ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『エピタフ』トリプルファイヤー

某所に投稿しようとしてたけど色々あって最後まで書けず放ったらかしになってたのを、ちゃんと最後まで書いてみたものです。
エピタフ



高田馬場のジョイ・ディビジョン」と呼称されて久しいバンド・トリプルファイヤーの音楽を聴いてて思うことのひとつは、先のいくつかの偉大なポストパンクバンドのサウンドを聴いたときと同じく「この演奏が止んだら無音、虚無めいた無音なんだ」という感覚について。共通するその演奏の根源的な心細さは、音楽が鳴っているにも関わらずその終わりと虚空を意識させる。それが、「音楽が鳴ってるときは空間が満たされてて楽しい」と感じる類のポップソングとの大きな印象の違いだ。

この点についてトリプルファイヤーは実はとてもストイックに突き詰めているバンドだ。エフェクトを使わず単音の細かいリフを多用するギター(遂にJC直結などという話も聞き、エレキギターを多少なりとも弾いたことのある人ならこの凄さが分かると思う…)とベース、ドラムで埋められる空間は少なく、そこには不思議と、ファミコンの音源を聴いているかのようなもの寂しさがある。

この度の新作『エピタフ』でも、そのサウンドスタンスは変わらない。今作では所々で見られるパーカッション類の使用や、ギターのカッティング的フレーズの増加(先行公開された「変なおっさん」などに顕著)など、ファンク的な要素が増えたようにも聞こえるし、同時に演奏の“こじらせ方”の工夫も多彩になり、時折のファミコンがバグったような感覚がより増した風でもある。

そんなよりヘンに研ぎ澄まされたスカスカのサウンドの上で、このバンド最大のアクター(ボーカルというよりもこうなのでは…?)吉田氏の言語センスは今作においても圧倒的に冴えているし、醒めている。情けない男路線の曲の自由な身も蓋もなさもさることながら、『スキルアップ』系の意味不明さをさらにドライに追求した『Bの芝生』や、謎の上から目線の双方向性(当然録音物にそんなものない(ライブでもないけど))に聴者を晒す『質問チャンス』など、ユーモアの切れ味は鋭くも多彩に。そして文脈の飛ばし方のハンパなさ。大喜利的な発想力の鬼だ(実際その方向で最近はテレビ出演もしているとか)。

今作はバンド初の収録曲数が10曲を超える、いわゆるフルアルバム的なそれである。あるからか、曲調はいつにも増して多様で、遂にはあの吉田が明確にメロディを歌う「こだわる男」も収録され、初期トーキングヘッズのようなユニコーンのような不思議な存在感を放っている。ドライなポストパンク路線はかなり極まった感じがあるが、今後はこの曲や「月光密造の夜」(スカートが主催するイベント名)の企画におけるカバー曲のように、メロディアスな曲にも広がっていくのか、それともさらにこのドライさを突き詰めていくのか、分からないけれども、何にせよ今作は聴いていて痛快さと後ろ暗さがとてもマッチした、失礼な比喩をすれば「今日はこれ聴いて時間つぶすのがいい日だった」って感じの作品だと思う。

『LOST IN THE AIR』ART-SCHOOL

 第二期メンバーになったART-SCHOOLの第2弾リリースもまたミニアルバム。
artschool_lostintheair.jpg
ジャケットのレイアウトは『シャーロットe.p.』に続きまたもやグラスゴーのインディポップバンドThe Starletsのアルバム『Surely Tomorrow You'll Feel Blue』か。色合い的にはシューゲイザーバンドSlowdive『Souvlaki』っぽくもある。

 この作品もまた前作『スカーレット』と同じく自主レーベル発・タワレコ限定数量限定でのリリース。やはり楽曲はすべて後のコンピレーションアルバム『Missing』に収録されている。

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(2006/09/06)
ART-SCHOOL

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また、後のアルバム『PARADISE LOST』には今作の『刺青』が、アルバム用リミックスを経て収録されている。前作といい、リードトラック以外を収録していく姿勢は不思議な感じもする。
(正確にはアルバム初回盤に『LOST IN THE AIR』のデイブ・フリッドマン(元々アルバムのプロデュースを予定していた)によるリミックス音源が収録されており、元々はこちらをアルバム収録する予定だったのかもしれない)

 木下理樹的には今作制作時期あたりが人生で一番つらい時期だったとしばしば言及される。



1. LOST IN THE AIR
 今作のタイトルトラックにして、『汚れた血』以来の久々の5分越えのナンバー、にしてバンドの音楽性をより広範なものにしていこうという意思もはっきり感じられる、メンバーチェンジ後のアートスクールにおいて重要な位置にある楽曲。
 何がこれまでと異なるか。その端的な例のひとつが、イントロから終始鳴り続けるピアノのリフレインだろう。そのシンプルでミニマルでどこか素っ気なくもひんやりし響きと、それに導かれるように入って来る演奏陣、ドラムの機械的で硬質な反復や絹のようにさりげなくたおやかなギターのアルペジオなど、雰囲気がこれまでとまるっきり違ったものになっている。ニューウェーブ的・ポストロック的ともいえるこのサウンドに木下の這うような囁くような低音ボーカルが乗り、張り詰めているようで弛緩しているような独特の雰囲気がある。
 そしてそんなAメロが突如ブレイクして、しかも複数回ブレイクを打った後の静寂を、木下のサビメロを起点にアートらしさのある轟音のサビに突入していく。キラキラした中にも変則的なリズムを叩き付け続けるドラムと、短く高いメロディを繰り返していく木下のメロディの扇情的な感じがAメロと好対照を成す。
 基本その2パートを繰り返していく曲構成で5分。これは繰り返しが普段より多いことに由来するが、それがどうしてとてもロマンチックに聞こえるんだから素晴らしい。特に最後のサビで木下がキリキリとファルセットで連呼しはじめるところからブレイク→最後のAメロで気の抜けたようなささやきに戻っていく流れは、痛切で壮絶で、やるせなくて、とても美しい。
 歌詞についても、当時人生で一番悲惨だったと自称する木下の惨めな世界観が、絶妙な単語選びとリズムで吐き出されている。というか、天然気味でやや珍妙なフレーズが多々あり、一部ファンの興味や引用が絶えない曲でもある。
愛の歌は終わって/なんとなく死体です/新宿で天使が/轢かれてたんです
やや洋楽の訳詞っぽくもあるフレーズなのに、『LOVE / HATE』に引き続き悲惨な目に遭う天使だったり、新宿が「天使が轢かれる街」としてファンにネタにされたり。極めつけは以下のフレーズだろう。
I KNOW人生はHELL/空っぽのコンドーム/おかしいな/涙が出ない/出ないんだ
I KNOW人生はHELL!ただ「人生は地獄だって知ってるさそんなこと」とかならさらりと流れていきそうなところをさっとルー語ライクに転化するセンス、その珍妙さと「でも実際人生ってHELLだよな…」という陰気なファンの思いから、ある種のアートスクールコミュニティーを象徴さえしそうなワンフレーズである。
 その他にもマンガで観た世界で暮らしたいとかいうナードフルなフレーズもあったりで、ともかくネタに事欠かない。それでいて同時に「愛なんて結局/下水道に流されて」をはじめとして、曖昧に光景化された諦観が曲全体に漂っていて、実際に人生がHELLだったという当時の木下の虚しさが遺憾無く発揮された傑作でもある。
 そんな名曲だが、凝りに凝った演奏が難しく(特にブレイクか)、ライブではなかなかお目にかかれない曲でもある。当時の今作のリリースツアーでもあまり演奏されていないという。しかし近年では大事なライブの際に演奏されることもあり、ライブでのハイライトのひとつを形成することもある。似たような曲は他に無く、彼らの中でも独特、特殊な一曲である。

