ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『BABY ACID BABY』ART-SCHOOL(2012年リリース)

songwhip.com

 

 このバンドのイメージをまさに地で行くドライなメンヘラ感丸出しなジャケットだ…。

 ということで、新譜リリースを記念に再開した木下理樹関連作品レビュー、今回はその新譜においても続いている現行メンバーになって最初のリリースである、このバンドの6枚目のフルアルバムとなったこの作品です。

 日本のオルタナ界隈の名プレーヤーを揃え、オルタナの聖地のひとつであろうSteve Albiniの所有するシカゴのElectrical Audioスタジオで録音された本作、色々とオルタナづくしの作品ですが果たして…。

 なお、ART-SCHOOLとしての前作はミニアルバム『Anesthesia』(2010年)、木下理樹としての“前作”はkilling Boy『Destroying Beauty』(2012年)です。特に後者は本作と制作時期が近く、killing Boyの方のインタビューで本作の存在や録音手法などが仄めかされていました。

 

 

 

 

アルバム概要

 上述のとおり、本日現在で最後のメンバーチェンジが行われた本作は「日本でも有数のメンバーチェンジのやたら多い、波乱続きのバンド」としての歴史の末尾にあたる作品とも言えます*1

 しかしながら、作品としては、ニューウェーブやらエレクトロやらに傾倒していたこの前の数作『14SOULS』や『Anesthesia』からの“オルタナ回帰”ではあるけども、しかし決して“バンド初期”への回帰じゃ無いところが、話を少しややこしくしているかもしれませんし、特に本作の評価を賛否両論にしている箇所かもしれません。

 個人的な所感を一言で言えば「ART-SCHOOLという枠を半ば無視して、あるひとつの“センスのいいオルタナティブロックバンド”になろうとのたうち回った作品」だと捉えています。リリース当時から今に至るまでこの感想は変わっていなくて、だからこそ不人気な部分もあるんだろうなと思うし、でもともかく、本当にバンドとしてのこれまでの積み重ねみたいなのを相当無視してでも色々やろうとしてたその泥臭さが、かなり好ましく思います。ある意味ではkilling Boy並みに別バンドなことをここでやってるのかもしれません。

 

 

混沌としたバンド情勢(焼け太り的復活も含めて)

 本作の音楽性の説明をする前に、その前提となる本作の制作環境周りの話を整理しておきます。本作は前作まで参加していたリズム隊2名(宇野剛史・鈴木浩之)が脱退、第一期ART-SCHOOLの『LOVE / HATE』後の状況と似たような解散の危機に一旦追い込まれたにも関わらず、その後なぜか中尾憲太郎(ex. NUMBER GIRL 他色々)に藤田勇(MO'SOME TONEBENDER)といったオルタナ世代の有力プレイヤーが加入し、*2まるで焼け太りしたかのようなメンツにより制作されています。

 脱退が発生した経緯は本質的には本人たちにしか分からないところですが、オフィシャルには「新譜制作の過程において楽曲の持つ世界観を具現化することが出来ず」と付されていて、これはニューウェーブ・エレクトロ路線から急激に本作のようなゴリゴリのオルタナ路線に転換するのに難儀したことを仄かしています*3。ついでに当時所属していたレコード会社(ポニーキャニオン)からもこの脱退の辺りでバンドは切られています。

 もっと分からないのは、このように根本的にバンドの存続がピンチな状況から、なぜ急にドリームチームめいたリズム隊が加入し、そのメンツでオルタナの聖地であるSteve Albiniのスタジオで録音し、しかもレコード会社はソニー*4から復帰という、前よりもやたら強力な布陣で復活したのか。これはなんだかんだで、木下理樹の持つビジョンに共感した人たちが多くいたってことなのか。ただ、木下理樹のボーカルの状況はまだ悪いままの時期です。ただむしろ、そんな状況だからこそ、後述のような振り切った音楽性を目指した節もあります。

 

 

本作のサウンド:“ある新進オルタナバンド”みたいな振り切り方

 本作が賛否両論なのは、ともかくこの点によるものと思います。そしてそれが本作最大の特徴です。初めに言っておくと筆者は圧倒的に“賛”の側です。

 冒頭のタイトル曲からして露骨ですが、本作には「過去のART-SCHOOLのイメージをこういう風に引き継いで発展させよう」的な意識が様々な面で希薄で、むしろオルタナティブロック大好きな面々が集まって、延々とスタジオでガチャガチャやって完成させた、みたいな荒々しさ、良くも悪くもアマチュア臭さみたいなのが随所から感じられます。下手をすればまだkilling Boyの1stの方が「ART-SCHOOLの続き」って言われたら納得する人もいたかも。そして、本作の次のアルバム『YOU』以降でかなり“元のART-SCHOOL寄り”になったこともあって、本作のこのバンド内での異端さは意外と際立っています。もしかしたら、本作がART-SCHOOLの新譜ではなく、「とある新人オルタナバンド」の1stとしてリリースされていれば、受け入れられ方もまた違ったかもしれません。

 どう別物か。その“別物”っぷりが本作の魅力でもあるので、順番に見ていきます。

 

 

過去のオルタナバンドへのオマージュに振り切った楽曲構成

 曲作りの段階からして、本作にはこれまでに見られなかった傾向があります。木下理樹の楽曲といえば良くも悪くも「判で押したような曲構成」つまりAメロ→サビの繰り返しと、2回目のサビ後のブレイク、という、本当にこれを延々と繰り返し続ける特徴があります。別にこれは本作でもそこまで変わりません。それはいい。

 問題とされるとすれば、本作の幾つかの楽曲で、彼のこれまでの楽曲のような切なげなメロディではなく、もっとハードコア寄りな、1980年代のオルタナティブロック的なメロディ回しに挑戦しようとする場面が多々見られるところでしょうか。killing Boyにおける『confusion』という伏線はありましたが、本作はそういった衝動的なシャウトに徹してたり、タイトルを連呼するサビが多かったり、といった、よりシンプルにルーツ的なところを打ちつけてくる場面が多い感じです。なお、録音場所的にもUSインディ寄りかと一見思われて、実際のところはかなりUKロック成分も高め、むしろそっちの方が大きいのか…?という具合。冒頭2曲なんかはそういう印象になるけど、全体で見ると別にそんなにグランジに偏ってる感じでもないです。

 ただ、これ自体はむしろ新鮮味として受け取ることもできる範疇だと思うので、木下理樹というボーカルが本作みたいにシンプルに徹したメロディを連発するのは本作のみ、という評価点になるところでもあります。むしろ批判が多いのは、従来的なメロディタイプの楽曲のメロディがやや弱いところか…。あと歌詞か…*5

 

ART-SCHOOL的な自重”をまるでしないベースの動き

 かつてNUMBER GIRLにおいても向井秀徳から「お前のそのルード*6かつ直線的なベースが欲しい」と言われて加入した経緯のある彼、NUMBER GIRLにおいてもゴリっとして直線的なベースのイメージがあった彼ですが、本作における彼はART-SCHOOLの伝統でもあった“ひたすらルート弾き”スタイルを大きく逸脱し、ともかく重く激しいトーンでアグレッシブに動き回ります。killing Boyでかつてのバンドメンバーが相当にアグレッシブなプレイをしてて、これはこのあと出るART-SCHOOL本隊のベースは大変だなあ、と思ってたらこれだよ。

 このプレイのことはおそらく楽曲自体の構成や質感にも影響を与えている節があって、このことやそれに呼応してなのかやたら手数の多いドラム*7などは、これまでや本作より後のこのバンドの作品と大きく感覚の違うところになります。ともかく、楽曲に縛られすぎずに思うがままに激しくプレイしているというか、曲によっては「本作のいくつかの楽曲はむしろセッションで作ってるんじゃないのか…?」と思わせるようなところさえあると思います。

 思うに、ここまで本作でのリズム隊の動きがバンドの歴史上でも特殊なのは、木下理樹が先輩である両人に色々細かい指示をし辛かった、という邪推も可能でしょうけど、むしろ、このドリームチームめいたリズム隊が自由にやりまくったらどこまで行けるのかを楽しみにして、あえて細かい指示なしで、むしろその勢いに自分も乗っかってスリリングに突っ走った結果なんじゃないかな、という気がします。ともかく、本作はこのリズム隊に強力に牽引されてギター二人も無邪気にガチャガチャやってるイメージが強くて、それが気にいるか否かは、本作を評価する上での大きなポイントでしょう。スリリングでいいと思うけどなあ。

