ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

"ウォール・オブ・サウンド"って何なんだろう:前編

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 「音の壁」って言うと、原義を知らない人はもしかしたら「壁のようにそそり立った物凄い轟音」のことを思い浮かべるかもしれないし、もしくはバンドを観たりすしたりする人だったら「ギターアンプがやたら積み上げられて出力される轟音」のことを思うかもしれません。なんとなく、ロック関係の用語なのかなあ、と思われる気がします。実際、そう言う具合の使い方もされてない訳ではない。

 そして、そういう意識で”原義”であるところのウォールオブサウンド作品を聴くと「…あれっ、普通のオールディーズポップスじゃないの?」となってしまうのかもしれません。

 弊ブログでは最近、この語に関係してくるアーティストを立て続けに取り扱ったので、そこから派生して、今回はこの、どこまで厳密に原義どおり扱うべきかしばしば戸惑ってしまうこの”ウォール・オブ・サウンド”という概念について、原義からその応用、もしくはギリギリ原義と関係あるかなあ、くらいの範囲までを、具体的に楽曲を取り上げたりもしながら順序立てて見ていこうとするものです。

 3章構成で、例によってどんどん長くなっていったので、今回はそのうち第1章のみを掲載します。「原義」の部分にあたる内容です。

 ちなみに先に書いておくと、第2章がナイアガラ関係、第3章がその他、という分け方になっています。後編はいつ書き上げられるか…。

 

(2021年5月6日追記)

結局第2章だけで単独記事になってしまいました…。

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 なお、多分「原義」の方について沢山の識者がいらっしゃるかと思われますが、あくまで本文はわたしの個人的な整理ということでよろしくお願いします。とはいえ、著名な識者、特に手元にある資料の関係から、大瀧詠一のインタビュー記事などから参照したところが多々ありますが。あとは最近のこの対談記事とか、この冗長なブログ記事を読むより前に読んでおいた方がいいと思います。

kompass.cinra.net

 

 

 

第1章:「原義」Phil Spectorの"Wall of Sound"

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 ”ウォール・オブ・サウンド”というのは本来は≒Phil Spectorの音楽、フィル・スペクターサウンドのことになります。この人はプロデューサーで、自分で歌ったり演奏したりはしないけれども、特に1963年〜66年にかけて、彼が指揮して製作・リリースされヒットした多くの楽曲で用いられた手法こそが、大元の”ウォール・オブ・サウンド”の意味するところになります。そしてそれらの楽曲こそまさに”轟音”という意味でこの概念を認識していた人が元ネタとして聴いて「ただのオールディーズじゃん…」と思ってしまうところの楽曲でもある訳ですが。

 確かに、彼の残したレコードを現代の楽曲と並べて聴くと「ただの音の悪い昔のポップス」くらいに感じてしまう向きもあるかと思います。同じ60年代でも、The Beatlesのサイケ・オルタナ方面の楽曲だとか、The Beach Boysの『Pet Sounds』等の作品だとか、現代の楽曲と並べてもその音の特異さ・有効性みたいなのが霞みにくい作品は多々ありますが、それに比べると確かに彼の作品は「ただの古いポップス」で片付けられかねないところがあります*1

 ただ、彼の音楽史上の重要性というのは多大なところがあって、特に上で述べた1960年代ロックの重要バンドであるThe BeatlesThe Beach Boysも、彼の音楽が大好きで、彼の手法に感化されて自身の作風を変化させたり、そもそも彼にプロデュースを依頼したりした、というのは、とても重要な点です。というか、むしろロック畑の人物からともかく好かれている感じがあります。

 1960年代半ばを過ぎて以降は、彼の作るポップスが時代の中心にあるような時代は終わってしまい、彼の活動もかなり減ってしまい、やがて隠遁というか、何をしているのか分からない人物になってしまいます。そして2003年に殺人事件を起こし、2009年以降はずっと刑務所の中にいて、そして2021年1月に新型コロナウイルスによる合併症にて死去しました。

 

A-Side:This is Wall of Sound・全盛期のスペクター

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概要

 多くの人たちが「これぞスペクターサウンド!」と認識し、特に同時代に触れたミュージシャンたちが大いに感化されたのはこの時代の楽曲になります。おおよそ1963年〜遅く見積もっても1966年までの、自身(とかつての共同経営者)の名前を冠したフィレス・レコードからリリースされた楽曲。

 彼の作り出すサウンドは、手法的には「広くないスタジオに沢山のミュージシャンを詰め込んで、同じパートの楽器の同じフレーズを複数人同時に演奏させたりして、そしてそれらを一斉に一発録りする」ことと「そうやってできたサウンドをエコーチェンバー(残響室)を通して再録音することでエコーを掛ける」ことによって、結果として「全体的にやたらと輪郭のぼやけまくったサウンド」が生まれます。勿論、印象的なフレーズや歌や楽曲あってのことですが、そうやって完成したレコード群のサウンドのことを、本来の"Wall of Sound"と呼びます。

 場合によっては歌さえモコモコした音像の中に埋もれそうになるその楽曲・サウンドの特徴については、例えば同時期の著名なポップス作家・編曲者のBurt Bacharachのスッキリした楽曲・サウンドと対比させると、多少分かりやすくなるように思います。またそういうモコモコしたサウンドなので、音の壁!」って感じの魅力を存分に感じたい場合は、ぜひボリュームをあげて聴いてみてください。モコモコした音像の向こうに詰め込まれている、高密度な色々なものが見えてきます。彼の「ロックンロールとR&Bとを甘く煮詰めて3分間に包み込んだポップス」を、これから代表的なものをいくつか年代順で見ていきます。

 

1. Zip-A-Dee-Doo-Dah / Bob B. Soxx & The Blue Jeans'

(1962年10月)

 この曲より前にも彼は彼自身の昔のユニットの全米No.1ヒットを含む多数のヒット曲を抱えていたけれど、彼が"Wall of Sound"のスタイルで楽曲を作り始めたのはこの曲からだと言われている。

 1946年のディズニー映画で使用された楽曲のカバーであるこのトラックは、割とゆったりしたテンポで進行するR&Bに仕上がっていて、この曲より後に乱発されるハイテンションのポップソング群と比べるとやや性質が異なるけど、しかし落ち着いたリズムの中をカスタネットとギターのカッティングがゆったり反復していく様、及びブリッジ部のソウルフルに突き抜けていくコーラスと、そしてそれら全てがぼんやりとエコーがかって聴こえてくるところに、スーパーハイテンションポップスとして以外のスペクターサウンドの魅力と可能性を感じる。

