ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『君は天然色』大瀧詠一

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 先日投稿した以下の記事で、その1曲目になるこの曲が、あまりに書くことが多すぎたので、この曲単体で記事にすることで後回しにしました。

ystmokzk.hatenablog.jp

 

今見ていただいてるこれが、その記事です。

 『A LONG VACATION』というアルバム全体よりもむしろ、その先頭に配置された、この一世一代の大名曲について正面切って何か書くということの方に、より強いプレッシャーを感じます。果たして。あくまで、個人の感想として読んでください。

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1. 楽曲の概要

 ここは本当に概要だけ書きます。

 言わずと知れた大瀧詠一の代表曲のひとつ。作曲・編曲は大瀧詠一*1、作詞はバンド・はっぴいえんど時代に元同僚だった、この時期には作詞家として歌謡曲の世界で活躍し始めていた松本隆。日本音楽史に燦然と輝き続ける1981年の大名盤とされるアルバム『A LONG VACATION』(いわゆるロンバケ)の冒頭に配置され、再生直後に非常に鮮烈な印象を残す楽曲。またアルバムと同日にシングルもリリースされました。冒頭のサムネ画像はその時のジャケットで、カップリングは同じくロンバケ収録曲の『カナリア諸島にて』が収録されています。

 大名盤ロンバケの冒頭ということ、そして何よりも楽曲が非常に強力でかつ明るくポップであることからか、他アーティストによる大量のカバーが存在していて、近年でもアニメ『かくしごと』のエンディングにも採用されました。

 元々は他の女性シンガー*2への提供曲として作った楽曲が不採用となり、それが転じてこの曲になったとのこと。のちに大瀧本人がその不採用の判断をしたディレクターに感謝してると語っています。

 あと、そういう経緯もあったからか、この曲がロンバケ収録曲を録音していく一連のセッションの中で最初に手がけられたものになっています*3

 

2.素晴らしい箇所

 ここから、具体的に楽曲を見ていきます。つまり、個人の感想ですが。。

 最初に思うところを乱暴に言っておくならば、ロンバケ全体のムードすら突き破って浮いてるくらいにエモーショナルさの極まった、ワンダーランドでエモい楽曲となります。ロンバケ先頭の曲なのに”浮く”とはどういうことか。

 

2-1. イントロ

 世界に「圧倒的な印象を与えるアルバムの1曲目」というものは沢山あるけども、この曲は日本でも有数の、そういった楽曲だと思う。そして、それはもちろん楽曲自体・歌自体の持つ鮮烈さにも理由は求められるけれど、でももっと直接的に影響を与えてるのは、あのイントロだろうと思う。以下、アルバムバージョンを基準に話をします*4

 リリースよりずっと後でも数々のCMでこの曲が使われ続けるけど、その際大体このイントロは含められる。凄いのは、これほど日本音楽史有数のイントロが、ほとんど楽器のアタック感のみで構成されていること。録音風景を思い起こさせるような光景を経て、ドラムスティックのカウントの後に突如噴き出してくるこの、シャッフルビートの上を3連で駆け抜けて行くアタック感の塊のような、ただの3コード*5の、その煌めきの度合いにこそ、大瀧詠一が求めていた「あの、夢のようなウォールオブサウンド」が遂に自分のものになった喜びが刻まれている。

 ピアノやストリングスによるささやかなアルペジオやオブリガードも、アコギと鈴の音で埋め尽くされたこの強烈な3連のリズムのアタック感に程よく埋没していく。ここには楽器の重ね方はやや複雑ながら、凝ったコード進行も、流麗なリードフレーズも存在しない。言うなれば、構造自体はRamonesなどと同じくらい、プリミティブな作りになっている。そんなシンプルなものが、どうしてこうも多くの人々の心を揺さぶり続けているのか。このイントロが流れた瞬間に世界が一気に『君は天然色』の景色に書き換えられる感触、というか。それが多くのCM等で使われ続ける強い要因だと思う。

