ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『Heaven or Las Vegas』Cocteau Twins(1990年リリース)

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 4AD記事の続きを書いていくつもりが、ふと「Cocteau Twinsは『Treasure』を取り上げたけども、このアルバムも相当良かったよなあ」と思って聴き返したら、相当どころではなく良かったので、なんか急にこれ単体の記事を書きたくなったので書きます。

 なんというか、これが『Treasure』や『Victrialand』よりも上、とかそういうことを言いたい訳じゃないし、エグくて底知れぬ怖さ、神懸かり的な雰囲気を味わうにはもう絶対そっち2枚の方がいいと思うけども、そういうのとは別の次元で、このアルバムはやっぱすげえな、と思い直したので、4ADの記事で取り上げた『Treasure』を差し置いて、このアルバムについて見ていきます。

 なんというか、広範囲の後世の音楽に一番影響与えてるのはやっぱコレになるんだなあ、と思った次第。

 4AD記事の前半は以下のとおり。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 

Cocteau Twinsというバンド(?)について

 改めて。

 

結成からの来歴

 Cocteau Twinsスコットランド出身の、基本的に3人組のバンド。音楽的に中心人物となるギターのRobin Guthrieと、最初のアルバムの後に脱退してしまうベーシストのWill Heggieによりスコットランドのそんなに大きくない町で1979年に結成され、そして1981年にこのバンドの看板となるボーカルのElizabeth Fraserが加入、有名となったバンドの登竜門的存在として1980年代に一時代を築いたJohn Peelのセッションを経てから4ADと契約し、アルバム『Garlands』でデビューしました。

 4ADの記事でも書いたとおり、このバンドはオリジナルのベース脱退後の2枚目のアルバムからその本領を発揮し始め、ElizabethもRobinもこの時期にはそれぞれの自分の“強み”を掌握した感じがあります。4AD創始者Ivo Watts-Rusellによる音楽ユニットThis Motal Coilでの活動を経て、早くも3枚目となる『Treasure』*1にてその独自な世界観を徹底的に完成させますが、この過程の中でSimon Raymonde*2がバンドに参加し、ここまでの3人は解散する1997年までバンドに在籍します。1986年には『Victrialand』*3にてドラムレスの幽玄な世界観をアルバム1枚かけて形作り、そこにはもはや、ポップフィールドに完全に背を向けたかのような唯我独尊の世界が広がっています。

 その後、1枚のアルバム『Blue Bell  Knoll』(1988年)を挟んだ後に今回取り扱う本作をリリース、その後4ADと袂を分ち、別レーベルからアルバムを2枚リリースした後、1997年についに解散してしまいます。

 

メンバー

 アーティスト写真等ではモノクロ写真等で精一杯ムーディーに演出されていますが、特別ルックス的に耽美なところがある訳でもなく、The Cureみたくゴスな化粧やファッションをしている訳でもない、悪く言えばルックス的には野暮ったいスコットランドからの3人組って感じのこの人たちは、しかしながら1980年代イギリスが生み出した最も有名な異様な音楽と世界観を有した存在になる訳で。どんな風に異様なのか。

 

 

Elizabeth Fraser(ボーカル)

 このバンドの看板である「神憑りじみた異様なボーカル」を生み出すボーカリスト。彼女の声無くしてはCocteau Twinsは成立し得ないでしょう。

 彼女の最大の武器はやはり、高音ボイス使用時に時折見せる、通常のポップソングの範疇を超えた、どこかオペラ的というか、いやもはや儀式的・土着宗教的といって良さそうなくらいの異様なテンションによる異様な符割りとメロディのボーカルでしょう。この、まるでひとりの人間のエゴを完全に超越してしまったかのような、神に憑依されたまま歌い上げているかのようなボーカルの存在が、Cocteau Twinsというバンドの音楽を奇矯なロマンの果てまで連れて行ってしまいます。それはどこか中世や近世のヨーロッパのような、非キリスト教的・ペイガニズム的な世界観のような、そんな不思議な退廃感と耽美さを生み出します。楽曲によっては多重ボーカルによって彼女のそのような不思議な歌がもっと落ち着いた低音ボーカルとともに複雑に配置され、いよいよ尋常じゃない歌の広がり方を見せます。

 彼女の歌い方は本当に、自身のエゴとかよりも神の支配のもと鳴らされる楽器かのような旋律や譜割り、響かせられ方であり、時には巻き舌をしながらファルセットという意味不明なテクニックさえ使用します。そんなのできるんだ…*4

 

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 そんな特徴的なボーカリストであることから、バンド存命中も解散後も様々な他アーティストとのコラボレーションを残しています。バンド存命中であればThis Motal Coilでの『Song to the Siren』、バンド解散後であればMassive Attackの『Teardrop』辺りが代表作でしょうか。

 

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 彼女の“神の操り人形かのような”ボーカル方式は、女性ボーカルの可能性を後世に向けて大きく広げたものであることは間違い無いでしょう。時折、彼女の歌い方を彷彿とさせるような歌が時折楽曲単位で聴かれることがあります。興味深いのは、歌い方は彼女と似ていても、結果として人間臭いドロドロを感じさせるものになっている歌もあるということで、微妙なセンスの違いでどのようにも転ぶものだなあと思います。

 そして、そのような彼女の独特な歌のエッセンスを、一番聴きやすい形でなおかつしっかりと感じることができるのは本作か、もしくは一作前の『Blue Bell Knoll』なのかなあと思います。

 あと、歌詞を書くのも彼女の大事な仕事。独特のクセが強く曖昧な聴こえ方をする歌い方に歌詞を発表していないこと、さらに積極的に無意味な語句や英語がいの用語などを引っ張ってくることが加わって、英語圏においても何が正しい歌詞なのか様々な議論が交わされたりしている感じがありますが、少なくとも本作では、下記のもう一人のメンバーとの間に子供が生まれたことについて歌っている節があるようです。

 

 

Robin Guthrie(ギター、ドラムマシン、etc)

 このバンドの特徴である幽玄なギターサウンドを生み出すギタリスト。彼無くしてはCocteau Twinsは成立し得ないでしょう。このバンドがシューゲイザーだとかドリームポップだとかにカテゴライズされるのは彼の貢献によるものが大きいでしょう。

