ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『Yankee Hotel Foxtrot』Wilco(12/12 その他・全体の総評)

 当初は2002年の音楽ランキング1位として予定して、結局のところ長く時間を空けてから、12回に分けて投稿することにしたこのアルバムのレビューとも、思い込みの羅列とも、妄想とも取れない、なんかよく分からない気味の悪い文章の、今回が12回目、最後の回になります*1。今更何を書けばいいんだろう。。

 

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Yankee Hotel Foxtrot

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ジャケット

 「マリーナ・シティ、それだけだ」

    アルバムジャケットについて Jeff Tweedy

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 このアルバムが有名になったことで、全世界の多くの人たちに強く意識されることになったであろうこの、シカゴの2本の奇妙な塔が虚空に映る光景は、全然実在するというのがとても不思議。このハニカム状のタワーの下部は駐車場になっていて、実際に観に行くと駐車している車が見えるらしい。というかこの双子のタワー、メインはマンションとのこと。

 シカゴという街の歴史やそのアメリカという国での立ち位置を思うと、Wilcoというバンドの高度な「アメリカらしさ」にまた意味が付与される感じがする。19世紀の大火事によってむしろ計画都市として高度な発展をし、世界で初めて、非常に大都会然とした摩天楼を形成するに至るシカゴの街。そんな街を象徴する超高層ビルが数ある中で、あえてこの不思議な形状のツインタワーを選んでいるところに、Wilcoがこのジャケットにどんな意味を匂わせたかったのかが少し伺える。茶色く色褪せた空に寂しく佇む二本は、このアルバムの歌詞で何度も言及される「何かぎこちない2人の関係性」のメタファーにも取れてしまう。

 しかしながら、Wilcoの制作時の意図とはともかくとして、歴史はこのジャケットの意味を大きく変えてしまう。つまり、911で倒壊したニューヨークの双子のビルディング、世界貿易センタービルにどうしても重ねられてしまう運命に、このアルバムはジャケットの時点で巻き込まれてしまっている。色褪せた空気の中所在無さげに佇む二本はそのまま、当時のアメリカの空気をまさに表象してしまった。それによってアメリカに限らず多くの人々がこのジャケットから静かに強烈な印象を受けたことは、果たしてバンドにとって幸せだったのか不幸だったのか*2

 それにしても、このジャケットのビル以外の空白な部分の面積の多さはビル以上に印象的。むしろビルがあることでそれ以外の広大な空間が虚空であると印象付けられ、そこにそっけないフォントでアルバムタイトルとバンド名が添えられるこのデザインは非常に無機質で寒々しい。しかし無駄がなくかつ抽象的でもなく、とてもクールだと思う。

 時折、アルバムのジャケットが中の音楽性をある程度印象づけてしまうことがあると思うけれども、その点でこのジャケットの荒涼感も、中々に実際の音楽を味付けしている感じがする。まず、このタワーが写っている時点で、このアルバムの多くの光景がシカゴという大都会の中での歌なのかな、と思わせる*3。歌の舞台がどこなのかというのは非常に大切なことだと思っていて、このアルバムであれば、少なくともこのアルバムで歌われる孤独は、都市におけるそれのようだと思えてくるわけで。あとは歌詞のところで触れます。

 

ソングライティング全般

 Wilcoの音楽性が「地味」と言われがちであることの要因のひとつとして、楽曲の作り自体にあまり派手さを出さないことがあると思う。何のことかと言うと、たとえば日本では非常に一般的な「Aメロ→Bメロ→サビ」といった、良くも悪くも大袈裟にドラマチックな曲構造は(そもそも洋楽では中々見られない構造とは言え)Wilcoでも見られない。Wilcoの場合で思うのは、いわゆる「Aメロ→サビ」のパターンもWilcoではそんなに多くないということ。メジャーどころの洋楽ではこの展開が一般的に思われるけれども、このパターンもWilcoだとそんなに多くない。気になるひとは確認してみてほしい。

 その上で、このアルバムの収録曲のパターンを、大きく4つに体系づけてみると以下のようになる。

 

