ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

【え】襟がゆれてる/bloodthirsty butchers

この企画の曲選び、iTunesの曲目の並び方をあいうえお順にして曲を探しているけど、頭文字がひらがなカタカナなら素直に出てくるからいいんだけど、漢字だとあらかじめ読み方を入力していない限りはその漢字の音読みの順番に並んでしまうので、「この頭文字に対応する曲は〜」と探すときに面倒くさいんです。今回のこの曲もあやうく取り逃しそうになったし。以上とても共有されづらそうな悩み。

吉村秀樹は死んだ。その後追悼のアレでトリビュートアルバムが出まくった。今確認したら4枚か?その予定が出た段階だったかで知り合いから「『襟がゆれてる』がやたらカバーされまくってる」という話を聞いた。どんだけ揺れるんだよ襟、そんな揺れるような感じに襟立ててんのかよ皆。

(今調べたところ、結局一番カバーされた回数が多いのは『ファウスト』か。いい加減宝の箱なくなっちゃうよ!)

名盤の誉れ高い『kocorono』でまさに日本の歌もの轟音ギターロックの偉大なるゴッドファーザーの座を得た後の、彼らの名曲生産力の凄さは、彼らの次のリリース時期となる1999年の、アルバム『未完成』に至るまでのリリースラッシュにて如実に現れた。『ファウスト』も『プールサイド』も『△』も、そして今回のこの『襟がゆれてる』も、この時期リリースされた楽曲。ブッチャーズのクラシックがずらり。『kocorono』で得たサウンドをさらにぐっとロッキンでキャッチーに仕上げた業前の名曲が並ぶ様は圧巻。

kocorono』で彼らが掴んだものとは何だったのか。それはギターの轟音をポップなコードに乗せ(その乗せ方は大いに独自のものがあるだろうけれど)、どっしりと骨太な「歌もの」の楽曲を作り上げたことだと思う。海外で言えばニールヤング辺りが先例的ではあるだろうけれど、ブッチャーズのそれはハードコアの出自からの、しかもハードコアという形式にも収まりきれないなんかグシャグシャしたアレを持つ男が、そのイメージをバーンと大きく弾けさせる感じに成功した類のそれだ。

つまり、ブッチャーズだけの荒野。どこまでも都会的でない荒くギラギラしたギターの歪みに、どっしりと前進していくリズム、そしてタフだからこその純真な内省をぶっきらぼうに響かせる歌。細野晴臣辺りから始まる日本のカントリーミュージック受容史の都市的な感じ(持論です。そのうち別のところで書きます)にあさっての方角から衝突するような(本人はその気はなかろうが)、和製オルタナカントリーロックの、それは登場だったのではないか(オルタナカントリーというジャンルについても、私見によって元の意味合いからかなりズレていますが)。風通しの爽やかな殺風景。

その点、この曲は『ファウスト』と共に、まさにその荒野を行くテーマソングの決定版だろう。この曲の場合、特にバッキングで歪んだエレキとともにかき鳴らされるアコギの響きが印象的だ。リードのギターも、フレーズというよりももっとこう、空気中の粉か水分か何かがきらめくような不思議な揺らぎがあり、荒野的な鮮やかで乾いたサイケさを醸し出している(まあ歌詞には「雨上がり」なんて単語も出てくるが細かいことは言いっこなしだ)。

そしてやはり、力強さ。歌詞にもある通り、彼らは確信めいたものがある訳でもなく荒野を彷徨っている風ではあるが、それは虚無感に浸っている訳ではない。やはり流麗で明確なフレーズとは言いがたいギターソロはファズったささくれがかえって無心のまま遠くに響いていく感じがするし、そのソロ終わりからの畳み掛けるような曲展開はやはりどうしたって不格好で感動的だ。

どんどん行け!どこまでも行け!世界の果てまで。そんな子供染みた気持ちを、ブッチャーズを聴いているとよく抱く。なんで奴らやぼくらは世界の果てなんてものを目指すんだろう。そこは結局のところとても寂しい道中だったり、悲しい結末だったりしそうなものなのに。冒険心か、好奇心か、旅行気分か、戯れか、ヤケクソか、言い訳か。知ったことか。普通にしゃべると全然訳分からない吉村秀樹の言葉が、歌詞というメロディの枠に嵌められることでそのロマンを多く抽出し、そしてそれ以上をギターをはじめバンドサウンドが語らずに語る。

流れるように僕は汚れた/汚れた花を指でなぞった
 雨上がり/佇む/向かい風が襟を揺らしてる

個人的には、より音が整理された『荒野ニオケル〜』よりもこの辺りの時期の方が荒野っぽさを感じるところ。アルバム『未完成』に至っては録音されたギターは一本だけなのにあの音の厚み・おおらかな殺伐さ。

あと、余談ですが「世界の果てに行く」なんて時間も金も手間もかかること現実的にはできないし、だからこそ本を読んだり映画を見たり音楽を聴いたり、ってのがあるよなあ、とは時々思います。なんか村上春樹とかも「世界の果て」願望で説明できそうな気がしてきたぞ。

【う】ヴィーナスとジーザス/やくしまるえつこ

果たして「ゔ」は頭文字う扱いしていいものかな……。

見比べると、不思議感出てるけど画面暗い本人PVよりも、当時のシャフトのともかくポップで洒落たOP作るぞって雰囲気から出てきたカラフルでシャープな映像の方が曲の楽しさに合ってる感じするな。

やくしまるえつこを擁する相対性理論というバンドが日本の音楽に与えた影響は、ふたつの面で説明することができる。ひとつが、ロリータでウィスパーで低血圧そうな女性ボーカルを流行らせたこと。それも、アイドル的な出自からでもなく、また渋谷系カヒミ・カリィとか)の文脈からでもなく、あくまでインディーロック的な世界から出てきたのが大切か。女性ロリ系ボーカルのバンドといえばYUKIの影響がまだまだ大きかっただろうところに楔を打った形となったと思われる(勿論、どっちの方がいいとかいう話ではないですが)。

いまひとつは、そのインディーロックな出自、そのサウンドが、とてもコンパクトで直線的で線細めだったこと。「女の子の元気さ!」みたいなのや「おしゃれな女性のジャズ!」みたいなのなどのくびき(くどいけどいい悪いの話ではない)から大きく距離を取った、抑制的なニューウェーブギターロックであったことが、サブカル的に取り上げる際にも意外とロックの歴史やらと接続しやすい部分があり、サブカル界のアイドルとしても独特の知的ポジションを得るに至った。

実際アルバム『ハイファイ新書』以降から大御所ミュージシャンとのコラボも増えていたりした彼女ら(彼女?)だったが、そっちの方はより高度で難解な音楽志向であることが多く、元々の彼女らの持ち味の一つだった軽快なポップさはあまり省みられていない印象だった。

そこからどういう流れで、彼女は自分のソロをアニソン方面にがっつり向けることになったんだろう(まあソロの多くで関わりのあるシャフト(というか監督の新房昭之氏か)もベテランと言えばベテランか)。最初にリリースした『おやすみパラドックス』こそ、まだ大御所コラボ難儀感が残っていたが、晴れて全曲作詞作曲彼女名義となった、今回の表題曲を含むシングルによってついに、彼女は自らのポップ可能性を大いに解禁することとなった。実際シングル収録の3曲ともタイプは違えど彼女の特有のキッチュさ・ポップさが活きた良い楽曲であるけど、ひとまず今回は表題曲のみ触れる。



ポップ、そしてコロコロしていてカラフル、という感じの1曲だ。軽快なテンポに乗る言葉は発音的には日本語的なべったり感なのにすごくリズムが軽やかで可愛らしい。よくよく聴くとメジャーコード感の強いメロディは意外と古き良き歌謡曲的な明朗さがあるが、そこをゼロ年代的なタイトでシャープな演奏で異化し、そしてシナモンのようなストリングスと鉄琴をさらりと振り掛けることでファンタジーでキュートなポップソングに仕上げられている。

テンポよくAメロBメロを駆け上がってのサビの箇所より後にさらに抑制めいていじわるめいたメロディパートを挿入する曲構成も、この曲のコロコロした感覚をより緩急ついたものにしている。二回目サビ後でこのパートを省略しブレイクの後間奏パートにさらりとちょっと壮大に展開する様などは、パズル的な組み合わせの妙と映画的な盛り上がり具合との調和がこの曲のSFチックな広がりを演出し、そしてそれをイントロと同じリフでざくっと処理して最後のBメロに繋げてしまうところまで含めて、高度に職人的に感じる。

職人的。やくしまるソロの楽曲で、特に各シングル表題曲なんかで感じるのが、この要素だ。考え抜かれた構成、可愛らしさが変に淀まない程度に抑制されながらも煌びやかなアレンジ、同じくまったく粘つかない感じのシュールな可愛らしさを抽出した歌詞など、どの要素も曲のコンセプトに対して非常に的確な感じがする。それは同時に、相対性理論が有していた、ニューウェーブ気味なバンドサウンドによる抑制や投げっぱなしさ、もしくはガッとくる感じとは両立しないものだ。こういった楽曲での彼女は、やはりバンドやもっとSF・NWに取り澄ましているときよりもずっとアイドル的な方面に寄っている(作曲やアレンジホントに本人かよ、と疑ってしまうところも含めて)。

ただ、ロック的な勢い感も良いけれど、最高の砂糖菓子を作り上げようとするかのようなポップソングも、大変素晴らしくて楽しいものです。この曲のように「大人なビターさ」みたいなのを欠片も出さないようなポップさというのは、そのコンセプトの華麗な一貫性自体で既に、静かに唸ってしまうような感じがある。最高にポップでキュートでシャレた曲を作る才能?少なくとも歌える才能が、彼女にはある。そういう才能のある人が、何の理由があるにせよこういう曲もリリースできることは、とてもありがたいことだと思います。

ヴィーナスあの子はいつでもロンリネス/目を離さないで
 ジーザスお向かいさんなら/聞いてお願い

この曲が主題歌になったアニメ『荒川アンダーザブリッジ』の2期のOP曲も彼女の作品(『COSMOS vs ALIEN』)だが、まさに今回の曲の正当な進化系であり、そしてより理不尽な緩急と展開とそして謎のふわふわコーダ付きで曲の尺たったこれだけかよ!?まともな歌の部分だけだとたったこれだけしか尺ないのかよ!?という物凄い楽曲で、どうでもいいですがそっちの方が好きです。やくしまる楽曲では3本の指に入る。他2本は『気になるあの娘』と『少年よ我に帰れ』。

【い】インディゴ地平線/スピッツ

期せずして夏チョイス。

スピッツのアルバムだと『インディゴ地平線』が一番好きだ。全編を通じてどこかくすんだようなくぐもったような音作りによってもたらされた穏やかなトーンは当時のUSインディなローファイオルタナ感と共振しているし、よりパブリックイメージだろうギターポップのキラキラ感が鳴りを潜めた(そのせいか中古が比較的多い気がするこのアルバム。『ロビンソン』『チェリー』の大ヒット直後にこんなアルバムが出せる辺り冒険的だし、まあミスチルも人気絶頂期に『深海』とか出せてるし、当時のレコード会社の懐の深さというか余裕というかがあるのだろうか)ところにより落ち着いて乾いて曖昧でノスタルジックなアトモスフィアがなんとなく全編を覆っている。彼らのこんな感じのアルバムは他にはない。

その中でも、このタイトル曲はとっておきだ。爽やかに突き抜けていくギターポップの魔法も、彼らのアルバムに時々ある茶目っ気的なハードロック・パワーポップさも、壮大なバラードの気配も、ない。90’USローファイを通過した後期ビートルズ、とでも言えば良いのか(それって最高ってことじゃないか!)な演奏。よくくすんだクランチのリズムギターと、単音やシンプルなアルペジオで遠くに届こうとするリードギター、ゆったりとしながら地を踏みしめて歩くようなドラムの力、結果できた演奏の隙間を埋めすぎないように縫い込めるベースライン。

曲構成も、明らかなサビが無く、とりあえずサビかと最初は思うだろう箇所から2度目の繰り返しでさらにメロディーが発展して、重力を伴ったまま飛翔しては曖昧に着地していく流れなど、いわゆるヒット曲的なものから背を向けた方向でのさらりとした凝り方が光る。その2度目のサビ(?)からゆったり着地した間奏が終わり、リズムがブレイクする箇所などは、歌詞のような「青の果て」みたいなのに不思議のうちに漂着しちゃったような、とてもくすんで曖昧で美しい瞬間だ。

そう青色。海の色、空の色、サイダーの色、といった情景描写から、「青春」から「憂鬱」までの状態・心理描写までに時に鮮やかに、時にくすんでかかってくるこの色。この曲からイメージされる青色がとても好きだ。アルバム中では次曲となる『渚』では空と海が広がり合う光景がイメージされるが、この曲においてそれはひたすらに虚空な感じがする。街の外れの荒野で、街を出て行く方面を眺めたときの、何の意味も無く広がってしまう空の色。死にたくもなりそうなほどからりと青い世界。

でも、そんな虚無めいた世界に向かっていくのは、少なくとも多少けだるげながら意思は力強い、二人だ。
君と地平線まで/遠い記憶の場所へ/溜め息の後の/インディゴ・ブルーの果て
目的は何だ。ノスタルジーの果てを目指すのか。心中か、村上春樹的なやれやれ冒険セックスか。いや違う、少なくとも歌詞上では、それはもっとシンプルで強く少年的だ。
凍りつきそうでも/泡にされようとも/君に見せたいのさ/あのブルー

鮮やかさも鈍さも儚さも辛さも虚しさも全部、もっと言葉にならない色々も全て、この曲の「青」に込められた。その、静かに乱反射するような揺らめきと深みとスケールのブルーのイメージに、いつかあてられてしまって、それからすっと憧れてやまない。

【あ】あなたのいない世界で/コシミハル

あいうえお順で、一回につき一曲なんかテキトーぶっこきながら書きます。

 美しさにもベクトルがある。スポーツ選手の躍動の瞬間のような精力溢れ力強い美しさもあれば、滅び行く建築物が醸し出すぞっとして切なくなるような美しさもある。
 小西康陽という作曲家(に収まらず映画中心に多様な文化を取り扱える「ブンカジン」的なスタイルこそが彼の——ピチカート・ファイヴ渋谷系というムーブメントにおける影響力の重大な原動力のひとつとして機能し云々…はここでは置いといて)は、日本有数の美しくて悲しい歌の名手だと思う。実際『悲しい歌』という曲も作っている。きっと悲しい映画を見すぎたんだと思う。
 彼の作曲家としての強みは、まず骨組のソングライティングの良さ。日本の昔の歌謡曲的な要素(J-POP的なカッチリしてスッキリした曲構成というよりも、良くも悪くももうちょっとロマン的というかいびつでぞんざいというか、な構成など)を忘れずかつ残り香で勝負できるレベルにソリッドに切り詰められた楽曲のたたえる美しさは、上品というよりも奥ゆかしさを感じる。そして、そうやってできた楽曲をどうデコレートするかというところ。「映画を作るようにサウンドを作る」とも言われたりする彼の編曲力は、奥ゆかしい楽曲を時に楽しげに、時に艶やかに、そして時にとても物悲しくコーティングする。
 物悲しさは、特に最終形態ピチカート時代(小西・野宮二人時代)の最重要テーマとして、作品の度により美しくも凄絶なものになっていく。『悲しい歌』に始まり増加していくそれらは、小西康陽のもう一つの特色、彼個人という人間から発せられる物悲しさというものを静かに、だけど薫り高く滲ませる。そう、彼の表現する悲しみというのは、荒野的・絶景的なそれというよりむしろ、何か内側からしっとり滲みだしていくような風情がある。
 その最終的な地点として、今回の表題曲『あなたのいない世界で』という楽曲は存在する。実は彼による作曲でないにもかかわらず(しかしこのたびのピチカート・ワン新譜ライナーにて元々のメロディー展開を端折ったことが明らかにされたが)、彼の深い業のような作家性がまざまざと見せつけられる。
あなたのいない世界で/私は週末の朝/ひとり手紙を書いた
 ブルーのインクで小さな文字で/季節の移ろいをあなたに伝えたくて 
 書き終えて私は少し泣いた/そのあとで引き出しに鍵をかけた 
 あなたのいないこの世界で

悲しい映画の一場面だろうか。しかし何だ、この悲しさには何か、聴いてるこちらの身にもぞっそするようなものがある。批評家が批評しながら同時に涙しているような。よく分からないが、ともかく、一点の濁りも無く美しく救いの無い場面——それは小説や映画や歌なんかの中でしか存在し得ない光景かもしれないが——を描き出している気がする。