 ギターのポジションではあるけども、それ以上にサウンド面の総合責任者というか、現代的な目線で言えば“トラックメーカー”的な人物だと捉えた方が分かりやすいかも。バンドのサウンドをリードするコーラスやエコーの効いたギターサウンドの多重録音に加えて、様々な楽器を演奏しサウンドレイヤーを重ねていく手法や、ドラムマシンを利用した反復のリズムの組み方などは、むしろ宅録シューゲイザーとかドリームポップとかを目指す人達との親和性が非常に高いように思われます。というか、宅録シューゲ・ドリームポップ勢が彼のような先駆者のスタイルを模倣していったと言うべきか。その際に一番参考にされたのはおそらく今回取り扱う本作でしょうけども。

 

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 一方で、この幻想と幻覚の果てのようなサウンドを生み出すために並々ならぬものを要求され続けていたのか、彼は酒とドラッグに溺れていくことにもなります。困ったことに、そういった要素から連想されるサウンドのドラッギーさが最も鮮やかに拓けて聴こえるのも、そういった要素が実際の人間関係に致命的な崩壊を与え始めたのも、今回取り扱う本作になります。レーベルとの対立も決定的となり、本作を「レーベル始まって最高の1枚」と称した4AD創始者Ivo Watts-Russellとの決別さえ、本作の後に起きてしまいます。

 Cocteau Twinsをバンドと呼ぶのがなんか憚られる感じがするのは、はっきり言って音楽性的には彼とElizabeth Fraserの2人ユニットという感じの方がずっと大きく感じられるからかもしれません。実際この2人のみで極北の音楽『Victrialand』が作られていますし。そして、この2人は私生活においてもパートナーとなり、2人の間に娘が生まれています。しかし、1993年に離婚。

 

 

Simon Raymonde(ベース、キーボード、etc)

 『Trasure』の録音から参加するようになったマルチインストゥルメンタリストである彼は、しかし圧倒的な存在感のある他2人に比べるとどうしても地味な地位になってしまうところ。ただ、彼もまた、バンドにおけるメインパートであるベースに限らず様々な楽器の演奏が可能であり、それによってサウンドが広がった部分も何かしらあるはずで、特に今回扱う本作では、Robin Guthrieが酒とドラッグの問題によってスタジオでの作業時間が減少してしまった部分を彼が色々と補っていた側面があるようです。夫婦でもあるメイン2人から程よく距離が取れる、客観的な調整者としての役割も出てくるでしょう。

 また、楽曲中のコード感を担うよりももっとサウンドレイヤーに徹している感のあるギターサウンドの中では、ベースラインがコード感の形成においてとても重要なポジションになります。こういうことはニューウェーブ*5シューゲイザー*6でしばしばある話ですが、このバンドにおいてもそれは当てはまる部分が結構あり、彼のベースの動きが印象に残る場面も色々とあります。

 また、このバンドは作曲者がグループ名義になっていて、誰がどの曲を書いたか分かりづらいのですが、本作に関するWikipedia記事によれば、彼が本作の最終曲を作曲したらしいことが記述されていて、ソングライターとしてもどうやら一定の活躍があったものであるようです。

 

 

本作の特徴・本作の射程範囲につい

 本作はバンドで最大のセールスを記録し、特にアメリカでビルボードにチャートインしたこと*7知名度が上がり、それが後世からの本作へのリスペクトの多さにもつながっているのかもしれません。また世間での評価についても、リアルタイムでの4AD創始者Ivo Watts-Russellからの「レーベルの歴代リリースの中でも最高の1枚」という賞賛から始まり、Pitchforkにおける「ドリームポップの30枚」で最初に取り上げられるなど、後の様々なメディアでの高評価もあり、バンドの代表作となっています*8

 本作の何がそんなに人を惹きつけるのか。その音楽的特徴を色々と見てみます。

 

 

シューゲイザー・ドリームポップ色の強さ

 本作のいの一番に言及すべき特徴としてはもう圧倒的にこの要素になるのかなと思います。これはこのバンドのアルバムを全部聴いてみても、明らかにこのアルバムが一番そういう傾向にあると言えるでしょう。

 時系列を追って考えてみると、ポストパンク色の強い最初のアルバム『Garlands』から次第に独自色の強い極北のフォークロア的な『Treasure』『Victrialand』に移行して、しかし『Blue Bell Knoll』では結構なポップ化に成功していて、その時にギターポップ的にも感じられる作品の中で既にギターサウンドシューゲイザー的な揺らぎを獲得していましたが、それがより分厚く巧みな多重録音と『Blue Bell Knoll』に幾らかあったフォーキーさの減退により、思いっきり前面に出てきたのが本作だったと言えそうです。

 ギターの音色やエフェクト自体は、別に本作から新しい類の音が出てきたという感じでもありません。『Treasure』や『Blue Bell Knoll』でも聴いたことがあるような、濃いコーラスやらエコーやらの掛かった音色が、しかしこれまでになくみっちりと詰め込まれて、濃度の高いサイケデリアを構成している。それが本作にとりわけシューゲイザーとドリームポップを感じさせる理由なのかなと思われます*9

 また、バンドの出力と直接関係ないことではありますが、このアルバムが1990年というとしにリリースされていることも、シューゲイザーのイメージとして重要かもしれません。この年にはRide『Nowhere』やPale Saints『The Comforts of Madness』、シングルですがMy Bloody Valentine『Glider E.P.』などの重要作品がリリースされた、かなりシューゲイザー濃度の高い1年で、その年にちょうどCocteau Twinsも最もシューゲイザー色の強い作品を出したというのは、偶然にしては出来過ぎな同時代性を感じさせます。

 ただ、所謂“シューゲイザーの音”って感じでないのも確かだと思います。シューゲイザーでよくある「歪んだギターの轟音」というのが、基本的に本作にはそんなに見られません。また、本作はドリームポップというジャンルのルーツのひとつとされていますが、後世の典型的なドリームポップと同じものとして聴くには、メロディのクセが色々と目立ったり、所々厳しさや雄大さを感じさせてきたりと、やはりちょっと真芯そのものからはズレているような気がします。

