おそらくこのブログですでに何度か何らかの形で取り上げたことのあるGRAPEVINEのこのアルバムですが、今回どういう風の吹き回しなのか、バンドの25周年とこのアルバム20周年が被ったことによりこの、別にファンの間でアルバム自体が特別飛び抜けて支持があるわけでも無いようにしか感じられない気もする*1アルバムの再現ライブが行われ、それを幸運にも観れたことによって改めて色々な気付きがあったので、ようやく、ようやく全曲レビューをしていこうと思います。
ちなみに、この記事のメインは2002年にリリースされたスタジオアルバムの方の全曲レビューになりますが、同時に、2022年7月に行われた同アルバムの再現ライブ*2のライブレポートについても、脚注を中心に書いておこうと思います。何せアルバムから20年も経過して、演奏もバンドの佇まいも熟成された彼らのステージングは、当時*3と比べても間違いなく何かしら変わっているだろうと思われます。で、そのライブを見て逆に、本作が当時バンドの中でどういう地点の作品だったか分かるような感じもしたので、そこも込みでレビューしていければと考えています。
ちなみにこのライブが観れたのは様々な偶然が重なったもので、以下の記事でそもそも存在を知ったり、その後も出遅れてチケットが買えなくて9月の大阪や新潟の公演さえ検討していた中でチケットを譲っていただける方がいたり、ライブ後にTwitterでリプライのやり取りする中で色々書く内容がまた整理されたりと、様々なラッキーを経てこの記事が書けています。ありがとうございました。
なお、かなり前にこのブログでGRAPEVINE全アルバムの簡単なレビューも書いてましたが、ようやく短評だけでなく詳細なレビューが今回1枚だけでも書けたところです。良かった…。
- はじめに━『another sky』はどんなアルバムか━
- 本編
- 1. マリーのサウンドトラック(作曲:田中和将 4:12)
- 2. ドリフト160(改)(作曲:田中和将 3:29)
- 3. BLUE BACK(作曲:西原誠 3:33)
- 4. マダカレークッテナイデショー(作曲:亀井亨 4:15)
- 5. それでも(作曲:亀井亨 4:42)
- 6. Colors(作曲:亀井亨 5:16)
- 7. Tinydogs(作曲:西川弘剛 4:05)
- 8. Let Me In 〜おれがおれが〜(作曲:亀井亨 4:29)
- 9. ナツノヒカリ(作曲:亀井亨 4:09)
- 10. Sundown and hightide(作曲:亀井亨 3:30)
- 11. アナザーワールド(作曲:亀井亨 5:05)
- 12. ふたり(作曲:西川弘剛 4:28)
- 終わりに
はじめに━『another sky』はどんなアルバムか━
長大なキャリアとコンスタントな作品リリースにより様々な作品を抱える日本有数の有力バンドとなったGRAPEVINEですが、その中で少し印象が埋もれがちになってしまうこのアルバムも、実際は「オリジナルメンバーで制作された最後のアルバム」というかなりドラマチックな背景があったりしてる訳で、なのになぜファンの間の印象が割と落ち着いているのかは少し不思議なところではありますが、作品の特性がそういうバイオグラフィ的なドラマを打ち消す形になっているのか。
この辺ちょっと整理しておきましょう。
西原誠在籍最後の作品
正直いつ頃からか本作を語る際にこの要素はあまり触れられなくなった気がしますが、本作はこのバンドのオリジナルメンバーでありベーシスト、そしてバンドの創設者だった西原誠が在籍した最後の作品となりました。
ただ、その辺の経緯が少しややこしく、音楽性の違い・仲違い等でいきなり脱退、というのではないところです。元々2000年頃からジストニアに罹り演奏が厳しくなり、2001年の途中に治療に専念するため一時離脱*4、その年のアルバム『Circulator』においては彼がベースを弾く曲とそうじゃない曲*5が混在する形となりました。
その後2002年に入ってシングル『ナツノヒカリ』より後にバンドに復帰、次のシングル『BLUE BACK』では久々に作曲も担当し活躍しましたが、しかしやはり病気が再発するなどの困難を経て、結局本作リリース後の12月に脱退を発表した、という経緯になっています。この辺の流れは以下のインタビューを読むと分かりやすいと思います。
GRAPEVINEは元々4人とも作曲もするバンドで、なので脱退により作曲者も1名減となってしまった*6という事情があります。そしてバンド内でも創設者ということもあり、ある程度中心の役割を持っていた彼の脱退が当時のバンドに与えた影響は小さくなくて、当時は解散も考えたようです。しかし当の脱退する本人がバンドの継続を強く希望したため、このバンドは続くこととなり、その結果、2022年7月時点でアルバム17枚を数えるほどの多作でライブも強力なままあり続けるバンドが今日まで存在できているところです。
本作に話を戻すと、シングル『ナツノヒカリ』後に復帰した関係から、本作も彼がベースを弾いた曲とプロデューサーの根岸孝旨がベースを弾いた曲が混在しています。逆に、クレジットでどっちがベースを担当しているかで録音時期が前半か後半か解る、という特徴が本作にはあります*7。
●西原参加曲(2002年7月以降の録音?)
・マリーのサウンドトラック
・BLUE BACK
・Colors
・Sundown and hightide
・ふたり
●西原非参加曲(2002年6月以前の録音?)
・ドリフト160(改)
・マダカレークッテナイデショー*8
・それでも
・Tinydogs
・Let Me In 〜おれがおれが〜
・ナツノヒカリ
なお、この脱退の他、それまでプロデュースを務めていた根岸孝旨やマネジメントの人もバンドから離れ、サポート含めた5人体制で何とか模索しながら、このバンドでは珍しくそこそこ苦しんだ末に何とか次のアルバム『イデアの水槽』が完成する訳ですがそれはまた別のお話*9。ただ、何気にアルバム『Lifetime』以来の「根岸プロデュースのGRAPEVINE」ということでも本作はその最後ということになります。しかしアルバム『deracine』以降は長田進がプロデュースに入り、このバンドは何かとDr. Strangeloveと関わりがある感じになります。
また、脱退した西原誠については、その後自分主導のバンドを幾つか立ち上げたり、他アーティストのプロデュースを行う等の活動をしていて、楽器をギターに持ち替えて活動してることも多々あるようです。
作風━異世界的なサイケデリア━
本作の作風、といっても彼らの少なく無い作品の常で様々なタイプの楽曲が収録されるため全曲に通底している訳ではないですが、その中でも作風的なものを挙げるとするならば、乱暴に一言で言えばそれは「異世界的なサイケデリア」ということになるのではないかと思います。
サイケな曲調自体はこれまでに無かった訳でもなく、特にメンバーの中でもギタリストの西川弘剛がこの方面を得意としており、『Paces』『Lifework』『フィギュア』『アルカイック』等の名曲を本作より前に残しています。
本作においては、特に『フィギュア』『アルカイック』等で見られた「別世界に迷い込んでしまうかのようなサイケさ」がより追求され、楽曲によってはまさに異世界を彷徨い歩くかのような感覚が立ち上ります。実質アルバムタイトル曲として『アナザーワールド』がアルバム終盤に屹立しているのはまさに象徴的で、この曲は確かに本作の印象を大きく決定づけるであろう強力な楽曲です。ですが、これ1曲でそういう印象になる訳でなく、他の曲も、従来的なグルーヴ系の楽曲以外からはどことなく同じベクトルの、異世界的な不安さ・頼りのなさみたいなのが感じられ、全体としてメロウ寄りな作風になっている*10とも言えます。パワフルにロックするタイプの楽曲にあまり派手な曲が無いこと*11*12もサイケ寄りの作品という印象、もしくは人によっては単に「地味」と思われてしまうことに影響してるかもしれません。
本作で成し遂げたサイケ感覚はバンドの表現能力の拡張という要素はまず大きいですけど、そんなバンド史的な部分以上に、本作を彼らの作品の中でも独特の位置に押し上げている要素だと思います。本作より後も異国の雰囲気を醸し出す楽曲は彼らに多くありますが、どちらかというとその舞台は「どこかの荒野」みたいな感じになっていく中で、本作の異世界さはまるで記憶の果ての、記憶が変質してしまった先の光景じみたものがあり、そこがまた、本作特有のメロウさの源泉にもなっているんだろうと考えられます。
楽曲的にはまだBメロを挟んでからサビにいく構成の楽曲は少なくないですが、はっきりとBメロしていないようないい意味でグズグズな展開が多くなってきていたり、Aメロ回帰してから曲が終わる展開が多かったり、中には停滞感のあるコード進行の反復するAメロからパッとポップなサビに移行する『ナツノヒカリ』みたいな曲もあり、色々とブッ壊す意思が感じられる次作『イデアの水槽』ほどじゃないにせよ、曲構成への意識のあり方がこれまでより変わってきている兆候が多く見られます。
コード進行的に考えると、初期に特に顕著だったブルーズ的なセブンスコードの感じが本作では相当薄まってることが挙げられるでしょう。初期GRAPEVINE的なだらしなさを感じさせるコード用法はそれはそれでとても魅力的ですが、そこを離れつつあるからこその、世界観の広がりというか、これまでよりも世界に大いにその身を投げかけていく感じがあるというか。曲によってはメジャーセブンスとマイナーセブンスが飛び交うようで、大人っぽいしなやかさが出てきています。その極北は末尾の『ふたり』で、これが最終曲なところにも何か「アドレッセンスの終わり」めいたものを感じさせます。全体的にはどこか夏っぽさを感じさせるアルバムだけに、この終わり方もまた意味深なようにも感じられます。
サウンド的にk後述するキーボードの全面参加とそれによるギターの役割の変質が大いに影響を与えていて、これまでよりも大文字の「ロック」的なものから離れた自由なサウンドメイクに向けての模索が始まっています。その中においては、シェイカーの使用がこれまでよりも増えていて、それらもやはりロック的なものというよりももっとどこか辺境的なものを目指して鳴らされているかのような質感を有するのは大きな特徴と言えそうです。
歌詞的にも、「君と僕」の歌の要素はかなり遠景になり、神秘主義やら文学的・業界的ジョークやら“青春”への茶化しやらが跋扈し、「君」が出てくるにしてもどこかすっかり記憶の向こうの存在のようやら何やらで、あえてネガティブに捉えてみようとすれば「曖昧で何が言いたいのか分からない」感じになってきています。でも「何と言えばいいのか判らないけど、淡く眩しい感覚」みたいなものは世の中に確かにあって、ことそれを描き出すことにおいて『アナザーワールド』くらい見事なものも中々無いように思います。
ジャケット等のアートワークもまた、現実とは異なる、もっと温度の低い世界への誘いじみた存在感があるように思います。ドロッとしたものとして強調された“青”にどういう意味が見出されうるかは、聴き手の想像力が試されるところ。
