ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『Revolver』The Beatles(1966年8月リリース)

 ホワイトアルバムに関する長すぎる記事を書き終わったので、折角だからこっちのアルバムについても書いとこう、と余勢を駆って書くものです。おそらく1990年代以降、これとホワイトアルバムが“The Beatles”という看板をなしにした上で最も多くのリスペクトを受けている作品でしょう。

 歴史的意義と現代的な影響力とは基本的に異なるものであって、歴史的意義の方は本当に歴史の中に埋もれてしまって「ふうん、今はそれが普通だけど当時はそうなんだ」みたいになってしまいます。現代的な影響力というのは、歴史に埋もれずに、いつまでもある種の異形として奇しくも魅力的に輝くものだと思われます。そしてそういう意味において、ホワイトアルバムとこれがこのバンドで最もそういう作品なんだと思われます。

 折しも2022年にはデラックスエディションが出て、そこでステレオ版についても徹底的に現代的な聴きやすさの基準でリミックスされ、この名作に唯一残ってた聴きにくい点が解消されました。これ相当聴きやすくなったので、本当に何の違和感もなく「どこかの時代の、かなり尖った感じの音楽」として本作を聴けるようになったかと思われます。

 

songwhip.com

 

 

 

アルバム概要

 本作も大変有名なアルバムなので、改めて概要を語るなんてしなくてもいいのかもしれません。例によって脱線も色々と含まれてますので、適宜読み飛ばしてください。

 

 

当時革新的で、今でもラジカルさを感じられる楽曲群

 今日において「歴史的名作」としてではなく現代の音楽と並行して聴いても何かエッジを感じれる」部分があるからこそ、本作やホワイトアルバムはこの歴史的に伝説的なバンドの各作品の中でも特殊な評価のされ方をしているんだと思います。

 本作で実験的に行われた様々な仕掛けーーボーカルへの強烈なエフェクト掛け、逆再生、ドローン音や抽象的なエフェクトの多用、えらくバタバタと挿入されるドラムフィル、アグレッシヴに反復するベースライン等々ーーといった性質は本作の後に様々な録音物に用いられ、現代でもその延長線上のテクニックが使われていたりします。であればこれらの仕掛けが陳腐化していそうなところでもありますが不思議とそうでもなく、オリジネイター故のケレン味みたいなのが感じられるのは、今日これを聴いててもラジカルさを覚えられる部分かもしれません。もしくはこれらのことが、実験のための実験ではなく、きっちりと各楽曲のポップさやカタルシスに繋がっているところか。

 そう、この作品、結構ぶっきらぼうな作品でもあると思います。やたらとイントロが省略されたり素っ気なかったり、かと思うと複数の曲で曲の終わりになんか急に加速していく展開が設けられたり*1、これらには「多くの人に受け入れられるようにしよう」という気持ちはまるで感じられず、「したいようにする、それ以外のことはしない」的なざっくりした感覚があり、この辺のシンプルさが、もしかしたら本作を何か分かりやすくしている要素なのかもしれません。

 

 

サイケデリックロックの金字塔?そもそも“サイケデリックロック”とは?

 とりあえず本作が一番形容されることが多いのは“サイケデリック”という語になるでしょう。確かに、本作はそのように呼ばれる仕掛けが多数の楽曲にあって、また歌詞についても当時の“LSDの服用による意識拡張”という現代ではなかなかに眉を顰めざるを得ない要素が蔓延った、分かりやすく危険な内容ではあります。

 ただ思うのが、本作の次作である『Sgt. Papper's Lonely Hearts Club Band』もまたサイケデリックロック作品と呼ばれていますが、この二つだけを取ってみても、その“サイケデリック”の意味合いは結構異なる感じがします。そして、その二つの性質の違いこそに、前者が1990年代以降現代に至るまで参照しうる要素を見出されつつも、一時代の代表作となった後者が相対的に評価が落ちていくことになる要素が見出せる感じがします。

 「サイケデリックロック」という概念はおそらく本作をはじめとする1960年代半ばごろの諸作品以降に立ち上がってきた概念だと思われますが、しかしながら「サイケ」という意匠は非常に幅が広く息も長いものであって、なので一言に「サイケ」と言っても、それが表すものについては相当な幅があります。

 なので、本作を単に「サイケデリックロックの大傑作」だけで終わらせてしまうと、本作的なサウンドこそがサイケ大本命であり*2、典型なんだと捉えてしまうと、他のサイケ作品を聴いた時に「あれっ…?」と思いかねない部分があると思います。なので、広大なサイケデリック・ロックなるジャンルの海の中で本作がどんな立ち位置に当てはまるのか考えることは、本作の優れた点がどう現代でも有効なのか考える上で有用ではないかと考えます。なお、本作が先に結論を書いておけば、本作は「ガレージロック、インディロック的な荒々しさも有した、かなり輪郭のくっきりしたサイケ」だと捉えています。

 正直この項はどんどん構想が膨らんで、単体記事でちゃんと書いた方がいいような気がしたので以下はかなり端折った概要になりますが、1960年代半ばの発祥から現代に至るまで様々あるサイケデリックロックは、非常にざっくりとですが、以下の指標をもってある程度位置付けることができるのでは、と考えています。

 

1. エレキギターメインか、キーボード類メインか

 普通のコンボ形式のロックバンドにおいてはベースとドラムはリズム隊を形成し、その上で鳴る所謂うわもののサウンドとしてはギターかキーボードが主になってきます。どちらもエフェクトを掛けて使用することが特にサイケデリックロック成立以降は大いに想定され、それ自体がロックの歴史の強烈な推進力になったと思われますが、やはりギターとピアノでは根本的な扱い方の違いなどもあり、この2つのどちらがメインの音色かで、同じサイケ音楽だとしてもかなりの性質・質感の差が生じてきます。

 なお、この二つ以外の楽器、たとえばブラスが多く使われた楽曲でもサイケと呼ばれるものがあったりしますが、この辺楽曲構造にも寄りますが、どっちかと言えばサイケよりもバロックポップとかチェンバーポップとかそういうのじゃねえの?と思えるものも多々あります*3

 そして『Revolver』に立ち戻れば、確かに色んな楽器を用いていたり特にポール・マッカートニーPaul McCartney)曲にキーボードが目立つけども、全体として見るとまだまだ全然ギターがメインの作品だと言えると思います。もしかしたらこの要素こそが本作をホワイトアルバムと同様に現代で評価高くまた参照にされやすい性質のものにしているのかもしれません。

 

2. 輪郭明快なサイケか、ぼんやりしたサイケか

 これとっても重要だと思ってて、中庸寄りなギターポップも割とゴツゴツしたガレージロックもかなりアブストラクトな音像のものも一括りに“サイケ”と呼んでしまうことによって、サイケというジャンルはよく言えば非常に広範な、悪く言えば纏りがあると思えないくらいの内容を含むことになったんだと思います。

 正直、本作が出た1966年はまだ全体的には「ポップなロックにサイケなテイストが入ってきた」程度のものが多い時期で、がっつりとオブスキュアーな音像のものはもう少し後の年に増えていきますが、ただ例外的にThe Beach Boys『Pet Sounds』はかなりオブスキュアー寄りな作品と言えるでしょう。

 そしてそれとは対照的に、本作のサイケは楽器のメインがギターかキーボードかに関わらず、かなり輪郭のはっきりしたものだと言えます。制作中に『Pet Sounds』を参照する局面もあったとはいえ、こうなっていることは少し興味深いところ。そして、ジャケットによるイメージのせいもあるのか、カラフルな感じよりももっとモノクロでシャープな印象を受けます

 あと、このバンドで最もオブスキュアー寄りなサイケ作品は『Magical Mystery Tour』かなあ。『Sgt. Papper's〜』も『Strawberry Fields Forever』が入ってたらまた違ったんだろうけども。

 

3. ポップソング的か、アヴァンギャルドか(調和か不協和音的か)

 上の項目とも被りますが、中庸なギターポップと極端なノイズ音楽とが同じ“サイケ”の語の下に置かれることは面白くもあり可笑しくもあり、それぞれ単体で見れば“サイケ”と呼ぶことも理解できることが多いのですが、それでも不思議な感じはします。この辺の違いは「ポップソングにサイケの感覚を導入してより効果を強める」のか「そもそもサイケなサウンドこそを求めていてポップな歌などどうでもいい」のかという、根本的な目的の違いが大きく現れてくるところなんだと思います。

 そういう意味でいくと、サイケデリックロック黎明期ということもあり本作はポップソング的サイケも目的論的サイケもほどほどに含む、どっち寄りとも言い難い雑多さを持っている、と言えるでしょう。ただ、多くの同時期のアーティストが自身のポップソングにどのようにサイケな感覚を落とし込んでいくか考えてた時期に、かなり方法論的サイケに踏み込んだ『Tomorrow Never Knows』から彼らが本作の制作を始めたことはかなり先駆的だったと言えるでしょう*4

 

 もう少し細かく分類すべき感じも無いではないですが、ひとまずはこんなところ。本作、特にジョン・レノンJohn Lennon)の曲にサイケデリックに思いっきり傾倒した感じの楽曲が多いです。一方、ポール曲は案外そうではなく、メロディアスでどこか落ち着いた感じの美しさを持った楽曲が多く、本作くらいからこのバンドの二大ソングライターの楽曲の方向性が大きく分かれ始めたのかなあと思われます。

 

 

3人のソングライターの本作における活躍+その他

 改めて見ていきます。3人というのは言うまでもなくジョン、ポール、そしてジョージ・ハリソンGeorge Harrison)の3人のことです。また、もう一人のメンバーや、本作制作にあたってのスタッフの活躍にもここで言及しておきます。

 なお、本作において各メンバーの作風はかなりバラバラになっていますが、しかしそれでもチームとしての結束感はまだまだ強く、むしろこの時期がある種のピークにあったかもしれません。これだけの作品を彼らは2ヶ月半でものにしています。

 

ジョン曲:5曲(+共作1曲)

 14曲中5曲をほぼ単独で作曲、1曲をポールと共作。

 圧倒的な異次元さで前作までの自分たちの音楽性を“過去のもの”にしてしまった感のある『Tomorrow Never Knows』の存在感が大きく、他もドラッグの影響を受けたような感覚が全体的に露骨に現れています。つまり、本作におけるサイケデリックロックの一番の推進力はジョンです。前作で『In My Life』というとりわけほっこりさせる名曲を残していたジョンですが、同時に『Girl』という怪しげな曲もあり、その方向性が一気に爆発したような有様というか。

 そしてこの時期から、段々とメロディアスさよりも言葉のリズムと勢いで持って行こうとするタイプの楽曲が彼の曲で見られるようになります。

 そんな中で、しかし案外普通にガチャガチャと歪んだギターの音でThe Byrdsじみたポップなギターロックを演奏する『And Your Bird Can Sing』は少し特殊。まあ作者本人が「捨て曲」と言い切ってる可哀想な曲でもあるけど。

 

ポール曲:5曲(+共作1曲)

