ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

【く】グライダー/advantage Lucy

ギターポップって眩しい太陽・元気な少年少女たち!ってイメージはあるけど、でも肌は白っぽくないといけなさそうで微妙に難儀ですよね。

ギターポップ」という概念がある。あるし、みんな使っているけども、しかし明確な定義とかはよく分からないし、みんなそんなに気にしない。まあ、「ギターロック」よりは皆の思い描くイメージに差が出ないんじゃないでしょうか。

ギターポップに必要なものとはなんだ。爽やかさ?アルペジオ?疾走感?リッケンバッカー?ぼくが個人的に思っているのが「少年少女チックな勇敢さ」だ。

なんか精神論チックで暑苦しいけど、とりあえずそれだ。だって爽やかギターポップに乗ってドロドロ痴情もつれほつれな歌はイメージしないでしょ(案外新しいかもしれない)。スミス?オレンジジュース?フリッパーズ?あいつらはネオアコだ。ネオアコは「子供っぽい勇敢さ」の代わりに「痩せてそうなシニカルさ」が来るんだ。ネオアコギターポップもよく並列されるものだし分けて考えるのは違うんじゃねーの?という意見はごもっともだが、とりあえず上記の定義をとりあえず言ってみるのにその二つは分けとく必要があるんだ。おれもその場限りの思いつきを言ってるだけなのでご容赦してほしい。(「『カメラ!カメラ!カメラ!』ギターポップヴァージョン」という名称…?やっぱりフリッパーズギターポップなんじゃ…)
言い訳を打ちながらもさらに踏み込むと、ギターポップという語は日本で生まれ日本国内のみで言及される概念のような節がある。歴史的に追えば、イギリスのネオアコがポストパンクの一形態として登場して、それが渋谷系とかなんかで日本の音楽シーンに受容されていく中でいつの間にか「ギターポップ」なる単語が生まれた、という経緯でそこそこ合ってるはず。個人的には、その受容の中で何かしらのネオアコギターポップへのイメージの変遷があったように思うということ。言ってみればそれは「シニカルさの漂白とイノセンスの強調」だろう。白く眩しい光に純化していく、そんなイメージがギターポップという語にはなんとなく付き纏う。
(勿論海外にも「ああーこれはギターポップですねー」と思う曲は山ほどあるけれど、それらは向こうからしたら「パワーポップ」とか「インディーポップ」とかそんな感じの扱いになって、あくまで日本から見たときに「ギターポップだなー」ってカテゴライズするという感じ、になってるんですかね。そういう意味でもギターポップは日本的な概念ということでいいんだろうか)
さて、上記のような意味で、ギターポップという語をまさにそのまま体現しているバンドこそが、advantage Lucyだと思うのです。「透明のある女性ボーカルやサウンド」と形容されるそれはまさにイメージ直球。勿論シニカルさが全くないとまでは言わないけど、それでも少なくとも音楽性が急にコートニー・ラブみたいになったりはしないでしょう。

今回の文章ギターポップって言い過ぎじゃなかろうか…。以下も多用。

今回の選曲『グライダー』は、そんな彼女らの3枚目のアルバム『Echo Park』の先頭を飾る曲。このバンドは一時期メジャーレーベル(東芝EMI)に所属していて、やはりその時が全盛期、みたいな雰囲気があるのかもしれない。そこからインディーに戻り、活動の密度やら何やら変わっていき、そしてメンバーの脱退・死亡なんかもあって、その後に出たものがこのアルバムだった。それを「待つのが長かったけどルーシーは変わんないね」と言う人もあれば「昔とは違ってなんか寂しいね」と言う人もいるらしい。

私見を言えば、このアルバムは日本で最高のギターポップアルバムだし、『グライダー』『Anderson』は日本ギターポップ界でも至高の楽曲だと思ってる。ギターポップが、ここにある!って感じ。

アルバムについてさらに言うと、上記の通り今作は所謂“全盛期”を過ぎてリリースされた作品である。つまり、人生に一度しかないかもしれない「青春の渦中」(本人たち的にそうなのかではなく、端から見ての話)を“過ぎてしまった後”に作られた作品である。予備知識に左右され過ぎな上感情論的でアレだけれど、それでもやはり、サウンドや歌詞に「渦中にはもういない」ことによる落ち着きや整頓のされ方があって、今作を苦手な人はそこが全盛期と違うと感じるところかもしれないが、個人的にはそのことが、このアルバムをずっと聴けるものにしている気がする。

『グライダー』について。これぞadvantage Lucy!って具合に開けたメジャーコード感が印象的なソングライティングの良さは勿論だが、この曲の最大の特徴はアルペジオが殆どないこと。その代わりに、リードギターは終止カッティングを続ける。このカッティングの多彩で自由な感じこそが、この曲の想像力を飛躍させる最大のアイテムだ。細かくフレーズを反復させながら駆け上がっていくこのプレイが、この曲のタイトル通りのイメージをより羽ばたかせていく。それはまるで、機械仕掛けのグライダーを自作して飛んでいこうとする少年少女のような。

この曲には、ギターポップ的な繊細な勇敢さとともに、そんなリフや、突き抜けていくようなサビのメロディラインに現れるようなある種の力強さが感じられる。要所要所で素晴らしいかき鳴らされ方をするアコギや、ドラムプレイの細やかさなど、相当丁寧に仕上げられたアレンジが、ある意味では全盛期的な勢いを削ぎながらも、それとはまた別の穏やかな力強さを与えているように、予備知識に左右されまくった頭だけど思う。

穏やかな力強さ。それは、言葉にしてしまうと少し嫌になるけど、より大人的な落ち着きを得た上での、少年少女的な勇敢さがあるんだと思う。
思い出すんだ/あの風/あの陽射し/忘れようとしたって/そばにいる
その感覚は、マンガでいえば登場人物は少年少女であっても、少年誌ではなくもっと年齢層上でかつヤンマガとかでもなく、マイナーな雑誌(少なくともアフタヌーン以下)のそれみたいな感じと言えばいいのか。大人になってしまった目線で、子供の頃の切なさみたいなのは確かこんなだったよな、と噛み締めてエミュレートしていくような。
白く伸びる/雲に沿って/僕らは今/走るよ
 瞬いては/遠くなる/憧れを/追いかけたまま
 降り注ぐ/木洩れ日はそっと/穏やかに/心を照らす

彼女らのキャリアの変遷がぼくにそう思わせてしまっているところはあるにしても、この少し夏枯れしたようなギターポップは、それゆえにいつまでも高く、飛んでいけるような気がする。せこい考え方かもしれないが。

前回といい、だんだん文章が老害ノスタルジックになりつつあるんじゃないか…?

【き】記念写真/フジファブリック

曲だけを、つまり「何の予備知識もなくその曲を聴いただけの状態」でレビューを書く、というのがひとつの理想ではありますが、しかし今回はそういうのから凄くファーアウェイな感じになってしまいました。まあいいか。

この曲が入ってるCDをリアルタイムで買って持っているというのに、本当に最近までこの曲を志村作詞作曲なんだと思ってました……志村存命時も他メンバーのペン結構あるんですね知らなかった。

さあ困ったぞ、思いっきり志村正彦の作家性みたいなところになんか書けるかなと思ってぼんやりふわふわ選んだこの選曲、いきなりはしごを外された感じになってしまった(はじめからはしごなんてなかった)。何を書けばいいんだろう…。

多少悩んだ末に、そういえば3人で復活した後のフジファブリックをまともに聴いてないことに思い至ったので、そこに突破口を見いだしたわたしは仕事終わりのズタボロボディを引きずって天神に向かった。某所で借りてきたものをパソコンに入れて(1枚は既に入ってたよ…)、割とマジメに聴いてみたところ、なんか書ける気がした。書こう。

