ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

大瀧詠一の20曲(+1曲)

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 3月は期せずして弊ブログの大瀧詠一強化月間となりました。これはロンバケ40周年記念だからではなく、長年叶わなかった大瀧詠一作品のサブスク解禁によるものです。 これまで弊ブログでは、数々のテーマ別記事の作成の際、どうしてもサブスク上でプレイリストを作成しそれを参照しながら書く、というスタイルの都合上、サブスク解禁されていなかった大瀧詠一の作品に触れることがし辛かったところでしたが、その状況が今回の解禁で大きく変わってくるので、個人的なことですがそれもまた、とても嬉しいことになります。

 手始めに、ぼくの方で作ったSpotify大瀧詠一プレイリストを参照しながら、彼の20曲+1曲について見ていくという、いつものノリのこの記事をもって、弊ブログの大瀧詠一強化月間を締めたいと思います*1

 ということで、以下がその曲目となるプレイリストです。 

 

●はじめに

・今回のサブスクの解禁範囲(確認)

 プレイリスト作成に当たっては、当然サブスク上で聴くことができる範囲でしか作成ができません。今回のサブスク解禁は「大瀧詠一の全曲解禁」と多くのニュース記事の見出しに書かれていましたが、“全曲”というのは正確ではなく、「“ナイアガラレーベルから“リリースされた“大瀧詠一名義の”全楽曲」というのがより正確な範囲になっています*2。 今一度、どのアルバム・楽曲が抜けているか、逆に何があるかを確認しておきます。

 

(2021年4月23日追記)

 まさかのサブスク解禁追加が、思いのほか高速で来ました…!下の方でもう少し詳しく書きます。

 

①ファーストアルバム『大瀧詠一

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すごく今更だけどこのジャケの男の方、顔色的に死んでない…?

 残念ながら今回のサブスク解禁から漏れてしまいました。これはおそらく、このアルバムのみナイアガラレーベルではないところからリリースされてしまったためだと思われます。というかむしろ、このアルバムのマスターテープや版権自体の当時の扱いの危うさを感じて、大瀧詠一本人が自分の作品を自ら管理するためにナイアガラレーベルを立ち上げた、という経緯があるので、今回これが”拾えなかった”こと自体にナイアガラレーベルの版権管理能力の高さが窺い知れるところですが。
 というかこのアルバム、今版権どうなってるんでしょうか。そもそも製作当時から、はっぴいえんどの『風街ろまん』とシングルとが別のレコード会社からリリースされるような入り乱れた状況の中で登場した作品なので、その所在は非常に不確かです。大瀧詠一がマスターテープも版権も有していないために、自ら後半生のライフワークにしていた10年単位のリマスターからも今作は外れてしまっています。逆にCD再発の時とかはどうやってこの辺の問題クリアしたのか…。

 しかしながら、収録曲のうちいくつか(『ウララカ』『水彩画の街』そして『乱れ髪』)については、彼が1978年にリリースした再録ベスト盤『DEBUT』がサブスク解禁されてますので、アレンジ違いとはいえそちらで聴くことができます。

 おそらく、今回サブスク解禁でどうあっても聴けないうちでも『指切り』が、とりわけ惜しまれている印象があります。それにしても本当に、大瀧詠一らしからぬ雰囲気の充満した不思議な曲だ…。

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②CMスペシャル等の企画アルバム

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 ここから先はれっきとしたナイアガラレーベルからリリースされた、今回サブスク解禁されなかったのが不思議な範囲の作品を取り上げます。

 まずはこの、大瀧詠一が製作した数々のCM用音楽をコンパイルしたシリーズ。そもそも彼が最初に大衆的にヒットしたのはロンバケよりずっと前の、サイダーのCMに楽曲提供した方でした。なので、1977年にリリースされた、サイダー関係の曲も収録したCM集第1弾は当時のナイアガラレーベルで一番のヒットになってしまったとか*3

 その後ロンバケがヒットして、その後に第2弾がリリース。こちらは大瀧詠一以外が歌うCMソングも複数含まれているので、もしかしてそれが原因でサブスク解禁から漏れてしまったんでしょうか。それともタイアップ先との契約の都合がある…?

 しかしながら、CMシリーズの中でも肝腎要のサイダー関係については、そもそも元々から『NIAGARA MOON』に収録されていたり、今回のサブスクでも救済措置が撮られていたりします。

 

 

③ナイアガラからリリースされた“大瀧詠一名義でない”作品

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 この辺りがまさに、今回のサブスク解禁の範囲が「ナイアガラレーベルからリリースされた”大瀧詠一”名義の楽曲」となっていることによって絶妙に外れてしまった作品群ということになります。

 まず大瀧詠一が他2名のアーティストとそれぞれ組んで1976年と1982年にリリースした、NIAGARA TRIANGLEシリーズの2枚。Vol.1は山下達郎伊藤銀次と、Vol.2は佐野元春・杉真里と組んで製作され、特にVol.2はどことなく1980年代だなーって雰囲気が充満する中でも、ロンバケの続編的な大瀧詠一作品が終盤4曲連続で登場するため、今回サブスクから漏れてしまったことは残念。大瀧詠一名義でシングルカットされた『ハートじかけのオレンジ』と、残り3曲もストリングスのイントロが付けたれた形でベスト盤『B-EACH TIME L-ONG』に収録されてはいます。意外にも、あのアルバムのまさにリード曲然とした『A面で恋をして』については今回救済がないです。

 あと、1970年代の厳しいノルマを達成すべく製作されたインスト集『多羅尾伴内楽團』シリーズも名義が”大瀧詠一”ではなく”多羅尾伴内楽團”なためか解禁の範囲外に。こっちのシリーズで一番痛いのはなんと言っても第3弾でかつ実質1970年代ナイアガラレーベルの最終作となった『LET'S ONDO AGAIN』で、これは大瀧詠一の歌も多く、また楽曲や演奏・アレンジの力の入り具合的に、普通に大瀧詠一のオリジナルアルバム扱いされることの多い作品で、かつメロディメーカーとして有名な大瀧詠一の別の側面、ひたすらリズムオリエンテッドで数々のオマージュともパロディともつかないものを引くくらいのハイテンションなギャグテイストで展開する、もはや芸人めいた側面が、最も強く出た作品。『LET'S ONDO AGAIN』については今回サブスク上では一切救済がなくて、でもなんかまあしょうがないかな…と思うくらい異質なので、サブスクにあるものを大体聴いた人はぜひファーストと一緒に手に取ってください。

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④バンド録音版『夢で逢えたら

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 今回解禁から漏れた中で、最も「?」に思えたのがこの、彼の死後にリリースされたベスト盤にて遂に公衆に開かれた、彼自身の最大のヒット曲『夢で逢えたら』を彼自ら歌ったトラックが解禁から漏れたこと。一応『DEBUT AGAIN』に伴奏がストリングス等のみのバージョンは収録されてるのでそちらはサブスクで聴けるけど、まずは初出となったこちらの、よりスタンダードな形でのテイクをまさに救済すべきだったでしょ…と思わずにはいられません。折角の何でもありの『Singles & more』でしょうに。というか結構選曲いいので『Best Always』もサブスクにあればよかったのに。ファーストの曲がやっぱアレなのか…?

 『夢で逢えたら』の初出は1976年の吉田美奈子のバージョン。翌年にナイアガラレーベル所属の女性シンガー、シリア・ポールにおいてはアルバムタイトル自体が『夢で逢えたら』であり、この売れない時期の彼の楽曲で最大のヒットポテンシャルを有していたのは間違いなくこの曲。彼の生前もインストの形で散々演奏されたり作品に収録されたりしていたけど、誰もが聴いてみたかったであろう彼自身が歌うバージョンは何と、彼の葬儀にて初登場するという、彼らしいサプライズ感でもって登場しました*4

 後にCD4枚分全てが『夢で逢えたら』のカバー、という狂気のボックスセットがリリースされたりと、もしかしたら彼の数ある名曲でも最も”歌い継がれていく”楽曲はこれなのかもしれません。ちなみにぼくはラッツ&スターのバージョンに一番馴染みがあります。

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(2021年4月23日追記)

 まさかのサブスク追加解禁でここで言ってるバージョンの『夢で逢えたら』が解禁されました…!何という高速な解禁…そして『夢で逢えたら EP』などという怪しいフォーマットをわざわざ作りつつ、他にもレア音源を添える心意気。ちょっと本当にここで書いた願望のひとつが高速で叶いすぎて驚いてます…がとてもとても嬉しい!だったら次は同じノリで『レイクサイド・ストーリー EP』かな(笑)

(2021年4月24日追記)

大エンディング版来てるやん…!

amass.jp

 

⑤大エンディング版『レイクサイド・ストーリー』

 『EACH TIME』がいくつもバージョン違いがあることは前の記事でも語ったけど、その中で1984年リリースの最初のバージョンにしか収録されなかった「最後がフェードアウトで終わらずに演奏が戻ってきて完奏する」バージョンは、このサブスクでも入りませんでした。もしかしたら2024年に『EACH TIME』40周年盤が出ればサブスクにももしかしたら…ですけど。長らくファンが追い求めたレアトラックが全部一気にサブスクに上がるなんて流石に贅沢か…。30周年バージョンのインストを聴くか、もしくはボックスを買いましょう。