 この徹底した楽曲に、より絶望的で虚無的な魔法をかけたものがこの、今回取り上げるコシミハルによるカバー(小西本人監修という特殊なピチカートソングカバー集『戦争に反対する唯一の手段は。 - ピチカート・ファイヴのうたとことば』収録)である。原曲のシックなアレンジも大変素晴らしいが、こちらのバージョンは格別。チープなリズムボックスの上に、大概古くなって壊れかかってるかのような音のピアノが上品に乗る——この上品というのは、まさに黄昏れ貴族のような上品さで——このアレンジは、この楽曲の登場人物増により迫っている感じがある。
 まるでベル・エポックな時代、または両大戦間期のテクノ、ゼンマイ仕掛けのテクノめいた風情。それはコシミハル氏の常々の作風にもあたるだろうが、その時代がかった演劇的要素が、この曲の色彩をよりカラフルにかつ色褪せたものにする。サイケとかとはまた全然違う不思議な浮遊感。ファンタジーとも違うような。古き良き時代があった、という空白から滲みだす悲しみに暮れる主人公、その光景さえどこか遠くの時代の風景のような、そんな気の遠くなり方。少しばかり遥かな過去の悲嘆のシーンに埋没していく小西康陽の作家性。もはや悲しみのフェティシズムだ、映画を観過ぎたことによる末期症状だ。映画の観過ぎコワイ!こんな収束点めいた悲しみにつける薬なんてあるのか。それは時間と忘却とそして死でしか拭えないものじゃないかしら。

取り澄ました悲しみかもしれない。市井の泥臭い哀愁は全く欠けてしまっているかもしれない。貴族趣味かもしれない。でも貴方様、「没落貴族」って単語に、何故かグッときませんか?悲しみを美しく取り繕うことは、皆苦労してどうにかやってる世の中の実際に対して不誠実だろうか。知ったことか。ぼくはただ美しいものが見たい。甘くどうしようもない虚しさに沈んでしまいたい。せめてこうやって、自由に何か音楽を聴ける時間くらいは。

初回なのでなんか肩肘張った風に頑張った感じになってますが、もっと簡単にやりたいです。

hasu-flowerについて

 私事ですが、hasu-flowerという名義で音楽活動をはじめました。

 とりあえず作った音源。ギターと歌だけですが。

 また、先日弾き語りライブを行い、そのときの録音は以下のとおりです。歌詞飛びがかなり…。

 音楽性としては、ポップでメロウで、コード感が解放弦多用のややワンコード調で、ややノイジーなオルタナカントリーみたいなのをしたいと思っています。どうでもいいですけどオルタナカントリーという言葉をWilco『Yankee Hotel Foxtrot』で知ったのであのアルバムこそがオルタナカントリーだって思ってて、ノイズ処理とかまさに!と思ってすごく納得していたのですが、その後よくよく調べてみるとオルタナカントリーという音楽は本来もっと素朴で元のカントリーに近く、もうちょっと温もりがある感じの音楽であることが分かってきました。ただ、当初ぼくがあのアルバムに抱いた「これがオルタナカントリーか!」っていう納得と印象は未だに抜きがたく、むしろあれこそオルタナカントリーだ!って思ってしまってるので、そんなぼくが勘違いしたままのオルタナカントリー感を目指していきたいと思ってます。ちなみにぼくの認識だとWilcoの他にRed House Paintersなんかも完全にオルタナカントリーです。

 で、バンドメンバーを募集します(唐突)。
 ドラム・ベース・リードギター・キーボード。
 福岡市在住(または通える人)で、少なくとも土日に練習やライブに出ることができる人。当方WilcoArt-Schoolや昆虫キッズが混じったような音楽がしたいです。よろしくお願いします!

 hasu-flower次のライブは4月21日、薬院UTEROの予定です。弾き語りになるかと思います。もしお時間がある方はよろしければぜひお願いします!

 また、もしライブのお誘いをしていただけることがありましたら、以下の方に連絡いただけますと幸いです。弾き語りなら当方準備さえできればどこでも行けると思いますので、なにとぞよろしくお願いします。
ystmokzkあっとgmail.com(「あっと」を@に打ち換えてください)

『スカーレット』ART-SCHOOL

 活動休止前ライブの感想という最大の憑き物も落ちたことだし、アート全曲感想を再開します。

 バンド結成以来の4人が深刻なディスコミュニケーションに陥り遂に解散状態になるのが所謂第一期アートの結末だった。大傑作アルバム『LOVE/HATE』とそのツアーから生み出されたライブアルバム『BOYS DON'T CRY』を辛うじてリリースしバンドは壊滅(ついでに東芝からも契約を切られている)したものの、木下理樹はアートスクールの続行を決断。そして当時福岡在住でアートのファンとして親交があった戸高賢文をギターに、また一般公募のオーディションで宇野剛史をベースとして、2004年4月のフリーライブを皮切りに活動を再開させる。これがこの後5年程続く(今のところ最長)所謂“第二期”アートスクールである。

 余談だが、第一期と第二期の境界は明確だが、その後のメンバーチェンジの度の名称は幾らか呼び方に揺れがあるようだ。つまり、この後2008年にドラム櫻井雄一が脱退して鈴木浩之加入後の体勢を“第三期”と呼称するか、それとも2011年に宇野と鈴木が脱退して、サポートで中尾憲太郎藤田勇が就いた(2015年現在まで続く)体勢から“第三期”とカウントするか。個人的には、鈴木加入前後のアートの音楽性は連続している感があり、その他の節目ほど急激な変化をしている気がしないが、それでも当ブログはメンバー交代によるサウンドの変化の観点などもあり、鈴木時代を“第三期”、中尾藤田時代を“第四期”と呼称することとしたい。今回の活動休止が開けた後のメンバーが第五期になるのか、それとも第四期が続くのかはまだ分からない。

 前置きが大変長くなったが、そのように第二期として活動を再会させた後、最初に発表した作品が今作である。なお、今作からは『クロエ』が、この後に出る3枚目のフルアルバム『PARADISE LOST』に収録される。その点や歌詞の傾向などもあって、今作〜『PARADISE LOST』までの時期を当方では「PARADISE LOST期」と呼称したい。

スカーレットスカーレット
(2004/08/04)
Art-School

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画像欲しさにアマゾンリンクを貼ったが、今作と次作『LOST IN THE AIR』は、当時メジャーレーベルに所属していなかったバンドが自主レーベル(「VeryApeRecords」という。Nirvanaからの引用だろうけど、この時期からの木下の歌詞も踏まえると笑えるネーミング)からリリースしたもので、タワレコ限定・数量限定発売となり、現在廃盤である。
 しかしながら、この二枚の楽曲については後に『Missing』というコンピレーションアルバムに、当時の新曲二曲と一緒に再録されている。現在なら、こちらの方が購入しやすいかもしれない(これが出た為に元の盤が値崩れを起こしてはいるが)。そちらの再録分はリマスターされていて、それはいいのだけれど、音量レベルがアートの歴史で最も高い「FLORA・キキ期」の水準まで引き上げられていて、収録曲的に同じ期間の括りとなるはずの三枚目のアルバム『PARADISE LOST』(や、同時期の『あと10秒で』)の楽曲と一緒のプレイリストに並べると音量的にやや違和感があるのが珠に傷。
MissingMissing
(2006/09/06)
ART-SCHOOL

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 本当に前書きが長くなってしまった。以下レビューです。


1. スカーレット
 第二期アートの到来を告げる、このミニアルバムのタイトルトラック。作曲者に木下に加えて戸高の名前も記されており、アートの楽曲で作曲に木下以外の名前が入り込むのは(カバーを除けば)これが最初(のはず)。
 曲調は、イントロのギターカッティングの勢いがそのまま最後の音まで続いていく、所謂直線的な疾走チューン。しかし、第一期の多くのそれらとは雰囲気が異なる。ギターのバッキングが、これまでのアルペジオパワーコード重視から転換し、コードカッティングを主軸に置いたサウンドになっている。
 このカッティングのをの主軸として、他の要素は極力省かれている。リズムも直線的なアレンジで、アルペジオ等もさほど前に出る感じでもなく、ともかく終止ギターカッティングのジャキジャキしたアタック感が曲の中心を担っている。こういうアプローチはアート以外の同時代の疾走ギターロックバンド、特に3ピースバンドではそこそこ定番であり王道のサウンドな感じがするが、それをアートがやってしまうところにこの曲の魅力がある。
 また、そのカッティング自体を当時新メンバーだった戸高が考案して、それに木下が歌をつける、という形での共作となっている。カッティングのコード感自体は従来からのアートっぽさも感じられるような響きがあり、違和感はあまりない。モードチェンジしたサウンド上で木下のメロディもまた、木下理樹としかいいようのないリズム感と伸び方のメロディを書き、歌う。「おーおーおー」と歌を伸ばす箇所やサビの「しまーったあーあ、まーったあーあー」という不思議なリフレインに彼特有のストレンジなフックがある。
どうして 今 貴方に触れたくて 見えないから 身体を欲しがった
歌詞の方も、この曲はそこまであからさまではないが、より性的退廃とやたらめったらやさぐれながら未練がましい詩情に堕ちていく、PARADISE LOST期アート特有のカラーが打ち出されている。
いつか見たあの海へ 二人はそうたどり着いて
 本当は知っていた もうきっと戻れないと

 スーツ姿で壇上で歌う木下の顔芸と、ロボット演奏をするメンバーが印象的なPVも面白い。

2. RAIN SONG
 当時、新メンバーになってはじめて合わせた新曲だったらしい。LOVE/HATE期の名残も感じさせる、静動がくっきりしたグランジ気味ナンバー。
 しかしそれでも、バンドサウンドを変化させようとする意志は働いていて、この曲の場合特にドラム、スネアのカントリー的な軽快な連打が印象に残る。そこに3音アルペジオとコーラスの効いたギターストロークが絡むAメロの水中っぽさ。そこから一気にハードな演奏になるサビのシンプルさは、ワンフレーズ繰り返しの歌と相まって、より単純なハードさを前面に出した形となっている。シャウトと「トゥルットゥットゥルー」のコーラスがいいアクセントになっている。
ああ 今日は 海が見たいんだ なんとなく
 愛なんて それより何か 肉食いたいなぁ

笑っていいのかよくわからない、この曲最大のフック。個人的には性的なものよりも、曲調に沿うような空しい静けさの中にいるときに、ふっと意味もなく思い立ったフレーズ、といった、やさぐれた印象を受ける。憔悴してぼんやりしているような。

3. クロエ
 当時のアートでは明らかに新機軸だった、ファンク要素を中心に据えた楽曲。初っぱなだが完成度は相当高い。元々プリンスの大ファンだという木下のその方面の音楽趣向がはじめて前景に押し出された。これまでにもファンク要素は『JUNKEY'S LAST KISS』とかライブ盤の『モザイク』とかで少し現れていたが、この曲はド頭からギターのファンクフィーリングなカッティングが現れ、サビ以外で終止曲の雰囲気を支配している。
 そう、ここでそのファンクさを引っ張るのはベースというよりもギター、クリーンなトーンによる単音カッティングだ。それはまさにプリンスの数々の楽曲で行われているものと原理は似ている。しかし、プリンスがギターだけでなくシンセやSEも被せてトータルでゴージャスな感覚を表現しているのに比べて、ここではあくまでギター二本の神経質なプレイがメインで、それはむしろ殺伐さがあり、ポストパンク的ともとれるかもしれない(っていうかインディーバンドがファンクを取り入れる場合しばしば取り入れられるのがギターの単音カッティングで、プリンスばりのド派手シンセはさほど取り入れられないのは興味深いかもしれない)
 ギターが目立つが、他のパートもやはりファンクなプレイに徹している。ベースは、むしろ宇野自身直線的なギターロックよりもグルーヴィーな音楽を好んでいるらしく、タメを利かせた弾むようなプレイを見せている。一番ストイックなのはドラムで、殆どスネアを叩かずキックと裏拍強調ハットの刻みだけで4つ打ちのスタイルをプレイしている。木下の歌も怪しく這い回るような、疲れてだれているようなラインをリフレインする。最終的にはファルセットも披露し、木下流のガリガリなソウルフィーリングが垣間見える。
 ファンキーな刺々しさがサビで一転、カッティングがアルペジオになりメロウになるところは上手な切り替え。歌メロも性急なリズム感に切り替わり、しかしながらドラムは変わらず裏拍を強調し続け、ベースは弾んでいる。ファンクさの中にアート的なメランコリックでノスタルジックな匂いを奇麗に溶かしている。
身体だけを 欲しがる猿みたい 家にいんの 一歩も出ないで
歌詞では、いよいよPARADISE LOST期的なやさぐれ感や性的表現が渦巻いている。「猿」というこの時期の木下歌詞のキーワードが登場。アートのエロ歌詞は基本的に爛れた感じがして、その身も蓋もないところに自嘲的な姿勢が見える。
“いつかの海へ”なんて やせた肩抱いて
 僕等 きっと馬鹿で 変われない様で

ノスタルジーと停滞感。今作は「海」というワードも歌詞によく出てくる。

4. TARANTULA
 深いコーラスのかかった怪しげなギターリフを纏ったグランジナンバー。彼らの楽曲ではモロにグランジしてる部類だろうか。このギターリフの毒々しい感じが曲名のタランチュラをイメージしているのかもしれない(歌詞にも出てくるけど)。
 この曲についてよく言われるのはサビのメロディ。これがJoan Osborne『One of Us』からのガッツリ引用であることはファンの間でしばしば言及される。そこを置けば、コード進行やドラムプレイ、展開などの面でのSmells Like Teen Spiritマナーにかなり忠実な、典型的なグランジ感が味わえる。(余談だが戸高はこの後によりSmellsマナーに忠実な『Candles』を書き自身ボーカルで発表する)
許された季節は終わり 昼間から獣になって
 放っとくと 怒るんだっけ 誰でも そう

歌詞は今作でもとりわけ閉塞的な性が語られる。あと、歌詞に出てくる「タランチュラの刺青」の女性は実話だという。怖え。

5. 1995
 今作で最も明るくポップにアプローチした楽曲。言ってしまえばスピッツ青い車』なんかが浮かんでくるような、爽やかギターポップ。これも第二期以降に登場した新機軸(第一期の頃から萌芽はあったが、ここまでギターポップとして纏められているのはなかったはずだ)。しかし初っぱなにしては完成度が素晴らしく、後の「アートのミドルテンポのノスタルジック陽性ギターポップにハズレなし」という個人的な持論の、その始まりの曲でもある。
 ともかく、そのサウンドの軽快さ・淡さが素晴らしい。一音目から景色がパァーっと開けていくような感じ。ギターの揺らめきの様なサウンドの眩しさ・儚さはシューゲイザー的な要素が垣間見えるし、戸高のギタリストとしてのロマンチックな資質がスッと表出されている。ライドシンバルの高音を裏拍で強調したドラムも軽快な浮遊感を醸し出している。バックでループするSEも光がグライドしていくようで美しい。
 サビでパワーコードのギターが鳴るときも、ポップなドライブ感が加味されてとても心地よい。切迫感のある木下のボーカルも単語の連呼などがとても効果的に配置され、そしてその後木下お得意の「サビ後」のメロディ展開では、自然に沸き上がっていくようなギターの流線型とともに、爽やかにメランコリックに駆け抜けていく。
 歌詞も素晴らしい。木下的なノスタルジーが込められた単語の数々を隙間の多いリズム感で配置するAメロの良さ、本当なら歌詞を全部掲載したいくらいだ。
君の眼が好きで ただのそれだけで あの日 僕達は 裸足で飛び出した
 いつか見た海へ やせた肩抱いて すり減った二人は 何故かそう似ていて

一部『クロエ』とほぼ同じ歌詞があるのも気にならない。こんな淡いイメージとサビの無常観との対比が、曲調の流れと相まってとても切ない。
「変わらないでいられるさ」なんて 云って 身体だけが 繋いでた 様で
第二期アート以降の木下の歌詞からは、第一期の少年性は後退していく。しかし、その代わりのやさぐれやエロの中に、時折こういった「大人になりきれない大人」のノスタルジーみたいなのが入り込んでいく。この辺りの単語チョイスの中にこそ、木下歌詞の最良の部分があるように個人的に感じる。

6. APART
 前曲の爽やかで開けた感じからぐっと変わって、閉塞感と焦燥に駆られまくった攻撃的・自虐的なファストチューン。シンバル類の畳み掛けやらAメロのワンコードカッティングやら(少し『スカーレット』と響きが似ている感じもするが)が疾走感を醸し出すが、Bメロのキリキリとした旋律からぐちゃっとしたパワーコードをバックにAメロをオクターブ上で張り上げるサビに至るところは、第一期以上にどこかボロボロなフィーリング。爽やかさが無いというか、前と異なる邪悪さ・痛々しさがありそう。とりわけドラムの機動力が曲をグイグイ引っ張っていく。低音で歌うAメロと強引に絞り出すようなささくれまくったサビの1オクターブ差のギャップは、とりわけブレイクからBメロなしフィルインでサビに突入するラスト局面で壮絶に映える。
I'm waiting for APARTで猿がやる I'm waiting for 本当の俺の歌
そう云って どうだって よくなってしまったって
シンプルで直情的な曲展開以上に曲の重苦しい雰囲気を作っているのが、歌詞の部分。今作で最もささくれてやさぐれた歌詞を持つこの曲は、活動休止以降の本人の生活における停滞感・腐敗感が滲み出ている。身も蓋もない言葉の数々に、より自身の生活のリアルを切り売りしていこうという木下のいい具合に投げやりな意思が感じられる。