2. FLOWERS
 一曲目の閉塞感をイントロのストロークとベースライン一発で打ち破る、ポップで力強くドライブするパワーポップナンバー。曲順がいい。
 特徴のひとつは、かつて『レモン』等でも聴けた、アーミングによる揺れたギターの音。この荒くもブライトなサイケさとポップなコード進行が相まって、とても爽やかな楽曲になっている。というか本作ではっきりとメジャー調の曲はこの曲だけなのでなおさらこの明るさが際立つ。
 ギターの歪んだ音、ベースのグイグイ引っ張る音色、四つ打ちだったりシンコペーション連発だったりやたら挿入される5連スネアだったりと色とりどりなドラムなど、演奏もポップな曲に合った勢いとアイディアがあり聴いてて楽しい。そして木下の感動詞を連発するサビのポップさでグッとくる(『スカーレット』などもそうだが、感動詞を平気で曲のメロディにガッツリ入れ込めるのは木下理樹のソングライティングのポイントのひとつかもしれない)。サビも2回目以降は2段仕立てで凝っていて、間奏へと繋ぐシャウトも鮮やかだ。コーラスもキラキラしたギターも含めて、最後まで爽やかに駆け抜けていく。
 そんな爽やかな曲でも、歌詞はやはりやさぐれの色が見える。
恵みの雨/真っ黒な血/空っぽのゴム/貴方がただ/飲み干すかな/なんて
それでも「空っぽの/君でいいさ」と『しとやかな獣』でも歌われたフレーズを繰り返すところは、曲調にあった力強さがある。やけっぱちだからこそ、みたいな。

3. 羽根
 前作『APART』に続く、閉塞感たっぷり疾走ナンバー。第2期の一時期まで(『左ききのキキ』くらいまで?)は2曲とも頻繁にライブで演奏されていたと思う。
 ガッツリ重いダークなリフがこの曲の軸となる。一拍溜めてから繰り出すのでより詰まったような重苦しさがある。そこからサビは一転軽やかになり(『WISH』と同系統の展開か)、アコギの音やリードギターの浮遊感、軽快な四つ打ちでさらりと流れていくが、その後また鈍重なリフに戻っていくこと前提での軽やかさという感じ。特に最後のサビでブレイクして曲中最もフワフワしたところから次第にリフ戻りに向かって高まっていくテンションには絶望感ある。
 この曲は歌詞のワンフレーズに尽きる。
小三で/小三で終わった/羽根なんて/羽根なんて腐った
小三で終わった!かつて意味深に「25歳で花が散った」とも歌っているが、こっちの小三は後に木下本人すら「意味が分からない」等の発言をしていたような。他にも「パラシュートは開かない」等、当時のどん詰まりな状況をユーモラスに綴った結果こうなったという。また、この曲の歌詞にも新宿が出てきて、今作以前も以降も出てこないので、「この時期の木下にとっての新宿って何だったんだ…」と思う。

4. 刺青
 前述の通り、今作で唯一後のアルバム『PARADISE LOST』に収録されたナンバー。本人も気に入っているようだが、楽曲的にも『LOST IN THE AIR』に次いで挑戦の感がある。
 再生してノータイムでクラッシュシンバルもなしに入って来る機械的で変則的なドラムの響きと3音を反復するディレイとコーラスの効いたギターの響きが、どちらも冷たい質感がある。そのまま進行していくAメロは、これまでのアートにもあった水中感(『プールサイド』とか)ともまた違った、より低温な水中感がある。囁くように歌う木下の歌もメロディにいい意味での埋没感があり官能的。
 サビでの急浮上感は流石の木下節。機械的に引き攣ったままのリズムがポストパンク的でありながら高揚感はきっちりキープされ、轟音は水中を跳ね返るようにのたうつ。
 この曲の特に引き込まれる箇所は2度目のサビ後の間奏の後。普段ならブレイクが差し込まれそうなこのセクションにて戸高がプレイするU2ライクなディレイギターの反響が、溜めたドラムプレイとともに潜行し、そして最後のサビへ向かって次第にせり上がっていくさまは絶望的にドラマチックで(U2的な壮大さは皆無でひたすら内向的な感じなのに)、カタルシスがある。
 歌詞は、今作でもとりわけノスタルジックに寄ったもの。
いつかのあの色/何年経ったろう/あの頃/世界は/僕等のものだったっけな
 冷たい水中で美しい過去のことを思い出しながら沈んでいくような感覚。こういう類の寂しさを丁寧に楽曲に落とし込んでいて、カラフルではないのにとても幻想的だと思う。

5. I CAN'T TOUCH YOU
 珍しくフェードインで始まるイントロが特徴。冒頭のコードカッティングはネオアコのコードの響きを研究した結果だそうだが、これはイントロでしか聴けない(Aメロは3音アルペジオ+ベース、サビではパワーコードでグチャグチャになるので聴けない。勿体ない)。
 3音のアルペジオ、静と動のメリハリの付け方、間奏で伸びていくファルセットコーラス等、第2期以降で最も第1期っぽい雰囲気、もっと言えば『OUT OF THE BLUE』辺りを焼き直した感じの曲。しかし第1期とは音の質感の点でやはり違う感じもする(特にギターの音か。プロダクションのせいかも)。全面シャウトのようなサビも第2期では割と珍しい。
 歌詞。ノスタルジーと性的な要素が交錯する典型的なこの時期の歌詞といった風情。
I can't touch you/猿の愛撫/匂いと汗と/ガーベラの花
サビ後のフレーズが「愛し合う」と聞こえるが実際は「I still love you」だったりする。結局どっちでも未練がましかったりする辺り計算だろうか。

6. PERFECT
 作品のクロージングという役割の神聖な重みみたいなものを冒頭のピアノフレーズから感じさせる、今作の締めの曲。終始ピアノでコードが鳴らされるのでピアノバラッドになる…のか?
 冒頭から加工された(逆再生?)映画の台詞が挿入されたり、件のピアノの響きだったりと、静謐な最初の Aメロ・サビから、ドラムが入って以降どんどん荘厳になっていく。テンポは今作で最も遅く、ひんやりとした神々しさには北欧系のサウンドへの目線がこの頃からあったということか(この後のアルバムがグラスゴー録音になることの布石かも)。
 這いつくばるAメロからメロディを高揚させるサビの極端さも、この曲の映画のエンディング然とした雰囲気を演出する。最後のサビが終わって、元のピアノとサンプリングだけになるところは今作の寂しさがすーっとダイジェストで通り過ぎていくよう。
 歌詞。
光のその中で彼等が群れている/嫌っていたけれど本当は憧れていた
このフレーズは『I hate myself』の「君もあんな美しい人の仲間かい?」のくだりと同じ内容だが、こちらの方がより余裕なく、切迫して感じられる。
光のその中へ/子宮へ堕ちていく/昨日のあの指と/ぎこちない君の舌
そして救いたるべき光は結局、完全で、純真で、普通過ぎる人生を送る君とのどうしようもないセックスに置き換えられる。極めてアートスクール的などん詰まりの構造をしている。

 以上6曲。個人的には、曲数の割に重たく感じる。作品の性質か。
 暗く、重たいというイメージ。それはジャケットからしてそうだが、収録曲的にも今作はキリキリと切迫した曲が多いように思える。それは木下個人やバンドの状態(アレンジについての口論がずっと続いていたという)も大きく影を落としているのだろう。『スカーレット』から続く性に溺れて死んでます路線もより極まっている。
 しかし、作品としては前作『スカーレット』より良い、というか、アレンジ等多くの面で前進している感じがあり、“第2期”としてメンバーチェンジしてリスタートした効果がより浮かび上がってきた格好か(木下以外で唯一変わっていないドラムのアレンジで特に変化を感じるのは不思議だけど)。今作での、特に冷たさを感じさせるプロダクションの数々が、この後のグラスゴー録音となるアルバムに直結している感じがする。
 何にしても、今作でART-SCHOOLというバンドが終わらなくて良かった。葬送曲のような『PERFECT』が最期の曲にならなくて良かった。そういう未来が確定している今の時点から聴くとやはり、安心して「いい作品だなあ」と思える。アートのミニアルバムでは今作が一番ずっしりくるものがある。

 ART-SCHOOL諸作品レビュー、すっかり間があいてしまった。こんだけ間があけば自主レーベル作った上で活動再開だってしちゃいますよね苦笑。粘り強くやっていく所存です。

『おきてがみデバイス』hasu-flower

近頃ブログとか何とかを放ったらかしにしていたのは、今回リリースできたミニアルバムを作るのにああだこうだして余裕がなかったからです(生活に余裕がなくなってるのもあるが…)。

