ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『フェイクファー』スピッツ(リリース:1998年3月)

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スピッツの「フェイクファー」をApple Musicで

 

 スピッツ全アルバムレビュー、今回は『フェイクファー』です。フルアルバムとしては通算8枚目になります。前作『インディゴ地平線』のレビューはこちら。

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 綺麗なワンピースの女性モデルが陽光の中に揺らぐジャケットは実にスピッツな感じがして、草野マサムネ氏も「ジャケットは自信作」と話しているアルバムですが、本人達的には一番苦しい時期の作品だったみたいです。

 ということで、様々な葛藤と試行錯誤を超えて生み出された、様々な趣向を凝らした楽曲の数々を見ていきましょう。

 

 

アルバムの経緯

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 前作とその後のシングル『スカーレット』制作を最後に『Crispy!』以降プロデューサーを務めていた笹路正徳氏と別れ、共同プロデューサーとして当時カーネーションに在籍していた棚谷祐一氏*1*2を共同プロデューサーに迎えて制作された今作は、先生と生徒の関係だった笹路氏とスピッツの関係性から大きく変化したこともあり、また前作から続く「何をどう録っても音が暗くなる」問題もあり、制作は非常に難航したようです。それまで毎年アルバムをリリースしていたスピッツが1997年に初めてアルバムをリリースできなかったくらいには*3バンドメンバー自身がバンドの活動を振り返った著書『旅の途中』においても、他でもない草野マサムネ本人からすごくネガティブな言及がなされるのが本作。

 

 しかし、その試行錯誤のなかで彼らは確実に幾つもの名曲をモノにし、アルバムに収めています。次のアルバム『ハヤブサ』ではそれまでの様々な問題を乗り越えられたことによる大きなモードチェンジがあり、所謂スピッツバブルの時代の最後のシングル曲が収められた作品でもあり、そのような事情から、この『フェイクファー』までを”中期スピッツ”と呼ぶ人が結構います。まあ『ハヤブサ』から後が全部”後期”だと「後期スピッツ長すぎるだろ…」となる*4ので、その辺は人によって多少前後しますが。

 

特徴:中期スピッツの円熟と行き止まり

 本作もまた不思議な立ち位置にある作品だと思います。パッと聴いていくと、おそらくスピッツのどの作品よりも、多くの人が思うような所謂”スピッツらしさ”を感じられるアルバムかもしれません。手探りの混乱した状況から生まれた作品がそうなるのも不思議な感じがしますが、その内にどんな特徴が聞き取れるか、先に少々確認しておきます。

 

楽曲主義(ゆえのトータル性の欠如)

 スピッツ的「春の日差しポップ」を発明した『空の飛び方』、”スピッツらしさ”をギターポップを軸に一貫させた『ハチミツ』、ノスタルジックなローファイさを核とした『インディゴ地平線』と比べると、『フェイクファー』というアルバムに「これだ!」と思える全体的な特徴はそれほど感じられない気がします。一方で上記のように、一番スピッツの大衆的側面が感じられる作品かもしれない、と感じれるのは、思うに、収録曲12曲中シングル曲が半数の6曲を占める*5、という事情も関係していそうです。

 …まあ、他11曲とはまるで関係なしに、たった1曲で中期スピッツを果断にかつ力強く完結させるアルバムタイトル曲の存在は物凄く大きいですが。むしろ最後にあるこの曲に至るための紆余曲折を描いたアルバム、というテーマのような気さえします。

 

A. "J-POP最高峰"としての楽曲群

 上述のとおり、結果としてアルバムの半分がシングル曲となったために、音楽的コンセプトとは別のところで本作は「J-POP的なスピッツらしさ」が一際溢れたアルバムになっている、という側面が大いにありそうです。シングル曲であるため、従来のスピッツで多くみられた「妄想だけでまだ始まっていない恋」みたいな不健康な要素はこれらの曲では殆ど見られず、もっと現実的な恋模様が描かれます。その甘酸っぱい・もしくは儚く切ない具合は、”J-POP”としてのスピッツの最高峰と言えそうです*6草野マサムネが、そういう”純情”で”純愛”な”パブリックなスピッツ像”を何らかの事情で強く意識して作曲してる感じが、今作にはある気がしてます。ジャケットも、手書きで書かれた歌詞カード等も実に”パブリックな、可愛らしいスピッツ像”に沿っています。

 その中でもいくつかの楽曲については”サビのメロディが長い”というのもこの時期の大きな特徴。これに該当するのは『運命の人』『冷たい頬』『謝謝』、あと『運命の人』とシングル曲を争った同時期の『スピカ』が該当しますが、これらの曲のサビを他の時期のスピッツのシングル曲と比べると、メロディの展開の1サイクルが長い、と思わされます。それは、これらの曲がとりわけ、サビが長いのが特徴な日本の歌謡曲的なJ-POPの様式にスピッツも寄せていたところがあるのかな、と思われる部分です。

 ただ、本作でとりわけ売れた・人気のあるシングル曲が、サビのメロディがシンプルな『楓』や、そもそもサビが存在しないように聞こえる『スカーレット』であることは少し面白い構図。これより後のスピッツのシングル曲でとりわけヒットした『遥か』もそういえばサビのメロディはシンプル目で、案外彼らはそういう曲の方が売れるのか…いやでも『ロビンソン』や『空も飛べるはず』は結構サビのメロディ長い方か…どうなんでしょう。

 

B. オルタナティブ〜インディーロック志向の楽曲群

 そんな6曲のシングル曲の合間に、残り6曲のアルバムオンリーの楽曲が挿入されます。ただそれも、導入的な『エトランゼ』とシングル曲を超える圧倒的な存在のタイトル曲を除くと4曲となり、やはりシングル曲の強いアルバムだと思わされます。

 その残り4曲のうち3曲はギターのリフをゴリゴリと効かせたタイプの楽曲。ハードロック的というよりももう少しパワーコードの強引さの効いたそれらはオルタナティブロック的と評した方がやや正確か。残り1曲はセンチメンタルでない不思議なサイケさ・ナイーヴさの感じれる曲で、ドリームポップ的な『エトランゼ』共々、後の時代のインディーロックに連なるような風情があります。

 本作について草野マサムネは「ギターポップを目指して失敗した」なる発言をどこかでしたようなことも聞きましたが、少なくともこの6曲の非シングル曲にギターポップと言えそうな曲は無いので、当時何を目指してたのかのか、外野からはますます分からなくなります。*7

 

シーケンサー多用のアレンジ(味付け薄め)

 今作のアルバム前半の各楽曲はシングル曲かそうで無いかを問わず、何かしらシーケンサーが入っていることが多いです。電子音の反復だったり、パーカッション類のそれだったりと様々ですが、この”機械的”な質感はこれまであまり無かったものであり*8、また逆に、生音でのオーケストラの活用などがある場面は大いに限定され、ここに、プロデューサーが”1980年代の歌謡曲の頃から活躍していた”笹路正徳氏から、”1990年代を共に並走してきたカーネーションの”棚谷祐一氏に変わったことによるアレンジ変化の一端を見出すことができそうな気がします。まあ『楓』から後の楽曲になると急にシーケンサー出てこなくなるんですけども。

