ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『ハチミツ』スピッツ(リリース:1995年9月)

ハチミツ

ハチミツ

  • アーティスト:スピッツ
  • 発売日: 2002/10/16
  • メディア: CD
 

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Hachimitsu

Hachimitsu

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 随分と間が空いてしまったスピッツ全アルバムレビューを久々に書きます。何せ前回『青い車』が2020年5月、アルバム『空の飛び方』は2019年10月…相当放置し過ぎてました。

ystmokzk.hatenablog.jp

 今回取り上げるのは、スピッツ最大のヒットを記録し、彼らを「J-POPを代表するバンドのひとつ」にまで押し上げたアルバム『ハチミツ』です。流石に緊張します。

 本人たちすら予想していなかった『ロビンソン』の大ヒットにより当時のミスチルやB'z等と並ぶくらいの立ち位置に急に”成り上がった”直後にリリースされたアルバムで、そしてやはり『ロビンソン』の収録アルバムとして「日本の歌謡界の名盤のひとつ」としても扱われ続けるであろう作品*1

 しかしながら、そんな急激に変化した状況を感じさせないほど、この作品単体を見たり聴いたりした感じは「軽い」というのが、今作の面白いところです。何ならここで、今までで一番「可愛らしさ」を押し出した、カジヒデキとかの横に置いても違和感の無い”ギターポップアルバムとして割り切った作品に仕上がっていることは非常に重要だと思います。「ヒットの重圧を気にせず自然体の作品」とよく言われるけど、個人的には決してそうではない、かなり狙い済ましてる作品だと思ってもいます。

 なおかつ、そんなスピッツ史上最も可愛らしい作品にどうやって「今までの邪悪なスピッツ要素」を入れ込むかというところも、見どころになってくるのかと。「爽やかギターポップでありながら、内面はエロとグロに塗れた妄想が漏れ出してる」という作品とも言えるかも。それで通算で170万枚程度売り上げたという、冗談みたいな作品…!

 

 では、河原でワンピでアコギ、なんていういかにもなソフトで可愛らしいジャケットに見送られつつ、各楽曲を順番に見ていきましょう。

 

 楽曲の尺を見ても、3分台の曲が多いのが分かって、今作の軽やかさの一端が出てる感じがします。

 なお、以下はCD版の曲順で、アナログ盤は全然違う曲順で驚かされます。先頭が『トンガリ'95』なのは驚く…。

 

1. ハチミツ(3:06)

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 かつてないほどキラキラしたアルペジオのギターサウンドが響くイントロ。実に軽快なギターポップであるこの曲でアルバムが幕を開けることも、今作の”軽快”な印象に大いに寄与してると思われる。前作で生まれた「きみとぼくの小さくて可愛い恋」の要素を爽やかに詰め込んだ、軽量で軽快なタイトルトラック。

 イントロのキラキラ感は、明確に劇的に展開しない、メジャーコードがベタっと並んだコード進行によってそのライトな感じが増している。そしてそこに、普通の8拍より2つ多い10拍での進行、という密かなトラップが、やたら自然に入り込んでくる。ヒットが期待されるアルバムの冒頭で変な拍子を投げ込む、なかなかの挑戦っぷり。それでいて、歌メロ含めて違和感をあまり覚えさせないのはさりげなく凄い。

 そんな10拍子の上を平板気味に流れるAメロから展開して、8拍子に戻った上でのサビメロがきっちりキャッチーなのもまた、今作のポップな印象を大いにリードする部分。特にディミニッシュコードを挟む上昇展開(Ⅴ→Ⅴ#dim→Ⅵm)は大変J-POP的な劇的さを有した動き。そもそもこの曲もまたその”J-POPっぽさ”を作り出している最中の時代の曲だけども。この少しばかりドラマチックなサビの後に、開放感のあるAメロにサッと戻るそのキビキビした切り替わりが、この曲の強みのひとつ。

 あと、Aメロと同じコード進行でサラッと流した間奏の後のサビが終わると、ちょっとこれまでと毛色の違うアンサンブルに切り替わるところが面白い。ドラムが細かくロールし、アコギの響きやスタッカートの効いた弦の響きで、急にどこか遠く麦畑か何かを眺めてるような情景にちょっと変化して見せてから、そしてあっさり元のキラキラコードに戻ってサラッと終わる。ここの麦畑セクションの挿入の仕方は彼らの2nd『名前をつけてやる』の頃にやってた手法に近くて、わざわざこのセクションを挿入したことで、全体的にはブライトでハイファイで割と平板なこの曲にちょっとした奥行きを付加している。

 そして歌詞については、『空の飛び方』で試した「きみとぼくの不思議な恋と世界」みたいなのが、実に洗練された形で繰り出される。ともかく「意味は何となく分かるけどよく読むと言葉と言葉がちゃんと繋がってない・イメージが飛躍ばっかりしてる」という、想像力のカプセル全開なワード群が、サラッとした曲に乗ってとても爽やかに流れていく。

 

一人空しくビスケットの しけってる日々を経て

出会った君が初めての 心さらけ出せる

 

この歌い出しで「弱々しくてダメなぼくが、きみと出会って幸せになる」というストーリーの大枠がサラリと記される。「ビスケットのしけってる日々」の、何だそれは、と思うけど意味は大いに分かる感じが、いきなり草野マサムネの言語センスの絶好調っぷりを物語る。