7. 君は僕の物だった
 今作を締める静謐で曲中の温度変化少なめな曲。ゆったり目なリズムで淡々とメロウに、過ぎ去っていくような雰囲気で進行していく様はかつての『1965』や『LOVERS』といった曲と共通するところがある(サビの「あーあー」というコーラスなどはホントに『LOVERS』そのまま)。
 この曲のサウンドの特徴は、終止刻まれ続けるギターのブリッジミュートだろう。The Police『Every Breath You Take』辺りを参照にした思わしきその音響はしかし、ドラマチックさや風景感をカットして、ひたすら内に溶けていくような感覚がする。サビなど一部で用いられるシンプルなパターンのアルペジオも思いの中に籠っていく寂しさのように響くし、木下の歌も終始淡々としながらも、特にサビの繰り返しなどに静かで寂しい熱を感じさせる。
 歌詞は、木下の実体験に基づいているらしい、悲しげな光景が描かれている。
気付いた? 5キロ痩せたの 急に 泣かれたって
 何か 猿になって しまえば 楽になれたっけ

このメンヘラ臭!第二期以降の、少年っぽいロマンからどんどん離れていく湿っぽさ・しんどさが、何とも身も蓋もない形で表出されている。


 再スタート後初のミニアルバム、ということで気合いが入っているのか、彼らの普段のミニアルバムより1曲多い全7曲収録となっている(同じ収録曲数の作品には後年の『Anesthesia』がある)。
 当時の新メンバー加入後初の作品だが、そのせいもあってか、作風に様々な変化が見られる。具体的に、The Cureミーツグランジみたいな曲は減り、その分をストレートなギターロックだとか、ギターポップだとか、ファンクとかにアプローチして、新しい魅力を放っている。この辺りの作風の変化は、特に戸高賢文の加入により、ギターサウンドの幅が広くなったことが影響している。サウンドイメージを木下と共通した視点で、かつ自身の個性を強く反映しながら構築できる「アートのもうひとつの顔」としての役割を、後年ほどではないにしても既にその萌芽が随所で見えるくらいに活躍している。
 サウンドのついでに木下のソングライティングも微妙な変化を見せており、全体的に湿った辛気くささが滲み出てきている。きっぱりと虚無で荒野な感じの『LOVE/HATE』とはメロディの質感も歌詞の方向も結構異なっていて、よりドロドログダグダした生活感や人間臭さが出ているのかもしれない。具体的には性的な描写がより直接的になったり、やたらささくれて投げやりな心情だったり、何度も繰り返される「いつかの海へ」的ノスタルジーだったり。
 混沌と虚無のロマンに沈み込んでいく少年の時代は終わり、それはとても素敵な映画のようだったけどでも終わり、ぞっとするような現実的などうしようもなさに溺れていく、大人になりきれなかった何かのうごめきのような詩情の、PARADISE LOST期のアートの出発点となった作品。この救いの無い感じは、次作『LOST IN THE AIR』でより追求されるところである。今作には、その予感、と言うには豊穣すぎる、過渡期的ながら半ば意図的のような、不思議な歪さと楽しみがあるように思う。
 

2015.2.13 ART-SCHOOL活動休止前ライブ

 ART-SCHOOLが2月13日のワンマンライブをもって活動休止に入った。しかしながら、今回の休止が、メンバー間の致命的な不和によるバンド壊滅などでなくもっと別の理由があることは、木下理樹本人の活動休止発表時のコメントからは薄ら、また小野島大氏による下記のインタビューにおいてより具体的に現れている。ついに独立レーベル立ち上げるのか。

 しかし、今回の活動休止について最も安心したのは、やはりその休止前最後のライブにおける発言や、なにより雰囲気だった。
 そう、行ってきました2015.2.13 新木場STUDIO COAST
写真-1
 所用により神保町から歩いて向かって、着いた時にはもの凄く疲れたし、もうアートスクールお決まりの開演SEである『Girl/Boy Song』がかかっていて焦ったけど、なんとか1曲目から観ることが出来ました。

 以下感想書きます。思い出しながら、なるべく詳細に。相変わらず敬称略で。



1.BABY ACID BABY
 開演SEが止み、それと入れ違いに現れるこの曲イントロの野太いベースの音で、ライブが開演する。アートが一番ブランキーモーサムなフィーリングを繰り出すこの曲の勢いは、バンドの救いのない世界観を開き直ったかのように、ダークでありながらもどこか清々しい。前にコーストでライブした前メンバー時に制作が目指され、少なくともこのライブまで続く新メンバーの布陣(ベース中尾憲太郎、ドラム藤田勇)により強烈にブーストされて完成したこの楽曲が放つどこまでもオルタナティブなアンサンブルが、ここにきて更にシェイプアップされたような轟音となって響く。
 そして最後のサビで木下が叫ぶ(音源よりも声がクリーン!)
愛し合う為生きてるって 感じたいだけそれだけなんだ
 光の中で君は泣いた 僕たち皆間違いなんだ そうなんだ

アートの基本スタンスを高々にかつ完全に居直って叫ばれるこのフレーズ!なんて力強く投げやりなフレーズなんだ!とビックリ感激した初聴のときの気持ちを思い出した。休止前最後のライブの始まりという悲壮感よりも遥かに昂りが勝っていて、晴れ晴れした気持ちで次の曲を待つことができた。

2.real love / slow dawn
 身も蓋もない言い方をすれば「Bloc Partyサウンド」系統の曲群というのがアートにはあるが、この曲がそのハシリ。ハシリにして、いちいちキメが大袈裟でキレッキレなこの曲も大いにライブ向きで、収録ミニアルバム発売ツアー後はしばらく演奏されない時期が続いたものの、近年になってセットリストに復活後、結構よくライブで聴けるようになり、疾走グランジとは違うアートスクールをアピーする曲のひとつとなった。
 このライブでもその演奏のキレッキレさは変わらず。特に現状のメンバーでやるとどのパートも激しさが増しているような感じ。特にドラム、藤田勲氏の「ともかく入れ込むスキがあればフィルしまくる」プレイが曲のややファンク寄りなアッパーさを加速させていた。変幻自在の戸高ギターといい、「そんなにフレット移動する必要あるの…?」と傍から思うほどアグレッシブに動くベースといい、勢いがすごい。

3.Promised Land
 この曲も「Bloc Partyに影響を受けて以降」の感覚がサウンドやキメなどに反映されている。現状最新アルバムからの曲ということで、前曲と対比してバンドがそのある意味借り物のようなサウンドをここまで自分のものっぽく咀嚼した、とかいう評論的な見方だって出来るだろうけれど、ここではそんなの意味ない。だって勢いがあるんだもの。
 最新アルバム『YOU』リリースより前のツアーから既に演奏されていたこの曲、現状のバンドのポテンシャルが自然にかつギチギチした形で活かされたサウンドカラーはハードさの中に容易に瑞々しさを染み込ませる。やたらyou know you knowと連呼しまくりな歌もサビではせり上がっていくメロディとベースラインの妙でしっかりポップに聴かせる。

4.夜の子供たち
 やはりブロパ影響以降感の楽曲。というかこの曲はもっとThe Novembersとかの邦楽の後進バンドからのフィードバックを感じさせるキリキリしたゴスさがある(それでも全体としてはポップに纏めてる辺りアートの個性か)。
 個人的にはこの辺りの「ニューウェーブ要素を攻撃性に転化した近年(といっても2007年以降だけれど)アートサウンド」の総決算のようなこの曲順はすごく熱かった。この流れの三曲は特に、リードギターアルペジオ等のレイヤー的なサウンドよりももっとストレートにフレーズやカッティングを聴かせるプレイが多く、戸高のキレッキレしたプレイが多く見れて相当楽しかった。
 特に圧巻なのは最後のサビ前の轟音パート。原曲でもここはかなり音の壁してた箇所だったが、このライブでの轟音具合は更に派手なことになっていて、不安と高揚が舞い飛ぶような鮮烈なセクションを形作っていた。

5.BOY MEETS GIRL
 5曲目でやっとライブ定番の初期疾走曲の登場。フロアの空気が一気にステージ前方に集まっていく。一直線にかき鳴らされるギター、重く引き摺りながらも駆け抜けていくドラム、這うベース。初期疾走曲になると急にどのパートの音も纏まってひとつの塊のようになっていく。その眩しい熱気にあてられて、遂にフロア前方でダイブをする観客が現れだす。決して長くない、すぐ通り過ぎていくサビの間に身体を宙に放るその光景。パワー。
 『YOU』のツアーの時からだったか、原曲でシャウトを引き延ばしていくところをシャウトせず、別のメロディを付け足すアレンジ。ギリギリさを感じさせるシャウトを期待してしまう反面、この変化に面白みも感じられる。

6.サッドマシーン
 立て続けに初期疾走曲。彼らの曲の中でも、いわゆるブチアゲ系の最たるもの。イントロでどよめくフロア。この曲も『YOU』ツアーの前あたりからサビのシャウトが一部省略されて歌われるようになったが、それでも曲自体の勢いは損なわれない、どころか強力リズム隊がより煽り立てる。間奏ブレイクからサビに入っていく前のフィルインの機関銃のような響きに驚く。思ったよりもエコー感を排したアルペジオの硬質な響きといい、原曲よりもシャープで重々しい色付けがなされていた。

7.YOU (w/ UCARY & THE VALENTINE)
 ここから2曲は、ゲストにUCARY & THE VALENTINEなる、アルバム『YOU』等でも客演していた女性ボーカルが参加し、木下と2声になったことでよりカラフルな音像を体現していた。アルバム発売前からステージで演奏されていた、アルバムのブライトサイドの一角であったこのタイトル曲も、その淡く煌めく幻灯のような風情をそのままにステージから照射していた。間奏の木下のシャウトが、彼のキャリアの一貫した何かを物語っているようにも聞こえた。

8.Water (w/ UCARY & THE VALENTINE)
 『YOU』ツアーでの意外だったことのひとつは、アルバムからもっとライブ向きっぽいハードな数曲を差し置いて、このくぐもったコード感のネオアコ風味なナンバーが頻繁に演奏されていることだった。軽やかにスウィングしていくリズムに同じく軽快にランニングしていくベース。そしてそれでも保たれるアート的なモノトーンの哀しみをたたえたコード感。木下の重要なルーツのひとつである『North Marine Drive』の風情を幾らか思わせるこの曲に、彼個人の思い入れが透けて見えるような気がする。
 このライブではそこにゲストボーカルが原曲にはないタイプの花も添えて、感傷的な美しさの態様を穏やかに放出していた。しかし、こういう曲での木下のギター弾かなさと、そしてそれを十分に補ってしまう戸高のギターワークは本当に素晴らしい。前メンバーでの解散危機時に木下が戸高だけはなんとしても引き止めた理由が、こういう曲をライブで聴くとまた一段と理解される。

9.乾いた花
 前曲が終わり、UCARY & THE VALENTINEが退場。その後木下によるMCで、以下のツイートに似たことを言っていたのはこの辺だったか。

その直後に演奏されたのが、確かこの曲だったか。未だに彼らの代表作とされる1stアルバム『Requiem For Innocence』は幾つものライブ定番曲を持つアルバムだが、そのアルバムの最後に収録されたこの曲はそれほど頻繁に演奏されるものでもない。この曲の歌詞に以下のようなフレーズがある。
生き残っていたい 生き残っていたいよ 今日は
この、アルバムのストーリーを完結させる為に取って付けたようだと穿った見方をしてしまうような感じもあるフレーズはしかし、結局はこの「今日」の積み重ねこそが、このバンドの息も絶え絶えのまま長く続いた歴史になっているのではないか。この節目のライブでこの曲を演奏することに、本人はどんな思いがあったんだろう、余計な想像をしてしまう。

10.DIVA
 1stアルバムからの選曲が続く。今度は割と定番曲にしてメジャーデビュー曲の登場(メジャーデビュー曲なのにアルバム中のライブ登場頻度がそこそこなのはなんなんだ)。この曲のシンプルで穏やかだけど何か予感を感じさせられるイントロにはやはり引きつけられる。
 この日の木下のボーカルは調子がかなり良かったが、裏声の使用はなかった。それでも、この曲のヒリヒリとした溌剌なメロディの良さは損なわれてはいなかった。サビでの加速は、とりわけ勢いと手数に特化したドラマーの存在と、誰よりもアートの曲を弾いてきたであろう戸高の原曲をより発展させたギタープレイによってより強烈な疾走感を帯びる。木下言うところの集大成というのは、こういう側面のこともあるんだと、ライブ中の興奮を思い出しながら思う。

11.ロリータ キルズ ミー
 初期曲流れのとどめ。ライブで最も盛り上がる曲がインディー時代のミニアルバム収録の楽曲であるという不思議なバンド・不思議な歴史。それでももう、音源にないライブで追加されるお決まりの木下ギターによるプレリュードが流れた瞬間にどよめくフロア。登場が早いんじゃないか、と意外な感じもした。
 バンド演奏がスタートしてからはもう、本当にあっという間だった。ライブならではの木下の絶叫、僅か十数秒の駆け抜けるサビの間に舞い上がるクラウドサーファー(よく見るとちょっとはしゃぐこともある大学生、くらいの人だった)、勢いがありすぎて最早音源からどう変わったか把握する気になれない演奏の飛ばし方等々。イメージが乱反射する数々の言葉が矢継ぎ早に吐き出され、猛々しくも眩しい演奏があって、それにフロアが舞い上がる光景、この曲がライブで演奏される時の、フロア含めて全部凄くキラキラした感じになるのは、不思議だけれどとても凄い。

12.Chicago, Pills, Memories
 MCを挟んで(戸高が「いろんな人から『やめないで』って言われましたけど、必ず帰ってきますから!」という発言が出たのはこの辺だっただろうか)、戸高がギターで不思議な音を発し始める。魂が重力に逆らっていくような音。多少でもギターを弾くから分かるけれど、あれは逆再生ギターの音だ。はてそんな逆再生ギターがキュンキュン鳴らされるような曲がアートにあったっけ、と思ってたところにこの曲が始まって「あっ、これか!」ライブでは音源以上にこういうところエフェクティブでノスタルジックにやるんだな。
 現行の4人体制初作品からの、2曲目の選曲がこれというのも意外な感じ。アルバム中でも一際コンパクトでやや地味なポジションのこの曲を選ぶ辺りに、本人の何かしらの思い入れがあるのかなと思った。が、楽曲が始まるとやはり素晴らしい。この曲は構成上歌よりもその後のギターの響きこそが重要だが、そこがしっかりと再現されていた。特に終盤の、曲の短さに比べて不釣り合い(だからこそいい!)な程大きなスケール感を持つ、2段階で広がっていくギターサウンドは実に雄大で、やはり近年の曲になるほど戸高ギターの存在感というのは本当に重要なものになっているんだと、その遠く向こうを見渡すような奥行きに陶酔した。

13.プールサイド
 この曲らしきイントロが流れた、と思った瞬間、思わず大声を上げてしまった。静かな曲だから普通静かに聞き入るモードに入るべきなのに…。前曲からの流れは非常に良かった。
 この曲をライブで観るのははじめてだった。ライブ動画としては、youtubeにアップされている『BOYS DON'T CRY』初回特典DVDに収録されたものしか知らなかった。このライブの前に京都で(なぜ)行われた木下理樹弾き語りライブでは普段のアートのライブではなかなかお目にかかれない曲を沢山やっていて、セットリスト見ていて羨ましいばかりだったけど、その中にこの曲もあって、すごく観たい、と思っていたので、この曲のイントロ!と思った瞬間つい感極まってしまった。
 この曲の水中を深くたゆたうようなギターワークはしかし、原曲においてはギターの多重録音による効果が大きく、つまりライブでギター2本で再現するのが難しいことは、先の動画で知ってはいた。なのでどうするんだろう、という気持ちもあった。
 結論から言えば、戸高のギターは完璧だった。静パートではアルペジオとゆらめくようなカッティングを使い分け、原曲の奥行きをしっかりと尊重し再現しようとする姿勢が凄く見てとれた(木下が歌いながら何か弾けばいいところなのかもしれないが)。そしてサビでは、同音反復の浮遊感溢れるカッティングの中に絶妙にフレーズを入れ込み、原曲の轟音を考慮しながらライブ的なドライブ感も反映された、素晴らしい轟音が生み出されていた。彼のギターは近年の曲になるほど「彼らしいプレイだ」って思うことが多かったが、この曲では彼のアートスクールに対する研究心と勇敢さが垣間見えた気がして、とても熱くなった。

14.LOST IN THE AIR
 前曲から続けてこの曲。『シカゴ〜』からこの曲までの流れは所謂「レア曲ゾーン」だと思われるが、この曲のバックで反復し続けるピアノのフレーズが鳴り始めた時のフロアの静かなどよめきが印象的だった。前メンバーの最終ライブでも演奏されたこの曲が、この4年でどう変わったか。
 リリース当初からしてもやや浮いてる感じのあったこの曲の一番のポイントは、曲の所々でざっくりと入る全体のブレイクだろう。このZAZEN BOYSばりのブレイクがあることが、アートの楽曲でこの曲が未だに特殊な存在感を放っている理由だろうし、またそれによる演奏のし辛さが「仮にもミニアルバムのタイトル曲なのにレア曲扱いなのか…」的なポジションになっている理由だろう(もっとも、PVある曲で演奏されない曲は他にもっとあるけど)。
 で、今回のライブではとりわけそのブレイクの処理の仕方に大きく手を入れたものとなった。前メンバーラストのコーストでのライブ時には比較的原曲に忠実にブレイクしていたところだったが、今回はブレイクするタイミングの直前に思いきったハイハットのアクセントが入るようになっていた。この、カウント取りとアレンジを兼ねた大胆な改変は賛否両論あるだろうが、個人的には「そうくるか!」という楽しさがあって面白かった。ピアノのリフレインSEと同期してプレイされる曲なのでともすれば大人しい感じに収まりかねないところを、同期しなくていいところで思い切ったブレイクを取ったことで、曲に新しい荒々しさが混入されていた。こういう、曲の解釈自体が変わってしまっているドラムこそアートの現ドラムとしての藤田勇の真骨頂だと思う。
 裏声を使わない木下の歌唱は原曲と多いに異なる部分があるが、むしろ最後のリフレインで低めに囁くように歌うのは原曲とはまた違った儚さがあって好きだ(これは前メンバーコースト時も同様)。