①ヴァースのメロディをずっと繰り返す系統

『I Am Trying To Break Your Heart』が該当する。

こういうタイプの曲の場合、少なくともメロディ変化のダイナミズムでは勝負が出来ないため、もとよりずっと同じ調子であるというコンセプトでなければ、そこはアレンジの工夫で曲の変化をつけていく必要がある。

 Wilcoの場合、このようなタイプの楽曲は色々前例がある。『Misunderstood』(『Being There』収録)ではオルタナティブロック的なグチャグチャした轟音と、オーセンティックな静けさの間を行き来して、最終的に声を激しく荒げることでダイナミクスを獲得している。もう一つの重要な先例は『Via Chicago』(『Summerteeth』収録)で、ボブ・ディラン*4的なシンプルでアコースティックなバンド演奏*5に、フィードバックノイズがずっとまとわり付いて、その濃淡や、時にはバンドが遠方で楽曲を無視した過激な演奏を見せるといった荒技で、基本的に変化しないメロディを妙に劇的なものにしている*6

 それで、今回の『I Am Trying』はこれらの前例をさらにアブストラクトに前進させた構造になっている。ポイントは「基本となるある程度定型のバンド演奏」を排除したことで、同じメロディの繰り返しであるのに、演奏は非常に不安定になっていること。特にドラムは、安定感のある8ビートを普通に叩く箇所が相当に限定されたことで、それ以外のプレイは全てフィルイン、というか、下手をすればギターのフレーズやキーボードと同じような働きをしているというところ。これにJim O'Rourkeのミックスと思われる奇妙で想像力に満ちたパン振りもあり、いつになく奇妙な音空間を構築している。それでいてメロディが、意外と地に足ついたポップさがあるのが重要だと思う。

 なお、『Poor Places』もどっちかと言えばこの系統な気もするけど、一応新しいメロディが登場するので別系統にします。

 

②「ヴァース→コーラス」がハッキリした系統

 いわゆる「Aメロ→サビ」の繰り返しみたいなやつ。

 このアルバムだと、『Heavy Metal Drummer』『Reservations』は明確にこの系統。いわゆる「サビのメロディがつよい」を感じるのは、この2曲くらい。あとは追加のメロディも登場するとはいえ『Jesus etc.』もこの系統に入り込んでくるか。ある程度歌の上手い人がギター弾き語りとかでフツーに演奏して様になりそうなのはこの系統の曲かなと。『Reservations』なんかはそういう弾き語りからとても離れまくったアレンジにされてしまってるけども。

 このアルバム以前のこの系統だと『Monday』『Say You Miss Me』(『Being There』収録)『Can't Stand It』『Nothing'severgonnastandinmyway (Again)』(『Summerteeth』収録)あたりは明確にこの系統かなと。

 

③「ヴァース→コーラス」がハッキリしない系統

 この系統がWilcoの楽曲には非常に多くて、それが日本人がWilcoを「地味」と言ってしまう理由の非常に大きな要因の一つだと私は思っている。デビューアルバム1曲目『I Must Be High』からして、いわゆる「サビ」は存在しないような、よく言えばあっさり目のソングライティング、悪く言えばバンド演奏がなければ曲のフックが分かりづらい作りをしているというか。別の例でいけば、前作の人気曲『A Shot In The Arm』も、はっきりとしたサビメロを持たない曲だ*7。このアルバムより後で見ても、むしろサビがはっきり存在する曲を探した方が早そうだ。サビがはっきりだなと思うのは『Hummingbird』『Company In My Back』(『A Ghost is Born』収録)『Sonny Feeling』『Everlasting Everything』(『Wilco(The Album)』収録)『Dawned On Me』『Standing O』(『Whole Love』収録)『We Aren't The World (Safety Girl)』(『Schumilco』収録)くらいじゃないか。

 上記で列挙した「サビがはっきりな曲」は確かにパンク的だったりアルバム中でも特にポップだったりで分かりやすい。しかし、我々はWilcoのポップさをこれらの曲だけに感じているわけでもない。むしろこれら以外の曲で「あっなんかしみじみしていいな」って良さを感じて、それこそWilco特有の滋養、みたいな部分がないだろうか*8