 あと、凄いなあ、スピッツだなあ、と強く思うのは2番のサビ。

 

おかしな恋人 ハチミツ溶かしてゆく

蝶々結びを ほどくように

珍しい宝石が 拾えないなら

二人のかけらで 間に合わせてしまえ

 

そもそも「溶かしてゆく」のところが「どうかしてゆく」と聞こえたりすると、ハチミツという、少し性的なメタファーにも使えるガジェットが色々と変に活きていく。「蝶々結びをほどく」というのも何か”秘密”を破っていく感じ、秘め事的な感じがするし、そして圧巻は後半2行の「ニセモノで間に合わせてしまう」という発想。後の名曲『フェイクファー』等にも繋がる「”本物”じゃなくても、ぼくら二人の間の”ニセモノ”でオーケー」という発想はその後のスピッツの基本的スタンスかつ最大のロマンチックなファンタジー要素になる。そう、サラッとした曲の割に、ここで唐突に、スピッツの歌詞世界の重要な信念が突如混入される。タイトルどおり甘い感じの楽曲に、意味の違った”甘さ”が混入されるこの場面は、さりげないけどとても感動的なところだ。

 そういった歌詞の仕掛けも込みで、本当に理想的なギターポップ。普通のギターポップであれば鮮やかな光景だけを描写して排除してしまうような、内面の少しドロっとした感じの部分もこの曲が抑えてることが、この曲をいい具合に”特殊な”ギターポップにしてる。青春のキラキラだって、薄皮の下には何かしらそういうのがあるもの。そこまで掬ってこそ、という部分をきっちり鮮やかに掬ってみせたこの曲は、羽海野チカの名作マンガ『ハチミツとクローバー』の”ハチミツ”の部分としても知られている。漫画の内容を思うと相応しいだろうなって思う。

 

2. 涙がキラリ☆(3:59)

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 『ロビンソン』の大ヒットの後にリリースされたシングル曲が2曲目。ミリオンにこそ届かなかったけど十分ヒットした曲。だけどリリースが『ロビンソン』『空も飛べるはず』(再出荷)『チェリー』という絶頂期の最中なため、どうしても地味目な存在感になってしまいがちなところが少し悲しい曲。安定してポップな曲調が逆にスリリングさを削いでる感じで、そこが災いしたか。

 イントロはJohn Lennonの『Woman』みたくsus4の音を利用したフレーズにハードロック的なカエシの付いたギターリフになっている。これはこの時期の彼らの楽曲では比較的ハードなリフで、これをもって本人などがこの曲をハードロックと言い張ることがある。歌が始まって以降のホンワカした雰囲気から、流石に無理があるけど。

 歌が始まると、伴奏は打って変わってアルペジオ中心に変化していく。開けてぼんやりした風のAメロからサビに向けてコード感を少し曖昧にするBメロ、そしてゆったりとグライドするサビのメロディと、その流れは淀みない。劇的な変化には乏しい分、この曲ならではのピースフルな雰囲気がある。サビでのアルペジオの鳴り方はゆりかご的な優しさがある。2回目のサビの直後に3回目のサビをやってイントロに戻って終わり、という曲構成も小気味よいあっけなさがある。イントロのリフを発展させてどんどん音を降下させてグダグダ気味に終わらせるのは、やはりロックっぽさの強調なんだろう。

 『涙がキラリ☆』と「☆」マークまで付けた楽曲の歌詞は、スピッツ式のメルヘン調が様々な形で綴られている。ちょっと強気になって「君」をリードしようとする主人公の姿は可愛らしく描かれている。一人称が「俺」なのもこの曲では可愛らしい。この曲調で聴くと、コウモリでさえファンシーな生き物に思えてくる。

 この曲はBメロの歌詞がいいなって思う。

 

君の記憶の片隅に居座ることを 今決めたから

弱気なままのまなざしで 夜が明けるまで見つめているよ

 

強気なのか弱気なのかよく分からないこのバランス感覚が草野マサムネ、って感じ。

 

映し出された思い出は みな幻に変わってくのに

何も知らないこの惑星は 世界をのせて まわっているよ

 

急にこういう無情感のある認識を投げかけてくる。この曲は露骨なエロ要素はあまり見えないけども、記憶や存在の不確かさについてはむしろある種の確信さえ抱いたように綴られる。

 

3. 歩き出せ、クローバー(4:25)

 今作のブライトさをさらに補強するような、爽やかな透明感を持ったギターポップ。ただリズムは真っ直ぐの8ビートではなくもう少し16気味のふわっとしたものになっている。前2曲以上に、光のまばゆい感じが強くて、そこが楽曲をいい具合にぼんやりしたものにしてる。ギターポップ入口にしてサイケに少し突っ込んだような感じ、というか。

 イントロからしてキラッキラなギターのアルペジオ。声に掛かるエコーもやや強めで、眩しさで輪郭がぼやけるかのような感覚が様々な音の様子に掛かっていく。16ビート気味な分、比較的緩いリズムの隙間をベースが駆け回っている。

 Aメロ・Bメロはそうしてすんなり流れていくけど、サビになると雰囲気が不思議にパッと変わる。アルペジオの音が共通してるから大きな違和感こそないものの、この雰囲気の変化は、Dキーの楽曲で基本となるコードから外れたB♭のコードに移行して、強引に転調しているため。ここの宙ぶらりんになる感覚と、そこから元の安定したコードに戻るところこそがこの曲のポイントで、ただの爽やかギタポで終わらせまいとする密かな試みが、やはり実にさりげなく挿入されている。ミドルエイトがあったりもして、結構色々と工夫された楽曲で興味深い。