あとはここに、2002年の世界情勢やそこから来るどこかオブスキュアーな音楽の風潮が重なるのかもしれません。2001年に発生した911同時多発テロと、それを受け戦争に突入していく世界、その中でどこか行き先を見失ったような、見失ったことで光景が無限に広がっていくような、そんな音像を持った作品がこの年には多く見受けられる気がします*13。Beck『Sea Change』やらくるり『THE WORLD IS MINE』やら、そして後にこのバンドの大きな指針となるWilco『Yankee Hotel Foxtrot』やら。そういった「曖昧なままにひりつく空気」そのものを描き出さんとするかのようなサウンドの志向として、本作の空気感もやはりどこか2002年的な感じがします。まあ幾らかはポスト『Kid A』やポスト『Amnesiac』的なところもあるのかもしれませんが。2002年については、自分も格別に好きな音楽が多い年なので、以下の記事で色々と書いています。
何なら本作も後編の記事に出てきます。同じことを何度も書いてるのがこのブログなのかもしれない…。
キーボード・高野勲の全面参加とギターの性質の変容
サウンド面での変化としては、そしてもしかしたらバンド史を音楽面で見て行った時にも、最も重要なのはキーボード担当として本作から高野勲が全面参加するようになったことじゃないかと思います。
前作『Circulator』まではキーボード類が入っていてもピンポイントに外部ミュージシャンが演奏していましたが、『Circulator』リリース後のライブから参加するようになった彼は、そのままレコーディングでも八面六臂の活躍を見せ、本作リリース直後のインタビューで田中和将をして「欠かせない存在になった」とまで言わしめ、その後もベースの金戸覚共々GRAPEVINEのサポートメンバーとして確固たる地位を築き、『イデアの水槽』以降は一部作品*14を除き実質5人バンドとなるくらいのメンバーとなりました。彼は様々なアーティストの作品や活動に参加していますが、おそらくサニーデイ・サービスとGRAPEVINEが2大巨頭でしょう。
彼がどれくらい本作のサウンドに貢献したかは、クレジットを読むだけでも十分に分かりすぎるかと思われます。オルガンにシンセにアコピ・エレピにクラビネット、更にはボコーダーまでを担当し、担当した楽器数だけで言えば本作で圧倒的1位です。彼が入ったことで、録音メンバーはバンドメンバー4人と彼とプロデューサー兼ベースの根岸孝旨の6人で完結しています。ライブでも、彼がスタジオ音源の様々なサウンドを極力再現すべく、複数のキーボード・シンセ類を奥の方で要塞みたいに並べているのが見て取れるかと思います。
本作を聴けば、彼がどれほどサウンドに貢献したかが更に分かると思います。本作のサウンドを楽器編成面で見るならば、ギターロックの範疇を超えた、より多様な楽器を使用して構築された奥行き・レイヤーの重要性が挙げられるでしょう。前作までと比べて圧倒的に音の選択肢が増えていて、それは単純にキーボードやシンセの音色が増えただけではなく、もっと効果音的存在やら、奇妙なエフェクトやら、そういう楽譜にしづらいような要素まで含めての話で、その進化っぷりはそれこそRadioheadが『The Bends』から『OK Computer』とか、それかその後の『Kid A』『Amnesiac』に移行した時みたいな、音に対するアプローチの変化がったのではないかと思われます。間違いなく本作には「シンセ鳴らしとけばサイケ」みたいなのとは遥か遠い地点にいきなり到達しています。
この変化によって、イントロや間奏・後奏で何か楽器のフレーズを入れ込まなくても雰囲気を聴かせることが出来るようになったことは、更なる副産物を生みます。それは、リードギターがリードフレーズやギターソロを弾かなくても曲やサウンドが全然成立するようになったことで、ギタリスト西川弘剛もまた効果音的なギターのスキルツリーを大きく伸ばすようになっていったことです。今の日本において、ギターによって様々なサウンドレイヤーを構築することにかけては彼はひとつの頂点のような存在だと個人的に思いますが、そのスタート地点とは言わずとも、大きな飛躍になったのは間違いなくこの作品じゃないかと思っています。
すなわち、あるときはキーボード共々曲のムードを作り上げるべくモジュレーションやエコーなどのエフェクトを多用して茫洋とした音空間を作り上げ、あるときはキーボードがオブリガードを担当するので、その後ろでロングトーンでやはり気の遠くなるようなドリーミーなラインを描いたり、そのような、ギター2本では中々作り得ない、もしくはライブ再現に同機が必要になるようなアンサンブルを、彼らは自在に構築することができるようになり、しかももう何年もずっと共に活動してきたために、様々なレイヤーの重ね方・アンサンブルの組み方に挑戦し続け、昨年のアルバム『新しい果実』においても様々な超常的なサウンドを達成しています。
それにしても、本作の少なくない楽曲の音に一定のヴィジョンの方向性の一致が見える感じがするのは、もしかしたら同じキーボーディストが全楽曲を担当し、場当たり的じゃ無しにバンドと粘り強くサウンドを構築していった結果なのかもしれません。というか、高野勲さんって日本でも最高峰のキーボーディストなのでは。
本編
ようやく各曲レビューに入っていきます。彼らの場合作曲者が誰かも大事なので、演奏時間とともに付記します。歌詞はこのバンドの常ながら全曲田中和将が担当。
そして本作の冒頭2曲は両方とも田中和将作曲で、これらについては以下の田中楽曲を多数取り上げた記事でもレビューを書いています。
1. マリーのサウンドトラック(作曲:田中和将 4:12)
いきなり始まる歌、元気がないを通り越して精気と正気をどこかに奪われたかのような歌や楽曲のテンション、呪詛的なサビのフレーズ等、徹底的にポップソングの法則性を振り切った楽曲でアルバムは幕を開ける。前作も実質1曲目はやはりポップソング的ではない『壁の星』だった*15けど、それにも増してこの曲の突き放した・怪しいダウナーさに満ちた雰囲気は凄い。当時のファンは待望の新譜の始まり方がこんなでどう思ったんだろう。個人的には最高だけど。
静かに途切れ途切れに神経質に鳴らされるアコギと体温が低い歌、そしてシェイカーの響き。この殺伐なくらい簡素な始まり方は、そのまま最後まで演奏してたらあまりに早すぎたアンビエントR&Bになれてたかもしれないが、そういうものを目指しているわけでないことは、本格的にバンドアンサンブルが始まって以降の演奏の不穏な広がり方からも窺える。ディレイとモジュレーションで効果音的に波動を飛ばすギターに、薄ぼんやりと気色の悪そうなレイヤーを作るキーボード。それは「生命感に溢れたギターロック」の文法を離れた、所謂ポストロック以降のアプローチと言える。
一旦の静寂に謎に不穏な金属音が挟まった後、この曲を象徴する混沌としたサビのサウンドと呪詛めいたタイトルコールが繰り広げられる。モジュレーションがエグ目に効いたギターが飛び交い、背景にはシューゲイザー的に歪み切ったギターの音も聞こえつつ、しかしやはり気色悪い重ねられ方をしたボーカルが圧倒的な存在感を示し、奇怪な轟音の光景を形作っている。そしてそこからメロディが変わって展開が収束する際の気風はどこか西欧的な退廃の感じを思わせる。
この曲の「不思議に定型を外れていく感じ」は曲構成面にも現れていて、2度目のサビ終了後の混沌とした間奏の後、その轟音を引き継いだまま展開されるミドルエイトのセクションを経て、あっさりとそれまでの轟音が引いて、はじめと同じ静寂の中で、Aメロをあっさり流して終わってしまう。この呆気なさに、本作を通底する無常感のようなものを感じる。
歌詞についても現実の確かな暮らしみたいなものから遠く離れた、「陶酔の果てにゆっくりと破滅に堕ちていく女性についてのサウンドトラック」としての歌詞が紡がれている。
蒼くて硬くて破瓜のようで
遠くて不確かで 嘘
ここを歩けばわかるの ひとりごちてみた
彼女は愛した 余りある惰性
まるで独りで観た映画で
周りに合わせた 嘘
人が別れ 終わらせて行くのが見えるだけ
彼女は愛した へばりつく母性
その筆致にはまるで小説の地の文のような冷徹さがあって、この「一人称的でない歌詞の曲」からアルバムが始まることも、もしかしたら本作の独特な雰囲気を形作る大きな要素の一つになっているかもしれない。
ライブで感じたところはこちら*16。
2. ドリフト160(改)(作曲:田中和将 3:29)
本作は冒頭が田中曲2連続で、しかしきっちりとタイプの違う2曲を並べて、前曲で混迷に淀み切った空気をこの曲で程よくカラッと晴らしてみせる。少しばかりアップテンポで、しかしどこか浮遊感も有したドライブ感にてシンプルに、そしてちょっとしたドラマチックさを持ってポップに駆け抜けていく。リリースされた順番に田中曲を聴くと「こういうライトなテイストの曲も書けたのか」などと失礼なことを思う。
冒頭のブリッジミュートしたギターの刻みからしてリバーブが中々に掛かっていて、前曲から爽やかに旋回しつつも、どこか薄らと非現実的な感覚が継続する。ここまでのこのバンドには無かったほどに軽快で真っ直ぐに8ビートしていく様*17は、ある意味彼らなりのパワーポップの試みとも言える。このシンプルなドライブ感がミドルエイト周辺のブレイク以外でずっと途切れないことから爽快感は持ちつつ、しかし全体的に全然ベタなパワーポップにならず、不思議なエアリーさが続いていくアレンジは興味深い。裏拍でハットを入れてみたり、ドラムが入ったらカッティングに切り替えたり、色々と細かい変化の付け方をシンプルな楽曲内で行なっている。ボーカルの調子のややチャラい感じは前曲と同じ人物の歌とはいい意味で思えない。
サビでのメロディの広がり方も突き抜けるような爽快感重視で、そのサラッと通り過ぎていく様が元からのドライブ感から発展していったみたいで軽やかな快さがある。そしてここで、アナログシンセのヘンテコでプリティな音色がオブリガードを取る。なのでギター2本はコードカッティングに徹し、そこにそれまでよりもまた少しばかり華やかなコード感の広がりを見て取れる。あと、歌詞カードに(Isn't it real love?)なる「歌われていない」フレーズがあってなんだこれ?と思っていたけど、これは実は歌メロの後にメロディを追走するかのように出てくるボコーダーで歌われているフレーズ。
このいかようにもギターソロを挿入できそうな楽曲で、シンセのリフとブレイクする曲展開によってギターソロ無しに構成されたことは少々印象的で、キーボードがアンサンブルに入ったことで音像構築の自由度が上がり、具体的なフレーズじゃなくても音色や雰囲気や広がり方そのもので聴かせることができるようになったのはこのバンドにとって大きかったのではないかと思う。ブレイクして以降のミドルエイトからの展開はまさにキーボードの音像作成能力が発揮された箇所で、こうなってくるとギターはややリズム楽器的なプレイと配置をされてるように聞こえる。
タイトルは漂流することを言っているけど、歌詞の方は初期に顕著だった皮肉っぽさをライトに俯瞰で見てるような、かつての自身の皮肉っぽさを軽く皮肉ってるかのような、そんな雰囲気が少しばかり漂う。
言葉にトゲが目立ち 誰も彼も去ってゆく
頭にまた血が上った
大人になった今さっき 君さあ何様だベイビー?