 その点でいくと、このアルバムもまた、この系統の曲が非常に多い。『Kamera』『Ashes of American Flags』『Pot Kettle Black』などは便宜上ここからサビ、みたいにできるポイントはあるけれども、メロディの切り替わり方はサビに行く!っていう感じは全然しない。『War on War』『I'm The Man Who Loves You』に至ってはメロディの変化はクリシェ的というか、その変化も含めて一つのパートなのかな、という感覚さえする。

 上記のように考えると、11曲中5曲、アルバムの半数近くがこの系統に該当するという。じゃあこれらの曲は地味で、ポップではないのか?そんなことはない、むしろどれもとてもポップだと感じる。そしてこのアルバム的なアレンジと相まって、これらの曲のポップさこそがこのアルバムを聴くときの「ここでしか聴けないから」みたいな、アルバムを聴く重要なモチベーションになっているんじゃないか

 ソングライティング的にこの系統で他に特筆すべきことは、ちょっとしたフックの部分を、特に曲の終盤で効果的に繰り返すことで、楽曲の流れを作っていること。この辺の上手さはうまく言葉にできないけど、この辺にこそ、終盤ここぞという時用のボーカルも使えるJeffというソングライティングの一番美味しい部分があるのかも。

 

④特殊類型

 『Radio Cure』『Poor Places』をこうやって、①②③と分けてみたのは、これらの曲のメロディ構成の変化が、単にサビとかヴァース・コーラスとか言うよりもむしろ、ジェットコースター的なというか、大袈裟な言い方だけど、プログレ的なものを感じるから。

 両者に共通するのは「メロディが切り替わったら楽曲は不可逆的に進行し、元のヴァースには戻ってこない」ということ。『Radio Cure』の場合、はっきりとサビと言えるフレーズを持つ楽曲とも言えなくもないけど、それが1回目はアレンジによりまるで目立たなくなっている。そして再度メロディパターンが変化してからの、それまでの混沌が晴れるような展開の静かな力強さは、そこの良さを一度感じると、それまでの「溜め」的なグダグダも含めて、とても心地よくなってくる。

 『Poor Places』の場合の変化はもっと極端だ。掴み所のない音像とメロディから、この曲のサビっぽいメロディに着地した瞬間こそ、このアルバムのクライマックスなんだなと、そしてそこからのサウンドの破滅的な展開こそ、そのクライマックスの帰結していく先なんだなという。どんどん無機質にこんがらがっていくサウンドの中でサビメロディはどんどん千切れていくような感覚がして、このアルバムに静かに感じていたであろう類の不安がここで一気に顕在化する。

 この手のタイプの楽曲は他のWilcoの楽曲を見渡してもそれほど多くない。メロディの不可逆性でいえば『Theologians』(『A Ghost is Born』収録)とかくらいか。この系統の2曲がどこかアルバムの中で異物的に響くことがあるとすれば、それは上記のような理由からかもしれない。不可逆なメロディ展開はメロディの切り替わりを劇的にしてしまう。このアルバムにおける2曲がその点で、このアルバムを聴き通すにあたっての重要なアクセントになっていると、言えないこともないのではないかなと。

 

 以上、勝手に分けた4類型でアルバムの曲順を組み直すとこうなる。

①『I Am Trying to Break Your Heart』

③『Kamera』

④『Radio Cure』

③『War on War』

②『Jesus etc.』

③『Ashes of American Flags』

②『Heavy Metal Drummer』

③『I'm the Man Who Loves You』

③『Pot Kettle Black』

④『Poor Places』

②『Reservations』

 

こうしたことで分かるのが、極力同じ系統が続かないような曲順になっている、ということ。まあ勝手に便宜的に私が作った系統なので、こうなるように恣意的にやっただけのようにも思えるのだけれど、言いたいことは、①②③④それぞれの系統間で、曲から受ける印象には結構な差異があるように感じること、そしてその差異のある楽曲群を上記のように交互に並べることで、同じメロディ展開が続かない、つまり毎曲ごとに、ソングライティングのレベルから新鮮な感じが発生するように組まれているのではないか、ということ。いい加減重箱の隅のような話になってきたので終わらせますが、私はそういうレベルでもこのアルバムがとても素晴らしく感じるということを言いたかった。

