ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

ゼロ年代前半東芝EMIの10曲(後編)

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「コピーコントロールとか嫌なことは色々あったけどでも当時の東芝EMI作品っていいの多いよな〜」と言って今更あえて語る必要性も見つからない大名曲について言いたいことを言うだけの企画、後編です。残り5曲。



6. NUM-AMI-DABUTZ(NUMBER GIRL)
 当時の東芝EMIがロックをプッシュする姿勢を表明したのがACIDMANなら、東芝EMIにROCKなフィーリングを強く刻み付けたのがNUMBER GIRLではないかとも考えられる。ぎゃんぎゃん鳴る割に意外と歪みが少なくて耳に痛くなる寸前まで尖った感じのギター、ドガドガダダダンパァンジャジャジャジャっとともかく鳴りまくるドラム、上手い下手いを完全に無視したところで炸裂する歌など、いろんな物が激しいままバンドとして纏まってる感じは、少なくとも当時の日本のメジャー音楽シーンにおいて鮮烈で、よく東芝EMIもこれをメジャーに引っ張ってきたな…という凄みがある。いわゆる“97年世代”という単語でもって当時の革新性に関して括られるアーティストのひとつ。
 たとえばかつてのフリッパーズギターに、その新しさと凄みを見いだして強力にプッシュしたプロデューサー(牧村憲一氏)がいたように、ナンバガにも彼らをメジャーに導き、日本の新しいオルタナロックとして定着させるに至った、当時の東芝の(そして今でも)名プロデューサー・加茂啓太郎氏がいた。両プロデューサーとも、ここまで後世にも存在感を発揮できるバンドをフックアップしたこと、フックアップしたらどんどん凄い方向に変わり切っていったことなど、どのように思われただろう。
 (余談だがこの2バンド、他にも意外と共通項があるように思う。洋楽指向、アルバム3枚で解散(ナンバガはインディ入れれば4枚だけど)、主催者の挑発的なキャラクター等々)
 そんな具合で急速に変化していったナンバガの音楽性の、とりあえずの終着点が最後のアルバム『NUM-HEAVYMETALLIC』であるし、そのリードトラックにして不穏で奇妙極まりない楽曲がこの曲。当時の音楽ファンがこぞって「なんかナンバーガールが大変なことになっている!」と思ったとかどうだとか。その際や、その後ナンバーガール解散後の向井のバンド・ZAZEN BOYSの作品がリリースされた際にこの曲は語り尽くされた感じもあるが、今一度見ていく。
 当然一番目につくのは、全編をほぼラップとも語りともつかぬ口調でやり通してしまう向井のボーカルスタイル。これはその後ZAZEN BOYSでこのスタイルが散々繰り返されていることで幾らか印象が薄らいではいるが、それでもここに収められたボーカルは、後年の“This is 向井秀徳”なスタイルが確立されていないこともあってか、ザゼンのとはまた違った緊張感・ざらつきが感じられる。
 この曲にザゼンと異なる緊張感・ざらつきを感じる最たるものは、その演奏。ストイックに統率されたザゼンのバンドサウンドに比べ、この曲でのナンバーガールのサウンドは逆に崩壊寸前のような炸裂の仕方をしている。イントロの統率が切れた瞬間暴れ回るギターとドラム。特にありとあらゆるパターンを引っ張りだしてくるドラムの、リズムボックスとしての体を成してなさは半端ない。
 ヒップホップというスタイルは、どっちかというと抑制的なトラックの上で展開されるものだと思われるが、ここでナンバガが敢行したのは、抑制とは真逆のような、暴発寸前、いや暴発最中といったサウンドとラップとの強烈なコントラスト芸だ。この曲より以前にラップを導入した『TOKYO FREEZE』などの曲は、もっと抑制的な演奏になっている。そういった実験を経て、バンドの激しさをそのままにラップするスタイルに到達したのだろうか。この無軌道な激しさとよく分からないエネルギッシュさは、これ以前のナンバガにもこれ以降のザゼンにも見つからない、何か不思議な物を感じてやまない。
 あと、曲終盤の田淵ひさ子のギタープレイ。こんなフリーキーな演奏をキャッチーに聴かせるのも凄いし、メジャーの録音物として流通させるレコード会社も凄い。あとナンバガはリリースが2002年まで(後年の編集盤等は除く)なので、2003年頃から増えだすCCCDには関わらずに済んでいる。
NUM-HEAVYMETALLIC 15th Anniversary EditionNUM-HEAVYMETALLIC 15th Anniversary Edition
(2014/06/18)
ナンバーガール

