以下の年間ベスト記事で3位に上げたんですが、やっぱり書き足りなかったので書きます。やっぱ『coup d'Etat』は全曲レビューしといてこっちはしないのはおかしいよなあ、っていう。
ということで、あのバンドの累計4枚目、メジャー3枚目のアルバムに「結果としてなった」作品の全曲レビューを書いていきます。リリース当時は15曲入り約66分のボリュームにして1,500円という狂った値段設定で、尚且つ当時から最高傑作的に扱われていた本作のどこがどうなのか。ジャケットからして暗そうだけど…syrup16gの作品はまあ大体暗いけども。
はじめに:アルバム概要
リリースまでの経緯(なぜ1,500円のアルバムだったのか)
2002年6月のアルバム『coup d'Etat』でもってメジャーデビューした彼らですが、しかしそのリリースとほぼ同時期にオリジナルメンバーだったベースの佐藤元章が脱退*1、しかしスタジオミュージシャンとしての経験が豊富なベーシスト・キタダマキをベースに迎えて活動を継続し、同じ年の9月には早くもメジャー後2枚目となる、過去の未発表曲のアレンジ等を多く含んだ『delayed』をリリースするなど、凄いペースで活動を始めました。
その後、シングルをリリースする予定と予算が組まれていて、しかしながら、楽曲が大量に生まれたことによって五十嵐隆が「やっぱりアルバムを作る」と方向転換、元々の予定と予算で突貫作業を行うため、所属していたコロンビアの社屋の一角を急増の粗末なスタジオにし、そこで短期間に本作収録の15曲のレコーディングが行われ、なので当初のシングル制作想定の予算・予定の範囲内でアルバムがリリースできてしまった、ということのようです。
こう書いてはみたものの、実際その制作ペースがどれだけ異常かはぼんやり考えていてもすぐ気付けるものだと思われます。しかも、ここに並んでる15曲は、過去のボツ曲の転用を多く含む『delayed』シリーズとは異なり、どうやら全てこの時期に一気に書き下ろされたものらしく、その“前のめり”という言葉では済まないくらいの制作ペースには何かヤケクソじみた感じや狂気じみたものさえ感じさせます。というか、そんな勢いで作った曲だけ収録した本作が彼らのオリジナルアルバムで最も曲数が多いという事実*2。
更に、初回盤にはこれにライブ音源数曲を収録したおまけディスクまで付いてきたとのこと。はっきり言って、メジャーレーベルっぽくなさすぎる、インディーライクなこの辺のサービス精神は、なんだかんだ言ってもファンを大事にしてたってことなのか。それだけでは済まされないような頭おかしくなりそうな大盤振る舞いっぷりですが。
ちなみに、本作は2010年にリマスターを施した上で再発され、その際には値段が他のアルバムと同じ価格に再設定されたようです。
アルバムの特徴
安っぽさに宿る勢い・狂気
上記のとおり、低予算で急速に制作された本作は、様々なラフさを孕んでいます。ブックレット等についても、1曲の歌詞につき1ページ使うような立派なものではなく、ジャケット部分以外は黒地にひたすら歌詞がびっしり書いてある、素気ない低予算な作りで、上記画像の最終ページには小さいにで書かれたクレジットの下に、五十嵐が悪ノリで書いたとしか思えない本作マスコットキャラクター“へる氏ー”くんが書かれています。
象徴的で印象的な、羊たちの牧歌的な光景が赤と黒のツートンによって禍々しく描かれたジャケットの写真についても、メンバー自身により撮影・加工されたものらしく、その辺も低予算なコンセプトの中で最大限の効果を発揮してます。
しかし、何と言ってもその音の質感、このロウな感じこそ、本作を本作たらしめる要素の大きなひとつでしょう。上述の経緯で作られたスタジオとも言えないスタジオで、音の反響とかも考えてないような場所で楽器を鳴らして録って、抜けのいい音になるはずがなくて、どんなにクリーンなトーンのギターであっても、本作においてはその辺は徹底されています*3。ギターサウンドなんて時間の都合か曲それぞれでそんなに変えられずに、ひたすら同じセット・同じ音色を微妙にEQいじった程度で使いまわしている感じ*4。同じ年のこのバンドのハイファイな録音、『My Song』あたりと比較したらそれは如実に分かるかと思います。
