ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『NIAGARA CALENDAR』大瀧詠一

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 前の記事に追記した予告どおり、大瀧詠一のこのアルバムを全曲レビューしていきます。それにしても本当にすごいこう、幸せなアルバムだ…リアルタイムではむしろ不幸な作品なのに、事実とか予備知識とか除いて聴いてると、これほど”大瀧詠一”で溢れかえっているアルバムも無いのではないかしら、とか思ってしまいます。とりわけロンバケ以降の”プロフェッショナル大瀧詠一”に対する1970年代の”アマチュア大瀧詠一”の、そのアマチュアさを楽しむ視点では、また様々な面白さが立ち上がってきます。

 はっぴいえんど界隈の全作品集めた中でも、多分これが一番好きです。

 サブスク解禁前夜の投稿になります。サブスク解禁したら以下にリンクを後で追記すると思います。

ナイアガラ・カレンダー 30th Anniversary Edition

ナイアガラ・カレンダー 30th Anniversary Edition

  • アーティスト:大滝詠一
  • 発売日: 2008/03/19
  • メディア: CD
 

 

(2021年3月21日追記)

 サブスク来ましたね。

 しかも『'78』も『'81』も両方とも。これは嬉しい誤算。

 

 

はじめに1:なんなのこのアルバム?

 知ってる人は丸ごと読み飛ばしていい部分です。

 サムネ画像はこのアルバムの語り方の少し難しい感じを表しています。このアルバムは実質的に同じタイトル・同じ曲で2種類あるような感じになっています*1。サムネ画像はその2種類を並べたものです。歴史的経緯も交えて少し説明します。

 まず、このアルバムが最初に出たのは1977年12月。代表作『A LONG VACATION』が1981年3月なので、それよりしばらく前。そのときのアルバムタイトルは『NIAGARA CALENDAR '78』となっていて、1月から12月まで1曲ずつ割り振り、ジャケットの表と裏に12か月それぞれのカレンダーとイラスト*2や写真を散りばめた作品は「ナイアガラレーベルの来年のカレンダーですよ」っていう体裁の”音楽のカレンダー”的な作品でした。先着ですごろくや福笑いが付いてくるなど、新年を迎えるためのノベルティ・グッズ的な側面も持たせられた、庶民的なカジュアルさを持った装いでした。

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 しかしそういったおふざけを表に出しつつも、実は本作はレーベルの運営等で多忙と困窮を極めていた大瀧詠一が起死回生を狙って製作した、当時自身が出せうる範囲の音楽と歌をふざけたものも真面目なものも含めて全て、当時の状況で出せうる限りで製作し詰め込んだ、ガチもガチの自信作でした。1970年代の彼の活動はソロミュージシャンとしての活動よりもむしろ自身の起こしたレーベル・ナイアガラレーベルの運営が中心で、とりわけレコード会社コロンビアとの契約の際の「宅録できるよう16トラックのレコーダーを買い与える代わりに3年間で12作品をレーベルから出すこと」という条件が彼の生活に重くのしかかり、そもそもレーベルメイトになるはずだったバンドの相次ぐ解散*3もあり、楽曲の録音もミックスも歌手のプロデュースもしないといけないレーベル運営は壮絶に火の車状態だったそうです*4*5。しかしどうにか、彼の福生の自宅をスタジオに改造した”福生45スタジオ”を拠点に楽曲制作を続けていました。今作はそのスタジオを限界までフル稼働させて製作した、本人的には必殺の気持ちもあったであろう作品でした。

 しかし同時に、この作品は彼にさまざまな苦渋も舐めさせました。まず納期の問題*6や製作環境の問題から、特にミックス面で自分が満足いく作品にならなかったこと。そして何より、この自信作が全然売れず、結局レーベルの閉鎖が決定的なものになってしまったこと。数千枚程度しか売れなかったレーベル閉鎖決定後も上記の契約枚数達成のために楽曲制作が必要となり、その虚無的状況から、消極的なベスト盤『DEBUT』や最後のバカ騒ぎが爆発した『LET'S ONDO AGAIN』といった、それでもきっちりと見所ある作品をリリースし、第1期ナイアガラレーベルは閉鎖しました。

 時は流れて1981年、ソニーに移籍して潤沢な予算と豪華な録音スペースを得て、エンジニア周り及び歌詞を他者に任せて作曲家・歌手・アレンジャーといった側面”のみ”に注力したことで日本音楽史に残る名盤ことロンバケが完成し大ヒットしました。どうやらその録音〜リリースまでの作業と並行して、1970年代作品のリミックスも進められていたらしく、3月のロンバケリリース直後の4月に各アルバムが再リリースされています。その中でも大瀧詠一自身が力を注いだのが本作で、一度廃業したミキサー・エンジニアの”笛吹銅次”のキャラクターを引っ張り出して、ソニーのスタジオの最新設備を活用して自ら全曲リミックスに臨み、新ジャケットに差し替えた上で『NIAGARA CALENDAR '81』と俗に呼ばれる形で再リリースしました。

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ここにおいて、『'78』制作時に期限的・設備的に元々想定していたサウンドが実現できていなかった部分に徹底的に手が入り、本人的にこの『'81』でようやく本作が完成し、これを”オリジナルバージョン”としたい、ということになったようです。なので、この後に本作がCD化していきますが、特に1990年代以降についてはこの『'81』バージョンを元に各音源が出来上がっています。逆に『'78』バージョンは最初のLP以降ずっと再発されず、本作の30周年エディションで『'78』『'81』両方とも収録、という決定版が出るまではずっと、レアアイテムとして、特にロンバケ以降のファンから幻の作品扱いされていました。

 

 以上が、同じタイトル・同じ収録曲なのにジャケットが違う2枚のアルバムが存在してしまった経緯です。ややこしいですね。

 2つの違いを改めて整理すると以下の3点です。

 ・ジャケットが違う

 ・『'81』では演奏等の差し替えやエフェクトの削除がある

 ・ミックスの違い。特にエコー関係の違い。

 

とりわけ3つ目の点が聴いてる際には非常に大きく、『'81』はロンバケ以降と同じ感覚でリバーブ・エコーが掛けられているため、楽曲によってはロンバケ以降と遜色のないサウンドになっています。対して『'78』はそのようなゴージャスなエコー感が殆どかき消え、かなりデッドでドライな音響が目立ちます。この違いは特にボーカルについてモロに出てくるので、それぞれの同じ曲を聴いても印象が全然異なることがあります。

 このように同じものが2種類あれば決まって「どっちがいいの?」という話になる訳ですが、基本的には『'81』の方がいいだろうと思われます。しかし、『'78』のローファイさは、ことインディーミュージックや宅録音楽が好きな人の観点から眺めると、果たしてどうでしょうか*7。今回はこの違いについても色々見ていきたいと思います。

 

はじめに2:何が他よりすごいの?