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7. 地獄のロッカー(bloodthirsty butchers)
 NUMBER GIRLの解散ライブは『サッポロ OMOIDE IN MY HEAD 状態』としてリリースされ、そこではMCも極力カットせず収録された。そのMCの中で向井が札幌発の先人バンドに対するリスペクトと、そして何故かそれらのバンドの現状報告をする場面がある。その中でブッチャーズの名前が出た際に、「bloodthirsty butchersは今度ニューアルバムを出します」等の話が出た。そのアルバムが今作『荒野ニオケルbloodthirsty butchers』であり、この曲はその最後に収録されているもの。
 ブッチャーズは、名作『kocorono』で轟音サウンドとポップでどっしりとした歌心を融合させたスタイル(それはまさに日本のニールヤングとも言うべきな)を手にして以降、その強靭なバンドサウンドの研鑽にずっと努めて来た。ギター一本一発撮りでより有機的なサウンドと歌を求めた『未完成』、その叙情性とサウンドの奥行きに更なる拘りを見いだした『yamane』と来て、『荒野〜』において彼らが求めたのは、楽曲のダウンサイジング化とより飄々としたポップさだった、と見なすことができる。また、次作『birdy』以降正式にメンバーとして“元”ナンバーガールの田淵ひさ子が加入するが、今作で既に随所で演奏に参加しており、“プレ4人体制”のアルバムとして受け取ることも可能だろう。
 本来なら、明確にポップな名曲『サラバ世界君主』を取り上げた方がこのアルバムの作風を端的に表せる気もするが、個人的にこのアルバムで一番好きなこの曲を取り上げることにしたい。
 曲の入りのサウンドの素晴らしさだけで、この曲は既に名曲している。荒野を砂鉄が舞うような、静かで不思議な眩しさすら感じさせるソフトにノイジーなギターサウンド。思うに、ノイジーなギタープレイというのは、ひとつにファズやディストーションで歪ませた重厚なサウンドや、それに伴うフィードバック音などがあるが、もうひとつに、普通のアルペジオ的な滑らかさの無い、和音的にザラザラした音を並べる方法もある。例えばSonic Youthなんかは、どっちかというと後者の意味でノイズを追求しているように感じる時もあるし、またthe pillows『カーニバル』の伴奏のプレイはこのスタイルをポップに活用した優れた一例だと思う。
 翻って、この曲のイントロの、荒野で崩れ落ちんばかりの情緒は何だ。ブッチャーズのバンドサウンド特有のどっしりもっさり感(特に射守矢さんの浮遊感のあるベースが相当個性的。ブッチャーズのサイケ感はギターによるものだけじゃ決してない)はまるで日本の新しいカントリーミュージック(オルタナカントリー?)のようだとさえ感じることがあるが、この曲ではさしずめオルタナカントリーのカウボーイが帰るところも無く頼りもなくて放心したような感覚がある(ロッカー=カウボーイという見立てはどうだろう)。それでも、サビ的な箇所で鈍く歪むギターとともに力強いリフレインがあり、荒涼とした叙情性に溺れすぎないバンドの姿勢は頼もしい。
 おそらく前作『yamane』のサウンドを引き継ぎ発展させたのであろうこのサウンドの、いつまでも浸っていたいクリアで寂寥感の募るサウンドに、吉村秀樹の、頼りないが故にどこまでもタフで頼りがいのある詩情が強く感じられる。筆者は、この人こそ日本のニールヤングになるんだと思って疑ってなかった。
 ちなみにリリース当時はCCCDだった。東芝在籍期間のリリースは『yamane』と今作。今作はリリースのタイミングが悪かったんだろうと思うが、当時のブッチャーズファンからしたらどんな気持ちだったんだろう。