 ただ、ここでのシーケンサー類の使用方法は実にさりげないもので、本当に”楽曲に僅かにテイストを付け足す”程度のものが多いです。比較的ガッツリ気味なのは『運命の人』くらいか。この辺はむしろ楽曲の中で飛び道具的に重要なウェイトを占めてくる『ハヤブサ』の頃の活用法と比べると、過渡期的に感じられるかもしれません。

 

やたらドライでささくれたギターの音質

 前作に引き続き「何を録音しても音が暗くなる」と嘆き続けるメンバーですが、思うに、ギターの音については今作も「あえてこういう”ナチュラルにささくれ立った、やたらドライな音色”にしたんじゃないんですか…?」と思ってしまうような音色の多用が目立ちます*9よりファンタジックな掠れ方をしてた『インディゴ地平線』とも大きく異なり、今作ではアルペジオでさえかなりデッドな鳴り方・響き方をしています。

 オルタナ的にエッジを強めたいアルバム曲は理解できます。またこのナチュラルにささくれたクランチがタイトル曲では非常に有効に機能しています。理解に苦しむのは、どう考えてももっと『ハチミツ』的なキラキラのギターサウンドに寄せて良さそうな『冷たい頬』でさえこのデッドな音色で通してることで、むしろ歌詞のことを考えてこういうギターの音にしてるんじゃないのか…?と考えるくらいです。本作の一連の録音より前に以前の体制で録られた『スカーレット』の秋枯れたギターの音が、本作で実は一番潤んでるかもしれません。

 笹路プロデューサー時代の作品では三輪テツヤが作中全てのギターを弾いてたのに対して、今作からは草野マサムネによるギター演奏も録音されているとのこと。ですが、それがこういうデッドなギターの音に影響したかは不明です。

 あと、そういえば今作はボーカルもリヴァーブが少なくデッド気味だったりすることが多い気がします。録音自体も空間的な処理は割と同様の傾向があり、全体的にモコモコしていた『インディゴ地平線』からの反動が、実は結構あったのかもしれません。というか、今作が『空の飛び方』『ハチミツ』と比べて音が悪い、と言われてもいまひとつピンときません。リマスター版は尚更で、リマスター前の方でもさほど見劣りはしない気はします。むしろその2枚より今作の音は好きです…。

 

本編

 ここから漸く各楽曲を見ていきます。今作も前作と同じく、CDでもLPでも曲順が変わらないようになっています。LPだと『楓』までがA面、『スーパーノヴァ』からがB面となっています。

 

1. エトランゼ(1:33)

 まるで陽光の隙間に乳白色の夢が浮かんでるかのような、今作のジャケットから直接繋がるような音の感じのする、アルバム全体の前奏曲のような楽曲。むしろこの曲が1曲目に来る前提でジャケットを撮影したか。

 殆どドリーミーなシンセと草野マサムネの声で形作られ*10、あとは間奏でメロをなぞる可愛らしいアコギが鳴るくらい。再生直後にこの柔らかいシンセと声が同時に聞こえてきた時、一気にスピッツ的な”甘く儚い夢”の世界に落ち込むように感じれる。カノン進行的なコードに乗ったメロディもいい具合にリリカル。これほど幻惑的なアルバムの始まり方は『名前をつけてやる』の『ウサギのバイク』以来か。物語チックなあちらに対して、こっちはもっとどこか追憶めいた雰囲気だけども。

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 一度ひととおり歌って、その後はアコギの間奏の後すぐにもう一度サビ的な箇所のみ歌ってサッと終わってしまう。歌詞も、以下の3行しかない。

 

目を閉じてすぐ 浮かび上がる人

ウミガメの頃 すれ違っただけの

慣れない街を泳ぐ もう一度 闇も白い夜

 

それにしても、たった3行の歌詞で絶妙にイマジナリーで、かつ輪廻転生も感じさせる単語のチョイスや並べ方は本当にキレッキレで、もしかしたら本作で一番初期からのテイストを残した歌詞はこの曲かもしれない。「闇も白い夜」という、白夜とは異なる何かをイメージさせる締めの句が素晴らしい。

 「エトランゼ」という語はフランス語で「見知らぬ人」の意。またこの曲は後にシングル『流れ星』のカップリングに、実に8分に渡るリミックスの形で収録されている。後の『花鳥風月』等のB面コンピにも収録されていないシングルB面のレアトラックは幾つかあるけども、多くはライブ音源等な中これは珍しいリミックスで、またスピッツが公式に発表した楽曲では演奏時間最長となる。お恥ずかしながら未聴。

 

2. センチメンタル(3:28)

 前曲の呆気なく儚い終わり方はこの曲のイントロを引き立てるためだったのか…となる、Ⅰ→Ⅳをハードロック的に往復するだけのリフを軸とした”スピッツ流”ハードロックの楽曲。この位置に『冷たい頬』でも『運命の人』でも『スピカ』でもなくこの曲を持ってくるのはロックバンドとしての意地か。シンプルなリフのゴリゴリといいドラムの元気良さそうな様子といい、ライブでロック要素を全開に出すのに向いた楽曲。

 ハードロックばりのイントロが目立つところであるが、よく聞くとそこに並走してシーケンサーの電子音やタンバリンが反復し続けているのが分かる。どことなく1990年代の終わり頃の宅録めいた仕様を付与されて、”最新のロックバンドのトラック”としてこの曲を聴かせたがってるのを感じる。特に間奏に入るところでバンドの演奏が一部オミットされたところでこの辺の仕掛けが浮かび上がってくる。ボーカルもダブリング的な処理が為され、生々しさと異なる、マシンじみた質感をこの曲に持ち込もうとしている。間奏の後冒頭のリフのままAメロだけであっさり終わるのもまた、余計な湿度が発生しないような処置。

 そんな曲だけど、歌詞にはこのアルバム的なイメージの言葉や、「ここから始まる」といった方向性の単語が並ぶ。曲順が決まってから歌詞を書いたのかもしれない。

 

震えていたよ まだセンチメンタル・デイ

裸の夢が 目覚めを邪魔する 今日もまた

 

裸の夢」という短い言葉に、”性と死”という初期スピッツから引きずってきた要素を詰め込み、そういうものが現実的な世界を生きていくのを邪魔する、という見立てで読むことが出来る。この「裸の夢」についてはやはりスピッツの大事な要素であり、近年の楽曲ではそっちの要素は薄くなりながらも、全く途切れてはいないと思う。

 

君を知りたい そんなセンチメンタル・デイ

忘れたふりの 全てを捧げる 春の華

 

そして、Aメロの「おとぎの国も 桃色に染まる頃」で匂わせていた”春”の色が2回目のサビの歌詞で確定する。ジャケットから薄々感じられた”春”という季節設定が、このアルバムの基本軸でもある、ということをここで宣言したようにも思える。今作は春めいた季節感の楽曲が多数出てくるアルバムだから。

 

3. 冷たい頬(4:04)