 っていうか、NUMBER GIRL時代も含めて、ここまで中尾憲太郎のベースが様々な形でキャッチーに前に出てくる作品って他にあるのかな。単純に、彼のベースを堪能するのに本作はめっちゃ適してるのでは、という気持ちもしたり。そのくらい本作は彼の多様なプレイが聴けて、しかもしっかりと強調されてるということ。これは純然たる、否定しようのない本作の価値だと思います。凶暴な音色でルート弾きするだけでも格好いいのに、果てはサンバみたいな曲で終始その音色のまま動き続けてたり。

 

“古のインディロック作品”めいたくぐもった音作り・アンビエンス

 これも大きく評価が分かれそうな要素。

 先述のとおり、本作は様々なオルタナ名盤を生み出したSteve Albini所有のシカゴのスタジオ“Electrical Audio”にて録音されています。このスタジオで録音された名盤といえばPixies『Surfer Rosa』とかNirvana『In Utero』とか、Low『Secret Name』とかをはじめとし、本作リリースと同じ2012年にはこのスタジオの新しい“顔役”となる名盤であるCloud Nothings『Attack on Memories』が登場するなど、オルタナティブロックの名門のひとつと言えるであろうスタジオです*8

 その音の特性としてはともかく「バンドの音そのものを剥き出しの生々しい形で録音する」とされています。確かに上述のアルバムを見てもそんな傾向にあると思います。本作製作時のこのバンドによると、上記の写真みたいに天井が高く、自然なエコーが得られる、とのこで、Albiniはスケジュールの都合で参加してもらえなかったものの、それでもこのスタジオでの録音をバンドは非常に楽しんだということです。

 …ということで、本作のミックスはそんな名スタジオの歴代の名だたる名盤のバランスが目指されて、これまでのART-SCHOOL作品の比較的ハイファイ・ボーカルのミックス大きめというバランスを殆ど無視した、従来ファンからすれば暴挙のように感じられるかもしれない“ローファイさ”になっています*9。もしかしたらここに最も批判が集まってるのかもしれません。

 特にボーカルのミックスの小ささは非常に特徴的で、それこそ初期NUMBER GIRLとかを彷彿とさせるミックス具合です。このバンドのある時期までは極力オフ気味にされてたボーカルのリバーブも、本作ではバンド全体のエコーから突出しないように深く掛けられていて、余計に”くぐもった”印象を*10、良く言えば本作ジャケットのような“スモーキーな”印象を与えています。ギターの音も似たような具合です。ブライトな演奏の場面でもエコーの中に閉じ込められた感じというか*11

 このような傾向は、本作の楽曲をバンドの他の時期の楽曲と混ぜてプレイリストを作ったりしづらくなっている要因でもあります*12。2作後は以降またハイファイ寄りに戻るので、本作の“ローファイ”っぷりはキャリア中でも目立つところ。この辺の批判は本作賛成派の筆者でもある程度理解はできるところ。

 ただ、バンドのトレードマークが幾らか埋没していようとも、このくぐもったエコー感の中でバンドが無邪気に我武者羅にガチャガチャやってる様そのものが聴いてて楽しい、というのは大いに主張したいところで、本作は本当にいい意味で「とあるバンドがキレッキレのリハーサルをしている場面を切り取った」的なロウでルード(??)でリアルな感じが魅力だと思います。1990年前後のオルタナバンドの演奏と似たような、くぐもってよく分からない音像の中に何か捉え所のない猛烈なものが感じれるような感触というか。

 killing Boyのときのセッション推しも含めて、この時期の木下理樹はともかく「ダビングして作った」感じが出るのを極力避けたかったんじゃないかと推察されます。なので本作のボーカルではコーラスがダビングされている場面も相当に限定されています。一方で、本人のコーラスの代わりに、この先このバンドの作品でよく名前を見かけることになるUCARY & THE VALENTINEがクレジットされるのも実は本作から。

 

本作の特徴まとめ:バランスを無視した暴走、それが最高かどうか

 本作の特徴は上記のようにも言い換えられると思います。本当に、当人たちの「ひとまずART-SCHOOL的な良さは横に置くとして、こういうオルタナティブロックな荒々しさって最高だよなあ」という美意識が本作には色々と入っていて、そういう意味でもかなり興味深い作品だと思うので、本作を“ART-SCHOOLらしくない”“こんなのART-SCHOOLではない”と言って切ってしまうのは、全く気持ちが分からんでもないけど、でも勿体ないな…とは思います*13。特にアルバム前半は緩急の付け方含めて完全にやり切った感じがあって、冒頭から『Pictures』くらいまでの流れは「最高傑作」かもしれないと思うこともあります。後半ちょっと弱いのは否めないけども。

 以下、各楽曲のレビューの中で、当人たちがどんなのを目指してこんなプレイをしたんだろうか、ということに思いを馳せるのも含めて見ていきたいと思うので、もし万にひとつ、以下の内容を読んで本作への見方がいい方に変わる人がいれば、この文章を書いてとても幸いです。

 なお、当時のインタビュー記事がまだネット上にいくつか残っていますので貼っておきます。

 

tower.jp

okmusic.jp

 

 

本編

 ということで、ようやく各曲レビューです。なお本作、全曲英語タイトルで、こうなってくると全部大文字の楽曲と小文字混じりの楽曲、最初の単語の冒頭のみ大文字の曲と各単語の頭が大文字の曲との違いがなんなのか微妙に気になります。

 ちなみに全曲木下理樹作詞・作曲・ボーカル。戸高曲が登場するのはずっと先の今年(2023年)の新譜になって漸くです。

 

 

1. BABY ACID BABY(3:21)

www.youtube.com

PVが消えてる…同じソニー時代でも『FROZEN GIRL』とかはあるのに…。

 タイトル曲にして本作の暴走っぷりを端的に示す、太すぎるしミックスが大きすぎるベースが強引に牽引していく、”スタイリッシュなグランジ”をかなぐり捨てた、泥臭くも破滅的でヤケクソ気味で、そういう向こう見ずすぎるところ自体にエッジを見出しうる楽曲。「“ART-SCHOOLらしさ”とか知らん。好きにさせてもらうぜ」っていう感じを清々しく感じれるかどうか。最初聴いた時は爆笑してしまった。

 ともかくイントロのベースの音の太さとデカさ。この時点で「本作に従来的な繊細さとかナイーブさとか求めても無駄ですよ、お帰りください」と言わんばかりの迫力がある。このベースが演奏全体のミックスでも大きいままに蛇みたいにうねりまくり、その動きに合わせてバンドが低く怪しく蠢いたりサビでなんかシャウトしてたりする、くらいの勢いで存在感がある。なんなら場面によってはベースの音に埋もれてギターが聴こえないまであり、ここまでくると本当に笑えてくる。でも確かに、このベースのひたすら凶悪なトーン、その動きから発される重力感だけで聴けてしまうくらいに、そのささくれ立った演奏は格好いい。

 楽曲的には、日本においてはNirvana方式ほどメジャーではないけども本来は主流派なドロドロとしたグランジの感覚で貫かれている。Nirvana的な、もっと言えばBlur『Song2』的な、Aメロとサビでパキッと切り替わるタイプのある種スタイリッシュなグランジこそを初期のART-SCHOOLは得意としていたけども、同じグランジでもこの曲はそういうのとは構造からして全然異なる。もっとドロドロとして、グズグズで、繊細さやメロディアスさの代わりに大いにルーズでグダグダな退廃感があり、サビの展開もヒロイックではなく、「サビかあ仕方ねえなあ叫べばいいんだろ叫べば」みたいな必要最小限かつダルそうな持ち上がり方をするのがこのバンドの中でも異端的。こうなってくると木下の声の状態が悪いのもまた、ハードコアバンド的な演出っぽくも感じられてきて、誤魔化しの気があるにしてもその誤魔化し方が上手いというか、むしろこの状態を活かしているようにも感じれる。

