ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『A Ghost is Born』Wilco(2004年6月リリース)

songwhip.com

 

 2024年3月15日、大阪でWilcoのライブを観ました。ひたすらに凄すぎる演奏と歌と楽曲とアレンジとが繰り返され続け、終わってしまう頃にはすっかり呆けてしまうほどだったように思いますが、そんな久方ぶりの来日公演においてとりわけ目立っていたのが、今年リリースから20周年を迎えるこのアルバムからの楽曲群でした。

 今回はそんな20周年のアルバムについての記事です。アニバーサリー!決して幸福な生まれじゃなかったこのアルバムをバンドがライブで全力で祝福していたように、自分も何かいい感じのこと書いて捧げることができれば!という思いで行ってみましょう。

 なお、ヒストリー的な内容の結構な部分をバンドの中心人物Jeff Tweedyの自伝に拠ってます。

 

honto.jp

 

 また、Wilcoの各アルバムについては弊ブログの以下の記事にて簡単なレビューをしてあり、本作も取り上げてますが、単体で改めて、もう少しちゃんと、この複雑にして空虚で深淵な作品集を見ていきたいと思います。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 

 

Wilcoというバンドの本作までの略歴について(ライトに)

 弊ブログ的には今更も今更な内容で、本作からWilcoを聴き始める人がどれくらいいるかも疑問ですがひとまず、本作を中心としたバンドの経歴について、とても軽く触れておきます。

 パンク以降の価値観を持った上でカントリーロックを演奏する、いわゆる“オルタナティブカントリー”というジャンルの旗手として活躍したバンド・Uncle Tupeloが1993年に終焉を迎え、ソングライター兼シンガーの二人がそれぞれSon VoltとWilcoという別々のバンドを結成します。よりカントリー的な渋くダンディな声と伝統に殉ずるセンスを有したJay FarrarがSon Voltを、そしてよりパンク的なセンスと、そしてオルタナティブロック含む様々な音楽への興味を内包していたJeff TweedyがWilcoを結成。

 1995年にポップでオルタナティブカントリー風味のアルバム『A.M.』でデビューしたWilcoですが、2枚目にして2枚組の1996年のアルバム『Being There』にて新メンバーでマルチ奏者のJay Bennettを迎え、様々なオルタナ的・サイケ的アイディアを実践する機会を得たことで彼らの作風は大きく広がっていきます。1999年の3枚目のアルバム『Summerteeth』ではよりキーボードを多用し、少しサイケデリックさの増したポップソングを量産し、一方でオルタナ的崩壊に引き裂かれたカントリーに自身のホームの名を刻んだ名曲『Via Chicago』を収録し、バンドのポテンシャルは元のオルタナカントリーからどんどん別の場所へ移りつつありました。

 そして、もはや歴史的名盤に名を連ねるであろう『Yankee Hotel Foxtrot』にこのバンドは辿り着きます。メンバー間の対立と脱退、所属レーベルからのリリース拒否など、ちょっと出来過ぎなくらい発表までにドラマが起こったこのアルバムは、作品として見ても、フォーク・カントリーの楽曲をポストロック的手法で解体し尽くして再構築した*1ような、歌心はしっかりありつつ、様々なアンビエンスやノイズの仕掛けにより奥行きが呆然とするほどに広がった、前にも後にも似たような作品は存在しないのでは、と思わせる名作の中の名作。あまりの内容に何から書けば良いかわからなくなるけど、弊ブログではかつて挑戦したことがあります。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 で、そんな紆余曲折ありまくりつつもリリースされるとファンからも批評家筋からも大絶賛を受けたアルバムの次作として、今回取り上げる『A Ghost is Born』は制作されました。前作からのプレッシャーは大きかったでしょうけど、見事に前作以上に実験性とアブストラクトさを極めた作品となり、バンドとして初のチャートトップ10入りを果たしたり、グラミー賞を受賞したり、「アメリカのRadiohead」的な視点でより見られるようになったりと、大成功作となったのでした。

 その後も新メンバー2人を迎え、その後はその時のメンバー6人でずっと固定され、長い期間を活動し続け、アメリカを代表するバンドのひとつとして現在も活躍し続けています。おわり。

 

 

アルバム『A Ghost is Born』について(もう少し濃ゆめ)

 上記の当たり障りないレコ屋サイトの記述程度の内容で良いのならこんな記事書かないわけで、以下、もっと本作についてバイオグラフィー的にも音楽的にもより濃くより深く見ていこうと思います。

 

 

バイオグラフィーで見た『A Gohst is Born』前後

 一言で言えば、“バンド史上最もヘヴィな時期”と言えそうです。何よりも、バンドの中心であるJeff Tweedyにかかる比重が最も大きく、そして彼が死を覚悟していた時期だというのが何とも。

 

 

①『Yankee Hotel Foxtrot』以降の4人(+1人)体制

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よくこんな複雑な編曲4人で演奏するよ…ドラムがメロディ楽器担当すんの反則やろ…。

 

 名作『Yankee Hotel Foxtrot』は典型的な“ダビングとスタジオ編集によるサウンド”の作品であり、それを実現する大きな原動力の一人となったマルチプレーヤーのJay Bennett*2はアルバム完成後の2001年中にすでにバンドを解雇されていました。

 その結果、そもそもダビングの嵐なせいでライブでの完全再現が困難な作品である『YHF』の楽曲群を、当初はバンド史上最も人数の少ない4人体制で演奏しないといけない状況に陥りました。いくらドラムが1人で2人分くらいの演奏をこなしてしまう規格外な存在のGlenn Kotcheだとはいえ、上物楽器はJeffと当時のキーボーディストであるLeroy Bachのみというのは無茶も無茶。Leroyはこの時期の摩訶不思議サウンドをライブでもしっかり再現しようと奮闘し、また2002年に当初はステージ袖でサウンドテクスチャーを追加する形で、のちに正式メンバーとなるMikael Jorgensenがキーボード周りとして加わります。

 が、それでも、ロックバンドとして重要なパートであるギターはJeffのみの時期が続きます。これは、アコギとエレキギターのライブでの同時演奏がほぼ不可能*3、ということを意味します。

 ちなみに、このようなギタリスト実質1名体制のメンバー構成は『A Ghost is Born』リリース後のライブ前に新メンバーとしてギタリストのNels Clineとマルチ奏者のPat Sansoneが加入するまで続きます。このことがアルバム制作に重要な縛りを与え、そしてアルバムの重要な特徴を形作ります

 

 

②プレッシャーがのしかかるJeffの鬱と薬物依存

 

うつ病っていうのは病気だ。そういうのをアーティスティックなものと関連付けようとする奴もいるけど、頭がおかしいとしか思えない。それはただの苦しい病気なんだよ。病人を冒涜してる。

 

         Thom Yorke, 2001年のインタビューより

 

こういう話は常に上記のことを念頭に置いた上で考えないといかんなと思います。

 批評筋からも大衆からも大絶賛を受けた『YHF』。そういう作品の“次”というのは誰にとってもひどくプレッシャーのかかるものでしょう。「あの大名作『YHF』を超える、批評家たちの辛口をも圧倒するような、容易に予想もできるはずのない何か」を生み出さないといけないという、漠然とした要請と不安。ましてかつてならそれをある程度分かち合えたクリエイティブなソングライティングパートナーのJay Bennettが、かなり最悪な形で仲違いをした上でバンドから追放したのち、Jeffがクリエイティブ的に追い詰められていたところは十分にあると思います。Uncle Tupelo時代からの盟友のベース・John Stirrattはともかく、他はここ数作で加入の人員で、Jay Bennettばりのソングライティングやアレンジ上の貢献を求めるのは困難*4。つまりある意味では、Jeffひとりでなんとかして『YHF』を超える楽曲や作品を捻り出さないといけない、というプレッシャー。しかも大傑作後によくあるライブオファーの増大に対応もした上で、さらには一部のファンからの「Jay BennettのいなくなったWilcoはクソ」という批判にも曝された上で。そりゃJeffでなくとも死を思ったりするでしょう。

 加えて、彼には生来の持病として偏頭痛とパニック障害があり、また2000年ごろから鬱に陥り、バンドのファンである悪質な薬剤師がいて*5、そのような身にこのような状況が重なり、どうにか増えたライブをこなし、新作の制作を進めていくには、誰か、もしくは何かに頼るしかなかった状況でした。制作のパートナーとしては前作終盤に作品の性質を大きく変えたミックスを披露したJim O'Rourke*6とまたコラボレーションしていくとして、そのようにできるように自分の身体と精神を“せめて人前でまともに”駆動させるために、彼はバイコディン*7という薬物により頼る羽目になりました。そしてその状況を彼は全く楽観的に捉えないばかりか、むしろ悲観的な認識の上で「この作品で自分は死んでしまう。これは自分の子供達に残す最後の作品になる」とまで思っていたことを自伝で述べています。

 上記のThom Yorkeの警句にも関わらず、本作はこのような精神が不安定な状況が、良くも悪くも、実に作品に反映されていると言わざるを得ないものとなっています。

 

 2003年11月、僕らはニューヨークにジム・オルークと録音に行った。(中略)マンハッタンのミッドタウンにあるシアー・スタジオに籠って、「ゴースト・イズ・ボーン」にとりかかっていた。また、そのとき僕は自分が死ぬだろうとかなり確信を持っていた。

 

(中略)

 

どの日にも、自分がそこにいて、それについて気分良く感じながら音楽を作れると他人に保証できる時間が2時間以上だったことはめったになかった。その日の残りは錠剤の摂取に時間を費やし、スタジオ内で頭がさえて覚醒している時間を過ごせるように望んでいた。

 

    ジェフ・トゥイーディー自伝 第9章『ガラス瓶のなかのトビー』より引用

 

 

③本作リリース前後の混乱

 そんな状況であってもどうにか本作を完成させ、リリースが迫るなか、ホームであるシカゴに戻っても彼の症状はひどいままで、なんとか一仕事終えた彼は、この状態を正すべく、リハブに取り組み始めます。錠剤を異様に融通してくれるマッドで厄介な薬剤師と縁を切り、薬物断ちの禁断症状に身を悶えさせ、施設に入り、その過程でアルバムリリースは少し延期され、ヨーロッパツアーがキャンセルされたりしました。

 Jeffが一番辛かったであろう時期に音楽面でバンドを大いに支えていたLeroy Bachが脱退するのはそんな最中でしたが、自伝第11章の記述によると、ここでJeffはよりダークに落ちるのではなく、むしろポジティブに誰を自分のバンドに誘うかワクワクしながら考え、そしてPat SansoneとNels Clineという名プレーヤー二人に声をかけ、引き入れることに成功し、ここに遂に、アブストラクトな編曲の『A Ghost is Born』は勿論のこと、より複雑でパズルめいた『YHF』や『Summerteeth』の楽曲をも十二分にライブで演奏しうる、鉄壁にして世界最強にも思える6人組メンバーが揃うこととなります。バンドのその興奮っぷりは、キャリア初の公式ライブ盤『Kicking Television:Live in Chicago』をリリースしてしまうほど。