 

歌詞全般

 まず個人的なことを言えば、洋楽のアルバムの歌詞について、アルバム一枚分の楽曲を英語から翻訳していく作業をし終わることは初めてのことだったので、非常に印象深い作業でした。

 その上で、このアルバムの、ジャケットの印象を投影したような「都市の中で関係性がほつれて孤独を感じる二人」的な光景を狙った(と思われる)歌詞が、そのまま911という「大きな物語」に本当に綺麗に回収されてしまったという事実が、大変に面白くもあり、面倒でもあり、気の毒でもあり。このアルバムの楽曲を911という出来事を全く無視して聴くということは、少なくとももう自分にはできないように思う。歌詞にせよ、アレンジにせよ、あまりに911に結びついてしまう要素が多すぎる。このアルバムの中での、ビルが崩壊し、戦争が延々と続いていき、その先でアメリカ国旗が灰になっていく、という歌詞のフレーズの連なり具合が、あまりにもゼロ年代アメリカの歴史そのままであってしまったという、素晴らしすぎるほどの歴史の皮肉を、このアルバムは頂いてしまった。音楽の神様がこのアルバムの運命を面白可笑しく弄んでいるかのようだ。

 それでも、Jeff Tweedyという一人の男性の、頭がぐちゃぐちゃになっても、世界が訳の分からない事になっても、そして世界の悲劇とか傷跡とか問題とかに時に背を向ける事になってしまったとしても、それでも君を愛しているんだ、という気持ちだけは、確実に、太い線としてある。ノスタルジックな過去の話は(『Heavy Metal Drummer』を除いて)殆どなく、遠い未来に対する願望や不安も無い。このアルバムの歌詞の男は、現在に対してひどく打ちのめされているけれども、それでもどこか逞しくて、健気で、願望があるという意味で前向きだ。荒涼として陰鬱げなジャケットのイメージに塗りつぶされる事なく、少しファニーな比喩や皮肉を飛ばしながらも、なんとかシティの中で生に踏みとどまる、その凛々しさとタフさとダンディさのことを、歌詞を全て翻訳し終わって一番に感じました。

 

アレンジメント全般、及びジャンル考察

 アレンジについても、各楽曲単位で散々書き散らして、結局肝心の何かが言えていないようなモヤモヤが残っている。特にJim O'Rourkeが最後に施したというミックスのこと、各楽器のパン振り等の事についてまで詳細に見ていくには、自分にはそこまでのエンジニアリングの知識がない…。それもまた、このアルバムの音響面において非常に大事なフェーズだったはずだ。

 そもそものJim O'Rourkeの出自であるシカゴ音響派自体が「各楽器録音後の“ポストプロダクション”を重要視して、それまでに無いサウンドに到達しようとする」という試みであることからして、このアルバムでもそのようなポストプロダクションにより付与された「シカゴ音響派的」サウンドが、いくらJimが演奏を一切追加してないとしても、幾らかは存在するはずだ。その正体がよく分からないことが、このもどかしさを生んでいるのか…。

 ただ、Jeffが折々でコメントしている「ギターの音もノイズの音も変わらない。俺たちは面白いと思ったサウンドの組み合わせをひたすら探求しているんだ」みたいな話は、まさにこのアルバムの音響状態を読み解くひとつのヒントである。

 よくよく考えれば、このアルバムは実にたくさんの種類の音が入っている。それでいて曲単位で聴いてて(ノイズ等が過剰に渦巻いているような場面を除けば)全然すっきりした感じで耳に響くのは、決して「音のおもちゃ箱」的な過剰な楽しさを極力感じさせず、むしろ全体的にクールで淡白にさえ感じさせているのは、一方ではソングライティングのシンプルさで抑えてあるのもあり*9ながら、もう一方では「抜く音」のチョイスに優れているから、なのかなと思ったりする。