独力!つくるのに一年もかかった!それで色々この程度かよ感!色々つらい!でもとりあえず嬉しいです。フリーダウンロードなのでよかったらぜひ聴いてみてください。



1. タンブルウィード
 一番時間がかかった曲。4曲目でアホみたいにスムーズにできたスライドギターがこっちではなかなか上手く行かず。でもこのアルバムの中では一番いい曲な気がしてる。歌詞も時間掛かったけど、ピチカート・ファイブの大好きな曲『新しい歌』からの引用も乗っけられて満足。歌詞はこの曲が一番キレッキレだと思う。

2. バニーガール・レプリカント
 あっという間にできた曲その1。今年の5月にはもう大体全部録音してた。その時の音源は音がひどかったけど最終的に多少マシになった。ミックスって大事。全然よく分かってないけど。最後サビに戻らないで展開するのが気に入ってる。歌詞は意味不明。この曲なんか今回いちばん評判がいい気がする。

3. ドリフト No.17
 曲自体はあっという間にできた。元は速い曲で2分ちょっとだったけどスローにしたら5分超えてアホか、って思った。リードギターが思い浮かばず、手持ちのギター録音用のpodではファズギターも上手くハマらず、結局グロッケンとチェロに走った。Galaxy500かYo La Tengo風?Cメロの声加工が気に入ってる。

4. 眠たくなったら
 あっという間にできた曲その2。5月にホントにあっさりできてしまって、soundcloudに上げてもまずまず好評で嬉しかった。リードのスライドギターは何回か練習したら一発で録り終えて「おれギター弾けるやん!」って一瞬思えた。コード進行が簡単すぎて笑える。逆再生ギターも含めて、ホントにすぐ上手くいって、全部こうならいいのに。3曲目からこの曲への繋がりはいいと思う。

5. エピソード
 ゆったりテンポで3分弱、というコンセプトで作った。メロディとかスカートっぽさを狙ってる節あるけどコード進行は単純(スカートみたいなコードとか思いつかない)。リードギターに難儀して、結局ミツメの今年の新作『めまい』のいなたいギターサウンドを目指して玉砕った感じ。なんだこの曲その辺界隈のパクリかよ。その甲斐あってか今作で一番いなたくバンドサウンドしてる。

6. おきてがみデバイ
 元ネタはNeil Young『On The Beach』で間違いない。エレピはよう弾けん。とても難儀したリードギターが変な感じの音になった。もっと元ネタの殺伐虚無感出したかったか。でも間奏は声の処理含めて満足してる。タイトルとか歌詞とかが終わりまくってるが、まだ次作とか出したい気持ちあるので大丈夫です。タイトル自体はやくしまるえつこ的で可愛らしいと思ったのになあ。

7. バケイション・ジャンクフード
 soundcloudで最初にアップした古い曲。はじめてドラム打ち込みをした曲でもあった。当時twitterで誰かに褒められて嬉しかった。The Beach Boys『Passing By』みたいな曲に当時からしたかった。今回リメイクで色々音を変えたりコーラス入れたりしてそれっぽくしようとしたけど結局トラック全体にリバーブかけた。いい締めになっただろうか。

 7曲で26分ちょっと。3分弱の曲が3曲と5分越えが2曲はややバランスがいびつかなあ。どうでもいいか。一応ジャンルとしてはオルタナティブ・カントリーを自称してますが、ぼくの基準だと「ジムオルークとかのせいでノイズ化したカントリー」くらいのイメージなので、結局はWilcoのそのくらいの時期を目指してるだけ。しかもあんまりそれっぽくなってねえ。まあいいか。。。

使用した楽器:
SquierのJazzmaster(J Mascisモデル。でも4万しない。いい音だが最近調子悪い)
なんかのアコギ(高校のとき中古で買ったやつだったか。どうにかまだ使えてる)
Epiphoneのヴィオラベース(3万位?ネック反っている気がする。3弦の鳴りが変)
Shureの57(いかにもマイク然とした58よりもずっとかっこいいと思う)
korgのnanoKEY2(microKORGも持ってるのに使わなかった)
Logic Pro 9(買った当時既に10出てたっぽい。何故か終盤で10を買うも使わず)
Logicに入ってる諸音源(ドラムの打ち込みはいっつも泣きたくなる)
Logicの諸プラグイン(人生初めて多少なりともミックス・マスタリングした)

ジャケットを書いていただいたよしださん、ありがとうございます。

歌詞カードをはじめて作った。Illustratorどころかwordすら持ってないので、作業の最終盤で慌てて検索して見つけたFire Alpacaなるフリーのイラストソフトで説明をろくに読まず作ったけど一応なんとかなった。結構なんとかなるものなのか。

次はフルアルバム出したい。曲はあらかたできてる(殆ど歌詞もアレンジもできてないけど)。次はモアベターなのは言うまでもない。がんばる。

【け】劇場支配人のテーマ/THE PINBALLS

当初は【け】はゲットアップルーシー/thee michelle gun elephantで考えていたけど、最近買った忍殺コンピのこの曲もよく考えたら【け】の段の曲だし、どっちも割と路線も近いマイナー調ファンタジック・ガレージ・ロックンロールだし、そしてその他色々な要素により、こっちにしました。

自分のTwitterやこのブログでちょいちょい触れる通り、ニンジャスレイヤーにはまり込んでいる。存在自体はもう少し前から知ってはいたけど、結局4月から始まったアニメイシヨンがきっかけとなって、大概時間を裂き原作各エピソードのツイッターまとめを読み漁り、一応大体のエピソードを読み終わり、やや重篤寄りのニュービーとヘッズなった(はず)。

そんな日々の中アニメイシヨン3話のエンディングがこの曲だったのだ。
ちなみにこのアニメ、EDを毎回別のアーティストの曲が担当する形となっており、つまり全26話予定なので全部で26種類ものEDが存在することとなり、しかもそのアーティストの人選も1話2話でBorisMelt Bananaだったりと、実際ジョジョ以上にオルタナな範囲からの曲名からもじった名前等が登場することが多いこの作品の作者もとい翻訳者の趣味志向が全開で、一気に日本のオルタナティブアンダーグラウンドロック周辺のショーケースの場めいている。

はじめて聴いた時の印象を言うと、これより前のED曲がBoris『キルミスター』とMelt-Banana『Halo Of Sorrow』で、「全然アニメのEDらしくねえ!」と思ってた(特にMelt-Bananaの方は超強烈だったなあ)ので、「おっここに来てやっと割ともっと歌っぽさのある曲が来たゾ」って感じだった。あんなにガレージロック全開な曲なのに!あと最後のサビ前の「アイエエエエエエ!」のシャウトはあざとくもかっこ良かった(「アイエエエエエ!?」はニンジャスレイヤーの作品中で多くのキャラが発する驚嘆・恐怖とかのシャウト)。

そしてそのアイエエエエエ!のシャウトがやっぱキャッチーだったのか、上記の中毒動画がすぐに作られ、そして一気に再生回数が駆け上がっていく。アニメ後半の実写パート(!?)のインタビューの際もボーカルの古川氏がニンジャスレイヤー原作に対する愛着と情熱を語り倒し(「ザ・ヴァーティゴになりたい」!)、忍殺側のファンを強く引き寄せた感がある。

そのマッチングの良さの最たるものが、やはりこの曲の歌詞だ。例の「アイエエエエエエ!」の部分以外は直接的にニンジャスレイヤー的な単語(いわゆる「忍殺語」)を全く含んでいないにもかかわらず、忍殺原作のマッポーでサツバツな世界観と平行するようなキリキリしたリリックが、ニンジャヘッズに強く響いた。
(これはむしろ、忍殺もTHE PINBALLS も両方とも、殺伐とした作品、例えばそれがロックであれば、Blankey Jet Citythee michelle gun elephantに影響を受けているとも考えられる(←アッコラー!原作者はアメリカ人で連載は90年代半ばからだッコラー日本のバンドからの影響とかあり得ないッコラー!)。そのためか、THE PINBALLSについてよりいろんな曲を聴いていくたびに、今回のこの曲が特別に忍殺の世界観に“寄せた”曲でもないことが判り、その分むしろ忍殺とバンドの自然なセンスの共鳴感が光っている)

より忍殺的な内容を踏まえて言えば、この曲の歌詞に綴られたストーリーは「サツバツで救いの無い世界で汲々とするモータルの悲哀とその捨て鉢な叫び」といったところか。忍殺では超人然としたニンジャたちの活躍は勿論、非ニンジャ=モータルの、ネオサイタマというサイバーパンクで救いの無い街で暮らしていく上での悲哀や奮闘もしばしば描かれている。この歌詞における「劇場支配人」もまた、支配人という概念の負担の部分ばかりが積み重なった、今にも崩れ落ちそうな生活苦を背負った男として描写される。
金を借りてるままの恐ろしいブリトー兄弟が
 きっとやって来るぞ逃げ場はないぞ

しかしながらそれでも劇場支配人、ショウこそが仕事にして食い扶持にして人生。ショウ・マスト・ゴー・オン。2番のサビから(EDバージョンなら1回目のサビから)ギターソロも無くソリッドに展開していく最後のヴァースで、この男は結局その生業に向かっていかなければならない。
さあショウを始めよう/もう後がないやつらのため
そして自棄と奮起と絶望とその他酒とかによる混乱とかなんかそういうのが綯い交ぜになった末の「アアイエエエエエ!!

