ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『インディゴ地平線』スピッツ(リリース:1996年10月)

インディゴ地平線

インディゴ地平線

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スピッツの「インディゴ地平線」をApple Musicで

 

 スピッツの全アルバムレビュー、今回は『インディゴ地平線』です。一番好きなアルバムなので、どうやって書くか相当悩ましく感じていましたが、以下、頑張って書いています。どうぞよろしくお願いします。

 

 今作についてよく言われるのが、「大ヒットの影響を受けての変化・迷走の時期」「初期への回帰」「音が悪い」みたいなところ。それぞれについて部分的に理解できるものもありますし、他ならぬ本人たちがそのように発言している箇所も、特に音については結構あるのですが、色々と個人的に納得できないところ。なので今回は、今作をどう魅力的に感じているのか、結果的に多少独特な視点から提示できるかもしれません。以下の文章が果たして読んだ人に伝わる内容になっているか分かりませんが、ひとまずそんな感じで、少し今までのスピッツ各アルバム評と違う形式で、書いていきます。

 

 

アルバムの経緯

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 大好きなアルバムなのでアルバム周辺の情報も経緯も丁寧に書きます。

 シングル『ロビンソン』のロングヒットとそれに導かれたアルバム『ハチミツ』の大ヒットによってスピッツは一気に邦楽ロックバンドの最高峰にして、当時形成されつつあった”J-POP”なる概念の一角を占める存在になっていました。当時『ロビンソン』の大ヒットを予想もしてなければその後もなかなか実感の湧かなかったメンバーにおいては自然体の録音環境が確保され、『空の飛び方』以来の好調のまますんなり作られることとなった『ハチミツ』には、期せずして大ヒット直後ながら力みのまるでない、自然にハイファイでくっきりとスピッツらしいフォーキーさを纏ったギターポップが並ぶこととなりました。

 

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 その後彼らがどうなったか。流石に『ハチミツ』レコーディング時までの比較的マイペースな環境は消滅し、長期間のツアーと様々な取材・番組出演により彼らは多忙を極めていきます。そんな中で録音・リリースされたシングル『チェリー』がまた大ヒットし、『ロビンソン』の次に売れたシングルになりました*1。その前に『空も飛べるはず』のドラマ主題歌起用によるリバイバル大ヒットもあり、彼らは自他共に認める”スピッツバブル”の真っ只中にいました。

 そんな多忙さの中新アルバムのレコーディングが開始。プロデューサーはアルバム『Crispy!』から続く笹路正徳氏が続投。多忙さの中で、歌録りの時間になっても歌詞ができていなかったり、バンドのギタリスト三輪テツヤが一時期ギターが弾けなくなったりなど数々のトラブルがありつつ、それでもどうにか録音が終了。しかし最後のミックスダウンで、全然バンドメンバーの思った音にならず、四苦八苦の末に、メンバーが音に完全に満足できないままアルバムが完成・リリースされた、という流れです。

 このアルバムの後は、1996年末頃に録音されたシングル『スカーレット』を最後に笹路正徳氏のプロデュースを離れ、1997年以降はカーネーションの棚谷祐一を共同プロデューサーに迎えての、実質セルフプロデュース的な混乱の時期に入りますがその辺は次のアルバム『フェイクファー』の時のお話し。

 

世評

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 上記の流れの中でできたことなどからもあって、今作は以下のような世評が結構あるようです。どこかネガティブ気味なものが多いように思われて、個人的には納得いかないことが色々ありますが、ひとまず整理します。

 

①『ハチミツ』から『フェイクファー』に向かう過渡期

 これは、『ハチミツ』が大ヒット直後のアルバムで、『フェイクファー』が「中期スピッツの終わり」と広く認識されている位置に存在するアルバムであるため、その特徴的な二つの間に挟まれた今作がどこか地味な存在になっている、という意味も幾分か含まれていると思われます*2

 音的にも、「これぞ皆の愛するソフトでキュートなスピッツ」の『ハチミツ』から、そういうのもありつつのちょっとロック目な曲や音楽性を広げんとする曲も含まれる『フェイクファー』に挟まれた今作は、以下に挙げる音質的なこともあって、地味な存在になってしまうのかもしれません。

 

②地味な作品

 ①にもあったとおり、または以下に挙げる音質の問題もあったりで、「地味」と捉える人が案外多いのかもしれません。仮にも『チェリー』が入ってるアルバムだぞ…と思いもしますが、『チェリー』はアルバム最後にボーナストラックみたいな形で収録されていて、曲調的にもミックスの感じ的にも”アルバム本編”の1曲、という感じが薄いところがあります。

 となると、『チェリー』を除いてしまうと、「入ってる有名な曲は後は『渚』くらいの、なんか音もはっきりしない地味なアルバム」と捉える向きがいるのかな、とか思ったりもします。特に今作はアルバム後半が比較的地味目というか、スピッツ王道のポップさから外れた曲が2曲続く部分もあり、そう思われてもいくらか仕方ないところがある気もします。アルバム後半がやや弱いのは、このアルバム大好きな自分も認めます

 あと、草野マサムネ作曲ではない、他メンバー作曲の楽曲が2曲入ってて、それらがどちらもスピッツ王道ポップから結構外れてるのも、もしかしたら大きいのかもしれません。特に片方はアルバム冒頭なので。後述しますが、今作の冒頭、とても良いと思うんですけども。

 

③初期に回帰した作品

 これ時々見かけるんですけど、正直なんでそう思われるのかよく分かんないです。ポップさが強かった『ハチミツ』から幾らかバンドサウンドに復帰した、というところで”初期”に回帰したイメージがあるのでしょうか。

 強いて”初期スピッツっぽさ”を今作に見出そうとするならば、今作における幾つかの曲の情景描写の、質感が渇いていて、妄想とか被害妄想とか欲望とかが乗っていない、淡々と情景を描写している風な歌詞の取り扱いは、ミニアルバム『オーロラになれなかった人のために』の頃に似た質感がある気がします。これは「初期に戻った」というより、言葉からポップなキュートさやときめきの感じ、及び毒々しさを抜いた草野マサムネの歌詞世界は案外こんくらいドライなのかも、という気がしてます。そういうのは中期スピッツにおいても『サンシャイン』『愛のことば』『Y』など所々出てきていて、今作はそういったのがやや濃いかな、程度かもしれません。

 あと、終盤にある今作のメインの作風から外れた2曲は、どことなくアルバム『惑星のかけら』の頃のサウンドを思わせるところがあります。スピッツがハードなサイケやハードロックをする時の感じ、というか。

 あと今作は、初期から続いて前作にもある程度あった「扉の向こうに行けずに世界から隔絶されたぼく」みたいな自意識はあんまり出てこない気がします。これは後でもう少し詳しく書きます。

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④音が”悪い”

 「地味」という印象には、このファクターが大きく関係していると思われます。

 『ハチミツ』の楽曲で多々見られた、キラッキラでツルッツルな音の質感が、今作には全然見られないのです。むしろ、どこか全体的にくすんだような、籠ったような音が今作の基調となっています。ブライトでエネルギッシュな音でないことは、多くの人たちから「このアルバムのスピッツ、音に元気ないよね」と思わせることにつながったかもしれません。メンバーの回顧録*3を読んだりすると、この時期からしばらく後まで「『空の飛び方』『ハチミツ』では自然に出来ていたキラッとした音が出なくて、なぜか”暗い音”になってしまう」ということでバンド全体がずっと悩み続けます。