弛みきったフィロソフィー バカな もう臨界点
皮肉をリズム良く吐き出してるだけのような、何かしら通底する意思や意味が見出せそうでもあるような、この辺の匙加減の絶妙にはっきりしない様は実に田中和将。
それにしても、最近改めて公開され直したPVはシュール。しかもチープなようで妙に凝りに凝りまくってる。撮影大変そう。あと、クレジットを見る限り、映像とは裏腹にこの曲は西原誠がベースを弾いていない方の楽曲。
ライブでの感想はこちら*18。
3. BLUE BACK(作曲:西原誠 3:33)
前曲の軽やかな爽快感をもう少しコッテコテなロックンロールの乱痴気さにスライドさせるシングル曲。ストップアンドゴーなロックンロール定型を用いて、開き直ったかのようにストレートにブルーズした演奏の掛け合いをポップな楽曲を通じてヤケッパチな爽快感込みでぶっ放してアップテンポに駆け抜ける楽曲。西原誠がこのバンドに残した久々にして最後の楽曲*19でもあり、そのこともあってここまでエフェクト等の飛び道具無しにそれぞれの楽器のストレートな音のぶつかり合いになっているのかもしれない。
冒頭のギターストローク一発からして「この曲はそういうことですよ」と宣言するかのような正面切った感覚を受ける。ボーカルも普段のシングル向けなシリアスだったりソフト目だったりの声ではなく、もっとはっちゃけたモードの歌い飛ばしっぷりを徹底する。それはまあ、ロックンロール黎明期以来続くストップアンドゴーの形式において、ブレイク以外の箇所の各楽器のはっちゃけぶりに対抗するボーカルに丁寧さとかナイーヴさなんていらない訳なんだから、それはそうなるだろう。それにしても、シングル曲らしからぬ各楽器のノリノリなセッション的プレイの掛け合いが見られるのは面白い。本作を多彩に彩るキーボードも、ここではオルガンに専念してガチンコ気味のセッションの一角としてコテコテに暴れ倒してる。
ストップアンドゴー展開が終わってからの畳み掛け方も面白い。西原誠のソングライティングはセブンスコードや破調気味のコードの多用によるどこかねっとりした雰囲気が初期のバンドの特徴のある程度を担っていた印象だけど、ここではそのコード進行の強引感がまるで逆ギレのような勢いを生み出している。勿論それを逆ギレ的なものとして確定させているのは田中和将の自由奔放なボーカルだけども。
更なる逆ギレ展開のような頭打ちリズムのブリッジを挟み、しかしサビではきっちりポップで爽快感あるフレーズを持ってくるのは流石シングル曲。歌詞や歌い回し共々、シャイゆえの逆ギレみたいな威勢の良さをキープしつつ、しかしそのあっさり通り過ぎるサビの様にどこか寂しさも覚えるような具合は絶妙。彼らの他のシングル曲にこれと似たような爽快感のある曲は見当たらない。
間奏等でのギターの、初期からの連続性が大いに感じられるギターソロの暴れっぷりや、作曲者でもあるベースの、ルート音キープなど振り切って自在に歌いグルーヴしまくる様子などなど、その演奏の無邪気さには、ある意味、歌詞のテーマにもなっているような「青春」の2文字がよぎる。「演奏することの楽しさ」みたいなものを全面に押し出したこの楽曲は、むしろ非人間的・超然的な演奏が数多くある本作のイメージから清々しいほどに逆行していて、ここまでくると「存在が浮いてる」とかを通り越して、この狂騒感自体がどこかノスタルジックなものに感じられてくるから不思議だ。本作で一番リバーブとかディレイとかそういうのから遠い楽曲だろうに、しかしそれによってむしろ最もノスタルジックな何かを想起させるこの曲は、これがこれから脱退するメンバーの最後の曲だということもあり、どうにもメタな視線込みで見てしまうところがある。
歌詞の方の逆ギレっぷりも実に楽しい。青春の不毛さみたいなのを笑い飛ばそうとしつつ、しかしちょっと湿っぽくなる感情を覚えてはすぐに茶化そうとする、そのいちいちにユーモアセンスとシャイネスとそしてメロディに乗った時の爽快感が見られる。
あんまりない時間費やして
なんにも残らないのはどうして? I don't know
「あんたってヒトは憂鬱が普通だ」って
やかましい 一体何がいけないのですか
特に「「あんたって〜」〜やかましい」の、シャウトとファルセットが混じった歌い回し方はキレッキレで、最後敬語になるところまで含めて笑えてくる。
「青春へ回帰」みたいな意味をそれとなく含まされた曲タイトルだけども、PVでは堂々と映像合成等で出てくる方のブルーバックの中で演奏しているのはそれなりにギャグなんだろうな。
ライブでの感想はこちら*20。
4. マダカレークッテナイデショー(作曲:亀井亨 4:15)
初期からずっと続いてきたファンク志向のナンバーの一端がここで出てくる。前曲から引き続きネジが取れた調子のボーカルが自在に躍動し、ギターのリフが禁欲的な反復と曲展開変化後の炸裂とを繰り返す、そしてそれら以上に歌詞が自由自在のやりたい放題極まった感じのナンバー。
これより前の同系統の楽曲と比べると、録音がクリアになって楽器の分離が増したのか、ギターのリフの反復がよりシャープなように聞こえる。というか本作全編を通じてだけど、ギターの音作りについて前作と本作で大きく変わったようにも感じる。リズム楽器としてのギターの響かせ方に、ここではシェイカーも添えられているのがよりシャープに聞こえさせるのかも。本作のギターの音や配置の仕方については、ここから『deracine』くらいまでは割と近いスタイルを続けてる印象がある。ベースはこの曲では何故か田中和将が演奏していて、あまり動き回らず休符を意識したベースラインを披露している。キーボードも前曲に引き続いてオルガンをささやかに楽曲に添えている。
次作『イデアの水槽』以降もっとはっちゃけようとするこの手の楽曲と比べると、この時期の楽曲はまだある程度ポップソングの体裁をキープしている。AメロがありBメロがありサビ、という流れをしっかり保っている。この辺の楽曲は『Let me in〜』共々どこか過渡期的なものを感じる。それでも前作までと比べると曲としての佇まいもシャープになっている気はする。サビの田中のシャウトっぷりのねっとり加減が楽しそう。
この曲は歌詞でのぶっ込み具合が一番面白い。ここまででも散々「文学的」と呼ばれていたであろう田中和将の歌詞だけど、この曲ではついに文学小説そのものからのやたらめったらな引用で歌詞を書き始めた*21。歌詞のテーマはフランスの小説家モーパッサン。サビで叫ぶくらいには明確に示してある。そして、ともかく作品名を歌詞に注ぎ込みまくる。
だからこうやってファンキーな短編を残すのだ
ベラミから始まるモーレツな苦悩
モーパッサンは短編の名手として知られている。ただこの曲の歌詞に入ってる作品名は長編のものが多いみたいだけども。また、モーパッサンは皮肉と悲惨さを描いた小説も多いようなので、その辺の描写が歌詞に、実に軽快に載せられていて、もしかしてそういう重い描写をこんなにも軽いノリで乗せて歌うこと自体に何かシニカルなものが潜んでいるのか…となる。
ライブでの感想はこちら*22。
5. それでも(作曲:亀井亨 4:42)
ここで急にアルバムはメロウでノスタルジックな方に一気に舵を切る。『その日、三十度以上』で始まり『風待ち』で一気に完成された「ノスタルジックな夏の感じ」モノの第3弾*23にして、最もプライベート風な視点で描かれる情景描写と、それに沿った記憶の彼方の鮮やかに黄昏た感覚を想起させる可憐でノスタルジックなサイケさが次第に渦を巻いていく、短編映画みたいな楽曲。前曲からの変わり様は激しいけど、人によっては地味に感じるであろうこの曲と次曲もまたアルバムカラーを大いに左右する存在感がある。
アコギの優しいコード弾きで始まる。ただ、どこか威風堂々と開けた感じのあった『風待ち』と比べるとこの曲のコード感はずっと淡い屈託が混じった風に聞こえる。サブドミナントマイナーのコードが混入していることがそのような心地よい濁りを生じさせているのか。バンドサウンドが入って以降の音にも、ギターの音にはディレイとモジュレーションで蕩けるような質感が付与され、またエレピの穏やかな熱のあり方もひたすらこの曲の輪郭をぼやけさせる。ボーカルは後年のように低い声色は使わないが、それでも不思議に蠱惑的な響き方をする。程よく声にかかったリバーブが、やはりこの曲の質感をどこか非現実的な、回想の向こう側の光景のように思わせるよう作用している。
Bメロの程よく気怠げな停滞感から転げ落ちていくようにサビに向かっていく。キラキラと左チャンネルで揺れてるリズムギターやバックのコーラスに、そして夏の空を抜けていくようなメロディが、センチメンタルさを醸造していく。『風待ち』と似た音色や楽器構成のはずなのに、どっちも回想している歌詞なのに、こちらの方がずっと甘美なよろめきを覚えるのはどうしてだろう。明確にロマンスめいてる歌詞のせいかな。
この曲もまた、ミドルエイトが終わったらその後サビに戻らずに終わってしまう曲構成を取る。少しブルーズのフィーリングを効かせてどっしりしたミドルエイトから、イントロの目眩くサウンドが、さらにフェイザーも掛かってより忘却色をした形で展開されていく。時間の経過によって記憶が闇に滑り落ちていくかのような、そんな音響的効果を生み出している。
そして、ハッと目を覚ますかのようにドライ気味なBメロに到達して、そのまま呆気なく終わってしまう。個人的に、昔はこの終わり型にもどかしいものを感じていたけど、今だとこの終わり方の可憐な味わいがとても効く。どれだけ記憶の果てを彷徨っても、どこかで現実に帰ってこないといけない、そんな少し悲しい「当たり前」を思わせる。
歌詞についても、記憶の向こうにいるだけの人になった「あなた」のことをめぐる内容だからこそ、『風待ち』よりも深く酩酊したようなサウンドに聴こえたりもするんだろう。「みんなのうた」になれるのは『風待ち』の方だけど、この曲には心地よい陶酔が歌詞にも行き渡ってる。