…昔話。幸いなことなのか、ぼくは割と初期の方からフジファブリックをリアルタイムで聴いてた世代で、といってもきっかけは少なくない人たちと一緒で、音楽番組『JAPAN COUNTDOWN』のエンディング曲として『赤黄色の金木犀』がフューチャーされた時だった。和風・文系の度合いが嫌らしくない程度にさらさらと白熱するこの曲の塩梅は、なんだか新しい予感がして楽しくなってた。その後出た1stアルバムだってとてもいい出来だった。だけど、その頃も既に色々放っていた、爽やかさとはまた違うなんかネチャネチャしたエネルギーが、圧倒的な完成度でシングル化された『銀河』で、まさに彼らの特質性は何かのピークに達してた。

『銀河』と、そしてその後のアルバム『FAB FOX』で、それまでの若年寄めいた叙情派ロックバンドから一気にナチュラル変態ロックバンドななんかに転身した感のあるバンド。リアルタイムで聴いてた身としては、この「なんでだよ!」と思わず叫びたくなるような流れが最高にドライブ感あったのを覚えている。そう、『虹』や『茜色の夕日』といったグッドポップなシングルも含めて、何か不器用でぶっきらぼうな才能の大胆な躍動感というか、そういうのに振り回される楽しみだった。

それから意外と時期が空いて(メンバー脱退もあり)、久々のシングルが『Surfer King』『パッション・フルーツ』と続いて「やっぱなんかアホやなー」と楽しんでいたところに、なんかやたら正統派なポップソング『若者の全て』が来たところで、「ん?」と違和感を覚えたんだった。初期の叙情路線とも違うと感じた。それはタイトルで自負する通り、斜から切り込むスタンスではなく、何かの「ド渦中」の中からぱっと浮かび上がるようなやつだった。隠さず言えば、それはリリース当初、「彼らにしては異端」だと見えた。モテキBank Bandのカバーとかもない時代だと言えば言い訳めいているけれど。

そして、果たして、『TEENAGER』はそういうアルバムだった。それは「若者たちが奏でる爽やかなポップミュージック」というフォルムにグッと近づいていた。それは都市で暮らす若者の音楽のようだった。かつての大きな魅力のように思われた不格好な変態性はアルバムの中心からオプションめいた位置へ移り、その空位をキラキラしたポップセンスが取って代わった。

その後、さらにパワーポップに傾倒した『CHRONICLE』をリリースするに至り、不思議に思ったことは、彼らの音楽における主体となる人物が、どんどん若返っていくように感じたことだった。『CHRONICLE』に至っては、延々と続く志村本人の「ウジウジした独白」じみた雰囲気に、初期のどこかさらりとした文学青年の姿はどこに行ったんだ、と狼狽した(と同時に、曲自体はどんどんシンプルに明るくなっていくのに、どうして歌詞はこんなになってしまってるんだろうと思った)。

その後。2009年12月クリスマスイヴの夜。衝撃と困惑。悲しみと、それを弔うべく始まる色々な大規模なイベント。で、最晩年の楽曲を遺されたバンドで完成させた『夜明けのBEAT』が『モテキ』ドラマ版の主題歌に抜擢された、このことにより遂にいよいよ、フジファブリックは「ザ・若者のバンド」となった気がする、あまりに大きすぎる穴が空いたままに(っていうか原作全然読んだことないけど、いまwiki読んだら『モテキ』って相当なサブカルモンスターっぷりなんですねえ。タイトルやらBGMやらなんだこれはたまげたなあ。引用された曲の中に、所謂下北沢ギターロック的なのが全然なくてそんな中フジファブリックが入る辺り「時代に選ばれた」感があるとかなんとか色々思ったりもしますがそれはまた別の話)

一度そんな状態になった後に活動を続けていくというのは、しかもかつての中心人物がいないままというのは、どんなに大変そうか。しかし実際のところ彼らはそれをしている。シングルもアルバムも何枚も作り、精力的な活動を続けられている。それは遺されたメンバーも確かなソングライティングを持っていることが大きいと、遅まきながら3人体制以降の音源をやっと聴いて確認できた。

ようやく今回のテーマ曲の話。『記念写真』は、そんな3人体制以降でバンドの中心となっている山内総一郎氏の作曲。3人以降で過半数の曲を書いている彼の、バンドで発表したものでも最初の方になるこの曲は、既にポップソングとして、それも「フジファブリックのポップソング」としてとても完成度の高いものになっている。スタジオミュージシャンという出自もあってか、より本能的な志村と比較すると職人的な印象を覚える。

アルバム『TEENAGER』が1曲目から爽やかな曲で始まり、この曲が2曲目だが、イントロのやや奇天烈な風情のあるリフが、1曲目よりも「それまでのフジファブリックっぽさ」を感じさせる。このフレーズは曲の随所で登場し、他の部分の濁りのない爽やかさにいいアクセントを与え、またパート間の場面転換にも有効に活用される。こういうリフで曲構成をコントロールする作曲スタイルもまた、フジファブリックの特徴のひとつのように思う。

リフを過ぎて、パッと晴れ間に飛び出したような爽やかさ。ここまで垢抜けた爽やかさはこれまでの彼らにはなかっただろう(『虹』辺りはそれに近いけど)。警戒に疾走するリズムは終始通底していて、そこがこの曲の風景の鮮やかな寂しさを盛り立てる。

これも彼らの特徴の一つなAメロ・Bメロ二度回しで溜めた後に例のリフを経て飛び込んでいくサビのメロディの、突き抜けていく感じはキラキラして正統派感溢れる。街を想いが駆け抜けていくような、爽快でせつなげなグッドメロディ。2度目のサビからリフを挟んでCメロでより切なさを上乗せしてから放たれる最後のサビも、まるでドラマ的な映像が浮かぶ疾走感だと思う。

そんな具合にいい曲だが、そこにさらに情感を詰め込むのが、やはり志村の歌。歌詞は志村作だが、そこにまさに「キャリアを重ねるごとに感性が若くなっていく」感じの彼のキャラクターが現れている。
僕はなんでいつも同なじことで悩むの?/肩で風を切って/今日も行く
このように、次作『CHRONICLE』の結果的に布石となっているフレーズも含まれながら、彼は「若者特有の青春の通り過ぎる寂しさ」に迫っていく。
記念の写真/撮って/僕らはさよなら/忘れられたなら/その時はまた会える
 季節が巡って/君の声も忘れるよ/電話の一つもしたのなら/何が起きる?

彼の音楽の根っことなったユニコーン奥田民生)の大名曲『すばらしい日々』のあからさまなオマージュを交えて、それをより「切なさの渦中の若者」目線にブラッシュアップしていく意気込み。それはやはり『若者のすべて』が軸となるようなアルバムの1曲として相応しい眩しさだ。

『TEENAGER』や『CHRONICLE』を今聴き返すと、リアルタイムに聴いた時とは全然違った印象を覚える。そこには「若者」というテーマに自身のこんがらがった問題をぶつけていく創作者の姿がありありと現れてくる。『モテキ』以降のフジファブリックが多くの人に支持されるのは、そこの強度(その創作者の弱さも含めて)があったからなんだろうと思わされる。結局志村氏の話をしてしまっている訳ですが、そんな彼が全曲作詞作曲しなければと追いつめられた『CHRONICLE』のつらみを思うと、『TEENAGER』の時期の、たとえばこの曲や『星降る夜になったら』のような眩しくも素晴らしい共作のポップソングは、バンドのポテンシャルがとても幸福に滲みだされた時期の楽曲なんだと思えて、それ自体でまた、変に切ない気持ちになったりもするんですね。

【か】カナリヤ/THE YELLOW MONKEY

もっと日記のように書ければ更新ペースも早くなるのかもしれない。

吉井和也関連作品の中でイエモンの『8』だけなんかやたら好きで、それは高校生くらいの頃に中古ではじめてイエモンのCD買ったのがこれで、なんか聴いたことあるシングルとかも多くて良かった、みたいなのもあったのかもしれないが、今聴いてもやっぱすげえいいなって思って、それでちょっとよく考えたら、このアルバムは全体的にSFチックなコンセプトがあって、そこがなんかいいんだなあって気付いた。

