ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

【き】記念写真/フジファブリック

曲だけを、つまり「何の予備知識もなくその曲を聴いただけの状態」でレビューを書く、というのがひとつの理想ではありますが、しかし今回はそういうのから凄くファーアウェイな感じになってしまいました。まあいいか。

この曲が入ってるCDをリアルタイムで買って持っているというのに、本当に最近までこの曲を志村作詞作曲なんだと思ってました……志村存命時も他メンバーのペン結構あるんですね知らなかった。

さあ困ったぞ、思いっきり志村正彦の作家性みたいなところになんか書けるかなと思ってぼんやりふわふわ選んだこの選曲、いきなりはしごを外された感じになってしまった(はじめからはしごなんてなかった)。何を書けばいいんだろう…。

多少悩んだ末に、そういえば3人で復活した後のフジファブリックをまともに聴いてないことに思い至ったので、そこに突破口を見いだしたわたしは仕事終わりのズタボロボディを引きずって天神に向かった。某所で借りてきたものをパソコンに入れて(1枚は既に入ってたよ…)、割とマジメに聴いてみたところ、なんか書ける気がした。書こう。

…昔話。幸いなことなのか、ぼくは割と初期の方からフジファブリックをリアルタイムで聴いてた世代で、といってもきっかけは少なくない人たちと一緒で、音楽番組『JAPAN COUNTDOWN』のエンディング曲として『赤黄色の金木犀』がフューチャーされた時だった。和風・文系の度合いが嫌らしくない程度にさらさらと白熱するこの曲の塩梅は、なんだか新しい予感がして楽しくなってた。その後出た1stアルバムだってとてもいい出来だった。だけど、その頃も既に色々放っていた、爽やかさとはまた違うなんかネチャネチャしたエネルギーが、圧倒的な完成度でシングル化された『銀河』で、まさに彼らの特質性は何かのピークに達してた。

『銀河』と、そしてその後のアルバム『FAB FOX』で、それまでの若年寄めいた叙情派ロックバンドから一気にナチュラル変態ロックバンドななんかに転身した感のあるバンド。リアルタイムで聴いてた身としては、この「なんでだよ!」と思わず叫びたくなるような流れが最高にドライブ感あったのを覚えている。そう、『虹』や『茜色の夕日』といったグッドポップなシングルも含めて、何か不器用でぶっきらぼうな才能の大胆な躍動感というか、そういうのに振り回される楽しみだった。

それから意外と時期が空いて(メンバー脱退もあり)、久々のシングルが『Surfer King』『パッション・フルーツ』と続いて「やっぱなんかアホやなー」と楽しんでいたところに、なんかやたら正統派なポップソング『若者の全て』が来たところで、「ん?」と違和感を覚えたんだった。初期の叙情路線とも違うと感じた。それはタイトルで自負する通り、斜から切り込むスタンスではなく、何かの「ド渦中」の中からぱっと浮かび上がるようなやつだった。隠さず言えば、それはリリース当初、「彼らにしては異端」だと見えた。モテキBank Bandのカバーとかもない時代だと言えば言い訳めいているけれど。

そして、果たして、『TEENAGER』はそういうアルバムだった。それは「若者たちが奏でる爽やかなポップミュージック」というフォルムにグッと近づいていた。それは都市で暮らす若者の音楽のようだった。かつての大きな魅力のように思われた不格好な変態性はアルバムの中心からオプションめいた位置へ移り、その空位をキラキラしたポップセンスが取って代わった。

その後、さらにパワーポップに傾倒した『CHRONICLE』をリリースするに至り、不思議に思ったことは、彼らの音楽における主体となる人物が、どんどん若返っていくように感じたことだった。『CHRONICLE』に至っては、延々と続く志村本人の「ウジウジした独白」じみた雰囲気に、初期のどこかさらりとした文学青年の姿はどこに行ったんだ、と狼狽した(と同時に、曲自体はどんどんシンプルに明るくなっていくのに、どうして歌詞はこんなになってしまってるんだろうと思った)。