 実は憂鬱で気まずさが渦巻く暗い歌集でもある『EACH TIME』の終盤にふさわしいこの曲だけど、でもこの曲の後に『フィヨルドの少女』が続くのであれば、この曲は確かにフェードアウトで終わった方が綺麗な気はするな…と思います。というか、この曲から『フィヨルドの少女』で締める終盤の流れは完璧だと思います。

(2021年4月24日)

サブスクで公開された『夢で逢えたら EP』に入ってる『レイクサイド・ストーリー』が大エンディング版でした…!!!嘘やろ…こんな呆気なくこの辺の音源全部集まるものなの…?驚きました。

 

・アルバムから漏れた楽曲の救済措置

 多くのアーティストにおいて、アルバム未収録の楽曲というのは多数あったりするもので、サブスクでただ単にアルバムだけが上がっている場合では、そういったアルバムから漏れた楽曲が網羅できない場合があります。

 大瀧詠一においても、そういうのが膨大にあって、どうなんだろう…と解禁前は不安に思っていたところですが、それは特に、以下3枚がサブスク上にあることである程度はカバーできてるのかな…と思いました。

 

①『DEBUT』

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 ナイアガラ古参勢においては、これがサブスク解禁されたのがとりわけ衝撃が大きかったように見えました。上でも少し触れた、1978年にリリースされた、売れない時代の彼が半ばヤケッパチ気味に、契約枚数消化のために製作した「売れてもないのにベストアルバム」ですが、このアルバムがレアだったのはなかなかCD化されなかったためです。一応後に『DEBUT SPECIAL』という形でCD化されましたが、そちらは元のやつから4曲しか収録せず、残りは初出のライブ音源5曲、という謎の差し替えが行われたもの。元の『DEBUT』は長らくLPのみのレアアイテムとなっていて、でも2011年のボックスセットにオリジナルのまま収録されたり、2014年にiTunes等での配信が始まった際には含まれていてファンを驚かせたとか何とか。

 そんなファンの中でどうか、という話は置いておいて、このアルバムの特徴はベストアルバムのくせにバージョン違いや新録やライブ音源のみで構成される、初出じゃない曲が無いアルバム、ということ。力作『NIAGARA CALENDAR』のセールス不発でレーベルの閉鎖が決まった中でも、絶望せずにこのように尽くせる限りを尽くしてくるこの時期の彼の屈強さに地味に戦慄する。特に楽曲に”〜'78”と付けられたものは全て新録。ここにおいてファーストの曲が3曲再録され、サブスク的には結果として救済となっている。それだけでなく、この1980年代を目前とした感じが何となく感じられる、もっさり気味のバンドサウンドでの再演自体がなかなか面白い。歌い方もメロディアスモードにかなり振り切っていて、こちらの方が『LET'S ONDO AGAIN』よりもプレロンバケ感を味わえるのかもしれない。特に元から素晴らしかった『乱れ髪』のこの新録バージョンもまた素晴らしい。新録曲は録音メンバーにMOONRIDERSのメンバーが3人も含まれているのも興味深い。ピアノに岡田徹とそして鈴木慶一…!

 

②『B-EACH TIME L-ONG』

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 これはそんなに好きじゃないけど、でも『NIAGARA TRIANGLE vol.2』のうち3曲を一応ここで回収できるので。作品としては、ロンバケ〜イーチタイムの大瀧詠一の楽曲のうち夏っぽいものを集めて、かつイントロに『EACH TIME』でバックを務めたオーケストラがそれぞれの曲を演奏したインストを取り付けたアルバム。正直このオーケストラの演奏は、悪くはないけど、とてもイージーリスニングな感じになってしまって、楽曲本編が始まるのが待ち遠しくて、イントロ的な結構長いストリングスから本来の楽曲のイントロにつながるので間延びするし、かつ楽曲本編との接続がぎこちない感じも結構あって、微妙に思える。

 なお、ここで聴ける『ペパーミント・ブルー』と次の『Singles & more』に収録された『ペパーミント・ブルー(Promotion Version)』は、同じくストリングス主体のオーケストラインストがイントロに付くけれど全然別物。というか後者の方は圧倒的に良い。

 

③『Singles & more』

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 今回のサブスク解禁で突如沸いてきた謎のアルバム。ジャケットのデザインはまあ、こんなもんかなあとか思うけれど、これがなかったら欠落していたトラックが多数あり、とってつけた感じにしては素晴らしくまとまったコンピレーションになっている。なので尚のこと、この何でもありな音源集にあと『夢で逢えたら』とか『A面で恋をして』とか入れてしまえばいいのに…と思った。サブスクなんだから、後からこっそり追加しても構わないと思うし、そうならんかな…。

 でもこのままの曲の並びでも、もし15年くらい前にこれと同じ内容がCDで出てたら血の涙を流して喜ぶナイアガラーが沢山いただろうな、と言えそうな充実したラインナップ。ナイアガラレーベル以降の各種シングルバージョンは大体網羅され、また別途シングルがサブスクに挙がっている『幸せな結末』『恋するふたり』は7inchバージョンでの収録。サイダー系の楽曲も'77と'83をしっかり収録し、サブスクだけで全部揃う。特に嬉しいのが、微妙な立場のカップリング曲『ROCK'N' ROLL 退屈男』や、省かれると困る完成度の『EACH TIME』20周年盤ボートラ楽曲等も収録してくれていること。『マルチスコープ』は1983年にあっても彼の変なユーモアセンスが意外と発揮されていて、まあSEを大量に動員した変なアレンジすぎる。『恋のナックルボール(1st Recording Version)』は正直、コミカルに振りすぎた『EACH TIME』収録の完成盤よりも遥かに好き。この平坦でかつ大らかにロック的にスウィングするビート感が他の大瀧詠一楽曲ではなかなか無くて貴重だしギターのカッティングも気持ちよく、『EACH TIME』ではUKサウンドが標榜されていた、とかいういまいちよく分からなく感じる話もこれを聴くと何となくちょっとわかる感じがする。

 そして、詳しくは後述するけども『ペパーミント・ブルー(Promotion Version)』は本当に素晴らしい。これを拾ってくれただけでもとてもありがたい。『夢で逢えたら』が無いのも許しちゃう。『B-EACH TIME L-ONG』も全曲これくらい上手にやれそうなものなのに、などと勝手なことを思ってしまう。

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(2021年4月24日追記)

④『夢で逢えたら EP』

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 本当に公式がサブスク特有の”気軽な追加”を行なってくると思わなくて無茶苦茶ビックリしてる。しかもそのラインナップがガチすぎる…!

 まさに『Single & more』から漏れたレアトラックを見事につまみ上げてきたラインナップに、その出し惜しみしない姿勢に正直困惑してる。マジでCDではいまだに気楽に入手できないものまで、一気に届けられた。

 まず言うまでもなく、『夢で逢えたら』は『Best Always』に収録されたのと同じ、1977年のシリア・ポール版のトラックに自身の歌を乗せた、「大瀧詠一バージョン」の決定版。その『Best Always』に同じく収録されていた『烏賊酢是!此乃鯉』のバージョンも収録し、こちらは元の分よりもリズムのスウィング感を抑えた、よりタイトでファットな質感のバージョン。

 そしてここから4曲、怒涛の『EACH TIME』収録曲のバージョン違いが連発される。『夏のペーパーバック』はイントロがチェンバロ以外の楽器も入ったバージョン。『1969年のドラッグレース』は30th versionなどよりもアウトロが短く、ギターのフィードバックノイズがあまり目立たない。これは30th version等のやつの方がいいですね。『ガラス壜の中の船』も3秒くらい短いけど、何が違うのかよく分からない…。

 一番驚かされるのは、あれほど公式が気軽なリリースを拒み続けてきた『レイクサイド・ストーリー』の大エンディングバージョンを、ここで呆気なく公開していること。正直今日初めてこのバージョンを聴いて、あ、こうなるのか、ちょっと思ってたのと違う…もっとこう、歌の繰り返しが一旦引っ込んでまた帰ってきてからあのエンディングかと思ってた…けど、なるほど1984年当初のこの曲で終わる曲順なら、こっちの方が「この曲でこのアルバムは終わり!」って感じが強調されるように思った。そして、この曲の後に『フィヨルドの少女』が続くのならフェードアウトもアリだなあ、ということも、十分に分かった。でも、これはどっちのバージョンにするか、本人がレコードのプレス直前で迷った気持ちもほんの少し分かるかも。

 

本編

 ようやく本編…!