 

2. Da Doo Ron Ron / The Crystals

(1963年4月)

 この曲からいよいよスーパーハイテンションドリーミングポップスとしてのスペクター劇場が始まる、って感じが、年表とこの曲とを並行して見て聴くことで強く感じられる*2。”オールディーズなアメリカンポップス”と雑に括る際の、その代表曲のひとつで、『Be My Baby』に次いで延々とその意匠が時代を経ても受け継がれていくタイプの楽曲。

 The Crystalsはこの曲よりも前に全米No.1ヒット曲『He's a Rebel』をはじめ幾つかのヒット曲を出していて、この曲は実はNo.1ヒットにはなっていない。けども、ひたすらハッピーでファニーな空騒ぎが通り過ぎていくようなこの曲は、数々のアメリカンポップスの名曲群の中でも埋もれない存在感がはっきりとある。ゴールドスターというロサンゼルスの広くないスタジオで、腕利きのミュージシャン達が沢山詰め込まれて、この死ぬほどシンプルでバカっぽくてかつスムーズな楽曲を、見事に形にして見せた。

 イントロの、駆け出すのを必死に抑えるかのようなタメたリズムとホーンと、いやそんなの関係ねえとばかりに3連で跳ね回るピアノやハンドクラップの対比の時点で、この曲のハイテンションは約束された。そして名セッションドラマーHal Blaineのフィルインから、このシャッフルのリズムでひたすら最後まで駆けていく歌とコーラスとが始まる。キャッチーな歌メロとコーラスワークとの掛け合い、曲のセクションが移る時に挿入されるティンパニの大袈裟さ、スペクターサウンドの象徴のひとつとなるひたすら連打され続ける3連ピアノ、楽曲の終盤で幸福感に満ちたコーラスの中ひたすらフィルインで駆けずり回るHal Blaine…。後にNeil Young等とのコラボでも著名なJack Nitzscheによるアレンジ、混沌とした現場の演奏をどうにかレコードに収め切るLarry Levineのエンジニアリング。それらが合わさってできたこの曲にはまるで、楽しくなるためのもの以外は一切詰め込まれていないかのよう。曲タイトルすらただのコーラスワークのフレーズだし。

 そしてそんな演奏をこんもりとエコーで包んでモノラルのトラックにして、それでこの曲の”塊”っぽさは完成する。正直どれだけボリュームを上げても、ギターとかの楽器の音は聞こえない気がするけど、でも目立って響く声やドラムやピアノのバックのモヤモヤの中で、何かしらこの”塊”な音圧感を出すのに役立っているのかな、とか考える。あと、ステレオ版もあるにはあるみたいだけど、この”塊”感はモノラルだからこそ、って感じがする。スペクターサウンドの重要な特徴の一つはこのモノラルということにある。ステレオは聴く側のスピーカーの置き方とかで音が変わってしまう。モノラルならそういうことが無い、という彼のサウンドを支配しようとする意思の現れとも言われるけど、単に時代的にまだステレオが十分普及してなかったから、とか、当時の録音技術*3による理由とかな気もしないでも無いけども。

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3. Be My Baby / The Ronettes

(1963年8月)

 みんな大好きな大名曲にして、アメリカンポップスの1番の代表曲かもしれない曲で、そして後年の多くのアーティストのフェイバリットに挙げられまくり、イントロのドラムをはじめいつの時代も延々とオマージュを捧げられ続ける、Phil Spectorを代表する曲。ウォール・オブ・サウンドの完成形にして決定版。

 スペクターサウンドのハイテンションの象徴が『Da Doo Ron Ron』だとすれば、ロマンチックさの象徴はこの曲なのかなあ。イントロの、オマージュされ過ぎて”このリズムパターンだけ”なら聴いたことない人いないんじゃないかと思ってしまうほどの、シンプルなのに非常に期待感を煽るドラムフレーズ*4。そこからいきなり歌に入らず少し間を置くのもまた趣深い。ピアノの連打とパーカッション類の反復、特にピリッと効いたカスタネットの存在感を、この短い間でしっかり示す。その佇まいはさしづめ遊園地のエントランスのような。小洒落たカフェとかではなく、もっと子供っぽい、もしかしたらディズニーよりも子供っぽいかもしれない、現実には存在しえないくらい誰よりも子供っぽくて、だからこその華やかさと可憐さとがあって、そんなファンタジーさを、一部のスペクターポップスに感じたりするかも。

 ボーカルが入ってきて、軽やかにAメロ・Bメロを駆け上がっていく。特にBメロのうっとりするように翳っていくコードとメロディはその後の晴れやかなサビに繋がる絶妙な加減で、この時期のフィレスの楽曲を書いていたJeff BarryにEllie GreenwitchにPhil Spectorの3人組が、”本当のオールディーズ”よりもっとファンタジックなオールディーズさを表現することに長けた、そのセンスの頂点を示している。

 そしてタイトルコールのコーラスの響くサビ。華やかに駆け上がるボーカル、リズムの縛りが解けて軽やかに8ビートで進行しフィルインも決めるドラム、延々と鳴り響くカスタネット、ドラマチックにオブリガードを決めるストリングス。ギターの類も多数録音されているはずだけどAメロ等から引き続き全然それっぽく聞こえず、多分メインで聴こえる楽器の後ろのモコモコした音像の発生に寄与してる。これらの要素が組み合わさって出来る、リリース当時ですでに予め理想的にレトロに形作られていたとさえ言えるこのロマンチックさが響くかどうかが、スペクターポップスを楽しむ最初のラインなんだろう。この、Wall of Soundのエコー処理によって予め色褪せた風な華やかさがセクションによってまたイントロと同じリズムに戻ったり、優美なストリングスがオンになって導く間奏に繋がったり、そしてイントロの静寂のリズムに戻って溜めた上で、最後のサビの繰り返しにたどり着いたりする。

 終盤30秒ほどの展開は、あの甘美な華やかさが延々繰り返される中をHal Blaineのドラムがひたすらフィルインを入れまくり、ひたすら多幸感が続いていきそうなのにフェードアウトしていってしまう、このもどかしさが逆説的に、このポップソングの輝きを永遠の中に閉じ込めてしまう。この、現実の何よりも誰よりも、この30秒間だけは純真で晴れやかで鮮やかで生に満ちているような、そんな瞬間に、多くの人たちがずっと魅入られ続けている。『Pet Sounds』なんかはもしかしたら、この永遠の感覚が実際は永遠でないことの哀しさをベースにBrian Wilsonが夢想して作り上げたものなのかもしれない。

