ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

初期スピッツについて(8つのテーマで)

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 祝・スピッツの(ほぼ)全スタジオ音源サブスク解禁!*1

 この機会にこのブログのスピッツ全曲レビューも前進すればいいんですが…その代わりというわけではありませんが、今までに書いてきた時期のスピッツ、所謂“初期スピッツ”という概念について、今一度まとめておきたいなとずっと思っていたので、今回はそれをしようと思います。

 方法としては、筆者が勝手に決めた8つのテーマに沿って3曲ずつ初期スピッツの楽曲を改めて取り上げて、何か所感とかを書くなかで「ああ確かに初期スピッツってそういうことかもしれない」みたいな何か取り回しのいいものが見つかればいいな…というものです。こういう手法なので、すでに書いてる内容とかなり重複する部分があります。

 なお、この記事で貼り付ける各楽曲のリンクは全てSpotifyのリンクです。あしからず。また、ここで規定する“初期スピッツ”はメジャーデビュー後〜アルバム『惑星のかけら』までとさせていただきます。*2

セックス

 何を隠そう、94年の雑誌インタビューにて草野マサムネ本人が「すごく単純に、俺が歌を作るときのテーマって、“セックスと死”なんだと思うんですよ」と話しているように、少なくともある時期までのスピッツの楽曲の根底には「セックス」と「死」の要素が、楽曲によって分量や色合いこそ違うにせよ、確実に存在している。だって本人がそう言ってるんだもん。

 個人的にはその辺のテーマをメジャーなフィールド向けにキャッチーでファンタジックに描き切った初めての例が、上記の発言が出た頃のアルバム『空の飛び方』なんだと思いますが、それ以前にもこれらのテーマは頻繁に見られ、むしろキャッチーでファンタジックに持って行こうとしない分、より不気味で怪しげな描かれ方をしているように思えます。

 

1. ニノウデの世界(アルバム『スピッツ』収録)

 記念すべき彼らのメジャーデビューアルバムの1曲目にして、いきなり悩ましくも閉じ切って倒錯した性を描いている。そもそも、何を置いたとしても、この曲の冒頭のフレーズで非常に端的に“セックスと死”のテーマを取り上げている。

冷たくって柔らかな 二人でカギかけた小さな世界

いきなりこう言い切ってしまい、そしてそのことについて特に悩みの無いようになっているこの歌におけるセックスという概念は、なんかとても自然なもので、かつ生活の実感のなさ・虚しさと深くリンクしている。終盤のAメロにはこんな一節もある。

なんにもないよ 見渡して ボーッとしてたら何故 固まった

「固まった」の意味を性的なものとして取れるかは解釈分かれると思うけど、仮に性的なものだとしても、そこには興奮とか情熱とかは感じられず、静かでどこか虚しい。

 メジャー1曲目として元気なパワーポップを演奏してる中でこのような歌詞が渦巻いているのは異様だし、そしてミドルエイトではついにそのパワーポップな装いも脱ぎ捨てて、ナイーブ極まったような演奏の中歌われる以下のフレーズは、子供っぽさの情けない部分だけが性的なものと渾然一体となって、実に気味悪くも情けない。

しがみついてただけのあの日 おなかのうぶ毛に口づけたのも

 

2. 胸に咲いた黄色い花(アルバム『名前をつけてやる』収録)

 スピッツのセックス要素は大概は「君と僕」の二人の世界のことで、というかそもそもスピッツの大概の楽曲はそういう世界を中心に歌われていると思う。でも、時々例外のような曲が存在していて、この曲はまさに「ひとりセックス」な歌だ。

月の光 差しこむ部屋 きのうまでの砂漠の一人遊び

胸に咲いた黄色い花 君の心宿した花

よく考えたら「砂漠の一人遊び」ってオナニーの空虚さを示す強力なパワーワードだなあと改めて思った。2行目で「君」は確かに出てくるけど、非常に間接的な登場の仕方をしている。それは繰り返されるサビによってさらにはっきりする。

このまま僕のそばにいてずっと もう消えないでね

乾いて枯れかかった僕の胸に

「もう消えないでね」が意味するのは何か。何回か消えちゃったのか。答え合わせのフレーズがやはり最後のAメロにしれっと飛び出す。

時の淀み 行く手を知り 明日になればこの幻も終わる

結局この歌の主人公はずっと「幻の君」をネタにした「昨日までの砂漠の一人遊び」を続けてるだけなんじゃないのかな、というのがこの曲の悲しみ。それをXTCなカラッとしたギターフレーズと歌謡曲的なメロディとでサラッと小綺麗にポップソングとして昇華した手腕が鮮やかで、アルバム『名前をつけてやる』(以下『名前』と呼称)のあっさりと無理なくしかし非常に趣深いポップソング群において、とりわけこの曲はその代表格のように感じてる。こんな可愛らしいポップソングで歌ってるのが不毛な自慰行為のことなのか、という可笑しみと悲しみ。

 

3. 惑星のかけら(アルバム『惑星のかけら』収録)

 初期スピッツの終盤に位置付けられるアルバム『惑星のかけら』(以下『惑星』と呼称)は個人的には良くも悪くもとてもとっ散らかったアルバムで、様々な曲調・情緒が乱れ飛んでて、それは『名前』『オーロラになれなかった人のために』(以下『オーロラ』と呼称)で綺麗にまとまった世界観を作り上げた後、そのある種エゴを貫き通した部分を投げ打ってでも新しいことに挑戦していこうとする、バンドの成長痛のような部分があったように思う。そんな多様さをひとつの作品に纏めた、その荒々しさが魅力。

 その荒々しさを出し評するのがこのタイトルトラックだと思う。今作ではより積極的・露悪的にセックスを取り上げる感じがあるけど、この曲の歌詞は特にそのような気概に満ちている。

ベチャベチャのケーキの海で 平和な午後の悪ふざけ

はかなげな笑顔で つま先から溶けそうだよ

1行目のネチョネチョした感じがなんとも変態臭い。この路線は後に『ラズベリー』でもっと徹底される*3。ポップにはしゃぐような『ラズベリー』と比べると、こっちは曲調のダルさもあって、情事はあっても光景はどこか静かで(「平和な午後の悪ふざけ」)、どこかつまらなそうな感じさえする。でも2行目のフレーズは、グダグダな生活から僅かに浮かび上がって来る尊さのような感じがしてどこまでも切ない。

