ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

晦渋図鑑〜田中和将作曲楽曲集(25曲)& more

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 言うほどどの曲も何もかも晦渋って訳じゃないと思います…。

 

 先日書いた以下の記事で、このアルバムの尖った感じは、普段なら亀井曲が多くを占めるGRAPEVINEのアルバムにおいて、あえて比較的晦渋な田中曲の比率を一気に上げたこと、及びそれを前面にアピールしたことが原因のひとつとしてあるのでは、と言うことを書きました。

ystmokzk.hatenablog.jp

 散々田中和将氏の楽曲の傾向を”晦渋””晦渋”と、バカのひとつ覚えのように連呼した記事でしたが、本当にそうなのか検証したいこともあって、GRAPEVINEといういつの間にか長大なキャリアと作品数を誇るバンドになった存在において、メインソングライターとして亀井亨が”バインらしさ”含めて腕を振るう*1横で、比較的自由に・バンドの主流に対するオルタナティブ気味に作曲を続けてきた田中和将曲をここに歴代25曲分集めたので、今回はそれらを見ていきたいな、と思います。

 

 

無駄に系統付け

 今から25曲取り上げる訳ですが、折角なので無駄に「こういうタイプの楽曲」と系統分けも行なっておきたいと思います。見た人が納得するものになればいいけども。

 

①素直な歌もの

 素直に「歌がいいな〜」ってなるようなものです。こういうのは亀井曲がメインかと思いますが田中曲もたまにこっちの色を出してきます。

 

②ブルーズ・ガレージロックもの

 本格的なブルーズセッションだったりやけっぱち過ぎるガレージロックだったり。特に後者の場合、アルバムで1曲くらい大きくハズしを入れるようなノリでぶち込まれてる気がします。

 

③フォーク・カントリー・SSW系

 アコギを弾いて歌ってる系の曲は本人のこの辺の目線が入ってくるなと思います。特に、普通にすればNeil Youngっぽい王道感が出るのに…ってところでサビのメロディがどうにも偏屈だったりすることがまま見られます。

 

R&Bタイプのもの

 趣味爆発!って感じのものが多々。彼の場合The Rolling Stones的なものももっと現代的なソウルもいけるところが強みで、バンドもバンドにとってややビーンボール的な彼の楽曲をしっかりと拾って高度でユニークなものに仕上げる力をガッツリ有しているのが頼もしい。

 

⑤ヒステリック・ポストロック的

 GRAPEVINEのメンバーで最初にRadiohead式のぶっ壊れ感を楽曲のテーマにしたのが彼で、結構コンスタントにこの手の楽曲を出してきています。同系統の亀井曲と比べると、まだシングルいけるかな、的な盛り上がりを含む亀井曲に対して、こっちはもっと壊れっぱなし、みたいなところがあるかもしれない。

 

⑥その他

 上のどれにも当て嵌めにくいやつ。常に例外というものはあります。

 

本編

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 ちなみに数えてみたら、GRAPEVINEにおける田中和将作曲の楽曲は46曲でした*2*3。そのうち25曲というのは、大半と言うには少なすぎるし、より抜きと言うには多すぎる微妙な数字かも…。「どうしてあれが入ってないんだ!?」と言われると返す言葉もない…。

 ちなみに、田中曲が入っていないアルバム・ミニアルバム作品は『TWANGS』『MISOGI EP』『愚かな者の語ること』『Burning tree』『BABEL, BABEL』です。特に『真昼のストレンジランド』より後にしばらく途切れてましたが、近年は復活傾向。特に今年の新譜『新しい果実』での大活躍振りは前の記事で書いた通りです。

 ちなみ各アルバム等については以下の記事で簡単にですが触れてます。なお、以下に示す時代区分としての「初期・中期・後期」はこの記事で挙げている分け方とは違ってしまってますがご了承ください。

ystmokzk.hatenablog.jp

 

初期

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 メンバーが4人だった頃までを初期としておきます。

 

1. 覚醒

(1997年 ミニアルバム『覚醒』)①②

 メジャーデビューして世間に最初の最初に出す曲がこれってもう「おれたち捻くれ者でーすよろしくお願いしまーす」と宣言してるようなものじゃん、と思うくらい、すでにくたびれかえった楽曲展開とコード感と歌詞とを持った、「衝撃・爽快な新人誕生!」みたいなノリから当時考えられる限り一番距離を取ろうとした感じさえある曲。そもそもシングルが嫌でミニアルバムでデビューというのもその段階で拗れてるけど、この楽曲のサビっぽいものもなく、でも一応ちゃんとメロディのオチは用意されている曲展開は、若年寄志望を露骨に繰り出してくる。

 実はこの段階ですでに最初期の彼らで最もポップな楽曲である『君を待つ間』が完成していた、という事実が、そういうのを押しのけてこれをバンドの冒頭に持ってきたことの意志の溢れんばかりの面倒臭さと頑固さ、そして逞しさをより強化する。

 そもそも、新人バンドの最初の曲の歌詞で3文字目から「頗る(すごぶる)」なんて言葉を出してくるかよ!っていうところで、ある意味もう「おれたちはこうなんで、こういうの好きなインテリぶりたい感じの人は是非聞いてね!まあ可能な限り好きにやらせてもらいますけど」みたいなスタンスがいきなり全開だったんだな、ということを今回改めて歌詞を読み直して理解した次第。メジャーデビュー3文字目からあまりに田中和将

 

君は頗るアクティブで 訳の解らぬ事を問いかける

全て嘘を話したのは 日暮れる兆しの殺風景な店

 

こんな、新人バンドの最初のラインとしてはいきなり実に感じの悪さ極まった歌詞を実にスムーズにメロディに載せてくる、GRAPEVINEは実にいきなりGRAPEVINEだったんだなあ、という一幕。

 

2. 愁眠

(1998年 アルバム『退屈の花』)①

 ”繊細でかつ爛れきった文学青年”路線で始まったバンドの歴史はいきなり1stフルアルバムで最早”完成という名の行き詰まり”に辿り着いてさえいた。この曲はその行き詰まりの底に向かってゆっくり落ちていくような、ねっとりと耽美でありつつも実に憂鬱げな、初期だからこその暗く甘く澱んだ粘り気が感じられる名曲。

 それにしてもこの曲のねっとりとした憂鬱さは徹底してるなと思う。後期The Beatles的な威風堂々さで始まったはずなのに、どんどんクズクズになっていくコード進行があまりに救いようがなくて、特にサビの、メロディ自体はまだ華麗に伸びよるとするも、転調してどうしようもなく陰気によじれていくコード進行に引っ張られていく様は実に行き場のない感じ。同じアルバムの似たような耽美な憂鬱さを持つ亀井曲『涙と身体』が、憂鬱さを高らかに響かせるようなところがあるのと好対象を成してるといつも思う。

 この『愁眠』のメロディの、あ、本当に「立ってられるのはもう少し」なんだな、と思わせる、若くして腐り果てていくかのようなメロディ運びの巧妙さと根本的な捩じくれ具合は、デビューアルバムと思えないほど疲れ果てた情緒の『退屈の花』の象徴のようにずっとずっと感じてる。カタカナや英語が一文字も出てこないのも”日本の文学青年”っぽさがふんだんに出てる。数曲参加してるホッピー神山氏も実に粘っこいキーボードプレイを提供している。

 なお、この曲の後にボーナストラック気味に現れる『熱の花』は亀井曲。だけども曲の持つ情緒は他のどの亀井曲よりも『愁眠』に近くて、これはいいものだな…ってこともずっと思ってました。

 

3. ナポリを見て死ね

(2000年 アルバム『Here』)②

 GRAPEVINEのいいところのひとつは、曲目に出てくる言葉の幅がやたら広くて、曲目だけ見ていても楽しいところ。下手すれば実際に聞かずとも曲目を見ただけで、なんか短編小説集を1冊読み終わったかのような満足の錯覚を起こすことも多少ある*4。ちゃんと中身も聴こう。

 この曲名もなかなかパンチが強い。曲名で「死ね」とか書けるの神聖かまってちゃんくらいでしょ…とか思うけどもバインは慣用句によってこれをクリアしたわけだ。本来の意味的なことを考えたら「ナポリを見て”から”死ね」と訳したほうが判りやすいけど、多分あえて”から”を削って攻撃力を上げている。

 曲調としては、このダークなコード感をちゃんと飛翔するメロディを付ければ亀井曲のシングル曲みたいになるだろうに、この人はこういうダラーっとして高圧的で挑発的なメロディを、あえてなのか、付けてしまうんだなあ、ということがなんとなく分かる。これでもまだ、彼のブルーズ系の曲ではしっかりとメロディ展開が構築されているところだと思える。でもAメロからBメロに切り替わるところなんかも挑発的な悪意が見え隠れしてどこか”らしい”感じがする。

 

そして現在を捨てるんだよ 弄んで平気だよ

原因はほら すべて他人の所為

失せていく奇跡も

稼ぐんだろ?逃げんなよ 笑顔で平和だろう?