川辺の街の工場の煙
たばこ屋の壁が 派手でしたね
時計壊れてしまった なぜ強がる
歩きました 迷いも殺しました それでも
また 足下見失って あなたの事を想う
少しだけ泣かせてくれませんか
息が止まってしまいそうです
「足下見失って」というワードの、この曲のサウンドを的確に言い表した具合が何気に凄い。自分たちのことは自分が一番よく分かっているみたいな感じだ。
ライブでの感想はこちら*24。
6. Colors(作曲:亀井亨 5:16)
このアルバムのサイケな方向性を『アナザーワールド』とともに決定づける楽曲だと言っていいと思う。ジャズを通過したポストロック的なスタイルで、忘却の彼方みたいな音世界をワルツのテンポで優雅に揺れ動く、まるで記憶の中の“永遠”を彷徨い続けていくかのような感覚にとらわれてしまう楽曲。本作のどこか別世界な感じに、この曲も大いに影響を与えているだろう。
イントロからしてこれはエレピ?シンセ?無機質な光のような音が2筋、うち低い方は音階が上がったり下がったりして、それによってぼんやりと広がるイメージがある。このレイヤーを纏いつつ、ギターの空間系エフェクトの効いたアルペジオが流れ始めるともう、この曲の世界観みたいなのが羽根を麗しげに広げていく。もうどっぷりと、別の世界に迷い込んでしまったような感じ。アルペジオでない方のギターはエフェクトの出力に注力していて、逆再生だったりフィードバックだったりとその手管をイマジナリーな音の出力に捧げている。また、リズムがワルツなことも、この曲がどこか別の世界じみて聴こえるのに大きいんだろうな。
この曲の素晴らしいところは、オブスキュアーなサウンドの実践だけでなく、歌としても彼らの山ほどある楽曲の中でも独特の憂いを帯びた美しさを持っているところ。ワルツのリズムの中、そのメロディの有様は非日本的で、西洋のどこかの国の悲劇か何かで流れていそうな類の憂鬱さ・デカダンスさを有している。亀井亨というこのバンドが誇るソングライターはしかし、こんな引き出しをどこから持ってきたんだろ。
それを歌いこなす田中和将の、歌の存在感はしっかりありつつもやはりどこか「地の文」的な存在感に進んで埋没して、この曲のロマンチックさに上手に溶け込んでいく技術がまた素晴らしい。特にサビの箇所の、実にヨーロピアンなマイナー調具合の捌き方の秀麗さ。
この曲は5分を超える尺があるけれど、3分過ぎでサビは終わり、その後はイントロの反復を延々と続けていく。歌はAメロのフレーズを載せるけども、それもどこかサイケな音色のひとつめいて響き、特にタイトルコールをし始めてからはよりそんな感じが強まる。そして、曖昧な音のまま妙にノイジーな存在感を出してうねり始めるギターの、ギターソロとは言わないだろうがとても印象的なプレイがずっと、曲全体がフェードアウトし終わるまで続いていく。時に情熱的であるようにも、幻想的であるようにも響くこのエフェクトまみれのギターの彷徨う様に、アルペジオがだんだん遠くなっていく様に、不思議に寂しさを覚えつつ、この別世界はゆっくりと遠ざかっていく。
歌詞を見ても、やはり一人称は出てこなくて、まるで何かよその物語を読み上げているかのような不思議さのまま進行していく。ここにおいて皮肉だとか生活の質感だとかは全く捨象され、タイトルに沿った様々な色彩を歌詞に込めつつも、しかし必要以上に意味が生じない言葉選びになっていると言えそう。こんな陶酔的な曲で「んなワケねえよ」なんて歌われても仕方ないものな。
マドモアゼルの笑顔で 悩める彼はまだ未成年
甘くて素敵な痛みでした
ないものねだり 鮮やかなレッド
あるのはなぜか瞳のブラウンで
曖昧にして不埒な願いでした
これは「性の目覚め」みたいな話なのか。どっちにしても、日本の光景を歌ってるようには思えない世界観。そしてサビの、特に意味は込められていなさそうな、しかしひたすら優雅なイメージが広がる歌詞が好き。
黄金の太陽に悶えて 蒼空の憂いを描いて
豊饒のグリーン 沈みかけるオレンジ
それはてのひらの中にあった
ライブの感想はこちら*25。
7. Tinydogs(作曲:西川弘剛 4:05)
前曲の陶酔をどう破るか曲順が大事なところだけど、彼らはそれにこの曲の無骨で冷徹なイントロをぶつけてきた。本作のロック側の要素を担いつつ、しかしどこか皮肉じみた刺々しさを感じさせ、そこからサビで超然としたメロディに展開しつつ突き放す言葉を吐き捨てる、本作で屈指の攻撃性を有する楽曲。本作で一番『スロウ』『lamb』みたいな路線のギターサウンドが聴けるのはこの曲だけど、しかしこの曲ではポップさよりも刺々しさの方が勝つ。あとベースの動き方にどこかRadiohead『National Anthem』じみたところがある*26。
先述のとおり、前曲の陶酔に冷や水をかけるかのように鳴り響く、金属的で冷たいトーンのギターコードカッティングが聞こえてくる。リズムが入ってきても、どこか重苦しい感じが続き、そしてその性質はどうも『スロウ』系列の陰鬱さとは微妙に性質を異にしている風。それは歌が始まればより明確になる。ブレイクして悲しげなメロディを歌うわけでもなく、イントロからの重苦しさから何も切り替わらないまま、そのままメロディというよりもリズムパターンの補強のような存在感のボーカルがファルセットも交えながら挑発的に流れてくる。
そして、Bメロの箇所の憎々しげな歌詞に合わせた細かいブレイクに、内出血でもしそうな殺意の巡り具合が感じられる。その圧迫感からブレイクを挟んで解放されるサビのメロディも、ドラマチックというよりはやはりなんかサディスティックな具合で、感動も爽快感もあまり与える気はあまりなさそうだ。歌詞のことなどもあり、もっと破壊的な感情に絞って歌われている。
そう思うと、2回目のBメロ、やはり内出血しそうな圧迫感からサビに繋がって幾らかの開放感を得たいところ、しかしサビに繋がらずそのまま間奏に入ってしまう箇所はよりサディスティックな展開かもしれない。しかもその間奏でも、流麗なギターソロなどは無く、押しつぶすようなアンサンブルと、そしてスライドギターによる混沌としたサウンドメイクが為される。本当に徹底して「分かり易い爽快さ」をこの曲は外してくるなと思わされる。それによる独特なハードさがこの曲の売りだろう。
歌詞について。「急にどうしたん…?」と思うくらいに、皮肉を通り越して悪態と呼ばれても仕方ないような言葉が急に並びだす。一体どういう感情なの…?どこまでが演劇的なものでどこからがガチでヘイトな感覚の吐き出しなのか。いちいち辛辣である意味笑えてしまう。
君の肌にものさし あててみる
おめがねに適う下着にしてくれ
犬どもは明日を案じ で、僕は風を感じ
「そっか僕は僕だ」なんて 勘違いを
少しばかりエロい内容が出てきて、この辺までのカップリング曲等で幾つか繰り広げられてきた「女にイラついてる系」なのかと思わせておいて、しかしBメロの毒吐き方の徹底具合に氷りつく。ここのBメロがしんどく聴こえるのはおそらく、サビに直接行かないことの他に、ここは多分いくらか自虐めいたものも含まれているからなんじゃないかという気がする。
笑って 手を触れあえばもいい
そして 手を振りあうのもいい
イライラするぜ
しかし1回目のサビのこの歌詞とか、ライブで手を振るやつを揶揄してそうにも読めるんだけど、こういう歌詞があっても全然手を振ってる光景が続いてきてるの、強い。まあ本当の本当に嫌ならどっかの段階で本人が強く言及してやめさせてるか。
ライブの感想はこちら*27。
8. Let Me In 〜おれがおれが〜(作曲:亀井亨 4:29)
本作におけるファンク系の楽曲その2で、前曲の毒々しい皮肉っぽさとハードさをもう少しギャグ寄りなところに持っていった感じのある楽曲。前曲と並んでいるため、この辺はまたハードな印象が強くなる。というかこの時期のカップリング曲『STUDY』といい、本作みたいにサイケ目指した作品作ってる時でもやっぱこういうファンク要素もやりたくなるバンドなんだな、少なくともこの時期は。
よりハードロックじみたリフの応酬が見られ、こういう曲だとキーボードもやはりオルガンで応酬しつつ、よく聴くと歌の裏でクラビネットも鳴らしている。田中の歌は前曲のような攻撃性を研ぎ澄ましたような調子は抜け、攻撃的なことを歌っていてもどこか逆ギレめいたテンションが感じられる。
正直『マダカレー〜』と存在感がかなり被ってる。歌詞が面白さ狙い路線なのも共通していて、というかこの曲の歌詞は『So.』とかで展開してたのと同じような「業界人モノ」の続きで、そういうこともあってどことなく『Circulator』〜この時期までのカップリング曲っぽい雰囲気が漂う。
無駄に生きてるのさ
可能性? んなもんおめえにあるわけがねえさ
恐るべき態度で Let me in 悪態はちょっと控えめ
「んなもんおめえにあるわけがねえさ」という非情な言葉を全部ひらがなで書くセンスは色々と想像ができて面白い。
この曲が一番面白いのは正直、最初のサビ入る直前の歌うところが「サンマは決して白桃じゃねえ」に聴こえることだと思ってる。「おれさま」という単語を変なところで切りすぎたのか、それとももしかして本人もこの空耳を自覚した上でそのまま通したのか果たして…。
ライブの感想はこちら*28。
9. ナツノヒカリ(作曲:亀井亨 4:09)
全部カタカナで書いたタイトルがちょっとばかり恥ずいけども、しかしこのシングル曲でまたアルバムにはどこかドリーミーでノスタルジックな雰囲気が吹き込んでくる。茹だるような夏の暑さに宿るサイケデリアと、それを抜けた先の夏の爽快感みたいなものをギターサウンドの煌めかせ方中心に丁寧にポップソングとして構築した楽曲。このアルバム、11月に出たのが不思議なくらいに夏の曲が多いな*29。