楽曲自体も見ていこう。コンピレイシヨンを購入できて発覚した、この曲の尺の短さ。3回ヴァースとサビを繰り返しているにも拘らず、僅か2分42秒というソリッドさにまず舌を巻く。これは特に曲の最後が歌が終わると同時にあっさりと演奏も終わってしまうことが大きいが、この結構思い切った手法を、この曲ではそれを不自然に感じさせないどころかむしろ「ああこの曲のストーリーを考えるとこのアッサリ感はまさにマスト」って思わせるくらいにハマっている。

ソングライティングとしては、マイナー調のガレージロック直球。これは特に後期THEE MICHELLE GUN ELEPHANT(以降のチバユウスケ作品もか)が強い影響力を持っている領域であろう。しかし、より殺伐で獰猛な感じのある後期ミッシェルやそのフォローワー的なものと比べると、THE PINBALLSはもっとしなやかだ。そこに、大文字のロックンロールの“ダサさ”を認識した上で、何らかの確信的な意図とセンスを持ってあえてそれをする、というバンドの姿勢が垣間見える、と書くと穿ち過ぎかもしれない。

そう、 この曲に限らずTHE PINBALLSの楽曲全般に言えることだが、サウンドの軸は明らかにガレージロックなのだけど、ソングライティングのセンスが結構歌心重視というか、それこそ他のガレージバンド勢と比べても遥かにメロディが書けるところが、彼らのとても大きな強みだ。そのメロディからなんとなく想起されるのはThe PillowsだったりGRAPEVINEだったり(ニコ動のコメントで挙っていた名前を並べただけだけど)、そんな感じの日本のバンド、言ってしまえば所謂ロキノン系的なドメスティックなセンスが、しかしガレージロックのサウンドに載って余計な臭みのない形で放たれる(それは勿論古川氏の、嗄れながらも少年なボーカルの魅力と効用も大きい)。そういったキャッチーな歌があるからこそ、リスナーは歌詞を聴く気になり、そして独特のややゴシックな文学臭を放つ彼らの歌詞世界に入っていく。

こういった特徴を踏まえて聴くと、今回のこの曲のソリッドなキャッチーさに改めて気付く。そして同時に、スカしたオシャレ野郎共が跋扈する音楽界で“ダサい”ロックンロールをぶん回すという意識、その演劇めいた客観的な知性が、この曲の「劇場支配人」に被ってくる。そう、この曲は実は「現代でロックンロールをする、その極々なスタンスを叫ぶ」曲なのだ、『劇場支配人のテーマ』とは「現代ロックンローラーのテーマ」そのものだ!
出来るなら神よお恵みを/それも金貨の恵みを!

……などと言うと、流石に大げさですね。ハズい。
キャッチーなロックンロールを量産してきたTHE PINBALLS。この曲で知れて本当に良かった。この曲も収録されるという今度の新譜『さよなら20世紀』(このケレン味!)もとても楽しみです。

折角だから彼らの現時点での最新アルバムも。キャッチーですげえかっこいい。『(baby I'm sorry) what you want』のガレージバンドの範疇に収まらない哀愁感とか最高にグッド。
忍殺コンピも、できれば全曲レビューしてみたいところ。最近よく聴きます。

【く】グライダー/advantage Lucy

ギターポップって眩しい太陽・元気な少年少女たち!ってイメージはあるけど、でも肌は白っぽくないといけなさそうで微妙に難儀ですよね。

ギターポップ」という概念がある。あるし、みんな使っているけども、しかし明確な定義とかはよく分からないし、みんなそんなに気にしない。まあ、「ギターロック」よりは皆の思い描くイメージに差が出ないんじゃないでしょうか。

ギターポップに必要なものとはなんだ。爽やかさ?アルペジオ?疾走感?リッケンバッカー?ぼくが個人的に思っているのが「少年少女チックな勇敢さ」だ。

なんか精神論チックで暑苦しいけど、とりあえずそれだ。だって爽やかギターポップに乗ってドロドロ痴情もつれほつれな歌はイメージしないでしょ(案外新しいかもしれない)。スミス?オレンジジュース?フリッパーズ?あいつらはネオアコだ。ネオアコは「子供っぽい勇敢さ」の代わりに「痩せてそうなシニカルさ」が来るんだ。ネオアコギターポップもよく並列されるものだし分けて考えるのは違うんじゃねーの?という意見はごもっともだが、とりあえず上記の定義をとりあえず言ってみるのにその二つは分けとく必要があるんだ。おれもその場限りの思いつきを言ってるだけなのでご容赦してほしい。(「『カメラ!カメラ!カメラ!』ギターポップヴァージョン」という名称…?やっぱりフリッパーズギターポップなんじゃ…)
言い訳を打ちながらもさらに踏み込むと、ギターポップという語は日本で生まれ日本国内のみで言及される概念のような節がある。歴史的に追えば、イギリスのネオアコがポストパンクの一形態として登場して、それが渋谷系とかなんかで日本の音楽シーンに受容されていく中でいつの間にか「ギターポップ」なる単語が生まれた、という経緯でそこそこ合ってるはず。個人的には、その受容の中で何かしらのネオアコギターポップへのイメージの変遷があったように思うということ。言ってみればそれは「シニカルさの漂白とイノセンスの強調」だろう。白く眩しい光に純化していく、そんなイメージがギターポップという語にはなんとなく付き纏う。
(勿論海外にも「ああーこれはギターポップですねー」と思う曲は山ほどあるけれど、それらは向こうからしたら「パワーポップ」とか「インディーポップ」とかそんな感じの扱いになって、あくまで日本から見たときに「ギターポップだなー」ってカテゴライズするという感じ、になってるんですかね。そういう意味でもギターポップは日本的な概念ということでいいんだろうか)
さて、上記のような意味で、ギターポップという語をまさにそのまま体現しているバンドこそが、advantage Lucyだと思うのです。「透明のある女性ボーカルやサウンド」と形容されるそれはまさにイメージ直球。勿論シニカルさが全くないとまでは言わないけど、それでも少なくとも音楽性が急にコートニー・ラブみたいになったりはしないでしょう。

今回の文章ギターポップって言い過ぎじゃなかろうか…。以下も多用。

今回の選曲『グライダー』は、そんな彼女らの3枚目のアルバム『Echo Park』の先頭を飾る曲。このバンドは一時期メジャーレーベル(東芝EMI)に所属していて、やはりその時が全盛期、みたいな雰囲気があるのかもしれない。そこからインディーに戻り、活動の密度やら何やら変わっていき、そしてメンバーの脱退・死亡なんかもあって、その後に出たものがこのアルバムだった。それを「待つのが長かったけどルーシーは変わんないね」と言う人もあれば「昔とは違ってなんか寂しいね」と言う人もいるらしい。

私見を言えば、このアルバムは日本で最高のギターポップアルバムだし、『グライダー』『Anderson』は日本ギターポップ界でも至高の楽曲だと思ってる。ギターポップが、ここにある!って感じ。