 14曲中5曲をほぼ単独で制作、1曲をジョンと共作。共作は『Yellow Sumarine』のことです。

 レコーディング中にメンバーで唯一LSD体験を拒否したこともあってなのか、ポール曲には他二人のような典型的なサイケデリックさはなかなか表出してきません*5。これは本作より後の作品でも同様で、彼は別にドラッグをしないわけではないが、自分の音楽としてドラッグの影響が露骨に出るのは嫌ってる節があります。録音時には他メンバーの曲で自身の前衛音楽への傾倒から得たテープループの使用やサイケデリックリードギターの演奏など、サイケ要素の表現に色々と貢献してはいるけども。

 代わりに、『Yesterday』以降始まったポールの「小洒落たポップソング」の作曲・アレンジ能力が本作で飛躍的に向上しています。静謐で繊細な『Here, There and Everywhere』と、非常に上品なメロウさを有した『For No One』の2曲が特に彼のこの後に続く作風のベースになっている感があり重要かなと。特に後者は彼ともう一人以外はメンバーが参加していないことも、今後の「ポール曲はポールソロっぽくなればなるほどアレンジの凝った良い曲になる」傾向が既に現れています。

 

 

ジョージ曲:3曲

 本作で急に躍進したのが彼で、バンドを通じて“1枚に2曲”というルールが徹底している彼の曲の扱いが、本作だけ何故か例外的に3曲収録され、しかもアルバムでも重要な先頭曲に彼の『Taxman』が選ばれるという、なかなかの異常事態。

 彼の3曲は三者三様で、タイトでシャープでシニカルなロックンロールに、シャッフルで薄らサイケな雰囲気の曲に、そして遂に登場する露骨にインド音楽を採り入れた曲となっています。

 3曲とも、他2人の楽曲と雰囲気があまり被らない印象があり、というかこれは、世界最強のソングライティングチームに一人で対抗しなければならない彼の、他二人の作風と被らないように自分の作風を模索している過程における成果たち、という感じです。後年のホワイトアルバムの頃のすっかりジョージ節を完成させた堂々と変な曲を放ってくる自信はまだ見られませんが、それでも彼の「他2人の作風を避けようとする傾向」が結果的に本作の幅をより広げているのは間違いないところ。

 

 

1966年のリンゴ:ひとつのドラムイメージの完成

 本作では『Yellow Submarine』1曲で歌を披露するリンゴ・スターRingo Starr)ですが、それよりも本作において彼のドラムは非常に重要な活躍をしていて、結果的にドラムの楽曲における役割を変動させたり、ドラマーとしての彼のキャラクターを決定づける楽曲を幾つか残していたりなどします。

 まず、ひとつの反復パターンで延々とミニマルに展開させるという『Tomorrow〜』のプレイの革新性は、年が経つにつれてどんどんその重要性を増していくものでした。この曲をして「クラウトロックの祖、テクノの祖」などと言うのはやや言い過ぎにしても、それらに続く種がこの曲のドラムにあることくらいは言えると思います。

 また、その反復の感じとは対照的な、そして「リンゴ・スター風のドラム」というイメージを決定づける“バタバタとした、しかし妙に歯切れのいいフィルイン”が楽曲中に多く登場するのが本作を含む1966年録音のこのバンドの楽曲になります。代表的なものとして『Rain』や『She Said She Said』そして『Strawberry Fields Forever』*6の3曲で聴けるコロコロ転がってはバシバシと決まっていくフィルインの数々は彼のドラムのキャラクターを決定付けたところでしょう。まるで“リードドラム”とでも呼びたくなるような、歌の一部かのようなドラムは*7

 彼がどうしてこの時期に印象的なドラムパターンを連発できたのかは、もしかしたらすぐ後に書きますエンジニア事情も関係するのかもしれません。

 

 

制作スタッフたち:イメージを現実の“音”に落とし込む仕事

右奥の人物がジェフ・エメリック

 どれだけバンドメンバーがインスピレーションに優れていようと、それを実際の音として出力し録音できなければ世に残せなかった訳で、そこにおいて本作制作中に起きた色々な“サウンド録音手法の革新”はかなり大きな出来事でした。

 バンドがメジャー契約した当初からプロデューサーだったジョージ・マーティン(George Martin)はエンジニア的役割ではない*8ため、エンジニア方面の様々なチャレンジは、本作のレコーディング直前にスタジオのチーフエンジニアに昇格したジェフ・エメリック(Goeffley Emerick)に拠るところが大きいようです。彼は当時まだ10代ですが、様々な旧態的なスタジオの規則を破り、ボーカルをレズリースピーカー*9に通す手法や、音を複製し少しずらして重ねて二重にする技法*10、録音時のクローズドマイキング、ドラムのバスドラに毛布を入れることによるタイトなキック音の創出、ドラム全体を少し歪ませアタック感の強調など、今日においても常識的に行われる様々な手法を本作のレコーディング時に実践し、本作のサウンドがそもそも成立することに大変大きな貢献をしました。多くの場合、ジョンの抽象的すぎるサウンドに対する要求(基本無茶振り)に対して彼がどうにかすることで技術的革新が進む傾向があるようにも思えます。大変だったろうなあ…。

 本作は「録音された音を更に加工して未知の音像を発見・創作する」という、いわば“はじめからライブ演奏ではなくリミックスありき”な制作をした点に歴史的意義が最も感じられるところですが、それを提案したのがメンバーだとしても、実作業として行ったのは彼であり、その業績は相当なものと言えます。

 彼の貢献については、彼自身の自伝『Here, There, and Everywhere: My Life Recording the Music of The Beatles(邦題:ザ・ビートルズサウンド 最後の真実)』で詳しく書かれています。視点にやや偏りを感じるものの*11、本作に限らずバンドの状況などについて一人の人間の視点から描かれた読み物としても結構興味深い本です。

 

 

その他:ジャケットやタイトル

 有名な本作の白黒イラストのジャケットは、バンドのハンブルク時代からの旧友であるクラウス・フォアマン(Klaus Voormann)によるものです。ハンブルク時代に当時の恋人を通じてバンドと知り合いになり、その恋人をめぐって当時バンドメンバーだったスチュアート・サトクリフ(Stuart Sutcliffe)と三角関係になった結局恋人を取られたりしますがそれはまた別の話。

 最初は別の人が撮影した写真をジャケットに使う予定がメンバーに却下され、そこで彼に白羽の矢が当たり、制作途中の本作を聞いた彼が作品に沿うサイケデリックさを表現したイラストを描いた、というところ。白黒なのはカラフルなジャケットが店に並ぶ中でかえって目立つだろう、という考えもあったそうで。このジャケットは結果として有名になり、これもまた様々なパロディやオマージュを産んでいます。

 なお、彼はまたベーシストとしても知られており、それこそ本作と同じ1966年くらいからイギリスのバンドでプレイするようになり、The Beatles解散後においてはポール以外の各メンバーのソロでしばしば名前が見られました。彼をポールの後釜に据えて再結成する、なんて噂が流れたことも。

 

 本作タイトルの「Revolver」はご存じ回転式拳銃のことですが、このようなタイトルになったのは「レコードとは何をするもの?回転するもの!イエー」という流れでスッと決まった程度のものらしく、おそらくその場のノリみたいなもので、それ以上の大した意味はないものと思われます。日本においては「日本武道館公演で警察が身につけていたリボルバーを面白がって作られた」という俗説もありましたが、本作の制作が終わってから日本に飛び立っているスケジュールなので無理な話。

 それにしても、このタイトルの本作がバンドでもとりわけ革新的な名作となったために、『Revolver』という語は「そのバンドやアーティストにとって革新的なことを成し遂げた作品」に対する形容詞として後年使われている節があります。「Revolver的作品」なんて形容詞、言いたいことは分かるけど、この作品をみんなが知ってることを前提にした表現は、まあどうなんだろう。似たような頻度で使われてそうな形容詞に「Kid A的作品」とかもありそう。あれっていうかこういう表現使うのって日本特有なのかそれとも外国でもいうのか?よく調べてないのでそこまではよく分かりませんし、「Revolver的作品」と掲揚されたことのある作品リストなんてものも作りません。

 

 

バンド史概要

 一応、書きます。

 アメリカ上陸以降より爆発的となったアイドル的人気にメンバーは辟易していて、殺人的な日程の詰め込み具合や、大会場でPA機器もまだ発展途上の中、大歓声にかき消されて満足な演奏も出来ないなどした彼らはライブ活動自体に興味を失くしつつありました。本作録音開始直前の3月にはジョンの「ビートルズはキリストよりも人気」発言によるアメリカでの“炎上”などもありました*12

 一方で、そんな多忙の中1965年末にリリースされた彼らのアルバム『Rubber Soul』はそれまでのビートロックから一気にフォークロック的な装いとなり、また様々な意欲的な試みもあって、特に同時代のアーティストに大きな衝撃をもって迎えられました。その後、映画制作をキャンセルしたことで時間ができたメンバーは、ドラッグ(LSD)体験や前衛音楽への興味などを表現した作品を志向し、そして前作からおよそ8月後に、この“かなり変わり果てた”アルバムをリリースすることになります。

 ちょっと前までアイドル的存在としてこのバンドを愛していた当時のファンは、急に1曲目から税金について文句を垂れ、ひたすら眠い眠いと歌い、唐突にインド音楽になったり、露骨にドラッグめいたことを歌い、最後には何か宗教じみたスピリチュアルさで終わるこのアルバムを前に何を思ったんだろう。面白がれる人ばっかりじゃ決してなかったはずだとは思います。

 そんなファンの受け止めをどのくらい本人たちが気にしたか知りませんが、本作リリース後の11月末ごろにはレコーディングを再開、その時最初に取り上げられたのはジョンのもしかしたらキャリアの頂点に位置するかもしれない名曲『Strawberry Fields Forever』です。

 

 

2022年ミックスについて(及び「さようなら泣き別れミックス」)

 今回のレビューは基本的に2022年にリリースされたスペシャルエディションの、その目玉である最新ミックスをもとに書いています。その新ミックスについては、AIを用いて当時の4トラックで収めるためにひとつのトラックの中で複数の楽器が録音され団子になってるのを切り離して云々…という話がされていますが、その新しいらしい手法がいい感じなのかどうかはよく分かりません*13

 ただひとつ言えるのは、この新ミックスによって長年残り続けてきてた本作のステレオ版を「泣き別れミックス」で聴く必要がなくなり、これは本作を現代の作品と同列に聴くにあたってとても重要なことだということです。

 “泣き別れミックス”というのは日本での呼称ですが、これはリズム隊が左チャンネル、声とギターが右チャンネル、とか、そのように、1970年前後くらいからステレオでのバンドサウンドの基本となった「リズム隊がボーカルとともにセンターに来て、その上にギターやらキーボードやらを左右に振っていく」というスタイルから大きく外れているミックスのことを言います。たかが音の配置、と思う向きもあるかもしれませんが、特にイヤホンやヘッドホンで「泣き別れミックス」の音源を聴くと、違和感がかなり凄いです。気持ち悪く聞こえるというか。変なバランスに聞こえてしまいます。

 この辺、時代の変遷による問題があって、1960年代中頃までは世間はモノラルが基本で、なのでアーティスト側もモノラルにこそ力を注ぎ、ステレオは雑に作ってたり、モノラルを無理やり加工した“擬似ステレオ”なるものでお茶を濁したり、という状況でした。そもそもリスナー側がヘッドホンやイヤホンで音楽を聴く、ということが普通になるの事態が結構後のウォークマン以降の話ですし。