 この曲の歌詞は移動手段にも斬新奇抜なものが出てきたり(二つめの枕でクジラの背中にワープだ!)、なかなか変な曲で、そしてその奇妙さは最初のアルバム『スピッツ』の気味の悪い奇妙さとは大分違ってきている。この曲のサビでは多少の男らしさも見せてる訳で。

骨の髄まで愛してよ 惑星のかけら

骨の髄まで愛してよ 僕に傷ついてよ

 

 上で書いた“セックスと死”の「死」の側を今度は見ていきます。「死」の要素についてはとりわけ初期スピッツのスタンスは奇妙さと不気味さに満ちていて、特にアルバム『スピッツ』で見られる死に対する雰囲気はどう考えてもインディー時代よりもずっtp尖ってるしどうかしてるように思います。中期以降になるとよりドラマチックで幻想的に表現したりして『青い車』『冷たい頬』みたいな名曲が出てきますが、初期スピッツはもっとドロッと、隣の空気のような雰囲気で「死」が存在しているというか。

 

1. ビー玉(アルバム『スピッツ』収録)

 初期スピッツの気味悪さを完全に体現した曲のひとつ。これに比べれば『ニノウデの世界』はまだ整理されてるなあ、とか思ったり。

おまえの最期を見てやる 柔らかい毛布にくるまって

ゆっくりうかんだら 涙の星になった

のんびりしたビートに乗っかった歌い出しからしてこのフレーズなので何も言えなくなる。絶妙に言葉の繋がりやら具体的な感じやらを剥奪した言葉の並びは、曖昧な感じを出しながらもその曖昧さの向こうにとても静かに破綻した光景が浮かぶ。というかこの歌詞どおりのことが現実に起こったならなんとも気持ち悪い光景じゃないかと。

 というかこの曲のAメロのラインは全て非常に危うい。

どうせパチンとひび割れて みんな夢のように消え去って

ずっと深い闇が広がっていくんだよ

このフレーズとか、世界に対する認識が完全に悲観的すぎて、すっかり閉じきってしまってる。虚無にしても、とても抽象的でかつ身も蓋もないような表現。

俺は狂っていたのかな 空色のナイフを手に持って

真赤な血の海をとび越えてきたんだよ

ここに至ってはいよいよ危うさだけが先鋭化していて、はっぴいえんど『空色のくれよん』からかろうじて引用したくさい「空色の」という部分のみが中庸に詩的な要素をやや担保してる。

 こうやってAメロの歌詞を並べてみると、それぞれが関連してストーリーを紡いでるという感じではない。草野マサムネの死とか世界認識とかに関する思いついたことをポンポンと列挙して、それをサビの不思議な生命についての認識(タマシイころがせ)でくっ付けてるだけのような構成、その装飾とかを無視したラフさが、この曲に端的な“初期スピッツらしさ”を抱かせる原因なのかもしれない。つまり、自身の抱える不気味さをデコレーション無しにさらけ出した曲というか。

 

2. 夏の魔物(アルバム『スピッツ』収録)

 上の曲と同じアルバムの曲だけども、こちらは逆にきっちりと歌の中にストーリーの存在感が埋め込まれていて、聴き手に提示する曖昧な部分も限定的なので、歌詞解釈とかも割としやすいように作られている。大ヒット曲とかからスピッツに入った人が初期スピッツを聴いていく上での取っ掛かりにこの曲がなりやすいのはそういう部分もあると思う。曲調も爽やかさとヒリヒリ感とが涼しいバランスだし。

 この曲は直接的に「死」に言及している訳ではない。ただ、サビのフレーズに込められた雰囲気が、どうにも「永遠の別離」的に響くということがある。

殺してしまえばいいとも思ったけれど 君に似た

夏の魔物に会いたかった

この曲のファンの間での割と声高に言われてる解釈が「中絶の歌」だとかそういうので、「夏の魔物」とは「僕と君」の間に生まれた、いや、生まれることなく去ってしまった子供のことのように、どことなく強く印象付けられる。それを「死」というのかどうかはよく分からないけど、でも「魂が失われる」的な観点でいけばきっと「死」なんだろうと思ってこのカテゴリに入れた。

 このメインテーマを装飾するために、様々な舞台設定のためのフレーズが綴られ、そしてそれらの詩的な雰囲気がファンを惹きつけてるんだと思う。そしてその詩的なフレーズは典型的に“初期スピッツ”的な気味の悪さとは少し趣を異にするものだ。むしろ後年まで続く情景描写の性質の確かさがすでにあったというか。

魚もいないドブ川越えて 幾つも越えて行く二人乗りで

折れそうな手でヨロヨロしてさ 追われるように

大粒の雨すぐにあがるさ 長く伸びた影がおぼれた頃

ぬれたクモの巣が光ってた 泣いてるみたいに

このどこか所在なくて頼りなくて、しかしだからこそ切なくて尊いような世界。スピッツが時に歌詞の中で生み出す光景はこのようにあっさりとしてとても美しいし、そして彼らは最初からこのような世界観を作り出すことができた。それは童心の原液を素っ気ない世界に永遠に美しいままに標本にするような行為だと思う。 


3. コスモス(シングル『日なたの窓に憧れて』収録、後にコンピ『花鳥風月』に再録)

 時が幾らか下って、この曲は『惑星〜』の頃の楽曲だけど、でもこの曲の雰囲気は実は『惑星〜』の時期の他のどの曲とも、いやむしろ他のどのスピッツの曲とも違うような、とても独特のものがある。そういう意味では典型的な“初期スピッツ”の雰囲気を確認していくこの記事の趣旨からは外れるけど、でもスピッツで「死」というテーマであれば、外すことのできない1曲。