アルバムについてさらに言うと、上記の通り今作は所謂“全盛期”を過ぎてリリースされた作品である。つまり、人生に一度しかないかもしれない「青春の渦中」(本人たち的にそうなのかではなく、端から見ての話)を“過ぎてしまった後”に作られた作品である。予備知識に左右され過ぎな上感情論的でアレだけれど、それでもやはり、サウンドや歌詞に「渦中にはもういない」ことによる落ち着きや整頓のされ方があって、今作を苦手な人はそこが全盛期と違うと感じるところかもしれないが、個人的にはそのことが、このアルバムをずっと聴けるものにしている気がする。

『グライダー』について。これぞadvantage Lucy!って具合に開けたメジャーコード感が印象的なソングライティングの良さは勿論だが、この曲の最大の特徴はアルペジオが殆どないこと。その代わりに、リードギターは終止カッティングを続ける。このカッティングの多彩で自由な感じこそが、この曲の想像力を飛躍させる最大のアイテムだ。細かくフレーズを反復させながら駆け上がっていくこのプレイが、この曲のタイトル通りのイメージをより羽ばたかせていく。それはまるで、機械仕掛けのグライダーを自作して飛んでいこうとする少年少女のような。

この曲には、ギターポップ的な繊細な勇敢さとともに、そんなリフや、突き抜けていくようなサビのメロディラインに現れるようなある種の力強さが感じられる。要所要所で素晴らしいかき鳴らされ方をするアコギや、ドラムプレイの細やかさなど、相当丁寧に仕上げられたアレンジが、ある意味では全盛期的な勢いを削ぎながらも、それとはまた別の穏やかな力強さを与えているように、予備知識に左右されまくった頭だけど思う。

穏やかな力強さ。それは、言葉にしてしまうと少し嫌になるけど、より大人的な落ち着きを得た上での、少年少女的な勇敢さがあるんだと思う。
思い出すんだ/あの風/あの陽射し/忘れようとしたって/そばにいる
その感覚は、マンガでいえば登場人物は少年少女であっても、少年誌ではなくもっと年齢層上でかつヤンマガとかでもなく、マイナーな雑誌(少なくともアフタヌーン以下)のそれみたいな感じと言えばいいのか。大人になってしまった目線で、子供の頃の切なさみたいなのは確かこんなだったよな、と噛み締めてエミュレートしていくような。
白く伸びる/雲に沿って/僕らは今/走るよ
 瞬いては/遠くなる/憧れを/追いかけたまま
 降り注ぐ/木洩れ日はそっと/穏やかに/心を照らす

彼女らのキャリアの変遷がぼくにそう思わせてしまっているところはあるにしても、この少し夏枯れしたようなギターポップは、それゆえにいつまでも高く、飛んでいけるような気がする。せこい考え方かもしれないが。

前回といい、だんだん文章が老害ノスタルジックになりつつあるんじゃないか…?

【き】記念写真/フジファブリック

曲だけを、つまり「何の予備知識もなくその曲を聴いただけの状態」でレビューを書く、というのがひとつの理想ではありますが、しかし今回はそういうのから凄くファーアウェイな感じになってしまいました。まあいいか。

この曲が入ってるCDをリアルタイムで買って持っているというのに、本当に最近までこの曲を志村作詞作曲なんだと思ってました……志村存命時も他メンバーのペン結構あるんですね知らなかった。

さあ困ったぞ、思いっきり志村正彦の作家性みたいなところになんか書けるかなと思ってぼんやりふわふわ選んだこの選曲、いきなりはしごを外された感じになってしまった(はじめからはしごなんてなかった)。何を書けばいいんだろう…。

多少悩んだ末に、そういえば3人で復活した後のフジファブリックをまともに聴いてないことに思い至ったので、そこに突破口を見いだしたわたしは仕事終わりのズタボロボディを引きずって天神に向かった。某所で借りてきたものをパソコンに入れて(1枚は既に入ってたよ…)、割とマジメに聴いてみたところ、なんか書ける気がした。書こう。

…昔話。幸いなことなのか、ぼくは割と初期の方からフジファブリックをリアルタイムで聴いてた世代で、といってもきっかけは少なくない人たちと一緒で、音楽番組『JAPAN COUNTDOWN』のエンディング曲として『赤黄色の金木犀』がフューチャーされた時だった。和風・文系の度合いが嫌らしくない程度にさらさらと白熱するこの曲の塩梅は、なんだか新しい予感がして楽しくなってた。その後出た1stアルバムだってとてもいい出来だった。だけど、その頃も既に色々放っていた、爽やかさとはまた違うなんかネチャネチャしたエネルギーが、圧倒的な完成度でシングル化された『銀河』で、まさに彼らの特質性は何かのピークに達してた。

『銀河』と、そしてその後のアルバム『FAB FOX』で、それまでの若年寄めいた叙情派ロックバンドから一気にナチュラル変態ロックバンドななんかに転身した感のあるバンド。リアルタイムで聴いてた身としては、この「なんでだよ!」と思わず叫びたくなるような流れが最高にドライブ感あったのを覚えている。そう、『虹』や『茜色の夕日』といったグッドポップなシングルも含めて、何か不器用でぶっきらぼうな才能の大胆な躍動感というか、そういうのに振り回される楽しみだった。

それから意外と時期が空いて(メンバー脱退もあり)、久々のシングルが『Surfer King』『パッション・フルーツ』と続いて「やっぱなんかアホやなー」と楽しんでいたところに、なんかやたら正統派なポップソング『若者の全て』が来たところで、「ん?」と違和感を覚えたんだった。初期の叙情路線とも違うと感じた。それはタイトルで自負する通り、斜から切り込むスタンスではなく、何かの「ド渦中」の中からぱっと浮かび上がるようなやつだった。隠さず言えば、それはリリース当初、「彼らにしては異端」だと見えた。モテキBank Bandのカバーとかもない時代だと言えば言い訳めいているけれど。

そして、果たして、『TEENAGER』はそういうアルバムだった。それは「若者たちが奏でる爽やかなポップミュージック」というフォルムにグッと近づいていた。それは都市で暮らす若者の音楽のようだった。かつての大きな魅力のように思われた不格好な変態性はアルバムの中心からオプションめいた位置へ移り、その空位をキラキラしたポップセンスが取って代わった。

その後、さらにパワーポップに傾倒した『CHRONICLE』をリリースするに至り、不思議に思ったことは、彼らの音楽における主体となる人物が、どんどん若返っていくように感じたことだった。『CHRONICLE』に至っては、延々と続く志村本人の「ウジウジした独白」じみた雰囲気に、初期のどこかさらりとした文学青年の姿はどこに行ったんだ、と狼狽した(と同時に、曲自体はどんどんシンプルに明るくなっていくのに、どうして歌詞はこんなになってしまってるんだろうと思った)。

その後。2009年12月クリスマスイヴの夜。衝撃と困惑。悲しみと、それを弔うべく始まる色々な大規模なイベント。で、最晩年の楽曲を遺されたバンドで完成させた『夜明けのBEAT』が『モテキ』ドラマ版の主題歌に抜擢された、このことにより遂にいよいよ、フジファブリックは「ザ・若者のバンド」となった気がする、あまりに大きすぎる穴が空いたままに(っていうか原作全然読んだことないけど、いまwiki読んだら『モテキ』って相当なサブカルモンスターっぷりなんですねえ。タイトルやらBGMやらなんだこれはたまげたなあ。引用された曲の中に、所謂下北沢ギターロック的なのが全然なくてそんな中フジファブリックが入る辺り「時代に選ばれた」感があるとかなんとか色々思ったりもしますがそれはまた別の話)

一度そんな状態になった後に活動を続けていくというのは、しかもかつての中心人物がいないままというのは、どんなに大変そうか。しかし実際のところ彼らはそれをしている。シングルもアルバムも何枚も作り、精力的な活動を続けられている。それは遺されたメンバーも確かなソングライティングを持っていることが大きいと、遅まきながら3人体制以降の音源をやっと聴いて確認できた。

ようやく今回のテーマ曲の話。『記念写真』は、そんな3人体制以降でバンドの中心となっている山内総一郎氏の作曲。3人以降で過半数の曲を書いている彼の、バンドで発表したものでも最初の方になるこの曲は、既にポップソングとして、それも「フジファブリックのポップソング」としてとても完成度の高いものになっている。スタジオミュージシャンという出自もあってか、より本能的な志村と比較すると職人的な印象を覚える。