 

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ギター1人じゃ満足に演奏できんだろう『YHF』曲の代表格。6人だとまさに!な広がり。

 

 この辺は、この時のラインナップが今に至るまでずっと続いてることもあり、まさにバンドにおいてハッピーエンディングなところですが、本作のレビューにはあまり関係しないところ。まあ、こういったホッとする未来が約束されてるからこそ、この不幸な地点の作品もより気楽に楽しめるのかなということもあり、きっとバンドも本作をそこまで深刻に考えず楽しんでほしい、と思ってるところは少なからずあるだろうし。

 まあでも、この先のアルバムの特徴紹介では、自伝に書かれている限りの不幸な要素は書いてしまうけども。

 

 

アルバム『A Ghost is Born』の特徴

 良い部分も悪い部分も含めて、見ていきましょう。正直、その構成上、このバンドのどの作品よりも悪いところが極端に目立つアルバムではあります。その分自由さでもトップクラスのものがありますが。

 

 

アブストラクト≒よりJim O'Rourke的になった楽曲(しかし案外ノイジー)

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 本作を表する際に“アブストラクト(抽象的)”という形容詞はしばしば使われてるところですが、ものすごく暴力的な言い方をすればそれは「楽曲の形式がJim O'Rourke的なぼんやりした感じにかなり寄ってる」ということのようにも思えます。まあ上の動画で例に挙げた『Muzzle of Bees』は特にそうですが、アルバムの所々に彼の作品と共通するようなぼんやりしたアコースティック感覚があり、『YHF』に引き続きの亡霊的ノイズの彷徨う感じもあり、また終盤に延々とアンビエントノイズが続く『Less Than Your Think』があることもあり、間違いなく本作はこのバンドで最もJim O'Rourke濃度の高い事態となっています。

 …それもそのはずで、本作における彼の貢献っぷりはエンジニアやミキサーとしてのみならず、相当数の楽器を演奏して直接レコーディングに参加してます。Wikipedia英語版記事にあるクレジットを貼ります。

 

 

en.wikipedia.org

 

ちなみに本作のJim O'Rourke演奏周りで一番驚くのは、最終曲『The Late Greats』のエレキギターが彼だということ。そんな大事なところかつJimっぽくないところまで任せてたのか…。

 しかしながら、『Muzzle of Bees』がまさにそうであるように、Jim O'Rouke作品ならそのままぼんやりと静かに楽曲が通り過ぎていくところ、どこかオルタナ的なノイジーさが顔を出さないと気が済まない構成をしているのは本作の大きな特徴。

 

 

リードギターJeff Tweedyによる、乱暴でノイジーな演奏

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 ひょっとしたら一番本作で強調して良いのはこの点かもしれません。

 他に誰も弾いてくれる人がいないので*8、本作ではJeff Tweedy自らがリードギターを弾く場面が多々見られますが、それらの多くで、ギターをノイジーに引っ掻き回すような、ヒステリックな悲鳴のようなギターソロとなって立ち現れているということは本作の重要な特徴です。ノイジーな演出はこれまでにもありましたが、ギターで直接的に表現される場面というのは相当限られてきました。本作では1曲目からして後半は目玉的にそれが登場し、静かな曲でも時折そのようなものが挿入され、とどめの3曲目の、もはやテキトーなんじゃないかとさえ思えるフリーキーなソロの連発は、Wilcoの他のどのアルバムにもあまり当てはまらないオルタナ要素*9です。

 ひとつにはJeff TweedyがTelevisionやSonic Youth*10を愛好していたこと、いまひとつには上述の精神的・薬物依存的状況にあった彼が、その状況を積極的に作品にノイジーな形で反映させたがったことなどにより生まれたこれらのサウンドは、しかしラフなようで実に的確に“攻撃的で、そして神経質”なテイストを生み出しており、本作はそんなJeff本人の“魂の叫び(悲鳴?)”めいたギターを聴けるバンドで唯一の作品と言い切れます。

 ちなみにとある曲にて、Wilco史上最も儚くも絶妙な、霊的な存在感のあるギターソロがありますが、クレジットを見る限りそれもJeff Tweedyによるもの。暴力的なものの中に潜んだ、最もアルバムタイトルに直結した演奏を見事にモノにしてるのは彼の意地でしょうか。

 

 

③幾つかの“冗長さ”を感じさせる尺の楽曲

 この辺が本作以外のアルバムのファンから本作を引き離してしまう点でもあり、本作特有の要素でもありますが、①によるぼんやりとした雰囲気だったり、②によるギターソロの尺のことだったりもあり、本作では5分越えの楽曲が4曲、うち2曲は10分超えという、長尺曲が目立つ曲の並びとなっています。

 というか、基本Wilcoというバンドは3分台に曲を収めることを善しとし、5分を超えることはそう多くない、という前提を知っておく必要があるかもしれません。5分超えの曲が1曲、もしくは全くないアルバムが標準なところがあり、なので5分越え4曲で10分越え2曲、なんならある曲は15分、なんてアルバムはこれくらい。

 特にアルバム冒頭、5:33、4:38ときて3曲目で10:46という展開は、パソコンやスマホ等で音楽を聴くのが基本になったために演奏時間が予め分かってしまう今日の環境においては尻込み要因になりがち。まあ中盤を過ぎると前作並のサイズ感の楽曲が連なってくるけども。この辺の尺の長さを“冗長”と取るか、尺に見合ったスリリングな展開と取るかはその人の趣味嗜好およびその日のコンディション等に依るかも。

 

 

④小さい音が本当に小さ過ぎる、極端なダイナミクス

 これも本作を聴く上で、特に本作の楽曲をプレイリストとして他のWilcoのアルバムの楽曲と並べるときに困る点。そしておそらく似たような特徴がJim O'Rourke作品に見られるので、そこ由来かなと思ったり。

 1曲目が始まって、とても静かな作品だな、音量上げないと聴こえないな…と思って音量を上げると、途中のギターソロ開始時点で音量が大きくなりすぎて慌てる、という事態が発生しがちです。音量が大きいところはそれなりにしっかりと上がってきて、そのコントラストの付け方がかなり極端という、いわゆる“ラウドネス・ウォー”*11的なものとは真逆のコンセプト。しかしながら、ある曲のアコギなんか、その音量で聴かせる気あるんか…?と思うくらい小さいし、ちょっとこの辺ミックスが極端だなあと思うところ。特に、次作『Sky Blue Sky』が今度は妙にラウドなミックスになってる*12ため、プレイリストを作る際にはこれらの楽曲を並べるのがちょっと難しいかも、という感じ。

 Jim O'Rourke感全開の『Muzzle of Bees』にはバシッと合ってる感じがします。曲によってはこのコントラストがフィットしてるところもあると思いますが、1曲目から極端というのが、良くも悪くも異質…。なお、この点に触れたレビューを探したところ、岡田拓郎氏がTURNのレビューで触れてた。

 

turntokyo.com

 

 

⑤前作譲りのアシッドフォーク的 vs 次作以降的なダッドロック的

 ちょっと興味深いことに、本作のソングライティングは、Jim O'Roukeの影響の強い部分を除けば、前作的な要素が強い曲と、むしろ次作的な、The Bandにルーツを発するような泥臭いビートの感じ、悪く言えばダッドロック的なテイストの曲とが入り混じっていて、思いの外過渡期的な要素もあるな、と思えます。前作譲りの楽曲があるのは、実際に前作の未採用曲も複数混じってるところなどもあり理解できますが、The Band色が所々に入るのは面白いところ。そしてより徹底してThe Bandな感覚を強める次作と異なり、本作はその追求が曖昧なので、結果としてオルタナ音響派の影響下のThe Bandといったテイストになっていることは重要な差別化点。

 

 

⑥動物がやたら出てくる曲タイトルや歌詞

 

「ゴースト・イズ・ア・ボーン(注・原文ママ)」の歌詞の要素は元々ノアの箱舟の比喩のようなモノとして思いつかれた。とてもたくさんの動物の曲がある理由だ。(中略)アルバムを組み立てるもととなった漠然とした考えがあった。そこではすべての曲それぞれが僕の性格の異なる面を象徴する、救う価値のある動物だった。(中略)僕の感じていた恐怖は、その及ぶ範囲内では深く、間違いなく聖書にあるようなものだった。つまり大洪水が、誰も生き残れない規模のものがやってくるように感じていた。だから、自分ができるならなんでもを救おうとしていた。救い出せるならなんであれを救う手段として、この箱舟にすべて積み上げよう。僕は死ぬにしても、すべてを失うわけにはいかない

 

    ジェフ・トゥイーディー自伝 第9章『ガラス瓶のなかのトビー』より引用

 

…だそうです。

 これはそれぞれの楽曲の歌詞を見ていく際に少し考察はしようと思いますが、発想の広がり方の唐突さが実に薬物中毒的で、上記のように書いてる本人すら少しうんざりした雰囲気を出しています*13。そしてこの箱舟は、自分が死んだ後に残される自分の子供たちへのためだともいう話で。泣けるような、そうでもないような、頭おかしいような。どういうスタンスでこの辺の事情に接すれば良いのやら…。そもそも、言うてそんなに歌詞に動物沢山出てきてなくないすか?