冒頭から鈴の音のように鳴るギターサウンドの清涼感が印象的で、少しコーラスが掛かっているものと思われる。実はサビと2回目サビ後の展開部以外の箇所は全部このイントロで反復される2つのコードの繰り返しだけで出来ていたりする。シンプルながら不思議に輪郭のぼやけたコード感が繰り返されるため、出口の無いようなサイケな停滞感をこれだけで生み出せている。そこにアクセントでハーモニクス音が入ったり、はじめはこれと歌だけだったり、アンサンブルが始まってもベースが不思議なうねり方を見せたりキーボードはクラビネットをハープシコードみたく弾いてたりと、基本的にどこかぼんやりした浮遊感が続いていく。むしろこの、光に包まれて色々ぼんやりして見えなくなる感じこそが「ナツノヒカリ」って感じなのかも。
それにしても、この曲の田中和将のボーカルの声の出し方はちょっとびっくりする。猫撫で声というか、低音部をごっそり削った声を出して、ソフトに歌うことを心がけていたよう。
2コードの清涼感ある停滞が、Bメロも挟まずにパッとサビに入る形で破られる。ここのシンプルな鮮やかさこそがこの曲をポップソングとして成立させている大きな鍵で、夏らしくThe Beach Boys以来のそれっぽいコーラスワークも駆使されて、可憐な華やかさ・高揚感が通り抜けていく。興味深いのは、ここにおいてもオブリガード的なラインを描くのはギターではなくクラビネットなこと。クラビネットをメロディ楽器として使うとこうなるのか。
楽曲は2度目のサビの後にミドルエイトに移行すべく曲調が変化し、「緊張」とまでは言わずとも、記憶の中の「永遠の夏」から現実に揺り戻されるような不安な感覚がもたらされる。ギターソロはなく、渦巻いていくイメージをギターフレーズで描き出し、ピアノの単音が感傷を点描していく。そのままミドルエイトのメロディの、少し気が遠くなるような具合のメロディの伸ばし方を経て、すぐに最後のサビにパッと鮮やかに切り替わる。
この曲も最後のサビが終わった後に40秒程度のそこそこの長さの後奏が続き、Aメロと同じ反復と、少しばかりAメロのフレーズも歌われて、何かサイケで甘美で感傷的なもどかしさを燻らせた後に、この平坦さがもう少し続けばいいのにと思わせたくらいのところで、やはりどこか呆気なく途絶えてしまう。
歌詞を見ると、まあしっかりと「切ない夏の恋の歌」という感じで纏められている。しかしそれでも、鮮やかな夏の情景を描き出すべく出力された語彙の色々には純粋に浸れるべき情緒が見出せる。
どこまでも続く気がしていた蒼い道は
頭の中で夏の光に飛ばされてしまった
特にこの辺の観念的なようでぼんやりしながら見た光景のようでもある匙加減は上手い。
どこまでも続く気がして それはずるいよね
そして最後のAメロのフレーズ。それまでの単語の使い回しなのに、夏という季節に宿る幻想の永遠性を、それこそどこまでも続けられそうな後奏に乗せてさらりと歌う。そして歌い終わった後に呆気なく終わる。それこそずるいよね。
ライブの感想はこちら*30。
10. Sundown and hightide(作曲:亀井亨 3:30)
ここでまた急にシリアスなコード感になるのが不思議なようで別にそうでもないようで。『白日』以降のシリアスなコード感でもってそこそこ早めのテンポで駆け抜け、さらりと妖艶というか比喩を挟んだエロティックな風情をばら撒いていく楽曲。割と彼らの当時ではまだ「定番」みたいなラインにある曲な気もするけど本作の中ではやや浮きというか、もっと超然的な曲が目立つばかりにむしろ少し埋もれてる感も無くもない。状況によっては『リトル・ガール・トリートメント』くらいの人気はあってもおかしくなさそうな気もするのに。
これもイントロも無しに即歌に入る辺り、本作はどこかその「呆気なさ」みたいなのも全体的に意識されている感じがある。いきなり演奏も始まり、この勢いがそこまで高まり過ぎもせず低くなりすぎもせず、Aメロも間奏もサビも駆け抜けていく。キーボードはエレピの白玉でコードを少しばかり強調するに留まり、この曲では本作より前のバンドみたいにシャープなギターサウンドが中心となったサウンドに仕上がっている。この曲のベースが西原誠なのを思うに、少しでも以前までと共通する雰囲気のある曲を彼が演奏に参加する曲として持ってきた、という穿った目線もできそうだ。
サビの箇所でも元々の曲調から明るくなるでもなく暗く重くなるでもなく、そのままの直進性を保ったままにメロディのみきっちりとサビとしてのアップダウンを演じる。特に2回目のサビについては、メロディの途中で完結させずにそのまま間奏に連なっていくのがやはり、この曲らしい淡白さで勢いを止めずに駆け抜けていく。
リードギターはアルバム『HERE』くらいまでの手法の範囲内で的確にプレイを切り替え、アルペジオにシャープなリフに太すぎない音によるギターソロにと、手慣れて洗練された手際を見せ続ける。間奏等で出てくるメインリフの少し溜めて出てくる感じが実はそのまま最後のサビのメロディの途切れ方と対応していたり、色々と細かいところで的確。
歌詞の「真面目系サディスト」みたいな一人称はまさに『スロウ』以降のお家芸だったであろう路線で、この曲では様々な比喩の具合がどこかSMめいても見える。
禍々しい世界を遠ざけるように裏返す
弛みない弛緩を繰り返して
この辺の厭世的な閉塞感の感じは初期GRAPEVINEっぽさ。「弛みない弛緩」とかなかなか面白い。
ライブの感想はこちら*31。
11. アナザーワールド(作曲:亀井亨 5:05)
本作の実質タイトル曲にして、本作の世界観を大いに象徴し、かつファンから絶大な人気を誇る楽曲。『スロウ』以降の重厚シリアスギターロック路線の延長線上で、感情云々ではなく事象としての“虚無”に辿り着いたかのような、そんな日々のふとした裂け目に魂を吸い込まれてしまうかのような、そんな情緒をギターとピアノのオーケストレーションと曲構成のオンオフとで作り上げる名曲。位置的にもラスト前ということで、そのアルバム中の存在感は同じようなポジションである『here』よりも、テーマが虚空に発散してしまう感じもあり、より大きいようにも思える。
イントロで聞こえてくるギターリフが、もう何よりも雄弁な感じがする。このフレーズの中に「原因不明の喪失感」みたいなものをいつも強く感じる。それは誰が何かをしたからそうなったとかではなく、まるでそれがその世界の法則であるかのように、厳かにかつどうしようもなく波打つ。それは行き場なく彷徨う感じでもあるし、日々の喧騒と疲労の中でふと見上げた空に虚無の真理を見出したみたいでもある。このリフが楽曲のキーになる。
歌が始まって以降の、ギターが消えてベースとドラムと歌だけになる、という展開は彼らが『スロウ』以降得意にしていたパターンだけど、今回はリフがリフであること、そしてさりげなく冒頭から鳴らされていたシェイカーの音が残り続けることで、少しばかり様子が違ってくる。『スロウ』以降の定番である鬱々としたメロディというよりも、もっとぼんやりとして遠くを見続けているかのような、視野が麻痺してしまったみたいなメロディはどうにも頼りなく、メロディがBメロに入りコードの変化に合わせて少々醜く歪む箇所であっても、何か芯を欠いたようなまま進行する。所々入るギター感じは重くもどこか涼しげで、そこにピアノの低めの音階が哀しげな縁取りをする。
ぼんやりと不安げに歪んだBメロを経て、サビではある意味晴れやかな、まるで何もかも吸い込まれそうなほど晴れた夏の青空のように絶望的に晴れ上がった光景が開けてくる。シャリシャリと鳴るギターの音は爽やかだけど、その奥行きには何か絶望的なものを感じてしまうし、ボーカルのラインは扇情的に昇降する感じはまるでなくて、ある程度ナチュラルな声のまま、遠くを見つめ続けて、やがてそれに疲れたかのように項垂れて終止する。メロディの終わるラインの、ヤケクソでも無しに冷静に諦観に至るかのような雰囲気が、絶妙に気の遠くなるような感覚を想起する。
間奏においては遠くから響く波の音かもしくは遠くの空を暗くする積乱雲かのように伸びてくるスライドギターが、優しくもやるせなく差し込んでくる。明確なギターソロではなく、このように徹底して何かがぼやけたような表現で統一され、そのやるせなさはそのまま2度目にして最後のサビに接続する箇所で、まるで意識が裏返ったかのようなブレイクの効用に連なっていく。
そのブレイクの箇所、ギターと何かバグったような効果音の反復が続いていく中をサビメロが歌われるこのセクションは、まるで眩暈で気を失いかける間際に見た永遠の夏のような、そんな異世界に一瞬迷い込んでしまったかのような錯覚を感じさせる。村上春樹が時折書く、現実世界との対比として何もかも抽象化された異世界みたいなものに迷い込んでしまったようでもある。この虚無と恍惚とがないまぜになった停滞感を経てから、アンサンブルが戻ってサビの後半が歌われていくところで変に覚醒して、そのまま間奏のギターと冒頭のリフが合わさった後奏に入っていく。40秒程度で緩やかにフェードアウトしていくその淡々とした清らかな轟音の演奏*32の、人間関係とかそういうのをはるかに超越したところでどうしようもなく感傷的になってしまう感覚は何なんだろう。吸い込まれていきそうな寂しさに満ちている。
歌詞の方も音の感じと波長を合わせて、徹底して具体的な光景や状況の像が結ばないよう、延々と抽象的な内容が並んでいく。それでいて、しかし別に日常からかけ離れ過ぎているわけでもない塩梅が、聴く者に不思議に切ない感慨を抱かせる類の別世界を思わせる。本当にシリアスな歌詞を書くときには横文字の単語が入らなくなるという田中和将歌詞の特徴がこの曲にも見られる。
世界から日常から抜け出せるかい
世迷い言も裏返せば容易いのかもな
生まれた時から歩けるのは この道だけだったのか
だけど 空に届きそうで
また手を伸ばして やめて
明日もう一度 いつかはきっと あの向こうへと