 正直、彼のオールタイムベストって作りづらくて、それはサウンドも歌もアレンジも、1970年代と1980年代以降とで全然質感自体が違う、かなりの断絶がどうしても感じられるから、それら時代の違う曲を並べると違和感が目立ちがちなところが原因として非常に大きくあります。年代順で並べればまだいいんでしょうけど、それじゃあ面白くない、ということで今回、それなりに頑張って曲順を考えました。が、結局選曲がそんなに『Best Always』と変わらないなあ、という具合になって、あのベスト盤の選曲ってかなり良かったのか…と気づかされました。

 今回20曲+1曲扱いますが、今回はレコードのA面・B面的な形で、大体5曲単位でひとつの面を形成するように区切り、よって今回のプレイリストをレコードに模して捉えると、2枚組のアルバムとなるようになっています。これは大瀧詠一本人がこの、レコードのA面・B面といった構成に強い親しみがあり、この構造から生じる曲順の妙などについても様々な言及をしていたことをリスペクトしたものです。なので今回はA〜D面という4セクションで楽曲を分けてみてます。リスペクトなどと言ってますが、なんとなく、です。

 

A-side

1. 君は天然色

(1981年『A LONG VACATION』)

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 プレイリストの1曲目に相応しい華やかさとテンションの高さそしてエモさだと思うんですが、この曲について色々書こうとしてこの記事の投稿が遅れに遅れまくってしまったので、後回しにします。

 本当にヤバいくらいいい曲で、みなぎりまくってて、それゆえにロンバケ全体の雰囲気から少々浮いてるようにも思えるけど、むしろロンバケの他の曲全部よりこの曲の方が好きなのかもしれません。

 

(2021.4.17更新)

やっと書けました。。この曲単独で1万字くらいになったので、そりゃあここで書き切ることはできなかったな…という具合です。まさにその、自分がこの曲に感じる”どうしようもないエモさ”に焦点を当てた内容です。

ystmokzk.hatenablog.jp

 

2. Tシャツに口紅

(2016年『DEBUT AGAIN』)

 大瀧詠一死去後の一時期の大盤振舞いっぷりは凄まじく、本人ボーカル『夢で逢えたら』に始まって、提供楽曲のセルフカバー集『DEBUT AGAIN』でひとつの頂点を迎えたと思う。こんなに未発表音源がポンポン列挙されたアルバムがさらりと出て*5、それが本人死去後の出来事だから、それでいいのかどうか少しばかり不安にもなるけども、でも素晴らしいものは素晴らしい。

 その中でも特に、松本隆作詞・大瀧詠一作曲の提供曲シリーズはどれも強力なものが残っていて、それらは大体『EACH TIME』のレコーディングが煮詰まってる時期にリリースされていて、この時期のこの二人のコラボ体制が円熟の域に達していたことを物語る。その中でもとりわけこの曲の強力かつ正統派で力強いポップさは本当にすさまじい。のちに本人がこういうタイプの楽曲が『EACH TIME』に入ってればよかったのにとぼやく程。

 元々はラッツ&スターに提供された楽曲で、だからなのか、普段の大瀧詠一楽曲には無いタイプのダンディズムがはっきりと提示され、そしてやや歌謡曲テイストの効いた堂々たる節回しと、Phil Spector大好き人間としての大瀧詠一アレンジが完全に合致し、大瀧・松本コンビの楽曲でもとりわけクッキリとしたポップさが醸し出される。それはボーカルやコーラスを大瀧詠一に差し替えても変わらず、むしろこのソフトさの中に引き出されたダンディズムは彼のボーカルでもそんなに聞けない類の魅力を備えている。一人多重コーラスも完全に構築され、ケレン味の効いたメロディ展開も歌詞も素晴らしく、ロンバケ以降の楽曲でもトップクラスの完成度を誇る。

 なお、このトラックのボーカルを活用した、ラッツ&スター鈴木雅之との”共演”の様子は、感動的、というのを超えて音楽的に魅力的だと思った。

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3. 外はいい天気だよ

(1978年『DEBUT』元は1973年『HAPPY END』)

 はっぴいえんどのラストアルバム『HAPPY END』はアメリカでレコーディングされたけど、ソロのファーストのレコーディング終了の本当に直後に渡米した大瀧詠一は全然はっぴいえんど用の楽曲の準備が無い状態でレコーディングに臨み苦労したらしく、『風街ろまん』では7曲を提供してたのに対し、3曲しか完成させられなかった*6

 その3曲でも最もゆったりとしたテンポで、彼のボーカリストとしての力量とアメリカンポップスの教養とがゆったりしたムードの中に表出されたのがこの曲。はっぴいえんど時代ということで、この曲もまた歌詞は松本隆*7。苦しい状況で作られた曲だけど、その独特ののんびり具合を意外と気に入ってたのか、後に『DEBUT』にて録音し直された。この再録バージョンは、原曲の良さをよりフワフワした形で表現した、彼の楽曲でも珍しいサイケデリックなドリーミーさの感覚に満ちた仕上がりになってて面白い。オモチャっぽい音色にエコーが掛かったピアノの感じは1970年代のThe Beach Boysみたいな感じで、これに実は1970年代大滝サウンドの要であるスライドギターが絡んで、のんびりぼんやりしすぎてサイケデリックな境地に達したかのような雰囲気。

 そんなぼんやりのんびりサイケな異色のムードの中で、大瀧詠一のボーカルだけひたすら艶かしい。はっぴいえんどの頃からこういう歌い方で、実は彼は初めからこういう歌い方ができたということだけど、特にここでの歌唱のひたすら甘美なソフトさは後述の『乱れ髪』再録と並んで、まさにプレロンバケの感じ。

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4. 名月赤坂マンション

(1981年『NIAGARA CALENDAR ‘81』)

 大瀧詠一のオールタイムベストを作ろうとすると、どうしても1980年代以降のメロディアス系の曲を一定数入れないといけなくなって、『NIAGARA MOON』辺りに顕著なノベルティソングの系統を一緒のプレイリストに入れづらい現象が起きる。その難しさはサウンドの1970年代のドライさと1980年代のウェットさが合わないことも大きいけれど、歌い方の問題がより大きい。ノベルティソング系の彼のがなるような絞り出すような歌い方は、1980年代に顕著なクルーナーボーカルのソフトさと真逆で、同じ人とは思えない振り幅が、それ自体は凄いことなのに、しかし同じプレイリストに両方を入れるのが難しくなってしまう。

 しかし、ノベルティソング系統でもこの曲なんかだと案外歌い方が”歌手・大瀧詠一”している感じなので、意外と馴染む。演歌のメロディなのにレゲエなリズムも、南国的な情緒が意外と1980年代と陸続きになっている。楽曲自体の解説はすでにアルバムの全曲レビューで書いたので割愛します。

 そもそも元のリリースが1977年のアルバム『NIAGARA CALENDAR』まで来ると歌い方自体も全体的にソフトで、81年リミックスのおかげもあり、1980年代以降の楽曲と並べても比較的違和感が少ない。

 

5. Happy Endで始めよう

(1997年『幸せな結末』)

 1990年代以降の彼の楽曲ではこの曲だけ今回のプレイリストに入れた。といっても1990年代以降の彼の楽曲ってシングル3曲に『DEBUT AGAIN』中の1曲+ボートラのリハビリセッションにかなりでっち上げ感のある”新作フルアルバム”『Happy Ending』程度しかないけど。…書き出してみると意外とあったな。

 この曲のいいところは軽薄なところ、そして軽薄な方向性できっちり完成しきっているところ。というか『幸せな結末』といいなんであのシングルははっぴいえんどにあんなに拘ってたんだろう。意外と元メンバーで一番はっぴいえんどに思い入れがあったりするのかなとか思ってしまう。そしてその思いだけで、こんなノベルティソング的な手法で1曲でっち上げてしまうその軽薄さ*8が、往年の大瀧詠一感があって、出来上がりすぎている『幸せな結末』『恋するふたり』とかよりも好き。

 自分で作った『幸せな結末』のウェルメイドな大滝流ウォールオブサウンドに反発するかのようなその軽快でリバーブ少なめでドライなサウンドは実に1990年代相当なサウンド感で、シャッフルのリズムの足取りも実にいい具合に安っぽい軽さがあって、こっちの方向で伸び伸びと楽曲を量産してたらどんな作品ができてただろう…と気になってしまうけど、様々な洋楽オマージュなのかセルフパロディなのかすら判別つかないアレンジと、「月並みな大瀧詠一的歌詞にちょっと過去の楽曲タイトル詰め込んだろ」的な歌詞の具合がそういうif的な感傷をシャットアウトする。様々なことがバカバカしくなるくらいに本当にこの曲は軽妙で、こんなに少なくともロンバケ以降でこの曲ほど軽妙な曲も無いだろう。

 なぜ軽妙なのか、それはやっぱりベースが軽妙なオールディーズポップスになっているからか。イントロ等で聴かせるシンコペーション利かせて停滞するリズムは自身の『ウララカ』の再利用だけど、そのそもそもの元ネタはThe Crystals『Da Doo Ron Ron』やDave Clarke Five『Over and Over』で、そしてこの曲全体のノリも、『Da Doo Ron Ron』らと同じくらいの軽快さを保とうとサウンドがシェイプアップしているように感じる。それでも、シャッフルのリズムに対して3連で刻み続けるピアノの反復がいかにも大瀧詠一しているけど。