15.革命家は夢を観る (w/環ROY
 前曲が終わってまたMC、またゲストを紹介する旨の発言があった後に登場したのは環ROY。服装がかなりシンプルで、ラッパーっぽくないいでたち。登場早々木下が「サブカル文化人を目指してるんだよね」等といじりはじめ、環ROYの「じゃあリッキーは何目指してるの」という質問に対しての木下の返し「世界平和」でフロアが笑いに包まれる。おいおいここはロフトプラスワンか何かか。
 環ROYが登場してやる曲は1曲しかない(過去の曲に新しくラップを取り入れてアレンジするといったことをこのバンドがするのは考えにくい)。きちんと原曲通り、ラップ入りの『革命家は夢を観る』。去年観たライブでは会場が地方で、環ROY不在にも関わらずこの曲をプレイするバンドの姿があって、ラップパートを変わりに誰かが何か歌う訳でもなく、ひたすらセッションめいたガチャガチャした(主に木下の雑なギターカッティングによるもの)何かが展開していく様はシュールでそれはそれで…だったが、遂にしっかりしたものを観れた。
 やはり環ROYの安定したライムは聴いててすわりが良く、むしろ後ろでやはりガチャガチャやってる誰かのギターが邪魔に思う瞬間もあった程。しかし、それでもやはり終盤の二人の歌とラップの掛け合いは良いもので、バンドのスウィートネスな部分だけを抽出したこの曲の魅力は、セットリストに他の曲にはない落ち着きとまろやかさを与えていたように思う。

16.その指で
 環ROYが退場して、しかしながら次の曲が前曲の雰囲気と幾らか共通するもののあるこの曲だったのは、いい流れだと思った。限定販売シングルのカップリングというレア曲的立ち位置(iTunes Storeで購入可能だが)の割に、ツアー時以上の尺のライブではやたらプレイされ、最早ライブではレア曲というよりむしろ裏定番と化している感のあるこの曲だが、今回もプレイは冴えていた。
 プリンス的なファンクネスを導入した系統の曲の、ひとまずの完成形であろうこの曲は、その分各楽器のプレイもまた典型的なアートサウンドとは異なる魅力がある。「ルードで直線的なベース」がウリとされていたナンバーガールの頃の中尾憲太郎(n歳)のイメージは遥か遠く、かなりしなりのあるベースラインは比較的ストイック気味なドラムとともにがっちりとR&Bなリズムを作り、その上で戸高のギターがいい具合にファンクっぽく手を替え品を替え音を添える。
 木下は元々キーが低いこの曲を無理なく歌いこなす。原曲のファルセットコーラスが無い代わりに木下は所々でオクターブ上を歌い、曲全体のリズムを図っていた。特に終盤のリズムが加速する箇所でもボソボソと歌いのけるのはかえっていかがわしさがあって、この曲のライブ時の歌アレンジは相当良いと思う。

17.アイリス
 この辺りでまたMC。活動休止の理由をぼんやり語っていた内容だったが、その中で「自分たちを好きになってくれる人に対して失礼なことをする奴なんか死んじまえ」という話が。すかさず「活動休止する奴がこんなこと言っても説得力ないけど」と話しだす木下。どこまで考えてしゃべってるんだろうと思ったが、同時に小沢健二の1stのセルフライナーにあった「ついでに時代や芸術の種類を問わず、信頼をもって会いに来た人にいきなりビンタを食らわしたり皮肉を言って悦に入るような作品たちに、この世のありったけの不幸が降り注ぎますように」という文章を思い出し、それと同じ類の熱情を感じた。
 そのMCの後でこの曲。演奏頻度高い初期曲のひとつが今日また勢いよく始まった、と思ったら、歌詞が1行目半ばにして飛んだ。おい流石に早過ぎるだろ!さっきのMCを踏まえるとどうなのよ!っていうか何回演奏したか分からん曲の歌詞だろ!って具合の突っ込みどころはあったが、曲自体はそれでも順調に進行。ヘッヘーイの裏声がなかったのはやや寂しかったが、その代わりサビでは原曲以上に元々の歌詞に忠実な発声をしていたりして意外と細かいところにも目線が入っているのを感じた。

18.BLACK SUNSHINE
 ライブではともかく疾走曲ないしはテンポ速めの曲が多いアートだが、この曲はミドルテンポで割と演奏頻度の高い曲。ライブでの演奏頻度が高いのは、間奏のブレイク等でギター二人がコードカッティングを向かいあってユニゾンで弾く箇所がステージ的にサマになるからだと思ってる。この日もまた、向かい合ってギターを弾く二人。仲違いはないにしても、やはりここにはこの曲なりの緊張感があると思った。

19.MISS WORLD
 MC。「このライブはDVDにするつもりです」とのこと。またコーストのライブがDVDになるのか!その後「残り少ないですが、楽しんでいってください」とのこと。アートのライブ本編の終盤といえば、それはもう疾走曲祭り。ある程度のファンだと大体何となくこの曲来るなと思ったのがその通り来るような、そんな時間の始まりは、今回はこの曲だった。
 音源とライブとの差が最も激しい部類と思われるこの曲。原曲の疾走とも言い辛いテンポは何だったのか、ガンガン加速して突っ走って間奏で爆発するのがライブでのこの曲だが、現メンバー体勢になってからはさらにひと捻りが加えられている。それが間奏最後サビ直前の部分。ドラムの猛烈な連打が加えられ、この部分は前メンバー時のライブともかけ離れた強烈な出来になっている。藤田勇というドラマーはフィルを沢山入れないと死んでしまう男なんだろうか。その心意気がいちいち楽しくて仕方がない、素晴らしい音の壁っぷりだった。
 
20.車輪の下
 前曲の勢いも冷めきらぬままにこの曲のイントロに突っ込んでいく。毎回毎回のことではあるが、やはりこういう生き急いでいるとしか思えない楽曲の連発には他のバンドでは味わい難い特別な雰囲気がある。特にこの曲については、格別のアレンジ変更もなく演奏されているが、しかし演奏の熱の入り方がやはり極端すぎる。はち切れそうなベースラインも、やや原曲よりはしゃぎ気味なドラムも、最後のサビだけ自由に弾け飛ぶギターも、そして単純明快でむしろアホっぽくさえ聞こえるサビの自虐的な歌詞も、素晴らしい勢いで駆け抜けていく。イメージに富んだネガティビティが一直線に駆け抜けていく様のエネルギッシュさは逆説的もいいところだ。この曲でフロアでダイブが起こることの幸福さは、他のどのバンドにも滅多に見られない、美しい光景だと思う。

21.UNDER MY SKIN
 前曲の最終音が鳴り止まぬうちに、戸高がステージ向かって左側の方を指差す。中尾憲太郎が相当なスピードでやや複雑でやたら攻撃的なループフレーズをはじき出し始める。そして全体の演奏が始まってしまってからは、もはや勢いのみである。数あるアート疾走曲の中でも、この曲が最もその直進性と、そして暴発状態のまま突き進むエネルギーが凄い。木下がAメロのメロディを平坦にして歌ってても、戸高がサビでもうなんかグチャグチャしてるようにか聞こえないギターを弾いても、客観的に観て崩壊寸前のようなアンサンブルでも、曲の持つ構成とテンションがそれらを強引かつ強烈に繋ぎ止めてしまう。
 今回のこの曲で特に嬉しかったところは、サビの発音がアイリスと同じく、ちゃんと元の歌詞通りの英語を歌おうとしているところと、そして何よりサビの最後のメロディの微妙な変更である。ライブ時の気の狂ったようなテンションを確かに受け止め間奏に繋げる、そんな上ずり倒した「smile」の部分の歌い方はもはやシャウトに近い。素晴らしいテンションの激烈さは、そのままギターノイズまみれのままノンストップで次の本編最終曲に繋がる。

22.FADE TO BLACK
 もう何年も前から、アートの中規模以上のライブの本編最後は『UNDER MY SKIN』とこの曲の連発が定着してしまっていた。そう、前曲でのどこまでも暴力的に突き進むエネルギーが、この曲のどっしり膨らんだリズムの中で強烈に圧縮され、爆発してしまうものだ。最早リフなのか騒音なのかよく分からないがやたら鮮やかでキラキラしたようにも聞こえるライブでのメインリフ部の轟音は、アートが持つ攻撃性・透明性・ネガティブな生命力がモロに立ち現れる瞬間の最たるものである。
 軽やかな疾走と激しい爆発を何度も繰り返す。木下のサビの歌唱は完全に破綻してしまっているが、そんなこと誰ひとり気にしない、それどころかむしろそれでこそ!とすら思われてしまう。何故この人はこんなにも絞り出してしまうんだろう、絞り出し続けているんだろうと思わずにはいられない強烈で、自暴自棄的で、しかしもの凄くかっこいい瞬間が、この日も大人数の前で通り過ぎていった。

(Encore 1)
23.Hate Songs (w/ UCARY & THE VALENTINE)
 再びステージに現れたメンバーたち+ゲスト。木下の手元にはアコギがあって、昔あった弾き語りコーナーの再現か、と思ったがメンバー全員がスタンバイしていて、単に木下がアコギを弾くバンド演奏なことに気づく。木下がアコギで少しアルペジオを試し弾く。それは『カノン』のそれだったので、おおっ、と思って身構えていたら『カノン』ではなくこの曲が始まった。そして結局このライブで『カノン』やらなかった。なんなんだ。
 それはおもかく、この曲。現在リリースされた楽曲の中で最後のものとなるこの曲。落ち着いたテンポながら、穏やかに感傷的で夢見心地な音世界を構築したこの曲は、アートの慈愛サイドの楽曲の今のところ最終形でもあり、その歌詞の風情は今のところの木下の結論的な部分が出ている。
恵みの雨 慰めあえ 糸を手繰った先には いつだって 貴方がいたんだ
繰り返し歌われてきたことでしかないような気もするが、しかし「I & youの世界」に改めて向き合った先に見えた光景のようでもある、この曲の優しさを、バンドが大切に紡ぎ上げる。特に戸高のギターは、木下のアコギがあまり聞こえない(Bメロでは最早弾いていない…!)中で実質1本のギターだけでこの曲のゆらめきのようなサウンドの多くを体現していて、それは不思議と感動的だった。ゲストボーカルを伴った木下の歌には落ち着きがあり、濁ったまま澄み切ったような、複雑さを内包した歌を実に滑らかに聞かせていたように感じられた。

24.フローズン ガール (w/ UCARY & THE VALENTINE)
 引き続きアコギ&ゲストを伴って鳴らされたのがこのフォーキーで爽やかな曲だったのはとても楽しかった。ライブ終盤にこんな曲をさっと出せるだけのレパートリーの気の利いた具合は、流石長くやっているバンドだと思える。今の日本有数のイカついリズム隊を抱えておきながらこんな可愛らしい曲をさらりと忍ばせる辺り、現メンバーの充実した足取りが思われる。
 この日もその多くの点で無邪気さが感じられる演奏が心地よく響く。特に次々とバタバタしたフィルインを繰り出していくドラムの愉快さはとてもグイグイ来るものがあって、それに導かれるように自然に噴出する、珍しくストレートなギターソロが清々しい。アートらしいくすんだブルーな感覚が、ヴェルヴェットな質感のまま心地よく味わえた。

25.スカーレット
 MCで、戸高が話す「アートでは自分の激しい感情を出すことができる。アートには感謝しかない。だから、悔いが残らないようにぶちかまします」。そのMCの直後に演奏されたのが、戸高がアート加入後すぐにリフを用意し、結果的に木下と共作となったこの曲だった。
 今にして思えば、単に「アートらしいギターのコード感・カッティング」というのを通り越して、この曲のリフは所謂ロキノン界隈感傷的な雰囲気の形成に一役買った感があるのかもしれない。そのようなリフを、MCの通りぶちかます気持ちで、一際強く弾くリードギタリストの姿がそこにはあった。勢い一発、リリース当時のバンド再始動一発目の曲の根幹に関わった楽曲をぶん回すことで、彼は自身のこのバンドに対する長くなったキャリアを始まりから振り返ったのだと思う。戸高賢史抜きで現状のアートが楽曲をこなすのはなかなか難しいだろう。いい『スカーレット』だった。

26.あと10秒で
 近年は本編の締めが上記二曲で固められたことで、この曲がアンコール時の締めになっているように思う。所謂第二期アートの代表曲中の代表曲であり、第二期始動後常にライブで演奏されてきた楽曲ではなかろうか。シューゲイザー的なサウンドと軽やかなダンス要素にぶちまけるようなフィルイン、そしてひたすら単純にかつポップに努めながらも身も蓋もない言葉をリフレインする木下理樹
 SEと同期しながら演奏するタイプの楽曲でありながら、この曲におけるバンド演奏の大胆さ・SEにつられて縮こまることのない具合は素晴らしいが、現メンバーはそこに更に色々なものを注入していた。特に戸高は、それこそ何回演奏したか分からないこの曲にいい具合に飽きて、曲中でどうアドリブを出すかを常に工夫してきた歴史がある。今回も間奏でその自由さを担ぎだし、快活なテンションに任せて自由自在に弾き倒す様がまた爽やかだった。最後のリフに戻る直前にヘンテコなビヨヨーンって感じのフレーズをくっつけてたのを聴いて、あ、ユニークだ、この人きっと帰ってくるわ、と思った。
 結果として、1回目のアンコールは4曲とも第二期以降の曲となった。キャリアを考えれば当然あり得ることだけど、何気にかなり珍しいような気も。

(Encore 2)
27.しとやかな獣
 二度目の終演後、きっとまだ何かあるだろうと思って待っていた。そして3たび彼らは来た。ファンに対する今回最後の挨拶「結構長いこと休むけど、必ず帰ってきます、待っててください」という言葉をよそに、何を演奏するんだろう、やっぱり『斜陽』かな、と思ってた。
 イントロを聴いた瞬間、本当にビックリした。歪んで揺らぐ、雲が墜落していくようなギター、荒野を歌詞の通り裸足で歩くように地にどっしり足がついたリズム、ああ、『プールサイド』に続いてまた!
 演奏は、もう殆ど覚えていない。ただひたすら、ステージの方が眩しくて、暖かくて、美しかった。第一期時代最大の慈愛サイドの楽曲にして、本当にギリギリのラインで他人を肯定する歌だ。
美しい、しとやかな獣よ 貴方は空っぽのままでいい
 光は、光は此処には射さないさ 裸足で、裸足のままでいい 裸足で

泣きそうだった、いや、泣いていたと思う。ライブでははじめて聴いた。今のアートスクールは他者を思いやることをしている。どこまでも甘く優しい質感の『Hate Songs』が一方であり、そしてこの曲は荒涼とした景色にかすんだ目で見えた”何もなさ”自体に救いを見いだすような、もう一方として彼らにおける究極の楽曲だろう。
 そんなどうでもいい分析ホントにどうでもいい。ぼくは生まれてはじめてこの曲をライブで聴けた。活動休止前最後にバンドが演奏したのがこの曲だった。それだけでもう、このライブ自体すべてが素晴らしすぎるものだったと思えた、思えたんだ。


 トータル27曲。一昔前のアートと比べるとやや曲数少ないかもだが、それでも十分に充実した曲数、選曲だった。後から欲を言えば『シャーロット』も『刺青』も『LOVERS LOVER』も聴きたかったし、っていうか鈴木浩之在籍時の楽曲が1曲もないといった少し気にかかる点もありはするけど(アルバムツアーでは『14SOULS』を演奏していたので、そんなに心配してる訳でもないけど)、それでも十分十分。というか『LOVE/HATE』からの楽曲二曲だけでお釣りが出まくるほどに嬉しかった。ホントに嬉しかった…。
 アートスクールは活動休止に入ったが、その理由については既に上記の小野島大さんのインタビューで多くが語られていて、それがポジティブな内容である為、心配はしていない。ゆっくり休んで、自由に動ける体勢を作って、そしていい曲を沢山作って帰ってきてくれることを、ただ単純に待つばかりだ。
 ひとまずは、ありがとうございましたART-SCHOOL。また会える日を楽しみにしています。


次回更新あたりから、第二期アートの作品レビューを再開したいと思っています。
あと、私事ですが、ライブ後のスクーラーの集いに集まった皆様、大変ありがとうございました。あんなにアートをどこまでもネタにおしゃべりしたこと生まれてはじめてだった…。

『Surfin' Safari』The Beach Boys

ビーチボーイズの1stアルバム。これ以前の音源集(『Lost & Found』とか)までは手を伸ばしてません…。どうでもいいけどこのアルバムタイトルタイプしてるとfが二回出てくるのでなんかきもちいい。