その後。2009年12月クリスマスイヴの夜。衝撃と困惑。悲しみと、それを弔うべく始まる色々な大規模なイベント。で、最晩年の楽曲を遺されたバンドで完成させた『夜明けのBEAT』が『モテキ』ドラマ版の主題歌に抜擢された、このことにより遂にいよいよ、フジファブリックは「ザ・若者のバンド」となった気がする、あまりに大きすぎる穴が空いたままに(っていうか原作全然読んだことないけど、いまwiki読んだら『モテキ』って相当なサブカルモンスターっぷりなんですねえ。タイトルやらBGMやらなんだこれはたまげたなあ。引用された曲の中に、所謂下北沢ギターロック的なのが全然なくてそんな中フジファブリックが入る辺り「時代に選ばれた」感があるとかなんとか色々思ったりもしますがそれはまた別の話)

一度そんな状態になった後に活動を続けていくというのは、しかもかつての中心人物がいないままというのは、どんなに大変そうか。しかし実際のところ彼らはそれをしている。シングルもアルバムも何枚も作り、精力的な活動を続けられている。それは遺されたメンバーも確かなソングライティングを持っていることが大きいと、遅まきながら3人体制以降の音源をやっと聴いて確認できた。

ようやく今回のテーマ曲の話。『記念写真』は、そんな3人体制以降でバンドの中心となっている山内総一郎氏の作曲。3人以降で過半数の曲を書いている彼の、バンドで発表したものでも最初の方になるこの曲は、既にポップソングとして、それも「フジファブリックのポップソング」としてとても完成度の高いものになっている。スタジオミュージシャンという出自もあってか、より本能的な志村と比較すると職人的な印象を覚える。

アルバム『TEENAGER』が1曲目から爽やかな曲で始まり、この曲が2曲目だが、イントロのやや奇天烈な風情のあるリフが、1曲目よりも「それまでのフジファブリックっぽさ」を感じさせる。このフレーズは曲の随所で登場し、他の部分の濁りのない爽やかさにいいアクセントを与え、またパート間の場面転換にも有効に活用される。こういうリフで曲構成をコントロールする作曲スタイルもまた、フジファブリックの特徴のひとつのように思う。

リフを過ぎて、パッと晴れ間に飛び出したような爽やかさ。ここまで垢抜けた爽やかさはこれまでの彼らにはなかっただろう(『虹』辺りはそれに近いけど)。警戒に疾走するリズムは終始通底していて、そこがこの曲の風景の鮮やかな寂しさを盛り立てる。

これも彼らの特徴の一つなAメロ・Bメロ二度回しで溜めた後に例のリフを経て飛び込んでいくサビのメロディの、突き抜けていく感じはキラキラして正統派感溢れる。街を想いが駆け抜けていくような、爽快でせつなげなグッドメロディ。2度目のサビからリフを挟んでCメロでより切なさを上乗せしてから放たれる最後のサビも、まるでドラマ的な映像が浮かぶ疾走感だと思う。

そんな具合にいい曲だが、そこにさらに情感を詰め込むのが、やはり志村の歌。歌詞は志村作だが、そこにまさに「キャリアを重ねるごとに感性が若くなっていく」感じの彼のキャラクターが現れている。
僕はなんでいつも同なじことで悩むの?/肩で風を切って/今日も行く
このように、次作『CHRONICLE』の結果的に布石となっているフレーズも含まれながら、彼は「若者特有の青春の通り過ぎる寂しさ」に迫っていく。
記念の写真/撮って/僕らはさよなら/忘れられたなら/その時はまた会える
 季節が巡って/君の声も忘れるよ/電話の一つもしたのなら/何が起きる?

彼の音楽の根っことなったユニコーン奥田民生)の大名曲『すばらしい日々』のあからさまなオマージュを交えて、それをより「切なさの渦中の若者」目線にブラッシュアップしていく意気込み。それはやはり『若者のすべて』が軸となるようなアルバムの1曲として相応しい眩しさだ。

『TEENAGER』や『CHRONICLE』を今聴き返すと、リアルタイムに聴いた時とは全然違った印象を覚える。そこには「若者」というテーマに自身のこんがらがった問題をぶつけていく創作者の姿がありありと現れてくる。『モテキ』以降のフジファブリックが多くの人に支持されるのは、そこの強度(その創作者の弱さも含めて)があったからなんだろうと思わされる。結局志村氏の話をしてしまっている訳ですが、そんな彼が全曲作詞作曲しなければと追いつめられた『CHRONICLE』のつらみを思うと、『TEENAGER』の時期の、たとえばこの曲や『星降る夜になったら』のような眩しくも素晴らしい共作のポップソングは、バンドのポテンシャルがとても幸福に滲みだされた時期の楽曲なんだと思えて、それ自体でまた、変に切ない気持ちになったりもするんですね。