ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『The Beatles』The Beatles(1968年11月リリース)2/2

このサムネ画像は2018年のデラックスエディションのジャケ写真。

 ただ単に筆者が聴き返してハマり直す周期に入ったがために唐突に始まったこの歴史的名盤のレビューの後半です。前半は以下のとおり。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 この後半記事では、本作のDisk2の内容、そしてこの記事を書く発端になった「ぼくのつくったホワイトアルバムが1番いいんだ」系の話を書こうと思います。この手の曲順組み替えて楽しむ系でも世界最高級に楽しめるのが本作だと、いつになってもそう思います。

 

 

 

本編②:Disk2(合計47分17秒)

 合計17曲のDisk1の46分25秒よりも、13曲のDisk2の方が尺が長くなってます。主にある1曲のせいですが…。

 個人的にはDisk1よりもDisk2の方が好きです。LPでいうC面にもD面にも本作的なヤバさ、危うくも美しい魅力が宿っていると思います。7曲目までがC面、それ以降がD面となります。A面やB面はPaulの曲で始まりJohnの曲で終わる、という形になっていましたが、C面は始まりこそPaul曲だけど終わりはGeorge曲で、D面に至っては始まりも終わりも両方ともJohn曲となっています。特にD面は6曲中4曲がJohn曲で、3つある『Revolution』シリーズのうち2つを含んでいます。

 ちなみに、前回もそうだけど、各曲の演奏時間を合計しても上述の合計時間にならないと思いますが、それは合計時間はCDの方を、各曲の時間はサブスクの方を見て書いているためです。「どちらかに合わせろよ…」と言われれば返す言葉もない…。

 

 

1. Birthday(2:42)

 レコーディング中の思いつきと勢いでサクッと作ったと思しきPaul作のシンプルなリフの屈託ないロックンロールなパーティーソング。Disk1の始まり方よりもさらに軽薄で、A面に負けず劣らずなかなか重たいC面の名刺代わりに全くなっていない。とはいえ、じゃあこの曲を他のどこに置けばいいんだ?と言われるとアレだけど…*1

 日本では『志村けんのバカ殿』で使われたことなどで有名なメインリフの程々にワイルドでダンディな佇まい。低音と高音をオクターブで規則正しく重ねられたそのリフに本作的な不健康さは見出しがたく、しかしだからこその、演奏してる側はこれ楽しくはしゃげるだろうなあ、って感じの爽快感がある。核はこのリフをブルーズ展開させて楽しむセッション的な楽曲で、ボーカルはその合間に申し訳程度に・掛け声的に取り付けたもののようにも感じる。勿論その掛け声を力の限りマッチョな風に歌うPaulの意地も薄ら感じれるけども。

 この曲におけるドラムのタイトさ・歯切れの良さはしかし気持ちがいい。本人たちもそう思ったのか、このバンドには珍しくドラムソロ的なパートがあり、ただ頭打ちのビートを繰り返すだけだけども、テンション高めなタンバリンも合間って、それだけでそれなりに楽しげな引っ張り方になっているのは面白い。そこから先の展開もまた、なんかテンションだけで作ったみたいな趣があり、そこに各メンバーの婦人方のコーラスも入ってきて、いよいよこの曲のパーティーピーポーな風情は極まっていく。

 歌詞のどうしようもない軽薄さもまた、パーティーのためだって思ったら、これが正解なんだろうな、こんな楽しげな曲にこの時期のJohnのドロドロな歌詞載せてもしょうがないもんな…という気持ちにもなる。

 

きみの誕生日なんだって? ぼくも誕生日なんだ

きみの誕生日 みんなで楽しもうよ

きみの誕生日嬉しいぜ ハッピーバースデートゥーユー

 

…別に、何も考えなくていい歌詞だって全然あっていいんだ。ただ、次の曲の歌詞とのギャップがタチの悪いギャグかと思えるくらいにある、それだけなんだ。

 本作のレコーディングでも終盤に作られた曲で、延々と続いた険悪なレコーディングで疲弊していたバンドのテンションを無理矢理にでも高めるにはこういう曲も必要だったのかも知れない。Paulは歌詞をJohnと半分ずつ作ったと言っているけど、Johnは後年にはまるで冷め切った目で見るように「ゴミみたいな曲だよ」と言っている。どうかな…作ってる時はそれなりにはしゃいでたりしたのを後になって恥ずかしくなっちゃっただけなのではって気もする。

 

 

2. Yer Blues(4:01)

 「楽しいことしかないぜ!」みたいな曲のすぐ後にどうして「寂しい!死にたい!」て叫ぶ曲を置くのか…曲順そのもので躁鬱みたいなのを表現してるのか。本作特有の、どこまでがわざとでどこからが偶然なのか分からないカオスが、早速後半に広がっていく。John作の、当時のブルースロックブームを揶揄する、と嘯きつつ、むしろ「今のこんな状況のオレこそが一番重たいブルーズを歌えるんだ」と主張したかったんじゃないかな、とさえ思える、ハードで退廃感に満ちた強力なスローブルーズナンバー。この曲なんかを聴くと、ブルースってもしかしてオルタナティブロックになりうるのか、と思わされる。それにしてもこの曲もイーシャーデモに入っているのは不思議。

 カウントから入ったドラムのフィルの後にのっけから強烈で刺々しいJohnのボーカルが炸裂して、演奏が始まっていく。3連符かシャッフルかその辺が曖昧なこのタメが効きまくったグルーヴは実に格好いい。ボーカルに負けずささくれ立ったギターの、音色はザラザラしつつもルーズなフィーリング。えらくバタバタとフィルを入れるのがいかにもRingoスタイルなドラムもコミカルにならずのたうち回るかのようで、いい具合にロウな録音が緊張感をキープし続ける。これは、あえてスタジオの倉庫だった狭い部屋でライブ演奏したものを録音したことで、この曲特有の息苦しくなるほどのアンビエンスが得られたため、とされている。Johnのシャウトは強烈だけども、演奏も負けじと凄絶さがあり、バンド一丸となった良さがはっきりとある。どこか昔ながらなボーカルのリバーブの掛け方もまたこの「古くて新しいブルーズ」をよく雰囲気づける。

 それにしても、この曲のJohnのボーカルの鬼気迫る具合は本作でも最上級で、特にブレイクの箇所でのグロテスクな歌詞を叫ぶ様は、痛々しくも暗い爽快感がある。ほぼ全編に渡って叫んでいるようなものだから、彼の危うすぎる魅力に満ちたシャウトを大量に味わえる本作の中でも、この曲は格別の地位を持つ。怒気も皮肉も自嘲も虚無も、全てがない混ぜになったまま無理矢理押し通すように叫ぶ、そんな様がこんなに格好良く響く才能を持つ人間というのは数が限られているだろうし、それを才能ある人間がそのとおりやり通したということに、本作の他に替えようのない価値がある。当の本人は不幸のどん底を這い回るようで悍ましい思いをしただろうけども。

 この楽曲、そのまま重苦しく展開しても傑作になっただろうところ、ダメ押しのように途中からワイルドなシャッフルビートに移り変わり、同じ繰り返しに変化をつけてくるのが面白い。特にここ以降で聴こえてくるリードギターの、ひどくふらついたモジュレーションの掛かった具合がまた、この曲の混沌具合を深めていく作用をする。ソロ前半部ではたった2音を延々と変な音で弾き倒すだけという演奏方法*2といい、本当、本作の悪意に満ちたギターサウンドの数々は最高だ。このパートから元の重苦しいリズムに戻っての、オフマイクで叫び続けるJohnの様子を尻目に次第にフェードアウトしていくところまで、本当に奇怪な狂気に満ちてる。

 歌詞。そういえば元々ブルーズってのは黒人が絶望的な状況を歌い飛ばすためのものだったもんな、と思えば、この曲の歌詞に出てくる荒廃し切ったイメージもある程度伝統的なものでもあるように思える。でも、やっぱりそれだけじゃないようにも思えて、当時のJohnのどうにもならない状況を絞り出してるようにも聴こえてしまう。

 

鷲がおれの眼を突き ミミズがおれの骨をしゃぶる

とても自殺したい気分だ

まるでディランの「ミスター・ジョーンズ」*3

淋しい 死にたい でもまだ死んでねえんなら

ガール なんでか分かるだろうがよ

 

暗い雲が心に立ち込み 陰鬱な霧で魂が冒され

とても自殺したい気分だ

おれのロックンロールさえ反吐が出そうだ

死にてえ ああ 死にてえ でもまだ死んでねえんなら

ガール なんでか分かるだろうがよ

 

まさに「おれのロックンロールさえ反吐が出そうだ」の部分で曲のリズムが変わるのがめちゃくちゃ格好いい。自身のキャリアを半ば全否定するようなこの破滅的な様に、なんとも言いようのないカタルシスが生まれている。

 この曲、お気に入りだったのか、The Rolling Stonesが企画したTVショウ『Rock and Roll Circus』においては、彼の急造バンドその名も“The Dirty Mac”(薄汚えマック)という、あからさまにPaulをディスるような名前のバンド*4*5でこの曲を演奏し、色んな意味で壮絶な印象を残した。まあ実際はTVショウ丸ごとボツったけども*6

 

www.youtube.com

 

 余談として、この曲は日本で結構人気があるのか、複数のアーティストがカバーしている。特に椎名林檎のバージョンが有名か。彼女がRadioheadの影響をモロに受けまくっていた、とりわけオルタナ傾倒してた時期の演奏。ギターがまさに1990年代以降的なファズ全開なバーストの仕方をしている以外は、案外に素直なカバー、と思ったら中盤に捻ったパート挿入してみせるけども。

 

www.youtube.com

 

 

3. Mother Nature's Son(2:48)

 激しくアンコントローラブルな暴走をした前曲からこの落ち着いてポップな曲に繋がるこのまたしてもなギャップの激しさ。こういう曲ごとのギャップの激しさはC面が1番かも。曲としてはPaulによる、彼がインド修行で得た「異国の開けた空の感じ」を本作で最も自身のポップソングに活かし切った、小気味良いポップさとぼんやりした感覚が絶妙に合わさった名曲。本作の彼の楽曲でベストはもしかしたらこの曲じゃなかろうかとも思う。インド修行であまりそれっぽい得るものが無かった感じのある*7彼の、唯一リシュケシュみを感じさせる楽曲というか。

 冒頭のアコギの、どこか拉がれたような響きからして、独特の雰囲気に引き込まれる。メロディを聴かせたい音を1音鳴らしてあとは同じコードをかき鳴らすプレイが、イントロの穏やかなぼんやり感を生んでいる。そういう意味では『Dear Prudence』と同じ発想で、ルート音がしばらくずっと同じだったり、所々に少し不協和音的なコードも入れ込んだりして不思議に宙吊りな感覚にしているところなんか『Dear Prudence』と共通するコード感がある気がする。メロディはPaul作のこっちの方がずっとポップで優しげだけども。

 Paulの声がまた、彼の素の声の素朴な優しさがよく活かされていて、『Birthday』みたいな歌い方よりこういうのの方がやっぱ好きだなあ、と思わされる。特にこの曲のスキャット部分の、柔らかなホーンをバックに飄々と歌い上げる箇所には、彼なりの田舎嗜好が東洋的な自然観・哲学感と出会ったからこその自由さみたいなのが感じられる。『The Fool on the Hill』のメロディ感覚がもっと具体的な自然っぽさの中で花開いた感じというか。最後の少し気の遠くなるようなコード感の終わり方も良い。

 ただ、この曲もホーン以外の演奏はすべてPaul一人録音となっている。素朴さをいい具合にブーストするバスドラムもパーカッションも、すべてこれ以上足しも引きもできない絶妙さで録音されているけども、こういう”素朴な手作りの箱庭感”を出すには、もはや彼一人でやらないと成立しないものがあって、それがまた余計に彼の才能の悲哀を思わせるのかもしれない。

 歌詞についても本作のPaul曲で唯一、超然的な自然へのぼんやりした憧憬めいたものを感じさせるものになっている。「母なる自然の子」というタイトルからしてそう。

 

田舎の貧しい男の子として生まれた 母なる自然の子

一日中ずっと ぼくは座って 皆のために歌をうたってた

 

この草原にぼくを見つけてよ 母なる自然の子

ヒナギクが揺れて 太陽の下でけだるげにうたってる

 

なんとなく、この辺りにPaulの憧れる「牧歌的な歌うたい」の感覚が詰め込まれている感じがある。確かにロックンロールの才能もアバンギャルドのセンスも持ち合わせているけども、結局のところ、彼の本質的なところはこういう牧歌的なものを求めているんだろうか、と思える。実際、バンド解散直後に出したソロは、スコットランドの田舎の別荘で録音したものだったし。

 それで、Paulの場合、その「牧歌的な歌うたい」の姿は楽団というよりも、ひとりの気ままな弾き語り吟遊詩人みたいなイメージになる。そう思うと、「ひとり楽団」的なこの曲のどこか切ない感じに、個人的に不思議な帳尻の合い方をするというか。

 そういえば、Johnの『Child of Nature』はこの曲と被るからボツになった、という説があるけど、この時期の超エゴ人間なJohnがそんなこと気にするかな。単にいいアレンジが思い浮かばなかったんで見送ったのでは、と考えてる。

 

 

4. Everybody's Got Something to Hide Except Me and My Monkey(2:25)

 静かな曲の後にまたやかまし気味なこの曲が現れる。Johnによる、ただただ意味不明にアッパーなハイテンションのままバンドをハイテンポに躍動させ騒ぎ倒す、結果的にパンク黎明期の一曲に挙げられることもある楽曲。まあ流石にこれを「世界初のパンクロック」などとは言わないけども。でもそう言いたくなるくらいに突っ切った勢いのある曲でもある。勢いしかない、けどそれだけで十分、というか。そしてタイトルがやたら長い。The Beatlesでは一番長い。