 なお、ジャケットは卵で、内ジャケなどでそれが割れかけたり、完全に割れてしまったりするのはタイトルと絡めて意味深。また、歌詞カードに記されたさまざまなイラストはモノクロながらかなりドラッギーなテイストのメルヘン具合で、初見で「ウワッ…!?」ってなる具合になかなかおぞましいので、サブスクでしか聴いたことない人は是非一度手に取ってみてみるのをお勧め、てかCDかレコードどっちかでいいんで買いましょう。

 

 

本編:全曲レビュー

 最近いつものことながら、今回もそろそろ前書きだけで1万字に届きそうになってきたので、この辺で前書きを切り上げて本編の各楽曲レビューに入っていきましょう。折角なので、アルバムのアウトテイクとなっておまけディスクに収録された2曲も見ておきましょう。

 なお、歌詞は全部全文訳します。間違い等あるかとは思います…。あと大阪で今年3月に観たライブの感想*14が時折混じります。

 

 

1. At Least That's What You Said(5:29)

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この前の東京公演がもう挙がっとる…大阪では演らなかった…やけに音質いい。

 

 えらく音量の小さいギターとピアノと囁くような歌の前半部と、一気にラウドになってヒステリックなオルタナティブさ全開のギターソロが咆哮し続ける後半部のダイナミズムが全ての楽曲。上述のとおり、1曲目にして音量のちょうどいい地点がよく分からなくなるこの極端な音量差はいかがなものかとも思うけど、寂しくなるくらい小さな音から一気にラウドで血走った音になること自体に、何かしらの主張が混じってるんだと思う。

 それにしても本当に最初の音が小さい。遠くでやってるリハの光景か何かかと思ってしまう。歌の音量も明らかに小さく、ただ、ふいに音量が大きくなる場面もあったりで不安定なところが不思議に生々しい。リズムもなく、というかギターもほとんど聞こえずピアノだけを実質バックに、鬱々としたメロディを呟く。メロディの収束のさせ方のあっさり加減が実にWritten by Jeff Tweedy。

 2分に達する頃からが後半戦。実に荒々しいタッチで一気にラウドになったギターを引っ掻くようなリフが入り、そこでメインのメロディラインを示し、スタッカートの連発という形式でバンド演奏が入り、そしてギターソロへ拡散していく、という流れ。スタッカート連発までは急にバンド感出してくるな、と思うけども、そこから先のソロに入ってからは、どことなくWilco史上最も陰惨で刺々しい雰囲気が漂い始める。まるで病んだNeil Youngみたいに、角がありまくるフレーズの弾き方で延々とJeffがフレーズを畳み込み、かと思えば急に、痙攣したようなフリーキーなフレーズをかき鳴らす。コミュニケーションの不全が前作『YHF』のテーマだったとすれば、本作はもっとそれ以前の問題があることを、何か執念じみた形でここでの彼は表現しようとする。そしてそれに粘り強く付き合うバンドは、しっかり彼とこのギターソロのピークポイントを合わせ、最もノイジーに炸裂する段で足並みを揃えて見せる。荒々しいようで、しっかりと構成されている。それにしてもドラムがやはり演奏力として凄まじく、一人で演奏に様々なピークポイントを作り出してさえいるかもしれない。演奏が解けた後に最後に鳴るのも、冒頭並みに小さくなったピアノとシンバルだ。何とも言えない淀みを残して、次の曲につなぐ。

 普通の演奏なら2分で終わりバラッド、という具合の曲なので、歌詞は短い。けども、パートナー間のひり付くような痛々しい関係性がさらりと表現されている。まあこういう音でハッピーな光景を歌われても困るけども。

 

ベッドできみのとなりに座ると きみは泣き出した

ぼくは言った

きっとぼくが去ったら きみはぼくが帰ってきてほしくなるさ

それとも きみが言いたいのは「ひとりにさせて」ってこと?

少なくとも きみが言ったのはそういうことだよ

 

きみは気がおかしくなると否応ないね

悲しくないのかい? ぼくは免疫がある 可愛いと思った

きみにぼくの紫と黒の瞳にキスしてもらうためにも

きみからそういうのを得てたにもかかわらず

ぼくらは深刻な状況にあるとまだ思ってるんだ

少なくとも きみが言ったのはそういうことだよ

 

タイトルの意味するところの毒々しさ。Jeff自身の皮肉っぽいところを出したかったのか。いきなり特に動物の要素のない曲だけども。

 ライブで演奏する時も、この曲のソロはJeff自身で演奏される。これはそうされなければならないだろう。そうしないと意味がないとさえ言えるだろう。本作のギターソロの結構はこのように、ライブではバンドに他に優秀なギタリストが2人いようと、Jeff自身がギターを弾く、そのこと自体に意味があるものが多い。

 

 

2. Hell Is Chrome(4:33)

 絶望的なギターソロに続くのがこの、メインリフ的な冒頭のピアノの捲し上げから始まるほのかにオルタナ化したThe Bandとでもいうような激渋なマイナー調主体のナンバーで、しかしサビ部はほんのりメジャー調となり少し暖かい。「地獄はクロム」とかいう変なタイトルの割にこの微妙に暖かいメジャー調はこれ大丈夫なやつなんか…?安心していいやつなんか…?と疑いの念を持つけども、その答えは歌詞にて。

 実に輪郭のはっきりしたピアノのリフでこの曲は幕を開ける。低い鍵盤を用いた太い存在感とそれなりの音量に、あ、このアルバムは多分このくらいのボリュームにするとちょうど良さそう、というところを掴める感じ。しかし、歌が始まると急にピアノが消え、ベースのボーカルだけになりボリュームも寂しい具合に。なんでこんなに極端なのか。そこからサビ的なフレーズに繋がる際もなかなかにボリュームを抑えた演奏になっている。ドラムの音がすごく小さいのが印象的。段々と小さい音ながら色んな楽器が飛び交ってるのが聴こえてきて、3回目のヴァース前くらいからギターのコードカッティングが目立つようになっては引っ込む。それにしても何気にヴァースとサビのサイクル1回がやたら短い。

 2分経つくらいでそれまでにないコード進行に展開しては冒頭のピアノリフに戻り仕切り直し、2分50秒くらいからは遂にギターソロ。これもクレジット的にもどこか奇妙なフレージングやサウンドからも、Jeffによるものと思われる。ロングトーン主体ながらフィードバックノイズを効かせ、後半では変なエフェクトで奇妙な残響を残しながらうねる様に捻れた自己主張を感じさせる。そしてその後は、延々と「Come with me」と歌うサビを繰り返し続ける。段々とコーラスも重なってきて、ウォームなコード感の中で実に優しげな囁きのように歌われたこの曲の、歌の内容の安全性はいかに…!

 

悪魔がやってきた 赤くなくてクロムだった

彼は言った「ぼくと一緒においで」

行かなきゃだね だからぼくは行った

全てがすっきりして 精密にそびえ立っていた場所さ

 

ぼくは諸手をあげて歓迎されて

あらゆる面で助けをたくさんもらった

怖いことなんてない 怖いことなんてないんだ

空気は爽やかで まるで冬の終わりの晴れた日みたいな

霧の中で大きく欠伸しちゃう春の日とか

そして ぼくはまるで属せちゃってるみたいに感じたんだ

ぼくと一緒においで ぼくと一緒においで

ぼくと一緒においで ぼくと一緒においで

ぼくと一緒においで ぼくと一緒においで

ぼくと一緒においで ぼくと一緒においで

ぼくと一緒においで ぼくと一緒においで

 

ダメみたいですね。タイトルがタイトルの時点でね。地獄の方が安らぎようがあるって話なのか、死者からの誘いみたいな話なのか、そんなシンプルなことでなくもっと何か意味するところがあるのか、全然この曲で作者が意図したことが分かる気がしない。その状態でサビの妙にウォームな雰囲気は、やっぱ怪しんでいいんだろうなこれは…。

 

きっと『Hell is Chrome』というのは真逆を望むことについての歌なんだ。秩序なんて得られない世界でとても具合悪いことに秩序を望んでしまうのは、ぼくにはそれこそ地獄みたいな話さ。ぼくが何か書くときの衝動ってのはほとんど秩序を欲する強迫観念なんだ。全くもって痛々しいね。

 

         Geniusに掲載のSpin誌でのJeffインタビューより

 

…???Jeffは時々、本当に難しいことをいう。っていうかえっマジで「地獄の方がマシさ」って歌なの…???というか悪魔は動物カウントするのは流石に違うか*15

 今回の来日公演東京両日および大阪、全てにおいて1曲目に演奏されて、「えっそこいきなり行く…渋ない…?」という思いを胸に抱いた人も多かっただろう。しかし、この曲を最初に演奏するというのが、本作20周年を祝う感じの一連のライブに相応しいスタイルだったんだろうなあ。

 

 

3. Spiders (Kidsmoke)(10:41)

 クラウトロック的なワンコードの平坦な繰り返しの中にノイジーなギターソロと、そして時折馬鹿みたいにロック的な大味なセクションを挿入して、合間合間にJeffが何か歌う、Jim O'Rourke的オブスキュア曲でも前作的フォークトロニカでも次作的ダッドロックでもない、出自も謎な長尺曲。問題作来ました。本当に何だこれは…?自伝では「その10分もの長さのせいで演奏終了まで集中してられなかったから、ワンコードのループに作り直して、自分は歌詞を唱えるのと変なギターソロを入れるだけでいいようにした」と言ってるけど、えっ元はクラウトロック式ワンコードじゃなかったの…?その上でなぜに10分もの尺の曲を…?思ってたのと因果が逆で困惑した1曲。

 

結局、この曲はかなり誇れる曲になった。でも、レコーディングはあんまり楽しくなかったです。

 

        ニューヨークタイムズのインタビューでJeff Tweedy

 

このやろう。

 まあ唐突に、リスナーはこの実に平坦なループに叩き落とされる。景気の良いクラッシュシンバルのひとつもなしに、ベルトコンベアめいた演奏の、どこの地点も同じ表情のとある地点から始まってる感じ。機械的ながら不思議なフニャフニャ感を持つシンセなど実にそれっぽく作られていて、変幻自在のドラマーのGlennもここではドラムマシンのコスプレを淡々と披露し続ける。クレジットを見ると、この曲でのJimの担当はピアノにエレキギターにシンセと八面六臂の活躍をして、代わりに本来メインキーボーディストだったろうLeroyがいない。あっ…。

 まあ唐突に、歌は始まる。別に合図がないといけない決まりなんかない。歌というよりも呟きとかに近いか。ポエトリーリーディングと呼ぶには言葉を詰め込んでいない。所々歌うようになる感じなど、実に自由自在。コントロールしてない感じを実にコントロールしている、とでも書くと上手いこと言った風になるのか。そしてワンセンテンス歌い終わって満足したら次はデタラメじみたギターソロ。フリーキーさそのものを狙って演奏してるか、もしくはマジでデタラメかのどっちかという感じだけど、でも絶妙に的外れ感・西洋的スケールから外れてる感を演出して、後の展開を予知するようなフレーズも混じるので、案外ダビングには力が入っているのではと思う。言うまでもなくJeffによるプレイだ。

 まあ唐突に、ある程度経つと展開が急に切り替わって、パワーコードをビートとともに叩きつけるロック的な展開を見せる。いや、まさにテキトーそうに弾いたフレーズがそのまま似たメロディでパワーコードに置き換えられる。それまでのワンコードループとの親和性はまるで考慮されず、実にテキトーなダイナミックさが急に楽曲に与えられ、ドラムもここぞとばかりにコスプレをやめてロックし出す。そして、これはこれで執拗に繰り返す。最初はそのままワンコードに戻り、本作でもとりわけノイジーなファズめいたぶっ壊れたギターソロが広がってく。そこから歌に戻った時点で6分ほど経過。いつの間に!?と思うか時間泥棒と思うかは人それぞれ。でもこの辺りからドラムがマシンのコスプレに耐えかねたのか結構フィルを入れ始めるのが可笑しい。なんなら途中から少し加速してないか…?