 個人的にはその、シューゲイザーからも、後世の一般的なドリームポップからも、少しばかりズレてる、むしろ色々手探りで作った結果たまたまシューゲイザーやドリームポップっぽくも聞こえはする、という本作の微妙な立ち位置こそが、逆に本作のサウンドが後世で様々に援用されたり発展させられたりにつながりやすくなる要素なのかもとも考えます。

 

 

ポップさに絶妙に異形さが混入したメロディ

 もしかしたら、もっと普通に歌ものメロディしていたらこのアルバムはそんなに評価高くなかった可能性があります。しかしそこはCocteau Twins、前作くらいからメロディが分かりやすくなったり、3の絡む拍子ではなくストレートな8ビートが増えたりといった“普通”への歩み寄りを見せつつも、どこかしら超越的なメロディセンスは随所で発揮され、そこが多くのシューゲイザー・ドリームポップ勢との大きな差別化担っているかと思います。

 それでも楽曲は構成もメロディもグッとポップなフォルムになっていて、ソングライティングだけを見たら『Treasure』や『Victrialand』の頃と同じバンドと思えないくらい劇的にポップになっていて、後世から本作がとりわけ参考にされるのはその“ポップソングとしてのフォーマット”の部分にも注目されてのことなのかなと考えたり。どこかの地方の儀式音楽みたいなスタイルからずっと抜けが良くなりつつも、しかしどこかでその深淵さをまだ保ちつつ、というバランス感覚において、確かに本作はバンドの後期作品でも最もちょうどいい塩梅かもしれません。真似できない部分っと真似したくなる部分が程よく合わさってる。

 それと、これは1曲ずつ見ていって気づいたけど、このアルバムではこれまでのバンドの作品からすれば意外なほど様々な歌い方が試されています。それは時に南米の民謡のようだったり、もしくは北国の哀愁を帯びてたり、中華風だったり、R&B的な都市感だったり、かなり様々で、実はかなり器用なボーカリストだったことが分かるとともに、かつての“神懸かり”的な要素はかなり薄れてきてることも分かったり。ただそれでも、所々にかつての神性を出して来る様は、まごうことなきCocteau Twinsだと思わされます。

 

 

ヒップホップ的(?)なビート

 個人的には「言うほどそうか…?」と思いもしますが、他ならぬメンバーのうちの客観視担当であるSimon Raymondeがそのように言うんだからそうなんだろうなと。

 元々ドラムレスでリズムマシンを使って作品を作ってきたバンドですが、これはまず、前作から続く「ワルツのリズム使用の減少」と「8ビート曲の増加」が背景にあって、そしてどこかギターポップ的・フォーキーな感触のあった前作と比べてより無機質な音色が多くなったり、テンポを落とした楽曲が見られたりすることで強調された側面だと思います。スネアの音も、『Treasure』の頃のようなポストパンク的なエコー感の強いものではなく、もっと1990年代的なナチュラル寄りな質感だし。

 本作で「ヒップホップ的」と感じるのは特に偶数曲目の楽曲で、2曲目、4曲目、6曲目と、フォーキーな歌の感じから離れた、ループするトラックの上にサウンド的な歌を重ねたような感覚が披露されている。この辺はCocteau Twinsの全作品的にも割と例外的な局面で、しかしこの少しばかりハウスめいたトラックのおかげでこのアルバムのダンスフィールはより増していて、また、本作がシューゲイザーやドリームポップ以外にももう少し広い射程、たとえば1990年台のトリップポップだとか、2010年代の前衛的なポップトラックなんかからでも参照可能な要素になっているかもしれません。

 …あと、実際にヒップホップ〜R&B界隈の人物であるThe Weekndが、2011年の楽曲『The Knowing』で本作の『Cherry-Coloured Funk』をサンプリングしていると言うのは、より直接的な接点と言えるでしょう。もしかして、時代の流れもあってとりあえずこうなった感じのある本作のこのリズムの組み方は、思いもよらぬ後発アーティストとのリンクの仕方を生み出しているのかもしれません。

 

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これがそうなのか…?よく分からなかった…。

 

 

本作から影響を受けたと思しきシューゲイザー

 一番思いつくのはやっぱSlowdiveかなと。ディストーション的な轟音ではなく、もっとギターの音色とエコーによってゴスっぽさのあるシューゲイザーな空間を作り出す手法はどこかCocteau Twinsからの延長を感じさせる部分があります。2枚目のアルバム『Souvlaki』あたりはボーカルがElizabeth Fraserならそのまま“Cocteau Twinsの意欲的な作品”で通用しそうなサウンドのようにも思います。というかSlowdiveってどことなく4ADっぽい感じがするのに別に4ADじゃないんだなレーベルは。

 

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 同じ4ADレーベルから登場したシューゲイザーバンドであるLushも特に初期の音楽性はCocteau Twins的な耽美さを狙っていた節があって、そもそも初期のシングルはプロデュースにRobin Guthrieが参加していて、そりゃ直接的な影響あるよな、というところ。初期の代表曲のひとつ『Sweetness and Light』のリリースは『Heaven or Las Vegas』の1ヶ月後なんだから。同系統なギターサウンドは1994年のアルバム『Split』まで続きます。

 

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 もっと後の年のバンドへの影響も多々あるけれども、突然変異的なCocteau Twins直系サウンドとしてアメリカのオルタナバンドだったはずのBlonde Redheadの『23』は外せないところ。4AD記事後編でもう少し詳しく見てみたいと思いますが、急にどうしてこんな音になったのか。危うさが完璧なバランスでドリームポップとの境界線あたりを駆け抜けていくサウンドが実にCocteau Twins的。少々ダンサブルなのは『Heaven or Las Vegas』的とも言えます。

 

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本作から影響を受けたと思しきドリームポップ

 そもそも本作がドリームポップの始まりだとされることもあるので、ある意味ドリームポップはみんなこのアルバムの子供たちかもしれないけれども、直接的に影響を感じるものとなると何だろう。特にPitchfork以降のインディロック系統のドリームポップはそんなにギターに拘っていないのも多いから難しい。

 

