ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

小西康陽の作家性について:ピチカート20選+その他5選【後編】

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 PIZZICATO ONEがリリースした『前夜 ピチカート・ワン・イン・パースン』の素晴らしさを契機に、作詞作曲家・小西康陽さんの、自分では歌わないのに一部楽曲が非常にSSW的で、アンビバレンツな素晴らしさがある、ということで書いている文章の、これは後編になります。前編はこちら。

ystmokzk.hatenablog.jp

 こんな野暮な文章読むよりも、実際に『前夜』を聴いてもらった方がはるかに、小西康陽というソングライターの素晴らしさが全然理解できるかと思います。

open.spotify.com 

 更には、『前夜』に関する更なるインタビュー記事が出ています。こちらを読んだ方が遥かに良さの理解が深まると思います。

rollingstonejapan.com全編新曲でご自身で歌うスタジオ音源…とても聴きたい…!

 

 とはいえ、『前夜』の素晴らしさは、自分が今まで熱中してきた小西さんの楽曲の方向性と近いものがあるように感じられて、それで、この曲はここが原曲の頃から素晴らしいんだ…とか、こういう良さというのは小西さんの曲でしか自分は寡聞にして知らないな…みたいなのが色々思いついたので、それを文章として出力しておこうと思った次第です。前編から読んでいただいている方は、全然読みづらそうな文章をわざわざ読んでいただき、大変ありがとうございます。後半も、せめて何か意味があることが書けていれば幸いです。

 

Pizzicato Five:20曲(そのうち残り10曲)

 ところで、自分がPizzicato Fiveを聴いていくときに参考にした各アルバム評は以下のページのものです。素っ気ないページなので消えてないか不安だったけどまだある。

www.silverboy.comここのページでは、小西康陽さんのDJ・トラックメイカー的な側面はさほど重視していなくて、むしろソングライターとしての彼の資質こそを賞賛していて、多少辛辣な言葉も並んでいるけども、でもこのページの趣向がそのままぼくのPizzicato Fiveの趣向になっている気もします。そしてこのページによって、小西康陽さんのSSW的な魅力に初めて気づいた次第です。特に以下のフレーズには強く影響受けました。こんなの、やってることはART-SCHOOL木下理樹とかと同じことじゃないかっていう。この場を借りて感謝します。

 

そうして僕たちはピチカート・ファイヴというユニットが小西康陽の根の暗い復讐だったことに思い当たるのだ。美しい音楽の、その美しさによるすべての美しくないものの大量虐殺であったことに。

  

11. 大都会交響楽

 (1997年 シングル)

www.youtube.com 「打ち込みドラムの連打」「ボサノヴァなコードで疾走するトラック」「華やかに乱れ打つストリングスやキーボード」といった『Overdose』以降くらいからのピチカートイディオムの頂点に来そうなのが、シングルとしてリリースされたこの曲。ひたすら派手に駆け上がるストリングス隊と、Aphex Twinばりの高速フィルインとが入り乱れるポップスなんてこの曲くらいでは?と思うほどの無茶苦茶な勢いで疾走していく様は、これまでの小西システムの頂点、という感じ。テンション上がりすぎて一部間奏が運動会のBGMじみてるのは初期ピチカートの『サマータイムサマータイム』とかとも共通するところ。DJプレイ用としてもふかわりょう(ロケットマン名義)がこの曲を使用してること*1をはじめとして使い出がありそう。タイトルもテンションの高さが客観的に現れてるし。
 そして、その割にキーもテンションも低い歌が淡々と進行していくところが実にPizzicato Fiveって感じ。この曲もまた、トラックの過剰なハイテンションと、それと相反する楽曲のシックなポップさとの対比そのもので聴かせようとする、『メッセージ・ソング』とかと共通するタイプの楽曲。実際、アルバム『プレイボーイ・プレイガール』においてはより曲自体のボサノバっぽさを素直に強調したアレンジのものが収録されている。

 この曲では久し振りに野宮・小西のユニゾン歌が突き進んでいく。これがまた実に、二人ユニットと化して以降のキャリアの、ひとつの絶頂のような感じを思わせる。英語タイトルは『I Hear A Symphony』で、The Supremesの名曲と同じタイトルをしている*2。その気負いを元に、まるで東京という大都会そのものに対して指揮者のタクトを振るうような落ち着き払った高揚感と苦い全能感とが、この曲の最大の魅力なのかもしれない。
 歌詞は、その殆どを第三者的な、大都会の観察者としての視線で進行していく。それはそうだろう。作詞作曲者が、大都会東京という演奏者に対してタクトを振るうのだから、それは大都会東京に歌わせる言葉でなければならない。この大都会における恋愛の典型的な形態と、典型的な時の流れの苦味。喜びも悲しみも溶け込んだシンフォニーとして抽出された、一般化された言葉たち。

 しかしながら、ここでも指揮者・小西康陽はそれだけで我慢ができなかった。最後の最後のセクションにて、ついに「女優:野宮真貴」の姿を借りて一人称が姿を表す。

 

そしてきょうも誰かが出逢って別れる

もしも いつかあなたと もう一度逢えたら

きっとうまく あなたち打ち明けて言うはず

聴こえる?恋人たちのためのシンフォニー

 

これはもしかしたら、ここで一人称を出すことで歌詞の効果が高まるという、打算的・技法的な描写なのかもしれないし、または小西康陽という人が歌詞に書かずにいられない、叶わないけれど祈りたいような気持ちの現れがふと出てしまったものなのかもしれない。何にせよこの場面で、この曲の歌がこの1点においてのみ、実にさらりとした形でエモーショナルになることを特筆しておきたい。

 

12. 新しい歌

 (1998年『プレイボーイ・プレイガール』)

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 すいませんがここから6曲連続同じアルバムからの選曲です。アルバム『プレイボーイ・プレイガール』はタイトルの軽薄さの割にあまりにSSW小西康陽な曲が多すぎる*3…そこまでするならもう自分で歌えばいいのにってくらい多すぎる。「女優:野宮真貴」な楽曲はタイトル曲と『不景気』くらいしかないのでは…?なのでたとえば小西康陽氏小説集といった趣のベスト盤『Pizzicato Five I love you』においても収録曲が最も多く、またPIZZICATO ONEの『わたくしの20世紀』『前夜』においても複数の楽曲が選ばれている。