アルバム『TEENAGER』が1曲目から爽やかな曲で始まり、この曲が2曲目だが、イントロのやや奇天烈な風情のあるリフが、1曲目よりも「それまでのフジファブリックっぽさ」を感じさせる。このフレーズは曲の随所で登場し、他の部分の濁りのない爽やかさにいいアクセントを与え、またパート間の場面転換にも有効に活用される。こういうリフで曲構成をコントロールする作曲スタイルもまた、フジファブリックの特徴のひとつのように思う。

リフを過ぎて、パッと晴れ間に飛び出したような爽やかさ。ここまで垢抜けた爽やかさはこれまでの彼らにはなかっただろう(『虹』辺りはそれに近いけど)。警戒に疾走するリズムは終始通底していて、そこがこの曲の風景の鮮やかな寂しさを盛り立てる。

これも彼らの特徴の一つなAメロ・Bメロ二度回しで溜めた後に例のリフを経て飛び込んでいくサビのメロディの、突き抜けていく感じはキラキラして正統派感溢れる。街を想いが駆け抜けていくような、爽快でせつなげなグッドメロディ。2度目のサビからリフを挟んでCメロでより切なさを上乗せしてから放たれる最後のサビも、まるでドラマ的な映像が浮かぶ疾走感だと思う。

そんな具合にいい曲だが、そこにさらに情感を詰め込むのが、やはり志村の歌。歌詞は志村作だが、そこにまさに「キャリアを重ねるごとに感性が若くなっていく」感じの彼のキャラクターが現れている。
僕はなんでいつも同なじことで悩むの?/肩で風を切って/今日も行く
このように、次作『CHRONICLE』の結果的に布石となっているフレーズも含まれながら、彼は「若者特有の青春の通り過ぎる寂しさ」に迫っていく。
記念の写真/撮って/僕らはさよなら/忘れられたなら/その時はまた会える
 季節が巡って/君の声も忘れるよ/電話の一つもしたのなら/何が起きる?

彼の音楽の根っことなったユニコーン奥田民生)の大名曲『すばらしい日々』のあからさまなオマージュを交えて、それをより「切なさの渦中の若者」目線にブラッシュアップしていく意気込み。それはやはり『若者のすべて』が軸となるようなアルバムの1曲として相応しい眩しさだ。

『TEENAGER』や『CHRONICLE』を今聴き返すと、リアルタイムに聴いた時とは全然違った印象を覚える。そこには「若者」というテーマに自身のこんがらがった問題をぶつけていく創作者の姿がありありと現れてくる。『モテキ』以降のフジファブリックが多くの人に支持されるのは、そこの強度(その創作者の弱さも含めて)があったからなんだろうと思わされる。結局志村氏の話をしてしまっている訳ですが、そんな彼が全曲作詞作曲しなければと追いつめられた『CHRONICLE』のつらみを思うと、『TEENAGER』の時期の、たとえばこの曲や『星降る夜になったら』のような眩しくも素晴らしい共作のポップソングは、バンドのポテンシャルがとても幸福に滲みだされた時期の楽曲なんだと思えて、それ自体でまた、変に切ない気持ちになったりもするんですね。

【か】カナリヤ/THE YELLOW MONKEY

もっと日記のように書ければ更新ペースも早くなるのかもしれない。

吉井和也関連作品の中でイエモンの『8』だけなんかやたら好きで、それは高校生くらいの頃に中古ではじめてイエモンのCD買ったのがこれで、なんか聴いたことあるシングルとかも多くて良かった、みたいなのもあったのかもしれないが、今聴いてもやっぱすげえいいなって思って、それでちょっとよく考えたら、このアルバムは全体的にSFチックなコンセプトがあって、そこがなんかいいんだなあって気付いた。

「SF」というジャンルの雰囲気や付随するガジェットのなんかいいところとは、ファンタジックなあれこれもドラマチックなあれこれも悲しみも退廃も死生観も、すべて無慈悲で無感動的なテックを基として置き換えられるところだと思う。文系なのでちゃんとした工学的なあれこれ、理論的なあれこれは全く分からないけれど、とりあえずは「全ての出来事が工学的な説明がついてしまう」ということになることで、あらゆる要素に現代的・未来的・物質的な万能感・虚無感・神経質さなどが宿るところが文系的には大事なんじゃないかなと、勝手に思ってる。

そんな感じを求めたからかどうか知らないが、この『8』というアルバムの楽曲は、ともかく随所に「悲しげな」SF的な香りがする。サウンド的には電子音の多用や、バンドサウンドにしてもどこか無機質なリズム感・アレンジだったりが散見される。これはそれこそ本人らが日本盤のライナー(伝説的な…!)を書いたRadiohead『OK Computer』辺りからの強い影響下にあると思われるが、それによりこれまでもっと弛緩ドロドロのハードロック歌謡していたサウンドは一気に逆ベクトルの緊張感を得た。それはさしずめグラム時代からベルリン時代へのDavid Bowieのキャリアの変遷のような。

歌詞も、今改めて見返すとSF的、それもサイバーパンク的なフレーズがちょいちょい散見される。1曲目からアンドロイドの歌だったり、インストナンバーの曲名が『人類最後の日』だったり、最後の曲に出てくる「巨大なモーターのエスカレーター」とか(歌詞だけで見るとSF要素はアルバムのみ収録曲に偏っていて、シングルからの収録曲の多いこのアルバムでは言葉的なコンセプト自体は後付けチックなものだったのかもとも思う)、あとブッックレットの吉井の写真に機械が被せられたり。また、SF的な音の装飾があると、他のもっと自然的な歌詞なども聞こえ方が違ったりする気もする。

総じて感じられるのは、閉塞しているような虚無しているような、息詰まるような雰囲気だ。それに発売当時ならバンドの終焉が重なってまた別の悲壮感もあったんだろうか。何にせよ、その世界観の厳しさと美しさに、この作品特有独特の吉井やバンドのセンスが現れている。それはそれまでの作品の、どこかロックスター的なものを背負った作風とはかなり違った、不思議で無力無情的な魅力だ。

このままではアルバムの話だけで終わりそうなので、そろそろ『カナリヤ』の話を。この曲も、本作で数少ないアルバムのみ収録の曲。やはりSFコンセプトがより活きているのか、プログラミングされた電子音がバックで静かに旋回していたり、メインフレーズのひとつにアナログシンセの細い音色を使っていたりする。その横で整然としたハードなギターリフやビートルズライクなアルペジオが鳴るのもまた、ビンテージ感を脱臭してSF的な異化効果を発揮しているような気がするのは流石に思い込みが過ぎるか。

単純に曲が凄くいい。極端なデカダン・ゴスでもなく、お茶の間まで届く楽しいハードロックでもなく、壮大でもなく、着飾り感(これもイエモンの大事な魅力だと思うけれども)が薄くとても素直に、歩く程度のテンポで、4分未満の尺で、吉井和也の歌謡ポップさが奥ゆかしく花開いている。ブレイクから駆け上ってそして落ちていくような2段階サビの構成もかっこいいし、間奏から半ばCメロみたいに突入してあっさり終わる最後のサビなどは邦楽界きってのCメロ職人である彼らしい魅力がある。

吉井の歌唱も、バンド活動休止以降のソロ的な憂鬱さとバンド的なパワーとを適宜使い分けるスタイルで良い。そして歌う内容もまた、微妙に繋がらない感じに配置されたセンテンスの中に、少年的でいてかつちょっと乾いた、不思議な寂寥感が美しく揺らめいている。
あしたを眺めていた/遠くで眺めていた/OH YEAH
 そこには悲観が転がっていた/先には小さな花が咲いていた

無意味で無情に広い世界と、どこにも行けない「僕」との、痛々しくもよくある対比が、端的に描かれている。そう、このアルバムを占める閉塞感の、最も平和的日常的でかつそれゆえにどうしようもない形での表現が、この曲なんだと思う。
かごの中であの夢は/一人だけの妄想にした
 たとえ空が晴れていても/全然忘れてない/全然忘れてない/あおむけで眠りたい

空が晴れていたら忘れるものなのか、とも思うけど、これはつまり「晴れた空」が虚無感の表現に使われるアレで、そういうの個人的にとても共感する。しかし「いつの日にか/あおむけで眠りたい」という表現はすごい。どれだけ息苦しい状況だろう、そしてそれは事件ではなく日常なんだ。そういう意味ではぼくだって、いつの日にかあおむけで眠りたいものですよ結婚おめでとうございます吉井さん。