 この曲における「死」はいつになく現実的な重みを感じさせる。「死」そのものをテーマに情景描写や詩的表現が重ねられていく。歌い出しからしてそれは明らかだ。

鮮やかなさよなら 永遠のさよなら 追い求めてたモチーフはどこ

幻にも会えず それでも探していた今日までの砂漠

非常に幻想的なサウンドの構築具合とは逆に、歌詞における「死の実感を避けられない感じ」は実に身も蓋もないものがある。

君の冷たい手を暖めたあの日から手に入れた浮力

他にもこんなフレーズもある。後の『冷たい頬』とかにも繋がるような「死」の暗喩の手法。そして決定的なのは終盤のコーラス部のフレーズ。

あの日のままの秋の空 君が生きてたなら

かすかな真昼の月と西風に 揺れて咲くコスモス 二度と帰れない

ここまではっきりと「君」が死んでしまっているという表現をスピッツがすることは他に無い。なので、どうしてこの時期に、急にこのような曲を作ることになったんだろうか、と思ったりする。私生活上の知り合いと死別してしまったのかな、とか。ともかく、この曲では「死」を気味悪いものとして扱うことは一切していないし、自分の死生観として内在化させようともせず、ひたすらに儚く佇んでいる。この曲は、スピッツの歌詞やらその他様々な死にまつわるサブカルチャーやら何やらで時に「死」をユニークに語ろうとしてしまう我々の襟をそっと正してしまうようなところがある。

 

倒錯

 初期スピッツの歌詞は時折、後年では絶対にしないような訳の分からない表現が登場することがあって、もしかしたらこの要素こそが最も“初期スピッツ”という概念の核になる部分なのかもと思ったりもします。ここまで歌の中の光景をややこしく不可解にすることができるのか、という手法的な意味でも、初期スピッツのひとつの達成なのかなとか思います。特にすごいなと思うのは、支離滅裂になるように単語を並べてるだけ、という感覚に全然ならないこと。

 

1. テレビ(アルバム『スピッツ』収録)

 ザ・歌詞が訳わかんない曲。長年スピッツファンが色々な解釈をこの曲に添えようとするけども、それらをみんなすり抜けるような理不尽な難解さ・シュールさを持つ。楽曲としてもインディー期のチャチなパンクロック要素も含んでいたりして、なおかつミドルエイトのシューゲイザー的な場面もあったりで、とても複雑。

君のベロの上に寝そべって 世界で最後のテレビを見てた

いつもの調子だ 分かってるよ パンは嫌いだった

歌い出しのこの2行で、果たしてある程度具体的な風景を浮かべられる人がどれだけいることか。比喩表現にしても突飛なものが並びすぎて、特に最後のパンのくだりは歌詞全体を見てもどうにも位置付けができないし、前のフレーズからも関係が全く切れている。

 サビの歌詞もまた突飛で、意味が判然としない。

マントの怪人 叫ぶ夜 耳ふさいでたら

春の風によじれた 君と僕と君と

意味は判然としないけれど、機械的に言葉を並べて小難しくして感じとは全然異なる、不思議と何か隠れた意味があるかのように綴られていることが、“初期スピッツ”的な気味悪さの演出に繋がっている。何よりも、意味はよく分からないけど「春の風によじれた君と僕と君と」のラインはスピッツ的なキャッチーさがある。そう、僕らはスピッツの曲とかを通じて何かと春の風によじれていたいもんなんだ。それがたとえマントの怪人が叫ぶようなけったいでおっかない夜であっても。


2. ミーコとギター(アルバム『名前をつけてやる』収録)

 この曲の歌詞をただ読むことについて難しいことは特にない。歌詞のフレーズはある程度しっかり繋がりが判り、文章としての意味をなすようにはなっている。ただ、その文章の向こうにある意味を捉えるのが、この曲は難しくなっている。

ミーコの声は誰よりも強い だけどはかない

そしてミーコの彼はミーコの彼じゃない 誰も知らない

いつかは二人で幸せになりたかった 手垢まみれのギターと今日も

「そしてミーコの彼はミーコの彼じゃない」の部分の、文章としては成立してるけど何を言ってるのか分からない感じ。ミステリー的要素というか。これをストーンローゼズ的なグルーヴィーなギターロックに載せるあたりのさりげない不可解さが、『名前〜』の頃のスピッツっぽい、ひっそりと凄いことになってる、みたいな感じがする。

 別に上記の不可解さに対する確かな答えではないけれど、以下のミドルエイトの歌詞の部分はその不可解に対する想像力を刺激するないようになっている。

一人よがりじゃなくて 嘘じゃなくて

大きな“パパとミーコ”のようなギターと

今日もうたうよ裸の世界を

「裸の世界」をセックスのことと読み替えて、「パパ」こそが「ミーコの彼」と読む、そんな近親相姦的な解釈がファンにおいて主流だけど、それが正解かは分からない。このミステリーに答えは用意されていないけれども、ともかくなんらかの理由でミーコの声は誰よりも強くてしかし儚い。残酷についての想像力は時に聴き手を映す鏡のようで、そう思うとこの曲におけるミーコの境遇について考えるのを躊躇するときとかもある。


3. ナイフ(ミニアルバム『オーロラになれなかった人のために』収録)

 初期スピッツで最も不気味で理解しがたい曲はこれだと思う。歌詞の言葉の繋がりは変ではないし、文章としても十分理解できる内容。ただただ、歌詞の向こうの歌い手の思考を理解したくない、そんな倒錯に満ちた内容を、荘厳なストリングスアレンジの、まるでディズニー映画のエンディングのようなサウンドの中恍惚そうに歌い上げる。

君は小さくて 悲しいほど無防備で

無知でのんきで 優しいけど嘘つきで

珍しく「君」について様々な形容を試みて、概ねの言葉だと歌い手はロリコンなのかな、と思えるけど、最後の「優しいけど嘘つきで」の部分がなんともこじれてしまってる。

もうすぐだね 3月の君のバースデーには

ハンティングナイフのごついやつをあげる 待ってて

いきなり出てくるハンティングナイフ。そしてそれを嬉しそうに告げる歌い手。非常に雲行きが怪しく、サウンドの静けさと裏腹に穏やかではない感じ。

君がこのナイフを握りしめるイメージを

毎日毎日浮かべながらすごしてるよ

目を閉じて不完全な部屋に帰るよ

いつになっても 晴れそうにない霧の中で

リリース当時に日本で確立してなかった言葉で言うならば、この曲は「女児にごついナイフを持たせる妄想で興奮するストーカーの歌」ということになりそう。なんでこんな内容を歌にしようと思ったのか。特にこのセンテンスでは後半の、自身の境遇が非常に閉塞的で病んでしまってることを強く自覚しているところが、本当に不気味。

 一回きりのコーラスで、このストーカー野郎の想像力はサバンナに向かい、そしてその欲望の出口を示唆する言葉が綴られる。

血まみれの夢許されて心が乾かないうちに

サルからヒトへ枝分かれして ここにいる僕らは

誰がお前に血まみれの夢なんてのを許したんだ!と、こ妄想の主が暴走するのを止めたくなる衝動に駆られることがあると思う。だけど、この妄想の主が悲しいなと思うのは、この次の、全く妄想とは違うレベルで語られるセンテンスなのかも。

