ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

歌をエフェクトにかけてしまうということ(30曲)

 声というのは基本的に、声質や歌い方に無限の個人差が生じる、究極的にこの世にその人その人の持つひとつしか存在しない楽器であり、また歌なりラップなりをするのであれば多くの場合言葉を生じ、すなわちある程度意味を生じさせるというその一点において他の多くの楽器と全くその性質を異にする音声発生装置でもあります。

 しかし、こと「複数の楽器を録音して楽曲を作る場」すなわち録音スタジオにおいては、それは他の楽器と同じく「楽曲を構成する音声の素材のひとつ」ともなります。もしくは時代によっては録音機材・技術の限界により、元の声質とずっと変わってしまう形でしか録音できないこともあったでしょう。ノイズが乗ったり歪んだりえらい反響が効き過ぎてしまったり。

 ある時、自分の歌の音質をこのスタジオ技術によって加工しようと目論む人たちが現れました。歌は声質に加えて歌い方・重ね方などでさまざまに変化しうるものですが、さらに録音方法や録音後の加工によっても変わってしまうことと、そのノウハウを解り始めたことで、ある種の人々が歌をエフェクトにかけてしまうことで、楽曲をより良くしよう、ただのいい歌では辿り着けないところまで行こうとし始めたのです。

 すなわち、EQで帯域を大きくぶった切ったり、声を機械的かほぼそうなるように重ねたり、声に極端すぎるリヴァーブやエコーを掛けたり、回転数をいじって声を高くしたり低くしたり、より現代的なボーカル補正機能を転用したエフェクトを通したり、いやギターに使うやつやろそれは…って感じのエフェクターを掛けたり、サンプリングしてエフェクトじみた使い方をしたり、

 今回は、そんな声エフェクトの歴史をきっちりと全部追いかける、なんて芸当は知識的にも能力的にも無理ながら、ぽつぽつと思いついた範囲で30曲*1、なんとなく見ていこうというものです。頑張れは何かしら分類めいたものも見出せるのかもしれませんがそんなことせず、余計な前置きなしにすぐ始まって、最後にSpotify上にあった楽曲のみ収録したプレイリストを置いておく構成です*2。年代順で並びます。折角歌に触れることになるので、歌詞も少しだけ見ておくと雰囲気出るかなと思うのでします。

 

 

 

1950s〜1960s

1. Heartbreak Hotel / Elvis Presley(1956年)

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 Elvis Presleyのパロディ音源でよく掛けられる強いエコーの元ネタはおそらくこの曲で、彼のベスト盤で有名曲を聴く限りにおいてもここまで強烈な掛かりは珍しく、ということはこのエコーこそが、後世の人々が「なんか声にエコーを強く掛けると格好いい」と思うようになった重要なルーツなのかもしれない。つまり、“ボーカルへの意図的な加工による不自然な効果”という今回のテーマの着火点がここなのかもしれない。

 この効果はどうも狙って起こされたわけではなく、メジャーデビュー時の最初のレコーディングでそれまでの音源と同じような録り音にする方法が分からず、エコーチェンバーで録音したため偶然こうなった、というのが真相らしい。それでこの、今で言うところのスラップディレイの世界最初の事例かもしれない音を引き当てる豪運と、それが実際不自然なのに格好良く極まるロックンロールの奇跡みたいなのが、彼の伝説の始まりを予感させるようなものを当時生み出したのかもしれない。いきなり歌い出しで聴こえてくる、明らかに生の声じゃない変にダブついた強烈な歌。Elvis Presleyという存在がすっかり忘れ去られた未来がもしあるとすれば、この曲のボーカルに「なんだこれは…?」と初見的に驚く人もいるかもしれない。

 

ああ もし恋人と別れてしまったなら

話したいこともあるだろうね

じゃあ ロンリーストリートを歩いてみるんだね

ハートブレイクホテルに向かって

 

そこできみは孤独に苛まれて 孤独に苛まれて

孤独に苛まれるあまり 死ねるだろうさ

 

 

2. Tomorrow Never Lnows / The Beatles(1966年)

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 エコーやダブルトラックは1960年代のボーカル処理において一般化していくけども、ドラッグカルチャーの進展とかそういうのはより極端なサウンドを求め、それはボーカルにも求められた。スピリチュアルなものも絡んだムーブメントだったから、声をこう超越的な感じに聴かせたかったんだと思う、この時期のJohn Lennonとかそういう人達は。

 すなわち、「向こうの山のてっぺんからダライ・ダマが歌っている感じ」を彼がこの曲のボーカルに求め、そしてそれをレズリースピーカーにボーカルを通す、という力技で実現したのは、The Beatlesというバンドが発明したとされる数多くの革命的サウンド手法とされるものの代表的なものだ。具体的には、はじめはダブルトラックで録音された歌で始まりつつも、様々な逆再生テープなどが乱れ飛ぶ最初の間奏を経て、ボーカルが不自然なくぐもり方とフェイジングを始めるところ。彼には自身の声を嫌い様々な歌唱法や録音処理で誤魔化そうとする不思議な癖があったけども、それがこのように当時としては過激な処理方法として現れたことで、ボーカル処理により積極的な効果が望めることと、あとサイケデリックなテクノやらハウスやらのボーカルは声を変化させてナンボみたいなところが広まったんだろう。

 まあでも歴史的な意義とかともかく、今でも相当に格好いいよなあ。最初からボーカルを効果ズブズブにしなかったクレバーさとかが、完成前の実験的ではあるけどグダグダなテイクなどを聴くと逆に分かる。無茶苦茶してるようで、それがちゃんとシュッとした形になるようブラッシュアップする能力がこの人達はとても高い。いや、素晴らしい音楽家はみんなそうなのかな。歌詞はどうかな。

 

あの愛ってやつ あれが全てであり みんななんだ

それが知るっていうこと 知るっていうこと

黙殺や憎悪は死体に嘆きを抱くかもね

それが信じるっていうこと 信じるっていうこと

でも きみの夢のその色彩に耳を傾けてみなよ

それは生ではないさ 生きてるということではない

あるいは 「存在すること」ごっこをしてみなよ

始まりの終わりが来るまで 始まりの終わりが来るまで

始まりの終わりが来るまで 始まりの終わりが来るまで

 

…半ば適当に言葉を繋げてもそれっぽくなるのは詩人の素養かもすね。。

 

 この曲の入ってるアルバム『Revolver』についてそういえば全曲レビューしてたので参考までに。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 

3. Palm Desert / Van Dyke Parks(1968年)

 1967年のサイケデリックロックがブームとなる年を経て、ボーカル処理もかなり“不自然が自然”な状況になっていった部分がある。とはいえ、The Beach Boysの幻のアルバム『Smile』にガッツリと関わったことで既に相当浮世離れしていたであろうこの人の最初のソロは、『Smile』の中の質感フワッフワ中身残酷なアメリカ史妄想のフワッフワ部分だけを取り出してきたような作品で、それは声の質感としても多大に現れている。

 つまり、この曲の単純なエコー処理だけで済んでない、夢見がちなフェイジング処理や、あちこちの位相からぼんやりと立ち上ってくるボーカルのふんわりとした旋律の感じでもって、「なんとなく懐かしい」アメリカンなミュージカルめいた景色と形式とを現出させようというのが、この曲におけるボーカルの重要な役割だ。時折ディレイさえつけて勿体ぶってくる。そこにはまるで地に足のついてない形での、なんとも不確かな“懐かしさ”が立ち上り、うつろで頼りないが故に射程の長いその雰囲気で、しばらく昔にあったかもしれないなんかの共同体のイメージを抱かせる。言葉も合わせて見ると、案外毒々しさも含んだ、偽物のノスタルジーを携えて。…こんなことを本気で考えて音作りを狙ってやってた可能性があるのが不思議なところで、そりゃ売れるはずもないよね、というもの。

 

夢はいまだにハリウッドで生まれる 理解に苦しむ

若造どもが知ってるとただ思い描き給えよ

彼は相当な幸運に恵まれた

公正なる銀行どもの共謀のざわめきを通り越して

脱出を買取り またはゲームを超えてそこに留まり給え

 

パームデザート 消えないで 居続けたいのに

賢者がひしめいて だから頭を地面に擦り付けるような

 

本当に音のモコモコさに反してかなりシニカルそうな内容。

 

 

1970s

4. Soldier of the Heart / Judee Sill(1973年)

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 ダブルトラックというボーカル録音の手法の起源はBuddy Hollyだとされていることもある。同じ歌を一人で重ねて録音できるスタジオという環境は、ひとりでハーモニーをつけることもさることながら、同じメロディを2つ重ねることで、歌の響きから生々しさを除去し不思議な揺らぎを与える、いわば、いい感じに“作り物”っぽくする効果を与える。元々は2回歌って重ねていたところ、The Beatles時代のJohn Lennonが2回同じように歌うのが嫌いだったか苦手だったかで、1回歌ったものにショートディレイを掛けてダブルトラック効果を持たせるADT*3なる装置が開発された。装置の使用はダブルトラックのボーカルをより機械的で冷たい質感で聴かせるようになり、その生々しさの希薄さを狙ってダブルにする人は今に至るまで大勢いる。

 Judee Sillという波瀾万丈な人生と非業の死を遂げた優れたSSWは、この時代相応のカントリーフィールの効いた楽曲を多く作っているけども、この人の不思議なところは、元々ゴスペルから強い影響を受けているにも関わらず、大半の楽曲でダブルトラックでボーカルを録っていること。彼女の意思ではなくプロデュース側の都合だったのかもしれないが、いやそれにしても彼女個人の意思が強く反映されたとしか思えない宗教的な感触の強い2枚目のアルバムでもダブルトラックだらけだから、やはり彼女の意向なんだろう。

 基本土っぽい演奏の感覚と一見相反するような彼女のダブルトラックの多用は、それにより、本来生っぽい感触の演奏でまとまるはずのものが声だけ妙な存在感になるという、ちょっとしたミスマッチを起こし、そこにどこか、寂しい非現実感を覚える。もしくは彼女も生の声に自信がなくて/コンプレックスがあってこうしていたのか。こんな素晴らしい歌い手なのに。でもその辺の心のことは分からない。静かな曲ならともかく、こんなに躍動感のある、演奏の何もかもが実にキビキビと快活に重なり、途中からゴスペルめいたコーラスさえ入ってくる力強い曲でもダブルトラックの少し冷たい質感で通すのは、それが積極的なものであれ消極的な理由であれ、間違いなく彼女の特質だと言える。強みか弱さかよく分からないものに時に惹かれてしまうのは、それは批評かそれとも同情か。

 

戦場はとても寒いから 貴方を温めるんだと意気込む

この気持ちを捧げよう

戦闘色した空を炎が引き裂いていて

傷だらけでも 泣かないよう努めた

「さようなら 貴方の元を離れることになるでしょう」

そう言ったけど 最後に覗き込むと

あの方がわたしを引き上げてるのが見えた

 

心の兵隊さん どうやってそんな強くなれたの?