砕いた粉 目立たぬ罠さ

偽ブルースは成功しそう

 

この、偉そうな感じの曲調や歌い出しの割に、妙に自嘲のようにも読める具合の歌詞。実にあけすけに捻くれ倒している様子がある意味痛快でもある。というかアルバム『Here』の歌詞カードは初見は格好良くて軽く衝撃を受けるので是非一度手に取って欲しい。歌詞を読み返すのには読みにくくて全然向いてないと思うけど。

 

4. その日、三十度以上

(2000年 シングル『ふれていたい』)①③

 シングル『ふれていたい』〜アルバム『Circulator』までの田中曲のリリース具合はバンドの歴史の中でも最も華々しい時期で、4枚のシングルにシングル表題曲を含む5曲を拠出、アルバムにもシングル表題曲1曲とその他4曲を収録し、この時期だけで合計9曲もリリースしている。他のどの時期よりも多い楽曲数をこの時期にリリースしたのは、一体どういう事情だったのか。内訳もバラエティに富んでいて、ここで全部取り上げてしまうとアレなので5曲まで削ったけど、どれも様々な音楽性を志向し、かつ魅力的な楽曲ばかりとなっている。

 この曲は、これまでのどの田中曲よりも素直に情感を歌詞とメロディに込めて放つ、実に正統派な歌もの曲となっている。冒頭からエレキギターの弾き語り形式で始まり、次第にバンドサウンド+ストリングスでじわじわと展開していくメロディは『愁眠』等で見られるようなコード進行の濁りもエッセンス程度に留め、実に晴れやかに、かつ感傷的に過ぎていく。途中で一度効果音的に挿入され、終盤でグランジ的に扱われるギターサウンドも、純粋にこの「小さなバラード」の盛り上がり方の手法として実に素直に取扱われる。

 いきなりですます調で始まる歌詞の、その擦れた要素を限りなく削ぎ落とした情緒の程がまた、端正で美しい。

 

こころがいつかみたいに揺れるのだ

 

そよく風でいたいよ めいっぱいの

泳ぐガキでいたいよ 精一杯の

そういつまでも 想い尽きぬよう

通り過ぎてゆく今日が 思い出になると言えど

見とれていたら そんな事は きのうのようです

 

いつかまた

 

この曲より後に出た『風待ち』の歌詞も実にナチュラルな感傷の心情を綴ったものだけど、こちらはより”歌い手”そのものの視線から何も演じずに出てきた風の一人称が故の端正さが眩い。別にこんなことだけを考えて暮らしているわけでは誰しもないのだけど、こういう側面にのみ注力して言葉を出力する、ということにおいてこの時期の彼は急激にその「どこに出しても恥ずかしくなく誇らしい」類の情緒の描き方を極めていく。

 総じてこの曲は、真正面からの凛とした姿勢を作詞でも作曲でもそして歌の面でも発揮した彼の最初の作品となり、彼のSSWっぽい曲のスタート地点になった感じがある。この後のそういう系統の作品はどんどん不思議な拗れ方をしていってるような気もするけども。というかもう少しきちんとトリートメントしたらシングル表題曲になれたような気もする*5

 

5. HEAD

(2000年 シングル『ふれていたい』)②

 上の曲と同じシングルにて今度はパーっとおちゃらけてシャープに捻くれた楽曲も提示できる当時の彼の冴え渡り具合。僅か2分ちょっとのファストチューンで、長らくこの曲がGRAPEVINEの最速BPMだった*6とも言われている楽曲。ブルーズ的な情緒を実に端的なタグ的に使用し、冒頭のフィルインやイントロではリズム共々ヒネリを見せながらも、歌が始まると実に真っ直ぐに進行したり縦ノリになったりして、派手な歌メロは無くても非常に丁度いい具合の軽薄な渋みとノリが出て、一時期のライブでは毎回毎回演奏されていたという。

 

「ぼくらは 嗅ぎ慣れた匂いに 満たされたいだけ」

意固地な… 目を醒ませ おっさん サイバーなヘア

冒険はステイ そんな 簡単マイヘッド

 

それにしても、実にサラリと軽快に、皮肉とも自嘲ともささやかな応援ともつかぬ、絶妙に微妙なラインの言葉を紡ぐもんだ。軽薄そうで意味もしっかり通るカタカナ英語の使い方が軽妙で気持ちいい。個人的には日本語の歌詞は適度にカタカナが混じっていたほうが読んでて心地いい気がしてるけどいかがでしょうか。

 

6. Our Song

(2001年 シングル『Our Song』)①

 田中和将渾身のシングル表題曲的なものに寄せ切ったシングル表題曲にして、彼の曲がそのようになるのはCDシングルではこれが唯一の曲*7。前のシングルでは夏っぽいタイトルを自作曲につけておいて今度は冬の曲かよ!という気もするけど、実に端正なシリアスさでかなり気にならなくなる。それはそれとしてアルバム『Circulator』は夏になったり冬になったり後半サイケだったりで曲調が混沌としすぎてる感じだけども。

 この曲の良さは、いつもの捻くれ力を全て反転させたかのような、澄み渡り切った透明感。リードギターサイドギターも、コード感もメロディーも実に、冬の澄んでて下手すると肌を切りそうなほどの透明な空気の感じがよく出ている。特に同じコードを持続音的に弾き続けるのは、ART-SCHOOLなんかでも多用される手法。

 そんな空気の中をとぼとぼ歩くようなAメロ・Bメロと来て、突如サビで壮大にブチ上がるメロディに変化するのは力技っぽくもあるけど、そういえばこのバンドはポストOasisのバンドのひとつと捉えられてたこともあったなって思うし、田中曲では最も正統派な伸び方をする壮大なスケール感で、やろうと思えばこういう亀井曲に近いことができるということを示したことになる。田中曲のバラード路線は今回取り上げてない『ダイアグラム』や『鏡』など、メロディの高揚の仕方が大仰で掴みどころの難しい感じになりがちだけど、この曲は実にキャッチーな高揚と絶唱を見せる。まあこの後二度とこういうメロディを自分の曲で書かないけども

 それにしても、恋人との分かり合えなさを嫌らしく描いていた最初期から来て、ここで「僕らの歌」という題でこのような曲を自ら書くというのは、どんな心境の変化だったんだろう。

 

7. パブロフドッグとハムスター

(2001年 シングル『Our Song』)④

 上の曲で王道をやり切った分、それと同量かもっと多くのエネルギーを”邪道”のベクトルに振り絞ったこの曲を同じシングルに忍ばせて、まさに彼の作曲能力の最初のピークと言えそうな時期だったんだな…ということが、実に複雑な具合に伝わってくる、バンドの音楽性を積極的に拡げてくる、というかむしろバンドの性質などまるで無視してひたすら自分の趣味性癖に沿っておどろおどろしく練り上げた結果、という風な理不尽にサイケでドロドロしたR&B曲。ここまで濃厚なものをこのバンドが演奏するのは間違いなくこの曲が初。

 R&B調でありつつもダブ的な要素が多々見えるのがポイントで、冒頭のベースラインやギターのエコー具合も、ダブ寄りのプレイ・処理がなされている。ディストーションギターが吹き出す場面も多く、実はJimi Hendrix的なR&Bさを持った楽曲なのかもしれない。そしてサビ的な箇所の実にクズクズで、歌ものとして纏める気が皆無な構成の仕方、延々と雰囲気と空気感で勝負しようとする、田中曲で多々見える性質がとりわけ濃厚に渦巻く、怪曲と言っていい類のそれ。ただ、まだ歌もの意識の強い時期だからか、こんな曲でもミドルエイトの歌展開があるのは興味深い。田中の歌もセクシーさよりも気味の悪さ・シュールさ・破壊力を狙って練り上げられてる節がある。全般的に、どちらかといえば雰囲気で酔わせるよりも、一発かましてやりたいタイプのボーカリストなのかもしれない。

 そして、そんな歌メロに縛られない構成の楽曲ということで、ライブでは一時期定番にして、最も濃厚な演奏を繰り広げるハイライトなセクションとして存在していた。その様子はライブ盤『GRAPEVINE LIVE 2001 NAKED SONGS』に収録された実に12分以上にも渡るセッションで垣間見えることができ、この曲のライブにおける解釈の自由さ、逆に言えば、バンドが出しうる想像力の果てへ挑戦しようとする気迫が感じられるものとなっている。田中のボーカルも実に自由に、自身の表現力をどこまで拡大できるか解釈を広げようと試み倒している感じ。

 田中曲はたまにこの曲や後年の『KINGDOM COME』のように、初めっから”いい曲”になるのを放棄して、ライブでセッションするために作ったと言わんばかりの楽曲が登場する。そういえば初期にたまに見られるバンドセッションのインスト曲も田中作曲だったりで、実はメンバー中でも一際そういうジャムセッションが好きだったりするんだろうか。ボーカルなのに*8。やっぱり不思議なバンド。

 

8. 壁の星

(2001年 アルバム『Circulator』)⑤

 アルバム『Circulator』でも沢山自作曲を提供する田中和将。後半の西川曲中心のサイケロックセクションの一角を彩る『波音』だったり、混沌としたアルバムを無理矢理締めるキモファンシーなコーラス多用の『I found the girl』、アルバム冒頭を占める半ばインスト曲のような『Buster Bluster』*9と、本当にタイプの違う曲をどんどん出して、バンドの幅を広げると同時にアルバムにより混沌をもたらしてる*10

 そんなアルバムの田中曲の中でも、この曲は曲順的にもインストを除けば実質冒頭曲、ということもあり、その位置で一発かましてやろうという気概に溢れた、神経擦り切れんばかりのRadiohead的なアブストラクトさをバンドの歴史上最初に行った楽曲。本当に彼がこの当時なんでもこのバンドでやってやろうと意気込んでたんだなと、その凄みが伝わってくるような怪曲。

 『The Bends』〜『OK Computer』の頃のThom Yorkeみたくキリキリと痙攣するところから生まれたかのようなメロディ展開は、90年代的な病的なソングライティングの手法を的確に捉えていて、彼の文学青年としての属性に新たな側面を付与してさえいる。「神経の壊れる感じ」という楽曲のテーマに沿うべくバンドも奮闘しており、サンプリング風に加工されたドラムだったり、刺々しく響くアコギ、ゴシックに鳴るストリングスなど、イントロから雰囲気は十分。ダビーなベースも雰囲気をよく出している。そして轟音を鳴らすべき箇所においても、痙攣のようなシャウトに並走して神経質にひとつの音程をかき鳴らしたり、トレモロのマシンガン的使用でやはり機械の暴走のような情感を表現したりと、様々なトライアルをしていて、ここでの取り組みがもしかしたらアルバムで最も彼らの表現手段を拡げたのかもしれない。