 Phil Spector本人はこの曲に典型的なオーケストレーションの手法を「ワーグナー的手法でロックンロールを演奏している」と表現していて、それがこのような、主役が歌手でもなく演奏でもなく、トラックそのもの、という感じの"Wall of Sound"の結晶を産んでいる。この3分弱の音楽そのものが、この世の他の手法では存在し得ない貴重なファンタジーでありアートなんだ、ということ。それはティーンエイジ・シンフォニーとも呼ばれるようになった。「オーケストラでシンプルでたわいもないロックンロールをドラマチックに演奏してどうにか録音して3分間の”永遠”を作り上げる」という、その内に幾つもの矛盾を抱えた、強引さに満ちたトライアルが、ここに本当に見事に花開いている。

www.youtube.comこのテレビバージョンだとちゃんとギターの音が聞こえる。

 The Ronettesは全盛期スペクターポップスの象徴で、彼は特に彼女達の楽曲に力を注いでいたように思われる。『Baby, I Love You』とか『I Wonder』とか『You Baby』とか『How Does It Feel』とか、ともかく遊園地のようなポップソングが沢山作られている。フィレスのリリースが減っていく1966年でも彼女達のリリースは続けられ、そしてメインボーカルのVeronica "Ronnie" Bennettと彼は結婚する。彼は彼女を監禁状態に置くなど、幸せな家庭生活とは程遠い暮らしだったらしいけども、ともかく彼の彼女に対する思い入れは格別だったとは言えそう。

 

4. Christmas(Baby Please Come Home) / Darlene Love

(1963年11月 Album『A Christmas Gift For You』)

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 全盛期Phil Spectorの作品はシングル盤がメインで、アルバム単位での作品は積極的には制作されていないけれど、『A Christmas Gift For You』はその偉大な例外。当時彼が手がけていた歌手やグループを集めて制作されたこのクリスマスアルバムは、結果として1963年当時の"Wall of Sound"の形式を完成させた絶頂期の彼の手腕がアルバム1枚分に渡って繰り広げられている。Wall of Soundに触れる際にはPhil Spectorのベスト盤かThe Ronettesのベスト盤から入ればいいと思うけど、その次に聴くべきはこの作品だろうか。クリスマスソング集ということもあり、彼のチャイルディッシュな音楽性が自在に奔放に展開されていく。あとアメリカという国の、本当に本当にクリスマス大好きな国民性も少し覗けるかもしれない。

 参加アーティストは、上で取り上げた3組にプラスしてDarlene Love。彼女は他3組ほどのヒットには恵まれず、しかし歌がとりわけ上手かったことから、メンバーでないのにThe Crystalsのレコード内でこっそりとメインボーカルとして歌わされ、『He's a Lebel』などのNo.1ヒットさえ達成しているという、不憫なキャリアを歩む。このアルバムより後は裏方仕事が多くなり、一時期音楽業界から引退するなどやはり不憫な彼女*5の歌がひときわ輝いているのが、このクリスマスアルバムの特徴でもある。何せ冒頭から彼女の歌で、他3組より多い4曲をアルバム中で担当し(どれも一際演奏や歌のキレがいい!)、そしてアルバム中唯一の、往年のクリスマスソングのカバーでない、正真正銘フィレスの3人組作曲による「新曲」であるこの曲を担当するなど、明らかに彼女が一番フューチャーされている。Phil Spector的にはどういう心理だったんだろう。単に一番スケジュールが取れたのが彼女だったのか。

 楽曲としてはミドルテンポのシャッフルで、身も蓋もないクリスマス連呼のコーラスワークの中に彼女のソウルフィーリングに満ちた歌が浮かび上がってくる。少しばかりのブレイク以外劇的な展開に乏しいことが逆に、全開に高まった多幸感のフィーリングを延々と続けていく、という構成になっていて、Phil Spector帝国の作り出した”永遠の感じ”が、少しばかりの退屈ささえ味わいに変えながら進行していく。ひたすら単純に連打されるドラムのフィルインなど、本当にシンプルさの極みで、大人っぽい複雑さの一切ない、ひたすらにチャイルディッシュでドリーミーな世界が広がっていく。彼女の歌はそんな世界観にややミスマッチなほどソウルに満ちているけども、その微妙な緊張感が、この退屈さと区別のつかなくなるような甘美さを、実にパワフルなものにしている。

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5. You've Lost That Lovin' Feeling / The Righteous Brothers

(1964年11月)

 ヒット的にも音楽的にも絶頂の1963年が終わり、1964年も彼は精力的にレコードを作りガールズポップの名曲をいくつも出しているけど、なぜだか前ほどヒットしなくなってくる。1964年というとThe Beatlesアメリカ上陸などがあって、時代がポップスからロックに移行しつつある時期などと言われるけど、そういった歴史上で当て馬にされてしまうくらいに、本当になぜだか売り上げが落ちていく。曲はいいのに。

 そんな中でそれまでのガールズグループと異なる、ブルーアイドソウルの男性ボーカルデュオをプロデュースして、全米No.1ヒットを獲得したのがこの曲。Phil Spectorが全権を振るって制作したポップソングで1番成功したのがこの曲らしく、彼も後にこの曲をレーベルの業績の頂点と話している。「20世紀にアメリカのテレビやラジオで最もオンエアされた100曲」でこの曲が1位になるなど、彼のもっとの成功した作品と多方面で見做される反面、「Phil Spectorといえば1点の曇りもないポップ尽くしのガールズポップ」というイメージからは外れるややダークな緩急のあるこの曲がそういう位置にあるのは不思議でもある。

 いきなり歌から始まり、しかも暗く大人っぽいトーンで、男性の低い声で歌われるそれは、Bメロの転換からメジャー調で高揚するサビまでの繋がりの中でそのダイナミックなドラマチックさを演出するための入り口として機能する。深いエコーの中遠くで響く分厚いコーラスをバックに、高らかに力強く二人が歌うサビはフックがあり、かつ、その高揚から転落してダークなAメロに戻っていく展開の宙に浮いたような感じ、特にミドルエイトに接続していくところの浮遊感は、これまでの能天気なスペクターポップスには存在しなかった局面で、特にそのミドルエイトでソウルフルなボーカルの掛け合いから最後のサビにつながっていくところはスリリングだ。一方、ストリングスアレンジ等がそれまでのJack NitzscheからGene Pageに代わり、より映画的で大袈裟なストリングスが見られるようになって、これはその後の、特に1970年以降のストリングスまみれのスペクターサウンドに繋がっていく転換点だったのかもしれない。