心の兵隊さん わたしも連れて行って

心の兵隊さん どうやってそんな真摯になれたの?

心の兵隊さん 貴方と行進したい

心の兵隊さん 貴方についていきます

 

彼女の歌は宗教的要素が本当に多い。だからゴスペルになるのも分かるし、だからこそ、そんな歌をなぜダブルトラックで歌うのか、その心理はとても興味深い。

 

 

5. Far East Man / George Harrison(1974年)

 声を重ねるということにはボーカルの輪郭をぼやかす効果もあり、それは時にある種の“ごまかし”を求めて採用されることもある。それは少なくない場合においてアイドルのレコードとかだったりもするようだけども、The Beatles解散後水を得た魚のように快進撃を続けていたはずのこのSSWも、ソロ3作目となるアルバム『Dark Horse』にて、私生活でのトラブルやスケジュールの都合などから体調を崩し、特に声の調子が良くなかったのを誤魔化すためか、ダブルトラックどころではない声の重ね方を多用し、妙にエコー処理が少なくかつローファイな楽器の録音具合といい、歌謡曲じみたスローテンポの曲が多いことといい、結果として「キャリアでもとても変で地味な、不調さが生々しいアルバム」と見られることが多々ある。実際、タイトル曲の声の荒れっぷりは象徴的なものがある。

 だけども、そんな変なものにも、その変さを愛好する人がいる。自分はまだその境地に至れてはいないと思うけども、しかし、Ron Woodと共作し、彼なりのソウルミュージックを実現しようと努めたこの曲については、上記の録音状態も含めた変な特性が、ローファイ・ソウルとでも言いたくなるような独特の良い雰囲気を的確に作り出せている。エコー処理が甘い故に妙に生々しくいなたいギターカッティングやリズムが導く歌い出しは呆気なく終わりさっさとサビに移行する、いかにもGeorge Harrisonな変なソングライティングもさることながら、ここではダブル以上にユニゾンで重ねたボーカルにさらにファルセットまで重ねられて、しかもこのアルバム的なハイの死にっぷりもあって、物凄い厚化粧ながら渋みの効いたボーカルを生み出している。間違いなく普通に録音されたボーカルと全然違うけど、「これはこれでいいな」って思えたらそれはそれで勝ちかなと。

 

総て こちらもあちらも浮き沈みするから

愛とは何かという問いかけが生じる

それは偽りか 価値あるものか

 

彼の落胆などあってはいけない

できる限りはしないといけないな

彼が溺れ死ぬなどあってはならない 彼は極東の人さ

 

 何かを目指した結果全然そうはならなかった、けどもこれはこれでとてもいい、というのは音楽に時折起こる現象だけど、この曲はそういう、まぐれめいた奇跡が静かに起こった煌めきのひとつなのかもしれない。以下の各アルバムレビューを書いた時よりも、この曲は今の方がずっと好きになれたな。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 

6. Love to Love You Baby / Donna Summer(1976年)

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 ウィスパーボイスのボーカルはそもそも普通の音量で並べたら演奏に埋もれてしまうものだから、ある程度エフェクトの補強が必然的に必須となる類のもの。コンプレッサーでブレス音まではっきり聞こえるように音を圧縮し、さらにエコーで存在感を際立たせるのは1960年代の時点で結構事例の見つかるボーカルアレンジ。

 しかし、それをここまでエロティックに転用しつつ、かつ淡々としたミニマルファンクな演奏に載せたのは大変思い切ったもので、この曲はディスコというジャンルの最初期のヒット曲となった。ただ、“ディスコ”という概念から発されるもう少しテンションの高い雰囲気からすると意外なほど、この曲のテンションは暗くそして淫靡。そりゃあまあ、歌詞が露骨にセックスめいた雰囲気してるし、それを大声でハキハキと歌って演奏するのもアレよなと。つまり、秘め事めいた、というか秘め事そのものな内容のウィスパーパートと、ディスコと呼ぶには暗く煙たくねちっこい演奏の上のタイトルコールの妖艶さの対比、そしてそれをポルノビデオめいたあられもない嬌声で接続してしまったこの曲は、決して純白とは言えないもっと暗く澱んだ情念がしっかりと艶かしく躍動している。

 いろいろ言ってみたものの、要は“エコーは時にエロい”ということなのか。こういう怪しい雰囲気を作るのにノンエコー気味のボーカルは基本あんま向いてないかな、とも思うけど、そういうののクラシックたるこの曲の強力にエコーの効いた具合がそのような伝統の礎となり、そう思わせてるだけのことかもしれない。ノンエコーもやりようによっては生々しくエロいのかもしれないが、エコーがあった方がクッションにはなるんだろうなとは思う。

 

もう何度も何度も抱いて

訳が分からなくなるほどメチャクチャにして

 

あなたを愛してたいのベイビィ

 

こんな歌が公然とヒットしたんならそりゃあ後発のPrinceとかも平気で嬌声入りの曲とか出すわな。

 ちなみに初出のアルバム版は17分くらいあるので、シングル版の方を選んだ。

 

 

7. Video Killed the Radio Star / The Buggles(1979年)

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 19世紀に電話が発明され、音声を遠くに送ることができるようになった。その後1900年代中頃に最初のラジオ的実験がなされ、1920年代より商業ラジオ放送が始まる。音声だけを遠くで受信できるラジオにおいて、音声だけで成立する音楽が放送に適していることは明白で、多くのヒット曲がラジオを通じて多くの人たちに届けられ、音楽文化なるものが大衆化された。エアチェックをする熱心なリスナーが出てきたり、作る側もラジオのその構造上どうしても劣化を避けられない音質を考慮して音楽制作したり等々。

 このようなラジオ文化の全盛期はいつ頃になるんだろうか知らないが、世間の娯楽は次第にテレビに移行してきた。ああ、古き良きラジオの時代は終わってしまうのか、という憐憫を演劇的に表現したこの曲は初の音楽専門テレビチャンネルMTVで最初に放映された曲にもなっていて、そんな皮肉さも含めてのコンセプトで作られたのかなと思うけども、ボーカルについても、いかにもラジオから聴こえてくるようなか細い男性の声と、リリース時期を考えるとえらくハイファイに聴こえるタイトルコールの女性ゲストボーカルの対比がまた見事で、コンセプトを実にシアトリカルにやり切った1曲、という感じ。アルバム聴くとこの曲だけ浮いてて、本当にこの1曲にこの1曲だけの批評性と手管とポップセンスを費やしたんだなと。

 それにしても、この曲などに顕著な所謂“ラジオボイス”的なものもまた、インターネットがすっかり普及しロスレス配信さえ可能となった現代においても、いまだに有力な飛び道具的手法のひとつと言えよう。帯域を大きく削り、歪みなども加えて音質を劣化させたそれは、ダブルトラックやエコーとは別の意味合いで距離を感じさせる。少なくとも、隣にいる人の声がラジオ的に聴こえることなんてない。だから、ラジオ的な音質の声というのは、空間的に遠く隔たれている感覚、およびそれ由来の寂しさや悲しさを思わせてくれる。そう思うとこの曲の、ラジオ声のまま悠々と伸びていく終盤のボーカルになんだか可笑しな感じを覚えてしまう。YouTubeやストリーミングサービスがテレビもビデオも殺してしまった今日において、ラジオボイスってどういう立ち位置になるんだろうか。

 

そしてぼくら 打ち捨てられたスタジオで出会った

録音ストックを聴く とても昔みたいに思える

きみは覚えてる かつてのあのジングルを

きみが最初で そして最後だったんだ

 

“ヴィデオはラジオスターをブッ殺していきました”

“ヴィデオはラジオスターをブッ殺していきました”

心の中でも車の中でも 巻き戻りなんてできない

ぼくら あまりに遠くに来てしまったんだ

 

 

1980s

8. Isolation / Joy Division(1980年)

 自然でいなたくワイルドな1970年代のアンチテーゼとしてのポストパンク・ニューウェーブは、その逆の、不自然で無機質で神経質な音楽表現がどんどん見出されていった。Joy Divisionはそれを実に最短経路で、ソリッドすぎるくらいに端的に、かつそれでいてプリミティブなままに表現することができた(それはメインボーカルの夭折さえ要素として含まれるだろう)ことで伝説的存在となってしまった。特に録音物においては、その功績はバンドメンバーというよりもプロデューサーのMartin Hannettによるところの方がむしろ大きいのかもしれないけども。