 特にドラムの音の抜き差しが最高。今作のレコーディングでドラマーの交代があったことは、バンド的にはしんどい結末であったはず。しかしながら、大変にトリッキーなドラマーが加入したことで、アンサンブルに非常に複雑な遊び心が発生している。ドラムセットを叩いていない間もパーカッション類を活用し、下手すればドラムセット叩きながらメロディ楽器も担当するというアホみたいな技術Wilcoに、特にこのアルバムにもたらしたものはあまりに大きい。これはこのアルバムより前にLoose FurでJeffがGlenn Kocheと一緒にプレイしていたことが非常に大きい。

 そして、このアルバムの影の主役とも言えるノイズの数々。90年代ロック的な破滅的なフィードバックノイズ等はこのアルバムで頻出するけれども、同時にシンセで作ったと思われる、妙なうねりをもってギターフレーズ等の代わりにオブリガードになる類の「ノイズ」は、Jeffの上記の発言と非常にマッチする。今作の随所で聴けるポップで可愛らしい「ノイズ」 に、別にメッセージ的な意味なんて無いのかもしれない。ただただ、こういうノイズで楽曲を彩るのが当時の彼らには楽しかったのかもしれない。このシンセのノイズも含めれば、私はこのアルバム以上にノイズの使い方が好きなアルバムは思いつかない。

 

 ゼロ年代中盤くらいからか、音のおもちゃ箱的な感じで荘厳なインディロック等のことを「チェンバーポップ」だとか「チェンバーロック」だとか呼んで流行した時期があった*10。チェンバー・ポップの大名盤といえばSufjan Stevens『Come On Feel The Illinoise!』だろう。多分50州全制覇は無理だろう。

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奇しくも、これもまたシカゴが大舞台として登場するアルバムである。こちらは豪華絢爛なサウンドが自由闊達に飛び交い、クラシカルでありながらも幻惑的、軽やかさと胸焼けしそうな神聖さとを行き来するその情熱と妄想力と音楽的技量こそこのアルバムを作り上げたものだと思う。

 翻って『YHF』は?ノイズも含めて、変幻自在とも思える様々な音を用いたサウンドプロダクションは、これはロックバンドによるチェンバー・ポップとは言えないか?と言ってみるものの、どうにもしっくり来ない気もする。それは、やっぱりWilcoの曲は、このアルバムの楽曲みたいにバンドから遠く離れたアレンジをされても、どこか土臭いバンドの感じがするからなのか。「チェンバー・ポップ」というカラフルそうな言葉が似合わないくらいには、『YHF』のアルバムは音の種類の割にモノトーン寄りだからか。

 『YHF』がモノトーンかどうかの話、個人的には聴いていて「このアルバムいろんなタイプの曲が入ってるな〜」とまでは思わない、というのがある。沢山の音が入り込んでいるのに、どの曲の風景も意外とジャケットの光景に無理なく重ねられる感じがする*11。ソングライティングも絡む話ではあるけれども、プラスアレンジの方向性等もあって、このアルバムはしっかりと何らかの基調となるトーンを外れずに完結している気がする。この辺も、言葉にしようがない領域になってて、またもどかしくてしょうがないけれども…。

 モノトーンさ具合的にも、ジャンル的にはスロウコアにも片足突っ込んでそうで、でもそうでもないような気もするし。スロウコアになるには、曲がノスタルジックさに霞むことなく存在しすぎている気がする。かと言ってシカゴ音響派の棚に収まるには、このアルバムはあまりにアメリカンにフォーキーで、カントリーで、ブルージーで、ロックだ。

 私は、オルタナカントリーというジャンル名をこのアルバムで初めて聴いた。何も知らずにそのワードを踏まえて聴いて「確かに、カントリーがオルタナ的なノイズとかにアレされまくってる…これがオルタナカントリーか」と深く納得した。けれども、実際はオルタナカントリーというのは初期Wilcoとか、Son Voltとか、その2つの前身のUncle Tupeloとか、そういったもののことを指していて、「パンクを通過したカントリーロック」くらいの意味だった。このことを後で知って、むしろ『YHF』はオルタナカントリーからはかなり離れてきたアルバムだという紹介を読んだ。思うのは「誰が何と言おうと、これこそ真にオルタナカントリーだろう」と。

