ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

楽曲をミュート/カットで終わらせる手法(40曲)

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 この記事は題名に悩んだのですが、要は先日記事にした「フェードアウトで終わる楽曲」の真逆のパターンの手法の曲を示したい記事になります。

ystmokzk.hatenablog.jp

ystmokzk.hatenablog.jp

 楽曲というものはひどく大雑把に言って、以下の3つの方法で終わります。

 

①フェードアウトして終わる場合

②完奏して楽器や声の余韻が残って次第に音がゼロになる場合

③唐突に演奏や声が途切れて、余韻もなく終わる場合

 

今回は③について考えていく記事、ということになります。例を示すために40曲集めて、そして最後に例によってプレイリストを提示します。

 なお、記事の趣旨が「余韻なく終わらせること」についての記事なので、この記事自体も極力冗長にならないよう、無駄な余韻が出ないよう努めてまいります。余韻を消すため、脚注も一切つけません。

 

 

なぜ曲を唐突に終わらせるの?どんな効果がある?

盆栽を剪定しているおじさんのイラスト

 前のフェードアウトの記事では、楽曲をフェードアウトで終わらせることによってどんな効果が出るか考えました。延々と演奏が続いてるように思わせることができることによって、「永遠の感じ」だとか「停滞感」「果てしない感じ」とかそういうのが演出されるんだろうと考えられます。

 同じように、突然演奏をフッと終わらせることによっても、色んな効果が得られる訳です。作り手も、頭で考えてかもしくは感覚的に、そういうことを狙ってこういった仕掛けを施している訳です。

 

手法について

 楽曲を断ち切り型で終わらせるのにどんな手法があるか。強引に言えば、以下の3パターンに大別できるものと考えます。

 

A スッと演奏が自然に立ち消える

 下のBとの違いは「演奏者が意図的にミュートした感じ」が強いかどうか。特に、押し続けていなければ音が出ない楽器、オルガンやそういう設定のシンセ・打ち込みなんかだとこういう効果が得られます。アコギ等のアコースティック楽器も演奏の止め方によってはフッと自然に余韻を消すことができます。

 

B アンサンブルが意図的に・強引にミュートする

 演奏陣がタイミングを合わせて同時に楽器をミュートしてる場合。ガレージロック/パンク的な荒々しさが感じられる手法ですが、それがどんな演奏の中でどういう風に出てくるかによって、破壊的にも虚無的にも可愛らしくも聞こえる、今回の記事でも一番多い演奏の消し方です。

 

C トラック自体を強引にカットアウトする

 この手法は、演奏によって発生する上二つとは全然違って、録音後のトラック自体に編集でハサミを入れることによって発生します。楽器のミュートによって音を消した場合はそれでもミュートした音が余韻として残ったりするものですが、この手法の場合はそもそも録音物の音量を瞬間的にゼロにする、ということなので、非常に不自然な楽曲の途切れ方をします。その違和感にこそ価値を求める際に使用する手法と言えますし、また同じく演奏ではなく編集における手法であるフェードアウトと真に真逆の関係にあるのはこの手法のみです。

 

効果について

 じゃあ、どんな効果が得られそうか。今回は先に洗い出しておきます。あと以下の効果と並行して、急に演奏を止められるので、楽曲の演奏時間ギリギリまで歌が入る・歌のセクションを詰め込める、という利点もあります。演奏時間の短い歌ものの曲だと演奏をざっくり終わらせることで尺を節約してることが多々見られます。

 

①あっさりして呆気ない感じ

 普段ならジャーン、って楽器の余韻を残しそうなところがスッと消えちゃう感じ。時にそれはちょっとお茶目な風でもあり、もしくはやたら寂しげ・虚しげな風にも響きます。

 

②キメ的に使用してストイックさや衝撃を演出するような感じ

 バンドのアンサンブルをバシッと終わらせることによる一体感・スッキリ感や、強烈なアンサンブルを一瞬で終わらせることによる無情感・壮絶さ・冷徹さなどが楽曲の雰囲気に応じて醸し出されます。

 また、上で少し書いたとおり、楽器を急にミュートしてもそれはそれで「急にミュートした」音が残りますので、その余韻自体こそ響かせたい・聴かせたい、ということもあるかと思います。

 

③ミュートの中で特定の音を響かせたい感じ

 演奏はミュートして最後の1音、ドラムだけとか声だけとか、そんな具合に残る、みたいな場合があります。ドラムの場合はバンドが一斉に終わるのとは違った呆気なさが出てきます。ミュートしたギターのフィードバックだけ残る、みたいないかにもオルタナティブロック的なのもこれか。

 歌の最後の一言を際立たせたい時に使われる場合、”声”という一番記名性の高い音が、しかも場合によっては言葉付きで残ることになるので、時折少々エグくてナルシスティックな感じが出てしまいます。だがそれがいい

 

④無骨で無機質・無情な感じ

 演奏によるミュートでの終わらせ方はいかに強引であろうと人力の感じがありますが、もっと強引な手法によって学科欲の無音化が為されると、そこには不自然な無骨さ・無機質さ・無常感が現れます。それは時にシュールだったり、使い方によっては狂気的だったりする感覚が生じるようです。打ち込みのシーケンスがプツッと途切れるとか、DJ的な音の切り方をするとか、トラック自体にハサミを入れた場合が該当します。

 

本編

 それでは、例によって年代順で40曲を見ていきます。上で行った分類のどれに該当するかを「A-①」とかそういった形で示していきます。

 

1960年代

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 1960年代って、ポップスからの流れで「楽曲はとりあえずフェードアウトさせとくもの」みたいな意識が強い時代だしどうなんだろ…と思って探したけどそこそこ見つかった。どことなく後のオルタナ・インディーロックに結びつきやすそうなメンツ。

 

1. Little Pad / The Beach Boys

(1967年 アルバム『Smiley Smile』 A-①)

 膨大な経費と人員と時間を動員しても革命的な作品になる予定が、首謀者がダウンしたことで急遽、間に合わせのアルバムを宅録的に作成するハメになった彼ら。チープな音色やヘロヘロで唐突な楽曲にまみれたアルバムは、しかしながら逆に世界でも最初期のインディーレコードみたいな存在に結果的になってしまったのは歴史の不思議。

 この、手元のピアノとマイクとSEだけでどうにかしました、感ある楽曲は、しかし当時の首謀者の天才的なサイケ感とグループの見事なコーラスワークによって、世界のどこにもない変な時空のリゾートミュージック、みたいな情緒を帯びた。気だるく落ち着いたハミング、急に心細くなるメロディ。そんな変な夢みたいな光景は、取り止めもないくせに妙にスルッと、全ての音が同時に立ち消えてしまう。その、グループが意図したわけでもなく自然に一斉に立ち消える感じが、やっぱりこの曲は夢だったんじゃないか、という印象を強くする。

 

2. Break on Through(To the Other Side) / The Doors

(1967年 アルバム『The Doors』 B-③)

 当時拘っていたのか何なのか、The Doorsの1stはフェードアウトする曲が1曲も存在しない。全ての楽曲をちゃんとバンドが完奏させる。幻惑的なイメージの割に、当時としては例外的に意外とハッキリした楽曲の終わらせ方をしてる連中だ。2ndからはフェードアウトの曲も混じってくる。