「SF」というジャンルの雰囲気や付随するガジェットのなんかいいところとは、ファンタジックなあれこれもドラマチックなあれこれも悲しみも退廃も死生観も、すべて無慈悲で無感動的なテックを基として置き換えられるところだと思う。文系なのでちゃんとした工学的なあれこれ、理論的なあれこれは全く分からないけれど、とりあえずは「全ての出来事が工学的な説明がついてしまう」ということになることで、あらゆる要素に現代的・未来的・物質的な万能感・虚無感・神経質さなどが宿るところが文系的には大事なんじゃないかなと、勝手に思ってる。

そんな感じを求めたからかどうか知らないが、この『8』というアルバムの楽曲は、ともかく随所に「悲しげな」SF的な香りがする。サウンド的には電子音の多用や、バンドサウンドにしてもどこか無機質なリズム感・アレンジだったりが散見される。これはそれこそ本人らが日本盤のライナー(伝説的な…!)を書いたRadiohead『OK Computer』辺りからの強い影響下にあると思われるが、それによりこれまでもっと弛緩ドロドロのハードロック歌謡していたサウンドは一気に逆ベクトルの緊張感を得た。それはさしずめグラム時代からベルリン時代へのDavid Bowieのキャリアの変遷のような。

歌詞も、今改めて見返すとSF的、それもサイバーパンク的なフレーズがちょいちょい散見される。1曲目からアンドロイドの歌だったり、インストナンバーの曲名が『人類最後の日』だったり、最後の曲に出てくる「巨大なモーターのエスカレーター」とか(歌詞だけで見るとSF要素はアルバムのみ収録曲に偏っていて、シングルからの収録曲の多いこのアルバムでは言葉的なコンセプト自体は後付けチックなものだったのかもとも思う)、あとブッックレットの吉井の写真に機械が被せられたり。また、SF的な音の装飾があると、他のもっと自然的な歌詞なども聞こえ方が違ったりする気もする。

総じて感じられるのは、閉塞しているような虚無しているような、息詰まるような雰囲気だ。それに発売当時ならバンドの終焉が重なってまた別の悲壮感もあったんだろうか。何にせよ、その世界観の厳しさと美しさに、この作品特有独特の吉井やバンドのセンスが現れている。それはそれまでの作品の、どこかロックスター的なものを背負った作風とはかなり違った、不思議で無力無情的な魅力だ。

このままではアルバムの話だけで終わりそうなので、そろそろ『カナリヤ』の話を。この曲も、本作で数少ないアルバムのみ収録の曲。やはりSFコンセプトがより活きているのか、プログラミングされた電子音がバックで静かに旋回していたり、メインフレーズのひとつにアナログシンセの細い音色を使っていたりする。その横で整然としたハードなギターリフやビートルズライクなアルペジオが鳴るのもまた、ビンテージ感を脱臭してSF的な異化効果を発揮しているような気がするのは流石に思い込みが過ぎるか。

単純に曲が凄くいい。極端なデカダン・ゴスでもなく、お茶の間まで届く楽しいハードロックでもなく、壮大でもなく、着飾り感(これもイエモンの大事な魅力だと思うけれども)が薄くとても素直に、歩く程度のテンポで、4分未満の尺で、吉井和也の歌謡ポップさが奥ゆかしく花開いている。ブレイクから駆け上ってそして落ちていくような2段階サビの構成もかっこいいし、間奏から半ばCメロみたいに突入してあっさり終わる最後のサビなどは邦楽界きってのCメロ職人である彼らしい魅力がある。

吉井の歌唱も、バンド活動休止以降のソロ的な憂鬱さとバンド的なパワーとを適宜使い分けるスタイルで良い。そして歌う内容もまた、微妙に繋がらない感じに配置されたセンテンスの中に、少年的でいてかつちょっと乾いた、不思議な寂寥感が美しく揺らめいている。
あしたを眺めていた/遠くで眺めていた/OH YEAH
 そこには悲観が転がっていた/先には小さな花が咲いていた

無意味で無情に広い世界と、どこにも行けない「僕」との、痛々しくもよくある対比が、端的に描かれている。そう、このアルバムを占める閉塞感の、最も平和的日常的でかつそれゆえにどうしようもない形での表現が、この曲なんだと思う。
かごの中であの夢は/一人だけの妄想にした
 たとえ空が晴れていても/全然忘れてない/全然忘れてない/あおむけで眠りたい

空が晴れていたら忘れるものなのか、とも思うけど、これはつまり「晴れた空」が虚無感の表現に使われるアレで、そういうの個人的にとても共感する。しかし「いつの日にか/あおむけで眠りたい」という表現はすごい。どれだけ息苦しい状況だろう、そしてそれは事件ではなく日常なんだ。そういう意味ではぼくだって、いつの日にかあおむけで眠りたいものですよ結婚おめでとうございます吉井さん。

ぼくが近頃SFSFうるさいのは、単にニンジャスレイヤーにはまっているからです。生活の時間を大分持っていかれてしまっている…。でもホント、すっごいキャッチーで分かりやすいサイバーパンク小説なんじゃないっすかねこれ(全然SF詳しくないけれども)。

【お】おばけのピアノ/スカート

「かな50音」をテーマに曲を選ぶと、当然日本語の曲の中から選ぶことになるため、歌詞は大体日本語で、それも込みで色々グッとくることについて書きたくなるので、それがいいのか悪いのかよく分かりません。英語歌詞だとそれができない語学力や感覚もどうなのって気もするけど…。

たとえば、ライブがあって、バンドは大体は色々な持ち曲をやる訳だけど、その中で登場しただけでそのライブの山場、少なくとも他と違った特別な雰囲気になってしまうような曲というのは、それがバンドの音楽性の本分からは少し外れていても、やはり代表曲となるのだろう。

東京のインディーバンド・スカートの『おばけのピアノ』もまた、彼らの代表曲然としている。スカートの曲の多くがシンプルな構造・ソリッドな尺でさらっとした薄口鮮やかでやや通好みなポップソングだとしたら、この曲はAメロBメロサビが明確にありしかも普通に繰り返す、Cメロもある、そしてその構成の必然性が堂々と感じられる、語弊を恐れずに言えば「どこに出しても恥ずかしくないタイプの名曲」である(別に他の曲が恥ずかしい出来とかそういうことでは全然ないが)。そのうちBank Band辺りがカバーしてしまうかもしれないくらいに。

個人的にはスカート、というよりソングライターとしての澤部渡は結構挑戦的な人だと思うことがある。それはコードの不思議さもそうなのだけれど(この辺りは全く理解が追いついてないです。コードブックをとある人の好意で見せてもらったときの溜め息しか出ない感じ…)、曲構成もかなり非凡な作り方を好んでいる感じがある。AメロBメロしか無い曲で平気でBメロを一回しか使わなかったり、Aメロが最初しか出てこなかったり、ともかく「Aメロ→サビを2回繰り返して間奏してサビ」みたいなある種の定型じみた構成を避ける。その大胆な省略で曲の尺を短くしながらも、省略に違和感を感じさせずスムーズに曲にするセンスが圧倒的なように思う。こういう省略の構成は奥田民生だったりアジカンだったりも得意とする手法だが、スカートのそれはよりシンプルに洗練している。潔さとは似て異なる、魔法じみた手法だと思う。

そんな構成とかいうマニアックな話などしなくても彼の曲は基本メロディが良くて素敵なのですが、ではそういったある種のトリッキー要素を排して、そのセンスを正攻法的に積み上げたらどうなるのか。そういった前提含めて大変にややこしい興味に全力で応えるのがこの『おばけのピアノ』だと言って過言ではない。その「正しさ」こそが、この曲がアルバム『ひみつ』の絶妙なバランスのポップソング群の中でやや浮いてる印象を与え(本当に「やや」の話だけど)、本人もそれを自覚の上でアルバムの先頭に配置することになったのではと邪推する(インタビュー記事参照)。

