ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

フェードアウトする楽曲【前編25曲(〜1980s)】

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これはフェードアウトの記事だけど、絵におけるパースの概念もどこか近しいものがある印象。

 

ja.wikipedia.org

フェード (fade) は、衰える、萎むといった意味の英語である。

 

フェードは舞台音響および録音の用語でもある。次第に音が小さくなっていくのをフェードアウト、次第に大きくなってくるのをフェードインという。

 

 フェードイン・フェードアウトというのは、録音物だからこその加工技術です。録音した音を機械的に段々大きくしたり小さくしたりする、というのは、実際の演奏で再現するのはかなり困難で、かつ不自然なものになります。ライブ演奏だったら、録音ではフェードアウトになっているものでも、普通はどうにか落とし所を付けて演奏を完奏させるものです。演奏陣が一丸となって音量を小さくしていくのは困難な上、観ててそんなに面白いものでもないので。

 なので、フェードイン・フェードアウトは、録音物だからこそその趣を楽しめる技巧だと言えます。今回はそんな仕組みになっている楽曲を集めてみたら、なんか50曲ほど集まってしまったので、丁度ディケイドで半分に切れたので、この前半記事では1980年代までの25曲を見て行って、フェードアウトによってこういう効果が生まれてるのかもなあ、といったところを考えていきます。

 

 前後編な記事なので、プレイリストは後編記事の最後に添付します。

 

 

はじめに

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 フェードインで始まる楽曲は世の中にそんなに多くはないですが、フェードアウトで終わる楽曲は比較的よく見ます。特に、昔の楽曲になればなるほどそういった終わらせ方になるケースが多くて、オールディーズポップスとかフェードアウトが多いイメージですし、古いレコード盤はどことなく楽曲がフェードアウトして、レコード盤特有のスクラッチノイズがうっすら聞こえつつ次の曲が始まる、みたいなイメージをしてしまいます。

 英語版WikipediaのFadeの記事にはその歴史的な経緯が記載されていて興味深いところです。特に電気録音が可能になってから、録音システムのマスターフェーダーを下げていくことで、演奏の内容に関係なく機械的に音量を下げることが可能となるのですが、「フェードアウトさせた場合の楽曲と完奏させた場合のそれとでは、前者の方が近くされる持続時間が2.4秒長くなった」という記述が興味深いところ。これはつまり、完奏させる場合と違って、フェードアウトさせる場合は、そのフェードアウトしていく演奏の箇所が、フェードアウトしなければ延々と繰り返しなり続けるのではないか、と思わせる効果がある、ということなのではないかと思われます。

 まさにこの「延々と演奏が続いていくように思わせる効果」こそ、もしかしたら、2,3分で終わってしまうポップソングを”永遠”のものとして響かせたいというクリエイター・エンジニアの欲望にかなう機巧だったのでしょう。そう、フェードアウトの仕掛けの多くはその「フェードアウトでもしなければ永遠に演奏が続いていくのでは」と思わせる効果を狙って仕掛けられていそうです。その、だらしないほどに”永遠”であってほしい、というある種の願い・祈りを思いながら楽曲を聴くと、時々不思議な気持ちにつままれたりします。

 

本編

1960年代

 ”オールディーズポップス”的なものの完成と、そしてロックンロール〜サイケデリックロックの流れで様々な”発明”が興った時代。フェードアウトの技法についても、この時期に基本的なものはかなり出揃った印象。

 

1. The Locomotion / Little Eva(1962年)

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 ”オールディーズポップス”と聞いて自分が一番に思い浮かべる、そういうもののひとつの完成形のような曲。Goffin=Kingコンビの最高傑作のひとつ。全てがサビみたいなストレートなポップさを繰り出しつつも、明確にコーラス部と言える箇所のⅠ→Ⅳのコード進行の繰り返しでシンプルかつ解放感に溢れたメロディ・コード感の溌剌さが光る。

 その快活なテンションのまま過ぎ去っていくためにフェードアウトにて楽曲が閉じられる時、ある種のポップスの”永遠さ”みたいなのがスッと宿ってくる。これはまさにそういうのの典型例のひとつ。

 

2. Baby, I Love You / The Ronettes(1963年)

 オールディーズポップスの「ひたすらにアップリフティングな永遠をフェードアウトで3分以内に無理やり収めました」的な手法により強い拘りを示したのがPhil Spectorだったんだろう。沢山のポップス用楽器を同時に録音する、という当時からしてもローテクでアナログすぎる手法"Wall of Sound"でもってモコモコの音像を作り、そこに一際キャッチーなコーラスのリフレインを備えた楽曲を投げ入れる、という手法で、彼は何もかもを道具扱いして、オールディーズよりもオールディーズらしいポップスを幾つか作り上げた。この曲は『Be My Baby』と並ぶ彼の代表曲のひとつ。