 ぼんやりしたギターポップ、という印象のこの曲だけど、歌詞については結構ロマンス的なものから外れた内容になっている。これは、作品と同じ1995年の初めに起こった阪神淡路大震災地下鉄サリン事件などを受けて、「生きていく」ことをテーマに書かれたものらしい。それが一番露骨に書かれるのは、楽曲で最もぼんやりさが薄れるミドルエイト部分の歌詞だろうか。

 

だんだん解かってきたのさ

見えない場所で作られた波に 削りとられていく命が

混沌の色に 憧れ完全に違う形で

消えかけた 獣の道を歩いて行く

 

このセンテンス、主語が「命」で述語が「歩いて行く」なんだな。命を続けて行くことの困難さ・しんどさ、それでも続いていけ、という祈りの感情が、ここでははっきりと理解できるメッセージになってしまわないよう慎重に言葉を選びながら、しかしファンシーさをかなぐり捨てた真摯さで綴られている。このややこしいバランスの取り方に、草野マサムネという人の誠実さを見たような思いになる。

 

4. ルナルナ(3:40)

 前の曲でえらい真摯なことを歌ってると思ったら、こっちでは急にメルヘンでキュートな世界観でセクシャルなアレに軽やかに落っこちていく。今作全体では控え目にしか使用されないオーケストラを用いて、こんなややこしいリビドーに満ちた曲をサラッと入れ込む当時のスピッツ及びプロデューサー含むスタッフのささやかな絶好調っぷりが光る。なお、同名の生理日管理サービスは2000年から始まっていて、この曲名との関係性は不明。だけど逆に、この曲名ってそういうこと…?っていう効果が生まれてしまってる。

 今作で一番ネオアコ的なのはこの曲かもしれない。程よくコードを濁らせていて、特にCのキーの曲でC#Mが出てくるところはへーって感じる。ギターのカッティングもエレキによるリズム感を大切にしたもので、ストリングスやホーンのこともあって、(あまりちゃんと聞いてないけど)まるでStyle Councilみたい。サビで一気にロマンチックにメロディが弾けるところはスピッツど真ん中の鮮やかさ。ベースもひたすら細かく歌うようにうねり倒して、この曲の隠れたネオアコ的ファンクネスをカッティングギターと共に主張してる。タンバリンといい、渋谷系的な方面にバンド以外の演奏陣を駆使しまくった充実のトラック。

 そして、そんな小洒落たトラックの上を鮮やかに疾走してみせる変態拗らせまくった歌詞。ひょっとして同じくオーケストラを用いて変態的な世界観をポップに描いた前作の『ラスベリー』の兄弟曲か?ってくらいの具合。

 

忘れられない小さな痛み 孤独の力で泳ぎきり

かすみの向こうに すぐに消えそうな白い花

 

歌い出しのこれ、よく考えたら意味するところは『ハチミツ』の冒頭の歌詞とそんなに変わらない、一人きりの苦しさから解放されようとする話だけど、どうしてこっちはこうもいちいち変態っぽいワードなのか。

 

二人で絡まって 夢からこぼれても まだ飛べるよ

新しいときめきを 丸ごと盗むまで ルナルナ

 

そして妄想的な歌の中でサラリと 共犯者に仕立て上げられる「君」。セックスといえそうでもあるしそうでないとも言えそうなラインとしてこのサビの1行目は天才的な鮮やかさ。そして、そんな二人でも「新しいときめき」は二人で生み出すのではなく他所から「丸ごと盗む」ものなんだな、という素敵に残念な具合。まだまだこの時期は完全にはポジティブになれないのか、そんな要素がこのような捩れを生み出す。

 そして、スピッツ史上でもとりわけ解釈が難しいとされる一群のひとつが、2回目Aメロの歌詞。

 

羊の夜をビールで洗う 冷たい壁にもたれてるよ

ちゃかしてるスプーキー みだらで甘い 悪の歌

 

個人的には、ここの部分の意味をどうにか通そうとするよりも、リズミカルに訳のわからん言葉が連なって出てくること自体のスリリングさを楽しみたい。なんとなく言わんとする方向性は感じられるし。本当に、こんな洒落たトラックの上で何を言ってるんだよ…っていう、なんか贅沢なセクションだと思った。 

 

5. 愛のことば(4:22)

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 絶好調な冒頭からの流れにとどめを刺す、今作でも異色の、シリアスに張り詰めた空気感の中に美しいメロディと残酷な世界観の歌詞が通された、今作きっての名曲。コード感やギターカッティングの具合、歌詞の世界観などが共通する前作の『サンシャイン』の続編のようにも思える。

 楽しげな前曲の雰囲気を冒頭のスネアとギターの一発で葬り、これまでになく冷たい質感のアルペジオとファンク的なギターカッティングとシンセが絡むイントロの段階で、この曲の温度感が今作のここまでよりもずっと低く、空気も完奏してることがよく分かる。歌が入ってくると、よりカッティングギターの伴奏における存在感が増す。アルペジオも無しにカッティングだけで進行するAメロの雰囲気は、コード進行やタメの効いたベースもあって、静かに殺伐としたものがある。