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 そもそもMazzy Starってドリームポップか…?*10とは思うけど、本作の旅情の部分を取り出してもっと気怠くしたら案外近いのかもしれません。…とは言うものの、上記の曲が入った彼女たちの最初のアルバム『She Hangs Brightly』は同じ1990年の、しかも本作より前にリリースされています。なので、もっと前のCocteau Twinsからの影響はともかくとして、本作とは“偶然近い感じがちょっとあった”程度の関係に過ぎません…。

 

 

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 シューゲイザーとドリームポップのどっち付かずな感じのことを思うと、The Radio Dept.は案外本作のCocteau Twins的なところがあるかもしれません。特に、リズムがハウス的なものに変わって半ばギターロックを捨ててサウンド表現に尽くしてる感じの『Pet Grief』は方向性が本作に近いのかも。

 

 

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 「夜の金太郎飴(?)」ってくらいにどこまでも自身の音楽スタイルを一本気で歩んでいくCigarettes After Sexだけど、その楽曲の軸は確かに、本作の楽曲的なサウンドの覚醒感をもっと際立たせるべくオンとオフをより極端に強調した結果、という風にも考えることはできます。メロディはもっとRed House Paintersとかそっち寄りかなと思いもするけれど。

 

 

その他本作から影響を受けてるかもしれない人達

 この辺、少し無茶な話題の広げ方をしている気がしますね。

 

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 本作の非シューゲイザー的なハウス風味のトラックにはどことなくトリップポップの種が期せずして巻かれていた感じがあって、実際Elizabeth FraserはMassive Attackにボーカルで参加してたりと直接の繋がりもあるけれど、本作のCocteau Twinsが少しだけ手をつけてたところをもっと闇深く神経質に開拓していったのがPortisheadだと言ってしまうことは可能でしょう。こちらもある意味取り憑かれたようなボーカルだけども、取り憑かれているのが神様とかではなくもっと怨念めいた何かっぽく感じれるところは興味深いです。

 

 

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 1980年代的なもの大好きなR&BのSSWであるThe Weekndは、その初期に本作のタイトルを引用した曲があったり、上述のとおり『Cherry-coloured Funk』をサンプリングしてたりと、かなり本作に入れ上げている節があります。確かに、ギターをコードをジャカジャカ弾く楽器ではなくもっとサウンドテクスチャー的に用いる本作はR&B的にも接点を持ちやすい作風なのかも。この曲のどこがCocteau Twinsっぽいかと聞かれたらまあ、よく分からんけど…。

 

 

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 大胆なことを言ってしまえば、Frank Oceanの大名盤の2曲目に置かれたこの曲の、気が変になってしまったようなギターの音には割とガッツリとCocteau Twinsが感じられるような気がしないでもないのではないでしょうか。実際、アンビエントR&BというジャンルはドリームポップをR&Bに落とし込んだような部分があるので、それ経由で原初であるCocteau Twinsに接続することは大いにあり得ます。仮にそうだとして、それが本作からの影響かどうかはまた別の話な気もしますが…。

 

 

 頑張ればもっと色々と無茶言えそうな気がしたけど、この辺にしとこう。

 

 

全曲レビュー

 各曲ごと見ていきます。最近のいつもの感じで歌詞翻訳も少しつけますが、どの歌詞が正解か分からない上良く分からない表現も多いため精度はよく分かりません。

 

 

1. Cherry-coloured Funk(3:12)

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 冒頭の曲というのはアルバムの印象を決めてしまいかねないところだけど、この曲はまさに最初から「コーラスでトロットロな音色になったギターのリフレイン」と「実にCocteau Twins的な神々しさを見せつけるサビのファルセットのメロディ」で本作の印象の方向性を決定づけることに成功しているし、何よりしっとりとキャッチーだ

 案外スローでどっしりしたテンポのこともあり、イントロと同じリフレインで始まるAメロの方はどこかテンションが低く、ドロっとしてダレてるような印象さえ感じられる。これはこれでサイケデリックにも感じられるけども、まるでなし崩し的にサビに入った瞬間、コード感は一気に緊迫し、そしてそれまでよりも遥かに高いところからメロディが降ってくる。この振り幅、静かなまま静と動のダイナミズムが打ちつけてくる感じは、さしずめグランジ的な手法のドリームポップ式の活用というか。音色の変化はさしてないのに、ギターもまたサビに入ってより神々しく夢見心地な響き方をしてみせて、まるで聖歌みたいにこの曲を彩る。

 このバンドにおいて、Elizabeth Fraserのファンタジックでありヒステリックでもあるこのファルセットのボーカルがどれだけ武器なのか、冒頭からまざまざと見せつけられるし、いかに後世のドリームポップ勢が今作を目指しても、このボーカルの独特の“神に取り憑かれた”みたいな質感はなかなか再現できないだろう。この曲ではミドルエイト展開さえ用意し、少しばかり壮大な広がり方を見せた後に最後のサビのリフレインに入っていく。別のボーカルラインがこっそり追加される演出もありつつ、案外あっけなく演奏が途切れて終わるのは、しかし大仰じゃない分その素っ気なさがかえってクールに思えることもあるだろう。

 それにしても「さくらんぼ色したファンク」っていう、何だそれは…?と思わせつつも鮮やかなタイトルが冒頭の曲というのはなんかいい感じだ。この曲のどこがどうファンクなのかはこの際別にどうでもいい。そういえばジャケットの色合いはどことなくさくらんぼめいているけれど。

 この曲の歌詞を和訳してる人がいて、その人がどこかで読んだインタビューによると、広く公表されているこの曲の歌詞はボーカル本人が歌ってたのと違う、とのことで、なので以下の記事を書いた人が聞き取った歌詞に基づいて翻訳されてる。

 

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上記記事から引用。

 

支払請求書 痛み 憂うつ 私には 殆ど他に 何もない

そのうえ 短気で 眼鏡っ娘

口の悪さは 朗報だとおもって 聞き流して

 

いまでも 背後から 泣いたり 笑いかけてくる

空想の ふしぎなお化けに 追いつかれないように

 

…えっ眼鏡っ子の歌なのこれ?眼鏡陰キャ的な歌なのこれ…?