 大体1960年代終盤ぐらいからステレオ前提で音楽制作がされるようになりますが、それより前の作品は、1980年代に各作品のCD化がされた後も、アーティストによっては長いこと“泣き別れミックス”が普通で、それが嫌ならモノを聴け、という時代が続きました*14The Beatlesの特にサイケ期の作品はまさにここで割を食っていました。なぜか2009年のデジタルリマスター後もこの状況は続きました*15

 2010年代も半ばになって、ようやく事態が変わってきたのが『1』の2015年盤でリズム隊がセンターになったサイケ期楽曲の新ミックスが披露されたこと。続く2017年には『Sgt.Papper's〜』の50周年盤でリズム隊センターミックスがリリースされ、そしてようやく2022年に、何の節目か知らないけども、本作の新ミックスが登場したという訳で、長かったな…。『Taxman』のタイトなベースもドラムもイヤホンを付けた状態で真ん中から聞こえてきたときは、謎に新鮮な驚きに襲われました。

 これによって、現代までの様々なインディロックバンド等の意欲的な作品などと同列に並べて本作を聴ける環境が整った訳です。ちなみにこれで特によく分かるようになったのは本作におけるパーカッションの多用っぷり。結構隙あらばタンバリンかシェイカーを入れようとしてくるなこの人ら。

 あとは『Magical Mystery Tour』と、そして『Rubber Soul』の現代的ミックスが特に求められるところ…。『Yellow Submarine Songtrack』の時点ですでにやろうと思えばちゃんとできるのは分かってるので、公式は早く…。特に『Rubber Soul』は音数がシンプルだから泣き別れ具合が余計きつい。

 

 

全曲レビュー

 ようやく。以下の曲の長さも2022年ステレオ盤準拠。モノラルだと何故かテイクやら挿入されたエフェクトやらが異なりついでに尺も違ったりします。ちなみにレコードでは7曲目までがA面でそれより後がB面。両方ともジョンの曲で終わるんだな。

 

 

1. Taxman(2:38)

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なんかリマスターを機にPVが作られとる。ジョン、ポール、ジョージで1曲ずつあるよう。

 ジョージ初の冒頭曲にして、本作のソリッドでモノクロームでニヒリスティックな感覚を一発で呼び起こしつつ、妙なアグレッシブさと辛辣なシニカルさとが平気で並行する楽曲。たとえば同じ曲目でも『Yellow Submarine』やら『Here, There〜』やらが1曲目だったら相当印象変わってたかもだけど、でも本作の「時代に阿る気ゼロな素っ気なさ」はこの曲が先頭だからこそな感じがする。

 冒頭から、全然実際の曲のテンポに合っていないカウントをフェイクとして入れて、これが実質今作のイントロとなるという、まあ捻くれた手法を入れてくる。よくこんなの思いつくな。この名盤はカウント詐欺から始まるのか。その偽のカウントに導かれて始まる演奏の、実に素っ気ない、ギターのリードフレーズすら伴わずに、ただヴァースの演奏と同じものをやってるだけ、という素っ気なさ。「綺麗なイントロが聴きたかったら他のレコードでも聴け」と言わんばかりの、ダウナーなマイペースさ。これぞ本作の空気感、って気がする。別に全部が全部そうではないんだけども。コード感もメジャーでもマイナーでもないけど劇的でもなく、いい意味で漫然と不機嫌だ。その範囲内でシャープに曲展開するところもこの曲のクールな良さ。

 ジョージのボーカルが始まってもまるでテンションは上がらない。機械的なダブルトラックが余計に情感を削ぎ落とし、ボーカルまでもがコンクリートじみた素っ気ない質感を見せる。歌詞の内容的にも、ここは熱くもならず冷酷にもならず、この無感動な感じがちょうどいい。掛け合い的に入ってくるコーラスワークはもう少し挑発的かもしれないが*16。その一方で、ベースは冒頭からやたらと元気よく、大胆なフレーズで旋回していく様には“リードベース”的な存在感も。このベースラインはまた、後年様々なアーティストに引用される類のもの。UKロックを代表するベースラインのひとつかもしれない。

 ベースもそうだけど、この曲の間奏及びアウトロにおけるどことなくサイケ風味・インド風味のあるよく歪んだギターソロもポールによる演奏で、この曲はジョージの曲なのに、演奏的にはポールがかなり幅を利かせている。そしてベースにしろギターにしろ、こういうアグレッシブに攻めた演奏をポール自身の曲でする訳でもない*17。この辺ほんと不思議な人だなこの人は…と思う。

 歌詞の、まるで恋の歌など遠くの世界のことのように繰り広げられる、どこまでも冷めたシニカルさが続いていく様に、こういうのをアルバム先頭に置くバンドの、その意識の変化の様を思える。全文訳してみる。

 

それがどうなっていくかお教えしましょう

貴方には1を差し上げ 私は19を頂戴します

 

何せ私は税務官 ええ 税務官でございます

 

5%は少なすぎ とでも思われます?

むしろ全部取られないことに感謝されましょう

 

何せ私は税務官 ええ 税務官でございますよ

 

車を運転なさる でしたら道路に課税しましょう

お座りになられる ではその椅子に課税しましょう

とても寒くなりましたらば 熱源に課税しましょう

お散歩でしょうか ではその脚に課税しましょう

税務官です

 

何せ私は税務官 ええ 税務官でございますが

 

何のために税を取るかなど聞いてはなりませんよ

(ハハ ウィルソン様*18

それ以上払いたくないのであられるならば

(ハハ ヒース様*19

 

お亡くなりになる方々にもご忠告をば

眼の上の硬貨にも申告は必要です

 

何せ私は税務官 ええ 税務官でございます

そしてあなた方は他でもない 私のために働くのです

 

こいつ税金の話しかしてねえ!それにしても本当に、愛とか恋とかはどこ行ってしまったんだ。それにしても税金95%は物凄いけど、これは実際当時の福祉国家を目指していた英国が富裕層にかけていた税率らしく、それもまた凄まじい話。中盤、車の運転から始まる課税の畳み掛け方は実に苛烈で、最後のヴァースの死人にもたかろうとする様でこの血も涙もない税務官のイメージは完成される。やっぱこんな夢も希望もまるでない曲を先頭に持ってくるなんて、どうかしてる…この変な方向への吹っ切れっぷりこそが『Revolver』を古くさせないのかもしれない。本作は充実しまくった作品のはずなのにどこか「古き良き過去」的な要素がバッサリ失われている。どこかで本人たちの計算でどこから偶然か分からないけど、この虚無的な感覚、やっぱ好きだな。

 

  

2. Eleanor Rigby(2:06)

 これもまた夢のない曲だ。ポールによる、弦楽四重奏のみを伴奏に、どこかノワールな世界観が広がる歌詞を美しくも残酷さが滲むクラシカルなマイナー調で歌い上げる楽曲。主観が廃された、ほぼ完全に物語調となった歌詞で、そのような歌詞は彼の曲にこの後多くなっていくけども、ここまで救いもユーモアもなく暗いのも珍しい。物語調歌詞でもはじめの方で加減をミスったのかあえてしなかったのか。

 『Yesterday』以来のポールによる弦楽ソングだけど、『Yesterday』ではまだアコギを弾いてたのが、この曲ではいよいよバンドは誰も演奏をしておらず、ボーカル3人が歌とコーラスをしているのみ。そんな思い切った曲をバンドのアルバムの後ろの方ではなく2曲目に持ってくるところに、この時期のバンドの「バンド形式の拘らねえ、なんか凄けりゃ何でもいい」みたいなスタンスが垣間見える。スコアについてはジョージ・マーティンの担当。

 そしていきなり歌から始まる。やはりイントロは無視され、いきなり本題めいたコーラス部から楽曲が始まる。メロディ展開もこれまでのバンド作品からは唐突なくらいに秀逸で、コーラス部の救いようのない突き抜け感、ヴァース以降の優雅ながらメロディがベタつく感じが全くしない実に乾いた筆致など、作者のソングライティングがいきなり別次元に行ったかのように冴えている。というか上述のとおり、ここまでサディスティックなメロディ回しの曲もポールにおいて珍しいのでは。さりげなく節回しの小節数がズラされているのは『Yesterday』に引き続き。そこに実によく絡む室内楽的なストリングスの気品あふれる様はジョージ・マーティンのいい仕事。

 歌詞において、ユーモアを全然噛ませずに淡々と喰らい物語を描写していくのも、作者のキャリアでも独特の地位にあると思える。歌詞に出てくる貧しく孤独な「エリナー・リグビー」と誰からも無視され孤独な「マッケンジー神父」という二人の人物は、歌の中で別に出会いもしない。孤独な者が助け合う物語などこの曲のどこにもなく、徹底して「全て孤独な人々」として描写される。以下の終盤、接点とさえ言えない接点での二人の交錯“しない”様は実に、冷え冷えとした筆致。

 

エリナー・リグビーは教会で死に

その名とともに埋葬された 誰も訪ねはしなかった

マッケンジー神父は墓から戻りつつ手の土を払う

誰も救われなかった

 

全て孤独な人々よ 彼らどこから来たのだろう

全て孤独な人々よ 彼ら皆どこに居るのだろう

 

 こんな曲なのに、アルバムと同日発売で『Yellow Submarine』との両A面でシングルカットされている。凄えのは凄え曲だけどファン的にどんな感じなんだ。あと、ポールは架空の人物として創造しただろうに、実際にエリナー・リグビーの墓が後年見つかったりもして、何かと話題の尽きない曲でもある。その墓は名所になっているという。名所にしていいもんなのか…?