 スペクター式のポップソングの場合、最後のコーラスのリフレインが最も華やかになるようにして、そしてそれをフェードアウトで封じ込めることでより”永遠さ”の輝きを上げようと画策する。その効果の基底を成すのが、録音集団レッキングクルーの中心人物Hal Blaineのアドリブ的なフィルインワークというのは、何でもガチガチにやってそうなPhil Spector方式からすると不思議な感じ。それとも、その華やかさが最も輝くまでに、何度も何度も何度もフィルインを叩かされていたのか。少しお馬さんチックなリズムのこの曲のアウトロでは彼のフィルインはより大袈裟になり、フェードアウトの途中のプレーはもはや破綻しつつあるんじゃないかとさえ思えるヤケクソな叩き付け方をしてる。実はそれが案外、ロックンロールでありパンクであったのかもしれない。

ystmokzk.hatenablog.jp

 

3. 19th Nervous Breakdown / The Rolling Stones(1966年)

 元々のバンドの目標だったリアルブルーズの追及が後退し、現代のポップソングとしてエンジョイ&エキサイティングなロックンロールへ変貌していた1960年代中盤のストーンズの姿は、Swinging Londonと言われた同時代のポップカルチャーを一番享楽的かつヒップに体現した存在だった。その時代真っ只中にシングルとして切られたこの曲も「お前はキチ●イ、19回目の神経衰弱が来るぜ!」って楽しそうに煽る歌ながらも、実に軽快にちょっとスウィングしたリズムとギターリフで駆け抜けていく。

 そのタイトルフレーズの出てくる、ワンコードで駆け抜けていく箇所が終盤のリフレインとなり、そしてそのままフェードアウトしていく。「19回目の神経バグるやつが来るぜ!」っていう嫌なフレーズを連呼するのがフェードアウトで遠のいていくのもまた、彼ら流の”嫌がらせポップ”の仕掛けだったのかもしれない。神経衰弱がずっと繰り返されて”永遠”になるなんて嫌だもの。当時の彼ららしいプリティな悪意が活き活きと脈打つ瞬間。

 

4. God Only Knows / The Beach Boys(1966年)

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 ロックが享楽ではなくもっとスピリチュアルな意味での”美しさ”でもって”永遠”を勝ち取った初めての瞬間は、もしかしたらこの曲の最終コーラスなのかもしれない。ここにはそれまでポップミュージックが到達したことのない類の「美しさ」「繊細さ」「ノスタルジー」が刻まれた。シャッフルのリズム、不思議なブレイクの取り方、繊細なコード感および楽器選択、そしてCarl Wilsonの何よりも透き通った声と彼らの前人未到のコーラスワークによって、それは成された。コンソールルームで指揮棒を振ったのは勿論Brain Wilsonその人。『Be My Baby』から随分遠くに来ていた。

 この曲の本当に美しいのは、中盤コミカルに演奏を崩した後の、そこからコーラスワークを中心に楽曲が回復していき、束の間の静寂ののちに、メインフレーズの反復を軸として世界が一気に広がっていくあの一連の流れだろう。永遠に終わって欲しくない時間、というのは、二人があのフレーズを繰り返しその間に美しいファルセットが交錯し、ドラムのバタバタした鳴りさえ音符的に捉えられそうなあの場面のことみたいなのを言うのかもしれない。楽曲は永遠に演奏し続けることはできないから、だから仕方がなく、フェードアウトで閉じる。フェードアウトがなければ、本当に永遠にあのハーモニーの中にいれるのかもしれない、と思うのは過剰だろうか。

 

5. Strawberry Fields Forever / The Beatles(1967年)

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 複雑なコード進行とその上でこそ成立するヒロイックなメロディ、逆再生等の当時のサイケデリック的手法の総動員、印象的すぎるメロトロンの使用、そしてキーの違う異なるトラックを「奇跡的に」繋げることに成功したことによる音質変化など、様々なことが奇跡的に折り重なってできた、The Beatlesの数ある最高傑作のひとつ。逆再生を効果的すぎるほどに活用したビデオクリップ共々、この曲は永久に振り返られ続けるであろうポップミュージックのマイルストーンのひとつだろう。

 ビートルズもまたフェードアウトについて様々な研究・実験を繰り返し続けたバンドで、非常にゆっくりフェードアウトしていく『Hey, Jude』など取り上げたい曲は沢山あったけど、でも1967年時点でこの曲の複雑なフェードアウトの仕掛けを組み込んだことが、やはり一番驚愕すべき点だろう。ヒロイックなメロディの締めがあった後の、インディアなギターを先頭に不穏な空間を作り上げていく不思議な演奏が一度フェードアウトして行って、そこから悪夢的に旋回するフルートの音が段々フェードインして、イマジナリーでノイジーサウンドと謎の呟きを残してまた遠ざかっていく、この仕掛けは妙に感覚的で映像的で、これまでの「”永遠”を3分に閉じ込める」式のフェードアウトの発想とは全然違う形でフェードアウトが活用されていることは注目に値する。なお、その間ずっとドスドスドカドカと鈍めに鳴り続けるドラムが一番の聴きどころ。