 

 

2. Pitch the Baby(3:14)

 冒頭曲の雄大さからすると意外な、どこか内へ内へと滑り落ちていくようなトリップ感がループするトラックやメロディよりもリズム感が効いたメロディ回しから感じられる楽曲。かつてバンドが得意としていた「異国の儀式」めいたそれとも大きく趣を異にしていて、かつこれより後の作品でもそんなに出てこない曲調で、そういうのが本作に何曲かあることは不思議ではあるけども、それが本作を特別にしているところもある。

 ひたすらループしていくリズムとウネウネしたシンセはどこかハウス的で、都会的な病みのテイストを有している。ギターもレイヤーを形作る一部という感じの鳴り方で、ギターロックバンドとしての感じは全くしない。ボーカルも超越的な感じも感情的な部分も見せず、割とスルッとした具合に言葉を重ね、サイケなファルセットを披露する。割と本当にこれ、トリップポップの前哨戦めいた雰囲気があるのかも。楽曲終盤の演奏のレイヤーが減ってリズムとシンセだけ残る感じとかも結構それっぽい。

 本作、ポップで名曲然とした楽曲が主に奇数曲目で出てくるようになっていて、それに比べると地味な印象を受けがちな楽曲のひとつに感じられるけど、でも人によってはかえってこういうトラックの方が大事だったりするのかもな、と思わせるポテンシャルがある。

 割と本当にヒップホップ的なリズムで吐き出されていくリリックはしかし、ボーカルのエコーもあって実に聞き取りづらく、歌詞サイトでも複数のパターンの歌詞が書かれているみたい。見違い発音の単語をリズミカルに吐き出し続ける感じに聞こえるため、おそらく本作で一番何言ってるのか聞き取りづらいのでは。ただ少なくとも、彼女が本作の前に妊娠・出産を経験したことが関係するだろうという指摘が複数なされている。

 

 

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 本作でもとりわけ爽やかな楽曲で、前作のリード曲『Carolyn's Fingers』と同系統の、前作『Blue Bell Knoll』で見られたフォーキーで、青空に向かって開けていくかのようなポップさが、今作的なシューゲイザーチックなサウンドと混ざり合った楽曲。本作の先行シングルとしてリリースされており、それも頷けるくらいにポップさが突き抜けている。『Treasure』あたりとはまるで別バンドみたいな軽やかさ。

 シンセっぽいノイズが伸びてリズムが入るイントロからして爽やかさの極み。しかしそこで聴こえるメインフレーズはギターなのかシンセなのかよく分からない音になっていて、これが本作のドリームポップめいた要素をブーストしている。歌が始まる頃にはこの曲の前作から引き続きのフォーキーっぽさがより明確に聴こえてくるけども、その正体であるギターカッティングも、これはアコギに大量にエコーを掛けたものなのかそれともクリーンな音色のエレキギターに同じことをしたものなのか判別がつかなくて、その辺も実に本作的な魅力的な曖昧さになっている。そしてこの曖昧な音色の中で楽曲をよく引っ張っているのがベースラインなんだと気づく。特に高音弦を鳴らすタイミングがとてもキャッチーだ。

 ボーカルはさほど超越的だったりミステリアスだったりはせず、楽曲の爽やかさに合わせてファルセットの使用なども清涼感に満ちている。しかしどこか歌い回し、音の伸ばし方に不思議な“辺境っぽさ”が感じられるようにも思えて、この辺りはこのバンド後期の楽曲、つまり“段々割と普通のバンドになっていく”中での重要な特徴かもしれない。メロディのクセの付け方はやはり、いつまでもこのバンド独特のものがある。

 この曲も随分と呆気なく終わってみせる。その辺、なんとなくやはり1980年代からのバンドなんだなあと思わせる、ポストパンク魂というか、そういうのを感じてしまう。

 この曲も歌詞を和訳してる人がいて、その人の和訳だと「自分たちの子供を持つことができたことをパートナーに感謝する歌」みたいに読めて、当時のメンバー2人の状況に合致する歌詞だなあと思う反面、ここで歌われる“子供”は明らかに“babies”と複数形で歌われていて、メンバー二人の子供は一人娘だったと思うのでちょっと実際と違ってるなと思ったり。そうこうして歌詞を読んでるうちに、そういえば2度目のAメロと最後のサビの歌詞が同じなんだということに気づいて、同じ歌詞を全然別のメロディで歌い直すのはあまり見たことないから不思議な感じがするなあと思った。以下その部分の拙訳。ネットで広く知られてる、合ってるかどうか不明な英語歌詞からのだけど。

 

あなたや あなた自身や それにあなたの父親も

自分自身のあるべき姿なんて大して分らないよ

でも本当に 二人の骨を接骨してくれるのはあなた

わたしをよくしてくれてありがとう 赤ちゃんたち

 

もしかしてこの歌詞の“you”って自分たちの子供のことか…。

 

 

4. Fifty-fifty Clown(3:10)

 この曲もまた「フォーキーな歌もの」から離れた、もっとトリップポップ的な要素を感じさせるハウスフィールの効いた楽曲。シンセがうねってるのも2曲目と共通で、そして歌メロには本作でもとりわけR&Bの要素が感じられる。なんとなく、本作がアメリカで売れたのはひょっとしてこういう歌い回しの楽曲があるからなのか。そしてもしかして、この曲のメロディラインは案外後のR&Bに影響を与えてたりしないか。

 2曲目と同じく、実に淡々とトラックはトリップしてリフレインしていく。この曲ではいよいよメインのコード楽器はシンセなんじゃないのかと思えるが、その響き方は全然現代的で、ボーカルのクセも全然Cocteau Twinsらしさが抑制されているしエコー具合も実に垢抜けていて、もしかして聴いたことない人に「2010年代のトラックメーカーの楽曲」だと言えば騙せるかもしれない。間奏のロングトーンのギターと申し訳程度のファルセットでかろうじてこのバンドっぽさが感じられるが、それにしても延々と低音ボーカルで囁き続けるこの楽曲の都会的な具合は本当に異質で、一体どこからこんなにR&Bなメロディが湧いてきたんだ…?と思わせる。この時期のイギリスならすでにSadeはデビューして何枚かリリースしてたりするし、そういうとこからの影響なのか?