精一杯息をして いつの間にか
ぼくらには見えやしない
この、別に何か別の可能性を強く惜しむわけでも無いけども、でもふとした瞬間に夢想してしまうような、空の向こうに横たわっているように思える「並行世界」へのぼんやりして淡い感慨を、この曲では的確にぼやけた言葉とイメージで追い求める。何か悲しいことがあった訳でも無いのに、その思いの馳せ方は多くの人の胸を強く揺さぶり続けている。
最初のミニアルバムに収録された『Paces』から、あるいは最初のシングル『そら』からずっと、彼らは「君と僕」の関係性を超越した空の彼方かどこかに向けうるのであろう「気の遠くなるような思い」を綴ることに挑戦し続けてきた。この曲はその挑戦と実践における、ひとつの達成だったのではないかと思う。そのファン人気の程は、ファンによる投票結果にて選曲が為されたベスト盤『Best of GRAPEVINE 1997-2012』において、投票結果順位が5位*33というところからも察することができる。本作をそこまで好きでないファンにおいてもおそらく、本作を「『アナザーワールド』が入ってるアルバム」くらいには認識させられる、それくらい絶大な存在感のある楽曲だろう。
ライブでの感想はこちら*34。
12. ふたり(作曲:西川弘剛 4:28)
前曲の寂しげな後奏が遠ざかっていった後、この曲の静かに黄昏た波に揺られるイントロがふっと始まって、その瞬間に本作のメロウな終わり方が決定づけられる。2枚目のアルバム『Lifetime』以降3作に渡って最後はおちゃらけ調の楽曲で終わらせてきた彼らが、ここでは一転してシリアスというか、実に大人びた作品の締め方を選択した。シンセの反復が音像に揺らぎを与え続ける中を優雅にそしてメロウに進行する、バンドがはじめて本格的にスウィートソウルに挑戦した、Stevie Wonderっぽさが静かに響き渡る楽曲。彼らをギターロックバンドだと理解していた頃は「?」だったけど、気付くと本当にソウル色が大変強い楽曲だったんだなあと驚く。言い換えるなら「ポストロック仕掛けのStevie Wonder」。もしかして本作で最も挑戦的な楽曲はこれなのか。
そもそもイントロから反復し続けるシンセは7/8拍子である。つまり楽曲自体とポリリズムで重なっていき、フレーズの末尾の上がり目がずっとずれ続けていく。楽曲自体のソウルフィーリングで気づきにくくなっているのか、もう20年近く本作を聴いてきたつもりだったのに、本当に実に最近これに気づいて驚いた。また、ギターフレーズもずっと同じものを反復し続けるイントロは、ベースの音のみでコードが変わるような曖昧なコード感をキープし続け、これもまたこの曲の前曲以上にぼやけ切ったイメージを強調する。シェイカーが入っていることなどもあり、コードカッティングを主体としたオーソドックスなギターロックから大いに遠ざかっている印象がある*35。
歌メロが始まっても、やっぱりスカッとした爽やかな情緒はなくて、代わりにどこか疲れ切ってるような、しかし妙にしなやかでもあるような、ソウルの文法に寄っている具合のメロディが流れていく。特にこれはBメロに顕著で、この辺のメロディの回し方とか特にStevie Wonderっぽい感じの流麗さがあるような気がする。上手い具合に似てるテイストの曲を出せないのが残念だけども。
特に目立つシンセの反復を除けばバックの演奏の音色ではギターのカッティングが割と目立ち、この1990年代以降的なシャリシャリしたギターのバッキングは、この曲をソウルとしてみると不思議な伴奏のようにも思えてくる。越境的というか折衷的というか。
ソウルなんだと思えば、ロックバンドのアルバム最終曲としてはあまりに覇気が無さすぎるようにさえ思えてしまうサビのメロディの回し方にも合点が行く。特にサビ後半の歌い回しは完全にソウル的なそれで、このような歌い回しをこのようにしっとりした曲でやることはこれまで無かったのではないか。16分的なフィーリングの効いた、ジャストのタイミングから少しずらした具合が静かに感情的な響き方をする。
2回目のAメロの後そのまま間奏に入って、ここで出てくるギターソロもまた、ポストロック的な音響を持ちつつフレーズはどこかジャズ的な感傷の具合を持っていて、この曲の哀感を絶妙にブーストした上で、少しスカスカなミックスをされたミドルエイトの幻想的な可憐さに実に上手く着陸する。
彼らの楽曲でもとりわけ美しく哀しげなファルセットが聞こえてきて、そして最後のサビが終わった後には、シンセとAメロバックのギターのラインが反復し、やがてその二つだけが残されて、本作は何だかとても寂しい地点にて終わりを迎える。シンセの反復が消えた時の、唐突に無音に投げ出される時の寂しさは、彼らの他のアルバムでは感じることのできない類のものだろう*36。
歌詞についても、ひたすら曖昧調だった前曲から一転して、いきなりかなり現実的なラインから入るなど、ファンタジックさを排した、現実的な困惑の様が浮かぶ。しかしそれもまた中身においては決定的な悲しい出来事も破綻も無く、2人の関係性への不安が、決定的な断言を避けた形で描かれる様は、やはり味わいとしてビターだ。
仕事絡みで言い訳したり
しがらみばかりで 飲まれてみたり
そりゃぼくもまあ そんな時もまあ
この「現実的な問題に苛まれて、はっきりとしたことの言えない状況」という一人称の生々しい苦労の描写が、割と“地の文”的な歌詞の多かった本作で一番最後に置かれていることは興味深い。
歩き疲れて 思い出せばいい
胸のあたりで愛すればいい
いつかひとりで みたユメって
いずれひとりで 踏み躙って
この曲における“ふたり”の関係性の描写は本当に慎重で、現状別れているのかそうでないのかを判別できうるラインはこの箇所だけで、しかもこれだけでは判別できない。上二行については「ぼく」と「きみ」どちらがその行為をすればいいと歌ってるのかさえ判別がつかなくて、この曲的な苦味のある曖昧さの極みだ。そして、そんな曖昧さの末尾に「踏み躙る」という強い言葉で蓋をするに至って、その筆致の冴え渡り具合も本作でもピークに達した感じがある。
このバンドのソウル色(ファンク色ではなく)の強い楽曲としては『それを魔法と呼ぶのなら』『インダストリアル』『迷信』そして『ねずみ浄土』などがあるが、こういう曲調へのバンドサウンドによる本格的な挑戦はもしかしたらこの曲から始まったのかもしれない。そしてそれをアルバムラストに起き、とても苦く感傷的なものに仕上げ、あまつさえ一部のファンに「今回はメンバー脱退を控えてた*37からこんな作品の終わり方をしたんだろうか」と邪推されるまでの情緒を作り出している。間違いなくこの曲も、『アナザーワールド』と同等に本作への印象を強烈に決定づける存在なんだろう。
ライブの感想はこちら*38。
・・・・・・・・・・・・・・・
終わりに
以上12曲、演奏時間51分24秒のアルバムでした。
GRAPEVINEのアルバムは基本的にどれも安定感があって、かつどれかの作品が突出することもなく、地味に確実にキャリアを積み重ねていくもの、と言われることがしばしばあって、それはいい意味も大いに含まれるので否定する気は無いけれども、でも個人的な印象としては、いくつかの作品は全然突出してるけどな、という思いがあって、今回ようやくその「突出してる作品」のうちのひとつをちゃんと書けて良かったです。
ちゃんと見ていけばいくほど、やっぱり本作はこれより前の作品とは色々と決定的に違う内容があるなって思うし、またこれより後の作品とも不思議と全然異なる何かを含んでもいるなと思われました。ただその風変わりっぷりが、たとえば次作のやたら無茶ばっかりやってる感じの『イデアの水槽』みたいに分かりやすい感じでもないし、または確実に歌い方や曲構成やサウンド構築の論法が変化した『TWANGS』ほどの大きな変化があったようでもない気もして、何よりもその突出していく方向がひたすらにオブスキュアーな方面だということもあって、その辺をダラダラと文章に書いて、なんか意味あんのか…?とここまで書いてきて不安にも駆られます。
いやでも、バンドの進歩の歴史とかそんな見方をしなくても、本作はとても個性的でかつ大いに没入できる世界観を持った、魅力的な作品だと言い切れるとは思います。そしてまた本作は、こういう「広大な世界と、その中での個人」みたいな感じの音響をロックバンドの手法で作る際の、数多くのヒントが眠っているようにも感じます。また歌詞の面でも、捻くれ方と世界の見方とくたびれ方において、本作で描かれた様々な情景は、とても気の遠くなるような気持ちにさせてくれる、大変上質なものと思います。
この「異世界の夏に迷い込んでしまった」みたいな作品の再現ライブを夏に観れて、そしてその感想も含めて夏のうちに書くことができて良かったと思います。長々とダラダラと書かれたこの文章をここまで読んでいただきありがとうございました。
それではまた。
おまけ
おまけです*39。
*1:曲単位ならファン人気最上位に属するであろう『アナザーワールド』があるけれども。
*2:筆者が見たのは7/23福岡DRUM LOGOSの公演。
*3:当時のライブを見たことがあるわけじゃ無いんだけども。
*4:作品でいうとシングル『discord』以降は3人体制。ただ、その前の『Our Song』の時点で演奏困難になっていた模様で、演奏クレジットからは外れている模様。ベースラインを彼が考え他の人が演奏する、という形式を試していたとかいう時期か。
*5:そのような曲は当時プロデュースも務めていた根岸孝旨がベースも担当。
*6:シングル『光について』カップリング曲の『窓』では作曲に加えて作詞も担当。このバンドで田中以外作詞の曲はリリースされた中では現在でもこれが唯一。
*7:ただ、病気の再発があったため復帰後も演奏ができなかった場合なども考えられるため、以下の区分は正確なものでは全然ありません。