蜜柑色の満月が膨らむ午後6時に

シルバーのビートルを見かけたんだ20号で

今度こそ何かいいことがきっとあるだろう

いつになっても 晴れそうにない霧の中で

何なんだろうこのパッとしなさは。甲州街道でシルバーのビートルを見て「何かいいことがあるかも」と考えるような状況の悲しさを思うと、歌詞上段の「君」への狂った妄想を抱くこの男の、その暮らしや人生そのものへの哀れみが湧いてくる。あろうことか、この虚しい歌詞の後に楽曲はいよいよオーケストレーションが晴れやかになり、最高潮を迎える。

 ミニアルバム『オーロラ〜』は『スピッツ』の頃の半ば無意味な言葉の並べ方は消滅しており、この曲は作者の意図に沿って整然と並べられている。その並んだ言葉から浮かんでくるこの哀しい妄想の男を通じて、草野マサムネは結局何を表現したかったんだろう。それを深く考えてるとかえってこっちの気がヘンになりそうだ。 

 

倦怠・疲労

 ここまでで初期スピッツの君悪い世界観に渦巻く「セックス」「死」「倒錯」を見ていったけれど、しかしながら初期スピッツはそういうテーマを活き活きと歌っているわけではないです。むしろ、元々の草野マサムネの声質を差し引いたとしても、かなり気だるげなボーカルが他の時期よりも多いことが、初期スピッツの諸作を聴いていけば分かってきます。ダウナーな気のヘンになり方というか、そういうのは歌の中に、言葉としても時折漏れてくるところがあります。

 

1. 死神の岬へ(アルバム『スピッツ』収録)

 初期スピッツ的な気味悪さが半ば未整理なまま渦巻く『スピッツ』において、この曲はかなりハッキリと鮮やかな情景描写や、カントリー調で割とストレートにポップさが表出している感じが清々しく、筆者はファーストアルバムでこの曲が一番好き。

 この曲の二人は珍しく「自分たちから」車に乗ってどこかに行こうとするけど、その前段の世界観の設定は、以下のたった2行で実に端的に表現されている。

愛と希望に満たされて 誰もかもすごく疲れた

そしてここにいる二人は 穴の底で息だけしていた

まるで絵本の書き出しのような言葉で、二人のどうしようもない閉塞感をサクッと書き出している。上段の方はやや世間の風刺みたいなところもあるけど、それがこの歌の主眼じゃないんだと思うけどでも、本当にそうだよな、世間は愛と希望に満たされて、ずっと疲弊し続けてるよって、それはでも90年代ゼロ年代と世間で大々的に歌われてきたヒット曲の多くや、もしくはテレビや雑誌などのポジティブな資本主義のあれこれを思うと、この1行だけを抜き出して色々と世間へのグチを書き散らしたくなる衝動に駆られてしまう。

 脱線したので元に戻れば、この曲は歌詞の視線がどれも疲れ切ってる感じがしてとても好き。

古くてタイヤもすりへった 小さな車ででかけた

死神が遊ぶ岬を 目指して日が昇る頃出かけた

この歌の中では、移動手段も疲れ切ってるし目的地もなんか病んだ感じがして、そしてその、設定を着飾りすぎてないナチュラルさがとても好き。そしてサビの流れていくようなメロディに乗った情景が、とても素晴らしい。

そして二人は見た 風に揺れる稲穂を見た

朽ち果てた廃屋を見た いくつもの抜け道を見た

年老いたノラ犬を見た ガードレールのキズを見た

消えていく街灯を見た いくつもの抜け道を見た

目に付く様々なものの、ナチュラルなネガティブさ。そこにさらっと差し込む「いくつもの抜け道」のポジティブさとシニカルさとがないまぜになった感じが、聴いててとても涼しい感じがして、本当に大好きなんです。 


2. うめぼし(アルバム『スピッツ』収録)

 初期スピッツについて語ろうとすると、どうしてもファーストアルバムへの言及が多くなってしまう。それだけ“初期スピッツ”としての濃度が凄いんだろう。

 唐突にシュールなタイトルとして登場するこの曲も、このアルバムの中にあっては意味が明瞭で意図も素直な部類の曲。弾き語りとオーケストラをバックに歌われるのは、ぼんやりとしてるからこそ様々な比喩を通じて語られる類のやるせなさ。

値札のついたこころ 枠からハミ出せない

星占いで全てかたづけたい

知らない間に僕も悪者になってた

優しい言葉だけじゃ物足りない

「値札〜」のくだりはやっぱり資本主義社会の中での風刺・疲れ・うんざり感みたいなのが見え隠れする。その解決方法が星占いっていうのも実に適当な感じがして可笑しいけど、その後のフレーズはどうにも、“純真”な立場に自分がいないことを自覚しすぎててしんどさが漂ってて、そこから救われるためには「優しい言葉」だけじゃダメだという、この辺のこじれ方が実感として悲しく感じられる。

 そして、その「優しい言葉」以上のものを求めて彼は歌う。

うめぼしたべたい うめぼしたべたい僕は今すぐ君に会いたい

「うめぼし」=女性器のたとえ、とこの歌の解釈ではよく言われるし実際それを意図してるのかもだけど、初期に限らず、時折スピッツの歌詞で求められる「セックス」というのは、まるで全ての問題を解決するもののように存在している。そして、セックスが本当はそんな万能なものではないということが、スピッツの歌詞の“希望”を裏から照射してる。

 

3. シュラフ(アルバム『惑星のかけら』収録)

 時が流れて『惑星〜』の頃、この曲でも歌詞で明確に疲れについて言及してる。歌い出しからこうだもの。

疲れ果てた 何もかも滅びて ダークブルーの世界から溢れて

ただ、その疲れ方は上記の歌津に比べるとどこかより、本人たちの実感を伴ったもののように聞こえる。それはこの曲が、フォーキーなポップさ全く伴わない、ダークでダウナーでサイケデリックな曲調だからそう聞こえる、という部分も多分にあるかも。