 

6. Sunday Morning / The Velvet Underground(1967年)

 ポップスの”永遠感”のうちの”甘味”の部分だけを抜き出して怪しく培養したかのようなこの曲の、どこかだらしなさすら感じさせるスウィートネスが、後のサイケデリック・ロックのみならず、より遠い時代のドリームポップ等の根っこにさえなっていることは容易に想像できる。弦なのか鍵盤なのか、ともかく何かを引き伸ばして作ったような、光の壁のような伴奏は、ローファイな録音さえ味方して、この曲ならではの、どこかシティ的な雰囲気もありつつの白昼夢的な幻想世界を形作っている。Lou Reedのボーカルも、この後に続く楽曲群からすれば実に嘘のように艶かしく優しい。

 この、不思議なサウンドはともかく楽曲の作りもメロディの感じも「これでいいのか!」と当時の人間も現代の人間も思ってしまう歌は、その「だらしないからこそのファンタジックさ」をいいことに、まんまとそのままフェードアウトして、完全犯罪的に”永遠性”をオールディーズポップスから盗み出してしまう。この手際の、あまりに呆気なく、手軽で、しかし実に奥深くなってしまうことに、この曲より後とても多くの人たちがとらわれていく。「甘くだらしないメロディをフェードアウトさせれば”永遠”になれるのだ」という”発明”。これはインディーロックの作り手の大いなるテーマのひとつであり続けると思う。

 

7. Afternoon Tea / The Kinks(1967年)

 1967年の楽曲が多いけど、この辺はちゃんと時系列順に並べてる。サイケデリックブーム最高潮の最中、それは想像力とスタジオ技法とを開拓していくことになった。そんな流れに乗っているようで乗っていないような、The Kinksのこんな”だらしない”楽曲もある。前曲と同じ”だらしない”感じでも、官能的な要素はこちらにはまるでなく、むしろある種の野暮ったさ・能天気さ・のんびりした空気がここでは充満している。「君とアフタヌーンティーを飲んでいたいのに、今ぼくは一人でアフタヌーンティーしている」という案外ちょっと悲しみの滲む歌詞なのに、そう感じさせない鈍臭いシャッフル感とメロディは、むしろ実にシャレてる気がしてくる。”純ブリティッシュ”音楽としてのThe Kinksの真骨頂とも言える、空気感から言葉まで全て英国的な1曲。

 そして、こんな呑気なビートの楽曲がフェードアウトでサラッと終わる、というのもなんだか可笑しい感じ。こんなのんびりした、別に良くもないし悪くもないような時間をフェードアウトにて”永遠”にしたって、残るのは”途方もなさ”の感覚だろう、と思うけど、でもこの”途方もなさ”もまた、フェードアウトの生み出す素晴らしい効果のひとつ。物事は全てポップスみたいに華やかに進んでいく訳がなく、むしろ大体のことはこんな具合にやや不機嫌なフラット気味に途方もないものだから、むしろ生活に即したリアリティがあるのはこういうフェードアウトの方なのかもしれない。

 

8. Broken Arrow / Buffalo Springfield(1967年)

 1967年は本当に色んな手法がサイケの旗印の下発明された年なんだなあ、と曲を並べて思った。その最終地点がこの、国の記憶・土地の記憶を色々引っ張り出して無理やり結合させて曲にしたかのような楽曲に行き着く、という風に書くとまた物語めいてきて書いてて面白い。アルバムの他の曲からも感じられる当時のNeil Youngのドラッギーそうな具合もさることながら、それ以上に協力者であるJack Nitzscheの天才っぷりが光る。Phil Spectorの下でこき使われていた彼が、この曲ではイメージの赴くままにさまざまに展開していく楽曲をオーケストレーション等でどうにか1曲になるよう収めている。そのカットアップ的すぎる編曲手法はほぼそのまま、後のFlippers Guitarにこの曲を軸にした『ドルフィン・ソング』等の形で参照された。

 その様々なイメージの行き着く最後が、どこかの場末のジャズバーめいた場面であること。そこに過去から(当時の)現代までのアメリカのイメージを集約させる、その酔っ払いすぎている発想の鮮やかさ、したたかさ、お洒落の仕方の強度っぷりが実に巧妙で、そしてそれをフェードアウトさせて過ぎ去らせ、最後に謎の心臓の脈のような音で終わらせる、この、どうかしてしまってる発想の積み重ねっぷり。何がしたいのかまるで分からないけど、いつ聴いても最後まで不思議な壮大さと感慨が湧き上がる。

 