 しかしそんな曲構成ながら、演奏自体は様々な切り替えによって気の利いたドライブ感が維持され、その辺はやっぱART-SCHOOLだなあと思わされる。具体的にはイントロで冒頭のリフが解除されてギターがタイトなフレーズをキメ込む場面や、2回目のAメロでベースが抜けた際のギタープレイなど。間奏のひしゃげたフレーズ*14も含めて、随所でこのギタリストが憧れたであろうダーティーなロックンロールへのオマージュの感じが伝わってくる。それはおそらくSmashing Pumpkinsだったり、Brankey Jet Cityだったり、もっと遡ったところなのか、ともかくこれらの箇所でのキメッキメなプレイは楽曲のダークさに反して、とても楽しそうに演奏してる感じがある。てか絶対楽しい。粗野にスネアを連打したりフロアタムをボスボスいわせるドラムもまたワイルドさに満ち、これより後のこのバンドの音楽性が時に“ロックンロール”などと雑に呼称されるのもなんとなく分からないでもない。

 2回のAメロ・サビで、あとは邪悪そうな間奏とベース中心すぎるイントロフレーズの繰り返しだけで呆気なく終わってしまう。楽曲の終わらせ方もスタジオ録音だと非常に粗野で、ミュートしきれなかったギターノイズを適当にグチャグチャさせて終わるところまで含めて、「不健康そうなスタジオの感じ」がよく出てる。

 歌詞はこういう楽曲のノリとメロディの音韻に合わせて、混沌としたイメージをこれでもかと注ぎ込もうとしてる感じ。ただ、混濁したイメージの中にちょっとばかに眩しい光景を差し込むのを忘れないのはやっぱり木下理樹なんだなあ、と読んでて改めて思わされる。

 

光の中で君は泣いた 僕たち皆間違いなんだ

そうなんだ

 

最初の曲だというのにこの雑なぶん投げ絶望っぷり。むしろここまでくるとその露悪っぷりが清々しくてキャッチーだとさえ思う。

 非常に構造が簡単かつ演奏が映えるタイプの楽曲なので、本作のツアー時期以外にも結構ライブで演奏される機会のある曲。このバンドはアルバムツアー後すぐに演奏されなくなってしまう楽曲がまあ多いから、そういう中でこの曲は頑張ってる方*15。間奏の混沌ぐらいとかライブで発展させる余地もあって、本人たちも演奏楽しいだろうなあって思う。

 

 

2. SHAME(3:14)

 前曲よりもう少し初期アート的な疾走グランジ感に寄りつつも、しかしやはりどこかハードコア的な暴走感やアングラ的なノイズの響かせ方が特徴的なマイナー調の疾走曲。2曲連続でベースからの始まり、というのも本作の思い切りっぷりが出ているところか。しかしこの曲で狂ったような演奏を見せるのはドラムの方だ。

 前曲と同じく粗野で無骨なトーンで、しかしこちらは「ルードかつ直線的な」プレイを聴かせる。本作の演奏のいいところはともかくベースが特徴的で、どこかゴム的な弾力がありながらもトーンとしては粗いアタック感が付き纏っていて、ベースの独奏になるたびに独特の凶暴なキャッチーさを振り撒いている。こちらはすぐにギターのフィードバックノイズが不穏に入り、そして『左ききのキキ』くらいからのバンドのトレードマークとなったゴスなギターフレーズも楽曲を怪しく彩り始める。

 歌が始まると一気に演奏がスカスカになるのもNirvanaサイドなグランジ仕草だけど、この曲の場合そのセクションのリズムが通常の8ビートではなく、変則的で詰まったようなテンポでスネアが入ってくりリズムパターンは、ボーカルの枯れた声のまま強引に叫ぶのと相まって、ボロボロな焦燥感を煽り立てる。Aメロ途中から入ってくるリードギターアルペジオではなくシャープなカッティングのリフなので、やはり普段のART-SCHOOLの静パートとはかなり勝手が違って聞こえる。

 サビでやはり動パートに切り替わるけども、ここでも叩きつけるようなビートに低く吐き捨てるようなメロディ、ギャリギャリと掻きむしられるギターと、普段の動パートよりももっと自暴自棄めいた、荒れ狂った調子が伺える。特に頻繁にスネア連打を入れ込んでくるドラムのテンションがえらく高く、これは間奏に入っても強迫観念的にひたすらロールを連打し続け、切迫感を煽り立てる。

 2回目のサビ後の間奏のギターソロも勢い任せに鋭さを吐き出すかのようで、特に後半部分はもはやフレーズというよりも出鱈目に弦を引っ張っているかのような、実にオルタナな演奏法。そこからの“いつものブレイク”もまた、投げやりさが強調され、そして演奏しないのに耐えられないかのように入ってくるドラムの落ち着きのない演奏がまた、最後のサビへの切迫感を煽り立てていく。演奏終盤の、普段であれば頭打ちのリズムに変わるであろう箇所も代わりに執拗にスネアフィルを繰り返し、変なハイテンションのまま曲終わりまで突っ走っていく。

 歌詞にはkilling Boyでも出てきた「ベルリン生まれの死の灰」が登場。制作時期の近さが窺われる。しかしこれって何のこと…?*16

 

灰になって眠りたい 灰になって眠りたい

 

サビでこのように歌われるのがなかなかダウナーで憂鬱げだけど、「ハイになって眠りたい」と捉えると、ハイな状態で眠れるのか?というちょっと変な状況になる。そのような可笑しさが含まれているかは不明。

 

 

3. CRYSTAL(5:01)

 「今回ずっとゴリゴリオルタナで行くのか…」と思わせといての、急にサンバめいたリズムにThe Smithsばりのメロディアスなギターカッティングが絡んでくるポップでファンタジックなこの曲が始まるので、大いにズッコケれる。最初に聴いた時は1曲目以上に笑ってしまったけど、何気にこれまでやったことないことの塊でもある曲で、仄かなノスタルジックさといい、実はかなり興味深い名曲なのではとも思ったり。マッドチェスター?いやこれはサンバでしょ。なんでオルタナな音でサンバやるんだよアホかよ、っていう。マジでなんで急にサンバなんだ…なにも分からん…*17

 冒頭のギターの、エコーがよく効いたアルペジオの時点で、前曲までのモードとはかなり異なるなというのが分かる。ブライトなトーンは本作的な籠ったリヴァーブ感でコーティングされ、ノスタルジックな質感を生み出している。しかし、アンサンブルが始まる直前のドラムのフィルからして「あれっ」となって、バンド合奏が始まるともうはっきりと「サンバだこれ…!」ってなる。4つ打ちのシンバルで弾むような勢い、所々に大量投下されるスネアフィル、そしてそのビート感にやらたとノリノリな動き方で追随していくベースライン。さっきまでの厳つさは何だったんだ…ってくらいノリノリで動くので、やっぱ笑わせに来てるんじゃないかこのベーシスト…。急に明るくなることもあって「テーマパークに来たみたいだぜ、テンション上がるな〜」って感じ。

 Aメロのメジャー調のコード進行に乗った木下のメロディも上々。不思議なメロディの上がり方に彼の異才の片鱗が見える。そしてその裏でカッティングするギターのノリノリっぷりがまた楽しい。ファンク的な感じは薄く、もっとジャキジャキなトーンではしゃいでるような感じ。特にAメロ後半で急にThe Smiths『Heaven Knows I'm Miserabe Now』『The Boy with the Thron in His Side 』みたいなカッティングを歯切れよく演奏し始めるに至って、好き勝手やりすぎでしょ戸高さん、という、その開き直った爽やかさが爽快でもありつつ、サンバにThe Smithsって合うんだ…というのも込みでまた爆笑。この曲は本当にユニークさに溢れている。サビで切迫したコードになってタイトルコールするのは少々単調ではあるけど、でもこれも「クリスタル」って連呼されて、どういうことなん(笑)って感じだし*18。また、この後このバンドの作品に多数コーラスで参加するUCARY & THE VALENTINEがコーラスで入り、音の感じを広げていく。