 ただ今作の音は、そもそも音作りの段階からしてこれは明らかに他の作品から音を変える意思があったよね…?と思えるレベルの違いだと思うんです。詳しくは後述しますが、むしろこの音質こそ、今作を他のどのスピッツの作品とも違うものにする仕掛けのひとつだと思っています。

 なお、それでもリリース当時の盤が何故か録音レベルが低く、前後のアルバムの楽曲と混ぜて聴くと今作の曲だけボリュームが下がるようになっていた、という面での”音の悪さ”もありました。これは2002年の再発で全アルバムリマスターされた際には改善され、他のアルバム楽曲との音量さは気にならないようになっています。

 

個人的な推しポイント

 上記の世評を幾らか知りつつ、一部確かにそれはそうだな…と認めつつ*4も、それでも筆者はこのアルバムがスピッツで一番好きなわけですが*5、各楽曲を見ていくより前に、自分が今作の何を好きなのかを、少々整理しておきます。実際は、以下の点は分解できるものではなく、それらが渾然一体となって、言葉にしたくもないようなえも言えない”情緒・情感”を作り上げていて、それが今作を大好きな直接的な理由であることにご留意ください。

 

A:ノスタルジックなローファイさ

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 大事なことなので最初に書きます。音が悪いのではないんです。ノスタルジックな質感を音に反映させようとした結果、程よく高音の削れた、モコモコしてくぐもった、枯れた風な音になっているんです。そのローファイなギターロックの抒情的な様が、今作がどうしようもなく他のスピッツの作品と違っているところです

 程よく中域のみ残されたスッカスカなギターサウンド*6、少し遠くから聴こえてくるようなボーカルのリヴァーブ処理、この二つを中心として、今作の『チェリー』*7以外の楽曲はきちんと一貫性のある音質でまとめられています。メンバーは何故か音が悪い暗いと言うけれど、まさかキラキラな音にしようとしてこんな全体的に黄昏た風な音になった訳ないでしょ。まさか本当にキラキラにしたかったのに偶然こんなスカスカな音になったの…?

 彼らが半ば狙ってこのサウンドにしていたとして、それにしても、上のローファイの記事でも書いたけれど、キラキラなサウンドで売り上げ絶頂期の彼らがよくこんな思い切ったローファイなサウンドを選択したな、そしてそれが通ったな…と思います。このどうにも替えの効かないローファイサウンドは、音量レベル等が改善された2002年のリマスター再発盤でも特に損なわれているようには思いません。というか上述のとおり、リリース当時の盤は音量レベルが何故か低いので、他の作品の曲と混ぜて聴くときはリマスター盤推奨です。まあ、サブスクの場合は全音源リマスター盤前提なので問題ありませんが。

 

B:水彩画のような楽曲・サウンドのサイケデリア

 上の音作りのローファイさとも関係するけれど、今作の楽曲自体にしても、溌剌としたところがメロディや展開でも目立った『ハチミツ』と比べても、その奥行きのあり方や展開のさせ方が実に今作的だと思います

 この辺はうまく言葉にしづらいところですが、ファンタジーの世界ではなく、幾分現実的な光景の中を登場人物が過ごしてるような、そんな気だるさと果てしなさとが感じられる楽曲が、今作には幾つか収録されています。たとえば、広大とした感覚と心細さの中にロマンチックさが染み込んだ『インディゴ地平線』から、”海”というモチーフをどこまでも幻想的に広げていく『渚』の流れは、スピッツの他のどのアルバムでも味わえない類の世界観の広がり方で、それは初期のような残酷さを前提とした曖昧な世界でもないし、『ハチミツ』までの妙にブライトな妄想の世界でもなく、なんだかよく分からないけれども延々と終わりなく果てしなく続いて行ってしまう世界を、なんとかきみとぼくとで歩くなり溶けるなりしていこう、という、世界に対峙するロマンチックさがあります。もちろんその対峙の仕方があまりにスピッツ的ではありますが。

 あと、『虹を超えて』の淡々とドライブするような質感も、実に今作的な画が浮かぶような楽曲。

 

C:渇いた情景描写に旅情・詳細な相手描写・淡い感情描写

 やはりスピッツのレビューとなると歌詞の話は外せないんですが、今作は歌詞の面でも色々と例外の多い作品だって気がしてます。上でも触れましたが、描写される情景がどうも妄想の世界というより、もっと現実的な光景のようなのです。実際今作以後、スピッツの歌詞の舞台は夢や妄想の世界ではなく、もう少し現実的なところで展開されていきます。それは大ヒットによりメジャーな存在となったことによる変化だったのかもしれません。

 今作の歌詞で特徴的なのが、彼らの歌詞でもつきものな「君」の存在を、今作では比較的色々と描写している、ということです。この点についての詳細は各曲レビューに譲りますが、これは、長いこと思い込みの世界に生きて、自身の欲望なり妄想なりを「君」に押し付けがちだった「僕」というスピッツのスタンスが大きく変化し、相手の様子とかを見るようになってきたということなのかと思われます。大ヒットにより「自分たちを聴いてくれてる人たちは確実にいる!どんな人たちだろう…」と思い馳せるようようになってきた、ということなんでしょうか。

 そして、上でも少し書きましたが、そんな妄想ではなく具体的にそこに存在している「君」と歌の主人公である「僕」の間の交流は、前作までの妄想じみた、妄想だからこそブッ飛ぶことのできた具合ではなく、もっと地に足のついた、旅的な光景とそこでの淡い感情として綴られます。そう、歌詞においては全然初期の回帰などなく、むしろお茶の間にまで浸透するほどの大ヒットにより、妄想から引き摺り下ろされた感さえある「僕」が、「君」とどうにかこうにか”困難な”世界を渡ろうとする、その中での出来事でありストーリーである、というのが、『インディゴ地平線』各曲で綴られる物語なのかな、と思います。

 

一言で

 以上をまとめて書くと、現実的な光景を現実的に存在する「君」と一緒に旅をしていこうとする様を今作的なローファイなサイケデリアで描く」というところが、突き詰めると今作が最高なところなのかもしれません。

 

本編

 随分前置きが長くなりましたが、ここからようやく、アルバムに収録された12の楽曲をそれぞれ見ていきます。

 

1. 花泥棒(1:50)

 三輪テツヤ作曲の短い尺でパワフルで残念な風に疾走するこの曲が冒頭に置かれている、ということが、今作の異質さを物語る。アルバム『Crispy!』以降、彼らのアルバムは冒頭にライトでポップな曲で始まる、というのが習慣化してたけど、同じ軽さでもこの曲はもう少しヘンテコというか投げやりというか、よく言えばパンク的というか。草野ボーカルは初期を通り越してインディー時代を思わせる投げやりさを垣間見せ、またメンバー総出のタイトルコールもバカバカしさが利いている。アルバム世界にいきなり入るんじゃなくて、軽い導入みたいな役割。しかも、力を抜いて聴いてね、って言わんばかりのラフなはしゃぎっぷり。『ロビンソン』『チェリー』路線のスピッツを求めてアルバムを手に取った人は「?」ってなるであろう仕掛け。