*9:ちなみに筆者がリアルタイムで“新譜”として触れた彼らの最初の作品が『イデアの水槽』でした。
*10:アルバム最後が『アナザーワールド』『ふたり』と続いて終わるのがとても大きい。
*11:『BLUE BACK』はあるもののあれもどこかノスタルジアをネタにした感覚がちょっと特殊。
*12:この時期の楽曲でも最もストレートにロックンロールしている『R&Rニアラズ』をアルバム本編ではなくカップリング送りにしたのももしかしたらこういう感覚からかもしれない。別にそうでもないかもしれない。でも『R&Rニアラズ』がアルバムに入ってたら作品の印象が多少違ってたかも。それにしてもライブであんなに盛り上がるんだなこの曲。
*13:もちろん筆者がそう思って見るから多く感じるだけかもだけども。
*14:ホッピー神山がプロデュースしたアルバム『ALL THE LIGHT』においては不参加。
*15:そういえば彼らのアルバムは『Circulator』〜『deracine』まで何故かずっとおどろおどろしい楽曲で幕を開ける。
*16: アルバム再現のライブなのでやはり1曲目。ライブの始まりがボーカルと途切れ途切れのギターだけで始まるのは中々に異様さがあって、シェイカーが入っていなかったけどそのことがかえって、本作的な緊張感をより感じさせるように働いていた。
次第に入ってくる演奏のカオスさは原曲を再現するようでもあり、しかしどこか原曲よりもより歪な音の広がり方を内包しているようでもあり。特に、変幻自在のキーボードのサウンド以上にイマジナリーな音色をエフェクターで自在に作り上げるリードギターの存在感がとても大きく感じた。というかこのバンドのライブではいっつもリードギターの職人的な物凄さにいっつも圧倒される。そして当たり前だけど歌がとてもとても上手い。
それと、この曲のタイトルコールの気色悪い雰囲気がこの再現ライブの軸として置かれていたことが、最後の仕掛けで明かされる。なるほどそれなりにかなりコンセプチュアルにショーが作り込まれている。
*17:これより後は次のアルバムに出てくる『アンチ・ハレルヤ』等、このような軽快さが時々出てくるようになる。
*18: 音源と同様、この曲でグッと視界が開けるような感じになるのは単純に気持ちがいい。そして、ライブで聴くと本当にシンセのサウンドの存在が決定的な楽曲だと気付かされる。色々と重ねているであろう音源の模様をライブでは1人で飄々と再現してしまう高野勲の演出力を見せつけられると共に、サビのボコーダーコーラスはベースの金戸覚が担当。
あとライブだとギター2人の手元も見えるので、2本ともコードカッティングをしていくこの曲の、大体どの辺の音域を担当してるのかが遠巻きでもなんとなく見えてきて、ギターオーケストレーション的な面白さが垣間見えた。
*19:アルバム『HERE』収録曲以来となる。
*20: そんなにMCを多く挟むでもなく一気に突入。ひとまず福岡のライブでは西原誠という名前は一度も言及されなかった(その代わり、西原曲としてもう1曲『コーヒー付』を演奏してた)。そういうある種センチメンタルな存在である側面を完全にカットし、無鉄砲で乱痴気で爽快なこの曲の側面だけを引っ張り出したかのような、堂々としたライブ演奏だった。それにしても今ではエフェクティブな演奏こそが本骨頂という感じの西川弘剛が、初期バイン以降のブルーズ経由のギタープレイをこうも全開で演奏し続けるのは、これはこれでとても楽しくなる。
*21:この後の文学小説シリーズとしては『Metamorphose』『作家の顛末』『スレドニ・ヴァシュター』『フラニーと同意』『冥王星』『Darlin' from hell』『Scarlet A』『レアリスム夫人』あたりか。いや絶対もっとたくさんあるぞ…。
*22: 割と音源どおりにきっちり演奏していたイメージ。こういうファンク系の曲はライブでどんどん発展させられそうにも思うけど、今回は「アルバム再現ライブ」というのがあったから、原曲に忠実に演奏している感じが見受けられた。何よりも、この曲や『Let Me In〜』をあっさり流すことで、「今回のライブはそういうのが主眼じゃない」ということを印象付けてたかも。やはりサイケ要素のある楽曲が中心って感じだったものな。
*23:いや『ナツノヒカリ』も入れたら第4弾か?
*24: やはりギターの20年間の進化が実に効果的にこの曲のイメージをライブで再現できる形になっていて、ギターって本当にいい楽器だなあと思った。ただ、こういう曲だとハイハットを8分で打つと少々うるさいなとも思った。4分の方が音の揺らぎが活きる気がした。もっとも、原曲からして8分でハイハットが入ってるんだけども。
*25: この曲こそが再現ライブ本編での(最終曲終了後の仕掛けを除けば)1番の見どころだった。この曲ばかりは音源の完全再現ではなく、今バンドが放つことができる限りのイマジナリーなサウンドの手管を尽くして、ライブだからこその陶酔感に満ちた空間を延々と作り出していた。
冒頭から音源と異なり、シンセではなく、おそらくギターのフィードバックノイズか何かをループさせてレイヤーを作り上げていた。そして、西川ギターがエフェクト担当となると、田中ギターがアルペジオ担当になるのか、と気づいた。その、シンプルなようで実に効果的に幻惑的なアルペジオを弾きながら、音源以上に超然的な深みに堕ちたボーカルを展開する様は、何というか、最高峰の詩人だなあ、的な事をぼんやり思った。
そしてアウトロの延々と続く展開のカオスっぷり。ここにおいては、延々とアルペジオを軸としたアンサンブルが不毛なくらい続いていくことこそが、ノイズギターが身を悶えさせるショーに不思議な哀感と感慨を抱かせるのに大変重要なことが実によく分かった。アルペジオの、どことなく頼りないけれどでもこれ以上確かな存在感のあるものがない感じ、その心細さが、イマジナリーさがどんどん深まるのを可能にしているんだと気付いた。
正直再現ライブの部分よりもその後の第2部の方が色々と見所があって面白かった気がしないでもないけども、でもこの曲は「今のGRAPEVINEだからこそ」の不思議なスリリングさとスケールの大きさが感じられて、本当にとても良かった。
*26:これについては本作よりも後の方がもっとその要素が強くなり、シングル『CORE』にてひとつの完成を見る。
*27: やはり前曲の最高に幻想的な陶酔からの冷や水としてこの曲は絶大な効果を発揮してた。MCを挟まずに淡々と始まるのがこの曲にはよく似合う。
また、ライブだと間奏のスライドバーでワシャワシャやるプレイがより強調して聞こえて、なんだこの…ギターソロ、とも呼べなそうな…何だ…?っていう困惑する感じがより強まる。この曲のこれを見ても、やはり「ギターソロありきのギターロック」からある程度意識して距離を置こうとしていた時期がこのアルバムなのかなあ、ということを『ドリフト160(改)』と同じく感じれた。
*28: やっぱりライブで生で聞いても「サンマは決して白桃じゃねえ」に聴こえる…。
やっぱりこの手の曲はライブでそれなりにガッツリとフリーに展開してくれないとあまり面白くない。とはいえ別にこの曲で延々ジャムをやるのを聴きたいわけでもないので、サクッと音源通りに終わってくれたのは良かったかも。
*29:この曲自体はシングルとして6月にリリース。今度はちょっと早いな…。
*30: この曲は明確に「夏のポップソング」しているためか、近年のライブなんかでもたまに演奏されてた記憶がある。とは言えGRAPEVINEにおいて夏の曲の競合は多くて、おそらくは『風待ち』や『真昼の子供たち』の方が出番が多いのかな、と感じてた。
音源のサイケなレイヤー構造をしっかりと再現する演奏、特にリードギターのエフェクティブな演奏っぷりにやはり盤石のものを感じた。田中の歌は音源よりもやや普通めの声だった気はする。あと、サビのコーラスはどうもキーボードで出力してる感じっぽかった。同機か…?流石にライブで本格的に再現するのは難しそうな類のコーラスか。演奏的にもやること多そうだし。
*31: エフェクトバリバリ効かせたりキーボードが活躍しまくったりする曲ではないので、ライブでの拡張性はそこそこな感じの曲。元々の曲の性質もあってかなり淡々と進行していた気もするけど、そうなってくると、大きく音色を変えるわけでもなしに淡々とアルペジオにフレーズにソロにと切り替えていくギターのプロフェッショナルさがこれはこれで目立つな、と思った。轟音とかの仕掛けが無いからこその、いぶし銀な活躍っぷり。
*32:正直この箇所はもっと演奏が延々と繰り返されても良かったように思う。6分とか突入しても良かったと思う。
*33:1位から順に『光について』『望みの彼方』『Everyman, everywhere』『スロウ』と来ての5位。というか『Everyman, everywhere』がそんなに人気があるのにも少し驚く。
*34: この曲もファン人気が非常に高いこともあり、また楽曲自体が強力なためか、時折ライブで演奏されてきた。曲調的にもクライマックス感のあるものであり、今回の再現ライブにおいても、アルバムの流れと同じくクライマックスの雰囲気が、静寂の中から始まるイントロの時点で大いに掻き立てられる。
楽曲自体が素晴らしいこと、リードギターのスライドギターが大変に素晴らしいことを前提に言えば、しかしながらこの曲のライブ演奏は、もう1本ギターが欲しくなる気持ちがある。すなわち、音源であればイントロのギターフレーズが最後後奏でスライドギターと重なっていく訳だけど、ここがライブではどうしてもオミットされてしまって、そこがとても勿体無いような感じがある。たとえば高野さんがこの箇所だけはキーボードではなくギターを担当してトリプルギターで、とかなら、2分くらい延々とここを演奏したりすると大概恍惚の渦になる気がするけど、でもそうなるとピアノの陰影は減るのでもどかしくもある。