 サビ以外の箇所の大らかなコード感は、楽曲全体に掛かる籠ったエコーの感じもあって、独特の浮遊感を有している。なので、間奏の後のブレイクの質感もまた、ワウを効かせたギターがやたらと楽しげな間奏の後ということもあって、ちょっと独特の寂しさを放っている。ニューウェーブ感のあるベースとちょっとしたドラム、ベースを引き継ぐギターのアルペジオにシマーエフェクトと、このブレイクの箇所も実際は静かなアンサンブルと言える。そこからAメロ再開後のギターフレーズはポリリズムだし、この曲本当に演奏に様々なアイディアを詰め込むことに余念がない。最後の最後、このまま幾らでも演奏のネタが続けられてキリがないからとりあえずフェードアウトさせて終わらせておく、みたいな感じなのが愉快。

 歌詞もまた特殊で、いつもの「君と僕」ではなく、「君」を諭すように語りかける形が基本になっている。「世界の構造の残酷さ」みたいなのを直接滲ませてくる歌詞は彼には珍しい。ただ、その中にあって2回目のAメロでふと自分に立ち返る感じがまたなかなかいいビターさで良い。

 

夢の中で 何度も思い出してる

まだ若くて正気だった あの頃を

夏が終わり 何処へ向かうのだろう 輝きを失った僕は

 

こういう自己認識の奴が他者に対して「君の中には輝きがある」とか言ってる、その胡散臭さと優しさのないまぜな感じがこの曲の情緒の隠し味になっていると思う。

 

 

4. Chelsea Says(3:33)

 前曲からこの曲への繋ぎが最高。タイトルからも何となく推察されるように、Rideの爽やかギターロック的な側面をこのメンツのオルタナ感で勢いよくブーストして駆け抜けていくメジャー調の疾走曲。ドラムがやたらめったらフィルを打ち込み、ベースが勢いよくルート音を刻み、ギターが心地よい具合に掻きむしる、ただそれだけと言えばそうだけど、それが上手く噛み合ってこんなに快い疾走感を生み出す。終盤の曲展開の巧みさも見事で、このバンドの疾走曲の中でも指折りの名曲だ。

 フィードバックノイズが鳴って、ドラムがバタバタとフィルを入れ、そこから合奏が起動する時の、大味で性急なビートを中心とした不思議な浮遊感は、まるで地に足が上手くつかないまま本当に勢いのままに空へ放り出されるかのような雰囲気。これには特に、ベースが低い音ではなく、高音弦によってまるでメインリフのようなのを奏でてること、つまりNew Order的な作法が効いてる。これはAメロでも続き、低音部がスカスカな中をリフ的なこの高音ベースの安定感と、対照的に勢い任せにガシガシやってる感じのギターやドラムの勢いとがよくブレンドされている。程よく軽薄なノリとか擦れ具合の出てるメロディもまた良いし、何ならこの曲の空元気めいた勢いにはこの掠れた声が案外合う気もしてくる。

 サビのタイトルコール連呼のシンプルさは、メロディだけを取り出すと通り過ぎていくような感じでそこまでインパクト無いように思えるかもだけど、この曲の場合、このバンドには珍しく、この同じメロディを様々なコード進行・曲展開の上で使いまわし続けていくことによる、同じメロディなのに印象がどんどん更新されていく、という変化が演出されている。これがこの曲の突破力を非常に高いものにしている。最初のサビ及び2回目のサビ前半ではやたらと連打されるスネアの割には疾走感のブレーキ箇所めいた趣だけど、2回目のサビ後半ではBPMを半分にしてどっしりとしたリズムに切り替え、王道的な手法とはいえサビにより拡がりを与えていく。

 特筆すべきは2回目のサビ終了後のブレイクから。ART-SCHOOL伝統の直線的なベースラインだけ残る展開が楽曲の勢いを再点火し、ここのコードの微妙に普通のメジャー調進行からズレているところにオルタナ的な挑発感が窺え、このラインに沿ってギターもドラムも再集結し始める。このラインに沿って演奏はどんどん膨張し、最後のサビに至っては同じメロディのはずなのに、このラインに沿った妙に突き抜けたコード感により、かつて疾走感のブレーキめいて聞こえたものが、激しい頭打ちのリズムも伴ってむしろ重力に逆らわんばかりに飛び出していこうとする勢いそのものになって放たれる。この箇所の、いい大人が勢いと力任せでガンガンに各楽器を演奏し倒す雰囲気は本作的な開放感に満ちている。余談だけど、この勢いは本作最終版でもう一度現れる。

 歌詞については、この時期のこういう爽やかな曲*19ではあえてやってるのかってくらい、割とはっきりと露悪的で死とセックスの要素を含んだものになっている。「愛を知らずに死んだ」と突然思い切った言及をされるバスキア*20のくだりも妙な面白みがあるけど、一番最後のサビの爽快感に繋がっていく最後のAメロのくだりがとりわけリズミカルにひどい単語ばかり並んでいて面白い。

 

ピルとベルリンと愛の記憶と

死んだ胎児とナツメグとアイスピック

ビニールシーツに二人は包まって

ただ灰になって ハイになって飛ぶだけ

 

実にART-SCHOOL、実に木下理樹な世界観。後半のくだりはもう少し穏当なシチュエーションになって次作の『フローズン ガール』に繋がっている印象。

 本作のツアー以降はライブで演奏される機会に恵まれなかったけど、2022年の活動再開以降のライブで“レア曲”的に演奏されてておっ、と思った。同じく爽快な疾走感の割に歌詞がひどい『Forget the Swan』と立て続けの演奏はバンド側が曲の特性をよく把握してるなって感じなので、このバンドの疾走曲の中でもとりわけ素晴らしいこの曲がもっとレギュラーに演奏される曲になるといいな…と願ってる。

 

 

5. INA-TAI (BREATHLESS)(2:59)

 前曲の爽やかに突破していく感じから一転して、楽器同士のぶつかり合いがより無機的かつ剣呑な具合に響くハードコアの手法で形作られた、このバンドのこれまでに類を見ないくらいのゴツゴツとした手触りの楽曲。当時のインタビューでFugaziを聴きまくった等の発言もあり、確かにそういうハードコアさに寄った楽曲で、中尾憲太郎が主導するハードコアバンドCrypt Cityの感覚に本作で一番近い。というかこれこそセッションで作られた楽曲では…?とも思ってしまうけど、作曲は木下理樹単独。

 どう考えてもこれが作曲の軸だろ…と思ってしまうくらいに冒頭のベースラインは存在感がある。サビの箇所以外は基本的にこの妙に弾力感のある音色とフレーズのベースラインの反復に他の演奏がガチャガチャと纏わり付く体裁となっている。歌のメロディもメロディというよりシャウトの延長のような、それこそハードコア的な代物で、なおさらセッション曲っぽい。killing Boyの2ndの多くの曲とかと同じノリというか。なので初めから、歌のメロディを楽しんだりする曲ではない。彼のメロディこそを好きだった人からしたら耐えられないタイプの曲かもしれない。でも、この叩きつけるような演奏の中で本作特有の枯れた声で叫ぶ彼の姿には不思議な調和を感じる。声が枯れてることの必然性があるというか。

 Fugaziを参考にして書いたとされるサビは、しかし流石にFugaziほどメロディ無視のアジテーションなボーカルに徹してるという感じでもなく、グランジな炸裂感の中にメロディが仄かに感じられる、どこかKurt Cobain的なテイストが仄かにある気がする。それこそ同じスタジオで作られた『In Utero』収録のハードコア気味な曲と、その激しくもどこかどろっとした質感が似てる気がする。

 次第にエグいモジュレーションと歪みを効かせていくリードギターの暴れっぷり、終盤の低音で囁く歌い方からヤケクソ気味にシャウトに戻り、最終的に破綻したシャウトに集束する様など、本作の“暴走”の感覚が冒頭曲以上に表現されている。また、Aメロでの一時的にコードが上昇してからまた戻りサビのコード進行に変質する様は、どこか彼ら流の“ブルース進行の実践”じみた風情もある。このテイストをより発展させたのが次作冒頭の『Helpless』というところか。

 楽曲タイトルはギターの音が「いなたい」感じだったのでそのまま採用したもの。歌詞はまあ木下理樹的な混濁感に満ちている。「いつもと同じ錠剤を噛み砕く」のくだりに、抑鬱パラノイアがずっと続いていく感じ、悪く言えば「いつものドロドロとしたイメージが並べられた木下理樹ワールド」の感じを端的に見ることができる。

 

 