 Bメロでエフェクトやシンセがあって殺伐感は薄れるものの、しかし、テレビに出しても恥ずかしくないほどの立派な美メロのサビでは、イントロで聴かせたのと同じ音質のアルペジオが埋め尽くし、その質感はやっぱり荒涼としている。天に願うようなミドルエイトの部分で少し地に足の付いていないようなキラキラさを見せるものの、その後の間奏はやっぱり、地に足をつけざるを得ない、とでもいう風な荒涼さがやってくる。そんな殺風景な世界観のトラックの中で、サビの華やかなメロディは、せめてもの依り代であるかのように思えてくる。

 このような荒れ果てを歩むような緊張感に、実に殺伐とした言葉と情景描写が重ねられていく。楽曲タイトルの『愛のことば』というのは、全くファンシーじゃないこの曲における一種のガジェットにすぎない。

 

限りある未来を 搾り取る日々から

抜け出そうと誘った 君の目に映る海

 

ディストピア的な世界観、もしくは現実の批評とも取れるこの閉塞感から、脱出しようと手を差し伸べてくれる「君」、という舞台が、僅か二行で瞬時に構築される。君と僕の心が通うことはこの世界の中での希望ではあるけれど、しかし世界はそんなことよりもずっと残酷そうにしている。

 

優しい空の色 いつも通り彼らの

青い血に染まった なんとなく薄い空

 

焦げくさい街の光が ペットボトルで砕け散る

違う命が揺れている

 

この歌において「海」はどこか希望を重ねうる対象だけども、「空」については、「青い血に染まった」「なんとなく薄い」と言われるように、どこかネガティブな、閉塞感そのもののような描かれ方をしている。そして、それは別にいかにも陰鬱そうな曇り空ではなく、少なくとも「青い」色をした空だということ。青空に絶望を覚える心境のことを、知らないで一生を過ごす人もいるんだろうな。

 

今 煙の中で 溶け合いながら 探しつづける愛のことば

傷つくことも なめあうことも 包みこまれる愛のことば

 

そんな絶望の中において、果たして「愛のことば」なんて解決策になるのかい?という疑問はあったけど、でもこの曲では別に「愛のことば」があれば解決する、救われる、なんて一言も言ってない。ただ、君と僕で生活的にか性的にか溶けあったり傷つけあったり舐め合ったりする中で、何かしらの切欠を欲して「愛のことば」を探しているに過ぎない。包み込まれて、何か変わるのかなんて全然分からない。この曲の中に絶望に対する明確な”答え”なんて用意されていない。でもそれが、その殺伐とした認識が、初期から続く草野マサムネの”世界”に対する誠実な認識なんだと思う。

 この曲では、その張り詰めた空気によってかどうかは知らないが、おためごかしは書かれていない、他にしたいこともないから「愛のことば」を探しているんだろう、と個人的に考えている。「傷つくこと=Hate」「舐め合うこと=Love」と考えれば、その両方を包括するのが「愛のことば」である、というのは、思いの外論理的な話だ。書いてて興醒めするような理屈だけども。でもこの曲は、ロマンチックな興を醒まして読んだ方が案外面白いのかもしれない。

 それにしても、この曲はPVについても、さりげなく残酷なシーンが多い。いきなり車に踏み潰される人形が写ったり、鎖に繋がれた天使だったり、被検知番号を振られてたり、手術台でもがく人が映ったり。歌詞以上に凄惨な光景が盛り込まれてる。バンドが演奏する場所も荒野だし。

 個人的には、ここまでがアルバムの前半なのかな、と思う。

 

6. トンガリ '95(3:05)

 張り詰め切った前曲の雰囲気からアルバムを楽しく”再開”すべく始まる、スピッツ的に”ゴリゴリなロック”を演奏する、その様がどうしようもなく可愛らしくしかならない、という感じの曲。この時期に関するインタビュー等で「ロックがロックっぽく聞こえない」ことに本人たちが不満を抱いてる風ではなかったので、この可愛らしさもある程度狙ってのものなんだろう。曲タイトルの「トンガリ」はスピッツ自体を表している。

 パワーコードを中心としたパワーポップアルペジオ等も多用せず、基本的にはパワーコードで押し切ろうとする。そこにタイトルコールの頭打ちリズムや、コーラスワーク、あとは間奏等でのキーボード等で味付け。特に途中から出てくるコーラスワークの存在感が大きい。ギターのパワーコードより目立っている。楽曲終盤にはトラック全体をフランジャーに掛けてみたり、素っ気なく「ダン」って演奏を終わらせてみたりするが、そういったどれもが、ロックというよりも「今作のスピッツ」的な可愛らしさに回収されていく。逆に言えば、「今作のスピッツ」的な可愛らしさに回収しきれない部分があるシングル『ロビンソン』のカップリング曲『俺のすべて』がアルバム未収録になったことにもなんとなく納得がいく。

 歌詞はドラマ的な内容よりももっと語感重視な具合で、ストーリーになるようでならないようでなるような寂しくもプリティな言葉が連なっていく。冒頭とあと「とがっている」の意味をどう取るかで、セックスの歌にだってなるだろう。ただ、2回目のAメロでの世界認識のネガティブさはさりげなく初期に通じるような相変わらずな感じで、こんな言葉がパワーポップ的疾走感でリズミカルに連なっていくのはなかなか楽しい。