 7分40秒ごろからのロック展開はこの曲の山場。歌も重なり始め、それまであてなく歌われてた風のメロディが「ここに合うのか!」という驚きのような、いや別にそうでもないような。その後またワンコードに戻って、ひたすら嵐のようなソロを、というかデタラメにギターを引っ掻き回すかのような演奏が延々と続いていく。ブリッジやテールピースまで使って演奏しようとするJeff迫真のひとりSonic Youthごっこ。その後なんか恥ずかしくなったみたいに最後ロック展開を付けて唐突に終わって見せるのは、もうギャグなのか、開き直り的なのなのか、高度な批評性から出たものなのか、何も判断できねえ。

 この曲の歌詞…何なのこれ…そもそも蜘蛛を本当に箱舟で救いたいか…?訳がわからないよJeff…。

 

しょっぱいBREEZEの中で蜘蛛らが歌ってんの

確定申告を蜘蛛らが記入してんの

推理とメロディの糸を紡いでんね

ミシガン州のプライベートビーチで

 

なんでぼくら誰かのキスが上手く祝うのを願えんのか

なんであいつらキスすべきタイミングをのがしやがるのか

鍵を求めて戦う鳥さんたちみたいに飛んでみいや

ミシガン州のプライベートビーチで

 

この最近の喫煙ガキの発作 望遠鏡めいた詩これら全て

一人はええね

 

なんで奴ら言いたいことも言えんのか

なんで奴ら必要なことだけを言えんのか

クリーンになって 聞いて 話なさい

今日は 個人配信者様 彼のIDならブロックされてます

 

太陽登るやん ぼくら車に乗り込むやん

未来ってのには谷と近道とがあるやん

溺死レースの王冠を戴くのは誰でしょう

ミシガン州の浜辺でプライベー灯をともしといて

 

喫煙ガキのキッスでぼくを騙してえや

顕微鏡の家からな 一人はやっぱええね

 

私は自分のベッドにいるでしょう

貴方は石になることができます

それは死から甦り そしてぼくらみなを家に返す

私の手に血は付いていません

言われたとおりにただやります

 

これが、この取ってつけたように蜘蛛が最初のセンテンスにだけ出てくる歌がお前の人格の何を表しとると言うんだJeff…絶対誰かの言われたとおりにただやってこんな歌詞になるわけない…。

 このように混沌に満ち溢れた楽曲だけど、ライブではアドリブ入れ放題の、自由度の塊のような楽曲に変貌し、先日の日本公演のうち東京2日目以外はライブのアンコールラストをこの曲が務め、あろうことかロックパートのパワーコードのリフそのものでオーディエンスに合唱をさせるという暴挙を実施。どこまでも“Wilco的なもの”から自由なこの曲の本領発揮、なのか…と困惑しつつも楽しかったので良し。

 

 

4. Muzzle of Bees(4:51)

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2011年5月に公開された、まるでPVみたいな見た目のPVじゃないスタジオライブ。

 

 本作のJim O'Rourke参加を説明するのに一番都合の良い、まさにJim O'Rourke式のフォークトロニカそのものをこの時期のWilco式のノイジーさと掛け合わせたかのような、静謐さの中にひりつくものを感じさせる楽曲。言うてそのまんまって具合の曲はこれくらいしかないので、むしろJeffの方で「せっかく参加するんだし、Jim O'Rourkeそのままな楽曲のひとつくらい作りたいな…作っても構わんやろ」的な感じで作ったのかもしれない。あと、ポップな歌ものWilcoが聴きたい人はこの次だから頑張って。。

 ベースと思われる低い定期的なうなりと、次第に紡がれ始めるアコギのアルペジオの柔らかな調べ、それらがかなり小さい音で奏でられる様は実に本作的な雰囲気。元からのJim O'Rourke臭さも伴って実に実に本作的。大丈夫音量を上げる必要はないから、まずはこの小さな森の中みたいな世界観に浸ろう。しかし美しいアルペジオだ。歌が入ってきても、優しくしかしどこか怪しく透き通った感じは変わらない。ヴァースの間の歌がない区間でドラムが静かにリズムを細かく変えるのが曲の推進力を形作ってる。さりげないメロディ変化に効果的に感情の動きを載せるのは流石のwritten by Jeff Tweedy。そして一定のところまで進んで聴こえてくる静かなピアノフレーズの実にJim O'Rourkeな透き通った響き。この後好きあらばこのピアノフレーズが飛び出してくる。ちなみにこの曲でJimはピアノもアコギも弾いてます。本人公式参加のトリビュート企画かな?

 そんなJim O'Rourke仕草が行き届いたこの曲でしかし、それまでにない不安げなコード感が現れるとともに、それまでの透明感溢れるアンサンブルに歪んだギターが混入し、一気にザラついた感覚が挿入されることは、この曲をこのバンドで演奏することの意義が大いに見出される。というか、このギターもクレジットを見るにJeffのものっぽいけども、これまでの曲で見せたフリーキーなソロをブチ込むのではなく、あくまでそれまでの楽曲を壊さない形でノイジーさをさりげなく混入させる手管は非常に冴え切ってて、おそらくはこういうところにもNels Clineは反応して加入を決めたんじゃないかと思ったり。

 1回目の“小さな爆発”でネタは割れたからと開き直るかのように、その後のブレイク以降は次なる“小さな爆発”までにヒキを延々と続けるような構成になっている。リズムは同じキックを繰り返し、歌のメロディは高揚した箇所からスタートし、次第にエレキギターも混じってきて、明らかにタメてるのが分かったその次の瞬間くらいには、もう弾けてる。一回し目のソロにはスネアを極力響かせず、ノイジーロングトーンが姿を表す2回し目以降になって颯爽と現れるスネアワークが気持ちいい。そしていつの間にか、実にオルタタな太くノイジーなラインに結局楽曲は乗っ取られる。しかしこれもデタラメに掻き鳴らされてるのではなく、楽曲の中に生まれた新しい“コア”のような、そんなに攻撃的すぎない、良い塩梅の音色と音程と太さを保ち続け、そのまま楽曲は快い雰囲気で終わっていく。結局、もしかしたらこの曲こそ本作で最もJeff Tweedyのギターアンサンブル構成能力のセンスの非凡さを証明する曲かも。

 「銃口」というこれもまたシュールなタイトルが付されているけど、何でそういうタイトルなのかよく分からない、繊細で不安げな愛の歌だった。

 

ランダムに彩られた高速道路に銃口

ぼくの袖はきみの木を登ってたら解けちゃってた

が笑うのを“あれは吠えてるんだ”って言う人もいる

別にそういう人を意地悪とも思わないな

間にある柵を異様に怖がる人だっていることだし

 

陽の光は木から木へと伝わっていく

そして静かにぼくに戻ってくる 吹き抜けるそよ風とともに

海に向かって押し上げられて ついにぼくに戻ってくる

 

きみは端末でぼくのメッセージを受け取った ってしとこう

きみはぼくを愛してる ってしとこう

でもそれがどういうことか分かるかい

 

陽の光は海から海へと伝わっていく

そして静かにぼくに戻ってくる 吹き抜けるそよ風とともに

葉たちの上空で押し上げられて 吹き抜けるそよ風とともに

ぼくの頭はきみの膝へ

その半分はきみへ 半分はぼくへ

その半分はきみへ 半分はぼくへ

 

も出てきたね動物。

 大阪のライブで観た際には、JeffとPatの2人でアコギを抱えて繊細なアルペジオで空間を作り、そこに入ってくるNelsの程よくノイジーなギターのアンサンブルが実にゴージャスな体験だった。トリプルギター体制でなおキーボードもいる人員構成ってちょっとズルいというか*16、代わりにこの6人という多いメンバーで何でも演奏できる限りで立派に演奏してみせる、という矜持を静かに感じさせる、そんな演奏だった気がする。ああ、この曲をちゃんと演奏するには6人要るわなあ。

 

 

5. Hummingbird(3:06)

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物語の筋はよく分からんけど、曲のエモさも伴ってなんか感動するファンメイドPV。

 

 ポップなWilco好きの皆さんお待たせしました!前作のアウトテイク曲ながら、そこからフォークロアー的にしみじみとポップなThe Bandみたいなアレンジによって、考えうる最良で最キュートで最エモな形で生まれ変わったと言って良い姿でアルバムに優しくなれる感じのポップさを強力に供給する名曲。というかこの完成形を知ってると、『YHF』時代のアレンジのどれもなんだか珍妙というか、曲のポップポテンシャルを測りかねて延々とこねくり回してたのか*17。よくぞ無理にリリースせず寝かせて、丁寧にリアレンジしてくれた…!偶然動物というテーマもクリアしちゃったし。

 冒頭のシャッフル気味のピアノの時点で「あっこの曲さてはポップだな」とお知らせしてくれる優しい仕様。歌が始まるとピアノの音量が控えめになるのが可愛い。そして歌のメロディが、Wilco史上でもここまでコミカルかつリリカルにメロディを昇降する曲ないんじゃないかってくらいに転がりまくる。普段のJeff的ソングライティングとは違う感覚ではあるけど、こういう伝統的なミュージカルポップスめいた感触にはそういうアレンジこそ正解と開き直った判断に、まず敬意を表したい。

 つまり、この曲のためだけにヴィオラ奏者が呼ばれている。ヴァース後半から入ってくるそれを聴くに、それはまさにこの曲に相応しい一手と言える。これ抜きのこの曲など考えられないほどだ。皆がどこでもないどこかに隠し持ってた、全く身に覚えのないはずのノスタルジーな気持ちがじわじわと立ち上ってくる。最初はそんな調子のまま、一旦サビには到達するがフラジャイルな演奏と静かに囁くに留め、メロディも完結しきらない。

 劇的なのは、その後に全体のアンサンブルが始まって、歌もグッと力の入った感じに切り替わること。コード的にもキーがCからGに変わる。この本当に1曲の中でミュージカル的に振る舞いを変える、ちょっとミスればクサくなりそうな振る舞いが、この曲には最適解の中の最適解とばかりに活きている。ヴァースの前半と後半でリズムがより感傷的なものに切り替わるのも、そこまで泣かせにくるか、と思うけども本当にリリカルだ。ヴィオラの感傷的な度合いもここに極まれる。

 そして二度目のサビ、最初は1回目と同じく弱々しいけどもメロディは明るくなり、フィルインを合図に一気に力強い演奏と歌に切り替わる様は、卑怯なくらいに感動的で、さらにメロディの突き抜け切って完結するところからとどめのように始まる、ノイジーなギターソロとヴィオラがデュエットする展開はいよいよ本当にミュージカル仕様だ*18。モロにシャッフルなリズムのなかでこんなことされて、感傷的なのに楽しくて、何とも仕方のない。楽曲が終わる頃には、泣きはしないでも、何だかそんな感じの感情が出どころ不明に湧き出してくる。