6. Chicago, Pills, Memories(2:56)

 メジャー調のメロディながら、歌のある箇所では極力派手な跳躍を抑制し、やっと曲の終盤で演奏の形でじわりと広がりを持たせる様がまるでDeath Cab For Cutieとかの叙情派エモのような趣のある楽曲。ハードで息苦しい質感な前曲の後にこのソフトで開放感のある曲が続くのを、気が利いてると思うか、ハードコアやるにはぬるいと感じるか。個人的にはこの辺の曲順のバランス感覚にとりわけ木下理樹なセンスを感じる。

 これまでの本作の楽曲よりもグッと抑制の効いた曲であるというのが、これまでのバタバタ感を一切排したタイトなドラム+ブリッジミュートギターの静かなイントロの感じから伝わってくる。この抑制の効いたアンサンブルのバックに、キラキラと切なげにうねっていくエフェクトが並走していく。エフェクトを効果的に使用したファンタジックな作りは前作『Anesthesia』までの手管との連続性があり、本作が別に過去作品と完全に断絶してる訳でもないことをも静かに示しているかもしれない。というかこの曲から先しばらくは、タイプは違えどもそういうエフェクトを噛ませた感じの楽曲が連なる。

 歌のメロディは十分にポップながら、こちらも最低限の抑揚で淡々と、突出しすぎないよう慎重に紡がれていく。サビ的な箇所のフレーズも単語ひとつで、シンプルすぎると思う向きもあるだろうけど、このシンプルさにこそ一時期のDeath Cab For Cutieっぽい淡いメロウさが感じられるし、またこのサビでの抑制・完結しきれていない感じは終盤の展開の伏線でもある。この曲は流石に声が綺麗な方が明らかに映えた側の曲だと思うけども、本人もそれを察してか、サビではUCARY & THE VALENTINEのコーラスを付けて透明感を補強している。

 静かに落ち着き払って2回ほどAメロとサビを回して、その間の間奏でもギターの曖昧でフワッとしたソロを見せるも、この曲の本領は最後の50秒足らずの間の、次第に視界が広がっていくかのような演奏のエモーショナルな高まりだろう。ここでもファズを用いた暴力的な音圧の高まりではなく、それまでの抑制を開放しただけのような自然な音圧の上げ方が静かにエモーショナルさを呼び込んでいき、サイクルの後半で間奏のギターソロのメロディがより明確に高らかに鳴らされることで、ゆっくりとこの曲の最高地点でかつ本作前半でも最も平和で雄大な地点にたどり着く。そしてサイクルが終わるとエフェクトの余韻だけを残してサッと演奏が終わってしまう。この、3分に満たない呆気なさの中に少しだけ宿る雄大さの感じが、アルバム中に独特のアクセントを付け加えていると思う。

 歌詞に、というかタイトルに露骨にシカゴの名が出てきて、シカゴでのレコーディングの盛り上がりを感じさせる。まあ他に取り立てて書くこともないし折角だし、という感じかもだけども。“Pills”という単語ややたらカンマを打つタイトルの形式がkilling Boy『You and Me, Pills』と被ってて、近い時期に作ったんだなあ、って感じ。

 そのアルバム中で突出する存在感ではないけども、短い尺の中にさりげなくも確実に印象的な瞬間を刻んでいる様に“隠れた名曲”然とした趣があって、筆者もこのブログが今の名前になって最初に書いた、このバンドのB面集のための投票が始まった際の個人的な願望を書いた記事でこの曲を取り上げたことがあるのを思い出した。もう相当前のことなんだな…。本作のレビューを書くまでにえらい時間だけ掛かってしまった…。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 

7. Pictures(4:02)

 The Cureライクな「奇妙に透き通った」音色とテイストを全体に持たせ、どこかオブスキュアーで不思議なコード感の中からキラキラしたメロウさと刺々しさが不思議なブレンドで軽快に躍動していく楽曲シューゲイザーバンドとしての側面をさらりと発現させつつ、しかし特にかなりエフェクティブな伴奏とよく動くベースによってかなり不思議なコード感となり、さらにサビのコードの不思議な始まり方もあって、案外にこのバンド全体でも独特の曖昧なコード感を有した楽曲になっている。本作的なエコーでスモーキーな音質がその感覚をより助長する、本作でもとりわけ霧の向こうで演奏している感じのある楽曲だ。

 曲構造も演奏的な展開も、イントロから始まってるAメロのセクションとサビのセクションの二つだけでほぼ形作られていて、構成的には複雑なことは全然していない。ただ、Aメロ側のパートはセクションによってエフェクトの出力量やドラムの入りを工夫し変化をつけていく。この、ギターのストロークから自然に幻想的なエフェクトが湧き上がってくる様は、Deerhunter等の活躍を同時代的に受け止めつつ*21エフェクターの使用法について既に日本で一定の地位にあったギタリストとしての戸高賢史の矜持を特に感じさせるし、killing Boyにてエフェクティブなギターを駆使しまくってた伊東真一に対抗するかのような素振りにも見える。

 Aメロ側のパートはそんなエフェクティブなギターのレイヤーがサウンドの中心だけど、普段のこのバンドだったらその中でルート弾きによってコード感を支えていくはずのベースが、この曲では一定のニューウェーブなフレーズを反復し続けることに徹しているため、この曲のコード分析が困難になっているくらいには、相当に曖昧なコード感を進行していく。スモーキーなエコーのこともあり、この不安定さに魅力を感じるかどうかがこの曲のカギな気がする。Aメロ途中からは4つ打ちのキックが強調されたドラムも入ってきて*22、奇妙で曖昧なコード感の中を強引に進行し、囁くような歌メロディからの変化共々、いい意味で強引にサビに雪崩れ込んでいく。

 サビではそれまでの霧のようなエフェクトが一転して、コーラスの効いた鋭利なギターアルペジオと四つ打ちのビートを主軸として、奇妙な爽やかさでもってグイグイ展開していく。この鋭い透明感のあるサウンドThe Cureを感じさせつつ、でも別にThe Cureはこういう曲を演奏したことないよなあ…っていうところが、このバンドの換骨奪胎力の高さを伺わせる。一方で、奇妙なコード感の上に歌が浮上していたAメロからの切り替わりの無理矢理さゆえか、サビのコード展開はまるで転調したかのような意外さを感じさせる。演奏の勢いの割にメロディ自体も末尾の上昇を除いて基本ボソボソとしていて、この辺は評価が分かれるのかもしれない。個人的にはこのバンドでの唯一無二な不思議なサビだと思えて興味深い。2回目のサビからはもう少し声を張り上げたフレーズも付与され、より扇情的な度合いを濃くする。

 歌詞においては、イメージの混濁は他の曲よりも薄く、もっと淡い後悔と諦念をギラつかせた内容になっている。

 

人混みの中 見失っていった

パレードの中 鳥たちは飛んでいったのさ

盲目になって 僕たちは死んだ 死んだ

 

このくだりは初期の『1965』『ステート オブ グレース』あたりの綺麗な歌詞のイメージをこの時期特有の身も蓋もない行き詰まり感で読み直したような質感で、結構好き。

 この曲、本作でもとりわけエフェクティブさ全振りな楽曲なため、本作のサウンドが合ってたのかそれとももっとブライトなサウンドの方が合ってるのか、かなり悩ましいところ。確かにこの曲がもっとブライトな音だったらどうなるだろう、という想像は楽しいものもあるけども、しかし本作のエコー感覚だからこその”不健康に閉じた”ノスタルジアあってこそのこの曲のようにも思えて、なかなか答えを決め切れない。

 

 

8. WHITE NOISE CANDY(2:52)

 これまでこのバンドがやってきたファンク路線の楽曲をもっとノイジー機械的に展開した趣の楽曲。曲名からしThe Jesus & Mary Chain『Phychocandy』のノイジーさを意識していることは間違い無いけども、そのノイジーさとこのバンド特有の奇妙なギターロックファンクの組み合わせは野心的だけど、この曲においては前者が後者特有のシャープさを打ち消して、どこかのっぺりした結果になってしまったように思える。