 イントロ、ベチャッとしたドラムの背後で鳴る金属的に歪んだギターの荒々しいカッティングが、この曲のささくれ具合を端的に示している。この時点だと曲のテンポがどういうものか分からないけども、歌が始まっていくと、その強力に直線的な勢いのボーカルに導かれて「あっ、なんかよく分からんけど勢い一発な曲だ!」と気付かされる。実際、いつ頃からかメロディではなく語感とリズムの炸裂する感覚で歌を聴かせるようになっていたJohnの作曲の、これがひとつの完成形だろう。殆ど掛け声のようなボーカルが、マイペースなギターリフとえらく狂騒感を掻き立てるパーカッションの連打*8といった、それぞれの要素要素ではバラバラになりそうなものを、楽曲として纏め上げてる。

 そして、突如頭打ちのリズムに移行し、謎に調子良さそうに絶叫するJohnの歌もまたドライブ感に満ち、少しばかりかつての自信満々にロックンロールな雰囲気に戻ったようにも感じる。そして長いタイトルコールをリズミカルにファルセットも交えながら歌い終わる頃には、このけたたましい演奏のゴールが現れてくる。きっちりとキメのギターフレーズが入ってくるけど、これは誰発案なのか。この曲においてはこういうギターリフの数々を発案した人の方が下手したら作曲者としての功が大きくないか。そのくらいこの曲のリードギターは色々とキレッキレで良い。終盤の声さえ背景化した変に混沌としたブレイクからギターが飛び出して展開を制するところといい。

 歌詞では、えらくカモンカモンと連呼し、元々曲名も『Come on』とかで行こうとしていたけどシンプルすぎると判断されてこのキメのフレーズをそのまま引っ張ってきたタイトルになったという。

 

深くへ向かうほどハイにトベるんだ

ハイにトぶほど深くにイくんだ ああ おいで おいで

来いよ 悦楽だぜ 来いよ ヤベえぜ

来いよ気楽に 来いよ安易に

そうやすやすと もうやすやすと

皆なんか隠し事してやがる おれとおれの猿以外は

 

反対な言葉で対比をつけるのはThe Beatles後期のJohnに特有の作詞方だけど、しかし内容を読んでると、これをドラッグソングだと考えたPaulの気持ちもまあ分かる。『Happiness is〜』や『I'm so Tired』がバッドな時の歌なら、こっちはハイな時の歌なのか。

 本作通りの曲順だと、この曲のけたたましさそのものが、続く退廃美を極めたような名曲のイントロじみた働きをしているようにも感じれる。

 

 

5. Sexy Sadie(3:15)

 いやあ名曲!『I am the Walrus』で手にしてインド旅行で定着させた“非西洋ポップス的”なドロドロした無理矢理なコード進行や作曲者の怒りの感情が、奇跡的に耽美なピアノ主導のバンド演奏として毒々しくも可憐な纏りを得た、“腐り落ちる直前の美しさ”みたいなものが漂う、Johnのメロディアスサイドの名曲。多分初見では地味に思うかもしれないけど、もしかしたら本作一どころか、このバンドで彼が書いた曲の中で一番いいトラックかもしれない。殆ど破綻したようなコンセプトをよくもここまで美しく仕上げたもので、このバンドの新境地の極みのような楽曲だと思う。この方向で同じような曲はThe Beatlesにもソロにも無い。

 この曲の印象を決定づけているのはイントロから聴こえてくる、いかにもなくぐもった音質で耽美なコードを妖艶に連ねていくピアノだろう。おそらくギターで作曲したであろうこの強引なコード進行まみれの楽曲の、そのコードの怪しさを見事に拾い上げ、毒々しい花弁のような美しさに昇華している。Paulによるプレイで、苦難の末*9にこのアレンジに辿り着くあたりは伊達にコンビのソングライターやってきてないな、と思わせる。

 そのピアノが拾い上げることにした、この曲のコード進行に宿る病的な雰囲気については、以下のブログの記述が詳しい。

 

klg.blog.ss-blog.jp

 

歌い初めからして、ルートのⅠからⅦに直接、全て半音ずつずらされることの強引さ、不自然さ、気持ち悪さ。不健康極まる気だるさ。そこからのⅢmの、勇敢なようにも悲劇的なようにも聞こえる響き方。メロディの高揚する箇所はⅣ→Ⅴ7とベタな抜け方だけども、Ⅰ→Ⅶの強引さによる抑鬱感によってメロディ全体は規定され、いくらコーラスパートでⅠ→Ⅱm→Ⅲm→Ⅳとポップに抜けようが、メロディには何か誤魔化しようのないダークさがべっとりとへばりついてしまっている。そしてそれはコーラスの終わり際に、Ⅱ→Ⅱ♭→Ⅰ→Ⅶという、理不尽の極みのような半音下降で決定的になる。よくこんなひどく気色悪いコード進行にコーラスを付けたよこのバンドは。

 そして、その悪夢のような半音下降4連続の中でしれっとヴァースに戻るという、ヴァースとコーラスの切れ目さえグズグズにして円環構造にしてしまうこの曲構成自体の退廃感の極まり具合。この辺のことは本当に、上記のブログ記事が詳しく書いてくれているので、興味ある方はぜひ参照してほしい。

 この曲の物凄いのは、このようにどうやってもダルダルのグズグズになってしまいそうな、そんな強引さの極みのような構成とメロディのこの曲を、伴奏によって妖艶な気品さえ溢れた名曲として成立させたことだ。先述のピアノに、的確にタイトさとダルなフィルとを叩き込むドラムに、半音下降進行やヴァースにシニカルでファニーなポップさを宿らせたコーラスワーク、そして終盤で現れる邪悪なフレージングで怪しく羽根を広げるようなリードギターと、本当に全メンバーがこの曲の妖艶さに素晴らしく貢献している。

 そんな演奏の中だからこそ、Johnのボーカルも気だるさや攻撃性だけでなく、どこか英雄じみた、悲劇の殉教者じみた響きさえ感じられてくる訳で。元々は後述する具体的な怒りによる歌だったものが、不思議と神々しさのようなものさえ宿ってしまったのには、間違いなく、どんなに歪な関係性だったとしても、バンドとして一致団結した成果である。

 最後のコーラスが終わって以降の、本作で一番絶望的なまでの美しさを宿したJohnのファルセットに導かれたアウトロの、何か偉大なものが崩れ落ちていく、腐り落ちていくのを眺めているかのような、そんな感覚は、The Beatlesの楽曲がそれなりの数ある中でも、間違いなくこの曲でしか味わえない退廃美だ。絶妙に小節が完結しないまま連なっていく曲構成でフェードアウトしていく中、まるで延々と何かが腐食していく様を見つめ続けるかのような、実に後味の悪い、しかし妙に甘美なその緊張感が、この曲の名曲具合にトドメを刺す。これで3分半足らずで終わってしまうというのも、静かに驚きの理由のひとつになっている*10

 歌詞について。この曲はJohnが熱中していたインド修行を、ラビであるMaharishiが一緒に修行を受けていた女性に性的に迫ろうとしていたと聞いて幻滅した、その怒りこそが始発点となっている。当初ははっきりとMaharishiを罵る歌詞だったとも言われているけども、それをGeorgeが宥め、現行の“Sexy Sadie”なる架空の人物を対象にしたもっと一般化した歌詞になったという。それでもやはり、歌い掛ける対象に対する失望と悲しみに塗れた詩情が、この曲を何か劇的なものにしている。

 

セクシー・セディ なんてことしてくれたんだ

皆をバカにしてくれたな 皆を愚弄したんだな

セクシー・セディ なんてことやっててくれてるんだ

 

セクシー・セディ そんなの破戒じゃないか

総て白日の元に晒してしまって

総て白日の元に晒してしまってさ

セクシー・セディ 掟を破りやがった

 

ある晴れた日 世界は愛すべき方を待っていた

彼女は皆を目覚めさせるべく連れ添った

セクシー・セディ 全くもって偉大だね

 

セクシー・セディ 分かってたのか

世界は まさに貴方を待っていたのに

世界は まさに貴方こそを待ってたというのに

セクシー・セディ 分かってたのかよ

 

セクシー・セディ もう自業自得だろうさ

自分を何様だと思ってるんだ 何様だと思ってんだよ

セクシー・セディ もう身から出る錆さ

 

我らは手にした全てを彼女に捧げた

彼女と卓を囲む そのためだけに

ただの笑顔ひとつで総てに光を与えていた

彼女 近年稀に見る 偉大なる方でしたね

 

皆を愚弄しきってくれた 何様のつもりなんだか

 

歌詞を改めて読んで思うのは、これは新興宗教を脱会した元狂信者の失望の歌みたいなファナティックさじゃないか、ということ。後年、Johnはこの時のMaharishiに対する怒りを勘違いだった、事実誤認だったと謝罪しているけども、しかしこの時はこのように苛烈な歌にしてしまうぐらいにはキレていて、失望しきっていて、そのグチャグチャになった精神の動きが、この曲でははっきりと描写されている。一応架空の人物を通じて物語っぽくしてはあるけど、この失望感の生々しさは、割と本当にJohnは深く信仰に入っていたんだろうな、だからこそこんな激烈な歌になったんだろうな、と思わせる。そんな混乱した情念がこのように美しい歌に帰結するんだから、彼の持つ因果というか業というか、これは尋常ではない、と思わされる。

 この曲に影響を受けた後年の楽曲としてはもう、Radiohead『Karma Police』で決まりだろう。『OK Computer』期のあのバンドは、本作から様々なインスピレーションを得ていたけど、特に『Sexy Sadie』の気高くも腐り落ちるようなピアノの情緒を見事に継承している。クラシカルでシニカルな美しさというか。

 

 

www.youtube.com

 

そして、John Lennon的な気狂いっぽさを表現しようとする多くの人が、Ⅰ→Ⅶのコードや半音ずつ落ちていくコード進行を用いて、何か自身の中の気味の悪いものを美しく吐き出してやろうとする。この曲はそうしていつまでも、蛾の集まる夜の電灯みたいな存在感を怪しく放ち続けるんだろう。

 

 

6. Helter Skelter(4:30)

 やっぱりこのC面は振り幅がおかしい。静かに病みが広がっていくような前曲から急にこの、ヘヴィメタルの元祖のひとつに数えられるような、Paulなりに混沌とした轟音の音像をもって、パワフルを超えてどこか“やりすぎな狂気”を目指した感のある楽曲に繋げてしまうんだから。Paul曲特有のどこかもっさりとした感じはありつつ、そのまま無理矢理に膨張させてしまった感じが異様。ある意味、彼が最もバンドを巻き込んで実験に挑んだ曲かもしれない*11

 イントロの程よくケバケバしいギターの音から、マッチョモードではあるけどそれはそれとしてテンションがイっちゃってるPaulのボーカルの畳み掛けが聴こえてくる頃には、この曲のノリが分かってくると思う。本作のこれまでの割とザラザラするくらいデッド気味に録音された楽曲群と違い、この曲は楽器もボーカルもえらくモコモコした録音になっており、全体にリバーブが掛かってぼんやりしたみたいな音像のまま膨張し炸裂していく演奏は、本作のJohn曲の暴走っぷりと趣はかなり異なるものの、これはこれで異様な雰囲気を作り出している。ここにおいてはコーラスワークもまた大仰さの表現として巧妙にかつ混沌とした形で配置される。間奏等でブリッブリに歪んだギターの音や、中には謎の鳥の音なんかも飛び出してくる*12。ブラスも入っているらしく、これらはプロの演奏家ではなくJohnやローディーが吹いている。無茶苦茶な感じを出したかったんだろう。

 そもそもPaulは綺麗なメロディを書くためにコード進行に凝るところに本来の真骨頂があるけども、この曲においてはそういったものをまるで無視し、EをキーにしたGとAの3コードという、いかにも強引で厳ついコードだけで楽曲を成立させている。なのでメロディもあったもんではなく、どれだけ勢いで歌を演奏ごと叩きつけられるかに主軸が置かれている。ブレイクのたびにElvis Presleyの悪意に満ちた曲解じみた歌い回しを入れ、そしてコーラス部のタイトルコールの吐き捨てるような歌い方は、彼のキャリアの中でも独特のものがある。

 この曲のセッションのグチャグチャ具合を音源に収めようとしたのか、この曲は歌が終わった後のグチャグチャの演奏が一度終わった後も、噴き出し続けるギターノイズの中からまた演奏が立ち上がり、ワンコードのままグダグダに引き伸ばされるそれが一度フェードアウトし、またフェードインし、そして延々と続く様にウンザリが高まってきたところに再度フェードアウトと、そして急にこの演奏の終わりがフェードインしてくる。叩きつけるような演奏の終わりに叫ばれるのは延々叩き続けてボロボロになったドラマーRingoによる「I got blisters on my fingers!(指にマメが出来ちまった!)」というシャウトでこの曲は締められる。偶然録れたものなんだろうけど、この混沌の終わらせ方として実によくハマり、演出側もここの叫びをここぞとばかりに強調している。

 歌詞におそらく作者本人的にはそこまで丁寧な意味づけはしておらず、遊園地にあるすべり台の名前を曲名に持ってきて、そこに付された「混乱している」的な意味を増幅させる単語を半ば愉快犯的に添えたものと言えそう。