 この曲は冒頭のドラムフィルインも元気なハイテンションの疾走ナンバーで、いかにもピチカート印!って感じの楽曲。楽曲だけを取り出すと非ロック的な落ち着いた楽曲なのをビートの疾走感でパンク的な勢いを強引に持たせるのが小西システムの基本ロジック。それにしたってこの曲のドラムはかなりテンションが高く、様々なフィルインが乱れ飛ぶ様は、ラウンジバンドにThe WhoKeith Moonが間違って加入したのか?と思うほどの勢いで、その爽快感に牽引されてキーボードもホーンセクションも吹っ切れたようなパワフルさで鳴らされ、楽曲もAメロ→Bメロ→サビと矢継ぎ早に展開していく。特にBメロの頭打ちのビートが何ともパンク。また最後のサビが終わった後のシンコペーション連続の展開もこの曲にヨーロピアンな劇的さを強引に付加してて面白い。

 歌詞の方を見ると、これももう、恋とか愛とかを吹っ切って、何だか素直で投げやりな言葉が、特にBメロで乱れ飛ぶ。ビートの感じと相まって実にパンク。特に最高なのが以下の2回目のBメロからサビに続くライン。

 

冬の日の曇り空を見上げると死にたくなる

居心地の悪い世界で 1日中考えてた

きみのことを考えてた

 

きみにこんど逢う日のために

ぼくは新しい歌を作ろう

 

「居心地の悪い世界」という、何だか小西康陽という作詞家の根底にある前提が垣間見えるようなワードから、そういうことからのブレイクスルーとして「きみ」が飛び出してくるのは、なんかもうすごく“男の子”な感じがしてしまう。ねえ、何もかもにムシャクシャして、そこから逃れるために「きみに会って聴かせるための新しいうたを作る」だなんて、そのモチベーションがあまりに“男の子”すぎる。そういうところが、この曲は最高なんだと思う。

 この曲も大概お気に入りなのか、いくつかのバージョンが世に出ている。『I love you』ではデモバージョンと思われる、実にチープな電子音を主な伴奏としたバージョンが収録されていて、またPIZZICATO ONEの『わたくしの20世紀』ではこれを含む3曲をメドレー的にくっつけて『日曜日』という楽曲にして、Nona Reeves西寺郷太氏によるボーカルでじっくり聴かせる。

 そして何より存在感があるのが、ピチカート解散から割とすぐにリリースされたトリビュート盤『戦争に反対する唯一の手段は。-ピチカート・ファイヴのうたとことば-』に収録された、デューク・エイセスによるこの曲の強烈なカバー。1955年から活動し続けてきたコーラスグループである彼らの、ものすごい質量のコーラスが冒頭から炸裂する。このものすごい勢いはこの原曲を超えてしまっている。プロデュースは小西康陽。あの“えせ”トリビュート盤の中で、正面切って原曲越えを果たしたと言えそうな2曲のうちのひとつ。

 

13. コンチェルト

 (1998年『プレイボーイ・プレイガール』)

www.youtube.com アルバム『プレイボーイ・プレイガール』収録曲のいいところは、これまでにかなり食傷気味になっていたピチカートイディオムの利用によるゴリ押しを避け、各曲が弾き語りでも成立するほどに「うた」としてしっかりと練られていること。確実にひとつ前のアルバム『HAPPY END OF THE WORLD』の反動だけども、それが彼が「作詞作曲」に立ち返るに当たってどれだけ作用したことか。

 この曲はバロックポップのお手本という感じの、ハープシコードがコロコロと転げ回るように鳴る、ポップでファンタジックで可愛らしいナンバー。この曲においては、歌詞の主語が「わたし」なので、まだ歌い手が女性かなあ、という感じの内容になっている。けれど、こで大事なのは、このアルバムでしばしば言及される「子供の頃の記憶」が、とりわけこの曲(とこの曲の前の『不思議なふたつのキャンドル』)でとても具体的に言及されること。

 

子供の頃に 泣きたくなると ひとりきりで森の中を歩いた

ときどきいまも想い出すけど わたしはもう泣かないけど

 

風のささやきを聞くたび くちづけするたび

遠い夏の日の魔法が 突然によみがえる

 

この辺の、おしゃれさというよりもむしろ、ノスタルジックでイノセントな光景を求めた描写が、この曲の可愛らしいポップさ・ファンタジックさをより強めている。そのファンタジックさというのは、たとえばスピッツが歌詞で表現するような現実の理が歪むようなサイケデリックなそれではなく、もっと素朴で、そしてそれ故にか、何だか取り返しがつくことはあり得ないような遠い光景を見てるような感じがする。それは寂しさと甘酸っぱさが同時に来るものだ。

 

14. きみみたいにきれいな女の子

 (1998年『プレイボーイ・プレイガール』)

www.youtube.com この曲はシングルでもリリースされたけれども、圧倒的にアルバムバージョンを推します。Sly & The Family Stone『If You Want Me To Stay』を下敷きにしたここでの見事な“スライ歌謡”っぷりは、彼のときに毒々しさすらある引用センスの面目躍如といった次第で、その手腕は実に素晴らしい。テンションをぐっと抑えたビートや、遠くで鳴ってるようなトランペット、そして存在感のあるベースの鳴りが、この曲が元来持ってた妙な陰鬱さを見事に密室ファンクとして昇華させる。シングルでは単トラックだったボーカルがアルバムバージョンで重ねられているのもまた密室感を増すように作用している。タイトルコール時の伴奏がスネア連打だけになるのがゾクゾクする。

 歌詞を見てると、小西さんがピチカートの箱庭の中で描いている女の子がどんどんと退廃に向かっていってる様が見て取れる。岡崎京子のマンガ的な荒み・虚無具合。

 

午後3時 あてもなくいつもの街を歩いてた

顔見知り 友だちに 偶然会って 別れた

きのうより風がなんだか冷たい晴れの日

ぼんやりと窓ガラス越し ただ街を眺めてた

 