 冒頭からメタリックなギターノイズが響き渡り「おっ」と思わせる。演奏が始まると、タイトな4つ打ちのリズムに乗って、クランチな歪みの効いたギター音色による荒いカッティングと、そして反対側のチャンネルで定期的に機械的にノイズが噴き出す、というサウンド構成になっている。このノイズの吹き出しはかなり機械的で定期的に設置され、サンプリングしたノイズをタイミングに合わせてボタンを押して放っているかのよう。インダストリアルな様を狙ってのものかもしれないけども、この時点で『Phychocandy』的なアンコントローラブルなギターノイズとはかなり趣を異にしている。ギターカッティングも、かつてのファンク曲のシャープな音色によるPrince風味とはかなり異なり、もっとGang of Four的なザラザラしたものになっている。そのせいか、かつてのファンク曲との連続性はあまり感じられない。

 Aメロの歌メロはこのバンドのかつてのファンク曲『Perfect Kiss』のサビをもっとダウナーな形に焼き直したテイスト。この時期の声の状態を考えると、こういう曲で声の調子に抑揚をつけたり、ましてファルセットとかはきつかったんだろうなあ、と思ってしまう。演奏共々変化が乏しくてのっぺりした印象を与え、その割に繰り返しが長い感じもある。

 サビでは定期的なノイズは解除されて、よりサディスティックなギターカッティングが追加される。叫ぶようなメロディにはどこか『14SOULS』期のような快楽主義的な感じもあるけども、これも声の枯れ具合と音のモコモコさで、飛び出してくる感じが弱められている印象。というかこれもどこかで聴いた気がする。

 歌詞も含めてどこか淡々と「ART-SCHOOLをこなしてる」感じがしてしまっているかもしれない。正直、この曲くらいから本作は幾らか具合が悪くなってくる。おそらくこの曲はもっと声の状態が良い時に、もっとクリアな音でバキバキに仕上げた方がいい曲になったかもと思う。

 

 

9. Fall down (ecstasy in slow motion)(5:51)

 The Cureのドロドロしてる方の楽曲を目指したかのような、スモーキーな音響の中で退廃的な雰囲気がゆっくりと折り重なっていく、実に救いなく澱み切った楽曲。狙ってるところは凄くよく分かるし、求めてるドロドロさもこのスモーキーな音色に合っていると思う。けど、曲順的なものもあってか、この辺どうにも閉塞感・停滞感を覚えてしまう*23。まさにその閉塞感こそこの曲に求められているものなんだろうけども。

 不穏なエフェクトが静かにフェードインしてきてから、この曲の演奏が始まる。始まった時点から既に、不穏さに満ちた澱んだコード感が楽曲を支配している。不穏なコードの輪郭をなぞるアルペジオと遠くで鳴るギターのラインが不穏な世界観を形作り、タム連打とベースとブリッジミュートのギターが渾然一体となったようなリズムが沸々とした焦燥感を敷き詰めていく。これもまた、これより前やこれより後のこのバンドでは全然出てこないコード感やムードで、やはり本作は何気に色んなことに本当に挑戦してたんだと分かる。一番近いムードがあるかもしれない『シャーロット』は、このThe Cure由来のドロドロさを実に明快な形に換骨奪胎したものだったんだなあと逆に理解される。

 木下のボーカルもとりわけ頼りなく、無感情に浮かんでるだけ、といった情緒。Aメロの繰り返しが割と長いけども、これ自体はこの気味悪さが長く続くこと自体に価値があるようにも思えるので、長すぎかどうかは判断が分かれるところ。それにしても暗い。散々行き詰まりの情緒を感じさせた『Anesthesia』の頃よりも救いようがなく、歌詞に妙に日常の光景も混じるところが、余計にカビ臭ささえ感じさせるような救われない停滞感を感じさせる。

 サビに移行してもそこに爽快感やら儚いメロディみたいなのは無く、代わりに、ハードコア的な崩壊感を覚えるコード展開と、曲名のとおり落ちていく感じに必死に争うようなメロディがサウンドに飲み込まれていく様が表現され、この曲は徹底的にこのバンド特有の快楽を削いだ形で完結される。ドラムのタムを多用したビートもギターの帆ずんだ音もカオスな状態で、ボロボロの声でこれらの崩壊感ある轟音に抗おうとして争い切れず埋没していくこのボーカルは実に痛々しい。もっと声のボリュームを上げた方が分かりやすくなる気もするけど、おそらくあえてこの埋没するボリュームにしてるんだろうな。2回目以降繰り返しが増えても、痛々しさ・不健康さが膨張していくような、まったく爽快感に繋がらず不快感を高めていくあたり、この曲は何気に徹底している。実は名曲なのかもしれない。

 歌詞については、ラブとヘイトがドロドロになった木下理樹の歌詞世界の感じをこの曲のサビは最も身も蓋もなく言い当てているかもしれない。

 

愛という憎悪の中へ もう一度生まれ変わる様

愛という憎悪の渦へ 貴方となら落ちていけるって

 

他にも初期から変わらない繊細なセンスを見せる箇所があったりして、そのセンスのいい具合に苦味を帯びた様が地味に良い。

 

鋪道のうえ 寝転んでみれば

君は知る 体温と花の意味を

夢を観る 輝きはいつか鈍り

口の中 苦い味だけが残る

 

なんというか、かつて毒々しくも可憐に咲き誇ったメンヘラさが、加齢によって段々どうしようもなくなっていくことの悲哀を感じさせもする。

 この曲、間違いなく10人いたら9人が不快感を覚える楽曲で、尺の長さも含めてそれがしっかりと達成されているということは本人たちの狙い通りな気もしてきて、実に判断に困る様な(笑)もしかしたら名曲かもしれないが、アルバムの流れで聴くと前曲から続く停滞の感じが結構ダルいのも否めない。もしかして『Pictures』からこの曲に直接繋げば名曲だった…?いやでもそんなことしたら急に本作のThe Cure濃度が上がり過ぎてしまうきらいもあり。

 

 

10. WISH LIST(3:14)

 かつてのこのバンドの名曲『スカーレット』をもっとヤケクソでハードコア気味に調整し直したかのようなダークな疾走曲。焼き直しの感は結構あるけども、しかしその焼き直し方はART-SCHOOLらしさをいい具合に凶暴な方面にスライドさせていて悪くないしむしろ良い。前曲までで感じられた酷く淀んだどん詰まりのような閉塞感をヤケクソ気味にブチ破っていくところがとても格好よく、この曲順はある意味、リスナーの気持ちをよく分かってる(笑)本作後半の要のような楽曲。

 イントロからして程よくクランチに歪んだギターのいきり立ったコードカッティングのみが聞こえてきて「ああ、ART-SCHOOLだなあ」と一気に思わされる感じの安心感と快さ。前曲のART-SCHOOLらしからぬドロドロさのこともあって、この曲順で聴くこのイントロの抜けの良さは本作でも特筆もの。刺々しさと爽やかさを両立したこのギターカッティングはまさに『スカーレット』を思い出させ、かつ『スカーレット』のそれを「あれはまだポップ向けだったかもね」と思わせるくらいには獰猛な勢いで掻き毟られている。不思議なパターンのドラムフィルの後に始まるアンサンブル、その性急さで、この曲の血走った情緒が存分に感じられる。歌に入っても、声の枯れっぷりをまるで無視するかの様に痛々しく叫ぶ様に歌う様はハードコア的な疾走感に満ち、感情が肉体を凌駕していく様な勢いを思わせる。

 この疾走感は一旦Bメロでカットされるも、代わりにこのBメロの、えらくグチャグチャに汚く掻き鳴らされるギターサウンドの壁とキメの連発には、この後のサビも順当にART-SCHOOLなメロディと疾走感って感じがする中に、強引にハードコア要素を埋め込んできたかの様な仕掛けになっている。ここでボロボロの声で痛々しくも破滅的にシャウトしてから始まるART-SCHOOLらしさに満ちたサビメロディは、その流れからして独特の性急さ・切迫性があり、“いつものメロディの感じ”を強力に異化している。最初のサビの後の鋭いキメ→ブレイクのまま再開するAメロ→その裏で再開される前のめりなアンサンブル、という流れもまたこの曲のヤケクソな勢いを加速させていく。