 

お前 おれにヤられたいのか どうなんだ

高速で落ちていってるが お前を傷つけやしないさ

教えな 教えな 答えを教えろよ

お前は恋人かもだが ダンサーじゃねえよ 気を付けな

 

ヘルター・スケルター(ああめちゃくちゃ)

ヘルター・スケルター(もうめちゃくちゃ)

ヘルター・スケルター(ちょうめちゃくちゃ)

 

他のいくつかの曲では性的な含みをこっそり出してたのに、この曲は案外露骨に出してるな。

 しかし、割とよくある愛欲の歌をえらく混沌とした音像で叫ぶその光景に、後年何か黙示録的な意味合いを見出してしまったCharles Mansonなどの影響により、この曲は、というか「Helter Skelter」という言葉自体にはなにか破滅的な意味合いが付されるようになった。岡崎京子のリタイア直前の長編漫画などその一例か。

 また、後の様式美的なヘヴィメタルと直接繋がるような曲でもない気もするけども、しかし轟音で重く押しつぶすようなその曲調にはそのような層からのリスペクトが捧げられており、様々なカバーが存在している。ハードロック〜ヘヴィメタルの層、という感じか。多分この曲のカバーだけでアルバムが幾つか作れるだろうけど、やかましいものになりそうだ。以下に代表的なものを列挙する。

 

Siouxsie and the Banshees(1997年)

・Mötley Crüe(1983年)

www.youtube.com

 

Hüsker Dü(ライブでカバー)

U2(1988年)

Oasis(2000年)

・Rob Zombie & Marilyn Manson(2018年)

www.youtube.com

 

 もちろん、これだけのリスペクトを受けた当の作者本人もライブで度々演奏し、もはや彼の代表曲のひとつ、ロックサイドでは一番の代表曲と言って過言ではないだろう。

 

www.youtube.com

 

 

7. Long, Long, Long(3:06)

 C面はこの曲をもって本当に静と動を延々と繰り返しきって終わる。George作の、アコギとオルガンを軸にしたえらく静かなワルツ調の曲のはずだけど、妙にドラムのフィルインのミックスが大きかったり、コーダの謎展開が不気味だったりと、全く一筋縄ではいかない変な曲。今回聴き返してて、この曲が一番見直しが進んだ。こんなにリシュケシュな雰囲気があるのに、イーシャーデモが存在せず*13、レコーディングも最後の方(10月)に行われている。

 まるで静かに煙が登るかのような*14アコギのフレーズとオルガンによって静かに始まるイントロは、延々とやかましかった前曲の後で、「あれっよく聴いたらもしかして次の曲始まってる…?」くらいに静かで、この曲はここを代表として全体的にえらく静かなミックスになっている。歌が始まっても、彼の細めの声が半ばファルセットじみた聴こえ方さえするくらい静かなメロディを歌っていて、エフェクトもミックスも本当に歌が空気に溶けて分からなくなりそうなくらいの扱いをされている。霊的な響きのオルガンと、何かひもじさにも似た慎ましさに聞こえるアコギには、どこか隠者の宗教めいた響きがある。

 しかし、それをところどころで覆すのがドラムのフィルインが入ってくる場面で、バタンドタンとなるそれらが何故か相対的にやたら大きな音でミックスされている。そして、この曲の掴みづらい感じの一因ともなっている、曲の真ん中に置かれた一回きりのコーラス的セクションにおいてはドラムは常駐し、いよいよボーカルも声に力を入れ、どこからともなくピアノも現れて*15、そしてこの曲の頂点である、いかにもGeorgeらしいシャウトともなんとも言えないフレーズまで上り詰めていく。この独特すぎるエモーショナルさ。

 その後また元の静かな曲調に戻って、この曲はそうやって萎むように終わるんだな…と思わせておいてからの、コーダ部分にスピリチュアルなノイズセクションみたいなのを挿入してくるから、おとなしい曲のはずだったのに、ここはやたらとびっくりさせられる。オルガンの音を軸とし、段々クレッシェンドするスネアロールと、気色悪いファルセット、そしてオルガンの上に置いてたら振動して音が鳴ったというワインボトルの音が、謎にヒステリックに響き渡る。こんな変な音でC面終わるのか。つくづく曲順考えた人の壊れたユーモアセンスが伺える。

 歌詞について。曲タイトルで連呼される”long”は曲中では普通に「長い」の意味で用いられるが、おそらくこれは「切望する」とのダブルミーニングになっている。そして、前提無しで読めば恋人に対する訴えに読めるであろうこの曲は、この後のソロ活動を思うと、どう考えても彼がのちに露骨に歌にするようになる、彼が信仰する“神”に対する訴えかけなんだと理解される。作者本人もそれをはっきりと認めている。

 

なんとも長い 長い 長い間だろう

どうして貴方を喪失し得たんだろう

私が貴方を愛していれば

 

実に長い 長い 長い時を経て 現在 私は幸福だ

貴方を見つけられた どれほど愛しているだろう

 

実に大量の涙 探し続けていた

実に大量の涙 無駄にし続けた ああ! ああ!

 

今は貴方を見ることができる 貴方は存在する

どうして貴方をおざなりになど出来ようか

どれほど貴方を求め 貴方を愛しているか

お判りだろう 貴方を求めている 愛することを希う

 

…あっ。歌詞書くのに時間が掛かった理由も、神の面前のつもりなんだとすれば、なんとなく理解できるというもの。タイトルはやっぱ『希う 希う 希う』という意味なんじゃなかろうか。歌詞のテーマといいメロディの妙に超然としすぎて取り留めない具合といい、すでに彼のソロ作品、それも割とわかりやすくポップで壮大な1stを通り越して、2nd以降の世界観に全身突っ込んでるような気がする。

 意外なところでは、Elliott Smithが最晩年にこの曲をライブでよく歌っていたらしく、彼の生前最後に人前で演奏された曲がこれだったということ。以下のブログ記事で詳しく書かれている。なんだか切なくなる話だ。

 

noname420.seesaa.net

 

www.youtube.com

 

それにしても実に様になったカバーだ。彼の自作曲との境界を全く感じさせない。彼もまた、The Beatlesのある種の曲の作曲技法や世界観を物凄く内面化していたひとりだっただろう。

 

 

8. Revolution 1(4:16)

 ようやくLP最終面。満を辞して、派生曲も込みで本作でJohnが最も時間を掛けたであろう楽曲が登場する。The Beach BoysでいうならSmile Sessionにおける『Heroes and Villains』に該当する。1968年の世界情勢等にインスパイアされまくったJohnが、その潮流に参加したいようなしたくないような揺れまくった思いを、ワイルドなブギースタイルに乗せて、案外ダルに歌う楽曲。本作のレコーディングセッションで最初に取り上げられた曲でもある。なのに、こんな位置に埋没気味に置かれている。

 満を辞してのはずなのに、このバージョンはなぜかボーカルがやたらとダルそうで、演奏もスロー気味なために、全体的にラフでフラフラした具合になっているのが特徴。なにせ曲の初めには演奏をトチった後再開するまでのエンジニアとのやりとりさえ挿入されている。演奏のメインはアコギで、シングル版ほど極端な歪みじゃないリードギターも入るけども、曲の主役という感じではない。次第にホーンなんかも入ってきて、またドゥーワップ調のコーラスもあったりして、雰囲気的には案外『All You Need is Love』と類似するものがあるかもしれない。あっちよりももっと雰囲気が弛緩しているけども。

 Johnのボーカルは本当に力が抜けている。なかなか求めてる声の感じが出ずに、挙句に寝転がって歌った、というエピソードが知られているが、そうまでして出したかったのがこの、ひたすらダルッダルな雰囲気だったのか。やっぱ“革命”の潮流を茶化すことが当初の目的だったのか。けど、おそらくはどこかで方向転換した。終盤、フェードアウトしていく段になって、ボーカルはどんどん自由になり、妙な調子で喘いでみたりなどを見せている。元々は10分を超えるトラック*16で、その後半部で見せるよりフリーキーなボーカル等がやがて、より革命の意識を内在化させた『Revolution 9』という鬼子に派生する。

 歌詞について。やっぱりこの曲を書いた時点では「1968年の様々な革命を眺めてるけど、暴動じみたそれに自分も参加するのは流石にちょっとね」がメインなのかと思わせる。しかし、その意思がより明確なシングル版に比べると、こちらでは「count me out」の後に「in」が付くことで曖昧になっている、というのはよく知られた話。

 

革命を求めているとお前らは言う ああ そう

まあ皆 世界が変わって欲しいとは思ってるよ

これは進歩なんだってお前らおれに言うよね

あっそう 皆 世界が変わって欲しいとは思ってるさ

 

だが お前らが話しているのが破壊についてだったら

おれはその数に入れるなよって話だ いや入れてもいいが

 

分からんか? 案外良くなっていくんだよ

 

この優柔不断!他のラインではっきりと暴動や狂信を否定してるくせに、なぜ「in」を入れちゃったのか。ユーモアのつもりなのか。彼のユーモアは時にどこまで本気か全然分からなくなって判別が難しい。

 

憲法を変革せよ ってお前らは言う ああそうかい

お前らの頭の方を変えろよって皆思ってるぜ

それは社会制度のことなんだってお前らはおれに言うね

ああそう 代わりにお前らの精神を解き放った方がいいぜ

 

でもさ 毛沢東の写真なんか持ち歩いてるんじゃ

どうしたって誰とも上手くいきっこねえよ

 

はい政治案件。当時の文化大革命批判なんだろうけども、このラインがあるおかげで現在(2023年)においてもこの曲は中国共産党支配下の中国では禁止され続けてる。そこの批判は代表的なタブーのひとつだもんな。実際は水面下でこの曲のコピーが出回ってもいるんだろうけども。

 それにしても、「“暴動”による革命」を否定してはいるけど、政治的であることについてはむしろ積極性があったことが、のちのソロ初期までの間の国際マルクス主義グループとの関わりなどに現れる。“変革”という意味の“革命”を否定している訳ではないんだなあ。

 

 

シングル版『Revolution』

 Johnは上記『Revolution 1』をシングルで出そうとしていたけど、上述のとおりあまりにダルダルなトラックであることや論争になりそうな歌詞などから、PaulとGeorgeが反対、結局、シングル向けにテンポを上げて録音し直すこととなり、それがより有名な、“1”も“9”も付かない方の『Revolution』となった。まあ結局よりポップで壮大でかつ政治について歌ってない『Hey Jude』のB面に回されたんだけども*17

 このシングル版を永遠のものにしたのは間違いなく、強烈に歪み切ったギターのイントロだろう。理想の歪みをなかなか得られなかったJohnがエンジニアを罵倒し続けた果てに、エンジニアが半ば自暴自棄になりつつ、コンソールの破損の恐怖と隣り合わせになりながら、ギターをコンソールに直結・プリアンプで二重にクリッピングさせて生み出したこのザラザラの極みのような音は、実にシンプルなリフながら、だからこそこの暴力的すぎる歪みでもって、The Beatlesの数々のサウンドトレードマークのひとつとしての地位を得ている*18

 このケバケバしさの極みなイントロから始まるシャッフルビートな演奏も、“1”の方のダルダルさとは比較にならないくらいキビキビしていて、輪郭がくっきりしている。特に伴奏が件の歪み倒したギターなものだから、なかなかに唯一無二な存在感を有している。ホーンなども加えられず、バンドの音でソリッドに纏まったそれは、パンク的というか、ハードコア的というか。Johnのボーカルもシャウト寸前くらいのテンションで歌い上げたりファルセットを用いたりと、彼のボーカルの魅力が実によく出ている。ブリッジ部のワイルドなブレイクも、シングル版の方が切れ味が遥かに良い。

 ただ惜しむらくは、現状のところこの曲のステレオ版ミックスについては、ドラムやベースが片チャンネルに完全に寄った、現代的にはちょっと違和感あるミックスしか存在していないっぽい。ヘッドホン等で聴くと特に違和感が大きい。なお2018年盤に収められたシングルアレンジ版のインスト版はリズム隊定位がセンターで左右にギターを振った現代的なミックス。おいこっちのミックスの完成版も収録してくれよ…って思った。惜しい。ていうかメインリフじゃない方のギターこんな動きしてたんか。

 地味に歌詞の「Count me out, in」の“in”も削除されて、The Beatlesは冒頭には加担せんよ〜ってはっきりと打ち出した形になっている。まあ共産党に対する政治的挑発はそのままでむしろ歌がパワフルになった分なんかはっきりしたけども。

 

 

9. Honey Pie(2:41)

 Paulによる、当時の彼らからしても「ノスタルジックな古の音楽」であったであろう戦間期ジャズ辺りの雰囲気を再現した、歌詞もついでにそんな演劇調な具合の楽曲。本作におけるPaulのアレンジの小器用さ・小洒落具合の極地のような楽曲で、流れで聴くとそのわざとらしいイントロからして浮いてる感じがするけど、でもここまで徹底的にやってしまうと、もはや本作のどこに置いても浮いてしまうだろう。だってこの曲だけ1920年代とかの雰囲気だもの。本作が様々な音楽ジャンルを含んでいると言及される際の“ジャズ”の要素はもちろんこの曲に由来する。

 もういかにもな具合の、古いレコード*19から聞こえてきたかのようなピアノの調べからして雰囲気満点。Paulのボーカルが1920年代にしてはくっきり聴こえすぎてるかなあ、ということ以外はかなり再現度が高い。わざとらしいレコードノイズからよりそれっぽく加工された声も聴こえてきたりしてるし、別に1920年代のレコードそのものを再現したい訳ではなく、あくまで“風”を求めて徹底的にやるのがPaul式。その後のホーンの入り方なども、実に「1920年代くらいのミュージカル主題歌か何かのレコード」っぽいフレーズ・音質をしている。