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 アルバム発売直前になって急遽シングルカットされた楽曲のひとつで、『空の飛び方』以来の「春の日差しポップ」を踏襲した、柔らかくも儚い雰囲気が魅力の楽曲。特に、断言はされないがどことなく”死別”を感じさせる歌詞が、楽曲の雰囲気を決定づけている。今作特有の”切ないスピッツ”要素を『仲良し』『楓』あたりとともにリードする楽曲。

 楽曲としては本当に、「春の日差しポップ」サイドの自分達を再構成しようと、柔らかなアコギやアルペジオを軸としたアレンジがしつらえてある。上述のとおり、このギターのアルペジオの音がやたらデッドでそっけないのは、でも歌詞を考えたらアリなようにも思える。というか冒頭のアルペジオからサビまでずっと同じ音色で弾いているのかな、と思う。アレンジ的には、密かに右チャンネルの隅で鳴ってるエレピの音の何とも言えない切なげな佇まいが隠し味のように効いてる。また、こんな曲にも均一で鳴るハイハットシーケンサーが鳴ってたりして、冒頭のドラムが入るまでの雰囲気を密かに支えてたりする。

 楽曲の構成としては、大人しげなAメロから一気にサビで縦ノリのリズムになって、長いメロディを駆け上がっていくところがともかく印象的。実に自然に歌っているがこの曲の最高音もかなりの高さで、これを叫び声にならずにサラッと歌えることが、この曲の儚さには必要。サビはさらにバンドがキメを入れつつ展開する後半のメロディがあり、スピッツの楽曲でもとりわけ長いメロディとなっている*11。最初のサビの後間奏を挟んですぐ最後のサビが来るのもまた、この静かにスピッツ的な激情が迸るサビの印象を強めてる。最後がAメロに戻って終わることの寂しげな様子もまた、この曲ならではの要素。

 この曲の儚さもサビの静かな激情も、やはり歌詞で描かれる情景とストーリーがあってのこと。『ロビンソン』等と共通するような河原の光景が浮かぶ中での、さりげなくどうしようもない”喪失”についてを、ファンシーなのに素っ気無いキレッキレの筆致で描いていく。

 

「あなたのことを 深く愛せるかしら」

子供みたいな 光で僕を染める

風に吹かれた君の 冷たい頬に

ふれてみた 小さな午後

 

子供みたいな光で僕を染める」とかすごくファンタジックな言い回しだけど、逆に言えばそういう現実的でない方法でしか”君”が”僕”に触れることができない状態、つまり、もう死んで動かない存在である事を、この曲のタイトルである「冷たい頬」は示しているThe Smithsの『Girlfriend in a Coma』は昏睡状態の彼女についてのどうでもいい感慨を歌う不思議な歌だけど、この『冷たい頬』という曲も「動かなくなった恋人」を相手に妄想の恋を綴る、かなり倒錯した歌、ということになる。

 この倒錯した前提を持つことで、歌詞の節々の言葉は大きく意味を変えていく。

 

夢の粒も すぐに 弾くような

逆上がりの 世界を見ていた

壊れながら 君を 追いかけてく

近づいても 遠くても 知っていた

それが全てで 何もないこと 時のシャワーの中で

 

逆上がりの世界」というのもまた、この世の理が逆転した世界・生と死が逆転した世界みたいに思える。「壊れながら 君を 追いかけてく」というフレーズはスピッツの歌詞の中でもとりわけ必死さの滲むフレーズだけど、でもこの歌の主人公は既に”君”が帰って来ないことは、どうにもならないことは「知っていた」、という筋書き。

 

さよなら僕の かわいいシロツメグサと

手帳の隅で 眠り続けるストーリー

風に吹かれた君の 冷たい頬に

ふれてみた 小さな午後

 

そして、現実に立ち返って、もう動かない”君”との別れをこのように綴って楽曲は終わる。単語のファンシーさとは裏腹などこか酷薄な雰囲気が、何とも言えない後味を残していく。

 シングル集などで可愛らしくポップなこの曲に触れて、歌詞を読んで、”切ない”を通り越した描写に首を傾げて、ネットで意味を調べて、ここで書いてることみたいなのに出会ってゾッとする新規ファンがずっと出てくるような、そんな楽曲。死別を思わせる歌だと初期のシングルカップリングの『コスモス』は印象的だけど、あちらはもっとその死別自体に困惑した様子なのに比べて、こちらでは「必死さ」の過去を振り返る感じはあれど最後はあっさりと立ち去る感じが不思議なテイストを生んでいる。また、後年だと『雪風』もまた、どうしようもない死別を鮮やかに綴った名曲だった。

 この曲はまた、スピッツの歌詞やタイトルで「冷たい」と出てくるのは、そういうことだ、ということをとても良く分からせてくれる曲でもある。

 

4. 運命の人(5:12)

www.youtube.comこちらのPVはシングル版の音源。メンバーが死体になった映像も不思議。

 シングル『スカーレット』後のしばらく作品が途切れた時期を経て最初にリリースされたシングル曲がこの『運命の人』。上述にもあるように、『スピカ』とその座を争い、晴れて”新生スピッツ”の1発目に選ばれた、その気迫が色々なところから窺える一曲。尺も5分超えてて地味に長いし。ここではアルバムバージョンということで、シングル版よりキーを半音下げて再度録音し直してある。それほどまでに気合い入った曲ということでもあるかもしれない。

 冒頭から、ピューッと飛び出していくシンセや、おおらかにスウィングしていくブレイクビーツに、そこに爽やかに乗っていくギターという、1990年代末っぽさがどことなく全開になったサウンドの仕様に、”これぞ最新型のスピッツ!”という気持ちがメンバーの中にあったのかもしれない。そこが、非常に整ってポップだったけど順当なバンドサウンドだった『スピカ』ではなくこちらが新生1発目に選ばれた理由なのかも。アルペジオの裏でメロディを取るオルガンは棚谷氏だろう。

 曲自体はかなりガッツリとAメロ・Bメロ・サビが形作られていて、まさにJ-POPスピッツ!って感じの作り込み。幻想的な感じはミドルエイトを除いて封印して、爽やかさを前面に押し出したメロディ構成はスカッとしている。やはりサビメロは長め。特にAメロに顕著な、メインのビートの上にちょいちょい効果音的にギターを被せる、みたいな作りはヒップホップのトラック制作的な、というかそういうのもひっくるめた1990年代末的な作法。

 2回目のサビからすぐに入るミドルエイトの箇所ではしばらく前の『日なたの窓にあこがれて』のミドルエイトを彷彿とさせる幻想的な雰囲気を醸し出す。バックでリズムのシーケンサーが入ってくるのは今作的だけども。そしてすぐに最後のサビ。爽やかに駆け抜けた後、最後にやや不穏にBPMがダウンして、ドラムだけ残って見せるのもなんかこの時代的な感じがしてる。

 歌詞についてもキャッチーで不思議なフレーズが数々飛び交い、ひたすらポップでブライトなスピッツ像を辿っていく。

 

