事な事だったのかもしれません。夏をもっと能動的に味わっていこうとする視点もまた、BB5の登場の伏線も含めて大いに大事な要素でしょう。

 そして時代は、1950年代のポップスの技法を用いて「自分たちの夏の物語」を様々に描き出さんとするBB5を先頭に多種多様・玉石混交な「自己表現」が為され、やがてサイケ時代を経てより象徴的に「夏」が扱われるようになる1960年代に移り変わっていきます。自身の中のナチュラルなBB5史観っぷりに少し驚きつつも、上記の都合によりリストは大体完成しているので、なるべく早く次の記事が出せればと思っています。

 それでは最後に、段々増えていく予定のプレイリストを掲載して終わります。

 それではまた。

 

(2022年8月22日追記)

 次の年代、1960年代の記事です。扱う曲数が一気に20曲になります。

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*1:ギター演奏については学んだことがないそうです。なのになんであんな素晴らしいギターや素晴らしいアンプを作ることが出来たのか。

*2:その分、というか、Les Paulの場合確かにギターは共同制作したものの、ほとんどの開発はギブソン社が行なっていたらしい。というか1962年にはギブソン社との契約も切れてる。自分の預かり知らぬところで「レスポール」と名の付くギターがSGみたいな軽量化されてたことに憤慨したりしたらしい。同じく軽量なジュニアはやはり氏は関わってないが、それでもまだ彼がギブソンにいた1954年に発売してる。何を思っていたのか。というかジュニアって殆どレスポールと別のギターじゃないか…?

*3:「うんざりするほど暑い中で情熱的にセックスする」みたいなイメージはいくらか需要ある感じあるけど、でもそれも現実的なところを考えるとうんざりしてきそう。クーラー入れようや、ってなりそう。

*4:どうにかして得た4連休をこういう記事を書くためにゴリゴリ虚しく浪費してる訳だし。

*5:でも実際、こういったポップスの類の魅力を自身の恥肉として結晶化し、そこにロックンロールも混ぜ込み、さらには若者特有の煌めきを十全以上に備えた初期BB5の存在って、アメリカのポップ史を見て行けば行くほど「ひとつの到達点」じみた存在だったのかもしれないな、という心境になっていく。別にプロの音楽集団だった訳でもない彼らをいきなりこうまで引き上げたBrian Wilsonの才能の凄さだろうし、その凄さをキープするために演奏陣に本当のプロであるWrecking Crewを引き込むことになったのも、このポップスの歴史を踏まえて考えると何か必然めいたものを感じなくもない。

*6:のちに両名ともBB5に大いに関わることとなる。