 面白いのが、それらの演奏に合わせてノスタルジックに気取って演奏されるジャズっぽいリズムギターが、実の所Johnによる演奏だということ。ここでの彼は実にいい具合にそれっぽい音色の、つまりハイを押さえた、いい具合にクシャッとしたアタック感のギターを弾いている。間奏等で聴こえるポロポロとしたギターソロも彼の手によるもので、本作で散々破壊神のように振る舞っていた彼からすると意外なくらい、この曲での彼のギタープレイはキュート極まっている*20

 歌詞まで「アメリカへ渡ってミュージカル歌手として成功した昔の彼女に自分の今の惨めさを訴え、戻ってきてと歌う情けない男の物語」という演劇調。徹底してるけど、こんな雰囲気あるアレンジを作り上げられる人間がそんな惨めな訳ねえだろ、っていう。もしくはそう突っ込まれるところまで含めての歌詞なのか。なお、本作の中で『Wild Honey Pie』とこの曲とで、同じ作者の中でタイトル被りしている。あっちと同じでこっちも“Honey Pie”という語に女性器の含みもあるんだったら、またなんとも底意地の悪い歌詞に思えてこないこともない。

 

イングランド北部で夜のお勤めをしてた彼女

今やアメリカで大成功を成し遂げた

それでもし ぼくの声こそを聞いてくれるなら こう言うんだ

 

…おそらく、やっぱりそういう意味の『Honey Pie』の意味も含まれてるなこれは。この歌の主人公、本当に元恋人か?ただの風俗嬢に入れ込んだだけの客なんじゃないか。ならばもっと情けない歌になるし、作者もそこまで考えてそう。本当に底意地が悪い。

 

 

10. Savoy Truffle(2:54)

  Georgeの本作4曲目。彼のシニカルなセンスがメロディやサウンドとして実にソリッドに展開された、鋭いギターとダーティーに歪まされたオーケストラの掛け合いも実に楽しい、シュールにしてかなりの突破力も有した名曲。本作の彼の打率10割では?

 タイトなフィルからどこか間の抜けたエレピのマイナー調が聴こえた時点で、実にGeorge Harrisonな雰囲気が一気に蔓延る。そこから先のメロディ展開の、George節としか言いようのない、ロックンロール的でもない、ポップス的でもない、破滅的でもなくしれっとしてるくせに、程よく冗談っぽくも毒々しい具合。変なところでブレイクしメロディが伸び、変なところで言葉数が増えてはサッと伴奏にその場を譲る。『Sour Milk Sea』でも『Not Guilty』でも十分すぎるほど発揮されていた彼の“ナチュラルに捩れ切ったメロディ”のセンスが、ここでは極大まで発揮されている。このメロディと大袈裟なオーケストラとが交互に鳴る様はどこかコントじみてさえいる。

 この曲のワイルドで間の抜けたオーケストラ演奏には、更にオーバードライブが掛けられて音が歪んでしまっている*21。この歪みがまたオーケストラの大袈裟さをファニーにデフォルメし、またこの曲自体のどこか金属的な質感を高めることに貢献している。

 変なメロディ・構成だけども、本作ではこの曲がもしかしたら一番R&Bっぽい雰囲気があるかもしれない。フィルは入るものの基本的にタイトなドラム、一応派手派手しく鳴らされるホーン、実に変な抜け方をするもののファルセットでファンキーに実行されるタイトルコール周り。もちろん普通のR&Bからは全然離れているが、それについて何の惜しむ気持ちも無いとばかりに、“George HarrisonR&B”が伸び伸びと展開されていく。それにしても、マイナー調のはずだけども、それでも随分といかがわしいコード感覚だ。ブリッジのじめっとした感じなど最高。

 歌詞ではチョコレートの名前が沢山出てきて、これは当時虫歯だったEric Claptonがそれでもチョコを食べるのをやめられなかったことを茶化す方向で書かれている。意味の無い、笑える曲にしたかったらしい。コントっぽいアレンジの雰囲気もやはり狙ってそうされたんだろう。しかし、勢い余って、レコーディング時にさんざん付き合わされてイライラしていたであろう曲と作者への悪口も忘れない。

 

食べるものっていうのはその人を表すよね

でももう甘味は酸味に変わってしまう

『Ob-La-Di, Ob-La-Da』なら皆よーく知ってるさ

でも教えてくれ給えよ きみはどこにいるんだい

 

すぐに歌詞を物語調にして小洒落た曲を作ってしまうPaulへの本質的な批評。こっちの方もキレッキレ。しかし、よくこんなん書いて喧嘩にならずに一緒にレコーディングできるなこの人たち…。

 なお、Georgeもまた、この曲くらいにソリッドな曲を本作よりも後のキャリアで書いてるかというと、特にソロ以降はむしろもっとカントリー的なものかAOR的な路線に進んでしまうので、この曲のタイトなおどけっぷりもまた彼のキャリアでは珍しいものだったりする。そしてそういうこともあって、ひょっとしたら本作のGeorge曲ではこれが一番いいんじゃないか。あと『Not Guilty』はややこの曲とキャラクターが被ったが故に、選ばれなかったのかなあと考える。

 この曲をもってJohn以外のメンバーの曲は終わり*22。あと3曲は全部Johnの曲となる。この曲順もまたなかなか思い切ってる。

 

 

11. Cry Baby Cry(3:02)

 John作の、半音下降コードの少し病んだ雰囲気も持ちつつ、どこかヒロイックな感じもあるフォーキーなメロディを丁寧にバンドで仕上げた楽曲、及びおまけ。メルヘンな歌詞のこともあって、本作の彼の楽曲の中でもとりわけ攻撃性や病みの薄い、平和な雰囲気のある楽曲かも。おまけの部分は作者本人は余計なものが付いちゃった、みたいな感じらしいけども。

 いきなりアコギ弾き語り*23のボーカルから始まる。この曲はこの最初のパートと、ルート音が半音ずつ下がっていく少しメロディに病んでる感じが覗くパートを延々と繰り返す構成になっているけども、その繰り返しの中で伴奏が地味ながらだんだんと盛り上げていき、同じメロディがどんどん凛々しく響くようになっていくところに面白さがある。本作でバンドマジック的なものが一番感じられるのは『Sexy Sadie』だと思うけど、この曲はその次くらいかも。

 最初はJohnのボーカルもシングルトラックで、アコギ等ただけの実にシンプルな味わい。そこから次第にハーモニウムが入り、最初の半音下降のブリッジパートでピアノと妙に唸るベースが入り、2回目のヴァースからいよいよドラムがどっしり入って本格的にバンド演奏になっていく。この辺りで伴奏の中心はピアノに移り変わっている。ボーカルもここからヴァースではダブルトラックになり、ブリッジではシングルとなり、パート間の対比が効いてくる。2度目のブリッジからはドラムがいかにもこのドラマー的なフィルを入れ始める。コーラスワークも次第に充実していく。3回目のブリッジから、本作的な歪み方をしたエレキギターも現れ、本作的な怪しげなフレーズをこのパートのみ被せていく。

 このように細かい演奏の変化がありつつも、曲構成の都合から最初から最後までJohnの歌が途切れる箇所がないことがまた、この曲での彼の勇敢そうに聴こえる感じに繋がっているかもしれない。彼は終始淡々と歌い、激昂することもダレてみせることも無く、淡々と途切れなく二つのメロディを紡いでいく。この淡々とした様だけだとつまらなかったかもしれないところに細やかな演奏の変化が加わって、この曲を味わい深いものにしている。

 曲が終わる時の最後のコードだけ暗いものに変わる、この時の切なさがなんとも言えない。ここの暗さと、マイナー調の“おまけ”、そして恐怖の『Revolution 9』が始まることで、初見ではこの辺のアルバム終盤は特に怖いものと思われがちになっているかもしれない。

 すでに述べたとおり、歌詞はどこかメルヘンな内容。作者が雑誌で見かけた「赤ちゃん、沢山泣いてお母さんに商品を買わせてあげなさい」という広告に着想を得て、そこにマザー・グース『6ペンスの唄』のイメージを取り入れたものらしい。

 この曲についての後年の作者本人の評価は「ただのゴミ」とのこと。残念…。

 

 

『Can You Take Me Back?』

 『Cry Baby Cry』本編が2分30秒過ぎに終わり、その余韻の中から出てくる、怪しげな弾き語り。これはPaulが『I Will』のセッション時に即興で作った楽曲で、マイナー調のアコギの爪弾きのループの上で延々と「Can you take me back where I came from」と歌い続けるもの。「元来たところへ返しておくれ」という、本作の次に来る“Get Back Session”の内容を偶然先取りしたような小唄だけども、そのどこか不気味な響きをここに挿入したことは、来る『Revolution 9』という恐怖音楽の前座として、不気味な雰囲気をより高めることに役立っている。なにせ、アルバムの曲順を見ても書かれていない、正体不明の楽曲なので。

 

 

12. Revolution 9(8:21)

 来た!『Revolutin 1』後半部のボーカル等を拾い出し、元々から前衛芸術家だったOno YokoとJohn主導で、1968年当時の“革命”の様子を含む様々なものを繋ぎ合わせた、実に混沌としてしかも長尺なサウンドコラージュ。これのおかげで本作終盤は実に聴くのを敬遠されることになる。最終曲がそれによって壮絶に割りを食っていると思われる。本作のジャンルの多様性が言及される際の“現代音楽”の要素は概ねこの曲由来だけど、しかしこれが本作に入ったことの意味・意義はともかく、これを好んで聴きたいかというと…。

 何から書けばいいのか。冒頭のお喋りから、ピアノ、及び左右に怪しく揺れ続けるタイトルコールの時点で、この曲が異様だということは伝わってくるだろう。怪しいテープコラージュ、どうやって出しているのかわからないサウンドエフェクト、雑踏の音が左右に極端にパンニングされたり、遠くで悲しげなピアノが鳴ってたり、急に謎のオーケストラ演奏がサンプリングされてリピートされたり等々、その要素をいちいち書き出しても仕方がないだろうけども、ともかく、それらはポップソング的でも、ロック的でもなく、かといって“1968年のドキュメンタリー”として聴けるものでもないし、結局のところ、この曲の真意は製作者2名にしか分からない。付き合わされたGeorgeについてはお疲れ様でした…としか。

 いわゆるミュージック・コンクレートということになるけども、実はThe Beatlesがこのようなトラックを製作したのはこれが初ではなく、1967年にPaulが電子音楽をテーマとした芸術祭に提供するべく、メンバーに様々な騒音を出させて作った『Carnival of Light』が先にある。そちらはより長尺で、冗長で、芸術祭で演奏された際には失望を招き、結局バンド名義でも、その後ソロ名義等でも発表されることは無かった。こういうものがThe Beatls名義で発表されたのはこれが唯一になる*24。Johnは一時期これをバンドのシングルで出そうと躍起になっていたようだけど、流石に止められた。

 『Carnival of Light』の段々聴いてると退屈になってくる感じと比べると、こちらは良くも悪くも緊張感はあるかもしれない。よりホラー映画的な音の出入りがヒステリックで、まるでThe Beatlesのレコードに何か邪悪な霊がノイズとして混じり込んだような異物感があり、とりあえずこれを聴いて快適な気分にはならない方向に、様々な手管が費やされているように思う。やりすごすには、音量を小さくするか、再生を止めるか、CD以降なら次の曲に飛ばすとか他の曲を再生するとかしなければならない。

 

 

13. Good Night(3:15)

 ホラー映画、というか悪夢そのもののような前曲がなにか終わった後に、これまた場違いのような壮大なオーケストラが静かに入ってきて、本作最終曲が始まる。John作の、しかし本作の彼の他の曲からすると信じられないほど優しいメロディを持った歌をRingoがその低い声で優しく歌い、それをそれこそ映画のエンディングみたいなオーケストラが包み込んでいく、本当にエンディングじみた仕掛けのされた楽曲。本作のジャンルの多様性が言及される際の“映画音楽”“ミュージカル”の要素の多くはこの曲由来かもしれないけども、果たしてこの要素必要だったか…?「とりあえずアルバムを終わらせる」ことに全てを捧げてるような感じがする。

 ここまで通しで聴くと、急にバンド作品がホラー映画になって、そして唐突にエンディング曲が流れ出して、演奏が終わって、「一体何だったんだろう…?」と困惑させるには十分すぎるほどの壮大さを持つ。せめて『Revolution 9』がなければ意味合いもまた少しは違っただろうに。

 少なくともこの実際にリリースされたトラックについては、演奏は全てGeorge Martinが書いたスコアに基づいてオーケストラが演奏し、メンバーは関わっていない。Ringoがひたすら歌い、そこに他メンバーのコーラスが付くわけでもない。豪華でかつ穏やかな演奏は、この曲の曲構成や間奏での絶妙に切なくなるコード運びなどを分かりづらくし、ひたすらこの曲に“エンディングの役割”を押し付ける。最後、ストリングス等が引いてフルート等が切なく響く中で「おやすみ」の声が響き、そして最後の1音をまたオーケストラで奏でる終わり方には、本当に演劇か映画か何かの要素しかなく、そこにThe Beatlesらしさというものは全く存在していない。それでいいんだろう。「とりあえずアルバムを終わらせる」ことに全てを捧げてる曲なんだから。