 

笑いかけて 奥さんを怒らせて

彼の人生は眼に映るものを見くびらない

そよ風がまた吹いて来るような来るべき季節へ

彼はスキップしていく

 

なんか本当に案外この作品の歌詞は家庭の問題に入っていってる。

 

 

5. Heaven or Las Vegas(4:58)

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 イントロからして実にCocteau Twins(かもしくはSlowdiveか)って感じのギターフレーズが鳴り響く、そして“どこかの辺境の歌”っぽさを保ったまま見事にポップさを獲得したサビのメロディも素晴らしい、アルバムタイトルになったのも納得の名曲。アルバムリリースの翌月にシングルカットもされた。この曲、このバンドでも最上位の名曲だろうし、少しワイルドな開放感がとても素晴らしい。

 冒頭の4音のギターが響いた瞬間に「ああ、Cocteau Twinsを聴いているな」と思わせるに十分すぎるほどの冷たさ・神々しさ・儚さのようなものが響き渡る。この「降りてくる感じ」こそ!そのフレーズがひたすら印象的だけど、サウンドをよく聴くと、このメインフレーズとサビでのより煌びやかなフレーズを弾くギターと、小気味良いコードカッティングを続けていくギターとの2本およびリズム隊で構築されたサウンドは、思いのほか正統派シューゲイザーバンドっぽい感じもする。ただ、リードギターに掛けられたモジュレーションの強烈さは実に印象的で、こういう「この音色はこのバンド」みたいなのを持てるととても強いな、と思った。

 Aメロのどこかタメを持たせた悠然とした歌に対して、サビにおけるどこかの民族の歌を持ってきたみたいなメロディラインはインパクトが強い。ここにおいてはファルセットではなく素の声で歌うけれど、そのメロディの取り方が不思議で、自分はなんとなく南米的なものを勝手に感じてる。そんな調子のボーカルが、しかししっかりと爽快感とポップさをもって突き抜けていくのは、不思議な爽やかさがある。シューゲイザー的ではないメロディなので、この曲のシューゲイザーっぽさを下げてはいるけども、そんなの関係ないくらいに不思議な強烈さがある。

 2度目のサビ以降はさらに楽曲が展開していき、そこにおいてはリードギターの勇大で雄弁なギターソロが派手に響き渡る。Cocteau Twinsはやっぱギターバンドだなあという説得力が満ち溢れていく。そして、タイトルにアメリカの地名が出てくるように、Cocteau Twinsサウンドのままで広大なアメリカの大地を感じさせるような渇いた開放感さえどこか感じさせる。

 歌詞においては、どこか運命についての虚しさを覚えつつ、何か強烈に照らすものを切望するような思いが綴られているような気がする。一方で、アルバムタイトルにもなったこの曲名について4ADの回顧展であるジャーナリストは「(天国とラスベガスの対比は)真実vs策謀、音楽vs商売、あるいはギャンブル、最後に振るサイコロ」の意味が込められていると指摘する。どうかなあ、そうかなあ…?以下、全文拙訳。

 

誰が勝つのでしょうか ああ 貴方だって儚いもの

新しき 新しき虚無に還りなさい もうお終いです

 

著名な通りの歌を歌い 自分をただ愛したい

ここは天国?それともラスベガス?

太陽なんかよりずっと明るいんだけど

 

彼はハスラー そんな役割 スーツを作ることなんて無い

ここにグッと掴まって 留まってスピンして落ちて落ちて

誰が勝つのでしょうか ああ 貴方だって儚いもの

新しき 新しき虚無に還りなさい もうお終いです

 

(※)

著名な通りの歌を歌い 自分をただ愛したい

ここは天国?それともラスベガス?

太陽なんかよりずっと明るいのね

冷感で魂が痒くなる まるで古のカードゲームみたく

それがラスベガスについて考えてる理由なんだろうね

太陽よりずっと明るい訳なんだね

 

その上また ぶちまけてしまいましょう

目眩がするし行ってみよう 他の誰かは噛みちぎった

ファンタジーよ来たれ このカーニバルへ

結婚式を前にして なんだか空っぽなんだ

 

(※)繰り返し

 

もしかして 貴方が線路だったりしたなら

行って ハートを掴んで 一緒になろう

不安になるよ 貴方に歌いかけて

貴方がまだ昂りを感じてすぐに歌えるか

 

本当にそう歌ってるか知らないが、「I'm empty before our wedding」って歌詞の感じがなんか映画のワンシーンみたいで格好いいなあ。

 

 

6. I Wear Your Ring(3:29)

 本作の偶数曲目ということで、やはりハウス的・トリップポップ的な楽曲に仕上がっていて、この曲はそれらの中では特にメロディのウネウネした組み方等がこのバンドらしさを感じれて、最もこのバンドらしい“異様さ”を内包できているように思う

 ここまでの偶数曲目の楽曲よりもはっきりとコード進行や展開変化の感じがあるのがこの曲の特徴で、なのでR&Bというよりもっとポップソング的なように聴こえる。それ以上にインパクトがあるのが拍の取り方がリズムとポリリズム的になった歌メロの譜割で、この歌い方の変な感じには今度はどこかアフリカめいた雰囲気を感じさせ*11、実際に2010年代のBeyonceか誰かがこういう歌い回しをどっかでしてた気がする。なお日本においてもTHE NOVEMBERSが『ANGELS』という曲でもしかしたらこの曲のオマージュかもしれないメロディを書いている。

 それでも、この曲の明確にサビ的なものとして設計されたセクションにおけるボーカルが多重録音でふわっと乱れ飛ぶ有様はなかなかにCocteau Twins的で、というかむしろ「後年のCocteau TwinsリスペクトのR&Bアーティストが作ったサウンド」って感じもするかもしれない。何気にここのファルセットと平歌の組み立て方の複雑さは、実はかなり先進的なことをしていたのでは、と思わされる。最後は音程の上がったボーカルの畳み掛けに色々エフェクト的なボーカルを被せつつ、ゆっくりフェードアウトしていく。

 歌詞をちょっと見てみるけども、なんだかどこかドロドロしたものを感じさせる。あれっこの曲のタイトルって「貴方の指輪をつける」だよね…。

 

貴方は日の出てる間は忌々しさなんて感じない

貴方が狼狽えて忌々しげになるのは

それは雨の日だって知ってる

芝の方にお逃げになって

 

お母様と一緒にお金を工面してたかもだし

自分の存在感を見せたがってたかもだし

子供と着飾って トーストを食べ 孤独を受け入れる

 