 かと思えば、やはりまだ歌もの意識が強い部分もあるのかミドルエイトの展開も用意されていたりと、過渡期のバンドのダイジェストのようにも聞こえてくるのもこの曲の面白いところ。サビで叫び倒すのはやや極端な攻撃性・毒々しさの示し方だと思うけども、この曲を起点にバンドは、こういう神経質な楽曲について様々な取り組み方を吸収していき、バンドの新たな魅力の一角とすることに成功した。実に逞しいバンドだと思う。

 ちなみに、『ふれていたい』〜『Circulator』までの田中曲が9曲も存在することは上で言いましたが、9曲もあればアルバム1枚分にはなるわけで、これらだけでプレイリストを作るのも面白そう。自分ならこんな曲目にします。

 

1. Buster Bluster(from『Circulator』)

2. 壁の星(from『Circulator』)

3. Our Song(from『Our Song』)

4. パブロフドッグとハムスター(from『Our Song』)

5. HEAD(from『ふれていたい』)

6. アイボリー(from『dischord』)

7. 波音(from『Circulator』)

8. その日、三十度以上(from『ふれていたい』)

9. I found the girl(from『Circulator』)

 

9. マリーのサウンドトラック

(2002年 アルバム『another sky』)⑤

 早速次のアルバム『another sky』冒頭で出てくる"Radiohead的超越感ソング"の続編。この曲についてはRadioheadとの比較で言うなら、むしろ『Kid A』『Amnesiac』以降的な、より辺境のフォーク音楽が悪魔化したような性質を備えていて、どことなく2001年の911の傷跡と混乱から生まれたような空虚でサイケな2002年製音楽の雰囲気に、彼らも共振していたのかな、と思わせるものがある。『another sky』自体そういう結構ダウナー気味な空気感が全体を貫くアルバムだけど、その冒頭としてこの曲ほど相応しいものもない。

ystmokzk.hatenablog.jp「2002年な感じ」についてはこっちの記事で昔書きました。『another sky』も取り上げてます。

 

 それこそ2021年のドキリとする冒頭曲『ねずみ浄土』と同様、この曲もいきなり歌から始まる。その様子はしかし実に虚無的な、魂を抜かれた後にぼんやり機械的に声を発しているような歌い方で進行していく。この、人間的な感情が抜けて神か何かに取り憑かれたような感覚は、特にサビでの幾重にも重ねられたボーカルの畳み掛けにおいて実に危うげなサイケデリアを空間に滲ませていく。それはまさに、サビのメロディよりも声の響き方や広がり方そのものを聴かせようとする姿勢だ。サビ前の謎にキンキンと鳴る無機質な音も、この新興宗教の儀式めいた雰囲気を盛り立てる。

 この曲も意外とAメロBメロサビに大サビと、日本的な盛り盛りの曲構成だけど、でも徹底的にドライに作り込んだ基本アレンジのおかげか、そういうものをあまり感じさせない。『Circulator』後半のサイケ曲連発の試行錯誤の結果が、ここで見事により高次の毒々しさ・禍々しさに帰結している。

 

10. ドリフト160(仮)

(2002年 アルバム『another sky』)①

 そんなアルバム冒頭曲の異世界に迷い込んだような頼りない感じを、ここで少し引き戻して見せる。田中和将は特に初期においては軽快なテンポと尺の曲も得意としており、この基本2コードでサクサク進行する曲も、鮮やかになりすぎない程度に前曲から景色をさらりと変えてみせてくれる。

 ドライブ感を主にギターが担当し、曲展開の変化による華やかさの追加等を主にキーボードが行う、そういう役割分担がはっきりと出た曲でもあり、基本たった2コードの繰り返しから見事にメロディを飛翔させるサビからの展開をより明白なものにしてるのは間違い無くキーボードとボコーダーのプレイによるもの。歌詞カードにある「歌ってないよね…?」というラインはよく聴くとボコーダーがなぞってるみたい。このボコーダーもまた密かにサビの浮遊する感じを生み出していて、そういうふうに昨日するもんなんだなあ、と今回改めて聴いてて思った。

 

中期

#CD from artograph

 初期じゃなくなってから、バンド側が一大転機だったと話すアルバム『TWANGS』よりも前までをひとまず中期とします。ここからもうずっとメンバー3人+定番のサポート2人という実質5人体制でずっと、最新作『新しい果実』に至るまでずっと活動を続けているわけですね。

 

11. It was raining

(2003年 シングル『会いにいく』)③

 創設メンバー脱退後の初のシングル『会いにいく』では、残されたメンバー3人が1人1曲ずつ持ち寄った形で構成されている。「まあこの3曲ならこれが表題曲だなあ」って感じの亀井曲に、骨太なロック節の西川曲『太陽』ときて、しみじみとしたアコギのカッティングがNeil Young的な感じを思わせるこの田中曲が始まる。だけど、この曲のメロディの展開を思うと、どうしてこの人の書くメロディはこんなことになってしまうんだ…というサビメロの展開の仕方が実に退廃的で、ああ、田中曲だなあ、って感じのする仕掛けになっている。仮に、強引に”典型的な田中曲のメロディ”なるものを想像するなら、自分はこの曲のサビのメロディを推したい。

 イントロの感じからしたら、絶対もっとこう、風を切るような、憂鬱でも力強い曲にできたと思うけども、でもどこでどうメロディを紡いだせいか*11、気づいたら実にグズッグズで、美しい感傷の感じを拒絶する意思が透けて見えるような、悪意とも捻くれとも言える、まさに晦渋そのものなメロディに辿り着いてしまう。ビヨンビヨンと鳴らされるクラビネットか何かの音もいい具合に不快で、厭らしい雨の降り方をしてるときのような絶妙な抜けの悪さを装飾する。終いには最後のサビの繰り返しは歯切れの悪いところで唐突にAメロに切り替わり、全然マイナー調なはずのAメロに実に安心感を感じて終わる、という構成の妙。しかもこのAメロに戻ってからが別に展開するわけでもないのに妙に長い、という。実にどこまでもグダグダを引きずり倒していく。

 そして、そんな現実的な厭らしささえ香り立つような楽曲に、実に文学野郎田中って具合の歌詞が載る。

 

氷は溶けるものか また 溶けるだけのものか

ひととおりを並べてみた ふと 頬に触れたものは

 

雨に身を寄せる 抱かれていたいと願うが

この上にまだ 何を染めようというのですか

雨に身を捩る 抱かれていればいいのか

 

雨が嫌いじゃないとか 嘘を洗い流すとか

 

思索が進んでどんどん逃げ道を論理的に失っていく様子が、楽曲の厭らしさと相まって実に塞ぎ込んだような具合になる。憐憫に沈んでるようでもなく冷徹な感じで綴られていくのが、静かにこの曲の歌詞のうんざりする質量感を味わせてくれる。

 なんでこのタイミングでこんな曲なんでしょうね。色んなことを勘ぐってしまいそうになってしまう。

 

12. 鳩

(2003年 アルバム『イデアの水槽』)②

 創設メンバー脱退というバンド史上最も解散の危機な状況を、彼らはバンド演奏を過激にブン回す方向で振り切ろうとした。アルバム『イデアの水槽』は後年の彼らからそんな風に語られることとなり、冒頭のぶちかましまくってる『豚の皿』や、何故か突如THEE MICHELLE GUN ELEPHANTの真似事みたいながなり倒しソングを聴いてると、なるほどそういうもんだったのかもなあ、なんて思わされる。特にTMGEソングのシリーズは彼らがそういう曲をやる必然性もこれまでからの布石もまるで見つからず、これより後にも出てこないタイプの曲なので、そういう言われ方をメンバーからされて少し腑に落ちた感じもした。

 それはそれで、あのアルバムのTMGEソングはやたら楽しそうな感じもあり、特にアルバムの最後でミドルテンポにわめき散らすこの曲はまさにそんな悪ノリの極み。『シスター』等にあった格好いい感じも消え失せて、「おっさんがなんか世間にグチをわめき倒したるぞ〜」って感じに仕上がっている。綺麗でささやかな時のミスチルみたいな『公園まで』から無骨なドラムイントロのこの曲へのギャップが凄くて、その開き直りっぷりが笑える。この曲作るの楽しかっただろうなあ

 

ガキがオルタナティブ

不景気と言わしたがってる

今朝も新聞を読んだ いろいろ思った

けど全部忘れた

 

大人のフリ 大人はフリーなんだ

そんな暗い そうそんな暗い過去などない

 

もう色々ぶち壊しだよ!って感じのグズッグズさで、『光について』等に代表される繊細な感じをバッサリとアホみたいに爆破してみせる。この曲はもう、演奏がどうとか、曲構成がどうとかで語るべきような曲ではない*12。聴いてみて、笑いに混じってやけくそ気味な興奮の感じが立ち上ってくれば、それで大成功なんだ。

 あのアルバムの田中曲、もう1曲もやってみたかった感が凄いディープな”えせ”ソウルな『11%MISTAKE』だし、かなり自由にやり倒してる。最初は「『11%MISTAKE』こそ『ねずみ浄土』に繋がる重要曲だ!」とブチ上げることも考えたけど、何回か聴いて「んなワケねえよ」と思って書くのやめました。

 

13. Reason

(2004年 ミニアルバム『Everyman, everywhere』)④⑥

 久々に丁寧にメロディで勝負できる曲を書いてきた印象の楽曲。デビュー作以来のミニアルバム『Everyman, everywhere』にて亀井曲と同数の曲を彼が書いたうちの1曲。