 The Righteous Brothersはこの後、フィレスの唯一の稼ぎ頭として1965年にこの曲の全米含む各国でのNo.1ヒットを皮切りに、他にも数曲のヒットソングを残していく。ただ、そこにはもう「ひたすら無邪気でドリーミーなガールズポップ」を連打するPhilの姿は無く、The Crystals等のグループのリリースは途絶え、レーベルには終末感が漂ってくる。やがてPhilは彼らへの興味を失い、1966年には彼らは別のレーベルに移籍する。移籍先でもWall of Sound形式のレコーディングでヒット曲をリリースしたりするが、次第に低迷して1968年に一度コンビ解消となっている。

 

6. River Deep-Mountain High / Ike & Tina Turner

(1966年5月)

 The Righteous Brothersも去るような1966年の状況でのフィレスの唯一の望みは、既に全米で一定の成功を収めていたソウルデュオIke & Tina Turnerとの契約を結んだことだった。彼はレーベルの威信をかけて自信作であるこの曲を制作・リリースし、そしてそれが全米88位という残念な結果に終わったことが、今後の彼の活動の低迷を決定づけた*6

 そんな曲だけど、曲の感じとしてはスペクター印の力強いゴスペルソング、といった趣。Wall of Sound形式で展開されるドゥーワップ調のコーラスがソウルフルなTinaのボーカルを荘厳に包むし、リズムが入ってきた時の勢いの感じは力強く、張り裂けんばかりの彼女のボーカルは展開に合わせて自在に調子を変え、特にメロディの行き着く場所の執拗に上昇し続ける感じが挑戦的で印象的。コーラスと共に這い上がっていくボーカルメロディと降下していくストリングスの対比の強烈さ。また、ミドルテンポ的に展開されていくロックンロール的なセクションの挿入、そのまま完走に突入して膨れ上がっていく感じが、強引なのに実にジェットコースター的展開でスリリングで面白い。ずっと後にPizzicato Fiveが発表する『Twiggy, Twiggy』では、このどこかチャチなんだけど壮大で爽快な感じが引用されているように感じる。

 制作した彼自身が”最高傑作”と称するのも理解できる、自身のサウンドを援用しつつも、よりR&B色の強い触媒を得ることによってそれをさらに発展させようとする意欲に満ちた曲展開やサウンドが現れていて、これが売れなかったことは可哀想ではある。一方で、歌詞の方を見ると、スペクター作品に割とよく見られる、男女関係の不均衡さの問題なんかも見られて、それはまたIke & Tina Turner自体の解散*7にも繋がっていく問題でもあり、色々と考えてしまう。あんなに力強いボーカルで、こんなことを歌ってるのかと思ってしまう。

 

あなたが小さい子供だった頃

子犬を飼ったりしてなかった?

いっつもあなたの周りをついて来るような

ええ わたしもそんな子犬みたいに付き従うよ

決してあなたをがっかりさせない

 

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 何にせよ、そうしたチャート的失敗の後、やはりヒットしなかった幾つかのIke & Tina Turnerの作品(アルバム含む)をリリースした後に、フィレスレコードは終了してしまう。それはPhil Spectorが自身の意思を楽曲全体に独裁的に張り巡らせる形式でのWall of Soundの終焉でもあった。「Wall of Soundの楽曲を作る」彼はほぼ終わり、「他者の楽曲をWall of Sound式に染める」彼の時代に移行していく。

 

 ちなみに、ここまでの6曲のうちクリスマスアルバムのやつ以外については、以下のアルバムでまとめて聴けます。Phil Spectorを聴き始める人はまずはこれから聴けばいいと思います。

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B-side:”その後の”Phil Spector

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概要

 『River Deep, Mountain High』が”失敗”とみなされた後、彼の活動は急速に萎んでいきます。フィレスは1967年にはレコード制作・リリースを終了し、彼は1969年まで隠遁状態になっていました*8

 1970年に既に解散に向かいつつあるThe Beatlesの"ゲット・バック・セッション"で残った音源を世に出すべく起用されて以降、また彼の名前が散見されるようになりますが、ここから先、1970年代の彼は「自らガールズグループを積極的にヒットさせる」のではなく「すでに名の売れているアーティストのアルバム制作にたまにプロデュースで参加する存在」になってしまいます。1960年代に彼のレコードに憧れたアーティスト達による起用、と言えば美しいけど、もはや楽曲はアーティスト自身が自作自演するのが当たり前の時代で、昔のように彼が楽曲からサウンドまで全てのイニシアティブを取ってレコーディングすることは難しく、しかしそんな中でもかつての”レコーディングの支配者”たる態度を取ろうとしてしまったり、もしくはこの時期より精神的にグチャグチャな状態になったため、多くの場合アーティスト側との衝突が起こったりしてしまうのもこの時期の特徴。

 そして1980年のThe Ramonesのプロデュースが終わると、いよいよ彼は表舞台に立つことが無くなり、「過去の人」として歴史に埋没していくことになりました。

 

1. Black Pearl / Sonny Charles and The Checkmates, Ldt…

(1969年4月)

 この後半部分の中では例外的に、以前の彼と同じ形式、つまり自身の意思で全てを決定し制作したスタイルが取れたのがR&BグループThe Checkmates, Ldt…との1969年の作品で、リハビリ的なものだったのかもしれないけど、そういう作品はあとは後述するDionの作品くらい。

 楽曲としてはしっとりとした穏やかなソウル作品、という感じなので、そう思わずに聴くと普通にモータウンか何かの楽曲かな、と思ってしまうかもしれない。分厚いコーラスにストリングスと、1970年以降のスペクターサウンドを象徴するものが目立っていて、執拗に鳴るカスタネット等のパーカッションはここには無いので、そういう意味では今後の彼のサウンド展開を先取りしている風でもある。本来は男性ボーカルのユニットだけども、ここでは女性ボーカルを招いているため幾らか往年のスペクターポップっぽい部分も感じられる。でももしかしたら、この曲が入ってるアルバムに同様に収められた男性ボーカルの『Proud Mary』の方が往年のスペクター的アグレッシブさが感じられるのかも。でもヒットしたのは『Black Pearl』の方で、全米13位まで上昇している。

 それにしても、同じ年にはLed Zeppelinの1stだとかKing Crimsonの1stとかSly & The Family Stoneの『Stand!』とかが出てくると思うと、この曲でのPhil Spectorの存在はよりレトロスペクティブなものに感じられる。アルバムも制作し、そんなには売れなかったけども、最終曲では18分半に渡るメドレー形式の楽曲を収録するなど、それでも色々と意欲は見えてくる作品に仕上がっている。