 それで、アルバム冒頭に置かれた、まさにタイトルの如く突き抜けんとする楽曲は、ジャズ的なスウィングした演奏なのに強引にロック的な直進8ビートに抑え込もうとするギクシャク感とその上を伸びていくJim Morrisonのボーカルこそが聴きどころだと思うけど、その直進の最後、Jimが言葉にもならない呻きを何度か発した後に、ボーカルも楽器も一斉にミュートして終わるのは、バンド全体の躍動感をアルバム冒頭で表明するのにトドメのような機能を果たした

 

3. What Can I Give You / Margo Guryan

(1968年 アルバム『Take a Picture』B-①)

 ソフトロックというものの持つイモっぽい要素を抜き出すと、この曲みたいな田舎の楽隊の演奏みたいな感じになるのかな、と思う。柔らかで繊細な演奏の楽曲が主軸となるアルバムの中で、幾つかのサイケデリックな楽曲とはまた異なる、牧歌的なアクセントをここで作り出している。トランペットの可愛らしさや、町の観衆みたいなガヤが入るのが、素朴な楽しさの空間を形作っている。

 そんな楽しそうな光景のバンド演奏なんだから楽しさを永続化させるためにフェードアウトさせりゃいいのに、とも思うけど、この曲の場合、逆にバシッと可愛らしくバンドが一斉に止むと、観衆が拍手と歓声を上げる様が挿入され、これはこれで”ノスタルジックな”賑やかさが表現されてるのか、と感心する。

 

4. I Want You / The Beatles

(1969年 アルバム『Abbey Road』C-④)

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 後期The BeatlesにおけるJohn Lennonはずっと最悪で、薬物中毒の中でもがき苦しみまくっていた。彼の才能はそんなどん底の状態さえ有効に攻撃的でドロドロな楽曲・サウンドに昇華してしまうことが『The Beatles(The White Album)』。の頃までは可能だったけど、だんだん酷くなって、『Abbey Road』にはまともな曲は2曲しか収録できなかった。片方はChuck Berryの”パクリ”の『Come Together』で、もう一方はドロドログダグダのブルーズのこれ。

 しかし、才能ある音楽集団なので、このグダグダを可能な限り攻撃的でノイジーなものに仕立て上げようとした。シンセを用いたテレビの砂嵐みたいなノイズはこの曲のテンポチェンジ後の陰惨に這い回り続けるような情緒を十全に表現し、そしてそんな終わりのない苦しみの演奏をどう終わらせるかについては、作曲者自ら「ここで切れ」と叫んだというカットアウトによって物理的にトラックが寸断され、苦痛の情感が”死”をもって終わったかのような感覚にさせてくれる。誰がこの”音楽の強制終了”を録音作品で最初に行ったのかは知らないけど、ここでのJohn Lennonは間違いなくこの手法を有名にした第一人者だ。まあこの曲の終わり方は怖すぎるけども。

 

5. Fallin' Ditch / Captain Beefheart & His Magic Band

(1969年 アルバム『Trout Mask Replica』B-②)

 1960年代の終わりに”間に合ってしまった”、非道な人力による混沌、それが彼らの作品だ。昏いユーモアと混沌を好んだ協力者のFrank Zappaも、協力の末にこういう作品が出てきたのをどんな気持ちで見てたんだろう。大歓喜したのかな。

 このアルバムが適当な演奏の上に言葉を乗せているだけでないことは、ちゃんと演奏を聞いてれば理解できる。The Shaggsの無意識の混沌とは異なり、ここでの演奏は無茶苦茶なようで、きちんとギリギリのところで噛み合っている。そこには地獄のような付き合わされたメンバーの”強制労働”があったようだが、その成果が例えばこの曲の、無茶苦茶な演奏を重ねてるようでありながらしっかりと全パートが同時に演奏をミュートして終わる曲展開に現れている。もはや作曲とアレンジの境界線が分からなくなるような話だけども。

 

1970年代

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 前半は1960年代の続き。1977年以降は、パンクで、かつ同時にすぐにポストパンクも始まっていることには注意を要する。年表だけ見たらパンクとポストパンクって同時発生か…?って気になってしまう。そして、パンク以降の「冗長さを拒絶し、呆気なく曲が終わることに開き直りのような潔さを感じる」雰囲気が、楽曲の終わらせ方に大きな転換を起こしていく

 

6. God is Love / Marvin Gaye

(1970年 アルバム『What's Going On』 C-④)

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 ソウルミュージックは結構長いこと、フェードアウトが定番となってたんじゃなかろうかと、この前のフェードアウト記事の時に思った。本当に実に多くのソウルミュージックがフェードアウトで終わる。それは、ショービスされた世界観であることも関係するのかなと思った。粗暴さではなく洗練、となると、ぶつ切りよりも穏やかな減衰を好むのかなと。

 …これは何だ?超有名な名盤の一角にある1分40秒程度の作品は、延々と流麗なソウルミュージックの高揚感の部分だけを切り取ったように進行し、「いい雰囲気だけど、一体どうやって1分40秒で終わらせるの?」と思ってると、実に唐突なところでトラックが終わって次の曲が始まってしまう。次の曲も同じような雰囲気の演奏の曲だけど、BPMが結構違うので、上手な繋ぎとは思えない。最初は再生機器の不調を疑ったけど、でも何をどう調べても、この曲はあそこで唐突に途切れるのが仕様みたいだった。確かに歌の単語は言い切っているから切っていいのかもだけども…。今回のリストで最も首を傾げる終わり方をするのはこの曲。

 

7. ニコニコ笑って / 大瀧詠一

(1976年 アルバム『Go! Go! Niagara』 A-①)

 1符40秒程度の曲がたまたまこのリストでは連続してしまった。こっちはきちんと1分40秒台という短い尺の中に展開をキッチリ収め切ったもの。ソウルミュージックの華やかな情緒をシャッフルビートとめんどくさいおっさん調の歌詞とでいい具合に間の抜けた感じに仕立て上げてしまうのはこの時期の彼らしいユーモアだし、しかしそれにしても中々しっとりと歌ってくれてるのでムードの意外と悪くない、そしてやたら短い、不思議な立ち位置の曲だ。

 そして、2回目の歌の繰り返しが終わった後、メインフレーズみたいなのをホーンが描いてから、華やかにジャ〜ン!って終わらせりゃあいいのに、何故か剽軽にサッと音を切ってしまう。この逆張り的な展開がこの曲の尺の短さを強化しているし、押し付けがましくない情緒の感じというか、気の利いた心地いい小回り感を生み出している。とぼけてるようで、もしかして大瀧詠一の曲でこの曲が一番お洒落じゃないか…?