 ややショボくれた風のAメロからBメロで爽やかになって、サビでソウルフィーリングを纏いながら爽やかに通過していくそのメロディの流れは、田中和将特有の黒人音楽の処理感が実に洒落た形で表現されていて実にシック。そこにバンドの、このミニアルバムに顕著な水のような透き通った具合の楽器の響かせ方が、別に夏っぽい言葉が入ってるわけでもないむしろ他人への当て付けみたいな厭らしい言葉の並びのこの曲に、実に涼しげで滑らかな夏のフィーリングを与えてくれる。特に冒頭から大いにフューチャーされるアコギの存在感・清涼感が大きいのかもしれない。歌詞を読むと本当に爽やかさが似つかわしくない内容で、そのギャップにちょっと笑ってしまう。

 

ほら きっとまた 異色な歌を

誰かが聞かせてくれるさ 笑かしてくれるぞ

 

誰かって貴方やん…とか思ったりして、また笑ってしまう。

 

14. 作家の顛末

(2004年 ミニアルバム『Everyman, everywhere』)③⑤

 5曲入りミニアルバムに2曲入ってる田中曲のうちの”地味”で”晦渋”な方。この曲のメロディも実にいい意味で”残念な”田中節。どうしてこんな変なサビメロを書こうと思ってしまうのか。”太宰治の音楽的コスプレ”とでもいうべき、そしてよく考えると何言ってんだって感じの楽曲だけど、このサビの残念な具合は中期の軽やかな太宰じゃないな、初期の『HUMAN LOST』とかの頃、もしくはガチの晩年*13あたりのテイストか。

 空虚気味なコード感で鳴らされるアコギの音に最初壮大で壮絶な風な楽曲進行への期待を煽られるけれど、待っているのは『KID A』以降のThom Yorkeよろしくなぼんやり具合で、混濁したままフワーってなった感じの、どうにも抜けていく先の見えないメロディ。これはこの歌の主人公の作家は実にダメダメな顛末を迎えそうだ…といたたまれなくなりもするので、そう考えるとこのメロディは実はとても適切なのかもしれない。それにしても虚ろで暗い。案外『マリーのサウンドトラック』とかと近いのかもしれないけども、こちらの方が実に”私小説のコスプレ”的なところでフワーってなってる辺りがダメダメ感あって、実に的確に残念な感じ。そういえば打ち込みのリズムと密かに同期してて、その辺も意外とRadiohead的な系統の位置付けだったのかも、と今回気づいた。地味に間奏の最後で本当にちょっとだけフリーキーな表情を見せるリードギターの仕事っぷりが好き。

 

15. スカイライン

(2005年 アルバム『déraciné』)③

 前曲のもどかしさを洗い流すために、アルバム収録の曲順から入れ替えて先にこっちを出してる。アルバム『déraciné』もまた落ち着いたトーンが全体的に感じられる一作で、冒頭2曲が割と暴れん坊な曲なのにそう感じるのは不思議ではある。またあのアルバムは作曲者バンド名義の、いわゆるセッションで作曲したタイプの楽曲が始まる前の最後の作品に当たる。セッション曲が始まると、なぜか急速に「セッション曲と亀井曲でアルバムの殆どを占める」という事態が増えるし、もっと言えばメンバー3人それぞれの楽曲が全て同じひとつの作品に収録されているのはあのアルバムが最後になる。田中曲は全10曲のアルバムの中で3曲を占めてる。

 そのうちの、アルバムの末尾に収録されたこの3分弱程度の実にしみじみとしてあっさりとしたカントリーソングは、意外とこれまでのバンドになかった、ラフで軽快なカントリー要素を丁寧に拾い、アルバムに程よい余韻と爽やかさとをさらりともたらして閉じる、田中曲の中でもとりわけさりげなく鮮やかに仕上がった1曲。特に、コード感がメジャー調全開という感じでもなく適度にくすんでいるところが、むしろそれによって空気のナチュラルに良くも悪くもない、理想郷的な牧歌っぽさが抜けた、現実的な感覚と光景に繋がっていて、なんか等身大的に清々しい。亀井メロ的な抜けの良さとはかなりベクトルを異にするけど、これはこれでとても抜けがいい。この曲が最後にあるからこそあのアルバムの風通しが良くなっているところがある。

 いい具合にウエスタンなスライドギターをはじめ、ここでひととおり習得した軽妙なカントリーの手法は、やがてバンド全体がWilco的なバンドサウンドに傾倒していく流れの中で非常に活用・発展されていくこととなる。

 

16. 少年

(2005年 アルバム『déraciné』)③

 冒頭のアコギの乾いた響きからして、しっとりとシリアスで感傷的な空気を纏った、実に叙情的な曲。田中曲の中でも純粋に“いい歌“として5本の指に入るであろう、彼のSSW的な側面が如実に現れた、実直で胸に迫るものがある曲。この曲が3曲目にあるからこそ、冒頭2曲が割と激し目のロック路線なのに、アルバム『déraciné』全体としてはどこか落ち着いた印象があるのかもしれない。また、今回取り上げなかった『KINGDOM COME』も含めて、『Everyman, everywhere』〜『déraciné』にかけての田中曲はどれもアコギがキーになってる気がする。

 あっさりとした起伏で寂しげなアコギと共に紡がれるAメロからすぐに、エレキギターのカッティングが入って、高揚とも違うような、迫り来るような展開の仕方をするBメロに繋がっていく。そのキリキリした情緒の具合が、2回目のBメロの後この曲の大サビ的な、ミドルエイトっぽくもある箇所で実にメロディアスで、どうしようもなくエモーショナルに花開く。このメロディを通過した後は、最後のBメロの展開も実に切迫した雰囲気に満ちて聞こえるから素晴らしい。彼の描いたメロディでも、この大サビのセクションのそれは最も素晴らしい部類のものだと思う。亀井メロとは異なるロジックで、彼だからこそ、というヒステリックさを背景に出てきたものと思われて、それはどこか後期Sunny Day Real Estate的なものにも感じられるし、楽曲に呼応する楽器陣の、音の隙間で上手にイマジナリーなサウンドを浮かべる手法は、アルバム『déraciné』よりも後から本格的に取り組み始めるWilco的な、カントリーロックのオルタナティブロック的処理の手法が既にかなり高度なレベルで開花してる。間奏のスライドギターは音数を最小限で演奏され、相当に荒涼とした光景と情感がどこからともなく呼び起こされてしまう。

 そんな曲だからこそ、歌われる内容も流石にユーモアも悪ノリも皮肉すらも無く、実に真剣で真摯で深刻だ。子供たちの見る世界のことと、自身の経験から来る不安と、そして祈りの歌だ。

 

歪んだ価値観だって染み付いてしまうだろう

子供達はそれらを背負って どこへ向かえばいいんだろう

 

照らしてほしいのは そんな遠くばかりじゃなくて

目の前の本当の世界だけ

 

夜 目が醒めた

なんとなく知ってたのさ 知りたくない事

恥じる事などない 憎しみだって

なぜか

 

やっぱり、ひたすら真面目に想定と情景と祈りとを設定すると彼の歌詞はカタカナを使わなくなる。これもその典型例のひとつなのかなと思う。彼の場合、カタカナが出てくることによって歌詞の字面がカラフルでポップになったりするのを防ぐために、こういう時はカタカナを頑なに使わないのかもしれない、とか思った。

 

17. Juxtaposed

(2007年 アルバム『From a smalltown』)⑤

 いよいよバンドのセッションで作曲というパターンが始まり、早速セッション曲+亀井曲でアルバムの殆どが埋まってしまったアルバム『From a smalltown』の中で唯一のそのどちらでもない存在となっている田中曲。アルバムの最後に置かれてるためややアルバム本編と切り離されたようにも感じられるこの曲は、『壁の星』以降のRadiohead的ラディカルで病み倒した作風の、ひとつの決定版のようなもの。伊達に6分超えの楽曲してねえ。

 冒頭からして、病的なアルペジオを軸に妙なエフェクトばかりが飛び交い、普通の歌ものの楽曲ではない、少なくとも、普通にギターでコードをかき鳴らすような曲では全然ないんだな、ということは提示されている。アルバム中で一番作風の近い『ママ』からも離れたようなその異形っぷりは、曲のベクトルは全然違うのに、「それまでのアルバムの内容無視してはっちゃける」という意味で、上述の『鳩』に近いものがあるかもしれない。

 不穏で神経質なAメロ・Bメロから、サビにおいてはタイトルを連呼するコーラスとボーカルの掛け合いが荘厳にかつ沈み込むように続いていく。偏執的で宗教的とも取れるし、怪しい雰囲気の中言葉遊びでアホやってるようにも聞こえる。”juxtapose”とは「併置する」という意味らしい。この不思議な語感の単語を面白おそろしく連呼したかっただけの楽曲なのかもしれない。歌ってることも意味がさして無いような、そうでも無いような、絶妙に掴み所が難しい感じ。

 しかし、最後のサビの後の延々と続いていくセクションは、こういうタイプの楽曲でバンドがどこまで表現力を発揮できるかを延々とトライしてるような感じがある。むしろこのセクションこそアルバム中で一番セッション感がある箇所かもしれない。ここの、必死にこの曲を用いて何か喚び寄せんとばかりに奮闘するバンドの姿を思うと、この曲を”アルバム締めの遊び曲”などと言う気は起きなくなる。次第にリズムもギターのエフェクトの掛け方やプレイもグダグダになっていって終演する様は、マンネリの渦から抜け出さんと踠き倒した結末のようにさえ感じるのは、流石に受け取り方が大袈裟すぎるか。

 

18. スラップスティック

(2008年 アルバム『Sing』)①②③

 自身の歌ものの価値の見直し&回帰をテーマとして制作されたと思われるアルバム『Sing』は、亀井曲では*14かつての『スロウ』や『光について』のような路線の本格的な再挑戦の『Glare』や、必殺の感じすらある中にWilcoばりのファズギターアレンジを忍ばせた『Wants』があったり*15、かと思えばセッション曲でなぜか絶妙なメロディを描く『また始まるために』『超える』が生まれてきたり、ともかく”いい歌”に他のアルバム以上に焦点が当てられた。

