ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『BOYS DON'T CRY』ART-SCHOOL

 アートスクールの第一期最後のリリースとなったライブ盤。公式で単体として発売されているものとしては現在唯一のライブ盤CD。収録曲は第一期メンバー最後の活動となったアルバム『LOVE/HATE』のリリースツアーにおけるベストテイクを集めたもの。多分あまり知らない人が聴いたら「えっこれベストテイクなん!?」とか言うこともあるかもしれない。
 ジャケットは、この色合いとステージ上の機材感で、NUMBER GIRLの解散ライブ盤『サッポロ OMOIDE IN MY HEAD 状態』に影響されていません、と言い張るのは無理だろう、といった具合。ただ、どっちも当時の東芝EMIのディレクターが加茂啓太郎氏という共通点はあるので、そこつながりのデザインかもしれない。

BOYS DON’T CRYBOYS DON’T CRY
(2004/03/17)
ART-SCHOOL

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※ライブ盤なので、全曲レビューは以下の一曲を除いて割愛します。

19. Outsider
 この曲のみCDで収録されているのはこのライブ盤のみ。元々はインディー時代の楽曲のひとつで、スタジオバージョンはART-SCHOOL結成後(木下ソロから正式にバンドへ移行後)すぐくらいの時期におそらく自主制作・販売していたデモテープの、3つあるうちの最初のものに収録されている(? 現物を持ってないし聴いたことも無いので憶測。入手はおそらく困難を極めると思われ)。
 最初期デモテープのバージョン未聴のためこのライブ盤のバージョンにて判断するところによると、『Fiona〜』や『MISS WORLD』あたりに通じるマイナー気味のコード感で疾走する楽曲。ライブだからというのもあるが、ともかく勢い任せに疾走する様は無鉄砲という感じがして、Aメロのメロディーもやや垂れ流し気味でメロディアスではない具合が逆にハードコアっぽく感じられないことも無い。
 それでもこの曲がまだポップに聞こえるのは、サビでキャッチーなリズム感を持ったメロディーを引っ張って来れてることが大きい。このメロディをそのまま明るいコード進行で発展させたものが『SWAN SONG』のサビメロである。
 この曲は雰囲気よりも、ともかくその勢いを楽しむところだろうか。特にドラムの派手で長めなフィルインが特に目立ち、こういったプレイはずーっと後になってドラムが櫻井氏以外の人に変わってから時々聞くようになった気がする。
 作った本人も直球過ぎると語っている歌詞は、その分最初期からこんな世界観なんだなーといった印象も。
おおOutsider/感情を切った/何も感じないように/本当はもう誰も信じたくない


 ライブ盤。決して演奏が上手いわけではない、という評判と、アートスクールはライブバンドである、という評判は両方ともあって、そしてそれはそこまで矛盾したものでもないように思う。少なくともリズムセクションは、アート脱退後ストレイテナーZAZEN BOYSでの活動を経て日本屈指のベーシストとなっていく日向がいることなどもあって、十二分に上手い。ただ、ともかくスピードが原曲よりも速くなる。それはプレイヤーがどうこうでなく、バンドがそういう性格だから、と言えるし又は、アートスクール=木下理樹だから、その木下がハシるからバンドもそうなる、といったものだろうか。
 今ではこのライブ盤までの時期を“初期アート”と呼称することがままあるが、この時期の曲は今でもライブで演奏されることが多く、半分以上、酷い時は3分の2以上が初期曲ということが今でもある。初期曲の魅力といえば、それ以降の段々複雑化(演奏面、曲構成面等色々)していく楽曲よりも直球な演奏や歌唱が響く曲が多く、ライブ時のテンションの高さがより楽曲に反映されやすいことだろう(それゆえ近年の曲を押しのけてライブのセットリストを占拠してしまいがちだが…)。
 このライブ盤においては、その初期アートの数々の曲から代表的な部分を引っ張ってきた、所謂ベスト盤チックな選曲になっている。特に、シングル『MISS WORLD』以前の作品は録音がかなりローファイ気味かつライブよりもずっと遅いテンポで演奏されている(逆にライブが速過ぎるのだろうけど)ため、このライブ盤、もしくは実際にライブで聴くと最早違う曲のようになっていたりする。『MISS WORLD』『ウィノナ ライダー アンドロイド』辺りはこのライブ盤の演奏こそが基本と呼べそう。
 当時のバンド内パワーバランスの影響か、木下の声はともかくギターの音も大きいのが特徴(ただし、ちゃんと左右に各人のギターの音が振られているので聞き分けは容易)。戸高氏がアートに加入してサウンド上で存在感を増すにつれサビ以外でギターを全然弾かなくなっていく木下が、初期アートのライブではどの曲でも最低限ブリッジミュートしていたりするのは、自分がなんとかバンドを引っ張らないといけないという自負が強かっただろう、この時期までの特徴と言えそう。あと、歌自体は世間一般の技術的に上手と言えない部分もあるが、歌声の調子もこの時期はかなり良く、裏声の使用がスムーズだ。これは特に、ミドルテンポの楽曲で映える。
 演奏自体は、後年のライブの方が楽曲の幅が広がった分多彩な演奏があったり、轟音の密度が上がったりと面白みが増している気がするが、しかしこの時期このメンバーだからこその勢いがあるのも事実だと思う。木下はまだ25歳くらいで、この後ねっとりとダークなsyrup16g的世界観に近づいていく前の、キラキラポップな感じとギラギラ重い感じとがストレートに交わる楽曲の数々は、やや一本調子気味だがその分潔さもある。

 初回盤のみ付属のDVDには、このツアーラストライブの楽曲が収録されている。貴重な映像であるとともに、「どうしてこの曲もCDに入れなかった…?」的な(収録時間の関係でより多くの楽曲を収めたかったんだろう)『プールサイド』『ニーナの為に』も収められている。特に『プールサイド』のライブ映像は貴重。

 収録曲的には、あとこれに『汚れた血』が収録されていれば…というのが、少なくないファンの思うところか。それでも、十分に魅力的な楽曲の並びだし、また合間合間に挟まれるMCは、後年のよりフレンドリーでかつ木下のポンコツっぷりが強調される(笑)MCと違い、緊張感のある、またはセンチメンタルなものになっている。ドキュメンタリーとして、過去のアートスクールというバンドのより生々しい記録として、そして単純に勢いがあってキラキラして時にロマンチックで時に悲痛な音楽がたくさん詰まったアルバムとして、流す度にいろんな気持ちになるアルバムだと思う。

 最近ファンになった人がライブの予習用に借りるとすると…昔と今の声のギャップに戸惑うかもしれない(苦笑)しかしアート好きになったらぜひライブは見てほしい。木下理樹ほど不器用にも何かを絞り出そうとして必死で、そしてそれが凄く様になる人はそういないし、それをがっつりギターロックとして強烈にアンプリファイできるのはアートスクールというバンドしかない、ということは、いつも強く思う。

ゼロ年代前半東芝EMIの10曲(後編)

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「コピーコントロールとか嫌なことは色々あったけどでも当時の東芝EMI作品っていいの多いよな〜」と言って今更あえて語る必要性も見つからない大名曲について言いたいことを言うだけの企画、後編です。残り5曲。



6. NUM-AMI-DABUTZ(NUMBER GIRL)
 当時の東芝EMIがロックをプッシュする姿勢を表明したのがACIDMANなら、東芝EMIにROCKなフィーリングを強く刻み付けたのがNUMBER GIRLではないかとも考えられる。ぎゃんぎゃん鳴る割に意外と歪みが少なくて耳に痛くなる寸前まで尖った感じのギター、ドガドガダダダンパァンジャジャジャジャっとともかく鳴りまくるドラム、上手い下手いを完全に無視したところで炸裂する歌など、いろんな物が激しいままバンドとして纏まってる感じは、少なくとも当時の日本のメジャー音楽シーンにおいて鮮烈で、よく東芝EMIもこれをメジャーに引っ張ってきたな…という凄みがある。いわゆる“97年世代”という単語でもって当時の革新性に関して括られるアーティストのひとつ。
 たとえばかつてのフリッパーズギターに、その新しさと凄みを見いだして強力にプッシュしたプロデューサー(牧村憲一氏)がいたように、ナンバガにも彼らをメジャーに導き、日本の新しいオルタナロックとして定着させるに至った、当時の東芝の(そして今でも)名プロデューサー・加茂啓太郎氏がいた。両プロデューサーとも、ここまで後世にも存在感を発揮できるバンドをフックアップしたこと、フックアップしたらどんどん凄い方向に変わり切っていったことなど、どのように思われただろう。
 (余談だがこの2バンド、他にも意外と共通項があるように思う。洋楽指向、アルバム3枚で解散(ナンバガはインディ入れれば4枚だけど)、主催者の挑発的なキャラクター等々)
 そんな具合で急速に変化していったナンバガの音楽性の、とりあえずの終着点が最後のアルバム『NUM-HEAVYMETALLIC』であるし、そのリードトラックにして不穏で奇妙極まりない楽曲がこの曲。当時の音楽ファンがこぞって「なんかナンバーガールが大変なことになっている!」と思ったとかどうだとか。その際や、その後ナンバーガール解散後の向井のバンド・ZAZEN BOYSの作品がリリースされた際にこの曲は語り尽くされた感じもあるが、今一度見ていく。
 当然一番目につくのは、全編をほぼラップとも語りともつかぬ口調でやり通してしまう向井のボーカルスタイル。これはその後ZAZEN BOYSでこのスタイルが散々繰り返されていることで幾らか印象が薄らいではいるが、それでもここに収められたボーカルは、後年の“This is 向井秀徳”なスタイルが確立されていないこともあってか、ザゼンのとはまた違った緊張感・ざらつきが感じられる。
 この曲にザゼンと異なる緊張感・ざらつきを感じる最たるものは、その演奏。ストイックに統率されたザゼンのバンドサウンドに比べ、この曲でのナンバーガールのサウンドは逆に崩壊寸前のような炸裂の仕方をしている。イントロの統率が切れた瞬間暴れ回るギターとドラム。特にありとあらゆるパターンを引っ張りだしてくるドラムの、リズムボックスとしての体を成してなさは半端ない。
 ヒップホップというスタイルは、どっちかというと抑制的なトラックの上で展開されるものだと思われるが、ここでナンバガが敢行したのは、抑制とは真逆のような、暴発寸前、いや暴発最中といったサウンドとラップとの強烈なコントラスト芸だ。この曲より以前にラップを導入した『TOKYO FREEZE』などの曲は、もっと抑制的な演奏になっている。そういった実験を経て、バンドの激しさをそのままにラップするスタイルに到達したのだろうか。この無軌道な激しさとよく分からないエネルギッシュさは、これ以前のナンバガにもこれ以降のザゼンにも見つからない、何か不思議な物を感じてやまない。
 あと、曲終盤の田淵ひさ子のギタープレイ。こんなフリーキーな演奏をキャッチーに聴かせるのも凄いし、メジャーの録音物として流通させるレコード会社も凄い。あとナンバガはリリースが2002年まで(後年の編集盤等は除く)なので、2003年頃から増えだすCCCDには関わらずに済んでいる。
NUM-HEAVYMETALLIC 15th Anniversary EditionNUM-HEAVYMETALLIC 15th Anniversary Edition
(2014/06/18)
ナンバーガール

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7. 地獄のロッカー(bloodthirsty butchers)
 NUMBER GIRLの解散ライブは『サッポロ OMOIDE IN MY HEAD 状態』としてリリースされ、そこではMCも極力カットせず収録された。そのMCの中で向井が札幌発の先人バンドに対するリスペクトと、そして何故かそれらのバンドの現状報告をする場面がある。その中でブッチャーズの名前が出た際に、「bloodthirsty butchersは今度ニューアルバムを出します」等の話が出た。そのアルバムが今作『荒野ニオケルbloodthirsty butchers』であり、この曲はその最後に収録されているもの。
 ブッチャーズは、名作『kocorono』で轟音サウンドとポップでどっしりとした歌心を融合させたスタイル(それはまさに日本のニールヤングとも言うべきな)を手にして以降、その強靭なバンドサウンドの研鑽にずっと努めて来た。ギター一本一発撮りでより有機的なサウンドと歌を求めた『未完成』、その叙情性とサウンドの奥行きに更なる拘りを見いだした『yamane』と来て、『荒野〜』において彼らが求めたのは、楽曲のダウンサイジング化とより飄々としたポップさだった、と見なすことができる。また、次作『birdy』以降正式にメンバーとして“元”ナンバーガールの田淵ひさ子が加入するが、今作で既に随所で演奏に参加しており、“プレ4人体制”のアルバムとして受け取ることも可能だろう。
 本来なら、明確にポップな名曲『サラバ世界君主』を取り上げた方がこのアルバムの作風を端的に表せる気もするが、個人的にこのアルバムで一番好きなこの曲を取り上げることにしたい。
 曲の入りのサウンドの素晴らしさだけで、この曲は既に名曲している。荒野を砂鉄が舞うような、静かで不思議な眩しさすら感じさせるソフトにノイジーなギターサウンド。思うに、ノイジーなギタープレイというのは、ひとつにファズやディストーションで歪ませた重厚なサウンドや、それに伴うフィードバック音などがあるが、もうひとつに、普通のアルペジオ的な滑らかさの無い、和音的にザラザラした音を並べる方法もある。例えばSonic Youthなんかは、どっちかというと後者の意味でノイズを追求しているように感じる時もあるし、またthe pillows『カーニバル』の伴奏のプレイはこのスタイルをポップに活用した優れた一例だと思う。
 翻って、この曲のイントロの、荒野で崩れ落ちんばかりの情緒は何だ。ブッチャーズのバンドサウンド特有のどっしりもっさり感(特に射守矢さんの浮遊感のあるベースが相当個性的。ブッチャーズのサイケ感はギターによるものだけじゃ決してない)はまるで日本の新しいカントリーミュージック(オルタナカントリー?)のようだとさえ感じることがあるが、この曲ではさしずめオルタナカントリーのカウボーイが帰るところも無く頼りもなくて放心したような感覚がある(ロッカー=カウボーイという見立てはどうだろう)。それでも、サビ的な箇所で鈍く歪むギターとともに力強いリフレインがあり、荒涼とした叙情性に溺れすぎないバンドの姿勢は頼もしい。
 おそらく前作『yamane』のサウンドを引き継ぎ発展させたのであろうこのサウンドの、いつまでも浸っていたいクリアで寂寥感の募るサウンドに、吉村秀樹の、頼りないが故にどこまでもタフで頼りがいのある詩情が強く感じられる。筆者は、この人こそ日本のニールヤングになるんだと思って疑ってなかった。
 ちなみにリリース当時はCCCDだった。東芝在籍期間のリリースは『yamane』と今作。今作はリリースのタイミングが悪かったんだろうと思うが、当時のブッチャーズファンからしたらどんな気持ちだったんだろう。

荒野ニオケルbloodthirsty butchers荒野ニオケルbloodthirsty butchers
(2013/09/25)
bloodthirsty butchers

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8. セブンスター(中村一義)
 某ライターが中村一義本人に対して自分の雑誌上で「僕はあなたにプレステをしてほしくなかった」とかいう妄言ことを言ったけど大名作なアルバム『ERA』から(シングルで言えば『ジュビリー』より後)、その後自身のバンド100sを結成して制作されたアルバム『100s』およびアーティスト名義も100sになってからのファーストアルバム『OZ』までが彼の東芝時代のリリースとなる。
 某ライターの嘆きではないが、東芝時代とそれ以前(マーキュリー。現在はEMIと同じくユニバーサルに吸収)では確かに、彼の作風は大きく異なる。某ライターがプレステと言ってるのはおそらく、中村が打ち込みを利用し始めてからの、リズム感がジャストなものになったサウンドを指している。
 中村一義といえば元々、全ての楽器を自分で演奏し、60s〜70sのロックのいなたさを現代のポップソングとして甦らせたことで高い評価を得た人物だったが、そのサウンドの最大の特徴は、彼本人が叩くドラムだ。あの、打ち込みのバキバキなリズムからは何光年も離れたバタバタしていなたくて変なタイミングでフィルインの入るプレイは、オーソドックスに見えて実際バリバリ個性的で、初期の彼の作品でしか味わえない重要な要素だ。
 そんな根本的なところを封印し、『ジュビリー』以降打ち込みに走ったことで、確かに某ライターの指摘も少しは頷ける程度に、彼の楽曲も根本的に変わった。雑に言えば、初期の彼特有の飄々さ・ゆるみ・土っぽさが消え、より彼のリリカルな感性が曲に直接反映されるようになった、つまり良くも悪くも、他のアーティストと同じ土俵で勝負をするようになった。その変化は、打込みから本人以外のドラマーへとリズムが変化した100s以降も、もっと言えば再び本人がドラムを叩いた最新作『対音楽』でさえ、“プレステ以降”の質感を感じる。
 しかし、筆者が某ライターのようにそこを嘆くかというと、全くそうではない。ジャストなリズムでシリアスになった中村一義も、実にいい作品を作っている。上記の通り、剽軽な雰囲気を取り払ったことにより、彼のリリスズムがより直接楽曲に現れるようになると、彼が持っていたヒステリックな世界観の輝きが楽曲に散見されるようになる。この曲はその最良の部類の一曲だ。
 プレステ以降をかんじさせ感じさせるデジタルでサイケで少しノスタルジックなSEに導かれて鳴り始めるギターの、クランチな歪みのまま平温のまま延々とドライブしていくリフの響きが素晴らしい。リフそのものが曲の骨格となりコード感にも直結するそのスタイルはSmashing Pumpkins『1979』のパクリだと言われることもあるが、たとえばSilversun Pickupsが『Lazy Eye』でもやってる様に、「『1979』をある程度の起源とするギターリフの系統」という風にジャンル化できるものだと思う。この曲では特にリフ後半の音のギター弦がよくしなってそうな感じが好き。
 そのサビでさえギターリフで鳴らし続けるところに乗るメロディもとても澄み渡ったそれで、デジタル化以降の音響処理と相まって、遠く果ての方まで響くような、またそんな果てを欲するような素直さが感じられる。淡々としたリズムとリフで進行する“非ドラマチック系統”の曲だからこそ出せる魅力や奥行きがこの曲にはある。
 ちなみに、上記で「その最良の部類」などと書きましたが、他に想定している曲は『いつだってそうさ』『Honeycom.ware』等です。あと中村一義も、リリース間隔が比較的長いのと出したタイミングによって、CCCDを完全に回避している。