 

8. White Riot / The Clash

(1977年 アルバム『The Clash』 B-②)

 演奏スタイル的な視点でパンク、という場合、The Ramones式のパワーポップタイプ、Sex Pistols的な強引にギャリギャリさせるタイプ、そして初期The Clash的なストイックにスポーティーにやるタイプとがある気がしてて、The Clashの1stというのは3つ目の系統のまさに王道にして聖典のようなもの。The Blue Heartsをはじめとする日本のそういう系統も結局はここが大元でしょ、と思う。Sex Pistolsに感じるような調性の強引な感じが少ないのがこの系統の特徴。The Ramonesほどバカにはなりきらないけども素直なパンク。

 「白い暴動」ってどういう意味なんだろうな、とちょっと思うこの曲はまさにそういうのの代表曲みたいなやつ。タイトルを合唱する際の勢いはまさに一蓮托生の仲間としてのバンドの感じに溢れている。そしてそんな一丸となった存在が、演奏を止める場合は一斉に止める、というのもなんだか理に叶った話のように思えてくる。こういうスポーティーさを脇にやって不健全になっていく『London Calling』以降の方が全然好きだけど、それはそれとしてこの時期のスポーティーさの価値はしっかり分かっておきたい。

 

9. Ghost Rider / Suicide

(1977年 アルバム『Suicide』A-④)

 The Clashがああやって”爽やかに暴動”やってる裏で、こんな不気味な人たちもいたんだなあ、というのが1977年の不思議なところ。機械的なシンセの反復に何かしら言葉のある声を乗せて”楽曲です”と言ってしまえる発想的転換も凄いけど、何より楽曲に原初的な恐ろしさが備わってるのが面白い。シンセで行う闇との遭遇、シンセで行う悪魔信仰、みたいなおどろおどろしさ。

 冒頭のこの曲の、歌の伴奏とは思えない、どっかの工場のノイズを持ってきて強引に歌を乗っけましたこれもロックンロールですよね?という感じのスリリングさ。そして「ところでこの工場のノイズ、どうやったら止まるの?」と思ってたら突如なんか止んだ、みたいな楽曲の終わり方も、バンド表現からは出てこない類の呆気なさ・無機質さがある。近年日本のTHE NOVEMBERSがカバーしてたけど、原曲と比べると彼らのはどんだけインダストリアルっぽくてもやっぱバンド演奏だなあ、って思った。そりゃそうか。

 

10. Feeling Called Love / Wire

(1977年 アルバム『Pink Flag』 B-③)

 The Clashが云々の裏で、こんな”ぎこちなさ自体”でバンドやってる人たちもいたんだなあ、というのも1977年の不思議なところ。パンクと同時にポストパンクも始まってたのかなあ、と思わせる。というか、彼らの場合「演奏を始めたばかりで下手なことを逆手に取ってミニマルな展開を…」などと言われるけど、まずなんでそんなもの逆手に取れるのか。あと、リマスターのせいかもだけど、ギターの音がいきなり後のオルタナティブロック的なクランチ感があるのもセンスありすぎる。

 コード感からギクシャクな攻撃的な曲も結構あるけど、この曲は彼らが時折出してくるポップサイドの曲。普通に「いい曲」になるコード進行とかもちゃんと知ってるんだな、やっぱ初心者ってのはウソだろ、って思う。なのでこの曲の、同じポップなメロディを繰り返したまま1分20秒弱でザクって終わることも、実はそのポップソングらしからぬソリッドさを目的とした的確な行為なのでは、と考えてしまう。The Clash的なスポーティーさのミュート合奏ではなく、もっとニヒルでしてやったり感のあるそれ。

 

11. Natural's Not in It / Gang of Four

(1979年 アルバム『Entertainment』 B-②)

 ザ・ポストパンク、って感じのザラザラなギターっぷりの彼らの1stも1970年代のうちにリリースされていて、ポストパンクという語には1980年代より前の印象がある。1980年代以降はもうちょっとこうシンセがフワーっとしてゲートリバーブのスネアがこうバンバンする感じの、ニューウェーブの時代っていう印象。マジで印象論でエビデンス無いですよ。

 ザラザラでザクザクしすぎてパーカッシブな存在感でもあるAndy Gillのギターはこの曲でとりわけ出だしからザクザク刻みまくっていて、ああ、Gang of Fourを聴いてるなあ、って気持ちにさせてくれる。特にブレイクしてギターカッティングだけ残るところが最高。そしてこの延々と反復するカッティングが歌の終わり早々に他のバンド演奏とともに唐突にガッて感じにミュートしてしまう呆気なさもまた、実にポストパン。素っ気ないからこそ鋭くなるんだよなあ、という手法の原風景のひとつなんだろうな。

 

1980年代

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 ニューウェーブって感じがするのは1980年代も前半までで、後半は次の1990年代の下積み、みたいな印象がある。1990年代で大いに花開くジャンルの種蒔きの時代、というか。だから、1990年代以降に毛嫌いされた1980年代っぽさって、前半の話なのかな、とか思う。

 この記事的なことを言えば、ストパンクによって生まれた「唐突な楽曲の途絶の美学」がより確立され、応用される時代なのかな、という印象

 

12. Spellbound / Siouxsie & the Banshees

(1981年 アルバム『Juju』 B-②)

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 Siouxie & the Bansheesっていう綴りがなんか分かりにくくて敬遠してたんですが、この曲が入ってるアルバム『Juju』はめちゃくちゃ格好いい。女性ボーカルのニューウェーブで、呪詛的なリズムと、Magazine等でも有名なギタリストJohn McGeochの鋭角さと繊細さとエフェクティブさとを自在に往復しまくるギターサウンドが交錯して、ダークな中をスリリングに躍動していく格好良さ・面白さがある。

 アルバム冒頭のこの曲からそういうノリは全開で、P.I.Lや『Closer』のJoy Divisionのような呪詛的なダークさの中をボーカルとギターが突き抜けてくるのは、勢いも切迫感も凄い。勢いに爽やかさが全然無い・不気味な疾走感なのも素晴らしい。そしてそんな獰猛な勢いの締め方が、あんな何かに引っかかって生き絶えるかのような唐突な演奏終了というのがまた、いい具合に神経に来る残酷さがある。冒頭からこんな調子で、そんな緊張感が終盤まできっちりと続いていく。個人的にはMagazineでよく分からなかったJohn McGeochの凄さがようやく分かった。名盤だなあ。

 

13. 手掛かり / Yellow Magic Orchestra

(1981年 アルバム『テクノデリック』 A-④)

 この1個前の記事で語り足りなかったのか、とばかりにYMO時代の細野さん(+高橋幸宏さん)の楽曲。YMOの作品では『テクノデリック』が一番好きで、ミニマルの名の下に坂本龍一はすげえ怪しい民族舞踊(日本の”体操”も含めて)を持ち出してくるし、細野・高橋組はもう少し整然としたトラックで拮抗してて、『BGM』以上に緊張感があって、かつ不思議な寂寥感がある。人を食ったようなユーモアセンスが出てこなくなったのも大きいのかも。

 硬質なビートに定期的に反復する4音のシーケンスフレーズのメカメカしい尖り具合が実に格好いい。歌メロの出てくる箇所の不穏さで溜めて、あのフレーズが入ってくる箇所で一気に心地よいクールネスを放ってくる。ひたすら直線的なパーカッシブさが色々と打ちつけてくる終盤、最後に例の反復シーケンスが鳴った後、演奏が全て立ち消えるところの「徹しきった」具合は、不思議と爽やかな気持ちにさせられる。

 

14. Close to Me / The Cure

(1985年 アルバム『The Head on the Door』 A-④)

 もうちょっとニューウェーブ的な曲でこのバンドを出そうと思ったけど、この曲の終わり方が見事だったのでつい。やっぱ『The Head on the Door』好きだな。一枚通して完全に好きなThe Cureのアルバムっていったらこれだなあ、ってなれる、程よい全体の尺や曲調の広さ、あと冒頭が『Between Days』なのも最高に聴きやすい。絶対入門編はこれがいい。『Kiss Me, Kiss Me, Kiss Me』を最初に聴かせるとか可哀想やん。