9. Up On Cripple Creek / The Band(1969年)

www.youtube.comバンド演奏の動画を載せたいけどそしたらフェードアウトじゃなくなる難しさ…。

 演奏のいちいちが「古き良きアメリカ」を生み出してしまう、無敵の状態であったであろう当時の彼らが生み出した「どんな本当の南部の音楽よりも”南部”っぽい、スワンプズブズブなねっとりロック」。何故5人中4人がカナダ人なのにこうできてしまうのか。リアル南部の人たちは悔しかったりするんだろうか。恐ろしいまでの「ジャムセッションしてたらなんか偶然できました格好いいっしょ?」感。恐らくそれは全然事実ではなく、全てはRobbie Robertsonによって企まれて計算通りになった結果なんだろう。恐ろしい人。まあでも肝心のドラムボーカルがリアル南部の人間だし。

 そして、この曲がそんな「セッションから自然発生したんですよ」感を出すには、まさにセッションの途中を切り取ったまでですよ、と言わんばかりのフェードアウトが最適な訳だ。これはなかなかに、必殺のフェードアウトかもしれない。これによってリリース当時のこれを聴いた人は「この続きはライブで観れるし聴ける」って思う訳だもの。このドロドロに煮詰まったグルーヴの感じをフェードアウトで終わらせることによる”焦らし”の効果。後年の他の様々なアーティストの「この曲はライブではねっとり演奏するよ」って具合の曲のスタジオ版がフェードアウトで終わる、みたいなパターンはこの曲とかを元にしてるのかも。

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10. Witchi Tai To / Harpers Bizarre(1969年)

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 この曲はとても不思議で、ソフトロックグループである彼らはどちらかというと何かの物語をなぞるように、サウンドトラック的にポップソングを作る存在だったと思うけども、この曲においてはなんか、”現実のとある光景”を延々と繰り返すメロディに永遠に閉じ込めてしまったかのような趣がある。何度も行き交う自転車のベルみたいな音がそう思わせるのか。どれだけ見事で劇的なオーケストレーションが被ろうと、この曲はまるで”聴く白昼夢”のように響いてくる。

 そんな、同じメロディの繰り返しから”永遠の”白昼夢を生み出すこの曲の結末が、フェードアウトになるのは、なんか当然の帰結のように思える。本当に永遠に続いていくものをどうにか1曲として収めるために、仕方なくフェードアウトで切り取った、これはそんな錯覚をさえ抱かせる、不思議な、空気と大地と精霊の感じがする楽曲。

 

1970年代

 前半は1960年代の遺産をじっくり熟成させていく時代。”古いレコード盤”のイメージはとりわけこの辺の時代の印象がする。後半は次第にパンクやディスコといった、それまでの”凝り固まってきてしまった”有機性を解きほぐすような流れに向かっていく。

 

11. Jesus Was a Cross Maker / Judee Sill(1971年)

 The Band等が生み出した”土臭さ”の音楽を今度はアメリカの多くのSSWたちが継承・発展させていく。とりわけ、幼い頃から犯罪と麻薬の世界に身を置きつつ、服役中にゴスペルと出会い作曲の道に進んだ、という「そんな人本当にいるんだ」と思う出自の彼女の才能は、その饒舌な歌唱力・演奏能力と、宗教的背景から来る敬虔さ・神経質さが時代の土っぽさと化学反応を起こし、大変素晴らしい楽曲群を生み出している。生前評価されなかったことは、前々回の記事でも書いたとおり、非常にあり得ないこと。運命は時にそういうものなのか。

 CSN&Y等で知られるGraham Nashがプロデュースした彼女のデビューシングルのこの曲もまた、宗教的な抑制の仕方から、どこかゴスペル・ミーツ・カントリーロックって具合の晴れやかな躍動感に繋がっていく。タイトルからして宗教的であることは宿命づけられているけども、そんな地点からこんなに躍動感のある、自由さに満ちた楽曲が生まれるのか、というのが彼女の才能。そしてその自由さが永遠に続くよう、この曲もまたフェードアウトで丁寧に綴られる。

 

12. Family Affair / Sly & The Family Stone(1971年)

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 公民権運動やベトナム戦争反戦運動といったものとヒッピームーブメントが結びついた晴れやかな1960年代が終わりを告げ、憂鬱な空気のままニクソン・ショックへと緩やかに向かっていく世界をまるで反映するかのような、無気力なソウルネスが楽曲中で煙り続ける、世界初のローファイR&Bのヒット曲、とでもいうべき楽曲。作曲者自身が薬物中毒でダウナーだったことからの反映だとしても、この曲のダウナーな空気は何かを象徴してしまったし、そして「ビターさの表現」を多くのアーティストが追求するその口火を切るような存在にもなったであろう。