 その”ドリーミーなアタック感”を生み出しているのが、まさに「大瀧詠一流ウォールオブサウンド」による録音方法なんだろう。この曲はその手法のまさに典型的な事例で、アコギだけでも4本を同時に配置するなど、同じ楽器を複数本立てて同時に1発録りで録音する、という手法が使われている。1つの楽器に1人の演奏者が必要となり、大人数での録音となっている様は、アルバム版の雑然としたイントロの様がその光景を想起させる。ウォールオブサウンドの原点であるPhil Spectorと同じこの録音方法だと楽器それぞれの分離は悪くなるけれど、むしろあえて分離を悪くして、元の楽器の音色を強引に変化させている、とも捉えられる。そうやってできたサウンドが、元のPhil Spectorのはモノラル録音でモコモコした感じになるがここでの大瀧詠一はステレオで意外にポイントポイントでくっきりした整理になっていて、これは1980年録音という技術革新、とりわけハイファイさで世界の先端を目指していたであろう当時のソニーの技術の結晶でもあるんだろう。ソニーの技術と大瀧詠一の名曲とが初めて合わさった、最初の”幸せな結末”。

 

2-1-1. セクション間のフィルイン

 そして、歌が始まる直前に挿入される強いリズムの仕掛けが、展開が変わることを雄弁に告げる。ドラムと、そしてもはやアタック楽曲と成り果てたピアノの強打の”ユニゾン”によるこのパターンはこの曲で何度も使われ、その都度、楽曲内の場面転換を強烈に示唆する。リズムのフレーズ的には、Wizzard『See My Baby Jive』からの引用。というかこのWizzardの曲自体、この浮立つようなシャッフルの感覚自体が大いに『君は天然色』や『青空のように』等の楽曲の雰囲気に影響を与えていると言えそう。ひたすら享楽的な雰囲気を含んだこのリズムセクションが、爽やかな光景の切り替わりを劇的に表現していく

 なお、このリズムの仕掛けを挟むことで、派手なアタック感のインパクトの裏でイントロ→AメロでコードのキーがE→Dと転調する力技を自然にカモフラージュする効果も発揮している。似たような仕掛けが2回目のサビ→間奏のD→Eの転調やその間奏からまたキーDのAメロに戻る際などにも使用されている。

 

2-2. Aメロ〜Bメロ(全部Aメロ?)

 アタック感の塊であったイントロから”歌”という明確な形でメロディに転換していく場面は、この曲の最初の大きな転換点だ。

 この曲のサビ以外の歌のセクションについては、ここまでがAメロ(Verse)でここからがBメロ(Brigde)というのはやや曖昧な気がするけれど、あえてここではAメロとBメロを区別する。どこに境界を付けたかは、曲を知ってればなんとなく分かると思う。

 

2-2-1. Aメロ

 Aメロについて言えば、演奏がブレイクしてキックが鳴る状態で歌が流れるのと、歌が途切れると同時に遊園地のような演奏が展開していくのを交互に繰り返すことが、この楽曲の遊園地的な雰囲気を一気に高めている。Dのコードをこねくり回した同じクリシェの上で歌も演奏も展開しているけど、このストップ&ゴーな展開にはどことなくサーフィン&ホットロッド的なノリ、というかThe Beach Boys『Surfin' USA』的なノリを感じる。『Surfin' USA』は歌が途切れるたびに演奏とコーラスが吹き出してくるけど、この曲では歌が途切れるたびに遊園地が噴き出してくるような感覚になる。ハープシコード的な音も聞こえるこの遊園地部分は今思うと実にソフトロックしていて、日本で本格的にソフトロックが広く取り扱われるようになるのが1990年代以降なことを思うと、なかなかにタイムスリップな感覚に陥る。

 歌手・大滝詠一の歌はエコーに包まれながら実にソフトなクルーナーで、1970年代の荒々しい歌唱スタイルを一気に過去にしてしまった。メロディの元ネタとしてThe Pixies Three『Cold, Cold Winter』があるようだけど、このメロディ展開を「Surfin' USA式」のリズム展開に合わせることで、あの”切なさが漂う追憶の中の遊園地”みたいな雰囲気が見事に醸し出される。

 

2-2-2. Bメロ

 そんな切なくもソフトロックなAメロに対し、Bメロは一気にとぼけるし、一気にテンションを上げてくる。

 まずは突如出てくるリズムの混乱。別に同じメロディを普通のシャッフルのリズムで歌えるのにあえて、この変拍子的で様々なパーカッションやエフェクト*6で思いっきりとぼけて見せる。ここのとぼけることの必要性は何だろう…と考えて思ったのが、ただ普通にしていれば実にセンチメンタルな歌になってしまうところを少しおどけてみせたかったのかな…という、つまりちょっと気恥ずかしさを誤魔化しにかかっていたのかな、ということ。もちろん、ジェットコースター的な楽曲にする、というコンセプトの一環と捉える方がもっともらしいけれど。

