スピッツの、メジャー以降のキャリアでは唯一のミニアルバム(5曲入り)。『99ep』?シングルでしょ曲数的に。
そんな、キャリアを通じても異色なリリース形態で登場したこれは、作品としてもかなり特殊な存在。前作の『魔女旅に出る』でオーケストラアレンジを担当した長谷川智樹氏が全面的にアレンジに入った作品。つまり、オーケストラアレンジやストリングスアレンジが非常に重視された作品で、曲によってはバンド演奏が全然無いものもあり、つまるところ草野マサムネソロアルバムじみた作風になっている。
よって、バンドサウンド的な楽しみはかなり限定される作品で、そういう意味では相当厳しいが、では歌とゴージャスなストリングスだけのつまらない作品かというと全然そうではない。むしろ「初期スピッツ的な狂気や幻覚剤的作用を最も先鋭化させた作品」かもしれない。どういうことか。各曲を見ていきましょう。
1. 魔法(4:32)
シャッフルなリズムのアコギの涼しげな鳴りに導かれて始まるのは、シンフォニックなオーケストラの導入。今作がこれまでのバンド作品とは色々訳が違うことを盛大に宣言するイントロとなっている。トランペット隊やティンパニといった楽器群がスウィング気味に連なるシンフォニーは、個人的にはどこかThe Beach Boysの『Pet Sounds』周辺の作品っぽい感じがした。または遊園地の感じというか。オーケストラ隊の隙間をギターのフィードバックノイズのようなものも鳴っている。
草野マサムネの歌も、アメリカンポップス感が少し強いメロディを歌っている。リバーブが濃くかかった声の処理などからも、フィル・スペクター、もしくはそういった作品を模倣した大瀧詠一『Long Vacation』みたいな質感にも感じられる。曲構造は案外にシンプルでサビもあっさり目だけども。
この曲のポイントは、2回目のサビが終わって早々に演奏が一旦途切れてからの展開だろう。しっとりとリズムチェンジしてからの、煤けたようなアルペジオと弓を弾くようなギターオーケストレーション。これプログレですね。このセクションについては意外とバンド演奏がメインとなっており、これが完全に草野マサムネソロでないことを暗に主張しているかのよう。
歌としてはかなりあっさりした作りなので歌詞もそれほど多く無いけれども、そこにはこれまでのフワフワした混沌を踏まえながらも、より言葉のチョイスを洗練・先鋭化させた━━本作の肝はそこだと思う━━そんなワードがしたためられている。
サビついた自由と 偽物の明日
あの河越えれば 君と二人きり
実にスピッツらしい言い回し。自由も明日も信じられない中で、それほどまでに「二人きり」に希望を見出せるものなのか、と訝しく思えるほど、彼らの歌は「二人きり」に全てを賭けていく。
2. 田舎の生活(3:20)
タイトルからして「隠れ名曲」感のある楽曲。今作でも割と一番人気がありそうに思えるのは、今作的な涼しげなロマンチックさをこの曲が象徴しているとともに、スピッツトリビュートアルバムでのLost In Timeのカバーが素晴らしい出来*1であったことも関係しているんだろう。スピッツの数ある楽曲でも最も繊細な部類かも。つまりはむしろ尖りに尖ってる。
タイトルどおりの質素なアレンジが為されている、と書けば間違ったことは言っていないけれど、この曲の場合のそれはたとえば前作における『鈴虫を飼う』とかの質素さ、なんかホッとするような質素さとは質感が異なる。むしろその質素さをどこまで詩とアレンジで研ぎ澄ませるかのトライアルがここでは行われている。
アコギの柔らかなアルペジオにマリンバやグロッケンが添えられた楽曲は5分の4拍子で進行し、その不思議な拍余り感がそのままこの楽曲のリズムとなっている。草野ボーカルも丁寧に音を置いていき、風が吹けば飛びそうな類の儚さを持っている。
曲はサビの箇所で4分の4拍子に変化して安定する。そしてそのコード、メロディの優しくもメロウで切ない感じは、そのコード・メロディを取り出せば、後年のブレイク後の数々のメロディと共通する要素を持っていることに気づく。だけどもここでは、歌もアレンジも含めて、まるでガラス細工のように繊細に組まれていて、詩的・霊的な雰囲気をさえ感じさせる穏やかさが静かに渦巻いている。