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 「こんな知られてないアルバムよりもロンバケやイーチタイムの方がいいに決まってるっしょ?」という視点もあると思います。ここでは極力端的に、今作”だからこそ”の特徴を思いつく限り挙げておきます。

 

・曲調の幅広さ・アレンジの多彩さ

 まず、絶対これは外せない点です。1970年代の彼の作風はどっちかというとリズム重視のややコミックソング的なものが中心で、後年メインになるメロディの良さ・繊細な歌唱についてはたまに出てくるだけの要素*8でした。

 今作では12ヶ月分の楽曲それぞれに別の特徴を持たせるべく、彼の幅広い音楽知識が総動員されます。旧来から続くコミックソング的要素も幾つか混ぜ込まれつつ、同時にメロディタイプの楽曲を制限している余裕も無く、ここで遂に幾つか、ロンバケ以降と遜色ないメロディタイプの楽曲が混入されます。

 12曲(+1曲)すべて異なる曲調、という、むしろ全て統一されたサウンドという趣のロンバケ以降と真逆の作風で、ロンバケ前提で聴くと最初は「なんてとっ散らかったアルバムだ…」と思うかもしれませんが、このなんでもあり・何が飛び出してくるかまるで分からない、そんな中でロンバケ級の楽曲も混じりこむあたりが、彼の作品で今作にしか無いスリリングさや、何でもありな”自由な雰囲気”を生んでいます。

 あと、他の特徴で書けそうになかったんでここに書きますが、ロンバケ以降の楽曲よりもプロっぽくない、インディーっぽい作曲で、結果として1曲ごとにどれもコンパクトに纏まっているのも、個人的にはいいなと思う点です。

 

・録音環境の制約による”ゴージャスすぎない”演奏

 これもロンバケ以降との対比になる要素ですが、ロンバケ以降のゴージャスな録音環境に対して、今作は大瀧詠一の家での録音が大半を占めています。なのでロンバケ以降の「同じパートの演奏者を同時に何人も揃えて、それらを一斉に録音する」という、Phil Spector譲りのウォール・オブ・サウンドはできない状況でした。

 でも、その制約によってかえってコンボ形式のバンドサウンドが中心になるという、いなたいバンドサウンドが好きな向きにとってはむしろ好条件な演奏および録音になっているとも言えます。演奏陣は相変わらずバカテクな方々が揃っていますが、彼らが様々なタイプの楽曲に対応すべく編み出した様々な名演・珍演はひたすらハンドメイドな楽しさが醸し出されていますし、そしてそれらはむしろ現代のインディバンドと陸続きになることもできる面白さに溢れていると思います。自宅録音にしては録り音自体はかなりしっかりしているのは『NIAGARA MOON』以降ずっと*9で、プロのエンジニアでないにも関わらず彼がそういうことできるのは不思議。当時どんな機材をどう使っていたか知りたくなります。

 様々な演奏が出てきますが、今回のために聴き返してて気づいたのが、意外とギターの出番がかなり多いこと、とりわけティールギターの多用でした。ほとんどの楽曲でスティールギターが用いられており、これらがとりわけ今作の各所にカントリーミュージック的ないなたさ・温かみを生じさせているのかもしれないと思いました。

 

・日本文化と様々な西洋音楽文化のストレンジなマリアージュ

 これはむしろ嫌な人は嫌なんだろうな…とは思いますけど、これもまた今作のとても面白いところだと思います。そもそも「次の年のカレンダーとして、正月に楽しむためのすごろくや福笑い付きで売る」というコンセプト自体が”当時の”日本の一般家庭ないズドされた仕様になっています。

 今作のいくつかの曲はまさにそんな「大瀧詠一による日本文化批評」が含まれていて、批評と言ってもそれはメッセージではなく単にメロディに当てはめる言葉として選んでいるんでしょうけど、中にはニヤッとするような要素も多々あって、しかもそれらの歌のバックの演奏を、決して日本の歌謡曲とか演歌とか音頭とかそのままにせず、必ずどうにかして西洋的要素と接続するところが、ナチュラルに折衷的。

 そして大瀧詠一のこの”折衷”は「この折衷こそが批評的音楽だ」という気概に満ちたもの*10ではなく、もっと無邪気に「こうした方が面白可笑しいでしょ」みたいなところから生じているところが、肩肘張ってなくて、不思議なおかしみに満ちています。

 

・人間”大瀧詠一”があちこちに顔を出してくる作品

 大瀧詠一という人物は自身の感情を楽曲に表出させることを殆どしない人です。ロンバケ以降の楽曲のそういったものの消滅も凄まじいですが、そもそも1970年代でも、彼が自分で歌詞を書くときも、歌詞の意味よりも音を重視して言葉を選んでいて、そこに彼が思いついた可笑しなこととかを並び立てて半ば無理矢理歌詞にする、というのが基本的なスタイルでした。でも、この1970年代の彼のスタイルって、メッセージ性は無くても、意外と彼の考え方とか視点とかは結構出てくるんです。というか歌の主人公が、ロンバケ以降の「その歌詞の物語の主人公」ではなく「大瀧詠一本人」にしっかりなっているというか。

 そういった意味で、今作はまさに「大瀧詠一という個人の視点」が様々に炸裂しまくった作品です。それもそのはず、12ヶ月分の楽曲それぞれを特徴付けるべく、それぞれ全然別の趣旨の歌詞を大瀧詠一自ら綴っていて、つまり12ヶ月分の「大瀧詠一視点のうた」が今作にはしっかりと並んでいる訳です。相変わらずくだらねーこと歌ってんな、っていうのもあれば、後の松本隆の歌詞とは方向性の違うシリアスさを覗かせる場面さえあったりして、そしてそれらの様々な方向に飛び散った言葉の数々の端端から、人間・大瀧詠一とはこんな感じの人だったのかな、というイメージが、聴く人それぞれの胸の内に湧き上がってくるようになっています。そしてそのイメージは、インタビューで冗談混じりに饒舌に片っ端から喋り倒す大瀧詠一の姿*11と、一番近いような気さえするんです。

 きっと本人はこんなこと言われると恥ずかしがるんだろうなとは思いますけど。でも他の作品のリマスターでは饒舌な解説を追加したりする本人が、今作についてだけは「この種のアルバムほど“解説”が無意味なものはない」と書いてたりして、それはもしかして彼が今作に”彼そのものの姿”を出しすぎてしまったことへの恥じらいの気持ちもあったりするのかな…ということを考えたりしました。

 

本編

 かなり前置き長くなりましたが…ようやく各曲を順に見ていきます。

 なお、彼の楽曲は洋楽のパロディ・オマージュを1曲に複数個詰め込んでいることがザラで、彼の自作解説の際にはそれらが次々に列挙される光景が多々見られます*12。そういった面については彼以上の解説をすることは「誰にも」絶対に不可能ですし、そういった”元ネタ”を知りたければ彼の本を読んだほうがよっぽどいいです。