 この曲のテンションが特にレッドゾーンに振り切っていくのが2回目のサビ後で、ここで大変に強引なブレイクがかかり疾走感が強制的に打ち消され、その割にはそれまで以上の性急さでベースが鳴り始め、アンサンブル再開後はまるで内出血するみたいに同じコードばかりをギターも演奏し始めるに至って、もう演出とか関係なしにひたすらテンションだけで突き抜けていこうという体制になっている。ボカ流も最初囁く様に入っていたのがついに叫び始め、終盤は演奏全体が歪んでいくかの様な情念に取り憑かれたまま最後あっけなく強制終了してみせる。この、割といつものART-SCHOOLっぽかったはずの楽曲が最後こんな強迫観念に満ちた終わり方をするところに、本作ならではのスリリングさが感じられる。

 歌詞の方も「いつものART-SCHOOL」をブーストした様な感覚だけど、2回目のAメロの箇所は勢い余っていつもより殺伐な境地に行きついてる感じもする。

 

憎しみが 生きる意味に変わって

君は這いつくばって堪えてる

この夜が 明けた時に気付いて こんな美しい日は二度と

 

こんな復讐じみた感情を歌ってたっけ?と思うけど、獰猛な演奏に引き摺られて出てきたフレーズだろうか。

 この曲がライブに定着しなかったのは残念。まあ定番曲『スカーレット』とかなり被ってるから仕方ないのか…。


 

11. Love will found you, in the end(3:38)

 メインのギターフレーズ等からこのバンドのかつての名曲『LOVERS』と比較されることを余儀なくされた、あちらに比べればもっと中庸で落ち着いたポップさのある楽曲。この曲が本作で一番「いつものART-SCHOOL」な感じで、他の作品にその時期の音色で収録されていても違和感がなさそうな気がする反面、本作的な暴走感・突き抜け具合は感じられない。極度にメロウすぎることもなく、本作的なくぐもった音響の中淡々と展開され通過していくので、ちょっと退屈に感じられるかもしれない。

 フェードインで入ってくる曖昧なフレーズの上から登場するこの曲のメインテーマとでもいうべきアルペジオパターンの時点で、同じパターンを有する『LOVERS』と比較されてしまうことが宿命づけられてしまう。元を辿ればPavement『Major Leagues』のサビ裏のアルペジオの一部を抜き出し執拗に反復させたものだけども、諦観に満ち溢れたコード感の『LOVERS』に比べると、こちらの方はもっと中庸というか、かなり立体的で曖昧なコード感になっていて、そこにぼやーっと歌メロが浮かんでいる、という感じ。Bメロでようやくコード感がくっきりし始め、そのまま頭打ちのリズムのサビで程々の切迫感と大らかなメロディのサビで締める、という構成。

 サビの最後で短いブレイクを挟んで元の曖昧なコード感に戻っていく様には仄かな寂寥感がある。しかしサビは2回で終わりで、その後は元のAメロの曖昧なコード感に戻り、そのまま延々と繰り返していく中でフェードアウトしていく構成となっている。この、特に起伏があるわけでもなく明快に明るいわけでもない、なんとなくぼんやりしたまま宙吊りな感覚のまま通り過ぎていく様に、この曲の哀愁の行方が託されている。あえて思いを巡らせればそれは異国の鋪道の上のようでもあるかもしれない。

 歌詞の落ち着いた諦観は年老いた人物のちょっとした気の迷いのよう。鮮やかにノスタルジックさを歌うには歳を取り過ぎた、とでも言わんばかり。この頃木下理樹は33歳か34歳くらいか。しかし「この曲外国で作ったで」アピールもサラッと入れ込んでくる。

 

 

12. We're So Beautiful(6:46)

 本作でもとりわけ静寂なパートを含みつつ、サビで力強いメロディを見せ、そして間奏部分では本作的なオルタナティブな膨張と暴走の展開をも含む、ズタズタな感覚の本作を締めるに相応しい壮大さを有したバラードの名曲。いくら声が枯れていようと、音響が特殊であろうと、この曲の壮大さはかき消え切らない。重たくなった身体やら記憶やら何やらを引きずってそれでも懸命に生きていこう、とするギリギリさを素直に感じさせる、それでいて演奏のスリルを入れ込む欲張りさをも持ち合わせた、本作を好きじゃ無い人も認めることの多い名曲。伊達に尺が長いわけでは無い。

 曲冒頭、静寂の中でシマーリバーブのエフェクト部分だけみたいなのが光のように差し込む中、ベースが高音弦でメインフレーズを紡いでいく展開を見せるAメロは、何気にまるでギターとベースの役割が逆転したかのような倒錯を見せる。エフェクトとジャキッとしたコードの白玉弾きに徹するギターと推進力になるベース。特にベースのフレーズのメロウさが美しい。ドラムは遠くでタムを刻むばかり。その中に、まるで息も絶え絶えといった様子の、枯れた声のボーカルが浮かび上がってくる。この静かな展開の中でこのボロボロの声が響くだけで、空気は一気に緊張し、なにか救われるべき絶望的な主体のようにこの声が響いてくる。これは前までのクリアな声よりもこのボロボロの声の状態だからというところがあり、音楽って本当に何が吉と出るか分からない。

 楽曲はBメロで少しずつドラムの存在が現れ始めるも、ドラムは結局サビに入るまでメロディ共々本当によく抑制され続ける。だからこそ、サビに入った時の爆発力が出てくるというもの。威風堂々とした雰囲気の中を分厚い歪みでドライブしていくギターと、そして痛々しい声のまま高らかにメロディを跳ね上げさせるボーカルの様には、重々しいものを必死に引きずり上げようとするかのような重力感が感じられる。はっきり言ってボーカルはまたも高まる演奏の中で今にも埋もれそうな音量しかないけども、埋もれるのに必死に抵抗するように声を振り絞る様は、この曲にこの声・この音量バランスだからこその何か感動的なものを確実に残している。

 しかし、この曲が真に輝き出すのは4分を超えて2回目のサビが終わって以降の展開だろう。演奏がブレイクする中、それまでのスローなテンポと打って変わって、性急なテンポでルート弾きを決めていくベースが鏑矢となり、その後ギター、ドラムとアグレッシブな演奏が重なっていく。特にギターのカッティング側のアグレッシブさは鋭く、そのコード感もペンタトニック的なところから逸脱した響きを含んでいる。この演奏は次第にギターが激しく歪むことで激化し、どんどん手数が増えていくドラム共々ジリジリとせり上がっていく様はまるでSmashing Pumpkins的な爆発力を感じさせる。最終的には幾何学的で刺々しくもあるギターフレーズも追加され、大変に暴れまくった上で、そしてそこからもう非常に強引に、最後のサビに入っていく。この切り替わり方の豪快さにこそ、この曲最高の輝かしさが感じられる。最後のサビの、全てをやり切ったとばかりに歌が終わってそのまま演奏もノイズを伸ばしたままにせずバチっとバンドで合わせて終了していく様に、波乱の展開を乗り越えて過去最高の演奏能力を身につけたバンドの誇りのようなものが滲んでいる。

 歌詞については、これは前作『Anesthesia』で見せた「もうどこに行けばいいか分からなくなった二人」の物語の、その半ば開き直りめいた、しかし半ばいのりを絞り出すような形での終着点のようにも感じられる。歌い出しのフレーズが、ボロボロのボーカルと相まってそういう物語性を感じさせもする。

 

なにもかも失った二人

落ち葉を 踏んだ時以外 何にも聞こえない闇へ 歩いた

 

木下理樹もまた、歌詞で希望を歌うときは“光”という語を用い、それをバラードで感動的に歌い上げるという意味ではこのバンドの過去曲では『光と身体』『君はいま光の中に』といった楽曲と被っているけども、それらと比べてもずっと泥臭い体裁をしたこの曲では、似たようなフレーズもまた違って切実に聴こえるかもしれない。

 

確かに此処にいる僕は 確かに此処にいる君は

微かな光のほうへ ほうへ 今を生き抜くために

誰にも触れない場所へ 誰にも探せない場所へ

微かな光のほうへ ほうへ 今が遠ざかる前に

 

今が遠ざかる前に」というフレーズが、特にART-SCHOOL定番の「通り過ぎていった過去を思う」感じに争っていて良い。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・

おわりに

 以上、全12曲で47分25秒のアルバムでした。

 本作、リリース前の本作収録曲お披露目ライブを東京まで観に行って、次々と知らない曲がこの脅威のベーシストを交えて*24演奏される様を観て、様々な新鮮なテイストやら大胆さやらに興奮したので、本作に関しては冷静に観れないところもあるのかもしれません。