とりわけこの2番の部分がなんか悲しい。友だちに街中で偶然出会うってかなりラッキーなことな気がするのに、ここでは何も救われていない感じが、状況はよくわからないにしてもこの登場人物なりの惨めさを感じさせる。「きのうより風が〜」以降の描写はシンプルな単語のみで、実に鮮やかに繊細な虚しさを書き出している。

 そして、そんな自分で設定した惨めな世界にいる女の子に、小西康陽としか思えない人格が語りかける。

 

きみみたいにきれいな女の子が どうして泣いてるの

きみみたいにすてきな女の子は ほかにいないのに

 

どうして彼が、野宮真貴という最終兵器を手に入れて以降、ひたすら鮮やかに、ときには悲しみの演出も入れながらも鮮やかに描いてきた「ピチカートの箱庭の大都会東京」は、こんなに惨めな感じになっちゃったんだろう。それは、本当に歌詞が惨めったらしかった野宮真貴加入前のピチカート的な要素が出ていることもあるけれども、もしくはバブル崩壊以降の不景気が深刻化し始めた時代の色が出たこともあるかもしれないけれど、この辺はむしろ小西さんの中で何らかの終末感めいたものが加速してきたのかも、と思ったりする。アルバムでこの次に収録されるタイトル曲もそんな雰囲気だし、また次のセルフタイトルのアルバムでよりその傾向が進むので、そんな風に思う。

 なお、『I love you』にはこのアルバムバージョンの方が、ナレーションを剥ぎ取った形で収録されている。

 

15. テーブルにひとびんのワイン

 (1998年『プレイボーイ・プレイガール』)

www.youtube.com この曲はもう露骨にボサノバなアレンジで、これまではピチカートイディオムの多用のことなどもあり、ここまではっきりとボサノバな曲・アレンジをしていなかったと思うけれども、アルバム『プレイボーイ・プレイガール』ではこれやアルバムバージョンの『大都会交響楽』のように、頓着せずに趣味全開でやっている。トライアングルの反復がいかにもなサウンドやジャジーなコード感は、ロックやパンクとは実に距離の離れた音楽のような感じがする。野宮ボーカルは斎藤誠氏とのユニゾンで進行するけれど、ここでのユニゾンはそれぞれのボーカルのボリュームが同じくらいなため、女性ボーカルものの歌、という感じはかなり薄い。いよいよ野宮ボーカルが「小西康陽の表現のための音色のひとつ」となってきたことを感じる*4

 そんなこの曲の歌詞もまた、全然女性視点でも、ましてや恋や愛の話でもない。「ぼく」と、そして「神様」が、海の近くの風が吹き込むテラスで対話する。「ぼく」は夢想する。

 

神様がきょうぼくに電話をかけてきて

ぼくの人生はきょうが最期の日になる、

って言われても大丈夫 青空がこんなに素敵なきょうなら

 

突然、ふわっとした雰囲気の中で出てくる「死」についての、不思議な充実感から来る諦念、それについての歌、ということに、これはなるんだろうか。何にせよ、そんな不思議な代物がこの実にくつろいだボサノバのトラックに乗る変なバランス感覚は、やはり小西作品なんだなあというところ。

 これも本人の相当なお気に入りのようで、“えせ”トリビュート盤にも『I love you』にも『前夜』にも出てくる。『前夜』バージョンは、ようやく作者本人ボーカルで聴けたこの曲の、実に腑に落ちる感じがなんとも暖かい。

 

16. 華麗なる招待(a.k.a ゴンドラの歌)

 (1998年『プレイボーイ・プレイガール』)

 PIZZICATO ONEにて元のタイトルから『ゴンドラの歌』に改題され、そして故・ムッシュかまやつ氏によるポエトリーリーディングの後に、作者本人のボーカルが現れた時にはとても衝撃を受けた。と同時に、とても腑に落ちた。この曲ほどSSWとしての小西康陽の感じが強く出ている曲は無いように思うから、彼が最初に自分で歌う曲としてこれを選んだことには、必然性があったんだと思った。そして『前夜』においても、『ゴンドラの歌』として、原曲とは異なるしっとりしたアレンジで演奏された。素晴らしくて、でもその素晴らしさを感じると同時にこの曲が『華麗なる招待』だった頃の姿に対する懐かしさも同時に増していく。それは矛盾することじゃないと思う。

 在りし日の『華麗なる招待』について。彼のファーストアルバム『カップルズ』収録の『What Now Our Love(そして今でも)』以来のロジャニコ歌謡*5で、ドラムの元気なフィルインから入るところまで再現している。ストリングスはより優雅になり、ドラムは打ち込みトラックとなってサンプリングされたフィルインが何度も転げ回るけれども。曲のメロディなんかは『カップルズ』の頃を発展させたような、穏やかなポップさ。そんなメロディを、野宮ボーカルとゲストのT.V.JESUSの有近真澄氏のボーカルとが並走していく*6

 曲だけをぼんやり聴くと、ソフトロックをよく当代風にトラック化したいいポップス、くらいにしか思わないかもだけど、この曲の要はやっぱり歌詞。歌いはじめから、一体これは何の歌なんだ…?という話が展開されている。

 

もしもゆうべ観た夢が本当になるのなら

ぼくはたぶんもうすぐ死ぬのかもね

悲しくなんかないよ ひとりきりできょうは

なつかしい遊園地のゴンドラを眺めてる

 

アルバムではこの曲の前が『テーブルにひとびんのワイン』で、前曲でちらついた「死」について、こちらではより直接的にその予感について言及していく。ノスタルジックな目線も入り混じりながらも、やはりここでも「ぼく」は死を「悲しくなんかないよ」と歌う。

 

そして長距離電話で きみと話せたら

ぼくはきっとそれだけで 泣き出すかもね

悲しいわけじゃないよ きみに出会えたぼくは

あのときからずっときょうまで 幸せだったから

 

いよいよ死ぬ直前のようなことまで言いだす。個人的には「長距離電話」で話さないといけない相手ということで、ここでも彼は、離婚して離れていった人のことを想っているような気がする。すでに再婚はしてたはずだけども。