みんな嘘さ 奴らには見えない

たったひとつの思い出を抱きしめて

それにしてもここまで見てきて、初期スピッツにおける疲弊というのはどこか、世間に対する反発が同じ歌詞に潜むことが多いようで、あんなに幻想的でファンタジックで不可解だったりな初期スピッツの世界も、意外と世の中のクソみたいなことへの違和感とかそういうものから生じているものなのかもなあ、なんてことを今回思った。

不思議のシュラフで運ばれて

シュラフで寝て疲れとか癒すと同時に移動もできるなんて、そんなの本当に素敵なことだよな、なんてことを疲れてる時にたまに思う。まあ、新幹線とか飛行機とかなら移動中寝てられるけど、でも、シュラフならもっと快適に寝られる。不思議のシュラフで旅をしたいな。

 

移動

 ちょうど上の『シュラフ』でも書いたけど、初期スピッツの歌詞では時折不思議な移動手段が登場します。注目したいのは、普通移動と言ったら移動主(変な言葉だけど)の意思によって能動的にするものだと思いますが、初期スピッツにおけるそれは決してそうではない、むしろそうではない、受動的な移動方法がよく見られる、というのがあります*4

 

1. 鳥になって(シングル『魔女旅に出る』収録、後にコンピ『花鳥風月』に再録)

 インディーズ時代の代表曲で、メジャーデビュー後に「この曲だけはちゃんと音源残しておきたい」というメンバーの意思の下録音され、シングル『魔女旅に出る』のカップリングとして広く世に出た楽曲。歌のメロディラインや演奏のガチャガチャした構成に確かにインディーっぽさがあるなあと思いながらも、でもこの曲の歌詞のテーマは実に初期スピッツ的だなあと思う。

今 鳥になって 鳥になって 君は鳥になって

鳥になって 鳥になって 僕を連れて行って 僕を連れて行って

鳥になるのお前じゃないんかい!というこの受動的でかつ身勝手な感じが、実に初期スピッツだなと。繰り返しが多い分よりその可笑しみがストレートにくる。

ああ いつまで 君の身体にしがみついたまま

きっと明日は僕らは空になる

この歌詞とか、ホント情けない。このくだりを「君を介したセックスの快感によるブレイクスルーを求めてる」という風に読めなくもないけど、そんな持って回った考え方をするよりも、この情けない歌い手のことを哀しくも可愛く思う方が楽しい。少なくともこの歌い手は自分が情けないことを重々承知して、次のような歌詞も書いている。

ああ 覚悟ができないままで僕は生きている

黒いヘドロの団子の上に住む

 しかし、この歌詞では「どこに連れて行かれたいのか」を書いていない。なので、「鳥になった君」に連れて行かれることそれ自体が目的なんだろうか、と考えだすと、色々分かったような、かえって分からなくなったような気持ちになる。

 ちなみに、この曲の入ったシングルの表題曲『魔女旅に出る』もまた、魔女として旅立つのであろう「君」を「僕」が見送るという、移動にまつわるテーマの曲で、そしてやっぱり、お前が旅立つんじゃないのかよ!という思いを抱くので、この2曲を組み合わせてシングルにするというのはかなり気の利いたことだったのかもと改めて思った。

 

2. ウサギのバイク(アルバム『名前をつけてやる』収録)

 初期スピッツでもとりわけ幻想的な佇まいのあるアルバム『名前を〜』の先頭を勤めるこの曲は、まさにそのアルバムの幻想的な世界に聞き手(の魂か何か)を「移動させる」ような効果がある、とも書けるけれども、それ以上にこの曲の歌詞もまた、移動にまつわる内容になっている。

 そもそも「ウサギのバイク」って何だ?この言葉からすでに、このアルバム特有の「実態があるようなないような」的なフワフワした感覚に満ちている。これについて何の比喩かとかそういうことを考えててもきっとラチがあかないので、歌詞の内容を具体的に見ていく。楽曲自体が木の葉舞うようなアコギに導かれた、眩惑するようなスキャットを伴う楽曲で、歌詞としては短いものだけど。

ウサギのバイクで逃げ出そう 枯れ葉を舞い上げて

優しいあの娘も連れて行こう 氷の丘を越えて

逃避。初期だけに留まらず、スピッツの歌詞に置いて逃避というのはかなり大きなテーマのひとつだと思う。思うにこれは「逃げちゃダメだ」的なところのある社会の息苦しさに対するアンチみたいなこともあるのかもしれない。それにしたって、この曲の逃避の様子は実にファンタジックではあるけど。

脈拍のおかしなリズム 喜びにあふれながら ほら

駆け抜けて 今にも壊れそうなウサギのバイク

この曲には「死」の要素も薄っすら感じられる。「脈拍のおかしなリズム」は生命の状況の危うさを思わせるし、それと同時に喜びに溢れてるのは、死の恍惚、みたいなものが浮かんでしまう。移動手段は今にも壊れそうだし、前段の「氷の丘」というのも死のメタファーが潜んでいる。

 この曲もやっぱり「どこに逃げるか」は示されていない。それはやっぱり、移動自体が目的なのかなということ。それと上記の「死」の雰囲気とを合わせると、急にこの曲の誘惑するところが何やら危ういものであることが分かる。『名前を〜』はやっぱり、ひっそりと凄いことを歌っている。


3. ハニーハニー(アルバム『惑星のかけら』収録)

ハニーハニー It's so brilliant!! ハニーハニー 僕らに

ハニーハニー It's so brilliant!! ハニーハニー 天国が落ちてくる日まで

『惑星〜』のハードロック路線のひとつであるこの曲に至っては、もはや彼らは移動をしない。天国の方が彼らめがけて落ちていく。『惑星〜』の歌詞に出てくる人物は妙に自分勝手で強引なところがあるけども、ここまで自己中心的だと笑ってしまう。「天国」という目的地が示されたのは初期スピッツでは珍しい感じがするけども。

 ただ、このサビのアホな移動方法で笑った後に、ミドルエイトの方では結局、それだけでは済まさない様子が描かれる。

旅する 二人は旅する 手探り 闇をかきわけて

離れた心のジェルが 流れて 混じり合って はじける夜に

こちらの方は上記の2曲と同じように、移動それ自体を目的とするような感覚が見て取れる。とりわけ、2段目の書きぶりを見てると、少なくともある種のスピッツの歌詞における「移動」というのは、それを通じて二人の魂を混ぜ合わせることを目的としてるんじゃなかろうか、なんてことを今回思ったりした。「魂を混ぜ合わせる」とかいうとすぐにセックスに結びつけそうにも思えてしまうけれども。