 

死ぬほど寂しくて 扉をたたいても

繰り返されるテープの 音は消えず

散らかった世界は 少しずつ渇いてく

壊れかけのサイボーグを 磨きながら

 

7. あじさい通り(5:13)

 意外にもこの曲が今作で一番長い。タイトルからも分かるとおり「雨」を感じさせる曲調になっていて、ブライトで軽快に流れて行くのが基本の本作において、荒涼とした『愛のことば』とは異なる形で、アルバムの基調に対するアンチ的存在になっている。とりわけこの曲はメロディ自体も「雨がずっと降ってて憂鬱が晴れないなあ」程度の煩わしい気だるさをずっと抱えつづける。前曲の爽快感は確実に削がれるが、でもこうやって雰囲気を切り替えて連なって行くのもまた「アルバム」という形式の性質のひとつだと思う。

 鈍いシンセの音がリードするイントロから、淡々としたリズムのうちの1拍と3拍だけを刻むギターのカッティングが重々しい。木琴を転がす音が挿入されるのも、この曲の鬱陶しい具合を濯ぐには足りない。Aメロにおいてはボーカルも低音をごっそり削られて存在感が霞ませられている。そこからサビで演奏も歌もメロディも少し晴れやかに展開してくれるけど、それでもメロディのマイナー調具合は維持されて、むしろ今度はベースがスタッカート的に演奏するのが、どことなく停滞感を覚えさせてくる。アルペジオにもエグめのコーラスが掛かって、うっすらと意識が歪ませられるような響き。

 そして、最後の歌が終わってから1分以上尺が残っていて、ここからイントロと同じフレーズでうっすらシンセやコーラスが掛かった上で、ゆっくりとフェードアウトしていく。よく聞くと音が完全に消える直前に完奏したようでもあるけれど、それでも特に劇的な変化もなく長めに取られたアウトロは心地よさに収まる程度の気だるさ・やるせなさ・鬱陶しさを感じさせるものがあり、そしてそれこそが、次の曲のイントロが始まる時の煌めきを増すスパイスになっている。

 歌詞は、どうしても雨の中の情景だからか、他の曲よりも伸びやかなファンタジー描写は少ない。まあ、息苦しさを出したい曲だろうから仕方がない。ただ、ポジティブにもネガティブにも草野マサムネだなあ、って思うフレーズはこの曲でも健在。

 

いつも 笑われてるさえない毎日

でも あの娘だけは光の粒を

ちょっとわけてくれた 明日の窓で

 

だって 信じることは間抜けなゲームと

何度言い聞かせたか迷いの中で

ただ 重い扉押し続けてた

 

案外このアルバムでも主人公は重い扉を押してばかりいるのが段々分かってくる。

 

8. ロビンソン(4:20)

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 来ました邦楽史に残りつづけるであろう”名曲”。160万枚以上を売り上げたシングルで、彼ら最大のヒットとなった*2。ただ、曲タイトルがたまたま旅行中に目に入った建物から取っただけで特に曲中での意味が無いことや、作った当の本人たちが積極的にこれをシングルにしようと思っていなかったりした(作った本人が「また地味な曲を作っちゃった」と思っていたと語る、等)ことなど、大ヒットは本人たちにとって大いに想定外だったらしく、この辺の話は未だに広く語られている。

 でも、この曲が大ヒットした原因はともかく、この曲が本当に多くの人に受け入れられうる楽曲だということは、なんとなく分かる気がする。後世の後出し的な意見かもしれないけども、それはこの曲が「普通の暮らしを送ってる主人公たちがちょっとした想像で別の世界を手に入れてしまう」という、日常から始まって非日常に向かう歌だから、というのが大きいのかな、と思ってる。具体的に楽曲を見ていこう。

 何はなくとも冒頭のアルペジオ。軽やかでしなやかで、地味といえばそうなんだけど、でもこの繊細に編み込まれたフレーズがフワフワと舞っているのは、『ロビンソン』という楽曲の最初のイメージとしてとても印象的なものになっている。メジャー調のコードではなく、日本人好みの四度始まりのコード進行なのもとても大きいと思う。このイントロに切なさを覚えるとすればそれはコード感の影響が大きい。

 Aメロに入るとちゃんとトニックのコードからメロディが展開していく。けどこの曲はそのトニックコードの安定感をAメロでもあんまり感じない。アコギははっきりとコードを鳴らしてるはずだけど、でもこれはミックスによってアタック感を残し、コード感を削がれた形になっている。どちらかといえば、ブリッジミュートやアルペジオで入ってくるエレキギターの方が調性を左右していて、平和な歌メロに対して宙吊りのようなコード感が続いていく。歌詞も含めて日常的な光景・雰囲気なのに、どこか気持ちはその風景にオンしきれないまま、地に足が十分につききれないままになるよう仕向けられる。