 田中曲も、そういう空気に同調し、ストリングスさえ巻き込んだ大仰なバラード『鏡』と、そしてこのミドルテンポの曲の2曲を提供。どちらもしっかりメロディアスな出来になっているけれど、特にこの曲は、なんとも言えないシュールな具合にループするシンセに導かれたイントロ〜Aメロでは、ストーンズ的なリフ中心の進行+ソウル的とはいえ煮え切らないメロディ、だったものを、サビで一気にセンチメンタルな歌に昇華してしまう手際が見事。というかあまりに田中曲的な晦渋さのない実に素直でシックな美メロに、こんなの書けたのか…なんてぼんやり失礼なことを思ったりする。ここのメロディの切り替わりの唐突さが、歌詞の居た堪れない光景描写と相俟って、そのままこの曲の魅力のような気がする。

 ”ドタバタ喜劇”とも訳されることのある"slapstick"の語を用いた、恋人間の何故だか非常に気まずい雰囲気を、よせばいいのに”プラスティックスプーン”とダジャレじみた掛け方をして、むしろそのしょうもなさがメロディの美しさとともに、状況の息苦しさを強化している気がする。

 

ドタバタすぎる日々はほんの少し

この場面をやわらげて 遠ざけてる

 

たしかそんな顔して やさしくしたんだ その手で

果たして今日も最低な雰囲気を

混ぜるプラスティックスプーンで

 

どうして茶化してしまうんだ 度を越してる

まして最後 きみがとどめを刺す

まるでスラップスティック

 

彼が自分で書いた曲に乗せる歌詞では大体、現実的な・非ファンタジー的な息苦しさや悩ましさ・うんざり具合が展開される。この曲はテーブルを挟んだ二人の気不味い時間、という場面設定をすることで、それこそタイトルのとおり演劇じみた情景を描き出している。こんな居た堪れない寸劇誰が見たがるんだよ、って本人も面白がってたり自嘲してたりするのかもしれない。

 

後期?〜現代

https://ogre.natalie.mu/media/news/music/2013/0424/grapevine_PP.jpg?impolicy=lt&imwidth=1200

 『TWANGS』より後はひとまずずっと後期としていて、この”後期”はバンドが続いて作品が出続ける限りずっと伸びていきます。もしくはまた何かの転機があってまた別の時期の区分の方法を考えないといけなくなるかもしれません。それこそ『新しい果実』以降、みたいな音楽性に今後なっていく可能性だってあるし。

 

19. Sanctuary

(2011年 アルバム『真昼のストレンジランド』)⑤

 バンドの転機となったアルバム『TWANGS』では、歌い方が変わったり、曲構成もそれまで以上にABサビみたいなのに囚われないようになってきていたり、何よりそういう曲構成の自由さも関係して、サウンドのアレンジがより重視され、オルタナティブロック・ポストロック以降のサウンドをどういなたいバンドサウンドに落とし込むか、という観点を、Wilcoサウンドを参照しながら取り組みはじめたことが最も大きい。しかしそのアルバムには田中曲なし。彼の曲はその次の、彼らが最もWilco的な、90年代以降の不穏なサウンド様式を内包したカントリーロック路線をひとまず極めた名作『真昼のストレンジランド』にて2曲登場する。

 その2曲のうちの片方であるこれは、彼が得意とするタイプのひとつの、Radiohead的な暴虐サウンドと展開をしてみせる、『壁の星』以来やってきたタイプの曲で、この手の方式で暴れ回るタイプの曲は、彼の曲としてもバンドで見てもこれが最後か。やはり、田中曲のこういう系統特有の、冒頭から木が変になったようなテンションのボーカルで始まるあたりの演出を省いた無骨さや、途中から枷が外れたかのように暴れ狂う感覚が強く出ていて、2段階メロディ展開を溜めた上で、発作のようにその”壊れた”展開が現れる。その響き方がひたすら攻撃的で病的で痛ましく、カタルシスよりもむしろもっとあっさりとしてあっけない壮絶さを感じさせるのが、この曲のアルバムより前に出た『CORE』等の亀井曲での同系統の曲との大きな違いだと思う*16

 空気中の緊張感も変拍子を部分的に取り入れたりギターやエフェクトの迫り来る感じで巧みに演出され、そして楽曲の最後が突如終了することで完遂される。ドラマチックな余韻もなく、非常にざっくりと、軽くゾッとするような無情を決め込んでくる、これぞ田中曲の醍醐味。

 

20. ピカロ

(2011年 アルバム『真昼のストレンジランド』)③

 大好きな曲GRAPEVINE全体で言っても個人的に5本の指に入るくらい好きな曲で、もう好き。”捻くれ切った文学野郎・田中和将”が本格的にSSW的なカントリーロックに取り組んだらこんなことになるのか、というそのポテンシャルの現れ方がとても素晴らしい。実に荒涼として優しくも温い救いの見当たらない、しかしながらだからこその爽やかさ・風通しの良さが感じられる。この曲の情緒の有様にはGRAPEVINE田中和将だからこそ、というものを強く感じる。『真昼のストレンジランド』がこの曲で終わってても大傑作だっただろう。まあこの後のダメ押しの『風の歌』もまた実にいいものだけども。

 この曲のイントロの、いなたい音でタメを効かせて無骨にかき鳴らすだけのギターのコードストロークだけで、あ、自分はこういうのが好きな人生だったな、ってなる。ゆったりかき鳴らすだけで土埃の感じがするなんて、ギターってなんていい楽器なんだろう、と思う瞬間。その土埃の感じをエレピもドラムも絶妙に野暮ったく、荒廃して幾年も経たウエスタンの光景かのように演出する。

 そんな具合に程よく乾き切ったゆったり加減で、シンプルなコード進行の繰り返しで雰囲気が作られて、その繰り返しのままに適度にダラっとした形で歌が入ってきて、その程よく捻くれて、ラフで、だけど実に広々とした景色を感じさせる雰囲気の歌い方がとても好き。繰り返されるAメロは最初だけで、その後はサビ→間奏→サビで終わってしまうのが勿体無いような、そのもどかしさがまた美しいような。

 サビでも、シンプルなコードで、しかし左ブドミナントマイナーの持つ、雰囲気にカビが生えるような感じを存分にメロディに溶かし込んでいく。薄く響くメロトロン的なキーボードは『Summerteeth』の頃のWilco的な響きで、間奏のギタープレイ共々、この時期バンドがともかくWilco的なものを目指していたことの成果が『真昼の子供たち』と同様によく出ている。カントリー的な目線から、もう少し幻想的な何かに踏み込んでしまう感覚、というか。特に二度目のサビ後半の、いつの間にかコード感がすっかりクズクズで怪しい感じのまま繰り返してそのまま終わってしまう辺りは、田中曲的な捻くれ方が最後の最後で出てきた感じがして、この曲に絶妙に”スッキリしない”余韻を付け加えてくれる。彼から見える”オルタナカントリー”の感じはこのように、いい具合に妙な奥行きのある平坦さだったのかもしれない。

 

旅立つこの有様で 片手にはヘミングウェイ

太陽と月に吠える喉を 折れた牙を

 

アスファルトの荒野をゆく

五月蝿いのはアメイジンググレイス

哀しいかな 負け犬は傷を舐めて血迷う

 

けど痛みを知って 初めて大空の扉が開いた

醍醐味の人生 これぞピカロの一生

 

歌詞の意味も、分かるようで、分からないようで。二度目のサビではっきり歌ってるとおり、タイトルの”ピカロ”とは”ピカレスク”のことで、所謂アンチ・ヒーロー的な人物像のこと。この曲は田中和将の文学野郎っぷりが土の匂いとともに実に香ってくる感じがして、意味がどうこうなんかよりその雰囲気をこそ、たっぷりと堪能しておけばいいんだと思う。

 

21. 楽園で遅い朝食

(2017年 アルバム『ROADSIDE PROPHET』)③

 『真昼のストレンジランド』からまた数作*17に渡って田中曲は登場しなくて、この時期は西川曲が1曲だけある*18以外は全て亀井曲とセッション曲で占められる。でもセッション曲で歌メロつけるのって田中さんと違うの…?という思いはどこかありつつも。そうして、しっかりと彼が作曲者にクレジットされた楽曲が次に出てくるのは、バンド20周年を少しばかり記念したアルバム『ROADSIDE PROPHET』となった。2曲を提供。

 20周年記念とは思えないほどに彼らの中でもとりわけ地味な作風の『ROADSIDE〜』において特にアルバム後半は彼らのキャリアでも最も朴訥として超然とした雰囲気が漂っていて、異国の路上のような途方もない不毛さ・荒涼感に挑んだバンドの、実に地味ながら実に味わい深い流れとなっている。そしてそれは、この曲のしみじみとしたアコギのストロークから始まる。

 この曲のひたすら途方もないくらいの「ただただ何もなくて退屈で虚しい旅路の途中」みたいな感じを思うと上の『ピカロ』がまだドラマチックな曲に感じれるほどに、実に飄々と、平凡な光景にかどわかされていくような感覚が楽曲を支配している。というか『ピカロ』とは”旅路”と”自省”という部分でテーマが被ってるので、続編的なものなのかもしれない。

 ただただ土っぽくて、しかしメジャー調の明るさもない、Neil Youngの淡々とくすんだまま侵攻する楽曲のようなコード感が特徴のAメロは、のんびりという感じさえしないし、実に名状し難い、絶妙にうんざりさも含んだ塩梅になっている。そこからサビの間に挟まるBメロの、ワウを奇妙に利かせてウネウネとラインを描くリードギターのプレイは面白い。いい具合の異物感があってオルタナティブ・ロック的。