バスの揺れ方で人生の意味が 解った日曜日

でもさ 君は運命の人だから 強く手を握るよ

ここにいるのは 優しいだけじゃなく 偉大な獣

 

愛はコンビニでも買えるけれど もう少し探そうよ

変な下着に夢がはじけて たたきあって笑うよ

余計な事は しすぎるほどいいよ 扉開けたら

 

特に冒頭のフレーズは有名。そんなんで人生の意味解っちゃうのかよ。愛はコンビニで買えちゃうのかよ。可愛らしくてちょっとワルな青年、というスピッツ像を正しくなぞる。それにしても自身のことを「偉大な獣」と少し褒めるように言うのは珍しい。また初期から中期の転換でしばしば出てくる”扉”という単語も出てきて、この曲での位置付けが興味深い。

 

走る 遥か この星の果てまで

恥ずかしくても まるでダメでも かっこつけて行く

アイニージュー いつか つまづいた時には

横にいるから ふらつきながら 二人で見つけよう 神様

 

サビで出てくるこのフレーズはひょっとしたら、スピッツがそれまでまだ残してた”邪悪で残酷な幻想と妄想の抱き手”としての要素をタンスにしまって、”ダメで頼りないけども”君”と一緒に恋をして歩いていく人”としてのイメージを前面に押し出す、その決定的な切り替わりのタイミングだったかもしれない。特に後期スピッツでは要所要所でこのイメージを使用し、『恋する凡人』等で典型的に見られるような活用がされていく。

 このように、新生スピッツとしての張り切りと、挑戦と、モードチェンジとを詰め込んだ、気負いしまくった感じさえある楽曲。スピッツのシングル曲の中でもとりわけ詰め込みまくった感じがあって、時折それがトゥーマッチに聴こえたりもするけれど、時々思い出したように聴くと、この時期以降のスピッツの心根の爽やかさが感じられる気もする。

 

5. 仲良し(2:41)

 シングル『運命の人』のカップリング曲。シングルと同じ曲順でここに収められた。フォーキーでポップでちょっと切ない、そんなスピッツの側面を丁寧に取り出して純化させて描いたかのような、3分未満でサラッと流れて行く曲

 イントロから聞こえるアコギや、少々カントリーテイストに軽快にスウィングするドラム等が、とてもささやかに爽やかで牧歌的に流れて行く。途中から入ってくるピアノの転げ回るようなプレイも可愛らしくて、まるでどこかの小さな町の出来事を切り取ったかのような佇まい。そんな曲なのに、トライアングル的な音がシーケンサーで入ってるのは不思議な感じがする。この音いる?とも思うけど、メロディの展開でこの音が止むことがむしろ重要なのかも。

 楽曲は3つのパートに分かれ、スウィングで進むAメロの後、どこがサビとも判然としない二つのセクションがくっついた形で展開する。Aメロの後に一気にリズムが半分になって展開するところ、特に後半のセクションのまたAメロに帰っていく具合など、実に巧妙に展開やメロディが仕込まれていて、あっという間にほの甘い寂しさを残して曲が終わってしまうのは、ポップ職人としての草野マサムネの手腕が窺える。

 歌詞は、ここまで青春の一幕、みたいなところにフォーカスし切った作詞も珍しいかも、と思える内容。スピッツ的な修辞の妙はありつつも、描かれる光景は日本人の万人に理解されそうな爽やかで甘酸っぱい類のものだ。

 

いつも仲良しでいいよねって言われて

でもどこかブルーになってた あれは恋だった

 

サンダル履きの足指に見とれた

かすかなイメージだけを追い求めてた

 

この鮮やかに「恋の芽生え」に想いを馳せる、そのノスタルジックさの表現の端正さ。幼き日の恋の視点が妙にフェティッシュなのも不思議に生々しい。*12

 

時はこぼれていくよ ちゃちな夢の世界も

すぐに広がっていくよ 君は色褪せぬまま

 

悪ふざけで飛べたのさ

気のせいだと悟らずにいられたなら

 

この歌の主人公がノスタルジックな恋の芽生えにしばし想いを馳せていることが分かる箇所。これは妄想ではなくて、懐古なんだ、ということ。その過去へしか行きようのないベクトルがこの曲の切なさを、月並みだけども、ひたすら甘美なものにしていく。それはもしくは、妄想だけで「君」と繋がることのできた「かつてのスピッツ像」さえ過去になったような描写とも取れるかもしれない。

 ところで、アルバム全体としては春のイメージがあるけど、この曲はどこか夏祭り的な光景を浮かべてしまう。サンダル履きだから…?ちょうど今作の後に出る『花鳥風月』がそんなジャケットをしてる*13

 

6. 楓(5:26)

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 前曲からこの曲へは、切なさに特化したスピッツの本気を見せつけられるような曲順になっている。スピッツを代表するスローバラードであり、なおかつスピッツらしいままで(「僕のままで」)美しいバラードを作ることに成功した、もしかしたらJ-POPのある種の切なさの定型にさえなっているようにさえ感じられる、記念碑的な楽曲。かつて笹路プロデューサーに仕込まれて他所行きじみた『君が思い出になる前に』を書いてた頃から幾年が経ち、半ばセルフプロデュースでこの曲を生み出せたことは、これもまた「中期スピッツの完成・円熟」を思わせる出来事かもしれない。

 ピアノの厳かな響きで始まるイントロは、ピアノだけなら「J-POPといえばこれ!」的な無菌室的なものを感じるけど、そこからバンド演奏が入って歌が始まるまでの短い間に、一気にスピッツ的な湿度やら草木の感じやらが入ってくることに、よく考えると驚く。バンドが入っただけでこの曲が都会のホールなどではなく、もっと田舎の情景で鳴ってるんだ、と思わせる説得力を感じさせる。この辺は本当に不思議。スライドギターが大きな役割を果たしてるんだろうと思うけど、その辺のことはあまり細かく分析して趣を削いでしまいたくない。そして日本人はこういう「思い出の中の田舎」みたいな情緒に弱い。筆者も例外じゃない*14

 楽曲はピアノとアコギをメインの伴奏に進行していく。Aメロ・Bメロ・サビと丁寧に繋げていく様はまさしくJ-POPど真ん中で、だけどどこか強くスピッツを感じられるのは、音数の少ないメロディがその隙間に情緒を吸い込む様や、追憶という概念そのもののように揺らいで響く草野マサムネのボーカルなどが集まって出来る、不思議な幽玄さによるものか。この曲は決してJ-POPの敏腕作曲家ではなく、スピッツというバンドが作り出したんだ、という必然性が、どことなく感じられる

 極め付けは、サビのメロディの音数の少なさ。もしかしてJ-POPと呼ばれる音楽の中で、この曲のサビが最も切ないんじゃなかろうか。草野マサムネの声は感傷そのものになっていて、もはや霊的な存在のようにさえ感じられる。そして落ち着いて聴くと、ペダルスティールのスライドが実に自在に物悲しいことが分かる。メンバー以外の演奏者によるもの*15だけど、これはとても素晴らしい。

 歌詞も、描かれる切なさの方向性は確かにJ-POP的なものではあるけれども、音数の少ない=言葉数も少なくなる中で、シンプルな単語を選びつつも、実にスピッツ的な不思議さ・幻想性を呼び出している。特に、比較的言葉数が多めのBメロが素晴らしい。

 

かわるがわるのぞいた穴から 何を見てたかなぁ?