100s100s
(2002/09/19)
中村一義

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9. Promise To You Girl(Paul McCartney)
 当時CCCDは日本のアーティストやレコード会社に限ったことではなかった。海外各地でもCCCDが発売され、その度に、この国でのリリースは普通のCDだからこの国で買うといい、といった情報がリスナー間で交換される様になった。日本においてはゼロ年代前半はインターネットが急速に世の中に普及し、ブログや2ちゃんねる等のネット文化が確立・普及していく頃だったし、またAmazonの登場によって、異なる国のバージョンのCDを購入できる環境が整っていた。
 CCCDでリリースがあった海外のアーティストも多々あるが、その特徴として、大御所のリリースにもCCCDがついて回ったことが挙げられると思う。日本では、特に所謂ナイアガラ系の大御所がこぞってCCCDに反対していたりなどして、CCCDでのリリースが見送られることが多かったが、洋楽では超大御所級のリリースが平然とCCCDで断行された。Queenのベスト盤がCCCDでリリースされることをファンの電話で知ってブライアン・メイが激怒した話はwikipediaにも記述がある程度に有名だ。
 ここで、当時の音楽ファンの間でとりわけ大きな騒ぎになったCCCDはこれらだろう、と断言できる3枚がある。1枚はRadioheadの『Hail To The Thief』。タイトル含めて資本主義批判の色が濃いこのアルバムが資本主義の原理の賜物であるCCCDでリリースされたことは皮肉としか言いようがなく、後の『In Rainbows』の当時画期的だったリリース形態に繋がっていく。1枚はThe Beatles『Let It Be …Naked』。詳しい事情は割愛するが、元々の作品の出来に不満を持っていたポールマッカートニー執念の“リメイク”作品となるようだったアルバムがCCCD化されたことで、元々五月蝿そうなマニアオヤジが多そうなビートルズファンの少なくない数を激怒させたことは、CCCDの寿命を縮めることに結構影響があったかもしれない。
 そして、最期の1枚が『Chaos And Creation In The Backyard』だ。ざっくり言えば、ソロアーティストPaul McCartneyの、最高傑作だ。ナイジェル・ゴドリッチをプロデューサーに迎えて、すべての楽器をポール一人で演奏して制作されたアルバムである今作には、ポール持ち前の英国的な哀愁を感じさせるメロディやサウンドに満ちており、何処を切っても紅茶や煙草の香りがするような、濃厚な作品だ。
 ただ、これが最高傑作というところに、ポールの才能の本質的な悲しさがあるようにも思える。この雰囲気を出すのに、ポールが彼以外のバンドメンバーを必要としない、むしろ彼一人でなければここまでできないだろう、と思わせる辺りに、ポールの才能の悲しさの本領が垣間見える。ビートルズ時代からバンドで孤立しがちだった彼の孤高の天才っぷりの、その老境に差し掛かった哀愁も含めた総決算がこのアルバムだと言ってほぼ差し支えない。ポールの持つ哀愁がすべて作品に美しく反映されているような具合には、制作方法を提案したナイジェルは鬼か、とさえ思ってしまう。
 そのアルバムの厳かなタイトルコールから始まるこの楽曲は、彼の素朴でジャストな演奏と、今作で最も緻密に構築された楽曲とが綿密に絡んだ、真骨頂中の真骨頂と言いたい一曲。アルバム『Abbey Road』B面のようなメドレー的に幾つもの展開を用意し、そしてそれを3分ちょっとに違和感無く収めてしまうポールのソングライティングは最早神懸かり的ですらある。この長くない間に、コーラスワーク、ビートルズライクなギターソロ、リコーダーなど様々な演出が込められ、最後再びタイトルコールをタイトに決めてバッサリ終わる様は“ひとりビートルズ”にして“ポップソングの鬼”ポールマッカートニーその人の才能の、最高の結晶だ。
 もうおじいちゃんなのに『Helter Skelter』をライブでパワフルに歌ってのけるポールももの凄いが、その老いも含めて作品に昇華できた今作は、彼の人生を語る上で絶対に外せない作品だ。そんなものをCCCDにしたEMIは、流石に「地獄に堕ちろ」とか言われても仕方がない。そういった部分も含めてもの凄い哀愁を背負ってるくせに、相変わらずおどけた具合に、彼は今後も死ぬまでコンサートしたりするんだろう。

ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード~裏庭の混沌と創造ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード~裏庭の混沌と創造
(2011/08/17)
ポール・マッカートニー

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10. A Wolf At The Door(Radiohead)
 『Hail To The Thief』が海外組でCCCDでのリリースが大変話題となった3枚のうちの1枚であることは上記の通り。その他色々も上で書いたので、早々にレビューを。どうでもいいけど9と10は東芝っていうよりEMIだなあ。
 アルバムとしては、彼らの作品の中で決して評価の高い方ではない。「全体的なテーマが定まってなくて散漫だ」「いや、バンドサウンド回帰して勢いでアルバム一枚作るのがテーマだから散漫気味なのも含めて狙い通りだ」「There ThereのPVのトムの演技草生える」等々賛否両論が飛び交うこのアルバム。しかし作中のバンドサウンドの所々で見せる露悪的にさえ感じるエグさと、アブストラクトな曲の美意識を感じさせるアブストラクトっぷりとのギャップの大きさはこのアルバム最大の特徴であり、アルバム通して聴く時は「あっまた変なギア入った」「ああまたよく分からん感じになった」等の変化を楽しんでいる。
 そんなアルバムの最後に収められたこの曲は、上記の二面性をどっちも兼ね備えた曲である(というか、そういう結論になる様に強引にアルバムの作風を二分化した)。それはバンドサウンドも歌唱の面でも濃厚に現れている。ヒップホップを通過した、とかいちいち言うのもアホらしいトラッシュな吐き捨てつぶやきスタイルから、サビ的な箇所でボーカルが重ねられた上で歌われるメロディの抑制されたヒステリックさとにじみ出る退廃的な美しさ、そして間奏の絶望的なハミングからより強烈なトラッシュスピーキングまで、この曲の陰鬱に抑圧された雰囲気の中を自在に変化していくボーカリゼーションは素晴らしい。また、間奏後に入ってくるドラムのグチャグチャ寸前なフィルインの激しさが、この曲の憂鬱さに暴力的な花を添えていて気持ちがいい。
 それにしても、この曲のコード感や歌の感じの陰鬱さからは、童謡からオペラまでを貫くヨーロッパ的な悲劇性(ちゃんと勉強したわけじゃないから適当に言ってるだけだけど)や哀愁みたいなものを感じさせる。そして何故か、この曲を聴いてるとElliott Smithが思い浮かぶ。彼の歌声も、メロディ自体は美しいけれどその美しさを引いたらひたすら退廃的で陰鬱な観念だけが残りそうな質感がある。丁度『Hail to〜』がリリースされたのと同じ年に彼は帰らぬ人となった。別にだからというわけでもないが、両アーティストとも、名状しがたい不思議な陰鬱さを根本に持ち、それをそれぞれの方法でほぐしてポップなものにするという点で、共通するものを(半ば強引に)見いだすことが出来る様に思う。
 ところで、この曲は普通に聴く以上に、上記曲名のリンクからも飛べる、アニメーション付き動画で聴くとより印象が深まる。Radioheadのファンが作ったとされるこの映像は、エドワード・ゴーリー的な絵柄を下敷きにこの曲の世界観を幻想的に、残酷に、そしてとても敬虔に膨らませている。筆者はRadioheadの他のどのPVよりもこの映像が好きだ。結局こういう破滅的なメロウさこそをRadioheadに求めているにすぎない自分のような輩はあまりいいファンではないのかもしれないけど、それにしてもこの曲とこの映像とが描き出す世界はあまりに感傷的で、胸の内を焼き尽くされたような清々しさが堪らず、時々思い出しては見入ってしまっている。

Hail to the ThiefHail to the Thief
(2006/05/26)
Radiohead

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おまけ:UNDER MY SKIN(ART-SCHOOL)
 次回の投稿は彼らの東芝EMI時代最後の作品、ライブ盤『BOYS DON'T CRY』の予定です。彼らも加茂啓太郎チルドレンの一組。どうせならナンバガとレーベルメイトがいいといって一度決まりかけた他のメジャーレーベルを蹴った話は笑える程偉そうだし(しかも東芝EMIからデビュー後すぐナンバガが解散するオチまでつく)、そして結局CCCDでのリリースが一度もなかった彼らは、キャリアではACIDMANとそんなに変わらないはずなのに、どうしてここまで自由にやれたのか、これもちょっと不思議です。

LOVE/HATE(初回)LOVE/HATE(初回)
(2003/11/12)
ART-SCHOOL

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ゼロ年代前半東芝EMIの10曲(前編)

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 10年くらい前の話を誰が気にするんだろうと思いつつも、書きます。

 10年前の音楽界の話題といえばなんと言ってもコピーコントロールCD!21世紀に入って次第に流行り始めた(今では当たり前となっているような)「パソコンにCDの曲をインポートして、それをiPodなどのポータブルプレーヤーで聴く」というスタイルに真っ向から反抗するこのCCCDなる規格は、当時のリスナーの方々の間で大変な問題として取り上げられ、嫌悪され、罵られまくっていた。
 いつの間にかなくなってしまっていたCCCDだが、特にこれを推進していたレコード会社といえば、エイベックスに、ソニーに(ソニーは微妙に規格の違うCDだったからこれがまた色々面倒だった思い出…)、そして東芝EMI

 そんな東芝EMI。当時好きだったミュージシャンの新譜がCCCDでリリースされハラワタ煮えくり返った人はそこそこ多いはず。「あああ…作品自体は素晴らしいのに…作品自体はかなりいいのに…」

 かなりいいどころではない。この時期の東芝EMIは最高である。
 今回は、当時の東芝EMIからリリースされた10曲を(偏りを承知の上で)取り上げつつ、この時期の作品の素晴らしさを懐古する(といっても筆者はリアルタイムでこの辺りの作品を聴いたわけでは全くないけれど)、ついでにCCCDというすっかり過去の物となった負の遺産に思いを馳せるという、生産性が怪しい企画です。

 長くなりそうなので2回に分けます。


(曲名に貼ったリンクは、本人のPV等がない場合、適当なカバー等を貼っています)

1. 造花が笑う(ACIDMAN)
 この時期の東芝EMIの「やっぱロックだぜ!」的なテンションを最も象徴することといえば、ACIDMANのデビュー周辺の出来事だろう。プレデビューと銘打った3連続300円シングルにてバンドのしなやかさとパワフルさとキャッチーさと詩的さを連発でリスナーに叩き込み、そして満を持して1stフルアルバム『創』をリリースするに至る勢いというのは、ACIDMANが特別好きなわけでもなく、リアルタイムに横目に見てたわけでも全くない筆者にでも、容易に想像できる。今聴き返しても、メロコア的なパワフルさに、ジャズ方面の素養も感じさせる柔軟さと歌詞の「なんかよく分からんけどすげえ」感が、絶妙に硬派なバランスでキャッチーで、そりゃバンドサークルなんかでコピーをたくさん見ることになるな、と思ったり。
 一方、当時の時勢に翻弄されたという意味でも、ACIDMANは当時の東芝EMIを代表するに相応しい。それは、まさに飛ぶ鳥を落とす勢いでリリースにこぎ着けた1stアルバムがCCCDになったことだ。個人的に、数あるアーティストの中でもACIDMANは特にCCCDのイメージが強い。それは、リアルタイムのファンの多くに強い印象を残した、「リリースの度に凄くなっていく」という感じで今でも名作とされる『創』『Loop』『equal』という初期三枚のアルバムがすべてCCCDでリリースされたことに起因している。どんどん音響に拘りを見せるバンドのスタンスからすれば、当時から音質の劣化が指摘されていたCCCDでのリリースを、それもアルバム3枚も容認したのは、とても不思議に思える。リリースに関しては文句は一切認めないとか、そういう相当厳しい契約だったのかもしれない。当時彼らより後発の新人バンドで、公式サイト等で公然とCCCDについて意見を発し、普通のCDでの1stアルバムリリースにこぎ着けたASIAN KUNG-FU GENERATIONのことなんかは、彼らからはどう見えてたんだろうと思ってしまう。CCCDの登場して廃れるまでの時期のこともあり、CCCDで3枚もアルバムをリリースすることになったアーティストがそんなに多くなさそうなことを思うと、彼らはこの規格による被害者でも最も有力な部類かなと思う。
 そんなちょっと時代の影的な感じもありつつも、楽曲は今聴いても本当にパワフルだと思う。実質メジャーデビュー曲となったこの曲の勢い、ソリッドで暗いコードから次第にせり上がるように曲の響きに光が射し、サビで高々と煌めくといった曲構造の妙はどうだ。3ピースバンドでできる派手な見せ方を絶妙に取り入れ、歌詞の晦渋さを青臭いままの勢いでしかし洗練された風に聴かせるセンス。バンドを巡る当時の状況の勢いをそのままアンプに通したような、見事な楽曲。

創
(2008/04/16)
ACIDMAN

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2. 宗教(椎名林檎)
 この企画をしようと思った理由のひとつに、東芝EMIがかなり昔になくなってしまったこと、そして最近知ったけど、EMIミュージック・ジャパンという東芝EMIの残滓もいつの間にかなくなっていた、つまり東芝EMIという会社がほぼなくなってしまったことの衝撃がある。
 世紀の変わり目の前後、東芝EMIという会社は絶好調だったはずである。それは、人気絶頂でかつ本人の実力も強大な、二人の女性アーティストがいたから。一人は、もう今の日本の音楽商売を巡る状況では越えることはまず不可能となった『First Love』売り上げ記録を誇る宇多田ヒカル(彼女の活動休止は、確実に当時のEMIの懐事情にダメージになっただろう)。そしてもう一人が、大きな売り上げと同時に、サブカル世界の(そしてメンヘラの)入り口のひとつとして当時から今に至るまで君臨しているであろう、雰囲気アングラ界(誤解を恐れずに言えば)の女王・椎名林檎である。今でも適当な大学の学祭に石を投げれば『丸の内サディスティック』にぶつかるのは、尋常ではない(最近ご本人もテレビで演奏してましたね)。
 椎名林檎はまた、PVなどで扇情的なアピールを繰り返した。そのスタイルがまた、唯のエロというよりももうちょっと何かしらの文脈に則った、意味ありげなものだったことが、そのインパクトをよりシャープにしていた。しかしその圧倒的な“演技力”はどんどん“サブカルヘンテコ激情女としての椎名林檎”の再生産に繋がり、彼女の最も売れたアルバム『勝訴ストリップ』は色んなものがパツンパツンな印象を受ける。
 そんな彼女だが、結婚→妊娠の流れからの活動休止が功を奏したのか(離婚というオチは気の毒だけど)、それともプロデューサーが変わったからなのか、相変わらずキツメのゴスさはつきまとうもの、今聴くと相当ポップでアイディアも豊富で楽しいカバーアルバム『唄ひ手冥利〜其ノ壱〜』くらいから(まあ活動休止前のシングルもしなやかだけど)、『勝訴』の頃のぱっつんぱっつん感は薄れ、もっと自由にかつアブストラクトに、音楽を作るようになった。そして自意識過剰サブカル感高まる先行シングル等を経てリリースされたのが、かの有名な『加爾基 精液 栗ノ花』。どうしてこんなタイトルになった
 筆者は、椎名林檎の作品ではこれが一番好きだ。自分にまとわりついたアングラなイメージを開き直ったかのように利用し、そこにRadiohead以降的な情報量が増加していってかえって情感は虚無的になっていくような時に暴力的・時に冷徹なサウンドと、自身のルーツでもあっただろうクラシカルなオーケストレーションとを、サブカルこじらせきった旧仮名遣いの唄でもって強引に繋ぎあわせた、サブカル演者椎名林檎最大のフリークショー。膨大なアイディアを込めた色合いのドギついテクスチャー。
 その冒頭に立つこの曲の、まさにRadioheadがオーケストラをバックに演奏するようなシュールさと重たさ、謎の高揚感と沈み感を併せ持ったサウンドは本当にすごいと思う。ひしゃげたバンドサウンドのむき出し感と、そこから過剰に盛り上がっていくオーケストレーションの殆ど力技な接続は、この時期の椎名林檎の想像力と、イメージコントロールの過剰な巧みさがビリビリと感じられる。グランジも、クラシックも、あと終盤取って付けたように挿入され虚無感醸し出すエレクトロ要素も、椎名林檎というアングラ風劇場の上で混沌と整頓の俎上に上げられる。その過剰な破綻と構築のアンバランスなバランスが、しかし天然というよりも彼女の演技センスによって練られている感じが、本当に真骨頂という感じがして最高だ。
 当時の東芝EMIの方針によりCCCDとなってしまった今作も、音響的にかなり拘ってそうなのに、不思議な感じがする。当時割を食った感は相当だと思う。

加爾基 精液 栗ノ花加爾基 精液 栗ノ花
(2008/07/02)
椎名林檎

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3. 俺の道(エレファントカシマシ)
 ↓エレカシのレコード会社遍歴(ご承知のこととは思いますけれども)
・80年代後半(デビュー)〜90年代半ば…エピック(ソニー
・90年代後半(お茶の間にブレイク)…ポニーキャニオン
・プレ世紀末〜00年代中盤…東芝EMI←今回ココ
・00年代後半以降…ユニバーサル
 東芝時代のエレカシは最悪だった。売れなかったことで有名なエピック時代よりも売れなかったという。それも、売れる売れないを気にしないが故の自由奔放で硬派な作風のエピック時代、その後ポップな方面に大成しお茶の間レベルのヒットを飛ばしたポニーキャニオン時代と比べると、東芝時代のエレカシは混迷の度合いも状況のシリアスさも相当に切実なものだった。
 東芝時代一発目のシングル『ガストロンジャー』で見せた“新たな攻撃フェイズのエレファントカシマシ”は旧来のファン等から絶大な支持を受けたが、しかしこの段階では宮本はソロ的な手法で楽曲制作を行い、結果『good morning』『ライフ』という前期東芝時代の2枚のアルバムは実質宮本ソロ的な作品になった。不幸なのは、ソロ的作品になったにもかかわらず、宮本が自己の問題意識をアルバムに十分に注ぎ込むことができなかったことだった。
 作品における自己表現が上手くいかず、かといって芸能人にもなれない彼の人生は停滞、下降に向かった。その苦しみの中で彼が芯を取り戻そうと拠り所にできそうな最後の場所が、バンド・エレファントカシマシだった。ここから後期東芝EMI時代という、バンド史上最も苦難・苦闘が連続する時期が始まる。ミニアルバム『DEAD OR ALIVE』でバンドサウンドにとりあえず回帰した後、彼らは武者修行のごとく、当時人気が出始めていた若手バンド(シロップやバックホーン、ハスキングビー等)との対バン企画『BATTLE ON FRIDAY』を敢行、バンドが軋む程に自分たちの奮起を促し、未完成の曲をライブで演奏する程の性急さ・形振り構わなさを見せ、若手バンドに“連戦連敗”(本人の認識)する日々を繰り返した。このとき彼ら既に30半ば越え
 そんな苦しみの末、ようやく完成したアルバムが『俺の道』。そしてそのリードトラックのひとつが、この曲。まさに上記対バン企画で初っぱなから未完成のまま演奏され、毎回ライブの一曲目を務めた楽曲であり、当時の宮本の捨て鉢ギリギリの熱くも必死な決意表明の曲だ。ともかくサビの熱量、未完成の頃から歌詞がなくスキャットだった部分をそのまま採用した辺りの、焦燥感と爆発力をそのまま音にしたような歌唱に圧倒される。幾ら克己の念を言葉にして並べても魂無ければ意味無しだと思うが、ここではその魂そのものを鳴らしている。そういうことができるボーカリストというのは、本当に希少だと思う。宮本浩次の本骨頂中の本骨頂。
 何気にこの曲の穏やかパートも、使われてるコードの不穏さやコード無視してリフ的に活用されるベースラインなど、オーソドックスなところから外れた、ややオルタナ指向なアンサンブルになっている。
 このアルバム辺り以降の後期東芝時代のエレカシのバンドサウンドは本当に素晴らしい。派手さはなくても、アイディアと集中力とで適度な緊張感とリラックス感のバランスが保たれた演奏が連発されていく。本人達的にも売り上げ的にも、東芝後期時代概ね地獄の季節かもだが、この時期のエレカシこそサウンドも歌詞も歌唱も、目を見張るような表現が多々含まれているように思う。
 そんな快作アルバムも、発売時期が悪くCCCDに。エレカシは『DEAD OR ALIVE』とこの作品がCCCDになった。次作『扉』以降は普通のCD(orCDエクストラという、動画のおまけ等を付けることで容量的にCCCDにできなくなる手法。CCCD時代には回避手段としてこのような手法も取られていた)でリリースされた。どこかでファンから「CCCDはやめてほしい」というメッセージを宮本が見てやめることとなった、みたいな話をどこかで聞いたけど実際どうなんだろ。