 Martin Hannettはファクトリーレコードの作品に多く関わり、それらの作品に共通するのは、無音を際立たせる音響処理だと言える。録り音がスカスカなパンクサウンドだろうとディレイの聴きまくったトラックだろうと、そこに無音の宇宙に投げ出されたような奥行きと心細さを与える。それは声も例外ではなく、Joy Divisionの2ndはそんな強調のされ方をしたボーカルばかりが並んでいる。比較的アップテンポなこの曲も、変なラジオを潜らせたような、生々しい帯域のカット・ダブリング処理・エコー配置により、そのサビで連呼されるタイトルの、何とはなしにいつの間にか阻害させられていたような感覚を的確に演出する。その的確さはどこか“残酷”と言い換えてもいいかもしれない。

 

母さん ぼくは挑んだんだ 信じてよ

自分にできることをやってきたんだ

これまでやってきたことが恥ずかしい

ぼくという人間が恥ずかしい

 

孤独 孤独 孤独

 

こんな悲しいことを歌う声をエフェクトで孤立させてしまうのは歌への虐待ではないか。実際どんな気持ちでMartin Hannettはミックスしたんだろうな。

 Ian Curtisの歌は孤独感が滲み出たものだと称されるけども、そのどれくらいの割合がMartin Hannettの功績なのか、そのプロデューサーもすぐに酒とドラッグでダメになって1991年に早死にしてしまったりして、なんだかそんな功績とか正確に測ること自体がなんだか虚しいような、そんな磁場が生じているようにさえ思うし、そのこともまたかえって残った作品の呪いめいた魅力を高めているように感じる。

 

 

9. 雨のウェンズデイ / 大滝詠一(1981年)

 日本において能動的にボーカル録音の研究を行った人物として大滝詠一は外せない。自分で曲を書いて歌う立場でありながらどこかプロデューサー志向、という彼の性質により、1970年代の時点でセルフプロデュース体制を確立し、様々な実験をお金もないのに実施しては設備的限界を感じ、その後ソニーに移籍してプロフェッショナルでデジタル移行中な最新鋭のスタジオ技術に自分の理想を実現しうるものを感じ、『A LONG VACATION』以降の快進撃の中で、彼流のボーカル含めた音響処理、つまり、デジタルエコーを用いたウォール・オブ・サウンドなるものを作り上げた。彼は以降ずっとそれに執心し*4、1985年に一旦全て出し切った上で活動停滞し、そして亡くなった。

 上記のような成り行きなので、『A LONG〜』以降の作品は大体において大滝エコーの効いた基本ドリーミーなボーカルばかりを聴ける、むしろ彼にとってはそれが自然、とさえ言える環境だけども、この曲など少し事情の違う曲もちょっとある。実にムーディーな奥行きを持ったAOR調のこの曲がティン・パン・アレー*5メンバー再結集でものすごく殺気立った*6中作られた、という意外で有名な話だけど、ボーカルも普通のダブルトラックが何故か上手くハマらず、代わりにデジタルディレイによる機械的な処理にしたらハマったという。彼曰く、ダブリング処理のボーカルで実際に2回歌わずにディレイ処理で済ませたのはこの曲くらいのものらしい*7

 特にサビの箇所の音に溶けていくような少々サイケさも滲んだエコーの感覚が、機械的な処理によるものだと思うと広がっていくものがある。製作者の異様な饒舌により明かされたこのような要素なんかが、案外インディー的なドリームポップとの接続点になったりしないかなと思ったりも。

 

昔話するなんて 気の弱い証拠なのさ

傷つけあう言葉なら 波より多い

海が見たいわって言い出したのは君の方さ

降る雨は菫色 時を止めて抱き合ったまま

 

 そういえば、大滝詠一がサブスク解禁になったのももう結構前だよな…とか思って確認したら、まだ3年ほど前のことだった。“まだ3年”なのか“もう3年”なのか。その時に色々書いたことを思い出した。

 

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10. SPORTS MEN / 細野晴臣(1982年)

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 大滝ときたら細野、というつもりがなくても、この時期は二人ともいい作品を連発してたんだろうから何かと並ぶことが多いかも。YMOによって世界を股にかける活躍をしながらも、緊張感と閉塞感に満ちた音楽制作を続けていた時期が1981年『BGM』『テクノデリック』という張り詰め切った2枚のアルバムにてあまり良くない意味でひと段落付き、もうYMOなんかやめてソロやろう、となったのか、打ち込みリズムとエレポップ的なシンセとサンプリングがシュールに乱れ飛ぶアルバム『フィルハーモニー』だ。緊張からの開放感と、YMOを経て“クオリティ”的なものを置き去りにせんとする実験精神とが吹き荒れる。すでに後のアンビエント期に繋がりうる曲もある。

 そんな混沌の8曲目に突如現れる、細野曲で最高にエレポップでドリームポップな楽曲がこれ。アルバム中でしっかりポップソングの骨格がある(カバーの『フニクリ、フニクラ』を除いて)唯一の曲。硬いリズムの後にドリーミーな鍵盤と共に現れるサンプリングボイスの時点で、この曲の極楽さは決定したようなもの。絶妙に帯域をカットした、ノスタルジックな機械仕掛けのコーラスワーク。これ延々リピートでも名曲だったろう。しかし、しっかりとニューウェーブ的な加工と歌い回しの細野ボーカルが始まり、楽曲は明確な展開をもってしっかりと進行していく。そしてそれが、実にポップなサビの展開に抜けていく。ここでも声を重ねて、機械的ながらも人間的な合唱の感じをするのが、独特の温かみがして良い。最終盤のサビなんて、これにさらに冒頭のサンプリングまで再登場して、わずかな間広がる極上の声楽空間と、それが呆気なく終わってしまうことまで。なんだか奇妙に切ない質感。

 

この頃は眠らないんだ きっと不眠症

この血肉の渇きを潤してほしい

そんなこときみに乞い願ってるんだ

きみのお兄さんはバットマンなんて呼ばれて

きみのお姉さんはワンダーウーマンだよね

日曜日が来るんだね ぶっ倒れてしまいそう

家族みんな投光照明の下 身体を鍛えてる

みんなぼくを弱え奴だと言う

 

いい具合にさっぱりした人になろう さっぱりした

そんなスポーツマンになろう

 

1980年代特有の、他の時代の細野晴臣的な飄々とした感じのない、暗い内容。ヴァースの屈折っぷりからサビの明るくなる流れは歌詞にも掛かりつつ、しかし“スポーツマン”という単語も、ただ“健康的なアスリート”という意味で言ってるのかもっと比喩的な何かなのか。皮肉なのか、本心の願いなのか、色々なのか。その辺のことによって、天国めいたサンプリングのコーラスもまた聴こえ方が色々になっていくだろう。

 正直こういう曲を10曲集めたアルバムとかめっちゃ欲しくなるけども、それを出さなかったからこそ、この曲に尊さが集中しているところもある。2010年代以降のライブ活動の基本様式であるカントリースタイルでの演奏もいいけども、やっぱりこの原曲の、チープであるが故にタイムレスにさえ思える夢見心地は唯一無二のものだ。

 この曲は以下の記事ですでに曲単位で取り上げ済みで、この時とそんなに違うことが書けなかったなあ、とここまで書いて少し残念な気持ち。あのサンプリングボイスの良さをどうすればもっと表現できるだろう。ずっと聴いてたいやつよね。

 

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11. Aikea-Guinea / Cocteau Twins(1985年)

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 Cocteau Twinsもまた「基本ボーカルが無加工ってことがまずない」アーティストのひとつ。というか、1980年代に関して言えばどの楽器にもエコーが掛かってるのが普通くらいまであるような。

 なので1980年代のこのバンドならどの曲を選んでも今回の趣旨に合いそうな気はしたけど、神秘的な重厚さとポップさが両立したこの曲をとりあえず選んでみた。重く広く広がるドラムの音と、謎な反響をするギターの音が次第に迫ってくる感じはまるで神聖さの立ち込めた神殿に入っていくかのよう。ボーカルも何言ってるかわからないような声で、半ば童話みたいな不思議な合いの手を入れつつ進行し、ファルセット気味の声と地声とが交差し、そして両方ともエコー塗れで訳の分からないことになりつつも、しかしどことなくポップさは維持したまま、という、この時期のこのバンドが実現できるギリギリの地点で音響的冒険と歌としてのポップさが釣り合っている。これよりも後はしばらくの間、歌のポップさよりもムードに没入していく姿勢を続けていく。

 それにしてもこれ、何を歌ってるんかな…英語サイトに英語の歌詞を掲載してるとこもあるけど、これホントかなあ…。この曲の歌詞はパスで。。

 Cocteau Twinsもそういえばこのブログで記事書いてるな。今回そういうのばっか。

 

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12. マニアの受難 / Moonriders(1986年)

 1980年代に実験を突き進んだグループとしては日本のMoonridersも大概のもの。第一線級の歌手やSSWが歌のトリートメントとしてボーカル加工を受け入れたのと異なり、特に1980年代の彼らはインディー的な自分達の声をより「上手くはないけど、でもなんだか凄い妙なことになっている歌」にすべく、実験のためにひたすら自身の歌をどう重ねるか・弄るか・響かせるかに拘り続けてきた。『マニア・マニエラ』から始まる実験そのものが目的化したとしか思えないその制作スタンスで急速に消耗しつつ、その果てとして美しさと奇怪さが入り乱れた『Don't trust over thirty』で活動休止に入るのは、ひとつの達成だったと言える。

 この曲なんか、とてもまともではない。この曲はもう、なんていうか、このバンドがやってきた声に関するトライアルの総決算じみた性質すらある。そもそもいきなり誰の声だよこれ…っていう女性と男性の左右にパン振られたユニゾンの声が、よりにもよってトレモロでマシンガン式にズタズタにされた形で歌い始める。リズムが入って楽曲本編らしきものが始まってからも、えらく高くピッチシフトされた声が響き渡り、追いかけてくるコーラスはやっぱりズタズタ、そしてラジオボイス的に減衰した鈴木慶一の変なテンションの声が誰かの声と掛け合いを始めるところで、この曲は本当に異様なんだなと気付かされる。何もかもがおかしい楽曲ではあるけども。