一人きりじゃ叶えられない 夢もあったけれど

 

かわるがわるのぞいた穴」なんていう、どうにでもイメージできて、かつイメージを幾らでも喚起させるフレーズが、さりげなく物凄い。

 

風が吹いて飛ばされそうな 軽いタマシイで

他人と同じような幸せを 信じていたのに

 

カタカナで「タマシイ」と書かれたことの、初期スピッツからの連続性の表現。少しあざとい気もするけれど、でもこれだけで、生命・精神に関する取り扱いが初期と同じ、根本的に虚無的で儚いものなのかな、という風に感じられる。

 結論として、楽曲としても歌詞的にも、”スピッツ的ソングライティング”という中期スピッツで確立した概念の、ひとつの極北としてこの曲がある。アルバム発売後に当時未発表だった『スピカ』と抱き合わせでシングルカットされたのも必然的、という感じさえする。この、どことなく日本の田舎的な情緒もある楽曲の雰囲気は”楓メソッド”と呼んでもいいものがあるのでは、と個人的に感じてる。”楓メソッド”を用いた後年のスピッツの楽曲には『流れ星』『遥か』『コメット』辺りか。このメソットのJ-POPにおける援用例っぽく感じる楽曲としては『secret base 君がくれたもの』をはじめ枚挙にいとまがない*16

 

7. スーパーノヴァ(3:43)

 感傷的な度合いが爆発した前2曲の流れを大きく変えるこの曲でアルバムは後半に入り、身も蓋もない話、地味にもなってくる。ハードロック的なギターリフを性懲りも無くかまして来る、それでも少しコード感が気怠めな楽曲

 The Kinks『You Really Got Me』以来のハードロック的なパワーコードゴリゴリのリフは、彼らのハードロック趣味を素直に表出した感じか。歌詞共々ハードボイルド風味を狙っている風。左右のギターともユニゾンで同じリフを弾いてるのがハードロック的。間奏のギターソロが終わって歌に戻っていく間には、ちょっとしたスペイシーなSEの挿入があって、ボーカルの宇宙からの中継的なフィルター処理があって、そういえば宇宙関係の曲タイトルだったな…って忘れた頃に気付かされる。

 歌もAメロについてはリフにどうにか乗っけてる、といった類の気だるさがある。サビではギターをバーン!とストロークし、その隙間に軽く高揚し、そしてやっぱりダルげに下降して通過していく。その太々しい具合はでもやっぱり草野マサムネの声とミスマッチしてて、その確信犯的なミスマッチ具合が楽しめるかどうか。

 歌詞もハードボイルド路線で、「自分はダメです」みたいな要素もあまり入れ込まない具合。「稲妻のバイクで東京から地獄まで」なんて、スピッツで歌われるとギャグか?くらいになってしまいもする。

 

オレンジ色の絵の具で 汚し合う 朝まで

似てないようで似てる 二人は気付いてた

 

今作では中々出て来なかった、というか前作くらいから影を潜めてた感じのあった、性行為を思わせる描写がここでちょっとだけ登場する。でも「オレンジ色の絵の具」などと書いて直接的なセックスのイメージに結びつかない工夫はしてあって、この辺は”純愛”な今作のスピッツ像を破壊しない程度の描写に抑えてるのかな、と思われる。

 

どうでもいい季節に 革命を夢見てた

公衆トイレの壁に 古い言葉並べた

 

”革命”というスピッツ的でない強い言葉も出て来るけど、使われ方の残念さはいささかスピッツ的。

 

8. ただ春を待つ(3:43)

 本作後半の地味さを象徴する、まったりとした雰囲気で不思議な拍子で進行する、ふわふわして掴みどころの分かりにくそうな楽曲。ロマンチックでないファンシーさがあって、どこかぼんやりずんぐりしてる様は、初期スピッツの『あわ』とか、その辺の『名前をつけてやる』の時期に近いかもしれない。Aメロのぼんやり繋がるメロディの具合も初期っぽい。

 この、劇的でも幻想的でもないぼんやり加減はおそらく意図されてのもの。そもそもいきなり4分の5拍子で、しかもギターの音にユルユルなトレモロが掛けられたり変なフィルターが掛かってたりと、さりげなく様々な「変なこと」を一度にやっていて、実はまったりすぎる雰囲気とは裏腹に結構挑戦的な曲なのかな、と思える。4分の5拍子も、ジャズの古典『Take Five』を思わせる運びで進行していくので、案外色々と意図が詰まってるのかもしれない。

 サビでは4分の3拍子にリズムが変わって、幾らか「この時期のスピッツ」的な切なさを纏う。それでもどこか投げやりな風味のある歌い回しや、ミドルエイトで無闇矢鱈に高音に抜けて行ったりなど、やっぱり本当に”初期スピッツのテイストで1曲やっておきたい”というのを実行した楽曲なのかもしれない。Aメロに戻った後の終わり方までのんびりとマヌケで誤魔化されるけれども。

 歌詞の方は、こちらは流石に初期のようなサラッと残酷吹き荒れる光景ではなく、むしろ今作の中でもとりわけ何もできずに悶々とするような具合の光景。楽曲で演出された”停滞感”に合ってて面白い。

 

居場所求め さまよった生き物

足を踏まれ ビル風に流され

 

この辺の自身の描写の、どことなく虫ケラっぽい取り扱いはそれでも多少初期っぽさがあるかもしれない。

 そう言えば、今作は季節が春っぽいアルバムだったのに、ここで「ただ春を待つ」と、今が春ではないことが示されて、実はアルバム後半は他に2曲ほど冬の曲があって、アルバム後半が春めいた華やかさがないのはこれも曲順を考えた時に計算されたものなのかもしれない。

 

9. 謝謝!(5:22)

 アルバムリリース直前に『冷たい頬』と両A面でシングルカットされた楽曲。両A面といいつつ実質『冷たい頬』がA面でこっちが地味なポジションなのはご愛嬌。PVも存在しない*17

 楽曲としては、多くのアーティストがキャリアのうち1回はやりそうな感じのあるゴスペル調のパレード的な感じの、華やかでポジティブな雰囲気の楽曲。イントロからホーン隊が華やかに鳴り響き、早々にゴスペル隊のコーラスも入って、実にゴージャスな雰囲気で始まる。笹路時代でもここまでやったかい?って具合のゴージャスさだけども、楽曲が無理なくスピッツしてるので違和感はそんなにない。安心して、ちょっとばかりアーシーで、シェイカーやタンバリンなんかもずっと鳴って賑やかで、そして『冷たい頬』と同じく2段組みになってるサビの長いメロディも楽しげな、そんな多幸感を味わってられる。ベースもここぞとばかりに動き倒して、賑やかさを下から付加してる。ナチュラルにハネたノリを出してくるドラムも実にスピッツ的。『チェリー』をもっとゴージャスでゴスペルにしたらこんな感じか。逆に、確かに切なさがスピッツ史上最も吹き荒れまくってるアルバム前半に置くのは難しく、アルバム後半のこの位置でやや埋もれてる風であるのも仕方がない気はする。