俺の道俺の道
(2013/09/11)
エレファントカシマシ

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4. 愛のCoda(キリンジ)
 キリンジ東芝に在籍していたなんて、この企画するまで知らなかった…。何しろ在籍期間が短い。シングルを3枚(そのうち2枚は発売時期が東芝からコロムビアへ移籍する直前だったためにアルバムに収録されず宙ぶらりんになった)とアルバム『For Beautiful Human Life』、あとライブ盤を一枚、これが東芝からのリリースの全て(同時期ベスト盤も出ているがこれは東芝移籍前在籍していたワーナーが販売元なので除外)。それまでとその後がずっと同じ会社に在籍していることから、この東芝時代の短さは際立ってる。どこかで移籍の理由が語られているのかもだけどよく知らない。
 ただ、そのアルバム『For Beautiful Human Life』も、キリンジの歴史全体の中でも、一際孤立した感じの雰囲気がある。それは、AOR/ソウル/ジャズそれにプログレといった大人シティポップ要素をキャリア中でも最も突き詰めたアルバムにこの作品がなっているからかと思う。もの凄く大雑把に言えば、ワーナー時代がカラフルなシティポップで、コロムビア時代はデジポップ風味→次第に牧歌的な方向に向かう、といった感じがする。その流れの中で、東芝時代の作品に感じるのは、他の時期以上に突出したアダルティな感じ、黒っぽい、夜っぽい雰囲気。特に『スウィートソウルep』→『For Beautiful〜』の流れはジャケットも黒く夜っぽいからよりそんな雰囲気がある。
 実際この二作の曲はアダルティなポップスすぎて、ただでさえこういう方面の視野が狭く知識も無い筆者では、他の時期のキリンジも語るのが難しいのに、ますます困難…。ただ、そんな自分でも曲の凄さは多少なりとも分かるわけで、特にこの曲のシティポップスとしての極北な完成度は、ただただ「すげえ…」と溜息が出る。メロディの、各セクションの流麗さとその接続の巧みさ・しなやかなロマンチックさ、言葉の映像美・ストーリー感・日本語でここまで出来るのか…実はスペイン語なんじゃないのか、とさえ思うほど滑らかなリズム、コーラスも含めてビターで適度にウェットでエロ味のある演奏等々々…。
 サビ箇所のリフレインするメロディが、最後ふわっと持ち上がるところはこの路線のキリンジの最も極まった場面ではないか。その瞬間、汗も血も香水のように香るようにさえ思える。
 日本の音楽界が積み上げてきたアダルティな歌謡曲文化の積み重ねを経て、またスティーリーダンだとかもあって、ソウルもジャズもあって、そしてこの曲があるのだろう。Lamp等後続のアーティストは勿論のこと、個人的にはYUKIの『うれしくって抱きあうよ』(曲の方)辺りとも共通するこの質感、そしてしかし、キリンジじゃないとここまでの静かで優雅でかつちょい倒錯した凄みは出ないのでは、と思ってしまう。
 で、アルバム『For Beautiful〜』、なんかCCCDだったような気がしたけど、今回改めて調べたらCDエクストラ規格でCCCD回避をしていたとのこと。そんなとこまでスマートだったのか…この時期の堀込兄弟イケメンすぎる…。どうやらキリンジの作品にCCCDは存在しないらしい。

For Beautiful Human LifeFor Beautiful Human Life
(2013/09/25)
キリンジ

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5. 麝香(小沢健二)
 小沢健二がソロ以降ずっとEMI所属であるということはちょっと意外だった。ポリスターでもポリドールでもコロムビアでもなくEMIフリッパーズギターからソロに移行する段階で、お茶の間まで届くポップスを指向していたがゆえの会社の選択だったりするんだろうか。
 ソロ開始後しばらくして、彼は本当に紅白歌合戦にまで出場してしまう“お茶の間レベル”の歌手になってしまう。君のお母さんも知ってるだろうレベルの。彼は頭も良く器用だから、そのキャラクターについても上述のエレカシ宮本以上に上手に使いこなしていた(らしい。なにせリアルタイムで観ていないから本当にどうだったのか分からんの辛い…)。ずっとそういう“芸能人”として振る舞うことも出来たはずだ。
 しかし、その後の日本の音楽業界からの“離脱”っぷりもまた極端だった。97年の何か決定的な雰囲気のある『ある光』と、老後を夢想する若隠居な『春にして君を想う』をリリースした後、彼はぱたっと全ての(世間が目に出来るレベルの)活動を休止してしまった。
 その後何年かして、マーヴィン・ゲイのトリビュートへの参加を挟んで、本人からのコメント等も希少のまま突如リリースされた『Eclectic』は、そんな“消えてしまった人”からの久々の便りとしては、あまりに変容が大きくまた深過ぎた。王子様的なキラキラポップさは全く影を潜め、終始R&B/ソウル/AORを煮詰めた、ダークでエロティックなシティポップが展開される様は、殆どの彼を好きだった人が予想も期待もしていないことだった。小沢健二の伝説化とともにアーカイブ化が進んだ現在なら、活動休止直前の彼の80年代趣味からの接続をやや強引に見ることも出来なくはないが、それにしてもまだ全然飛距離がありすぎる。『今夜はブギーバック』のリメイクと比較的ポップなこの曲が入ってなければ、彼の帰還を待ってた当時のファンでさえこの作品の掴みようが無かったのではないか。
 比較的ポップ、とは言うものの、この「じゃこう」と読む曲もアルバムの他の曲と同様に、深夜の大都市のホテルのある一室で展開されているようなダークでエロな雰囲気は変わらない。この曲がポップなのは、比較的言葉数が多く歌のリズムが軽やかであること、ダンスチューンとして聞ける程よいテンポを有していること、割と歌メロがパリッと立っていること、そしてぐっと奥行きのあるCメロが用意されていること、辺りだろうか。しかし、“小沢健二”のイメージをひとまず置いてこの曲を聴くとき、これらの要素は確実にポップなスウィートネスを醸し出していて、聴いてて心地よい。ポップ職人としての小沢健二の手腕は、大きく形を変えながらも、ここでは十二分に発揮されている。あまりR&Bを聴かない人でも“あら、R&Bもなかなかいいものねえ”くらいに思えそうな、ギリギリのキャッチーさと、それで捕まった後の不思議な奥深さ(どこか本物の黒人のソウルとは異なる、無機質っぽい感じが個性になっていると思う)。
 と同時に、この曲のメロディや節回しからも、汗や血が香水のように香るような質感がする(…というか、このフレーズはこの曲の曲名から発想したのだけど)。手法や指向に大きな違いはあるかもだが、筆者にとってこの曲は上記のキリンジの曲と同様に“日本人のアダルト・シティポップの名曲”としてカテゴライズされてる。シティポップの文脈でいけばこの作品も、後続に影響を与えた作品ではないかもしれないが、同じ雰囲気を目指した作品群のひとつとして扱うことは可能なはず。いわば“アーバンブルースへの貢献”というか。
 時期的に、東芝CCCDを始める前だったからか、CCCDを回避している。しかし後に出た『刹那』が当たり前のように普通のCDでリリースされたことを考えると、もし時期が違っていてもCCCDは回避していたのだろう。
 ちなみに、後に彼が日本でライブ活動を復活させた時のこの曲は本当に素晴らしい。演奏も歌唱もより地に足着いた感じになっているのがポイント。もし彼がこの作品の後R&Bシンガーとして精力的に活動してたら…なんてことを、少しだけ考えてしまう。

EclecticEclectic
(2002/02/27)
小沢健二

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こうして見ると、この時期の東芝EMI作品のジャケットは黒いのが多かったみたいです(恣意的にそういうのを集めて並べた感もなくはないが)。

『COMITIA109』スカート

本当に素晴らしい町田洋氏書き下ろしのジャケット!のこれは今度発売されるスカートの新譜12インチ『シリウス』。
今回は、その下敷きとなったであろう、コミティア109やライブハウス等で販売されたCD-R作品『COMITIA109』(スカートはこういうリリースが多いのも大きな特徴ですよね)をレビュー。収録曲4曲中3曲が『シリウス』にバンド編成にて再録されますが、今回のCD-Rは澤部渡氏のほぼエレキギター弾き語りの宅録作品。しかしそれでも全然香り立つ楽曲の良さ。
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そして今度の『シリウス』ではお預けとなった『ワルツがきこえる』の名曲感。


1. シリウス(仮)
 イントロのコード感やカッティングのリズム感から自然と立ち上がってくる浮遊する感じ、ロマンチックな感じが、曲が展開していくごとに大きくなっていく。スカートのソウルっぽい部分もメロウな部分も独特のコードの爽やかさも併せ持った曲で、バンドサウンドで録音されれば歴代スカートの楽曲でも最も壮大なものになると思われる。
 落ち着いたAメロから情熱的なコードチェンジをしていくBメロを経て、サビ。このサビも2段構成のように思えて、前半の落ち着いたパートと後半の一気にメロディを駆け上がり降りていく箇所、そこを取り繋ぐ歌唱のダイナミズムに、あっさり風味の弾き語りながら澤部渡のボーカルセンスが際立っている。そしてサビ後のコードカッティングの、情熱が宇宙遊泳していくような感じ。この曲のタイトルにも今度発売される『シリウス』のジャケットの絵にも繋がっていくようなスケール感が、透き通っていながら情熱的なスカートの世界を更にリフトアップしていく。息を呑むような静けさと遥か彼方を目指すような勇敢さ。
 『シリウス』発売に寄せた本人のコメント(上記ナタリーのページにも記載されています)で、「自分の中で転機になり得る曲」ということで、「曲が出来上がって「これはなんとかしなければならない!」という衝動に突き動かされたのは2011年発表の“ストーリー”以来のこと」ということで、本人にとってもとても大事な曲であることが伺われる。『ひみつ』のマイナーチェンジ、という感じもあった『サイダーの庭』を経て、スカートがよりビッグなスケールのバンドになりそうな予感を、このデモから十分に感じられます。
見えない続きが知りたくて鍵をさしこめば/君に逢えるような気がするんです
 冷たいその指に触れたら/いくつもの帰り道を照らす道標になるのに

2. どうしてこんなに晴れているのに
 『シリウス』発売に寄せた本人のコメントにおいて「憎めないショートポップ」と紹介された曲。その自己認識に違わず、『花百景』『ラジオのように』などの系統の、スカートお得意の手乗りサイズのキュートなポップス感が弾き語りながら味わえる一曲。
 フォークチックで温もりのあるAメロからカッティングが光るぐっと締まったBメロ、そして切ないメロディの裏でJPOPの良質なドラマチックさを引っ張ってきたようなコード展開を見せるサビへの展開はポップスのお手本のよう。また、Aメロ→Bメロ→サビ→間奏→サビという展開で曲の尺を節約し、Aメロの末尾を変えて切なくも晴れやかに終わる構造も、奥田民生とかにも繋がりそうなドラスティックな曲構成のセンスをナチュラルに聴かせている。歌い方もかなりソフトで、バンドならもっとバリッとした歌に仕上りそうなところを、寝起きに歌うような弾き語りデモチックな仕上がりになっていて、優しい感じがする。
諦めも/さよならも/いつも僕のすぐそばで寂しそうなふりをするんだ
 あと少し/あと少しだけ見つめて

3. タタノアドラ
 イントロの響きを聴いた瞬間に、「えっ、これスカートの曲?」と一瞬たじろぐような、そんなダークさで終始する、スカートとしては異色、と言い切っていいだろうダークポップ。「今までのスカートとはまた違ったシリアスさをのぞかせる」という本人のコメントに嘘はない。完全な新機軸。
 かなり深めのリバーブがかかったギターが奏でるコードが実に不穏。歌メロのサビっぽい部分はそれでも細やかなカッティングなどスカート的なコード感もあるが、メインとなるのは不穏さ。これまで夜っぽい曲はスカートにもあったが、そっちではなくもっと邪悪で虚無的な感じのダークさ。コードカッティングに添えられたもう一本のギターもゆらめきのようなフレーズで不穏さに浮遊感を加味してくる。
 歌い方もコードと同じ方向を向く。普段のソウルフルさや溌剌さは影を潜めて、囁くような、吐き捨てるような歌唱で、いつになく輪郭の曖昧な呪詛のようなメロディを放っている。特に最後のサビ部分後は、比較的溌剌としたサビ部から、一気に途切れ途切れで幽霊のような歌い方になり、危うい情念すら感じさせる。
躊躇う指でブザーを鳴らせば/戻れないなんて/分かっている
 閉じ込めたいのか/満たされたいのか/影が伸びて夜が夜になる
 欠陥があるなら/ゼロのどこかだ/強いライトが俺を刺す

歌詞もかなり鬱屈したものに見える(ちなみに澤部渡氏のブログに今作の歌詞が全て掲載されている)。性的にも取れる数々の表現はこの曲がまるでスカートじゃなくて他のもっと陰鬱さを表立たせたバンドのように感じさせる。
 『シリウス』ではバンドサウンド、それもベーシックの四人にゲストを迎えての演奏ということで、この曲のカオスなムードがどのように表現されるのか、ちょっとドキドキする。

4. ワルツがきこえる
 この曲だけ『シリウス』に再録されないこととなった。しかし上記サウンドクラウドで試聴できる通り、スカートのメロウサイドを極めたような楽曲で、実際にライブでも演奏されているし、遅かれ早かれバンドにて録音がなされ、何かしらの全国流通盤に収録されるものと思われる。
 息を呑むようなメロディを、これまでもスカートは幾つも作ってきた。しかしこの曲のメロディのジェントルさは何だろう。スタンダードナンバーのようなコードの響きの上で、持ち味の甘くてソウルフルな歌唱が奏でるラインはどこまでも可憐で物悲しくも優しい。
 とりわけ美しいのは、この曲で唯一別のメロディへ展開する部分、一気にメロディが持ち上がり、ワルツという単語が醸し出す優雅さそのままのメロディを奏でて、そしてそこから元のメロディに着地しながらも、それがどんどん発展して、歌唱のメロディが元のコード進行に溶けていくところ。声質のあどけなさと歌唱力の大人っぽさのアンバランスな魅力がこの箇所では、歌詞(下記抜き出しの通り)も含めて、本当に息を呑むようなロマンチックさと優しさで発揮されている。デモ音源にこんなことを言うのも本人に失礼かもしれないけど、スカートのベスト歌唱ではないかとさえ思ってしまう。
それでも二人には居場所がないんだ/ああ/花を飾りたい
 手探りでもいいと抱き寄せてみるけど/冬は長くて
 いつか痛みも慣れてしまうのだろうか/懐かしいあのワルツがきこえる

 余談。『シリウス』のジャケットは町田洋の書き下ろしとなったが、その町田洋の代表作『惑星9の休日』(この作品も、SFのガジェットを使用して、ロマンチックで感傷的な幾つもの瞬間を書き出した、素晴らしいマンガだ)の中に「衛星の夜」という短編がある。ネタバレを避けて言えば、この作品の中で“ワルツ”という単語がとても印象的に使われている。翻って、スカートが町田洋ジャケットの作品を作る際に、この『ワルツがきこえる』という曲をその作品に収録してしまうと、ジャケットのイメージが俄にその「衛星の夜」に引っ張られてしまうのではないか…という懸念があって、この曲の『シリウス』への収録が見送られたのではないか、というのが筆者の考えた思い込みのストーリーである。


 以上4曲。
 正直、かつてない意欲作なのではと思ってしまう。新機軸が2曲(スケールの大きさという意味で「シリウス(仮)」、これまでにない曲調ということで「タタノアドラ」)、そして純度があまりに高過ぎる「ワルツがきこえる」。ここには『ひみつ』→『サイダーの庭』の時よりもより大きく“変わっていこう”とする澤部氏の思惑が感じられる。むしろその思惑から来る焦燥が、ミニアルバムやアルバムではなく、4曲収録というシングルサイズの『シリウス』制作という性急さに向かったのではないか、とさえ思う。
 強調したいのは、スカートがいよいよその持ち前のロマンチックさをより大きく羽ばたかせようとしていることだ。元々から、唯の良質インディーポップバンドに留まるはずのない実力も鮮烈さも情念もスカートは持ち合わせていたと思う。それが次作『シリウス』では遂に大爆発するのではないか、これまで以上に甘い夢のようでかつ傷だらけのようなロマンチックさを携えて、澤部渡のリリシズムが殺人的なレベルに変容するのではないか…そんな予感をこの『COMITIA109』に感じて、今回精読ならぬ精聴した(し、普段からとても魅力的な4曲で愛聴してる。っていうか既に十分殺人的だと思います)。『シリウス』予告編として、あまりに強力過ぎるCD-R作品。

 最早半分『シリウス』のレビューを書いているような気持ちでここまで書いたところ。個人的にはターンテーブルを持っていないのでレコードは聴けないけれども、それでも曲は凄く欲しいし、またジャケットの誘惑も強烈。すごく悩める…。

『LOVE/HATE』ART-SCHOOL

 ART-SCHOOLの2ndフルアルバム。重くて暗くて救いようが無いが、一部で最高傑作とも言われる。ついでにバンドの内情も最悪で、この後ライブ盤一枚出してベース日向とギター大山が脱退する(この二人が後にストレイテナーに加入することは、最早そっちの方が有名か)。故に、所謂“第一期アートスクール”において最後のスタジオ録音となる。収録曲数15曲(初回盤のみ)はベスト盤・ライブ盤以外では最大。
 荒野のようなジャケットは実はブックレットではなく六面折り曲げ型。広げると荒野というよりも畑みたいになってる。第一期メンバーの四人が並んで立っている(一人しんどいのかしゃがんでいる)姿が印象的。
 CDエクストラ仕様(そんなのあったなあ…)で、今作に未収録となった『SWAN SONG』『LILY』のPVも収録。これはお得仕様である以上に、当時東芝EMIも含め業界で猛威を振るっていたコピーコントロールCDを回避するためとも言われていた。当時から木下はCCCDはおかしい、といった発言をしていた(はず)。今となってはすっかり昔のことのようにも感じられる。

LOVE/HATE(初回)LOVE/HATE(初回)
(2003/11/12)
ART-SCHOOL

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1. 水の中のナイフ
 パワーコード四つ!重い!シャウト&ディストーション!といった、グランジバンドとしてのアートスクールを先行シングルの次曲とともに強烈にアピールするグランジ曲。前アルバムでの衝動一直線で爽やかさすらあった幕開けとは明らかに違う、キリキリさと鈍重さが交錯するアルバム冒頭となっている。
 メインのリフはモロNirvanaグランジ色全開。ディストーションでブッ潰れきった音色と音圧。そのコードと同じコード進行を持つAメロの部分は、その無骨な進行から絶妙にポップで緊張感のあるメロディを取り出して、もはやLOVE/HATE期の象徴3音のアルペジオとベタ弾きのギターでコード感を曖昧にした上でキラキラ加減と殺伐さを演出している。
 サビの絶叫のようなフレーズは、言葉も相まってグランジ特有の虫ケラ感全開。グチャグチャで不全な感情を吐き捨てるように歌う。バリバリのパワーコードの鳴りの横でよく聴くとリードギターも別のラインを弾いているのが聴こえる。当時のバンド内のパワーバランスを少し感じる。
 サビの後のメインリフには更にとどめのようなフレーズ。途中から入ってくる短いブレイクとシャウトの、とても投げやりなエモーションを絞り出すような演出。ブレイクの度にバンドがたわむような感覚がするのは、ドラムを中心にこのアルバム的な重量感をとりわけ雄弁に表現している。
 歌詞。Aメロ部では荒涼感をささくれた情景描写で展開している。
いつだって雨が、ただ此処に降り注ぐ/むき出しの傷跡に/ひび割れた硝子のびんに
そこからのサビのフレーズは、まさに身も蓋もないような、身を切るような言葉が選ばれている。特に2回目サビのフレーズは、こじらせた系男子には堪える名調子。
そうさ/いつも光の中/君は淡く揺れていた
 そうさ/いつも影の中で/身動きさえも取れやしないんだ