 

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それにしてもアニメ映画『Yellow Submarine』のこの曲のシーンは実に冷酷で美しい。本当に子供向け映画なんかこれ。

 

 

3. I'm Only Sleeping(3:30)

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リマスターを機にいつの間にやらアニメーションクリップできとるその2。

 ジョン作の、実に気だるいフィーリングをそのままマイナー調の曲にして、そこに少しばかりの逆再生ギターの彩りを与えた楽曲。前作『Girl』に続き、彼のダウナーなメロディセンスがここぞとばかりに鈍く輝く、妙な心地よさのある楽曲。それにしても1曲目に税金への文句の歌、2曲目に恵まれずに死にゆく人たちの歌ときて3曲目に「もうひたすら眠いんだわ…」みたいな曲を持ってくるこのバンドは何を考えてるのか。しかもこれがやっとアルバム最初の「歌い手=主語」な曲だし。

 この曲も最初のアコギのストロークとともにすぐ歌が始まる。まるでイントロを描くのも面倒臭いくらい眠い…とでも言わんばかりに。本作、ここまで本当に勿体ぶらない。それこそアレンジ考えるのも面倒くさいと言わんばかりに、この曲はアコギとリズム隊だけの演奏で基本的に展開していく。それでも十分にだるい雰囲気と、曲のテーマに合った絶妙に角の取れた不機嫌さが曲から感じられるのは作者のソングライティング力と声質のなせる業か。荒涼とした雰囲気は終始キープしつつも何気にメロディの展開が3段階あって、だるいだるいという感じの曲の割には凝ってるし、しかも凝ってる具合をまるで感じさせない。“だるい”という感覚を格好良いものとして成立させていて*20、逆再生ギターが入ってなくてもそれなりにこの曲は成立するだろう。特に各ブレイク後に現れるブリッジ部分の、夢見心地でどこか別の国のメロディを拾ってきちゃったような展開の仕方はさりげなく見事。あと、本当にシンプルなアレンジの中、ブレイクとかで僅かに彩を添えるベースは健気。

 この曲の逆再生ギターは曲の中盤の間奏くらいから入ってくる。なかなか不思議な雰囲気だけど、ネット等で聴ける逆再生前のフレーズが全然大したことないプレイなのを踏まえると、これはなかなか夢のある話だなあと思わせる。録音には苦労したらしいけども。特にコーダ部にて存在感を発揮し、どことなく東洋的な怪しいドローン感覚を次曲に引き継ぐ役割を果たす。

 歌詞の、スウィンギンロンドンな時代に対してあまりにも後ろ向きないい具合の身勝手さに、変な方向に天然で超然とした存在感を放てる作者の才能を感じる。一見ドラッグの副作用によるだるさのようにも思えるけども、これは本人も周囲も否定している。

 

みんな おれを怠けもんだと思っとるようだ

知るか 奴らイカれとんじゃんね

あんな急いであちこち走り回ってなあ

そんなの必要ねえと気づきもせんで

 

頼むぜ この1日をダメにせんでくれ ぼんやりしてんの

そして何にせよ おれはただただ寝入っとる

 

窓から世界の行方を見守っとるの じっくりね

寝転がって天井見つめて 眠りの訪れを待ってんの

 

 ホワイトアルバムの『I'm So Tired』はこの曲と同系統の楽曲と呼べそう。どっちもドラッグ絡みのようでそうでもないようなところも含めて。あっちは「眠れなくてヤバい…」 という内容なのが皮肉だけども。ジョンの気だるさをコード感に表現する巧みさは、やはりロックに愛された人間なんだなと思わされる。人間が人間である限り、だるいという感情は誰しも付き合わないといけない類のものだし。

 

 

4. Love You To(2:59)

 ジョージ作の、遂に露骨にインドな雰囲気全開の、実際にインド楽器奏者を連れてきてそういうドローン的な演奏をなんとか歌と結びつけようとする挑戦的なインド三部作のひとつめの曲。ついに来たインド曲。マジでリアルタイムのライトなファンは、ここまで普通のラブソング的なのが全然無いことに耐えられたのか…?皮肉にもこの曲の歌詞は案外にラブソングなんだけども、でも曲調がインドなので全然そう思えない。三部作のひとつめということで不慣れそうな点、及び本作全体の作風に影響されたコーダ部などあるものの、その辺のゴツゴツ具合が3曲中でのこの曲の個性になっているとも。

 冒頭のシタールのねっとりした響きからしてシンプルに“普通のポップスではない”感覚がモロにあって、どこかからスパイスの匂いがしてきそうなこの時点で苦手な人は苦手だろうけど、前3曲とテイストは異なりつつも、本作を象徴する仄暗く殺伐とした光景の感じを引き継いでいるとも言える。この曲の場合、メロディの変化共々割とのっぺりとマイナー感のあるワンコードを出力し続けることも、殺伐さに繋がっているかもしれない。それにしても、本作で最初のイントロらしいイントロがシタールかあ。

 メロディについても、インド三部作の中でこの曲が最も変化に乏しく、オリエンタルな雄大さを長い尺に詰め込んだ『Within You Without You』や西洋的なメロディアスさが仄かに感じられる『The Inner Light』と比べると、悪く言えば一本調子、よく言えばパンク的なぶっきらぼうさがある。思うにこの曲、ロックバンド編成で演奏しようとするとそのコードの単調さもあり、Sonic Youthみたいな感じになるんじゃなかろうか。

 この曲はインド三部作の中でも過渡期なためかインド音楽っぽくないサウンドも目立つところがあり、その最たるものがコーラス部に出てくるファズの掛かったギターだろう。不思議なことにここのギターサウンドはまるでノイズエフェクトのような響き方をしていて、そう思うとますますSonic Youth的なものに感じられてくる。

 そして、アウトロでの突如加速する曲構成。この曲の時点では「急に異国のお祭りめいた雰囲気になるなあ」程度のものだけど、本作の他の曲でも見られるこのようなコーダ部の仕掛けはおそらくドラッグによる何らかのハイな状態の表現なんだろうと思われる。この曲の場合インドサウンドのせいでお祭りめいて聞こえるのは可笑しな副作用だろうけど。

 歌詞については、哲学的なことに触れつつ、そこから妙に性愛めいた話に繋がるところに過渡期な感じが滲み出ている。「人生は短い、だから愛し合おう」というのはまるでフリーセックスなヒッピーの代弁めいてるかもしれない。

 

人生は短いものだ 新たにもう一度などあり得ない

しかし 貴方の得たものはぼくに大いに意味がある

 

一日中 愛し合おう 歌いながら愛し合おう

一日中 愛し合おう 歌いながら愛し合おう

 

 過渡期ならではの、色々と良くも悪くも安易な感じ。しかしだからこそ、インド的な表層を剥がすとどこかパンクめいたものを感じれなくも無いのが面白いところ。実際、インド的装飾を施す前のこの曲の弾き語りデモを聴くと、実に単調で、このままではクソだなあって感じ*21でありつつ、結果としてはインドになったけど、この原型からすると別の方向性もあり得そうだなあ、と思える。

 

 

5. Here, There and Everywhere(2:24)

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リマスターを機にこれもいつの間にかPV作られとる。

 ここまで本作の荒廃しきった環境を耐えてきた皆様お待たせしました、と言わんばかりの、ポール作による、3声のコーラスを中心とした非常に慎ましやかなアレンジによって齎される雑味のないエレガントさと美しさで貫かれた、麗しきミニチュア雑貨めいたソフトタッチな名曲。人によってはこの曲がポール・マッカートニーの最高傑作だということもあるだろうし作者本人もそのようなもののひとつだと発言している。

 この曲もイントロなしにいきなり歌から始まるけど、この冒頭にしか出てこないメロディラインがイントロの代わりを果たしている。この段階からして、ソフトなボーカルとそれを包み込むウォームなコーラスワーク*22の美しさが、それまでの殺風景なアルバムの雰囲気を一瞬で優しさ色に塗り替えていく。そのことがこの曲の甘美さをより際立たせている節があって、ある意味、とても素晴らしい位置に置かれているとも思える。

 この曲の素晴らしいところは、ソフトなボーカルとコーラスを中心に間奏も無しに延々と甘いメロディだけが展開し続け、しかも演奏も極めて禁欲的に為されているところ。特に、こういう曲の伴奏にいかにも入ってそうなピアノやストリングスの類が全くなく、逆にソフトさを担いそうなアコギもなく、代わりにかなりチープなエレキギターのコードバッキングだけが心細げに鳴っていることは大変に興味深い*23。至って静かなリズム隊といい、この曲のバンド演奏は声の甘美な華やかさの割に殆ど禅めいている。

 曲展開も絶妙で、ブリッジ的に入ってくるパートの3度上転調で雰囲気が少し切り替わってここで一時的にコーラスが止み、そこから小節を削って元キー元メロディに戻りコーラスワークも再開するところの安心感のある展開が心地よい。最後の最後に新しいメロディでタイトルコールするところといい、この曲のメロディはどこまでも美しく、そしてこの作者の多くのポップソングに含まれるとぼけの成分も見られず、ひたすらに純度が高い。

 歌詞もここにきて純粋なラブソングで、それもこのバンドの全楽曲でもとりわけ甘く切なげな情緒が流れている。タイトルからしていいもんね。「此処で、其処で、何処でだって」っていう。

 

どこでもあの人を求めてる あの人がぼくの横にいれば

いや 心配なんかまるで必要ないって分かってるのに

でもあの人への愛とはどこでもあの人が欲しいってことだ

 

愛とは分かち合うことだって分かって

お互いに愛は絶えることはないと信じて

あの人の瞳を見つめ

そこにいつもぼくが居れるよう願うんだ

 

ぼくはここに そこに どこにだって

ここに そこに そう どこへだって

 

 このような文章でうまく言い表せないほどにともかくメロディが素晴らしく、世界中さまざまなところで意識的にも無意識的にも、このあらかじめ甘美なレトロさの詰まった曲のメロディの様々な箇所が引用されている。意識的な例としてはFrank Ocean『White Ferrari』があり、無意識的っぽい例は色々ありそうだけど七尾旅人『コーナー』のサビ前とかそれっぽい気もする。カバーも様々あり、1967年にはClaudine Longetの最初のアルバムに実にポップス然としたアレンジで収録されてたり、1975年のEmmylou Harrisの力強いサザンロック的な弾き語りバージョンがあったりなど、割と女性シンガーにカバーされやすい感じがありつつも、Youtubeを検索すれば無数にカバー動画が上がっており、そういう側面ではポール曲でも最も成功した楽曲のひとつとさえなっている。こういうストレートなラブソングを敬遠してそうなジョン・レノンでさえ「The Beatlesの中でも特に好きな一曲」としてこれを挙げている。

 アルバムの中的にも、この曲からようやく冒頭からの荒廃っぷりが一気に和らぎ、もう少しカラフルな彩の楽曲が増えてくる。

 

 

6. Yellow Submarine(2:38)

 前曲で一気に緊張が緩んだのをいいことに現れる本作でも最ものほほんとした雰囲気の楽曲。ジョンとポールの共作で、リンゴボーカルによる、実にピースフルなメロディとまるで突拍子もない子供向けアニメみたいに賑やかなエフェクトに溢れた楽曲。1曲目や2曲目の冷ややかさから様変わりしすぎだけど、賑やかなエフェクトの使い方やのんびりしているようで威風堂々とした雰囲気、どことなく共同体幻想を沸き起こさせる歌詞などはむしろヒッピーめいたファンタジー感のある次作に繋がる点でもある。

 もうすっかり本作では当たり前のイントロ省略のいきなりリンゴのボーカルから始まり、すっかりのんびりしたムードが立ち上がってくるから不思議だ。作者公認ではじめから子供向けのたわいもない感じの曲のつもりで書かれたということもあって、前曲に引き続き、この曲に邪気や邪悪なものは感じられない。しかし、エフェクト以外の演奏は実は相当簡素で、キーボードはおろかエレキギターも入っておらず、リズム隊と声の他はアコギだけだったりする*24。エフェクトがなければシンプルすぎるダルダルなシャッフルリズムの曲だったりする。

 エフェクトの大半はスタジオでメンバーが半ば実験半ばお遊びで色々とやりまくったもの。ちゃんと潜水艦の設定に沿って何かを入れようとしている風には感じられる。また2度目のコーラスの直前に入ってくるブラスは演奏を録音したものではなく、スタジオにあった音源集からキーが合ってて上手いこといくやつを強引に重ねたもの。ある意味ではサンプリングの先駆けと言えなくもないことをしとる。コーラス部の大人数による合唱はメンバー以外にスタッフや知り合いアーティストも混じり、パーティーじみた光景で録音されていて、この光景は『Sgt. Papper's〜』の録音などでも見られる。やはり次作の先駆けめいている。