ぼくが近頃SFSFうるさいのは、単にニンジャスレイヤーにはまっているからです。生活の時間を大分持っていかれてしまっている…。でもホント、すっごいキャッチーで分かりやすいサイバーパンク小説なんじゃないっすかねこれ(全然SF詳しくないけれども)。

【お】おばけのピアノ/スカート

「かな50音」をテーマに曲を選ぶと、当然日本語の曲の中から選ぶことになるため、歌詞は大体日本語で、それも込みで色々グッとくることについて書きたくなるので、それがいいのか悪いのかよく分かりません。英語歌詞だとそれができない語学力や感覚もどうなのって気もするけど…。

たとえば、ライブがあって、バンドは大体は色々な持ち曲をやる訳だけど、その中で登場しただけでそのライブの山場、少なくとも他と違った特別な雰囲気になってしまうような曲というのは、それがバンドの音楽性の本分からは少し外れていても、やはり代表曲となるのだろう。

東京のインディーバンド・スカートの『おばけのピアノ』もまた、彼らの代表曲然としている。スカートの曲の多くがシンプルな構造・ソリッドな尺でさらっとした薄口鮮やかでやや通好みなポップソングだとしたら、この曲はAメロBメロサビが明確にありしかも普通に繰り返す、Cメロもある、そしてその構成の必然性が堂々と感じられる、語弊を恐れずに言えば「どこに出しても恥ずかしくないタイプの名曲」である(別に他の曲が恥ずかしい出来とかそういうことでは全然ないが)。そのうちBank Band辺りがカバーしてしまうかもしれないくらいに。

個人的にはスカート、というよりソングライターとしての澤部渡は結構挑戦的な人だと思うことがある。それはコードの不思議さもそうなのだけれど(この辺りは全く理解が追いついてないです。コードブックをとある人の好意で見せてもらったときの溜め息しか出ない感じ…)、曲構成もかなり非凡な作り方を好んでいる感じがある。AメロBメロしか無い曲で平気でBメロを一回しか使わなかったり、Aメロが最初しか出てこなかったり、ともかく「Aメロ→サビを2回繰り返して間奏してサビ」みたいなある種の定型じみた構成を避ける。その大胆な省略で曲の尺を短くしながらも、省略に違和感を感じさせずスムーズに曲にするセンスが圧倒的なように思う。こういう省略の構成は奥田民生だったりアジカンだったりも得意とする手法だが、スカートのそれはよりシンプルに洗練している。潔さとは似て異なる、魔法じみた手法だと思う。

そんな構成とかいうマニアックな話などしなくても彼の曲は基本メロディが良くて素敵なのですが、ではそういったある種のトリッキー要素を排して、そのセンスを正攻法的に積み上げたらどうなるのか。そういった前提含めて大変にややこしい興味に全力で応えるのがこの『おばけのピアノ』だと言って過言ではない。その「正しさ」こそが、この曲がアルバム『ひみつ』の絶妙なバランスのポップソング群の中でやや浮いてる印象を与え(本当に「やや」の話だけど)、本人もそれを自覚の上でアルバムの先頭に配置することになったのではと邪推する(インタビュー記事参照)。

より細部を見てみよう。イントロのsus4なコードカッティングからして王道も王道、この曲のどこまでも真っ直ぐ威風堂々な雰囲気を感じさせる。そして溢れだすように始まり迸るように上昇するAメロの感情的なメロウさ、バッキングのギターのフェイズエフェクトとピアノの登場でファンタジックでSFな雰囲気を盛り立てるBメロの流れは丁寧で、そして祈るように飛翔し上下するサビの格調高さ(これはクラシカルなピアノメロディが大きい)と青っぽい少年感情の交差具合が、この曲からどうしたって沸き上がる作者の勇敢な熱を端的に物語っている。また、曲構成に沿ってくっきりとしなやかに的確に盛り立てるリズム隊も同様に雄弁だ。

曲は、澤部氏お得意のギターカッティングも交え絶妙にタメるCメロから、吹き出すようにサビの旋律をなぞる間奏のプレイを経て、ブレイクからの3度目のAメロをさらりと流したところで、唐突にしかし感傷的に終わる。これは、展開の多いこの曲を3分半という相対的に短い尺に収めることに直結しているし、アルバム的にも先頭の曲が終わり2曲目にすっと入っていくよう機能している。

結局、この曲は何なのか。ただのお洒落で端正なポップソングだろうか。所謂「東京インディー」シーンを彩る名曲の一つといったところだろうか。そういったこと以上に、ぼくはこの曲にとても羨ましいものを感じる。それはこの曲が根に持ちそして存分にアンプリファイすることに成功した、純真な想像力についてだ。ふわふわした話だけど、この曲に溢れている、まるで童心とノスタルジーとを、埃かぶったおもちゃ箱と夜空(文系感覚的には≒宇宙)とを結びつけたかのような詩情には、澤部渡個人の素養と経験(特に彼の大事な趣味の一つであろうマンガから得たのかもしれないものとか)がキラキラと溶け込んでいる。
眠りのなかじゃ街の地図だってあやしい/気づいたらもうない
 飾った夜のため開け放つ暗い窓/もどってこれるね

彼の描く寂しさのちょっと幻想的な感じが好きだ。それは気の聞いた言葉のように街を飾りもするし、または「君と僕」の世界を、世界全体から切り取るのではなく、二人以外虚無めいた地点から想像力だけで広げていくような切々とした雰囲気もある。
君の声がだんだん重くなっていく
 いつもそうだろ/もう羽根をたたまなきゃね

このCメロの言葉からの、むしろ羽根を広げていくかのような間奏の広がりが、とても眩しくもはかなくて愛おしい。

『おばけのピアノ』は、スカートというバンドの入り口に最適な曲にして、作者の想像力が美しく羽ばたいた、素晴らしい名曲であります。

【え】襟がゆれてる/bloodthirsty butchers

この企画の曲選び、iTunesの曲目の並び方をあいうえお順にして曲を探しているけど、頭文字がひらがなカタカナなら素直に出てくるからいいんだけど、漢字だとあらかじめ読み方を入力していない限りはその漢字の音読みの順番に並んでしまうので、「この頭文字に対応する曲は〜」と探すときに面倒くさいんです。今回のこの曲もあやうく取り逃しそうになったし。以上とても共有されづらそうな悩み。

吉村秀樹は死んだ。その後追悼のアレでトリビュートアルバムが出まくった。今確認したら4枚か?その予定が出た段階だったかで知り合いから「『襟がゆれてる』がやたらカバーされまくってる」という話を聞いた。どんだけ揺れるんだよ襟、そんな揺れるような感じに襟立ててんのかよ皆。

(今調べたところ、結局一番カバーされた回数が多いのは『ファウスト』か。いい加減宝の箱なくなっちゃうよ!)

名盤の誉れ高い『kocorono』でまさに日本の歌もの轟音ギターロックの偉大なるゴッドファーザーの座を得た後の、彼らの名曲生産力の凄さは、彼らの次のリリース時期となる1999年の、アルバム『未完成』に至るまでのリリースラッシュにて如実に現れた。『ファウスト』も『プールサイド』も『△』も、そして今回のこの『襟がゆれてる』も、この時期リリースされた楽曲。ブッチャーズのクラシックがずらり。『kocorono』で得たサウンドをさらにぐっとロッキンでキャッチーに仕上げた業前の名曲が並ぶ様は圧巻。

kocorono』で彼らが掴んだものとは何だったのか。それはギターの轟音をポップなコードに乗せ(その乗せ方は大いに独自のものがあるだろうけれど)、どっしりと骨太な「歌もの」の楽曲を作り上げたことだと思う。海外で言えばニールヤング辺りが先例的ではあるだろうけれど、ブッチャーズのそれはハードコアの出自からの、しかもハードコアという形式にも収まりきれないなんかグシャグシャしたアレを持つ男が、そのイメージをバーンと大きく弾けさせる感じに成功した類のそれだ。