 そんな歴史的価値などどこ吹く風で、弱り果てたソウルの赴くままに唸ったり囁いたりするSly Stoneの姿はひたすらに不健康的で、この終わりのまるで見えない、むしろそれこそが世界そのもの、と言わんばかりの憂鬱の広がり方は、やはりそれを1曲として切り取るにはフェードアウトという機械的処置を必要とした。しかし、そのフェードアウトの間際に、ボロボロの彼がほんの一瞬気合を入れて、ファルセットとも何ともつかない唸り声を上げるところは、実に格好いい。音が消えていく前のこの唸り声には、何が託されているんだろう。ただ格好いいから入れただけなのであれば、彼は本当の本当に天才そのもの、って感じ。

 

13. On The Beach / Neil Young(1974年)

 憂鬱な時代の空気に呼応したわけではない。ただ、薬物の蔓延によって結果的に憂鬱も蔓延しつつあった音楽業界に引き摺られてか、Neil Youngも陰惨さを表現したアルバムを2枚制作する羽目になった。特に、1枚目がレコード会社に拒絶されて、その更なる失意の中、目的意識も曖昧になりながら制作されたであろう『On The Beach』の頼りなさすぎる世界観が自分は本当に好きだ。

 この、ブルーズのパロディしかできないくらいに弱り果ててた彼が辿り着いた、果てしなく無情な具合に光と影が交錯するようなギターが響く7分近くのブルーズは、しかしそんな彼の行き場のない精神が見事に音像化された、素晴らしく映像的な情緒の滲む楽曲。そして繰り返しになるが、そういう出処さえ不明な憂鬱に終わりなどは無く、それを楽曲として自然に終わらせるにはフェードアウトが必要になる、ということ。どこかで演奏をサッと終わらせられるくらいに割り切れるのなら、こんなに憂鬱にならないんではないか。そんなこともないのか?でもこの曲では、そんなだったのかも。

ystmokzk.hatenablog.jp今回のリストで2回出てくるのはNeil Youngだけ。

 

14. Kashmir / Led Zeppelin(1975年)

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 ハードロック的なものの生みの親でありながらも、ハードロックの様式美化されていく流れに反抗していた彼らは、次第にリフとリズムの同調を否定し、それらを解体してズレた形で再構成するような、そんな妙にギクシャクしてしかし魔術的な奥行きのある楽曲構造を志向していく。『Kashmir』はその最大の成功例のひとつで、珍しくバンドメンバー以外の演奏者を招いたこの曲で、Jimmy Pageはまるでストリングス隊にさえも楽曲のリフを強いるかのような圧倒的支配力と想像力を発揮した。どこか異国の地の要塞のようなサウンドと、それが陥落していくかのようなフックの付け方は、彼らのイマジナリーな技量が、実にストイックな曲構成の中で最大限に発揮された事例だ。

 そしてこの、どこから来たかもどこへ向かうのかも定かではない、謎に召喚された8分半の世界は、終盤の混沌を煽るようなストリングスのラインを抱えたまま、ゆっくりと元の闇の中へ帰っていくようにフェードアウトする。この曲においてフェードアウトとは、召喚した謎世界を闇に返すための儀式のようなものなのかもしれない。なんか魔術めいた話にするために無理やりこさえたような文章だけども。

 

15. Blue Monday People / Curtis Mayfield(1975年)

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 偏見ですが「1970年代のソウルミュージックって大体フェードアウトするんじゃないの」みたいな謎認識があって、きっとそんなことはないだろうに、自分の印象に残ってるソウルミュージックは大体フェードアウトする。「古いレコード盤は曲がフェードアウトするもの」っていう謎認識はこの1970年代ソウルに対する謎認識から来てると思われる。だってフェードアウトするんだもん。Curtis Mayfieldの名作のひとつであるアルバム『There's No Place Like America Today』だって殆どの曲がフェードアウトする。

 この、冒頭がちょっと後のアンビエントR&Bっぽい、コーラスの用い方が後のネオソウルっぽい、ゆったり憂鬱の雰囲気を燻らせるこの曲もまた、フェードアウトで消えていく。暗すぎもせず、淡々と丁寧にフィーリングを紡いでいく楽曲とファルセットの、静かに漲ったムードの感じに、ここで明確に終わり、とピリオドを打つのは確かに困難でかつ勿体無いように思えて、この淡々と結ばれた端正さを貫徹するには、フェードアウト以外の手段は思いつかない。この手の音楽のフェードアウトっていうのはそういう、楽曲をもっともいい形で収録しようと考えた時の自然な帰結の結果なのかもしれない。

 

16. スローバラード / RCサクセション(1976年)

 となると、日本のロックンロールバンドがロックンロールバンドになる前の過渡期に生み出したこの名曲も、そういえばがっつりとソウルミュージックな訳で、行き場のない二人のどうしようもない様子も、強がりも、ロマンチックさも、ドリーミーさも含んだこの悲しみと喜びにまみれた歌には、フェードアウト以外の終わらせ方は、少なくともスタジオ版では不可能だったろう。