 歌詞は本当にたわいもないことしか意図されてないという。本作が本作なため、この曲も何かしらドラッグの隠喩が入っているのでは、とか、ヒッピー幻想を牽引する意図があったとか色々外部から邪推されたりもしてるけども。

 

ぼくが生まれた街には航海を生業にする男が住んでた

彼は潜水艦の中での暮らしについて話してくれた

「そんで俺ら 太陽に向かって出港したわけだ

 緑色の海が見つかるまでな

 そんで俺ら 波の下 潜水艦の中で暮らしたわけだ」

 

これは邪推かもしれないけど、そういえばバンドの出身地であるリヴァプールもまた港町なんだった。まあ船乗りはいても潜水艦乗りはなかなかいないだろうけど。

 おそらくは「アルバムにリンゴの歌う曲を1曲入れとこう」くらいの動機で作られた曲のはずだけど、しかしシングルカットされて1位になったり、この曲をテーマソングにしたアニメーション映画が作られてサイケなアニメ映像として文化遺産的な価値を持つようになったり、遠い海の向こうの日本で大瀧詠一とかいう奴のせいで音頭にアレンジされたりなど、相当に数奇な運命を辿った曲だろう。作曲中のデモではよりもっと露骨にカントリーソングしていて完成版とメロディは同じなのに雰囲気がかなり違う。かなり意外な感じ。リンゴがカントリー好きだからそれに沿おうとしたんだろうけど、どこかの段階でそんなのは割とどうでも良くなったらしい。カントリーアレンジになってたら色々と歴史変わってたかもしれない。

 

 

7. She Said She Said(2:36)

 ジョン作の、ギラギラとしたギターサウンドと唐突にして勇敢な感じのあるリズムチェンジとやたらと乱打されるフィルインとで彩られたサイケデリック・ロックンロール。露骨に当時の“ドラッグによる知覚の拡大”の潮流について実体験を交えて曲にしてあるけども、突き抜けるような爽快感があるのがこの曲の良いところ。

 イントロの歪みの効いたギターフレーズにはどこかインドめいた感覚もあるように思えて、当時のドラッグによる意識拡張とインド志向・思想との混合具合の影響力の強さが思われる。ギターフレーズは適当なようなきちんとラインがあるような不思議な具合で、その後すぐに現れる行き当たりばったりみたいなドラムフィルとも相まって何か不思議な狂騒感ありグルーヴを生み出している。中期以降のジョンのギターメインの曲は多くがどこかガレージロックめいたゴツゴツした感覚が目立つけども、その始まりはこの曲を含む本作にあると言える。よく聴くと延々とワンノートで鳴らされ続けてるオルガンも入ってて、これもいい具合に雑にサイケな効果を出している。

 メロディの音符の伸ばし方やコーラスの重ねられ方はまさにポップ系サイケデリック・ロックの王道のような出来。というかこういう曲が開祖となってこういうメロディ感覚が王道になっていくのか。さらにはメロディ展開が変わったセクションでは唐突にリズムがそれまでの8ビートから突如3/4拍子に移行し、かなり不思議なメロディの載せ方をしてくる。唐突な変化の付け方だけど*25、でもここの箇所が歌詞も含めて、特にこの曲の格好いいポイントになっている。ジョンのこういう無理をセンスで強引に成立させてしまう具合は独特の格好良さがある。

 アウトロはまた妙に加速してラッシュ状態気味な演奏でフェードアウトしていく。楽曲自体がガチャガチャして騒がしい分、他の同様の仕掛けと比べてもこの曲が一番この仕掛けが効いてる感じがある。この狂騒感ある演奏が通り抜けていくところで本作のA面が終わる。

 歌詞はLSDをキメた状況で「俺は死というのがどういうものか知ってるよ」という話を繰り返し聞かされて怖くなった作者の体験を元に書かれている。男性から聞いた話だったので元々は『He Said』というタイトルだったらしい。事実関係を悟られないよう誤魔化すために“She”に変えられた。背景を知らずに歌詞を読むと「何言ってるんだろう?」って感じになりそうだし、ドラッグのことを踏まえるとまた異なった角度から「何言ってんだよ…」という気持ちにもなる。

 

彼女は言った

「死がどういうものか知ってるの

 悲しみがどういうものかも知ってる」

そんな彼女のせいでぼくはまるで

まだ生まれてないみたいな気持ちになる

 

ぼくは言った

「誰がそんな こっちが気が狂ったと思えるような

 そんなこと全部をきみの髪の下に吹き込んだんだい

 きみのせいでまるでまだ出生前な気がしてくるぜ」

 

彼女は言った

「わたしの言ってること分からないんだね」

ぼくは言った

「いやいや そりゃ違うよ

 ぼくが子供の頃 全ては正しかったんだ

 全ては正しかったんだぜ」

 

唐突なリズムチェンジの中で高らかに歌われる「ぼくが子供の頃 全ては正しかった」の一節がまるで話が噛み合ってないみたいに出てくることにもサイケデリックな恐怖をさらっと覚えつつ、しかしこの案外にナイーヴでノスタルジーな思考が、本作の後の大傑作『Strawberry Fields Forever』に間違い無く繋がっている。

 なお、この曲は本作レコーディングの最後に録音され、その際にはメンバーで唯一LSDを服用しなかったポールが他メンバーと喧嘩になり、録音に携わっていないという話もある。ポール抜きの録音はかなり珍しい。


 

8. Good Day Sunshine(2:09)

 ここからがアルバムB面。ポール作の、ピアノを中心としたシャッフルのリズムで、ひねくれたポップセンスのヴァースからメリハリのあるタイトルコールへ展開する、これより後の彼の平均的なポップソング像を体現したようなところのある楽曲。この曲のメロディをもっと真面目に書いてアレンジを凝ると『Penny Lane』に、もっとパワフルなボーカルとアレンジでやると『Lady Madonnna』になるのかなって気がする。

 フェードインを装ったようなピアノのコード連弾から始まり、いきなりシャッフル感の強い頭打ちリズムでのタイトルコールのメインテーマを提示する。この曲はひたすらそれと妙にひねくれたヴァースとの繰り返しで、よく言えばシンプルで無駄がなく、悪く言えば後年の彼の同路線の曲と比べて作りが雑。ヴァースのメロディのひねくれっぷりは確かにタイトルコールの突き抜け方をより強調してはいるけども。カラッとしたシャッフルの感覚にはアメリカ的なところがあり、実際作者本人がThe Lovin' Spoonfulの当時のヒット曲『Daydream』からの影響を公言している。

 この曲のリズム隊以外の演奏は大体全部ピアノで、なのでポールソロな感じが大きい。ドラムはサビで実にこのドラマーらしいフィルインを披露していて、最新のかなりクリアになったミックスによってこのフィルインが後にダビングされたものだとわかりやすくなっている。あと、こんなオールドスタイルに思える楽曲なのに、コーダ部では前曲などと同じように唐突に本作的なラッシュ加速みたいな仕掛けが出てくる。この曲ではキーが段々上昇していく。こんな仕掛けを入れることがノルマだったんだろうか。

 歌詞については、太陽の輝きと恋人の素晴らしさを掛けた、要するに普通のポップソング。ある意味『Yellow Submarine』よりもたわいない。

 

ぼくら散歩をして 陽の光が降り注ぐ

地面を踏みしめて足が焼けてしまう

 

この歌詞から数年後、アルバムジャケット撮影のために8月の晴れたロンドンの横断歩道を渡る際に彼はなぜかわざわざ裸足で渡って、それが採用された。『Abbery Road』という作品の話。まさかこの曲の歌詞のことを思ってわざわざ脱いだ訳でもあるまい。

 

 

9. And Your Bird Can Sing(2:00)

 本作のジョン曲では最も邪気やサイケデリックさの少ないストレートな、まるで本作仕様のジャキジャキなギターサウンドThe Byrds風の楽曲を演奏しているかのような感覚が爽やかな、“ギターポップ/ギターロックの故郷”のひとつかもしれない楽曲。本作のポップサイドの曲でもとりわけ突き抜け方が快いナンバーだけど、作者本人は「捨て曲」と主張して憚らない、ちょっと可哀想な曲でもある。

 とにかくにもイントロのギターフレーズの爽快感。The Byrdsならこういうのは12弦ギターの煌びやかなプレイになるんだろうけど、そういうベタなのを外したかったんだろう、いい具合に本作的な歪み方をしたギターの音色のままでこれを弾いていて、リズムギターもまたクランチの効き具合があって、それがこの曲をギターポップ的ともギターロック的とも思わせる塩梅になっている。どっちもこのバンド存命時よりずっと後にできた概念だから当時の彼ら的には関係ないことだろうけども。

 この曲はこのメインフレーズが間奏でより伸びやかに変化していき、かつ歌のセクションでも爽やかなメロディがいい具合の抑揚とコーラスワークを伴って通り過ぎていく様が本当に爽快感があって、リズムもフィルをバタバタ入れずにどっしりしてるのがなんだかピースフルな感じに思える。ブリッジ部のギターバッキングのガチャガチャ具合のどこかヤケクソな感覚もまたガレージロック的な味わいがあって、もしかして本作がなんだかんだでギター寄りのアルバムだと思わせるのにこの曲は決定的な役割を果たしているのかもしれない。ブリッジ2回の後にさっさと最後のヴァースに入って、ここだけより音の高いコーラスが取り憑くのもまたメリハリの付け方が的確。

 一体ジョンはこんないい曲の何が気に入らないんだろう…と思うけど、やっぱ歌詞か。色々とリズムと韻を合わせただけっぽいナンセンスさが垣間見えて、何が言いたいのかよく分からないもんな。でも、これはこれで妙に思わせぶりなところがあって、何よりも“鳥”の存在が象徴的でもあり単純に可愛らしくもあり。全文翻訳。

 

欲しいもの全部手に入れったってきみは言うね

そしてきみの小鳥は歌えるんだ

でもぼくを掴めやしない 掴めやしないさ

 

世界七不思議を見てきたってきみは言うね

そしてきみの小鳥は緑色なんだ

でもぼくのこと見えやしない 見えやしないんだ

 

きみの大事な持ち物が重荷になってきたら

ぼくの方を見てみるんだ そばにいるさ そばにいる

 

きみの小鳥が壊れちゃったら落ち込んじゃうかい

きみは目を覚ますのかもね そばにいるさ そばにいる

 

存在するあらゆるサウンドを聴いてきたときみは言う

そしてきみの小鳥はスウィングするんだ

でもきみにぼくは聞こえない 聞こえやしないんだ

 

拗ねてんのか励ましてんのかまるで分からん。でもこのどっちつかずな感じ、やっぱ好きだなあ。当時の人間関係と照らし合わせて様々な解釈があるそうだけど、それはしたい人がすればいい。“sing”と“swing”で韻を踏む、そんななんかもうしょうもないな…って感じがどうにも愛おしい。

 

 

10. For No One(1:59)

 2分をわずかに下回る尺のこの曲こそ、ポールのミニチュア職人めいたポップセンス・アレンジセンスが静かに結実した、ポール的な「慎ましやかな凄まじさ」のみで作られた、メロウで予めノスタルジックな“隠れた”名曲。他2人のソングライターの作風も本作で飛躍的に変化したけども、もしかしたら本作一番の飛躍はポールのこういう人知らずにプロ根性に満ち満ちた楽曲なんかに見出せるかもしれない。