 歌詞についても、スピッツ的な残酷な/切ないストーリーを研ぎ澄まして描く、というよりも、もっとラフに歌詞の取っ掛かりを作ってテーマを設定して書く、といったスタイルで、前曲とは別の意味で力が抜けてる。中国語で「ありがとう」というタイトルであることもあり、実にポジティブな言葉が並ぶ。

 

いつでも優しい君に謝謝!! 大人も子供もなく

涙でごまかしたり 意味もなく抱き合う僕ら

今ここにいる woo…

 

こんなに現実の幸福を歌うスピッツも珍しい。流石にこの曲の中だと「意味もなく抱き合う僕ら」の箇所をセックスだと読むのもバカらしく思える。同じシングルに収められた『冷たい頬』とは歌詞の幸福度合いに物凄い温度差がありすぎて笑える

 

10. ウィリー(4:35)

 本アルバム後半のどこか繊細さをかなぐり捨てた投げやりな雰囲気がいい具合にハマった、ミドルテンポでグイグイと進行するいい具合にダルくてラフなパワーポップ。タイトル曲を除けば、この曲が今作のアルバム曲では一番好き。

 冒頭からスピッツでかつてなくゴリゴリした音を響かせるベースリフのみでイントロが始まり、そこからバンド合奏が始まる際の、それこそ『You Really Got Me』とかであるちょっとしたリズムのズラしが入って、Ⅰ→Ⅳのコード進行でダラダラとジャラジャラとリフっていくバンドサウンドのドシャメシャな具合が、実はここまでのスピッツがやって来なかった類の投げやりさがあって、多幸感に満ちた前曲とはまた違った、妙にリラックスした開放感がある。そこに乗っかったAメロの歌メロの投げやり気味な旋律の具合も小気味よく*18、ダルなスネアの2回打ち共々、もしやこの曲こそ本家ローファイをきっちり狙ってきた楽曲なのでは…?とさえ思えてくる。この解放感、Pavement由来かもなのか。

 サビできっちりと少し切なげに悩ましげにメロディを展開させるのは流石の手腕で、その時は繊細なアルペジオも弾いてみせるのが実にスピッツ的ないい塩梅。もはや言葉でもない唸りをみせるボーカルメロディの末尾もなんか清々しい。

 でも、2回目のサビの後、突如コード感が急に切なさ・心細さを増していく瞬間は、最初聴いた時はちょっとドキッとした。急にアルバムの雰囲気が冬になった感じ、というか。このセクションがあるからこそ、その後遠くで聞こえる三輪テツヤのシャウトを皮切りに元のダルダルなⅠ→Ⅳ展開に戻っていくのにも不思議な奥行きを感じれる。楽曲が終わるときの、合奏が終わった後もギターもベースも適当にプレイを続ける感じもこの曲らしいラフさが合って、なんかいいなって思う。

 歌詞は「サルが行く サルの中を」と、どんなに繊細に取り繕っても人間所詮サルですもんね、みたいな精神で書かれたもの。やっぱり投げやりじゃんか。でも、それが故の身も蓋もない感じが痛快で、またサルサル言いつつもセックスセックスした感じはなく、そういうのもダルいと言わんばかりの雰囲気に、サビでの「孤独な放浪者」との言及も相まって、この曲の歌詞こそスピッツ的なハードボイルドでは…?とも思ったり。過大評価しすぎか…?

 

雨の日も同じスタイルで カサもなく息は白いのに

電話もクルマも知らない 眠れないならいっそ朝まで

大きな夜と踊り明かそう

 

サラッとここで舞台設定が冬らしいことも記される。間奏前の展開の伏線になってたんだな。なんだか訳が分からなくなって神経がバグったような状態でも朝まで寄り添ってくれるこの曲の主人公は実は結構ダンディで優しい。

 この曲やタイトル曲を聴くと、バンドメンバーが嘆く今作のバンドサウンドも全然悪いものではなくて、むしろ魅力的なところは色々あるって思える。

 

11. スカーレット(3:34)

www.youtube.comスピッツのPVで「どこかのリラックスした空間で演奏」は結構ありがち。

 今作で最も古い、そして最も売れた楽曲がラスト前に配置されている。所謂スピッツバブルの最後期に位置する曲で、笹路プロデューサー時代最後の曲。今作では多少のリミックスを施されて再録されている。曲構成が全然J-POP的でないこの曲が今作で最も売れた曲、というのも不思議な感じで、やはりJ-POP感の強いアルバム前半ではなくこの位置に置かれることに「置き場がこの辺しかなかった」的な意味合いを感じる。また、この曲はそもそもドラマ主題歌として書き下ろされた楽曲で、それも当初メンバーは前作の『初恋クレイジー』を推したところ、テレビ局から新曲を要望されて、それで急遽制作されたもの。

 そんな不思議な過程で生まれた曲だけども、しかしこの曲は中期スピッツのささやかに爽やかで優しげな部分だけを遠心分離して抽出したような可愛らしい楽曲で、草野マサムネ本人も「この曲は一つの到達点だと思ってる」と語るお気に入りらしい。

 いかにもスピッツらしい柔らかなアルペジオで始まるイントロ*19の後、いきなり歌から、シンコペーション気味に、しかもトニックでもサブドミナントでもなくドミナントのコードから始まるところにこの曲最大の特徴がある。フォーキーではあるけれど、晴れやかさを抑えた、程よい冬枯れた情緒がウォーミーなメロディは確かに「小さくて可愛いスピッツ」の頂点にあるようなミニマルさがある。情緒も秋冬の田舎のロッジめいている。

 上述のとおり、この曲はヴァース→ブリッジを繰り返すのみの曲構成となっており、スピッツの歴史でもとりわけサビの存在感の強い曲が立ち並ぶ今作では至って異端的で、でもその楽曲の、劇的な曲調の変化なしに淡々と流れていく感じに、今作で失われていた類の爽やかさ・流麗さが宿っている。ブリッジ部のメロディも絶妙に悩ましげなメロディであり、これ単体では他の曲では使いようの無さそうなものなのに、この曲のヴァースと結びつくと実に趣深いよう感じれるし、またコード進行のパターンが一時的に変化する間奏部分へ接続するときの、森のちょっと奥を覗きに行ったかのような、少し心細くなるようなサイケ感の味付けも絶妙。最後ヴァースのメロディを歌い終わってあっさりと楽曲が完結してしまうところまで、この曲は実に無理が無い。

 歌詞についても、初めからドラマ主題歌になることの決まっていた上で、不気味な言葉も、逆に過剰な言葉も無く、かなりコンパクトに「ファンシーなスピッツ」の旨味を纏めた作りが「スピッツな歌詞職人」草野マサムネの成熟を物語る。

 

喜び 悲しみ 心ゆがめても

寒がりな二人を温めて 無邪気なままの熱で

 