男性って素敵 パートナーもきっと

薔薇は飛んでくかも 彼は浮気性

男性って便利 振り向き美人 男性って素敵

彼はわたしを喜ばせてくれる

振り向き美人 男性って便利

 

 

7. Fotzepolitic(3:31)

 もしかしたら本作でも『Iceblink Luck』以上に爽やかで朗らかなメロディを持っているかもしれない、3連のリズムで不思議にエスニックな郷愁を少しばかりエモーショナルに壮大に歌い上げる楽曲。ここまで朗々と歌い上げるのももしかしてこの曲が初めてじゃなかろうか。それにしてもここまで奇数曲目の楽曲がどれもこれまでにないポップさに溢れている。

 吸い込まれるようなエフェクトの後にキラキラしたギターのカッティングが聴こえてきて、その程よく揺らいだ音色共々、これは実に王道シューゲイザーな感触がある。実際はシューゲイザーオリジネイターの時代は3連のリズムでシューゲイザーというのはそんなになかった気がするけど、後年のインディーロック興隆以降の耳からすればこれはもう直球なシューゲイザーで、サウンドだけ見たらもしかしたらこの曲が一番それっぽいんじゃないか。

 しかし、そんなトラックに乗るメロディの方がまた、シューゲイザーと呼ぶには雄大すぎるメロディを高らかに歌い上げている。この辺の天然で王道的なものを外してくる感覚は実にこのバンドっぽいけども、このメロディもどこかの別の国の歌っぽさがあるけれど、これは今度はずっと東の方に来て、このメロディには中国的なものを特に感じる気がする。特にブリッジの箇所の不思議にメロディが降下していく際の細かい節の付け方になかなかにチャイナなものを感じないだろうか。実際、Cocteau Twinsはラストアルバムの時期くらいから中国の歌手Faye Wong*12に楽曲提供をしたり、ラストアルバムである『Milk & Kisses』にもどこかチャイナな雄大さを感じさせる楽曲が入っていたりと、中華的なメロディに接近していくけども、もしかしたらそのスタート地点はこの曲あたりにあるのかもしれない。

 この曲の終盤のギターサウンドは本当にシューゲイザー的で、結構長いことアウトロでこのサウンドを聴かせてくれる。最後の最後でちょっとだけ本当にシューゲイザー的なディストーションギターの厚みを得て、このまましばらく聴いていたいな…って思った途端にすぐ終わってしまう。この辺も王道的な快楽を天然で外してくる。その外しっぷりの天然さはどこまで行ってもCocteau Twinsなんだなあと思えて、むしろ愛しくなれる。

 歌詞を読むと、なんだか達観したかのような感覚が読み取れる。この曲の悠然とした感じはその辺から来るところもあるのか。

 

わたしの夢って低劣で病んでて どうにかしなきゃだ

そんなのが若い女の子の夢

あの子たちはそうやって 小さな星みたく駆けていく

わたしがただ無作法だっただけなんて

 

まるでわたしたちの歌う蹄の 怯えた毛並みみたいに

動いてる

 

家族なんてバカらしい

でも わたしが本当に想えるのは貴方

貴方もわたしの色々を受け入れるよ

 

色づいた星 だけど強く感じる

ラースへ寂しく向かうとき 頭が空っぽのとき

 

貴方に戻ってくなんて思いもしなかった

そうじゃない?

 

 

8. Wolf in the Breast(3:31)

 ここまでの偶数曲目の都市的な神経質さとは打って変わって、ここではミドルテンポのリズムに本作でもとりわけウォームなギターフレーズを重ねて、不思議な節の付け方ながらしっとりとポップなメロディが重ねられる、まったりと快い感じの楽曲となっている。この辺から「奇数曲はキャッチー、偶数曲はハウス的」という法則は全然なくなってしまう。そもそもそんな法則性を本人たちが考えていたか…。

 この曲の朗らかなコードのギターアルペジオを聴くと、いよいよこのバンドも普通にギターロックやってるなあ、という気持ちになる。勿論音色のちょっとした独特さと、そしてそこに乗るメロディの少しばかりの奇妙さはあるけども。この曲も特にAメロはどこか中国風味が尾を引いてるような。変なファルセットもそうだけど、特にメロディが低いところに落ち込むときの感じがなんとなくチャイナな感じ。

 サビ的な箇所の、確かにこのバンド的なボーカルの多重録音だけど、それにしても実に優しげで朗らかなメロディの畳み掛け方には、前曲共々、どこか楽曲のメロディの書き方という根本の部分でこのバンドが変わってきてるんだなあと思わされる。

 歌詞を読むと、やっぱり赤ちゃんが出て来る歌なんだなと分かった。

 

赤ちゃんが泣いてる

ベッドの上で笑いかけて誤魔化してた

とりわけ いつか仕返しをすることになることを

 

 

9. Road, River and Rail(3:21)

 昔のバンドの冷んやりしたギターの質感がこの曲では帰ってきていて、冷たく閉じたようなコード感で6/8拍子のリズムによって進行していく、割と従来のバンドのスタイルに近い形式の楽曲。どうしてそんな楽曲が本作では例外的な存在になっているのか。どんどんバンドが変わっていく時期だったんだなあ。

 このオールドCocteau Twinsスタイルに思える曲も、歌のメロディや歌い方にはかつての「ささくれ立った異民族の儀式の場」みたいな風情とは随分違っていて、もっと落ち着いた憂鬱さというか、北欧的なメロディの要素、もう少ししたら今度はロシア民謡的にもなれそうなものを感じさせる。なんか本作って歌メロディのあっちこっちの国に行ってる感が特に中盤以降はある。

 なので、謎儀式な感じの時の“人間の情緒を無視した、神の厳かさ”みたいな感じではなくて、むしろ人間味のある哀愁をこの歌は漂わせている。特に終盤の歌い回しの、力み過ぎず程よく哀愁だけを燻らせる歌い回しは洒脱で、このボーカリスト実は相当器用なのか、と思ったりする。ここまでの「さまざまな国の歌い方」みたいなので十分器用なのは分かってたかもだけど。

 終盤の繰り返しのところの果てしなく虚しそうな旅路の感じが、音からも歌詞からもなんとなく伝わって来るような。

 