 そこから魔法のトンネルめいたBメロを経て、いわゆる”王道進行”のコードの中であの高音のメロディを歌って「宇宙の風」に達してしまうサビに到達する。『ロビンソン』が多くの人たちの琴線に触れるのは、まさにこの展開のダイナミズムなんだろうと思う。少しエグめにコーラス掛かったBメロのギターから、サビで一気にイントロと同じアルペジオに展開するのは爽やかさがスッと刻まれて、そしてそこを透明感に満ちたボーカルが長音も交えながら駆け上がっていく。その飛翔の仕方、日常と非日常の繋ぎ方の、少女マンガ的なインタラクティブさが、ちょっとした日常の裂け目からのロマンチックな浮遊を生み、そして多くの人がそれに憧れ続けている。2回めのサビでサビメロを繰り返し、案外あっけなく終わってしまうのもまた、この曲の、ひいてはこのロマンチックな想像の”儚さ”に繋がっていて、それがまた時に狂おしく感じられるんだと思う。

 その”浮遊”に至るまでの様子を、歌詞の方でも見ておく。”日常パート”とでも言うべきAメロについては、今作の他の曲で見られるようなブッ飛んだ言葉の飛躍は極力抑えられ、ちっぽけな青春めいた光景が描かれる。

 

新しい季節は なぜか切ない日々で

河原の道を自転車で 走る君を追いかけた

思い出のレコードと 大げさなエピソードを

疲れた肩にぶらさげて しかめつら まぶしそうに

 

この記事で今まで本作の他の曲の歌詞を見てきていれば、この出だしの4行がどれほど”スピッツ的飛躍”をセーブし、ささやかな日常風景の描写のみに従事し切ったかが分かる。たとえば、歌い出しでいきなり「冷えた僕の手が君の首筋に噛み付いて」しまう『青い車』と比較したら、この4行の平和さが、逆にどれだけ異常なことか感じられる。そしてそれが、何百万の「普通の人たち」をスピッツというファンタジーに呼び込むことができる入り口だったんだろう。

 スピッツの歌において、ロマンチックな飛躍というのは「君と僕」のやり取りの中で生まれる。この曲はまさにそれを、やはり飛躍しすぎない言葉遣いで、何百万人に示すことができた。そんなことが出来ているスピッツの曲って考えると案外少なく、それがこの曲を他のスピッツの曲より「みんなのうた」にすることができた原因だと思う。

 

同じセリフ 同じ時 思わず口にするような

ありふれたこの魔法で つくり上げたよ

 

勿論、こんな日常のちょっとしたことで「誰も触れない二人だけの国」を宇宙に作り上げてしまうのはスピッツ的な想像力以外の何者でもない。ただ、この曲においては、普段ならばAメロ早々から溢れ出してしまうその飛躍する想像力を、Bメロからサビに移る瞬間に”だけ”使用したことが、強烈な浮遊感が発生する原因になってる、とも言えるのではないか。

 なお、最初のサビまでその”飛躍する想像力”を我慢したので、そのサビの後のAメロは割と通常営業のスピッツ的な”命”の取り扱いと”世界へのヘイト”の取り扱いが出てくる。それでも普段からすれば抑え目ではあるけども。

 

片隅に捨てられて 呼吸をやめない猫も

どこか似ている 抱き上げて 無理矢理に頬寄せるよ

いつもの交差点で 見上げた丸い窓は

うす汚れてる ぎりぎりの 三日月も僕を見てた

 

そもそも「誰も触れない二人だけの国」を作り上げることがどういうことを意味するのか。それがまた、様々に想像できる、様々なことに当てはめられるのもまた、この曲が「みんなのうた」になれた大きな理由だと思う。ロマンチックではあるが、具体的に何をするのか。まあ恋とかそういうやつなんだろうけども、でもここでは「恋」と歌っているわけでもない。たとえばこの曲の歌詞を「藤子不二雄の二人が出会う歌」と読むことだって可能なわけで。かと思えば、何らかの手段でブッ飛んだ上でのセックス、みたいなこれまでのスピッツに引っ張られすぎた解釈だって可能だろうし、ともかくこの曲のこのキラーフレーズは、それこそ宇宙のように懐が深いんだと思う。

 

9. Y(4:25)

 昔、最初にこのアルバムを聴いた時は「『ロビンソン』の前と後には眠たい曲が入ってる」とか思ってたものだった。『ロビンソン』は「日常のふとしたことで浮遊する、地に足のつかなロマンの曲」だけど、このアルバム中最もシックなメルヘンさを抱えたバラードは「地に足のついた”飛び立ち”をして行く」曲だ。同じ旅立ちの歌として初期の『魔女旅に出る』などと比べれば、その”地に足のついた”具合がよく分かる。今作で一番柔らかな曲調なのに、一番力強い歌かもしれない。

 いきなりリバーブの効いたボーカルとアルペジオで始まる楽曲は、リズム等が無いことなどからその譜割りは不思議な具合に聞こえて、アルバム前半のブライトではっきりした感じとは真逆のぼんやり感があるけれど、このメロディ運びはむしろミニアルバム『オーロラになれなかった人のために』の頃に近い雄大さがある。次第に立ち上がってくるオーケストラのサウンドも実にあの作品に近い具合。そして、サビのメロディでリズムが入って、歌のイメージがグッと現実的になると、そのメロディの飛翔の具合の凛々しさ・祈るような具合が、実に感動的に響く。細かく優しく鳴らされるアコギの響きはまさに、田舎の町を飛び立って行くような情景の感じを表現していて、この楽曲の幻想的に映像的なところに一番寄与している。

 不思議になるのは、そんな力強いメロディで旅立ちを歌い上げた後のアウトロが、なんであんな不穏なギターのコードカッティングなんだろう、ということ。それが静かにフェードアウトして行く様は、この曲が「君を見送る」僕の歌であることから生じる不安の表現なのか。