 ポップ転向以降の「ファニーなThe Cure」も彼らの大きな魅力で、そっちサイドのシュールな良さをチープなリズムトラックとシンセと、そして剽軽な作曲とで軽やかに象ったのがこの曲。ホーンの被るシングル版よりもホーン無しのチープなエレピ頼りのアルバム版の方がこの曲の小さくて可愛い感じがよく出る。そしてずっと同じ剽軽でシュールで特に盛り上がる展開があるわけでもない調子のまま、終わりの時間が来たのでハイ終わり、って具合にスッと演奏が止むのがとても自然。ちなみにアルバムだとこの次が壮大な『A Night Like This』の静かなイントロなので曲順も完璧、最強。

 最近、長年のメンバーがまた脱退したらしい。残念。。

nme-jp.com

 

15. Oomingmak / Cocteau Twins

(1986年 アルバム『Victorialand』 A-①)

 独特の幽玄なサウンドを確立した1980年代中期のCocteau Twinsサウンドも佇まいも異形で孤高の存在のような感じで、同じくそんな感じなFishmansと比較して言うなら、アルバム『Treasure』は『空中キャンプ』で、そして『Victroialand』は『宇宙 日本 世田谷』みたいに感じる。彼女たちの場合この後も作品を出してるけども、でも格別に”別世界”してたのはやっぱこの2枚。そして『Victorialand』収録曲の、ファンタジックすぎて異形のものになりすぎな音世界。ここまで来ると上手いこと模倣することさえ難しい領域になってくる。リズムが減退し、楽器のエコーがボーカル共々アンビエンスに消えていく。

 この曲はアルバム中でもまだ幾らか現実味に近いところのフォーキーさがある、3分弱の小品。それでもギターの音と思えない煌めきと揺らぎにかした伴奏と、幻想の向こうに消えていきそうなボーカルの存在感は紛れもなく『Victorialand』の楽曲。この幻惑的な童話のような楽曲は、最後の歌のラインが終わる瞬間に、その歌とともにフッと消えてしまう。エコーが響きまくる今作においてそういった残響なしにフッと消えるこの曲は不思議な立ち位置で、少し気味悪い不思議の国に迷い込んだアルバムの中で、束の間の良くも悪くもない夢見心地の体験のような感じがした。

 

16. Life Can Be so Nice / Prince & The Revolution

(1986年 アルバム『Parade』C-④)

 この曲の入ってるPrinceのアルバムのジャケのポーズってジョジョでどっかでオマージュしてるのがあったな。荒木先生Prince大好きだもんな。このアルバムは最早「バンド従えてやってます」っていう建前を忘れてしまったかのようなサウンドの曲が多いと思う。密室的に作られた感じのトラックが目立つもの。

 この時期のPrince特有の「やたらベースを入れないことに拘る」癖にこの曲も該当していて、一応この曲では定期的に申し訳程度の同じ音の謎の低音が反復して鳴ってる。典型的な「Princeの密室的なのに狂騒的なファンクトラック」で、その不思議にマシーナリーな響きが個性的。終盤にはバンドでダビングしたのか、やたらとフィルインが乱れ入って享楽的な一本調子に花を添えて、どう展開するかな…と思ったら急にカットアウトで終了。この、1970年代的なソウルミュージックの濃厚さ・アナログさから遠いチャチさ・呆気なさが、Prince的な軽薄さ・チャーミングさだと思う。

 

17. Just Like Heaven / Dinosaur Jr.

(1989年 シングル C-④)

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 1989年は実質的に1990年代みたいなもの、ということを幾つかのバンドや作品から強く感じるけど、Dinosaur Jr.もまた、『Bug』というこのバンドのオルタナティブロックとしての旨味を一気に出し切ったようなアルバムを1990年代になる前にリリース済みで、ここから先はオリジナルメンバーを失いつつのJ Mascisのタフさの実践、みたいになってくる。そうなる前にオリジナルメンバーのうちにリリースできたこのThe Cureの名曲のカバーもまた、そんな最初の充実の中にいることを思わせる実に活き活きとしたトラック。

 ヘロヘロしたギターやボーカルでフニャフニャにカバーするのか、と思ったら突如サビでハードコア的なテンポとギターとシャウトに転換するのは、もうこの時点でオルタナティブロックを理解しすぎているんじゃなかろうかという自在さ・ファニーさ。シークバーと共に音楽を聴くようになってしまった世代だと、最初のサビの位置がえらい後ろで、えっこの曲二番あるけどどうすんの…と思ってたところに突如現れる二度目のサビが始まった瞬間の強制終了。これも最初聴いた時は再生機器の故障を疑って、そして仕様だと分かった瞬間の「ふ…ふざけんなよお前ら…」的な脱力感。景色も感覚も何もかもがDinosaur Jr.的なダメダメさに包まれる瞬間。それは心地いいんです。

 

1990年代

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 オルタナティブロックもハードコアもヒップホップもアンダーグラウンドから這い出してきてきっちりと音楽の形式として洗練されていくのが1990年代。特に、サンプリングの概念が共有されたことは、楽曲を解体してパーツやセクション単位でどう効果を見出すか、という視点が共有されたことを意味する。そういう分解する視点が一般化してくるからこそ、逆にバンドに一本気にこだわることの意義なども浮かび上がってくる。

 そして、オルタナ的なものがオーバーグラウンドに出てきたことのもうひとつの効果が、ひどく陰鬱な表現・神経質な表現・暴力的な表現がヒットする土壌も生まれた、ということ。これによって一部の好事家のみ取り上げてたエクストリームな音楽性のアーティストがヒーローになり、その方向に無数のフォロワーが現れる、という時代になっていく。荒々しさが一般的になっていくにつれて、楽曲が最後プツリと終わってしまうことも、次第に一般的な、普通なことになっていったのかなと思う。

 

18. Sieve-Fisted Find / Fugazi

(1990年 アルバム『Repeater』 B-②)

 1980年代よりMinor Threatの活動やDischord Recordsの運営などでUSハードコア界の第一人者となったIan MacKayeの活動においてその中心となったバンドFugaziは、身も蓋もないことを言えば「80年代ハードコアより聴きやすいなあ」って思う。さまざまなテンポの楽曲があって、疾走曲においてもファンク的な躍動性がバンドに導入され、ギターのリフをキャッチーにヒロイックに響かせてくれる。The Clash由来くさいスポーティーな一蓮托生感の1980年代高速ハードコアから、ここまで変わるもんなんだな。

 この曲もイントロの鋭くも情感あるギターリフが格好良くて、これを中心に楽曲が程よい疾走感と切迫感をもって展開することによって、歌っぽいメロディは存在しないにも関わらず、バンドサウンドならではのキャッチーさが生まれ出してくる。しかし、そんな高機動なバンドサウンドも曲の締めはバチっと一斉にミュートして見せるところに、やはりその出自である地点から変わらない信念のようなものが見え隠れする。世間的に使いづらくなった「漢気」という言葉から、こういう具合の情緒の意味だけを取り出した言葉を作ってほしい。あ、「ストレート・エッジ」がそうなのか?そんな軽いもんでもないか。

 

19. Kool Thing / Sonic Youth

(1990年 アルバム『Goo』 B-③)