 それにしても、声の状態ことや音があまりに他の作品と違いすぎること、あと後半少し弱いこと*25を除けば、この作品を自分は大好きなんだなあと改めて聴き返して実感しました。下手したら曲によってはこの声の状態だからこそいい、なんて書いてて、ちょっと冷静ではないのでは…?とも思えて苦笑します。

 本作の良さは本作の、どこかのスタジオでノイジーでアイディアとアグレッシブさに溢れた演奏を繰り広げるバンドの姿がキャッチできるか否か、という感じがします。そりゃバンドが同じ部屋で大音量で演奏すれば、当然音は各マイクに回り込んで自然とエコー感が出てくるし、一緒に歌ってるボーカルは何もしなければこれくらいは埋没するわな、という、そのある種のナチュラルさを、そのまま盤に刻みつけたかのような音は、確かに「整然と音を重ねていった商品」としての観点から見ると論外なカオスさかもしれませんが、でもまあ、過去作品との音量バランスの調整とかなんとかを全て投げ出したくなるくらいには、このときは「そのもの」を叩きつけたかったんだろうし、そう思っても仕方がないくらいに、この新しいリズム隊を迎えて、次々に無邪気なアイディアがドバドバ出てきて、大胆な試みを次々やっていこうという姿勢が全体から伝わってきます。現在どう思ってるかはともかく、当時の彼らが興奮気味に「最高傑作」だと言うのもなんか分かると言うか。

 この溢れんばかりなクリエイティビティとアグレッシブさをもっと良い声でもっとクリアな音像で録れてたら…というのはこのバンドの各作品を比較して聴いていくと割と出てきがちな感想だとも思います。でも、声は復活を待ってられなかったにしても、音像については当時の彼らはマジで全て振り切って「いやこれこそが良いんだ」と確信を有して世に放ったわけで、なのでこの作品単体で、このバンドにはこの作品しか存在してない、くらいの閉じた世界観の中で、どれほどこの作品の中のバンドがやんちゃに躍動しているかを、ぜひ一度腰を据えて覗いてみてほしいなと思います。

 面白いのは、本作の勢いを引き継いで本作の7ヶ月後に性急にリリースされた次作『The Alchemist』は録音場所もエンジニアも全然違うけども、割と本作に寄せた音像になっていること。『YOU』の制作で詰まるまでは、割と本当にこれから先ずっとこういう音の感じで行こうとしてたのかなあ、というのが感じられます。そうなってたらどうなってたのか。まあ、色々心移りし続ける作者なので、そうはならないとも思いますけども。

 ともかく、本作がもっと多く聴かれて、収録曲がライブで演奏されたりするといいなと、本作収録曲のライブ映えを目の当たりにした者として願っています。

 以上です。それではまた。

*1:逆にこのときのメンバーはよく続けているし、特に本作録音前のかなり解散寸前度合いの高い時期にバンドに残った戸高賢史はよく決断したな…と思います。彼も抜けてたら解散してたろうな。

*2:サポートの名目にはなってるけど、その後ずっと一緒に活動してるので、実質的に加入したようなもの。

*3:正直、人間関係の悪化もそれなりにあったのかなあと、リアリタイムでのTwitter等の本人たちの険悪そうな雰囲気からは感じられたり。

*4:正確には傘下のキューン

*5:確かにこの時期くらいから歌詞に新鮮味というか、“木下理樹的世界観の切れ味”みたいなのは弱くなってはいるかもしれない。でもこれは本当にこの時期から始まったものか、『左ききのキキ』くらいからこんなもんじゃないか、という気がしないでもない。かなり表現が柔和になる『YOU』以降に比べれば、まだ混沌とした退廃感を呼び込もうとしている節が大いにある本作の歌詞は頑張ってる方な気もする。

*6:この時の“ルード”がどういう意味なのかは、言われた本人ですらよく分からないと中尾憲太郎Twitterで言っててウケる。

*7:本作よりあとの作品と比較してもやたらと手数が多く、なので重厚感は薄め。というかモーサムでもここまでフィル連打するようなドラム叩いてなかったでしょ、とこっちもそのイレギュラーさに突っ込みたくなる。確かこの時期のもう少し前からモーサム内ではドラムを別の人に任せてギターを弾くようになってたから、久々のドラムでこうなったのか。

*8:これは特に木下理樹たち以上に、SuperchunkをはじめとしたそういうUSインディ大好きな中尾憲太郎が、そう言ったバンドの作品の多くが作られたこのスタジオに特に大興奮してそうなイメージがあります。

*9:ここでいう“ローファイ”が決してこのバンドの最初の作品『SONIC DEAD KIDS』のような「純粋な音の悪さ」を意味するわけではなく、いわゆる“ドンシャリ”な音によってもたらされる“ハイファイさ”と対置されるような、ローミッド寄り、かつエコーがやたら効いた“ローファイさ”であることに注意。多分当時の洋楽インディーロック基準では本作を”ローファイ”とは言わないと思う。

*10:声の状態がよくなかったのを誤魔化す意図もなかった訳ではないかもしれませんが。実際次作にしてゲボ声最終作『The Alchemist』までボーカルのエコーはかなり濃いところ。

*11:余談ですが、このような本作のエコーがElectrical Audio録音による必然なのかというと別にそうでもなく、実際同じ年の『Attack on Memories』はもっとドライな音作りになっているので、このエコーの効いた感じは確実にこの時のバンドの意思の反映の結果だと思われます。もしかして2010年前後にUSインディーで多く出てきた「エコーを効かせまくったガレージロックを“ドリームポップ”と称したムーブメント」を横目に見ての音のチョイスなのか。

*12:というか、こういう作品間での音量のバランスを合わせようと気にするアーティスト(アジカンとかそんな印象)とそうでないアーティスト(まさにこのバンドとか)がいて、本作はそんな中でもとりわけ気にして無い印象。

*13:まあ、そんなリアルタイムでの批難的レビューでも、最終曲の評価はとても高かったとは思うけども。

*14:これもよく聴くと最初のサビ後と2回目のサビ後で違うフレーズになってて、どっちもいい感じにフリーキーでぶっ壊れてる。絶対弾いてて楽しい。

*15:フォローとして、近年はバンド側も“レア曲”を積極的にライブで取り上げようとしてたところはある。

*16:原子爆弾のことだとするとアメリカで最初に生まれたものと思うけども、しかし、ドイツからアメリカに亡命したユダヤ系ドイツ人学者たちがマンハッタン計画に深く関わってること、もっと言えばまだドイツに居住していたアインシュタイン特殊相対性理論の中でE=mc²を発見したことをもって“ベルリン生まれ”と評することはもしかしたら出来るかもしれない。全然関係ない映画の元ネタがあるのかもしれない。流石に毒ガスのことではあるまい。

*17:同じ年に同じく日本のオルタナティブロックバンドの昆虫キッズが『非常灯に照らされて』というサンバでオルタナした楽曲を出してる。シンクロニシティ…!

*18:“輝き”的な意味合いを出したいのは分かる。けども「クリスタル」って連呼する曲も世の中なかなかないだろう。FFでもやってたのかよ。

*19:killing Boy『1989』なども同じ傾向。

*20:ジャン=ミシェル・バスキアアメリカの画家。アウトサイダーアート的でグラフィティアート的な具合の絵を描き、晩年のアンディ・ウォーホルと懇意になりつつも、同時にヘロインに没入し、わずか27歳で死去。

*21:実際この曲のギターエフェクトの肝はおそらくピッチシフターで、それはまさにBradford Coxが得意としたものでもある。

*22:このドラミングにはおそらく同じ年のCloud Nothingsの楽曲で見られたドラムプレイが参照されている。2拍4拍でスネアとキックを同時に打つのが特徴。普通の8ビートならその拍はスネアのみをハット等と共に打つところ。

*23:そもそも筆者は元ネタであろうThe Cureのこういうタイプの曲も結構苦手なのが多いので、単純に向いてないだけかもしれない。

*24:自分が観た時は確かドラムはサポートでかつてのバンドのドラマーだった櫻井雄一だったと思う。

*25:『WHITE NOISE CANDY』と『Love will found you, in the end』の2曲を抜いた10曲で考えると、これ相当いいアルバムにならんか…?とかも書いててちょっとだけ頭をよぎりました。