 歌詞。この曲もアルバム冒頭の楽曲にあったようなカラフルな言葉の並べ方にはなっておらず、地味ながらより直接的に内面的な言葉がチョイスされている。その並び方には一定の切実さが感じられる。

 

小さな声で僕を呼ぶ闇へと手を伸ばす 静かで 長い夜

慣らされていた 置き去りの時から

這い上がり 無邪気に微笑んだ 君に会うもう一度

 

表現が独特で分かりにくいけれど、やはり孤独の淵にいた主人公が、「君」に会って変わった、という話のようだ。しかし、この曲は旅立つ「君」を送り出す、つまり主人公と「君」が離れ離れになっていく歌だ。

 

やがて君は鳥になる ボロボロの約束胸に抱いて

風に揺れる麦 優しい日の思い出 かみしめながら

つぎはぎのミラージュ 大切な約束 胸に抱いて

悲しいこともある だけど夢は続く 目をふせないで

舞い降りる 夜明けまで

 

この「君」を送り出す主人公の心境の、悲しさを振り払おうと必死に努めてる雰囲気がとても胸を打つ。やっぱり言葉のチョイスは『オーロラに〜』の頃的な硬質さがあって、それで『魔女旅に出る』をもっとしっとりと、祈りを込めて歌い直したような歌だ、って思った。その祈りの痛切さが、どこまでも聴く者の胸を痛ませる。

 昔はこの曲がアルバムで一番長いと思ってたけどそうでもなかった。また、GOING UNDER GROUNDがこの曲をカバーした際には田舎臭いカントリーソングに仕上がってて、それも最初は「なんでこんな地味なんだ」って思ったけど、今では原曲の「現実的に幻想的な田舎」の情緒をとても大事にした、いいカバーだなっていつからか思えるようになった。大名曲『ロビンソン』の裏で、ひっそりとこの曲の情緒が、離別についての美しすぎる情景が、この曲に慣れた人の胸を食い破り続けている。

 

10. グラスホッパー(3:30)

 大ヒット曲→密かなリリシズムの名曲、と来て、ここでまた仕切り直し、とばかりに元気な曲が飛び出してくる。レコーディング終盤に出来た曲だったと思うけど、本作の全体的なカラーが分かってきた上で的確に作り足したロックソング、という感じがして、本作に沿う部分と足りない要素(=バカでエロな感じ)を付け足そうとする部分とが見え隠れする、アルバムのバランサー的な要素を感じる。その分自由というか、はっちゃけてんなーって感じ。タイトルは「バッタ」という意味の英語。

 イントロ。パワーコードパワーポップ的でなく、もう少し無骨な形で飛び出してくる。この乱暴さが前曲のしっとりしたトーンを豪快にかき消してくれる。ブラッシングなんかも見せて、歌が始まったらブリッジミュートもして、今作で最もギターが自由にロックをやってる感じがする。ボーカルも終始ダブルトラックでエフェクティブに響き、今作的な”ナチュラルさ”を徹底して外してくるところがこの曲の面白いところ。それでいて、サビではちゃんと勢いのある爽やかなメロディ+キラキラしたアルペジオを付加するんだから、途中の間奏からAメロに戻るところで奇妙なエフェクトも挿入したりするもんだから、今作のレコーディングがどれだけ調子が良かったかが窺える気がする。

 この曲ばかりは感傷とか鬱屈とか関係なくスパッとバカやりたい!と思ったのかどうかは分からないけど、歌詞もどこか吹っ切れたようなユーモラスさがあって楽しい。

 

柔らかな魂で混ぜ合わせた秘密 裏通りを駆ける

ぶつかりすぎて ほら ひからびた唇引き裂いてくダンボー

本当なら死ぬまで恋も知らないで

力を抱え込んで潰れてたかもね

 

この曲はサビのフレーズのこともあり、多くの場所で「セックスの歌」とされている。今回もそうだと思ってこれを書いてるけど、でもだとすると、「柔らかな魂で混ぜ合わせた秘密」をセックスのことだと読ませる文才はヤバすぎる、という話になる。比喩が最早大喜利か何かのレベル。それにしても、この歌の「君」と会えなかったら死ぬまで恋を知らなかった、という地点から、このセックスソングの有様に繋がるのもまた、極端すぎてギャグみたいになってる。なってるけど、楽しそうだからいいか。

 

バッチリ二人 裸で跳ねる

明日はきっとアレに届いてる 疲れも知らずに

 

それにしても若い!アルバムは6枚目だけどこの時草野マサムネ28歳くらいか。

 

11. 君と暮らせたら(3:17)

 アルバム最後の曲は、本作のフォーキーな雰囲気をまさに地で行く、爽やかでおおらかなギターポップ。全体的に爽やかな印象の本作を実に爽やかな風味で終わらせてくれる。むしろこの曲でアルバムが終わるからこそ全体の印象が爽やかになっているところも幾らかあるかも。

 実に素直なアコギ・エレキのコードのかき鳴らし、ちょっとハネ気味に躍動するドラムとベース、木の葉のように舞い陽光のようにキラつくアルペジオ、素直なコード感の中伸び伸び歌われるメロディ、どこを取っても曇りないギターポップで、最後の最後に実にストレートでエヴァーグリーンな感覚を覚えさせてくれる。メロディはサビ、というよりもヴァースとブリッジの繰り返し、みたいな作りで、それがまたこの曲のささやかな雰囲気を醸成している。