荒野ニオケルbloodthirsty butchers荒野ニオケルbloodthirsty butchers
(2013/09/25)
bloodthirsty butchers

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8. セブンスター(中村一義)
 某ライターが中村一義本人に対して自分の雑誌上で「僕はあなたにプレステをしてほしくなかった」とかいう妄言ことを言ったけど大名作なアルバム『ERA』から(シングルで言えば『ジュビリー』より後)、その後自身のバンド100sを結成して制作されたアルバム『100s』およびアーティスト名義も100sになってからのファーストアルバム『OZ』までが彼の東芝時代のリリースとなる。
 某ライターの嘆きではないが、東芝時代とそれ以前(マーキュリー。現在はEMIと同じくユニバーサルに吸収)では確かに、彼の作風は大きく異なる。某ライターがプレステと言ってるのはおそらく、中村が打ち込みを利用し始めてからの、リズム感がジャストなものになったサウンドを指している。
 中村一義といえば元々、全ての楽器を自分で演奏し、60s〜70sのロックのいなたさを現代のポップソングとして甦らせたことで高い評価を得た人物だったが、そのサウンドの最大の特徴は、彼本人が叩くドラムだ。あの、打ち込みのバキバキなリズムからは何光年も離れたバタバタしていなたくて変なタイミングでフィルインの入るプレイは、オーソドックスに見えて実際バリバリ個性的で、初期の彼の作品でしか味わえない重要な要素だ。
 そんな根本的なところを封印し、『ジュビリー』以降打ち込みに走ったことで、確かに某ライターの指摘も少しは頷ける程度に、彼の楽曲も根本的に変わった。雑に言えば、初期の彼特有の飄々さ・ゆるみ・土っぽさが消え、より彼のリリカルな感性が曲に直接反映されるようになった、つまり良くも悪くも、他のアーティストと同じ土俵で勝負をするようになった。その変化は、打込みから本人以外のドラマーへとリズムが変化した100s以降も、もっと言えば再び本人がドラムを叩いた最新作『対音楽』でさえ、“プレステ以降”の質感を感じる。
 しかし、筆者が某ライターのようにそこを嘆くかというと、全くそうではない。ジャストなリズムでシリアスになった中村一義も、実にいい作品を作っている。上記の通り、剽軽な雰囲気を取り払ったことにより、彼のリリスズムがより直接楽曲に現れるようになると、彼が持っていたヒステリックな世界観の輝きが楽曲に散見されるようになる。この曲はその最良の部類の一曲だ。
 プレステ以降をかんじさせ感じさせるデジタルでサイケで少しノスタルジックなSEに導かれて鳴り始めるギターの、クランチな歪みのまま平温のまま延々とドライブしていくリフの響きが素晴らしい。リフそのものが曲の骨格となりコード感にも直結するそのスタイルはSmashing Pumpkins『1979』のパクリだと言われることもあるが、たとえばSilversun Pickupsが『Lazy Eye』でもやってる様に、「『1979』をある程度の起源とするギターリフの系統」という風にジャンル化できるものだと思う。この曲では特にリフ後半の音のギター弦がよくしなってそうな感じが好き。
 そのサビでさえギターリフで鳴らし続けるところに乗るメロディもとても澄み渡ったそれで、デジタル化以降の音響処理と相まって、遠く果ての方まで響くような、またそんな果てを欲するような素直さが感じられる。淡々としたリズムとリフで進行する“非ドラマチック系統”の曲だからこそ出せる魅力や奥行きがこの曲にはある。
 ちなみに、上記で「その最良の部類」などと書きましたが、他に想定している曲は『いつだってそうさ』『Honeycom.ware』等です。あと中村一義も、リリース間隔が比較的長いのと出したタイミングによって、CCCDを完全に回避している。