でも、この抜けの悪さが目立つ音質が、後述のざっくり誂えられた非ドラマチックな楽曲群と交わることで、本作的な気だるい暗さ、積極的な悲劇ではなく、もっとダルでどうしようもなく日常的でだからこそ救いようのない感じのあるダークさが醸し出されていることは、間違いのないことかと思います。抜けの悪さによって深まるダークさというのは過去の音楽作品からずっと確かに存在していて、本作はそういったダークさを表現したローファイ作品*5に連なる作品だと言うことも可能かもしれません。低予算なことさえ積極的に魅力に転換してしまうこの時期の彼らはまさに、無敵な状態だったと言えそう。
なお、とはいえ音質以上に元の版は音量レベルが小さく、よって他のアルバムの楽曲と並べて聴くと本作の楽曲だけ音がやたらと引っ込んで聞こえて不便、という欠点が長らくありました。これについては本作のレコーディングに携わった高山徹氏がリマスタリングした2010年の再発版では改善され、他作品の楽曲と並べて聴いても違和感ないくらいの音量レベルにて、本作的な音の悪さが感じられる楽曲を聴くことができるようになりました*6。変な文章だけどそうなんです。
楽曲構成の単純さ・執拗な繰り返しの多さ
弊ブログの上記の記事にも通じる内容ですが、なんで本作の楽曲がそもそも短期間のうちに大量に生まれたかというと、「構成が単純な楽曲が多いから」というのは非常に大きいように思います。
メジャー1発目だった『coup d'Etat』においては1曲目『My Love's Sold』からしてメジャー調とマイナー調を行き交い展開も多く、ダウナーでヤケクソながら爆発的で劇的なエネルギーの迸りを感じさせました。本作の次作となるアルバム『Mouse To Mouse』の冒頭曲である『実弾』にしても、イントロのSEから楽曲が始まって、シンプルなバンドサウンドに纏めつつも空元気を表現しようと展開が様々に用意されて、何かしらの気合と気概を感じさせます。
でも、本作においてはそういう気概、何かしら工夫をして生み出されるドラマチックさやハキハキとしたエネルギッシュな激しさみたいなものは意識的に排除されているように感じます。ひたすら手癖の範囲で、簡単なコード数個の範囲の反復だけで、何かしらメロディやら情感やらを完結させてしまえ、頑張るのやめてしまえ*7、という、曲作りの段階から開き直ったようなロウさが、本作には漲っています。“頑張らない”という念が漲ってる、というのはエネルギッシュじゃないのかそうでもないのか分からない感じもしますが。
楽曲によっては、本当に同じコード進行だけで複数の展開を全て収めてしまう場合もあったりして、そうじゃなくても、メインのコード進行とあと申し訳程度の展開としてもっとだるいコード進行のメロディをくっつけた、みたいなミニマルな曲展開が本作は非常に多く、この辺のアンチドラマチックな要素が、音質の抜けの悪さと非常によくハマって、本作的な雰囲気を作り上げることに大いに貢献しています。曲構成のゴツゴツ具合ということで言えば、五十嵐は時折Nirvanaを引き合いに出して語ることが多々ありますが、曲構成的な側面でNirvana的な無骨さに最も接近しているのは間違いなく本作でしょう。そんな曲構成をしつつも、サウンド的にはThe Police的なコーラス主体のギターサウンドをしてい木、たまにThe La's等からの影響らしいキラリとしたギターポップ感が滲むところは、本作らしいサウンドの味わい。
しかし、そんな適当なソングライティングだから質が低いかというと、全然そうではないことが音楽、ポップソングというものの面白いところ。工夫なくグルグル回すばっかりの本作の楽曲群は、その工夫のなさ自体に奇妙な停滞感・いい意味での不健康さが生まれており、そしてそこから立ち昇る魅力を引き出す五十嵐のボーカルや歌詞は、ひたすらに的確に本作的なナチュラルな不健康さを描き出していきます。これらが合わさって、基本的にダウナーでダークなsyrup16gの諸作品の中でもとりわけナチュラルにヌケの悪い世界観が渦巻いている本作が生まれ落ち、それは、リスナーがこのバンドに求める魅力のうちのダウナーサイドの性質そのものであり、よって、多くのファンが本作に最高傑作だとか、このバンドの本質だとかを見出すこととなっていきます。