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2. The Long and Winding Load / The Beatles

(1970年5月 Album『Let It Be』)

 この後の彼の人生を「ビートルズ関係の作品に幾つか参加している人」に決定づけたのが、バンド晩年の不仲最高潮期の”ゲット・バック・セッション”の放置された大量のテープから彼が作り上げた『Let It Be』というアルバムの存在だろう。”ゲット・バック・セッション”について詳しく書こうと思えばそれだけで別の長い記事になってしまうからここで一言だけ言うなら、「バンド初期みたいなラフな感じでやろう」って提案してセッション始めたくせに自分だけこの曲や『Let It Be』みたいな必殺のバラード曲を用意してたのはどうなんだPaul McCartney、ということはよく思う。どっちも当時の彼の才能の絶頂振りを示す曲ではあるけども*9

 何度か他のプロデューサーが挑戦して結局放棄されたこの「不出来で散漫なゲット・アップ・セッション音源を世に出せる形にする」という困難極まりなかったであろう作業がなぜPhil Spectorに回ってきたのか、そして何故彼がそんな困難な作業を一応の成功した形で成し遂げることができたのかは、ずっと不思議。でもそんな困難なことを成し遂げてみせたからこそ、それがJohn LennonGeorge Harrisonからの彼の絶大な信頼に繋がって、彼らのソロワークへの参加に繋がったのは間違いない。

 かくして「初期みたいにラフでやろう」としてたセッションの楽曲は「The Beatles唯一のWall of Sound作品」であるアルバム『Let It Be』という、皮肉にも真逆のベクトルの作品に帰結した。『Let It Be』の楽曲は他にもThe Band的ないなたいサウンドを目指している形跡が散見されたりと、Wall of Soundばっかりでもない作品だけど、サウンドの性質上そんなWall of Soundの特性を一番受けたのが、一番スタンダードなポップス然としたこの曲だったというのも、皮肉だけどもむべなるかな。Paulは激怒した。必ず、かの邪智暴虐のスペクターサウンドを除かねばならぬと決意して、数十年後に『Let It Be…Naked』を制作した。

 そんな”Naked”バージョンが存在しているからこそ、この曲でのPhil Spectorの仕事が何だったかというのが実に分かりやすくなっている。つまり、派手なオーケストラとコーラスの追加によって、ここでの彼はThe Beatlesの楽曲を実に豪快に自分色に染め上げている。まさに映画のエンディングのように壮大に彩られたこの楽曲は本当に皮肉にも、Paul McCartneyのバラード曲を代表する”ド派手な”名曲に仕上がっていて、それを作曲者が死ぬほど嫌がっている構図が実に笑える。Nakedバージョンを聴くとかなり内省的な雰囲気が感じられるが、そこから反転してどこまでも広大な光景が見えて来るような楽曲にしてしまったPhilのアレンジ力は、ある意味見事だと思う。つまり、リミックスで全然ベクトルの違う作品に仕上げて見せたというか。オーバープロデュースの極みだけど、その腕力の強さと、そして感動のツボをしっかり抑えた巧みさは、これはこれでしっかりと賞賛されなければならないものだと思う。

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3. What Is Life / George Harrison

(1970年11月 Album『All Things Must Pass』)

 1970年のPhil Spectorは不思議に満ちている。上記の『Let It Be』の完成もそうだけど、それ以上に不思議なのが、続くJohn LennonGeorge Harrisonのソロ1stのプロデュースでは、必ずしも彼のWall of Soundの手法を強要しなかったこと。特にJohnの『Plastic Ono Band』は、少ない楽器数の余韻で緊張感ある音空間と歌とメロディを構成する、という、Wall of Soundとは真逆のスタイルで制作されており、そして間違いなくPhil Spectorが全編プロデュースしている。実に不思議だけど、支配欲が強いとされる彼にも、このようなアーティストの繊細さに寄り添う側面もあったのか、ということになる*10

 同様に、George Harrisonの1stソロ『All Things Must Pass』だって全編全てがWall of Soundではない。この時期のGeorgeはThe Band的な音楽性に強く共振し、フォークロック・スワンプロック的な楽曲を多く制作していて、そしてそれらもしっかりと、Phil Spectorプロデュースなのが面白い。さらに面白いのは、そういう非Wall of Sound的楽曲においても、Phil Spector的エコー感は援用されていて、それがアルバムのサウンドを特別なものにしていること。あんなに薄皮に包まれたようなサウンドのカントリーロックも珍しいかもしれない。

 そんな中、ガールズポップの大ファンでもあるGeorgeが思いっきりそっちに寄せて書いたこの曲は、もう狙い澄ましたかのように往年のWall of Soundとばっちり噛み合った、1970年代Wall of Soundの1番の傑作と言いたくなるような名曲に仕上がっている。正直寄せすぎて、アルバム中でちょっと浮いているようにさえ思えるけども。ややお馬さん的なビート感とモータウン式な縦ノリのビートとを往復しながら、実にガールズポップ的なメロディを書き、そしてそれをGeorge Harrison印に染めてしまう絶妙に妙なボーカル回しは見事。そしてその躍動感の中で、分厚いギターとストリングスとがちゃんと並走していく様は、バンドサウンドとスペクターサウンドとの、幸福な結婚みたいに感じる。ここには確かにあの、往年の彼の曲にあった「よく分からないけどだからこそロマンチックでドリーミーなモコモコ感」に満ちてる。

www.youtube.comそれにしても後年作られたであろうこのPVの映像は…一体何…?

 個人的には、一番Phil Spectorを”使う”のが上手かったのはこの時期のGeorgeなんだと思う。どの曲でも、Phil Spector的な良さがきちんと楽曲に込められている。もはやスペクターサウンドをどう的確に取り入れられるかGeorgeがプロデュースしている節すらあってどっちがプロデューサーだよ、とも感じるけど、ともかく今作は1970年以降のPhil Spectorが関わった作品で最も幸福なものだろう。

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4. Just Because / John Lennon

(1975年2月 Album『Rock 'N' Roll』)

 1970年以降でPhil Spectorが1番沢山関わったアーティストはJohn Lennonで、プロデューサー等の役で『Imagine』『Some Time in New York City』と連続して関わっている。むしろJohnについてはThe Beatles解散前からシングル『Instant Karma』でプロデュースをしていて、そこから彼の「The Beatlesの周辺人物」としてのキャリアが始まっている。