この曲の歌詞は凄い。スピッツでも最高峰に「詩」となっている感じがする。ナンセンスや「性と死」みたいなテーマを殆ど退けて、ひたすらに何かの純度を高めた、結晶のような言葉の連なり。歌い出しからしてこうだもの。
なめらかに澄んだ沢の水を ためらうこともなく流し込み
懐かしく香る午後の風を ぬれた首すじに受けて笑う
生活の微細を高画質で捉えて、そこから微かに美しさの宿るものだけをピンセットで取り出していったかのような言葉の連なり。この作品の歌詞が現代詩と比較されるのは(現代詩の教養が筆者に無いのは残念だけど)、こういう部分の神経が研ぎ澄まされているからだろうか。草野本人が実際に岐阜県の田舎に滞在・生活した際の経験を踏まえて書かれたということで、妄想・ファンタジーというよりはどこまでも写実的っぽく感じられる描写が連なる。
他にはこんなフレーズさえある。2番Aメロの後半。
根野菜の泥を洗う君と 縁側に座る僕らの子供と
うつらうつら柔らかな日差し 終わることのない輪廻の上
ここに至って、どこか妄想の影が差すのはかえって痛々しく感じる。それにしても「根野菜の泥を洗う君」なんていう描写が他にあるだろうか。スピッツの歌詞は「君」を“美少女化”しすぎない。
そんな描写からスピッツ式に飛躍するのが、サビの歌詞だ。
必ず届くと 信じてた幻 言葉にまみれたネガの街は続く
さよなら さよなら 窓の外の君に さよなら言わなきゃ
サビでリズムが4分の4拍子になって安定するのとは逆に、歌詞はこのとおり「別離」に冒されている。なぜ「さよなら言わなきゃ」いけないのか、「言葉にまみれたネガの街」とは今までの田舎世界とは別の場所なのか、これまでの美しくも慎ましい描写の数々はやっぱり幻覚・妄想の類だったのか。数々の噴出する疑問にこの歌詞は一切答えない。そこの間の飛距離に、聴いた人それぞれが自身の想像をどのように詰め込むかの余地がある。その余地はとても儚くて美しく。
結局この歌はなんの歌なんだろう。理想と現実の差異の悲しみを歌った歌だと断じてしまうのはあまりに色々なものを失ってしまう。純粋に、おそらく90年代日本音楽界で小沢健二と並ぶであろう詩人の才能の、そのある極地をしみじみと味わいたい。
3. ナイフ(6:57)
君は小さくて 悲しいほど無防備で
無知でのんきで 優しいけど嘘つきで
もうすぐだね 3月の君のバースデイには
ハンティングナイフのごついやつをあげる 待ってて
繊細の極地だった前曲から打って変わって、こちらは性倒錯の妄想の極地のような歌だ。あるいは、初期スピッツで最も不可解な歌は『テレビ』でも『ミーコとギター』でもなく、この曲なのかもしれない。
この曲は基本、霧の中のようなオブスキュアなオーケストラやパッドシンセ等の中で草野ボーカルのやはりエコーがかったやつが聞こえる、という形態で進行していく。オブスキュアーな伴奏の中に、シューゲイザー的なノイジーなギターの音色も含まれているのには前作からの連続性を感じたりする。
非常に大きなメロディの取り方をしているため、曲としては壮大な作りになっていて、そのためこの曲の尺6分57秒はスピッツの楽曲中最長となっている*2。その上で構成的にもAメロ・サビというよりもヴァース・ブリッジな構成を取っている。そのため、サビで大々的に盛り上がる、という雰囲気は全く無いのがこの曲の内向きな性質を高めている。
この危うい霧の中のような曲が少しだけ晴れやかになるのが4分30秒以降の展開で、歌が消え、雄大なストリングスと安定した8ビートが、この曲にひとときの安心を与える。しかし、それが終わればまたイントロからAメロに戻り、不穏な方向にファンタジックな余韻を残して楽曲は幕を閉じてしまう。
歌詞を冒頭に書いてしまったけれど、この曲は「大好きな無垢の「君」にごついハンティングナイフをプレゼントして、それを持つ「君」の姿を想像して猟奇的な性的快楽を得る男」の歌とされている。なんだこの文字列?何を書いてるんだおれは…?