 恥ずかしさの誤魔化しだと感じるのは特に、リズムが安定した上で歌われるメロディが突き抜けていくような高音で、それはここのメロディが他の大瀧詠一の”歌もの”と比較しても高く強く響いて、半ばシャウトのようにさえ聞こえる、つまり、大滝詠一らしからぬ”エモい”歌になってしまっている*7、と思っているからだ。サビでより強くそう思うけども、この曲の歌って、大瀧詠一全楽曲で最もエモく突き抜けていくメロディを持っている。それはAORとかシティポップとかそういうしゃらくさいフィルターをゆうに突き抜けていく類の強度がある。

 この曲について長々書いているこの文章で一番言いたいことは、この曲が隠し持っている、ロンバケらしからぬ、いやロンバケだからこそかもしれない、この不思議なエモさについてだったりする。

 この高らかにメロディが伸びるBメロは、その後Aメロに帰っていくときは、安定した小節数で演奏がゆっくり下降し、また予定調和的なAメロにつながっていく。でも、サビに繋がるときは、安定した小節数を稼ぐことをかなぐり捨てて、短く籠ったフィルインと”謎の”ジェットサウンド*8によって、実に前のめり気味にサビに接続していく。この勢いもまたジェットコースター的で、かつやっぱどこかエモい性急さが感じられる。

 

2-3. サビ

 この曲の素晴らしいのは、このサビが本当に実に”サビ”しているところ。ポップなメロディと突き抜けていくようなボーカル、そしてキャッチーで実に切なく儚い歌詞のフレーズ、どれもこれもエモさに満ちていて、そしてそれがイントロと同じトライアドの3コードのみの上に成立していること*9に驚かされる。

 あまりに有名なフレーズ「想い出はモノクローム / 色を点けてくれ」は松本隆個人のエモーショナルさ*10も入ったキャッチーでセンチメンタルな一節*11だけど、特に「モノクローム」の箇所を歌う大滝詠一の声はとりわけ声を高く張り上げて歌い、彼の高い歌唱能力でギリギリ声が歪んでないだけで、これはほぼシャウトなんだと思ってる。想い出はモノクローム / 色を点けてくれ」ってサビでシャウトする歌が、エモくないわけがない訳で

 そして、スリーコードの繰り返しで進行し、リズムのキメも派手なこのセクションが、アメリカンポップスマニアとしての大瀧詠一のポテンシャルが最ものびのびと発揮された瞬間なんだと思う。The RonettesやThe CrystalsやThe Ramones*12The Jesus and Mary Chain*13などと同じように、実にたわいもないシンプルに過ぎるコード進行の中に、永遠の夢みたいな、ロマンチックでエモーショナルなメロディを賑やかな演奏と共に産み落とした。こういうシンプルなコードの中だからこそ輝く、永遠に輝けるようなメロディというのが確実にあって、この曲のサビはその際たるもののひとつなんだと思ってる。

 

2-4. その他の演奏

 上述したセクション間のリズムのキメによって楽曲はサビからAメロに戻ったり、または間奏に移ったりする。やはり上述のとおり、リズムのキメの中で密かに結構強引な転調が行われ、間奏は歌メロのある箇所より1音高いキーになっている。間奏の前半はオルガンで、やや安っぽい質感もドリーミーなムードに一役買って、そして間奏後半のエレキギターの潤んだクランチサウンドのコードカッティングは、転調を挟みつつ実に甘い、鈴の音を引っ掻いて作ったかのように甘い。この曲本当にソフトロックしてたんだなあとも思ったり。

 この曲で唯一、アウトロのピアノでのシンフォニックな終わり方は、悪くはないけどそんなに好きじゃない。あんな演奏会みたいなものを取ってつけるよりも、どうにかしてイントロをもっと華やいだ感じにしたもので演奏をループさせてフェードアウト、の方が、この曲の永遠的なドリーミングさに合うような気もしたりする。でも、まあ、この曲がアルバムの先頭で、次が2曲目で『Velvet Motel』ということを思うと、やっぱりアルバムに合うのはあのピアノのアウトロなのかなあ、とは思う*14