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 Dinosaur Jr.は1990年代の作品よりも『Bug』のが好きかもだけど、Sonic Youthは1990年代以降の作品の方が好きだ。アルバムごとにサウンドが鈍重になったりスカスカになったりするのが面白い。この曲の入った1990年のアルバムはメジャー1作目で、冒頭から疾走感のある曲が連なっていく様は、彼らのサウンドのエッジなところも見せつつ、実は相当キャッチーめな作品を作ろうと努力したのかもしれない。アルバム全体が『Daydream Nation』の何倍もキャッチーだもの。

 この曲もまた、彼らが何年もかけて開発に成功した”オルタナサウンド”を、実に端正に躍動させ、展開に応じて自在に爛れさせる、彼らの武器がキャッチーなクールネスに向けて的確に並び替えられた名曲だ。Kim Gordonボーカル曲で一番キャッチーなのはいまだにこの曲?中盤のタイトルコールからギターがノイジーに棚引きまくる箇所はオルタナティブロックの爛れたロマンに満ちている。そしてその終わり方が、バンドを一斉にミュートした後ギターのフィードバックノイズが漏れ出す、という仕掛けで、これほど端的にオルタナティブロックな瞬間もないかもしれない。コントロール不能なものをコントロールしてクールさを引き出すのは、オルタナティブロックを志す人たちの多くの憧れるところだと思う。

 

20. Check the Rhime / A Tribe Called Quest

(1991年 アルバム『The Low End Theory』 A-④)

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 ヒップホップに造詣の無い人、特に日本で普通に生まれ育ってしまった人たちにおいては、ギャングスタ的なものを怖がらずネタにせず正確に理解するのは難しいように思える。一方でムード音楽は好まれるから、たとえば非ギャングスタでジャズ的・ソウル的な感覚が充満してる彼らのような存在は実にありがたい。ラップの内容は分からなくても、ゆったりしたトラックに合わせて身体を揺らしてりゃいいのは分かりやすくて助かる。

 ギャングスタでは無いにしても、彼らも”サンプリング”という概念を軸にサウンドを作っているから、ロックバンド側が見てとることができるような「ヒップホップ感」というのがこの曲からも十分に感じられる。コード進行的な展開というよりも、同じ一定のリズムの上でセクションとセクションを繋いで、パーツを重ねたりを繰り返して曲を作る感じ。だから、その繋いだセクション等の連なりが途切れるところが曲の終わりになる。それはトラックの断面みたいな具合に、ストンと終了するわけだ。ヒップホップではストンと終わることが普通な印象があるけど、それはこういうことなのかも。

 

21. Cannonball / The Breeders

(1993年 アルバム『Last Splash』 B-③)

 オルタナティブロックのオリジネイターPixiesから派生したThe Breedersが、2ndで早々に「別にNirvanaっぽいシリアスしんどいロックをしないといけないわけでも無いでしょ」と自由奔放にシュールに暴れ倒す風になったのは良かったと思う。シリアスしんどい枠はHoleがいるもんな。このアルバムがUSオルタナの軽快な方面の発展に結構寄与したのは間違いない。

 だって、リード曲がこの、何がしたいかまるで分かんない、フリーダムで気怠げで軽薄なこの曲なんだもの。真っ直ぐキャッチーな『Divine Hammer』じゃなくてこれ、ってのは何か象徴的。多くの人が求めてるのは多分『Divine Hammer』だけど、そんなの知るか、とばかりにオルタナ的に雑なスウィングするこの曲のビート感、いい意味で行き当たりばったりにバーストしヒートアップする曲展開、そして最後の最後に「ひとまず最後にスネア1発入れたら終わりね」って具合に入るあっさりミュートした楽器の後に入るベチャっとしたスネア。息苦しくないオルタナをたまに聴くと清々しくなります。

 

22. Zero / The Smashing Pumpkins

(1995年 アルバム『Mellon Collie and…』 A-③)

 清々しいオルタナの前曲の次にまさに息苦しさ本命みたいなこの曲を持ってきてしまっている。でもBilly Corganくらいまで自意識過剰から不思議世界の構築まで突き抜けちゃうと、息苦しさもどこか喜劇めいてくる。それは彼が誰かみたいに自殺したりせず、未だにステートメントと実際がズレまくりのスットコドッコイなスマパン人生を送ってくれているから出てくる安心感かもしれない。ありがとうございます。

 彼の誇大妄想とバンドの生産能力がギリギリ釣り合ってた時期の、それでも沢山のギターリフの屍体の山の上に築かれたこの曲。鈍重なギターリフをゆったり展開させることによって生じたゴスな空気が、PV共々やはり演劇チックな方面にこのバンドの攻撃性を発散させる。3分に満たない尺であることでかえってゴスの雰囲気を濃厚に纏めてる風でもある。そして、最後にメインリフをバンドサウンドごとミュートした後に一言「only」と囁かれる場面のナルシスティック極まった具合。今思えばこれって日本のヴィジュアル系とかと同じようなことしてるのか。キモいと思う人が結構いるだろう。大好きだけども。

 

23. All Mine / Portishead

(1997年 アルバム『Portishead』 C-④)

 Portisheadがヒップホップから影響を受けてることは、ビートの感じや、あと所々で若干これ見よがし的に挿入されるスクラッチ音から察せられる。ただ彼らの場合、参照したディスコグラフィーがソウルやジャズではなくホラー映画のサントラだったのかな、という具合。女性ボーカルという1点を軸に、方やファンタジックな神話世界、方やグロテスクな現代っぽさ、ということで、Cocteau Twinsと真逆な存在に感じてる。後の詳しい解説はこっちのサイトを見られた方が賢明かと。

slapsticker.blog.fc2.com

 自身のエピゴーネンとの差別化のため神経質さがより進行した2ndアルバムにて、一番ヒップホップ的な景気の良さが見えるのがこの曲。これで一番景気がいい方なのか…と愕然とした気持ちになれるのが愉快。でもちゃんと大ヒットしたから不思議。ヒップホップ的なホーンは景気がいいけど、歌詞のヤンデレ通り越してサスペンスな世界観はしっかりと音の重さにも反映されている。そしてその神経質的なホラーな世界観を閉じるにしても恐怖を感じられる演出が相応しく、この曲においてそれはトラック自体の強制終了によって為される。アラーム的に鳴った音が途切れることで、その映像的演出が完遂される仕組みになっている。

 

24. Paranoid Android / Radiohead

(1997年 アルバム『OK Computer』 B-②)

 もう今更言うことなど無いほどの大名曲。Radioheadは演奏の終わり方がゾッとするものになるよう拘って努力し続けてるバンドで、それはディストーションギターが乱れ飛ぶ初期も無国籍的なサウンドに変異した『Kid A』以降も変わらない。曲の終わらせ方に着目してRadioheadをしばらく聴いてると、なんでこの人たちはゾッとするような呆気ない演奏の終わらせ方に拘ってるんだろう…と不思議な気持ちになれる。

 この曲は今回のリストの中でも最も大仰に展開していく曲でもある。同じフレーズをアコギで弾くかエレキで破滅的に弾くか、で展開を作った上に、更に挿入される神々しいパートでこの曲は天に召され、そしてすぐに破滅的なギターパートに引き戻されて、そして実に呆気なく、ゴミのように曲は強制終了させられる。人力での強制終了でもとりわけ「強引さ」「呆気なさ」が強調された終わり方は神々しいパートとの落差が物凄く、この曲の救いようの無い殺伐さにもしかしたら最も貢献しているかもしれない。