 そして歌詞の、絶妙にテキトーな感じがとどめを刺す。歌い始めから「いつかどこかで たぶんおそらく」という凄くフワッとした表現で笑ってしまう。後はちょこちょこ自身の過去の楽曲タイトルをしれっと歌詞に含ませて、たわいもない歌詞が進行していく。ただちょっと興味深いのが、大滝作品ではない『風をあつめて』も歌詞に忍ばせてあること。大瀧サイドにもこの曲がやっぱりはっぴいえんどの代表曲だっていう気持ちがあったんだろうか。

 

B-side

1. ペパーミント・ブルー

1984年『EACH TIME』ここではPromotion Version採用

 このプレイリストを2枚組LPと考えるとここで1枚目の裏面が始まるので、また景気のいい1曲を、ということでこの曲を。そして少し勿体ぶった、ゴージャスなイントロを、と考えると、通常盤も悪く無いけど、でも折角サブスクでレアトラック解禁してくれたのもあって、Promotion Versionの方を選択してみました。

 楽曲自体は『EACH TIME』のリードトラック的な存在感のある楽曲。夏っぽさ・リゾート地っぽさがあるせいで『EACH TIME』の”ロンバケ2っぽさ”を醸し出している原因の一つにもなっている*9とは思うけど、でもこの曲のボーカルが歌手・大瀧詠一の絶頂のようでもある。並々ならぬ繊細さとそれこそ「水のような」ソフトさを有した歌い始めの歌唱は、こんな風に歌える人がどれだけいるだろう、っていう境地で、そこからアッパーなサビに向かっていく様は不思議な壮大さと爽快感がある。Bメロが2回目で微妙にメロディ追加されるところのややこしい感じはなんかアレだけど、でもそういうメロディの無闇に複雑になる感じは実に『EACH TIME』って感じもする。複雑で気まずさが渦巻いてノアールな『EACH TIME』の雰囲気だからこそこの曲の突き抜けていくサビが映える、というのもあるだろうなあ。特に1984年当初の、シングル2曲を含まない曲目・曲順ならなおらさ。

 それで、ここでは今回採用したPromotion Versionの話を。変則的ベスト盤『B-EACH TIME L-ONG』と同じくストリングスによるインストが冒頭に付くけど、このバージョンの良いところはワンコーラス分をフルに流すのではなく、サビをモチーフにしたそんなに長く無いフレーズを添えて、しかもそこからドラムフィルでいきなり歌に切り替わるところ。原曲の分厚い一人多重コーラスで入るイントロも悪く無いけど、ここで聴ける程よくオーバーチュアなストリングスからフィルを挟んでサッと歌が始まるのは原曲よりもスリリングで面白い。しかもなぜか歌い出しの歌詞が違ってるし*10。 

 

2. あの娘に御用心

(1978年『DEBUT』元は1976年『GO! GO! NIAGARA

 この曲も元々のバージョンではなく後に再録されたバージョンを。『NIAGARA MOON』の余熱を感じさせる粘っこさを有する原曲に対し、1978年の再録はより高速化してサンバっぽくなったテンポとソフトで曖昧気味になった音色が、よりこの曲のラテン的な魅力を引き出しているように感じる。それにしても『DEBUT』再録シリーズの音色のファットでオブスキュアーな感じはここだけの特徴なのでなんか面白い。そのソフトなアタック感が、1980年代の楽曲と並べても比較的違和感が少ない要因にもなっている。

 元々は沢田研二に提供した曲。畳みかけるような言葉のテンポ感はリズムオリエンテッド期の大瀧サウンドって感じだけど、他者への提供曲ということで、ある程度のポップさもしっかり具備しているところが強み。1970年代ロック・ポップス一般のソリッドな曲構成とメロディ回しを同時代的に処理しきった何気に快作。そして78年リメイクによる高速でソフトなラテンポップ化は、間奏のフレーズのいかがわしさもいいスパイスになって、ある意味これも渋谷系を先取りしたような洒脱なモンド感がある。歌い方もこの再録シリーズの特徴たるロンバケ化の進んだ歌い方で、やっぱりこういうスタイルならロンバケ以降でもこういう曲を演奏できたのでは、1990年代にアルバム作ってたならこういうタイプの曲なら『幸せな結末』とかと同居できたのでは…リハビリセッションのトラック的にも…などと色々余計なことを考え出してしまう。

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3. 楽しい夜更かし

(1975年『NIAGARA MOON』)

 やっぱり『NIAGARA MOON』の歌い方が一番ロンバケ以降から離れているなあ、と思ってしまう。なので前曲を挟んで緩衝材にしてる。このダミ声チックな歌い方、はっぴいえんどとは連続性があるんだけども。逆にロンバケ以降にどれほどのものを切り捨てたか、ということが理解できる。そしてそれでも、この曲は『NIAGARA MOON』では全然歌ものしてる方で、流石に1980年代の曲も多く含んでるプレイリストに『福生ストラット』とか『ハンドクラッピン・ルンバ』とか『恋はメレンゲ』とかを一緒に並べるのはなかなか難しく感じる。1970年代大瀧詠一だけのプレイリストが別に要るな…。

 Ernie K. Doe『Mother In Low』のモロパ…オマージュな楽曲は、原曲譲りのリラックスしたメロディ回しとユーモラスなコーラスの掛け合い、洒落たピアノ回し、シックで楽しげなホーンセクションなど、原曲の魅力を正確に拾い上げ、日本人たる自身の1975年の楽曲として的確にアップデートしている。そしてそこに、深夜麻雀で盛り上がる、というたわいもない光景がユーモラスに添えられて、特に原曲の「mother in low」の音に「楽しいよ」と言葉を当てるところに大瀧詠一の根が朗らかな人柄が偲ばれる。今の自分の耳で聞くと、”早すぎた東京インディー”みたいな印象がなぜかある。ダミ声スタイルでメロディアスな楽曲はそんなに多く無いけれど、やっぱりこっちの路線で歌ものを増やしてたらどうなってたか…大ヒットはしなかったかもなあ、などと余計なことを考えてしまう。

 

4. 青空のように

(1981年『NIAGARA CALENDAR ‘81』)

 正直この曲と次の曲はプレイリストの中で置き場所に困ってしまった感じはある。でもまあいいか。

 楽曲自体については前の記事で言い尽くしたけど本当に名曲。ひたすら明るくて、なのにかだからかちょっぴり切なく感じるのは一部のオールディーズポップスと全く同じ構造をしてるなーって思う。あと、終盤のスキャットで延々展開していく部分は、意外とT-Rexっぽいグラムロックの享楽的な雰囲気も感じられる。大瀧詠一T-Rexっぽさを狙うとは考えにくい気もするけど、両者とも似たような元ネタから似たような展開を生み出してたってことなのか。

 

5. 恋するカレン

(1981年『A LONG VACATION』)

 ロンバケでは『君は天然色』と並んでPhil Spectorな感じがとりわけ全開になっている楽曲。カスタネット連打に、分厚いコーラスワークを中心としたウォールオブサウンド、やや『Be My Baby』意識なリズム等、様々な要素を散りばめながらも、歌謡曲的なケレン味もあって、その様はもはや、日本製の新しいアメリカンポップスといった様相。曲名も日本人の名前っぽくない「カレン」だし。特に2回目のサビのコーラスワークが圧倒的で、これだけを抜き出して加工したものが2020年の”新作アルバム”『Happy Ending』の冒頭で『Niagara Dreaming』として単独曲化され、それでも別に違和感は無いほどのもの。

 そんな華やかな楽曲に比して、初めっから恋に敗北してる男の割とみっともない想い人へのマウントの取り方をする歌詞は、様々な洒落た舞台装置が出てくるにも関わらずそんな歌なのかよ、、という意味で半ばギャグっぽく感じる。そう、この曲までの大瀧詠一非モテ曲はまだ笑えて、『EACH TIME』での深刻さ・取り返しのつかない気まずさみたいなのは影を潜めてる。松本隆的に『EACH TIME』の歌詞は結構挑戦的なものだったのかな、とこの曲の地点を思うと逆に考える。

 それはそれとして、歌詞のうち「スローな曲がかかると」の”ロー”の部分で何音節分稼ぐんだよ…というのもなんかヘンテコで面白い。絶対普通ならもっと言葉を入れ込むほどの音数を「オー」で凌ぎきってしまう歌唱力が凄いと言えば凄いけど、それより前にどうにかしようと作詞者と作曲者で調整しなかったのか。しないからこその緊張感みたいなのがあったのかな。

 

C-side

1. 1969年のドラッグレース

1984年『EACH TIME』)

 また面が変わって、LP的には2枚目の表面の先頭。アルバム『EACH TIME』はCDとLPの転換期真っ只中のリリースで、その後様々な曲順・曲目が本人公式でリリースされ続け、その多くはCD以降の「A面・B面の無い」形式になっているけど、そのどれのバージョンにおいても*11、「『EACH TIME』B面の先頭」に置かれているのがこの曲で、そしてその説得力たるや半端ない。大瀧詠一の数ある楽曲の中でもベスト”B面先頭曲っぽい曲”だろう。なんだそれ。というか1984年のオリジナル『EACH TIME』及びシングル2曲追加の『Complete EACH TIME』のB面はちょっと名曲連発で強すぎる感じ。数ある大瀧詠一作品でも最も強力な曲順かもしれない。