Surfin Safari / Surfin UsaSurfin Safari / Surfin Usa
(2001/02/17)
The Beach Boys

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ジャケット。当時どうだったか知らないけど、オシャレに見える。空の部分が大きい辺りこういう感じの写真好きな人のツボついてくる。

このアルバムに限らずですが、ビーチボーイズのアルバムは連続する二枚のアルバムが1枚で売ってる(いわゆる2in1)やつがアマゾンなどで買える。単品売りしている日本盤や、最近では最新リマスター(ステレオ化などが目玉だけどそれは該当するCDにて触れる)の単品など出てるけど、とりあえず2枚を一枚で聴けてしかも安いこの2in1シリーズで、ぼくはアルバムを集めました。レコードとかCDとかでプレイヤーで聴くとなると、やっぱり一枚で終わった方が完結感あっていいのかもだけど。



01. Surfin' Safari
 ビーチボーイズの、記念すべきアルバム1曲目から、まさに彼らのパブリックイメージドンピシャな永遠のレパートリーとなるポップなロックンロール。実際は当時はシングル盤中心の時代なのでさほどアルバムの先頭が何かが重要じゃないようにも思うけれど、この曲はまさにシングルリリースされスマッシュヒットを記録している(むしろ当時はアルバムのA面とB面それぞれの先頭にヒットシングルを持ってくるのがビジネス的にも重要視されてた時代だけど)。
 とぼけたようなマイク・ラブのボーカルや、このアルバムのような超初期ビーチボーイズ特有ののんきで気が抜けたようなポップさ(この感覚は近年ならそれこそThe Drums『Let's Go Surfing』なんかに近い感じさえしてくる)など流石ヒットソング光る点は多々あるが、とりわけ重要なのはキメのメロディ部分のバックのリズムだと思う(ダンッ、ダンッ、ダッダッダッダッスッタカタッタカスッタカタッタカのパターンのやつ)。当時ビーチボーイズのデビューと同時期もしくはその後くらいには、似たようなサーフィン&ホッドロッドサウンドを量産するバンド(や、バンドに見せかけたユニット)がたくさん出て来たが、それらのバンドの曲でやたらと出てくるリズムが、このパターンだ。よりヒットして代表曲の風格がある『Surfin' USA』ではなく、この曲のドライブ感なのだ。一体このリズムの何がジャン&ディーンや、ブルースジョンストン、テリーメルチャー、ゲイリー・アッシャー等「サーフィン&ホッドロッドブームの仕事人」たちにやたら好まれたのかよく分からないが、その結果以下のことが言える。
Q:サーフィン&ホッドロッドって、具体的にどういうサウンドなの?
 A:大体この曲みたいな感じですよ。

サーフィン&ホッドロッドの文法があるとすれば、『Surfin' USA』より先にこの曲なのかもしれない。そう思うと、フニャフニャしてて情けない感じさえしないでもないこの曲が、とんでもない金字塔のようにすら思えてくる。

02. County Fair
 軽くテケテケと下降するギターに導かれて始まる、軽快でやっぱのんきな曲。曲名といい、あくまで田舎、ニューヨークやらモータウンやらみたいな「都会のヒップな感じ」がホントに微塵もしないところがこの時期のビーチボーイズの特徴。バンドメンバー自身による演奏(当たり前のように思えるが段々そうでなくなってくる辺りがこのバンドの複雑なところ)はのんびりとヨレていて、特にリズムはハイハットを叩く時の強めで均一な感じがアマチュア感に溢れている(しかし、こういう感じのドラムは特にゼロ年代半ば以降のUSインディーではかなりよく聴かれる感じもする。影響を与えたのか、単に大正義バンドだから模倣されるのかはよく分からないところ)
 歌以外の部分、オルガンが変にかすれた音でソロを取りながらの、いかにもなおっさん声(これは当時のプロデューサーニック・ベネットその人らしい)といかにもな適当にエロそうな女の声による呼び込みの掛け合いが楽しい。次作以降のどんどん洗練されていく楽曲から考えると、随分自由な感じもして、その自由さのあくまで田舎チックな無邪気さが結構清々しい。
 ちなみに、後にブライアンはこの曲のメロディを下敷きにしっかり哀愁のサビを取り付けた『I Do』という曲を作り他のシンガーに楽曲提供&セルフカバーしている。

03. Ten Little Indians
 英語圏で広く親しまれている童謡『テン・リトル・インディアンズ』を下敷きに作られた所謂ノベルティ・ソング的な色合いの強い曲。サーフィンブームがすぐ終わると思ったプロデューサーがブライアンに作らせた曲らしい。
 前曲と殆ど変わらないテンポで、イントロの「インディアンの話し方」をモチーフにしたと思われるふざけきったコーラスが飛び出し、まさにこの時期の自由なビーチボーイズを開始数秒にして体感できる。メロディ自体はオリジナルというよりも民謡の替え歌色が強いが、マイクのやる気が感じられないボーカルが妙にハマっていて楽しい。長くもないいかにもな音色のギターソロを越えて最後のワンコーラスを歌って終わると1分半足らずという、いい具合に投げやりな小気味よさだけがさっと駆け抜けていく曲だ。何気に、既にリードボーカルの裏で全然違うメロディのコーラスでオブリを入れる手法(ビーチボーイズ最大の武器)がかなりのレベルで完成していたりもする。

04. Chug-A-Lug
 このアルバムはホントにテンポが変わらない。この勢い一発な感じがこのアルバムのテキトーで気楽な雰囲気を作っているのかもしれない。
 サビ部でマイクの低音ボーカルが、高音コーラスと対位的な方法で用いられていて、この曲ではまだユニークさの表現的な色が強いが、これも後々ビーチボーイズが数あるコーラスグループとも異なる個性的なコーラスワークにおける重要な武器となる。あと、そのサビでまた『Surfin' Safari』メソッドのリズムが聴ける。

05. Little Girl (You're My Miss America)
 テンポは今までと変わらないが、ここに来てオールディーズポップスのような甘いメロディがやっと登場する。それもそのはず実際にそういう時代の曲のカバー。ここではドラム担当でウイルソン3兄弟の次男デニス・ウイルソンがボーカルを取っていく。彼は後々ビーチボーイズメンバーで唯一の破滅型ロックンローラー的な人生を地でいく人物で、次第に枯れまくっていく声と優れた自作曲で独自の魅力を有するミュージシャンに変貌していくが、この頃はまだバタバタしたドラムがチャーミングなバンド1のイケメン的なポジション。そして声もビックリするくらい甘い。3兄弟は3人ともめっちゃ美声という、凄い連中だ。
 低音コーラスで曲にハリをつけるマイクの声が印象的な他は、カバーということもありとりたてて言うべきことは多くないが、今回のレビューで大いに参考にしている『THE BEACH BOYS COMPLETE』において「デニスのシンガー人生はは結局「青目の女の子」の歌で始まり「青目の女性」の歌で終わった」という記述には目から鱗が落ちた。

06. 409
 初期ビーチボーイズの音楽性“サーフィン&ホッドロッド”の“ホッドロッド”の代表曲のひとつにして先駆け。そもそもサーフィン&ホッドロッドとは、当時のアメリカの若者の間で流行っていたサーフィンやホッドロッド
(詳しくは分からないけど要するにイカすクルマのこと)について歌うジャンルのことをそう呼ぶようになった訳で、このビーチボーイズの最初のアルバムにはしっかりどっちも入っていて、当時のヤングカルチャーの興隆に一役買ったんだろうなあ、と認識はしてるけどよく分かんない。この曲の歌詞は要するに「あのイカすクルマほしいぜ!」
 曲自体は、ブライアンと上でも挙げたゲイリー・アッシャーの共作。彼は初期ブライアンの重要な作曲パートナーのひとりでもある。車のSEなんかは分かりやすい装飾だけど、だが、その後に続く直線的でいい感じにスッカスカなビート・ギター等のアタック感がいきなりホッドロッドソングの典型みたいなサウンドになっている。少しけだるげに低いトーンで歌うマイクのリードと他メンバーのコーラスの追いかけっこは「当時最大限に軽薄化したロックンロール」という感じの快さがあり、単純に楽しい。未だにビーチボーイズのライブで演奏され続けている大事なレパートリーのひとつでもある。

07. Surfin'
 別にはじめっからサーフィンバンドだったわけでもない、そもそも当初はペンデルトーンズという名前のバンドだった彼らを、結果的にビーチボーイズという名前に変えてしまった、彼らの最初のサーフィンソングにして最初のヒット曲。『Surfin' Safari』よりも更に垢抜けない、より「田舎のあんちゃんがなんかサーフィンについてヘラヘラ歌ってる」って感じの気楽で罪のない曲だ。
 何を置いてもこの曲で一番のフックとなる、マイクの低音コーラスフレーズの能天気でテキトーな感じがインパクト強い。間違いなくこのフレーズが曲自体をしっかりとリードし、ヘナヘナな演奏をドライブさせている。今作中でリリースが最も早いからか、録音は最も荒く、ボーカルが特にキンキンしていて、あまりエッジはきつくないボーカルだと思ってたマイクの声がザラザラに聴こえて意外な感じがする。演奏もかなり軽い感じで、エレキギターのテケテケした音も聴こえない、その分より手作り感もあるサウンド。

08. Heads You Win-Tails I Lose
 上記の“例のリズム”を伴った所々のブレイクが印象的な、やはりアップテンポな曲。やたらハイハットの主張が強く、クラッシュ等も一切無しにずっと刻み続けるのは意外とストイックでかっこいい。アルバム全体にもいえるが、自然と強めのエコーがドラム含めてかかっているこの時代の録音は独特の良さある。
 曲としては、ペナペナ高音と低いささやきを使い分けるマイクのボーカルが他のコーラスを上手くリードしている。ギターのミュート気味のアタック感といい、アルバム中でもとりわけ垢抜けた感じに聴こえる。

09. Summertime Blues
 エディ・コクランの歴史に残るあの名曲をビーチボーイズもカバーしていた!と言えば聞こえだけは良さそうなトラック。今作におけるビーチボーイズの演奏面で弱さがとりわけショボい方向に出てしまった感じあって、タイトでキレのいいカッティングのリズム感が重要なこの曲において、なかなかにグダグダな演奏を見せている。特にドラムは、前曲のタイトなプレイがウソのようにフラフラもたつくようなプレイでかなり不安定。ギターソロもないアレンジで、コーラスワークも活躍の場が相当限定されていて、結果「自分で演奏するバンド」としてのビーチボーイズのいちばん脆い部分が出たトラックとなった。
 そのショボさから逆に「ローファイガレージロックの先駆け」と評されてるのを見た時はビックリした。ちなみに、ウイルソン3兄弟末っ子のカール・ウイルソンと、そして最初期ビーチボーイズにて少しだけバンドに在籍していたデヴィット・マークスによるボーカルらしい。カールにおいては後の素晴らし過ぎるボーカリストとしての姿はまだ見えてこない。

10. Cuckoo Clock
 今作でもとりわけ今後の所謂「初期ビーチボーイズ」な曲調、サウンドなのはこの曲なのでは、と思っている。歌自体はサビでカッコー時計のマネをするボーカルが入るノベルティ風味の曲ではあるが、そんな曲に似つかわしくないメインメロディの哀愁っぷりに、メロディーメイカーとしてのブライアンの才能の片鱗が現れていて、相変わらずの性急なテンポながらサビののんきさとの対比で引き締まった作曲になっている。再びなかなかにタイトなリズムを聴かせるドラム(フィルインもかなりかっこいい)といい、時計の針のチクタクをもじりながらも厚めに被さるコーラスといい、この曲は他の初期ビーチボーイズのアルバムに収録されても特に違和感なく聴けそうな気がする。バンドのポテンシャルが上手く現れた一曲。

11. Moon Dawg
 The Gamblersが1960年に発表した、世界初のサーフインストとも言われる楽曲のカバー。サーフィン・ミュージックの先人に対するリスペクトのように思えなくもないが、実際のところ原曲のプロデューサー(ニック・ベネット)が当時のビーチボーイズをプロデュースしていたことが選曲の理由らしい。なんとギターも原曲と同じ人間が弾いているらしく、当時のバンドの立場や、サーフィンミュージックを売り出したいレコード会社の都合等が透けて見える。
 ここで聴けるビーチボーイズの演奏は、ギター奏者が同じということもありかなり原曲どおり。ただ、原曲であったピアノをギターの刻みに置き換えてるので、よりDick Dale(サーフ・インスト界の元祖とも称される偉人)譲りのテケテケリバーブギターサウンドが展開されている。コーラスも入るが、これは割と原曲通り。所々に入る犬の鳴きまねに至ってはやってる人が原曲と一緒(ニック・ベネット。今作でも実質サウンドプロデュースはブライアンだったらしく、この人一体何やってんだ感ある)。

12. The Shift
 相変わらずのファストなテンポで2分弱を駆け抜けていくポップソング。この曲も今作より後の初期ビーチボーイズに近い曲調・コーラスワークで先駆的、というか後のアルバムの「シングルにはなってないファストテンポ曲」のスタイルは殆ど出来上がっている。ちょっと不穏なギターのイントロから一気に始まり、フィルインもギターソロもバッチリ決まっておりなかなかかっこいいだけに、終盤コーラスの掛け合いが続いていく中で早々にフェードアウトしていくのはちょっと勿体無い感じも。

Bonus Track1. Cindy, Oh Cindy
 今作と同じセッションにて録音された曲のひとつ。この時期にしてはしっかりとメロディがポップスしている、と思ったらカバーだった。ファルセットを連発するブライアンだが、まだ後々の爽やかさや美しさよりも楽しみやおかしみが勝ってる印象。テンポはしっかりアルバムと同じ色に染まっている。ややギターのアタック感が抑え気味なのは今作より後の作品寄りかも。

Bonus Track2. Land Ahoy
 今作のアウトテイクとなってしまった曲(『Surfin'』が収録されることが決まり代わりにボツになったらしい。仮にも最初のヒット曲であるトラックをアルバムに入れない案もあったのか…)。どこまでいっても今作のテンポは安定してファストであることを証明する、軽快な楽曲。特にサビのタイトルコール的なフレーズはかなりの脱力具合で、テンポの速さを感じさせず、マイクボーカルのヘンテコな魅力を感じさせる。アンタ全然クールじゃねえよ変だよ…しかしそこがいい。バッキングのトローンとしたカッティングのギターものんびり風味。そして1分半ちょっとであっさりと終わってしまう。

 The Beach Boysの最初のアルバム。オリジナルアルバムは25分程度しかないけれど、彼らにとっては割と普通の長さである(実はかの有名な『Pet Sounds』はあれで彼らのオリジナルアルバムでも収録時間が長いほうである)。
 今まで色々書いてはきたが、正直な話、ビーチボーイズの最初のアルバムだから聴かれている作品という度合いは小さくない。演奏、コーラスワーク、楽曲どれもまだ始まったばかりという感じの、それも自分たちがすごい原石だということさえ気づいていないかのようなのんきなムードがアルバム全体を覆っている。まだ「カリフォルニア州ホーソーンなる郊外の若者たちによる楽しい音楽」といった具合で、彼らがアメリカを代表するロックバンドになるのは先の話(とは言ってもこの作品の直後に『Surfin' USA』の大ヒットが控えている訳だけど)。
 しかしどうだろう。今は2015年ではあるが、このアルバムを凄い昔の作品だとあまり思わない感じがしてしまうのは、ゼロ年代中盤以降のUSインディー、いわゆるピッチフォーク系の線の細い感じのバンドと、スピード感とかメロディーの感覚とかで共通するところが感じられるからだろうか。つまり、初期ビーチボーイズは近年のUSインディーバンドに何度目かの“再発見”をされたが、そのインディーバンドたちの直線的で性急なビートに、今作におけるデニス・ウイルソンのドラムのフィーリングを感じることは出来ないだろうか。もしそのインディーバンドたちがホントに物好きだったとしたら、USインディーのある時期ある界隈においては、デニス・ウイルソンこそが最新のビートだったのではないか(流石に言い過ぎて故人から天罰が下りそうな気がしてきたぞ)。
 何にせよ、意外と波乱と混乱と失意に満ちまくったビーチボーイズの歴史において、今作にこそ一番平和でお気楽なムードが漂っていることは間違いなさそう。そのムードは、もしかしてホントに今作にしかない貴重なものではないだろうか。ブライアンまだ20歳。後にアメリカのロックもポップスもサイケも背負いぶっ倒れておじいちゃんになる男の、まだ嵐の前の時代(当時まだフィル・スペクタービートルズもいなかった)を切り取った、無邪気で自然体な青春の一枚(歌詞はサーフミュージック売り出しのために色々考えられているだろうが、それも含めて)。美しくて胸が痛くなるようなロマンチックな瞬間がまるでなくて、かわりにしょーもないユーモアばかりがあることも含めて、本当にリアルな青春がここにはあるのかもしれない。

 あと、収録曲12曲中9曲がオリジナル曲というのは、当時のバンドのデビューアルバムとしては異様だということも付け加わる。ビートルズで8曲/14曲、ストーンズ3曲/12曲、65年デビューのザ・フーで9曲/12曲であることを考えると、何気に凄いオリジナル指向だ。しかも今作のリリースされたのはビートルズがやっと『Love Me Do』でデビューした頃。
 ただ、こういった歴史的考証をもって「この作品はすごい!」と言ったところで、実際の音が変わる訳でもないし、これからのレビューは、極力こういった「歴史のお勉強」的な話は脇に置く程度にしようと思います。

「BLUE GHOST TOUR FINAL 元気にさよなら」昆虫キッズ

 行ってきました東京は渋谷、クアトロ。はじめて入りました。
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感想書くの遅れに遅れて、ご本人の方からこんな記事まで投稿されてますが…。DVD、出るのか…!