 歌詞は、実に子守唄。「おやすみ」を言うための、別に変に過激な表現もなく、詩的な表現もなく、ただただ夜になって、おやすみなさいを言う、それだけの歌。一説によるとJohnが半ば捨ててしまったような状況の自分の息子に捧げた歌では、とされていて、しかしそれを自分自身で歌わずRingoに歌わせたところに、なんとも複雑な感じがする。

 

もうおやすみを言う時間だね おやすみ よくお眠り

もう陽の光は消え失せたよ おやすみ よくお眠り

優しい夢がぼくに きみに 訪れますように

 

目を閉じて ぼくも閉じるから おやすみ よくお眠り

もうお月様が輝きだしてる おやすみ よくお眠り

優しい夢がぼくに きみに 訪れますように

 

“おやすみなさい おやすみなさい 皆さん

 あちらこちらにいる 皆さん おやすみ…”

 

 後述するけども、アンソロジーや2018年盤にはこの曲のアウトテイクが入っており、そちらの方がずっと好きかも。特に2018年盤に入ってる2つのテイクはどちらも甲乙つけ難いくらい良く、この曲の曲自体の良さを改めて思い知らされた。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・

全曲レビュー終わり

 以上、2枚のディスク合計して30曲、実に99分33秒の作品でした。

 全体を通じて思ったのは、本作はJohnの曲が半数近くを占めており、その限りにおいては(『Revolution 9』という異物を除いて)「バンド中心の、どこか神経症的なサウンド」ということで全然一貫性があるということ、そこにGeorgeの4曲も別に馴染まないこともない、ということ、本作がバラバラに感じられるとすれば、それは悲しいかな、Paulの充実しまくった”小洒落た楽曲群”とJohn曲の世界観との距離によって生まれてしまっているのかな、ということです。確かに、本作収録のJohnの13曲、Paulの12曲で、それだけ数あれば余裕でそれぞれのソロアルバムが作れるし、もしかしたらそうした方が収まりがいいのかもしれないくらいに、この二人の作風はかけ離れてしまっています。

 一方、ここに至るまで全然触れてきませんでしたが、JohnとPaulの二人は、このバンドが続く限りにおいては、クレジットはそれぞれ単独ではなく、一貫して“Lennon-McCartney”としてきた仲でした。二人でひとつのソングライティングチームだった訳です。とはいえその辺の事情はバンド中期にはかなりその実態が薄まっていましたが、しかし本作において、その関係性の実質的な破綻が明確化したところに、本作の関係性の崩壊、及び作風がバラバラだと表されるところの悲しみの核はあるのかもしれません。

 仮に、上述したとおりJohnの13曲だけで、Paulの12曲(+同時期のシングルだった『Hey Jude』)だけでアルバムを作ったら、おそらくそれはそれぞれのソロの最高傑作よりも良い作品になるのではないかとも思います。とりわけ運命論的に悲しいように思えるのは、このように二人の天才ソングライターの、その才能の絶頂が、同じバンドの中で、しかし全然違う方面で発生してしまったことなのかなと考えたりします。そんなこと、本人たちにどうしようもないことだけども。

 しかし、そんな才能の絶頂の二人がバチバチに楽曲を製作し収録し、併せて非常に上り調子のGeorge曲も4曲入って、やはりこのアルバムの曲のクオリティは半端ないものがあると言わざるを得ません。前編からくどいようですが、特にJohnの本作の楽曲には、彼の他のキャリアでは殆ど見られない、この作品でしか聴けないようなものがひしめいています。『Happiness is a Warm Gun』や『Sexy Sadie』みたいな曲が入った作品は、本当にこれしかないんです。本当に、異形にして偉業な楽曲たち!

 なので、今後彼らの歴史の見直しだとか、更なるリマスターとか、何かの発掘音源とかがいくらあったとしても、それによって本作のかけがえなさが失われることは、おそらく永遠にないだろうと思います。そんなこと改めて書かなくても世間の方も了知してるよという話ではありますが、今回ここまで書いてみて、改めて思った次第ではあります。

 ここまででもうひとつしたかったことは、後年のアーティストが本作からどのような影響を受けたか、後年の他のジャンルに繋がる種が本作にどのような形で潜んでいるかを、可能な限り書き置きしておきたい、ということでした。しかしどうしてそんなに後年への影響を本作に沢山見出せるのか、と考えると、意外と彼らくらいしかやってなかったような異形のトラックの存在だとか、手作りでチェンバーポップ的なものを作る時のお手本のようなトラック群の存在とか、そして本作にどこか通底するような、時代に左右されない性質の切なさ・虚しさの表現だとか、ひとつのバンドがバンド演奏で表現できる限界まで行ったその手法だとか、その辺に思い当たります。もしかしたらこういった性質は「いい感じの作品として纏めよう」という発想をメンバーが無視して、自身の才能の赴くままに突き進んだからこそ生まれたことなのかもしれません。そう言う意味では本作は「偉大なるバンドの、偉大なる屍」とさえ呼ぶことができるかもしれません。いやいや、まだ死んでなくてあと2作くらいアルバムあるけども。

 

 …でも、これだけ偉大な楽曲群を前に、それでも多くをボツにして1枚に纏めた方が良いって主張した、George Martinって男がいるんですよね。この記事、まだまだまだ続きます。本当にいよいよ趣味の話じみてきます。

 

 

本編③:ホワイトアルバム曲順いじりの素晴らしき世界

 

「とにかく・・2枚組は認めん・・The Beatlesのブランドに傷がつくからな・・」

という発言があったかどうかはともかくとして、この時期バンド側からのけものにされてたGeorge Martinのプロデューサーとしての意向は無視されて、結局は現実の2枚組作品としてリリースされた本作です*25

 しかし、上述のようなGeorge Martinの発言や思想は、ここに面白いテーマを生んでしまうこととなります。

 

「しかし、彼は一体、どのような1枚組アルバムにするつもりだったのか…?」

 

これが、終わりの存在しない問いへの入口になったのです。

 

 

司令:ホワイトアルバムを1枚組に収まるようにせよ

 こうして、多くの好事家ファン達による、終わりのない探求が始まっていきます。ある人は「George Martinの意思を継ぐ」などとして、ある人は「そもそもホワイトアルバムはゴミが多すぎる1枚くらいが丁度良い」などと言って、ある人は単純に「おれならこうするぜ」的な気持ちで、ある人は暇つぶしに、このチャレンジを行っていきました。

 どうやってこれをやっていくのか。レギュレーション(!?)を見ていきましょう。

 

・“当時の”アルバム1枚組サイズに曲数を抑える。

・“当時のLP”1枚がどれくらいの量が限界か考える。

The Beatlesのブランドが傷つかない作品にする。

・「さすがThe Beatles!」と永遠に言われる作品にする。

・メンバーの関係性もそれなりに考える(John曲のみで1枚とかは×)。

 

こんなところでしょうか。

 ここで重要となるのは、「結局のところ、トータル何分以内に収めないといけないのか」ということです。これについておそらく、このチャレンジ挑戦者間で様々な認識の違いがあるだろうと思います。それまでのThe Beatlesのアルバムの尺を見据えて40分未満を適正とする人、実際に出た2枚組だと1枚につきここまで入ったんだからと、47分くらいまでOKとする人、「いやでも当時、実際にこれくらいの長さのLPも出てる訳だからこれくらいまではいいっしょ(笑)」というノリで50分を超える尺までOKにする人等々。

 おそらく60分とかはさすがに当時でも今でも1枚のLP的にアウトなので、どれだけ伸ばしても50分ちょっとくらいかなあと思います。人によっては「50分も収録したら音質が落ちてしまう、45分くらいが適正だ」等々の意見もあるかもしれません。

 …それで、ここでひとつだけ、このような取り組みが時代を経て続けられてきた中で発生した一種のイレギュラー、勘違いレギュレーションを示しておくと、「1枚にすればいいわけだから、CD1枚の限界である75分が尺の限界でしょ(笑)」というもの。これはおそらく、本作がCDでも2枚組となってしまったことによって生じた誤解と思われます。実際にこのルールのもと1枚組の曲順を作ってる人を見たこともあります。別に揶揄するつもりは全くなくて、それぞれが思い思いに本作の曲順やら何やらに想いを馳せて組み替えを作って楽しむことそれ自体がなんか尊いことなんじゃないか、と思います。なにせ既に持ってる曲データの曲順いじるだけならどれだけやってもタダだから。

 

 

そもそも“1枚のディスクの尺”という考え方が現代では通用しないのでは

 近年ではサブスクの発達によって「ディスク1枚の尺」というものに捕らわれない、自由に大量の楽曲を製作してひとつの作品として発表する向きもあります。こちらの論で行けばそもそも本作だって『Julia』と『Birthday』の間でディスクを分ける必要も無いのかもしれません。そんなこと意味の無いことなのかもしれません。

 しかし、実際にそう分かれたものを聴いてきた人からすれば、『Julia』で一旦終わり、『Birthday』でまた始まることに意義を見出していることも大いにある訳です。もっと言えば、LP時代から本作を聴いてきた人であれば、『Happiness〜』で最初の面が衝撃的に終わり、裏返すと可愛らしい『Martha My Dear』で始まり『Julia』まで、もう1枚かけると今度は『Birthday』から始まって、訳の分からないキモい音を出す『Long, Long, Long』で終わり、裏返すとグダグダな空気の『Revolution 1』で始まり…という認識になる訳で、このように、どのように聴いてきたかによって、様々な受け止め方の違いが出てくる訳です。

 “1枚のディスクの尺”という概念が現代でどれほど無効化されたのかよく分かりませんが、実際に無効化されてない、そういうのに不可抗力的に拘りを持ったり魅力を感じたりする人もまだ十分すぎるくらい現代を生きているはずなので、ひとまずここでは「様々な価値観があるから、ディスク1枚に収めるのに拘るのもまた楽しいよね」という中庸な意見を示して終わりにします。

 

 

実際に組んでみようぜ!:組むときに考えてしまうこと

 とりあえず1枚の尺はこれくらいに決めた、じゃあ曲を並べてみよう!とする訳ですが、これをしていく中で、色んなことを考えていく、考えざるを得なくなっていく訳です。どういうことを考えるのか、本作に即してちょっと考えてみます。

 

1. 始まりの曲は何にしよう?

 本作に限らず、複数の曲を纏めたアルバムという形式を世に放つ際に、おそらくは大体の人は最初に先頭の曲を再生します*26。もし、その最初の曲が詰まらなかったら、聴く人は「うーん、これはもういいや他のやつ聴こう…」となってしまうかもしれません。逆に先頭の曲がいいと「またあの曲から始まる流れを聴きたいから再生しよう」という気持ちになりそうです。

 なので、先頭の曲のインパクトは重要です。小説なんかでも書き出しの数行で引き込むのが大事だと良く言われるのと同じくらいには、先頭は大事なんです。

 本作に翻って考えますと、本来の曲順の先頭だと『Back in the U.S.S.R.』が先頭です。まず、この曲をそのまま先頭に持ってくるか、もしくは別の曲を持ってくるか、という問題が発生します。正直『Back〜』で始まるのはなかなかいい感じだと思いますが、それをやめて他の曲を先頭に持ってくる必要性があるか、あるなら、どういう拘りでそれを先頭に持ってくるか。

 どの曲が1枚組本作の先頭に相応しいか。いきなり百家争鳴になりそうなテーマです。

 

2. 終わりの曲は何にしよう?

 始まりがあれば終わりあり。1枚をフルに聴き通す時間があったり、もしくは何回かに分けて聴くにしても、最終曲が終わればそこで1枚の作品が終わって、聴いてた人は他の作品を聴くかもう一度聴き始めるかもしくは別のことをするなどのために音楽を聴くこと自体を一旦やめるかする訳です。

 そういった、やはりピリオド的なタイミングで何の曲を持ってくるか、というのも大変重要なことになります。一般論的に言っても、アルバムの最終曲に拘りを持つアーティストは多々いて、たとえばラスト1個前の曲で盛り上げて最終曲はあっさり目で終わるのを好む人たちもいれば、最後の曲にこそ最も重要な曲、最も壮大な曲を充てる人もいます。場合によっては「先頭の方にいい曲を集めたいから、終盤は尻すぼみになっても構わねえや」と考えたとしか思えない曲順の作品なんかもあったりしますが、この辺の考え方の多様性。

 …とはいえ、個人的には最終曲も、どういうテイストで作品を締めるか、どういう後味・余韻を残すかという意味では、拘ってみたいところ。実際の作品では『Good Night』が、ディスクごとに見るならば『Julia』もそれに当たります。他の曲を最終局に持ってくるなら、それで終わることでどんな作品の余韻が生じるのか。これを考えるのもまた楽しいです。

 

3. LPのA面の終わりの曲は?B面の始まりの曲は?

 知らない人は知らないかと思いますが、先ほどからずっとLPLPと言っているレコード盤というのは、表裏の片面ずつ曲が入っていて、表に入ってる曲が全部終わったら、裏返してまた針を当てて、裏面の曲の再生が始まっていく構造になっています。

 これが面倒臭いことか味わいがあることかはともかくとして、もしLPであればこのように、2度先頭曲が現れ、また2度最終曲が現れることになります。なので、上記1.と2.をもう一度考えることになります。

 これもまた、A面終わりは「一旦の終わり」、B面始まりは「リスタート」の意味合いになってくるので、作品全体の戦闘や終わりとは微妙に異なり、この微妙に異なることがまた、思考の制約や可能性を広げてくれることになります。

 