 

世界・情景

 疲弊とかを理由として、セックスと死と倒錯が渦巻いて、移動ももしかしたらセックスの一形態かもしれないような初期スピッツの歌で、その登場人物を取り巻く世界や情景とはどんななのか、ということを今度は見ていきます。とはいえ、登場人物が想像力豊かでかつこじれててまた疲弊してるので、その視点というのは限りなく歪んでることがあるかと思いますが。

 

1. タンポポ(アルバム『スピッツ』収録)

 初期スピッツの歌詞の主人公の「二人を取り巻く世界」の認識の仕方について端的に示されているのが、この曲の歌い出し。

僕らが隣り合うこの世界はいつも けむたくて中には入れない

山づみのガラクタと生ゴミと上で 太陽は黄ばんでいた

そもそも僕らは「世界」に属していない。この歌い出しが示すある種の潔癖感は、気づいた時結構驚いた。初期スピッツは結構な場面で「世界を拒絶」している節がある。むしろ「逃避すべき」ものとしての世界について、その痛ましさこそをこの曲の歌詞は綴っている。

逃げ出してつかまった最後の冒険 おデコに大きな傷をこさえて

真っ赤なセロファンごしに見た秘密の庭を 今も思い出してるよ

何かが解かっても何も変わらない

立ったまま心はしゃがみこんで泣いていた

ふんづけられて また起きて道端の花 ずっと見つめていたよ

 少なくとも、この歌の主人公は「世界」に対してひたすらに虚しさと痛ましさばかりを感じてしまっている。どうしてこんな状況に追い込まれてしまったんだろうか、と思うかそれとも、世界なんてそんなものだよな、と思ってしまうかは聴き手の勝手だろうけど、でもこの地点から「君への思い」を鍵に世界を開いていくのがスピッツの歴史の一側面でもあるなあということは間違いない気がしてる。


2. 名前をつけてやる(アルバム『名前をつけてやる』収録)

 これも初期に限らずな感じがするけど、スピッツの歌の場面は都会をあまり想定してない*5。都市の高揚とか熱狂とか冷徹とか、シティライフの煌びやかさとか苦悩とか、そういうことを彼らは決して歌にしない。これがスピッツの歌の世界を一般的なファンタジックさに留め続けるひとつの原因なのかなと思ったりする。

 別世界に眩惑するようなアルバム『名前を〜』のタイトルトラックのこの曲で出てくる街も、なんとも小ぶりで冴えないような設定がなされている。

名もない小さな街の 名もないぬかるんだ通りで

似た者同士が出会い くだらないダジャレを吐き笑った

ぼやけた雲の切れ間に なぜなのか安らぎ覚えて

まぬけなあくびの次に 目が覚めたら寒かった

ちょっとだけファンキーなリズムの上でテンポよく呟かれるこの小さな世界の中の小さな振る舞いの数々の、ぼんやりしながらも感覚が鋭敏な具合がとても好き。難しい言葉を並べずとも、そこに目線が行くのか、という部分で鮮やかさを発揮するのがスピッツの歌詞のいいところのひとつ。

マンモス広場で8時 わざととらしく声を潜めて

ふくらんだシャツのボタンを ひきちぎるスキなど探しながら

回転木馬回らず 駅前のくす玉も割れず

無言の合図の上で 最後の日が今日だった

この曲のいいところは、こういうささやかに残念な小さな街の片隅で、二人の性が交錯するような淡い光景を「匂わせる」に留まっているところ。ファニーなノリなんだけど、その描写の鮮やかなささやかさが、なぜだかとても涼しく感じられる。


3. 田舎の生活(ミニアルバム『オーロラになれなかった人のために』収録)

 この曲に至ってはタイトルで「田舎」と銘打っている。しかしながら、いきなり言ってしまうと、この曲の肝は半ば妄想の中のような「田舎」のつつましくもいじらしい光景と、現実側の「言葉にまみれたネガの街」との対比こそがポイントとなっている。「言葉にまみれた」という言い回しはどこか被害妄想的で、「ネガの街」の方をよく思っていないような雰囲気が示唆されている。その前提があるからこそ、半ば妄想上の存在かもしれない「田舎の生活」の様子が、実にいじらしく輝く。

なめらかに澄んだ沢の水を ためらうこともなく流し込み

懐かしく香る午後の風を ぬれた首すじに受けて笑う

野うさぎの走り抜ける様も 笹百合光る花の姿も

夜空にまたたく星の群れも あたり前に僕の目の中に

妄想にしても、実に繊細でかつ饒舌な情景描写の数々が、少し拍子のおかしなアコースティックな演奏に乗って語られるのは、しみじみとした情緒が漂う。

一番鶏の歌で目覚めて 彼方の山を見てあくびして

頂の白に思いはせる すべり落ちてく心のしずく

根野菜の泥を洗う君と 縁側に座る僕らの子供と

うつらうつら柔らかな日差し 終わることのない輪廻の上

本当にささやかでかついじらしい妄想。「輪廻の上」とか言い出してしまうあたりが実にスピッツらしい妄想の破綻の仕方だなと思うし、サビでこのような光景を「必ず届くと信じてた幻」とか「あの日のたわごと 銀の箱につめて」とかいうフレーズで妄想として一蹴してしまう、この寂しい光景に胸が痛くなったりする。たとえその妄想があまりに田舎の生活を理想化しすぎたものであっても。というかこの曲の「理想化しすぎた田舎の生活」の様子は本当に美しい。それだけでなんだか、哀しくも恍惚としたりすることがある。

 

白昼夢・シューゲイザー

 ここまで見てきた中で、初期スピッツの世界は「世界に違和感を強く感じる「僕」が「君」との性と死になんらかのブレイクスルーを覚える妄想の物語」みたいな大枠を無理やりでっち上げることができるかもしれません。

 そんな物語の中で「救い」となるのが、意識が薄れてしまうほどの曖昧さ・ぼんやり具合の中に二人で沈み込むことなのかな、ということを、特に初期スピッツについては思います。二人で性と死も全て含んだ白昼夢の中に落ちていくこと、これこそ初期スピッツの歌詞の主人公たちの目的なのかなと、勝手に当たりをつけます。