 そしてこの歌の登場人物の結論はこうだ。

 

人は生まれてそして きっと誰かを愛して

そして いつか死んでいく

そんなに悪くない

飛行機の中で観た短い映画みたいに

 

本当に、前の曲といいこの曲といい、どうして「死」が迫っていたとしてもこれらの登場人物は落ち着いて、それまでの幸せな記憶をゆっくりと反芻しているんだろう。この不思議な落ち着き具合が、このアルバムや次のアルバムに出てくる「ピチカートの箱庭の女の子」の惨めな状況とかなりミスマッチしてて、なんなんだろう、と思う。別に一貫性があってほしい、というわけでもないし不満は全然無いけど、この二つの要素が小西さん本人の中で特に違和感なく同じ作品内に共存する様は聴いてて不思議になる。まるで老境のようにさえ感じられるこの曲の歌詞に、当時の小西さんのどういう状況と想いが入っていたのか。音楽と同じくらいに映画を沢山観てきた彼が、この曲で人生というものをこのように綴るのは、どちらかといえば彼がずっと綴っていくエッセイとかと陸続きな世界観なのかもしれない。

 この曲こそ、小西さんがずっとずっと大事にしてる曲なのかもしれない。『I love you』と『わたくしの20世紀』と『前夜』の全てに収録されている曲は、この曲だけなんだから。『ゴンドラの歌』収録後本当に亡くなってしまったムッシュかまやつさんのこととか、小西さんはどう思ってるんだろう。

 

17. 美しい星

 (1998年『プレイボーイ・プレイガール』)

www.youtube.com『わたくしの20世紀』バージョン。歌は甲田益也子氏。

 アルバム『プレイボーイ・プレイガール』の最終曲。インタールード的な3曲目で存在を匂わせてからの最終曲、という配置にはまだピチカートイディオム的な遊び心が見えるけど、それが似つかわしく無いほどの正面切った名曲。このアルバムやっぱり名曲が多すぎる。

 ムーディーな歌謡曲的なものではなく、正面切った、祈りを捧げるようないでたちのバラードとしては実に『マジック・カーペット・ライド』以来となる、小西康陽渾身のバラード。そしてどこか、真夜中の空を見上げるような、ぼんやりとスペーシーな気持ちになるような、そんな幻想的な感じが、程よい音の抜き差しとアタック感によって出来た「音の空白」に満ちていく。このスペーシーな感覚っていうのは、果てしないほどずっと遠くに想いを馳せる感覚のことなのかもしれない。

 

思い違いしてなければ 子供の頃ひとりきり

パパもママもいないとき

夜の空を見上げてたら 吸い込まれて空を飛んだ

 

このアルバムに何度か登場した子供の頃の記憶の地点に、こうしてふわっとしたファンタジックさを置いて、それゆえに、現実の現在におけるその視線の向こうまでの距離のことを強く淡く想わせる。

 

美しい星に住む美しい人々

美しくて遠い星のなつかしい人々

いつかぼくを想い出して

 

実はつい最近まで、この曲に具体的なイメージがあるとは思ってなかった。このアルバムに様々に入り込んでいるノスタルジックな光景の数々が遠くなっていくことに手を振る、これはそんな歌だと思ってた。『前夜』リリースによって行われた小西さんへの上記のインタビューの最後で、ポロっとこんな話が出てくるなんて思ってもなかった。

 

小西:
ほとんど日記、クロニクルみたいな。ただ、それは自分のプライベート・ライフを切り売りしても、締め切りに追われて、それを出すしかなかったから。もっと言うと、「美しい星」という曲があるんですけれど(『わたくしの二十世紀』収録)、それは奥さんと別れて、しばらくして、仕事場で仕事してたら、電話がかかってきたんですよ。その電話の向うの喋り方が変わってて、当時、彼女は茨城県の水戸に引っ越してて、もともとは東京の人なのに、そっちの喋り方になっていた。それが凄いショックで、ああ、完全に遠くへ行っちゃったと思って、そうしたら、「いつか僕を想い出して」っていう歌詞が出てきた。

 

インタビューが唐突にここで終わってて、インタビューした高橋健太郎さんが「実際にそこで本当に終わったから」と言及している。多分、ここの最後の場面は小西さんは喋りすぎたんだと思う。『子供たちの〜』と『メッセージ・ソング』の自身の人生とのリンクに言及した後、『前夜』には収録されてない、この曲のエピソードまで話したところで、彼は、言葉に詰まってしまって、それでインタビューは終わったんだと思った。人は、他人の悲しい話と、そんな悲しい話から生まれた美しい歌が好きになってしまう生き物だ。ということは、人は、本質的に他人の悲しみを望んで生きているのかーー。

 ーーと、こうやって悲観的で自滅的な論理に陥ってしまうのは程々にしたい。確かに『I love you』も『わたくしの20世紀』も『前夜』も悲しい曲が沢山入ったレコードだけど、それらを好きなのは「悲しいから」ではなく「美しいから」なんだと、信じていなきゃならない。「美し」くて「優しい」音楽が、ぼくは好きなんだ。

 

18. 戦争は終わった

 (1999年『ピチカート・ファイヴ』)

www.youtube.com 「いつも愉快な小西康陽さん」が作り上げてきた「ピチカートの箱庭の女の子」の、あんまりな顛末。『きみみたいにきれいな女の子』や曲の方の『プレイボーイ・プレイガール』で予兆はあったものの、そこからここまで凄惨で退廃的な光景を描くことになるとは、と順番に聴いていくと思う。

 最終作『さ・え・ら ジャポン』の特殊さや『グッバイ・ベイビィ&エイメン』という曲でアルバムが終わることから、セルフタイトルのアルバム『PIZZICATO FIVE』が彼らの実質最終作とみなされることがままある。前作『プレイボーイ・プレイガール』でソングライティングに大きく偏ったのをややフラットに、サウンドとソングライティングとを高い次元で両立させようと努めた、実に気合の入った作品がこの実質最終作だと思うけれども、その頂点に立つのが、この曲なんだと思う。