 終盤の展開も狂気じみていて、スピリチュアルなシンセサウンドに移行した後に遠くの方、薄膜の向こうみたいなエフェクトの先で、実に困難なマニアの生態を半狂乱で、歌として成立しなくなるギリギリのところで喚き散らし続ける。その調子はまるで、狂気を巧みに演出しようとしてそのまま狂気に落ちてしまったかのような。いつの間にか他人めいた声にすり替わり、そのまま終わってしまう。曲展開の奔放さから言えばプログレと呼べるかもしれないこの曲をそう呼びたくないのはなんなのか。音楽というよりもこれはむしろある種の発作か何かではないのか。声をエフェクトと言葉でグチャグチャにしてしまう発作。傷ましくも、間違いなくこれがこのバンドが到達した“果て”であることは間違いない。これが一応“歌”として成立してしまってる時点で彼らの勝利だということ。よく分からない次元でじつに業が深い。

 

遠い空の彼方 広がり続けてる

細胞の奥でも 広がり続けてる

追いかけても すぐ次 知ること増える

 

OH すべての事はもう一度行われてる

すべての土地はもう人が辿り着いてる

 

ひたすら難儀なマニアの生態と哀愁を歌った歌のようでもあり、しかし「人が辿り着いてない土地」を疲弊し尽くしながらあらゆる手段を駆使して探し求め続けた1980年代のバンドの姿を誇り慈しむ矜持の歌のようでもある。

 

ぼくは運べない 交換できない ものが好き

 

しかしこの1行はサブスクにすっかりズブズブな自分にはやや耳に痛い…。

 そして、Moonridersについても弊ブログでそれなりにガッツリ書いた記事があるわけで、今回本当に自分の過去の領域から飛び出すことが全然ないな…。

 

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13. If I was Your Girlfriend / Prince(1987年)

 もしずっと前から書き始めてる1980年代のPrinceの記事が完成してたら*8これも弊ブログ記事付きの項目だったのか、と思うと笑える。でも、ボーカル加工の話にうってつけの重要な要素が彼の歴史にあるのも間違いない。すなわち、彼が1986年に突如思いついてアルバム一枚分制作しボツにした『Camille』のことだ。それは、彼が自身のアルターエゴとして女性人格を設定し、それに歌を近づけるために極端にピッチシフトした歌とゴリゴリに密室的でトランペットとギターがバッキバキに躍動するファンクで構成された作品集で、彼はそれを10日で録音し*9、マスタリングまでして、そしてリリース前に中止した。

 彼の恋人への欲望と理性のせめぎ合う様は様々な形で1990年代まで噴出し続けるけども、女性に・恋人そのものになりたい願望を声で強引に表した上で、上記のせめぎ合いテーマをどん詰まりまで突き詰めてしまった感のあるこの曲は、そういう意味で何重にも業が深い。冒頭に結婚式で流れるアレを流しておきながら、その後実にローテンションで始まる楽曲の、何かが静かに淀みきってるような雰囲気の的確さ。そしてその薄らと気持ち悪い雰囲気の中をはじめは切なげに、しかし次第に感情の抑えが効かないとばかりに崩壊していく、ピッチシフトされたボーカル。感情の乱れたあまりに自分のルールを他者に押し付けるようにさえなる歌詞の内容とともに、この曲を聴く人はしれっと、Camilleと名乗るPrinceから何か悍ましいものを押し付けられ続ける。そして、それでもトラック総体としては不思議なスマートさで貫かれている。

 この曲で彼は何を表現したかったんだろう。あともう少し過激で乱暴な表現が混じれば、彼はこの曲を放棄し未発表の箱に入れただろう。しかし彼は、この曲を結局一連のボツの末にリリースされた『Sign O' the Times』16曲のうちのひとつとして残し、さらにあろうことかこの曲をシングルカットさえしている。この曲には、彼がアルターエゴなんていう訳の分からない表現方法でリリースしようとした理由の、その核の部分が潜んでいるんだろう。明らかにこの曲は彼にとって(彼が自己嫌悪してそうな内容も含めて)大事な曲で、このような奇怪で生理的嫌悪感さえ抱かせうる楽曲としてしか吐き出しようのなかった何かなんだろう。その複雑な情念が静かにながらしっかりと悍ましく刻まれたこの曲は、間違いなく名曲だ。

 

きみが服を脱きたいからってだけでぼくが部屋を

出ないといけないなんて本当かな?

セックスする=子供を作らないといけない じゃないよね

ならさ オルガズムのためにセックスするんでもないよね

 

きみの身体こそぼくの全て*10 

見せてよ ぼくは見せれるよ なんでダメなの?

友達なんだしできるよね?きみのためならぼくはするよ

勿論 きみの前で服脱げるよ 裸になったらぼくどうしたらいい?

それってクールなんだよって どうしたら分かってくれる?

ただただぼくを信じてよ きみの女友達なら信じてくれるね

あああ きっとそうだね

ねえ きみのためなら裸でバレエだって踊るさ

そしたら喜んでくれる? 何したらいいの教えてよ

ぼくが女友達だったら教えてくれる?

じゃあきみの裸を見せてよ きみを風呂に入れさせてよ*11

きみを思いっきりくすぐって笑いが止まらなくさせてよ?

そして キスさせてくれる?分かるね 下の方 ココ…ってとこに

上手にやるよ 一滴残さず飲み取るって誓うよ

そしてきみを抱きしめるんだ 強く そして長く

そして一緒に 静寂を見つめていよう

 

一番気持ち悪い部分の抜き出し。散々気持ち悪いことを喚き散らした末に、最後に静寂を一緒に見つめる、という結論になるのがまた変な奥行きがあって怖い。

 余談ながら、ギターを使ってないのでずっと書こうとしてる記事で触れようがなかったこの曲をこういう形で拾えてよかった。

 

 

1990s

14. Rainmaker / Sparklehorse(1995年)

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 歪みをかける効果、というのはギターにおいては必需品だけども、ギター以外にも色々と使い道のある効果で、ドラムに薄くかけると迫力が増すとか色々ある。ボーカルにも薄くかけると倍音が増えるとかそういうのもあるけど、時折倍音とかそういうのを超えて、ボーカルもザラザラするまで歪ませることがある。そこまですると聴きづらくなるものだけど、それよりも攻撃性だとかジャンクさだとかあとメガホンで喋ってる感などを強調したい時に使われる。なんとなくだけど、オルタナ・ローファイといったジャンルが登場する1990年代以降に使用例が増えた感じがある。

 そんな声歪ませの典型例としてこの曲なんかが丁度いいんじゃないかと。色々と宅録的なローファイさを隠しもしないむしろ強調した演奏に、さらにこのやりすぎない程度に乱暴に歪んだボーカルで「おれはテキトーに自由にやらせてもらってるぜ」という感覚を出しつつ、歪みの少ないサブボーカルでハーモニー的なところも抑える強かさも持ち合わせ、Ⅰ→Ⅳの繰り返しから適度に哀愁も含ませたコードで全体的にザラザラしながらも朗々と歌う様には、1990年代オルタナが夢見た開けた荒野の感じがする。「こんなに安っぽくてもこれはこれで最高だろう?」という、「これはこれで最高」というのはまさにオルタナティブと呼びうる部分。

 

きみがただただせんといかんのは 空見上げて願うこと

雲の間にあいつの顔が見えるかもね

あるいは 魂の側溝でリラックスしてるかな

 

10月の芝生に打ち捨てられた枯葉の山で寝てるんだって

時々 まぶたに蜘蛛の巣が張ったまま起きるんだ

 

雨男がやってくる 雨男がやってくるぜ

雨男がやってくるぜ ぼくらを水浸しにするべくね

 

 …もちろん、その作曲者がこの曲ほどに自由で牧歌的なキャリアを歩めておらず、次作アルバム冒頭でもっと痛々しい声の歪みを用いることは承知していて、だからこの曲をオルタナ的開放感のひとつの象徴と見なすのになんか違う、という違和感は覚えてはいる。けど、この曲だけ見たらそう見えないこともないと思う。そこにこそ夢を見ることのできる余地が残されてるのかも。それにしても、1stを聴き返すと声にエフェクトかけてる曲の多いこと。2ndも多い。というか全体的に多い。声に過剰なエフェクトをかけまくるのは自虐的・自暴自棄的な側面に見えることもあるけども、そういうことも意識しつつ“新しい何か”が生まれることを期待して曲作りを繰り返してたんだろうなと思うし、その辺のことは自死してからえらく経った後に去年リリースされた遺作からも感じられる。

 

 

15. ナイトクルージング / Fishmans(1995年)

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 後期のFishmansの作り出すサイケデリアは、まるで人間の持つ弱気でネガティブな精神の部分が無限に奥行きを持って広がったところに落とされてずっと彷徨うような、そんな独特すぎる心細さがある。それには首謀者である佐藤伸治の死の顛末もイメージとして影響しているのかもしれないけども、しかし最後の方の作品をずっとリリースし続けながら長く活動していく感じもしない。不謹慎なことを言うと、時に作者自身の死が作品群とあまりにも雰囲気としてマッチしすぎるように思えてしまうことがあって、彼の事例は日本でも最大級のものじゃないか。