 ここでは、私個人という知識もしっかり勉強する気もロクに無い人間が、唯一「大瀧詠一よりもかなり後の時代を生きている」という長所を活かして、本人がどこまでそういうことを考えているか分からない「後年のこういった作品に似ている」とか「この作品に先駆けてる」とか、もっと言えば「この部分はとてもインディーロック的発想で素晴らしい」とか、そういう低次元な話に終始することと思います。また、本人がリマスターの際に「この種のアルバムほど“解説”が無意味なものはない」と書いたような無意味なもしくは野暮な”解説”をしてしまっているかと思います。悪しからず。

 あと、各楽曲の収録時間は『'78』と『'81』で微妙に異なっていますが、ここでは原点である『'78』の収録時間を記載します。30周年エディションで当たり前に『'78』バージョンを聴ける身分なのは昔からのファン的にどうなんでしょうか。さすがにそこまで気にしても仕方ないか。

 

1. Rock'n' Roll お年玉(4:03)

 いきなりかましてくれる大瀧詠一Elvis Presleyな演奏と歌い方でお正月とお年玉について歌い切るなんて日本でも彼くらいしかしないだろう。その、普通に感動されるとかそういうのを全く無視した、ひたすら変な彼方へブッ飛んでいけるその謎のハイテンションとバカさがひたすらあっけらかんと炸裂し、またこのジャンクなイミテーション*13をツギハギしてゴテゴテした感じ自体が今作の特徴を表しているように思えなくもない、素晴らしくアホで楽しい冒頭曲。

 冒頭の宅録感全開なドアの開け閉めの音から大瀧詠一の新年の挨拶、その後半で急に多重コーラスになるところ*14から一気に楽曲になだれ込む。いかにも古のロックンロール的なセクションの連なり方に、日本の正月文化を実に身も蓋もない崩し方で言葉にし、時々その文化のあり方や廃れ具合を腐してるように思える言葉もありつつも、しかしそれが突如何の脈略も無くElvisの楽曲の歌詞に差し代わるので、「そんな真面目な批評の意味は絶対無いな…」とすぐ気付かされる構成はある意味とても巧み。というか歌詞の1/3くらいは本当にただElvis歌ってるだけくさいな…。

 実にわざとらしくボーカルに掛けられたスプリングリバーブっぽいエフェクトはどっちのバージョンでも共通。というかこの曲はさほど2つのバージョンの差を感じない。盟友シンガーズ・スリーの「いかにも昭和」な女性コーラスは21世紀のリスナーにいい具合のコクを与えてくれる。バカで賑やかでキャッチーで、「誰がここまで自在に奔放にエルヴィスを歌えるかい?」という『いかすぜ!この恋』以来のフリークっぷりがどんどん明後日の方向に向かっていく様は、誰の追随も許さない。まずこれに追随しようと思う人の絶対数がめっちゃ限られるだろう。そういう意味では、オンリーワンのロックンロールとも言えるかもしれない。

 蛇足だけど、そもそも大瀧詠一のボーカルが最初に登場する、はっぴいえんどの1st冒頭『春よ来い』もそういえば「お正月といえば」と歌うところから始まっている。同じロックンロール的な荒々しい歌い方ながら、鬱屈しきったはっぴいえんどの『春よ来い』の正月に対して、こちらのなんとアホで自由なこと。彼の中で時代が一回りしたのかもしれない。

 あと、Elvis Presleyが亡くなったのは1977年の8月16日らしくて、そのことを考えるとこの曲の見方が妙にセンチな方向に偏ってしまうかもしれない。そういうのはきっと、この曲を作って歌った本人は望んでいないだろうけど。

 

2. Blue Valentine's Day(3:23)

 歌の内容は好きな女の子からチョコが貰えなくて拗ねてるだけなのに、ここでロンバケ以降にも繋がる、彼の繊細で美麗なボーカルが自在に響くメロウバラードが突如登場する。前曲のアホらしさからこの曲のボーカルに変わった瞬間、その落差に、聴く人によっては「は…?」みたいになるかもしれない。このギャップがまたアホすぎる。

 アコギとベース、そしてスティールグターを軸としたメロウなバックを従えて、大瀧詠一メロウサイドの、どこまでもとろけていきそうなクルーナーボイスが、これほどに甘いチョコレートなんて存在するかな…という程に、素晴らしくセンチメンタルに響き渡る。合いの手的なハーモニカもストリングスも、全てこのボーカルのロマンチックで儚い雰囲気を高めるべく的確に配置される。メロディ配置はオールディーズポップス的なヴァース・ブリッジの構成で、とりわけブリッジの声の飛翔の仕方の美しさは、ロンバケ以降と同様の歌唱がとっくの昔に完成していたことを思わせる。ただのチョコ貰えなくて拗ねてるだけの歌に、どうしてこんな美しさを感じるのか。それ自体ギャグなのでは…?とも思うけど、もしかしたらシングルにもなったこの曲がヒットした未来もあったかもしれないんだよな、とも思う。

 『'81』のロンバケ以降的なリバーブ処理されたものを聴き慣れた人であれば、きっと『'78』を聴いてるとまずこの曲のボーカルのデッドさに驚くと思う。当時はまさに設備的な制約で豊かなリバーブが実現できなかった、という背景がある*15。同じ曲・同じ演奏が入ってるはずだけど、ミックスやエフェクトの掛け方によってここまで差が出てくることになる。明らかに『'81』バージョンの方が楽器の配置も含めてよくトリートメントされていてメロウでロマンチック。しかし大瀧詠一のこのタイプの歌唱でここまでデッドで、かつシングルトラックで聴けるのは実に貴重な気もするので、この『'78』バージョンの生々しさも捨てがたく、悩ましいところ。

 

3. お花見メレンゲ(2:24)

 『NIAGARA MOON』の作風から陸続きなノベルティ・ソングの系統の楽曲、というかタイトル的に同作収録『恋はメレンゲ』の続編みたいな。花見の季節の光景を、妙に俗世的・ケチな小市民的な目線で綴りつつ、メレンゲなるラテン系のリズムに乗せてサラリふんわりと歌う曲

 メレンゲという音楽ジャンル*16カリブ海はドミニカで生まれたダンス音楽で、同じくカリブ海キューバではサルサが生まれたり、そしてそれらよりも有名であろうレゲエやスカはジャマイカで生まれていたり、カリブ海という地域はやたらとアフリカ感とラテン感が融合したダンスミュージックが生まれる地域になっている。正直、今回ちゃんと調べるまで、メレンゲという音楽ジャンルの曲は大瀧詠一の曲でしか知らなかった…。

 『NIAGARA MOON』の『恋はメレンゲ』におけるハイテンションなメレンゲ形式の駆動に比べると、こちらの楽曲は実に軽やかであっさりとしている。大瀧詠一自身が変名で演奏するギロのリズムが効果的に雰囲気を出していつつも、特に歌のバックとしてはスティールギターが、間奏ではそうとは思えないクラリネットの音色が雰囲気を支配してる。最後に歌詞に引っ掛けてワザとらしく演奏を「トチって」みせるのもまた、実に的確に演奏能力をムダ遣いしてる感じ。

 