「心ゆがめる」という初期スピッツ的な要素と「無邪気なままの熱で」という中期スピッツ的な柔らかさがさりげなく交差するこの辺など、本当に描写に無駄が無い。そもそも「無邪気なままの熱」っていうロマンチックワードをポンポン捻り出してくる彼の筆致の底知れなさ。

 逆に言えば、スピッツ史上でもとりわけニュートラルでミニマムに完成したこの曲から、どれだけスピッツのままで遠くまで行けるか、というチャレンジこそが、このアルバムのテーマだったのかもしれない。そう思うと、この曲と対照的にサビがゴッツいシングル曲が連発されたことにも、なんとなく意味を感じてしまう。

 

12. フェイクファー(3:25)

 中期スピッツの円熟の袋小路の果てに放たれる、『ロビンソン』等でお馴染みの「箱庭の」河川敷の光景からの”脱出”への強い意志を放つ、凄絶な高まり方をしていく大名曲。前曲で書いた「『スカーレット』による”完成”からの挑戦」という、プロデューサー交代等もあって大変迷走したとされる今作の事態も、この曲1曲が最後に置かれることによって、全て安らかに昇天する。実は3分半も無いこの曲は、それほどまでに当時のスピッツが放つことのできた、最大の起死回生の1曲だ。

 もはや今作のしるしとなった、全然キラキラしないデッドに歪んだアルペジオによってこの曲は導かれる。アルペジオだけをバックに歌も始まり、その様はもしかしたらシンセと歌だけの『エトランゼ』と対比されているのかもしれない。平和なようでいながら、しかしAメロの最後の部分では突如エモーショナルさを膨らませるバンドサウンドが挿入される。ギターサウンドは軽快なクランチの領域を少し超えたザラザラ感で少し重く歪む。その後アンサンブルが平穏に移行することでより楽曲の”いつもの河川敷”感が増していくが、再度Aメロの最後の部分でエモーショナルさをプリミティブに叩きつけ、そのまま宙吊りのようなサビのメロディに向かう。

 サビにおいては、濃いコーラスの掛かったギターがバックを旋回する中で、メロディは寄るべなく高揚して、最初は元のAメロに帰っていく。その後、そういえばスピッツはロックバンドだよ、という具合のいなたいギターソロがAメロのコード進行で展開されて、次のサビに向かう。

 この曲最大のポイントはそのサビの直後に現れる、この曲の真のサビと言える大サビの存在。後述する決意に満ちた言葉とともに、演奏もスピッツでもかつてないほどの、血管が逆流するかのようなテンションで、頭打ちのビートで、タンバリンも激しく響かせて、高らかにメロディを打ち上げていく。その高揚の仕方は様々なスピッツの名曲にあるようなファンタジックで魔法みたいなものではなく、かつて『惑星のかけら』における『ローランダー、空へ』で重力に負けそうになりながらもメロディを張り上げてたようなそれの、もっと激しいやつだ。ここでのスピッツは差し詰め「箱庭の河川敷の重力」から脱しようと激しく上昇しているかのようだ

 この曲の美しく儚いことにとどめを刺すのは、この必死の高揚が終わった後、あっさりとイントロと同じアルペジオに戻って、Aメロを半分歌ったところであっさりと終わってしまうところ。この、一度突き抜けようとしたのにあっさりと現実的な「箱庭の河川敷」に戻ってくる、その何とも印象的な余韻が、今作を特別なものにしている。

 そして、この楽曲のエモーショナルさを駆動させるのはやはり、歌詞だ。

 

柔らかな心持った はじめて君と出会った

少しだけで変わると思っていた

夢のような

唇をすり抜ける くすぐったい言葉の

たとえ全てがウソであっても それでいいと

 

冒頭の甘い恋への期待。中期以降のスピッツにおいて恋とは時に「自分を変えてくれる希望そのもの」であり、その夢のような体験のために、ここでの主人公は、様々な状況から口をついて出てくる様々な言葉の、それら全てがウソであっても、別に構わないと、それほどまでにここでの恋を信じ、信仰し、恋に沈み込んでいく。

 

偽りの海に 身体委ねて

恋のよろこびにあふれてる

 

ここでの彼は不思議な状態にある。「全てウソの世界にいる」という認識と、恋に没頭し心狂わせ倒す様とがここでは同居しているその恋はウソかも知れない、むしろウソだって分かっていながらも、その恋の喜びを感じまくっている。これは別に、身体だけの関係、みたいな性的なものとは限らないし、むしろそんなのに収まるような話ではないだろう。ここで彼は「恋をすること自体による浮力」を完全に見つけてしまったんだろう。歌は大サビに進む。

 

今から箱の外へ 二人は箱の外へ

未来と別の世界 見つけた そんな気がした

 

これが中期スピッツの最後の場面。ウソ偽りだろうと関係ない「恋の浮力」という盲信めいた確信によって、彼らは「箱庭の河川敷」から脱出して、新しい世界か何か、箱の外に広がるそれを見つけた気がして、そこで中期スピッツの物語は終わる

 結局「恋の浮力」かよ、っていう魔法じみたガジェットじゃん、と言う向きもあるかも知れないけれど、でもこの「恋の浮力」は、自身の都合の良い甘く淡い期待ではなく、全てウソで裏切られ倒すような恋であっても、それでいい、と、自身の愚行かも知れない行為をギリギリのところで全肯定してみせる。この開き直りでもって、どうにか「箱庭の河川敷の重力」から飛び出そうとする、その極度に懸命な姿にこそ、心打たれるのかもしれない。

 彼らの1stアルバム最後の『ヒバリのこころ』以来の、アルバム末尾での絶大な意志表明で、かつ「これから色々あるけど頑張るぞ強く生きてくぞ」という『ヒバリのこころ』よりもずっと捩じくれた感情のまま、ギリギリのところで壮絶に恋に全てを託していく。文句なく、前スピッツのアルバムで最も強烈なクローザーで、かつ最も素晴らしいアルバムタイトル曲。『インディゴ地平線』のタフさも素晴らしいが、ここでの強すぎる飛翔の意志はあまりに眩しい。

 最後に、この曲の「箱の外へ」というのは別に、過去のスピッツの断罪ではないはずだ、ということは書いておきたい。人は変わり続ける生き物で、彼らは様々な理由があってたまたま「箱の外」に出たいと思ってこの曲を作ったにすぎない。その壮絶さには胸打たれるが、それは決してこれまでの「箱の中」の世界を否定するものではないはずだ。「例え全てがウソであってもそれでいい」のであれば、「箱の中の世界」だって同じように「それでいい」訳だから。だから、この曲で道徳的な気持ちになって、これ以前のスピッツを否定する必要なんかない。そもそも道徳的な気持ちだけでスピッツを聴くなんて勿体無い。ぜひ不道徳なスピッツでドロドロのグチョグチョに落ちていってほしいものです。

 