 

1. 1969年のドラッグレース

2. ガラス壜の中の船

3. ペパーミント・ブルー

4. レイクサイド・ストーリー

(5. フィヨルドの少女 ※『Complete EACH TIME』のみ)

 

 この曲に話を戻すけど、ロンバケ以降の楽曲では『君に天然色』と並んでエモさが突出してる楽曲、というイメージ。どっちかというと”テンションの低さ”で聴かせる雰囲気のある『EACH TIME』において、異端な勢いと謎に奥深い熱情を秘めている。

 この曲の異質さは、歌中心のしっとりしたトラックの多い『EACH TIME』において、思いっきりサウンド重視・突破力重視な作りになっているところ。ロンバケ以降の高水準なボーカルは維持しつつも、この曲においてはそれさえサウンドの一部のように扱われ、Bo Diddleyな強烈なジャングルビートを1980年代テイストなドラムサウンドで実装し、ピアノ等もそれに合わせたアタック感を強調したプレイを見せる様は1970年代リズムオリエンテッド大瀧詠一の束の間の復活で、そしてはっぴいえんど時代からの盟友・鈴木茂の派手でアグレッシブな太いファズギターがひたすら突き抜け通していく。ギターのフィードバックノイズで終わる大瀧詠一曲なんてこれくらいだろう。この突如噴き上がったテンションの高さに、大瀧もロンバケ以降珍しくなったシャウトで応える。

 サウンド重視の極め付けは、サビでの多重ボーカルの取扱い。メインボーカルとバックコーラスというスタイルではなく、鮮やかというよりもむしろ蠱惑的でサイケデリックな配置をされた幾つものボーカルトラックは、”歌”というよりも”言葉と音階を伴ったサウンド”と呼ぶべきもので、ここでのエグいボーカルの重ね方があるからこそ、その後に来る鈴木茂のギターがより突き抜けていくという、実に器楽的なロジックの曲構成になっている。

 そしてそんなトラックに、松本隆らしくない、どこか個人的な鑑賞が感じられる歌詞が乗ってしまう。恋人とのドライブに擬態しながらも、「はっぴいえんど結成直前に大瀧・細野・松本の3人で東北旅行をした時のことをベースに」書かれた、という予備知識が、どこまでもこの曲の歌詞世界を彼らの個人的なものに染め上げていく。

 

意味ない事を 話してる時の

ぼくが一番好きだわって 言ったね

わたしたちには あせらなくっても

時間があると笑って

 

様々な雑学や冗談を話すのが好きだった大瀧詠一という人物像を思うと、ここの歌詞は実にはっぴいえんどの頃の彼らの姿が浮かんできてしまう。そうなってくると今度は他の箇所に出てくる「まだガソリンは残っているの なんて 心配ばかりしてたね」なんてフレーズも、当時細野さんあたりから言われたフレーズかのように聞こえてくる。

 そして、最後のセンテンスの巧みさ。村上春樹1973年のピンボール』と被る感じの曲タイトルが、ここでまさに同種のノスタルジックさを獲得してくる。そしてそれはどこか、松本隆個人の思いのようにも思えてくるから、あざとくもあるけど、エモくて抗い難い魅力がある。

 

君が言うほど 時間が無限に

無かったことも 今ではよく知ってる

だけどレースはまだ終わりじゃないさ

ゴールは霧の向こうさ

 

 この曲が結局本人のライブで演奏されなかったのは残念なことで、もしかしたら何かが違ってればはっぴいえんどメンバーを集めてのこの曲の演奏なんていう、彼ららしくない野暮ったいエモさを吐き散らかす場面もあったのかもしれない。ひたすらそんな感傷が無限に湧いてくるけども、でもこの曲の強靭なビートとサウンドは、そういうのを振り切る方向にも炸裂してくれる。

 あるいは、この曲の方向性でこの後大瀧詠一が楽曲を量産していたら、彼はともすれば日本のオルタナティブロックのいち源泉になってたりしてたんじゃなかろうか。この曲は立ち位置があまりに現代広まっている「歌手にしてポップスの大家・大瀧詠一」像と違った地点にあるため、様々な相応力が働いてしまう。

 ましてや、『EACH TIME』は大瀧=松本コンビという無類の強力なポップスを量産したコンビが「ロンバケよりも先」を求めていく中で解体していく様が透けて見えるアルバムでもあるけど、そんな中で彼らのオリジンが込められたこの曲の存在というのは、果てしなく個人的な情念の存在が感じられてしまう*12。本当にこのコンビらしくない、唯一筆を滑らせた、唯一だからこそ何かを極めんとがむしゃらに取り組んだ、本当に貴重な金字塔なんだろう。持って回った考えすぎるかもしれないけど。

 

2. 雨のウェンズデイ

(1981年『A LONG VACATION』)

 前の曲からは車続きで、しかし前の曲では快走してたであろう車がここでは「壊れかけたワーゲンの」になってしまう、という悪意ある曲順です。そしてこの曲から4曲連続で雨の曲を。大瀧詠一のコンピアルバムには夏縛りの『B-EACH TIME L-ONG』に冬縛り(で曲が十分に集められなかった)『SNOW TIME』があるけど、雨縛りのコンピも作れそうな気がします。『RAIN TIME』か?いやなタイトルだなあ。

 この曲について。これも大概有名な、これがロンバケで一番好き、という人も多いであろう名曲。ロンバケでも一番1980年代っぽい・AORっぽい「楽しくなさそうな恋人との関係性こそがアダルト」って感じの情景が音にも歌詞にも滲んでる。この関係性をもっと進めて、関係性を破綻させた更にその先で物語を作ろうとすると『EACH TIME』収録曲みたいになる。…この記事、すぐこうやって話が逸れる。

 改めてこの曲について。こんな典型的にしっとりとしたAORな楽曲を、かつて『NIAGARA MOON』で和気藹々とニューオーリンズ式のファンクサウンドを研究してたティン・パン・アレーの面々と、それも殺気立ったテンションで録音していた、というエピソードが、なんか気の毒で面白い。ティン・パン・アレーという情報が入ると、変哲もないAORサウンドのように聴いてたこの曲のサウンドが急に記名性のあるものに思えて、このベースの感じは細野さんっぽい、とか考えてしまうんだから、我ながらしょうもない。ロンバケ楽曲でもとりわけ少人数で録音されてるため、ウォールオブサウンド感はそれほどでもない。その分、歌が終わった後に入るバカラック『Walk On』風のリフレインや、間奏直前のブレイクの区間の緊張感が効いている。

 サビの殆どハミングで済ませてしまう感じは、自分のAORというジャンルの聴き込みが全然少ないのもあるだろうけど、「AORかくあるべし」みたいな、クールさとダサさの境界線上の何かみたいなものを感じる。

 この曲もメロディに対する言葉数が所々不自然になりがちで、でもきっとその辺は自分の歌唱でどうにかなるから、緊張感を優先して、あえて松本隆と必要以上のすり合わせをしなかったのかな、と考える。そしてこの曲の歌詞で描かれる情景もまた上と同じ理由で、自分の中で実に”AORの模範的な歌詞”みたいになっている。この曲で描かれてるレベルの気まずさは、でも実に優雅で、そして歌詞の最後、「菫色の雨の中で抱き合う二人の姿」によって、苦味が甘味に昇華されていくようになる。それがきっとこの曲の大きな魅力だと思うし、同時にそんな魅力を全く切り捨てて、そのギリギリのバランスの二人の美しい関係性が”終わってしまった後の世界”を描こうとした『EACH TIME』の痛切さのことを思う。

 大瀧詠一について何かしら書こうと努力したこの1ヶ月で、ぼくは本当に急に『EACH TIME』を好きになりすぎたと思う。結局こうやって脱線したままこの曲の話が終わるんだもの。

 

3. 乱れ髪

(1978年『DEBUT』元は1972年『大瀧詠一』)

 今回のプレイリストでは一番古い曲はこれになる。一番古い曲にも関わらず、もしかしたら1970年代の大滝曲で最もロンバケ以降に近い歌い方をしてるのはこの曲かもしれなくて、つまり大瀧詠一は初めっから「歌手・大瀧詠一」の側面を有していたんだな、ということが良く分かる*13。1970年代初頭ということもあってのソリッドな曲構成や、歌謡曲界で売れっ子になる前の、キレッキレに前衛的な歌詞表現を求めていた松本隆の歌詞など、ロンバケ以降と対比できる部分も多くて、そもそも曲自体が何もかも美しく、実に名曲だなあと思う。

 1972年のオリジナルは時代性特有の乾いたサウンドがシングルトラックの歌唱の飾らない良さをどこまでも引き立てるし、1978年のリメイクは厚めのリバーブ感の中でよりバンドサウンドの強調された音世界に埋没していく具合が独特のファンタジックさで、両者の甲乙は付け難い。どちらも素晴らしい。サブスクには1978年版しかないので今回はこちらをリストに入れてる。どちらのバージョンでも、楽曲自体の小回りの効いた良さと歌の素晴らしさと歌詞の不思議さは変わらない。『指切り』は拾われず残念だけど、この曲は1978年版で拾われて本当に良かった。