つまり、ブッチャーズだけの荒野。どこまでも都会的でない荒くギラギラしたギターの歪みに、どっしりと前進していくリズム、そしてタフだからこその純真な内省をぶっきらぼうに響かせる歌。細野晴臣辺りから始まる日本のカントリーミュージック受容史の都市的な感じ(持論です。そのうち別のところで書きます)にあさっての方角から衝突するような(本人はその気はなかろうが)、和製オルタナカントリーロックの、それは登場だったのではないか(オルタナカントリーというジャンルについても、私見によって元の意味合いからかなりズレていますが)。風通しの爽やかな殺風景。

その点、この曲は『ファウスト』と共に、まさにその荒野を行くテーマソングの決定版だろう。この曲の場合、特にバッキングで歪んだエレキとともにかき鳴らされるアコギの響きが印象的だ。リードのギターも、フレーズというよりももっとこう、空気中の粉か水分か何かがきらめくような不思議な揺らぎがあり、荒野的な鮮やかで乾いたサイケさを醸し出している(まあ歌詞には「雨上がり」なんて単語も出てくるが細かいことは言いっこなしだ)。

そしてやはり、力強さ。歌詞にもある通り、彼らは確信めいたものがある訳でもなく荒野を彷徨っている風ではあるが、それは虚無感に浸っている訳ではない。やはり流麗で明確なフレーズとは言いがたいギターソロはファズったささくれがかえって無心のまま遠くに響いていく感じがするし、そのソロ終わりからの畳み掛けるような曲展開はやはりどうしたって不格好で感動的だ。

どんどん行け!どこまでも行け!世界の果てまで。そんな子供染みた気持ちを、ブッチャーズを聴いているとよく抱く。なんで奴らやぼくらは世界の果てなんてものを目指すんだろう。そこは結局のところとても寂しい道中だったり、悲しい結末だったりしそうなものなのに。冒険心か、好奇心か、旅行気分か、戯れか、ヤケクソか、言い訳か。知ったことか。普通にしゃべると全然訳分からない吉村秀樹の言葉が、歌詞というメロディの枠に嵌められることでそのロマンを多く抽出し、そしてそれ以上をギターをはじめバンドサウンドが語らずに語る。

流れるように僕は汚れた/汚れた花を指でなぞった
 雨上がり/佇む/向かい風が襟を揺らしてる

個人的には、より音が整理された『荒野ニオケル〜』よりもこの辺りの時期の方が荒野っぽさを感じるところ。アルバム『未完成』に至っては録音されたギターは一本だけなのにあの音の厚み・おおらかな殺伐さ。

あと、余談ですが「世界の果てに行く」なんて時間も金も手間もかかること現実的にはできないし、だからこそ本を読んだり映画を見たり音楽を聴いたり、ってのがあるよなあ、とは時々思います。なんか村上春樹とかも「世界の果て」願望で説明できそうな気がしてきたぞ。

【う】ヴィーナスとジーザス/やくしまるえつこ

果たして「ゔ」は頭文字う扱いしていいものかな……。

見比べると、不思議感出てるけど画面暗い本人PVよりも、当時のシャフトのともかくポップで洒落たOP作るぞって雰囲気から出てきたカラフルでシャープな映像の方が曲の楽しさに合ってる感じするな。

やくしまるえつこを擁する相対性理論というバンドが日本の音楽に与えた影響は、ふたつの面で説明することができる。ひとつが、ロリータでウィスパーで低血圧そうな女性ボーカルを流行らせたこと。それも、アイドル的な出自からでもなく、また渋谷系カヒミ・カリィとか)の文脈からでもなく、あくまでインディーロック的な世界から出てきたのが大切か。女性ロリ系ボーカルのバンドといえばYUKIの影響がまだまだ大きかっただろうところに楔を打った形となったと思われる(勿論、どっちの方がいいとかいう話ではないですが)。

いまひとつは、そのインディーロックな出自、そのサウンドが、とてもコンパクトで直線的で線細めだったこと。「女の子の元気さ!」みたいなのや「おしゃれな女性のジャズ!」みたいなのなどのくびき(くどいけどいい悪いの話ではない)から大きく距離を取った、抑制的なニューウェーブギターロックであったことが、サブカル的に取り上げる際にも意外とロックの歴史やらと接続しやすい部分があり、サブカル界のアイドルとしても独特の知的ポジションを得るに至った。

実際アルバム『ハイファイ新書』以降から大御所ミュージシャンとのコラボも増えていたりした彼女ら(彼女?)だったが、そっちの方はより高度で難解な音楽志向であることが多く、元々の彼女らの持ち味の一つだった軽快なポップさはあまり省みられていない印象だった。

そこからどういう流れで、彼女は自分のソロをアニソン方面にがっつり向けることになったんだろう(まあソロの多くで関わりのあるシャフト(というか監督の新房昭之氏か)もベテランと言えばベテランか)。最初にリリースした『おやすみパラドックス』こそ、まだ大御所コラボ難儀感が残っていたが、晴れて全曲作詞作曲彼女名義となった、今回の表題曲を含むシングルによってついに、彼女は自らのポップ可能性を大いに解禁することとなった。実際シングル収録の3曲ともタイプは違えど彼女の特有のキッチュさ・ポップさが活きた良い楽曲であるけど、ひとまず今回は表題曲のみ触れる。



ポップ、そしてコロコロしていてカラフル、という感じの1曲だ。軽快なテンポに乗る言葉は発音的には日本語的なべったり感なのにすごくリズムが軽やかで可愛らしい。よくよく聴くとメジャーコード感の強いメロディは意外と古き良き歌謡曲的な明朗さがあるが、そこをゼロ年代的なタイトでシャープな演奏で異化し、そしてシナモンのようなストリングスと鉄琴をさらりと振り掛けることでファンタジーでキュートなポップソングに仕上げられている。

テンポよくAメロBメロを駆け上がってのサビの箇所より後にさらに抑制めいていじわるめいたメロディパートを挿入する曲構成も、この曲のコロコロした感覚をより緩急ついたものにしている。二回目サビ後でこのパートを省略しブレイクの後間奏パートにさらりとちょっと壮大に展開する様などは、パズル的な組み合わせの妙と映画的な盛り上がり具合との調和がこの曲のSFチックな広がりを演出し、そしてそれをイントロと同じリフでざくっと処理して最後のBメロに繋げてしまうところまで含めて、高度に職人的に感じる。

職人的。やくしまるソロの楽曲で、特に各シングル表題曲なんかで感じるのが、この要素だ。考え抜かれた構成、可愛らしさが変に淀まない程度に抑制されながらも煌びやかなアレンジ、同じくまったく粘つかない感じのシュールな可愛らしさを抽出した歌詞など、どの要素も曲のコンセプトに対して非常に的確な感じがする。それは同時に、相対性理論が有していた、ニューウェーブ気味なバンドサウンドによる抑制や投げっぱなしさ、もしくはガッとくる感じとは両立しないものだ。こういった楽曲での彼女は、やはりバンドやもっとSF・NWに取り澄ましているときよりもずっとアイドル的な方面に寄っている(作曲やアレンジホントに本人かよ、と疑ってしまうところも含めて)。

ただ、ロック的な勢い感も良いけれど、最高の砂糖菓子を作り上げようとするかのようなポップソングも、大変素晴らしくて楽しいものです。この曲のように「大人なビターさ」みたいなのを欠片も出さないようなポップさというのは、そのコンセプトの華麗な一貫性自体で既に、静かに唸ってしまうような感じがある。最高にポップでキュートでシャレた曲を作る才能?少なくとも歌える才能が、彼女にはある。そういう才能のある人が、何の理由があるにせよこういう曲もリリースできることは、とてもありがたいことだと思います。

ヴィーナスあの子はいつでもロンリネス/目を離さないで
 ジーザスお向かいさんなら/聞いてお願い

この曲が主題歌になったアニメ『荒川アンダーザブリッジ』の2期のOP曲も彼女の作品(『COSMOS vs ALIEN』)だが、まさに今回の曲の正当な進化系であり、そしてより理不尽な緩急と展開とそして謎のふわふわコーダ付きで曲の尺たったこれだけかよ!?まともな歌の部分だけだとたったこれだけしか尺ないのかよ!?という物凄い楽曲で、どうでもいいですがそっちの方が好きです。やくしまる楽曲では3本の指に入る。他2本は『気になるあの娘』と『少年よ我に帰れ』。