 でも、この曲がただ捻くれて遊び呆けて、『ロビンソン』以降のファンに砂をかけるだけの曲だとは全然思わない。冒頭に出てくる、このアルバム式に心地よいスカスカ具合で鳴らされるギターの、静かに「これまでのキラキラポップ路線とは違うんだよ」と主張するような響きは、それが鳴った瞬間に空気を密かにこのアルバム色にする。ビートが入ってきて始まるヘッポコな乱痴気騒ぎはちょっとばかり、このバンドが元々はパンクを志していたことを思い起こさせるし、実はベースは疾走ビートの下でいつになく自由自在にうねり倒しているし、乱痴気騒ぎの雰囲気はよく聴くと入っているボンゴでより演出されている。ボンゴはブレイクでここぞとばかり存在感を示し、演奏が再開したと思ったらタイトルコールを何回かした後あっけなく曲が終わってしまう。エレキギターのジャーン!と弾き切った余韻もすぐに引いて、実質曲間無しで次の曲のイントロに繋がる構成になっていて、このバトンタッチの鮮やかさは小気味良い。

 このテキトーぶった乱暴さで曲タイトルが「花」に関連するもの、というのもスピッツ的なものを感じる。好きな人に花を渡す、というのは普通のことだけど、この曲ではそのためにどっかから盗もうとしてる、その変な方向への思考はスピッツ的。

 

走るよ ありったけ 力尽きるまで 花泥棒

逆に奪われて すべて奪われて 花泥棒

 

珍しく現実的に頑張ってるのに、突如「逆に奪われて」みたいな残念な話に落ち込むのも面白い。ところで、これは花をあげようとしている「君」に逆に全て奪われる、ということなんだろうか。そう考えるとちょっとエロい感じもするし、または単に花を盗もうとした花屋に逆襲される話なら、それはそれでバカバカしい。

 でも、こんなヘンテコな歌詞の中にも、さらりと今作の「夢や妄想でない」世界観が示される一行が忍び込ませてある。

 

ああ 夢で会う時は すごくいいのにさ!

 

「すごくいい」って何の話だよ!?とは思うけど、大事なのは、盗んででも花を渡そうとしているのは妄想ではなく現実的にそうしようとしている、ということ。これまで、スピッツの歌の中の君と僕の関係性がどこか妄想の中の一方的な関係だったりしたところを思うと、何気にここでの一歩は重い。この曲で茶化しながら上の一行で触れたことを真正面から劇的に昇華した楽曲が後の『フェイクファー』だと言えてしまえるくらいには。

 

2. 初恋クレイジー(4:10)

 ハチャメチャな前曲からほぼノータイムでこの曲の落ち着いたピアノのイントロに繋がるのが好きだ。この曲が1曲目に来るよりもずっといいし、バンドらしからぬピアノイントロも、前曲があったからこそ嫌味なく響く。

 楽曲としては、ポップス職人としての草野マサムネの一面をサラッと表現してみせたものになっている。ピアノイントロといい、サビのドレミファソラシド的に上昇するメロディといい、どこかPaul McCartney的な、シックなチャイルディッシュさを感じさせる。ピアノの音は端正ではあるが、バンドサウンドが入ると一気に今作的なローファイさに包まれるから、そのサウンド作りの的確さに少々驚く。特に、重めに歪んでるのに徹底的にスカスカにされたギターカッティングが地味に効いてる。

 メロディ運びも歌詞の感じも、多くの人たちが望むであろう「可愛くてポップなスピッツ」を適切になぞっていく。しかし、低い音から始まりテンポよく高音まで駆け上がっていくサビメロや、そのサビメロの最後の方が不穏なコード感になる箇所など、王道すぎるラインを絶妙に逸脱していくのが面白い。あと、サビに入る箇所のドラムフィルインの鮮やかな楽しさは、スピッツ崎山龍男という優秀な「フィルインで歌える」ドラマーを抱えていることをさらりと示している。

 最後のサビ前のミドルエイトの箇所の、少しばかりぼんやりとサイケがかったミックスになった箇所は、今作的な、幻想的なんだけど現実と陸続きにも感じられる微妙なノスタルジックさを表現した今作での最初の場面だろう。そこからサクッと最後のサビに繋がり、そして例の不穏なコード感のまま終わってしまうのは、牧歌的に感じられたこのポップな曲へのちょっと気の利いた裏切り方だ。

 歌詞的には、割と前作までのような「想像だけど、君に向かっていきたい」なスタイルで、本作特有の現実的に「君」と旅してるような感覚はこの曲には無い。ただ、あくまでも願望を示していて、妄想の中で完結していないことは、やはり今作以降の現実的になっていく歌詞の流れに沿っている。それは一方では寂しいことであるし、一方では進歩でもある。

 

泣き虫になる 嘘つきになる 星に願ってる

例えば僕が 戻れないほどに壊れていても

 

今作は現実的な世界を歩んではいるけど、歌の主人公は割といつも、自分がこれから壊れていくことへの覚悟を胸に秘めている。これまでは既に壊れているの前提だったような気がするけど、今作はそうではない。そこに今作ならではのロマンチックさがあることは、次の曲で大いに証明される。

 

3. インディゴ地平線(4:21)

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 まだ3曲目だというのに突如現れる、いつになく荒涼として見通しの果てしなくなってしまうような光景。このアルバム特有の”奥行き”を決定付ける、いつになく現実的に心細い景色の中を、いつになく力強く歩いていこうとする名曲スピッツNeil YoungU2のような荒野の世界を歩こうとする曲、とも言えるかもしれない。歩き方は何ともスピッツらしさに満ちているけれども。

 曲の冒頭、一斉にバンド全パート演奏が始まるのに、全然溌剌としてない、カラッカラに乾いた風なくすんだ足取りなところに、スピッツらしからぬ荒涼とした雰囲気がある。しかしながら歌の入る前も入った後も、コード感的にはどこか明るいものがあり、どっしりとした、雄大な世界観がぼんやりと広がる。歌が入ってからも、Aメロの間はギターのバッキングがカラカラに歪んだギターのアルペジオ中心で、コードカッティングが入ってこないことに、この曲の荒涼具合が表現されている。溜めの効いたドラムもベースも、緊張感というよりは、この曲の茫洋とした感覚を上手く描き出してる。逃避行的な歌詞はこれまでのスピッツの曲でも色々とあったけど、この曲の程よく現実の光景に紐づいてそうな幻想的な荒涼感は格別のもの。

 メロディの展開の仕方の重量感が実にいい。ギターはコードカッティングに徹し、伸びやかなボーカルのみが地平にへばりつくような演奏の中から立ち上がっていく。2回目以降はそこからさらにメロディが発展してさらに高音に伸びていき、その精一杯の高揚がメロディの最後、宙ぶらりん気味な低音に落ち着いてから間奏に繋がっていくのにどこか現実的な重量感を感じて、この「妄想の世界をどこまでも伸び上がっていく」訳ではない、現実の重力に身体を引かれ続けてる感じが、この曲のリアリティだと思う

 荒涼とした”夏”を彷徨うような間奏、陽炎じみたギターソロから、リズム隊が消えてジリジリしたアルペジオの中最後のAメロが始まるのも実に美しい。白昼夢のような表現は初期からずっとスピッツの得意とするところだけど、ここの白昼夢感もやはり、現実の光景の中で意識がぼんやりするような感覚で、これまでと幻想の風味が決定的に異なっているように思える。

 歌詞を読む。ファンシーさの無い、むしろどこか残酷めいた言葉が並ぶところは、今思うと以前のアルバムの『サンシャイン』や『愛のことば』等と世界観を共有するような雰囲気もある。つまり、ポップな可愛らしさ・悪戯っぽさ・自虐を取り除いた、純粋に冷酷に世界を切り取る草野マサムネの視線だ。