 最後のサビの後Aメロに戻って、それが終わってからも1分半近くの尺が残っていて、そこでは清志郎の静かに唸るようなスキャットは案外すぐに終わり、そこからはひたすら、何故か客演したTower of Powerの演奏がひたすら咽び泣き続ける。その壮絶さも結構早くからフェードアウトの減衰が始まって、残り30秒くらいの地点からゆっくりと時間をかけてゼロに到達する。優雅さの中の感情の爆発を、自身の声でなく演奏と長めのフェードアウトでしつらえた清志郎の判断は、意外だけど、でもクールなものに思える。あれほど激情をぶちまけて歌うけども、実は案外クレバーなんだなと思った。

 

17. Sheena is a Punk Rocker / The Ramones(1977年)

 情緒をダラダラ引き延ばすようなフェードアウトなんて要らねえ、スパッと演奏を終わらせるのこそクールだ!というイメージがパンクロックというジャンルにはあるし、実際そういうのも多いと思うけども、しかしパンクロックの開祖と言えそうなラモーンズが案外フェードアウトを用いてたりする。まあこの人たちオールディーズポップス大好き人間だからそうもなるのか。Phil Spectorと会合する前で最もポップなパンクロックであるこの曲も、そう考えると楽曲自体は既に殆どPhil Spectorかも、と思える。コーラスワークとかポップスすぎる。

 そして、そんなポップスファンである彼らだからこそ、フェードアウトをどう使うかもポップスに倣うわけだ。キャッチーそのものであるタイトルコールの連呼を延々と繰り返してフェードアウトさせていく、その姿勢はもう、先人のリスペクト以外の何者でもない気がする。こういうラモーンズの、パンクという概念に拘らず素直なところがなんだか好感が持てる。

 

18. Le Freak / Chic(1978年)

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 2010年代に『Get Lucky』をはじめとする様々な大ヒットによって瞬く間に時の人となったNile Rodgersの出自ということで、一気に注目を浴びたChic。この代表曲のイントロを聴いた瞬間に「あっ『Get Lucky』とかと同じギターをチャカチャカいわすやつやん!」と気づいた時には思わず笑顔になった。この時代に彼らが作った音楽が既に完全に洗練され切っていて、『Get Lucky』は本当にリバイバルだったんだな、と気付かされた瞬間。そして、てっきり1980年代と思っていたら、それより前。ディスコミュージック=ダサい、みたいなイメージはどっから来たんだろう?と、この曲を聴いてると分からなくなってしまう。

 そんな当時から洗練され切った、実にスムーズでクールな反復を、ニューウェーブ以降的な発想でブチ切るのは忍びないもの。やっぱりここは、フェードアウトで終わらせた方が、このシックな享楽の時間が過ぎ去っていく、という終わり方にした方が、気が利いているというもの。「ダンスを止めるな、曲がブツ切れるまで」よりも「ダンスを止めるな、曲がフェードアウトするまで」の方が良さげ。でもフェードアウトするまで踊り続けるってのも、最後の方はすごい小さい音に合わせて踊るの大変そうだ。

 

1980年代

 パンクがポストパンク・ニューウェーブに変異して、演奏がブツ切れることの格好良さが次第に確立されていく。「フェードアウトなんてまどろっこしいことするより、スパッと終わったほうが、その後の静寂込みでクールだ」という時代の到来。フェードアウトが「普通に使われるもの」から「何かの効果を求めてあえて使うもの」に大き変化していく過渡期がこの時代と言えそう。

 

19. Heart and Soul / Joy Division(1980年)

 ブツ切れで演奏が終わることの無情さ・クールネス。まさにそういうのの本丸ともいうべきJoy Divisionでも、たまにこの曲みたいにフェードアウトで終わる場合がある。何でもものは使いようなんだろう。何より、変化をつけることは作品集を作る上で大切なことだ。それはきっとバンドメンバー以上に、エンジニアのMartin Hannettが弁えていたんだろう。このバンドのスタジオ作品の音響的な面白さは殆ど全てこの人のお陰なのでは…とライブ音源を聴いてたら時々思う。

 冒頭から延々と繰り返される単調なベースラインとリズムの脈動、その上でどのようにサウンドを膨らませ、Ian Curtisの声によるダークネスを響かせるかがこの曲の目的だったであろう。歌の途切れた箇所に派手でショッキングなギターのカッティングが入り、相応に目的が果たせてきた際、別にビートを打ち切っても良かったんだろうけど、でもここではフェードアウトを選んでいる。それはもしかしたら、この執拗に反復されるベースラインとリズムが、本当にずっと鳴り響いてたら相当嫌だろうな、という発想からかもしれない。フェードアウトにしておくことによって、聴くものはその想像したくない可能性を想像できてしまう。こんな無感情すぎるビートが寝てる時に夢で反復し続けたら何か体調を崩してしまうだろうな。

 

20. レイクサイド ストーリー / 大瀧詠一1984年)