なお、『coup d'Etat』の頃はややワンパターン気味だったミドルテンポの楽曲の充実具合には何気に目を見張るものがあります。『delayed』の頃はまだメロディ頼りだった感じがありましたが、本作にて急激に「雰囲気で聴かせる」ことを極めたような感じがします。ぐったりしたダークさはは通底されつつも、その出力の仕方のバリエーションの広さ*8。あと、本作で特に顕著にみられる「カポを使って開放弦を利用したシンプルなローコードに妙味を持たせる」手法は、後のインディーロックにある程度の影響を与えていたような気もします。特に本作で何度か登場する、ローコードのCとAで反復させる展開には、特徴的な神経質な透明感があり、これはこのバンドの他の作品にはあまり見られない、本作ならではの特徴と言えそうです。要は『不眠症』と『正常』に代表されるあの感じ。
五十嵐隆のヤケクソ極まったボーカルと歌詞
そもそもの話、ギターボーカルが曲も全て書くタイプの3ピースバンドというのは、サウンド面でも作曲面でも情緒の点でも、楽曲に対するその人物の存在感が高くなりがちというか、ほぼ全てその中心人物の個性によって左右されると言っても過言ではない状況であり、まさにこのタイプのバンドの典型であるsyrup16gというのは、作風にしろ曲の良し悪しにしろ演奏の魅力にしろ、全て五十嵐隆の振る舞いに掛かっていると言っても良いわけです*9*10。
その点で行くならば、本作の五十嵐隆は『coup d'Etat』や『Mouse To Mouse』的な方向とは大いに異なる、まさに『HELL-SEE』的なベクトルにおいて、歌もギターも作曲も作詞もキレッキレだと言えます。こんなに『HELL-SEE』的な意味でキレッキレな五十嵐隆は本作以外では聴けません。そりゃそうか*11。
メジャーデビュー作『coup d'Etat』において、内省を超えた、内省を内側から食い破って世間に目を向けるかのようなワードセンスが急成長したと弊ブログのレビューでは書きましたが、本作ではその手法が実にまざまざと見せつけられ続けます。五十嵐隆的なシュールさが気兼ねなく自由に出入りしながら形作られる、圧倒的にオリジナリティに溢れつつ妙にリアルで嫌な感じのダウナーな世界観*12こそ、多くの人に支持されている部分です。歌詞の詳細についてはこの後各曲それぞれで見て行きますが、本作で綴られる変幻自在な語彙や、ダジャレめいたテキトーな押韻のために呼び出された単語の数々が織りなす妙な現実味や、そういった舞台装置があるからこそ余計にリアルに感じられる数々の憂鬱や虚無感は、多くの人が尊敬し、模倣を試みつつも完全には達成されない類のものです。そのどこか共感を突っぱねるような、実にナチュラルに素っ気なく不健康に自己完結な様に、どれほどの人がかえって共感を抱いてきたことか。
そして、『coup d'Etat』程ではないにしても、相変わらず全てを投げ打つように放たれる彼のシャウトの強烈さ。楽曲構成自体がダウナーな作りだからこそそういうものが映える部分もかなり存在します。しかし本作ではシャウトも脇役的で、もっとナチュラルさの中に潜む様々な暗い情感に、彼の声は潜り込んでいきます。その“底”としての『正常』の低さは、そのあんまりな低さ故に、本作のハイライトと言えるでしょう。
本編
ようやく本編、各楽曲それぞれを見て行きます。なお、各楽曲のコード進行等については、以下のサイトを参考にさせてもらったことをここに記しておきます。
1. イエロウ(2:54)
本作的な「エネルギッシュでない・躍動的でない」という制約の中でカラ元気を暴発させた、させたけども何か脈の具合がおかしい、みたいな感じのする、syrup16g式のパンクロック。上でも書いたとおり『My Love's Sold』や『実弾』といった「暗いなりに気合の入った感じ」とは明確に一線を画されたヘナチョコさと、そのヘナチョコさの中で確実に不健康なことだけは分かる具合が実に『HELL-SEE』。アルバムタイトルは「地獄を見る」と綴りつつ、健康を意味する「ヘルシー」とのダブルミーニングなので、そういう意味でとても「ヘルシー」でしょう。