4. 曲の繋ぎを考える

 ランダム再生をしていると稀に、「あれっあの曲が終わった後にこの曲が始まるとなんかいい感じじゃなかったか…?」ということが起こるかもしれません。それは何らかの要因によって、曲同士の繋ぎがいい感じになったからだと考えられます。

 じゃあ、どういう具合に曲が連なると“いい感じ”が生じるのか。これはもう、これについて考え始めますとそれだけで幾つもの文章が出てくることになるだろうし、結論も思いつかないことなので書きませんが、でも「ある曲の後にある曲がくると、なんかこんな事情からなのか、すげえいい」という現象はあります。たとえば、本作C面で見せたうるせえ曲と静かな曲の極端な繰り返しもまた「なんだこのギャップの連続は?」と聴き手に思わせるために仕組まれたんじゃなかろうかと思います。

 本作における繋ぎの、ヒントというか、これをどう使うべきかについてひとつだけ述べると、本作はいきなり歌から始まる曲が幾つかあります。というか1名、明らかにイントロ作りをサボってる天才がいます。これらをどの曲の後に持ってくるかは、ひとつの見せ所な気がします。

 

4.5. 『Back in the U.S.S.R.』と『Dear Prudence』について

 曲のつなぎに関連して言及しておくと、この2曲についてはクロスフェードになっているため、繋げて並べないと再生した際にSE等に違和感が生じます。こればっかりはもうそういう風にミックスされてしまっているのでどうしようもない…SEに違和感が出てもいいから単独で並べるか、違和感を避けるべく大人しく2曲連続で並べるか。

 その気になればDTMで加工して違和感がない形にそれぞれの末尾および冒頭をいじることも可能かもしれません。しかし、これはサブスク上でプレイリストを作る際には使えません。

 なお、一昔前は『Bungalow Bill』と『While My Guitar〜』の間にもそういうのがありましたが、2000年代のリマスター以降解消されました。こっちはクロスフェードじゃなかったもんな、地味にナイスな仕事。

 なお余談ですが、こういった事情からプレイリストが自由に組みづらくなることから、さまざまな作品のクロスフェードで「これはやめてほしかったかもなあ…」と思ったりすることも時々あります。クロスフェードさせるというのは、曲順を聴き手が自由に変えれなかったLP時代ならともかく、カセットテープ以降になると、組み替えをしづらくする、場合によっては元の作品通りの順番で聴くことを聴き手に要求する、ある種のアーティスト側のエゴの一形態だと言えます。これの一番凄かったのはやはりPrinceの、アルバム全曲を1曲扱いしていた『Lovesexy』でしょうか*27

 

5. A面B面それぞれのテーマを考えてみる

 こんなことは本作だからこそ考えてしまうのかもしれませんが、楽曲がある程度の数連なることでLPの片面を埋めることになります。ということはその面はそれらの楽曲によって印象付けられる訳です。

 これも一般論ですが、作品によってはA面とB面で明らかに作風を分けているアルバムなんかもあったりします。CD時代になっても、前半と後半で雰囲気を変え、間にインタールード的な曲を置くとか、もしくは3部構成だとか、そういうのはたまによく見ます。

 翻って本作、どう考えてもこの辺の事情を考えた曲の並びとしか思えません。A面については冒頭2曲からの、本作の異様さを強烈にかつ手短に叩きつける『Glass Onion』で、キャッチーな『Ob-La-Di, Ob-La-Da』『While My Guitar〜』と来て、強烈で有無を言わせない『Happiness〜』で終わる。B面はPaulの器用さ全開な楽曲を中心に割と小品中心で仕上げ。C面は静と動のギャップの連続。D面はJohn様の余り曲連発。結果的にこのようになったのか分かりませんが、それぞれかなり印象的で、特にB面の小品連発は何か意図があったとしか思えません。

 そういうところをリスペクトして、曲を並べる際に「このサイドの意味は〜」などと考えてみるのもまた一興かもしれません。

 

6. 誰の曲を何曲ずつ入れるか

 上述のとおり、Lennon=McCartneyコンビはほぼ解消気味な状況の中で、収録曲が偏りすぎるのは、両方とも絶好調な本作においてはちょっとバンド内権力闘争の感じが露骨に出ちゃって剣呑に思われます。George Martinになったつもりで、ある程度バランスは取ってみたいところ。

 あと、実際の本作でも頑なに守られた「George Harrison曲は片面に1曲」の不文律をどこまで尊重するか。

 

7. 『Hey Jude』や『Revolution』は入れるか

 同時期に録音されシングルリリースされたこの2曲も含めて曲順を考えるかどうかもまたかなり話が変わってくるファクターです。この2曲のシングルはこのバンドが出した全シングルの中でも最上位級に強力な代物で、どちらも流石のポップさと面白さを含んでいます。同じ時期の録音物なので、サウンド的にも親和性は十分あります。

 しかし、『Revolution』はともかく、『hey Jude』は7分超えてるから、尺が…。

 

8. 収録から外してしまう曲について

 これが人間関係的にも楽曲の出来的にも半端なく難しかったから、本作はCDでも2枚組になってしまうくらいの大作になったんでしょうが、という、案外、最も難しいのはこの点ではなかろうかと思います。

 特に、本当にLP1枚組に拘るならば、絶対に何かしら誰かから「それを外すなんて信じられない…」と思われてしまうことをせざるを得ません。LP1枚の尺に拘るということは、本作の1枚分の楽曲を捨てるということになります。それだけ捨てて、本当に必要のないものだけ捨てた、という風にはまずなりません。

 100人いたら99人は捨てるだろうなあという曲は確かにあります。8分を超えるアレです。だけど100人に1人くらいは、アレこそ本作に必要な要素だと、ひねくれてか正気かわかりませんが主張する人がいると思います。

 この項目については、絶対に正解はありません。だから、作った曲目を何かしらの方法で公表する限りにおいては、誰かから何か思われたり、場合によっては非難されたりするかもしれないことをある程度自覚して公表するしかありません。まあ、何かを公表すること自体、そういう性質のものかもしれませんけども。

 …とはいえ、それでもやっぱり本作の『Not Guilty』外しだけはどうにかならんかったんか、と思う次第。あそこまで完成させといて…。

 

 

具体的な曲順例

 ここまで様々などうでもいいこと書いといて、じゃあお前はどういうリストを作るのか、という話になると思うので、以下に幾つかリストを作ってみました。複数個も作るのはずるいと思いますが、特に最後に挙げる2つが本命ですので、ご了承ください。最後2つはSpotifyで作ったプレイリストも添付します。

 

 

①Johnの曲だけホワイトアルバム

 いきなりレギュレーション違反のリストから。だって13曲もありゃ作れるんだもの。

 

●A面(約22分)

1. Revolution 1 

2. Yer Blues

3. Everybody's Got Something to Hide Except Me and My Monkey

4. I'm So Tired

5. The Continuing Story of Bungalow Bill

6. Cry Baby Cry

7. Julia

 

●B面(約24分)

8. Happiness Is a Warm Gun

9. Glass Onion

10. Dear Prudence

11. Sexy Sadie

12. Revolution 9

13. Good Night

 

Total Time:約46分

自己評価:

 まあこんなもんかなあ。最後にRingoがゲストボーカルで参加みたいになっちゃってるのに違和感。それにしてもこの人本当に本作でまともなイントロ書いてなさすぎる。

 この並びなら、『Revolution 1』よりもシングルの『Revolution』の方が冒頭がキャッチーになっていい気がした。作者的には拘りがあったであろう『1』の方だけど、やっぱりルーズすぎる感じがある。

 

 

②Paulの曲だけホワイトアルバム

 こっちも12曲もあるから可能。Lenonn=McCartneyコンビは解消や〜。

 

●A面(約16分)

1. Back in the U.S.S.R.

2. Ob-La-Di, Ob-La-Da

3. Mother Nature's Son

4. Why Don't We Do It in the Road?

5. Rocky Raccoon

6. I Will

 

●B面(約16分)

7. Helter Skelter

8. Martha My Dear

9. Wild Honey Pie

10. Honey Pie

11. Blackbird

12. Birthday

 

Total Time:約31分

自己評価:

 分かってはいたけど、本作中のPaul曲だけ集めるとなんかやや地味というか、インパクトが弱く感じちゃう。『Ob-La-Di, Ob-La-Da』も『Helter Skelter』もあるのに。この曲の並びだと『Hey Jude』まで入れたくなる。本作で彼がどれだけ「アルバム内のちょっとした上品な佳作」を沢山書いていたかの、皮肉な証明みたいになってる。でもそれでもクオリティはすげー高え。

 個人的に『Why Don't We Do It in the Road?』から『Rocky Raccoon』の繋ぎがいい感じだと思った。

 

 

③攻めすぎてブランドに傷つけちゃうパターン

 幾ら何でもこれは商品としての価値放り投げすぎでしょ…となるのを目指しました。

 

●A面(約24分半)

1. Revolution 9

2. Don't Pass Me By

3. Helter Skelter

4. Yer Blues

5. Piggies

6. Why Don't We Do It in the Road?

 

●B面(約24分)

7. Everybody's Got Something to Hide Except Me and My Monkey

8. I'm So Tired 

9. Wild Honey Pie

10. Happiness Is a Warm Gun

11. Long, Long, Long

12. Back in the U.S.S.R.

13. Dear Prudence

14. What's the New Mary Jane(take 1)

15. Revolution 1

 

Total Time:約47分

自己評価:

 まあ冒頭は出オチみたいなもので。それにしてもA面とB面で3曲も違うのに大体時間が一緒って、アレがどれほど長いかが分かる。

 A面の曲目やらナビ型のカオスな感じはなかなかいいと思った。でもそういうので1枚まるまる通そうとするとPaulの方の曲が全然足りないことに気付かされる。『Carnival of Light』でも持ってくるかと思ったけど公式リリースされていないのでサブスクにない。変な曲を求めるとJohnのばっかりになる。やっぱこの時期の彼相当ヤバい奴なんだな。

 

 

ここから3個は真面目に作りました。

 

 

④LP1枚に(ギリギリ)収まるサイズ

 最小公倍数的な?無難すぎるかもしれません。

 

●A面(約24分)

1. Back in the U.S.S.R.

2. Dear Prudence

3. Glass Onion

4. Ob-La-Di, Ob-La-Da

5. While My Guitar Gently Weeps

6. Happiness Is a Warm Gun

7. Blackbird

8. I'm So Tired

 

●B面(約26分)

9. Honey Pie

10. Yer Blues

11. Mother Nature's Son

12. Savoy Truffle

13. Helter Skelter

14. I Will

15. Sexy Sadie

16. Revolution 1

 

Total Time:約50分

自己評価:

 彼らのここまでのアルバムが多くて14曲入り40分未満だったことを思うと少々長いけども、このくらいの尺なら幾らかの音質劣化はあるかもしれないけど、当時のレコードでも制作可能な長さだろう。この内容ならJohn7曲Paul7曲George2曲となる。JohnとPaulの特にいい曲を取りこぼさないように入れようとしたら、この長めの尺でもGeorgeはやっぱ2曲が限界かもしれないなと思わされ、またRingoが歌う曲を入れる余地もなくなったけど仕方がない…。

 A面にdisk1の曲を、B面にdisk2の曲を入れてますが、大事そうな曲を選んだら曲順はともかくこのくらいの曲目になるのでは…?と思った。本作、半ば無理やりにメンバーが2枚組を通さなかったら、『Not Guilty』1曲では済まないかなりの数の「完成してるのにボツになったトラック」が生じることになり、そのボツの中にたとえば『While My Guitar〜』やら『Happiness Is〜』やら『Helter Skelter』やらが入ってしまうとなんか歴史変わってしまわない?という懸念がある。この曲目によってボツになった曲にももったいないものは沢山あるけど、その「もったいない」をLP1枚サイズで最小化しようとすると、こんな曲目にならざるを得ないんじゃないかと思ったり。

 そしてそうなるとどうしても、小品だらけの史実B面曲を多く削ることになる。割とたわいもない感じのある史実B面だけど、特にPaulの器用さがよく出た場面だし、これだけガッツリ削ってしまうと寂しさがある。あのB面の曲目がどこかたわいもないままに存在できたこと自体が、史実で2枚組になったことの功績かもしれない。

 逆に、LPサイズ1枚で史実のB面からどの曲を持ってくるかで、その人の嗜好が微妙に分かるかもしれない。この場合は嗜好というよりも、まあ外せんのはこの2曲か…くらいで選んでるけど。

 冒頭4曲は史実どおりだけど、この4曲の流れはやっぱ普通によく出来てる。特に3曲目の後味の悪さから突如空元気じみてパンパカパーン!と飛び出してくるイントロが実に唐突で、このくらいのギャップあってこその『Ob-La-Di, Ob-La-Da』だって気がする。

 後半のdisk2からの選曲は曲順入れ替えまくり。時間的にもう1曲ねじ込みたかったので、史実B面から短い曲を1曲だけサルベージしたもの。

 あと、このブログの筆者は曲順を考える際にラスト前とラストの流れを重要視しすぎる悪癖があるので、本作で真面目にプレイリスト組むと大体『Sexy Sadie』がラスト前に来ます。この、本作的な毒々しさと、それと隣り合ってるからこそ成立するようなギリギリの美しさとが、この曲を本当に特別なものにしてると思う。

 

open.spotify.com

 

 

④リシュケシュをコンセプトに据えたアルバム

 コンセプトがネタ狙いっぽく見えるかもしれませんが、これは結構ガチなつもりです。あとこれも尺はLP1枚に収まるサイズ。

 

●A面(約24分)