 フェードアウトについてファンの間で一大議論を切り広げ続けた楽曲として、これ以上のものはないかもしれない。陰鬱なセクションと晴れやかで軽やかなポップさのセクションとを強引に接続させて作られたこの楽曲は、惨めさが染み渡る歌詞と裏腹に大変クリスマス的なロマンチックさが炸裂するサビのコードのフェードアウトで収録される予定が、レコードを刷り始める直前でご本人が心変わりし、フェードアウトの後戻ってきて最後にコーダが付いて完奏するバージョンが、正式な1984年のレコードとしてリリースされた。それで終わればシンプルなのに、事もあろうにその後アルバムが再発されるたびに曲追加・曲順変更とともに、この曲は当初想定のフェードアウトに改められて、ちゃんと完奏するバージョンはファンから「大エンディングバージョン」と呼ばれ、入手が難しいレアトラックとして伝説の存在になっていった。今年のサブスク解禁の流れの中で”追加解禁”によってあんなにあっさりその伝説の存在が解禁されるとは思わなかったけど。

 そして、期せずして大エンディングバージョンが聴けてしまった不届きものの感想としては、この曲はやっぱフェードアウトの方がいいかもしれない、ということ。大エンディングバージョンは、一度フェードアウトしてから戻ってくるまでが短すぎる。そこがもっと長ければ大エンディングバージョンもいいのかもな、と思ったけど、でもこの曲の後に『フィヨルドの少女』が始まるのであれば、尚更ゆったり4回回しでフェードアウトしていく「最終バージョン」が一番いいと思った。大瀧詠一さん、貴方のお亡くなりになる直前に下した「30周年盤」の判断が結局正解だったみたいです。この曲のフェードアウトから『フィヨルドの少女』が始まる瞬間の雰囲気、ぼくは大好きです。

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21. The Killing Moon / Echo & The Bunnymen(1984年)

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 演歌かな?みたいなイントロから、いい具合のゴスい雰囲気に進行して、そしてサブドミナントマイナーを用いた、シンプルなのに非常に優雅なサビに行き着く楽曲。エコバニは何だかんだでこの曲が一番好きなため、そういえば鋭角的なギターサウンドを擁するニューウェーブバンドだった、ということをよく失念してしまう。それくらいこの曲のサビの、開放感と緊張感、あと歌詞にもあるような”宿命”の感じは本当に素晴らしい。この曲でもって中二病ぶる中学2年生を送りたかった。

 この曲も歌が終わってからの演奏時間が1分程度あり、ボーカルのスキャットは程よくロマンチックで、ちょろっと爪弾かれるギターのラインも程よく怪しさを付加して、この時間がずっと続けば…の力場を作り出していく。そして、現実的にはずっと続けることは不可能であることから、フェードアウトという機巧により緩やかに強制終了させられる。この曲のフェードアウトのことを思うと、ある種のフェードアウトのことを”デウス・エクス・マキナ”と呼んでしまってもいいのかもしれない。「デウス・エクス・マキナ方式のフェードアウト」。他に該当する曲が思いつく人もいるかもしれない。

 

22. ボクハナク / MOONRIDERS(1986年)

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 MOONRIDERSは1970年代でもあり1980年代でもある、という、その存在し続けた状況によって複雑なメンタリティをしている。だからこそ、1980年代式なサウンドでどう考えても1970年代的な楽曲と言えそうなこういう歪なカントリーソングも生まれる。普通に演奏したらいい具合に土っぽい曲に仕上がりそうなのを、ここまで冷たい質感で仕上げてしまう、その混濁こそMOONRIDERS!本当に尊敬してる。

 この曲の最大の聴きどころは、当時作曲者の鈴木博文と師弟関係にあったCarnationの直枝政広(当時は”直枝政太郎”名義)とのデュエット。当時まだ素っ頓狂な曲ばかり演奏していたCarnationではあまり聴けなかったであろう真正面からのボーカルの、男らしさの利いた素晴らしさは、正直作曲者の歌唱力をゆうに上回ってしまっているが、スタジオ版の冷たいアレンジでは鈴木博文の細く儚いボーカルも相性が良く、両者は絶妙な調和を成している。そしてイントロの謎なボーカルフレーズも加わって、よく分からないけども大団円なムードの中、エンジニアもそれをどこかで途切れさせるなどという酷なことはせず、フェードアウトで心地よい余韻を持たせて終わらせてくれる。

 そんな心地よい余韻の次に来るのが、より冷たい質感の『A FROZEN GIRL, A BOY IN LOVE』のイントロなんだからたまらない。ほんと名盤。あと、本当はMOONRIDERSは『くれない埠頭』を入れるつもりでしたがSpotifyになかったのでこっちにしました。Apple Musicにはあるのに何故?というか全体的にApple Musicの方が揃いがいいなあと、今回やこの前のサブスクの記事などニッチな探し物をするときによく思う。