 でも、そんな良好な関係性も、1972年のGeorgeの2枚目のアルバム『Living in the Material World』の制作からPhilが外れたあたりから崩壊していく。この時期にはPhilのライフスタイルが相当にボロボロになっていたらしく、飲酒と薬物乱用の問題が、ただでさえ困難な彼のプロデューススタイルをより地獄に突き落とすようになった。

 そんな状態にも関わらず、Johnは1973年後半に、Philを自身のカバーアルバム制作のレコーディングに参加させる。この時はJohnもまたいわゆる”失われた週末”の時期で自堕落な暮らしをしていて、なのでレコーディングは混沌と困難に満ちて、有名な「レコーディング中にPhilが発砲した」事件が起こったりして、そしてプロデュースを解任されると、それまでの録音テープを持って逃げる、という問題行動に出た。結局カバーアルバム『Rock 'N' Roll』には彼がプロデュースした曲は4曲しか入っていない。有名な『Stand By Me』のカバーはPhil Spectorは録音に全然関係ないらしい。ただ、この時期のJohnの作品は全体的にサウンドがゴージャスなため、Philプロデュースの曲とそれ以外との曲の差異は意識して聴かないと全然気づかないと思う。以上この曲の前置き終わり。

 4曲の中ではとりわけバラードのこの曲に、Wall of Sound的な雰囲気が感じられる。3連のリズムの中、重ねられたギターやエレピの束と、太いブラスの音とがどこかモコついた音場を形成し、その上をJohn Lennonの強烈にザラついたボーカルがダブルトラックで尊大にそして時に甘美に響き渡る。ここではJohn本人が期待していたであろう、予めレトロスペクティブな空気感にしてしまうスペクターメソッドが必要十分に展開されている。終盤のドラムフィルの増加も、もしかしたら往年のフィレス作品のオマージュなのかもしれない。

 この、ドリーミーさをJohnの声が引き裂いていくトラックでアルバムが終了するのは、あのどこかのっぺりしたカバーアルバムに、時代の移り変わりだとか、ロックンロールの行方とか、様々な少々センチメンタルな印象を添えてくれる。『Stand By Me』を聴いて終わり*11、じゃなくて、あのアルバムを通しで聴いてみるのもたまにはいいと思う。

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5. Only You Know / Dion

(1975年10月 Album『Born to Be With You』)

 今回この記事を書こうと色々調べて最大の掘り出し物は、Dionなるアーティストのアルバム『Born to Be With You』を知れたこと。これこそ、1970年以降Phil Spectorが唯一満足に残すことの出来た「楽曲からも歌からも1970年代式のWall of Soundの感じがする作品」だって分かった。言い換えるなら、George Harrisonとのコラボで培ったアメリカの都市ではなく大地に根付く感じの音楽の、より独占的な実践か。例によってレコーディングは飲酒と薬物中毒により非常に困難で*12、かつこのアルバムが結果的に売れなかったりなど、Dion側は大変だったんだと思われるけど、このアルバムのカントリー的な土の感じとWall of Soundなゴージャスさ・レトロさの融合は、後年サイケさとカントリーとを融合させようとしていたPrimal ScreamのBobbie Gillespie等から大いに賞賛されたらしい。アルバム『Born to Be With You』を聴くと、実に納得する。『Give Out But Don't Give Up』の幾らかの側面はこのアルバムを基にしている。

 このアルバムにおけるPhilの貢献は多面的で、全8曲のうちの6曲のプロデュースをし、また作曲者としても3曲に名を連ねていて、うち2曲は1960年代にGoffin & Kingのコンビで東海岸の洗練されたポップス群を作り上げていたGerry Goffin*13との共作になっている。彼はまた今作でギターも弾いたという*14。それにしても、Dionもニューヨーク出身の、白人で初めてドゥーワップで売れた歌手らしく、Philもニューヨーク出身、大都会出身の2人がどうしてここで、こんなカントリー感のある作品を作ってるのか不思議にはなる。そういうビート感が主流の時代だったということか。

 この曲はPhilとGerry Goffinの共作のひとつ。おおらかなビート感の中をソウルフルに歌い上げるボーカルもいいけども、全体的なエコーの感じ、左チャンネルで響く何本も同時に録音したんであろうギターと、右チャンネルでずっと反復し続けるシェイカー、そして所々のエモーショナルなストリングスが、この曲がまごうことなきPhil Spectorプロデュースであることを雄弁に語る。1960年代の狂騒感から遠く離れたこんなところで、こんなにダウン・トゥ・アースなWall of Soundの名曲を作っていたことが知れて、もしかしてここに「もしかしたらこんなWall of Soundの楽曲を沢山量産していた、”カントリーロックといえばPhil Spector”みたいな未来もあったかもしれない」可能性が永遠に眠り続けてるのかも、と気づけて本当に良かった。ドリーミーなカントリーロックの可能性!ちなみに非スペクターな2曲も結構いいです。

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6. Death of a Ladies' Man / Leonard Cohen

(1977年11月 Album『Death of a Ladies' Man』)

 今回のリストの中でも最も存在自体が困難なのが、Leonard Cohen自身が「なんか勝手に作られてた」と称するアルバム『Death of a Ladies' Man(邦題:ある女たらしの死)』だろう。

 作詞作曲の段階からLeonard CohenとPhil Spectorは共同で制作していて、その段階では二人はまだ良好な関係性だったらしい。けど、レコーディングの段になると、どんどんパラノイアックな症状が頻発し、スタジオには常に銃が置いてあり、そして仮歌まで録音された段階で、またもやマスターテープを持ったPhilが逃走、今度は勝手にレコーディングの続きを行い、1枚のアルバムを完成させてしまった、という顛末。逆によくLeonard側がリリースを認めたな…とも思う。

 つまりこのアルバムは、ガイド的なものとして歌われたヘロヘロなボーカルを、Wall of Soundの豪華なオーケストレーションが包み込んで強引に楽曲として成立させてしまう、という『Let It Be』を超える力技で制作・リリースされた。なので、実に力の抜けた具合のボーカルと優美に構築されたサウンドとのギャップが凄いことになっていて、もはや事故そのもの、といった音楽になっている。だけど考え方によっては、このヘロヘロなボーカルが、Wall of Soundの弛緩しきった雰囲気の側面をより強化して、独特の退廃感を得ることに結果的に成功した作品と言えるかも知れない。具合の良いことに今作の歌詞は性愛に関する話で、この”勝手に作られた”甘く弛緩しきったサウンドと奇妙なマッチングを見せる。中には謎にBob DylanとAllen Ginsbergがコーラスで参加してる曲さえある。なんだそれは。これは現実なのか…。