より細部を見てみよう。イントロのsus4なコードカッティングからして王道も王道、この曲のどこまでも真っ直ぐ威風堂々な雰囲気を感じさせる。そして溢れだすように始まり迸るように上昇するAメロの感情的なメロウさ、バッキングのギターのフェイズエフェクトとピアノの登場でファンタジックでSFな雰囲気を盛り立てるBメロの流れは丁寧で、そして祈るように飛翔し上下するサビの格調高さ(これはクラシカルなピアノメロディが大きい)と青っぽい少年感情の交差具合が、この曲からどうしたって沸き上がる作者の勇敢な熱を端的に物語っている。また、曲構成に沿ってくっきりとしなやかに的確に盛り立てるリズム隊も同様に雄弁だ。

曲は、澤部氏お得意のギターカッティングも交え絶妙にタメるCメロから、吹き出すようにサビの旋律をなぞる間奏のプレイを経て、ブレイクからの3度目のAメロをさらりと流したところで、唐突にしかし感傷的に終わる。これは、展開の多いこの曲を3分半という相対的に短い尺に収めることに直結しているし、アルバム的にも先頭の曲が終わり2曲目にすっと入っていくよう機能している。

結局、この曲は何なのか。ただのお洒落で端正なポップソングだろうか。所謂「東京インディー」シーンを彩る名曲の一つといったところだろうか。そういったこと以上に、ぼくはこの曲にとても羨ましいものを感じる。それはこの曲が根に持ちそして存分にアンプリファイすることに成功した、純真な想像力についてだ。ふわふわした話だけど、この曲に溢れている、まるで童心とノスタルジーとを、埃かぶったおもちゃ箱と夜空(文系感覚的には≒宇宙)とを結びつけたかのような詩情には、澤部渡個人の素養と経験(特に彼の大事な趣味の一つであろうマンガから得たのかもしれないものとか)がキラキラと溶け込んでいる。
眠りのなかじゃ街の地図だってあやしい/気づいたらもうない
 飾った夜のため開け放つ暗い窓/もどってこれるね

彼の描く寂しさのちょっと幻想的な感じが好きだ。それは気の聞いた言葉のように街を飾りもするし、または「君と僕」の世界を、世界全体から切り取るのではなく、二人以外虚無めいた地点から想像力だけで広げていくような切々とした雰囲気もある。
君の声がだんだん重くなっていく
 いつもそうだろ/もう羽根をたたまなきゃね

このCメロの言葉からの、むしろ羽根を広げていくかのような間奏の広がりが、とても眩しくもはかなくて愛おしい。

『おばけのピアノ』は、スカートというバンドの入り口に最適な曲にして、作者の想像力が美しく羽ばたいた、素晴らしい名曲であります。

【え】襟がゆれてる/bloodthirsty butchers

この企画の曲選び、iTunesの曲目の並び方をあいうえお順にして曲を探しているけど、頭文字がひらがなカタカナなら素直に出てくるからいいんだけど、漢字だとあらかじめ読み方を入力していない限りはその漢字の音読みの順番に並んでしまうので、「この頭文字に対応する曲は〜」と探すときに面倒くさいんです。今回のこの曲もあやうく取り逃しそうになったし。以上とても共有されづらそうな悩み。

吉村秀樹は死んだ。その後追悼のアレでトリビュートアルバムが出まくった。今確認したら4枚か?その予定が出た段階だったかで知り合いから「『襟がゆれてる』がやたらカバーされまくってる」という話を聞いた。どんだけ揺れるんだよ襟、そんな揺れるような感じに襟立ててんのかよ皆。

(今調べたところ、結局一番カバーされた回数が多いのは『ファウスト』か。いい加減宝の箱なくなっちゃうよ!)

名盤の誉れ高い『kocorono』でまさに日本の歌もの轟音ギターロックの偉大なるゴッドファーザーの座を得た後の、彼らの名曲生産力の凄さは、彼らの次のリリース時期となる1999年の、アルバム『未完成』に至るまでのリリースラッシュにて如実に現れた。『ファウスト』も『プールサイド』も『△』も、そして今回のこの『襟がゆれてる』も、この時期リリースされた楽曲。ブッチャーズのクラシックがずらり。『kocorono』で得たサウンドをさらにぐっとロッキンでキャッチーに仕上げた業前の名曲が並ぶ様は圧巻。

kocorono』で彼らが掴んだものとは何だったのか。それはギターの轟音をポップなコードに乗せ(その乗せ方は大いに独自のものがあるだろうけれど)、どっしりと骨太な「歌もの」の楽曲を作り上げたことだと思う。海外で言えばニールヤング辺りが先例的ではあるだろうけれど、ブッチャーズのそれはハードコアの出自からの、しかもハードコアという形式にも収まりきれないなんかグシャグシャしたアレを持つ男が、そのイメージをバーンと大きく弾けさせる感じに成功した類のそれだ。

つまり、ブッチャーズだけの荒野。どこまでも都会的でない荒くギラギラしたギターの歪みに、どっしりと前進していくリズム、そしてタフだからこその純真な内省をぶっきらぼうに響かせる歌。細野晴臣辺りから始まる日本のカントリーミュージック受容史の都市的な感じ(持論です。そのうち別のところで書きます)にあさっての方角から衝突するような(本人はその気はなかろうが)、和製オルタナカントリーロックの、それは登場だったのではないか(オルタナカントリーというジャンルについても、私見によって元の意味合いからかなりズレていますが)。風通しの爽やかな殺風景。

その点、この曲は『ファウスト』と共に、まさにその荒野を行くテーマソングの決定版だろう。この曲の場合、特にバッキングで歪んだエレキとともにかき鳴らされるアコギの響きが印象的だ。リードのギターも、フレーズというよりももっとこう、空気中の粉か水分か何かがきらめくような不思議な揺らぎがあり、荒野的な鮮やかで乾いたサイケさを醸し出している(まあ歌詞には「雨上がり」なんて単語も出てくるが細かいことは言いっこなしだ)。

そしてやはり、力強さ。歌詞にもある通り、彼らは確信めいたものがある訳でもなく荒野を彷徨っている風ではあるが、それは虚無感に浸っている訳ではない。やはり流麗で明確なフレーズとは言いがたいギターソロはファズったささくれがかえって無心のまま遠くに響いていく感じがするし、そのソロ終わりからの畳み掛けるような曲展開はやはりどうしたって不格好で感動的だ。

どんどん行け!どこまでも行け!世界の果てまで。そんな子供染みた気持ちを、ブッチャーズを聴いているとよく抱く。なんで奴らやぼくらは世界の果てなんてものを目指すんだろう。そこは結局のところとても寂しい道中だったり、悲しい結末だったりしそうなものなのに。冒険心か、好奇心か、旅行気分か、戯れか、ヤケクソか、言い訳か。知ったことか。普通にしゃべると全然訳分からない吉村秀樹の言葉が、歌詞というメロディの枠に嵌められることでそのロマンを多く抽出し、そしてそれ以上をギターをはじめバンドサウンドが語らずに語る。

流れるように僕は汚れた/汚れた花を指でなぞった
 雨上がり/佇む/向かい風が襟を揺らしてる

個人的には、より音が整理された『荒野ニオケル〜』よりもこの辺りの時期の方が荒野っぽさを感じるところ。アルバム『未完成』に至っては録音されたギターは一本だけなのにあの音の厚み・おおらかな殺伐さ。

あと、余談ですが「世界の果てに行く」なんて時間も金も手間もかかること現実的にはできないし、だからこそ本を読んだり映画を見たり音楽を聴いたり、ってのがあるよなあ、とは時々思います。なんか村上春樹とかも「世界の果て」願望で説明できそうな気がしてきたぞ。

【う】ヴィーナスとジーザス/やくしまるえつこ

果たして「ゔ」は頭文字う扱いしていいものかな……。

見比べると、不思議感出てるけど画面暗い本人PVよりも、当時のシャフトのともかくポップで洒落たOP作るぞって雰囲気から出てきたカラフルでシャープな映像の方が曲の楽しさに合ってる感じするな。