君がこのナイフを握りしめるイメージを
毎日毎日浮かべながらすごしてるよ
スピッツに倒錯した恋の歌は数あれど、ここまで意味不明で、そして意味不明だけども危険さだけウンザリするほど匂わせる楽曲は他に無い。着想の理由が全然想像できないし、これについてはあまり想像したくない。ブリッジで突如挿入されるサバンナの描写にも血の匂いが滲むし、そして以下のフレーズが決定的に危険すぎる。
血まみれの夢許されて心が乾かないうちに
サルからヒトへ枝分かれして ここにいる僕らは
結局この歌は「僕」と「君」のどっちが血を流すんだろうか。冒頭で処女性を繰り返し述べられた「君」なのか、それとも「君」にハンティングナイフを持たせた「僕」なのか*3。どの要素とどの要素が関連して性的興奮が高まっていくのかが分からない…性癖が込み入りすぎている。
目を閉じて不完全な部屋に帰るよ
いつになっても 晴れそうにない霧の中で
このようなあまりに救いのない主人公の状況描写がさりげなく混じっていて、これは1st『スピッツ』で主人公が散々囚われていた「冷たくって柔らかな二人でカギかけた世界」(『ニノウデの世界』)よりも悪化している。いや、むしろ『ニノウデの世界』の歌詞は「二人で」の部分が妄想で、そんな妄想を剥ぐと、主人公はこのような状態にあるということなのか。そういえば1stには「俺は狂っていたのかな 空色のナイフを手に持って」(『ビー玉』)という歌詞もあったけど、この時は自分で持ってたナイフを、今回は「君」に持たせる妄想をしている。それに『ビー玉』では幾らか自分の狂気を認識していたけど、ここではその辺に触れてない。
今回、改めてこの曲の歌詞を精読して気づいたのは、この曲の歌詞はあの奇盤『スピッツ』にあった気味の悪い部分「のみ」を抽出して純正培養したかのような、はっきり言って狂気じみた世界だ。むしろ、そういった要素をどこまで不気味に発展させられるか、というトライアルだと見なせば、この曲の容貌にある程度の納得はいく。
このミニアルバムが尖っているとすれば、それは繊細(そして幻惑)の極地の『田舎の生活』とともに、この狂気の極地の楽曲が収録されているからに違いない。同調は決してできないが、そこに至るプロセスの隙間には、言い知れないリリシズムと強迫観念が横たわっていて、それらはとても価値のあるものだ。
余談。割と近年、シングル『シロクマ』のカップリングに当時のこの曲のライブバージョンが収められたのは意外な話。あまりに恐ろしい曲すぎてコアなファン人気があるようです。
4. 海ねこ(4:03)
あまりに壮絶すぎた前曲の口直し的に配置された、軽快なポップナンバー。この曲だけはバンドサウンド主体の楽曲であり、今作でも一番「普段のスピッツ」が味わえるので安心する。タイトルも可愛いし。
それにしてもこの曲は本当に軽い。ゴリゴリのベースで始まるイントロはやや不穏そうなのに、そこからバンドサウンドとホーンが入った瞬間、一気に晴れやかで軽やかになる。少しマッドチェスターな感じのスウィング感も感じれるけども、前作にも前々作にもこんな曲は間違いなく無かったし、また次作『惑星のかけら』にもこういうタイプの曲は無い。むしろ更に先の『Crispy!』のカラ元気気味な楽曲群が近い感じか。もしくは同時期の、まだチャラかった頃のフィッシュマンズの影響か。つまりこの曲のカラ元気っぷりも中々のものだということ。曲構造的には明確なサビもないのに、軽薄にハジけてる。草野ボーカルもナイーブさ無く伸び伸びとしてる。終盤にはノリノリなギターカッティングまで…。
ただ、この曲も本当にポップに徹するのはまだ早かったみたいで、中盤の「パーパーパー」のコーラスが続いてく部分は少しサイケデリックな仕掛けが施されている。拍足らずで進行していき、謎に加工されたリズムもずれたコーラスが途中から挿入され、不思議な展開を見せるここは、XTCやムーンライダーズみたいなトリックみを感じさせる。
歌詞の方も、ある程度ポップではあるけども、まだこの時期、という要素も感じられる。
明日になれば僕らもこの世界も
消え失せているのかもしれないしね
こんな投げやりなことを投げやり気味に、しかしポップに歌い上げるのが、まだ初期スピッツっぽいところなのかなと。でも、ややサビめいた箇所の歌詞はシンプルだけど、「君」に憂鬱の解決を求めるスピッツ的な要素が明るく表出してる。
今日一日だけでいい 僕のとなりでうたっていて
隣に来てしてほしいことが「うたっていて」なのが可愛い。ブレイク後の「可愛いスピッツ」の萌芽が認められる一幕。
5. 涙(4:21)
今作の最後は、本当に草野ボーカルとオーケストレーションのみで完結した室内楽的な曲。ハープシコードの優雅な調べとストリングスのシックな伴奏で彩られたこの曲は、前作での『魔女旅に出る』の大団円感とは異なった、密やかでしめやかな作品の終わりを印象付ける。
間奏のカルテットな演奏については完全にクラシックの領域で、筆者にはそっちの教養ゼロで何も言うことがない。ただ、ハープシコードがそこに入るだけで幾らか印象がおもちゃっぽくなるというか、高尚になり過ぎない、ディズニー映画みたいなソフトさが出てくるのは面白く感じる。何よりもハープシコードがあるだけでまだ「ロック」が残っているように感じる。ソフトロックの歴史のおかげかな…?