 サビの大仰さはまさに『ダイヤグラム』や『鏡』などと共通する、メロディは高揚するのに掴みどころに悩ましい、カタルシス的なのを無視した田中節。その超越感がこの曲では、ひしがれきってる風なAメロから実にいい飛躍になっていて面白い。同じアルバムに収録されたオルナタカントリー曲でキャッチーな亀井曲の『Chain』と面白いほど好対象で*19、この実にはっきりしないジリジリと晦渋な雰囲気のままメロディが不思議に高揚する感覚は、おそらく幾らかは”マジックリアリズム”的なところを目指してのものなのではと思われる。それは、間奏の箇所でリズムが変拍子気味になるところなどにも現れているんだろう。

 

斯くして旅路は続けられたのであった

美化した重荷と 無数のひび割れを抱えながら

 

何者か まがいものか 己に問う

とか飽きた頃に 辿り着いたホテル

 

ここではいつも未完成

幾重にも そう幾重にもずっと

失くしてしまったバカンスへ

子連れにも道連れにもハマってる

と云われてる

 

『愚かな者の語ること』辺りから特に強調され始めた、次第にボロボロになっていくけど人生は続く、的な感覚が、ここでもメロディに載せられている。こうやって読むと、意外なほど”自分探しの旅”的なところがあって、でも青春の思い悩みとは離れた、相応以上に乾いた感覚もあって、この辺の塩梅は彼の詩作の美味いところ。

 

22. こぼれる

(2019年 アルバム『ALL THE LIGHT』)③⑤

 久々に全面的に外部プロデューサーの目線の入ったアルバム『ALL THE LIGHT』において田中和将はそのプロデューサー・ホッピー神山から抜擢される。過去のボツ曲1曲のサルベージに加えて、更にアルバムの雰囲気を作るために2曲を書き下ろすよう要請を受けて彼が作ったのは、アルバム冒頭を飾る一人多重コーラスのアカペラ『開花』と、そしてこの弾き語り調の楽曲。2曲ともシンガー・田中和将のポテンシャルを前面に押し出した楽曲となり、バンド録音では進んでサウンドの一角として埋没したがる彼の歌に、ここで新たな活用方法が外圧によって齎された。

 この弾き語り調の楽曲は、淡々とパターン少なめにボサノバ調に爪弾かれるギターの音と田中の声のみで占められる箇所が多く、その歌い回し方や、途中から入ってくる実にR&Bテイストなコーラスなど、Frank Ocean以降のアンビエントR&Bのテイストを志向したものとなっている。そしてこの、ここではプロデューサーの要請によって出力されたR&B要素こそが、直接的に最新作冒頭の『ねずみ浄土』に繋がっている。アルバム自体はこのバンドに珍しく「自然なバンドの良さから外れた」*20作品になっている印象もあるけれど、その半ば無理矢理気味なプロセスが、もしかしたら最新作でのサウンドの飛躍に繋がっているのかもしれない。

 この曲は本当にドラムもベースも入れずに淡々とギターと声だけで進行していく。唯一、歌が行き詰まったかのような地点にてエフェクトをかけたエレキギターによるノイズがゆっくり立ち上がってきて、静まり返った空間を不穏に染めていく。ボーカルのリフレインがフェードアウトするのと反対に高まっていくノイズの不穏さの構図もまた、バンドが『TWANGS』以降Wilco的なオルタナカントリーサウンドを志向したのとは相当違った世界観が生まれていて興味深い。

 

訪れた部屋は空しいほど無愛想

探したくもないけれど見つけてしまう影だらけ

 

ここで何度も僕らは交わし合い

外の風を凌ぎつつ

居場所がないってことも 最初から知ってたのに

 

歌詞のテイストも、根無草の旅と自省、みたいなものから離れて、性的な関係も含んだコミュニケーションとその残滓、というアンビエントR&Bっぽさのある感傷を的確に喚び出している。これもやっぱり次作『新しい果実』に繋がっていく要素で、こうして見ていくと案外この曲を作らされたことは彼にとって大きかったのかもな、と思った。

 

23. Alright

(2019年 アルバム『ALL THE LIGHT』)②⑥

 要請されて作った2曲とボツ曲のサルベージ1曲の3曲が収録されて、元々田中曲の影も形もなかったはずのアルバム『ALL THE LIGHT』は一転、10曲のうち意欲的な田中曲3曲を含んだアルバムとなった。この曲はそのボツ曲の分。

 シングルになるような爽やかで感傷的なメロディの亀井曲とはかなり離れた、捻くれかえったおっさん田中和将の熟成されたブルージーさをサラッとストーンズ式のスタイルでソリッドかつグダグダ気味に楽曲にした、という具合の曲構成とメロディをしている。間奏の後の箇所でそれまでの硬派な雰囲気から離れた、蕩けるような感じを挟みこんで来るのは上手だけど、ボツ曲として燻ってたのも多少は判る。

 それを引っ張り出して、そして派手目なホーン隊を添えて見せたのもやはりホッピー神山氏の手腕。これによってこの曲のおっさんがグダを巻くようなグッダグダのメロディの響き方も、大きく趣を変えることとなった。同じホーンアレンジでもファンファーレ的な使用法だった前作の『Arma』と比べて、ここでのそれは実に、悪ノリでは…?とさえ思うほどにキメッキメなシカゴ・ソウル調で、やはりホッピー神山氏が田中をR&B楽家としてフックアップしようとする意思を感じさせる。この曲を最初の先行リリース曲にしてしまうくらいの田中プッシュぶりだった*21

 

夢は叶ったっけな 仲間はどうしたっけな

いざ青春の二次会のスタート

 

きみの歌はどれくらい 日々の無駄はどれくらい

こんな言葉を欲しがってる

大丈夫 it's gonna be Alright

 

斜に構えて捻くれまくったまま大人になった人間ゆえの、底が変に抜けたような包容感がこの曲の歌詞なんかからも感じれる。音に合わせて適当に綴ってるようで、微妙に色々と入れ込んでくる。

 ところで、そんなこの曲を、ホーン隊を連れていくわけにもいかないライブでどんな風に演奏するんだろう…とか思ってたけど、つい先日ライブでこの曲を演奏するのが見れて、その時はホーンの役割をある程度キーボードで補いつつも、ギターのガシガシした感じがかなり前に出たアレンジになってて面白かった。

 

24. ぬばたま

(2021年 アルバム『新しい果実』)⑤

 そして(この記事の時点での)最新作『新しい果実』にて、田中曲5曲、アルバム10曲のうち半数を占める、という、近年の亀井曲+セッション曲がGRAPEVINE、という状況から大きく変わった状況が現出した。それらは、それも納得のサウンド的な尖り具合や新規性、そして従来の田中曲と陸続きな晦渋さや、それを深めることで特殊な怪しさや幽玄さに繋がることとなって、この最新作の先鋭的な部分をメインで担うこととなった。

 この曲はその幽玄さサイドの方。謎に日本テイストな歌詞に合わせてなのか、コードの燻らせ方やメロディの通し方にもどこか日本的な風味が添えられているように感じられる。その上で、空間ごと歪ませるようなサビ後の演奏の展開のさせ方や、1回目のサビ後の分解寸前で綱渡り的にアンサンブルを構築するアブストラクトな演奏など、様々な仕掛けがバンドによって為され、この曲を特殊な次元に高めている。ストンと腑に落ちる感じではなく、感覚をずっとぼかされ続けるようなその美しさのあり方が、彼らの過去のどの楽曲とも異なるサイケさを有していて、素晴らしい。そしてそのくせ、妙に俗な範囲でキリキリと毒々しい言葉で毒を吐き散らす歌詞とのミスマッチも面白い。

 

25. ねずみ浄土

(2021年 アルバム『新しい果実』)④

 今回作ったプレイリストはGRAPEVINEの田中曲ベストみたいな気持ちで作っていて、なので最後はこの、”今のGRAPEVINEの音楽性の先端”と言って過言ではない、バンド音楽として尋常じゃないこととなってる新しい名曲を最後に据えたかった。スッカスカで、かつ歪み切った異形のR&Bっぷりは、その実験性の高さと完成度に後期ゆらゆら帝国を彷彿とさせるものさえある。こんなぶっ飛んだものがこのバンドから出てくるなんて、あまり考えたことがなかった。

 田中和将は以前からずっとインタビュー等で「自分はソロ活動とか、一人で全部録音とか無理で、バンドがあるからこそ音楽を続けられてる」という趣旨の話を繰り返ししている。この、極度に密室的でいかにも作曲者1人で作られた風のトラックにしても、実はギターの音色があんなに醜くなったのはバンドによるセッションにおいて他メンバーの提唱を受けたもの、という事実に、彼のそういう過去の発言の通りなんだな、ということを思う。『イデアの水槽』以降ずっと続いてきた5人組のとうに円熟しきったと思ってた演奏能力とボキャブラリーとが、この曲をこの曲たらしめている、という事実に、失礼ながら本当に予期していなかったこのバンドの強靭さの「もっと奥」を見せつけられた思いがする。

 バンドがWilco的なものから離れるのは少し寂しい気もするけれど、これだけのものを突きつけられたら何も言えない。R&B色を色濃く展開できるソングライター兼バンドのギターボーカルとして、これから彼の楽曲はさらにどうなっていくんだろうか。ライブで悠々と再現されるこの曲の演奏を観て、よりそういった思いを強くした。

 

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  以上、25曲・2時間弱のプレイリスト分の解説でした。この段階で終わっても結構長い記事なのに、よせばいいのにまだ続きます。

 

補稿:捻くれ者のアイコンとしての田中和将

田中和将(GRAPEVINE)が貴重な弾き語りライブ! 両国国技館が幻想的な空間に【30th J-WAVE TOKYO GUITAR JAMBOREE】

 