道 川 線路

「なんて恥ずかしい まるで何も分からない」

母親の娘が嘯く 真実とは彼女が愛を見つけること

 

 

10. Frou-frou Foxes in Midsummer Fires(5:38)

 アルバムの最後を務めるのは、キリスト教的な厳粛さを思わせる静寂のパートから、一度荘厳で宗教儀式的な、つまり昔のCocteau Twins的な展開を見せるパートを挟んで展開していく、少々プログレ的な後世にも思える楽曲。本作で一番『Treasure』の頃っぽい宗教ゴス的な雰囲気を有しているこの楽曲はWikipediaによるとSimon Raymondeが自身の父親の死の後日に書き上げた曲らしくて、厳粛な感じはそこ由来なのかもしれない。

 いきなりピアノの重々しくもゴシックなフレーズから楽曲が始まって、遠くで聴こえるギターノイズがなければ「最後の最後で別のバンドの曲が混入してるよ」と思ったかもしれない。この宗教的厳粛さに対して、ボーカルもまた適切にシリアスなメロディをあてていて、そのメロディのシリアスさに「色々な国の歌い方をして最後は欧州ど真ん中かよ」などと思ったりする余裕は聴いているその時には生じない。

 楽曲が変化するのは宗教的な歌が静寂の中2回りした後、バンドのアンサンブルが入ってきて、同時にジリジリと、低い方からゆっくりせり上がっていくかのように、儀式の行進めいたメロディが現れてくる。特にリフレインするコーラスワークが実に雰囲気があって、この「地底王国からの讃美歌」みたいな展開のどこかゴスなムードがこの曲に強烈に推進力を与えていて、その後元々と同じ厳粛なメロディに回帰してもやはりドラムは入ったままになるし、バックのギターのフィードバックノイズはより露骨に背景で舞い続ける。そのままの演奏のテンションで再度賛美歌展開を見せて、段々とフェードアウトで楽曲、そしてアルバムが閉じていく。

 

潰れて 沈んだ 神やその他の連中のように

富は所詮 どう戦争になり 敗北するのか

シンボルに近づいて 蝿が着火点を啜る

赤子の吐息は私のミルクに向かい 赤子を覆う

日中に そして来るべき夜に

 

やはり歌詞は子供のことについて歌っているのか。

 

歌われ 我が炎の周囲に引き寄せられ

さくらんぼ色の通例的な化学に目を向けて

全然脚光を浴びれるような音楽ではない

いつ何時だって 確かめるのも行き当たりばったり

あなたを待つというのはそういうこと

 

アルバム冒頭の楽曲名と同じフレーズが出てくるけど、そういう仕掛けをしたりもするんだなあ。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・

あとがき

 以上、10曲で37分程度のアルバムでした。

 今回は全曲レビューよりもその前の段階の方が量が多くなったかもしれなくて、なんだか不思議な感じもしてます。特にどんな範囲に影響を与えた可能性があるか考えてる部分については牽強付会気味なものを薄々感じていて、果たしてどうだろうか…的なのが書いてて付き纏います。もっとちゃんと英語圏のインタビューとか読んで言質を確認すればより確かなことが書けるだろうに*13

 しかし、そうやって様々に本作の外側のことに想いを馳せられるくらいには、このアルバムが様々なチャームポイントを持っている、というのはきっと本当だろうと思います。身も蓋もない言い方をすれば本作は「最も真似してみたくなるタイプのCocteau Twins」がぎっしりと詰まっている、ということかもしれません。そんな作品が作られたのが、薬物中毒や親族の死やレーベルとの衝突という苦しい状況の中だった、ということにもドラマを感じますが、本作はそれ以上に、本人たちの手を離れたところでいつまでも輝きを持ち続けるもののように感じます。

 また身も蓋もないことを書けば、このバンドを聴き始める人は本作か『Treasure』のどっちかから聴き始めればいいんじゃないでしょうか。インディロック好きな人だともしかしたら本作以上に「インディーロックに丁度いい」Cocteau Twinsのアルバムが見つからなくて困惑するのか、それともそこにこそスリルを感じるのか、その辺は人それぞれでしょう。

 何にせよ、絶妙に様々な雑味が集まったことで様々な方面に展開していける、本当に優れたアルバムです。

 以上です。それではまた。

*1:空恐ろしいのが、メンバーはこの作品について“未完成”だと主張していたこと。こんなにコンセプト的に完成され尽くした作品も珍しい気がするのにそんな…。

*2:主なパートはベース。ただ、Robin共々マルチインストゥルメンタリストだったことは、このバンドにとって有効に働いたはず。

*3:This Motal Coilの活動に参加していたSimon Raymondeはこの制作に参加していない。

*4:巻き舌は時折アクセント的にかつ楽器的な感じで取り扱われることがあり、特に『Ups』という曲の巻き舌の扱いは半ばパーカッション的でさえあります。巻き舌ってそういう風に使えるもんなのか…。

*5:Joy Divisionとかモロにそう。

*6:色々と例を挙げられるだろうけど、日本で1番これが分かりやすく言えそうなのはやっぱART-SCHOOLか。

*7:アメリカにおいては、バンドは前作『Blue Bell Knoll』時点でキャピタルという有数のメジャーレーベルと契約できていたという土壌があります。

*8:このバンド特有のアクの濃さという意味では『Treasure』や『Victrialand』の方が挙げられるでしょうけど、もっと気軽に聴けてそして素晴らしく、後世への影響も絶大、となるとやはり本作に分があるか。

*9:逆に、本作より後の作品では4ADから離れて、よりポップフィールドに阿った部分のでた作風が見え隠れし、ちょっとAORっぽくもなったりしてるように感じられます。それでもやっぱりどこかCocteau Twinsだなあと思わせる変な部分は十分にあったりしますが。

*10:日本語Wikipediaのドリームポップのタグに入ってたから採用した。

*11:よく聴くとまたアフリカっぽいパーカッションも聴こえてくるし。

*12:日本ではおそらくFFVIIIの主題歌『Eyes on Me』が一番有名。

*13:しかしこの記事は4AD記事の後編の脱線として元々は気軽に書こうとして始まったものであるからして…。