あえていつもの書き方で書いてみよう。
※あくまで『BLUE GHOST』ツアーから観始めたファンの感想です。
以下、敬称略。

1. Alain Delon
 今回の昆虫キッズのツアーの出囃子はBruce Springsteen『Born To Run』だったらしく、自分が行った京都や福岡でのライブでも聴いたあの力強くもキラキラした演奏が会場の暗転の後に鳴り響き、昆虫キッズのワンマンライブが始まった。ドラム・佐久間裕太だけが登場し、ドラムに座り試し打ちも早々に、強烈な乱打、昆虫キッズ特有の爆発的なジャングルビート。会場にいた人の少なくない数が「あ、これが1曲目かあ」と膝を打ったかもしれない。
 怒濤のドラムソロの繰り返しの中他メンバー、ベース・のもとなつよ、ギター・冷牟田敬が登場、そして少し遅れて、高橋翔。サングラスをかけている。そういえばこの前広島で観たシャムキャッツの時夏目知幸もかけてたなあ。みんなしてロックンロール背負うぜ!って感じ?違うか。むしろDeerhunterのフラッドフォード・コックスのここ数年のロックンロール指向をブラッドフォード大好き芸人である高橋翔がマネしての前のきのこヘアーからの転身、という可能性ががが…。
 高橋翔がギターをかき鳴らし、いよいよ曲が始まる。歌いだしの歌詞。
さよならの言葉に手をかけ震えだす心は
 忘れずあの箱に閉まってそしたら溢れ出す宿命

開演前に前説で現れたスカート澤部渡が言った「今日はただのワンマンライブですから、最高にかっこいいバンドが最高にかっこいいライブをするんです」という感じのことを考える。喉の調子が最悪な状況だという高橋さんのライブ前数日のツイートを心配していたけれど、聞こえてきた声はちゃんとしっかりと相変わらずの高橋節。
 ワン・コード押しの上ものにベースで変化をつける手法を、彼らもよく使用する。その上でこの曲の基調となるコードの響きは曖昧で、そこにくっきりと輪郭をつけるベースラインと彩りを与えるピアノの響きが素晴らしい。一気に駆け抜けていく。バンド史上最高クラスの長丁場となっただろうライブが始まった。

2. Metropolis
 アルバム『BLUE GHOST』のメンバーによる解説動画にて「非常に二曲目っぽい感じ」というコメントがあったこの曲はアルバムにおいて実に「一曲目がしっかりした曲のアルバムの場合の二曲目っぽさ」を発揮しており、そして幾つかの公演のセットリストを観る限り、おそらく今回のアルバムツアーで常に2曲目に演奏されているだろう曲でもある。つまり二曲目としての貫禄がどっしりと乗っかった、堂々とした二曲目。歌詞の通り爽やかに(しかし完全に明るいキラキラ感とも違う)進行しながらも、唯一ぐっと加熱するCメロで魅せるバンドの勢い。とてもスムーズだ。
 この曲を始める前になにかMCをしていた気がする(「今年もよろしく」などと言っていた。このテキトーさ!)。サングラスはもう外していた。早過ぎて意味が分からない。単純に邪魔だったんかな。

3. ブルーブル
 スピード感ある曲の繋ぎ。彼らが時にナンバガフォローワーと見なされ、本人もその敬意を隠さない程の勢い。今回のツアーからしか昆虫キッズのライブを観たことのない自分にはこの彼らの1stアルバムからの曲の経歴というか、ライブでどう進化していったかとかそういうのがよく分からないところはあるけれども、それでもこの曲の勢いが尋常じゃないことは分かる。性急にかつ独特の詰まり方をするAメロから、サビで下から一気にしゃくりあげるような高橋翔のボーカル、それに追随していくのもと・冷牟田のコーラス。おいおいここにはナンバーガールスーパーカーもいるぜ。どっちも興味を持つ頃には解散していて(スーパーカーはギリ間に合わなかった)ライブ観たことなんてないけど。

4. ASTRA
 この曲のイントロが鳴った瞬間の観客の、特に男ども歓声がとても印象深い(自分もその中のひとりなのだけど)。スタジオ音源ではトランペットが鳴るところの代わりに鳴らされる高橋翔のカッティングを皮切りに、まさに暴力的で爆発的で、イービルでカオティックな演奏が放たれる。猛々しくも刺々しいギター、鉄の塊を振り回すようなベース、そしてThis is 昆虫キッズのドラム!って感じのリズムキープバッチリに殆ど崩壊しきったドラムプレイ。一気にフロアの前の方で暴れだす奴らが増加し、ぼくも自衛のために揺らす身体を固くして、なんかぶつかってくるクソ野郎をはじき返す。クソ野郎は笑っている。クソみたいな笑顔をしている。それは横目で見ていても清々しい感じがした。
メリーゴーランド回らない この惑星で踊ってく
 哀しみ時代のネオディスコ

機能不全、なぜだ、その原因を究明して修正して“正しい暮らし”を目指すことこそこの社会に生きるひとりひとりがすることじゃないのか。うるせえボケ。ただただ狂騒すること、その甘味の程を知るや。

5. 主人公
 『ASTRA』の後はこの曲のシーケンスが鳴り響く、というのがアルバム『こおったゆめをとかすように』でもライブにおいても鉄板の流れである。『ASTRA』の狂騒はそのままシーケンスを通じてバトンタッチされ、そして叩き付けるリズムそのもののような演奏と歌が始まる。『ASTRA』が派手に破片を飛び散らせるような爆発なら、この曲は内部破裂を繰り返した後にサビで変な熱を発するような曲で、その微妙なグラデーションの違いがまた楽しい。
 確か高橋翔はこの曲のメロディの高音部がかすれてしまった。彼の喉の完全復活という奇跡は遂に起こらなかったことが判明していくが、バンドは一切ギアを緩めない。むしろより摩訶不思議なサウンドに飛び込んでいく。

6. 変だ、変だ、変だ
 この曲を最初に聴いた時のことを思い出してみる。「なんだこれは」。打ち込みのビートが反復して「エレポップ系の曲か」と思ったら、上モノはエコーがかったギターのニューウェービーでクネクネした音ばかり。そして歌もなんかクネクネしていて、それら合わせてみて、夜っぽい、けどメロウでスウィートな感じとも違う、なんだこの感覚は、っていう。
 その感覚は、ドラムパッドを併用してきちんとアルバム収録バージョン準拠で行われるライブにおいては、より増幅される。それは、この曲のキモである二本のメタリックなギターの絡みがより視覚的に理解されるからか、それともどう考えてもスタジオ音源よりも極端なディレイの掛け方によるものなのか。機械的なようで有機的、無感動的なようでエネルギッシュなそのせめぎ合いは、特に辛うじて一回目のサビっぽくなった箇所の直後からの、アルバム『BLUE GHOST』で数少ないのもとコーラスパートにおけるコズミックな展開で全開となる。その演奏は、どこまでも眩しく、かつ亡霊的。晩年のバンドが得た、妖艶さとこどもパンクSFっぽさが合わさった独特のフォルムが、ぶわーっと噴出されてともかく気持ちいい。

7. Night Blow
 確か前曲から続けてこの曲へ。タイトルに「夜」と入ってるだけあって、そもそも全体的に夜っぽい『BLUE〜』においてとりわけ夜なこの曲でこのライブは更に新しい輪郭を獲得する。ファンクともR&Bともつかぬ不思議なソリッドさに、やはり二本のギターの、エフェクトを的確に利かせたサウンドがうねる。特に高橋翔のギターは、シンセのような不思議な残響を伴って鳴る。少ない弦の鳴りで、どこまでも夜の雰囲気、SFの雰囲気。

8. 冥王星
 『変だ〜』からのギターのエコー等で繋げた流れの終着点。夜の黒さをそのまま宇宙の黒さに直結させてしまう、子供じみた妄想力で本当に宇宙の果てを描こうとするこの曲こそ、SFロマンの昆虫キッズの極北だ。いよいよ高まっていく二本のギターのエコーは、遂にこの曲の中心部で眩しいばかりの星空を描く。その想像力は囁きを繰り返す。
天文台からずっと見てたよ
かつて人工衛星になって一切の優しさとむなしさを見つめる歌をゆらゆら帝国が歌った。この曲も、似たようなものだけれど、立ち位置は違う。地球のどこかでも他の星からでも、そこには地面がある。人間は重力に魂を引かれてしまってるものだから妄想をするのじゃないか。そしてそれで、どこまでもを見通すことが出来たら。

9. 楽しい時間
 前曲までの壮大なスペースオペラごっこから、この曲で急に引き戻される世界、それこそが現実、日常だ。ギミックを極力排して単調に努める演奏と歌唱は、妄想やロマンを剥がしきった現実、日常の交差していく様をまじまじと見つめる。それは、もはやキッズではない目線だ、グロテスクな程に。

10. サマータイマー
 この曲でまたロマンチックモードの昆虫キッズ。二本のギターサウンドの妙にしても、先ほどの夜〜宇宙モードとは趣を異にする、より水中っぽさのあるサウンドが清涼感というか、スピッツと初期ナンバーガールを繋ぐような不思議な雰囲気がする。そこに、ドヤ顔と投げやりさが交錯する天丼歌詞がリズミカルに乗って、そしてかなり爽やかなこの曲に「そして僕のゲロとレター/置き去りのまま」というきったねえフレーズがサラリとベチャリと貼付けられる。
 この曲のライブでの醍醐味は二回目のAメロ。音源では全部高橋翔が歌い上げるところをのもと・冷牟田コーラスが追いかける形になり、とてもバンドっぽさが出ていて美しい。このツアー以降の特色なのかそれ以前からなのかよく分からないがとにかくディレイ過剰気味な冷牟田ギターも曲のキラキラさを際立たせていた。

11. COMA
 前曲に続いて夏シリーズ。爽やかさそのものな前曲と打って変わって随分翳りを帯びた雰囲気に、リリース時期の違いというものを感じる。景色が広がるような、不思議で曖昧な調性は共通。
 この曲のメロディの優雅さに、バンドのソングライティングの変遷を強く感じる。記憶とかノスタルジーとかを大事にするバンドの、最も穏やかで鮮やかな映像の広がるこの曲は、ライブで淡々と演奏され特に盛り上がる訳でもないが、観ていて気持ちがスーッとなってとても好きだ。

12. わいわいワールド
 イントロの寂れたリゾート地っぽさが特徴的なこの曲のサビで、遂に高橋翔の歌が出なくなった。所々で顔をマイクから背ける表情に、このライブのそもそもの条件とはまた別ごとの壮絶さが現れ始める。それでも演奏は力強く、『My Final Fantasy』収録時からの積み重ねを感じさせた。ぼくはライブでこの曲を聴くのがはじめてで、ライブ終わって音源聴いた時のギャップを覚えている(音源には音源の良さがあるけど)。
 曲が終わって、高橋翔が突如ひとりでギターを弾きながらこの曲のサビを歌いだす。どうしたんだろう、と思ったら「さっきは歌えてなくて、この曲のこの部分を楽しみに来てる人もいると思ったから」という。彼の時に複雑で時にストレートな誠実さがあった。本当は歌えなかった曲全部歌い直したかったんだろうか。

13. アメリ
 えらくハードロック的な重い音で鳴らされたこの曲のイントロで、このバンドのライブにおける遊び心をまた垣間見る。この曲もライブでは初見で、音源の途中国家の挿入のとこどうするんだろう、と思ってたら、ブレイクしたあとすぐ華麗に再スタートした。なるほど。『Text』の曲はピアノの曲が多い。
 この曲もサビのメロディが高く、高橋翔はかなり苦戦していた。「歌えないくせにやたらキーが高い」という本人による自己分析。しかしそこのえぐり出すようなギリギリさこそが間違いなく昆虫キッズの魅力のひとつ。

14. Miss Heart
 前曲に引き続きピアノの入る曲。だけどしかし曲の表情は前曲とまるで違う。攻撃性は一気に立ち消え、最新ミニアルバムの冒頭を飾るこの曲には昆虫キッズの“やさしさ”(≒寂しさ)がパッと花開いている。片手をポケットにつっこんだままもう片手でだけピアノを弾く冷牟田。この曲のピアノそんなにシンプルだったのか。シンプルなのにとても優雅なラインを描くピアノと、アウトロののもとコーラスで、“今”の昆虫キッズだからこその“どこまでも行ける”感じが鮮やかに現れていた。

15. 象の街
 最新作からの曲が続く。「初披露時イントロのあまりの暗さで客席から笑いが起こった」というエピソードさえ持つこの曲、ホントに謎の辛気臭さがあって、その出所がまるで不明な感じが不思議。深いギターエコーの森の中、高橋翔のボーカルだけが怪しくも鋭い。そしてやがてそのエコーが他の演奏とともにどんどんと膨らんでいくクライマックスは、音源よりも遥かに長く続き、ノイズをギュルギュルいわせるのとも異なる、不思議な轟音を作り上げていく。そのギターのエコーは、他の楽器が演奏を終えてからも鳴り続け、そのまま次の曲へと繋がっていく。

16. 27歳
 前曲とこの曲の辺りが完全にこのライブの最深部だったろう。前曲のズブズブと沈んでいくようなエコーの底から、この曲の最初のギターがつま弾かれる。ライブにおけるこの曲の、アルバム音源とかけ離れたダブで幻想的なアレンジ(かなり前からこのスタイルだったっぽいけど、いつからなんだろう)。高橋翔の呻くようなボーカリゼーション、虚無の闇に反響して消えていくギターディレイ、柔らかな緊張感の中飛び交うシュールな歌詞。
心に張り付くタニシ それを見つめてる女の子の子
ダブな音空間の中を、どこまでも沈んで溶解していくような演奏。サビのメンバーごとのシャウトともつかない歌唱が、大して意味もないはずなのに聴いててとても寂しくなっていく。バンドは、この曲によって最も深くへ潜り、そしてここから、一気に駆け上がっていく。

17. WIDE
 本編終盤戦の始まりにして、このライブで最も4人のエネルギーが詰まりに詰まっては爆発した演奏となった。元々、活動終了を決めてから作るようなタイプの曲とは思えない、殆どバンドの掛け合いのみによって成立するようなこの曲。しかしこのライブでの熱量はそれを遥かに凌駕する。
 何を置いてもギター。もの凄い音量、もの凄いエコーの掛け方で鳴らされるそれは、ギタリストとしての冷牟田敬のベストプレイではないか。テレキャスターをほぼ垂直に構えて、全身で弦を振動させるその姿は、何かに取り憑かれてるようでさえあった。その音の眩しさが忘れられない。
 途中、二人のギタリストが微妙に異なるフレーズで掛け合うところのエネルギーをどこまでもチャージしていく感じから、そしてビートがストレートになってからの、最早フレーズとは言えない、何もかもを纏って突進していくようなギタープレイ。「氷を溶かせ」と連呼しまくる高橋翔。
 クアトロのステージは、無数のライトに囲まれた形になっている。それらに照らされるバンドの姿はどこでもとても美しかったけれど、この曲においてはもはやそのライトさえ置いてけぼりで、バンドそのものが発光していたとしか思えなかった。ヒューズが幾らでも弾け飛びそうなほどの熱量を、とても鮮やかに表出できるバンド・昆虫キッズの神髄の、最新形の最終形。

18. いつだって
 勢いは続く。ピアノを伴ってやはり鮮やかでかつナンバガ的なザラザラジャキジャキ感も伴って始まるこの曲は、しかしライブでは唐突なテンポチェンジで謎停滞感をバラ撒いて、そしてまた元の疾走テンポに戻る。この、少しじらしてからの疾走感も快いところ。
 スタジオ音源では「レレレレモンの」と歌うところをライブでは「ラリルレモンの」と歌う。こういう微妙に気が利いているようなそうでもないところも面白い。
 最後のサビ(?)の箇所で曲は終わらず、そのまま『まちのひかり』に雪崩れ込む。彼らのライブ特有の鉄板の流れ。

19. まちのひかり
 いまだに彼らの一番の代表曲と言えばこれになるのだろうか。音源では入っていたフルートがライブではなく、かといってピアノが代わりにフレーズを弾くようなこともないため、ライブでのこの曲の演奏は非常にアタック感が強調された形となる。しかしそれでも、全然グイグイくるのは、単純にソングライティングの良さと、あと演奏の勢いによるものか。
 前曲からのダイレクト接続によって前曲のザラザラ感からパッとこの曲の少し洒落た雰囲気になる流れが素晴らしい。そして音源よりも遥かに音程と魅せ方が洗練されたボーカル。“今”のエモーションみたいなのが入った節回しはライブならではの臨場感がある。間奏、フルートがないからホントにアタック感だけのシンプルな間奏、そこに入る一拍のブレイクのスカッとした爽やかさ。そして最後の「ひかり」連呼の朴訥さ。
 昔からのファンにおいては、この曲に積もった思いの程は相当なものだろう。ぼくも新参だけども、この曲の不思議で複雑な爽やかさと勢いがとても好きで、そして、それをこのように観れる最後の時間なんだってことを思った。