 ただ、この曲も、本当に最後の最後の最後に、テンポチェンジして、幻惑的なサウンドを響かせて、それまでとは違った”果てしなさ”を挿入して終わるところは、実に抜け目ない。この展開は歌詞と完全に連動して「夢オチ」を楽曲で表現する、という何気に挑戦的な仕組みになってたりする。

 そして歌詞は、ギターポップパートの方はまさに伸び伸びと、日常の煌めきを捉えて君と分け合うような、そんな”君と暮らせたら”を並び立てていく。その光景のささやかに美しい具合にニヤついていたら、最後のどんでん返しにやられてしまう、という仕組み。

 

十五の頃の スキだらけの 僕に笑われて

今日も眠りの世界へと すべり落ちていく

 

昔の自分がわざわざ笑いに来そうなほどのトホホな夢オチ…!だけど、これまでの妄想なのか何なのか判然としない歌よりも、はっきりと夢オチって分かっている分だけこの曲はやっぱり爽やかなのかもしれない。夢の中にセックス的な要素も見られないし。

 

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総評

 以上、11曲で43分でした。

 前作である程度確立した「春の日差しポップ」とでも言えそうなものを、今作ではもう完全に自在に楽曲・アレンジできるようになっている。その上で、オーケストラ等の使用を2曲に限定し、その他の楽曲を基本フォーキーなバンドサウンドで統一し、そしてジャケットやインナーを当時の渋谷系チックなカジュアルさで仕上げたこのアルバムは、もしかして日本で一番売れた渋谷系のアルバム、と言ってしまうことも可能なんだろうか渋谷系にしては歌詞が妄想・被害妄想だらけすぎるか?

 本当に、どうしてこんなにギターポップにフォーカスしてたのか。『ロビンソン』が4月でアルバムが9月なので、多少は『ロビンソン』ヒット後の軌道修正があった部分もあるかもしれないが、それでもそこからフォーキーさマシマシに作り替えるなんて無理だろうから、これは前作における『青い車』や『スパイダー』といった(一応)爽やかギターポップ路線が好評なことを受けて、自分たちの特性をよりそっち方面に活かそうとした結果なんだろう。そういう過程の中で偶然できた『ロビンソン』が大ヒット、だなんて、なんてバンドとして理想的な、力みのない大ヒットへの流れなんだろう。

 このアルバムはフォーク・ギターポップ方面へ注力したため、作品の面白さがある方面にだけ限定されているきらいは確かにある。しかし、それは裏を返せばそれだけバンドがギターポップ方面に様々な手を尽くして挑戦した作品なわけで、そしてそのギターポップ要素はずっと、今後のスピッツの「伝家の宝刀」となって行くわけで、そういった意味でも重要な作品と言える。

 あと、”スピッツ”という視点をオミットして、世にあるギターポップ作品の1枚として聴くと、やっぱり歌詞が独特すぎるな、ギターポップ界隈でもブッ飛び過ぎてんな、とはなる。逆に言うと、この作品からギターポップに入ってしまうと、他のギターポップ作品の歌詞に満足できなくなってしまうかもしれない。ギターポップ的なフォルムをしていても、根本的に目指してるものがなんか違うんだな、ということもまた、逆説的に本作の世間における特異性の現れだろうか。でも170万枚も売れたんだよ〜。そんなギターポップのアルバム日本に他にあるか〜?っていうところで、やっぱりギターポップとしても色々バグってる作品ではあるんだなと思う。

 このアルバムの混じりっけない感じの雰囲気は、バンドがこの方向で!と決めて好調にレコーディングできたから、というのも大きいかもしれない。この後彼らは目指す作品と実際のサウンドとのギャップにずっと苦しむようになって、それが2000年のアルバム『ハヤブサ』で決着がつくまで続いていく。そう考えると、本人たち的にもサラッと作れた上で自分たちの良さがサラッと表現できた、しかもバカ売れした、めっちゃスマートな感じの作品なのかもしれない。

 個人的には、本作よりもこの後の”苦難の時代”のアルバム二枚の方が好きだけども、でもそれらの良さはこの時点でひとまずこのギターポップ路線をやり尽くしたからこそ、という感じもする。何にせよ、スピッツの歴史上で外すことなんかできるわけのない、大いなるターニングポイントで生まれた傑作であることに変わりはない。

 

 最後に、この記事のシリーズで恒例だった、参考にさせてもらったブログ記事を貼ってこの記事を終わります。久々に読ませてもらいました。やっぱり面白いです。

blueprint.hatenadiary.com

 20周年トリビュートアルバムについては、特に語りたいことがないので語りません。なんだあれは。

 

 次のこのシリーズの記事は、自分がスピッツで今のところ一番好きなアルバムについての記事になる予定です。今回以上にどう書くべきか悩ましくて緊張します。またよろしくお願いします。

 

追記:『インディゴ地平線』のレビュー書きました。

ystmokzk.hatenablog.jp

*1:逆に歌謡曲界隈で取り扱われる可能性があるスピッツの作品はこれくらいだろう。

*2:参考までに、スピッツのミリオン越えシングル三枚の売り上げは以下のとおり。『ロビンソン』162万枚、『チェリー』161万枚、『空も飛べるはず』143万枚。