そしてとどめのリフレイン。自らを抉り出す感覚。
I wanna be twisted/Just wanna be twisted
 LOVE/HATE期の曲では『UNDER MY SKIN』に次いでライブでも頻出で、そのせいかシングル曲である次曲を差し置いてベスト盤に収録されている。このアルバムは曲間がないように作られているが、このアルバムのトラックをそのままベスト盤に収録しているのでそっちで聴くと終わり方が唐突に感じる。

2. EVIL
 2012年にグランジ復活!的なノリで『BABY ACID BABY』がリリースされた後でも、グランジ的な濃度はアート全楽曲中トップではないかと思えるこの楽曲。前曲の重さの部分を特に良く引き継ぎ、アルバムの重さが強調される。先行リリース済みなのでレビューはこちら。このアルバム、曲間なしで繋がってるから、このトラック単体で聴くと始まり方がぎこちないので単体で聴く場合やっぱシングル必要か。

3. モザイク
 前アルバムが冒頭から疾走曲の連打だったことを思うと、今作は先頭からこの曲まで連続してグランジナンバーが続くのか…。前曲のカラカラ乾き気味グランジと比べるとこっちはより湿度と空気感が多め。シャウトのヤケクソ加減ではアルバム中最高か。これも先行リリース曲でレビューはこちら

4. BUTTERFLY KISS
 前曲までのグランジ連発の殆ど捨て鉢のような勢いを見事に受け止める、柔らかくて優しいサウンドの楽曲。LOVE/HATE期の象徴のひとつである他の楽器より先に入ってくる終始鳴りっぱなしのSEの柔らかな音と、やはり柔らかいアコギや、サビや間奏のシューゲイズ風味なギターの重なりがとても奇麗。これまでのいかつさと打って変わって滑らかなプレイのドラムなども軽快で心地よい。明るくポップなメロディにもたゆたうような感覚が反映され、その淀みない流れがサビ後の「Tonight」とファルセットで連呼するのに収斂する様はとてもキャッチーでかつ甘くて切ない。
 サビで吹き出してくる多重録音と思われるギターの音の揺れ方は絶品で、ノイズポップ/シューゲイザーの要素がアートの楽曲中でも最上級にキラキラしてフワフワしてファンタジックで、かつサビの歌詞と相まって、ノスタルジーと虚しさがないまぜになったような感覚がある。四つ打ちのドラムもダンスフィールというよりも、夢見心地の轟音サウンドが浮き上がるのを目的としていて、その効果を存分に発揮している。
 歌詞も、曲のキラキラ感を冷たくも暖かい光景で着色する。
氷を砕いて歩こう/何にも話さなくていい
 何より/澄んでいるから/冷たく乾いた朝に

また「彼女は死んだ」という木下歌詞で頻出のフレーズが「美しい人に(人に限った話だろうか)、本当の意味では触れる事ができない」ことの比喩だと明かすような内容の歌詞でもある。
光の中へ君は/触ろうと手を伸ばしたのさ
 僕は思い出すんだ/永遠に触れなかった事を
 Tonight

本作のポップでメロウな部分を担う、穏やかだがとても強力な一曲。

5. イノセント
 今作でもパワーポップ度合いは『ジェニファー'88』と並んで比較的高めな曲だが、よりストレートにポップな『ジェニファー』に比べてより翳り・悲壮さを感じさせる。
 曲間繋ぎも兼ねるエフェクト音をバックにブリッジミュート・揺れの両ギターとせり上がるリズム隊ではち切れんばかりの静パートと、絶叫のようにも感じられるがポップな勢いもあるメロディの飛翔と、このアルバム的に酷く歪みきったディストーションギター、無骨そのものなドラムが印象的なサビの動パートとのコントラストは、全編陽性なコード進行にも関わらずかなりグランジチックに感じるし、Smashing Pumpkins的なロマンチシズムもあるように思える。
 二度目のサビ以降にリフレインする旋回するギターフレーズが特に印象的だが、これはThe Cars『Just What I Needed』のシンセフレーズからの借用。元ネタ曲の最終盤に登場するこのリフを、特にこの曲のアウトロではアートの曲では本当に珍しいフェードアウトの中トコトン使い倒す。元ネタ曲を知らずに映画『Boys Don't Cry』を(おそらくはアートのライブアルバムのタイトル元ということで)観て、エンディングで元ネタ曲が流れた際に「あっこのフレーズ…!?」となる人もそこそこいるのではないか。次曲と続けて、そっくりそのまま借用したフレーズを使い倒す流れ。
 歌詞は、タイトルの通り、イノセンスの喪失について。比較的前作アルバムチックか。サビは、フォーリンダウン芸人的な木下節。
I'll fall down with you/ただ灰になったんだ
 I'll fall down with you/痛みも感じずに

そんな中でも、LOVE/HATE期特有のドラッギーな陶酔感が垣間見える。
街路樹の下/二人は重なって/愛されたいと初めて思うんだ
 静脈管に愛を射つだけ/哀しみさえも透き通って

 なお、この曲のサビのメロディは後にアルバム『Flora』収録の『LUNA』に、またヴァースのブリッジミュートギターのコード感は更に後にKilling Boyの『You And Me,Pills』に、それぞれ流用されている感じがある。

6. アパシーズ・ラスト・ナイト
 Smashing Pumpkinsのレア曲『Apathy's Last Kiss』をシングル『UNDER MY SKIN』収録の『JUNKY'S LAST KISS』と分け合った感じのタイトルの曲で、そしてある種典型的とも言える素晴らしい木下節のサビを持つミドルテンポで重ための楽曲。
 延々とリフレインするアルペジオフレーズと休符を効かせたベースの醸し出す重たい雰囲気が陰気でかつ耽美。アルペジオのフレーズはHouse Of Love『Shine On』の借用で、終始延々鳴り続けてるので、本当に借用したものをとことん使い倒している。それがちょっと可笑しいけれど、フレーズ自体は元ネタ曲とまた違った趣で陰惨に響くところにセンスが出ていると思う。
 サビのメロディの飛翔の仕方。これぞ木下節!と言いたくなる切実なメロディの飛翔、細い声の張り裂け具合がヒリヒリとした美しさを醸し出し、そして歌詞の通り沈んで、間奏の嵐のような轟音の中にファルセットで溶け込んでいく。この一連の流れの、ダウナーなまま浮かび沈むような痛ましさ・虚しさがこの曲最大の魅力。『ウィノナライダー・アンドロイド』や『水の中のナイフ』等のサビと同じコード進行だが、この曲のメロディは出色の出来だと思う。
 グランジニューウェーブの間の子のような轟音も、痛ましければ痛ましい程悲痛な輝きを増すメロディを最大限に活かしている。というか間奏相当ギター重ねてあるな…混沌としたサウンドと、その中を彷徨うようなファルセットの対比も素晴らしい(というか轟音に重ねられる木下のファルセットは、第1期アート最大の魅力のひとつであるとさえ思う)。
 ダウナーで混沌としたサウンドの中を漂う歌詞は、相変わらず逃避をモチーフにしながらも、内容はかなりエロさと惨めさ増している。最後のヴァースのカットアップ的な部分がその痛々しさを得に象徴している。
射精、夢、アパシーズ/噴水、愛、傷跡/二人だけの国で失ってばかりね
エロ要素は、特に第2期以降より露悪的に表現されるが、そこへの過渡期なためか、ロマンチックさとエロとそしてLOVE/HATE期特有の救われなさが絶妙に共存している。
光にさらされ/二人は溶け合って/光を失くして/何処へも飛べずに
 光にさらされ/このまま沈めて/沈めて

 次曲とともに今作の最も虚無的なゾーンをサウンド・歌詞両面から形成する。壊滅的なダークさの印象でもって、次曲の圧倒的な荒廃感を際立たせもする名曲であり、素晴らしい曲順。

7. LOVE/HATE
 今作のタイトル曲。アートスクールの楽曲で最も虚しくも凄惨な、又は虚無に飲み込まれたグランジバンドの辛うじて演奏された最期の一曲、といった風情の(そういう意味で、個人的に設定した「LOVE/HATE期虚無グランジ三部作」の最後にして最悪の楽曲と捉えている)、今作のジャケットの光景が浮かぶような、圧倒的にどうしようもなく荒廃しきった光景を表現しようとバンドがのたうつ曲。
 フィードバックノイズのようなSEが延々と鳴り、目眩を引き起こす光の類みたいな印象がある。これに導かれて入ってくる演奏の、恐ろしい程の覇気のなさ。無骨過ぎるドラム、けだるく下降していくベースラインと、最早演奏者の魂が抜けてしまったような単調なアルペジオ、そして言葉のリズム感も歌い方も息絶え絶えな、まさに這いつくばった歌メロディ。それらが重なって出来るのが、美しさより虚しさばかり感じられる、覚醒できない混濁した意識で見る光景のような、淡く歪んだ響き。
 サビの部分も、ピアノの高音が先のSEと合わさり、意識が溶けていくような雰囲気。ドラムのオープンハイハットばかりが音圧を稼ぎ、飛翔できないしグランジ的に炸裂もしないメロディは諦めに満ちている。そして「もういい」と囁く中やっと登場するグランジ要素、これがまた二本のギターの休符を強く意識したプレイで、曲のささやかな潤いすら断ち切るような、捨て鉢のエモといった鳴り方をする。そして二曲連続となる、演奏の轟音と木下の意識が希薄になっていくようなファルセットの交錯に辿り着く。前曲に比べると演奏も声もより薄く単調になっているが、実にLOVE/HATE期的な3音アルペジオと、同じ音をかき鳴らし続ける方との二本のギタープレイがそれがかえってこの曲の荒涼感をどこまでも引き延ばしていく。
 歌詞。見事に凄絶なダメさ・無力感が描かれる。そこには、アートスクール的世界観といった耽美な痛々しさではなく、当時の年齢の記されたフレーズ(「25歳で花が枯れた」)もある通り、この時期の木下個人が陥った(=結果的に辿り着いた)切実に荒廃した状態が覗かれる。
千の天使が俺の中で/羽根を焼かれた今、眼の前で
かつて『ダウナー』(『MEAN STREET』収録)で現れた中原中也からの借用は、よりずっとダウナーなこの曲において遂に焼かれる憂き目に遭う。
どんな時も/完璧で/誰からも/愛されて
 一度だけ/味あわせて/その気持ちを/それだけでもういい/もういいよ

LOVE/HATE期に散々繰り返された、劣等感や逃避願望に基づく「もっと他の人生を生きたい」という切望の、この時期の最終地点だろう。妄想的・ノスタルジー的なトーンを極力排して、ただ一度一瞬だけでも完璧な実感を受けたいという願望(それもまた妄想なのだけど)。“完璧であること”への願望はSmashing Pumpkinsの歌詞でもよく出てくるのでその影響もあるかもしれない。また、今作より後の作品でもこのテーマは形を変えて登場し、木下の憂鬱な世界観のひとつのバックボーンとなっている。
 サウンド・歌詞ともに当時の木下個人のコアな部分を最も出し切った感じのある楽曲。本人は、ライブ中に歌ってて泣いたのはこの曲だけだ、と話している(MARQUEE vol.56)。大事な曲だからか、今でもライブで時々演奏されることがあり、このスタジオ録音とはまた趣の違った超轟音ナンバーとして演奏される(『汚れた血』とかと同系統の演奏が展開される。こちらも素晴らしい)。

8. ジェニファー’88
 前曲でアルバム中で最も憂鬱になったところから、勢いのあるこの曲で仕切り直し、といったポジション。既発曲だけど、このアルバム中で最もカラッと明るくポップしている(歌詞はともかく)ので、この後も沈み系の曲が続く中でいい息継ぎになっている。レビューはこちら。なんでシングル4曲中3曲もアルバムに入れたのやら…どれもアルバムによくハマってるとは思うけど。

9. BELLS
 前曲の爽やかな勢いから一転、また陰鬱な混迷を感じさせる砂嵐的・フランジャーライクなノイズを延々とバックに流しながら進行するメロウでかつ緊張感と浮遊感が両立した楽曲。
 件のノイズはインタビューによるとJ.Mascisのソロアルバムの最後の曲(『Leaving on a Jet Plane』?)での「ぐぉぉぉぉ」みたいな音を出したくて木下と日向が頑張った末の音だとか(当時はこの二人が音楽的にバンドを牽引していたらしい。今作は日向が弾いたギターもかなり録音されているのかも)(MARQUEE vol.56より)。そのノイズの上で、やはり3音のアルペジオ(今回はフレーズが微妙に変化する)を中心に何本かギターが重ねられ、今作では珍しいピアノのダビングも行われて、この曲ではその轟音が鳴り響いたり適度なタイミングでブレイクしたりといったプレイが曲調を作っている。特に間奏や最終盤のブレイクはどこか『 OUT OF THE BLUE』にも似たざっくりさと寂寥感がある。一番の聴きどころは間奏最後のフィルインが途切れてピアノの音だけ「ピン!」って入るとこ。ドラムも延々と叩き付けるようなつんのめったプレイをしており、これも曲調の行き詰まった浮遊感の演出に効果を果たしている。
 歌メロは淡々としたAメロと辛うじてシャウト気味に歌唱しているサビの繰り返しで、やはり全体的に憂鬱さが目立つ仕上がり。というかAメロは『TEENAGE LAST』の流用っぽく聴こえる。
 歌詞。やはりサビのRunnaway連呼が、当時の逃避願望を直接的に表している。
Runnaway 俺の目には/Runnaway 映るだろうか
 Runnaway 穴があいた/どれだけ誓い交わしたって

あと、歌詞の中で想っている女性の描写の微妙にフェティッシュな感じ。これは次曲にも共通するところだ。
そばかす/レインコート/柔らかい耳の形
 本当は知ってたんだ君が云おうとした事

 ある意味、この曲のアルバム中での最大の効果は、この曲の轟音が薄れた直後に次曲の爽やかなアコギのイントロが入ることかもしれない。

10. SKIRT
 個人的にはこの辺りから『しとやかな獣』までがこのアルバム最大の山場だと思っている。この曲のみっともない呻き、シャウトはこのアルバムでこそ映えると思う。間奏のブレイク以降の展開はこのアルバムの荒涼とした地平を俯瞰し、そのどうしようもなさを歌詞も無しに叫ぶような感じがして最高だ。既発なのでレビューはこちら

11. UNDER MY SKIN
 既発曲を並べただけなのに、前曲からのつながりが最高に良い。前曲の終盤の勢いをそのまま受け継ぐためにこそあったようにさえ思えるフィードバックノイズ、そして例のベースのフレーズからの速いテンポは、開放感と、この曲ならではの空がどこまでも開けてるゆえの閉塞感(?)とが合わさってもの凄くぐっとくる。レビューはこちら

12. プールサイド
 前曲の勢いを一旦ぶった切るように柔らかな3音アルペジオが鳴り響く。このタイトル通りの水中っぽさの中を演奏がオンオフする轟音ナンバーで、個人的には『シャーロット』『IN THE BLUE』等と同じ扱い(つまりアート的な轟音の名曲)。
 アルバム後半の曲の中でも特に静と動の落差が大きい曲、だがその振幅はモロにグランジ的なものではなく、オルタナ/シューゲイザーを通過した故の感覚、つまり上記の他のアートの楽曲にも共通するような「奥行きを感じさせるAパート」と「轟音に沈み込むようなサビパート」の対比とそのある種の感覚の連続性、といったものが、この曲でもよく現れている。
 Aパートの演奏。要素で見るとそれほど多い訳ではない音が、とても有機的に水中っぽさを表現している。3音アルペジオ、同音反復のギターカッティング、曲の下部をふち取るようなタメの効いたベース、内にこもっていくようなSE。そこに潜む木下のボーカルもまた、沈みすぎず浮きすぎず、絶妙な抑揚でメロディを形成する。
 ドラムの相変わらずのスネアフィルから、一気に沸き出すように始まるサビパート。重厚に重ねられたギターノイズの水中をたゆたう感覚と、その中を推進力として強力にかつ機械的に駆動するドラム(第二期以降のアートにも繋がる感覚か)で構成される轟音の心地よさ。この曲ではその叩き付けるような轟音が、全く直線的になったベースの働きもあってか、少し疾走感・焦燥感も帯びているのが特徴か。木下の歌もまさにこの時期の轟音ファルセットボーカル、その最上のものであり、トーゥールル…といったコーラスが轟音に溶け込んでいく様は、本当にこの暗い水槽の中のような轟音を、水槽の中のまま世界のどこまでもいけるんじゃないかと思わせてくれる。
 歌詞。曲順的にそう思うだけかもだが、もはやLOVE/HATE期の、いや第一期アートの総決算のような感じさえしてくる。
影の中/光を壊せば/君はちょっと/嬉しそうだった
 ヘロインと愛/あるいは感情で/抜け出そうと/そう誘ったんだ

曖昧で繊細で可愛らしい表現と、逃避願望と薬物の混濁が平然と並べられたこの最初のヴァースからして、理想・空想と現実的な手段との乖離、その痛々しさが見てとれる。
プールサイド/ただ君に見せたかった場所があるんだ
 プールサイド/水の中で感情を失くして泳ぐ/二人で

子供のように純粋な感情の上部と現実的に虚しさを背負ってばかりの下部で、やはりサビも対比的になっている。かつて『Requiem For Innocence』と謳ってみたところでしかし何も変わらないこのアホみたいな純真さがずっと消えないことが、木下作品の音楽や情緒の底に強くあるんだと思う。
 かつて『プール』という曲を作っていたために同タイトルを避けるべく『プールサイド』というタイトルなのかと穿って見てしまう。その『プール』『レモン』と並べて「第一期アート水の中三部作」(他にも水中の歌詞の曲あったかもだけど)の大トリとも言えるし、『シャーロット』で一旦到達した「得体の知れない感じ」に再び入り込んでいる感じもある(し、全く違うようにも思える)。何はともあれ、第一期アートの中でも最もイマジネーションに富んだ楽曲のひとつだと思う。

13. しとやかな獣
 前曲最後の水中をたゆたうようなSEから、唐突にこの曲の“開けた”音に遭う。今作も最終局面、これまでのキリキリしてどうしようもない世界観の“落としどころ”としての役割を見事に完遂する、陽性コードでジャケットのような荒涼とした光景に夕日が射すような、息も絶え絶えなポップさを発揮する楽曲。
 揺れるギターとアルペジオの対比されたイントロ。ほんの少しR&Bテイストなタイトなリズムが、今作でこれまでになく開けた地平をイメージさせる。コーラスがかかったギターの響き方が、少ないカッティングで澄んだ奥行きを作っているのがいい。木下のメロディも、浮つきを排し地面を確かめるような落ち着きがあり、そこから今作でも最も自然に、飛翔するサビメロディへと連続していく。
 サビの演奏はRadiohead『Black Star』を下敷きにしている(というか、全体的にこの曲の影響下か。イントロの終わり方とか。あと三回目サビ前のギターのミュートカッティングも絶対レディへ意識してる)。下降していくギターリフのリズムがバンド全体ごと揺さぶるようなアンサンブルで、特にドラムがいいバタバタ感を出している。
 サビの回数を重ねる度に、サビメロが長くなっていく。それに合わせギターの重力感・オクターブ弾きなどの装飾も大きく、壮大になっていく。最後のサビの後ララー調でコーラスが入ってくるところはまさに今作の混沌をくぐり抜けて、歌詞の通り地面に足をつけるようなしとやかさがあり、感動的。
 歌詞。他の曲で時折見られたイノセントでファンタジーな要素は皆無で、こちらも今作のあらゆるネガティブさを受け止めるような痛々しさと、そこからのギリギリのポジティブさがある。
うたかた/あえぎ声/注射針/行き着く果てには何も
 死ぬまでギリギリと分かっていた/生まれたことに意味は無いから
 明日も生きれるよ/腐ったアジサイの赤の色
 美しい、しとやかな獣よ/貴方は空っぽのままでいい