 この実質最終作はなぜか「イタリア」をテーマにしていて、確かにアルバムのそこかしこにヨーロピアンなサウンドやフレーズが沢山配置されている。この曲はそういったアレンジがとりわけ上手くハマっていて、楽曲の優雅さと言葉のどうしようもなさとが、グロテスクなくらいに乖離していて、それ自体がこの曲の退廃感につながっている気さえする。謎に呑気でよくわからないハイテンションな前曲『眺めのいい部屋』からその高速気味なBPMがあまり変わらないままこの曲に突入して、イタリアの優美な町並みをバックに流れそうな管弦楽器が優雅に乱れ飛ぶ中で、いつもチャーミングな野宮真貴さんが、とても温度の低い歌声で、ぞっとするような光景の中の女性を歌う。

 

ゆうべ飲んだワインとウイスキーのグラス

吸い殻が溢れた灰皿のそばを 猫が歩く

 

二日酔いの日には音楽は要らない

何を聴いても嫌いになる

郵便物の束 封を開けて棄てて

お茶を飲んで 午後は終わる 

 

「女優:野宮真貴」のストーリーはいつの間にか、なんだかすごい堕落した暮らしの中にいた。そんな中で彼女のせめてもの救いになるのは、恋人のこと。救いに?せめてもの慰みくらいのものでは?

 

ゆうべ電話をかけた 新しい恋人

あなたのこと考えて 夜が来るのをただ じっと待ってた

 

そして、なんだか頭パーのまま年を取って没落寸前みたいな状況の中で、ぼんやりとこの女性は考える。

 

戦争は今日も終わらないのかな

戦争はたぶんなくならないのかも

 

この、何も考えずに生きてきた人が少し考えて、この悲観的な考えに至った、その構図の痛ましさ、いたたまれなさ。この曲のサビだけども、非常に中途半端で宙吊りなコード進行の中で所在なさげに舞い上がるメロディが、実に不安で病んでて、でもギリギリで美しく響くのが、小西メロディの極北、という感じ。

 そして、それでもこの退廃的な女性の、表向きは華やかな暮らしは続く。

 

お金持ちばかりが集まるお店で

晩ごはんを 誘われたの

 

ゆうべ着ていた服は たぶんもう着ない

新しい服に着替えて出かける

お金持ちになるのは ねえ、どんな気分なの

お金持ちのともだちにきいてみよう

 

たとえばRadioheadなら、このお金持ちの生活の下に地球の反対側の人々の人生への搾取が云々…というミノタウロスの迷宮的な話になっていくだろうけれども、この女性はそんなことを考えるように設定されていない。ただただ退廃的な生を続け、たまに戦争のことをぼんやり考える、みたいな、その不毛さに、この世の理不尽さの、変に歪んでて前後不覚になりそうな側面を実に露悪的に切り取った、この詩作の妙がある。

 どうして、こんな曲になったのか。サウンドの優雅さの追求と、「ピチカートの箱庭の女の子」の堕ちていく先とが、奇跡的に出会った地点がこの曲だった、ということなのか。伴奏が美しければ美しいほど救いのなさが際立つ、小西康陽史上最も残酷で、臭くて汚くて、かつ同時にひどく可憐で哀れな、彼の音楽の最高到達点のひとつ。

 そんなこの曲もまた、彼のお気に入りの1曲。『I love you』には伴奏がとてもシンプルでアコギのコード弾きが印象的なデモバージョンが収録され、またピチカート解散から数年後の2005年にはこの曲をタイトル曲とした夏木マリのアルバムを小西さんが製作していて、漆黒のジャズアルバムに仕上がっている。PIZZICATO ONE『わたくしの20世紀』においても、YOU氏のボーカルにて、バタバタしたジャズテイストのトラックとして再録されている。

 

19. あなたのいない世界で

 (1999年『ピチカート・ファイヴ』)

www.youtube.com 実質最終作においては、最終曲『グッバイ・ベイビィ&エイメン』の前に置かれた曲。元々はT.V.JESUSの楽曲に小西さんが歌詞提供したものらしく、それをセルフカバー(?)したのがこのトラック。なのでそう思って聴くと、確かに小西さん的ではない作曲であるような、別にそうでもないような。

 本当にヨーロッパの古く暗い映画か何かのような、漆黒の感のあるピアノの響きやストリングスの不穏なざわめきがトラックの中核を成す。思いの外手数が多くバタバタしたリズムがなければ息が詰まりそうな、そんな虚無的な漆黒の中を、野宮真貴及びT.V.JESUSの有近氏とが並走するボーカルが、Aメロ・サビ等の境界が曖昧で、ゴシックな感じのするメロディを淡々と駆け上がっていく。その、歌詞の悲しみに対して一切誰も、どの楽器も同情せずに、冷たくそれぞれの音を響かせるその様子が、このアルバムのサウンドの“残酷さ”に止めを刺す。

 そして、この曲に寄せた小西さんの歌詞は、「女優:野宮真貴」の姿が映える、なんとも言葉に詰まるような、静かに過ぎ去っていく喪失の淵にある暮らしの、その徒然の光景だ。

 

あなたのいない世界で

私は週末の朝 ひとり手紙を書いた

ブルーのインクで小さな文字で

季節の移ろいをあなたに伝えたくて

書き終えて私は少し泣いた

そのあとで引き出しに鍵をかけた

あなたのいないこの世界で

 

この実質最終作のアルバムでは、何度も「女優:野宮真貴」が痛ましくいたたまれなくて見てられなくなるような光景が頻発する。逆にいうと、ピチカートの看板女優であるところの野宮真貴さんを伴った体制で、最後にこれまでかつてないほどの悲しみを表現することを目標に、このアルバムは製作されたのかもしれない。この後にせめてもの明るくパワフルな『グッバイ・ベイビィ&エイメン』を入れたのは作者の優しさかも、と思うほどに、この曲の行き詰まって、息詰まってしまう度合いは強い。