4. Base Ball Crazy(2:57)

 大の野球ファンでもある彼が、4月=プロ野球開幕のシーズンだ!という発想で1曲作ってみた、という感じの、野球のエフェクトが色々盛り込まれながらも、ドラムロール中心に実に軽やかに進行する楽曲。これもノベルティ・ソング路線の曲。

 正直、この曲にそこまで熱中するほどの印象を持っていない(笑)同じノベルティ・ソングタイプの楽曲でも、『NIAGARA MOON』ではバンドメンバーの熱い演奏の中で大瀧詠一自身も唾が飛ぶようなテンションで歌ってたりもしていて、対して今作のこの系統の楽曲はどれもサラッとしていて、あの頃の熱量は感じられない。若干アルバムの埋め草的にも感じられるが、それでもこれらの曲の軽快な雰囲気がアルバムの流れの緩急を調整している感じはある。ただ、3月と4月は同じタイプの曲が続いてるなあ…って感じ。『MOON』時と違って大人しい歌い方をしているので、ポップス感をオフにしてロック感も無しにラフにソフトに歌うとこんな歌い方になるのか、そういえばはっぴいえんどの3枚目もこんな感じの歌い方だったかもな、ってことを思った。

 歌詞の感じも、実に「大瀧詠一の野暮ったい方のセンス」が繰り出されてる。特に言葉の韻が揃うからといって「ブタは丸大ハム」と歌っちゃうところは実におじさんなセンス。でもそう、どっちかというと大瀧詠一って人の人格はこういうくだらないことを言いたがるタイプだよなと、ロンバケ以降の”大瀧詠一の感情”の喪失を思うと、意外とこういうダジャレのセンスも愛おしく感じられる…?怪しいものだな。

 あと、様々な効果音・エフェクトが乱れ飛ぶ箇所については流石に『'81』ミックスの方が空間的で効果的。こんな曲でそこが良くなったからって別にどうでもいい気もするけど、でもこの効果音遊びを発展させると『EACH TIME』の『魔法の瞳』の偏執的な効果音のパンの振り方に繋がっていくのか、と思うと案外…。

 それにしても、書き始めるまで「一体何を書けばいいんだ…?」とか思ってたこの曲に意外と色々書くことができて、ホッとしてる。

 

5. 五月雨(4:19)

 ”わざとらしいオールディーズ感”を半ばネタ的に表出した、壮大なバラード”風”の、その”風”の感じ自体がネタみたいな感じのする楽曲

 各月のネタ出しがネタ切れした結果、自身の1stアルバム収録の同曲をリメイクしたのがこの曲だけど、高速なリズムの転がり方が印象的だった楽曲がこんな大袈裟なバラードに変化するところもまた、本人的にはネタなのかもしれない。しかし半ばネタ、もう半分は割としっかりとバラードしてるので、油断すると意外に感動してしまうかもしれない。1st時点で「メロディの音に合う言葉を探して難しい漢字ばっかりにして並べただけで意味は一切無い」と断言した歌詞が、妙に意味深に聞こえてしまう。

 本人曰く「The Righteous Brothersの出来損ないっぽくしようとした」とも「Phil Spector的音響へのチャレンジの一環」とも言っていて、悠然とした雰囲気の中、リバーブ感の効いたボーカルの”わざとらしい”ダンディさをシンガーズ・スリーの多重コーラス*17や迫り来るストリングス*18がやはり”わざとらしい”荘厳さで装飾する。これはこれでバラードとしてしっかりした作りなので、どこまでネタなのか分かりづらい。

 この曲については『'78』と『'81』で大きな違いがあり、『'78』では曲中ずっと雨のエフェクトが被り、ドラムレスと相俟って梅雨の重苦しさや鬱陶しさを表現しようとしている。対して『'81』ではこの良くも悪くも鬱陶しい雨のエフェクトをバッサリカットして、そしてタイトルコール部分にタムのフィルインがダビングされている。タムは元々入れるつもりが録音日程の都合で収録できなかったものらしいが、エフェクトカットとタムが相俟ってより威風堂々として神々しいバラッドになっていて、そのためか『'81』バージョンは梅雨の感じがそんなにしない。

 

6. 青空のように(3:04)

 当時の大瀧詠一本人が、遂に自分のPhil Spectorサウンドへのチャレンジが結実したと興奮して他の人に自慢したくらいの、ひたすらにポップでドリーミーな3分間ポップス。個人的に大瀧詠一の楽曲でも3本の指に入るくらい大好きな曲。1977年のうちに先にシングルとしてリリースされたけど、この晴れやかな曲を梅雨ど真ん中の6月にあてがうこと自体に、何かしら大瀧詠一の精神がしっかり出てしまっていて、それもまた愛らしい。

 1970年代でも1980年代でもポップスに徹した大瀧詠一の曲はいくつもあるけど、この曲ほどある種のポップスだけが持つことのできる、完全無欠の無邪気さと、ひたすらぼんやりと高揚するような晴れやかさと、それを永遠に感じさせるようなサウンドが揃ってる曲は他に一切存在しない。こんなにひたすら甘くて可愛らしいだけが詰まってる楽曲がこれしかない、という事実がまた、この曲の永遠の印象を増幅させる。

 二つのメロディはどっちがサビともつかぬ関係性にあり、ただ言えることは、全編サビみたいにずっと高揚し続ける、ということ。ミドルテンポで様子を変えてからの元のメロディに戻ってより高揚していく仕組みは、後に沢山ミドルエイトを作った彼だけど、ここまでシンプルに高揚感に繋がるものは作ってないと思う。また、このメロディ切り替えの箇所で発生する、まるでマッチを擦るみたいな音*19が、とても映像的な感じがしていちいちドキドキしてしまう。

 ロンバケ以降に比べたら遥かに制約の多い制作環境で、それでも立派なストリングスとスペクターライクなパーカッション類の反復させ方と、シンガーズ・スリーのコーラスのエヴァーグリーンな活用方法と、そして大瀧詠一のソフトで心地よいボーカルを揃え、シャッフルのリズムから生ずるウキウキするような要素を見事に「青空」のイメージに結実させている。同じくシャッフルで陽性のコード進行を持つ『君は天然色』は確実にこの曲の達成を踏まえたものだけど、屈託とノスタルジーの物語でアダルティックに彩られた『天然色』よりも、幼さすら感じるひたすら純粋な恋心だけを羽ばたかせたこの曲の方が、ぼくはより愛しいし、なんか切ない感じがする。

 

猫の目 君の顔 くるくる変るたび

ぼくの目は風車 ぐるぐる回るよ

不機嫌な時を 御機嫌な時に

かえるために ほほえみ かけておくれ

 

ニコニコ顔 しかめっ顔 君はお天気屋さん

笑顔が欲しい ぼくの心 いつでも君のもの

 