真に美しさを持っているなら、空虚で醜くなっていくことこそを肯定する、このもはや居直ったようなギリギリのポジティブさが、この時期の木下の限界のポジティブさであるし、またそれはアートスクールの世界観において唯一追求することができるポジティブさなのかもしれない。
 おそらくはこの曲がアルバムのネガティブを一手に受け止めるために、同じくポジティブなテーマを扱った『SWAN SONG』は収録されなかったのではないか。「裸足で歩きたいんだ」と歌われるラストは中村一義『ERA』のようでもある。裸足で歩いた結果が第二期以降のアートのドロドロの世界観かよ、っていうツッコミも今の地点からなら思わなくもないが、まさにこの時期のバンドの死力を尽くした末にどうにかひねり出せた“おとしまえ”だと思う。

14. SONNET
 アルバムのストーリー的に完結した前曲が終わってその余韻も冷めないうちに、そのままこのネオアコチックな最終曲に流れ込む。エンドロール的な位置づけか。全然形式がソネットじゃないのはご愛嬌。
 ドラムレスで、アコギ弾き語り(風)をベースに、エレキギターやピアノで淡く夢想的な音処理の演奏が加味されている。インタビューにてアコギの演奏は日向によるものであることが明かされていて、もしかしてこの時期のギターのダビングも実はひなっちなんじゃ…と、当時の大山の窮状の極みっぷりを思うと考えてしまうきっかけとなっている。
 曲の基本的な立ち位置は『MEMENTO MORI』や『LUCY』に近い。しかしそれらと違うのが、この曲が徹底的に無感動チックな演奏になっていることだ。延々と同じ3つのコードを繰り返す曲構成や、やはりエンドレスリピート気味なバックのギターフレーズ、そして存在感があるどこかの洋画から引っ張ってきた風の女の子のおしゃべりSEも、徹底して起伏無く繰り返す。サビで申し訳程度にアルペジオを弾くピアノも本当にささやかな程度で、つまりこの曲においてサビとそれ以外を分ける要素は木下の歌しかない。これが、この曲がアルバム最後にして最も孤独感が際立つ理由として大きいのではないか。アートの楽曲中でも特別下手な訳でもない(むしろ上手い方)木下の歌が、かつてなく頼りなく響く。そして今作の象徴のひとつでもあるファルセットはとりわけ長く伸び、消え入るような虚しさを匂わせる。
これさえも出来ないの?/そう云われ育った/感情を切るたびに/あふれる物は
LOVE/HATE期的な劣等感の描写の中でもとりわけ直接的なフレーズ。不全。
人はただ失うから/太陽や指輪、匂い
 僕もまた失うだろう/雪どけにくちづけした気持ちを

第一期アートのイノセントな想像力と喪失感を突き詰めたようなサビの一節。
 演奏が終わって、最後にバックのおしゃべりのパターンが切り替わって「Girls Back Teen!!Girls Back Teen!!」としゃべりだす。曲間をほぼ隙間無く繋げてきたアルバムの最後の音がこれ。前曲で虚無的ながらギリギリの立ち上がりを見せていたところから、もやもやした音のこの曲の最後の最後で、何処までも虚しさに引き込まれる。

15. SEAGULL
 初回盤のみのボーナストラック。前曲と同じトラックにて数分の間を置いた後再生される。LOVE/HATE期の楽曲でもとりわけ力強いドラムに導かれて始まる、カラッとしたミディアムテンポのパワーポップナンバー。ともかく元気でパワフルで、ダウナーなアルバム中で浮くことを考慮されて隔離されたのも分からなくもない。
 『Today』とかの系統のSmashing Pumpkinsの楽曲に近いようなサウンド指向。ゆったりテンポの中で水を得たようにタメを効かせたドラムが、ともかく元気がいい。ここまでパワフルで快活に叩いているのは珍しいのでは。ギターもシンプルなプレイでベタなオルタナロックしていて楽しい。メロディも皮肉っぽくダウナーなAメロから、サビの短いフレーズ連呼で楽しそうな感じ。
 この曲で一番緊張感があるのは二度目サビの後のCメロ的な箇所で、ここで以下のような今作的な憂鬱を開き直ったかのようにシャウトする様はしかしやっぱりパワフル。
一度だけでいいさ/いつか/羽が欲しい/飛べるような
 そんな資格などは無いさ/言い訳がましく/笑われたって
 LIKE A SEAGULL

 テンポがゆったりで明るい、というのがそもそも珍しい。同系統の曲はずっと後になって『ローラーコースター』くらいしかないのでは。アルバム中どころか、第一期アートの楽曲中でも浮いているようにさえ感じる、不思議な曲。ある意味第一期アートでも一番シンプルで直球な曲なのに。


 以上14曲。初回盤は15曲。
 重い。それは、疾走曲が実に7曲も収録されていた前アルバムと比べて、ということもあるが、そもそもの音作りが、かなりヘヴィに作り込まれている。LOVE/HATE期に入りよりクリアな録音が出来るようになったことで、ギターのダビングはより分厚くなった。今作は特に間奏で幾重も嵐のようなノイズを重ねた演奏が散見され、そのサウンドの攻撃性と虚無っぽさの両立が、そのまま今作の個性と言って差し支えないような印象がある。木下パートのパワーコードギターも、キャリアで最もブッ潰れた音を晒していて、自棄なテンションをボーカル共々感じさせる。
 一方で、柔らかい音はより柔らかくなっている。今作で頻発される3音アルペジオはその最たるもので、曲によって多少の音色の違いはありながらも、今作のメロウな感じ・たゆたう感じを要所要所で演出している。ニューウェーブ/シューゲイザー的な音処理も多く見られ、メロウさの幅はぐっと広がった。
 ボーカルにも同じことが言える。自棄っぱちなシャウトは何処までも無理矢理引き出され(そういう曲はしかし意外と既発曲の方に多いけども)、そしてファルセットは木下のキャリアでも最も澄んでいてフレーズもどれもリリカルだ。特にファルセットはライブではあまり顧みられないので、今作はそれをどこまでも楽しむことが出来る。
 一番嬉しいことが、今作以前に大量にリリースがあり、そして今作が既発5曲抜きでも10曲も新曲があるというのに、曲の質が非常に高水準であること。繰り返しを基本とするシンプルな曲構成が多いが、それがかえって余計な小器用さを削ぎ、不器用で不全で乾いた質感を生み出している。
 歌詞も、LOVE/HATE期を通じてこれまでも頻発された自嘲・劣等感・逃避願望が、より幅を広げて各所に詰め込まれた。今作の特徴としては、『Requiem For Innocence』以前に見られたイノセントでファンタジーな、ちょっと可愛らしいセンテンスも、幾らか復活していることで、これが先述の凄惨な詩情および今作で増殖した露悪的・退廃的な表現と壮絶なコントラストを形成し、歌と合わさって非常に痛々しい世界観となっている。
 総合して、重く、やるせなく、どうしようもないアルバムで、だからこそ突き詰めた良さがあちこちにあると思う。本当によくここまでこんな世界観をこのボリュームで結晶化できたものだと、本当に感嘆する。

 当時のバンドの状況の悪さは後のインタビューなどでも度々紹介があるが、一番リアリティがあるのが、当時のギタリスト・大山純twitterでの一連のつぶやきだろう。

ギタリスト・大山純氏の独白。

最近出されたストレイテナーの各メンバーヒストリーについての本にも記載があるが、当時のバンドの行き詰まり方は、メジャーデビューして注目された新人バンドとしてはあまりに痛々しい。そんなところまで本国アメリカオルタナの先人みたいな感じなのか、最早天然なのか、業界的な病理か、とさえ思ってしまうが、そんな笑えない状況下で、スタジオでまともに会話もできないような状態で、どうやってここまで作り込まれた作品を作れたのかは不思議でならない。奇跡的、という言葉もしらじらしく感じられて、最近では日向がかなりの部分で音作りや実際の演奏をしているのではないか、とさえ思うようになった。
 ただ、ポテンシャル的には、木下もバンドも上り調子だったのは確かだろう。特に木下は、キャリアの最初の絶頂とも言える期間を最悪の環境で過ごしたらしく、その人生を思うと幾らかいたたまれない気もするが、しかし作品上ではその能力を最大限に発することが出来ているように思える。しかもその最悪の状況を上手く捉えた上で、アウトプットさせることに成功している。「アーティストは人生が失敗している時こそ傑作を作りうる」という俗説は、しかし人生に失敗し過ぎて作品が完成に至らなければ、その過程で出来た曲がどんなに素晴らしくても、限りなく実りのない事態にしかならない。ここでバンドは、崩壊しながらもシングルを連発し、そしてこの充実した傑作アルバムまでリリースした。それは人生として不幸な時間でも、作り手としては幸いなことだ。無責任なことを言えば、リスナーとしてはもっと。

 個人的に、人生で今のところ一番大切なアルバム。何遍聴いたか。感謝しかない。

『ニッケルオデオン 青』道満晴明

 IKKI廃刊に伴いなのかそれとも既定路線だったのか分からないけれども、ニッケルオデオンが終わってしまった。今年の一月にネットカフェで読んで鮮やかに衝撃を受けてから、1ヶ月〜2ヶ月おきくらいにネットカフェで読める楽しみのひとつだったけれども、残念。
 その最終巻を購入。既に何度も読み返し、やっぱいいな〜。

ニッケルオデオン 青 (IKKI COMIX)ニッケルオデオン 青 (IKKI COMIX)
(2014/09/30)
道満 晴明

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ある日のこのツイートが結構ふぁぼを稼げて(この数字で多い方)嬉しかったので勢いでレビュー書く。実際タイトルの並びがすごい。多方面に渡る引用・パロディと、文字の並びの見栄えがどちらも凄く映えてる。訳の分からない感じと、変態っぽさ・狂気っぽさ、硬質な感じとポップな感じが入り交じった文字の並び。アルバムの曲目ってこんな感じに作ればいいんだとホントに思う。

 可愛い絵柄と乾いた描写、辺境チックな雑学から哲学・そしてオタクの流行までをさらりとアマルガムしてしまう発想、学園ものも日常系もSFも歴史モノもファンタジーも寓話もラブコメもサスペンスも狂気もあっさりとごちゃ混ぜてしまう作風、そしてそれらすべてひっくるめた物語から沸き立つ抒情性、といった辺りが道満先生の、特にエロ漫画誌以外で書きはじめて以降より目立つようになった特徴だろうか。
 群像劇チックでありながら完全にひとつの世界での長編ものとしても進行する『ヴォイニッチホテル』(こっちももうちょっとで完結?)と比べると、より短編集に近いニッケルオデオンは一話一話の独立性が高く、どの話からでもさらっと読めるのが強み。その分あっさり目の話が多いような感じでもあるが(この巻の後半なんか、とりわけあっさり風味の話が多めかな、と思ったり)、それでも一話につき8ページにいろんなカルチャーやアイディアが当然のように整然と詰め込まれてる様を見ると、それだけで楽しくなったりする。
 基本的に残酷なトーンが作品の底に感じられる『ヴォイニッチホテル』と違って、こっちはもっとシンプルにほっとする話や、日常系に近い楽しげな話なども収録されてあるので、その構成要素から色んな楽しみ方がありえる道満作品の、幕の内弁当のような感じだろうか。色んな美味しそうなものを、ちょっと物足りなくもなるかも程度に配置した、基本腹八分目のマンガと言えるかもしれない。
 個人的にはヴォイニッチホテルの完結が大本命ではあるけれど、でもこっちも味わいが多彩で、枕元とかに置いておくと毎日別の話を読んで楽しめるような作りになっていると思う。と同時に、その多彩でコンパクトな味わいが、8ページの中でどのようにしてできているか、技巧的に見ていくのもまた興味深い。マンガ作りに限らない、テンポ感とか、雰囲気作りとか、そして根っこの部分のリリカルさとかが見えてくる。何よりも、道満先生のミックス感覚は、マンガに限らず世の中の色んな文系カルチャーの中でも、とりわけオタク的に雑多でカラフルでポップなので、その感覚を特に多種多様に味わえるこのシリーズは、その感覚をまざまざと見せつけられて、とても羨ましく思うところです。

 以下、各話のレビュー。



Scene 1 Grim Dead
 他の巻と同じくフルカラーで掲載されている。細やかに影のコントラストをつけない氏のカラーの絵柄は、特にメルヘンを扱ったこの話においては、色はカラフルだけどトーンは少し薄めで、全体的にシミっぽい加工が施してある。カラフルさの中顔だけ黒塗りされているのと相まって、カラーの割にきつくデフォルメされたダーティーさ・ダークさが感じられる。
 話の筋自体は全く救われ様がないほど暗い。童話の登場人物たる女の子たちは、他人に対しても自分に対しても破滅に向かう途上にある。食欲の暴走という呪いは、その発生源たる魔女すら食いつぶされた中で行き場を失いかけ、そして他の森=他の童話世界を食い尽くしに向かう。この構図に何かしらの比喩を結びつけることは可能そうだけどここでは控える。
 最終巻の冒頭だというのに、実に不穏で虚しいはなし。タイトルと相まって、冒頭からこの本全体にうっすら影を落とすようなゴシックメタルな輝きを帯びている。元々寓話っぽい作風と言われがちな道満先生の作風は、特に寓話そのものな話のとき(=現実っぽさを離れたとき)に最も暗くどうしようもなくなるような気が、この本のこの話やScene 9なんかを読んでてもそんな気がしてならない。

Scene 2 迷子のチーコ
 この本の表紙にも選出された話。深い森に迷い込まんとする少女のファンタジックな表紙に対して、実際の話は非常に身近な場所で行方不明になる(のは表紙詐欺じゃないか…なんて)。
 表紙のカラーイラストではそうでもないけど、白黒の本編で見ると、このチーコというキャラはとても存在感が淡い。これは多分、髪も、本来黒目の部分も白いからだと思う。特に話の後半は、着てるものも白くてトーンも貼ってない。裸になるといよいよ白くて、細くて、ふとした拍子に夜の暗さに飲み込まれてしまいそうなくらい。彼女の彼氏はそんな様に結果的にずっと振り回され続ける。
 迷子になったときの目印にしてた黒猫や、その喪失を告げるおばあさん等、この話の特に後半は白黒のコントラストが強調されて、その中でふっと物音も立てずに消える彼女がなんだか不思議に儚い。前話から一転日常世界で展開するこの話からは、そんなふっと日常からわき上がるような不思議さともの寂しさが香ってくる。こういう香りにおける砂糖加減について、道満先生は本当に上手なんだと思う。

Scene 3 リノベート・アト・ランダム
 手塚治虫ライクな惑星開拓SFの話。星ごとリノベーションするという考え方といい、その結果が人類の発展の起源になりそうというオチといいそれっぽい感じ(最後の惑星の絵柄は絶妙に地球っぽく見えなくもない感じの陸地している。単行本オマケページでタンザニアという実名の地名出てるし多分ホントに地球)。
 今作でも最も気楽に読める。SF的な悲劇や寂しさみたいなのは一切なく、一回の天候操作とコメディ調のセックス(2話連続で割と直接的なセックス描写がある)から話はおかしな方向にのみ転がり、SFチックなオチに向けて順序よく進行する。
 よくよく考えると、この星の原始人類(=地球人)からしたら、巨人の進撃のような感じだったのだなあ。それも超ハイテクな。あっさり天変地異を崇めてついでにセックスし始める様がしょうもなくてかわいい。

Scene 4 食餌の衝動
 食人狂とそれに捕まった家族、というか姉妹の話。または不幸に不幸がかち合うと稀に何かが解消することがある、という話。
 スマートな食人狂キャラのいでたちはヴォイニッチホテルのホロンという悪魔にちょっと似てる。この食人狂が、あくまで自分に関わることだからだろうが、姉妹の親たちについて彼なりの方法で推察していく。その推察通りの事実から、最後姉が吐き捨てるような言動をするに至る結末は、個人的には岡崎京子の短編『エンド・オブ・ザ・ワールド』を思い出した。とっさの機転で危機をくぐり抜ける彼女の、倫理観から自由な発想が黒くも眩しい。総じてソリッドな後味が心地よい。

Scene 5 魅惑のヴンダーカンマー
 ニッケルオデオンの世界観には2種類あると思っていて、それは「現代日本っぽい場所の日常のちょっとした話」の世界と、それ以外(ファンタジーだったりSFだったり歴史上の話だったり)の話とに大別できるような気がする。で、この話に出てくる魔女が、「現代日本っぽい」方の世界の幾つかの話を‘接続’する、何気に重要そうなキャラになっている(この辺に関しては最下部で書きます)。
 近年一部界隈で活況の単眼キャラたるこの魔女。様々な話があるニッケルオデオンだけど、それでも基本的には「(外見上は普通の)人間の」物語である。その中でこの単眼キャラというインパクト、存在感はすごい。割と普通の現代日本っぽいサイドの世界における、様々な不思議な出来事の発生源、この世界の特異点ではないか、とさえ思う。単眼であることに何の違和感も感じない周りも大概不思議世界に染まっているとは思うけれども。
 そんな彼女のヴンダーカンマーのコレクションの数々、そしてオチを見ると、そのコレクションのどれもが、そのモノにまつわる物語があるんだろうなあ、と思わせられる(まあ博物館ってそういうものでしょうけど)。そのためか、彼女は単にモノを集めるだけでなく、物語を蒐集しているのではないか、と思ってしまう。そう思うと、このニッケルオデオンという一連の短編集的な作品も見方が変わってくる気がする(これについても最下段で)。
 一応音楽ブログである当方としては、カートコバーンのショットガンがあるということは、エリオットスミスのナイフとか、ニックドレイクが最期に聴いてたバッハのレコードなんかもあるんかな、と思いました。
 

Scene 6 とある家族の飲尿
 IKKIでの連載再会時の最初の話がこれ。その最初の1ページ目として、満を持して繰り出されるセリフの清々しいどうしようもなさが素晴らしい。狙い澄ましたかのようなひどいガジェットの用い方に、休止中に再開時どの話が一番鮮烈か色々考えや話し合いがあったんじゃと勘繰ってしまう。
 全体的にひどい話をちょろっといい話風にする手管はホント上手。だが、この話がニッケルオデオン緑収録のカエルにされた姉の呪いを解く話だと気づくと、話の見え方ががらっと変わるのでびっくりした。小学生の妹の非処女も面会謝絶もそういうことかよ!と、色々条件が覆って見える。それでも、そんなまず現実で起こりえないような倒錯しきったシチュエーションでも、普通のドラマ風ないい話っぽさを導きだせるのは何気にすごい気がする。というかその前の話でお姉ちゃん美人だけどクズだから、って言ってたけどこの話では一番常識人じゃ…魔女の機嫌を損ねた、って何をしたんやろ…。
 あと何気に縦セタ非処女のお母さんがエロい。おっぱい。

Scene 7 不死体コンストレイン
 constraintは、脅迫・束縛などの意。コンピューター用語でもあるらしい。
 主となるキャラの元ネタが分からない。外見は『ぱらいぞ』のレズビアン番長で(何故か連載再会時のIKKI表紙を飾っていて、なんでその月の話とズレてんだ?と思った)、手は『寄生獣』ミギーのようでもあるけれど、そこに‘開拓時代’等のアメリカンな要素が絡んでよく分からない。
 捕食のための‘制約’がどういうものかの説明が実にさらっとしていて上手い。そこに『銀河鉄道の夜』のサソリのエピソードをイタチの側から言い出す理不尽な脅迫、そしてその思惑が見事にサソリ側の状況により「偶然に」回避されて逆転し事態が硬直するオチまでの流れは、滑らかでかつがっちり構成されている。
 しかしこの話、単行本おまけ部分のオチが更にその上で印象をかっさらってしまってる。なんでそうなったんだよ!?ってかカバー内側までその話かよ!?表紙の話じゃないのかよ!?っていうかお前ノンケかよォ!?と、色々ビックリした。道満先生この造形のキャラお気に入りだったのかしら。

Scene 8 かいばみ幽霊
 まるで落語チックなオチ。活字ネタではあるけれども。道満先生は何気に落語ネタが結構ある。『ぱらいぞ』では落研のエピソードにかなりページを割いていたし、またニッケルオデオン赤収録のポケモンバトルみたいな話でも、古典から引用しまくりな技名の中で落語から引用されたものも多い。落語見なきゃ(使命感)。
 確認すると、ニッケルオデオンでは一冊につき一話BLネタがある。周期とか計算されてる…?どんな形状になってもホモが嫌いな女子なんかいないのかもしれない。
 菅原さんは三度目の登場。こいつの周りホモばっかじゃね?