 『YHF』時代は『Remember to Remember』と題されてたっぽいこの曲は改めて「ハミングする鳥(ハチドリ)」というタイトルが与えられた。歌詞はおそらく当初からそこまで変わってないと思われる。初めっから物語調の歌詞だったのか。

 

彼の人生のゴールはエコーになることだった

一人飛び乗って 町から町へ 料金所から料金所へ

彼女を忘れるべく 固定銃剣は偉大なる南西部を貫いてく

彼女は彼の夢に現れてしまう でも車の中でも 腕の中でも

夢には如何なる意味も持ちうる

テレビセットの安っぽい夕日で彼女は動揺させられる

でも彼は無理だった

 

ぼくを思い出せるよう覚えてて まだきみの過去に居座ってる

ハチドリみたく素早く浮かんでくよ

 

彼の人生のゴールはエコーになることだった

周囲を漂っては 羽根のごとく戻ってくるような感じの音に

でも喧しさの極みなマンハッタンの深いクロムの谷では

誰も 彼のことも 何も聞こえちゃいなかった

だから彼は山で眠った 寝袋の中 星空の下

寝て起きて それらを数えて

そして大いなる天の川の灰色の噴水飛沫が

彼が一人で死ぬなんてことをさせてはくれなかったろう

 

ぼくを思い出せるよう覚えてて まだきみの過去に居座ってる

ハチドリみたく素早く浮かんでくよ

ぼくを思い出せるよう覚えてて まだきみの過去に居座ってる

ハチドリみたく素早く浮かんでくよ

 

こうして見ると歌詞も いよいよミュージカルだなあ。かつての恋人を振り切るべく都会に出てきて、でも都会の喧騒に埋没しそうになったので、山に籠る、厳しくもファンタジックな光景、そして断ち切れない恋人への想い、“思い出せるよう覚えてて”…。日本語は“Remember”という語に「それって同じ意味なの…?」と思える二つの意味が備わってるから、この歌詞を訳すときにいい感じにニュアンスが出せて便利。そして、このが自分の人格の一部分なんていうのは、あなたはロマンチストも大概だと思います、Jeff Tweedy。

 人気が出ないはずがない、誰からも愛されるであろう楽曲で、ライブでも単独公演なら大体演奏するんじゃないか。大阪公演でも観たはずだけど、ひたすら楽しかったことしか覚えてない。この曲を前に演奏がどうのこうのと言いたくない、ただただ楽しんでエモくてリリカルになりたい、ひたすらそれだけがいい、って感じ。

 

 

6. Handshake Drugs(6:02)

 前曲と同じく前作からの残り物にして本作にまさにジャストフィットな、微妙に感傷的だったりアンニュイなコード感も含みつつ、延々と飄々と平坦に繰り返していく中でどんどんサイケ具合が回っていく、実に本作的な途方のなさを感じさせる曲。ドラマチックにどんどん進行していった全曲から打って変わりまくった平板さ、そのひねくれた曲順構成が実に本作らしい。

 この記事も、というか弊ブログも曲の感じを見てその後に歌詞を見て、というのの繰り返しばかりで平坦で、つまらないと思う向きもあるだろうからたまには順序を入れ替えて先に歌詞を見てみよう。

 

(🤝)

何かするためにガムを噛んでたんだった

しずくの溜まった上にブラインドが下されていた

内側 愛の外側 なんて笑顔 きみを探してるんだった

 

(💊)

サクソフォンにブッ飛ばされはじめた 音に埋もれた

タクシーがぼくを連れ出してくれた

ダウンタウンで買った握手ドラッグに

ダウンタウンで買った握手ドラッグに

 

彼らの翻訳は下手で ぼくはまるでピエロになった気分

まるで昔の知り合いみたいだった 大丈夫だって思った

これまでぼくがぼく自身であれたとしたら あの夜は違った

 

(👨)

ああ ぼくに望んでること言ってくれていいんだよ

それしかぼくが一緒にいる方法ないって信じてるんだ

正確にぼくにどうなってほしいんだい

 

(👨)くりかえし

 

(🤝)くりかえし

(💊)くりかえし

(👨)くりかえし

 

目が痛い一節があった気がする…。わあー歌詞の方でも繰り返しが多い。いい具合にぼんやりと剣呑さが漂う歌詞だけど、ところでタイトルの語の意味がよく分からなくて困ってたら、Geniusにある注釈にこんなことが書いてあった。

 

街の路地で巧妙にドラッグを買う場合、握手をしてる間にお金とドラッグが人から人へ個別にわたされることがしばしばあります。

 

知りたくなかったなそんなこと。そういえばこの曲も動物は出てこないみたい。

 さて気を取り直して曲の方を見ていくと、冒頭のアコギは音量が小さすぎて殆ど聴こえない。えっこれ何聴かせる気あるの…?ってくらい小さく、別にその後前に出てくるわけでもない。意図も意味も不明なままごく小さな音でおそらくは鳴り続け*19、すぐに演奏に埋没してしまう。マジでなんで…?それを除けば、イントロだけ少し感傷的なフレーズを弾くピアノと、案外ウネウネと動き続けるベースを軸に、メロディの取り立てたオチがある訳でもない、どこにも行き着かないような演奏と歌が延々とマイペースに進行し続ける。シェイカーやタンバリンの非ドラムセット的な賑やかさも、こののっぺりした具合からは妙なものに聴こえてくる。

 そうかこれは古のThe Velvet Undergroundとかくらいまで辿れる系のサイケな平坦さを志した楽曲の一群に連なるものなのか。同じ音を定期的に繰り返し続ける伴奏も聴いててぼんやりしてくる。途中から奇妙に角を消された形で入ってくるギターの音らしき何かは、的確に勢いを去勢されて霊的な部位だけ残されてるような感じだ。何ならそういう音で間奏のソロを取るし、というか中盤くらいからはこのリードこそが曲の主役とばかりにオブリにソロにと出てくるし、4分を超えた辺りくらいからいよいよこのギターがノイズの如く吹き荒れて、やがてフェードアウトしていくリズムを尻目にいよいよ楽曲をベースなどとともに占拠してしまう。ベースもフェードアウトすると、いよいよこの完全に抽象的になった謎の音が楽曲の全てになり、短くない時間それでも楽曲は終わらずに延々と鳴らされ続けるに至って、のんびりしてたはずの楽曲は、一体どこに連れて行かれてしまったんだろうか、というアブストラクトさの極みな空間に放り込まれてしまう。それにしても誰の演奏だろうな。クレジットだとJeffとJimがエレキギター担当だけども。

 ライブだとアコギの音がもっとずっと大きい音でミックスされ、割と存在感あり続ける。ライブでもあの亡霊的なギターはしっかり再現され、シューゲイザー的な過剰さにまで行かずにしっかり制御され続ける様子には職人技を感じさせる。というかどうとでもアレンジできるこの曲はまさにライブで色々変化つけられる機会で、大阪公演で見た時にはドラムが途中までシェイカー振りながらドラムを叩き、途中からはマレットに持ち替えてドスドスいわせるなどやりたい放題だったなあ。隙あらば変なことしようとするドラマーGlenn Kotche。

 

 

7. Wishful Thinking(4:37)

 ここから2曲は割と『YHF』の続きみたいな雰囲気を感じないでもない、程よく現実感のないドリームポップ気味の曲が連なる。エレキギターも2曲とも入ってない。こちらはより落ち着いた雰囲気で、蒸気に満ちた奥まった場所で奏でられる音楽のようなフォルムをした、本作でも最もソフトな楽曲。ちなみにタイトルの2単語で「希望的観測」という意味になるそう。

 冒頭からエフェクトめいた音ばかりが反響し続け、なんというかメロディ的なものがなかなか聞こえてこない。40秒くらいからアコギのコード弾きの音が微かに聴こえてきて、この辺からようやく曲らしいのが見えてくるけども、それでも歌は始まらず、上記めいたエフェクトばかりが立ち込めていく。ようやく歌が始まる1分10秒過ぎには、ここで一気に音はくっきりとし始め、それでも蒸気めいたシンセの溶け切った音は存在感が強く、歌のまろやかさもあって、まだ夢の中のようなぼんやり具合を抜けない。この曲の間はずっとそんなものかもしれない。タイトルコールを含むメロディの収束地点では、ピアノと共にポロポロとこぼれ落ちるような感覚がする。

 最初に出てくる最後にタイトルコールの入るセクションをサビとすると、不安定そうなところから始まるサビに対して、サビじゃない方のセクションはキーのコードから始まる実に安定した具合で、それぞれのセクションの普通に繋げたら微妙に違和感ありそうな感じをドリーミーな音像と毎回のブレイクとでそっと繋ぐのがこの曲の特色。ドラマチックな抑揚という感じはしないが、代わりにどこかしみじみとした印象が湧く。曲の終わり方も、フワッとした手触りをして終わる。その点についてさりげなくよく徹底してある。

 歌詞は、特にヴァースの方が短く切れたフレーズ群がどこまでが文章として読むべきか分かりにくくて翻訳しづらかった。何を言おうとしてるのか、意味してそうなところが難しそうでよく分からないけど、何か優しいアドバイスをしようとしてるんだろうなとは思う。

 

(サビ)

知りうる限りのことで心を満たすんだ

きみの身体がそれら全部解き放つだろうことを忘れずに

知りうる限りのことで心を満たすんだ

希望的観測ってやつがないとぼくらどうなってしまうのか

 

鎖付きの部屋 赤いプラスチックの口が付いてる

外側の内側 誰も見つけられないような

鳴った鐘の止め方*20 そういうのと同じさ

ターンテーブルが唸る 呪文を詠唱する

圧力装置 要するに地獄

役に立たないのなら 歌う価値のある歌なんてあるのかな

 

(サビ)くりかえし

 

腕を精一杯広げてみて ぼくらできみのドレスを脱がす

ある恥ずかしい詩は きみに恋してひとり寂しい時に書いた

これらのラインは取り払った 街路を輝かせるべく

膝を抱えてるのから立ち直った

きみがぼくじゃないことの幸運に感謝すべく

 

希望的観測ってやつがないとぼくらどうなってしまうのか

希望的観測ってやつがないとぼくらどうなってしまうのか

希望的観測ってやつがないとぼくらどうなってしまうのか

 

この曲も動物は出てこない。

 本作20周年ライブだったのか…!という今回の来日3公演だったけど、この曲と次曲そして『Less Than You Think』は演奏しなかった。まあなんとなく仕方ないか…。

 

 