やくしまるえつこを擁する相対性理論というバンドが日本の音楽に与えた影響は、ふたつの面で説明することができる。ひとつが、ロリータでウィスパーで低血圧そうな女性ボーカルを流行らせたこと。それも、アイドル的な出自からでもなく、また渋谷系カヒミ・カリィとか)の文脈からでもなく、あくまでインディーロック的な世界から出てきたのが大切か。女性ロリ系ボーカルのバンドといえばYUKIの影響がまだまだ大きかっただろうところに楔を打った形となったと思われる(勿論、どっちの方がいいとかいう話ではないですが)。

いまひとつは、そのインディーロックな出自、そのサウンドが、とてもコンパクトで直線的で線細めだったこと。「女の子の元気さ!」みたいなのや「おしゃれな女性のジャズ!」みたいなのなどのくびき(くどいけどいい悪いの話ではない)から大きく距離を取った、抑制的なニューウェーブギターロックであったことが、サブカル的に取り上げる際にも意外とロックの歴史やらと接続しやすい部分があり、サブカル界のアイドルとしても独特の知的ポジションを得るに至った。

実際アルバム『ハイファイ新書』以降から大御所ミュージシャンとのコラボも増えていたりした彼女ら(彼女?)だったが、そっちの方はより高度で難解な音楽志向であることが多く、元々の彼女らの持ち味の一つだった軽快なポップさはあまり省みられていない印象だった。

そこからどういう流れで、彼女は自分のソロをアニソン方面にがっつり向けることになったんだろう(まあソロの多くで関わりのあるシャフト(というか監督の新房昭之氏か)もベテランと言えばベテランか)。最初にリリースした『おやすみパラドックス』こそ、まだ大御所コラボ難儀感が残っていたが、晴れて全曲作詞作曲彼女名義となった、今回の表題曲を含むシングルによってついに、彼女は自らのポップ可能性を大いに解禁することとなった。実際シングル収録の3曲ともタイプは違えど彼女の特有のキッチュさ・ポップさが活きた良い楽曲であるけど、ひとまず今回は表題曲のみ触れる。



ポップ、そしてコロコロしていてカラフル、という感じの1曲だ。軽快なテンポに乗る言葉は発音的には日本語的なべったり感なのにすごくリズムが軽やかで可愛らしい。よくよく聴くとメジャーコード感の強いメロディは意外と古き良き歌謡曲的な明朗さがあるが、そこをゼロ年代的なタイトでシャープな演奏で異化し、そしてシナモンのようなストリングスと鉄琴をさらりと振り掛けることでファンタジーでキュートなポップソングに仕上げられている。

テンポよくAメロBメロを駆け上がってのサビの箇所より後にさらに抑制めいていじわるめいたメロディパートを挿入する曲構成も、この曲のコロコロした感覚をより緩急ついたものにしている。二回目サビ後でこのパートを省略しブレイクの後間奏パートにさらりとちょっと壮大に展開する様などは、パズル的な組み合わせの妙と映画的な盛り上がり具合との調和がこの曲のSFチックな広がりを演出し、そしてそれをイントロと同じリフでざくっと処理して最後のBメロに繋げてしまうところまで含めて、高度に職人的に感じる。

職人的。やくしまるソロの楽曲で、特に各シングル表題曲なんかで感じるのが、この要素だ。考え抜かれた構成、可愛らしさが変に淀まない程度に抑制されながらも煌びやかなアレンジ、同じくまったく粘つかない感じのシュールな可愛らしさを抽出した歌詞など、どの要素も曲のコンセプトに対して非常に的確な感じがする。それは同時に、相対性理論が有していた、ニューウェーブ気味なバンドサウンドによる抑制や投げっぱなしさ、もしくはガッとくる感じとは両立しないものだ。こういった楽曲での彼女は、やはりバンドやもっとSF・NWに取り澄ましているときよりもずっとアイドル的な方面に寄っている(作曲やアレンジホントに本人かよ、と疑ってしまうところも含めて)。

ただ、ロック的な勢い感も良いけれど、最高の砂糖菓子を作り上げようとするかのようなポップソングも、大変素晴らしくて楽しいものです。この曲のように「大人なビターさ」みたいなのを欠片も出さないようなポップさというのは、そのコンセプトの華麗な一貫性自体で既に、静かに唸ってしまうような感じがある。最高にポップでキュートでシャレた曲を作る才能?少なくとも歌える才能が、彼女にはある。そういう才能のある人が、何の理由があるにせよこういう曲もリリースできることは、とてもありがたいことだと思います。

ヴィーナスあの子はいつでもロンリネス/目を離さないで
 ジーザスお向かいさんなら/聞いてお願い

この曲が主題歌になったアニメ『荒川アンダーザブリッジ』の2期のOP曲も彼女の作品(『COSMOS vs ALIEN』)だが、まさに今回の曲の正当な進化系であり、そしてより理不尽な緩急と展開とそして謎のふわふわコーダ付きで曲の尺たったこれだけかよ!?まともな歌の部分だけだとたったこれだけしか尺ないのかよ!?という物凄い楽曲で、どうでもいいですがそっちの方が好きです。やくしまる楽曲では3本の指に入る。他2本は『気になるあの娘』と『少年よ我に帰れ』。

【い】インディゴ地平線/スピッツ

期せずして夏チョイス。

スピッツのアルバムだと『インディゴ地平線』が一番好きだ。全編を通じてどこかくすんだようなくぐもったような音作りによってもたらされた穏やかなトーンは当時のUSインディなローファイオルタナ感と共振しているし、よりパブリックイメージだろうギターポップのキラキラ感が鳴りを潜めた(そのせいか中古が比較的多い気がするこのアルバム。『ロビンソン』『チェリー』の大ヒット直後にこんなアルバムが出せる辺り冒険的だし、まあミスチルも人気絶頂期に『深海』とか出せてるし、当時のレコード会社の懐の深さというか余裕というかがあるのだろうか)ところにより落ち着いて乾いて曖昧でノスタルジックなアトモスフィアがなんとなく全編を覆っている。彼らのこんな感じのアルバムは他にはない。

その中でも、このタイトル曲はとっておきだ。爽やかに突き抜けていくギターポップの魔法も、彼らのアルバムに時々ある茶目っ気的なハードロック・パワーポップさも、壮大なバラードの気配も、ない。90’USローファイを通過した後期ビートルズ、とでも言えば良いのか(それって最高ってことじゃないか!)な演奏。よくくすんだクランチのリズムギターと、単音やシンプルなアルペジオで遠くに届こうとするリードギター、ゆったりとしながら地を踏みしめて歩くようなドラムの力、結果できた演奏の隙間を埋めすぎないように縫い込めるベースライン。

曲構成も、明らかなサビが無く、とりあえずサビかと最初は思うだろう箇所から2度目の繰り返しでさらにメロディーが発展して、重力を伴ったまま飛翔しては曖昧に着地していく流れなど、いわゆるヒット曲的なものから背を向けた方向でのさらりとした凝り方が光る。その2度目のサビ(?)からゆったり着地した間奏が終わり、リズムがブレイクする箇所などは、歌詞のような「青の果て」みたいなのに不思議のうちに漂着しちゃったような、とてもくすんで曖昧で美しい瞬間だ。

そう青色。海の色、空の色、サイダーの色、といった情景描写から、「青春」から「憂鬱」までの状態・心理描写までに時に鮮やかに、時にくすんでかかってくるこの色。この曲からイメージされる青色がとても好きだ。アルバム中では次曲となる『渚』では空と海が広がり合う光景がイメージされるが、この曲においてそれはひたすらに虚空な感じがする。街の外れの荒野で、街を出て行く方面を眺めたときの、何の意味も無く広がってしまう空の色。死にたくもなりそうなほどからりと青い世界。

でも、そんな虚無めいた世界に向かっていくのは、少なくとも多少けだるげながら意思は力強い、二人だ。
君と地平線まで/遠い記憶の場所へ/溜め息の後の/インディゴ・ブルーの果て
目的は何だ。ノスタルジーの果てを目指すのか。心中か、村上春樹的なやれやれ冒険セックスか。いや違う、少なくとも歌詞上では、それはもっとシンプルで強く少年的だ。
凍りつきそうでも/泡にされようとも/君に見せたいのさ/あのブルー