 しかしながら、この曲もまた『'78』と『'81』で大いに印象の変わる曲で、というかこの曲は流石に『'81』でロンバケと同じ音響になってようやく完成した、という気がする。『'78』のローファイさは各楽器が十分なエコーを得られずにバラバラになってしまっている感じで、あとドラムが聞こえづらく、この曲の沸き立つような躍動感が殺されている。『'81』においてもたらされた各楽器の定位の適切なバランスとそして潤沢なエコーにより、この曲が元来想定していたであろう”モッコモコな”スペクターサウンドがまさに自在に羽ばたくこととなったようで、今までの評価は全て『'81』バージョンを前提としたものであることをここに付記する。

 それでも、1977年当時では彼にとってこの曲は本当に大きな達成だったんだろうなとは思う。ミックスのバランスやエコー感がどうであれ、この楽曲自体に宿った「抜けの良さ」については、『'78』であろうと『'81』であろうとライブバージョン等であろうと、変わることは無い。

www.youtube.com

  

7. 泳げカナヅチ君(3:43)

 大名曲であった前曲の余韻を吹き飛ばすこと自体を目的にしてるとしか思えない程バカな曲をこうやってすぐに出してくる。タイトルは当然『およげ!たいやきくん』のパロディだし、そして楽曲自体は、The Beach Boysをはじめとしたサーフ・ミュージックをひたすらパロディし続けるという、露骨に「夏だ!海だ!」って感じの曲。しかしそんな海をエンジョイするのではなく「カナヅチ君」*20なる泳げない人物を出して、しかも浦島太郎と接続してしまうのはひねくれてる*21しブッ飛んでる。飄々とした光景を描きながらも、大瀧詠一自身は決して自身の歌詞では「世界を普通に晴れやかにエンジョイする」ということをしなかった気がする。

 直線的な8ビートのリズムにバタバタとしたフィルイン*22、テケテケしたリバーブが効いたギターサウンド、そしてThe Beach Boysばりのシンセよりもずっと分厚いコーラスワーク、実にサーフ・ミュージックしてる。

 楽曲の終盤ではコーラスワークも更に冴え渡り、Brian Wilsonばりのセンチメンタルな高音ファルセットコーラスを、事もあろうにこんなアホな曲で披露している。更にはそんなコーラスワークがDick DaleやThe Venturesみたいなギターインストリフの披露大会と交互に繰り返されるに至って、「ああホント、この人は一体どれだけ高度な技術をドブに捨てまくってるんだ…」と途方に暮れてしまう*23

 この曲も『'78』と『'81』で結構な違いがあり、『'78』では海辺の波の打ち寄せる音がずっと挿入され、それは次の曲が終わるまでずっと続く。その波の音のせいか、演奏の音量レベルが他より少し低い。『'81』ではこの波の音もバッサリと全カットされ、ボーカルのエコーの使い方はセクションごとにより極端になり、そして終盤のコーラスワークのセクションは大体2回に1回はいちいちリズムがオミットされアカペラ状態になる、という結構大きな改造をされている。よりThe Beach Boysのボーナストラック等に収められがちなアカペラテイクっぽさが増したが、そんなものを狙ってこの改変をやるのはマニアックの方向が拗れ過ぎだし何なの…?

 

8. 真夏の昼の夢(2:49)

 ”夏”というポップソング永遠のテーマをふざけ倒した前曲だけで終わらせてたら相当アレだったけどそんなことはなく、ここで今度は『Pet Sounds』前後のThe Beach Boysにも通ずるような*24、実にセンチメンタルな寂寞感が漂う、甘く、映像的で、しかし虚しげなメロディタイプの楽曲を配置するのが今作の大瀧詠一。これがまた『青空のように』同様一切ギャグの無い、ガチにメロウさで勝負に行っている楽曲。

 三連のリズムに乗ってゆったりと波の上を漂うようなテンポは、まさに1990年代以降様々なアーティストが模倣しようとしたThe Beach Boysのドリーミーな側面と同様の性質をしっかり形作っている。リズムギターのソリッドな音の反復がピアノの柔らかな音と重なって波をイメージするように響くのは、楽器の重ね方の不思議な効果、といった感じ。リズム刻みから切り替わり転げるピアノや、うっすらと映像の背景をなぞるように響き渡るストリングスは、昔の映画に描かれたバカンスの光景のような、優雅で、でもどこかデカダンな雰囲気も感じられるような、そんな光景を的確に演出する。大瀧詠一の描くメロディもそのぼんやりした景色の中を浮かぶように、時に黄昏を噛み締める苦味で心拍数が上がるようにラインを描き、そしてその歌い方はひたすら自分の声の甘美さを架空の海に溶け込ませるように響く。

 そしてそんな声で歌われる物語が、これが大瀧詠一自身による歌詞なのか、と思うほど、甘美で危うい眩しさに溢れていて驚く。

 

ぼくは深い眠りに誘われるまま ゆらり

夢の波の音は いつかきいた 子守唄

終わりのない すき通った調べ 真夏の昼の夢

 

思うに、”夢”をテーマにして歌詞を書くときだけは、彼は”この世”と”あの世”の境界が曖昧になるような、危うくも悲しくもある幻想性を秘めた歌詞を書く傾向にあるんじゃないか。もちろん、この路線の代表曲は『夢で逢えたら』である。

 

あなたは わたしから遠く離れているけど

逢いたくなったら まぶたをとじるの

 

夢でもし逢えたら 素敵なことね

あなたに逢えるまで 眠り続けたい

 

他に例を挙げるならば、結果的に彼の最後に発表された楽曲となってしまった『恋するふたり』にはこんなくだりがある。

 

虹の彼方に 映し出す物語

映画みたいに ステキな夢を見る

 

『恋するふたり』の作詞者は変名になっており大瀧詠一単独ではない気がするし歌詞のストーリー全体を考えてもここだけを抜き出すのは牽強付会の感もあるけど、でもこの曲の非現実的な域にまで達してるドリーミーさは、やはり夢か現か曖昧な世界が展開されているように思える。

 そんな”夢”についての歌で、この『真夏の昼の夢』の怖いのは、他者が出てこない、というところ。これは恋の歌でも何でもなく、一人の人物が海辺かどこかで昼間に深い眠りに落ちて、ノスタルジックともサイケデリックとも言えそうなイメージに逢う、それだけの歌だ。どうしてこんな、珍しくとても内向的な歌を書いたんだろう。本人はただのメロディに合う言葉を当てはめただけ、とか言ってるのかもだけど、でもこういう曲があるから、ぼくは時折、大瀧詠一の詩人としての才能の可能性を覗き込んでみたくなることがある。

 最後にこの曲も『'78』と『'81』との違いを。前曲と同じく、『'78』は波の音がずっと鳴っており、『'81』にはそれが無い。また『'78』はやはりボーカルのエコーが殆どなく、シングルトラックなこともあり『Blue Valentine's Day』と同じく彼の丁寧な歌い方が生々しく響く。また、彼は1977年時点のこの曲のミックスをとりわけ大きな後悔として挙げている*25。楽曲の雰囲気としては全体的にエコーの効いた『'81』の方がオールディーズ感があり、本人が目指す方向の確実にこっちだったんだろうと思う。思うけど、この曲については案外、『'78』の各楽器がくっきりとしたミックスも、2000年代以降のインディロック的で悪くない、むしろ魅力的な気がする。本人も言ってる通り、波の音がいい具合にマスキングの効果を発揮し、バラバラ気味に配置された各楽器の鳴りを良い形で纏めている。大瀧詠一さんに悪いけど、ぼくはこの曲は『'78』の方が好きです。