Scene 9 ミシュリーヌとその中の者たちの話
 今作中(=ニッケルオデオン全話)でももっとも童話的な雰囲気のエピソードで、それは普段以上に極端なカートゥン風のデフォルメが利いた絵柄からも察せられる。そして、今作中もっともやるせない話でもある。やはりファンタジーに寄った道満先生は容赦ない。
 全くの異常事態かつ閉鎖的だが安寧な世界、そのある意味とても情けなくぬるいユートピア感・牧歌的な雰囲気は、しかしすぐにその終わり=不穏な死の影がかき消してしまう。終わっていく理由がファンタジーな世界観に反して非常に現実的な病理であるところ、そしてそれがまるで天変地異と重ねられるように表現される辺りに、乾いた感覚とファンタジーさの狂おしいほどの同居が見られる。黒い月。そしてそんな世界=彼女をそれでも想い続ける男たち、そのやるせなさ。ラストの落ちも、照れ隠し程度の下ネタがまるで機能していない程の虚しさがある。想う人の便に包まれながら眠るように死んでいくっていうシチュエーションが一周回って凄く奇麗で悲しく見えてくるような。
 巨女のルックスは性本能シリーズの風俗店の話で出てきたゾンゲリアさんという不思議少女とちょっと似てる。目隠れ巨女…フェチズムが事故ってる感じがすごい。

Scene 10 ほうき星のナルナ
 ニッケルオデオンで唯一のネトゲものの話。ネトゲと現実との関係性でさらりと話を作っている。ファンタジーものもネトゲものも性本能シリーズでもそれぞれ話があったが、この話はニッケルオデオン仕様といったさっぱり感。
 ある困難があって、それをバネに、というよりもそれこそを糧に、理由にして何か極めようとする人の話、とまで言うとちょっと違うかもしれない。何にせよ、優しい世界、といった感じ。
 訳知り風なエルフ耳の戦士は何者なんだよ…。
 
Scene 11 積めない方程式
 SFの古典『冷たい方程式』のパロディ。ぼくはその原作を未読で、ウィキペディア読んだ程度の知識しかないので下手言いそうだけど、原作と、そしてそれに対する批判、つまり「方程式もの」と呼ばれるジャンルで交わされる問題意識を踏まえて作られた話のようだ。
 カルネアデスの板とも呼ばれ、またマイケル・サンデルの講義でも有名な道徳的ジレンマの話、かと思わせておいてしかし、対話するキャラがお互いに嘘をばらす辺りでさらっと問題が別の箇所にずれていく。この話ではそういう道徳についての議論をさらりとずらし、ガンダム以降的な暴力的SF世界でのちょっとしたいい話、といった纏め方をしている。
 道満先生の物語世界上では、さらりととんでもなく酷いことが行われ、そしてそれに対してどうこうするでもなく物語はあっさり進行する。時にはその酷さに感謝したり(Scene 4)、またこの話のように僅かな抵抗をしたりする。氏のいい話は、そんなどうしようもなさを前提とし、倫理観を曖昧にさせる。

Scene 12 OKEYA
 女子中学生とおっさんたちがそれぞれしゃべくり倒してるだけの話、とも言える、ある意味とても平和で日常系な話。日常系ストーリーテラーとしての道満先生の実力が垣間見える(ちょっとした小骨はあるが)。
 女子中学生パートはひたすら楽しいばっかりだ。‘風が吹けば桶屋が儲かる’をお題にして三人組の連想ゲーム的なテンポの会話がずっと続く。三人で一番冷静にツッコミ的なポジションにいた伏見さんが宇宙人の話で突如ヒートアップするとこがかわいい(この娘が一冊前の冒頭の話で飛び降り記憶喪失に何度も挑んでいた娘と同一人物とは。「脚立とか重くて運べないよ」とけろっと言っちゃうものなあ。殺伐感虚無感ばかりのニッケルオデオンで、次の話にも出てくる虎娘と並んで、一番幸せになれたキャラかも)。
 最後1と2/3ページがおっさんたちの話。‘風が吹けば〜’を‘バタフライエフェクト’に接続してネタにした形。だけれどもそれ以上に、事件の収拾を付けたおっさんたちが美味そうにうどんを食う姿に、平和だなあ、と思ってしまう。というか、桶でうどんって食うもんなのか…?

Scene 13 うたかたの日々
 最終話、といっても特別感動的な話でもない、むしろオチはかなり軽めだが、それでも最終回をさらりと感じさせる内容。
 動物園の鳥に恋をしたから別れる、と言いだす彼女。当然怪訝な顔をする彼。ニッケルオデオン第一話の虎娘のことが都市伝説めいた噂話にまでなっている。
 彼女が消えた後、彼がモノローグで語りだすその都市伝説の数々(‘愛する人に月まで追いかけて欲しくて行方をくらました女科学者の話’‘トイレに行くだけなのに迷子になった少女の話)。ここで、これまでの基本独立した各話がまた連結させられる(その辺は下で纏めます)。最終回的なせつなさがある。
 夜の動物園。噂話と思っていた不思議な出来事が本当だったことに、そして自分の彼女だった人がまたその不思議に触れつつあるのを見つめて、戸惑いながらも納得しようと努めて煙草をくわえる彼に対して、ゴリラが一言「ここ禁煙だよ。」「あ、すみません…」。それでこの話は終わり。
 最終話だよな…!?本誌で読んだとき、そのあっけなさすぎる終わり方にちょっと驚きながらも、まあでもこの作品ならそんなものかもしれない、と思った。ちなみにその最終話最終ページの編集のアオリ文は「ウホッ、いいマナー。」でした。だから最終話だってば!
 よく見ると最初のページ下段のコマの端にScene 6の飲尿ジジイがいる。このレベルで持ち直したのか…。



[各話のつながりについて]
 最終巻ということもあってか、この巻には前の巻の話と繋がっていくような話がいくつか収録されている。これらを確認していくと、Scene 5で述べた「現代日本っぽい世界」の上で展開された話のうちの少なくとも幾つかが、確かに同じ世界、同じ時間軸で起こった話っぽく見えてくる。ので、最後にそのつながりを見ておく。

・Scene 5 魅惑のヴンダーカンマー
 →(カエルの呪い)緑Scene 3 かわずカーズ
 →(ポケモンチックな魔法使い)赤Scene 12 パラケルススの愛弟子達

・Scene 6 とある家族の飲尿
 →(妹・入院患者が同じキャラ)緑Scene 3 かわずカーズ

・Scene 8 かいばみ幽霊
 →(菅原というキャラ)赤Scene 2 コピ・コピ・ルアク
            赤Scene 7 ヒールとスニーカー

・Scene 12 OKEYA
 →(伏見さん(くん)というキャラ)緑Scene 1 コロンバインで給食を

・Scene 13 うたかたの日々(最終話だからか、つながりがお祭り状態)
 →(飲尿じじい)青Scene 6 とある家族の飲尿法(→)
 →(虎娘)赤Scene 1 Heart Food
 →(女科学者)赤Scene 5 竹取パラダイム
        →(科学者イズミ)赤Scene 4 カクリヨジョウント
                 緑Scene 6 遊星より愛をこめて
 →(迷子の少女)青Scene 2 迷子のチーコ

特に緑Scene 3と青Scene 6、Scene 13が繋がるのはかなり大きい。すなわち、SFも歴史物もファンタジーもなんでもありのこのニッケルオデオンという漫画において、少なくとも以下の話は、同じ世界・同じ時間軸上の話である可能性が高い、ということになる。

・赤Scene 1 Heart Food
・赤Scene 4 カクリヨジョウント
・赤Scene 5 竹取パラダイム
・赤Scene 12 パラケルススの愛弟子達
・緑Scene 3 かわずカーズ
・緑Scene 6 遊星より愛をこめて
・青Scene 2 迷子のチーコ
・青Scene 5 魅惑のヴンダーカンマー
・青Scene 6 とある家族の飲尿
・青Scene 13 うたかたの日々

これだけの話の中の不思議なことやキャラが同じ世界にいるということは、ニッケルオデオン上の現代日本は大概不思議なことで満ちていそう。
 意外なのが、赤と緑では結構各話のリンクがあったキヨスバシさんシリーズが、ほぼ間違いなく同じ現代日本の世界の話だと思われるが、上記の一連と直接のつながりを見いだせないこと。この最終巻でキヨスバシシリーズの話がないのがちょっと寂しい、といった感想をネットで散見したけれど、それはこういったところで意外とつながりがなかったりすることもあるのかもしれない。

 この上記のつながりを観て思うのが、青Scene 5における蒐集家の魔女の存在である。ニッケルオデオンという言葉の意味は20世紀初頭にアメリカで流行した庶民向けの小型映画館のことだが、このニッケルオデオンというマンガ自体が、魔女が蒐集した物語の束じゃなかろうか、と思ってしまったのである。であれば、魔女が存在する現代日本の物語はもとより、歴史やファンタジー、SFなどのラインを超えて色々な物語があることにも、まあ魔女だから、色んな世界の・時代の物語持っててもおかしくないよな、と考えられる。
 地の文、という視点がどうしても存在してしまう小説と違って、マンガは映画とかと同じように、写実をそのまま作品にするため、本来どの視点から物語が作られているかなど考えなくてもいい媒体だ。しかしここで作者たる道満先生というメタ的存在をとりあえず無視して、この一見脈絡はないけど、全体を通じてどことなく悲しげで、不思議で、そして可愛らしい(絵柄を中心に)物語はどういった意図でひとつの作品として並列されているんだろう、と、その必要性を考えてしまうと、この魔女という超越的存在に目がいく。何気にIKKI最終号の最後の最後の読者カードにもコレクションのサーベルタイガーくん(骨)と一緒に登場したこともあって、この魔女が一連の物語の中の超越者であり元締めなんだろう、みたいな感じがした。機嫌を損ねて人をカエルにしたり、ジト目から優しい目まで実に様々な表情をするこの魔女は、悲しい、虚しい、寂しい、不思議な、変な物語を集めるのが趣味なんだろう。
 …とここまで書いていて思い当たったのが、その魔女と似たような趣味指向が多少なりともあって、このマンガや他の道満作品やら、他のマンガやら映画やらドラマやらアニメやらCDやらを鑑賞したりして暮らしている我々自身のことでした。ダラダラ書いて最後ただの自己言及だよ!
 道満先生お仕事頑張ってください!おわり。

『UNDER MY SKIN』ART-SCHOOL

 アートスクール、所謂LOVE/HATE期の第3のリリースとなる3曲入りシングル。このうち表題曲は次のアルバム『Love / Hate』収録なためこのシングルでのみ聴けるのはあとの2曲。3曲とも系統の違う曲になっていてバランスがいい。
 なんか元々ぼんやりした感じのイラストが、さらに解像度か何かをいじってデジタルにぼやけさせられているジャケット。イラストの下にそっけないフォントで書かれた作品名とアーティスト名。この構図もどっかからの引用くさいがなんだろう…。内ジャケではメンバーのライブ中の写真が「一人一人個別に」配置してあって、当時のメンバー間の壊滅的な関係性を知ってると「あっ…」って感じもする。裏ジャケはこれまでの大山純イラストと同系統のイラスト。そして大山純のアート作品において最後のイラストとなる(ストレイテナーでイラスト書いてるのか知らないけれど)。

UNDER MY SKINUNDER MY SKIN
(2003/09/29)
ART-SCHOOL

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1. UNDER MY SKIN
 オルタナ的なサウンドと木下節な翳りのあるポップネスを、彼のキャリア中でも最上級にシンプルに突き詰めた感じのある、切実な勢いに溢れた疾走曲。第一期アートの代表曲の一つとなり、ライブでは100%に近い確率で特に終盤の疾走ナンバー連発の中に組み込まれる。
 なんと言ってもベース。フィードバックノイズの伸びの後すぐに現れるこのベースラインの獰猛さ、ダークさ、刺々しさ、太さがこの曲の要。イントロからラストまで同じフレーズを延々と繰り返すこのプレイはアート全体でも珍しく(ルート弾きが圧倒的に多すぎるためでもあるが)、ディストーションギターで音圧が上がるサビでやや埋もれる以外ではその存在感をはっきり示している。特にブレイク部では、それまで激しかった演奏が一気にフィードバックノイズとこれだけになるため、アートの他の曲にない緊張感をこの曲に付与している。フレーズ的にはThe Cure『Love Song』の影響を感じさせるが、音もフレーズもより攻撃的になっている。
 このベースを中心として、各楽器の演奏はシンプルかつミニマムに進行していく。オンとオフがはっきりしたドラム、アルペジオ弾くかたまにノイジーなオクターブ奏法するかしかしないリードギター、フィードバックノイズかサビのパワーコードだけしか鳴らないリズムギター。歌のラインまで同じメロディを繰り返すスタイルを徹底し、サビに至ってはワンフレーズの連呼。よくよく考えるとこの曲は本当に繰り返しばっかりで構成されている。この時期のアートの楽曲はキャリア中でも特に繰り返しが多いが、この曲はその筆頭である。
 なのに、第一期アートの楽曲でもとりわけポップだと評されることもある。それは、もしかしたらアート史上最も終始徹底して直線的なこの曲の勢いの中で、繰り返しの中の微妙なアクセントと、繰り返し要素の組み合わせの妙によって醸造されているとも思われる。直線的なビートをずっと維持したままサビで一部スネアを二度打ちアクセントを付けるドラムや、イエーと叫ぶ例のバックコーラスも駆使したアート的グランジ方法論の使用によるダイナミズム、上記のブレイク部の緊張感とサビの開放感、そして最後のサビ後の頭打ちビート+この時期特有のキャリアでも最高レベルのヒリヒリさを感じられるシャウト等々。
 歌詞について。『EVIL』の攻撃性も『SWAN SONG』全体を覆ってた自虐虚無感もちょっと退潮して、ここでは冬をベースにした鮮やかな光景の色々を交えて、繊細な喪失感を綴っている…つまり、アート的にどキャッチーな歌詞だと思う。
小さな冷たい手や、冬の日の髪の匂いも/何か伝えようとして/震え気味になる声も
 忘れないでって云ったっけ?忘れないと答えた
 ひどく赤い傷跡/いつかこんな気持ちも

andymoriの歌詞で言うところの「感傷中毒」になってしまいそうなフレーズが、実にリズミカルに並んでいる。以下は特に好きな部分。
誰かを裏切る度に/これ以上はもうなんて/閉じたまま見た空/何か少し澄んでた
空が澄んでいることが何も心を軽くしない、ぼーっとしていくような感覚。ぼーっとしたり後悔したりしている間に秒速何キロの速さで失われていく何か。それに抗いたくて叫ぶフレーズ「繋いで」。サビのどう考えても詰め込み過ぎな英語詩のバランスの悪さ(それすら性急さに繋がってる感じがある)の他は欠けるところのない、木下のキャリア中でも最も鮮やかに感傷的な詩作のひとつだろう。
 冒頭に書いた通り、ライブでほぼ皆勤と言えるほどの代表曲。サビのシャウトが色々と省略されたり、メロディがどんどん崩されたりしながらも、どんどん勢い任せの弾丸のような演奏に変質していきながらも、多分今日明日とかのライブでもずっと歌われていくだろう。

2. JUNKY’S LAST KISS
 この盤のヘヴィ目なグランジ担当曲。しかし同時に新機軸的でもある。タイトルはSmashing Pumpkinsのレア曲『Apathy's Last Kiss』のオマージュ、というか、アルバム収録の『アパシーズ・ラスト・ナイト』と合わせてスマパンのこの曲タイトルを引用しまくってる。
 最大の特徴は冒頭から展開される機械チックな演奏。オルタナなギターの音とプレイでファンクをやっているような歪さがある。本格的にファンクなカッティング等を取り入れていく第二期アートの、先駆け的ともとれるプレイは、しかし時期柄かかなりダークで刺々しい印象がある。ファンク的快楽よりも適度にスカスカな演奏による緊張感の方が勝っている感じ。アートではじめて導入された四つ打的なリズムも、楽しさはなくむしろ冷たい質感を帯びている。木下もファルセットを交えてキリキリと歌う。
 そこからのグランジ展開。前曲に続いて例のイエーのコーラスを採用し、壁のようになった轟音サウンドは、それまでのスカスカさと好対照を成し、グランジ的なギャップは『EVIL』辺りと並んで大きい。二回目以降は更にメロディが追加され、そのままの演奏の勢いでAメロを今度はシャウトも織り交ぜて歌い通す、エモっぽい展開を見せる。シャウトの中にファルセットも盛り込んでいるのがとりわけこの時期の木下的で、壊れてるような具合と呆然としてるような具合とがないまぜになった感じに聴こえる。
 最後長めのスネア連打フィルインとファルセットの後にギターで四音並べる締めは、音の長さが全然違うが『モザイク』や『DRY』の終わり方と共通している風。強制終了感がある。
 歌詞について。逃避系の内容で、『ガラスの墓標』や『ジェニファー'88』辺りの雰囲気を引き継いだような雰囲気もあるが、より行き詰まった感じが出ている。
冷たい程乾いたら二人で明日逃げよう
 何処へも行けないけれど、この青い夜の終わりに

「冷たい程〜」の箇所はdip『冷たいくらいに乾いたら』のオマージュか。「何処へも行けない」的なニュアンスは木下歌詞で割と頻出だが、特にこの時期とあとしばらく先のミニアルバム『Anesthesia』の時期で目立つ(後者は「何処に向かえばいいんだ」で微妙にニュアンス違うが)。
 なお、歌詞の一部がピー音で消されている。木下作品ではこれまで唯一の処置で、消された部分の内容は「ヘロインと愛」。ヘロインという単語自体はまさに同時期の『ジェニファー'88』『プールサイド』にも出てくるが、「他の行とのつながりで誘ってる風に聴こえる」ため規制された、とは木下の弁(「MARQUEE vol.56 全曲インタビュー」より)。

3. LUCY
 前二曲の轟音と緊張感をかき消すような、静かに収めるような雰囲気の、柔らかくて穏やかな曲調を持つ楽曲。前作の『MEMENTO MORI』と立ち位置が似ている。
 打ち込みのリズムとともイントロからせり上がってきて終始ずっと鳴り続ける、閃光のようなエフェクトが特徴的。これとアコースティックギターの穏やかで牧歌的なフレーズの反復とがこの曲の雰囲気を作っていて、どこか北欧的/宗教的な感じがあるのは第二期以降のサウンド(特にアルバム『PARADISE LOST』あたり)の先駆け的でもある。
 たおやかなサウンドに溶け込む木下のメロディも奇麗。這いつくばるようなAメロから程よくメロディを駆け上がり、「It's going nowhere」のつぶやきに収束していく流れはとてもスムーズで、ポップに虚無的で白痴的。特に三回目のサビ箇所からの「It's going nowhere」は高いメロディで歌い上げられ、そしてここで混ざるファルセットはとても切実で美しい。バンドヒステリー的な目線で見れば、バンド状況が破綻しきった中での木下の救いを求める感覚が一番美しく表出した感じか。
 その救い的な雰囲気は歌詞にもよく現れている。
LUCY 教会へ流れるこの水は/LUCY 澄んでて/全てを洗い流すよ
この純粋さ・美しさに救われたい、といった風情と
そうさ/違う人間に生まれたかったんだ/きっとましだった
という前作の『LILY』辺りを引き摺った(この感覚はアルバム『Love / Hate』まで続く)どうしようもなさが対比されて、傷ついた魂が彷徨っている感じがしている。