8. Company in My Back(3:42)

 こちらは前曲よりももう少し現実味がある感じというか、少々泥臭いコード感・リズム感・メロディに始まり、それが次第にコミカルでサイケなサウンドに接続されるという、Neil Young不思議の国のアリスをスムーズに行き来するような雰囲気の楽曲*21。そんな印象の割には歌詞が意外な方向だったけども。

 そもそもイントロのアコギのリフからしてちょっととぼけたところがある。もしくはなんかこう、ネジかゼンマイか何かを巻くような感じというか。というかこのアルペジオ、3カポでAのローコード押さえてそのまま弾けてしまうシンプルなもの。こういうシンプルでおもちゃじみたイントロからは、歌に入ってからの思いの外アンニュイな感じは少し意外かもしれない。ヴァースの基本構成となるⅠ→Ⅴmというドミナントマイナーのコード進行はJeffがしばしば使うもの*22。このコード進を繰り返すヴァース前半に対し、ヴァース後半は箇所によって言葉数にムラがあり、小節を持て余してる感のある時もあれば、サビ前ということで言葉数を増やしていく場面も。

 サビも引き続きアンニュイというか、まずメロディが下がるところから始まる。ダルそうながら言葉数は結構多く、そしてサビ終わりのタイトルコールに至ってようやくポップな雰囲気を持ったかと思うと、一気にアコギを複数重ねて織りなすスペクタクルめいた雰囲気に。それまでのダルい感じが何だったのかと思えるくらいのこの抜け方。その自由自在な変化の仕方は、本作前半のムードとは少し異なると言えば異なる。

 この曲の場合、そんなどこかメルヘンじみた仕掛けを持ちながらも、歌詞においては案外妙に艶かしいというか、割と具体的な“嫌な”シチュエーションを歌ってる。

 

愛を胸にぼくはブッ込む ピュアな虫と美人

唇を丸めて きみへと這い寄る

愛を胸にぼくはブッ込む ピュアな虫と美人

唇を丸めて きみへと這い寄る

きみにとっての正午ごろ ぼくは吐いてしまってた

 

(💕)

ぼくは緩慢に動き しっかり手を潰してて

なんてこった! 後ろに連れ込んじゃったのがいる

ぼくは緩慢に動き しっかり手を潰してて

なんてこった! 後ろに連れ込んじゃったのがいるよ

 

その柔肌を隠しなよ 陽の光が眩しくて悲しいね

ぼくの眼を聞きな

その柔肌を隠しなよ 陽の光が眩しくて悲しいね

ぼくの眼を聞きな

ラジエーターが唸ってる音がするね

 

(💕)くりかえし

 

ゆっくり学ぼうね 古からの燦然と輝く美のことを

フライトを曲げようかね

ゆっくり学ぼうね 古からの燦然と輝く美のことを

フライトを曲げようかね きみの曲げた膝の下に

んでぼくは必ず死ぬ 必ず死ぬ 必ず死ぬんだから

きみもぼくを覚えられるね

 

(💕)くりかえし

 

これ要するに「昨夜酔って覚えてないけどなんかヤッちゃったらしい人が朝自分のベッドにいる」みたいな歌らしい。Geniusではそういう方向性で妙にイキイキとした注釈が複数付けてあった。なんでこんな歌詞を?というか動物関係ないし、繰り返し多いな。

 

 

9. I'm a Wheel(2:33)

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『YHF』ライブの頃から演奏されてることを示す資料。少人数での演奏から生まれたからスカスカなアレンジなのかも。

 

 本作唯一のサイケ的な仕掛けの無い、代わりにえらくスッカスカなアレンジで纏められた、やけっぱちな勢いのあるガレージロックナンバー。1曲くらいはこういうの入れたかったんだなって感じ。それでも本当に1曲で我慢したことが『Kicking Television』がアルバム収録から外れていることから分かる。確かに1曲くらいこういうのがあった方が聴いてて助かる感じはある。

 曲の始まりからギターとベースがドスドスいわすドラムの上で早々にメインリフめいたラインを反復する。この手っ取り早さ・勿体ぶらなさ。クレジットを見ても『YHF』の頃の4人だけで演奏が完結していて、普段キーボーディストのLeroy Bachもエレキギターを弾いてる。確か『YHF』のツアー中にはすでにこの曲も演奏されていたはず。それにしても本当に身も蓋もないほどの装飾的な音の少なさ。この時期の他の楽曲と比べたら、スッカスカとしか言いようのないほどの。この曲に関して言えば、いきなりシンバル全開にせずにハットをそこそこ絞って叩くドラムもまたこのスカスカさに的確に貢献してる。というかこの曲だけ本作で唯一ドラムがタイトでシャープな動き方をしてる。まあ他にそういうことが出来そうな曲がないけども。ボーカルも妙に絞ったような歌い方がロックンロール的コスプレ感。特にブリッジ箇所の無意味な早口言葉は笑う。

 そしてサビの箇所の開放感。特にシンバルを叩きまくるドラムの動き。ギターはしかし一方がいい具合のシャープさを維持していて、オルタナに対する製作者の意識の有りようを感じさせるアンサンブルになってる。そこからのキメ連発のメロディの閉じ方も本作のここまでになかったタイプの愛嬌を全開にしてる。まあこういうアホっぽい愛嬌を極力排除したキリキリ感が本作の魅力ではあったよ。

 えっこの曲の歌詞も訳すの…?意味殆どない歌詞だよ…。

 

あっちょっと待って

きみ オイラを興奮させるリスクがあります

いつかドイツで「Nein」って誰か言ってた

123456789

ああちょいと待って ぼくを誘わないでよ

123456789

いつかドイツで「Nein」って誰か言ってた

 

オイラはホイール そうするぜ かましちゃうぜ

 

ああ 妹を発明しちゃった ナイフと一緒に住もう

あああああああああ ああああああああ

 

オイラはホイール そうするぜ かましちゃうぜ

 

ああ オイラはホイール そうするぜ

オイラはホイール そうするぜ

オイラはホイール そうするぜ かましちゃうぜ

 

きみにかましたるぜ かま かましたる かましたる

きみにかましたるぜ かま かましたる かましたる

きみにかましたるぜ かま かましたる かましたる

 

このアルバム、前曲ともども、後半案外歌詞がテキトーじゃないか…?流石にホイールは動物の名前じゃなかろうし…。

 まあ間違いなくライブ向きの楽曲だけども、意外にも今回の『A Ghost is Born』祭りめいたセットリストの来日公演の中は東京2日目の一度しか演奏されてない。『A Ghost is Born』祭りをする中で強調したい点はもっと他のことなんだろう。

 

 

10. Theologians(3:31)

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正直影の薄い公式ベスト盤にも収録されてる曲だそう言えば。

 

 アルバムタイトルを歌詞に含む、端正なソングライティングと丁寧なアレンジ、何より最初の間奏終了後のコード進行の変化の後、ミドルエイト以降の展開の静かな壮絶さに様々な想いとイメージが注ぎ込まれた、本作随一の名曲。と同時に「神学者たち」なる、急にどうしたの…と言いたくなるタイトルをしていて、歌詞を見ても誰の視点だこれは…とちょっと何がどうしたんだろうと驚かされる、も、曲が良すぎる。

 イントロのピアノの時点でこう、気品というか、約束された何かというか、テンポ的にはもったいぶった要素のないサクサク進行するテンポだけども、優雅でポップながら何か張り詰めたものも感じさせる、いい緊張感が急にアルバム中に現れる感じ。楽曲のタイプは違うけども、『Sexy Sadie』とか『Karma Police』そういうロック的なヒステリック感が残ったクラシカルなピアノの感じというか、そういうのをこの曲からも感じる気がする。別にそんな腐り果てるようなコードではないけども。

 イントロからすぐ演奏も歌も始まり。Ⅳのコードから始まる端正な雰囲気の中、歌はえらく隙間の多いメロディを、オクターブ上を歌うコーラスを常に伴いながら進行する。このコーラス、ファルセットのみではなく、所々によりむしろメインよりも厳しく難詰するような響きを有しているところが、この曲の歌詞とも合ってるんだろうし、この曲の緊張感の大事な要因になってる。装飾的なアブストラクトな音が付く訳でもなく淡々と進行するのに、だからこそなのか、この曲はどこか刺々しい気品を持つ。ヴァースとブリッジの、それらだけではどこにも辿りつかないようなメロディなのに。

 この曲の本領は間奏の後、それまでよりも不安を煽るコード進行に移って以降の流れにある。ミドルエイトというよりもむしろ大サビと呼んだほうがいいのかもしれない、この曲の核心部分だ。メロディの安定感はここで失われ、どことなく不安を煽るコード進行の中*23、歌のメロディもどこか心許なげな雰囲気を醸し出し、そしてそれが演奏もコードも歌もより激しく変化する際のエモーショナルさは、Wilcoはおろか、世界に星の数ほどある楽曲を見渡しても、この曲でしか得れない類の迫力があると思う。全く何もこの箇所について上手く話せてないけど、この、アルバムタイトルのコールに至る箇所の素晴らしさをもって、この曲こそ筆者が個人的にWilcoで一番好きな曲かもしれない、と思うくらいには。もちろんその後の普段のテンションに戻った上でどこか寂しく終わっていく余韻も含めてだけども。

 歌詞について。「神学者たち」なる正直日本で聞きなれない単語のタイトルだけども、歌詞冒頭からその「神学者たち」への文句で始まるこの曲は、歌詞を読んでいくと、そういうことを話しているこの人は一体誰…もしかして…ジーザス!という曲で、聖書の引用らしき記述さえあって、マジで何で、どういう意図でこんな歌詞にしたんだろうと、ちゃんと考察しようとするとひたすら困惑しそうな内容になっている。

 

神学者たちは何も知りはしない 我が魂 其れに就いて

我は大洋 そして感情はスローモーション スローモーション

「信仰は文盲を照らす」*24 神は日々我らと共におられる

その無学なる光は毎夜 我らと共にある

 

神学者たちは何も知りはしない 我が魂など マジで知らん

彼ら 些事に依て我が心を また変化にて我が生を薄めん

ああ 様々な御業にて 我は日々更に 足りないものを探さん

 

我は去らん 其方らが我を探そうとも

我が向かうは 其方らには立ち入れぬ地

如何なる者とて我が生を奪うことは能わぬ

我その生をここに捨てる

亡霊が生まれる 亡霊が生まれる 亡霊が生まれる

 

我は観念なり 我は感情総てなり 我は新しき亡霊なり

やあ 我は新しき亡霊

 

正直、“ghost”という語を「亡霊」と訳してはいけないのではないか、霊魂とかそういう訳をすべきなんだろうか、とニュアンスを図りかねてるところ*25。あと、「亡霊」を動物カウントしていいのかはよく分からないところだけど、もしカウントしていいなら、この曲こそ上述のJeffの「自分は本作で死ぬけど、遺る者へ残す物」としての本作の意味合い、特にアルバムタイトルの意味合いがとても変わってくる*26