 

25. スモーキン・ビリー / Thee Michelle Gun Elephant

(1998年 アルバム『ギヤ・ブルーズ』 B-②)

 古くは1960年代からジャンルとして存在するガレージロックも、グランジオルタナ以降の破滅的なギターサウンドの影響を受けた。後期TMGEはまさにその典型的なサンプルのひとつで、バンドの象徴であるアベフトシのギターはどんどん音もプレイも粗野で凶暴なものになっていく。バンドの方向性の不可逆的な変化を物語るアルバム『ギヤ・ブルーズ』にややライト気味なシングル『アウト・ブルーズ』が収録されなかったことは何かを象徴してる。

 無事収録されたこのシングル曲の方は、まさに後期TMGE的な、押し潰すようなギターの音の反復と、それに張り合わんばかりに喉をがならせるボーカルの対峙がそのまま聴きどころとなる。両者の対峙に邪魔な展開やプレイはオミットされ、粗暴さと荒涼感だけが存在するようシェイプされたバンドサウンドは突き進み、そして当然のように唐突で粗暴なブレイクをして潰える。これだけの気迫でサウンドを形作っておいて、ギターを最後にジャーン!と鳴らすなんてあり得ないことと、バンドメンバー全員が理解していたことだろう。

 

26. Limp / Fiona Apple

(1999年 アルバム『When the Pawn…』 B-③)

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 説明のつけようのない負の情念を吐き出す音楽的環境も市場的整備も整った1990年代において、一番化け物的な存在は彼女だったのかもしれないと2020年のアルバムの異形さを聴いたときに思った。信じられないほど長いアルバムタイトル自体に彼女の中の闇から出力される名状し難い悪意が全力で感じられ、それは各収録曲においても、まずは言葉で、次に歌唱で、そしてそれらに感化された演奏によって表現される。

 ミドルテンポの楽曲でドロドロと怨念を感じられるのと、この曲のような比較的高速のナンバーでテンポ良く重たさを叩きつけられるのとどっちが楽だろうか。1990年だき以降的だなあと思わせるバンドと電子音的なのが並走するトラックはJon Brionのプロデュース。その程よくシックでカオスなサウンドの上を彼女の声は疾走する。いや、むしろ彼女の言葉のリズムに合わせてサウンドが躍動し、叩きつけられているようでさえあり、なので彼女の最後の一言と同時にバンドサウンドも一斉に鳴り止むのは、当然のことなのかもしれない

 

2000年代

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 The Strokesが結果的に象徴的に示したことは「インディーロックってのはこのくらいシンプルにしてもいいし、むしろその方がクールだよ」っていうことだったんだろう。アメリカでは1990年代からインディーシーンが成熟し続けてきたことと相まって、イギリスではガレージロックリバイバルニューウェーブリバイバルという形で、一気にインディーロックめいてくる時代、という認識。雑誌やらピッチフォークやらの影響にいまだどっぷりなままの弊ブログ哉。

 で、そういうよりサウンドの素っ気なさが尊ばれる風潮が生まれたことで、楽曲の終わり方はよりあっさりと、唐突としたものが増えていく。むしろどのように唐突な終わらせ方をして「僕たちはこういうマヌケさが好きですよ」「僕たちならこういう切り口で楽曲を華麗に息絶えさせますよ」といったところを競う時代になってきた感じも。なんというか、インディーロックって言っても色々なバンドが存在しているだけで、最後にちょっとブームらしいのがあったのは2010年代前後のガレージロックとリバーブ組み合わせたような連中くらいなのかなあ。

 

27. Untitled(How Does It Feel) / D'Angelo

(2000年 アルバム『Voodoo』 C-④)

 門外漢の自分が下手に口をさし挟むのも憚られるR&Bの歴史にブチ刺さりまくった名盤『Voodoo』だけども、アルバムの基調となる煙の揺らぎのような繊細でドープな艶かしさに比べたら、この曲はまだ昔からのソウルマナーに沿っているところがあって分かりやすくて助かる。それでも、あのアルバム特有の絶妙に”酔っ払った”調子によれるリズムの感じや、無音に吸い込まれるように静かに配置された各楽器の質感など、あのアルバムの一曲であるんだなあと思える特徴は多々。7分という尺で、ゆったりと進行してるように見せて実は段々と熱を帯びていくのも実に。中盤からボーカルトラックがたくさん出てくるあたりとか。

 一旦静かになった後の、そこから情感が次第にバカになって溢れ出しまくる展開は、最早声の重ね方の厚さが「音の壁」的に響いてくる。そしてその声の音の壁は情熱の迸る故か次第に音自体が歪み始めて、そして突如トラック自体がカットアウトでキャンセルされる。1970年代ソウルなら間違いなくフェードアウトを選ぶところでの、真逆の結末を果断に無慈悲に壮絶にブチ込むその姿勢は、なんというかこれはもしやパンクなのでは…?

 

28. Hard To Explain / The Strokes

(2001年 アルバム『Is This It』 A-③)

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 The Strokesの1stアルバムが2000年代のインディーロックブームの着火点の一つになったのはある程度間違いないけども、でもあのアルバムがいうほどシンプルかというと全然そうでもない、というのは結構言われている話で、彼ら、サウンドをスカスカにするために様々な演奏の工夫を凝らしていて、強度を落とさずに物凄く減量するボクサーみたいな、そんな類の軽量化サウンドだと思ってる。

 そして、その軽量化の果てにこの曲みたいな、最早テクノの類では…?みたいな曲も立ち上ってくる。えらく平準化された音のドラムやギターの機械的な響きは、インダストリアルなそれではなくオモチャ的な何か。彼らはこの後もバンドサウンドのオモチャ化を図ってる節が何度かある。そんな演奏のいちいちに片っ端からコンプをぶっ掛けたような楽曲でもきっちりとメロディアスな展開があり、ボーカルが白熱することでチャチいのに情熱的に響き、でもチャチいから最後はすげえ尻窄み方をして終わる。ここの終わらせ方が、人力具合と編集とが相まった絶妙にゲーム的な加減。少なくとも、お前みたいなガレージロックがあるか、とは言えそう。

 

29. Tombo the electric bloodred / Number Girl

(2003年 アルバム『Num-Heavymetalic』 B-②)

 ギターのカッティングの音をジャキジャキしてヒステリックな風に響かせることにディレイやリバーブが重要な役割を果たす、という手法は、Number Girlがその確立と敷衍に大きく貢献したと言えそう。ギターロックをダブに通すことで得られたと思しきこの手法は『Sappukei』で編み出され、『Num-Heavymetaric』で臨界点とも言えそうな完成を見せた。ギターの鉄感を引き出すには空間的にヒステリックに響かせることが重要。そういう視点で見ると、これは実にその手法を様々にやり尽くしたたまらないギターアルバムだ。

 アルバム中最も獰猛で無慈悲的に直進するこの曲の格好良さはその中でも格別。Yesの名曲『Roundabout』のリフを借用してここまで突撃戦車のように仕立て上げて、そしてその直進性が止むたびに代わりにどうしようもない感情に溢れ血みどろのセンチメンタルをばら撒いていく。この抑止と解放の機械的な繰り返しによる逆説的なセンチメンタルさ・ロマンチックさの表現。そして抑止と無慈悲の直進リフパートに戻ったら、最後はそれをあっさり機能停止させる強めのミュートによって、楽曲ごと縊り殺す。彼らが目指してきた”殺伐さ”のその極北。