 以上三曲。
 いわゆるLOVE/HATE期の、3枚目(SWAN SONG2枚計上で4枚目?)の作品。この後に来るフルアルバムの、先行シングル的な色合いが強い。実際アルバムのレコーディングセッション中に録音した楽曲のようだ。
 第一期アートの集大成的なタイトル曲と、それぞれバンドの表現範囲を広げるような二曲(崩壊している時期によくやれてるなとは思う)で、程よく纏まっている。より曲数が多い『EVIL』よりもアルバム未収録の曲が多く、アートの廃盤シングルの中では『SWAN SONG』の次に大事な作品だと思う。

 LOVE/HATE期は、アートスクールというバンドが最も作品を次々とリリースしていた期間で(同時期のsyrup16gのリリースペースがとんでもないので霞みがちではあるけど…)、この時期の各作品のリリース時期を見てみると(曲数も表示。:○の部分はアルバム収録数)、

『EVIL』(4曲:3曲)2003/4/11
SWAN SONG』(7曲:1曲)2003/7/30
『UNDER MY SKIN』(3曲:1曲)2003/9/29
『LOVE/HATE』(15曲(初回盤):既発曲5曲)2003/11/12

となっている。相当性急なリリースペースだ。特に『SWAN SONG』以降は2ヶ月おきのリリースで、おそらくこれはこのようなリリースペースという予定が先に会社なり事務所なりであって、それに合わせてバンドが録音していったのではないかとも思えるが、それにしても、『Requiem For〜』録音時に既に崩壊していたという話も聞くバンドの状態で、よくこれだけのリリースを、しかも相当な高品質でやってくれていたんだなと、本当にすごいと思う。バンドの状態とは裏腹に、木下の楽曲量産力(あと、声の調子)なんかがひとつのピークを迎えていたのかもしれない。この2003年にバンドがリリースした楽曲は合計24曲に上る。
 上記を数えてもらえば分かる通り、アルバム未収録曲は9曲ある。これらに『LOVE/HATE』初回盤限定のボーナストラック『SEAGULL』を加えた10曲が、LOVE/HATE期のレアトラックとされるが、10曲といえば最早アルバム一枚分である。
 なので、これらの楽曲を一緒に聴くために、以下のようなプレイリストを作って個人的に聴いている。アルバムに収録された曲も含んでいるけど、この時期のシングル集ということで。

1. SWAN SONG
2. OUT OF THE BLUE
3. JUNKY'S LAST KISS
4. ジェニファー'88
5. DRY
6. MEMENTO MORI
7. WISH
8. モザイク
9. LILY
10. SKIRT
11. LOVERS
12. LUCY
13. SEAGULL

 これ、全然アルバムとして聴けてしまう。音質的にも(同時期だから当然かもだが)一貫していて、雰囲気としても木下の一番自虐的・虚無的要素が鮮やかに出たシーズンを攫えていて、いい感じに統一感がある。裏LOVE/HATE的なつもりで愛聴してる。
 だから東芝さん!各アルバムリマスターと一緒にレアトラック集お願いします!

 最後に、同じ年のsyrup16gのリリースを同じ形式で。

『HELL SEE』(15曲)2003/3/19
『パープルムカデ』(4曲:2曲)2003/9/17
『My Song』(5曲:2曲)2003/12/17

あれっこんなもんか…(感覚麻痺)。偶然だけど、アートと同じく24曲をリリースしている。前の年と次の年がアルバム二枚ずつリリースしている(!!?)から少しだけ霞んで見えるが、これも十分に恐ろしいリリースペースであることは言うまでもない。

 こっそりと、個人的に2003年がいわゆるロキノン系の絶頂の年だと思っている。

『mofu EP』Kalan Ya Heidi(セルフライナー的なもの)

数日前に、こちらのサイトで取り上げていただいたので、嬉しくなって調子のってセルフライナーノーツ的なものをすこし書きます。

こちらで、『メープルのマーブル』『リリカルトレッキング』の二曲がフルで聴けます。
他の曲も配信サイトとかで試聴できます。

mofu EPmofu EP
(2014/02/26)
Kalan Ya Heidi

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1.リコリン
 作詞作曲しました。自分のサンクラに上げてるこの曲の転用。採用が決まったときは正直びっくりした…。貴重なマイナー調の曲。
 元曲はホントあっさり作ったものだったので、個人的チックだった歌詞を半分だけ書き換え。ただし冒頭の歌詞の一部は某メンバーの聞き取り間違いを採用。期せずして作られた「丘の向こうから」というフレーズから僅かに香るフロム福岡感。元の歌詞思い出せない…。
 元曲がホントあっさりだったので、色々付け足し。アウトロのリバースディレイ全開ギターがちょっとだけマイブラのラブレスのつなぎの音っぽく聴こえて気に入ってる。

2.メープルのマーブル
 作詞しました。作曲はrascal junebride氏。PVもあって代表曲。少ないコードの上をミニマルなメロディの繰り返しで印象的に聴かせるサビが、そのミニマルさに反してキャッチー。こんなメロディなかなか出てこない。
 今作中最も時間をかけた曲。最初のデモの段階から飛躍的に変化した(元々の基本的な曲構成やメロディは変わってないけど)。冬っぽい歌とミスマッチだと当初思われたバンジョーが案外南国感なくてサラサラしてるのが良い。
 歌詞で一番気に入ってるところは「丸くなったブラウスの冷え方」。タイトルにしかけたけどしなくてよかった。

3.リリカルトレッキング
 作詞作曲しました。パワーポップ気味。
 自信作。特に曲展開に自信。メインのリフが思いついた後にこれをベースにThe Who『So Sad About Us』っぽい曲にしたいと思って構成を作った。まさかそのメインのリフが別の何かとモロ被ってるなんて思いもよらなかった…(神様に懸けて誓います)。そのメインリフを歌ってもらったところ、思いのほか渚にて(バンド)っぽさが出てすごく気に入ってる。ミドルエイト部はGeorge Harrisonっぽいつもり。ここで元のメロディに戻るとこは「やったぜ」って感じ。
 発表後のTeenage Fanclubっぽいという評判は作った人みんな想定外。ギターの歪ませ具合が功を奏したみたい。最終盤の歌と一緒に吹き出してくるギターがすごくかっこいい。
 歌詞カードに載せる分に「」や!をつけ過ぎたのをちょっと後悔してる。迷って疲れたからだっこかおんぶしてって言ってるだけとも読める歌詞。この曲も聞き取り間違いを採用した箇所あり。予想だにしない最高の間違い方だった。

4.世界はさみしさでできている
 中二タイトル。作詞作曲しました。また提出時のデモがぼくのサンクラにあります。
 Neil Youngのイメージで作曲。メローマイマインド!って感じ。実際サビ入るところでコードがメジャー→メジャーセブンスに移るとこは『I am a child』という曲のオマージュ。
 歌詞は今作でいちばんよく書けた。半ば適当な単語の並びの中に上手いことタイトルっぽいちょっと乾いた中二感が入ってると思う。特に上記デモから更に書き直した部分の歌詞が、ちょっとあざといかもだけどお気に入り。2回目のサビの分。
 中二で荒れた感じの歌詞、音域に幅があるメロディなど、歌ってもらうのにいちばん申し訳ない気もした曲。その分歌の満足度もすごく高い。

5.わたしの王子さま
 作詞rascal junebride氏、作曲nick氏。
 今作でいちばん楽しげな曲。コロコロと変わるアレンジや元気のいい間奏、転調、コーダの不思議な展開などなど。二本のギターはヘンテコなリズムだが有機的に絡んでいて、この曲の直線的とも言いがたいリズム感を支えている。そのリズムと、Bメロのリズムチェンジした宇宙的な浮遊感のギャップが効いている。
 2回目のAメロが終わって間奏に入る前のドラムのタメに入った辺りからウキウキする感じがして、そこからのギターとオルガンのソロはかなりパワフル。ライブだと盛り上がる。
 今作で時々言われる「絵本から飛び出したような不思議な雰囲気」をいちばん醸し出しているかもしれない歌詞と曲になっている。


 総じて歌がいい。ボーカルの二人には幾ら頭を下げても足らんでしょう。声だけで世界観が作れてしまうようなタイプ。楽曲のジャンルとしてはさほど統一感のない今作を見事にまとめあげている。
 バンド形式に捕われないアレンジ。結構苦労して作った感じが所々あるけど、ミックス含めて中々纏まってると思う。
 歌詞。どの曲も、メルヘン〜だけでなくどこか暗いところがある。
 ダメ元でお願いしてみたら本当にDead Funny Recordsからのリリースとなり、ぼく自身は人生ではじめてはっきり作品としてリリースされる作品だったので(他メンバーは必ずしもそうではないけど)、それがいきなり全国流通にできたのはすごかった。タワレコに置いてあってかなり感激した。
 現在はアマゾンなどで取り扱っています。又は配信。もしくは、在庫をいくらか持っていますので、ぼくに連絡していただけるとメール便で送ります。
連絡先:ystmokzk@gmail.com


 で、今作の次に来るべき新作、製作中。上がってきたバックトラックだけで相当興奮してる。完成がすごく楽しみです。

『Born To Be Breathtaken』For Tracy Hyde

 ラブリーサマーちゃん加入後のFor Tracy Hydeの音源リリース第二弾。当初ライブ会場+コミケ(!)限定の販売(それもCDという形態ではない)だったのが、8月31日より配信で入手可能に。
 ぼくはコミケで購入できた(サマソニ東京二日目行く途中にタイミングが合ったので行った。その節はありがとうございました>夏bot氏こと菅さん。人生初コミケでした)ので、配信で入手可能になったこの日にそのプライオリティを活かしてレビューを(現在iTMSでランキング駆け上がり中と聞いてすごい!と思った)。
 先に書いておくと、前作『In Fear Of Love』(リンク先で無料入手可能)から更に爽やかさが強調されていて、個人的には前作以上に好き。



1.Her Sarah Records Collection
 前作『First Regret』に続き菅梓ボーカル時代の楽曲をラブリーサマーちゃんボーカルでリメイクした楽曲。原典はBoyishとのスプリットEP『Flower Pool EP』
 軽やかでかつ上手く引っかかるドラムのフィルから始まるタイプのギターポップはすごく爽やか、という法則があるかは知らないが、まさにそのまま、ドラムのフィルからぱーっとギターやシンセのキラキラしたプレイが広がっていく様は、バンドのギターポップに対する拘りと理想の美しさが見える。
 Aメロのメロディ、細切れメロディ→可憐に昇降する長めのメロディの接続が爽やかにロマンチック。そこからのサビの畳み掛けるようなメロディの勢いも爽やかさの中に切迫感もあって、早めで直線的なテンポとともに、切なさが駆け抜けていくような感じがする。
 かき鳴らすリズムギターアルペジオ等のリードギターの絡みは鉄板。特にリードのフレーズや音の質感にThe Smiths的な雰囲気を感じる。長くないギターソロ部で旋回するギターフレーズも抜けがよくて、個人的にはアートスクール戸高氏のプレイを思い浮かべた。
 この曲の疾走感をより高めるのが曲の構成。最初にAメロを二回放ってサビに行った後は、そのまま間奏の後Aメロに戻らずまたサビに移行。そしてイントロと同じコードとプレイで流していくかと思うと、最後に挿入されるタイトルコール的な低いささやきとコーラスが入り、ここでこの曲の甘酸っぱさと切なさが高速で過ぎ去っていく風景の果てをさらっと見せて曲が終わる。
 つまり、最初のサビ以降はずっとサビのような感じがする。この間ずっと続く甘酸っぱくて切ない雰囲気がとても強力で、作曲者の理想の爽やかさ像みたいなものが、どこまでも文系チックなボーイミーツガールといった詩情も含めて大いに感じられる。
いつも同じ日々に/代わり映えない景色/それもいま変わってゆくから
 霞と花の先/ふいに流れるメロディ
 多分それは、彼女の心の中のコレクションにもうあるんだ

 ある人はこの曲を指して「僕らの世代の『Goodbye, our pastel badges』になるんじゃないか」と仰った。確かにこの曲には、渋谷系があって、アニメがあって、インターネットがあった上で達成されたようなある種の理想郷のような感じがする。ラブリーサマーちゃんの融解しそうなボーカルと確かなバンド演奏を得てリメイクされたこの曲は、より一層その輝きを増したのかもしれない。

2.Outcider
 「アウトサイダー」と曲名を聞いた限りだと「えっ爽やかバンドのはずのフォートレ、まさかのグランジナンバーか何か…?」と動揺するも、綴りをみればなるほど!という具合の夏が弾ける感じの爽やかポップナンバー(今作の歌もの三つはどれも三者三様にすごく爽やかだとは思いますが…)。
 今作で、というよりラブリーサマーちゃん加入後にリリースされた楽曲の中で最も渋谷系っぽさがあると思う。軽快にハネたリズムと、夏っぽさを感じさせるギターフレーズの数々、アコギの涼しげなカッティングなど、渋谷系ネオアコ感が強く曲に出ていて、最初聴いたとき「新体制でもこういう曲作るんだ」と思った。作曲は菅梓氏でなくベースのMav氏(@mav_curry)なのも意外に思ったが、前作でもこの位置は非菅曲(ラブリーサマーちゃんの曲だった)ので、その曲順を踏襲しているらしい。
 曲のメロディ自体は、ラブリーサマーちゃんのけだるげな歌い方もあってか、advantage Lucyのような感触も。Aメロの落ち着いて凛としたた感じからBメロで明るくなってサビでパッと弾ける感じは、よく出来たポップスのお手本のよう。とりわけサビのメロディが音程高く、細身の声を持ち上げて歌う様が可愛くも少し色っぽい。特に最後のサビでは転調もあって更に高くなり、よりキリキリした様が切なくて良い。
 歌詞もMav氏による。曲のイメージと合った単語のチョイス(夏の終わり、色合いの関係など)が鮮やかで、幻想的でかつ写実的で感じがする。
蒼い岬に満月見上げて、君はずっと何を想っているの?
 白い街の結晶見下ろして、もう過ぎ去った日々を思い出すの?

連れ立って駆けてった砂浜と犬の声。/煌めいて夢だった水の街のパレード。
 疲れ切って行きついた木漏れ日に眠った。/忘れるべき日のセピア色の風景。

夏の終わりというのも、寂しさと名残惜しさのロマンが沸き立つところ。ちょっと不思議な世界観と軽やかな曲でそれを描写したこの曲は、ちょっとした感傷的な短編マンガのような趣があると思った。

3.ビー玉は星の味
 今作の曲順は本当に前作を踏襲しているらしく、ここにはまたもや菅氏作曲のチルウェイブチックな半インストナンバー(半、というのはラブリーサマーちゃんのスキャット(?)が割と全編にほんのり挿入されているため)が登場する。
 菅氏のインスト曲、となるとやはり彼の別ユニットShortcake Collage Tapeっぽさが出てくる。今回も夢見心地なサウンドエフェクトの重なりの中に、夏っぽい郷愁とか何とかが渦巻いている。今回はベースのプレイやスキャットコーラスの入り方に少しファンクっぽさも感じられる。ふにゃふにゃしたシンセの鳴りはよりサイケデリックな感じ。スキャットコーラスが大幅にフューチャーされているため、それが一時的に消える中盤の寂寥感も心地いい。

4.After
 前作と同じく、菅氏書き下ろしの歌もの曲がこの位置に。5分近くで、やはり今作の大作ポジション。この曲はまた、時折シューゲイザーバンドとも形容されるFor Tracy Hydeのまさにその側面が表出し、ラブリーサマーちゃん加入後にやや変化した歌もののセンスと見事に融合した、まさにシューゲイザーがあって、アニソンの興隆があって、相対性理論があって、という数々の達成を踏まえて作られた、彼らなりのシューゲイザーの最新形、といった感じがする。
 歌メロは落ち着いたトーンのAメロから滑らかに繋がるBメロ→王道進行でキャッチーさと切迫感が詰まったサビ。このメロディの質が相当に高く、また作曲者が近年のアニソン等から受けたであろう影響を抽出したような、一部のアニソン特有の息が詰まるような高揚感がとても光っている。個人的に、この曲は今すぐにでもどこかのアニメ会社がちょっと感傷的なアニメのエンディングとかに採用すべきだと思う。そういった世界で戦っていって全く遜色のないキャッチーなメロディ。
 そのメロディがシューゲイザー的なサウンドに乗る。このサウンドもまたいちいち素晴らしい。Aメロで聴かせるコードカッティングの平行感、間奏やサビで一気に噴出する歪んだギターの壁と、それが歌メロを邪魔しない具合、シューゲイザーの名曲にありがちな意外と平坦でなく所々荒ぶるドラムなど、そういった要素が重なり合って、歌メロにも負けない快くて心地よい轟音になっている。
 曲構成としては、三回目のAメロ、Bメロの箇所にブレイクポイントを挿入し、そこから早口と頭打ちリズムと轟音で畳み掛けるCメロ→間奏と繋がっていく流れが、必殺の感がある。この早口ボーカルはラブリーサマーちゃんの儚げなボーカルの魅力を卑怯なくらいに引き出していて、その後の間奏ギターソロや最後のサビの雰囲気までもそれまで以上に切なさが乗せられていく。
 アウトロの、轟音の中で「トゥルットゥー」とコーラスが入るところまで、本当に隙がない。前半は低く抑え、そして後半で舞い上がらせるこのコーラスは、今作でも最も美しく爽快な箇所だと思う。
 歌詞も菅氏の作。よりガーリーさが増して、その可愛らしさの中で鮮烈な感傷が、シューゲイザーな音像に鮮やかなストーリーを溶かし込んでいる。
揃いのミサンガはわたしの願いを叶えずすり切れて、
 空転する時間を静かに物語ってる。

ミサンガという単語が出てくる辺り、Galileo Galileiへのリスペクトも感じる。
一番印象的なフレーズは、最後のサビの箇所。なるほど、と思った。
許したふりがたやすいのは
 茜射す光の角度が強がりも悲哀も絵に替えてしまうから。
 許せないままでいるのはさ、きっと君のことだけじゃない。
 湿った歩道の風に吹かれて想うの。

 歌詞の描写、メロディ、シューゲイザー、全てがある少女の感傷的な光景を浮かび上がらせることに収束したこの曲は、それこそこの一楽曲という中でストンとした物語性がありつつも、そのテーマが物語内で完結してしまわずに広く聴き手のイメージに入り込んでいくような感じがする。少なくともぼくは、またひとつ繊細で哀しい少女のイメージのつよいやつを得たなーと、この曲を何度も聴きながら漠然と思っている。


 以上四曲。
 曲順は完全に前作を踏襲していて、
1曲目…菅氏の過去曲のセルフカバー
2曲目…非菅氏曲
3曲目…インスト
4曲目…菅氏作の新体制下での力作曲
といった並び(だと思う)。この統一感がなんか面白い。もしかしてもう一枚くらいEPが出て、それもこんな曲順でやったりするんだろうか、と思ってしまう。
 楽曲については、つらつら書いた通り、今作は前作以上に爽やかさが強調された曲の並びになっていると思う(その分、前作で特に印象的だったヒリヒリした感じは少し後退したかも)。爽やかさにも、王道疾走ギターポップだったり、渋谷系ネオアコ風味だったり、シューゲイザーだったりで、元々バンドが持っていた幅の広さを現在のバンドのポテンシャルで爽快に解き放ったような感触がする。
 幅広く解き放った、といっても、それらはやはり“爽やかさ”という単語と、それに付随する様々な感傷ごとやら何やらによってピントづけられている。これはラブリーサマーちゃんの声も大きいだろうが、歌詞の方向性において足並みが揃っていることも重要だと思う。多くの鮮やかな風景描写の中にふっと忍び込めてある少女のイメージの哀しさ・いじらしさは、それそのものが残酷極まりない。爽やかさとは、夏とは、過ぎ去っていくものなのだという感覚が、かわいーなーたのしーなーな気分を越えて、刺すように伝わってくる。
 美しいということは悲しいということや寂しいということなんじゃないか、というのはぼくが日頃勝手に考えていることだが、彼らの前作や今作を通じて感じる気分もまた、あまり人を幸福にしないかもしれない鮮烈さ・甘美な感傷だった。太陽の照るどこまでも爽やかな青空の下で、過ぎ去っていったことを思いうつろになるときの気持ちの美しさというものを味わうために、歩いてるときとかに前作や今作をまた聴くんだと思う。