 

歪みを消された 病んだ地獄の街を

切れそうなロープで やっと逃げ出す夜明け

 

ただ、『サンシャイン』『愛のことば』からさらに進んで、この曲では「君」と手を取って、その残酷な世界から抜け出すために歩いていこうとする意思が、他2曲よりも力強い具合に現れている。

 

君と地平線まで 遠い記憶の場所へ

溜め息の後の インディゴ・ブルーの果て

 

寂しく長い道をそれて

時を止めよう 骨だけの翼 眠らせて

 

やはり脱出の方法についての言葉の並び方が特殊すぎて、相変わらずスピッツの歌詞だ…って感じがしてこの辺は本当に、他では味わえないような感慨がグッと来る。

 

逆風に向かい 手を広げて

壊れてみよう 僕達は希望のクズだから

凍りつきそうでも 泡にされようとも

君に見せたいのさ あのブルー

 

この辺の、壊れることで解放される何かに手を伸ばそうとする逆説に、よく分からないけども実に理解できるロマンチックさがある。何より、どんな目にあっても「君にあのブルーを見せたい」という気持ちで君と一緒に旅をしてるのは、あまりにロマンチックすぎではありませんか。アルバム『インディゴ地平線』は、他のスピッツには無い類のロマンチックさの中を旅するアルバムなんだと思ってる

 個人的には、この曲の情景が何となく理解できた段階で、このアルバムの全部の印象が急に変わった。アルバムタイトル曲は伊達じゃない。この曲の印象が「だるくてくすんでるつまんない曲」から、この染みるようなボロボロさが全身に感じられるようになって、急に、このアルバムの世界が見えた気がした。

 

4. 渚(4:48)

www.youtube.comPVはシングルバージョンです。

 ひたすら現実的・物質的な荒涼感のあった前曲から一気に転回して、魂だけになって幻想の”夏”の中を彷徨うようなこの曲に切り替わるところのダイナミックさ、そして不思議な解放感・浮遊感。今作でも最も聞き手のロマンチックが揺さぶられまくる流れだろうと思う。そしてこの曲自体も、スピッツのシングル曲の中で『青い車』と並んでイマジナリーな魅力に溢れまくった大名曲。奇妙だけど鮮やかな幻想に迷い込んだようなPVの映像も実に美しい。

 シングルバージョンよりイントロが長くなったアルバムバージョンでは、冒頭から曲中ずっと反復し続けるモコモコしたシーケンサーが鳴り始める。『日なたの窓に憧れて』以来のThe Who『Baba O'Riley』形式のシーケンサー活用だけど、ここでの活用方法は本当にイマジナリーさが極まっていて、これを軸に爽やかなギターカッティングが漣のように重なったり、ベースも波のようにうねっていくのは、彼らがここで奇跡的なほどに”夏”を音楽で表現し切っている印象を抱く。特にギターの様々なダビングのいちいち幻想的で爽やかで美しい様は、三輪テツヤ氏のギターオーケストレーションでも最高峰ではないか。カッティングとアルペジオの効果的な使い分け、程よくポップさとリゾート具合と幻想性とを繋ぐロングトーン等々、ここでの貢献は枚挙にいとまがない。ドラムもまた普段の8ビートではなく、タムを多用したトライバルなビートでもって、この”夏”の感じに冒険っぽさと精霊っぽさとを付与している。

 そして楽曲自体。草野マサムネのソングライティングの中でも特異点と言えそうな、他に類例がないほどに、無駄が削ぎ落とされ、ソフトで美しい幻想性だけが残されたようなコード感とメロディ展開には、静かに圧倒される。言葉を詰め込みすぎないメロディ配置は、特にサビで極まっていて、このサビのメロディは何気にスピッツの全楽曲の中でも屈指の高音まで駆け上がる箇所*8だけど、ソフトな歌唱は”声を張り上げる”感じをまるで出さず、実に自然にその音程に到達する。

 この曲の更に素晴らしいのは、晴れやかな”夏”の感じを歌のセクションで表現しつつも、間奏やアウトロのセクションでは、”夏”のサイケな奥行きに魂を持ち去られてしまいそうな、そんな危うさも表現し切っていること。特にアウトロのコードが翳っていく様は、鮮やかだった”夏”のイメージが海の深いところに消えていくような、そんな寂しさと、そしてどこか計り知れない根源的な恐ろしさも感じさせてくれる。そんな中でこっそりヒロイックに躍動するベースラインが健気で良かったりもする。

 歌詞については、これもまた『青い車』と同様に、イマジナリーな光景と願望と妄想とが混ざり合った、草野マサムネの歌詞でも最高峰の世界観を有している。何もかもが美しい飛躍に満ちていて、全文抜き出したい欲に駆られるけども、少しずつ見ていく。

 

ささやく冗談でいつも 繋がりを信じていた

砂漠が遠く見えそうな時も

ぼやけた六等星だけど 思い込みの恋に落ちた

初めてプライドの柵を越えて

 

いつの間にか彼が得意とするようになっていた「初恋の甘酸っぱさを死ねる程に詰め込む」手法も、ここまで自由に柔らかいイメージで彩られて、本当に、しれっととんでもない次元で言葉が繋がれていて、読むたびに嘆息する。

 

風のような歌 届けたいよ

野生の残り火抱いて 素足で走れば

 

「野生の残り火」なんていう、まるで意味が分からないけれども、なんか幻想的でどうとでもロマンチックになってしまう語句の、静かな物凄さ。そんなものを挟みつつも、「素足で走る」という情景で”夏の渚”をしっかりと想起させる。

 

ねじ曲げた想い出も 捨てられず生きてきた

ギリギリ妄想だけで 君と

水になって ずっと流れるよ

行き着いたその場所が 最期だとしても

 

この曲は今作では例外的に、妄想の世界での恋だということがはっきりと歌われている。逆に歌われる光景をはっきりと「妄想」と歌の主人公が認識しているのは、やはり以前までと違うところか。その妄想の世界で「君」と一緒に「最期」まで行き着いてしまうところは、初期以来の死生観を久々に感じさせるようでもあるし、またはこの曲も『青い車』と同じようなタイプの逃避行なんだろうか、と考えさせる。ここの「最期」という一語が、曲調と相まって、この曲をソフトな質感のまま一気に霊的なところに持っていく。

 

柔らかい日々が波の音に染まる 幻よ 醒めないで

渚は二人の夢を混ぜ合わせる 揺れながら輝いて

 

このサビのフレーズは、邦楽の歌詞でも有数の美しいフレーズだと思う。主人公は、この歌の美しさを「幻」だと、「妄想」だと、痛いくらい理解してしまっていて、だからこそ上記二行目の想いの淡い切実さが響く。草野マサムネがかつて大学の教授から聞いた「渚とは海でも陸でも空中でもないエリア、だけど海も陸も空中も関係し合っているエリア」という話からこの歌やフレーズを着想した、というエピソードも含めて、あまりに美しすぎる瞬間。