 そんなポイントオブノーリターンなキャリアの入り口であるこの曲の、強烈にして大変心細くなる幻惑感はいつ聴いてもすごい。案外ねっとりした奥行きを持つビートとメロディはちょっとソウルっぽさも感じたりしつつ、それでも圧倒的にどこか恐ろしいところに連れてかれたような感じがするのは、サウンドの不穏さとともに、亡霊的な響き方をするように様々な工夫を凝らされたボーカルによるところも大きい。このサウンドであっても、声が生っぽかったらまだ、人として心細く佇む主人公像が浮かぶかもだけど、この曲ではむしろ、声の生々しさを消失させるようディレイやフィルターが掛けられていて、サウンド共々、不確かな存在として声が反響し続ける。不思議なスキャットや、まるでシンセじみて伸びるロングトーンなども、日常世界から隔絶した、何かしらの狂気が普通みたいな裏世界の感じがしてくる。少なくとも“クルージング”という言葉から一般的にイメージされそうな楽しげなレジャーみたいなものは感じられなくて、なのでこのタイトルが少々悪い皮肉めいても聞こえつつ、そのタチの悪さにダークなロマンチックさも覚えるもので。

 

だれのせいでもなくて イカれちまった夜に

あの娘は運び屋だった 夜道の足音遠くから聞こえる

 

 ところでそういう“どこかに連れてかれそうな怖い音楽”という意味で、この曲がアルバム『空中キャンプ』の中でもとりわけ最終作『宇宙 日本 世田谷』の異世界じみた雰囲気に近いものを持ってるのは不思議だ。シングル曲なのになあ。

 

 

16. Half Day Closing / Portishead(1997年)

 声にモジュレーション系エフェクトを掛けると大体において歌は訳が分からない形になりすぎてしまう。この曲もややそのような奇抜さに落ち込みかけてるきらいはあるが、しかしそこはPortishead、そもそも普段の歌からして、普通イメージされる“歌”という概念の楽しげな部分や悲しげな部分を極端に削ぎ落として、乾いた虚無感や疲労感や怨念めいた雰囲気だけを残したようなものばかり。ましてその傾向がより進行し、もはやホラー映画じみた情緒さえ漂う2ndアルバムにおいては、声に強烈なフィルターを掛けても、そういえば他の曲とちょっと演出の仕方違うね、でも怖さの方向はブレてないね、くらいに収まっていてちょっと笑える。

 この曲の声に掛かってるエフェクトは改めてよく聴くと上で挙げた『Tomorrow Never Knows』と似たようなものな感じがする。あちらだと超越的な雰囲気を醸し出していたのに、こちらだとまるで壊れたまま放置され埃被ったスピーカーから声が流れ出してくるかのようなホラーな効果に感じる。同じエフェクトでも使う場面によって印象が大きく変わるんだなと。その劣化した音質っぽい感じが、声を「ヒステリックなサウンド」側に寄せているような、もしくは生の声が時に持つおどろおどろしい質感を少々削ぎ落として異化させているような。ベースとドラムの他はエフェクトめいた音が少々鳴る程度な退廃感の中にこの声は、他の曲の生の怨念めいたボーカルと少々テイストが違って聴こえることで、アルバム中でも廃墟的な光景そのものみたいなムードが出てる気はする。壊れたスピーカー的なボーカルはノイズめいていて、そして終盤では本当にノイズと化してしまう。この曲だけちょっと、人間の愛憎とかとは違う、人間の感情から少し離れたところをテーマにしてる感じがあるのかなと。それは歌詞からも察せられる。

 

縮んでいく空の遥か向こう そこではお金が物を言い

我々は催眠されれ それで道が舗装される訳でもない

 

消えゆく太陽の下で ビジネスマンの数の総和が

静かに 我々を窒息させていった

 

夢や信念は消えて行って 時や人生それ自体は続く

 

  

17. Northern Lites / Super Furry Animals(1999年)

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 1990年代のいつ頃からか、音楽において情報量がどんどん増していく局面があった。それらにニューウェーブだとかグランジだとかみたいなジャンル名が付されることはなかった*12けど、確実になんかそういう一群があった。インターネット以降の情報化社会の反映なのか、Pro Toolsやサンプラーの普及による録音環境の変化によるものなのか。そういった時代の代表のひとつとしてSuper Furry Animalsを挙げることは可能だろう。元々コミカルでシニカルな性質を持っていたバンドが、アルバム『Guerrilla』の頃になるといよいよエレクトロ要素を本格導入し、鳴った音を元に作曲、という手法が取られるようになったのは「作曲が先か編曲が先か」といった、音楽家が時折迷い込む地点だろう。

 ネオアコめいたホーンとカリプソThe Beach Boys的なメロディとコーラスワークを載せたこの曲も、アルバム中でもとりわけ生っぽい音で纏まりながら、その構成要素もややカオスながら、声が絶妙に不自然な処理で貫かれているところに彼らのひねくれた美学を感じさせる。スティールパンをバックに歌う声はダブルトラックの冷却的効果でもってリゾート調なトラックの感じと少し距離を取り、そしてThe Beach Boys風なコーラスワークは少しフェイジングしている、その少しの違和感。これらが、所々で配置されたノイジーなファズギターとともに、この楽曲が“普通に小洒落た曲”に留まることを許さないでいる。あとよく分からないPVも。ついでに、何かシニカルなことを言っているようで、適当に韻を踏んだだけにも思えるような、よく分からない歌詞も。

 

きみめっちゃ注文多いな 逃げ道探さなあかんくなるやん

分かっちゃおるよ でも意味を見出すにはまるで遅すぎや

きみ なんもかんも浜から浜まで吹き飛ばしてもうとる

ぼくを近くに引きつけすぎとる

 

遠くの灯り 森林火災が視界をなんもかんも焼いとる

調査衛星でぼくらそれを見てとれるね

(調査衛生もぼくらを見てんね)

きみの頭で現代理論のなんもかんもひっくり返って

こんなん死んでまうわ

 

心配させたり急かしたりせんといて

北極光の遠くまで吹き飛ばしてえな

ぼくなんか捨てといて 捨てといて

北極光の遠くまで吹き飛ばしてえな

 

 

2000s

18. エンゼルコール / 七尾旅人(2000年)

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 1曲上で書いた“情報が氾濫した一群”の中には初期七尾旅人も入るだろう。具体的にはアルバム『雨に撃たえば disk2』『ヘヴンリィ・パンク・アダージョ』の頃。『雨に〜』の方は特に、トラックの情報量も過剰なら、様々な歌い方で支離滅裂なようでいて妄想と過酷な物語とに塗れた内容を語る歌も大概過剰で、しかもボーカルエフェクトも多用され、日本の世紀末音楽でも随一のカオスを形成する。次作『ヘヴンリィ〜』に至る過程でその情報量はある程度整理されていくけども、その過程でメジャーレーベルから降りる前に出た2枚のシングル、すなわちこの曲と『夜、光る』においては、歌の過剰さは抑えられつつも、物質的な音からの逃避と情報量の高速化はむしろ加速し、歌もその方向でトリートメントされ、『ヘヴンリィ〜』のモードと少し異なる感じがする。初期の彼特有の囁く歌い方を、より不可視に飛び交う“電気情報”めいた伝達っぽく聴かせようとする努力というか。つまり、人間的な生の感じの徹底的な排除。その方向でアルバム1枚聴いてみたい気もするけど、そんなんしたら持たなかったろうな。

 この曲は初期七尾旅人の持つ声の繊細さを電子的手法で突き詰めたような作りで、リズムなしで始まる最初はまだそこまで加工が少ない声が、リズムが入ってくると一気にダブルトラックとフィルターによって“非人間化・電子化”されていく。ファルセット混じりのウィスパー気味の歌い方も相まって、電子的揺らぎの中に神性を見出すような気持ちになる。ブリッジ部の同じ音のサンプリングの反復に至っては声が相当にサウンド化され、しかし、でも声はやっぱり声なんだという強みもある。あと、ミドルエイトの前半でとりわけ電子的・機械的に拡散した調子となった後に、深いエコーの底に生の声が繊細な声で呟くように歌う箇所は、声のエフェクトの変化でドラマチックな曲展開を演出する、徹底的な作り込みが見える箇所。こんなのライブだと再現のしようもないししても面白くはなさそうだけど、スタジオ録音だからこその良さが確実にある。

 

つなげた小指に ちから込め僕ら、飛ぶ...「カーティ...」
 
朝が来て...たぶん 朝が来たらたぶん...目が覚める
 
翔る 翔けていく 涙、飛び散る スピードのせい 胸は痛まない
翔る おちている?白すぎる夜に 話さなくちゃ 誰かに、全部

 

 

19. I Might be Wrong / Radiohead(2001年)

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 さっきから話をしている“情報量の多い”音楽作品の一つとして『OK Computer』は入れてもいいような気はしてる。その前提で行くと、それよりも後のこのバンドの歩みはある意味で、膨れ上がった情報量を解体して、どれだけスカスカな要素で異様なものを作るか、異様というか、独特なものを作り出せるか、といった試みとも捉えられる。つまり、電子音なども用いつつ、ベースに素朴なフォークやドゥーワップやそしてブルーズを持ってきて、かつそれを当代的な薄暗い素っ気なさで仕立てて、非ドラマチックな“ただそこにあるもの”的な音楽を作ること。それが『Kid A』『Amnesiac』の2枚における方針だった、と捉えることもできるかもだろう。

 果たして、デルタブルーズを軸に作成したとされるこの曲において、しかし本家デルタブルーズのような土臭さはこの曲からは全然感じられず、冒頭の不穏な電子音に導かれての、憂鬱が這い回るような情緒が展開される。そしてそこに乗る声も、ブルーズ的なレトロな音質ではなく、世紀末じみた混迷の感じを欲したんだろう。ここでのボーカルはまるで無音の暗黒を亡霊的に彷徨うかのように、洞窟の奥から漏れ聞こえる呪詛の声のように、特殊加工されたエコーによってくぐもっている。そして、メインリフもリズムも消えて静寂に包まれる曲終盤の、言葉にもならない虚しげなファルセットがそれこそ遠くの方から聴こえてくるのは、収録アルバムのテーマになっていた「共食いの現代の迷宮の奥で啜り泣くミノタウロス」のイメージにとても沿うものではないか、とまで書くのはちょっと持って回った言い回しすぎるか。まあ歌詞は逃避的思考をシニカルに歌ってる感じのものだけども。