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(2002/09/19)
中村一義

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9. Promise To You Girl(Paul McCartney)
 当時CCCDは日本のアーティストやレコード会社に限ったことではなかった。海外各地でもCCCDが発売され、その度に、この国でのリリースは普通のCDだからこの国で買うといい、といった情報がリスナー間で交換される様になった。日本においてはゼロ年代前半はインターネットが急速に世の中に普及し、ブログや2ちゃんねる等のネット文化が確立・普及していく頃だったし、またAmazonの登場によって、異なる国のバージョンのCDを購入できる環境が整っていた。
 CCCDでリリースがあった海外のアーティストも多々あるが、その特徴として、大御所のリリースにもCCCDがついて回ったことが挙げられると思う。日本では、特に所謂ナイアガラ系の大御所がこぞってCCCDに反対していたりなどして、CCCDでのリリースが見送られることが多かったが、洋楽では超大御所級のリリースが平然とCCCDで断行された。Queenのベスト盤がCCCDでリリースされることをファンの電話で知ってブライアン・メイが激怒した話はwikipediaにも記述がある程度に有名だ。
 ここで、当時の音楽ファンの間でとりわけ大きな騒ぎになったCCCDはこれらだろう、と断言できる3枚がある。1枚はRadioheadの『Hail To The Thief』。タイトル含めて資本主義批判の色が濃いこのアルバムが資本主義の原理の賜物であるCCCDでリリースされたことは皮肉としか言いようがなく、後の『In Rainbows』の当時画期的だったリリース形態に繋がっていく。1枚はThe Beatles『Let It Be …Naked』。詳しい事情は割愛するが、元々の作品の出来に不満を持っていたポールマッカートニー執念の“リメイク”作品となるようだったアルバムがCCCD化されたことで、元々五月蝿そうなマニアオヤジが多そうなビートルズファンの少なくない数を激怒させたことは、CCCDの寿命を縮めることに結構影響があったかもしれない。
 そして、最期の1枚が『Chaos And Creation In The Backyard』だ。ざっくり言えば、ソロアーティストPaul McCartneyの、最高傑作だ。ナイジェル・ゴドリッチをプロデューサーに迎えて、すべての楽器をポール一人で演奏して制作されたアルバムである今作には、ポール持ち前の英国的な哀愁を感じさせるメロディやサウンドに満ちており、何処を切っても紅茶や煙草の香りがするような、濃厚な作品だ。
 ただ、これが最高傑作というところに、ポールの才能の本質的な悲しさがあるようにも思える。この雰囲気を出すのに、ポールが彼以外のバンドメンバーを必要としない、むしろ彼一人でなければここまでできないだろう、と思わせる辺りに、ポールの才能の悲しさの本領が垣間見える。ビートルズ時代からバンドで孤立しがちだった彼の孤高の天才っぷりの、その老境に差し掛かった哀愁も含めた総決算がこのアルバムだと言ってほぼ差し支えない。ポールの持つ哀愁がすべて作品に美しく反映されているような具合には、制作方法を提案したナイジェルは鬼か、とさえ思ってしまう。
 そのアルバムの厳かなタイトルコールから始まるこの楽曲は、彼の素朴でジャストな演奏と、今作で最も緻密に構築された楽曲とが綿密に絡んだ、真骨頂中の真骨頂と言いたい一曲。アルバム『Abbey Road』B面のようなメドレー的に幾つもの展開を用意し、そしてそれを3分ちょっとに違和感無く収めてしまうポールのソングライティングは最早神懸かり的ですらある。この長くない間に、コーラスワーク、ビートルズライクなギターソロ、リコーダーなど様々な演出が込められ、最後再びタイトルコールをタイトに決めてバッサリ終わる様は“ひとりビートルズ”にして“ポップソングの鬼”ポールマッカートニーその人の才能の、最高の結晶だ。
 もうおじいちゃんなのに『Helter Skelter』をライブでパワフルに歌ってのけるポールももの凄いが、その老いも含めて作品に昇華できた今作は、彼の人生を語る上で絶対に外せない作品だ。そんなものをCCCDにしたEMIは、流石に「地獄に堕ちろ」とか言われても仕方がない。そういった部分も含めてもの凄い哀愁を背負ってるくせに、相変わらずおどけた具合に、彼は今後も死ぬまでコンサートしたりするんだろう。

ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード~裏庭の混沌と創造ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード~裏庭の混沌と創造
(2011/08/17)
ポール・マッカートニー