 本曲は『チェリー』の次のシングルとしてリリースされ、『チェリー』の半分くらいのセールスを記録したけれど、こんなアーティスティックでソフトにサイケな楽曲をシングル曲として仕上げて、多くの人に受け入れられている、というのが、この時期のスピッツの何気に物凄いところだと思う。類似する曲調のシングル曲は無いし、アルバム曲でもこれほどまでに徹底してイマジナリーに極まってる曲は稀で、ちょっと本当に信じられないくらい名曲*9。様々に音楽性を模索していたであろう中期スピッツサウンド的な最高到達点、という気もする。スピッツの曲を1曲だけ選べ、と言われたら、この曲と『青い車』とでしばらく迷い倒すだろうな。この曲だけ単独の記事にしても良かったかもしれない。

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5. ハヤテ(3:15)

 本作特有のあまりに早すぎるアルバムのピークを越えた後に緩やかに連なってくるこの曲。前作における『涙がキラリ☆』の後に雰囲気を変えず自然に連なった『歩き出せ、クローバー』のように、この曲もまた前曲の幻想風味を壊さない程度に、実に今作的なローファイさとぼんやり具合を宿したバンドサウンドで流れを淡々と引き継いでいく。曲自体もさることながら、そんなアルバム内での位置的な役割のシブい具合が好きな曲*10

 夏っぽい煌めきを宿しながらも、この曲ではコード感は程よく宙吊りにされ、曲展開もヴァース→ブリッジの繰り返しで程々にミニマルに展開し、どこか淡々とした調子で過ぎていく。その淡々とした具合はまるで、様々な可能性と期待を夢見てたはずの夏が、別に何も無いまま淡々と通り過ぎていくかのような、程よくぼんやりとした虚しさが感じられる。歌のメロディも、盛り上がりすぎないくらいに少しセンチなメロディを潜らせたりして、この辺の匙加減の巧みさは『空の飛び方』から枚数を重ねたバンドの作曲能力のナチュラルな高まりを思わせる。

 そんな”淡々としていること”こそが目的のような楽曲の中で、間奏の箇所から歌詞のないミドルエイトの部分への流れが少し様子が違っていて、その淡いピーク具合もまたこの曲のシブい作りを感じさせる。割と大味感のあったこの曲のギターワークの中で間奏のキーボード的なミニマルな反復はセンチメンタルだし、そこからコーラスでこれまでと別の少しサイケなコード感に変化していくところは、ブレイクなどはしないから白昼夢っぽさが強くなりすぎないところにこの曲っぽい良さがある。そしてまた元のメロディ展開に戻り、最後のヴァースの歌い終わりとともにサラッと終わってみせる。そのあっさり加減のファンは実は結構いるのでは、と考える。

 歌詞の方も、劇的なことは別に起こらなくて、淡い気持ちを募らせていくだけという具合が実にこの曲らしい。

 

気まぐれ 君はキュートなハヤテ

倒れそうな身体を駆け抜けた

 

「君」について「キュートで倒れそうな感じ」という描写。今作の「相手のことの描写が増加した」ことの一環ではあるけど、それよりも「身体を駆け抜ける」というワードのナチュラルな意味不明さが面白い。性的でもそうでなくてもどうとでもイメージできるこの辺の加減は、やはりこの時期特に極まってる。

 

なんとなく君の声が聞こえて

はりきってハートを全部並べて

かっこよく鳴り響いた口笛

振り向くところで目が覚めた

 

君と僕との、いまいち具体的にイメージしづらい交流の様子が描かれたかと思ったら、あっさりと「夢でした」と明かす、この辺の軽やかさもこの曲的。だけど、そんな夢を越えて、「でも会いたい気持ちだけが 膨らんで割れそうさ」と連なる、その「会いたい」のは現実の世界でってことなんだから、やっぱりこの時期の現実に着地しようとするスタンスがここでも垣間見える。

 

6. ナナへの気持ち(3:43)

 アルバムの山場の余韻を前曲で消化し切ったあたりで出てくる、実にユルくて呑気な感じのする、本人曰く「コギャル賛歌」らしいこの曲。『インディゴ地平線』の切迫感や『渚』の幻想的な感じはなんだったんだ…ってくらい一気にユルユルになるけど、音的なローファイさ・全体的な雰囲気としてのローファイさは保たれる。

 謎な女性の声から始まって、もっさりしたミドルテンポのバンドサウンドの中、キラキラするギターの横でマヌケ気味に鳴るオルガンの響きが、この曲のコミカルさをどこか象徴している。タムをハスハス引きずるドラムも、草野マサムネの呪文じみたボーカルも、どれもダラダラと気怠げな感じで、そこにちょっとだけThe Beach Boys風のコーラスが入るのは少々ギャグの領域。ギターの単音気味なリフといい、少しサーフプップ的な仕掛けが施され、結果としてミドルテンポのこの曲にいい具合の脱力感をもたらしている。

 サビのメロディで、この曲における「君」であるところのギャルの名前を高らかに歌い上げるところは中々にシュール。だけどそんなサビメロからシームレスにAメロに繋がるので、この曲もこじんまりとしたポジションの曲としてアルバムに配置されている感じがする。間奏の女性のおしゃべりを早回しにしたような何かは、後にベースの田村昭浩の妻になるFM福岡ラジオDJの人。冒頭の声も同じ人か。

 歌詞は、本人の言うとおり、当時流行していたコギャル的な容姿をした「君」に愛を捧げてる歌。真面目に考えるのが馬鹿馬鹿しくなるコミカルさが売りだけど、そんな「君」の外見についての描写が延々と続くAメロの様子は、珍しいといえば珍しい。

 

ガラス玉のピアス キラキラ光らせて

お茶濁す言葉で 周りを困らせて

日にやけた強い腕 根元だけ黒い髪

幸せの形を変えた

 

この、どの辺まで本気で言ってるのか分からない結論がこの曲のユニークさ。

 

街道沿いのロイホで 夜明けまで話し込み

何も出来ずホームで 見送られる時の

憎たらしい笑顔 よく分からぬ手振り

君と生きていくことを決めた

 

「何も出来ず」って、何をするつもりだったんだよ…。終いには「君と生きていくことを決めた」とまで歌っていて不思議になるが、でも草野マサムネが当時のコギャルのことをどう思っていたか本当のところはよく分からない。割と本当に、自由奔放さにリスペクトを捧げてるかもしれない*11。この記事を書いてる現代風に言うなら「オタクに優しいギャル」的な要素も、もしかしたらあるのかもしれない。

 ちょうどこの曲まででアルバム半分。今作はLPでも曲順が変わらず、ここまでがA面となっている。

 

7. 虹を越えて(4:14)

 アルバム後半を軽やかに駆け出していく、今作的なローファイな旅情の感じを象徴する楽曲。個人的にはこれも名曲だと思ってる。

 真夏の気だるさそのものみたいなコード感で、平坦なビートで進行して、冒頭のギターフレーズの歌メロをなぞってるだけなのに、まるで地中海かどこかの沿岸を走ってるかのような、いい具合に安っぽいファンタジックさからいきなり好き。海沿いの知らない町を車でゆったりドライブするような、そんな情緒がこの曲にはずっとある。Cmaj7とFmaj7のコードを繰り返すだけの、Ⅰ→Ⅳの繰り返しだけど、この進行やっぱりシンプルなのに適度に憂いを帯びた綺麗な情緒がある…。乗るメロディの淡々としつつも抑揚の効いた具合も良い。