 

9. 名月赤坂マンション(3:08)

 ロンバケ以降にも匹敵する名バラードの後に、この曲の尺八が鳴って和風な響きの演奏で「またいい曲の後に雰囲気をぶち壊す曲か…」と辟易する方もいらっしゃるかと思いますが、この切り替わり方自体も今作の魅力なので、その辺は諦めて頂きたい。

 というか、果たしてこの曲は大瀧詠一的にはおふざけ側の曲にカウントしてたんだろうか。演歌的な歌の節回しとリズムを用い、尺八や三味線などの和楽器や日本的な旋律をまぶしながらも、リズムはレゲエで、そして歌詞が自身のナイアガラレーベルの没落と泣く泣く社員をクビにする様子であるこの歌が、果たして本人的にはギャグだったのか。ギャグにしないとやってられない、ということも考えられるが、果たして…。

 冒頭の尺八の音は息を吸い込むところからしっかりと録音されていて、そこから三味線が絡んだあたりで「あっ今度は和風なのね…」となるけど、いざ演奏が入るとリズムががっちりとレゲエしているので、変な具合になってくる。きっちり後ろの拍を刻むハイハットリズムギター、ハイが削られたややダビー気味なベース、そしてフレーズ自体も段々和の要素が減退して、いつの間にか妙に南国めいたフレーズと楽器に置き換わっていて、気づいた時には「なんでわざわざこんなことを…」と意味がわからなくて困惑して笑ってしまった。間奏で挿入される、別の曲からサンプリング*26され反復させられる「アミーゴ!」シャウトの意味不明さに、「もう何も考えずに聴こう」と思わされる。

 そんな、えせレゲエとえせ演歌を無理矢理融合させた、えせ…何だろう?といった、結果として無国籍的なエキゾチズムさえ滲むようなトラックの上で、演歌歌手をエミュレートしようとこぶしを入れて大瀧詠一が歌う。9月ということで月見をテーマにしたわけだけど、それがどうしてナイアガラレーベルの悲しい話に接続してしまったんだろう…ノリノリの演歌調で、本当にお前は何を歌っとるんだ…。この曲にナチュラルで流れる、ひたすらに不思議で意味不明な接続が、この曲をとても面白くしている。歌詞カードには必ず「この唄に登場する人物・団体その他の名称は架空のものではなく実在します」という注意書きがまた、変な哀愁を誘う*27。どうしたらいいんだこの感じ。

 やはり『'81』ミックスはよく整理されボーカルもエコーが効いてて、そして『'78』のボーカルはエコーが効いてない。ボーカル以外は意外とそこまで変わらない気もする。ドライなボーカルでこぶしをガッツリ利かせ他ものを聞くとより笑えるような気がするし、その分この曲の哀愁も変に深まるようなそうでも無いような。

 

10. 座 読書(2:06)

 Bo Diddley式のジャングル・ビートに乗って、新しいダンスの様式として”読書”を提唱する、という、読んだ人が「???」となるような文章で紹介するしかしようのない楽曲。本当になぜそうなるんだ…?「読書の秋」というテーマまでは分かるけど、何でそれをダンスに仕立てて、そしてジャングル・ビートなんだ…??当然、今作のノベルティ・ソング側の曲のひとつ。「ザ・読書!」っていう変なコーラスで全力で誤魔化しにかかってくる、これまたなかなかにふざけた曲。

 まさにワンアイディアを貫き通して、「変なおじさん」大瀧詠一のイメージをサラッと振りまいて、サクッと2分ちょっとで終わる。野生的なはずのジャングル・ビートの野生みをお洒落なギターカッティングとヘンテコなノリでほぼ完全に殺しきっているのはある意味凄いかもしれない。流石に「ここでジャングル・ビートをやったおかげでそれが後の『1969年のドラッグレース』の大胆なアレンジに結実する」とか書いたら「テキトーなこと書くな!」って石を投げられそうだ。

 サビ以外の箇所で何かの楽器が延々と同じ音を連打してるのが適度にノイジーで、流麗さを気取った歌の流れと真っ向から対立してるのが笑える。このノイズみたいなの何なんだろう…。あと、こういう曲にもスティールギターが入ってくるのが発想として結構謎なので面白い。

 

11. 想い出は霧の中(3:21)

 今作最後の”シリアス大瀧詠一”。後の『さらばシベリア鉄道』に割と本当に直結するような、北国的な雪と寒さの世界を表現したサウンドやメロディに、歌謡曲的なエキゾチックさが少し滲んでくる、哀愁漂う楽曲

 不思議なリズム回しは歌の節回しと相まって、この曲が3/4リズムであることを絶妙に誤魔化している。ソリッドなリズムギターのカッティングとエレピの繊細な響き、そしてそれらを全て凍りつかせるようなシンセの音色が、この曲の雰囲気を、寂しくて寒い場所の光景を形作っていく。11月ってそんなに寒いっけ…?という思いをよそに*28。これらのサウンドの中だと、メロディだけならかなり歌謡曲っぽいところが意外なほど「ロシアの民謡」っぽく響いてくるのが不思議だ。はっきりとサビ的にメロディ展開するのも特徴で、これがまたより歌謡曲っぽさを醸し出してるのかも。

 大瀧詠一の歌い方はまさに『シベリア鉄道』前夜、という具合に哀愁漂う形式。こういう歌い方を聴くとこの人もやっぱ昭和の日本人なんだなあ、などということを考えたりする。歌詞もロンバケ以降の松本隆みたいに具体的なストーリーや巧みな比喩は無いものの、様々な光景を記した言葉の連ね方はなかなかに映像的で洒落てる。

 

霧が流れる夜の街角

紅い灯影がほのかにゆれて

遠い昔の残り火のような 想い出を誘うよ

あの日のままのアカシア並木

あの日のように星もまたたく

まわりは何もかわってないのに

ただ 君がいないだけ

 

 流石にこの曲はそうしないと雰囲気が出ないと思ったのか、『'78』でもしっかりとボーカルにエコー的な効果が施されている。とはいえ『'81』の方がその辺は巧みだし、何よりも『'78』では埋もれがちだったドラムがかなり前面に押し出され、この曲の不思議なリズムの取り方がより鮮明になっている。

 この曲があることで、アルバム終盤で作品の雰囲気がもう一度引き締められている。次の曲を思いっきりやるためにも、この位置でそういう機能を果たすことは非常に重要なので、巧みな配置と言える。こういう殆どオムニバス形式なアルバムで、どこまで曲順のことを考えてたんだろう、と思ったりもするけど、でもきっと、1月と12月は初めから決まってただろうな…と思ったりするので、12月から逆算してこの11月用の曲を作ったんだとすれば、意外と今作はトータルアルバムなのかもしれない。