 この曲も作者に気に入られてる。コシミハルによるチープで悲しい”えせ”トリビュート、『I love you』収録のピアノ伴奏のみバージョン、『わたくしの20世紀』におけるアコギアルペジオ+チェロ+市川美和子氏のボーカルで奏でられるくっきりとしたバージョン、どれも実に、この曲の悲しい光景を表している。そして、そもそもの原曲であるところのT.V.JESUSのバージョンは…なんかフォーキーでちょっと驚く。逆に、この原曲からよくここまで暗くしたもんだなあ…とか思う。

www.youtube.com

 

 20. 12月24日

 (2000年 シングル)

www.youtube.com セルフタイトルのアルバムを実質最終作と言ったけれども、それより後にリリースされたシングル2枚は、『東京の合唱』はアンコールで、そしてこの『12月24日』はエンディング、という位置付けか。『さ・え・ら ジャポン』はなんというか、もはやPizzicato Fiveすることをほぼ放棄した地点でやってる“お祭り”みたいなものか。

 ということで、Pizzicato Five最後のシングルとなったこの曲。強いビート、華やかでキラキラしたサウンド、楽しげなコーラスなどは、かの『東京は夜の7時』を思い起こさせるようなハイテンションなサウンドになっている。ピチカートイディオムをアッパーな方面に全開にした、CM使用などもバッチリなポップなダンスチューンに仕立て上げられている。ほんのりとクリスマス曲として味付けされたそういう風味もまた、あの年末の狂騒感を思い起こさせる。

 そんな楽しげなサウンドの中で、「女優:野宮真貴」が最後に与えられた役割が、やっぱり実に悲しい女性であることは、最後まで小西さん好きだなあこういうの、という感じがする。シングル版『東京は夜の7時』においてはまだ「あなた」と会えたんだろうな、っていうことを思える作りになっているけど、『Overdose』収録のロングバージョンではもうこれ会えないな…くらいまで既に後退してた。そしてこの『12月24日』においては、最早この人、本当は会えるわけないって気づいてしまっている

 

電話も来なくなって一週間くらい経つけど

わたしは信じてる 子供の頃のように

わたしは奇跡を待ってる

 

12月24日

あなたはどこにいる?

わたしは街のどこかで ずっとあなたを待ってる

 

すごく楽しそうに、魅力的に、声にも艶を出して歌われているけれども、この歌詞だと状況は最早、「待ってる」というよりは「祈ってる」という方が正確な状況になっていると思う。それでも「わたしは街のどこかで ずっとあなたを待ってる」と歌われる、この恋なのか愛なのかよくわからない感情は、この軽薄なポップソングには重たすぎる。「子供の頃のように」という形容がまた、相当に痛ましい…。最後の最後に出すサービスのようなポップチューンにおいて、このように当たり前のように虚無の毒を忍ばせる小西康陽の哲学と性格の悪さ(良さ)に、改めて敬礼する。

 本当に曲としては最後のサービス、という感じのものなのに、その歌われる女性の痛ましい姿がやっぱり気に入ってたのか、PIZZICATO ONE『わたくしの20世紀』にきっちりと収録されているのが笑う。こちらは歌詞の悲しみをストレートに活かした、実にもの寂しくアダルティックな出来。サビのコーラス全カットがまあこういうアレンジなら当然だろうけれども、また笑える。そして笑った後に、このアホみたいだった曲が実はとてもしんみりしてしまう曲だということに、不意に気づかされる。

 

その他:5曲

 小西康陽さんはPizzicato Fiveの活動中と解散後とに関わらず、多くの他のアーティストに楽曲提供を続けてきました。その多くが女性であることは特筆すべきことで、彼自身も後に女性への提供曲を集めたコンピ『きみになりたい』をリリースしています。

 そんなピチカート外でも多作なのに、たった5曲しか選ばなかったのは、“身内”であるピチカートではまだパーソナルな部分を出すけれども、外部のアーティストに提供する曲は大抵きっちりとその人に合わせたチャーミングな詩作を行っていて、なので大体は今回のテーマに合わなくなるからです。以下は、そんな中で、まだ小西康陽色が、彼の思想が滲み出ているように感じれるものを(下手なりに)厳選しました。

 

1. 真夏の夜の23時 / 和田アキ子(1998年)

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 和田アキ子さんについては、“えせ”トリビュートアルバムにおいて小西さんが招き、『悲しい歌』の力強いカバーを披露している。けれども小西さんとの接点はもっと早く、この1998年のシングル曲からとなります。これが実に力作で、ソウルシンガー・和田アキ子の魅力を「みんな分かってないな俺ならこうするのに」と言わんばかりのソリッドさで炸裂させるナンバー。その分析の的確さと一点突破的な歌の活用方法が実に小西メソッド的だけど、演奏自体は超絶な生演奏。シカゴソウル的な効果を狙ったというホーン隊のサウンドがとんでもなく格好いいし、それに負けないどころか圧倒する和田アキ子の圧倒的なパワーを感じさせるボーカルが強烈。

 この曲の素晴らしいところは、ソウルシンガーとしての側面を強調しながらも、歌謡曲歌手としての和田アキ子を決して否定していないこと。男女の別れの情景を日本歌謡リスペクト的にドロッドロに歌詞にする様は「あっそういうのも書けるんすね…」という驚きがある。それでも「愛は死んだ」って表現のオーバーさは悪ノリが感じられるけど、でも和田アキ子ボーカルによって強引に納得させられてしまう雰囲気がある。

 小西さんは後に和田アキ子のソウルシンガー面に焦点を当てたコンピ『フリーソウル 和田アキ子』の監修も行っており、テレビの中のご意見番ではなく、歌手としての彼女の魅力を世間にしっかりと問いかけているのが素晴らしい。自分は正直和田アキ子さんの曲はこのコンピ収録分とあと『さあ冒険だ』くらいしか知りません。。

 

2. 野いちご / 野本かりあ(2002年)

www.youtube.com 早速ピチカートの曲のセルフカバー、という反則みたいなやつですが、仕方がない、だってこっちのバージョンの方がピチカート版より遥かにいいんだもの。“えせ”トリビュートアルバムにも収録された、あの中で正面切って原曲越えを果たしたと言えそうな2曲のうちのもうひとつ。