 こうなってくると、私が言うところのオルタナカントリーというのはむしろ「Radioheadを通過したカントリー」とか言った方がまだ意味が通りそうだ。そう、Radioheadの影響、このアルバムに限らず、2002年ごろの音楽において多く見られたRadioheadの影響下の作品群たち。電子音・ノイズが多用され、どこか取り止めがなくて、ぼんやりしてて、そしてどこか空虚さをたたえていて。私の意味するオルタナカントリーであれば、くるりの『THE WORLD IS MINE』だってオルタナカントリーに合致しそうな気がしてくる。ああいうのはフリーフォークとか言うのかもしれないけど。『Sea Change』もオルタナカントリー、『ヘヴンリィ・パンク・アダージョ』もオルタナカントリー、2002年は私にとって、オルタナカントリーの当たり年だった。

 カントリーミュージックが本来持っていた、家や故郷の安寧のようなもの、それらが全て剥ぎ取られて、ざらつく空気の中を半ばうつらうつら、半ば虚しげに彷徨い続けるような感じのフォーキーでいなたい音楽、そういったものに私が強引に「オルタナカントリー」というジャンル名を与えてしまうとする。その意味において『Yankee Hotel Foxtrot』はオルタナカントリーの最高傑作である

 

総評

 ジャンルの流れから、うかつにも結論を言ってしまった気がする。これ以上の書くことが浮かばないのが正直なところ。勉強も知識も感覚も、何もこのアルバムをこれ以上理解するのに足りていない…。

 このアルバムが「アメリカの良心を持ったバンドとシカゴ音響派・Jim O'Rourkeの幸福なコラボレーションの結晶」と言い切れればどれほど楽か。Jimはミックスしかしていない、という事実がこの表現を不完全なものとして葬ってしまう。Jeffと、そしてこのアルバム制作中に脱退してしまうJay bennettの最上の蜜月がこれだけの楽曲とサウンドを残し、それをJimが整理し、あまりに映画的な紆余曲折を経て、その中で911が発生してしまった上で世に放たれたこのアルバム。数々のトピックが複雑に重なったり離れたり照射しあったりしたことで生まれた、この実物も虚像も複層的に魅力的なこの作品を、一切を思考放棄して申し上げてしまうなら、もうこんな感じになる。奇跡的なことが重なってできた、奇跡的に感傷的で美しいアメリカンロック。今日のところはまあ、そんな感じです。

 

 12回の長期に渡る、非常にこんがらがった文章。全て読んでいただいた方は本当にありがとうございました。読んでくれた人に願うこととかを特に考えてなかったのですが、せめてこの文章でこのアルバムを聴くのがほんの僅かでも楽しくなったり、場合によっては悲しくなったり、辛くなったり、しんどくなったり、気分が悪くなったりするのなら、それは私にとって幸いなことなのかもしれません。

*1:12回に分けて見づらい気もしたので、全部終わったらインデックス的な記事と、あと歌詞翻訳をまとめた記事をパパッと投稿する予定です。

*2:こういう是々非々で苦々しそうな部分もまたとてもWilcoらしく、うんざり具合と美しさとが絶妙に調和してるな、と思ってしまう

*3:そもそも1曲目の歌詞で大都会であることは歌われているけれども

*4:特に『John Wesley Harding』の頃みたいな感じがする

*5:歌メロは微妙にコーラスが付いてくるところとか変化が全くないわけでもないけど

*6:個人的にはこの曲が一番「プレYHF」な楽曲かなと思います

*7:タイトルが出てくる箇所をサビと言えなくもないけれども、サビと言いきるには弱い、淡々とした感じがある。

*8:もちろん「歌が終わった後の間奏部分こそが聴きどころ」みたいな楽曲もまたWilcoの看板だとも思うのですけども。『Impossible Germany』『Born Alone』とかみたいな

*9:『I Am Trying〜』辺りはあのアレンジでメロディ展開が多かったら結構おもちゃ箱しすぎてたかもしれない。

*10:んだと思う。筆者はリアルタイムでは割とスルーしてたジャンルではある。

*11:『I'm the Man Who〜』だけちょっとあの色褪せ具合が似合わないカラフルさを感じるけれども。