鮮やかさも鈍さも儚さも辛さも虚しさも全部、もっと言葉にならない色々も全て、この曲の「青」に込められた。その、静かに乱反射するような揺らめきと深みとスケールのブルーのイメージに、いつかあてられてしまって、それからすっと憧れてやまない。

【あ】あなたのいない世界で/コシミハル

あいうえお順で、一回につき一曲なんかテキトーぶっこきながら書きます。

 美しさにもベクトルがある。スポーツ選手の躍動の瞬間のような精力溢れ力強い美しさもあれば、滅び行く建築物が醸し出すぞっとして切なくなるような美しさもある。
 小西康陽という作曲家(に収まらず映画中心に多様な文化を取り扱える「ブンカジン」的なスタイルこそが彼の——ピチカート・ファイヴ渋谷系というムーブメントにおける影響力の重大な原動力のひとつとして機能し云々…はここでは置いといて)は、日本有数の美しくて悲しい歌の名手だと思う。実際『悲しい歌』という曲も作っている。きっと悲しい映画を見すぎたんだと思う。
 彼の作曲家としての強みは、まず骨組のソングライティングの良さ。日本の昔の歌謡曲的な要素(J-POP的なカッチリしてスッキリした曲構成というよりも、良くも悪くももうちょっとロマン的というかいびつでぞんざいというか、な構成など)を忘れずかつ残り香で勝負できるレベルにソリッドに切り詰められた楽曲のたたえる美しさは、上品というよりも奥ゆかしさを感じる。そして、そうやってできた楽曲をどうデコレートするかというところ。「映画を作るようにサウンドを作る」とも言われたりする彼の編曲力は、奥ゆかしい楽曲を時に楽しげに、時に艶やかに、そして時にとても物悲しくコーティングする。
 物悲しさは、特に最終形態ピチカート時代(小西・野宮二人時代)の最重要テーマとして、作品の度により美しくも凄絶なものになっていく。『悲しい歌』に始まり増加していくそれらは、小西康陽のもう一つの特色、彼個人という人間から発せられる物悲しさというものを静かに、だけど薫り高く滲ませる。そう、彼の表現する悲しみというのは、荒野的・絶景的なそれというよりむしろ、何か内側からしっとり滲みだしていくような風情がある。
 その最終的な地点として、今回の表題曲『あなたのいない世界で』という楽曲は存在する。実は彼による作曲でないにもかかわらず(しかしこのたびのピチカート・ワン新譜ライナーにて元々のメロディー展開を端折ったことが明らかにされたが)、彼の深い業のような作家性がまざまざと見せつけられる。
あなたのいない世界で/私は週末の朝/ひとり手紙を書いた
 ブルーのインクで小さな文字で/季節の移ろいをあなたに伝えたくて 
 書き終えて私は少し泣いた/そのあとで引き出しに鍵をかけた 
 あなたのいないこの世界で

悲しい映画の一場面だろうか。しかし何だ、この悲しさには何か、聴いてるこちらの身にもぞっそするようなものがある。批評家が批評しながら同時に涙しているような。よく分からないが、ともかく、一点の濁りも無く美しく救いの無い場面——それは小説や映画や歌なんかの中でしか存在し得ない光景かもしれないが——を描き出している気がする。

 この徹底した楽曲に、より絶望的で虚無的な魔法をかけたものがこの、今回取り上げるコシミハルによるカバー(小西本人監修という特殊なピチカートソングカバー集『戦争に反対する唯一の手段は。 - ピチカート・ファイヴのうたとことば』収録)である。原曲のシックなアレンジも大変素晴らしいが、こちらのバージョンは格別。チープなリズムボックスの上に、大概古くなって壊れかかってるかのような音のピアノが上品に乗る——この上品というのは、まさに黄昏れ貴族のような上品さで——このアレンジは、この楽曲の登場人物増により迫っている感じがある。
 まるでベル・エポックな時代、または両大戦間期のテクノ、ゼンマイ仕掛けのテクノめいた風情。それはコシミハル氏の常々の作風にもあたるだろうが、その時代がかった演劇的要素が、この曲の色彩をよりカラフルにかつ色褪せたものにする。サイケとかとはまた全然違う不思議な浮遊感。ファンタジーとも違うような。古き良き時代があった、という空白から滲みだす悲しみに暮れる主人公、その光景さえどこか遠くの時代の風景のような、そんな気の遠くなり方。少しばかり遥かな過去の悲嘆のシーンに埋没していく小西康陽の作家性。もはや悲しみのフェティシズムだ、映画を観過ぎたことによる末期症状だ。映画の観過ぎコワイ!こんな収束点めいた悲しみにつける薬なんてあるのか。それは時間と忘却とそして死でしか拭えないものじゃないかしら。

取り澄ました悲しみかもしれない。市井の泥臭い哀愁は全く欠けてしまっているかもしれない。貴族趣味かもしれない。でも貴方様、「没落貴族」って単語に、何故かグッときませんか?悲しみを美しく取り繕うことは、皆苦労してどうにかやってる世の中の実際に対して不誠実だろうか。知ったことか。ぼくはただ美しいものが見たい。甘くどうしようもない虚しさに沈んでしまいたい。せめてこうやって、自由に何か音楽を聴ける時間くらいは。

初回なのでなんか肩肘張った風に頑張った感じになってますが、もっと簡単にやりたいです。

hasu-flowerについて

 私事ですが、hasu-flowerという名義で音楽活動をはじめました。

 とりあえず作った音源。ギターと歌だけですが。

 また、先日弾き語りライブを行い、そのときの録音は以下のとおりです。歌詞飛びがかなり…。

 音楽性としては、ポップでメロウで、コード感が解放弦多用のややワンコード調で、ややノイジーなオルタナカントリーみたいなのをしたいと思っています。どうでもいいですけどオルタナカントリーという言葉をWilco『Yankee Hotel Foxtrot』で知ったのであのアルバムこそがオルタナカントリーだって思ってて、ノイズ処理とかまさに!と思ってすごく納得していたのですが、その後よくよく調べてみるとオルタナカントリーという音楽は本来もっと素朴で元のカントリーに近く、もうちょっと温もりがある感じの音楽であることが分かってきました。ただ、当初ぼくがあのアルバムに抱いた「これがオルタナカントリーか!」っていう納得と印象は未だに抜きがたく、むしろあれこそオルタナカントリーだ!って思ってしまってるので、そんなぼくが勘違いしたままのオルタナカントリー感を目指していきたいと思ってます。ちなみにぼくの認識だとWilcoの他にRed House Paintersなんかも完全にオルタナカントリーです。

 で、バンドメンバーを募集します(唐突)。
 ドラム・ベース・リードギター・キーボード。
 福岡市在住(または通える人)で、少なくとも土日に練習やライブに出ることができる人。当方WilcoArt-Schoolや昆虫キッズが混じったような音楽がしたいです。よろしくお願いします!

 hasu-flower次のライブは4月21日、薬院UTEROの予定です。弾き語りになるかと思います。もしお時間がある方はよろしければぜひお願いします!