 本作的な器楽的挑戦の感じは薄いけども、そんなの関係ないくらいの重要曲なことはアルバムタイトルが出てくることやベスト盤収録などからも感じられる。ライブでもしばしば演奏される曲で、先日の日本公演全日で演奏済み。なんというか、演奏を観ててすげえとか引き込まれる、という感じじゃなくて、曲そのものに強い引力を感じるところなので、この曲については「ただただこの曲の素晴らしさをまた*27感じれた」というライブ感想になる。

 

 

11. Less Than You Think(15:00)

 Wilco版『Motionpicture Soundtrack』と言えば聞こえはいいだろうけど、冒頭のピアノバラッドの部分が終わると、あとは延々と作者の偏頭痛を模したというアンビエントノイズが10分以上流され続ける、作者公認で「ファンの99%から嫌われるだろう」と発言された楽曲。というか、前作の最終曲『Reservations』も似たような構成だけど、感動的な広がり方をする『Reservations』に比べると、こちらはもっと内面に落ち込んでいくような性質のバラッドと、バラッド部分だけについても言えそう。

 始まりから3分までのピアノバラッド部分についてはひたすら美しく、ここにケチをつける人はそういないだろう。不思議なエフェクトが遠くで鳴ってるのをバックに重たくも優雅に奏でられるピアノと、Jeffのメロディセンスの最もナイーヴな部分を丁寧に引き出して丁寧に歌い上げる様、それらのみで構成された世界観は、ただただ美しく、そしてそれらが『Reservations』と違って、決して力強さに結びつかない、ひたすら内面の闇とか虚無とか感傷とかに回収されてしまう、そのことによる美しさが生じている。歌が終わって数分ノイズが続いて終わったら、7分くらいまでに完結する楽曲だったら、この曲も名曲とされてたんじゃなかろうか。

 3分以降延々と続くアンビエントノイズ。冷蔵庫の唸りのような、照明のノイズのような、電気的の発生しているノイズといった気配のそれが、残りの12分間を延々と流れていく。恐ろしいのは、この曲はJim O'Rourke含むメンバー全員がシンセを担当しており、この延々と連なる音像を作るべく、様々なシンセ演奏を試みた結果作られたものであるということ。次第にノイズの音が大きくなり、アンビエントとして聴くにしても不快なノイズの感じが増していくけども、これはJeffの生来からの持病で、本作のレコーディング中に特に苦しめられたという偏頭痛のパターン周期を模したもの、だということなので、リスナーが何を思おうが、話は初めから通じない。大人しく、飽きたなと思ったところで次の曲へ飛ぶボタンを押すか、もしくは何かの気まぐれで最後まで聴いてみたりしよう。ヘッドホンで聴くと、結構色んな音が入ってるのが分かるけど、その前に気が変になりそうにもなる。14分になる前くらいから急に音量が小さくなり始め、最終的にはほぼ無音がしばらく続いていくことになる。

 歌詞の方は、相手の精神が少しでも解放されるよう祈るような、そんな話だろうか。拳周りの話が観念的でかつ唐突で「?」って感じだけど。

 

きみの精神は機械仕掛けで 致命的で退屈だ

決して静止したことはなく

その意思は決して自由であったこともない

ハイピッチなドラムを軽く叩いて

 

きみの背骨が輝き始めると 魂は震える

拳がとても鮮明に駆け上がり 空に穴を開ける

それできみも自分で確かめられるようになる

もしぼくを信じないのなら

これはきみが思うよりも遥かに少なくなるさ

 

殆どは消えてしまった 夜は溶けていく

神が稲妻で焼き付けるべく持ち上げたカップの中で

軽く叩く ピッチを高くされた上でハミングする

 

きみの背骨が輝き始め そして魂は震える

拳がとても鮮明に駆け上がり 空に穴を開ける

それできみも自分で確かめられるようになる

もしぼくを信じないのなら

これはきみが思うよりも遥かに少なくなるさ

 

 驚くのは、こういう曲もライブで演奏をしてること。以下のライブではエレキギター弾き語りで、よりにもよってライブの1曲目として演奏されてる。さすがホームのシカゴ…。歌部分の終盤のバンドアレンジはこうなるのか…!という驚き。そして3分半以降は、スタジオ版よりももっと音の実験って感じの分かりやすい、シンセ中心のインストゥルメンタル。これだったら観てみたいかも…!先日の日本公演では演奏なし。

 

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12. The Late Greats(2:30)

 長い長いアンビエントノイズの果ての無音の後にようやく現れるのは、実にストレートな形でThe Bandなグルーヴを自分たちの手で再現し、かつ本作的なサイケな仕掛けもアクセントとして欠かさない、コンパクトに纏まったポップで爽快なロック。えらく意味もなく勿体ぶり続ける歌詞といい、最後の最後で元気を出してくる本作のWilcoとJeff。エレキギターをJim O'Rourkeに任せたのも、一発録りのためなのかな。一発録りだったのか知らんが。

 冒頭の荒いアコギのストロークとドラムの感覚からして、これまでのアルバムの内容がなんだったのかと思えるくらいカラッとしたものが来る、という確定演出のようなもの。果たして、歌が始まって以降も、その歌自体の実に乾いた抜けの良さ、ベースの歪んだ音でグイグイ来る感じなど、目指すべきものが明確にあるが故の風通しの良さがひたすらに感じられる。The Bandを道標とした、アメリカの土と空気とレコードの歴史とか何とかを感じさせる雰囲気。そういうのをブンブンと勢いよく振り回すことに、相変わらずこのバンドは長けている。Jim O'Rourkeもそういう方面の引き出しが実は豊かにあるんだなあと思わせるいいタッチのエレキギターを弾く。しかし本当に何でこの人がリードを…?そんなに長くないメロディでひと回しが完結してしまう呆気なさも伝統音楽の感じがしてカラッとする。

 この曲で唯一本作の収録曲であることを意識した感のあるセクションが1分過ぎから始まる。演奏が一旦ブレイクし、えらくリヴァーブの効いたピアノの単音を軸にして、実に本作的な、エフェクトオンリーって感じの演奏が立ち上ってくる。指揮棒のようなピアノにもどんどんディレイが効いて、いい具合に音像がグワングワンにカオスになったところで、指揮棒のピアノがフレーズを入れて、元のカントリーロックな演奏に帰っていくところは、まるで精霊との交信の儀式の終わりかのような、そのまま祭りの続きに入っていくかのような勢いを感じさせる。ギター発と思われるノイズは、演奏のキメの箇所で概ねかき消え、代わりにラグタイム的な軽さを有したピアノが間奏のリードを握った後、最後のヴァースに向かっていく。2分半でサクッと終わってしまうけども、最後のワース終了後のメインリフの改まった寂しさは不思議なもの。

 歌詞は、それにしても本作最後にえらく人を食ったような内容を歌うもので。

 

史上最大の「失われたトラック」

それはThe Late Greatsの『Turpentine』だ

ラジオじゃ聴けないね どこ行っても聴けないよ

 

最高のバンドってのは決して契約サインなどしないもの

Butcher's Blindが参加するK-Settesなんて

とても素晴らしいけど 知られることはないだろうね

彼らは今まで一度もライブをしたこともないんだ

無論ラジオじゃ聴けないね

 

ロックンロールバンドで最も偉大なシンガー

それはRomeoじゃないとだね

彼の声帯は金で出来てる ちょっと老けて見えるかな

 

史上最高の歌はこれからも歌われることはないね

最高の人生が肺から離れてくことがないように

とてもいいけど 知られることはないだろうね

ぼくもラジオで聴いたことなんてない

ラジオじゃ聴けないんだ

 

本当に最高なものにはついぞ出会うことができない、と嘯くその心は、ある種の皮肉なのか、諦観なのか、それとも祈りだろうか。ともかくこうやってお題で引っ張る歌詞はJeffには珍しい感じもあるけど面白い。というか曲タイトルは架空のバンドの名前なのね。そして動物はこの最後の曲でも特に見当たらんね。

 短くも無駄なくThe Bandでかつちょっとだけアブストラクトなこの曲は、まさにこのバンドのいいとこ取りのような曲なので、ライブでもしばしば演奏される。大阪公演でも、アブストラクトセクションでの溢れ出るものが、その後の間奏のキメでサクッと消失する箇所の切り替えの良さが効いてた。

 

 

ex 1. Panthers(3:49)

 ジャングルの奥の密教じみた雰囲気が楽曲を支配する、明るい⇄暗いといった尺度で測れない質感の、なんか超越的な楽曲。『Muzzle of Bees』がまだ全然人懐っこい曲に聞こえてくるくらいには超越的なところがあるので、実に本作的な属性だけども、やりすぎた感じを覚えて本作本編から外されることとなったのか。この非キリスト教圏に迷い込んだ感じはこのバンドの他の曲ではまず得られないものだろうし、希少価値がすごい。

 イントロからして、これは何の音楽だろうか…というところに放り込まれる。当然カントリーでもフォークでもなくロックでもなく、またクラシックでもジャズでもブルーズでもない、おそらく現代音楽的な部分ともちょっと異なるような。わりかし近そうなのは、どこかの怪しい寺院から漏れ聞こえてくる音楽、もしくは『Amnesiac』以降のRadioheadみたいなテイストが。リズムの入り方といい、呪詛的な音楽という感じ。これはヴァース部分の進行までワンコードか。延々と2音を反復するアコギのリフが繰り返されていく様は催眠術的にも思える。たまにえらくスタイリッシュなピアノのリフに変化するのも、そういう儀式の一場面みたいな厳かさがある。

 1分前後くらいからコードが不穏なものの間で動き出し、メロディらしきものが生まれるけども、このパートはサビ扱いになるのか、それでもまたポップなものとは程遠い。それでも、その流れが尽きた際のブレイクにはハッとさせられるものがある。そこから元のワンコードに引き戻されるのは虚しさが漂う。この辺の展開は後半にももう一度あるけども、そちらはより曖昧な音でサビを引っ張り、聴く側の不安はこの辺りでとりわけピークに達する。その後元のフレーズに戻って、最後ヒステリックなドラムのフィルインとともに途絶える様は、えらくドラムの質感が生なことも含めて妙に不気味だ。

 歌詞を見るに、なんとなく、本編以上に剣呑な雰囲気で、これはとりわけ、神経がまいってる人の書いた詞だなと思わせられる。本編から選外になったのは、不吉な内容ばかりの歌詞のこともあるのかもと思った。そしてそれは、自伝で挙げられていたこの時期の不安やら、災害と後に遺る者への餞別みたいな思想、そして死が、一番直接的に表出してしまったからなのかもと思える。自伝と並べて読むと、かなり露骨だ。

 

機嫌というのは弓を引くためのパッケージだ

愛しい人 災害によってあなたは成長する

彪たちは埋めるために自分の血を作り出す

娘たちは結婚すべく親元を離れてく

 

雑草に隠れよう

オーケストラがまた死を宣告してる

 

期限というのは赤い瞬間が走るそのワープの速度だ

また 鳴り響く鐘全てに神は禁止を 神は禁止を言い渡す

ぼくはそんな瞬間の連続の中できみを捕まえたか?