 

12. クリスマス音頭(4:17)

 最後は大瀧詠一お得意の音頭でもってクリスマスの名曲をリミックス!という、1970年代ナイアガラレーベルの「はしゃぎたい癖」を象徴する楽曲。「これをやりたいがために他の11曲無理矢理曲を作った」とかいう恐ろしい本人の弁も。ここまでふざけ切った曲とシリアスな曲を交互に聴かされ続けて鍛えられたリスナーならば、この最後の悪ふざけでもきっと大団円を迎えられるはず…!という大瀧詠一のリスナーに対する信頼が込められている…かもしれない。いや、大瀧詠一の音頭に対する取組は、どこまでがネタでどこからがガチか分からないところもあるけども…*29

 冒頭、ピアノオルガンで静謐なクリスマスのメロディをなぞったかと思えば、自動音声めいた「メリークリスマス」の一声を口火に、一気にジャパニーズな音頭の演奏が噴き出してくる。ホーンセクションやストリングス*30と、三味線や笛と、さらには木魚やしゃもじといった意味不明なものまでクレジットされ、シンガーズ・スリーの面々による合いの手の掛け声が響き、ひたすらに盆踊りのどんちゃん騒ぎが展開されるこの曲を「クリスマスソングだ」と言い張る大瀧詠一の姿勢そのものが、なんかもう超越的。歌い方もバカ丸出しな箇所と妙にソフトな箇所とを使い分けてて、無敵かよ何なんこいつ…。

 ここでまた、1曲目と同種の日本文化に対するゆるーい批評の目線が入ってくる。1曲目と違って、そもそもクリスマスという文化自体が元来日本に無い文化であって、それが当時の日本でどのように受け入れられ、どのように俗化されているか、といった部分に、大瀧詠一がインタビューでかますものと同種のギャグセンスが滲み出す。「カップうどん食って飲んで騒ごう」なんて歌詞は当時なら日本でしか出てくるはずないラインだもの(今でもそうか?)。

 最終的には「ジングルベル」のメロディの大合唱になっていく。まさにどんちゃん騒ぎの極みのようなテンションで、段々と転調していくのもまた実にアホらしく、そしてそのバックにまた実に生真面目に山下達郎アレンジの流麗なストリングスが聞こえてくるに至ってアホらしさがピークに達する。最後にイントロと同様にピアノオルガンを鳴らして静謐に終わらせてみるところまで含めて、徹頭徹尾ふざけてる。「完遂」の二文字が夜空に浮かぶ。

 そういえば自分は、これの『'81』版のフルバージョンを意識して聴いたことが無いかも。30周年エディションは『'78』『'81』両方のバージョンの楽曲を収録しているが、収録時間の都合でこの曲だけは『'81』サイドはショートバージョンになっている。最後の「ジングルベル」の合唱部分を抜き出し、そしてパン振りやEQ弄りなどでトラック自体をDJ的にいじり倒すアレンジ。これは『LET'S ONDO AGAIN』の最後のタイトル曲の終わりに突如現れる『クリスマス音頭』と同じ内容のやつ…?

 

13. お正月(2:51)

 オルガンが途切れた後、除夜の鐘を模した音が響いて、そこからこのコーラスのみで形作られた日本の民謡のカバーが、まるでボーナストラック的に流れ始める。このアルバムで唯一のカバー。カバーというか…。

 大瀧詠一は前半はフランク永井の真似をした低い声で、後半は坂本九を真似した高音のハリのある声で歌い上げる。最後はコーラスワークが消えた後に除夜の鐘的なのが何回か鳴って、不思議な余韻を残してこの、ひたすら変だったアルバムが終わる。

 これも『クリスマス音頭』と同様の理由で、30周年エディションには『'78』のバージョンのみが収録され、『'81』バージョンは収録されていない。…ミックスをやり直して感動するタイプの曲ではないと思うので、頑張って探して聴こうとは思わないな。ただ、30周年エディションだとこの曲の後にすぐ『'81』バージョンの『Rock'n' Roll お年玉』が始まってしまうので、聴き方にもよるけどいちいち再生ストップを押す羽目になる。自分は大体ドアの音が聞こえて「明けましておめでとうございます」って声が聞こえるより前にどうにか止めてます。聞こえてきたらもう、諦めて『'81』バージョンでもう一周してみるのはいかがでしょうか。1回だけそうなってしまったことがある。

 

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終わりに

 以上、12ヶ月分の12曲+1曲でした。

 明日サブスク解禁というタイミングで納期をきって書いてみることで、本作を作った時の大瀧詠一の感覚を少しでも追体験しようという試みでしたが、一応最後まで完走できました。

 元々はJulie Londonのアルバム『Calendar Girl』のナイアガラ版を作る、というコンセプトで始まったらしいこのアルバム。というか「カレンダーアルバム」というコンセプトの作品なんて本作の他にはbloodthirsty butchersの『kocorono』くらいしか知らねえ。

 12ヶ月分の楽曲をそれぞれ見ていくと、ギャグタイプの曲でもシリアスタイプの曲でも、本当にそれぞれジャンルもキャラクターも違っていて、実に混沌としていて、逆に「混沌している」ことについてはずっと安定している、とも言える、不思議な状態になっています。本人の言を借りれば「プロデューサーとしては”歌のカレンダー”というコンセプト、作家としては月にちなんだ12の楽曲を作る、歌手としては12パターンの歌い方をする、エンジニアとしては12種類のマイクを使うetc」とのことで、言うのは簡単ながらすげえアホで、かつすげえ大変そうなことをよくもまあここまできっちりとやり切ったなあ…という、そのさりげない壮絶さに頭が下がる思いがします。

 そしてこのコンセプトから必然的に引き出される「タブーもなしに何でもかんでもやってやる(そうでもしないと12ヶ月分の曲が作れねえ)」ということが、こんな日本音楽史上でも極めて振り幅の大きいなんてもんじゃないアルバムを作り上げました。オムニバス(乗合馬車)にしても、この馬車には日本人に転生したエルヴィスも、バレンタインデーでチョコもらえなくて美しい歌歌う男も、竜宮城へ行ったカナヅチ君も、可笑しな夢を深い眠りのうちに見た人物も、泣く泣く自分の社員を切った演歌の男も、ダンスのニューモードとして読書を勧めてくる変な奴も、音頭でクリスマスをどんちゃん騒ぎする大群も乗り合わせて、大変なことになっている。