ジャリジャリと歪んだギターのエッジィなパワーコードが先導するシンプルな構成のリフ展開はポストパンク的で、しかも7/8拍子を採用しているため余計にそっち方面の不健全さが醸し出される。その直線的で単調なリズムの具合は、この曲のマイナー調に妙な湿り気や勇敢さ、メロディアスさが生まれることをバッサリと拒絶する。ボーカルがエフェクトにより存在感が雑に遠くなってることもこれに喜んで加担する。
硬く強ばったAメロに対して、サビは同じ直進性を維持しつつも、B♭m→Bという中々に理不尽で不機嫌な感じのコードを反復させて、アンチメロディ的な直線的なフレーズを歌にしている。コードが半音上がるのに歌のメロディとしては低い方に落ちるところに実に毒々しいシニカルさがさりげなく潜んでいる。本作でとりわけ参照されてる節のあるNirvanaの言葉を借りれば「Hello, hello, hello, how low」ということ。そんなサビから元のリフに戻る時に一番精力のある声で曲タイトルを、はじめは潰されたみたいに歌い、最後はヤケクソめいて叫ぶところは、シンプルにこの曲の「不健康なまま突破する」感じを象徴している。こんな曲でもサビではコーラスの効いたギターサウンドになるところは、このバンドの基本サウンドをThe Policeのコーラスサウンドと定めているところに忠実だなあ、と思った。
間奏のテキトーめいたギターソロの具合が地味に最高。終盤のギターフレーズはもう少し工夫がされるが、それにしても終盤の縦ノリの箇所は唐突に拍子が3拍子に変更になり、しかしどこかグダグダした感じのままデデーン、と終わってしまう。曲単体で見たらなんだそれは…と思いかねないとこだけど、『HELL-SEE』的には100点満点のグダり方だと思う。
歌詞も「今回はこんなアルバムです。頑張りません」と宣言するようなウンザリ具合。冒頭からある意味飛ばしてる。
さっそく矢のように やる気が失せてくねぇ
「あっそう」って言われて 今日が終わる
「やる気ありません」と冒頭で高らかに歌う本作。あまりのテキトーさに「これぞ本作が世間に対するバンド最大のオルタナティブを示す証だ」などと強弁する気さえ損なわれてしまう。そのくせに、サビではこのバンドらしい断罪調に唐突に移り変わる。
予定調和に愛を 破壊に罰を
誹謗中傷に愛を 仕事しようよ*13
死体のような未来を 呼吸しない歌を
蘇生するために 何をしようか
どこかのインタビューで「1曲目で盛り上がれる曲を、と思った」とか書いてるけど、これで盛り上がるか…?と思ってしまったりする感じが実にHELL-SEE的だなあと思う次第。まあでも五十嵐がヤケクソにシャウトすれば何でも盛り上がってしまうところは確かにある。
2. 不眠症(4:15)
本作の楽曲でも最もNirvana的な気だるいグランジ感のある曲構成をした、重く鈍く炸裂するミドルテンポの楽曲。歌う人によっては「何このうだつの上がらない曲?」となりそうなところを、非常に深刻な停滞感の雰囲気やその悲痛さとして名曲然とした形で響かせることに成功しているのは、当時のバンドのテンションと五十嵐のボーカルによるものだろう。タイトルからして、本作のテーマであろう“不健康さ”が直球で表されている。
ミドルテンポの曲については『coup d'Etat』ではサイケなAメロとシューゲなサビの対比が多くて、『delayed』ではそのセオリーをもう少しメロウに寄せた風だったけども、ここでは潔くシンプルにコードトーンを響かせるだけ*14にして、そのシンプルさでサウンドのオンとオフを効かせる様が、意外とそれまでのこのバンドに無いことだったように思う。コーラスの効いたクリーントーンのコード進行の反復を、楽曲が展開してきたらいい具合に歪ませて、そしてボーカルも合わせて同じメロディを声を張り上げる、たったこれだけのシンプルな手法が、ボーカルの存在感によって最適な方法になったという感じが、この曲の全てだと思う。曲構造の段階から始まるこの曲の閉塞感・停滞感の重さ、抜けの悪さが、それに抗おうとするかのように叫ぶボーカル共々、実にダークな空間を生み出している。そしてそのヌケの悪さには確実に、グランジの時代に存在したとされる「何をやっても逃れられない」憂鬱の感じと共通するものが蠢いている。