ぼくはそんな瞬間の連続の中できみを捕まえたか?

 

ぼくと一緒に雑草に隠れよう

ぼくは死を宣告するつもりだ

雑草の中でまだ生きてる

オーケストラが死を宣告してる

 

確かに、間違いなくこの時期で一番思い詰めた内容してる。これは逆に本編から外して正解だったのかもしれない。この曲がメインになるようなアルバムを作ろうとしたらいよいよ『Amnesiac』みたいなアルバムにしないといけなさそうで、そうなると作中に『Hummingbird』みたいな曲の居場所は無くなるだろう。まあWilco版『Amnesiac』もそれはそれで見てみたい気持ちもしてきたけど。

 

 

ex 2. Kicking Television(2:49)

 Televisionからの影響バリバリのロックンロールを作ろうとして、勢い余ってリスペクト先さえ蹴飛ばしちゃった、みたいなタイトルかは知らないけども、ともかく神経質さをオーバーなまでに表現したロックンロールナンバー。明らかに『I'm a Wheel』との競合に敗れて本作本編から外された風だけども、なんかライブ盤のタイトルに抜擢されたりで名前自体はむしろやたら目立つようになった。

 イントロの刺々しいガレージロック風な乱暴なコードの並べ方と弾き方。ライブだともっとワイルドな感じになるけどスタジオ版だとシャープな歪みでなされるため、よりニューウェーブ的な感触寄りかも。ボーカルも、『I'm a Wheel』がポップに聞こえるようになるくらいにはブロークン気味。

 演奏がグワーっと叩き込みまくった後に突如ブレイクしてリフを合図にタイトルコール的なフレーズのサビのセクションに入る、その切り替わりの唐突な感じがまたそれっぽい感じ。しかしその合図のリフがまあ実にTelevision。尊敬し直接の影響元でもあろうTelevisionを蹴っ飛ばす歌で本当に良かったのかJeff Tweedy?バカバカしいからこれでいいのか。この曲はピアノが入ってるのがよりバカバカしさを増してくる。2回目以降のサビのピアノの無駄な連弾やら、間奏箇所での無駄にアブストラクトな音像を挿入してくる様など、バカバカしさは『I'm a Wheel』以上でなかなか変な形で楽しませてくれる。曲の終わり方のグダグダさとか。

 これも『I'm a Wheel』と同じく歌詞はともかくバカだなあ。『Panthers』との温度差は凄い。

 

ぼくは真剣さ 分かるだろう

腹筋に取り組んでるんだ 自分に取り組んでる

ああ 蹴っ飛ばすぜ ええ 落ち着いてますが

ああ蹴っ飛ばすぜ テレビを テレビをねえ

 

ショッピングを止めろ むしろもの買うの止めろ

蹴っ飛ばすぜ ああ 落ち着いとるが

ああ 蹴っ飛ばすぜ テレビを テレビをよォ

 

ぼくは真剣さ 見りゃ分かるだろう

蹴っ飛ばすぜ ああ 落ち着いとるが

ああ 蹴っ飛ばすぜ

テレビを テレビを テレビを テレビをよォォッ!

 

 もしかしなくてもWilcoの中でも最もアメリカンなロックンロールを離れてもっとせせこましく神経の芯からうんざりするようなパンクの勢いを有した曲で、だからなのかライブで演奏する時のJeffはなんかもう色々から解放されてる感じがする。来日公演で見てみたかったな素っ頓狂なシャウトをするJeff。

 

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・・・・・・・・・・・・・・・

終わりに

 以上、アルバム本編は12曲で67分26秒、プラス2曲分のレビューでした。

 書いてて思ったけど、このアルバムの解説に紛れ込ませるだけじゃあこの前観たライブの一部しか書けないなあと。他の曲も全部すごかったので、そこは言っておきたい。

 Wilcoのアルバムの中でも、やっぱり本作は1番の変わり種だと書いてて改めて思いました。いい感じのサイズ感に収めることを放棄した感じがあり、気が済むまでやりたい放題にし続ける、というスタンスは、ジャムセッションからの派生とかだと出てきそうな感じですが、重要なのはこの時期、ジャムセッションなどやる余裕がなかったであろうJeff Tweedyが一人で色々案をこねくり回して捻り出した結果がこの長尺なんだろうなと思うと、不思議でならない気がします。そういうのは特にアルバム前半に固まっていて、この前の日本公演でも前半部の曲を多く取り上げてたことを思うと、彼にとってもこのアルバムとは特に前半部なのかなあと思ったりします。後半も悪くないけど、良くも悪くもよりいつものWilco的なところはあるかも。

 その奇矯さが、リリース当時の賛否両論はあったにせよ、今のバンドにとっては様々な達成のワンケースであり、演奏して楽しそうなイマジネーションの集まりなのであれば幸いだし、そうなんだろうな、ということはこの前の日本公演だけをみても再確認できたものではと考えるところです。

 歌詞の、動物云々はどうなったんだっていうコンセプト倒れ感といい、実に人間臭い作品なんだと思いました。色々と捻じ曲がった部分があるからこそ、そこがかえって人間臭いんじゃないかな。。という、そういう、鬱とか薬物中毒とか何とかを半ば無視してちょっといい話っぽい感じに纏めてしまいたい、そんな気もする20周年作品でした。『YHF』の時みたいなスーパーデラックスエディションみたいなのは多分出なさそう。本作にそんなこれ以上のデッドストックが沢山あるようにも思えないし*28。むしろまた新作を出したりするのかもしれません。そういえばこの前のライブ、新作だったはずの『Cousin』から2曲くらいしか演奏してなかったな、とか思い出しました。

 それではまた。

*1:近年出たデラックスエディションでリリースより前のテイクを聴くと、特に『Poor Places』の元々気の良いカントリーソングって感じがリリース版の形で壮絶に解体され再構築された事実にはちょっと怖さすら覚える。

*2:重度の薬物依存をはじめとする彼の悪癖については他のどこかのページなり弊ブログの『YHF』関係の記事なりを参照。

*3:その気になればLeroyがギターを弾くこともできるんだろうけども特に『YHF』期の大体の楽曲は鍵盤が印象的な上、エフェクト担当できるキーボードがいないと曲の重要な部分の再現が概ね出来なくなってしまう構成なので…。

*4:というかJay Bennettの件でうんざりしてた直後だから、そんなものを他者に要求すること自体をJeffは避けたがってたかも。

*5:この辺の顛末はすべて自伝に書いてあります。本作の制作状況を含む第9章『ガラス瓶のなかのトビー』はあの本の中でも一際痛々しいセクション。

*6:それにしてもJay FarrarにJohn StirrattにJay BennettにJim O'Rourkeと、Jeff Tweedy周りの人物はどうしてこうも“J”始まりの名前が妙に多いのか。

*7:ケシから抽出されるアルカロイドを含む、アメリカでは処方箋さえあれば処方されてしまう鎮痛薬。モルヒネやヘロインと同じ成分ということで依存性が強く、アメリカでは社会問題となっており、日本含むアメリカ国外では承認されていないような薬物。音楽関係の著名な依存症患者にはEminemCourtney loveなど。

*8:まあ『The Late Greats』は他人に任せたけど。

*9:Star Wars』は少し当てはまる。

*10:そういえば本作の時期、Jim O'Roukeは同時にSonic Youthのメンバーでもあったなあ。同じ年に彼も参加した『Sonic Nurse』という、しょーもねーダジャレのくせにキャリア随一の傑作をリリースする。

*11:ラジオ等でかかる際により大きな音量で聴こえる方がインパクトがあるため、マキシマイザーなどで楽曲を“海苔波形”になるまで音量を上げてしまう、結果音の強弱がないのっぺりした音質の楽曲が出来上がる、そういった楽曲が増えてしまう状況を表した語。

*12:逆にこれとさらに次作『Wilco(The Album)』はなんでラウド音質なんだ…レーベル自体がラウドネス・ウォー真っ盛りだったのか…?

*13:けども、当時の過去の自分にとってはそれが出来うることの精一杯だったとして、今も共感できる、とも言っている。

*14:および観ていない東京公演へのちょっとした怨嗟も。

*15:ダンジョン飯』基準で行けばモンスターカウントでいけそうなので動物か…?

*16:『YHF』期の4人でどうにかライブやってた頃のJeffが見たら泣いちゃうんじゃないか。

*17:『YHF』の最初機の形態の『Here Comes Everybody』の頃から存在し、様々なノイズポップ的バージョンが存在し、そしてどう考えてもそれらの後で実際にリリースされた非ノイズポップ的なバージョンがこの曲のポップさを最も素直に引き出してることが逆説的に分かってくる。

*18:地味にここでファズギターとユニゾンさせるところに、本作のノイジーさを通底させようという意地みたいなのも垣間見得てまた好き。

*19:ドラムパートが入る前の時点ですでにヘッドホン等でよく意識して聴いて初めて存在に気づけるレベル。シェイカーが聴こえ出したらもう耳で追うのも厳しい。ミックス小さすぎる…。

*20:英語のことわざ「鳴った鐘は止められない」(起こってしまったことは元に戻せない、という意味)をもじったものと思われる。

*21:尤も、Neil Young自体にも『Broken Arrow』など唐突な変化をするサイケデリックな楽曲が存在するけども。

*22:他には『I am Trying to Break Your Heart』『If I Ever Was a Child』。一般的に有名な例だと『Strawberry Fields Forever』とか。

*23:コード譜サイトで見た感じ、Dmからルート音を分数で変えていくというのが前半部の進行となってた。そりゃあ不安定な訳だ。

*24:ラテン語で記載。なんでやろなあ。。

*25:ちなみに三位一体の考え方における「聖霊」は“Holy spirit”というそうで、なのでghostとは異なる。

*26:彼曰く、本作に出てくる動物はどれも「方舟に残すべきもの」で「自分の人格の一部分」らしいけど、「亡霊」を動物カウントしていいなら、「亡霊」とは死にゆくはずの自分の人格そのものな訳で、つまり、やっぱ死ぬにしても現世に残り続けたい、っていうか死にたくない、という話になったりしないだろうか、とか思ったり。もはや妄想だけども。

*27:2011年のお台場のライブで観て以来、ということ。

*28:というか何度も没った『YHF』がこのバンドにおいてかなり特殊なんじゃないかなと。