 そんな混沌を通じて見えてくるのは、ひたすら「各人の想像の余地」が限定された一定の光景を見せることに拘った風なロンバケ以降の楽曲の世界観とはまるで逆な、何でもかんでもありでコントロールできないし嫌にだらしないけどだからこそ愛らしいぼくやみんなの暮らしの姿、みたいなのが展開されていること。そんな中で、狂騒も、哀愁も、憂鬱も、純真も、痛苦も、実に自由気ままに、メロディの音数に合わせて吐き出されていって、それらはコントロールされないし半ば無理矢理にでも捻り出されるが故に自然と、人間・大瀧詠一の人物像を描いていきます。繰り返しになりますが、こんなに大瀧詠一という人物が見えてくる、しかもとても愛嬌に満ちた形で見えてくる作品はこれを置いて他に無いと、これだけは断言できそうな気がします。

 この、バンド演奏中心に手作りで作られた混沌を、今の時代であればDTMによって個人が様々な演奏を重ね合わせて似たようなものを作ることは、”物理的には可能”でしょう。実際は、本作と同じくらいの量とクオリティになるように楽曲やアレンジを積み重ねるのは物凄く困難だろうし、無理にそんなことしたら想像力が枯渇しそうだ。だけど思うのは、人間・これくらい自由自在にありたいものだなあ、ということ。今作の手法の少ない部分が渋谷系の手法と重複しているけど、渋谷系の手法だって「どうやって自分たちの”自由さ”を定義し表現するか」といったもので、そんな簡単なようで困難なテーマに、本作はまさに体当たりで、しかもはしゃぎ倒しながらこれだけのものを見せてくれます。

 個人的なことを書けば、高校生の終わり頃の時にどこかで借りて聴いて以来の、何回も聴いた、他のどのはっぴいえんど界隈/ナイアガラ界隈の作品よりも聴いた、無数にある日本の音楽の中でもとりわけ大好きな1枚で、ふわっとした感想を描こうと思えばまだ幾らでも書けてしまうだろうから、この辺で締めておきます。

 人間・大瀧詠一を本人以上に”表現”してしまった、楽しくて悲しくて可笑しくて切ない感じの、ハッピーな最高傑作です。サブスク解禁されたらぜひ…!

 

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*1:まあ『EACH TIME』なんかもっと多くて6、7種類くらいあるけどなハハハ。

*2:このイラストの、ナイアガラ的なバタくさいひとつのイラストをそれぞれの歌の内容に合わせて微妙にとってつけたような変化を加えているのがなんかすでに、現代の雑コラみたいな面白みがあります。

*3:シュガー・ベイブとココナッツ・バンクのこと。それぞれの中心人物であった山下達郎伊藤銀次大瀧詠一で第1期ナイアガラトライアングルを結成しアルバムリリースしている。

*4:実際1977年には3月にCMコンピ、6月にシリア・ポールのアルバム『夢で逢えたら』(!)、11月にインストアルバムをリリースからの12月に今作、という多忙っぷり。

*5:この時点で三ツ矢サイダーのCMソングや『夢で逢えたら』といった、お茶の間に届く作品自体はすでに作っていたことには注意が必要。ただ、彼自身の作品で大々的に売れるのはロンバケからで、それより前は大手レコード会社的には苦しい売り上げしかなかった。

*6:テーマ的に12月中に出せないとそもそもコンセプトが破綻しますので。

*7:大瀧詠一本人も「オリジナルミックスにはそれ相応のアジがあり、個人的にも気に入ってる」とライナーで書いていて、悔やんでいる箇所がありつつも全部を否定してはいない。

*8:でもそのたまに出てくるものが素晴らしいのも間違いなかったことで、ファーストのそっち寄りの楽曲や曲の方の『NIAGARA MOON』、あとサイダーの各種CMなどに既に後年と同種の才能は滲んでいましたし、何よりも本作より1年以上前に『夢で逢えたら』という彼史上でも1、2を争う題名曲をすでに世に放っています。

*9:まあ生音ゴリ押しの『NIAGARA MOON』と比べると、様々な楽器も入っているし、録り音も比較的悪い気もするけど。

*10:本心はそうだったのかもしれない。でも色々ユルくてそうは聞こえないですよ…。

*11:大瀧詠一さんのインタビューはでも、時々知識偏重すぎて、他者を茶化してる部分が他者への見下しになりかけてる部分も多々見られて、時々苦手に感じることも正直あります。

*12:こういう場面でのちょっと他者を見下してるように見えるところが苦手。

*13:すごい演奏陣による素晴らしい演奏によって、本当に絶妙に”ジャンクな感じ”が演出されてる。ものすごく高度なトンチキさ。

*14:『'81』ではここのリバーブ感がマシマシになっていて、比較すると『'78』はリバーブの貧弱さがまずここで最初に現れる。

*15:本人の口から「風呂場リバーブ」なるワードが出てくるほどの制作環境だったらしい。大瀧詠一ほどの人が自分の家の風呂場でボーカル録ったりしてたのか…と思うとなんか面白い。

*16:日本にはメレンゲという名前の有名なバンドも存在するものだから微妙に検索が難しい。

*17:少なくとも『'78』ではこれらのコーラスはエコーは掛けてなくて、多重録音とパン振りだけでエコー感・ステレオ感を出しているらしい。

*18:アレンジは山下達郎が担当。

*19:クレジットを見ると、この音はおそらくハンドクラップなんだろう。

*20:これに引っ掛けて『'78』ジャケのコピペの少女が7月ではカナヅチを手にしてるのはテキトーすぎて笑う。

*21:もしかしたら「実はほとんどのメンバーがサーフィンできないThe Beach Boys」を踏まえての描写だろうか。ただのギャグかもだけど。

*22:ドラムはレギュラーの上原裕がスケジュールの都合で参加できなかったので、なんとMOONRIDERSの橿渕哲郎が参加してる。大瀧詠一からは「ちょっと素人っぽい感じが本家のDennis Wilsonっぽくて案外良かったね」みたいなことを言われてる。ナチュラルにディスってる訳じゃないですよね…?

*23:この感覚は次のアルバム『LET'S ONDO AGAIN』でピークに達することとなる。

*24:もっとより明確なモチーフがあるんだと思うけども、知らないので書けない…。

*25:何故か前曲と連続で再生しながらミックスしたらしく、そしたら当然前曲からこの曲用に各トラックのフェーダーを、リアルタイムで短い曲間の間に変更しないといけないけれど、それが上手くいかなかった、とのこと。やり直す時間も無かったとのこと。正直、そりゃそんな無茶すりゃそうだろ、という感じだし、逆にそんな作業工程なのにここまでのミックスになってることに驚く。波音が七難隠してくれたのか…?

*26:このアルバムが1990年代などではなく1977年であることに注意いただきたい。こういうアホなサンプリングの仕方は、後の小西康陽などが得意とするところ。

*27:クレジットには多くの実名が挙がり、おそらくは、泣く泣くリストラしたスタッフ・継続して一緒に働くスタッフの名前が記されている。

*28:実際に「寒い」みたいなことは一言も歌ってないからセーフ。

*29:実際この次の作品が幾つかの”ガチな”音頭曲も含んだ『LET'S ONDO AGAIN』であることだし。

*30:アレンジを任された山下達郎が困惑して小一時間アレンジに悩んだとかいうエピソード好き。