 

30. Brianstorm / Arctic Monkeys

(2006年 アルバム『Favourite Worst Nightmare』 B-②)

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 Arctic Monkeysって途中からサウンドが全然変わるからよく分からなくなるけれども、でも1stから2ndまではなんとなく連続性が十分にある。ガレージロックリバイバル育ちと見せかけたポストパンク的な神経質でダークなロック躍動を見せた1stを、よりバンドの機動の仕方に焦点を当ててダークに見直したのが2nd。そんな大雑把な連想を安易に抱かせるくらいには、冒頭に置かれたリード曲のこの曲のリアルタイムでの衝撃の具合は大きかった。マジで思い切ったなーって感じ。この時期の彼らもまたギターにパーカッシブな「鉄の音」を求めてたということか。

 パワーコードによるリフが時に非常に機械的で非人格的に響くことを知り尽くしたかのような、ガキガキしたリフの導き方。これとひたすら鉄感を響かせ倒す直進パートとの無機的・機械的な組み合わせの妙が、感情の表現や人間性を極力排除した結果生まれた抜群の機動性が、この曲を洗練されたフォルムの攻撃性そのものにしている。そして手早い展開で役割を完遂した後は、用済みとばかりにダン!と強くミュートして打ち捨てるその呆気なさまで徹底している。ここまで徹底してマシーなりーにやり遂げた曲は彼らの中に他に見出し難く、やはりちょっと特別な曲だなあと思ったりする。

 

31. A-Punk / Vampire Weekend

(2008年 アルバム『Vampire Weekend』 A-③)

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 2000年代後半はピッチフォーク全盛期でUSインディーロックの時代、という歴史観をいつしか持ってしまった。その中の王者のひとつであろうVampire Weekendがそういうふうになろうとは、デビュー時のこの曲を聴いた時は思えなかったのが正直なところ。アイディア一発のインテリロックだと思ってた。1stアルバム聴いてもアイディア出し切ったのでは、とか思ってた。過去の不明は幾らでも恥じよう。

 そういう地点から見ると、Rostamという重要メンバーを失ってもなおバンドが続いてる今日の地点から見ると、この曲はだんだん優雅さと重さを獲得していく彼らの、まだ無邪気にアイディア一発で世に出てた頃のキュートな姿に少し眩しくなる。”アフロポップ”なる分かるようで分からない単語にライトなサイケ感を交差させて軽やかに跳ねて見せるPVはなんとも無邪気な感じ。最後の雑に投げ出すようにパッと止まって掛け声だけ発するのが、当時はこのしてやったり感〜などと思ったけども今見るとなんか可愛らしい

 

32. Two Weeks / Grizzly Bear

(2009年 アルバム『Veckatimest』 A-①)

 2000年代後半のUSインディの一部インテリな層は、アフリカだとかトライバルさだとか自然信仰だとかそんな雰囲気をなんかみんな醸し出していた。そういったものにロック伝統のサイケデリアの手法を絡ませて、新たな何かを作り出すとしていたんだと思う。彼らはその一群の中でも、とりわけ深い森とかそういう自然を憑依させた楽団化のようないでたちがして、地味だけども滋養がある感じだった。

 この曲はアルバムのリード曲で、それもなんか頷けるような、森の奥みたいな奥行きの中にキラキラとした歓喜のポップさがある。イントロから元気よく跳ねるピアノからコーラスも混じって奏でられるそれはそれこそ『Smile』期のThe Beach Boys的な発想力を感じる。もしかして彼らって森化した21世紀のThe Beach Boysだったのか。アルバム中でとりわけはっちゃけ気味の可愛らしいポップさは、壮大なシンフォニーになりつつも最後、無音にストンと自然に着地してみせる。その小気味良い着地に、やっぱバンドがこの曲を作中随一のポップソングにするという意思と意地が垣間見える。

 

2010年代〜2021年

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 2010年代前半って何だったろ。インディーミュージックが次第に飽和・衰退して、ソウル・ヒップホップに取って代わられて。それで2010年代後半にはアンビエントR&Bとトラップが流行って、でもトラップはなんかいつの間にか当初の熱はすっかり抜けきった気がする。

 2020年代は、そもそもコロナで人が集まれない段階で、新しい音楽の潮流って生まれるのかな、とか思えてくる。インターネットがあるじゃないか、とは言うけれども、そこには様々な支配的ではない潮流が幾つも並走しているように思えて、”今はこれの時代”みたいなのは見えてこない。だからと言って音楽が無価値な時代になったとは全然思わんけども。

 なんか最早この記事のテーマと全然関係のない話だ…。唐突な曲の終わらせ方については、1990年代から続く流れ、としか言いようがない。バンド音楽よりトラックものが増えたので、サンプリング以降のブツ切り感が標準仕様になってきてる感じがあるかもしれないけど。

 

33. スカイライダーズ / 相対性理論

(2010年 シングル『アワーミュージック』 B-②)

 Radioheadもそうだったけど、相対性理論も曲の終わらせ方のぶっきらぼうさに気を遣ってるアーティストで、何でそういうアーティストの例外的にフェードアウトしてた曲をフェードアウトの記事で強引に取り上げたんだったっけか。The Smithsからの影響を感じさせながらもThe Smithsよりもずっと冷たい感じがするとすれば、その辺の徹底加減かもしれない。ただ、意外と代表曲っぽい範囲でははっきりしたミュート終わりまではあまりやってなかった。

 他者とのコラボのこの曲は作曲に適度なダークで抑制的なまとまり方をもたらし、ウィスパー気味のボーカルが歌詞含めて音の冷ややかさと絶妙にミスマッチしていて、これはこれでファンタジックな不思議さ。落ち着いた躍動感は生演奏のエネルギーを適切に削いでいて、そのいい具合に血の気の失せたサウンドは最後にササッと一斉に演奏を終了することで完遂される。ゾクゾクするとかとは異なる、不思議と心地の良い血の気の失せ方というのが時折音楽にはあると思う。

 

34. Clash the Truth / Beach Fossils

(2013年 アルバム『Clash the Truth』B-②)

 2010年代前後からUSインディーに起こった「簡単なガレージロックにリバーブ掛ければドリームポップになるんじゃね?」的なブームは意外とロック界隈での最後の多数参加した感のあるブームだったかもしれない。構造がシンプルで誰でも参入しやすいからなあ。でもその中からCaptured Tracksというレーベルが存在感を示し、サウンド的にどうレーベルの典型を成すBeach Fossilsのアルバム『Clash the Truth』を出せたことは、ひとつの時代を築いたことを証する金字塔として語られるべきものと思う。

 そんなアルバムの冒頭に置かれたこの曲はまさに、端的にその典型的なサウンドを表現する。無音の闇から湧き出る、空間系エフェクトで反響するギターの出音はしかしそれほど鋭角的ではなくまろやか。彼ら、ダークな音の感じだけど攻撃的でもなくどこか淡々と駆け抜けていく加減が独特のクールネスだったんだと思う。音の割にコード感は明るいし。そしてその楽曲の終わり方がスッと一斉に演奏が止む形式なのもまた、彼らなりに盛り上がった楽曲からの余分な感覚の漏出をカットするような方向に働く

 

35. Dogs / Sun Kil Moon

(2014年 アルバム『Benji』 B-②)