 正直、野本かりあというアーティスト自体は、Pizzicato Five解散後の小西さんの次なる核となる活動形態だと思うけれども、その当初の目論見ほど成功しなかった感じがする。ピチカート後期の退廃感の中の女の子の姿を、より若いシンガーで実践しようとしたんだと思うけども、そのコンセプトに固執しすぎて、肝心の楽曲がなんというか、概ね弱い気がする。サウンドも、小西さんのリミックスとかで使われるサウンドとの差異化が十分でない感じがして、何だろう…。カバーばっかりの最初のミニアルバム『The Girl From R.E.A.D.Y.M.A.D.E.』が、コンセプトも何もなく伸び伸びとトラックが作られてる感じがして一番いいなと思ってしまう。

 この曲はそこにも収録されてる。原曲はアルバムの曲順で次の『ダーリン・オブ・ディスコティック』への繋ぎ、みたいな、化粧品のCMみたいなアレンジで正直やや地味と思うけど、ここでのそれは違う。セルフタイトルのアルバムで徹底的にやったヨーロピアンなアレンジを今一度、ピチカートイディオムから連続する“小西メソッド”にコンパクトな形で適用して、結果として実にゴシックで感傷的なポップスが生まれている。ここにおいては人形みたいな野本かりあのボーカルも、その人形性ゆえにゴシックな雰囲気に実にマッチしている。単にこのトラックの声を野宮さんに変えればいい、というものではない魅力が確かにここにはある。

 原曲より少し早いテンポによる緊張感あるマイナーコードの進行で、劇的でヒステリックなストリングスや、使い回しなのに実に効果的に入ってくるドラムフィルイン、リズム楽器的に鳴らされるハープシコードの可憐な刺々しさ、そして、ダブルトラックなこともあり極限まで人形化された野本かりあのボーカル。ここに、小西さんが生み出した箱庭の中でも最も魅力的かもしれない、ファンタジックで小さな逃避行の光景が浮かび上がる。思えば、打ち込みトラックの“小西メソッド”の楽曲としては、『アイドルなんて聴かないで』が出るまではこれが最後の超絶名曲だったのでは。

 

夏の朝の 寒い朝の 霧の中を

ふたりドライブした

誰もいない 何処かの街 海の近く

ずっとドライブした

 

寒い朝は抱き合って くちづけをするのが

当たり前になるの

口の中にひろがるのは 野いちごの味

 

3. 涙もろくなった。 / 吉川智子(2008年)

 今回のPIZZICATO ONE『前夜』にて選曲されて、「知らない曲!新曲か!?」って思ったけど調べてたらちゃんと既出だった。小西康陽さんが「これからプロデュースとかしていきたい」という10人のアーティストの楽曲を1曲ずつ収録したコンピレーションアルバム『うたとギター。ピアノ。ことば。』*7において、小西さんは3曲新たに書き下ろしており、『東京の街に雪が降る日、ふたりの愛は終わった。』『歌姫』そしてこの曲がそれに当たる。書き下ろし3曲含めて、“小西メソッド”を完全に封印した、オーガニックなバンドサウンドで彩られたコンピ。この曲を歌っている吉川智子さんは『わたくしの20世紀』でも2曲を歌っていますが、その他のことはよく知りません。

 この曲を取り上げたのは、歌詞の内容が実に「これ小西さん自身の心境じゃね?」という感じがしたから。

 

青空がとても きょうは澄んでる

それで泣いてしまったの 悲しいわけじゃない

誰のせいでもない あなたのせいでも ないから

 

昔より 涙もろくなってきた

すぐに泣いてしまうの 悲しいときは泣かない

ごめんね悪いけど いまは少しだけ このまま

 

今、CDとして購入した『前夜』のブックレットで改めて歌詞を読むと、自分にはこれは『華麗なる招待』の続きの歌のように感じた。悲しいわけじゃないけど泣いてしまう、という共通点がありつつも、より実感としてしみじみと、感情の動きを「泣く」という行為で発してしまうようになった人間の意外な発見が、この曲にはしみじみと綴られていると思う。そんなかなり自分本位な歌詞の曲を、アイドルには提供しないわけで、元から一緒に仕事することがあったという吉川智子さんに歌ってもらったんだろうか。この時点でこの曲を自分で歌おうとは思わなかったんだろうし、この時点では後に自分で歌うとも思ってなかったのかなあ。歌詞と同じくしみじみとしたバンド演奏は、コンピのものも『前夜』のものも大きな違いはない。

 

4. かなしいうわさ / スクーターズ(2012年)

www.youtube.com 1980年代に活動を始め、2年で解散した、“東京モータウンサウンド”をキャッチコピーとしたバンド・スクーターズ。彼女たちの2012年の復帰作『女は何度も勝負する』に小西さんが提供したのがこの曲。オールディーズ志向な彼女たちのスタンスに合致した、鮮やかにポップで、ちょっとGS風味もありつつ、しかし歌詞では寂しさも織り交ぜたそのソングライティングは的確!という感じがして、果たして録音されたそれはスクーターズの生命力とソウルを感じさせる楽しげなロックンロールに仕上がっている。

 しかし、ぼくがこの曲を知ったのは彼女たちではなく、PIZZICATO ONE『わたくしの20世紀』でUAボーカルにて録音された、実に音数少なく寂しげなバージョンの方。なので、原曲があんなに熱っぽいサウンドになってると思わなくて驚いた。『わたくしの20世紀』が実に的確に各曲の「悲しい」要素を抽出して演奏していることが逆によく理解できた。

 スクーターズはパワフルな演奏で振り切っているけれども、そうでもなければこの曲の歌詞はやっぱり、小西康陽個人の資質による、どうしようもない悲しさが渦巻いている気がする。『前夜』で自身のボーカルで歌われると、その悲しい具合が実に本人にフィットした感じがあって、なぜだか逆にホッとする気がした。

 

ゆうべ とても 悲しいうわさを聞いたから

とても きょうは ひとりきりではいたくない

 

街のはずれ おなじみのナイトクラブには

週末だから 恋人たちが溢れてる

 