 

2-5. 歌詞

 サビの項でその歌詞のフレーズがエモいことは触れたけれども、ロンバケ全体の「良く言えば洒落に洒落て大人びた、悪く言えば日常感が無く、またどこか覇気も欠ける」歌詞世界は、この曲もサビ以外の箇所では割とそんな感じはする。アルバム『A LONG VACATION』は元々、永井博のイラスト集に大瀧詠一がその題を付けたものが1979年に発売され、そのコンセプトを音楽作品に展開していくことを『君は天然色』レコーディングの際に思いついたのが取っ掛かりとなって製作が始まった作品で、なので初めっからリゾート的なコンセプトは内在していたものと思われて、そんなテーマに沿って松本隆が歌詞を紡いでいったものと思われる。

 なのでこの曲の歌詞もそのような、リゾート地でぼーっとしてるようなフレーズが散見される*15けども、この曲は基本的には「遠く離れた誰かへの感傷とおよそ叶いそうにない再会への願い」のテーマで進行していく。『夢で逢えたら*16と似たテーマだったことに気付くけど、その物語自体はそれでもそこそこ”ロンバケ的”に思えるキャッチーでトレンディーなストーリー仕立てに、基本的にはなっている。

 ただ、歌詞だけ読んでもやっぱり想い出はモノクローム / 色を点けてくれ」のフレーズは、そんなドラマ仕立ての世界を食い破ってくるほどの、強く複雑で痛切な祈りが感じられまくる。歌手・大滝詠一絶唱が加われば余計に、この一節はロンバケ全体の「BREEZEな大人と諦めの世界」に収まりようのない、どこまでも飛翔していくようなイメージの加速具合を呈してくる。

 

3. 個人的な見立て:AOR視点での『Pet Sounds』として

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 個人的なことかもだけど、『君は天然色』でロンバケを聴き始めると、大瀧詠一版『Pet Sounds』が始まるんだ、って気持ちにずっとなってたし、今でもそう感じる。ロンバケ2曲目以降は別にそんなにそういう気持ちにならない*17のに、『君は天然色』にだけは、やたらと『Pet Sounds』を感じながら聴き続けてきた。

 どうしてなんだろう、とぼんやり考えてきたことが、今回ここまで文章をダラダラ書いてきて、ようやく少し像を結んできた。それはおよそ、以下のような共通点からだったんだと思う。

 

①ジェットコースター的で遊園地的な曲展開

 『Pet Sounds』冒頭の『Wouldn't It Be Nice』もまた、転調や曲調の変化に富んでいて、かつシャッフルビートで進行していき、夢想的な楽しさの中に憂鬱が差し込んでくるような印象構造をしている。『君は天然色』はそれを「こうしたらもっと派手で魅力的になりますぜ」って具合に、大瀧詠一的に翻案したもののように感じてた。もちろん各箇所のフレーズの元ネタはもっと様々なものなんだけども。

 

②ソフトロック的でドリーミーな伴奏

 今回これを書くまで、全然この点についてしっかり考えたことがなかった。1980年代的なサウンドが色々入りつつ、1960年代中盤くらいまでのアメリカンポップスの極端なデフォルメを強く感じつつも、演奏の色々をちゃんと見ると、それらの装飾はアメリカンポップスより後の時代、ソフトロックの時代以降に用いられたようなサウンドに似ていたんだなあと分かった。そして、そういうサウンドを含むソフトロックというジャンルの大元のひとつが『Pet Sounds』である訳だから、①のような印象がサウンド面ではどこから生まれてるのかと考えると、これはソフトロックサウンドからだったんだな、ということにようやく気づけて良かったと思った。

 

③メッセージ性

 『Pet Sounds』の詩情は乱暴に言えば「繊細でナーバスなイノセンスのゆらぎ」と言えるだろうと思うけど、ロンバケ全体の雰囲気は別にそんな感じではない。そもそも”イノセンス”なんて言葉をとっくに通り過ぎた、黄昏たダンディズムを身につけた大人の世界を非日常的な光景に投影した物語が、ロンバケの基調となるものだ。