この曲自体はインディーズ時代からの曲らしいけれど、パンクナンバーだった原曲から相当変わってしまっているらしい。逆にパンクナンバーらしい原曲がこの曲から想像できないけれども。
そんな曲だけど、意外と歌詞は『魔女旅に出る』と対になっているように見えるのが興味深い。「歩き始める君」を送る歌。今作特有の神経質気味な言葉のチョイスの中でも、その優しさは香る。この歌詞の「女神」が「魔女」とオーバーラップする。
選ばれて君は女神になる 誰にも悟られず
そして君はすぐ歩き始めるだろう 放たれた魂で
月のライトが涙で飛び散る夜に
「月のライトが〜」の、言ってる意味はよく分からないけどグッとくる感じ、本当に詩人だなあって思う。前々曲で「君」にありったけの狂気を向けてたのと同じ人間から出てきたとは思えない(笑)、とても綺麗で優しい視線だと思った。
・・・・・・・・・・
総評
以上5曲、23分10秒。
当然、1992年当時はまだチェンバーポップなんて語は無くて、今の目線で言えば今作は「早すぎたチェンバーポップ」と言えなくもないのかもしれない。だけど、それは本質じゃない気がする。
当時のスピッツ、というより草野マサムネさんが、何を考え、何を求めてこのような「バンド性から遊離した」作品の制作に向かったのか。ひとつは、純粋な自分のソングライティングだけでどこまで飛躍した作品ができるか、ということか。そのためか、今作には他の作品にいくらかあるようなナンセンスさ・ユーモア等はかなり排除され(『海ねこ』は例外的)、更には、これまで各曲に満遍なくあったようなエロスやタナトスの要素、所謂「スピッツ的な毒」についても、かなり慎重な取り扱いをしている印象を受けた。
その上で、どこまで言葉に鋭さを乗せることができるか。今作は詩人としての草野マサムネの最高傑作なのかもしれない。その切れ味は『田舎の生活』と『ナイフ』の両極に色濃く現れている。片やあまりに高解像度すぎる幻覚・妄想と郷愁の彷徨が胸を塞ぎ、片やシリアルキラーじみた妄言の渦巻きで胸クソ悪くなりつつも虚構の「切実さ」を完全に感じる。
上記の意味で、今作はスピッツでも最も実験的な作品だった。そしてその実験はほぼ「草野マサムネ一人の」トライアルだった。バンドは今作の反動としてバンド感にフューチャーした『惑星のかけら』の制作に向かっていく。これも1992年のリリースだから、当時の彼らの制作ペースの速さは驚く。1991年のデビューから1年に2枚ずつとか、60年代のバンド並の働かされ方。
結論。スピッツで最初の方に聴く1枚ではないことは間違いないと思う。けれども、ここにしかない詩の輝きがあるので、ある程度スピッツの知識が付いたら、ぜひこの作品を手に取ってほしい。その輝きは、他のスピッツの歌詞の読み方にも奥行きを与えてくれる類のものだと思う。
www.youtube.com音源と違ってピアノをバックに歌ってるけども。。
今回のレビューはなかなかに「ブンゲイブ」してた気がします。
最後に、いつも参考にさせてもらってる例のブログを貼って終わります。本当にいつもありがとうございます。正直こっち↓の方が読みやすいですよ。