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総評

 以上、12曲で46分45秒のアルバムでした。

 『フェイクファー』は間違いなく中期スピッツの完成、という感じのアルバムなのですが、同時に様々なぎこちなさも感じさせるアルバムでした。バラエティに富んだ楽曲群は確かに充実しているのですが、アルバム全体を通した鮮やかでアーティスティックなイメージ、というのが浮かんでこない感じがします。どちらかというと、シングル曲が多いこともあり、またそれらもえらくJ-POPに寄せた感じのものも多いことがあって、下手するとカラオケで流れる映像みたいな光景になりかねない危うさが、このアルバムにはどこか存在していると思います。彼らが『空の飛び方』以降作り出すことに成功した「箱庭の河川敷」はまさにそういうものの原風景のひとつでしょう。

 だけど、アルバムの最後に「恋を信じ尽くすことで「箱庭の河川敷」を超えていく」と歌うタイトル曲があることで、そんな危うさは意味が反転してしまう。『フェイクファー』という曲は本当に、当時のスピッツがギリギリで生み出した奇跡のようなジョーカーのカードで、これがあることで特にアルバム前半J-POP連発の流れが大いに活きることとなっていると思います。

 そして、J-POPというある種の「偽りの海」に邁進していったことで掴んだ『楓』というもうひとつの偉大な結晶もまた、この時期のスピッツだからこそなし得ることのできた偉業だと思います。割と本当に、この曲が存在しなかったら存在することのなかったヒット曲がいくつかあるんじゃなかろうか。

 アルバムの一貫性としては、前半の青春J-POP連発の派手さと、後半の地味さとのギャップが激しいこと、そもそも明確なテーマがおそらく存在しないこと等により、『ハチミツ』や『インディゴ地平線』に劣ると思いますが、しかし楽曲は強力で、そして全てのマイナスがプラスに置き換わるような最強のカードを最後に控えていて、多少の迷走はあったにせよ、このアルバムが駄作なんてことは絶対にあり得ません。個人的には、中期スピッツで一番好きなのは断然『インディゴ地平線』ですが、その次に好きなアルバムは余裕でこの『フェイクファー』です。この作品をめぐる様々なグダグダに混迷した事柄が、『フェイクファー』1曲に収束していく、そのドラマチックさは、ちょっとメタいところがあるかもしれませんが、他のスピッツでは得難い大いなる魅力です。

 スピッツを聴き始めた人は、是非ともどうにかして『フェイクファー』という楽曲に辿り着いてほしい。ちょっとだけ、聴いた人の世界の見え方にさえ影響するかもしれない。それが良い方向であれ悪い方向であれ、きっとこの曲は祝福してくれるでしょう。

 

 以上です。

 最後にいつも参考にさせてもらっているサイトの同アルバム記事を貼ります。今回のこの記事の文章に幾らか熱が入っているとすれば、それは以下の記事の文章の熱にやられたところが多分にあると思います。

blueprint.hatenadiary.com

 スピッツ全作品レビュー、次は『花鳥風月』をやります。『ハヤブサ』はその後。微妙な立場の『99ep』はさらに後の『色色衣』で楽曲をレビューします。そこまで書き進められるかしら。あと、できれば初期スピッツの時みたいに中期スピッツのまとめ記事みたいなのも書きたいところ。どう書いたものか。

ystmokzk.hatenablog.jp

 ここまで読んでいただきありがとうございました。

 

追記:『花鳥風月』のレビュー書きました。散々この記事で言及した『スピカ』はこちらに収録されてます。

ystmokzk.hatenablog.jp

*1:彼の最も有名な作品がおそらくカーネーションのどの作品でもなくスピッツの今作をプロデュースしたことになってしまうだろうことが、どこか残酷な感じがする。

*2:なお、同じ1998年のうちにカーネーションサウンドに確変を起こし、翌年1999年に『Parakeet & Ghost』という名盤を産み落とす。その際にサウンドの要になったのは棚谷氏が導入したFarfisaというイタリアのビンテージオルガンだったという。もしスピッツのプロデュースをしたのがもう少し後の時期だったら、スピッツサウンドも変わってたかもしれない。もしくは、カーネーションの方で忙しくてプロデュースなんてできなかったかもだけど。

*3:有名になり過ぎて色々多忙になり過ぎてただろうし、逆に1966年にそれまでのペースで『インディゴ地平線』をリリースできてたことの方がおかしいのかもしれない。

*4:どうしても経歴の長いバンドはその辺の時代区分が難しい。似たような困難さをGRAPEVINEなんかにも感じる。

*5:うち1曲はカップリング、2曲はアルバム発売直前の緊急シングルカット、1曲はアルバム発売後のシングルカットですが。

*6:勿論その中にスピッツ的な捻りは色々と挿入されるのですが。

*7:シングル曲でもギターポップってはっきり言えそうなのは『冷たい頬』『仲良し』『スカーレット』くらいでは。

*8:前作の『渚』もシーケンサーが特徴的だけど、あちらがどこか柔らかみがあるのに対し、本作で聴けるシーケンサーはもっとマシンめいた質感があるように思える。

*9:『ハチミツ』みたいな音にしたいのであれば、もっとEQをブライトに調整して、リヴァーブとコーラスで調整すればいくらでも出来たのでは…?と、不思議に思えてなりません。そうなれない何か深刻な理由があったのかもですが。

*10:最初はアカペラにしてしまうことも考えられたらしいけども、このシンセ入りがどう考えても正解。シンセの音色は棚谷チョイスだろうか。とてもいい音だ。。

*11:この2段階のサビの構造を逆手に取って、それぞれを分離させ原曲と異なる展開を作り出したのが中村一義(with 100s)によるカバー。曲構成にメスを入れてしまうカバーは珍しくて、とても印象に残る。というか元のこの曲の歌詞の意味さえ変わってしまってて、そこが賛否両論ではあるけど、実に挑戦的で素晴らしいカバーだと思う。

*12:どうでもいいけど、「あれは恋だった」の”恋”を”こーい”と伸ばして歌うので、「あれは”行為”だった」という風に聞き取れることもあって、もし本当にそう歌ってたら、ただの懐古だったはずの歌がちょっと変態的なものになって面白い。歌詞の色んな意味が変わってしまうのでこの読み替えはちょっと面白いです。もしかして本人もそう思われるのを意図して歌ってる…?

*13:あれはサンダルというよりも下駄か…?

*14:頭ではこういうイメージはもうすっかり陳腐になった、と思うのに、この曲のイントロだけで身体を持っていかれる感じがする。

*15:田村玄一という人による演奏。この人は近年ではバンド体制時のKIRINJIに参加していたことでも知られる。

*16:そりゃあ筆者が思いつく限りあてこすれる範囲なので、言いがかりをつけ始めればキリがない、というものでもあるかもしれない。

*17:スピッツの両A面シングルで両方ともPVが存在するのは『楓/スピカ』『メモリーズ/放浪カモメはどこまでも』『春の歌/テクテク』くらいのもの。

*18:そもそも第一声が言葉ではなく唸りだし。

*19:この冬枯れの曲のこのアルペジオが本作の他のどのアルペジオよりも潤んだ音をしてるのはなかなかに皮肉めいてる。