 Mark KozelekがRed House Painters以来のスロウコアの名手からよく分からない念仏のようなものを高度なトラック制作の上で唱え続ける人物に変貌するその転換点で生まれた、これ以前もこれ以後も類似の作品が無い名盤が『Benji』だった。語り部的なスタイルに変貌しつつもメロディを失っていないギリギリの地点で、彼のリリシズムはキャリアハイと言えそうな絶妙な苦味と甘みを得た。

 この曲はどちらかと言えば『Benji』より後の作風に近いところのある曲だけど、それでもメロディがきっちりと設定されてそこに合わせて言葉が絞り出されている。ひたすら同じメロディを繰り返し、自身の女性遍歴を幼い頃から順に、異様なテンションで掘り返していく。ヤケクソのようでありながらも鬼気迫る歌唱はバックの音をアコギのみからドラムも入った形に変遷していき、5分半超えの尺の終盤におどろおどろしい鳴らされ方の伴奏のアコギがヒステリックに響く中、殆ど投げ出すように一斉に演奏が止む様は、彼の自嘲的なリリシズムの攻撃性の、その手に負えなさ具合を滲ませる

 

36. Solo / Frank Ocean

(2016年 アルバム『Blond』 A-①)

 いつの間にか陳腐化してしまったように感じるトラップと比べて、アンビエントR&Bはなんかこうパーソナルな表現だから、スタイルだけ真似しても精神性が伴わなければ意味が薄いところが、逆に陳腐化を防ぐ作用になっている気がする。というか、そのジャンルの大元たるアルバム『Blond』を聴く限りは、この音楽性はFrank Oceanの個人的な事情から発せられたものと感じれるので、陳腐化もクソもないんだって思える。

 特に、リズムをほぼ廃し、頼りないシンセの伴奏と歌だけでとても心細くも切実な音空間を作っていくこの名曲は一聴して「あっアンビエントR&Bってこういうものかあ」となる不思議な分かりやすさがある。歌い手の精神がこれよりも細くなっても太くなっても成立しなくなりそうな存在が成立することの危うさ・儚さが、この曲を特別なものに押し上げている。そして最後は、その危ういバランスを解除したことで楽曲がフッと立ち消えるかのようにシンセが途切れて終わる

 

37. Can I Sit Next to You / Spoon

(2017年 アルバム『Hot Thoughts』 A-④)

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 Spoonもまた曲の決断的な終わらせ方にこだわり続けてきたバンド。彼らの場合、バンドサウンドのスカスカ具合にどのような印象を載せるか、その音響に徹底的に拘っていたインディーバンドなので、乱暴そうに思えるような唐突な楽曲の終わらせ方があっても、それをするための繊細緻密な過程が覗くことがしばしばあって、興味深い。今のところ最新2作であるDave Fridmanが関わったアルバムでもそれは変わらない。

 シンセを多用しダンスフィールを重視したアルバム『Hot Thoughts』において一際怪しいというか胡散臭いというかなダンストラックであるこの曲は、彼ら的なソリッドな音響をファンクな楽曲に落とし込み、歯切れのいいギターカッティングに対して、曲のピークをいかがわしげなシンセの揺らぎに思い切って託した楽曲。その「どっから湧いてきたんだよ」って具合の怪しさを、打ち込みかエフェクトか不明な妙なキック音一発で強制終了させる手際もまた、この曲のいかがわしさの解決方法として的確

 

38. Ghost Town / Kanye West

(2018年 アルバム『Ye』 A-③)

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 今回のこの記事は、フェードアウトの楽曲の記事を書く際に、Kanye Westの曲が全然フェードアウトしないことに気づいて、そこを起点にしたもの。そして彼の場合、サンプリングの切れ目が曲の終わり、的なのではなくて、もっと決断的に曲の終わりを非常に呆気ない形で終わらせるのが決まりなのか、そういう性癖なのかと思うくらい、曲終わりをサッとカットしてる場合が相当多い。彼のヒップホップからは、特に特定の時期以降はねっとりしたジャズやR&Bの要素をあまり感じないこと、むしろニューウェーブ以降的なインダストリアルさを感じることも関係するのかもしれない。

 そして、2010年代以降の彼の作品における声・合唱の使い方の極端さ。例えばこの曲。トラック自体は十分にR&B的なレイドバック感があるはずなのに、全体的にサンプリングで構築されたかのような”胡散臭さ”が、強く重ねられた太いギターによってより醸し出される。最も強く感じられるのは、ひたすらに声の、歌の存在感。特に終盤、女性ボーカルに変わってからの、歌のメロディも、バックの演奏のブレイクの仕方も、緊張感と解放感と、願望と現実とが痛ましく交錯するような展開も、それぞれの演奏パーツ単体からは感じられないような壮絶さが合奏の中に生まれ出てくる。そして、その願望と生命力の祈りの塊のようなはずのコーラスを、実にあっさりと、余韻もなく途切れさせるそのトラックの捌き方に、この人のポリシーも、混乱のひとまずのケリの付け方みたいなものも見え隠れした気がした

 

39. Blue World / Mac Miller

(2020年 アルバム『Circles』 A-①)

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 もうしばらく前にいなくなってしまった人の残していた、ヒップホップらしくないむしろシンガーソングライターっぽく仕上がった(John Brionのせい?)作品のうちの、割とヒップホップ的なサンプリングが軸になった曲。著名なコーラスグループThe Four Freshmenの『It's a Blue World』のアカペラのコーラスをズタズタにチョップして、その反復をもとにトラックが形作られる。冒頭でその解体の様を見せるところがなんとも。

 軽やかなフロウは歌ってる風にも感じられ、自分のようなヒップホップを好んで聞かない人間にも触れやすい。そしてメロディーのラインの巧妙に切なくなる具合。アルバム中に何曲かあるもっとボロボロにSSWしてる曲と比べればまだヒップホップの定型的ではあるから痛々しさは比較的低いかもしれないけれど、それにしても後半のミドルエイト的展開といい、この人、とてもメロディがかける人だったんだなというのがこの曲でも分かる。そのメロディアスなメロディが途切れるところでフッとトラックも途切れるのは、なんだか寂しい響き方がする

 

40. Rae Street / Courtney Barnett

(2021年 シングル B-①)

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 最後は今年の曲で締めておきたい。そろそろアルバムが出る彼女の先行リリース曲。別に特にスタイリッシュに冴えたところのない、実に淡々と、重々しいビート感と淡々としたギターの鳴り方で進行していく、元気のようなものの感じられない楽曲。代わりに感じれるのは、どこまでも続いていくようなしんどさと感傷の感じ。Neil Young的な涼しいような苦しいような情緒が、淡々とそっけなさげに、しかし的確に辿られている。

 なんだかやるせなくて、だるくて、うんざりするようなことが色々あるけど、でも結局生きていくならこんな感じに、ヨロヨロと背負っていくしかないよな、ってずっと思い続ける次第。ただ、この延々とだるそうな曲の最後に、ちょっとタイミングを図ってピタッと一斉に演奏が止むのは、かえってどこか可愛らしくて、そうだよな、こんなサクッとしたユーモアかクールネスみたいなのも持っときたいよな、って気持ちになった

 

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終わりに(プレイリスト掲載)

 以上40曲、合計の演奏時間は2時間21分でした。後半は大ネタばっかだったですね。

 またね。