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10. A Wolf At The Door(Radiohead)
 『Hail To The Thief』が海外組でCCCDでのリリースが大変話題となった3枚のうちの1枚であることは上記の通り。その他色々も上で書いたので、早々にレビューを。どうでもいいけど9と10は東芝っていうよりEMIだなあ。
 アルバムとしては、彼らの作品の中で決して評価の高い方ではない。「全体的なテーマが定まってなくて散漫だ」「いや、バンドサウンド回帰して勢いでアルバム一枚作るのがテーマだから散漫気味なのも含めて狙い通りだ」「There ThereのPVのトムの演技草生える」等々賛否両論が飛び交うこのアルバム。しかし作中のバンドサウンドの所々で見せる露悪的にさえ感じるエグさと、アブストラクトな曲の美意識を感じさせるアブストラクトっぷりとのギャップの大きさはこのアルバム最大の特徴であり、アルバム通して聴く時は「あっまた変なギア入った」「ああまたよく分からん感じになった」等の変化を楽しんでいる。
 そんなアルバムの最後に収められたこの曲は、上記の二面性をどっちも兼ね備えた曲である(というか、そういう結論になる様に強引にアルバムの作風を二分化した)。それはバンドサウンドも歌唱の面でも濃厚に現れている。ヒップホップを通過した、とかいちいち言うのもアホらしいトラッシュな吐き捨てつぶやきスタイルから、サビ的な箇所でボーカルが重ねられた上で歌われるメロディの抑制されたヒステリックさとにじみ出る退廃的な美しさ、そして間奏の絶望的なハミングからより強烈なトラッシュスピーキングまで、この曲の陰鬱に抑圧された雰囲気の中を自在に変化していくボーカリゼーションは素晴らしい。また、間奏後に入ってくるドラムのグチャグチャ寸前なフィルインの激しさが、この曲の憂鬱さに暴力的な花を添えていて気持ちがいい。
 それにしても、この曲のコード感や歌の感じの陰鬱さからは、童謡からオペラまでを貫くヨーロッパ的な悲劇性(ちゃんと勉強したわけじゃないから適当に言ってるだけだけど)や哀愁みたいなものを感じさせる。そして何故か、この曲を聴いてるとElliott Smithが思い浮かぶ。彼の歌声も、メロディ自体は美しいけれどその美しさを引いたらひたすら退廃的で陰鬱な観念だけが残りそうな質感がある。丁度『Hail to〜』がリリースされたのと同じ年に彼は帰らぬ人となった。別にだからというわけでもないが、両アーティストとも、名状しがたい不思議な陰鬱さを根本に持ち、それをそれぞれの方法でほぐしてポップなものにするという点で、共通するものを(半ば強引に)見いだすことが出来る様に思う。
 ところで、この曲は普通に聴く以上に、上記曲名のリンクからも飛べる、アニメーション付き動画で聴くとより印象が深まる。Radioheadのファンが作ったとされるこの映像は、エドワード・ゴーリー的な絵柄を下敷きにこの曲の世界観を幻想的に、残酷に、そしてとても敬虔に膨らませている。筆者はRadioheadの他のどのPVよりもこの映像が好きだ。結局こういう破滅的なメロウさこそをRadioheadに求めているにすぎない自分のような輩はあまりいいファンではないのかもしれないけど、それにしてもこの曲とこの映像とが描き出す世界はあまりに感傷的で、胸の内を焼き尽くされたような清々しさが堪らず、時々思い出しては見入ってしまっている。

Hail to the ThiefHail to the Thief
(2006/05/26)
Radiohead

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おまけ:UNDER MY SKIN(ART-SCHOOL)
 次回の投稿は彼らの東芝EMI時代最後の作品、ライブ盤『BOYS DON'T CRY』の予定です。彼らも加茂啓太郎チルドレンの一組。どうせならナンバガとレーベルメイトがいいといって一度決まりかけた他のメジャーレーベルを蹴った話は笑える程偉そうだし(しかも東芝EMIからデビュー後すぐナンバガが解散するオチまでつく)、そして結局CCCDでのリリースが一度もなかった彼らは、キャリアではACIDMANとそんなに変わらないはずなのに、どうしてここまで自由にやれたのか、これもちょっと不思議です。

LOVE/HATE(初回)LOVE/HATE(初回)
(2003/11/12)
ART-SCHOOL

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