 だけど、『君は天然色』についてだけは「かつての繊細でナーバスなイノセンスでもって触れ合っていた頃を想う」ような歌に思える。それは、他の歌に比してもどこか可愛らしく感じられる歌の主人公の回顧描写に現れているし、何よりも(何度も書いてくどいけど)「想い出はモノクローム / 色を点けてくれ」の箇所の、胸のうちを焼き尽くすかのようなやるせなさは、実に『Pet Sounds』的に思えるような気がする。

 元々エモーショナルな1人称歌詞を避ける傾向にあるはっぴいえんど界隈において、特にシュールな歌詞を連発していた大瀧詠一と、歌謡曲フィールドへの進出でかつての前衛的な手法を捨て「誰しもが触れられる物語」づくりをもっぱら得意とした松本隆の2人がタッグを組んで、こんなにもエモーショナルな歌が出来上がったことは、とても不思議な出来事だと思う。でも二人の再会によって生まれたこの曲の感情は、様々な状況もあってか、まるで「『Pet Sounds』の後も傷つき続けて喪失し続けて生き続けて大人になった」みたいな姿形をしている。

 「長い休暇」というタイトルは後の大瀧詠一自身のキャリアの停滞さえ示唆していたように思えてしまうけれども、この全然幸せそうに思えない「長い休暇」は、このように傷つきつづけたイノセンスの、息も絶え絶えの様子から始まるんだ、と考えると、その「長い休暇」の意味や理由なんてのも、妙な形で腑に落ちてしまうところがある。

 「ポップソングに忍ばせられたイノセンスの叫び」という点で、やっぱり『君は天然色』は『Pet Sounds』と同質の永遠の輝きを持っているんだろうな。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・

終わりに

 都合4記事に渡りました、サブスク解禁を受けての弊ブログでの大瀧詠一特集記事もこれで最後になります。『EACH TIME』の全曲レビューも考えたけどそれは2024年に40周年盤とかが出る際に考えます。

 自分はやっぱりこの曲が、ロンバケというアルバムとは別次元で好きで、今回はその理由を考えるために色々と苦労して、結局やっぱこの曲に『Pet Sounds』と同種の素敵さを求めていたんだろうな、というところを落とし所にしました。ご本人はこの曲を『Pet Sounds』に結びつけて話したりしてるのかな。ちょっと大ネタすぎるものな*18

 1980年代の大瀧詠一は”大人のポップス職人”となってしまって1970年代よりも少なくともエモーショナルさでは劣る、それも仕方ない、と思ってたけど、よく考えるとこの曲*19に関しては、むしろ1980年代の彼だからこそのエモさに満ち満ちていました。

 個人的には「失ってしまった輝かしい過去がある」というのは少々羨ましいことなんですが、でもそういった羨ましがる気持ちも含めたノスタルジーだとは思うので、やっぱり「想い出はモノクローム / 色を点けてくれ」な世界観に、いつまでも鮮烈なものを感じていたいし、いつまでも淡く傷つき続けていたいって思うんです。そう、初めっからこの記事は、大瀧詠一がどういう思いを込めてこの曲を作ったか、とか、どのセクションが過去のこの曲をこういう意思でもって引用していて、とか、そういうことはどうでも良かったんだな、自分がこの曲に感じるエキサイティングなノスタルジアの正体を見付けたかったんだな、ということです。今回、それが割と見付けられたのかなあと思えて、少しばかり嬉しいです。

 

 ここまでずっと長い自分語りでしかなかったのかもしれない、と思うと、奇特にもここまで読んでくれた人に申し訳ないことをしてしまったのかもしれないと不安にもなりますが、この記事で読んだ人が『君は天然色』を聴く感じが少しでも良い具合になるならとても嬉しいです。

 サブスクによって広く解き放たれた大瀧詠一を、思い思いに楽んでいきましょう。

*1:編曲は正確には彼の変名のひとつである多羅尾伴内となっている。

*2:須藤薫。彼女へ提供した『あなただけI LOVE YOU』に続く大2弾としてこの曲の原曲が制作され、どちらかといえば男性向けの曲ではないか、との判断で不採用になったらしい。『あなただけI LOVE YOU』は歌詞も大瀧詠一が書いてて、ロンバケ直前の曲として興味深い。