 

思ってたことあるよ 思ってたことあるよ

未来などまるで残ってやしないって 思ってたことある

 

心を開いて もう一度はじめよう

滝を降りて行こうね 良かった時を思って 振り向かずに

 

 この曲含むこの記事を書いてるうちに、Thom Yorkeの来日公演が行われ、終わっていった。チケットが瞬殺で取れなかったし、取れてても時期が仕事の都合上とても悪かった。

 

 

20. Tombo the electric bloodred / Number Girl(2002年)

 Number Girlの2ndや3rdはボーカルの仕様が、なんかそういうマイクをずっと使ってるのかな、と思うくらいに一貫してナチュラルでない、エレクトリックな仕掛けが施されている。つまり、部屋感のある一定のエレクトリックなスラップディレイ。様々な尖った演奏技法とともに、ボーカルの録音方式にまで一定のルールを用いてサウンドに統一感を持たせたことはバンドの一点突破的なサウンドキャラクターを強烈に定義しただろうし、ボーカルについてはその後のZAZEN BOYSで早速そのようなボーカルのディレイ仕様から離れているところを見るに、しっかりと意図的にあの特有のボーカルエフェクトを用いてたことが逆説的によく分かる。

 なので2ndや3rdの時期の曲なら大体どれでもこの特徴を持っている。この曲を選んだのは単純に趣味で、獰猛なようでしっかりと統制の取れたサウンドが明確なブレイクの存在によって分かりやすいし、そのブレイクの箇所で聴けるスラップディレイの効きまくったボーカルの、リードギターとユニゾンしながらヒリヒリと歌うその存在感が印象的だから。特に、ブックレットにわざわざ記載したビリビリと入ってくるノイズの存在が、このボーカルエコーと不思議に共振する感じがあるところに、破綻によってしか表現できない何かがこの世には確実にあることを思い出させてくれる。終盤の何を歌ってるのかまるで分からず謎の反響と化しているボーカルもまたいい。無茶苦茶なことをしっかりと取りまとめてやり切っている。

 

真っ赤な夕方 Tomboが笑った

路地裏誰も居ない ただ一人客を待ってた

女は笑いながら ただ待っている ただ一人待っている

 

季節と季節の変わり目に 恋をする少女だったときもあった

 

 

21. 野いちご / 野本かりあ(2002年)

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 声を重ねることで声の人間味を消す効果があることはここまで散々書いてきたけど、その極地のひとつだと思うのがこの曲。というか、Pizzicato Five終盤から2000年代後半に今に続く生音志向になるまでの間の、トラックメーカー然としていた時期の小西康陽作品においては、ボーカルが時折徹底的に編集で抑制されることがあり、それらはどれもリズムなどが執拗に使い回し的に反復される、ミニマルな構成になっており、特に気合の入った幾つかについて、執拗な抑制と矯正による美意識の発露を感じさせ、それは自然とは言い難い歪みを感じさせつつも、その歪みも含めての毒々しい美しさをたたえている。

 反復の中に徹底的に閉じ込めることによる“永遠の美しさ”みたいなものをこの曲からは特に感じさせる。歌詞に「夏の朝の 寒い朝の 霧の中を」とあり、寒い夏の朝、という不自然な単語があることからも、作者はこの曲の不自然さを自覚して書いている節がある。そしてこの曲の、冷徹に同じフィルインが使い回されストリングスがゴシックに彩るトラックと、熱量をまるで発生させないメロディライン、そして幾重にも声を重ねて体温と人格を消去された声が、そんな不自然な気温の世界をこのトラックの中だけで存在させることに成功している。“青いバラ”が「自然には存在し得ない、人工的な美」*13として象徴的に言及されることがあるけども、この曲の美しさのあり方も似てるところがあるのかなとふと思った。

 

誰もいない 何処かの街 海の近く ずっとドライブした

とぎれとぎれ ラジオの音 いつの間にか 遠くまで来たの

 

寒い朝は抱き合って くちづけをするのが

当たり前になるの 口の中にひろがるのは 野いちごの味

 

 この曲についても前に書いた弊ブログ記事があって、当時と同じことしか書いてなかったらどうしよう…と思ったけど読み返したらそこまでそうでもないかな…とほんの少し安堵した。まあ、言わんとしてることは全然変わってない、相変わらずだけども。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 

22. Elephant Woman / Blonde Redhead(2004年)

 ダブルトラックじゃないから、エコーや変なモジュレーションがないから加工のないボーカルだ、というのは違う。そもそもを言えば大体のボーカルはどんなに自然に聞こえても、EQやコンプレッサーや薄いリヴァーブ処理がされているものだから、完全に自然なものってそんなにないと思うけども、そんな極論を言いたいわけではない。生の声にしては異様なほど緊張感や閉塞感が感じられる加工の仕方もある、ということの事例として、この曲を用いて見ておきたい。

 非常に緊張感があるマイナー調のコード展開と、その中に耽美なものも感じさせつつ、ボーカルは閉塞的でサディスティックな調子でその細い声をファルセット込みで響かせる。しっとりとした演奏の始まりからボーカルが入る時、人によっては気づくかもしれない、「妙に声が演奏から浮いて聞こえる」ことに。演奏と歌とで、鳴ってる音域が違ってる、みたいな少しのズレ。もっと言えば、結構ブレスが強調されつつも、どこか不自然な具合に特定以上・以下の帯域の声の音が鳴ってなくて、まるでどこか狭いところに閉じ込められたような響き方をしていること。籠の中か檻の中か分からないが、ともかくそのような閉塞的な反響だからこそ生じてくるヒステリックさは確実にある。そして、もしかして、美しくなるからといって声の一定の帯域を大きくぶった斬ってコンプをかけて押し潰してしまったりすることは残酷なことなのでは、という少し薄暗い不安も。そういう意味では、そんなに長くないミドルエイト的なパートにおいて、その閉塞状態のままエコーが深くかかる場面もまた罪深くも興味深い。

 

天使さま 貴方の瞳の中にわたし自身を見れたよ

天使さま 心の底からわたしを憐んでください

心をわたしに返して すでに傷ついてるなど言わないで

 

ぞうの女の子 あれは不幸な事故だったんだ

天使さまはわたしをまるでゴム人間みたいに

地面に向かって投げ下ろしたの

どうしてそんな方法で自らを慰めるのですか

すでに傷ついてるなどと言わないで

 

 

23. Twilight at Carbon Lake / Deerhunter(2008年)

 Deerhunterは基本的にボーカルに何かのエフェクトが掛かってるんじゃなかろうか。どんなに明るくポップな曲でも、たとえば『Living my Life』みたいなハイファイな曲でも声にエコーは掛かってるにサイケデリックにボーカルは配置される。かと思えば、多くの曲でずっと割れっぱなし歪みっぱなしみたいなアルバム『Monomania』みたいなのもある。しかし、ファンが最もこのバンドのキャラとして感じてるのは『Microcastle』『Halcyon Digest』辺りの音だろう。二人の歌い手の二人とも、自分の声を素で聴かせる気なんて初めからなく、どのくらいトロトロにするか、どのくらいグチャグチャにするかばかりを曲に合わせて考えてる、くらいのスタンスを感じる。この世ならざるところからの歌にそっけない声などあり得んだろう、と言わんばかりに。

 『Microcastle』のクローサーの位置に置かれたこの曲もまた、非現実的な光景のタイトルから察せられるとおり、6/8のリズムで優雅に、退廃的なサイケデリックの沼に引き摺り込んでくるサウンドと歌をしている。どこかの甘いオールディーズをドロッドロになるまで煮込んだようなサウンドの楽曲には、歌の亡霊めいたエフェクトで化粧された、もはやエフェクトが本体じゃないかというような歌が連なる。それそのものがホラーでもありドリーミーでもあり、儚くもあり幻惑的でもあり、死の感じがまとわりつく。そして、楽曲後半からのカオスな轟音になっていく展開においては、その虚しげなロングトーンが、無惨にもトレモロで丁寧にミンチにされながら伸びていく。彼らは声を美しく響かせるとかよりもカオスに沿う形でミンチにすることを選んだ。この辺の容赦のなさ・思い切りの良さが、このバンドなんだなと思う。

 

船に乗って海へ行く バイバイって手を振る

波に対して そしてきみの内なる冷徹なクソに

 

さようなら 時というのは過ぎ去る時に遅くなるね

去っていく 時が遅くなるね さようなら

 

 彼らについても弊ブログに以前書いたものが色々とあるけども、ひとまずは以下のもので前アルバムレビューを書いてた。最後のアルバムは2019年で、もうそんなに経つのか、と思った。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 

2010s〜2020s

24. Lost in the World / Kanye West ft. Bon Iver(2010年)

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 色々とありすぎてすっかり言及しづらくなったKanye West。だけど、現実がそれ以上にどんどんと混迷を深めていて、彼の2020年代頃から酷くなった混乱状況は、かの国の混乱と分断の先端で震えるカナリアめいたものだったのか…とはいえいかなるヘイトスピーチも許されるべきではないし、デマも煽動も許されるべきではない。この人はあまり煽動はできてないのか。ともかく、彼の作品で世界がそこそこ無邪気に衝撃に塗り替えられることのできた2010年の頃の状況が懐かしい。