 それで、その白昼夢の光景を示すのに、シューゲイザーという音楽的手法はまさに合致するものであるわけです。音の壁・音の渦の中に光を見出す、なんて書くと中二病だとか言われそうですけど、でもそれって全然願いの・救いの一形態じゃないの?などとナチュラルに思ってしまうのは社会的にどうなのか。いや、ここはあくまでスピッツを論じてるだけなので社会のことはどうでもいいです。楽曲を見ていきましょう。

 

1. 月に帰る(アルバム『スピッツ』収録)

 シューゲイザー的な音作りはファーストアルバムから時折顔を覗かせている。初期スピッツシューゲイザー要素の使用法は、その多くがとりわけ「ミドルエイトで他のセクションとは異なる浮遊感を出すために用いる」みたいな感じがあるけど、この曲は割と全編的にシューゲイザー的な浮遊感を意識しているように思われる。

 サウンド的には、ドラムの存在感を抑え、複数のギターによる、コードカッティングとその他の様々な「星が流れていく」ようなプレイの折り重ねによって、この曲のスペーシーな感覚が作られている。この曲は作曲が草野マサムネではなくギターの三輪テツヤなので、彼の趣向だったんだろうか。

真っ赤な月が呼ぶ 僕が生まれたところさ どこだろう

黄色い月が呼ぶ 君が生まれたところさ

湿った木箱の中で めぐり逢えたみたいだね

今日の日 愉快に過ぎていく

もうさよならだよ 君のことは忘れない

この曲はあのファーストアルバムとは思えないほどに性的な要素も死の要素も、最悪な世界の感じも不思議と歌詞に出てこない。草野マサムネも自分の曲じゃないから遠慮したのか。その分、真っ赤な月と黄色い月の交錯する夜の巡り会いと別れみたいな、まるで七夕か何かみたいな光景が広がっている。ずっとジェット気流の中にいるようなサウンドの中であっという間の会合と永遠の別れを交わしていく二人のファンタジックな物語は単純だけど切ない。

 

2. プール(アルバム『名前をつけてやる』収録)

 アルバムレビューに続きまた言うけど、この曲が初期スピッツの「代表曲」だと強く思う。冴えない街の片隅での所在なさげな二人の情交の救いが、実にささやかで鮮やかなソングライティングとアレンジで綴られている。常時トレモロとコーラスがかかっているリズムギターの鳴りの不確かさによる白昼夢的な光景の広がり、その中で曲をしっかりと牽引するベースライン、儚げな夏の情緒だけを掬い出すことに成功した草野マサムネの作詞と作曲。何もかもが過不足なくここに完成してる。

君に会えた 夏蜘蛛になった

ねっころがって くるくるにからまってふざけた

風のように 少しだけ揺れながら

「夏蜘蛛」という、この歌詞だけにしか出てこないであろう単語が生み出す二人の身体の重なりや部屋の中の薄暗そうな感じ、そして窓の外に広がっている鮮やかでぼんやりした夏の感じが、言葉からもギターの煌めきからも、香り立つように広がっていく。

独りを忘れた世界に 白い花 降りやまず

でこぼこ野原を 静かに日は照らす

射精のメタファーと祝福の花吹雪みたいな光景とがオーバーラップするこの2回目のコーラスのフレーズの後に、スピッツが生み出した一番気の遠くなる白昼夢が起こる。ギターの周期的に揺らぎ響くコクトーツインズのような音と草野マサムネの声だけのこの時間は、まさにその夏の一瞬を抜き出して永遠に引き延ばすかのような、そんな浮力を持ち得てしまっている。そのわずか40秒の秘密に静かな夏の永遠と、それがあっけなく打ち破られて曲がさらっとした匂いだけ残して終わっていく様を見たくて、この曲を何度も再生してしまう。この40秒に、初期スピッツの性と死と疲弊と憧憬と恍惚とが美しく溶けてしまってるから。歌詞に一言も出てこない「プール」という語は、この曲のタイトルとして完全だと思う。


3. 日なたの窓に憧れて(アルバム『惑星のかけら』収録)

 『プール』では初期スピッツの二人の「達成」を歌にしてしまったような美しさがあったけれど、こちらはもっと身も蓋もない立場の主人公が、もっと完全な達成を目指して願い悶える様が、初期スピッツでも最大のポップさで壮大に描かれている。

君が世界だと気付いた日から 胸の大地は回り始めた

切ない空に浮かべてみたのさ かげろうみたいな二人の姿を

すぐに 気絶しそうな想いから放たれて

タンポポ』であれほど憎んで拒絶された「世界」がいつの間にか「君」にすり替わってしまってる。思い込みの恋のスケールははたから見たら実に小さく、しかし当人からしたら途方もなく大きい。気絶しそうな程のその想いから、本当に放たれる時の妄想がサビで展開される。

君に触れたい 君に触れたい 日なたの窓で 漂いながら 絡まりながら

それだけでいい 何もいらない 瞳の奥へ 僕を沈めてくれ

『プール』では最小限の言葉と音で達成した風景を、この主人公は気がおかしくなりそうな勢いでもって希求する。おそらくこの曲の主人公が『惑星〜』各曲の登場人物で一番弱くどうしようもない感じがするのに、その自分勝手な願いのサイズは作中で間違いなく最大なんだと。天国を落とすよりも、骨の髄まで愛してもらうよりもずっと、この願いは切実でそしてなんか眩しい。

 曲中はずっとシーケンスのフレーズがメリーゴーランドのように旋回し続けていて、そしてそれは2回目サビ後の間奏の後のミドルエイトで、初期スピッツでも最も幻想的でかつ切実に蕩けきった白昼夢の時に変わる。

メリーゴーランド メリーゴーランド 二人のメリーゴーランド

メリーゴーランド メリーゴーランド 二人のメリーゴーランド

ずっと このまま ずっと ずっと

この主人公の朦朧と恍惚の時間を笑う奴はもういい。どれだけ年老いても、この時の常軌を逸した後のような願いの時間を信じ続けられるような気持ちを持っていたい。そんな心境さえ、この曲は歌詞にしてるのかもしれない。

日なたの窓に憧れてたのさ 哀しい恋のうたに揺られて

落書きだらけの夢を見るのさ 風のノイズで削られていくよ

 

希望

 白昼夢による「到達」は初期スピッツの性と死の情念を恍惚に沈めるにあたって最も効果的な手段だと思います。だけども人間、ずっとそんな恍惚の中だけで生きていけるわけではない。こんな身も蓋もない話なんて無視して、ずっと恍惚渦巻く曲だけを作り続ける道も初期スピッツにはあったと思います*6