 本作的なイントロ無視で始まるスタイルの曲だけど、この曲の場合その第一音からして、ピアノとグラビコードの重ねられたの質感は実に“予めレトロ”な手触りに満ちている。メロディも実に繊細で優美で、アメリカ的な晴れやかさではなくもっとヨーロッパじみた演劇の感じがある。間奏の伸びやかなホルンなども合わさったそのヨーロッパ的な情緒の様に、まるでこの曲や『Eleanor Rigby』で作者はクラシックを“再発明”したかのようで、それこそまさに今で言うところのチェンバーポップ、ということなんだろう。まるでネジを巻いた機械から流れてくる音楽のような感じがする。オルゴールアレンジとか実に映えるだろうな。

 最新のリマスターによって各楽器の定位がクリアな感じになったことで、この曲のリズム関係、シンバル中心のドラムとタンバリン、マラカスの存在がより明確に浮かび上がってきた印象。ポールとリンゴと外部ミュージシャンのみでこの音像が構築されていることも含めて、この辺の繊細緻密な配置っぷりからも、ミニチュア細工職人めいた彼の執拗なアレンジセンスがより強調される。そして、そんなクリアになった音像の中だからこそ、間奏のフレンチホルン*26がどこまでも優美で切なく響いてくる。

 歌詞もまた、第三者の視点から別れてしまった恋人たちの明暗の様を冷徹に描写したもので、『Here, There〜』の甘美な祈りは何だったんだ…というぐらい冷徹なのでちょっと笑ってしまう。未練たらたらの男性側と、さっぱり切り替えて新しい暮らしを送っていく女性側の対比は、どこの国でもそんなもんなのか、と思わされる。あまりに身も蓋もないので全文訳。

 

夜が明けても きみは心痛める

彼女の優しさに満ちた言葉たちが残ってるのに気づく

彼女はもはやきみを必要としてないのに

 

彼女は起きて 化粧して 時間をかけ 慌てもしない

彼女はもはやきみを必要としていない

 

【※】

そして彼女の瞳に きみは何も見出せない

彼女の涙に恋のしるしなどない

誰のためでもなく泣いただけ

ずっと年月を重ねていくはずの恋だったのに

 

きみは彼女を欲して 彼女が必要で

彼女がこの恋はもう死んだのって言っても信じない

彼女がきみを必要としてるって思ってる

 

【※】繰り返し

 

きみは家に残って 彼女は出ていく

彼女は言う ずっと前には誰かを知ってたけど

彼はもういなくて 彼をもう必要としてない って

 

夜が明けても きみは心痛める

彼女の話したことみんなが頭を埋め尽くしてしまう

そんな時もあるだろう きみは彼女を忘れやしない

 

【※】繰り返し

 

恋のアドバイスとかそういうの全くなし。ジョン・レノンが思い込みでどこまでも暴走するのに対し、ポールの怖さはこういう愛想を消した時の冷たさだろう。その恐ろしい性質は時にこのように残酷だけど美しい楽曲を生む。アレンジ同様言葉も徹底していて、本当に「きみ」に対して冷淡極まりない。

 個人的にはポールのソロ以降のアルバムはこういうタイプの楽曲が多く含まれてると好きになりやすくて、その意味で2005年の『Chaos and Criation in the Backyard』は最高の作品だった。返す返すも、彼の“本気”はどこか執拗で、共同作業者を遠ざけ、自身で色々とやった方が上手くいってしまうという、バンド演奏も大好きなはずの彼からすると可哀想にも思える性質の才能が、この時点で既に垣間見えていて、その才能のあり方もまたこの曲のメロウな美しさに貢献しているのかもしれない。

 

 

11. Doctor Robert(2:14)

 なぜかここから3曲連続でシャッフルのリズムの楽曲が続く。なんでなんだ…。ジョンの作品で、トーキングスタイルの歌唱とジャンク気味な演奏をブリッジ部分の浮遊感だけで解決してしまう、ジョン的な力技感がありありと感じられる楽曲。本作のジョン曲でも一番雑な作りだと思うけどその雑さがジョンらしいといえばそう。

 イントロとも呼べないような伴奏で始まり、沢山の言葉数をリズム感に任せて軽く吐き捨てて回るかのようなボーカルはBob Dylan影響後のジョンの得意スタイル。ギターリフ一発の気だるいグルーヴで、その雑なリフをえらく大事に引き伸ばし、音を下げてみせて強引に展開を作り、その辺のやりくりでメロディめいては無くともそれなりに軽快にヴァースを進行させてみせるのはさすがの手管。

 この曲はそういう明るくも暗くもないグダグダした感じから急にブリッジ部で、リズムを切った上でハーモニウムによる浮遊感に満ちた展開に持っていく、そのギャップで成立している。グダグダしてればしているほど、このブリッジのえせ神々しさが増す寸法だ。地味に単音を途切れがちなノイズ風に演奏してみせるリードギターもいい仕事をしてるし、何よりもこの浮遊感が楽器的にはハーモニウムとギターとベースだけで形作られている、その案外にダビングの少ない構成なのは興味深い。

 歌詞的には、ヤバい薬を処方してくれる先生を紹介し続けるというもの。この医者のモデルが誰かというのは諸説あるのでさておき、ともかく本作のジョンはドラッグに対してひたすらポジティブな心持ちで接しており、この1年半後くらいにはドラッグでボロボロになった心境を歌ったり叫んだりするようになるとは思えないくらい明るい。

 

きみが落ち込んだら彼が引っ張ってくれるさ

ロバート先生だ

彼の特別な一杯を飲んでみな ロバート先生だ

ロバート先生 信頼しなきゃな奴だぜ

必要とあらば誰でも助けてくれる

ロバート先生ほど上手くやる奴なんていねェよ

 

ああ ああ ああ ああ 良くなってきたっしょ?

ああ ああ ああ ああ 彼がきみのことを…

ロバート先生

 

ぼくのこの友達 国民健康保険センターで働いてる

ロバート先生

金など払わずとも会いに行けばいいんだ

ロバート先生に そうロバート先生

フレッシュでより良くなるのさ

理解を助けてくれるのさ 可能な限りやってくれるぜ

ロバート先生

 

まさかの国家公務員なのか…そんな人がLSDを嬉々として…と思うと当時の時代の感じが伺えるというか。95%を税金で持っていかれてしまう代わりに、こういう形でも福祉が発達しまくってるという。不思議な国だなこの時代のイギリスってのは。

 

 

12. I Want to Tell You(2:27)

 ジョージ作による、ジョージ的なナンセンスさ・剽軽さの出たメロディを本作3曲の中で最も多く含んだシャッフルテンポの、なので明るいとも暗いとも言えない妙なテンションの曲だけど、同じコードで展開を偉く引っ張る感じといいシャッフルテンポといい、色々と前曲と被ってる感じがして、なぜこの曲順に…?という気持ちも。

 イントロのギターフレーズ*27は何故かフェードインで入ってくる。この辺、根本的な必然性があってというよりも何となくやっただけな感じがするけども、この曲の大事な特徴になってはいる。イントロではギターがメインだけど、歌が始まるとメイン楽器の座がピアノに移るのも不思議。ピアノはポールによる演奏で、1曲目に続きまたポールがジョージの曲で活躍する構図になっている。

 ヴァースの部分は3コード構成だけど、えらく同じコードで展開を引っ張り続け、変なところで変化させてくるのはサイケデリック的な作曲法。中でもルートのAに戻って解決する前のE7♭9というコードが曲者で、ギターで弾くとかなり濁った音になり、その濁った成分をブライトに出力するにはピアノがメインになるのもやむなし、という感じ。こういう変なコードを入れてくるのも彼がこのバンドで作曲者として生き残るための生存戦略の一部だったんだろう。ブリッジのメロディ回しもなかなかにシュールで、この辺はバンド後期以降露骨になるジョージ節が既にある程度完成しているとも言えるし、またこのメロディは次の年に録音されてはボツになった『Only a Northern Song』にもある程度使いまわされてる気がする。

 この曲でまたコーダ部分のラッシュ展開が咬まされる。少しずつキーが上がっていくので、この辺はエンジニアのテープ操作で作ってるのかなやっぱ。派手なサイケ曲が多くて目立ちにくいけど、この曲も十分にサイケを狙って作られた曲なんだよなあ。

 歌詞は「“伝える”ということのもどかしさ」を東洋哲学を引きつつ歌ったもの。というかジョージの歌詞ってよく「I don't Know」とか出てくるよなーっていう、その王道みたいな感じ。

 

きみに伝えときたいが

ぼくの頭の中には言うべきことが詰まってるんだ

でもきみがここにいると

そんな言葉全部消し飛んじゃうみたい

 

きみのそばに行くと

ぼくを引きずり落とすべくゲームが始まるんだ

大丈夫 きっと次の時あたりには上手くやるさ

 

でももしぼくが不親切っぽく見えるのなら

それはただぼくのせい でもぼくの本心じゃない

物事がこんがらがってしまってるんだ

 

うーん自虐的なような言い訳がましいような。でもこういう曖昧なテイストが巡り巡って『While My Guitar Gently Weeps』や『Something』まで発展するんだから分からない。確実にそういう芽はここにあると思う。

 正直本作のジョージ3曲では一番地味なポジションかもしれないが、しかし何故かソロでの1991年日本武道館公演で1曲目に抜擢されるなどの意外な活躍もあったりする。またこの曲のシャッフルのノリはバンド後期の彼のシャッフル曲、『Not Guilty』だとか『For You Blue』とか『Old Brown Shoe』なんかに引き継がれていて、どことなく本作の皆作風の感がある『Taxman』や3曲でやめちゃうインド曲と比べても案外大切な曲なのかもしれない。

 

 

13. Got to Get You into My Life(2:29)

 ポール作の、これより前にも後にも無いくらいに躍動感に満ちたホーンセクションを従えて積極的に言葉と勢いを畳み掛けまくるファンキーなR&B調、サイケを隠し味にした楽曲。 このバンドは初期からしモータウンに強く影響を受けていたけども、この曲はまさにモータウンの「ウキウキするような性質のファンキーさ」の部分を的確に拾い上げた傑作と言える。アルバム中ではかなり唐突な存在だし、レコーディング当初から様変わりしすぎだけども。

 何を置いても、冒頭、ボリューム全開でチャンネルを埋め尽くすホーンの、少し歪んだような音色がインパクト大。唐突さなど無視して、シャッフルのビートに乗って軽快に言葉数多く吐き出していくポールのボーカルはまあ躁状態って感じで、ヴァースのメロディの抜け方にサイケ時代の要素が含まれる。BメロはもっとモロにR&B的なキャッチーなフェイクも入れて、リズムとメロディ両方で強力に畳み掛けてくる。勢いあるボーカルメロディとバックのホーンの追いかけっこな状態だけでとても楽しい感じ。モロにモータウンっぽくなりすぎないよう、ボーカルをダブルで録音するという抜け目のなさも。コーラス部の叩きつけるようなタイトルコールと、その後のホーンの補完関係もまたショウめいたユニークさに溢れている。