 また、もしライブのお誘いをしていただけることがありましたら、以下の方に連絡いただけますと幸いです。弾き語りなら当方準備さえできればどこでも行けると思いますので、なにとぞよろしくお願いします。
ystmokzkあっとgmail.com(「あっと」を@に打ち換えてください)

『スカーレット』ART-SCHOOL

 活動休止前ライブの感想という最大の憑き物も落ちたことだし、アート全曲感想を再開します。

 バンド結成以来の4人が深刻なディスコミュニケーションに陥り遂に解散状態になるのが所謂第一期アートの結末だった。大傑作アルバム『LOVE/HATE』とそのツアーから生み出されたライブアルバム『BOYS DON'T CRY』を辛うじてリリースしバンドは壊滅(ついでに東芝からも契約を切られている)したものの、木下理樹はアートスクールの続行を決断。そして当時福岡在住でアートのファンとして親交があった戸高賢文をギターに、また一般公募のオーディションで宇野剛史をベースとして、2004年4月のフリーライブを皮切りに活動を再開させる。これがこの後5年程続く(今のところ最長)所謂“第二期”アートスクールである。

 余談だが、第一期と第二期の境界は明確だが、その後のメンバーチェンジの度の名称は幾らか呼び方に揺れがあるようだ。つまり、この後2008年にドラム櫻井雄一が脱退して鈴木浩之加入後の体勢を“第三期”と呼称するか、それとも2011年に宇野と鈴木が脱退して、サポートで中尾憲太郎藤田勇が就いた(2015年現在まで続く)体勢から“第三期”とカウントするか。個人的には、鈴木加入前後のアートの音楽性は連続している感があり、その他の節目ほど急激な変化をしている気がしないが、それでも当ブログはメンバー交代によるサウンドの変化の観点などもあり、鈴木時代を“第三期”、中尾藤田時代を“第四期”と呼称することとしたい。今回の活動休止が開けた後のメンバーが第五期になるのか、それとも第四期が続くのかはまだ分からない。

 前置きが大変長くなったが、そのように第二期として活動を再会させた後、最初に発表した作品が今作である。なお、今作からは『クロエ』が、この後に出る3枚目のフルアルバム『PARADISE LOST』に収録される。その点や歌詞の傾向などもあって、今作〜『PARADISE LOST』までの時期を当方では「PARADISE LOST期」と呼称したい。

スカーレットスカーレット
(2004/08/04)
Art-School

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画像欲しさにアマゾンリンクを貼ったが、今作と次作『LOST IN THE AIR』は、当時メジャーレーベルに所属していなかったバンドが自主レーベル(「VeryApeRecords」という。Nirvanaからの引用だろうけど、この時期からの木下の歌詞も踏まえると笑えるネーミング)からリリースしたもので、タワレコ限定・数量限定発売となり、現在廃盤である。
 しかしながら、この二枚の楽曲については後に『Missing』というコンピレーションアルバムに、当時の新曲二曲と一緒に再録されている。現在なら、こちらの方が購入しやすいかもしれない(これが出た為に元の盤が値崩れを起こしてはいるが)。そちらの再録分はリマスターされていて、それはいいのだけれど、音量レベルがアートの歴史で最も高い「FLORA・キキ期」の水準まで引き上げられていて、収録曲的に同じ期間の括りとなるはずの三枚目のアルバム『PARADISE LOST』(や、同時期の『あと10秒で』)の楽曲と一緒のプレイリストに並べると音量的にやや違和感があるのが珠に傷。
MissingMissing
(2006/09/06)
ART-SCHOOL

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 本当に前書きが長くなってしまった。以下レビューです。


1. スカーレット
 第二期アートの到来を告げる、このミニアルバムのタイトルトラック。作曲者に木下に加えて戸高の名前も記されており、アートの楽曲で作曲に木下以外の名前が入り込むのは(カバーを除けば)これが最初(のはず)。
 曲調は、イントロのギターカッティングの勢いがそのまま最後の音まで続いていく、所謂直線的な疾走チューン。しかし、第一期の多くのそれらとは雰囲気が異なる。ギターのバッキングが、これまでのアルペジオパワーコード重視から転換し、コードカッティングを主軸に置いたサウンドになっている。
 このカッティングのをの主軸として、他の要素は極力省かれている。リズムも直線的なアレンジで、アルペジオ等もさほど前に出る感じでもなく、ともかく終止ギターカッティングのジャキジャキしたアタック感が曲の中心を担っている。こういうアプローチはアート以外の同時代の疾走ギターロックバンド、特に3ピースバンドではそこそこ定番であり王道のサウンドな感じがするが、それをアートがやってしまうところにこの曲の魅力がある。
 また、そのカッティング自体を当時新メンバーだった戸高が考案して、それに木下が歌をつける、という形での共作となっている。カッティングのコード感自体は従来からのアートっぽさも感じられるような響きがあり、違和感はあまりない。モードチェンジしたサウンド上で木下のメロディもまた、木下理樹としかいいようのないリズム感と伸び方のメロディを書き、歌う。「おーおーおー」と歌を伸ばす箇所やサビの「しまーったあーあ、まーったあーあー」という不思議なリフレインに彼特有のストレンジなフックがある。
どうして 今 貴方に触れたくて 見えないから 身体を欲しがった
歌詞の方も、この曲はそこまであからさまではないが、より性的退廃とやたらめったらやさぐれながら未練がましい詩情に堕ちていく、PARADISE LOST期アート特有のカラーが打ち出されている。
いつか見たあの海へ 二人はそうたどり着いて
 本当は知っていた もうきっと戻れないと

 スーツ姿で壇上で歌う木下の顔芸と、ロボット演奏をするメンバーが印象的なPVも面白い。

2. RAIN SONG
 当時、新メンバーになってはじめて合わせた新曲だったらしい。LOVE/HATE期の名残も感じさせる、静動がくっきりしたグランジ気味ナンバー。
 しかしそれでも、バンドサウンドを変化させようとする意志は働いていて、この曲の場合特にドラム、スネアのカントリー的な軽快な連打が印象に残る。そこに3音アルペジオとコーラスの効いたギターストロークが絡むAメロの水中っぽさ。そこから一気にハードな演奏になるサビのシンプルさは、ワンフレーズ繰り返しの歌と相まって、より単純なハードさを前面に出した形となっている。シャウトと「トゥルットゥットゥルー」のコーラスがいいアクセントになっている。
ああ 今日は 海が見たいんだ なんとなく
 愛なんて それより何か 肉食いたいなぁ

笑っていいのかよくわからない、この曲最大のフック。個人的には性的なものよりも、曲調に沿うような空しい静けさの中にいるときに、ふっと意味もなく思い立ったフレーズ、といった、やさぐれた印象を受ける。憔悴してぼんやりしているような。

3. クロエ
 当時のアートでは明らかに新機軸だった、ファンク要素を中心に据えた楽曲。初っぱなだが完成度は相当高い。元々プリンスの大ファンだという木下のその方面の音楽趣向がはじめて前景に押し出された。これまでにもファンク要素は『JUNKEY'S LAST KISS』とかライブ盤の『モザイク』とかで少し現れていたが、この曲はド頭からギターのファンクフィーリングなカッティングが現れ、サビ以外で終止曲の雰囲気を支配している。
 そう、ここでそのファンクさを引っ張るのはベースというよりもギター、クリーンなトーンによる単音カッティングだ。それはまさにプリンスの数々の楽曲で行われているものと原理は似ている。しかし、プリンスがギターだけでなくシンセやSEも被せてトータルでゴージャスな感覚を表現しているのに比べて、ここではあくまでギター二本の神経質なプレイがメインで、それはむしろ殺伐さがあり、ポストパンク的ともとれるかもしれない(っていうかインディーバンドがファンクを取り入れる場合しばしば取り入れられるのがギターの単音カッティングで、プリンスばりのド派手シンセはさほど取り入れられないのは興味深いかもしれない)
 ギターが目立つが、他のパートもやはりファンクなプレイに徹している。ベースは、むしろ宇野自身直線的なギターロックよりもグルーヴィーな音楽を好んでいるらしく、タメを利かせた弾むようなプレイを見せている。一番ストイックなのはドラムで、殆どスネアを叩かずキックと裏拍強調ハットの刻みだけで4つ打ちのスタイルをプレイしている。木下の歌も怪しく這い回るような、疲れてだれているようなラインをリフレインする。最終的にはファルセットも披露し、木下流のガリガリなソウルフィーリングが垣間見える。
 ファンキーな刺々しさがサビで一転、カッティングがアルペジオになりメロウになるところは上手な切り替え。歌メロも性急なリズム感に切り替わり、しかしながらドラムは変わらず裏拍を強調し続け、ベースは弾んでいる。ファンクさの中にアート的なメランコリックでノスタルジックな匂いを奇麗に溶かしている。
身体だけを 欲しがる猿みたい 家にいんの 一歩も出ないで
歌詞では、いよいよPARADISE LOST期的なやさぐれ感や性的表現が渦巻いている。「猿」というこの時期の木下歌詞のキーワードが登場。アートのエロ歌詞は基本的に爛れた感じがして、その身も蓋もないところに自嘲的な姿勢が見える。
“いつかの海へ”なんて やせた肩抱いて
 僕等 きっと馬鹿で 変われない様で