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23. The Ballad of Dorothy Parker / Prince(1987年)

 1980年代を自身のバンドを従えて、時にゴージャスに時にソリッドにサウンドを切り替えて渡り歩いてきたPrinceが、再びソロ名義に戻って密室的なサウンドを追求したのが1987年の傑作2枚組『Sign "O" the Times』で、その圧倒的すぎる冒頭の一角として、普段のPrinceらしからぬ、浮ついた要素を限りなく削り落とし、代わりに1970年代式のダークにけぶるソウルのムードを詰め込んだ結果、非常に幻惑的な雰囲気となった名曲。当時の打ち込みサウンドのサンプルがそういう音だからなのか、特に不安定に音程が滲んでいくエレピの感じを中心に、音の感じがMOTHER2みたいに感じられる。時代的にこっちの方がずっと先だけども。また、この音の感じは機材の不調によりもたらされたとも言われてるけども。

 そんな不思議なサウンドを用いつつも、ここでPrinceはそれこそ『Family Affair』やその辺りの時期のSly & The Family Stoneサウンドを本気で狙いに行ったもの、とされている。なので、そのことを思うと、この曲の終わり方が苦々しい余韻を残したままのフェードアウトになっていることに、奇妙な納得が生まれてくる。もしくは、この夢か妄想の話かのように綴られる、不思議な情事未遂の歌詞の雰囲気も、この何とも言えないフェードアウトがよく似合う。

 歌詞について、また録音の背景について、以下の記事がとても詳しい。何でもできてしまうPrinceだってエンジニアは必要なんだよなあ、と気付かされる。

strongerthanparadise.blog.fc2.com

 

24. Darklands / The Jesus and Mary Chain(1987年)

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 このブログでもう何回取り上げたか分からない、大好きな曲。シンプルなコードとギターリフで、コード感も明るいのに、どうしてこんな深い奥行きが感じれるんだろう。単に"darklands"という中二病的な単語に騙され続けてきているのであれば、それはそれで楽しい人生かもしれない。また、彼らがThe Velvet Undergroundの正統な後継者であることを如実に示した楽曲でもあると思ってる。

 「トゥトゥウ、トゥトゥウ、トゥー」のコーラスは、キャッチーさと無気力さが絶妙な折り合いを見せていて、ここに単にⅠ→Ⅳの繰り返しを勿体ぶったコードカッティングで弾いてるだけのこの場面は、『Just Like Honey』に続く「たったこれだけのことなのに、どこまでも美しい」場面だと思う。その、空虚さに落ち着いて満たされるような不思議で幸福な逆説の中、フェードアウトしていくときの、少し切ない感じ。この曲に関しては、もっとフェードアウトはゆっくりであってほしかったかも。こんなニッチな要望が出てくるくらいには、この曲を沢山聴いてきたかもしれない。いい曲だ。

ystmokzk.hatenablog.jp

 

25. She Bangs the Drums / The Stone Roses(1989年)

 1980年代の終わりにThe Stone Rosesの1stがある、というのはいささか物語すぎてる。特に英国ではニューウェーブ的なダークさが支配的であった1980年代のムードを、エネルギッシュで少し享楽的なギターポップである彼らの楽曲が塗り替えて、より大衆的な享楽的・懐古的なポップさの1990年代に繋がっていく、という歴史観は、実際はそうじゃないところが色々あるにしても、実に分かりやすくて、今でもこうやって援用してしまう。大体、このアルバム2曲目の楽曲の、溢れんほどの眩しさが、そう思わせてしまうんじゃないか。やたらシンバルを連打してたりベースがゴリゴリいってたりするけど、でもやっぱこの曲全体のイメージだと”エネルギッシュなギターポップ”でしょ。程よくギターの音が整理されてなくてグチャグチャしてるのも、かえって煌めきを増す方に作用してる。

 一度サビに展開したら様々なフックをつけた感想の後、もうAメロに戻らずサビを繰り返す、という曲構成も、この曲の解放感を拡張している。そして、ひたすら気分が自然に浮ついてくるテンションの中で、この感覚がずっと続けば、っていうのは誰もがそう思うこと。そしてエンジニアもそれが分かっているから、この曲をフェードアウトで終わらせて感覚を”永遠”の可能性の方に閉じ込めてくれる。そういえばギターポップ的なフェードアウトはこのリストでは初登場か。こういうのも爽やかで実にいいですね。

 

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中締め

 以上、前半25局分でした。

 後半は1990年〜現在、の25曲になります。

 最初は「こういう系統の効果のフェードアウト」とか系統づけをしようかと思いましたが面倒くさくなってやめました。読んでいけば段々なんか系統あるなあ、とか思うこともあるかと思います。

 何にせよ、後編でもいいフェードアウトを取り上げられれば、と思います。

 

7/31更新:後編書きました。

ystmokzk.hatenablog.jp