 それにしても不思議な歌詞で、これを実に丁寧にかつしっとりと歌い上げることもあって、それだけで不思議な世界観が形作られる。

 

割れた鏡のなか たたみの青がふるえる

なにをそんなに見てるんだい

髪を切りすぎたね まるで男の子だよ

外は乱れ髪のような雨

ごらん きみの髪がふる

ごらん きみの髪がふる

 

シュールなような、エロティックなような、映像的なようでいてファンタジックで、ガロ等の漫画みたいな光景とよく言われる。あなたにはどんな「きみの髪がふる」光景が映るだろうか。

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4. Bachelor Girl

1984年『EACH TIME』)

 数ある大瀧詠一の雨の曲の中でもとりわけテンションの高い曲。というか、手ひどく振られる歌詞の曲なのになんでこの曲はこんなに元気なんだろう。流石に雨っぽさが足りないぞ…と思ってイントロに雷雨のエフェクトを挿入したりしたんだろうか。

 サビのメロディはマイナー調だけども、曲全体としては非常にブライトなメジャー調に聴こえるこの曲。特にずっとモータウン式の頭打ちのビートで進行していく辺りに、この曲のアッパーな雰囲気が象徴されている。歌メロもサビの歌詞もケレン味が効いてて実にキャッチーで、かつサビだけ抜き出したらいい具合にナルシスティックな歌詞にも思えて、案外LUNA SEAとかでも歌える曲なんじゃないか、とかさえ思ったりする。この曲や『フィヨルドの少女』が初めから『EACH TIME』に入っていれば地味な印象は違ったのか、とも思うけど、でもあのアルバムの暗くややこしい人間模様を思うと、この2曲のような分かりやすくブライトなポップさのある曲を”あえて”外したくなる心理も分からなくはない。

 歌詞のとおり高らかに鳴るピアノに、サビのセクションから切り替わる時の大袈裟なストリングスのキメ、優雅にかつポップにブチ上げるメロディ、ミドルエイトの上昇するメロディに合わせて登場する間奏のサクソフォンなど、ひたすら多幸感に包まれ続けるこの曲の歌詞が「ひたすら手ひどく女性に振られる」だけっていうのが、結果としてギャグみたいになってるのが面白い。たいしてノスタルジックな設定があるわけでもなく、強く派手にフラれて、強く強く引きずっていく、そんな歌が最後の多幸感の極みのようなAメロの繰り返しの中でフェードアウトして、最後にもう一回雷雨のSEで終わる様は、面白いけど、やっぱこのド派手なフラれっぷりは、陰湿極まりない『EACH TIME』の主流路線からは大きく外れていると言わざるを得ない。松本隆もまた随分とコメディめいた歌詞を書いたもんだ*14

 ただ、冒頭のSEも早々にいきなりサビメロで始まってひたすらポップに多幸感マシマシで進行していく様は、実に最高に”アルバム2曲目くらいにあるリードトラック”然としてもいる。実際この曲が『EACH TIME』に収録されるようになって以降は、不動の2曲目ポジションを築いている。しかしながら、大抵は冒頭に置かれる『夏のペーパーバック』で「穏やかに二人で楽しげにリゾートする光景」が歌われた後にいきなりこの「どしゃ降りの中で手ひどくフラれる歌」に繋がるので情緒的には「…えっ?」ってなるけど。

 

5. ガラス壜の中の船

1984年『EACH TIME』)

 ここまでで散々書いてきた「『EACH TIME』の暗く気まずい歌詞世界」の側面を代表する曲のひとつ、というかこれがその頂点でしょう。『木の葉のスケッチ』とどっちが気まずいかは状況の違いもあるけど、より差し迫った気まずさは圧倒的にこっちでしょう。なんだ”より差し迫った気まずさ”って…

 ひどく甘ったるいバラード調で「気まずい別れを告げた後の彼女を雨が降りそうだから車で送ろうとしたら車が壊れて二人で立ち往生」というシチュエーションを歌う。よくまあここまで嫌なシチュエーションを思いつくなあ…という意味では、大瀧詠一楽曲における松本隆の歌詞のひとつのピークで、またあらゆる要素が『雨のウェンズデイ』と比較できるようにもなっているところが徹底している*15。”『雨のウェンズデイ』のBad Endバージョン”みたいにこの曲を考えることも出来る。

 そしてそんなどうしようもない歌詞を、本当に実に大袈裟で繊細で甘美なバラードに乗せて、しかも短い歌のフレーズで歌詞を細かく刻みながら、壮大に歌い上げる。もはや”どれだけ華美にひどいシチュエーションを歌えるか”について大瀧=松本コンビで追及した結果じゃなかろうか、とさえ思ってしまう。

 

車の故障さ 肩をすくめる君

ぼくは工具とあきらめを手にしてる

 

気まずいサヨナラを決めたあと

送ってくはずだった

つまづいた時間が ぼくたちの

心縫い止める

 

本当に心縫い止められてますか…?何上手いこと言った風に「工具とあきらめを手にしてる」とか言ってるんだよ…?と、面白おかしく指摘しながら読まないと、どうにも居た堪れないシチュエーション。

 この曲の面白いのは、こういうどうしようもない光景の歌だと認識した段階で、この曲のいちいち甘ったるいバラードって具合の演奏の装飾の数々が、全て効果が反転して、実に惨めな感じに響いてくること。5分半という短くない尺の様々な演奏をフルに活用して、演奏がカビになればなるほど惨めったらしさが増すという、実に皮肉な構成になっている。ストリングスが華やかに舞えば舞うほど、歌詞の中の二人の惨めな停滞感は気味悪くなっていく。実にメタ的な仕掛けで、それに気づいてしまうとこの曲で大瀧詠一が最も声を張り上げる「心縫い止める」「離れられないよ」の箇所があまりに悲喜劇的に響く。Wikipediaの「悲喜劇」にはこんな記載がある。

 

ゴットホルト・エフライム・レッシングは悲喜劇を「まじめさが笑いを誘い、痛さが喜びを誘う」感情の混合物と定義した。

 

まさにこの曲の歌詞は、非常に限定されたシチュエーションにおいてこの点を極めた、紛れもなく松本隆の歌詞のひとつの”達成”だと言える…それにしても、なんて地味で、そして嫌な達成なんだろう。とてもアイドルとかに書いて歌わせられる歌詞じゃなくて、そういう意味で、松本隆大瀧詠一という「ある程度気心の知れた強力なソングライター」の側で、密かに昔とは異なったスタイルでの実験を行っていたのかも知れない。そしてその実験は、彼の言葉選びの精緻と大瀧詠一の表現力によって、ここに大輪の花を咲かせていた。あまりに地味で多くの人が目を向けず、またその気になって見つめたら目を背けたくなるような、実に厭らしい花を。

 

 …というわけで、C-Sideは車で快走して行く曲で始まり、車の故障で立ち往生する曲で終わるわけです。今回のプレイリストではこのあたりの曲順が特に自信があります!

 

D-side

1. ニコニコ笑って

(1976年『GO! GO! NIAGARA』)

 ようやく最後のサイドに入りました。とはいえ、いくらLPに見立てたところで、実際には前の曲からこの曲まで連続して聴くことになるわけだから、壮大に事故ってしまってる前曲の淀んだ流れを一旦リセットする意味でも、この短くてサラッと洒落た歌ものは丁度いいものだと思います。

 『NIAGARA MOON』でのガナり倒すような歌い方は、実は次のアルバムではそんなに使われてなくて、この曲なんか実にソフトな歌い方をしている。面白いのは、ソフトだけども、そのソフトさのあり方がロンバケ以降のそれとちょっと違うこと。この曲での大瀧詠一の歌唱は脱力した、繊細なクルーナーさもそんなに出さずに、気怠げで雑っぽい感じに歌ってて、気があるけど向こうから距離を取られてるかもな女の子に声をかけてるみたいな歌詞共々、「やたら声のいい変なおっさんが話しかけてくる歌」みたいな印象になってる。そしてそれはおそらく、きっちり本人の意思通りの印象なんだろうな。こんなに洒落たスウィング感の、ホーンもバッチリないい曲なのに。なお元ネタと思われる曲を聞くとなるほど…と思うけども、リズムが3連符からシャッフルに変更されているし、結構変わってる。

 あとこの曲、地味に左右のチャンネルで左右に揺れ続けるパーカッションかハイハットか何かの音の仕掛けがウザくも面白い。収録されたアルバム『GO! GO! NIAGARA』は彼の1970年代の多忙さの始まりなアルバムだけど、こうやって細部にヘンテコなアレンジを組み込んでくる様は流石だなあ、研究肌だなあ、と思う。

 

2. 真夏の昼の夢

(1977年『NIAGARA CALENDAR ‘78』)

 前の記事でも書いたけど、この曲についてはソニー移籍後のリミックスの'81バージョンよりも、ここで取り上げる'78バージョンの方が断然好きだ。たまたまだけど、前曲がサクッと終わってからこのバージョンの波のSEと共にイントロが始まる場面はかなりいい接続の仕方をしてると思うんですけども。