*3:ロンバケの楽曲のレコーディングの順番は例えば40周年エディションのDisk3『A LONG VACATION SESSIONS』がほぼレコーディング順になっているのでそういうところで確認できる。ソニーの公式で曲目やレコーディング日まで確認可能。

*4:ロンバケは「楽団が1曲目からずっとバンド演奏している。最後の『さらばシベリア鉄道』はアンコール」というThe Beatles『Sgt.Peppar's〜』などと同様の前提に一応なっている。正直この演出は『天然色』と終盤の『FUN×4』のみしか施されてないけど、でも『天然色』冒頭の、楽団で演奏を合わせる直前のガヤガヤがあった方が、いきなり怒涛の演奏が始まるシングルよりも、雰囲気がある気がして好きだって思う。

*5:なお、このイントロの元ネタとされるのはHoneycomes『Colour Slide』だけど、この元ネタの曲名は同時に、『君は天然色』のサビの歌詞の「Color Girl」にも対応してる。大瀧詠一は過去の楽曲サンプリング大好きだけど、歌詞を書いた松本隆もここは彼に同調してこうしたのかな。

*6:サンプリング的なエフェクト遊びは1980年代の彼が時々用いていて、同じロンバケなら『Pap-pi-doo-bi-doo-ba物語』でやってるし、特に甚だしいのは『魔法の瞳』(『EACH TIME』収録)で、左右チャンネルを行き交う音は実に偏執的。しかしこういう仕掛けはやや時代的なサウンドっぽく感じられて、正直言えばちょっとダサいな…と思ってしまうことも。

*7:リズムの切り替わりと比べてやや食い気味にこの”シャウト”が始まることもまた、エモさに拍車をかけている。

*8:本人が「どうやってこの音を出したのかは当事者のみの秘密」と言うくらいの自慢のフレーズのよう。ギターのピックスクラッチじゃないのか…?と思うけど、どうやってるんでしょ。

*9:正確には、イントロから1音下のコードになっている。これは元々イントロと同じキーに転調して歌うつもりが、実際歌詞を踏まえて歌ったら違和感があって、苦肉の策で”録音した演奏を機械で無理矢理1音下げた”ことによるもの。大瀧詠一という人はトラックや歌を実に緻密に作る割に、自分が歌を載せる時のことについては驚くほど無頓着なことが多々ある。そもそも「先にトラックを録音した後にそれに乗せるメロディを考え始める」という、異様な作曲技法を彼はよく取っていて、それで歌メロが思い浮かばなかったからボツにしたトラックさえあるということで、この辺の感覚は本当に理解ができない。凄いけど、理解できない…。

*10:ロンバケの歌詞の仕事を受けた時期に彼の妹が病気で死去し、失意で何も手がつかない中でも歌詞を期限を気にせず待ってくれた大滝詠一のために何とかペンを取って、この祈りのようなフレーズが出てきた」という話は、松本隆があちこちで話しすぎて少しアレな感じもしつつ、しかし、どうしようもなく感傷的にならざるを得ないエピソードだ。

*11:久米田康治のマンガ『おくりごと』でも、このフレーズが実に印象的に引用される。というか、あのマンガは単行本のデザイン等、初めからロンバケ意識で作られていたんだなって思った。

*12:別に大瀧詠一ラモーンズ意識していたとは全然思ってないけども。

*13:これは時代も大瀧詠一より後だしアメリカでもないけども。

*14:というか冒頭の曲でいきなりフェードアウトは、どうなんだろう、あんまり良くない気がする。。

*15:開いた雑誌を顔に乗せ / 一人うとうと眠るのさ」「渚を滑るディンギー」など、3番Aメロでリゾート要素を一気に回収してるような気もする。

*16:こちらは大瀧詠一自ら作詞も担当

*17:最後の『さらばシベリア鉄道』なんてめっちゃ『Pet Sounds』から遠い世界って感じだし。

*18:ちなみにロンバケは1981年だけど、まさにその10年後の1991年に、やはり『Pet Sounds』を大きくフューチャーした『ヘッド博士の世界塔』がリリースされていることは、なかなかよく出来た偶然だと思う。

*19:あと方向性は違ってても『1969年のドラッグレース』もまた、どうしようもないくらいにエモいな。。。ってしきりに思う。