 オートチューン。本来歌の音声の補正に用いるはずのソフトを、極端な設定にすることによって声を非人間的な、アンドロイド的な質感に変えてしまう効果。ボコーダーよりもより明確にかつ過激に“歌”であるこの効果は1990年代末に生まれ、2000年代半ばにヒップホップで使用され始め、Kanyeも2008年の『808s & Heartbreak』で大々的に用いていたけども、大々的な形で世界にこのエフェクトの“機械っぽい”なんて形容では済まない威力が示されたのはこの曲によるところが大きいだろう。冒頭から始まる、ゲストボーカル、というかBon Iver『Woods』のオートチューンフル活用のデジタルアカペラコーラスを大胆にサンプリングし、これに力強いトラックと間奏部分のラップとを取り付けた構成のこの曲は、よく考えたらメインの声の部分は丸々Bon Iverのサンプリングそのままなので、えっこれってKanyeの功績か…?と書いてて困惑してくるが、でも、シングルの端に置かれた実験的なコーラストラックをフックアップし、ここまで強烈なアンセムに仕上げたのは間違いなく彼の業績だろう。オートチューンと、そこからさらに派生したプリズマイザーが2010年代の音楽に与えた影響の大きさは、自分はそこまでそういうのに熱中してなかったし詳しくもないからあまりどうのこうのと書けないけども、でもこの1曲だけをもって、もの凄いものだということはよく分かるだろう。普通のアカペラではこうはならない、という具合の心の震えをこの曲に感じるとすれば、それがそういうことだ。

 

世界を失った 人生ずっと落ちていたんだ

この街で新生して 夜よ傅くがいい 傅くがいい

 

貴方は悪魔で 天使で 天国で 地獄で 現在で 永遠で

自由で 牢獄で 嘘で 真実で 戦争で 休戦で 問いで 証明で

ストレスで マッサージで おれにとってそんなもの

こんなプラスチックな暮らしで失ってばかりで

クソ紛いなパーティーは抜け出して 確かなる夜に変えよう

お互いの腕の中で死んだら 来世でもまだ抱き合ってるさ

お互いの腕の中で死んだら きっとまだ愛し合ってるさ

 

 

25. Clash the Truth / Beach Fossils(2013年)

 USインディーの2000年代からの興隆の、その黄昏の時代にちょっとした花を付けていたのがCaptured Tracksレーベルだろうか。2010年前後に起こったリヴァーブ深めのガレージロックの一群の勢いを、より多様な形で引き継いだアーティスト達がこの看板の下に集っていたのは、確かにひとつのムーブメント然としている。筆者は愚かだからこのムーブメントも同時代では見過ごしてしまい、なのでCaptured Tracks=Beach Fossilsくらいの理解がいまだにある。まあでも、端的にひとつのシンプルで潔いサウンドフォーマットを作り、結構な模倣者が発生した、という意味では、彼らのアルバム『Clash the Truth』は少しばかりロック史に名前を書き加えてもいい存在なんじゃないかと思案もする。

 そのオープナーにしてタイトル曲であるこの曲で、しっかりとそのフォーマットは提示される。ディレイで煌めきを少しばかり増幅させた頼りないギターのリフとシンプルに駆け抜けるリズム隊、そしてくぐもった感じの歌によって、全体的にダークな無音が印象に残りつつも、Joy Division的な病み要素は薄く、幾分爽快感を伴ってクールに駆けていく。これで声がめっちゃ太くてはっきりしていたら興醒めだろうから、この、声もまたエコーでサウンドの中に埋もれがちになる程度の、しかしポップな響きと曲展開はしっかりと曲に残す程度のバランス感覚は、かなり絶妙な采配だった。機能性を一直線に目指したようなそのボーカルスタイルには“感情豊かな歌”の要素は求めるべくもないが、感情の部分を捨象したほうが歌は時折カッコよくなる、の事例のひとつだとも捉えられるだろう。ここまで思い切れること自体が大きな才能だと。

 

夢/叛逆 信頼/若さ 自由/暮らし 真実/衝突

現実/時間 消失/通過 平和/おしっこ 輝き/畜生

真実/衝突 襲来/貴方 喪失/時間 実に/混乱

充電/漏電 憎悪/証明 現実などない 真実などない

 

 …この曲、ポストトゥルースとかが大衆的になる前に出てきて良かったな。それとも坑道のカナリア的存在だったのか。

 

 

26. Gimme All Your Love / Alabama Shakes(2015年)

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 すっかりヒップホップやR&Bがインディーミュージックの主流になった2010年代の真ん中ごろに突如現れたアルバム『Sound & Color』は、曲や演奏自体は強力ながらもそこそこコテコテのブルージーなサザンロックながら、それを相当思い切ったプロダクションによって録音しミックスしたことで、ロックとしての強烈かつこの時代に“刺さる”音の質感が貫かれた作品だ。そういう意味ではあのアルバムの凄さのある程度の部分は、Joy DivisionにおけるMartin Hannettと同じくらいに、エンジニアとミックスを担当したShawn Everettによるものではないかとも思わないでもない。ニューウェーブみたいなエコー感覚で鳴らされるアーシーなギターの音、パッツパツに響くスネアやキック、古き良きロックを演奏しつつも、それぞれの音は不自然なまでに現代的。

 それはボーカルにも言えることで、Brittany Howardの強烈なボーカルは別に普通に歌って録るだけも間違いなく素晴らしいものになるのに、あのアルバムは各曲ごとに手を替え品を替え積極的にエフェクトを施して攻めてくる。6/8のリズムでスローバラッド調なこの曲においても、その効果は遺憾無く発揮されている。やっていること自体は上述の『Elephant Woman』と似た、音域を絞り声を閉じ込める効果。しかしそれによってもたらされるものはあの曲とこの曲ではかなり異なる。静かな場面ではスウィートネスに額縁を付けたような効果をもたらし、そして圧巻なのが爆発的シャウトの場面。まるで爆薬が密閉することで爆発力が上がるのに似て、限られた音域を強烈な圧で吹き飛ばすボーカルの威力は凄まじく、まさに吹き飛ばされるような強烈さが強調されている。追加効果がなくても十分強烈だったろうものを、ベストを超えた何かを案外手段を問わずに目指そうとするその姿勢が、あのアルバムの凄さの正体かもしれない。

 

だから 何をしたいのかを教えて

きみは言う この世界 自分にフィットしないんだと

ほんの少しでも わたしに話してみてよ

より良くなるようにやってみるしかできないけど

もしひたすらに愛を全部くれるのなら

 

 

27. White Ferrari / Frank Ocean(2016年)

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 オートチューンやプリズマイザーという新たな声の革新エフェクトの普及も踏まえた上で、歌をどう響かせるかの試みの、2010年代最大のブレイクスルーになったのがアンビエントR&Bというジャンルの登場だろう。リズムアンドブルーズの“リズム”の部分を外してしまった上で、エレクトロ化したSSW的なソウル、という、なんか変な気がするこのジャンル名は、検索すると2012年くらいにはもうその名が日本語圏でも現れている。ルーツに『808s & Heartbreak』が挙げられてるくらいなのでまあ確かに、とも思うけども、でもこのジャンル名が実際の音とともに広く知られるようになったのは2016年のアルバム『Blonde』の登場によるところだろう。今回の記事的にも、いきなりピッチシフターで変な声になった『Nikes』から始まるなど他にも注目すべき点は色々とあるけども、アルバム中で最も穏やかでかつエモーショナルなこの曲を見ていきたい。

 いきなり歌から始まるこの曲、その歌がいきなりダブルトラックでぼかされていることにすぐに気づける。薄らと広がるシンセをバックにリリカルなメロディを歌う前半とアコギでThe Beatlesめいたメロディを歌う中盤とで同じエフェクトのまま歌い、その声の生々しさの放棄具合はどこか、薄く絶対的な膜に阻まれてどれだけ手を伸ばしても絶対に届かない、みたいな寂しさを思わせる。裏にソウルフルなコーラスが取り憑いたりするのを見るに、あ、なるほどアンビエントR&Bね、という気持ちにもなりつつ、2分前くらいから現れる遠くでリヴァーブの効いた声が舞うあたりで、この曲のフィーリングはだんだんと歯止めが効かなくなってくる。幾重にも声が連なっていくコーラスワークによって語られるリリカルなラインがリヴァーブの向こうに置かれてしまっている、それがどこまでも、ノスタルジックな残酷さを感じさせる。そして、とどめとばかりにBon Iverじみたエレクトロなファルセットのつぶやきが流れてきて、この曲の行き場のない郷愁感にトドメを指す。

 

並行世界のぼくらはもっと背が高いんだきっと

ぼくら ちっぽけで語る価値もない存在だと きみは言う

動くことに倦んで 身体の痛みも増していくきみ

ぼくら休暇を取って 行くとこも幾らでもあるさ

こんなの在るもの全部じゃないって明らかで

与えらてきたものはまあ 手に入らないけど でも

ぼくらここにいて全然いいし 上手くやれるさ 自然に 裸で

ぼくらを投獄してしまう壁をきみは幻視する

けど それはただの頭蓋骨さ 少なくとも皆が呼ぶところの

そして ぼくらは自由に放浪するんだ

 

それはただの頭蓋骨さ」。最高で、そしてとても感傷的な一節。

 それにしても、シンプルなようで、特に歌を中心に徹底的に作り込まれてる。声をどう扱うかについて、この曲及び収録アルバムは、2010年代屈指のマスターピースのひとつであり続けるだろう。

 

 

28. 完全な夜の作り方 / サニーデイ・サービス(2018年)

 日本のロックバンドのはずのサニーデイ・サービスが実質トラックメイカ曽我部恵一の名義のひとつみたいになってた時期のアルバム3部作の最後の作品にひっそりと収録されたこの曲は、しかし元はおそらく2016年のアルバム『Dance to You』制作時に大量に発生したとされる高クオリティのデッドストック群のうちの1曲だったんだろう。楽曲自体は実に丁寧に“繊細で感傷的なサニーデイ・サービス”のイメージを編み上げた普通にいいバラッドで、多分デッドストックの段階で十分にいい曲だったに違いない。反復の少ない、メロディもコード進行もどんどん変化していく曲展開が特徴的。