本文

 いつ頃からか以降のGRAPEVINEについていつも感じるのは、”安定感”だ。自身のロックバンドとしてのサウンドの定型がある程度あるようでいつつ、しかし停滞しないよう何らかの変化をひっそりと忍ばせるアイディアと演奏能力と余裕も兼ね備え、それでデビューから20年をゆうに超える長寿バンドとして活動。今回『新しい果実』でそれまでのファン層と微妙に異なる層にもリーチできた、ということも含め、その経歴からも楽曲からも”安定感”のイメージは揺るがなく存在し続けてきた。

 そんなバンドの安定した佇まいの側で、しかしバンドのフロントマン的な立ち位置になる田中和将の書く歌詞や、もしくは今まで見てきたような楽曲には、大いに捻くれ返ったような感覚がずっと横たわってる。

 「安定して捻くれ続けている」なんて書くと少し、”安定”と”捻くれ”の間で矛盾したような感覚が湧くこともあるかもしれない。でもそれは別におかしいことではないし、結構日本の長続きしたバンドには捻くれ者が多いかもしれない、とも思う。バンドを長くすれば色々な歌を作ることになり、歌う内容も様々になってくるけども、そこでしっかりと作家性を打ち出し続けることのできる人がずっと活動できるものとも思えるし、その意味では彼はいつの間にか一貫した”軽快に捻くれ続ける”スタイルで他の誰でもない存在になっていた感じがする。

 

 ”捻くれている”のと”病んでいる”のは違う。両方が該当する場合というのも大いにあるとは思うけれど、要素としてはこの2つは分けられるものだと思う。”病んでいる”感じ、というものを美点として捉えるのは問題があるのかもしれないけど、でも実際的にそう思ってしまう類の表現というのは文学でも映画でもマンガでも音楽でもあるだろうと思う。船橋に住んでいた頃の太宰治の小説は病んでいたし、『地獄の黙示録』は病んでいる映画と言いたくなるし、『デビルマン』は伝説的に病み切ってるし、『In Rainbows』より前のRadioheadは病んでたと思う。

 そして、田中和将の歌詞やスタンスに本格的で致命的な”病み”の雰囲気を感じた覚えが殆ど無い。これもちょっと意外に思うことだけど、歌詞単体では”病みっぽさ”が出ている楽曲もないわけでは無いけど、アルバム単位で”病んでる”と言えそうなものは、まあ達観が拗れ切った最初のアルバム『退屈の花』から数作くらいはややそういった危うさもあるけれど、それ以降の作品にはそういうのは無いような気がする。場合によってはその単体の曲として”病んでる”というのも、自身の内側の感情がコントロールできなくて吹き出す、といったものではなくて、何らかの対象に対する批評の結果、という感じもする。

 初期の彼は、おそらく幾分病んでるところもあったと思う。同じ頃に登場した中村一義と並んで、その相当に荒んだ家庭環境で少年時代を過ごしたというバックボーンが、否応なしに影響していた。初期の彼の歌詞はやっぱり人間不信気味で、そういった基本スタンスを『望みの彼方』『光について』といった名曲のたびに感動的な形で克服する、といったスタイルが初期のGRAPEVINEの”感動構造”とも言えた。

 でもそういう”対人関係の克服”みたいなテーマの感動的な曲シリーズはアルバム『Here』において『想うということ』と『here』でやり切ったんだろう。その後のシングル『ふれていたい』で歌詞的に一気に自由になって以降は、『another sky』ではバンドの立役者・西原誠の体調不良〜脱退の影響を受けてか少々ダークでサイケデリックな側面があるものの、その後やや空元気だったのかもしれない『イデアの水槽』以降については、もはや田中和将の個人史・あの2万字インタビューを前提にせずに読んだ方がずっと自然に入ってくる内容になった気がする。

 元々あった文学要素が、西洋文学の古典中の古典を題にした『Metamorphose』で始まり、いかにもな鬱っぽい小説家の末路をパロディにしたかのような『作家の顛末』で終わるミニアルバム『Everyman, everywhere』では強調されており、むしろそういう、飄々と教養をひとつまみして捻くれた歌詞をしたためるスタイルはこの辺りで完成していたのかもしれない。案外、あのミニアルバムは”安定感のバンド・GRAPEVINE”としての再デビュー作品だったのかもしれない。

 

 確かに彼の”捻くれ”の出所は、元々はその家庭環境等のバックボーンからだったかもしれない。だけど、少なくとも上記『Everyman, everywhere』以降は、もっとこう、個人的な悲しみとか不安とかから距離を置いたような詩作が一般的となっている。

 よく考えると「自分の中の”素直”な気持ち」を歌にしない、という段階で”捻くれてる”と言えてしまうのかもしれない。だけど、そもそも人間、何十年もずっと自分の中の”素直な気持ち”なるものだけで文章を書き続けられるのか、ということを考えると、むしろ彼の自分の感情から離れた詩作は、自由度という点で彼にとって”楽”なのかもしれないな、とも思う。感情と呼ぶのも気が引けるような、ちょっとした気付きとかを広げて歌にするのは、長く続けていく上ではちょうどいいスタイルなのかもしれない。なおかつ「普通の、慎ましくも幸せな二人の暮らし」みたいなところに極力着地せずに歌詞を書こうと努めているのは、彼がシャイなところもあるだろうけど、もっと根本的に、『ぬばたま』の冒頭の歌詞のようなことを思うからだろう*22

 

愛がすべてなんて言われてはかなわない

正義面の裏の裏 丸見えだって

 

捻くれたフレーズとも取られるんだろうけど、でも、別に実際そうじゃないか、と思う。心の底から「愛こそ全て」って思えない人は捻くれてる、なんてことを言われたら、それこそかなわない話。そういうのはたまにでいいよ。

 言いたいのは、彼の歌詞が捻くれてるのは、そのほうが彼にとってずっと自然体だからだろう、ということ。愛や恋でデコレーションするのも、聴いてて心折れるほどの絶望や虚無を突きつけるのも、相当に「それをするぞ」と思い詰めてフレーズを捻り出す必要がある。彼はそういう”無理をする”ような努力をいつからかしなくなったんだと思う。それよりも、メロディに導かれて彼のボキャブラリーから出力される言葉を上手いこと並べて小粋な情緒と光景とを形成する方が、性に合ってるんだろうと思う。彼がインタビューで話す、いつからか歌詞を書くのがとても速くなった、という話とも関係するんだろう。

 そして、そういう自然体で捻くれたスタンスで、売れない売れないと言いながらもしっかりプロとしてずっと精力的に活動し続け作品を残し続けている彼の姿は、世間に無数にいる自信を”捻くれ者”とカテゴライズしてしまう人たちにとって、幾らか眩しい存在だろう。『奥田民生になりたいボーイと…』とかいうタイトルの映画があったけど、「田中和将になりたいボーイ」も結構いる、むしろ捻くれ者たちの中ではよりシェアが高いんじゃないの?とさえ思う。彼は立派な、捻くれ者界のアイコンの一人なんである。

 

他の”捻くれ者”音楽人との比較

 もう少し、よせばいいのに、という感じの話を。ここから先は、日本の音楽界で”捻くれ者”と言えそうな人たちを列挙して、比較してみます。

 

1. 鈴木慶一MOONRIDERS

 いきなり日本の音楽業界でも最大級の捻くれ者かもしれない。”音楽は情念よりもスタイル”を旨とする感じのはっぴいえんど世代において例外的にこの人やその周りの人達は「情念も音楽性のうち」というのをずっと、特に1980年代以降やってきている。特にそのリーダーである鈴木慶一は、『物は壊れる、人は死ぬ 三つ数えて、目をつぶれ』辺りから感覚が先鋭化してきて、奇妙な情景描写や強迫観念的な詩作が増えていく。それは彼の精神の衰弱によるところも大きいんだろうから、田中和将のそれとは趣を大きく異にしてはいる。

 鈴木慶一の場合、その捻くれ方は”サブカル式・ボキャブラリー式”というよりももっと突飛な形、”電波的”と言える形だろうか。2000年代のMOONRIDERS作品に大体彼の手による訳の分からないタイトルの楽曲が1曲は入っているのを見るとそう思うし、何よりも怪曲『Lovers Chronicles』のことが忘れられない。というかこの人ずっと病んでるんじゃないか。。

 

2. 直枝政広カーネーション

 MOONRIDERSの弟分として登場してきて、そのMOONRIDERSの次に長寿な日本のバンドとなって、そしてMOONRIDERSと同様大ヒットに至らなかった彼ら。そう言った意味でGRAPEVINEは彼らの後継者、と言われることもある。

 そのカーネーションの中心人物・直枝政広もまた、昔から歌詞は捻くれているスタイルを取る。元々のナゴム出自などにもあるとおり、初期はポップな歌詞を書く気がそもそも無かったんだろうな、という感じで尖っていたけど、『Edo River』以降は一般受けもするようなロマンチックさを取り入れ、甘い大人の感じも手に入れた。でも、5人メンバー体制の終わり頃の『Parakeet & Ghost』『LOVE SCULPTURE』の頃は壊れ気味なユーモアセンスが飛び出してきたり。3人体制期は気を張った”男らしさ”路線で捻くれから距離を置くも、2人体制以降はもう少し自然体なスタイルか。

 直枝さんと田中さんを比較すると、直枝さんの方が”大人””男らしさ”みたいなのを歌詞に出す気がするし、とぼける時はやたらとぼける。田中の方がもっと”いけすかない”インテリ感・ナイーブさを出してるのかな、とも思う。

 

3. 草野マサムネスピッツ

 そもそもスピッツの歌詞って”捻くれ”とはまた別のジャンルなんだろう。ここで取り上げるのは違ってるのかもしれない。草野マサムネの歌詞は、多分『フェイクファー』くらいの頃まで思い詰めた感じの、どこか病んで別の世界を見てるような部分が残っていて、その病みから来る残忍さ・虚しさも含めて、そういうのはGRAPEVINEの歌詞にはほとんど見られない要素だ。