GRAPEVINEの5人組はライブ演奏で再現できないものなど無いのでは、と思えるほど卓越した演奏人だと思うけども、それでも全く限界がない訳じゃ無いんだな、ということをこの曲のライブ演奏で思ってしまう。これはとても贅沢な感想だと思う。
*35:この曲からすれば『アナザーワールド』はまだ全然常識的なギターロックの範疇だろう。
*36:彼らのアルバムの最終曲はこれより前も後も、楽しげな曲か壮大げな曲かどっちかのパターンが割と多く、こんなに華やかでも爽やかでもなく、また厳かでも威風堂々でもない、苦々しい具合の終わり方は珍しい。
*37:なおこの曲はその脱退する西原誠がベースを担当している。
*38: アルバム再現ライブなので、当然この曲が本編の最終曲として演奏され始めたものと思った。演奏自体は非常にしなやかでかつ当時よりこの曲の持っていたそのしなやかさに反するシンセの反復も活かされて、その自然と異形な様はむしろ『ねずみ浄土』という異形の極みなR&B楽曲をものにしたバンドからするとかえって自然なもののように感じられて面白かった。歌いっぷりの安定感にはさらに熟成感が含まれ、ライブだからこそのボーカルの生々しさには美しいものがあった。
…で、この曲で寂しく再現ライブが終わるのか、と思っていたら、止んだと思ってた演奏が何か再開していて、ギターが何か不穏なコードを弾いていて、演奏が次第に混沌とした形で重なっていく。まるで彼らの最初のアルバム『退屈の花』における『熱の花』みたいにボーナストラック的に生えてきたこの、大いに現状のバンドの実力を踏まえて演奏される、それまでの再現ライブよりも激しくサイケデリックで倒錯気味な演奏の様に、一体何の新曲だろうか、と思われたけど、やがてボーカルが「マリーのサウンドトラック」と呪詛的な連呼をし始めたことで、この演奏が「『another sky』再現ライブのエンディング」だと認識した。
この演奏がとても素晴らしかった。アルバムに宿る、まるで別の世界を召喚してるかのような情緒の部分を絶妙に摘出し、近年の『Gifted』等でも見せた強迫観念的な演奏力を用いて儀式的に膨張させるその未知の狂瀾の光景は、「再現ライブするのはとてもいいと思うけど、終わり方があまりに苦くなっちゃうよなあ」と思ってたこの公演に素晴らしいサプライズを添えるとともに、2002年にリリースされたアルバム本編に対する印象さえ少し揺り動かしてしまうくらいの、彼ら自身による本作への“分析”が示されていた。
*39: ここから先は、この再現ライブの、「再現ライブ部分が終わった後の第2部」の感想を書いていきます。全部脚注にまとめて書いていくので読みづらいと思いますが、ネタバレ防止の意味もあるためご容赦ください。次の脚注から始まるので、ネタバレしたくない人はここから先の脚注は読まないようにしてください。
*40:ネタバレ防止用ブランク1
*41:ネタバレ防止用ブランク2
*42:ネタバレ防止用ブランク3
*43:ネタバレ防止用ブランク4
*44:ネタバレ防止用ブランク5
*45: ここからライブ感想続き。雰囲気的にも厳粛にならざるを得ないアルバムの再現部分が終わったため、アンコール的に出てきた際にはここで一気に剽軽なライブ仕草を連発していました。「まだまだ沢山やるよ」ということで、実際に11曲演奏されました。
1. 想うということ(アルバム『HERE』)
イントロを聴いてびっくり。唐突に始まったこの、壮大でかつ優しい感じの楽曲が、アンコール的なものの1曲目として相応しいかどうかなんて別に彼らくらいのバンドからしたら本当にどうでもいいことだろう。しかし個人的には最初にGRAPEVINEを聴き始めたのが中古で買った『HERE』からだったので、その冒頭曲であるこの曲がいきなり始まったのには個人的に予想外の衝撃を受けた。やっぱいい曲だなあ。
2. さみだれ(アルバム『新しい果実』)
初期バインの「いい曲」を演奏した後は最新の「いい曲」を披露しよう、という趣向でこの曲順なのか知らないけど、今も昔も亀井亨メロディは実に綺麗な哀愁があって素晴らしいな、ということを実感する。それにしても、ライブで聴いてもやっぱり、あの色々とイレギュラー連発なアルバム『新しい果実』の中でも群を抜いて「普通」だ。その分サビ後の展開のエモさがストレートで、ライブだとこの部分が特に映える。
*46: 脚注が長くなりすぎると見づらいと思うので分割。
3. Gifted(アルバム『新しい果実』)
「いい曲」2連発のムードをはっきりと吹き飛ばしてしまう。『CORE』で完成した後はそんなに出てくることのなかったRadiohead的終末感の表現が久々に爆発したこの楽曲は、演奏によってその退廃感を操作できる局面がとても多く、そしてここでの演奏は、リリースライブで観た時よりもさらにその演奏の仕掛けが強化されていた。特に途中で効果音的な物を垂れ流して一度演奏が途切れてしまう箇所の緊張感は実にライブ的で、この曲の威力が進化していくのを感じれた。
4. ねずみ浄土(アルバム『新しい果実』)
そして演奏の余韻を途切れさせることなく、何か奇妙な演奏を挟んだ上でスッとこの曲に着地する様は、『新しい果実』収録曲のエグさは確実にこのバンドの新風なんだなと確信していたのをさらにさらに深めさせられた。この曲もまた凝りに凝った演奏の削り方のエグさが如何様にでもライブで弄れる仕様で、この日も実にフリーキーなエグさを挿入しつつ、しかし実にきっちりと演奏がなされていく。
前々からライブに定評あっただろうけど、この2曲の存在はそれをさらに一段高いものにしたんじゃなかろうか。彼らのライブ観るときは毎回観たい。
*47: また分割。
5. コーヒー付(アルバム『HERE』)
圧倒的な『ねずみ浄土』の後何すんだろ…と思ってたらこの剽軽過ぎる短い尺のソウルナンバーで、絶妙なお茶の濁し方をされた。こんなにお茶を濁すのに最適な曲もなかなか無い。西原誠作曲の、全編ファルセットで歌い上げるソウルナンバー。そもそもこのバンドは元々は西原さんがR&Bっぽい音楽をバンドでしたいと思って始まった経緯があるけど、この曲からはあまり見えてこない彼のR&B志向のセンスが一番よく見える。それにしても、やっぱりMCで1回も彼の名前が出てこなかった。湿っぽくなるしそういうのはしないのかな。
6. CORE(アルバム『Sing』)
やっぱライブだとすげえなあってなるシングル曲。よくこれをシングルで出したよ。ライブだとこの破滅的な楽曲の中心がベースだということが如実に分かる。延々と反復され続ける『National Anthem』的すぎるベースラインがひたすら楽曲を牽引していき、そこに様々な仕掛けをギターもキーボードもボーカルも仕掛けていく。スリリングさとエンタテイメントを両立した、実にライブ向けな楽曲だったやっぱり。
*48:分割。
7. STUDY(シングル『BLUE BACK』)
やっぱり『another sky』期のシングルカップリングも演奏するんだな、って、この曲が始まったと気づいた時点で思った。とはいえ「この曲が始まった」と認識したのは、ギターリフから演奏が始まってからかなり経ってからだったけども。リフでゴリゴリとファンクとハードロックの中間みたいなことするのこの人たち本当に好きだもんな。この曲はそれらの中でもかなり雑な方なのでは。良くも悪くも。
8. Scare(アルバム『HERE』)
こちらは初期バインの「ファンクとハードロックの中間」の手法が結実した楽曲。勢いに任せて暴れまくるような曲調が、バンドの歴史が深まりまくった今の視点から見ると「やっぱなんだかんだ言っても当時は若かったんだなあ」と思わせる。この第2部なんか『HERE』収録曲が多くて、上記のとおり最初に聴いたのがこのアルバムな自分は個人的な衝撃が色々と多かった。
*49:分割。
9. R&Rニアラズ(シングル『ナツノヒカリ』)
やっぱりちゃんとカップリングまでやってくれるんだあ。田中和将をはじめメンバーが共通して大好きであろうThe Rolling Stonesへのリスペクトが詰まった、その割にはしかしそれをストレートに発揮せずどこかヘナヘナな調子で演ってみせるこの曲だけど、しかしまさかこの曲で今回のライブで一番大きな歓声が上がるとは思ってなかった。そんなに大人気だったのかこの曲。いや確かにライブで聴くのにこんなに楽しい変な曲もなかなか無いかもだけど。特にブチ切れた演奏してるわけでも無いのに不思議に盛り上がれる。ストーンズ・タームがすごいのかバンドがすごいのか両方か。
10. 風の歌(アルバム『真昼のストレンジランド』)
この福岡公演が、追加公演として9月以降に行われるものを除けばツアーの最後となるので、そんな感じのことをMCしといて、その上でこの曲を演奏してみせるのは中々に計算高くて、普通に感動してしまう。ロードムービーなんだなあこの曲。
11. Arma(アルバム『ROADSIDE PROPHET』)
さらにアンコールとして演奏されたのは、アニバーサリーを祝うタイミングでシングルとして出されたこの曲。そういえばバンド25周年も兼ねてたんだったか今回のライブは、ということを最後の最後に思い出させてくるのはもはやちょっと笑えてくる。高野さんはアコギを演奏していたはずだけど、サビではちゃんとホーンが聴こえてきてたから、同機演奏してたのか。
ライブ楽しかったなあ。また行こう。またぜひ福岡に来てください。今度こそおわり。
*50:ネタバレ防止用ブランク6
*51:ネタバレ防止用ブランク7
*52:ネタバレ防止用ブランク8
*53:実はライブ感想を全部脚注に入れ込むことで1つの記事の中で「アナザーワールド」な感じを作ろうとしてたけど、やっぱ読みにくそうだな…。
*54:ネタバレ防止用ブランク9
*55:ネタバレ防止用ブランク10