1. Child of Nature(From Esher Demo)

2. Back in the U.S.S.R.

3. Dear Prudence

4. Mother Nature's Son

5. The Inner Light(From Single『Lady Madonna』)

6. Across the Universe(from 『Anthology 2』)

7. Junk(From Esher Demo)

8. Long, Long, Long

 

●B面(約24分半)

9. Ob-La-Di, Ob-La-Da

10. I'm So Tired

11. While My Guitar Gently Weeps

12. Blackbird

13. Sexy Sadie

14. It's All Too Much(from Yellow Submarine Soundtrack)

15. Good Night(Take 10 with a Guitar Part from Take 5)

 

Total Time:約48分半

自己評価:

 本作に漂う“異形さ”というのはどこを源泉としているんだろう、と考える。彼らのサイケ時代の音楽も何かと変な感じはあったけども、本作における不穏さはいよいよ深刻で、そしてこれより後のこのバンドの作品にはそれほど現れてこない性質のものだ*28。音楽的に考えるとこれは、まだサイケな頃には残っていた西洋ポップス的な伝統から、なんか外れてしまったような調性だとか、節回しだとかのせいなのかなと思う。

 そうなった理由の一端は特にJohnの楽曲で濃厚に感じられる薬物の影響なんだろうけども、もう一つ考えられるのがインド修行の影響だ。まさに非西洋な地における瞑想の修行は、まずGeorgeにおそらく深いところの影響を与え、そして特にJohnに、修行中に別途学んだアルペジオパターン共々、如何ともし難い影響を与えた。このプレイリストは、特にそういう、このバンドの東洋嗜好をもとに本作を再構築したらどうなるか、という考えから発展させたものだ。

 …とはいえ、純粋にリシュケシュの修行の結果生まれた世界観だなと思える楽曲は残念ながら多くはない。修行が終わった後のイーシャー・デモで取り上げられた修行中に作られた楽曲群を見ても、これそんな修行の影響あるかあ?って楽曲は結構ある。特にPaulはメンバーでも修行に対して熱心になれなかった感じがあり、露骨に影響下にあるのは『Mother Nature's Son』1曲だけだろう。むしろ彼の場合先述のとおり、遠い異国の地にて、かえってアメリカンだったりヨーロピアンだったりな楽曲を作っている。上記リストのPaul曲は、まだなんとなく世界観が近い感じかなあ…と思われたようなそうでもないような曲をチョイスしている。

 このプレイリストの主役はやはりJohnと、そしてGeorgeである。史実の本作には収録されていない、修行に行く前に収録された2曲や、更には1967年に録音されしばらくボツな状態が続いた1曲を入れて、George曲を4曲にしてみた。イーシャー・デモまで引っ張り出して作った無理矢理感あるプレイリストだけど、これを軸に、改めてこの二人の作曲者の音楽感や修行の影響などを見ていく。

 

●Johnにおける東洋嗜好及び修行の影響

 元よりGeorgeとは別の角度から彼は東洋と接点を持ち始めた。1966年11月にのちの第2の伴侶となる小野洋子と出会っており、そこから彼なりの東洋趣味が始まる。そこからの影響が最初に表出したのは、インド旅行前に録音されたけども完成しなかったために発表されなかった『Across the Universe』で、『Lady Madonna』のセッションにて録音されたこの曲には「Jai Guru Deva Om…」というコーラスの文句があり、これはサンスクリット語のもので、この時点から超越瞑想に対する興味が、曲の歌詞にしてしまうくらいにあったことが分かる。

 果たしてインドに行って、熱烈に修行に励み、瞑想のしすぎで精神が消耗し(『I'm So Tired』)、死にたくなったりもし(『Yer Blues』)、また瞑想のしすぎで危うくなった同行者への呼びかけをしたり(『Dear Prudence』)、修行中も小野洋子と文通して想いが募っていたりなどして、ともかく曲ができまくった。1967年の彼の寡作さを思うと、この楽曲量産体制は間違いなく修行によって受けた影響が出ている。同行者から学んだ怪しげなアルペジオパターンも彼の変わりつつある世界観に非常にマッチした。音楽的には、これがインド修行で得た最もそれっぽい雰囲気のある“成果”だろう。

 しかし先述のとおり、事実ではなかったにせよ、彼らのラビであったMaharishiの女性修行者への性的な接触疑惑が彼を失望させた。Paulくらい修行に対してドライな態度だったならまだしも、相当に修行に入れ込んでた彼にとってそれは、致命的な破綻だったんだろうと思われる。その怒りが、本作で聴ける幾つもの攻撃的な楽曲の源泉のひとつのようにも感じられるし、まさにその失望と悲しみが破滅的な美しさに昇華された『Sexy Sadie』という名曲を生んだ。

 …そして、彼のインドからの影響的なものは、本作でおおむね終わってしまう。これより後はもっとドラッギーだったり、アヴァンギャルドだったりな方向に傾倒していく。ソロで完成させた『Child of Nature』の改題『Jealous Gay』に最早インドの感じはしない。

 なお、上記リストの最後に入れた『Good Night』の別バージョンは、本作の彼の最もメロディアスな楽曲を、本作的なアルペジオとメンバーのコーラスにて演奏したバージョンで、2018年版に含まれていたもの。記載から、何か後から手を加えてこういうトラックを作ったことは分かるけど、ともかく素晴らしい。妙なモジュレーションが掛かったまま爪弾かれるアルペジオの奇妙だけど綺麗な雰囲気はどこかDirty Projectorsじみているものがある。このアレンジでも間奏の絶妙に切なくなるコードワークがはっきりと聴き取れる。

 

●Georgeにおけるインド修行“前”と“後”

 Georgeがインドに傾倒しはじめたのが音楽として表面化してきたのは1965年のバンドの作品『Rubber Soul』で彼がシタールを演奏して以降のこと。映画『Help』の撮影時に偶然出会ったRavi Shankarの作品に興味を持ち、それは次第に単なるサウンドの付け足しに終わらず、もっと楽曲的にも精神的にも深く潜っていく。『Revolver』における『Love You To』で露わになった「インド音楽のポップス化」のスタイルは、続くアルバムの『Within You, Without You』で大成し、1968年初頭録音の『The Innner Light』は3曲目にして、2分半という尺のインド音楽の中に十分にポップス的なものとしても受け取れるポップなメロディと展開の付いた優れた楽曲となり、メインソングライター二人からも賞賛され、彼の曲ではじめてシングルのカップリングに採用された。

 インド修行前の彼にとって、インド音楽や東洋哲学というのはある種武器のようなもので、圧倒的な天才二人を前に自身のアイデンティティを保つために戦略的に用いている節もあるものだった。『The Inner Light』では老子を引用し、また1967年に制作され結局1969年『Yellow Submarine』まで発表されなかった『It's All Too Much』も、ドラッギーなポップ感覚の中でドローン的なサウンド効果が重要視され、また歌詞における世界認識も東洋哲学的な統合感覚が見られる*29。それらは明確にJohnとPaulという天才二人と自分を差別化するために“用いられた”節がある。

 インド修行の後、普通に考えたら彼からもっとインド的なサウンドの楽曲が出てきそうなものだけど、しかし事実は逆で、修行後に彼が完全にインド音楽な楽曲を発表することはなくなった*30。思うにこれは、彼が修行を通じて、それまでの「自分の立場のためにインド音楽や哲学を“利用”してきた」自分を何かしら反省し、そして信仰とはもっと内面的でなければならない、神はサウンドや哲学として利用するものではなく、心の底から乞い願うものなんだと認識を新たにしたからなんだろう。どこかの段階で『Sour Milk Sea』や『Savoy Truffle』のような独自のメロディセンスを確立させ、インド音楽に頼らずとも自身のアイデンティティを表現できるようになったことも大きいだろうけども。後にスワンプロックと神への希求を融合させるというよく考えたら訳の分からない手法で大作ソロアルバムを作り上げてしまう訳だけどそれはまた別の話。

 そう思うと、彼がインド滞在時から作っていたにも関わらず歌詞が間に合わなくてイーシャー・デモに間に合わず、しかし本作録音中に完成させた『Long, long, Long』は、彼が初めて真に神を求めることに成功した楽曲なのかもしれない

 この辺の流れが分かるよう、上記プレイリストではこの辺の楽曲を全部ぶち込んでみた。強引かもしれないけど、結果として全体のインドっぽさは向上したと思う。

 

 あと、このプレイリストの前半にアコギメインの曲を集めてみたけど、アコギってのもまた、様々な地域のトラッドな雰囲気を表現するのに向いた楽器だなあ、と思わされる。Paulの『Mother Nature's Son』のイントロの感じとか、実に憎らしいくらい的確に「インドのどこかの果てしない大地」の感じがする。

 

open.spotify.com

 

 

⑥もうCD1枚に収まればいいから別作品にしてみたい曲順

 一番最後だけど、このプレイリストを作ったことが今回このアルバムのレビューを書こうと思った端緒。LP1枚まで曲数を削るということを諦め、ともかく何の制約もなくホワイトアルバムをまるで別の作品のように、CD1枚に収まるギリギリのサイズで聴けるものを作ろうと思って、それなりに納得する出来になったと思う、自信作。

 一応LPだと2枚組になる長さなんで、それぞれの面での曲順にもなるようにしてる。なんか妄想の極地みたいな。

 

●A面(約18分)

1. Good Night(Take 10 with a Guitar Part from Take 5)

2. Everybody's Got Something to Hide Except Me and My Monkey

3. Helter Skelter

4. While My Guitar Gently Weeps

5. Wild Honey Pie

6. Happiness Is a Warm Gun

 

●B面(約17分)

7. Honey Pie

8. Cry Baby Cry

9. Mother Nature's Son

10. Long, Long, Long

11. Blackbird

12. Julia

 

●C面(約19分)

13. Back in the U.S.S.R.

14. Dear Prudence

15. Glass Onion

16. Savoy Truffle

17. Ob-La-Di, Ob-La-Da

18. I'm So Tired

19. Piggies

 

●D面(約20分)

20. Not Guilty(From『Anthology 3』)

21. Rocky Raccoon

22. I Will

23. Yer Blues

24. Sexy Sadie

25. Good Night(Take 22)

 

Total Time:約73分

自己評価:

 いちいち「これはこういうことです」と自分の意図を説明しないと気が済まないのはよくないことのような気がするけど、説明していく。

 2018年版に収められた2つの『Good Night』完奏テイクがどちらも素晴らしくて、それで始まりそれで終わる、リプライズ的な感じの構成にしよう、というのが軸。どちらも本気で素晴らしい。先述した実に本作的なギターアルペジオとメンバーのコーラスで彩られたバージョンも実に素敵だけど、それと匹敵するくらいに、Take 22のピアノ伴奏のみで歌うバージョンは素晴らしい。ピアノソロで静かに慎ましく演奏されるこの曲の、まるでどこの一昔前のスタンダードナンバーだろう、と思わされるノスタルジックさには、この曲順の最後の方に配置した『Yer Blues』→『Sexy Sadie』という痛々しい混沌を受け止めるに最適な穏やかな美しさがある。

 A面について。ともかく史実と距離のあるものにしたかったので、2曲目から比較的やかましい曲を3連続で並べてみた。んで、Pixiesのカバーのこともあるし妙な良さがある『Wild Honey Pie』を『Happiness is〜』の前に挟んでみる。おふざけな感じから急に異形の曲の歌い出しが来るのでいい具合にゾクっとすると思う。

 B面について。完全にアコースティックサイドとして1面割いてみた形。『Honey Pie』の独特の浮き具合は1曲目適性が高いと思う。この辺の曲の並びで少しでもリシュケシュな雰囲気がでればなあという感じ。『Dear Prudence』が『Back in〜』とクロスフェードするから切り離しづらいのはこういうとき少しもどかしい。『Blackbird』と『Julia』を並べるとPaulとJohnそれぞれの作風の対比がシンプルな形でよく出ると思うので結構いいと思う。

 C面について。切り離しづらい2曲からの『Glass Onion』の史実どおりな流れは予定調和かもしれないけどやはりそれでも構わないくらいに優れてる。後述の理由で持て余してしまった『Savoy Truffle』をこの後に続けて、次に来る『Ob-La-Di, Ob-La-Da』を事前にセルフでディスる構成。『Ob-La-Di, Ob-La-Da』はなんというか、さまざまな人からバカにされることも良さのうち、みたいな魅力がある。この曲ではしゃいだ後に『I'm So Tired』を持ってくるのもレコーディングエピソード的な流れ。最後はまたなかなかにエグい皮肉の詰まった『Piggies』で締め。この面、皮肉っぽい曲多いかもしれんな。

 D面について。満を辞して、『Not Guilty』をここに置く。

 

・Not Guilty(From 『Anthology 3』)(3:22)

 100テイク以上も録音しておいて結局アルバムに収録されなかったこの曲は、まるでカビ臭い裏路地か何かに迷い込んでしまって妙なテンションのペテン師に絡まれてしまった、みたいな雰囲気の、マイナー調のシャッフルのリズムをした楽曲。えっ何このジャンル不明ないかがわしくて薄汚れた感じの音楽は…何からインスピレーション受けてこんな曲思いつくんだ…。

 ともかくメロディ展開の意味不明さからしておかしい。短いタイトルコールの後、コードが半音ずつ下がる本作によくあるやつを経て、囁くようなのに妙に言葉数多くリズムを作るメロディの、飄々として胡散臭い具合。メロディが展開する箇所のファルセット混じりのメロディも実に変で、演劇的であるようなコメディ的であるような、ともかく間違いなく、JohnもPaulもこんなメロディ書かないし書けないかもなって域に達している。