 逆に、草野マサムネの歌詞のキャラクター的に、突飛な飛躍や可愛らしい意地悪さは登場できても、明らかな皮肉の感じや乾いた日常的な詩情はあまりそぐわないんだろうなとも思う。

 

4. 桜井和寿Mr. Children

 かつてGRAPEVINEが”闇のミスチル”と呼ばれていたことを思うと、ここで取り上げておかない手はない。いつ頃からこう呼ばれなくなったんだろう。むしろ、案外今でも呼ばれてたりするんだろうか。

 桜井和寿の場合、そもそもその詩作自体が不安定というか、時期によって全然違う感じなので難しい部分もあるけど、『深海』の頃のカップリング曲くらいから出てきた皮肉屋っぽいスタイルは、割とどの時期にも何らかの形で顔を出していると思われる。その辺りをしてGRAPEVINEが”闇のミスチル”扱いされるのかもしれない。

 ただ、2000年代くらいまでのミスチルにおいては、その皮肉っぽさや捻くれた表現は基本的に男女関係の中で登場する。むしろ彼の絶妙に底意地の悪い感じは、女性に対して最も効果的に発揮されるのかもしれない。『渇いたKiss』みたいな方向の捻くれた歌詞を、田中和将は書かないだろう。ただ、幻覚的な方法論で一時期のGRAPEVINEっぽい雰囲気を表現した『Pink〜奇妙な夢』みたいな曲もあったりする。

 

5. 岸田繁くるり

 同じ時代に出てきた中で最も”捻くれ者”感のあった人物。いつの間にかGRAPEVINEの方がSPEEDSTARレーベルに移籍して、今やくるりとレーベルメイトとなり、田中が「くるりパイセン」と発言する関係になってたりする。

 『THE WORLD IS MINE』くらいまでのくるりは理想的な”捻くれた大学生の末路”みたいな雰囲気を持ったバンドだった。『図鑑』は捻くれよりも病みや狂気、『THE WORLD〜』はぼんやり感が中心かもしれないけども。そういえばGRAPEVINEの歌詞からは学生っぽい雰囲気はそんなにしない。でもよく考えたら、学生っぽさが濃厚に感じられるアーティストの方が少数だって気付いて、学生っぽさってどうやって歌詞の上で出すものなんだろう…となった。『NIKKI』以降は捻くれ者的な歌詞は急激に減少し、むしろ意識的に”捻くれ曲”をアルバムに1曲くらい入れようとする、くらいにまでなってる気がする。

 

6. 五十嵐隆syrup16g

 syrup16gGRAPEVINEは”闇のミスチル”と呼ばれてる仲間。こっちの方がより今でも”闇のミスチル”呼ばわりされてる気がする。3ピースということもあり、バンドの魅力における歌の占める部分がGRAPEVINEよりも大きいことがその原因かもしれない。『Reborn』と『光について』だったら前者の方がよりミスチルっぽいかもだし、それに桜井和寿にカバーもされたし、ということもあるのかも。

 よく憂鬱陰鬱と言われている五十嵐隆の歌詞だけども、よく読むとその憂鬱さは”現実的な現状認識から来るダメさの指摘”だったりすることが多く、その現状認識のニヒルな具合は結構田中のそれと近いこともありそうに思える。ただ、その指摘が実に深刻だったりするのは五十嵐の特徴かも。でもその深刻さを逆手に取ったような、これギャグの領域に入ってない?という絶妙な憂鬱加減は五十嵐ならではのもので、『夢』みたいな歌詞は田中には書けず、似たようなことをずっと後に書くと、上で取り上げた『Alright』の一節みたいになる。この辺、生活が成り立っているか破綻してるか、という違いが結構モロに出てるのかもしれない。

 

 これより後の時代にも歌詞の上で捻くれてる人って出てきてると思うけども、比較するのに丁度いい人が思い浮かばないので、この辺でやめときます。

 

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終わりに

 以上です。

 前の記事から結構長い間ずっと田中和将という人物について楽曲を通して考えてたので、最後に考察めいた何かを追加した次第。なんかもっと色々ちゃんと言えた気がしますが、今回はこんなもので。

 今回の25曲企画の亀井曲版・西川曲版・セッション曲版は多分やりません。それぞれ、曲数が多すぎる・曲数が少ない・時期が偏る、という理由です。それに歌詞の話がしづらいし。

 田中曲のGRAPEVINEにおけるいいところはやっぱり、歌詞を書く人と曲を書く人とそれを歌う人が同じになる、ということで、そうなるとやっぱ、他の2人が書く曲やセッション曲よりも、田中和将という人間性がより色濃く出てきてしまうところです。それを本人は嫌がるかもしれませんが、そうなってしまうということは、彼の楽曲はどこかSSW的な鑑賞の仕方もあるということで、そこが他のバインの楽曲には無い魅力となっているというのは、ある程度確実なことだと思います。

 そして彼の楽曲の多くに横たわる晦渋さ。もしかしたらその壮絶な出自の影響も一切無いとは言えないけれども、それ以上に、彼のバンドのフロントマンとして振る舞いたがらないシャイネスの具合や、あと歌詞に出てくるようなニヒルで現実的な目線ーー特定の楽曲で感じられるような夢のようなロマンチックさなんて、現実には存在しない、みたいな認識ーーが影響してるのかな、とか思ったりしてます*23

 『新しい果実』にてまさに怪しく”開花”したと言える彼のソングライティングは、これからもどんな風になっていくのか、楽しみなところです。

 最後に、上25曲分のプレイリストを置いておきます。適宜お楽しみください。

 

*1:亀井曲もバインらしさ全開のメロディの曲が多数ある中、相当に実験的な楽曲も多くあることには注意が必要です。『豚の皿』も『その未来』も『CORE』も亀井曲だということをしっかり弁えておきたい。

*2:2つある『RUBBERGIRL』は元が1曲なので1曲としてカウント、また西川弘剛と共作の『1&MORE』は含めず。

*3:全部で46曲というのはキャリア考えると多くない感じもしますが、近年いよいよ全然出てこない西川曲よりかは全然リリースされているので、こうやって記事にもできる訳です。ちなみに上のExcel的なので同じようにカウントしてみたところ、西川曲は現在で21曲…一番最後は8年ほど前の『太陽と銃声』…。

*4:そういう意味で一番曲目がいいなって思うのはアルバム『愚かな者の語ること』。特に『うわばみ』『太陽と銃声』『片側一車線の夢』『虎を放つ』と続くアルバム終盤の曲目の並びは最高。

*5:これはでも別に、次のシングルで果たされるからいいか。

*6:後に『その未来』が出たことで最速更新されたそうな。

*7:近年の配信限定シングルを勘定に入れると話は変わってくる。

*8:元々ギタリスト志望で、ボーカルを最初嫌がっていた、みたいな経緯も関係するのかもしれない。それにしても初めからボーカルとして上手すぎだけども。

*9:バインのアルバムでインスト曲から始まるのは『Circulator』が唯一。色々挑戦しようとしたアルバムだったんだな、ということがこういうところからも窺える。

*10:『Circulator』はこの混沌をこそ楽しむアルバムなのかもしれない。

*11:Aメロ終盤も怪しいけど、それ以上に一気にヌルっとしたコードが入って声も遠くなるBメロがこのグズグズさの始まりだろう。多少接続が強引でもサビメロをドロドロにしたかった作曲者の念の入りよう。

*12:間奏のハンドクラップの、光景を想像したらひたすら馬鹿みたいな感じは最高だけども。

*13:ややこしいのは、太宰治の短編集に『晩年』という題のものがあること。

*14:なお、このアルバムでは田中曲の定番なRadiohead路線やヤケッパチロック路線も何故か亀井先生が担当。それぞれ『CORE』『フラニーと同意』。

*15:カップリング曲にさえそれらを凌駕しうる『エレウテリア』があったりで、この時期の亀井氏のメロディセンスはもしかしてキャリアハイかも。

*16:『CORE』もあるいは『Gifted』も、Radiohead以降的な壮絶さや緊張感は同等にあるけれども、どこかそのメロディ運びや展開のさせ方に雄大さや、心地よいカタルシスがきちんと備わっていて、その辺はシングルとして選ばれた亀井曲らしい部分だな、と思う。多くの亀井曲にはこういう、曲展開とメロディ運びによって楽曲のどこかの箇所にカタルシスのピークとなる箇所が設けられていることが多い。対して田中曲はどうも、そういうカタルシスを設定する楽曲作りというよりも、もっとどこか淡々とした、そういう演出的なものをどこか心の底で否定したがっているかのような楽曲作りが目立つような感じがする。そんな性質がこの曲のようなアブストラクトな曲では無機的な攻撃性に、メロディ曲でもシュールで大仰なサビメロ等に現れるのかもしれない。もちろん、どちらがより優れてるという話ではないし、双方とも色々と例外はあるのだけれど。

*17:『MISOGI EP』『愚かな者の語ること』『Burning tree』『BABEL, BABEL』

*18:『愚かなものの語ること』収録の『太陽と銃声』。

*19:ただし、やはり同じアルバムでこの曲並みかそれ以上に平坦で朴訥として空虚な『世界が変わるにつれて』も亀井曲であることに注意。

*20:かなりプロデューサーの意向に乗っかって製作されたらしく、バンド側も長くやってるから、たまにはそういうことで、っていう気持ちだったんだと思われる。

*21:その後にまた『こぼれる』も先行公開されて、本当に田中プッシュされてる、と思ったものだった。

*22:ただ、そんな冒頭の拒絶がありつつも、同時に二人のロマンチックな光景も描かれるのがこの歌ではある。この構図も捻くれていれば、それを和のテイストで包み込むあたりはいよいよ「なんで?」って具合に捻くれてる。

*23:というか、初めて描いた曲が『君を待つ間』とかいうロマンチックの化け物・亀井亨が物凄い、ということもあると思います。