 ブリッジの箇所でメロディが軽やかに飛翔して、それが着地するのがそれまでの情緒的なコードを無視した「F→G→A♭→B♭」という強引な上昇コードの中、というのが、この曲の大きな特徴。それまでの軽やかなドライブ感はここで断絶され、そのゴツゴツしたコード感の中で這い上がるようにタイトルコールが為されるところに、この曲のヘンテコな面白さがある。「虹」という言葉を題にするからにはもっとカラフルで晴れやかなメロディにしても良かっただろうに、冒頭から煤けたようなコード感で進行して、メロディの末尾でこんな濁ったコード感に「虹」という言葉を託す色彩センスが、とてもいいなって思う*12

 同じ展開のようでこっそりとよりボサノバ的なコードに変わってる間奏の後にまたAメロのメロディが出てきて、そこから元のⅠ→Ⅳに戻ってまた間奏に入る、という仕掛けも、この曲のあっさりとして品のあるドライブ感に寄与してる。そこから食い気味に始まるラストのブリッジ、そしてどんどん縦ノリが強くなって曲が終わる様は、そんなに派手な曲ではないんだけども、スッキリとやり切った感じがして爽やかになる。

 歌詞。この曲は今作の旅情めいた部分のもうひとつの要で、冒頭から、タイトルと対比させた色彩感覚とともに、シリアスめいた逃避行の場面をさらりと描き出す。

 

モノクロすすけた工場で こっそり強く抱き合って

最後の雨がやむ頃に 本気で君を連れ出した

 

この曲で歌われている光景は、少なくとも歌詞の中では妄想だとされていないので、実際にそのように逃避行が進行していくと捉えられる。

 

虹の向こうに 風に砕けて

色になっていく 虹を越えて 虹を…

 

この辺のやはり、言葉としては分からないようで感覚としてはなんか分かるような言語センスは実に草野マサムネ。「風に砕けて 色になっていく」というフレーズは『インディゴ地平線』の「逆風に向かい手を広げて 壊れてみよう 僕達は希望のクズだから」と似ている感じがあって、この時期彼の中で「壊れる」ことが何かのブレイクスルーの象徴のようになっていた雰囲気が伺える。

 

8. バニーガール(3:50)

 今作きっての可愛らしいパワーポップ。元々はシングル『チェリー』のカップリング曲で、アルバムにも再録されることとなった。おそらくはカップリングからミックス等変わっていると思われるけど、カップリング版を聴いたことが無いのでよく分からない。ただ、このアルバムで聴かれるバージョンの音の質感は実にこのアルバム的なローファイさになっている。それは冒頭のパワーポップ然としたギターサウンドのショボさからも分かるはず。そしてこのショボさが、この曲には実に合ってる。

 パワーコードかな?って具合のギターがずっとグリグリ鳴り続けて、メジャー調のコード進行でポップにAメロからサビまで突き抜けて行く、シンプルに爽快感のある楽曲パワーポップ調の曲はこれまでにも前作の『グラスホッパー』をはじめいくつかあった訳だけど、メロディの展開のポップさやサビのパワーポップ的ないじらしい一生懸命さなどは、この曲が一歩抜きん出てるかなって思う。これより後に出てくるパワーポップタイプの曲と比較すると、今度は今作ならではのローファイなギターの音やミックス加減が絶妙で、実は何気にこの曲もスピッツの他の曲では替えの効かないパワーポップなのかな、って思う。というかスピッツのシンプルなパワーポップ路線の曲ではこれが一番好きかも。

 ゆったりとメロディを膨らませるBメロからキャッチーな王道進行のサビに繋がるのは、正しくジャパニーズなパワーポップしてる感じ。というか、この曲全体に言えることだけども、異常に『HAPPY BIVOUAC』以降のthe pillowsっぽい感じがする。順番で行けばthe pillowsの方が後なのでアレなんだけど、メロディ回しからも歌詞からもすごくピロウズ味を感じるのが不思議で面白い。

 歌詞がまた、「バニーガールな君を僕が救い出して一緒に堕ちてってあげる」という、最後の「堕ちる」がなければパワーポップ男の子!って感じの歌詞。まあスピッツなら「一緒に堕ちる」のは当然だよなあ、って気もする。

 

寒そうなバニーガール 風が吹いて

意地悪されて 震えていた

恋は恋は 何故かわがままに

光のシャワーを 闇に向けた

 

ちょっとばかり可哀想な「君」の舞台設定を早々にしたためて、主語が「僕」なのか曖昧なまま「光のシャワーを闇に向け」る行為をしてしまうすっ飛び方にこの曲の小気味良い勢いを感じる。

 

夢見たあとで 夢に溶けた

灯りを消して 一人泣いた

「いいなあ いいなあ」と人をうらやんで

青いカプセルを噛み砕いた

 

この、夢の後でさらに夢に溶ける、という、言い回しは格好いいけどなんかダメダメな感じのする言い回しもユニークで面白い。かと思えば「青いカプセルを噛み砕いた」の箇所の怪しいような病んでるような何なのか具合。全体的にART-SCHOOLの歌詞を可愛らしくしたようでもある。

 

Only you 世界中が口を歪める 君に消される

Onlu youの合図で 回り始める 君と落ちてく

ゴミ袋で受け止めて

 

そしてサビのこの、「Only you」とか言って勢いがいいんだか全然ダメダメなんだか分からないような様子の可愛らしさ。助けようとしてたはずの「君に消される」って何なんだ、スパイ映画か何かなのか?でも結局はバニーガールの君と逃げて落ちてゴミ袋で受け止めてほしい、なんていう、ヒロイックなんだか受け身なんだか自虐的なんだかエロなんだかよく分からないような、この勢いの具合に、実に男の子なパッションを感じられる。中期スピッツって本当に「弱くてクズい男の子の音楽」だなあって思う。

 

9. ほうき星(4:11)

 ここから2曲は、アルバムのここまでの軽やかな流れから展開が変わって、よりディープな感じになるというか、言い方を変えれば、この曲と次の曲はちょっとこれまでの繊細さと異なる荒っぽい存在で、申し訳ないけどアルバム後半を少し地味なものにしてるかな…と思ってしまう。好きな人には申し訳ない。ただ、そのゴリゴリした曲調で地味な具合には、初期のアルバム『惑星のかけら』の中盤の幾つかの曲の感じがオーバーラップする感じもある。バンド的にも、ソフトな存在である自分たちがヘヴィ目な曲をどう作るか、というトライアルの出発地点じみている*13

 この曲はベーシスト田村昭浩氏による楽曲。彼はこの曲以外では後のアルバム『隼』収録の『俺の赤い星』を作曲していて、どちらもスピッツ的にはヘヴィ目な曲であることは間違いない*14。この曲はそのヘヴィさが、調性が曖昧な、スペイシーなサイケ曲として発出されていて、冒頭のぼんやりと伸びるシンセベースか何かの音からしてヘンテコな雰囲気を急に醸し出す。Aメロのリズムの取り方も8ビートを変則的にバラしていて、ジャズじみたサイケさでスペイシーさを演出している。

 この曲のダイナミズムはそんなスペイシーさから、サビで直進的な8ビートに変化していくところ。ワウギターに派手なコーラス、うねりまくって上昇するベース、草野マサムネ押韻の効いた歌唱などが合わさって、結果としてこじんまりとしたカオスになっている。もしかしたらもう少し後の時期にこの曲を取り組んだ方が、この辺の奇妙なアレンジは活きたかもしれないと思ったりする。

 歌詞も、これは草野マサムネが書いてるけれど、Aメロは曲調に合わせてか、どこか言葉の連なりの焦点が合わない感じがして、サビでは前述のとおり単語の押韻でゴリ押すような作りになっている。