『SWAN SONG』ART-SCHOOL

 アートスクール、所謂Love/Hate期の第2のリリースは2タイプ。6曲入りミニアルバムと3曲入りワンコイン(当時)シングル。それがこの『SWAN SONG』それぞれDisk1とDisk2。しかも枚数限定生産だったこともあり、アートの廃盤でitunes等配信サイトでも入手不可な音源の中では最もプレミアがついている。そしてそのクオリティの高さから、アートの廃盤作品で最も人気あるとか、下手したら最高傑作の声すらあるとか、木下自身「自分が今まで作った中で一番好きな作品かも」(MARQUEE vol.56より)とすら言ってたり(なら再販or復刻してくださいよ…)。
 色々困難はあるだろうけど、EMI(当時東芝EMI)様は第1期アートのシングルのコンピレーションを出すべき。Number Girlのリマスター出し終わったら次にやって欲しいことと言えば、第1期アートのリマスター&補完だけど、特にそれをする契機もないか…。

SWAN SONG(DVD付)SWAN SONG(DVD付)
(2003/07/30)
ART-SCHOOL

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SWAN SONGSWAN SONG
(2003/07/30)
ART-SCHOOL

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Disk1
1. LILY
 虚無的な陶酔感と痛々しいグランジフィーリングが交差する、ひたすら暗いミドルテンポナンバー。前作『モザイク』や後のフルアルバム収録『Love / Hate』辺りと共通する雰囲気(個人的にはこの三曲を「Love/Hate期」の虚無グランジ三部作として扱いたい。まあこの時期の曲の殆どが虚無的だけど)。
 今作から特に頻繁に登場するようになる薄い閃光のようなSEに導かれて始まる演奏の、その覇気のなさ・ボロボロ加減がこの曲の最大の特徴。ボーカル以外全楽器同時に入るのにすごく音圧薄くスカスカで寂しい。イントロのキュアー的なリードギターは音が細く弱く申し訳ばかりの潤いがあり、太く重く響くベースとリズムが同期した、フレーズと呼べるほどにも動かない単調さ。僅かに空白を埋めるその加減がとても寂しい。この曲のみならずこの時期のアートを象徴する演奏である当時既に崩壊していたというバンドの有様も思い浮かぶというもの。特に精神がアレしてたっぽいギター大山氏。
 サビで利かせたグランジフィーリングも、リフが途切れる様が寒々しい。その隙間に入ってくる、連続するスネアとキックの入り具合はこの曲で最も力強さを感じるところ。がっつり潰れたギターの音もこの時期的で、余計な爽やかさが入ってこない、いい具合だと思う。サビ後のその歪んだ音でイントロと同じフレーズを演奏するところも、それほど空間的でもないただ潰れた音、という感じがして、この曲の混迷と落胆のエナジーが後述の不思議コーラスと合わさって表出している。
 この曲の他のパートと同様、沈み込んだ感じのボーカル。呟くような様からサビでシャウト気味な歌唱を見せるのはグランジ的だが、決して抜けのいいところに向かわない具合が痛々しい。極めつけがサビ後の不思議コーラス、ファルセットとシャウトを繋げたような「イェイウーウー」のフレーズのいびつで頼りない感じ、ここにこの曲の精神薄弱具合が収束していく。
 歌詞。ここにきて情景描写やカットアップは格段に減り、代わって自虐の度合いが非常に増していく。
「僕には花があったのにね/いつか散って消えてたね」
「花が散った」という自虐は後に『Love / Hate』(曲)でも使用される。
「声にもならない悲しくも無い/ただこの穴から抜け出せず
 いっそ目を閉じて/何も見ずに/はいつくばって/ただ願うんです」

この辺りの感覚は後の木下理樹の作風にもずっと受け継がれている感じがある。目は開けたり閉じたりしている風だが。

2. DRY
 やはりレクイエム期以前までと全く異なる、透き通って寂しい感じが疾走する楽曲。
 今作でも、というか当時のアートでもとりわけテクニカルで機械的なリズム(第二期以降のアートの先駆けのようなプレイ)が真っ先に特徴として挙げられる。消え入るようなアルペジオの上で、非8ビート的な一定のプレイを反復する様に、バンドの音楽性の広がり以上に楽曲の物悲しさが縁取られる感じがする。
 サビでは一気に勢いに乗る演奏。特に定期的にブレイクしドラムだけがスネアを5連で決める箇所が凄惨なアクセントになっている。同じフレーズを弾き倒した(こいつ大丈夫か?感ある)かと思うとサビメロ終わりから疾走感あるフレーズを弾いたり二音アルペジオするギターの具合もシンプルながら利いている。
 この曲の2、3度目のサビ後の展開はアートの間奏でもとりわけ凝っていて、ギターのフレーズの変化と同時にボーカルも囁きとファルセットを使い分け、曲の光景を上手く展開している。特に3回目のサビは3段階の展開となっており、その度に挿入されるスネア5連が快い。
 展開でもう一つ特筆すべきなのが2回目サビ以降をブレイクしてからの展開。ここでは各楽器の演奏は勢いを抑えながらも継続され、突然空中に放り出され浮遊するような感覚がある(特にドラムのハイハットのプレイが非常に打ち込み的・機械的で効いてる)。そしてそこからドラムの連打を中心にせり上がっていく演奏、からの最後のサビという展開は、第1期アートの楽曲でもとりわけ凝った演出。
 曲の最後は何故か前作『モザイク』と似たような、バンドの息を合わせたブレイク繰り返しのプレイ。広がった曲の光景の余韻を機械的に打ち消す感じが容赦ない。
 歌について。Aメロは『ミーンストリート』を流用。サビの直線的な勢いから、先述の通りその後の展開に合わせて変化していくボーカリゼーションが魅力。特にこの時期の木下のファルセットが素晴らしく、景色とともに気が遠くなっていく感覚がする。
 歌詞。特に演奏的にも盛り上がる3回目のAメロがグッと来る。
「ねえいつか誰かを愛す/真剣に自然な感情で
 この雨が止む事は無いさ/永遠に少しずつ死んでいく」

願いと諦めが交錯するこの辺りの感情は甘美でロマンチックだ。

3. OUT OF THE BLUE
 今作では最も「らしい」疾走ナンバーではある、がそれでもやはり今作特有の翳り・虚ろさがあちらこちらに覗いている。
 虚空からわき出すようなエフェクトに導かれた静パートの静寂と、動パートのメロディのせり上がり具合・ディストーションギターのブッ潰れ具合とのギャップ、そしてそれがありながら曲の勢いとしては途切れない感じがこの曲の魅力。静パートのスカスカの中を、微妙にアクセントつけて演奏されるベースラインが演奏を引っぱり、サビではパワーポップ的な勢いがドラムパターンの変化によってコントロールされる。特にギターは歪みきったパワコードごり押しで爽やかさを感じさせないところが特徴的。後ろでこっそり鳴る単音のピアノが虚しい。
 2回目のサビ以降はAメロをそのままの疾走する演奏で繰り返す。ここではギターも幾らかキラキラさを取り戻し、それもあって景色が滑らかに流れていくような感覚がとても鮮やかで、その後バンド全体のキメで打ち消される感じも含めて、この曲のノスタルジックな雰囲気を最大限に演出している。特に最終盤は、歌詞のフレーズ、そして最後の最後に追加されるシャウトも相まって、このバンド特有のイノセンスの響きを感じられる。
「夏になればきっと/僕は思い出すのさ/からかいあって子供みたいだった事
 She said,She said,She said」

 サビのフレーズ「おおすがって、ただすがって」が最初「おうち帰って、ただち帰って」と聴き間違えて、おうち帰って、って絶叫するなんて、と思ったのが懐かしい。木下の愚直な歌唱が曲のどこか空虚な疾走感とどこまでもマッチしていて、聴いてて個人的にすごくぐっときて、普段熱くならないところが熱くなるような感じがする。

4. LOVERS
 以前の『1965』とかと同系統の、淡々と進行するメロウな楽曲のひとつ、にして個人的にはその最高峰。今作でももっともうつろな感覚が得られるのはこの曲だろう。
 何か特別なエフェクトがかかっている訳でもない、シンプルな8ビートのドラムの冷たい響きから始まり、淡々と楽器が増えていくイントロからして静かに引き込まれる。アルペジオのフレーズがPavement『Major Leagues』の引用っぽいが、これが延々と繰り返されるため、穏やかに覚醒していくような・沈み込んでいくような感覚。ドラムのシンプルなフィルイン、サビの穏やかなコーラス、2回目サビ以降のシューゲイザー気味なギターの音処理の夢見心地さと詩情の夢の無さのマッチング、すべて穏やかで染みるようにメロウで素晴らしい。
 それほどメロディか派手に昇降する訳でもないメロディが、演奏の雰囲気に自然に馴染む。サビのメロディは木下ソロの『RASPBERRY』の流用でかつBelinda Carlisleの『Heaven is a place on earth』っぽくもあるけれど、曲の雰囲気に見事に溶け込んでいて切ない。アートの全歌詞でもとりわけイノセンスと虚ろなフィーリングばかりにフォーカスした歌詞も素晴らしく、全文掲載したいくらい。
「名前が無いこの惑星で名前が無い恋人と
 白日にさらされてハッピーエンド夢見てた」

歌詞にもあるとおり「全てが夢のような気がして」くる可憐なこの楽曲の歌は、最後以下のどうしようもなく暗くキャッチーなフレーズの連呼で締められ、あとは穏やかに演奏に消えていく。
「何一つかなわずに/何一つかなわずに/何一つかなわずに/何一つかなわずに」
甘美な夢は、叶わないからこそ美しいのだろうか、ぼくたちのギターポップは一生地を這いつくばっていくのだろうか、などというアホなことを考えてしまう、虚しさの永遠を木下理樹なりに捉えた、素晴らしくメロウな一曲。

5. SKIRT
 前曲が木下理樹の虚しさを閉じ込めた楽曲なら、この曲はその虚しさから生じる名状しがたい感情を解放した一曲と言える。ファン人気も高いという、第1期アート屈指の名曲。個人的にもアートの楽曲で最上位クラスの曲だと思う。
 アコースティックギターのミニマルな響きが鮮やかな、淡々としたAメロ。やはりミニマルに纏まったメロディを、かなりぶっきらぼうに歌うボーカルが印象的で、乾いた爽やかさがある。
 そこからサビでは演奏もメロディもぐっと持ち上がる。歌はけだるさでコントロールをロストしてる感じのままメロディを駆け上がり、ギターがバックでアートスクール的なうねりのフレーズで旋回する。一回目ではファルセットで元のあっさり演奏に抜けていくが、二回目以降のサビではシャウトも交え、演奏もディストーションかかったままの状態となる。
「My sunshine/君は笑うと/My sunshine/子供みたいで
 My sunshine/こんな話は誰にだってよくあると
 分かっているよ/それぐらい/分かっているさ/それぐらいは」

「My sunshine/哀しい歌が/My sunshine/好きだといった
 My sunshine/こんな話は誰にだってよくあると
 分かっているよ/それぐらい/分かっているさ/それぐらいは」

この「分かっているよ」のリフレインに重ねられる、男の子の弱さ・ノスタルジーへの希求・情けなさが、この曲が強く支持される一因だと思う。シャウトはけだるげなような泣きながらのような声質になり、裏声も交えているためか吹けば飛びそうなか弱さがある。
 二回目のサビが一通り終わると、演奏が一気に引く。いつものブレイクだが、この曲においてここからの展開は非常に丁寧で、鳴りっぱなし→アルペジオ→全楽器と呻き入り、そこからせり上がりきったところで呻きは木下史上最もあられの無い、どうしようもないシャウトに変化する。そのシャウトを連発する裏で演奏は雄大に展開して、そして最後のサビに着地する。三回目の「分かっているよ〜」のリフレインの後にまたシャウトを連発し終了。
 この、極端に細い身から無理矢理にでも絞り出して、何の意味かも判然としない形で繰り出される木下のシャウトが、もしかしたらアートスクールで最も美しい箇所かもしれないと思う。願いや祈りと、諦めや虚無が交差し混濁した、とてもみっともない叫び、これは木下理樹のキリキリに尖り傷ついたイノセンスそのものだ。
 木下本人も思い入れがあるとかで、アルバム『Love / Hate』に今作から唯一収録されたり、ライブのアコースティックセットやソロ弾き語り等があればよく演奏されたりしている。アートスクール的な退廃した世界観、みたいな曲ではないけれど、木下理樹という人間の奥底の部分が見えてくるような、そんな名曲。
 あと多分澤部渡は関係ないと思う。

6. SWAN SONG
 今作中唯一、完全に陽性なメロディ・コード進行を持つ、Love / Hate期の楽曲でも『ジェニファー’88』と並んでポップな曲。この曲だけは後にベスト盤に収録されたため、前曲と並んで、絶版の今作でも割と耳にしやすい方か。
 やはりこの時期特有の曖昧なエフェクトに導かれて始まるサウンドはかなりキュアーを、とりわけ『Just Like Heaven』を意識してそうな感じ。明るくもまどろむようなクリーントーンのギターは、これまでの今作の翳りに翳った雰囲気から緩やかに解放される感じがする。特にリードギターのフレーズは、コーラスがかかって不思議にユルくなった音も含めて、まさに『Just〜』のイントロのフレーズの一部を切り取って繰り返しているような感じ。このギターフレーズが、終盤のブレイクを除いてずっと反復されるのがこの曲最大の特徴で、ディストーションギターが入ってきてもこれのおかげで曲は不思議な潤いを保ったまま進行する。ギタリストの人権を侵してるのではと思われるほどの徹底反復っぷりだ…。
 こちらも『Just〜』そのまま、というかギターポップの王道チックなメジャー感強いコード進行に乗せて、しかし歌はやはり木下理樹。ポップなのに覇気のないメロディが、やはりけだるそうに細切れに繰り出される。そんなAメロのしかし最後で、食い気味に入ってくる滑らかなメロディが美しい。シンバルを使わずに単調に「這ってる」感のあるドラムも良い。
「腐り切った感情で/僕は今日も生きている
 どうでもいい、でも一度/心の底から笑ってみたいんです」

 サビはディストーションギターと例のリフの不思議なマッチングの中、徐々に上昇するコードとメロディがシンプルながら鮮やか。アート最初期の楽曲『Outsider』から流用されたメロディが、ここでは切々としたボーカルでもって、このバンド的な力強さと求心力を持ったキラキラした響きに昇華されている。
「苦しくて逃げ出して/心ならとっくに焼け落ちた
 はいつくばって/みっともないな/でも今日はそんな風に思うんです
 笑っていたいんだ」

今作、6曲中3曲で「はいつくばって」という単語が登場する(『MEMENTO MORI』も含めれば4曲)。地面にへばりついて虚ろに空を見上げる様が今作のサウンドから思い浮かぶけれど、この曲ではそこで虚無に回収されきらなかった心のもがきやささやかな祈りが垣間見える。なんとなく思いついたレベルの希望、その眩しさが存分に発揮されている。
 二度目のサビ以降の間奏を単調にやりきった後のいつものブレイク、そこでのアコギの爽やかな響きと浮遊感、そこから特に劇的でもなく元の演奏に戻っていくところが、とても鮮やかな風景を感じさせて、今作の締めとしてとても美しいと思う。白鳥の歌とは、白鳥が死ぬ間際に歌うとされる美しい歌の事だが、ここで披露された“白鳥の歌”の眩しさには、当時のバンドや本人個人の壊滅的な境遇を考慮せずとも、より普遍的な苦しい中の僅かな望みの美しさを感じさせる。

Disk2
1. SWAN SONG
2. LILY
3. MEMENT MORI
 ワンコインシングルの方にのみ収録された唯一の曲。入手が困難でかつ億劫になる。
 非常に穏やかで静謐なサウンド。二番から本格的に入ってくるドラムは打込みで、シンプルなベースとアルペジオなど、手作り感というか木下ソロ的な側面が大きいというか。特にバックで流れる暖かみのあるシンセの音が大きい。MARQUEE誌の全曲インタビューの中で「シンセで賛美歌的な音を入れて明るくしようとしたんだけどより一層暗くなったね(笑)」と本人は言う。そして、この曲の歌撮りの最中に泣いてしまった事も。
「完璧で誰からも愛し愛されて/次は違う人に生まれ変わるんだ
 もう遅過ぎる/笑われてもいい/味わってみたい/ただ愛される気持ちを」

呟くようなボーカルが特に2度目のサビ以降にファルセットとシャウト気味の歌唱に変化するところは確かにとても痛々しい。サビのメロディは『ミーンストリート』の流用っぽいが、よりひび割れそうな感情に満ちた歌唱になって、曲の静謐さを打ち破って響く。その裏で歪みを増すギターの、それでも破壊的になりすぎない具合が対照的に穏やかで良い。
 コード進行が『SKIRT』とほぼ一緒。あと次作『UNDER MY SKIN』もか。三曲並べても曲の雰囲気やメロディに共通点はありながらも結構幅があると感じる。当時の彼らはバンドが不全な状態とは思えないほどアレンジが広がりつつあった。シンセの使用は特に第2期以降顕著になるが、その先駆け的な一曲。


 以上6曲+1曲。
 全体的に統一感のある曲調。それはエフェクトの多用や3音アルペジオの連打などのアレンジ面と、ソングライティング、特に歌詞の面とに分かれる。この作品から完全に「Love / Hate期」的な音になったと感じる。ギターの音はレクイエム期のえぐいコーラス感が消えクリーンか、もしくはひどく歪んだ音になっている。ニューウェーブ的な響きも随所から感じられる。コード感がメジャーともマイナーともはっきりしない曲が増え、ダークというよりもむしろ透き通るような感じがして、それが爽やかさではなく虚ろな雰囲気に直結している。時折挿入されるディストーションギターも、潰れきった音はかえって整理がなされていて、衝動や情熱よりもダウナーさや機械装置的な質感を得ている。
 音の虚ろさが、見事に詩情の虚ろさとマッチしている。自嘲自虐を連発する歌詞は、自分の中の虚しさばかりを覗き込んで単語を絞り出している。その姿勢はバンドや生活の崩壊した状況から来たものかもしれないが、アートスクールというバンドの世界観の、最も内向的な部分を晒している。
 この作品は上記の二つの点で、数あるアートの作品の中でも純度が最も高い作品になっている。虚ろなまどろみをずっと漂っているような、何も無くて何も触れられないみたいな、そんな感覚だけで作品が作られている気がする。だから、個人的にはそういう雰囲気を求めている時によく手が伸びる作品。アートスクールのCDを1枚だけしか所有できないとしたら、これと『Love / Hate』のどちらにするかで迷う。
 “荒んだ青春”と“なにもない青春”は別のものだと思う。木下理樹は露骨に荒んだ青春マン、といった感じだが、この作品はどこまでも“なにもない青春”に優しい作品だと思う。なにもない虚しい気持ちのまま、それゆえに景色のいちいちが美しく見えてくるような、そんな気持ちをくれる。それだけで生きていけるんじゃないかって、そんな開き直りのような事さえ考えてしまったりした。“何一つ叶わない”という恍惚の中をずっと漂っていたい、と言いかけた辺りで胸を突く何かもあり、それらどっちも大切にしたいと思った。