 しかし、半ばやむを得ない事情でトラックメイカー的にバンドを駆動させるしかなかった曽我部恵一の、それならばと時流の勢いに思いっきり身を委ねる流れの中で、この曲には強烈なプリズマイザーのボーカルが追加された。トラックをちゃんと聴くと、ボーカル以外は実に素朴な音で構成されていて、彼がアルバム『the CITY』にこの曲を収録する上で追加したのは、プリズマイザーのエフェクトとコーラスだけなんじゃなかろうか。そして、自分たちの標準的なバラッドにプリズマイザーという劇薬を振り撒くのはバンドのプライドを思うとおそらく1回きりだろうから、その1回をこの曲に使ったということ、それによってこの曲のメロウさの意味合いがとんでもなく激変してしまったこと、リリースの数ヶ月後に亡くなってしまったオリジナルメンバーのこと。自暴自棄の中の正気。筆者はどうしても、この曲を客観的には聴けない気持ちがしてる。作った本人さえ意図しないままに、この曲はバンドで一番悲しい曲になってしまったんじゃないか。

 

ねえ ちょっと想像してみる もし 君と出会わなかったら

もし あの時ああいうことが 起こらなかったら

それはちょっと 恐ろしい 今夜最後の問い

 

 

29. Simulation Swarm / Big Thief(2021年)

 収録アルバムは2022年だけど、この曲の初出は2021年だったはず。最初に聴いた時の静かな衝撃を思い出す。『U.F.O.F.』で聴けたナチュラル志向な演奏なのに不穏で緊張に満ちたコード感が復活しつつ、それが至ってシンプルでナチュラルな演奏構成から繰り出され、演奏の熱量はそんなに変わらないままにボーカルの畳みかけによってしっかりと曲が展開していき、そして急に可愛らしさとジャンクさの詰まった間奏に切り替わるところまで、実に澱みなく徹底して磨き抜かれた1曲のように感じた。レビューを書く時に色々調べたら、相当な変則チューニングだったことが分かった時も驚かされた。何を弾いても不穏になりそうなチューニングの上で逆にあんなにチャーミングなソロを弾いてるのか、ともなった。

 この曲、かなりナチュラルそうな録音に基本的になってはいるけども、収録アルバムの楽曲を録音した4つのスタジオの中では最も実験的なShawn Everettのスタジオでの録音で、そう思って聴くと、素っ気なく録音されてる風に最初は聴こえたボーカルが、実は少し様子がおかしいことに気付かされる。かなり控えめだけど、しかしきっちりと効果が出るくらいには、このボーカルはダブルトラックで録音されている。この、露骨にぼかす訳ではないけど、絶妙に素のボーカルよりも少しひり付く程度の違和感を生じさせる具合に、録音者の拘りが垣間見える。この僅かなズレはメロディが展開していくとより分かりやすくなり、僅かに熱っぽくシャウトにギリギリならない歌唱を何か影のようなものがひっそりと追っているような具合に、この曲によく似合う冷却の感じを覚えもする。

 

わたしたちもう一度 血を流さないと 時が揺らごうとも

夢現のような水晶の血液 傷跡と結果に横たわる波紋

貴方も わたしも信じてる 貴方が光の川だということ

わたしが愛する 執着する 虚しい夜の腹の中の

 

 この曲を含むアルバム『Dragon New Warm Mountain I Believe in You』は個人的には今のところ2020年代のベストアルバムになるなと思う。2枚組のいささか地味な方である2枚目のやや埋もれる位置にこの曲は置かれているけど、だからこその不意打ちのような緊張感にゾクっとする。弊ブログの全曲レビュー含む記事は以下のとおり。2枚組の全曲レビューなのですげえ長いな。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 

30. If You Hear Me Crying / Cindy Lee(2024年)

www.youtube.com

 

 各所で騒がれているCindy LeeなるカナダのSSWの今年の作品をサブスクで見つけられなくて聴くのが遅れた。まさかサブスクにないなんて。そして、あんなに曲数が多くて長大なアルバムだったなんて。バラエティに富んだ上のBig Thiefの2枚組はまだ分かるけども、こんなトーンの一貫した楽曲群をこれだけ大量に詰め込んで、そしてサブスクに流さずに限定された方法でしか流通させないところに、今作で初めて知った人だけど、引退作という噂もなんとなく理解される。こんな作品、全てを未練なく投げ出す状況じゃないと出てこないだろうから。演奏技法や録音方法をThe Velvet Undergroundの昔まで遡った上でそれを無理やり甘いポップソング的に再構築したかのような光景が延々と続き、時折唐突に不穏な場面に切り替わって見せたり、妙にムーディーなインストがあったりもする、理不尽が普通なノイズとエコーまみれの2時間に渡るワンダーランド。2時間て。

 どの曲でも基本のテイストは大体一緒。PVがあるからこの曲を選んだまでのこと。そのように思ってたけど、それにしてもこの曲だいぶ変な曲だな…とりわけザラザラで棘のある演奏、曲のセクションの変わり目に不気味なブレイクが入り、そして間奏や後奏で登場するヤケクソ大音量で歪んだファズギター。終盤でベースでリズムを取り出すに至って「なんだこれは…」これをあえてPV曲に持ってきたところに、色々と露出なくて見えにくい作者の意思が僅かに覗いてくる。

 アルバムを通しての特徴だけども、この曲のボーカルもまた「亡霊の合唱」とでも言いたくなるような、不気味な声の重なり方・ディレイのかかり方をしている。いや、こういうボーカルは正直インディーロックにおいてはそこそこ出てくるスタイルではある気もするけども、このプリミティブな荒廃感に満ち満ちたサウンドの中でこのような歌が出てくると、いよいよこの曲やこのアルバムの中の世界はすっかり滅び去って、亡霊しか歌い手がいないんだなって気持ちになる。とても未来に向かって前向きになれる音ではないし、かといってノスタルジーに浸るにしても全てがザラザラで痛々しすぎる。これがもし作者の(この名義だけにしても)キャリアの終わりとして全てぶん投げるつもりで歌ってるのであれば、これほど相応しい“行き止まり”もなかなか無いような気もするかな。

ねえ聞いて ベッドルームのドアの影にいるよ

わたしを直に見て これが貴方の探してた愛じゃないの?

 

ただただ この愛が強すぎたから

もしわたしが泣くのを聞いたら

ただ聞いてほしかった ただ聞いてほしかったんだ

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・

終わりに

 以上30曲を見てきました。いかがだったでしょうか。

 この記事はこの投稿日の4日ほど前に一旦最後の曲まで書き終わったけど、その後やっぱり歌詞を書き足そう、と思って時間をかけて、ようやく11月ギリギリに書き終わりました。色々と仕事が忙しかったり体調が優れなかったり世間で特に政治関係でなんだか死にたくなるくらいうんざりするようなことが続いたり。

 書き足してみて思ったのは、歌の声質と、歌い方と、メロディと、声にかかるエフェクトと、そして歌詞とはやはり不可分な関係というか、聴く側がその辺全て混ぜ込んだ形で受け止めるしかないもんな、ということ。人によってはとりあえずダブルトラックで歌を録音したり、とりあえず深くリヴァーブかけたりするかもだけど、でも作り手の方で明らかに何かを意図してエフェクトをかけてる場合も確実にあるし(今回はそういうものを沢山選んだつもりだけども)、意図があろうがなかろうが、聴く側はエフェクト込みの歌と言葉で、その曲の意味や光景なんかを判断したり想像したりしてしまう。たとえそれが誤魔化しだったり流行に乗っただけだったりしても。だからいいんだなと。

 少なくとも、スタジオ録音という録音後に編集できる環境であれば、歌というものは本来の“声質”“歌唱法”“メロディ”“言葉”といった変数によって構築されるある種の限界を、さらにエフェクトを用いることによって超えてみせることができると思われます。オートチューンが登場した時、誰かがそういうことを思ったことがあったかもしれません。それは無限の可能性でもあり、あるいは途方もない虚しい旅路かもしれない。でもともかくこの、声にできることを大いに拡散させる技・ガジェットについて、なにか裏技的な魅力を感じていて、今回そういうところに少しでも共感してもらえたら幸いです。

 サブスクにない2曲を除いた28曲のSpotifyプレイリストを貼ってこの記事をおえます。それではまた。

 

open.spotify.com

 

*1:ボコーダーとか、エフェクト処理が極端すぎるとかで、歌であることを放棄気味に感じたものは入ってません。この辺の感覚は個人的な匙加減なのですいません。

*2:2曲くらいサブスク上にないので入ってないですが。

*3:Automatic double trackingの略。

*4:1977年の自身のアルバムをソニー式のエコーを用いてリミックスしてリリースし直すほど。

*5:細野晴臣鈴木茂林立夫松任谷正隆

*6:この四人でそんな殺気立つような感じになるんだ…とこのことを知った時意外に思った。でも当人たちからしたらそういうこともあるんだろうな。

*7:それにしても、歌詞の言葉の数とメロディの音数が合ってない箇所が多くて、案外変な歌い回しが多い曲だ。ダブルトラックで歌うのが上手くいかなかった一因だったりして。

*8:今年の5月から書いてるから大概長引いてる。これは多忙と体調不安定とあとR&Bやファンクについてそれなりに書ける文体を持ててないこともあるのかなと。

*9:『Camille』録音開始前から完成してたトラックもあるけども。

*10:ここで「きみこそ」としない、できないのが彼のキモいところであり誠実なところであり難儀なところの端的な部分なんだろう

*11:この時期のPrince、風呂に入ることにえらい拘りある。『The Ballad of Dorothy Parker』とか『When 2 R in Love』とか。そういう性癖か。

*12:そもそもその情報量の反乱には「様々なジャンルを1枚のアルバムでやってしまう」という要素も含まれるからそういう意味でもジャンル分けしにくいのではと思う。

*13:ちなみに青いバラ自体は調べた感じ、2004年ごろにあのサントリーが開発に成功してたりするらしく、なんというか、やはり不自然な存在なんだな、と思った。