 間奏部分のブレイクした箇所で隅に追いやられてたギターが少しトロンとしたギターフレーズを奏で、この辺にこの曲初期バージョンのサイケな頃の名残が見える。その後コーラス部をラジオからの音みたいに加工して一度流し、そこからのポールのアドリブ的なボーカル回しは実に堂に入ったもの。本当に何でもできる人だ。そのままフェードアウトしていく。こんな勢いある曲でもやっぱバンド感よりも「ポール&オールスターズ」みたいな感じになるのが本作の彼の曲なのか。

 歌詞については普通のラブソングに見せて、実はマリファナに対する愛*28を歌ったものらしい。知らなければ全然そう読めないような歌詞にそういった真意をイタズラのように忍ばせるのがポール流。良くも悪くも露骨なジョンとは対照的。ジョンはこの曲の歌詞をえらく褒めてるけど、マリファナの歌だからだろうか。

 

ひとりぼっちのぼくは旅に出た

そこで何が見つかるかなんて知りもしなかった

違った道を行けば違った気持ちを得られるかもって

 

ああ そして突然きみに会ったのさ

ああ ぼくの人生の日それぞれ全てに

きみが必要なんだって言ったっけ

 

きみは逃げないし嘘もつかない

ぼくがただきみを抱きしめたいだけって知ってたんだ

きみが去っても いずれはさ また会うんだ 言ったろ

 

ああ きみはぼくのそばにいる定めさ

ああ ぼくのこと聞いてて欲しいよ

言ってよ 毎日一緒なんだって

 

そりゃマリファナは逃げねえし嘘つかねえよ。「真っ当に見える歌詞が単語ひとつの取り方次第でヤバい内容に一転する」という仕組みを面白がってたんだろうな。

 既にちょっと書いたとおり、この曲の初期バージョンは相当違っていて、よく言えばスピリチュアルでサイケ、悪く言えばかなり貧弱なオルガンをベースに演奏される曲になっている。メロディは同じだけど完成版にはないサイケなコーラスが付いてきたり、ミドルエイトに「愛が必要だ」って連呼するいかにもサイケなセクションがあったり、この曲ははじめポール作のサイケソングを目指して制作されていた。それにしちゃあメロディがファンキー過ぎる、陰気なサイケアレンジで終わらすには勿体なさ過ぎる、とどこかで気づいて大幅な方向転換したんだろうな。大正解だと思う。結果として元々目指していたサイケ感は相当に薄まり代わりにアルバム終盤に唐突に快活なファンキーソングが屹立することになったけども。

 

 

14. Tomorrow Never Knows(2:57)

 アルバム最終曲にして、本作で最初に録音され、そしていきなり最高峰を達成した感じのある、ジョン作の、リズムループやエフェクトのサンプリング、逆再生エフェクト等、様々な作曲様式・サウンド手法・エンジニアリング手法を開拓しつつ、しかし現代においても大いに「何だこれは…?」と聴いた人をいい具合に困惑させつつもトランスさせる力を持ち続けている、サイケデリックロックの鬼子のような楽曲。本作の他のジョン作サイケデリック曲とも、これより後のどんどんズブズブとしたサイケ感に入っていくジョンの楽曲とも異なる、不思議に透き通ったアッパー感がある。正直、実力以上のものが出まくってる“奇跡の一曲”だと思う。そういう事故的なところで名曲を作る才能がジョンにはある。

 イントロのシタール等によるドローンのインド感を打ち破るように、すぐにまるでループになっているかのようなミニマルなドラムが入ってくる。もちろんループなんていう発想は当時なく、人力ループであり、延々と同じフレーズを叩いたもの*29。延々と同じものを叩かせようという判断の時点で相当思い切ってるけど、そこに乗っかってくる、もはや何の楽器から鳴らされてるかさえ不確かな謎のカモメの声みたいな音を耳にして、一気にこれまでとまるで違った異空間にやって来たかのよう。何を聴かされているんだ。

 ジョンのボーカルが入って以降もサウンドの混沌は続くけど、そんな状況をよそに彼のボーカルはどこか超然とした調子で流れていく。お経的というか。それは歌詞のインスピレーション元からもそのような歌い方になっているんだろう。途中からはこの曲のエポックのひとつである“レスリースピーカーに通したボーカル”が流れてくる。作者がエンジニアに「何マイルも向こうの山のてっぺんからダライ・ラマが歌ってるような感じ」を求めた結果生まれたエフェクトで、これからこのバンドはボーカル以外にも何でもかんでもレスリースピーカーに通して音変を試みることになる。

 楽曲自体もただの2コード*30の往復で延々と費やされ、その中をリズム隊以外はともかく様々な正体不明な音が出たり入ったりし続ける。全体的にどこかキラキラしたエフェクトが多い中、間奏ではきっちりと硬質なギターの逆再生と思われるエフェクトでキメる。かと思えばアウトロでは、加工されすぎておもちゃみたいになったピアノの音と光の束のめいたエフェクトとがどこかに飛んでいって、スペイシーなようなハイテクなような不思議な余韻を残して本作が終わる。

 歌詞は、というか歌詞も含めてこの曲は当時LSDをはじめとする幻覚剤使用の流行の中で出て来た奇書『チベット死者の書サイケデリック・バージョン』*31に大いに影響を受けている。チベット仏教の死生観とドラッグによる知覚の拡張(???)とを混ぜ合わせたその指南内容の如何はここでは書きたくないが、このような奇妙でしかし現代でも耳を引くトラックに結実したのは幸いな副作用だ。

 

心をオフにして リラックスして 下へ浮かんでゆけ

それは死ではない 死ではない

 

思考を総て放棄し 虚無に跪き給え

それは輝きである 輝きである

 

それにより其方は内なる意味を見出す

それは存在である そう存在なのである

 

この辺、作者がどこまで本気で『死者の書』をシャレ的に扱ってたのかそれとも半ば本気でのめり込んでたのかが分からないところがちょっと怖いところ。

 ともかくもエポックメイキングの詰め合わせみたいな曲だけど、曲名はリンゴのおしゃべりの中で半ば冗談めいて出てくる文法ミスの文章を面白がって付けられたもの。のちに同名のもっと普通に雄大なバラッドみたいな曲が日本で流行ったりもする。これ一曲でサイケはもとよりクラウトロックにもテクノにもエレクトロにも繋がりうる、しかしそれらのどれもとも言い難い、ある意味素晴らしく中途半端な異形さもあり、その異形さによって今日でも「変な曲」として人々の目耳を引く能力を持ってるんだろうなと思う。

 

 

ボーナストラック:シングル『Paperback Writer』

 折角なので同時期に録音されたこっちのシングルもレビューしときましょう。アルバム本編での混沌とした実験模様を隠しつつ、しかしバンドとしての演奏の充実と、特にカップリング曲『Rain』におけるサイケデリックな感覚の先取り感が見事な2曲です。

 

1. Paperback Writer(2:18)

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 ポール作の、ブレイク部の分厚いコーラスワークによるタイトルコールとソリッドなバンド演奏とを効果的に行き来するポップでシュッとした楽曲。この前の同じポジションのシングルが『Day Tripper』なことを思うと、まだどうにかバンド演奏できそうなようで、しかし密かに色々と変わりまくってる感じもある、その辺の匙加減のいやらしさが実にポール・マッカートニー

 まさにその素晴らしく編み上げられたコーラスワークでフワーっと曲を始めておきながら、スネア一発で一気にロックンロールバンドな演奏が立ち上がっていく様は格好いい。もう当たり前のようにギターリフを入れ込んでくるし、ドラムの音もえらくスネアのバシッとした音が強調されている。ベースの勢いもこの時期特有のグイグイと演奏をリードするような勢いがある。リズムギター側にいい感じの薄いトレモロが掛かっているのかギターの音の分離も良く、演奏の勢いの割には楽器の音の分離の感じがクールに聞こえるのが、歌詞の何ともな距離感共々面白い。

 ルート音のコードをえらく引っ張りたまにⅣになってすぐまたⅠ、というたった2コードしか展開がないのを感じさせないボーカルの饒舌、そしてブレイクからまたすぐさまコーラスワークに繋げていく展開の妙に、ヴァースが回ってくる旅にだんだんコーラスワークが追走してくる様も快楽的だ。

 歌詞は親族に「ラブソングばっかやね」と言われたポールが奮起し、「大衆作家になりたい男の歌」を作り上げたもの。ともかく作家になりたいんです、という訴えだけを書く手法はある意味物語的ではあるが、もっと第三者目線の物語歌詞が多いポールの曲にしてはこの主観が一気に語るようなスタイルは例外的な存在かも。

 おそらくスタジオで多重に重ねられているからライブで再現は不可能そうなコーラスだけども、しかしこの曲はかろうじて1966年のライブで演奏され、ライブをしなくなる前に最後にライブで演奏された“新曲”となった。

 

 

2. Rain(2:59)

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 ジョン作の、ミドルテンポのリズムにサイケな感覚をポップに溶かし込んだメロディ、演奏をよく引っ張るベースとプレイヤー本人が最高傑作かもと話す絶妙にバタバタし回るドラム、ブレイク部の楽曲全体を強引かつユーモラスにドローン化する手法、終盤の逆再生ボーカルなど、ともかく様々なものを開けた感じのバンドサウンドに落とし込んだ名曲。もしくは1990年代UKロックの偉大なご先祖さまというか、Oasisが歌えばまんまOasisになりそうなメロディ感覚というか*32

 歯切れのいいスネアの入りから一気に開ける演奏の感じは、メジャーコードであることもあり、雨の歌とは思えないくらいに晴々とした感覚を聴いてて覚える。少し東洋的なフレーズで反復して停滞するギターフレーズ、実にフリーにうねりまくるベース、そして所々でともかくスネアだの何だのをバタバタドタドタと連打しまくる、本当に絶妙に愛嬌に満ちたドラムの作り出す、何というか不思議に牧歌的にさえ思える快活な響き方*33。たとえばセルフタイトルのアルバムの頃のサニーデイ・サービスとかこの感じがモロに完成形では、と思える。

 ジョンの歌も、サイケ的なメロディの伸ばし方をしながらも、そのメロディの昇降具合の絶大なポップさはこの時期でも頭ひとつ抜けている。もう圧倒的にメロディがいい。途中からはこの上手く間を置いたメロディのその間にまたポップなコーラスまで入って来て、ポップさとユーモラスさがジョンの歌の中で最も快く噛み合った瞬間にさえ思える。

 楽曲はそんなヴァースからコーラス部で急にリズムをブレイクさせ、タイトルコールもギターもベースもひとつの音を延々と伸ばし、人力ドローンめいたことをしてみせ、そこから程よいタイミングで元のアンサンブルに戻ってみせる。この展開の作り方もまた、白昼夢のような感覚の中に快いドリーミーさが宿り、実験的な手法がポップさの向上に実に噛み合っていて面白い。

 この曲でもうひとつ重要なのが、最後のヴァースを歌い終わって、一度演奏が終了し、その後ベースが先導して、またアンサンブルを再開していくところ。このように一度演奏を終えてからまた再開してフェードアウトしていく、という楽曲構成はこれより後にこのバンドで多用され*34、後年には“ビートルズっぽさ”の手法として様々なアーティストから援用されている。この曲においてはそんな「出戻り」演奏の上にジョンの、元のヴァースの歌をコーラスごと逆再生させた奇妙な声さえ被せている。もうやりたい放題で、しかもそれが楽曲の魅力に直結し続けてる。

 歌詞は、天気に左右されてしまう世間と、別にそんなことで何も変わりはしないと思う自分との対比を歌っている。これは後にもう少し抽象的でファンタジックな形になって『Across the Universe』として発現する。どちらも朗らかな雰囲気を持った曲で、そういう曲でこそ「別に何も変わらないんだ」という自信めいた心境に彼は至るんだろうか。この曲においては最後の方のフレーズがちょっとした励ましのようにさえ聴こえるからいよいよ面白い。本当に素晴らしい曲で大好きなんで全文翻訳。

 

雨が降り出すと みんな走り出し 頭を隠す

まるで雨で死んじゃうみたいな具合かね

雨が降ると 雨が降るとね

 

太陽が輝ると みんな日陰に飛び込んでいく

そしてレモネードを一口啜るんだ

太陽が輝ると 太陽が輝るとね

 

あ〜〜〜〜め〜〜〜〜 気にしないさ

は〜〜〜〜れ〜〜〜〜 天気がいいさ

 

教えて差し上げよう

雨が降り出しても 全部同じままなんだ

教えてしんぜよう お教えいたしましょう

 

あ〜〜〜〜め〜〜〜〜 気にしないさ

は〜〜〜〜れ〜〜〜〜 天気がいいさ

 

ぼくが聴こえるかい

雨降りも日差しもさ それはただの気分さ

ねえ 聴こえる?聴こえるのかい?