 

今 彗星 はかない 闇の心に そっと火をつける

弾丸 桃缶 みんな抱えて 宙を駆け下りる

 

突如スペイシーな歌詞になるのも、今作の基調とはちょっと異なる感じ。あとは「弾丸 桃缶」の韻の踏み方をユニークに感じるか「スケジュールキツくて色々限界だったのかなあ」と邪推してしまうかどうか。

 

10. マフラーマン(3:37)

 ジャケットのバイクに跨る女の子はこの曲のイメージから想起されたものらしいけども、この曲自体は「颯爽とバイクに跨り旅する曲」という感じではなく、ハードロック的なリフゴリゴリの曲展開にスピッツを合わせるトライアルと、仮面ライダー的なヒーローのイメージとを掛け合わせた怪曲。やはりこの、挑戦してるけど結果なんかシュールというか、少々もどかしい感じになってる具合は『惑星のかけら』の同系統の曲が想起される。

 リフのゴリゴリ具合はネットリとしてて結構本格的なもので、メンバーが元々ハードロックが大好きなメンツが多いことが分かるような自然さがある。そこに乗る草野マサムネのボーカルはしかしまあいつもの具合で透き通っていて、このミスマッチ具合を楽しめるかどうか。サビではリフではなくアルペジオ中心で展開するのでよりミスマッチが深まる。ミドルテンポのメロディはでもこの曲でもとりわけヒロイックでロマンチックになる箇所で、そこからまたゴリゴリのリフに戻るのはちょっと可笑しい。

 ミドルエイト後の間奏では尺八じみたフルートの音も聞こえてる。ますます『惑星のかけら』の中盤みたいな感じになっていく。最後はゴリゴリのリフをバッサリ切って終了。少し間を置いて、アルバム本編最後って感じの次曲に繋がっていく。

 歌詞は、これもかなり勢いで書いたのか、むしろノリノリでアホな勢いで書いたのか、かなりユーモラスさの強い内容。

 

赤いマフラーが 風を受けて

燃えるほどに スピード上げていく

肌を刺すような 光浴びて

ずっと僕は走り続ける

 

マフラーマンってお前(この歌の主人公)なのか…。草野マサムネという人が自分のことをヒーローとして書くはずもなく、2番では容赦のないイジリが加えられる。

 

泣き疲れて いやな思い出も

みんなまとめて すり潰してく

軽い判断で 放つブラスターで

健全な悪を 吹き飛ばしてく

 

マフラーマン エスパーが君を襲う

スポンサーの後悔を超えて

 

この情け無いやら、みっともないやらな感じ。特に「スポンサーの後悔を超えて」ということは、どうやらこのヒーローは不人気のようだ。ダサそうだもんね。そういう格好悪さも含めてネタにした、なかなか奇妙な曲。アルバム前半のセンチメンタルな感じはどこに行ってしまったんだ…という気持ちにもなるけど、慣れてきたらゲラゲラ笑って聴ける。

 

11. 夕日が笑う、君も笑う(3:30)

 なんかヘヴィでシュールだった前2曲から急に仕切り直して、今作的なローファイさの範囲でキラキラとアルペジオが旋回し、センチメンタルに疾走する、実質的に本作本編の流れの最後を担う曲スピッツのアルバムの多くで最後は軽快な曲で締められるけど、明らかにそういう系統の曲。やっぱこの後の『チェリー』はボーナストラックと考えておいた方が自然。

 元気のいいギターカッティングとアルペジオの交差するイントロから、真っ直ぐな8ビートで曲もメロディもキビキビと進行し、爽やかながらリズムのキメも入ってくるサビにスッと接続していく、今作でも最も明確に明るい曲。本当にやたら明るいギターロックで、これもどことなく進行やメロディがthe pillowsっぽさある。今作の象徴であるローファイないなたさのギターは相変わらずそういう音でサクサクと刻んでいき、バックのリフもどこか角が取れた優しい音をしている。

 そして、Aメロでちょっと悩ましげに短いメロディを反復し、サビで伸びやかに突き抜けていくメロディの爽やかさ。どこかぼんやりした調子のアルバムの最後に置くと気持ち良さそうな、最後にしか置けなさそうな、純粋に爽やかで屈折の少ない勢いがスッと通り過ぎていく。

 歌詞的にもぼんやりと現実世界を旅をしてきた今作の締めのような、夢オチでも妄想オチでもない、「君」への希求こそブレイクスルーだと信じて突き進んでいく内容。

 

ここにいる 抱き合いたい ここにいる

やたら無邪気な演技で 泣けちゃうくらい

求める 胸が痛い 求める

君はいつも疲れて不機嫌なのに

 

夕日が笑う 君も笑うから 明日を見て

甘いしずく 舌で受け止めてつないでいこう

 

居ても立っても居られないほど「君」を求める主人公と、疲れて不機嫌な「君」の非対称さには不穏なところがあるけれど、まあ「君」も笑ってるし、おそらくはその「君」の「甘いしずく」を舌で受け止められてるし(結局エロかよ!)で、純粋にポジティブな感じになっている。

 

怖がる 愛されたい 怖がる

ヘアピンカーブじゃ いつも傷ついてばかり

さまよう 何も無い さまよう

中途半端な過去も 大切だけど

 

何気に今作の現実主義的なスタンスの根本にあるのは、この辺の歌詞にあるナイーヴさだったのかもしれない。特にさまよう 何も無い さまよう」とサラッと歌われる「中途半端な過去」という虚無の存在は、完全にポジティブに吹っ切れるのを繋ぎ止める鎖としてなかなかにゾッとする表現。結局、本当にしっかりと吹っ切れるには、次のアルバムの最後に置かれた凄絶な『フェイクファー』での「箱の外に出て行く」ことを経るのが必要だったのかな、という感じもする。

 とはいえ、長らくアルバム内の淡い世界を旅し続けてきた果ての、このどこか現実的で健全な落とし所は、作品のささやかな締め方として実にスピッツ的な生真面目さとシャイさを感じさせる。

 

 

 

 

 

12. チェリー(4:20)

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 …という訳で、前曲でアルバムのストーリーが完結した後に、蛇足のような、ダメ押しのような、ボーナストラックのようないでたちで現れるご存知大ヒット曲。まあアルバムのセールスを考えるに、この曲を外すっていう選択肢は無かっただろうし、かといってスピッツ史上でもとりわけハイファイでブリリアントなこの曲を、ローファイでくすんだ質感が魅力のアルバム本編のどこかに配置できる気もしない。無理矢理入れるなら、この位置しか無い。

 軽やかなドラムのフィルから大人しげに始まって、少しハネを感じさせるような落ち着いたビートの上を、端正で王道な草野マサムネのボーカルとメロディが抜けていく。AメロとBメロが分け隔てなくくっついたようなメロディの展開からスッとサビに移る。サビではマイナーコードからの始まりなのにそう感じさせない華やかさが声からもメロディからも感じられて、フォークソング的な情緒よりももっと賑やかな質感にほんのりと幸福な質感が感じられる。

 間奏ではギターソロは無く、その後バンドサウンドの代わりに一気にオーケストラが入ってきて、そのまま最後のサビを華やかに染めて、歌の終わりと同時に余韻を残してサラッと演奏が終了する。このシンプルで小気味よい展開が歌詞共々、この曲を『ロビンソン』の次に売れた曲にまで押し上げたのかな、と思う。