 しかしながら、スピッツはそういう恍惚だけを追い求めたバンドではなかったというのが実際のところ。そういう要素は初期スピッツの時点でいくらかちゃんと存在していて、その後の「世界」と折り合いをつけて「君」と恋に落ちまくっていく中期スピッツの世界に繋がっていくのだと思います。

 これが8つ目のテーマ。最後に、そんな僅かばかりの希望をたたえた楽曲を3つ、見ていきます。

 

1. ヒバリのこころ(アルバム『スピッツ』収録)

 思うに、ファーストアルバムがあれだけ世界観がぐじょぐじょで気味悪くなってるのは、たとえどんなに気味悪い世界観の曲をたくさん作っても、最後にこの曲があれば折り合いが付く、と踏んでのことだったりするのかもしれない。インディー期唯一のミニアルバムの表題曲であり、初期スピッツが出せるギリギリの力強さをいきなり発揮した、彼らのメジャーデビュー曲。

僕が君に出会ったのは 冬も終わりのことだった

降り積もった角砂糖が溶けだしてた

白い光に酔ったまま レンゲ畑に立っていた

目をつぶるだけで 遠くに行けたらいいのに

ここで出てくる歌の主人公は、白昼夢の中にいた自分を自覚し、目をつぶって遠くに行けるなんてことがないことをちゃんと分かっているし、そんな正常な認識を捻じ曲げて飛ぶほどの状況になっていない。恋にその身を丸ごと投げ出すような感じもなく、いたってフラットな状態にあるように思える。そしてサビで歌う。

僕らこれから強く生きていこう

行く手を阻む壁がいくつあっても

両手でしっかり君を抱きしめたい

涙がこぼれそうさ ヒバリのこころ

逆に言えば、ファーストアルバムはこの実直な少年がどんどんねじ曲がっていく物語だったのかもしれないと思ったりもする。けれども、どんだけ捻じ曲がっても、その根底にはこの曲のような目線があるんだと思うと、正直なんだか安心する。

 

2. アパート(アルバム『惑星のかけら』収録)

 スピッツが“初期スピッツ”の状態を初めて完全に脱した曲が、この『アパート』だと思う。すなわち「世間一般レベルの恋模様の中に自分たちの居場所を見つけた」ということ。

そう 恋をしてたのは 僕の方だよ 枯れていく花は置き去りにして

いつも わがまま 無い物ねだりわけも解からず 青の時は流れて

爽やかなギターポップにのせたちょっと悲しい恋のうた。この歌の主人公的には失恋をして打つひしがれて感傷に浸ってるところなので、特段希望のある状況ではないけれども、しかし主人公がこんな月並な状況で終止する歌を作れるようになったことは、スピッツのセールスにとって、非常に大きな希望になったと思う。ここから「誰も触れない二人だけの国」を建国するまで後もう数年。


3. 飛べ、ローランダー(アルバム『惑星のかけら』収録)

 こっちは、本当に希望を求める歌だ。ザラザラで引きずるような、ゆっくりしたテンポのバンドサウンドの中、歌う。

果てしなく どこまでも続く くねくねと続く細い道を

途中で立ち止まり君は 幾度もうなづき 空を見た

飛べ ローランダー 飛べ ローランダー

棕櫚の惑星へ 棕櫚の惑星へ たどり着くまで

目的地がやや突飛だけども、でも目的地がはっきりと示されたこれは、この「飛ぶ」は、何か別の快楽や逃避に繋がる行為の比喩ではなく、本当に移動しようとする意志の現れだと言える。そしてブレイクしたけどシューゲイズではなくザラザラのギターをバックにしたミドルエイトで、初期スピッツ最後の祈りのようなフレーズ。

白い翼と 白いパナマ帽 渚の風を身体にまとう 夢を見たのさ

 補足すれば、この曲が掲げた「飛ぶ」という概念は、この後も何曲かで象徴的に見られるテーマだ。次のアルバム『Crispy!』においては『黒い翼』という曲で壮大さを背負いながらも力強い決意を表明し、そして次のアルバムはタイトルが『空の飛び方』となるわけですが…。

 

終わりに

 最後のは次の全曲レビュー対象となる『空の飛び方』への繋ぎです。なるべく早く投稿までいきたいです。

 初期スピッツ、この概念がはっきりと存在するのかどうかは結構微妙で、1枚目と3枚目を比べると歌詞の感じは全然変わっているようにも思えます。その変化は当然あってしかるべき変化で、今回はその辺の変化も裏テーマにしながら、様々な特徴を見ていったつもりです。

 「世界に絶望して疲弊して、性と死に溢れた白昼夢に二人で落ちることを妄想する歌の数々」と初期スピッツを断定するのは早計に過ぎすぎるところですが、今回見ていった中で思ったのは、そういうところでした。特に、思いの外世間によって疲弊させられてる様が目立つことと、「移動」という概念が半ば「魂の同化」の比喩として機能していることは今回こうやって書いてて気づきました。ファンの方々には今更な理解なのかもしれませんけども。

 ともかく、初期スピッツについて一応こうやってまとめたことで、次に来る“中期スピッツ”についてもある程度きっちり視点を作って見ていければ、と今後の自分に願うばかりです。

 思ったより文章が長くなってしまって、色々と読みづらい部分が多いかと思いますが、もしなんらかの読んでて楽しい部分とかあれば幸いです。最後に、最近作ったわりとお気に入りの初期スピッツのプレイリストを貼って終わります。今回の曲をすべて網羅してるわけじゃないですけどもよかったら聴いてみてください。

 

*1:一部カップリング曲や初回盤特典の楽曲などは今回漏れています。『エスペランザ』とか。あとインディー時代の音源とかもまあ無いですね。

*2:インディー時代は『ヒバリのこころ』くらいは加えても良かったかもですが今回サブスク化から漏れてるし。

*3:君から盗んだスカート 鏡の前で苦笑いというフレーズも『ラズベリー』に直接繋がっていくものだし。

*4:なので自分から車で出かける『死神の岬へ』みたいな曲は珍しいんです。

*5:たまに『サンシャイン』(歌詞に「都会」と出てくる)のような例外もある。

*6:そんなことばかりしてたらメジャー契約切られてたかもだけど。