 この曲のAnthology収録版はどうも元々のレコーディングセッションの色々を張り付けて作られたらしく一部ファンから評判が悪いらしいけど、でも2018年版に収録された元のTake 102*31よりもずっと纏まってると思うので、以下そっちを参照する*32

 イントロから聴こえてくるキーボード類はこれはハープシコードらしく、どっちかというともっとクラシカルな用法がイメージされるこの楽器にあって、妙にゲスな使われ方をしていてこの時点でなんかおかしい。変な曲構成によく寄りそうギターのラインも的確で、歌があるところの畳みかけるような言葉数とギターの出入りする関係性がよく練られている。メインのギターリフの妙に重くダウナーにねっとりした具合もまたどことなく厭世的な響きがあって嫌らしい。

 間奏で、実に唐突に三拍子にリズムチェンジする。これもう本当に必要性がなく唐突に挿入されるので、逆にこの違和感しかない挿入もまたこの曲の“嫌がらせ”じみた性質を強化している*33

 終盤の、イントロのコード感を繰り返しながらギターが延々とメインリフを妙なひっかけを加えながら繰り返していく様は、この曲の実にいい具合のグダグダ感を完成させるにふさわしい、実に的確なプレイに思える。この感じでオチも何もなくフェードアウトしていく、この嫌らしさが本当にこの曲らしい。

 歌詞の方も、なんらかの人間関係の不全、自身に故意ではないにしろ不義理を働く者に対する当て擦り的な内容。どうしてこんな歌詞をわざわざインド修行中に書いた…?と思わないでもない。ビートルズ事情は複雑怪奇。

 

まあ罪じゃないよ お前の邪魔になったってさ

だってお前 一日中ぼんやりに費やしてさ

罪じゃないさ ぼくは休養したいわけでなく

お前のベストを盗みたい訳でもない

賢く済ませたいし 手に入るものが欲しいだけさ

お前の年老いた頭には本当に申し訳ない

でもさっき聞いたとおり それは罪じゃない

 

実に刺々しく陰険。しかしこうして読むと、本人が後年弁解してるとおり、必ずしも当時のメンバーの仲違いの状況を歌ったものだけでもないようにも思える。以下のインド要素が入ってくる最終ラインとかなんか自分自身に対する諧謔が入ってる感じだし。

 

罪じゃないさ

バケモノじみた格好で シク教徒多数と仲良くしても

罪じゃない ガラムマサラ臭い道でお前を迷わせても

お前のりんごのカートをひっくり返す気なんてない

手に入るものが欲しいだけさ

誤解させ続けたのは本当に悪かったね

でもさっき聞いたとおり それは罪じゃないさ

 

仮にこの歌詞に他メンバーの揶揄が入ってたとしても「おれ自身もディスってるから別にいいだろ」と言いたげな雰囲気。全方位皮肉という名のちょっとしたテロでは。

 この曲は散々書いたとおり史実ではボツとなり、1979年のソロアルバムにて録音し直されたものがようやくリリースされた。そちらはもっと曖昧でアダルティックなエレピをメインとしたAORな仕上がりになっていて、ムーディーである代わりに、バンド版のいかがわしさは取り除かれている。同じ曲でもアレンジで見事に変わるもんだなと。バンド版の方がずっと好きだけど。

 

 このプレイリストには『Not Guilty』も含めて5曲のGeorge曲を入れてみた。『Not Guilty』もPaulの『Rocky Raccoon』もマイナー調で、また『Yer Blues』に『Sexy Sadie』とどこか暗いコード感が多いけども、中和剤の『I Will』と、そして全てをノスタルジックな地点に返してしまうピアノソロ版『Good Night』の存在によって、いい感じの聴き終わった印象が残るんじゃないかと期待してる。

 ひとまずは、これが今思いつく限りの、史実といい具合に距離を保ちかつ何か新しい価値が出てこないかなと期待して作った「ぼくのさいきょうのホワイトアルバム」だ。もう自分で作っといて聴き飽きたからいいか悪いかも分からん。いかがでしょう。

 

open.spotify.com

 

・・・・・・・・・・・・・・・

終わりに

 これで本当に終わりです。前編後編合わせて8万字くらいのえらい物量になってしまって、特にこの後編の本編③は丸々蛇足な気もしましたが、でも一番書きたかったのも本編③なので、仕方ないか…という感じ。

 本作以外のThe Beatlesのアルバムについて仮に自分が何か書くことがあったとしても、おそらくここまで長くはならないと思います。勿論、本作が圧倒的に曲数が多いため必然的に長くなることはあります。しかし何というか、本作には、このバンドにおいても本作にしか見られないもの、本作でしか聴けない異様なものがひしめいていて、そしてそれらこそが、本作の寿命を非常に長いものにしてるんじゃないかと思います。

 考えてみれば、バンドの実質最終作な『Abbey Road』が典型的な“後期ビートルズサウンド*34を有しているのに対し、本作はあまり“後期ビートルズ”で括れる特徴を持っていない気がします。かといってサイケ全開な“中期ビートルズ”にも当然該当しないし、本作は本当にあくまで“ホワイトアルバム”でしかないんじゃないかと考えます。

 そしてそのことがどこかスノッブな“ビートルズ信仰”を離れて、もっとオルタナティブサウンド解釈を後年なされるようになった理由なのかと思います。要は、別にThe Beatlesの作品として評価してるんではなく、「1960年代のノイジーでダークで破壊的なサウンド手法」のひとつとして、Velvet Underground諸作やThe Stoogesなどと同じように扱われてるんじゃなかろうか、ということ。それこそが、バンドの中でも独特の地位をこの作品に与え続けているんだと思います。

 本作を作って、バンドの寿命は間違いなく縮み、バンドが不幸になったんだと言えばそうかもしれません。でも、じゃあ出さなかった方がいいかというと、インドであれだけの膨大な曲を書いて、それを沢山捨て去ってしまうことの方が不健康だし、「楽曲を生産しリリースする機巧」としてのバンドにとっても残念なことでしょう。出した作品に対して本人たちがどれほど納得しているかはまちまちでしょうが、そんなこともお構いなしに、後年多くの人たちから、特に少しアウトサイドな人たちから愛される曲を多く含んだこの作品がこのようにリリースされて、本当に良かったと思います。死ぬほど重苦しい空気にどうにか耐えてリリースに漕ぎ着けたスタッフの方々にはいくら感謝してもし足りないかもしれません。

 このアルバムがまたどこかで誰かの想像力を掻き立てたりすることを祈って。

 それではまた。

*1:個人的にはJohn肝煎りだったであろう『Revolution 1』と曲順を入れ替えるといい感じになるような気もしてる。でもこうなると次が『Yer Blues』は重すぎか…。

*2:ブルースのソロ弾き倒しを皮肉る意図があったのかもしれない。結果としてここがこの曲を「オルナタ化したブルース」みたいに思わせる1番のポイントになっていると思う。

*3:Bob Dylan『Ballad of a Thin Man』に登場する人物の名前。その歌の中で色々と奇妙な目に遭いながら、でもお前自身には何が起こってるか分からねえだろ?と煽られ続ける。

*4:また、当時ブルースロックバンドとして台頭していたFleetwood Macを揶揄る意味もあったとか。こっちの方が本命なのか。

*5:メンツがすごい。リードギターEric Clapton、ドラムにJimi Hendrix ExperienceのMitch Mitchell、そしてベースに何故かKeith Richardsという、ドリームバンドじみた布陣。

*6:ボツになった理由は様々言われるけども、有名な説としてはこの時のThe Whoの演奏が凄まじく、主役のはずのthe Rolling Stoneの印象をかき消しそうなほどだったから、というもの。確かにここでの『A Quick One』の演奏は物凄く映像映えする名演で、ぜひ一度見てみてほしい。“無敵のバンド演奏”ってこんな感じだなあって思える。

*7:彼の場合、本国から遠く離れた地で、むしろ望郷の念か何かからか、自身のルーツとなった過去のポップス等への憧憬みたいなものの方が本作ではよく聴こえてくる。これは彼に限らず時折あることで、The Rolling Stonesがジャマイカで録音してむしろ都会的な『Goat Head Soup』が出来たり、The beach Boysがオランダで録音したのにカリフォルニア三部作みたいな曲の入ったアルバムを作ったり、といった具合。その場所に行ったからってその場所っぽい音楽性を得るわけでもないんだな。Paulも後年、ナイジェリアのラゴスまで録音しに行って出来たのが『Band on the Run』ということもまたある。

*8:このパーカッションもよく聴くと、最初のサイクルでは金物系、次のサイクルではシェイカー系と色々と使い分けられていて、かなりざっくりした曲な割には妙に凝ってるところが面白い。

*9:アンソロジーや2018年盤で聴けるこの曲のアウトテイクはかなり完成版と異なるギター中心のアレンジで、それはそれで悪くは無いけど、でもここまでの華々しい毒々しさに至るには完成版のピアノアレンジが欠かせなかっただろう。

*10:とはいえ、一時はこの曲も8分超えくらいになっていたらしく、それをここまで自然でかつ引き締まった形に凝縮したのも何気に凄い。

*11:この曲は何かとエピソードが多くて、全部を本文中に書ききれない。着想の発端が作者がThe Whoの新曲『I Can See for Miles』について「これまでで最も激しく妥協ない曲」とコメントしたのを受けて、じゃあもっと激しくしてやると思って制作したとか、レコーディング中は実に混沌とした雰囲気になり、全楽器のボリュームをフルにして録音したとか、レコーディング中にGeorge HarrisonはArthur Brownというパフォーマンスが極端なシンガーの真似をして火のついた灰皿を頭にかぶって走り回ってた(???)とか、延々と続くセッションで心底辟易した上でRingoの有名な最後の叫びが出たとか、元々のもっとブルースめいたバージョンでは27分ものジャムになったテイクも存在したとか。2018年盤にはその初期バージョンの13分近くのテイクも収録されているが、リリースされたものと違いすぎる。よくこのいかにもブルースなバージョンから製品版まで発展させたな…。

*12:この辺のカオスな音像に後のヘヴィメタルに見られるような流麗なギターソロの感じは全く見出せないので、この曲が果たして言うほどヘヴィメタルの元祖と言えるだろうか、という気持ちもある。

*13:曲自体はインド滞在中から書いていたらしいけど、歌詞が完成したのがレコーディング中の8月だった模様。

*14:実際に録音時にお香を焚いていたらしい。

*15:ここのピアノがいい具合にスワンプロック的な泥臭い感じがあって、もしかしてThe Bandの影響なのか…?と少し思わせる。録音タイミング的にこれは十分影響が間に合う。

*16:これは2018年版デラックスエディションに収録された。本当に延々と演奏が続いていく中に『Revolution 9』で出てくるボーカル等が登場する様は中々に異様。

*17:シングル版『Revolution』は過激な音の鳴りに実にポップで勢いがあってシングルA面のポテンシャルは十分に高かったと思うけど、流石に『Hey Jude』相手は分が悪い。Paul一世一代の名曲だからな。

*18:このイントロを参照した例がまた世界各地にあり、日本でもたとえばPUFFY『オリエンタル・ダイアモンド』などでモロなやつが聞ける。

*19:この際「The Beatlesのレコードも十分すぎるくらいに“古いレコード”だろ」って言うのはおやめください。

*20:2009年に出たモノミックス版ではギターのテイクが別のもので、こちらではより流麗なギターソロが聴ける。こんなのも弾けるのかこの人(失礼な)!

*21:これについて作曲者は演奏陣に謝り倒したと言う。でも、まさにこれが自分の欲しいサウンドなんだとも力説している。

*22:『Cry Baby Cry』終盤の別曲はPaul作曲なので、もしかしてそこでバランス取ってるつもりなのか…?

*23:元々はアコギ主体ではなくオルガン主体のアレンジだったらしい。

*24:ソロだと、本作と同じ年の5月にJohnがYokoと録音した『Two Virgins』が本作とほど近い11月にリリースされている。これをちゃんと聴いたことはない。Johnはその後も幾つかの現代音楽的作品をYokoとのコラボとしてリリースしている。

*25:しかし、そしたら一体誰が、本作の曲順を決めていったんだろう…というのは気になるところ。相当議論(ケンカ?)を重ねただろうことは予想されるけども、結果として本作の曲順はいいと思うし、考え方もなんとなく理解できる部分がある。

*26:サブスクの時代になってこの辺の前提が崩れている部分もあるだろうけど、そういうの考え出すと話が先に進まなくなりすぎるので…。

*27:しかしサブスクではいつの間にかそれぞれの曲単独で聴けるようになっていた。便利になったなあと思いつつも、「死人に口なし」だなあとも思った。

*28:『I Want You』『Because』辺りに残り香を感じなくもない。

*29:それにしても『It's All Too Much』のあまりに1967年のハイライト的な素晴らしい出来栄えと、その割にリアルタイムでの埋もれすぎた存在感は一体なんなのか。

*30:楽曲中の一部セクションでインド音楽的な要素を挿入してくることはある。ソロの『Living In The Material World』やら『Brainwashed』やら。

*31:謎なブレイクが入ったり、そもそもメロディの切り方が違ってたり、色々な差異がある。

*32:別にこのバンド自体存命時からそういう切り張り手法のレコーディングをよくしてたし。

*33:もっとも、このパートのせいで演奏しづらかったらしく、やたらとテイクを重ねる原因になったけども。

*34:これについても記事を書こうとして挫折したことがあって、ひょっとしたらそのうち書くかもしれない。ピアノ中心のサウンドだとか、まったりして威風堂々としたテンポとか、ドラムのフィルとか色々。