 歌詞について言えば、日常風景から宇宙の風になるとこまでブッ飛んだ『ロビンソン』に比べるとこちらはもっと現実的なところがあって、幻想的な風景をちょっと忍び込ませながらも「君を忘れない」から始まる物語は、明確に誰かとの何らかの”別れ”を書き出していく。そして”別れ”が新しい”始まり”になっていくように、という祈りも込められて、そんなスピッツ的な屈折や飛躍の少ない素直な歌詞が、多くの人や多くのシチュエーション、たとえば卒業式とか、そういうのに受け入れられたんだろうと思う。もはや日本国民の「みんなのうた」のひとつとなってしまった感のあるこの曲の歌詞について細かいことをどうこういう気は無いけど、でも終盤の「ズルしても真面目にも生きていける気がしたよ」という箇所は、ギリギリのところでスピッツらしい、スピッツだからこその、スピッツが歌うからこそのポジティビティーがあって、このフレーズを多くの人が胸に秘めて生きていけるんなら、世の中もそんなに悪く無いかな、って気持ちになる。

 

どんなに歩いても たどりつけない 心の雪でぬれた頬

悪魔のふりして 切り裂いた歌で 春の風に舞う花びらに変えて

 

あと、ミドルエイトのセクションのこの一節は流石のスピッツ節。ここで「春の風に舞う花びら」なんていう可憐な語句が出てくるのが中期スピッツの優れたJ-POP性。そしてこれがやはり春の季節の歌なんだな、ってことで、やっぱり卒業とかの別れなんかと接続しやすいようになってるんだなって気づいた。

 

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総評

 以上、11曲+1曲の12曲、トータル46分弱のアルバムでした。

 流石に今回は冒頭で色々と書いたため、今から更に色々と書き進める内容はもう残ってないんですが、やっぱり最後の『チェリー』を外して考えないと、アルバムとしての作風が見えてこないな、と感じます。もっと言えば、突如『惑星のかけら』めいた作風になる『ほうき星』『マフラーマン』の2曲も、アルバムカラーを見出す上では分かりにくい。とはいえ、作品のバリエーションを広げてもいるので、不要とは思わないです。『チェリー』は不要やろ…

 上述の弊ブログのローファイ記事でも書いたとおり、個人的なこのアルバムの位置付けは「日本の抒情派ローファイロックを代表する名盤の1つ」です。これを唱えてる人を他に知らないのでいつまで経っても心細い気がしますが、どう考えてもこのアルバムの楽器の録音やミックスはローファイになるよう仕掛けられているようにしか思えません。メンバーが「どうしても音が良くならなかった、明るくならなかった」などと本作に向けて発言しているのが、全然理解できない。そうなるつもりで作ったんじゃないのかよ…と、かなりずっと困惑を引きずり続けています。

 当時の制作陣が意図していたか否かはもう置いておいて、今作には、ローファイな音によってどれほどナチュラルなサイケデリアやノスタルジックさが喚起されるか、という効果が全編的に効いていて、いつ聴いても彼らが作り出した「架空の、でも妄想の世界ではないどこかに対する郷愁」が湧き上がります。そこでは、願望と入り乱れた妄想が抜け切らないままぼんやり歩いてる「僕」と、時にはどこまでそれに同調してるのか分からないけども連れ添って歩く「君」がいる訳で、それこそなんだか、ちょっとしたロードムービーのような世界を眺めているかのようでもあります。ブレイク前後で鍛えられた”初恋”という技法のこともあって、見方によっては「初恋の想い人と一緒に、曖昧なまま”夏”を旅するロードムービー」みたいな現実ではありえないようなシチュエーションにも感じられて、シチュエーションの実験音楽めいたものにも感じられます。

 人には様々な「こういうのがロマンチックだ」って思う対象があって、それには万人が同じように思うだろうなっていうのと、これが自分だけのものだったらいいのにな、でも誰か他に分かってくれればいいのに、という類のものとが、その両極の間の様々なグラデーション含めて存在してるんだろうと思いますが、このアルバムはぼくにとって、その片側の極のような存在です。許されるなら、このアルバムのロマンチックさの中にずっと埋没していたくなる、そんな存在。男の子っぽさの強い中期スピッツの作品の中で、最も男の子っぽさの突き抜けた作品だと信じてます。

 

 以上です。このアルバムは本当にレビューの書き手それぞれで書いてあることが様々に違っていて、なんか”定説”みたいなのがあまり見当たらないところが面白いですね。最後にこのシリーズの常であるところの、参考にさせてもらってるブログの記事を貼って終わります。

blueprint.hatenadiary.com

 次は多くのスピッツファンが、公式に言われている訳でもないのに少なくない人たちがある程度把握している「中期スピッツ」概念の、その終わりの時期だと捉えているアルバム『フェイクファー』になります。

 

追記:『フェイクファー』のレビュー書きました。

ystmokzk.hatenablog.jp

*1:約161万枚。『ロビンソン』は約162万枚。

*2:個人的には、年表で音楽聴いてんじゃねえよちゃんと中身を聴けよ、と食ってかかりたくなるような気持ちもちょっとあります。

*3:スピッツの各メンバーが綴った『旅の途中』など。

*4:やっぱ後半は少々弱いと思います。

*5:「最高傑作」とは言いません。そもそも「誰もが認める最高傑作」よりも、「自分はとにかくこれが好き!」みたいなのの方が楽しくていいじゃないですか。

*6:今作のギターは全て三輪テツヤによる演奏。一時期弾けなくなる程苦しみながらも、本当に素晴らしいギターを全編で演奏してくれている。コードカッティングの音の絶妙に感傷が滑り込んでくるスカスカさは芸術だなーってほんと思う。

*7:この曲もアルバムから極端に外れた音質はしてないけども、でもアレンジ上、豪華なホーンセクションのことなどもあり、やっぱりアルバム本編とは別の位置にある音であり曲であるなあ、って印象が強いです。

*8:カラオケでこの曲を歌おうとして、サビの高音で音が出ないか、出ても声を張り上げざるをえず、原曲の感じが出ない…と悔しい思いをした人は無数にいるはず。

*9:ものすごく完全に余談だけど。当然この『渚』という題の先人の果てしない名曲の存在を痛いほど認識した上で、自分たちも同じ『渚』という題の曲を作ったシャムキャッツの勇気は、評価されるべきものと思う。あっちの『渚』もバンドの代表曲として恥じないだけの美しさと刹那さとがある。

*10:こういうのが感じられるためにも、やっぱりアルバムというフォーマットは必要だと思う。

*11:その自由奔放さが援助交際とかそっちの方に逸れていくとまた違うのかもしれないけれど。それともそれも含めて肯定するのか。よく分からない。

*12:そういえばこのアルバムより1年後くらいに出るラルクの『虹』もまた、カラフルとは真逆の重厚でゴスな雰囲気の曲だった。

*13:ちなみにこのトライアルはしばらく後のアルバム『隼』の時期にひとまずの完成を見る。逆に言えば今作の次のアルバム『フェイクファー』でも、同様の挑戦をして、十分な成果があったと言いづらい状況が続いていく。メンバーのサウンドに対するもどかしさがピークに達するけれど、その辺はやはり『フェイクファー』のレビューの際に。

*14:そういえば、どっちも「星」がタイトルに入ってて、確かにどっちもそんな重力的なイメージのある曲かも。