 やはり、言いたいことは前の記事で言い切ってしまったけど、本当に実に優雅で、かつ優雅さに潜む”危うさ”みたいなのをいい具合に孕んだ楽曲だなあ、とつくづく思う。この曲や『夢で逢えたら』、もしくは上で取り上げた『あの娘に御用心』『楽しい夜更かし』なんかを思うと、作詞家・大瀧詠一の才能について色々と真面目に考えてみたくなる。本人はどこまで行っても「ただ音に面白そうな言葉を当ててるだけで意味なんかないよ」って言ってみたりするんだろうけど。

 

3. 探偵物語

(2016年『DEBUT AGAIN』)

 大瀧詠一はマイナー調の曲が実に少ない。そういえば古き良きアメリカンポップスでマイナー調っていうのもあんまり思い浮かばない(これは流石に教養がないだけでは)。ここまで見てきた17曲のうち、明確にメジャー調と言えないのは『雨のウェンズデイ』くらいのもので、これは彼が愛した古き良きポップスがメジャー調が多いからなのか、それとも彼の明るい人柄からくる性質なのか。ひよこが先か卵が先かみたいな話か。

 他者への提供曲もメジャー調のものが殆どな中で、この曲は例外的にマイナー調。1983年、関係性が破綻する前の大瀧=松本コンビが薬師丸ひろ子あてに書いた2曲のうち、もう片方の大瀧印の軽快なポップス『すこしだけやさしく』を二人はシングルA面かつ映画『探偵物語』のタイトル曲にするつもりが、主演女優である彼女が元々『海辺のスケッチ』と題されていたこちらを気に入って、こちらがメインの楽曲となった。

 ここでいつもの名コンビが見せるのは、見事に壮絶さと真剣さとを忍ばせた、ノアールなマイナー調歌謡曲だった。似たような曲調で二人は大瀧詠一の歌として『銀色のジェット』も録音し、そちらは『EACH TIME』に収録されたけど、『雨のウェンズデイ』同様のシティポップ然としたアレンジの『銀色のジェット』に対して、この『探偵物語』の殺気立つようなシリアスさはより情緒的な縛りが解き放たれていて、それはおそらく、元が他者への提供曲ということもあるのかも知れない。コンビの提供曲でも松田聖子の『風立ちぬ』と並んで大ヒットした部類。映画の方も、みたことがないので詳細は知らないけど、音楽担当の加藤和彦をして「最後15分はフランス映画のよう」と言わせるだけのもので、この重く悲しげな主題歌と合うんだろうなあ、と思う。

 女性用のキーの曲をそのまま男性が歌うと、キーが高すぎて声が出ないか、オクターブを落として歌うと今度はキーが低すぎるということが起こる。大瀧詠一のセルフカバーバージョンは原曲からキーを1音あげていて、それでも全体的に低音ばかり出てくる歌唱になっているけれど、ここではそれが実に趣深く作用している。少女が歌うために用意された女言葉の歌詞もなんのその、ぼそぼそと歌う大瀧詠一の、低音域の中で力の加減を繊細さにピンと合わせた歌唱は見事に、彼の楽曲でも類を見ない、心地よく辛気臭い”憂い”を燻らせ続ける。そこに、静かに添えられたThis is 大瀧なアレンジの数々、カスタネットやらストリングスやらの仕掛けが、触れれば指がちょっと切れそうな、実に切なげな「海辺のスケッチ」を描き出している。サウンド的に寒々しい海辺を思い浮かべるけど、実は夏の曲だったりするのはご愛嬌。

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4. レイクサイド・ストーリー

1984年『EACH TIME』)

 歌詞を読まずにこれをウインタースポーツのCMとかにしてしまうスポーツメーカーとかいないかなあ、と、この曲の歌詞のちゃんと認識して以降思うようになった。上で書いた大エンディングがどうとか、1984年の発売時、プレス工場にマスターを持っていくギリギリのタイミングでこの曲のエンディングを大エンディングに変えて、既に曲が出てこなくなった我が身を振り返って「全てやり遂げた」と思ったとか、この曲の外側に様々なストーリーが張り付いてしまっているけれども、そもそもこの曲自体が、この記事で再三言及している「実は暗くて気まずい『EACH TIME』」を構成する重要な1ピースだということの方がより重要。

 楽曲自体は、全く違うメロディの3セクションを1つの曲にする、というスタイルで形作られ、明るくも切なげなAメロから、ひたすら不安に沈むBメロを経て、クリスマスソングみたいに晴れやかになるサビ、という構成。サビからAメロで大きくテンションが変わるところを、キックとベルだけ残して強引に繋ぐなど、意外と力技な感じもあるけれど、特にサビのキラキラした感じは、歌詞のストーリーを知らなければとっても華やかに聴こえるだろうし、逆に歌詞を知ってしまうと、最後に繰り返される「冬の幻さ」という歌詞がまさに言い表しているような虚しさが湧き上がってくる。

 『恋するカレン』ではどこか3枚目的に描写された男女の三角関係を、ここでは見事にむごたらしい形で再登場させてくる。親友と好きな女性と3人で冬の湖にスケートに行って、苦手で全然滑れない自分を尻目に親友と想い人が一緒になっていくのを見るのが耐えられなくなって、ひとり下山する、という歌詞。徹底的にシチュエーション指定して物語を作る松本隆の歌詞スタイルを、どうしてこれも『木の葉のスケッチ』も『ガラス瓶の中の船』もこんな行き詰まったような情景のために最善を尽くしてるんだろう…。なんで一緒にスケートなんか行くんだよ…「スケートは生まれつき苦手とまゆひそめて」って、なんでそんな悲しくなるようなところにわざわざ行ったんだよ…と、この歌の主人公が可哀想で仕方がない。冒頭で捨ててあるスケート靴を見て「誰が捨てたのか」ってお前だろうが

 この曲も『フィヨルドの少女』も「大事な人を喪失する冬の歌」であることに変わりはないけれど、この曲の生々しさは本当に大したもの。ノスタルジーを辿るというよりもむしろ、自身のトラウマ体験を思い出して恐慌状態に陥ってるようなこの歌の、終わり倒した情念の様は実に『EACH TIME』的で、二人がなんでこんなことに情熱を注いだのが、その同期が全然理解はできないけど、しかしながらこの救いようのない壮絶さが胸を打つ。

 確かに、この救いようのない壮絶な喪失感の曲でアルバムを閉じるのであれば大エンディングはあった方がいいだろうな、と思うし、大エンディングなしにフェードアウトさせるのであれば、最後にもう1曲サラッと駆け抜けて行くような、アルバムのエンディングになれるような曲が欲しくなるよなあ、というところ。

 

5. フィヨルドの少女

1984年『EACH TIME』)

 そしてそんな、「『レイクサイド・ストーリー』をフェードアウトで終わらせるなら欲しいもう1曲」に完全に合致するのが、この『フィヨルドの少女』ということになる。1984年の初版アルバムリリース後の1985年に『Bachelor Girl』とカップリングされてシングルリリースされたけど、1986年の『Complete EACH TIME』で収録されて以降は、収録される際は基本ずっと「ラスト前は『レイクサイド・ストーリー』で、最後は『フィヨルドの少女』」という流れが毎回踏襲されていて*16、そしてそれは、実にその通りだなあ、と思う曲順だ*17

 この曲のあっさり加減は本当に、どうしようもなく気まずい雰囲気渦巻く『EACH TIME』をクロージングするのに絶妙な塩梅だと思う。同じくクロージングナンバーとしてロンバケの最後に置かれた『さらばシベリア鉄道』はマイナー調だけど、それを調だけメジャー調に変えて、お馬さん的なビート感はそのままに、複雑なメロディ展開もなく、2つのメロディを交互に展開させるシンプルさでもって駆け抜けて行く様は、実に鮮やかで爽やかだ。サビ的な箇所の最もメロディが上昇する箇所の、サブドミナントマイナーのコード使いに惚れ惚れする。

 歌詞のストーリーも、アルバム全体のノアールさを継承しながらも、過ぎ去ってしまった物語として悲しみが淡くなってしまっているのが、『レイクサイド・ストーリー』のような生々しさが無くて、より寓話的で、アルバムの演奏時間終了後に心地よい切なさが残るようになっている。歌詞自体は「あの娘を人嫌いにさせたあやまちはぼくにある」などとあって、歌の主人公お前何してくれた…?と絶妙に卑劣さを忍ばせる*18ところが、なんだかんだで『EACH TIME』的だなあと思った。最後の数行の歌詞と曲の終わり方が鮮やかで爽やかで誤魔化されるけど、そうやって誤魔化されていい物語なのか…?と、少しばかりの気味悪い疑念を残してアルバムは閉じる。そしてこのプレイリストも、実質ここで1回終わるような感覚です。

 

6. ナイアガラ・ムーンがまた輝けば

(1975年『NIAGARA MOON』)