 

(逆再生によって謎の呪文みたくなった解読不能のフレーズ)

 

 もしかしたら、1990年代以降のバンド音楽に一番影響を与えたThe Beatlesの曲ってもしかしたらこれだったりする可能性があるのか、とさえ思ってしまうことがある。曲の良さ、演奏の良さ、テープスピード減速による音質変化の絶妙さ、「Nothing gonna change my world」な歌詞、全ての要素に愛すべきチャームポイント、どこまでも自由そうな空気が感じれて、雨の曲だというのに本当に、聴いてて伸び伸びした気持ちになる。どこまでも視界良好、万事快調、って感じしか伝わってこなくて何だか幸せな気持ちになる。あるいは、捻くれ者における威風堂々の形みたいな。雨の曲なのに。つくづく変な話で可笑しくてたまらない。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・

終わりに

 以上、14曲35分のアルバム+同時期のシングル2曲でした。アルバムのレビューのはずだったけど、ひょっとしたらアルバムのどの曲よりも『Rain』が好きかもしれんなあと改めて思ったりもしました。

 本来であれば2022年10月に本作スペシャルエディションが出てそう遅くないうちにこういうものを書いた方が良かったように思えるもののそうできなかったのは、単に筆者がこんなものが出ていることをかなり最近知ったくらい情報に疎くなっていたためです。純粋に反省点ではありますが、しかしじゃあどうやって改善すべきかとなると難しい…。

 正直、世界中で語り尽くされているであろうこのアルバムについて改めて何を書こうというんだろう、と書き始める前は思ってましたが、意外と書くことがあってまた長い記事になりました。ここまで読んでいただいた方は本当にお疲れ様でした。

 いくらこういうブログなどで本作やホワイトアルバムを「現代の作品の横に並べても全然引けを取らない名作の中の名作」などと書いても、実際は音質とかミックスとか根本の発想とか何とかで現代の音楽のある程度のものとこの1966年やらの作品とは様々に違っていて、引けを取るか取らないか以前に比べようがあるのか、ある程度の人たちには「古い音だから聴かない」で終わってしまうくらいのものではないのか、という諦めみたいなのもあります。しかしながら、その“古い音”の大きな理由であった泣き別れミックスについては、2022年のリミックスによって相当に克服されて、それが嬉しかったので今回こうやって書こうと思った次第です。少なくとも、これで本作を現代のインディーロックとかと並べて聴くような楽しみ方もしやすくなったんじゃないかと考えます。「偉大なる歴史的名盤だから」と神棚に置いて聴かない、ではなく、もっと普段聴きできるユニークな音楽として、時代を超えて様々な作品が聴かれるようになればいいんだろうなとは思います。

 このあとがき、全然アルバム自体のことについて話せていませんが、まあ名作なんですが、いいなって思うのは、「作品全体でこういう風に落とし込んでいこう」みたいなビジョンがまるで見えなくて、ともかく思いついたことを何でもやってみようとして実際やってできたものをとりあえず並べただけ、っていう感じの、その気軽さこそ、この作品ならではのソリッドさとか思い切りの良さとか楽しさとかに繋がってるのかなと思いました。

 本作を聴いたことのない人がこんな長い文章を読もうとするとは思えないので、そういう入口としての機能はまるで望むべくもない気もしますが、それでも、この不毛な文章に何か読んでて面白いところが少しでもあったのであれば幸いです。

 それではまた。公式は早く『Rubber Soul』のスペシャルエディションを…。

*1:何故か3人のソングライターそれぞれに1曲ずつこのようなアウトロの曲が収録されています。バンド内ルールだったのか…?

*2:それはこれだけの名作をもってすればまあそうかもしれないんだけども。

*3:というか『Sgt. Papper's〜』こそまさにサイケとチェンバーポップの狭間にある作品なんじゃないか…と考えられ、なのでチェンバーポップ方面からの再評価があったりするんじゃなかろうかとも思ったりはする。チェンバーポップ自体が筆者はよく分かってないからこのブログでその再評価なるものを試みるのはやめておくけども。

*4:とはいえ公正を期すならば、本作よりも3ヶ月早い3月にはThe Byrdsのシングル『Eight Miles High』が出ており、こちらもベクトルは異なるもののかなりアヴァンギャルドなインプロを有した作品で、明確にサイケデリックロックだと感じれる作品としてはより早い。このように、ちょくちょく先駆的なことをやっているけれど、それでも抜きん出た名作アルバムを作るまでには至らないところがThe Byrdsの不思議なところだけどもそれはまた別の話。

*5:『Good Day Sunshine』のアウトロくらいか。

*6:リリースは1967年2月。

*7:しかしながら、実際の彼自身は本当は派手なドラムソロとかフィルインを好んでいなくて、ストイックなリズムを刻み続ける方が好きらしい。実際バンド解散後の客演のドラムはそんな感じの方が多い。でも彼のドラムでイメージされるのはバタバタ風味のものの方が多いであろうし、この辺ままならないものですね。

*8:彼はバンドが特にクラシック方面の手法を求めた際に実際に演奏したり、スコアを書いて楽団と調整したり、といった役割が、特に本作以降は大きくなる。

*9:ハモンドオルガンに使われていた、出力された音を適度に揺らす装置。

*10:Artificial Double Tracking、略してADTと呼ばれる手法で、今日でもショートディレイ等によって同じことが行われている。

*11:全体的にポール贔屓。実際仲が良かったのもあるだろうし、『Band on the Run』のエンジニアも彼が務めている。そして実体験での充実度からか、彼からすると『Sgt. Papper's〜』こそが完全無欠な最高傑作となるようで、この辺はエンジニア目線だとそうなるのか、という気持ちになる。

*12:なお、日本公演やフィリピン公演での大統領歓迎パーティキャンセルによるロックアウトはアルバム制作終了後の話。録音終了のわずか9日後には日本公演初日で、そのまま香港、フィリピンとツアーしていて、日程の濃密さが分かる。

*13:本作のミックスし直しと似たようなことはすでに1999年の『Yellow Submarine Songtrack』で行われており、こちらはより音を加工した“リミックス”だけど、そちらの方が良い、という声もある。The Beatlesの場合、ステレオ等も含めた様々な原理主義者が世界中にいて色々とややこしくてやりづらそうなところ。

*14:逆に、比較的早くからバランスの良いステレオミックスを製作していた例としてはThe Beach Boysが挙げられ、『Pet Sounds』は1997年に既に素晴らしいステレオ版が製作されている。現代での各作品の高い評価はこの優れた“リミックス”に支えられた側面もあるはず。特にこのバンドの作品を“音響派”的に捉える向きには。どうしてThe Beach BoysThe beatlesThe Rolling Stonesと違い早期に現代的なステレオミックスができたのか考えるに、元々Brian Wilsonの特殊事情によりモノしかなかったのが、結果的に原理主義者を産みようのない環境に繋がったのか。

*15:当時は「どうして『Yellow Submarine Songtrack』でできたことができないんだ…?」と思ったし今でも同じように思ってる。結局モノボックスを買った。

*16:当時の政治家の名前を突如コールしだすなど、実に自由。ちなみに別テイクでは別パターンのコーラスワークも聴けるけど、完成版の方がずっと完成度高いなと思えるところは流石。

*17:ベースに関して言えばこの時期のシングル曲『Paperback Writer』は貴重な例外かも。

*18:当時の政権与党党首にして首相。

*19:当時の野党第1党党首。

*20:この辺はそれこそThe Kinksあたりが得意とするところだけど、もっと素でひねくれ返しているあちらと比べると、ジョンのそれはもっと直情的にだるさが立ち上ってくる。

*21:ちょっとしたコーラスだけとはいえこの時点でどうにもならなそうに思えるデモに付き合ったポールがちょっといい人に思えてくる。

*22:作者本人曰くこの辺りに『Pet Sounds』からの影響があるとのことだけど、いまひとつよく分からない…別にThe Beach Boysっぽくはない気がする…。

*23:このことは本作が総体で見るとキーボードよりもギター寄りのアルバムとイメージされることに消極的に、しかし確実にある程度は貢献していると思う。

*24:これはデラックスエディションのSE入れる前のテイクを聴くとそのスカスカっぷりがよく分かる。

*25:なんでも、ジョージも手伝ってジョンの複数の曲の断片を結合させて作ったのがこの曲らしい。

*26:演奏したのはエンジニアのジェフの知り合いらしく、その録音は凄いプレッシャーの中での人生を賭けた演奏だったそう。

*27:開放弦を多用したなかなか簡単でかつシニカルなフレーズで、弾いてて楽しい。ギターをお持ちの人は調べてみて弾いてみると楽しいかもしれない。

*28:ポールはLSDには拒絶感を示すけど、マリファナは大好きだったらしい。

*29:ご丁寧にもそこに同じく反復するタイミングでパーカッションが重ねられている。

*30:しかもキーのCに対して全音下のB♭で往復し続けるので、ボーカルのメロディも強引さに沿ったふにゃァ〜となったものになっている。

*31:「はぁ????」と思うようなタイトルだけどこれは邦題。原語である英語の正式な名称は「The Psychedelic Experience: A Manual Based on The Tibetan Book of the Dead」。

*32:なんならOasisの前身バンドはこの曲タイトルからあやかったThe Rainという名前。

*33:この辺には、元の演奏のテープスピードを遅くしてそこにボーカルを乗せる、という手法でこの曲が作られたことも大きく影響している。遅くする前のテンポのこの曲がボートラに入っているので聴くと、完成版とかなり印象が変わる。

*34:『Strawberry Fields Forever』『Hello, Goodbye』あたりをはじめ幾つかあり、また後年になって本人たちもこういう曲構成がビートルズらしさだと思ったのか、擬似再結成曲『Free as a Bird』でも再現している。