 で、タイトル曲であるこの曲は9分半弱という大作。メドレー曲や遊び的なセッションインスト曲などを除けば、Phil Spector関係作品としては最長となる尺を持つ。そんな中で描かれるのはやっぱりどこまでも壮大に弛緩しきった、空間さえ弛緩してしまったかのような爛れきった世界。ちゃんと歌えば厳かで感動的なメロディになりそうなものを、実にフラフラして頼りなさげなままの歌で進行し続け、いかにも1970年代のバラードって具合のトゥーマッチ気味な装飾がその気味の悪い弛緩を強力にアンプリファイする。この、ゆっくりと美しく腐り果てていく過程を延々と記録したような音楽は、確かにまともな制作からは出てこない類のものかもしれない。不穏なメロディ展開を見せるセクションの方がかえってそんな雰囲気から少し離れられてホッとするかもしれない、という倒錯さえ見せ、特に6分過ぎのテンポがゆっくりになってリズムが消えた中を歌い進む展開は、脳の奥がじわじわと侵されていくような、快とも不快ともつかない不思議な感覚に追い込まれる。

 歌が終わってからも曖昧な音が鳴り続け、そしてまたヘロヘロの歌が始まる瞬間の、本当に気味の悪い感じがなんとも言えない。もしかしてこの曲、Phil Spectorが作った最もサイケデリックなトラックなんじゃないか。彼が作った最も不健全な楽曲と思うと、どこまでもチャイルディッシュでドリーミーな3分間だった『Da Doo Ron Ron』や『Be My Baby』の頃から随分と遠くへ来てしまった、という感じがしてくる。

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7. Do You Remember Rock 'n' Roll Radio? / The Ramones

(1980年2月 Album『End of the Century』)

 本当に何故パンクバンドであるThe RamonesがいくらファンとはいえPhil Spectorのプロデュースを依頼したんだろう。Phil Spectorもどうして受けたんだろう。彼はパンクをどういう風に理解していたんだろう。アルバム『End of the Century』にはどう考えても彼が手の加えようがないようなただただシンプルにパンクやってるだけの曲も沢山あるけど、どんな気持ちでプロデュースしてたんだろう。

 無数の「?」とそしてレコーディング時の地獄のような困難さが想起されつつも、しかしこのアルバムが存在することは、時代と時代、ジャンルとジャンルを結ぶ点として物凄く重要で価値があると思える。パンク側にとっては、オールディーズ的な音楽も実は3コードのロックンロールという意味でパンクと同じものだ、という視点が本作によって明示された訳だし*15、パンクより前の世代側の視点でも「Phil Spectorのポップスは即ちロックンロールなんだ、オールディーズってロックンロールなんだな」というものが齎された。これらの意味するところは「プログレや産業ハードロック・様式美メタルじゃなければ何やってもいい」的な、後のオルタナティブロックに繋がる精神性の萌芽だと考える。

 …そういう頭でっかちなことはどっかその辺のドブにでも捨てて、このパンク世代が産んだ最高のロックンロールに耳を傾けた方がいい。まさかPhil Spectorも、自分が1980年にもなってこんな高らかに「ロックンロール!」とブチ上げる曲に携わることになるとは夢にも思ってなかっただろう。パンク以前/以後とか関係なく、ここにはシンプルにパワフルで、ドリーミーで、爽快で、男の子な、そんな音楽の世界が延々と広がっている。

 アルバムのボーナストラックにあるバンドのみのでも録音と比べると余裕で相当なオーバープロデュースだと判るけど、こんなに幸福なオーバープロデュース作品があるか、とも思う。ここには確かにRamonesのメンバーたちが欲した、The CrystalsやThe Ronettesが有していた「子供っぽいままスーパーハイテンションだけで駆け出していく」雰囲気が、バンド演奏とスペクターサウンドの融合によってしっかりと再現されている。アルバムでここまでこういうことが成功してるのはマジでこの曲だけなのでそういうのを期待してアルバムを聴くとズッこけるけど*16、でもそれだけ、この曲が「ド下手で貧乏くさいパンクバンドとプロフェッショナルでゴージャスなスペクターサウンドの融合」という矛盾と困難さの極みを奇跡的に成し遂げることのできた曲として、無限に尊いものになっていく。奇跡は2度以上起きないから”奇跡”なのかもしれない。2度以上再現できるものは”手法”になってしまって、”手法”では成し遂げられないものがこの世には存在するのかも、などとよく分からない思考に陥ってしまう。

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 なお、難産の末にこのRamonesのアルバムをリリースした後、Phil Spectorは長い沈黙の時に陥る。時代が進んで様々な再評価等が彼の音楽に対して行われたり作品の再発が行われたりもするけれど、長い間彼が携わる音楽関係の”新作”は出てこなかった。一時期Celine Dionの作品への参加の話もあったけど、たち消えた。

 

8. Silence is Easy / Starsailor

(2003年9月 Album『Silence is Easy』)

 彼が最後に携わった音楽がイギリスのロックバンドの作品というのもまた、なんかよく分からない、不思議というよりも、整理の付けづらい、何とも名状し難い感じがする。なんでも、Philの娘がStarsailorのファンで、その縁からプロデュースの話になったらしい。ネクスThe VerveだとかネクスColdplayだとか言われてたバンドとPhil Spectorが結びつくかと言われると、楽曲の成り立ち方からして全然違うような気がして、まだOasisとかの方が親和性があるような気がしてしまう。

 このバンドとの制作では4曲が生み出され、うち2曲がアルバムに収録されているけども、2003年の2月にはPhilは女優Lana Clarksonを自宅で銃殺する事件を起こしていて、これによって彼が死ぬまで刑務所に服役することになったことを考えると、このコラボは本当に大変なことになってしまうその直前に行われていたらしい。そんなことがありつつも、コラボ曲を収録したStarsailorのアルバム『Silence is Easy』はイギリスで2位まで上昇し、それがPhilの関わった”新譜”の最後のチャート記録となった。