20. 街は水飴
 音源ではかなりオーソドックスなバンド演奏以外の比重が高いこの曲も、ライブでは冷牟田ギターが加わり(しかしながら同時にピアノも鳴っていた。サポートでカメラ=万年筆の佐藤優介が弾いていた?ステージ袖で弾いてたらしく、ライブ中は見えなかった…)、轟音ポップナンバーとなる。この曲の場合、轟音の核は佐久間ドラムである。ともかくシンバルを叩きまくり、キックを入れまくるサビは、『27歳』ほどではないにせよ別曲のような趣がある。
 しかしそれでも、変わらないのはこの曲のメロディ。どこか民謡みたいな感じがするのは、のもとコーラス部の「カモメや 囲えや」の箇所のせいかもしれない。ディレイ過剰なギターがまた、曲の世界観を強引かつ懸命に広げていく。

21. BLUE ME
 今回のライブはあくまでアルバム『BLUE GHOST』のレコ発ツアー最終日、ということになる。そこでこの、アルバムの核とも言えそうな、SFで静謐で宗教的なこの曲の登場となる。ツアー各地でのライブであまり演奏されてないような気もして、調べてみたらリリース直後のレコ発では演奏されていた。
 高橋翔がギターを置き、ハンドマイクで歌いだす。冷牟田ギターにはやはり深いエコーがかかっているが、この曲はその響きの長さが、ベースとともにより広く深い静寂を作り出す。
 高橋翔のボーカルが、喉が、ともかく壮絶だった。アルバム中でもとりわけ高いメロディが続くこの曲で、彼は何度もマイクの前でうなだれ、食いしばり、そして歌えた場面、歌えなかった場面。音源ではなかった(多分)のもとコーラスが重なるときの安心感を突き抜けて、瀕死の絶唱をする。
青の向こう側/青の向こう側/変な街の中で怯えていた
 Blooming/咲いている/Blooming/咲いている/哀しみの行き先を

高橋翔は業の深い男だと思った。ロックンロールが時折背負わせてきたタイプのやつだ。ひとときも目を離すことができなかった。ぼくたちは、ロックスターの痛ましい姿を観に来たのだ。そして、こんな過小だったからこそ、聴いて受けた感傷の深さもまたとんでもなくなってしまった。音楽を、ロック音楽をするとはどういうことなのか。あの姿をずっと忘れない。

22. FULL COLOR
 前曲の“忘却の彼方”感をギターノイズごと継承してこの曲が始まる。おそらく、ツアーすべての公演で本編ラストをつとめたこの曲。『BLUE GHOST』以降の“2人のスペーシーなギターの絡み”路線に『変だ〜』と共に先鞭を付けた曲。
 Deerhunterを咀嚼しまくった結果ニューウェーブみたいになってしまったかのような、冷たく澄んだ2本のギターの音が、水滴を垂らすように響く。夜空のような、宇宙のような、どこでもないような…そんなアルバムの世界観を、もしかしたらアルバム外から支えていたのかもしれない。
 そして展開。無数のライトが照射するような輝き。それは所謂“太陽さん”が作り出すものとはまったく性質を異にする眩しさ。その眩しさの中で、高橋翔はふりしぼる。
街は変わるけど/いつもフルカラーで/僕も変わるけど/手を振るからで
 最後、イントロに戻って曲が終わり、終わらない。エコーしたギターノイズが、どこまでも広がって、続いていく。楽器を置き、順番にステージ袖に消えていくメンバーたち。そして、ひとりその場にうずくまり、エフェクターを弄りノイズを操ろうとする高橋翔。そのノイズの響く時間は長く、無限に続くかのように思えた。しばらくして、彼はボリュームをゆっくりと下げはじめ、そして最後はまるで自分の胸にそれを収めるかのように見えた。立ち上がり、客席に礼をして立ち去る。本編は、終わってしまった。

en1. BIRD
 アンコールが始まる。
「昆虫キッズのライブはアンコールからが本番だよね」的なMC。最後のアンコール、という寂しさを、どうにかして紛らわさずにはいられない。ベースがメロディをなぞる。昆虫キッズ最後のライブ告知として使用されたこの曲、のイントロ。
 ぼくはこの曲が本当に好きだ。フォーキーでかつ持続音の多いコードバッキングは優しく、そこに寄り添うリードギターのリフは陽光が降り注ぐようだ。その陽光には、ディレイがたっぷり掛けられてより眩しい。この曲のサビも、高橋翔の歌唱は苦しそうだった(アンコールまでの間に喉が回復する、といった奇跡は起こらなかった)けれど、それでもこの曲は曲名の通り、スコーンと飛んでいく。

en2. シンデレラ
 この曲のギターコードが鳴った瞬間の歓声。初期からの重要なレパートリーのひとつにして、冷牟田敬完全ギターボーカルの一曲。彼の高橋翔とも異なるけだるげなボーカルが、しかし意外とドラマチックなこの曲のメロディを歌う時、特にサビでメロディにアドリブ的に変化を付けるときの情感が好きだ。それは、このライブでもしっかり発揮された。
 この曲中間部、のもとボーカルと他の男連中の掛け合いの箇所がある。ここで自然発生的に起こったコールアンドレスポンスの、楽しいこと。本人が「この曲でこんなコールアンドレスポンスが起こるのはじめて」と後に話していた通り、この、元々はコールアンドレスポンスのパロディ的なギミックとして曲に含まれていた感のあるセクションは、このライブの終盤を楽しく盛り上げる、素敵な役割を遂げた。

en3. GOOD LUCK
 アルバム冒頭の曲が、こんなクライマックスに来るとは思ってなかった。この曲の、どこまでもしっかりと王道感のある感傷的なサウンドが好きだ。高橋翔も、この曲で唯一音が高いサビの一部分を根性で歌う。アウトロのコーラスが、ずっとずっと続けばいいのにと思った。

en4. 恋人たち
「最後に『恋人たち』という曲をやって終わります。ダイブとかするかもなので、そのまま渋谷駅まで送ってってください」
 アンコールの最後に『まちのひかり』と並ぶ初期の代表曲を。この曲も、ピアノを伴った爽やかさと、ちょっとしたパーティー感が魅力な曲だけど、4人でストイックに演奏すると、どこまでもパワフルに響く。特に佐久間ドラム、キックのリキの入り方が違う。最後の最後に、戦車で押し潰すかのようなグルーヴ。もの凄い体力だ。
 曲の終盤で、やりきったとばかりに高橋翔が客席にダイブ。そのまま観客の上を流れていく。笑う高橋翔、やはり笑う観客たち、そしてステージで演奏を続けながらも笑う他メンバーたち。元気にさよなら、なんて言っていいのか分からないけど、あの光景は多少なりとも、そういうことだったのかもしれない。


en1. 裸足の兵隊
 客電が点く。しかし終わらないのは分かっていた。だってまだ演ってほしい曲がたくさんある。たくさんあるけれども、少なくとも1曲だけ、演らない訳がない曲がある、そう思って、それでも必死に手を叩く。
 3たび現れた昆虫キッズ。最後に演奏されたこの曲の、バッキバキのプレイ。すべての音が、本当にバッキバキだった。のもとベースのこの曲サビでのバキっと駆け上がるフレーズはエッジが利いていて、佐久間ドラムはあい変わらず高機動でバツバツンなプレイ、そしてソロでそれらをすべて聴こえなくする程の大音量の冷牟田ギターの、殆ど絶叫のようなソロプレイ。
 高橋翔。出ない声さえどこからか出す。そして最後に4回繰り返す。
海に行こう/見に行こう/なにか大きなものを見に行こう
そうだ。分かるようで分からない、ピンからキリまでの言葉の羅列や連なりも、基本破滅的なトーンを有しながらも広がりと温もりも有したサウンドも、どこまでもクールに死にもの狂いなスタンスも、すべては「なにか大きなものを見に」行くためにあったような。それは絶望でも、希望でも、なんでもないものでもある。最後、曲終わりの轟音を何度も何度もキメを入れながら繰り返す様は、バンドを惜しむ気持ちも、楽しむ気持ちも、誇らしげな気持ちも、憔悴しきった気持ちも、何もかも入っているし、何も入っていない。最後のギターノイズ等の残響が消えたとき、昆虫キッズとかいうバンドは活動を終了した。

 何度も何度も礼をして、ステージ袖に引っ込む。しかし客席からのアンコール希望の手打ちはやまない。遂に4たびステージに現れたメンバーたち。更に何度も何度も礼をしたり、かと思えば写真を撮るよう要求したり、「こんな変なバンド他にいないよ!」というコメントが出たりして、そして観客の不思議な祝福ムード。ある意味で「元気にさよなら」というテーマを客にもバンドにも強いた、このバンド最後の長時間のワンマンライブは、しかしその目的を、達成したのではないか。27曲、3時間をゆうに越える超長時間のライブの果てに、疲れきっていながらも笑顔の高橋翔がいた。その場に広がる不思議な多幸感と、「販売予定だったパーカーは間に合わなかったので後日ホームページにて販売します」のアナウンスなどのせいか、ひとつのバンドが終わったような空気がまるでなかった。人生初の解散ライブだったからその雰囲気を感じ取れなかっただけかもしれないけれど、でも、これを書いている今でさえ、なんだろう、活動終了という実感が湧かないのは、とても不思議な気分だ。とても不思議な気分のまま、1月を過ごして、これを書いている。

 あれを演ってない、これを演ってほしかった、という気持ちが全くない訳ではない(『太陽さん』は結局ライブで観れなかった)。だけど、それはもっと早くからこのバンドに興味を持てなかった自分のアレさのせいだ。それでも、なんとか、この素敵なライブに間に合った。そのことがとても嬉しくて、誇らしい気さえしてくる。
 昆虫キッズというビッグなロマンは消え去ったらしいが、その構成員は消えていった訳ではない。別バンドがある3人はその活動を当然継続する。そしてそういうのが無い高橋翔が、上記のnoteにおけるインタビューにてソロの活動を既に表明している(「これから、"ELMER"って名前でなんかはじめます。」とのこと。これででも実際始まったら全然別の名前だったりするかもしれないからこっちも適当に待っていよう)。それに今回の解散が致命的に袂を分かつ必要性からきた仲違いではなさそうなことも(とりあえず表向きはそうは見えない)、「もしかしたら…」を期待してしまうところ。
 ともかく、最高にエキサイティングで、ロマンチックで、壮絶で、支離滅裂で、かっこいいロックバンドだ。これからもずっと聴いていくでしょう。本当にありがとう昆虫キッズ。今年も、そして今後もよろしくお願いします。DVD待ってます。kontyukids.jpg

2014年の個人的フェイバリット・モア10ソングス+α

 2015年になりました。今年もよろしくお願いします。

 2014年の音楽の個人的なまとめ、最後は前述の30枚から漏れてるけど、欠かすことが出来ないと感じたモア10曲のレビュー+αです。曲の方は殆ど邦楽で、今年全然洋楽チェックしてないのすぐ分かるラインナップ。

 曲名に試聴用リンク貼ってます。1曲だけ見つからなくて別の曲貼ったけど。番号は構成の都合で並べてるだけなので優劣は無いです。



1. 彼氏になって優しくなって/岡村靖幸
 プリンスの新作が素晴らしいんだって言うけど、頭の中で爆音で岡村ちゃんが鳴ってるから聞こえねえよ!って言いたくなる曲が、つまり決定打が、遂に年の終わり頃にリリースされた。本人作詞作曲編曲あと自撮りとかまで、どこを切っても岡村汁100%、岡村靖幸のジェントルさも滲み出るいかがわしさも詰め込んだ、キメッキメのどファンクチューン。
彼氏になって/優しくなって/しなやかなキッスしたい
 魂がそっと/震えるような/恋は瞬発筋でスマイルしちゃうんだぜ Baby

出だしからバッキバキの粘りっこい岡村節で歌われる靖幸ちゃん語。今年出た他のシングルが悪いという訳ではないけれど、この言葉が意味を越えて身体に来る感じはまさに本人作詞の、しかも絶好調なやつ!そう、愛も恋も、流星も通り抜けて、このヒクいところにボディブローカマされるような音と歌唱とフェイクでよろめくように踊れ「ただし 絶対常識の 範囲以内でね」なんてキュートかつ「本当…?実はキメてない…?」な怪しい文句を携えて。あっ今更過ぎるけど今回の活動再開後リリースされた『エチケット』ってそういう…このままアルバムまでバッキバキでお願いします!

2. I Love You Only When You're Cute/Juvenile Juvenile
 関西インディーシーンが何故か多数抱える英語詞ギターポップバンドのひとつ、Juvenile Juvenileの今年リリースされた1stアルバムの2曲目にて、まさにキラーチューン然としたキャッチーさを有した名曲。
 開始0.01秒で「あ…これはいいな」って思えるポップでキャッチーなギターの澄み切ったフレーズ、そしてそのフレーズの勢いのままに爽やかに疾走・展開していく曲のスムーズさ、サビの男女混成ボーカルになり素晴らしくキラキラしたサウンド、間奏の蒼く凛々しいギターソロ、バタバタ具合に80年代ネオアコっぽさが滲むドラムetc…どれを取っても最高のギターポップサウンド。思わず口ずさんでしまうタイトルからも感じられる歌詞の、繊細だけど結構身勝手な男の子具合も含めて、彼らの少年性がスパーっと表現された1曲。
 メンバーのうち二人はWallflowerというバンドもやっており、こちらの方がよりネオアコ感のあるサウンドを展開している。POST MODERN TEAMがNINGENCLUBのメンバーのソロだったり、この辺の人たちは芸達者だと思う。

3. You Couldn't Do So Much Better/Hearsays
 こちらは福岡の音楽シーンが、そしてDead Fuuny Recordsが誇る女の子ボーカルのギターポップバンド、Hearsays。この曲の収録されたCD『In Our Time』は2014年リリースだが、その収録曲は1曲を除いて2013年リリースのカセット『A Little Bird Told Me』収録曲の再リリースで、この曲もそのうちの1曲なので“今年リリースの曲”と言えるか微妙ではあるけれど…。
 女の子ボーカルのギターポップと言えば、今はHomecomingsの名前が真っ先に挙げられるだろう(彼女らよりHearsaysのカセットの方がリリース早いからパクりじゃないですよ)。似たところはあるが、Hearsaysのサウンドの特徴はそのルーツがよりオルタナ寄り、PixiesやThe Breeders等の90sUSインディーなところ(実際にライブでカバーを演奏している)。その感じが最も分かりやすいこの曲は、「作るときスマパンを思い浮かべた」と本人から正直なところを聞いたけど、そのどっしりサウンドが可憐なボーカルとドラマチックなコード進行でマッチした曲で、終盤少しの間だけエモくなるギターも含めてとりわけグッとくる曲。
 ちなみに、レーベルのお膝元で活動するバンドだからか、やたら凄いメンツと対バンしていることも特徴。同じ福岡シーンの重鎮folk enoughや今作の録音・ミックス等を担当したKensei Ogataは当然として、他の名だたるところを挙げれば、Someone Still Loves You Boris Yeltsin、ROTH BART BARON、Juvenile Juvenile、王舟、そしてDeerfoof。同じ福岡なので、ぼくもしょっちゅう観てます。多分今年一番観た回数が多いバンド。

4. Greens And Blues/Pixies
 上記バンドもお手本にしているその本家本元Pixiesの、再結成後何年も経った2014年遂に新作アルバムがリリースされた。再結成後のバンドを追ったドキュメンタリーのあまりハッピーではなさそうな緊張感ある雰囲気や、実際に再結成後二度に渡ってベーシストが交代してしまったことなどから、バンドが決して“ハッピーなヴァイヴに満ちてる”的なモードじゃないのは明らかだった。それに、誰もが今の彼らに「シーンを牽引するような新しいサウンド」を求めるのが酷なことを分かっていた。果たして、リリースされた新アルバムも彼らの現役時代と比較しようの無い(プロダクションのレベルで当時と全然違うから無理もない。再結成バンドが抱える共通の問題)作品となった。
 そんな中、この曲だけは、やたら目立っていた。ふくよかでちょっとエモいグッドメロディと、アメリカンロック的などっしりした演奏がある、普通にとてもいい曲。ただし現役時代にここまであからさまにポップソングの構造をした曲は無かったし、そこにはどことなく「再結成記念で懐メロっぽい曲を捏造した」ような雰囲気すら漂っているような気がする。Ben Wattが純粋に自分の前作をアップデートさせた感があるのに対して、この曲はどこから湧いてきたのか分からない感じがある。
 しかし、純粋にいい曲だ。この曲に足りないものは何も無い。むしろ再結成Pixiesの哀愁が、リスナーの屈託が、サビのメロディで一気に舞い上がるような感じは、Pixies的ではない、らしくないタイプのロマンチックさがあるんじゃなかろうか。この大きさは、サマーソニックでのライブ時も高らかに響き渡り、他の曲の興奮とは違った、不思議な感動で幕張メッセの一角が包まれていた。たとえば優しさとは、こういうものじゃないかしら、とか思ったりした。