ノスタルジーと停滞感。今作は「海」というワードも歌詞によく出てくる。

4. TARANTULA
 深いコーラスのかかった怪しげなギターリフを纏ったグランジナンバー。彼らの楽曲ではモロにグランジしてる部類だろうか。このギターリフの毒々しい感じが曲名のタランチュラをイメージしているのかもしれない(歌詞にも出てくるけど)。
 この曲についてよく言われるのはサビのメロディ。これがJoan Osborne『One of Us』からのガッツリ引用であることはファンの間でしばしば言及される。そこを置けば、コード進行やドラムプレイ、展開などの面でのSmells Like Teen Spiritマナーにかなり忠実な、典型的なグランジ感が味わえる。(余談だが戸高はこの後によりSmellsマナーに忠実な『Candles』を書き自身ボーカルで発表する)
許された季節は終わり 昼間から獣になって
 放っとくと 怒るんだっけ 誰でも そう

歌詞は今作でもとりわけ閉塞的な性が語られる。あと、歌詞に出てくる「タランチュラの刺青」の女性は実話だという。怖え。

5. 1995
 今作で最も明るくポップにアプローチした楽曲。言ってしまえばスピッツ青い車』なんかが浮かんでくるような、爽やかギターポップ。これも第二期以降に登場した新機軸(第一期の頃から萌芽はあったが、ここまでギターポップとして纏められているのはなかったはずだ)。しかし初っぱなにしては完成度が素晴らしく、後の「アートのミドルテンポのノスタルジック陽性ギターポップにハズレなし」という個人的な持論の、その始まりの曲でもある。
 ともかく、そのサウンドの軽快さ・淡さが素晴らしい。一音目から景色がパァーっと開けていくような感じ。ギターの揺らめきの様なサウンドの眩しさ・儚さはシューゲイザー的な要素が垣間見えるし、戸高のギタリストとしてのロマンチックな資質がスッと表出されている。ライドシンバルの高音を裏拍で強調したドラムも軽快な浮遊感を醸し出している。バックでループするSEも光がグライドしていくようで美しい。
 サビでパワーコードのギターが鳴るときも、ポップなドライブ感が加味されてとても心地よい。切迫感のある木下のボーカルも単語の連呼などがとても効果的に配置され、そしてその後木下お得意の「サビ後」のメロディ展開では、自然に沸き上がっていくようなギターの流線型とともに、爽やかにメランコリックに駆け抜けていく。
 歌詞も素晴らしい。木下的なノスタルジーが込められた単語の数々を隙間の多いリズム感で配置するAメロの良さ、本当なら歌詞を全部掲載したいくらいだ。
君の眼が好きで ただのそれだけで あの日 僕達は 裸足で飛び出した
 いつか見た海へ やせた肩抱いて すり減った二人は 何故かそう似ていて

一部『クロエ』とほぼ同じ歌詞があるのも気にならない。こんな淡いイメージとサビの無常観との対比が、曲調の流れと相まってとても切ない。
「変わらないでいられるさ」なんて 云って 身体だけが 繋いでた 様で
第二期アート以降の木下の歌詞からは、第一期の少年性は後退していく。しかし、その代わりのやさぐれやエロの中に、時折こういった「大人になりきれない大人」のノスタルジーみたいなのが入り込んでいく。この辺りの単語チョイスの中にこそ、木下歌詞の最良の部分があるように個人的に感じる。

6. APART
 前曲の爽やかで開けた感じからぐっと変わって、閉塞感と焦燥に駆られまくった攻撃的・自虐的なファストチューン。シンバル類の畳み掛けやらAメロのワンコードカッティングやら(少し『スカーレット』と響きが似ている感じもするが)が疾走感を醸し出すが、Bメロのキリキリとした旋律からぐちゃっとしたパワーコードをバックにAメロをオクターブ上で張り上げるサビに至るところは、第一期以上にどこかボロボロなフィーリング。爽やかさが無いというか、前と異なる邪悪さ・痛々しさがありそう。とりわけドラムの機動力が曲をグイグイ引っ張っていく。低音で歌うAメロと強引に絞り出すようなささくれまくったサビの1オクターブ差のギャップは、とりわけブレイクからBメロなしフィルインでサビに突入するラスト局面で壮絶に映える。
I'm waiting for APARTで猿がやる I'm waiting for 本当の俺の歌
そう云って どうだって よくなってしまったって
シンプルで直情的な曲展開以上に曲の重苦しい雰囲気を作っているのが、歌詞の部分。今作で最もささくれてやさぐれた歌詞を持つこの曲は、活動休止以降の本人の生活における停滞感・腐敗感が滲み出ている。身も蓋もない言葉の数々に、より自身の生活のリアルを切り売りしていこうという木下のいい具合に投げやりな意思が感じられる。

7. 君は僕の物だった
 今作を締める静謐で曲中の温度変化少なめな曲。ゆったり目なリズムで淡々とメロウに、過ぎ去っていくような雰囲気で進行していく様はかつての『1965』や『LOVERS』といった曲と共通するところがある(サビの「あーあー」というコーラスなどはホントに『LOVERS』そのまま)。
 この曲のサウンドの特徴は、終止刻まれ続けるギターのブリッジミュートだろう。The Police『Every Breath You Take』辺りを参照にした思わしきその音響はしかし、ドラマチックさや風景感をカットして、ひたすら内に溶けていくような感覚がする。サビなど一部で用いられるシンプルなパターンのアルペジオも思いの中に籠っていく寂しさのように響くし、木下の歌も終始淡々としながらも、特にサビの繰り返しなどに静かで寂しい熱を感じさせる。
 歌詞は、木下の実体験に基づいているらしい、悲しげな光景が描かれている。
気付いた? 5キロ痩せたの 急に 泣かれたって
 何か 猿になって しまえば 楽になれたっけ

このメンヘラ臭!第二期以降の、少年っぽいロマンからどんどん離れていく湿っぽさ・しんどさが、何とも身も蓋もない形で表出されている。


 再スタート後初のミニアルバム、ということで気合いが入っているのか、彼らの普段のミニアルバムより1曲多い全7曲収録となっている(同じ収録曲数の作品には後年の『Anesthesia』がある)。
 当時の新メンバー加入後初の作品だが、そのせいもあってか、作風に様々な変化が見られる。具体的に、The Cureミーツグランジみたいな曲は減り、その分をストレートなギターロックだとか、ギターポップだとか、ファンクとかにアプローチして、新しい魅力を放っている。この辺りの作風の変化は、特に戸高賢文の加入により、ギターサウンドの幅が広くなったことが影響している。サウンドイメージを木下と共通した視点で、かつ自身の個性を強く反映しながら構築できる「アートのもうひとつの顔」としての役割を、後年ほどではないにしても既にその萌芽が随所で見えるくらいに活躍している。
 サウンドのついでに木下のソングライティングも微妙な変化を見せており、全体的に湿った辛気くささが滲み出てきている。きっぱりと虚無で荒野な感じの『LOVE/HATE』とはメロディの質感も歌詞の方向も結構異なっていて、よりドロドログダグダした生活感や人間臭さが出ているのかもしれない。具体的には性的な描写がより直接的になったり、やたらささくれて投げやりな心情だったり、何度も繰り返される「いつかの海へ」的ノスタルジーだったり。
 混沌と虚無のロマンに沈み込んでいく少年の時代は終わり、それはとても素敵な映画のようだったけどでも終わり、ぞっとするような現実的などうしようもなさに溺れていく、大人になりきれなかった何かのうごめきのような詩情の、PARADISE LOST期のアートの出発点となった作品。この救いの無い感じは、次作『LOST IN THE AIR』でより追求されるところである。今作には、その予感、と言うには豊穣すぎる、過渡期的ながら半ば意図的のような、不思議な歪さと楽しみがあるように思う。