 アルバムタイトルでもあるこの曲はアルバムに収録されたPhil参加の2曲のうちの片方で、まあ、この時代のUKロック的な、高らかに歌い上げて透明感を遠くまで飛ばすようなサウンドの典型的なやつ、という感じがして、Phil Spector由来のWall of Sound的な要素があるかと言われると、難しい…。既にシューゲイザー等のブームを経験した世界で、演奏の肥大化が進んだUKロックにおいては分厚いギターサウンドによる「音の壁」もしばしば発生していて、それらはPhil Spector的なWall of Soundとあまり関係ない気がする。曲自体も、1960年代的な無邪気な疾走感とも、1970年代に手にしかけたダウン・トゥ・アースなWall of Soundとも関係が薄そうな、1990年代式のカッチリどっしりした作りで、Phil Spectorの影響がどこにどうあったのか、今ひとつ分からない。彼があんな事件を起こさずにこの時代の他のバンドともっとコラボレーションしていれば、このような「最新式」スペクターサウンドについて何か分かったのかもしれない。今は、何も分からない、と書かざるを得なくて、そんな文章でこの前半の記事を締めないといけないのか、と思うとなんとも微妙な気持ちにさせられる。でもこういう微妙な感情こそ、Phil Spectorについて自分が抱く印象に奇妙に一致するので、これはこれで良いのかもしれない。良いことにしておく。

www.youtube.comこの辺の世代のUKロックバンドの音って本当に仰々しい。

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第1章まとめ

 以上、合計14曲取り上げました。最後が締まりが悪すぎる。

 上でも書いたとおり、Phil Spectorは全盛期においても強権的なレコーディングを行い、次第に錯乱したような状態にも陥り、家庭内でも他者への抑圧を余裕で行い、最終的には殺人事件を起こしてしまうなど、他の伝説的なアーティストと比べても圧倒的に駄目な部分が多く、決して人間的に褒められたものではないことを、ここで改めて述べておきます。

 それに、シューゲイザーオルタナティブロックを通過して以降の「轟音ギターロック・シンセポップ」みたいなのが普通に世の中に無数にある時代になって、彼の全盛期の作品を引っ張り出して「これが元々”音の壁”って呼ばれてたんだよ」という話をしても、伝わらないところには全然伝わらないのだろうな、とも思ったりします。

 でも、特に全盛期の彼が連発していた”3分間ポップス”の楽曲たちは、7インチシングルなどと帯同して、永遠に世界中の「3分間ポップス」の憧れであり続けるようなフォルムをしている気もします。The Beatles関係の作品は彼の存在に関係なく残り続けるとして、『Da Doo Ron Ron』『You've Lost That Lovin' Feeling』あたりは残り続けるだろうし、そして『Be My Baby』はずっと「あの頃のアメリカンポップス」の理想像の象徴として、後世の人たちからリスペクトとオマージュを捧げられ続けるんじゃないかと思います。

 Brian Wilsonが憧れ続けた対象、としてでも、大瀧詠一がずっとサウンドを再現しようと躍起になっていた対象、としてでも、ともかく取っ掛かりは何でも良いので、彼の作った多幸感に溢れたポップスに誰か触れて、それで大きいボリュームで彼の音楽を流して、その狂騒的な感じで楽しくなってくれれば、ロマンチックな感じになってくれれば良いのかもしれません。

 音楽制作がどんどん金の掛けられないものになって、ましてやコロナ禍の状況で演奏者があんなに密に集まってレコーディングすることも困難な現代においては、そもそも彼のレコーディングスタイル自体に「古き良き時代」を見ることもできてしまうのかもしれません。そういった幻想めいた印象を全て取り払って、現代では到底許されないような倫理的な問題も踏まえた上で、それでも彼の音楽に残り続ける爽快感やロマンチックさの手法に、引き続きどうにか憧れ続けていたいな、と思う、ドラマチックなストリングスや、連打されるピアノやパーカッションの音や、終盤でやたらフィルインをキメまくりたがるドラムの楽しげで溌剌とした感じにずっと興奮できるようにしていたい、と思う、そんな今日この頃です。

 

 予想を遥かに上回る長さになりましたが、後半もお楽しみに。

 ちなみにこの記事、弊ブログでウケの良かった「”ローファイ”とは結局なんなんだ」の記事の再来みたいになればいいな…と思って書いてたんですけど、全然そうはなりそうにないです。

ystmokzk.hatenablog.jp

(2021年5月6日追記)

「後編」ではなく「第2章」単独の記事になりました…。ウォール・オブ・サウンド≒ナイアガラ・サウンド、ということで、ナイアガラ・サウンド特集です。

ystmokzk.hatenablog.jp

*1:その「ただの古いポップス」がどんなに甘美でドリーミーなものか分かると、また違ってくるけれども。

*2:この記事、本当はもっとそういう曲ばっかり詰めたかったけど、そういう趣旨の記事ではなかったので、色々と泣く泣くリストから外した。『Then He Kissed Me』とか『Wait Til' My Bobby Gets Home』とか『Baby I Love You』とか『I Wonder』とか『How Does It Feel』とか。

*3:この時期はまだ3、4トラックしか録音できなかった時代。

*4:このドラムフレーズを使用した楽曲を真面目に集めたらそれだけで記事を1つ書けそう。大変そうなのでしたくないけど。

*5:手元にある大瀧詠一の対談集の中では「これだけ歌が上手いんだから本当はモータウンとかに行ってればもっとシンガーとして大成しただろうに」とか言われている。

*6:イギリスでは3位まで上昇し、The Rolling Stonesのライブの前座に抜擢されるなどの成功に繋がったらしい。

*7:Tinaは後にユニットの活動中ずっと夫のIkeの暴力による支配を受けていた、と証言している。ショウの直前にTinaがホテルから逃亡したことで解散となった顛末も含めて、こういう話は実に暗澹たる気持ちになる。

*8:上で書いたThe Ronettesのボーカリストと結婚したのはこの時期。

*9:せめてバランスを取ってGeorge Harrisonのバラード曲をもっとちゃんと扱っとけよ…と思うけども、でもそうしなかったお陰で『All Things Must Pass』が名曲揃いになっているところもあり、複雑。

*10:Wall of Soundでは無いので今回紹介しないが。

*11:これだと2曲目で終わってしまうか。

*12:1974年には完成していたのに、Phil側の何かのせいで12ヶ月もリリースが延期したらしい。

*13:この人もまた悪名高いThe Crystals『He Hit Me(It Felt Like a Kiss)』の作詞などでも知られる。時代もあるのかもしれないけど、なんとも暗くなる話。

*14:元々Phil Spectorはギタリストで、物凄く上手かったらしい。

*15:もっとも、そういう意味では何年か前に既にSex Pistolsの『My Way』等があったりするし、もしくはThe Ramones自身もこの前のアルバムで『Do You Wanna Dance』のカバーをやっていたり、そういうことは既に実践されていた。けれども、そういった”レトロ”の象徴であるPhil Spectorとパンクが組んだ、という事実はそれらの実践以上にパンクに”自由”をもたらしたと個人的には思ってる。

*16:一応『Baby, I Love You』のカバーもあるけど、これはもはやパンク要素もロックンロールも無い…。