 前曲までの20曲でひとまず完成させたあと、どうしてもこの曲を入れたかった、いや、「”大滝”詠一=でかい滝=ナイアガラ、なんだから、最後に滝の音入れましょうよ!」と山下達郎がわざわざ実際に録音しに行った滝のサウンドで、このプレイリストを終わらせたかった。なので、20曲(+1曲)になってちょっと格好悪いけど、でも後悔はしてない。

 楽曲としては、ひたすらリズムオリエンテッドにやり尽くした『NIAGARA MOON』において数少ない純粋なメロディタイプの楽曲。やはり彼はどの時期であろうとロンバケ以降と同じ歌い方が可能だった、という証拠であるとともに、彼が誠実な過去の音楽の継承者であるとともに、それらを途方もなく美しく再現することのできる表現者でもあるということの、最初の証明。もしくは素晴らしく甘美なオールディーズポップスを勝手に捏造した、彼の最初の楽曲かもしれない。

 優雅で、ロマンチックで、感傷的でもあるストリングスもまた、山下達郎によるもの。冒頭から鳴る、安っぽさが心地よいリズムボックスは、Sly & the Family Stoneの『There Is Riot Goin On』等でも似たようなのが聴けて、そっちの方向からの採用なのかなあとかぼんやり思う。その安っぽさと対照的なドン!というアタック感の後、目眩く、というのはこういうことを言うんだろうな、といった感じの歌とサウンドが展開されて、うっとりした気分に沈んでいく。

 映画館のスクリーンを”銀幕”と言ったりするけど、あれは昔は本当に幕にアルミなどの銀色の皮膜を塗っていて、それで「silver screen」と呼ばれていたらしい。この曲のメロディやサウンドのあり方は、そんな時代より後に作られたはずなのに、まるで本当に「銀幕」だった頃の映画の向こう側で鳴ってるような、そんな、予めレトロになるよう魔法が掛けられたかのような質感がある。どうしてこんな、的確にこんな曲が作れるんだろう。彼は本当に、夢のような音楽を作る天才だったんだと、この曲なんかを聴いたら考えたりして、そしてこのプレイリストでは、そうやってうっとりした最後に、例の滝の音が聞こえてきて、映画を観終わって席を立ち去って行くように、日常に帰っていく感じになる。

 …そういう感じになるように曲順してるんです。いいですよねこの滝の音。

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終わりに(終わってない)

 以上21曲、のうち1曲は後回しにしたので、残り20曲のレビューでした。

 よりによって1曲目でつまづいて書くのが遅くなって、本当はこれ3月中に描き終わってる予定だったのに大きく遅れてしまいました。残り1曲残ってて終わってないので、描き終えた!という達成感がありません…。

 何にせよ、大瀧詠一作品がサブスクで聴けるようになって、幅広い層が彼の音楽を聴くようになってくれればいいなあと思います。特に彼の楽曲は悉く予め「この曲はあれとこれとそれとあっちで出来てるんだよね。分かってる?(笑)」みたいな彼のスタンスが敷き詰められてますが、それらに相応のリスペクトを捧げつつ、彼の想いを超えて彼の音楽を聴いていけたらな、ということは非常によく思います。大体、彼は上記のようなことを言うけれど、別に自由に聴かれるのを拒みたいだなんて思ってもいないだろうし。ただ単に、分かった風な口を利いて自身の音楽を語られるのに対して「本当に分かってます?^^;」みたいなことなんでしょうし。ちょうどこの記事のような。

 プレーヤー目線で行くと、彼の音楽を研究する価値ってどれくらいあるんだろうか、とか思うことがあります。だって彼がロンバケ以降にやってた大人数の演奏を同時に録音する、”本当の”ウォールオブサウンドなんて、現代で再現できる人どれくらいいるんでしょうか。それは音楽制作にそこまでの費用がかけられない、という点でも、またはこのような手法は流石にアウトオブデイトになり過ぎてる、という点でも、うーんどうなんだろう…とか考えてしまうことがあります。たとえば宅録でナイアガラサウンド再現ってどこまでできるもんなんだろうな、とか。

 でも、たとえばThe Smithsで有名なギタリストJohnny Marrは「ギター1本でPhil Spectorを演奏するんだ」という意気込みであのギターサウンドを作り上げてた、ということもあったりします。つまり、ナイアガラサウンドをそのまま再現することだけが、ナイアガラサウンドに対するリスペクトではない、ということ。やりようはあると思うんです。全然検討はつかないですけど。

 一方で、彼の歌い方。あれは正直どうやったって真似ができる気がしないし、唯一無二の彼の強力な個性だったんだと思います。その歌声を彼は生きながら長い間封印し、2013年の暮れには永遠に封印してしまった。録音物に残る彼の歌はどれも、どうにも夢の向こうで響いてるように思えてなりません。

 でも、彼が目指した音楽世界、彼が松本隆とかと共に作り上げた様々な光景、それらを表現するために用いた手法・考え方・物事の捉え方、それらに思いを寄せて、何かに気付いたりすることは、決して無駄なことではない。そもそもなんか楽しいですし。

 彼が長い休暇を過ごしてる間も、別の世界に長い休暇しに行った後も、インターネット上では多くの彼の愛好家の方々が、様々な視点での彼の”研究”を寄せていて、それらは読んでて様々な楽しさや、納得や、時に美しさを感じたりするような体験です。そういった方々の日々の活動に深く感謝します。

 ぼくのこの文章が、多少でも誰かに面白く読まれたなら幸いです。

 でも、ひとまずは早く『君は天然色』の記事を書き上げて、このシリーズをきちんと完結させたいです(笑)

 

Best Always

Best Always

  • アーティスト:大滝詠一
  • 発売日: 2014/12/03
  • メディア: CD
 

 それにしてもプレイリストの曲、本当にベスト盤と被り過ぎた。。

*1:もっと時間と気力に余裕があれば、『EACH TIME』の全曲レビューも書いてたかもしれません。

*2:これについても、リマスターのバージョン違いを網羅していない、等のことがあります。まあ、バージョン違いは「全曲」という定義には定食しないかとは思われますが。

*3:当時のナイアガラレーベルは3年間で12枚のアルバムリリースという厳しい条件の下活動していて、今作はまさに”急場凌ぎ”の一作だけど、それが一番売れてしまうという皮肉。

*4:これは1976年当時はセルフカバーはしなかったものの、後に1980年代にシリア・ポールバージョンのトラックをバックに密かに自身の歌を録音し、そのまま誰にも明かされずに放置されていたものを、彼の死後遺族が発見して公開されたもの。遺族の行為が本人の意思に反するか否かが気がかりではあるけど、でもこうやって聴けるのはやっぱりどうしようもなく嬉しい。

*5:しかも初回盤には90年代の『幸せな結末』リリース前に行われた”リハビリセッション”と題された洋楽カバーまで収録され、ここで一気に主要なレアトラックを放出しまくった感じがある。

*6:そういえばあのアルバムの最後3曲が全部大滝曲で占められているのは、そんな状況でもちょっとしたイニシアチブが欲しかったのか。

*7:松本隆は最終作レコーディングに乗り気でなく、歌詞提供はしない、と言ってたらしいけど、曲のストックが無くて苦しむ大瀧詠一に泣きつかれて、結局歌詞提供をしたらしい。

*8:実際は90年代に残せた2曲のうちの片方ということで、そんなに簡単にレコーディングが終わったわけでもないんだろうけど。

*9:1番の原因は冒頭曲になりがちな『夏のペーパーバック』の存在だとは思う。

*10:水のような」と謳われる箇所が「眠るような」で始まる。言葉は違うけど、でも言わんとする雰囲気は割と共通してるかも、と思える。

*11:唯一、この曲を先頭に持ってくるという「ご乱心」としか思えない1989年バージョンを除く

*12:何かのインタビューで松本隆が「(この歌詞は)大滝さんへの別れの手紙」とコメントしているらしい。

*13:本人もインタビューで「素直に歌うという意味ではロンバケの原点でもある」と発言したりもしてる。

*14:この曲は『EACH TIME』レコーディングでも初期に製作されたらしく、この頃はアルバム中の歌詞のテーマもそんなに暗くなかったのかもしれない。結局色々あってアルバムから外れ、アルバムより後にようやくシングルでリリースされた、という経緯だった。

*15:『雨のウェンズデイ』では「壊れかけ」だった車がこっちでは完全に壊れて動けなくなるし、別れるギリギリのバランスで抱き合ってたのがこっちではすでに別れを告げた後だし、気取った雰囲気で話してたのがこっちでは二人とも狼狽しきってるし。対比するとこっちが実にひどいシチュエーションになってることが分かって酷すぎて笑ってしまう。

*16:これもまた、1989年版だけ『フィヨルドの少女』がラス前の『レイクサイド・ストーリー』がラストという例外あり。1989年版やたらと例外的な部分が多すぎる…ご乱心感が強い。。

*17:その割には前の自分の記事で書いた「ぼくがかんがえたさいきょうのいーちたいむ」では先頭『フィヨルドの少女』なんていうトンチキなことをしてみたりもしたけども。

*18:個人的には、ドストエフスキーの『悪霊』に出てくるスタヴローギン的なことを、少女にしてしまったのかな、という救いのないストーリーを思い浮かべる。