5. 闇をひとつまみ/HiGE
 日本屈指のオルタナティブロックバンド、HiGEの10周年は、ハッピーさよりも、通年の痛みを引き摺ったまま辿り着いたような、少しシリアスなトーンの下訪れた。2014年はじめにオリジナルメンバーだったドラマー・フィリポが脱退して、4人+サポートという体勢になったHiGEの10周年ライブを観たが、お祝いムードよりもむしろ「色々あった結果、今の髭はこういうモードなんです!」というのが色濃く表出されたライブで、具体的には、メロディアスな新曲はどこまでもジェントルでメロウ、そうでない曲は徹底してリズムオリエンテッドクラウドロック的なミニマルさにバンドの個性の鮮烈なところを溶かし込んでいったような印象だった(ベース宮川氏がベースを置いてシンセを繰る曲があった。今のHiGEはそこまでするのか…!と思った)。
 その経緯や傾向は、10周年記念でリリースされた3曲入りファンブック『素敵な闇』において文字でも音でも語られているが、そのメロウさと彼らの幻肢痛のような痛みの様は、この曲にまさに込められている。10周年の間に背負ったもの、失ったもの、それらを辛うじて「闇をひとつまみ」というファンタジーさに注ぎ、息も絶え絶えで闇の広がる眼前を見つめようとする詩情は、詩人としての須藤寿の、かつて無いレベルの作品となった。「みんなの想像の中で育っていく後期ビートルズ」的サウンドは優雅さを極め、ずっと同じメロディを繰り返すだけの曲にも関わらず、どこまでも優しさと強く結びついた寂しさを感じさせる。
数を数えた/確かなものの/数を数えた/夜の窓辺で
 誰にも通じない/こんな気持ちは/底に沈めた/闇をひとつまみ

 終盤に転調して以降は、歌い上げているのに彼のどのシャウトよりも壮絶さ・激しさを感じさえする。これは何かのエンドロールだろうか。違う。HiGEの次のアルバムはかつて無く鬼気迫ったものになる。そのためには、こんなにも美しくてもの悲しい地点から始めないといけないものなのか。楽しげでハッピーなロックバンドだったこともあったはずのHiGEは、もの凄い転機を静かに迎えている。

6. TELE○POTION/七尾旅人
 昔の天才宅録青年然とした姿はどこへやら、近年は弾き語り界の怪人として猛威を振るっていた七尾旅人が、しかしどうしたことか、初期のメロディアスさを持った曲を今年シングルリリースした。本人曰く「こういうタイプの曲も実はいつもちょっとだけ作っていて、出す機会が無かったけど今回たまたま機会があったので(この曲は映画の主題歌になっている)」とのこと。「この曲出してこういう需要があるのも分かったから、今後もこういう曲をたまに出せたらいいな」とも話していたはず。
 福岡晃子チャットモンチー)、石橋英子(ex PAANICSMILE)、あとネット上でみつけた平成生まれのギタリスト(!)+旅人(歌とアコギ)というメンツで録音されたこの曲は、思わずThe Cure『Boys Don't Cry』を思い浮かべそうな、軽快で勇敢な疾走ギターロック。『サーカスナイト』をはじめずっと大人っぽい歌うようになった最近の彼を知る人間の一人として、そのどストレートさに凄くビックリした。しかし、初期の彼の『雨に撃たえば』等の作品のようなカオスさもここにはなく、その代わり、どこまでも見晴らしのいいような雰囲気がある。それはまるで、歌の中の「絶望的にもどかしい距離感」と反比例するかのようだ。
逢いたい気持ちにはBABY/特効薬なんてないみたいで
 この街をつつむひかりの/どこが本当か/考えたりもして
 忘れがちな僕らはMAYBE/100年経ったら/思い出すの
 同じ夢をみたいのにBABY/東京は踊ってる

「とどかない」を連呼するCメロの痛々しさは、遠い国の大事件をきっかけに作られた一大カタストロフ絵巻『911 Fantasia』以降急速に社会と通じ合い、震災により更に多くの哀しみと声を受け止めものを語るようになり、朝日新聞の取材を受ける程になった今の彼としての社会的な視点もあるのだと思う。しかしそれと同時に、彼がデビューの頃からずっと持ってた、「あの娘を悲しみごと抱きしめてあげたい」という男の子的な気持ちも強く感じる。「君に会いにゆく」を連呼する曲の最終盤、それは、今の彼が持つ人々に訴えかけたい気持ち、彼はそれを“うた”と呼んでいるのではないか、それの深くこもった、決意のようなものだろうか。

7. 旅立つ彼女と古い背表紙/花澤香菜
 This is 沖井礼二!まさかのCymbalsの新曲がまた届けられた(違う)。
 普段声優のアルバムを聴く習慣が無い自分にとって、彼女の2枚組アルバム『25』という物量はなかなか集中して聴き通すことが出来ないものだけれど、垂れ流してる中でこの曲が流れた時は「あっこのイントロが終わって早々サビで加速してく、そしてやたらドラムが頭打ちを連発するやつはもしかして…」と思って、クレジットを調べたらやっぱり作曲:沖井礼二!そう思うとああ、あれもこれもCymbals!初期Cymbalsのシングル曲をプロダクション豪華にした感じの曲は、そりゃあいいに決まってる。
 どこまでも甘くってスカッとした沖井節全開声優ポップスとしては、竹達彩奈『Sinfonia! Sinfonia!!!』に続く作品となる(のか?)他にもさくら学院バトン部 Twinklestars『Dear Mr.Socrates』など、ちょくちょく初期Cymbals直球な曲をリリースする彼。この人のこういうタイプの曲で描く、濁りとがエグみとかが一切ないしきついハイの部分も全くカットって感じのメロディーのセンスは独特のものがあって、たとえばピチカートやそれ以降の小西康陽メロディーともかなり違う。「結局オレの曲聴く奴らはこういうのが一番好きだろ」的な開き直りも感じられるが個人的にまさにそうなのでぐうの音も出ない。素晴らしいのは、その澄み切ってガンガン畳み掛けるポップさがどこまでも幼可愛い女の子の声にフィットすることだ(逆に言えば、この路線でずっとやろうとするとずっと子供っぽい声と歌い方を維持しないといけないがバンドでそれをするのは半ば自殺行為的になってしまう、というところに後期Cymbalsの作風の変化や、その後の土岐麻子氏の歌の方向性が関係してくるのだろう。そういう意味では、彼の最もポップな部分の素質を活かすには、今のように若い娘のバックになるやり方が一番適しているのかもしれない)
 …沖井礼二の話しか殆どしていない。ちなみに花澤さんの歌で一番好きなのは未だに『恋愛サーキュレーション』老害です。こうやって聴くと当時の衝撃やらネットでの反響やら思い出します。物語シリーズのアニメ途中から観てないからいつかちゃんと観よう。

8. ブラッドピット/トリプルファイヤー
(動画が見当たらなかったので代わりに『スキルアップ』のPVです)
 トリプルファイヤーほど真面目に語る姿がどこまでもかっこ悪くなってしまうバンドもそういないだろう。だってあなたギャグを解説しますか?「ここでこういう普通とズレた返しがあって、そこに面白みが」なんてことを真面目な顔して言いますか?そう考えるとお笑いの分析・レビューって音楽とかマンガとかのレビューよりよっぽど大変そうだな、したくない…。
 「バンドがツアーでご当地名叫んで盛り上がることに対してのニヒリスティックな嘲笑と、相対主義の果ての悪平等に対する問題提起にならない程度のつぶやき」という感じの言葉にこの曲を押し込めるか。そんな野暮なことしたくない、したくないので、この曲の最後の歌詞の部分でちょくちょく自分がtwitterでやった大喜利を以下に貼付けます。

 曲自体はソリッド極まりなくていいですね。特に最後の「父さんもな〜」の繰り返し2回目でベースが入る辺りはそこしかない、って感じの良さある。

9. AFTER HOURS/シャムキャッツ
 シャムキャッツを30枚に入れるかどうかは最後まで迷った。多くの場所で「今年の東京インディーを代表する一作」と称されたアルバム『AFTER HOURS』は、確かに全体的に落ち着いた音像と曲で緩みがありながらも完成度に弛みは無く、そしてバンドの音も覚悟も、格別の成長が見られた作品となっている。
 引っかかったことの最たるものは、この曲の完成度の高さだった。アルバムに漂う「普通の生活に寄り添う歌」という要素の要が詰まったこの曲、淡々としたビートに抑制の利いたベースラインと、夢幻のように反響するギターサウンドが乗るこの曲のメロウさは、タイトルの通り、楽しさが過ぎ去った後の寂しさに捧げられている。
 単純に、日々のことを歌っただけの曲なのだと頭では分かってる。しかし、この曲を聴くとどうしても、それだけじゃないような気がして不安になる。それは、この曲が実は東京インディーの幕を引くような曲なのではないか、というものだ。実際にそう括られる本人達はきっとそんなことは思わない、そんな括り自体に苛ついているはずだから考えもしないだろう。だからこれは、シーンの外側にいる、東京インディーという風に見える界隈がすごく楽しそうなお祭りのようにさえ見えた人間の、大雑把な理解による誤解なのだ。けれど考えてしまう。正直シャムキャッツは東京インディー系のバンドでも最も元気にハチャメチャやってたイメージのバンド、というイメージだった(音楽自体はユルいと思うけど)。それが突然改まって、こんなチルアウト感に満ちた曲を発表して、その素晴らしさに聴き惚れながらも、どうしたんだ、解散なのか、とさえ思った。思ってたら、それは昆虫キッズの方だった。
 いやしかし、東京インディーの歴史を背負いまくったバンドの解散と、この曲の存在とで、ぼくのおせっかい過ぎる気持ちは余計に困惑している。ミュージックマガジンのベストアルバム評で、誰かが総評において「来年は東京インディー勢の更なる発展に期待」などと書いていて、ちょっと腹が立った。去年と今年の東京インディー勢のもの凄さを知っていれば、傍観者然とした無責任な言い方は控えるもののように思えた(いや、リスナーとしてはより素晴らしい作品、素晴らしいシーンを期待するのは正統な権利のようにも思えるけれど)。岡村詩野さんだけ「今のインディー界隈は本当にスゴい」と現状を伝える言葉を使われて、そこにより当事者的な感覚を見た。シャムキャッツはなくならない(来年ミニアルバムを出す予定らしい)。しかしこの記事を書いている数日後に昆虫キッズはなくなる。単純に、素晴らしいバンドは継続して頑張ってほしいしいい作品を出してほしい。
 ちなみにもうひとつ引っかかったのは先行リリース曲『MODEL』の歌詞の一節。
タモリがはしゃぎ下らなく午後が始まる頃
なんでや、いいともとMステのタモリそんなはしゃいでないやろ!いい加減にしてください!(「いいとも」が下らないと読めそうな気もしてそこも引っかかりそうだけど、よく読むと“下らない”のは登場人物の午後のことか、と思い直したのでこれは取り下げる。どっちにしろこの曲リリースの直後にいいとも終わっちゃって気の毒ではある)

10. 新世界交響楽/さよならポニーテール
 最強。
 2014年は、アニメは咲とあいまいみーと、そしてキルラキルしか観ませんでした。キルラキルは2013年10月からだけど、そのキルラキルの後期エンディングとしてこの曲のイントロが流れた瞬間はビビった。ガイナックス/トリガーは『トップをねらえ2』とか『パンティ&ストッキング』とか、時折ツルッツルに洗練されたポップソングを採用することがあるなその一曲か、と思って誰の歌かと思ったらさよポニ!満艦飾マコをフューチャーした映像もとことんファンタジックな可愛さを追求していて、本編とのギャップすげえなと思いながらも、物語のヒキや余韻を程々にイコライズする素晴らしいEDに、『廻るピングドラム』のCOTDを思い出したりもした。
 なんたってタイトルからして『新世界交響楽』。このこれまでのキャリアを経てババーン!と打ち出して浮き出していくような感じ、なんか『ワールズエンド・スーパーノヴァ』とかと同じノリを感じてそれだけで清々しい。
そうさ飛び立つ時だ/ふたりで立ち向かい
 抱えきれない臆病に/突っ張ったって笑っていたい
 ひとりきりずつが合わさって/大きなチカラになるよ/今ね、感じた

サビの歌詞にあるとおり、この曲は心ない人に言わせれば“アニメ的なセカイ系、優しいばっかりの甘ったれた歌”となってしまうかもしれない。そんなの好きに言わせとけばいい。このアニメだからこそ、ファンタジーだからこそのドラマチックでロマンチックで勇敢な感じを、枠にはめて貶す批評で「俺理知的でしょ」する材料くらいにしか考えられないお前と話すことなんか何も無い。
 しかしこの曲、フルで聴くと更に凄い。最後のサビ終わりからさらに飛翔していくメロディで彼女らはこう歌う。
きみと行くよこの世界の果てへ/そばにいるよなにがおきても
 空の向こうに眩しい予感がしたから/もう迷わない/心のまま駆け抜けて

PVではこの直前にキルラキル式フォントでタイトルコールが。不覚にもぼくは少し泣いてしまったよ。ポップソングにおける「世界の果て」というのは「思いの果て」「ロマンチックの果て」みたいな意味を持つと思うけれど、そこに向かおうとする気持ちというのは決まって蒼い気持ちがある。幼いままでどこまでも遠くまで行く、幼いからこそどこまでも遠くに行こうと思える、というフィーリングを一番ソリッドに形に出来ることこそ、ポップソングの最大の効用じゃないか、と常々考えている。そしてそれを実現するために、その手段を得るため高めるために、ある種の表現者は子供のまま大人になっていくThe Beach Boysも、Rideも、The Libertinesも、ART-SCHOOLも、昆虫キッズもスカートも、BOYISHやFor Tracy Hydeも、つまるところそこなんじゃないか、という思いが、強くある。この曲はそれを“純情可憐な夢見る乙女”というフォーマットで見事にやり遂げた一曲。ストリングス、4つ打ち、エレピにディレイギター、すべて世界の果てを目指すための手段だ。
 こんな風に思える人がお前の隣にいるか?だからお前は駄目なんだ。いや違う、これはファンタジーだからこそ出来るんだ、所詮ファンタジーでしか出来ない、だからこそ素晴らしい……そんな屈託を抱えながらも、2015年もきっとこういう勇敢さを求めていくんだと思う。



以下おまけ

2014年ライブ。こうして見るとあちこち行ってる。
1. 昆虫キッズ@福岡(11月23日(日))(『TOPIA』全曲披露+打上げ楽しかったです)
2. HiGE@福岡(12月5日(金))(代表曲以外多め+新曲の凄さ。サインもいただきました)
3. dip@京都(5月10日(土))(中盤「ここまではチューニングDGDGDG」で衝撃)
4. 森高千里with tofubeats(8月17日(日))(最高のJ-POP感。アルバムで聴きたい)
5. スカート@京都(9月21日(日))(ミツメ・トリプルファイヤー3マン豪華!ロック感増量)
6. ミツメ・Alfred Beach Sandal@岡山(3月21日(金))(豪華。ミツメのセトリ良)
7. Robert Glasper Experiment(8月17日)(圧倒された。最早人力Aphexだった)
8. ART-SCHOOL@神戸(5月9日(金))(福岡でも観たけどこの日の方がセトリ好み。音荒め)
9. 柴田聡子@岡山(11月16日(日))(素敵なカフェの地下で息を顰めるような演奏。染みた)
10. noid@金沢(9月20日(土))(金沢インディーロックの代表格。6人編成で圧巻のサウンド)

2014年マンガ。分母相当少ない。ネカフェで読んだものも含む。
1. ニッケルオデオン(2014年1月初頭に道満晴明とスカートを知ったのが重要トピックでした)
2. 宝石の国(絵柄で読まず嫌いしてましたが短編集から読んで驚愕&後悔致しました。儚い…)
3. ワールドトリガー(侵攻編最終盤のお互い残量ゼロのギリギリの展開熱かった…!)
4. レストー夫人(絵も話の不思議さも凄く好き。作者にお会いするためにコミティア行きたい)
5. 蟹に誘われて(ふわわーっとしとる風景+こじんまりと乾ききった価値観。素晴らしい)
6. ジョジョリオン(クワガタ編面白かった。ちょっと4部テイストだけど心理戦は今の荒木先生節)
7. 咲有珠山高校の同人誌にも手を出したくなる。来年中には準決勝流石に終わるかな…)
8. +チック姉さん(面白かった。ギャグマンガは書きようない。手元にコミックスないから尚更)
9. CANDY POP NIGHTMARE(シリアスとギャグの混濁という今のへっきーの作風慣れました)
10. ブラックギャラクシー6(ちーちゃんの方は怖くて読めない程度のビビリなので好きでした)

2014年本
(読んでない)

2014年映画
(観てない)

総括
 2014年いい年でした。色々新しいところに踏み出した感がありました。東京インディーというジャンルがあるのを遅まきながら知って一気に視界が開けました。何年も買わずにネカフェだけで済ませていたマンガの単行本をまた買うようになりました。ブログの更新頻度が低調だったので2015年はもっと頑張りたいところ。
 拙文を読んでいただいている皆様にとって2015年が良い年でありますように。

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