ここに来れば いつだって 誰かに逢えるけど

今夜はただひとりで 踊りたい気分なの

 

この「ひとりきりではいたくない」のに「今夜はただひとりで 踊りたい気分なの」という箇所は、どっちなんだよ!じゃなくて、なんだかよく分かる気がする。別に誰かと会いに行くわけでもないのに、何だかひとりでいると寂しくて気が詰まって、街中に目的も意味もなく出かけたくなることってあると思うし、それが「悲しいうわさ」を聞いた後であれば尚更。

 この歌では、そんなひとりでいたくないけどひとりで踊っていたい、複雑な気持ちにフィットした場所としてナイトクラブが出てくる。興醒めなことを言えば、このコロナウイルス以降の、ナイトクラブが社会から過度に糾弾される過酷な現在において、そういった人々はどうやって、日々を凌いでいるんだろう。せめて、そういった人々の暮らしに何かいいことがあればってことを、ひとまずは考える。

 

5. アイドルなんて聴かないで / Negicco(2013年)

www.youtube.com 2010年代にもなって“小西メソッド”の新しい超名曲ができるとは思ってなかった。はじめてこの曲を聴いた時の「めっちゃThis is 小西康陽や〜ん!」という爆笑と感動が少し懐かしい。Negiccoも、実はこの曲以外そんなにしっかりと聴いたことない…。メンバーのひとりがスカートの人の楽曲を歌ってるとかいうのは気になる。

 自他共に認める2010年代随一の小西アンセム。アイドル業界において渋谷系、とりわけスタイリッシュで大げさで華やかなピチカートイディオムが注目されたことに対して、当の本人がしっかりと回答したところとなった。これって90年代に小沢健二筒美京平が曲を書くとか、そういう具合のやつなのかなあ。

 有名な曲なので今更「ここがいいんです」なんて言う必要があるのかよく分からないけど、ひたすら反復し続けるコピペなストリングスはかえって攻撃的な感じさえするし、3人のボーカルを適切にセクション分けして、そしてサビ前でそれぞれの持ち場→ざんね〜ん!という実に残念なコール、というダサさ寸前でアホ可愛い仕掛けをして、そして実にベタッとしたメロディでアイドルに「アイドルばかり聴かないで」と歌わせるこの姿勢は、まだまだ俺大御所になりたくない!的な尖った面白さを感じさせる。小西メソッドなのになぜか他のそれよりもより昭和っぽさが感じられるのも不思議。

 テキトーさ溢れる歌詞の数々。人生の苦味サイドの小西さんとは異なる小西さんが、久々に本当に生き生きと言葉を綴っている。こんなにのびのびとテキトーしてるのは小倉優子に提供した怪曲『オンナのコ♡オトコのコ』以来かもしれない。

 

アイドルばかり聴かないで だんだんバカになるんだよ

アイドルばかり聴いてると からだに悪いことだらけ

アイドルばかり聴いてると

体脂肪も 血圧にも よくないのよ

ざんねーん!!

 

 そして最後の締め。

 

ねえ、そんなにアイドルが好きなら

じゃあ、Negiccoにしてね

 

アホアホな小西節。的確に「ピチカートっぽい、昭和のアイドル曲っぽい」雰囲気を構築しながらもタイトルや歌詞で現代の流行に徹底的にメタを貼り、そして最後にこの脱力感。「見事な職人芸」の域を超えた「求められたものを120%出し切った」ような清々しさがこの曲にはある。人間・小西康陽が久々に繰り出した、最大級の“キャッチー”な贈り物。

 

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終わりに

 以上、ピチカート20曲とその他5曲でした。

 正直、今回取り上げた各楽曲をすでに知っている人からすれば、今更なことしか書いていないような気がしますけれども…。でも、もしPizzicato Five聴こうとするときに、その取っ掛かりとして、小西康陽さんという稀代のソングライターの、ファッショナブルでいるようでその実とても人間臭い、そしてその人間臭さがどこまでも真っ直ぐな性質の、その美しさと不思議さとを見出すと、彼の音楽が持つ、どんなに洒落た音楽をしても漏れ出してくるタイプの“過激さ”が感じられるかもしれません。

 小西さんの、インタビューにて現在製作中という全曲作詞作曲ボーカルの新しいスタジオ音源がいつの日か聴けることを祈って、『前夜』を聴いて楽しんで待ってます。

ブックレット読んで分かったけど「前夜」ってそういう意味かよ…。

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*1:ロケットマンの場合小西さん公認でこの曲のトラックがいじられてるけれども。『交響曲第4126番「ハトヤ」』はいじり方がガチすぎて笑う。

*2:なお日本語の『大都会交響楽』という題も、ムーンライダーズの1980年のアルバム『カメラ=万年筆』の最終曲が『大都市交響楽』なので、関連が考えられる。ムーンライダーズの方は実に無機質で神経質なミニマルの曲。

*3:アルバム冒頭3曲くらいが「いつものピチカート」感あってその辺が分かりづらくなってる…むしろSSW的なのが恥ずかしくて誤魔化すためのこういう曲順なのかな…?

*4:この後、次のアルバムでシングル曲のボーカルを他のシンガーに差し替えたり、そして最終作『さ・え・ら ジャポン』ではいよいよボーカルに頓着しなくなる、という流れがある。

*5:ソフトロックとして知られるユニット・Roger Nichols & The Small Circle Of Friendsの『Love So Fine』という曲をこの曲では、ホーンアレンジをはじめかなりそのまま持ってきている。渋谷系ではソフトロックは重用され、特に華やかなホーンとポップさがあるロジャニコの曲は人気が高く、コーネリアスの『THE LOVE PARADE』なんかもロジャニコ歌謡している。

*6:どうしてここで小西さん本人がユニゾンしないのかが逆によく分からなくなってくる。

*7:個人的にはこのコンピは何よりもbice『リリー オン ザ ヒル』という素晴らしい名曲に出会えたことがとても嬉しかったです。実際に小西さんプロデュースでアルバムもリリースされた(いいアルバム!)けど、その後お亡くなりになられました。合掌。