この曲の途中に現れるCメロ的な存在は、本作平均からいくとかなり頑張って工夫してるものに感じられもして、ここによって元の繰り返しのヤケクソさがブーストされる効果を持つ。これは的確な追加で、ドラマチックでないように思えるこの曲にそっと添えられた感傷的な舞台装置だ。
それにしてもこの曲の、CM7の押さえ方をベースにした本当に微細な押弦の変化と、その微妙な変化を捉えてメロディを書くセンスは地味に天才的なものがある。こういう方式で曲がポンポンと出てくるようになったから今作が15曲入りとして成立してるんだなとも思えるし、しかしその微妙なトーンの変わり具合からこういうメロディと言葉を引き出せる人間が何人いるかよ、とも思う。轟音パートになるとその微細な変化がまるで感じられなくなることにも、それはそれでまた意味が感じられて、とことん得なアレンジだなあと思った。
歌詞については、繰り返しの多さによって停滞感を出すこの曲のスタイルに合わせてか、言葉の方も繰り返しが多くて、同じ言葉を呟いたり叫んだりすることで楽曲に展開を持たせつつ、しかし情緒としては閉塞感がかえって強まる仕組み。シンプルにしてその効き目は鮮やかだ。
さよなら さよなら さよならって聞こえねぇよ
さよなら さよなら さよならって聞こえねぇよ
もう遅ぇかねぇ ねぇ もう遅ぇかねぇ ねぇ
もう遅ぇかねぇ ねぇ
うるせぇてめぇ メェー うるせぇてめぇ メェー
うるせぇてめぇ メェー うるせぇてめぇ寝れねぇ
もう遅ぇよねぇ
このシンプルにみっともねぇ言葉遣いに切迫感を生み出すことこそ、五十嵐の才能なんだろう。それにしても、こういう冗談から生まれたっぽい「メェー」から、マジであの羊ジャケットに繋がるというのか…。どこまで本気なのか分からない感じもまた、本作の奥行きに貢献していて、そしてそれは、もしかしたら作ってる本人でさえ境界が曖昧そうな感じがするが故に、永遠に冗談っぽく謎めいて響く。
3. Hell-see(4:11)
前曲に続いて本作のミドルテンポの停滞感の演出として機能する、前曲以上にメロディ展開がぼんやりとしていて不思議な重たさを纏った楽曲。仮にもタイトル曲にも関わらず、本作で最も取り留めないまま進行し終わってしまう楽曲で、その歌の内容の別に憂鬱を撒き散らしてるわけでもない具合共々、無意味に通り過ぎていく様が実に本作的。というかこのバンドの場合、アルバムタイトル曲は他の作品でもそんなに目立つものでもないけども。
不思議な具合に旋回するギターリフは、深いコーラスとディレイのこともあって、少しジェントルな響きを持たせられる。そこにエッジを潰して輪郭が曖昧になったベースがひっそりと無音を塗り潰して、この曲ならではの不思議な音空間が形作られる。キタダマキのアイディア提供が最も作用しているのはこの曲らしく、この少しばかりムーディーな雰囲気は確かに五十嵐の固有のものと少し異なったようにも感じられる。その中で五十嵐の歌のメロディもまた、明確なコード進行に乗るわけでもなしに所在なく浮かんでは消えていく。同じギターリフが続いたまま、この曲のサビ?になるであろう低音で言葉を畳み掛けるエリアに入る。声の周りに多重コーラスが配置され、やはり不思議な曖昧さが醸し出される。本作はラフな録音とは言うけど、ボーカル周りはかなり作り込んだコーラス録音等が見られたりする。
そのサビの後の、シューゲイザー的にギターが歪んでいくところの何とも言えなさ。五十嵐が不思議なハミングをしたり、元の歌メロディをやや張った声で歌ったりはするけども、そこに大きな盛り上がりは無く、『不眠症』がまだ盛り上がった曲のように感じられるくらいに淡々と炸裂し、そして元のギターフレーズに戻る。この、轟音パートの意味のなさ・爽快感のなさに宙吊りにされる感じこそが、この曲のチャームポイントなんだろう。何なら本作で一番キャッチーでないまである。
歌詞の内容も不思議さに満ちている。煙に巻く、というか。静かな他者の拒絶のようでも、あるいはそのことについての自嘲のようでもあるけども。
戦争は良くないなと 隣の奴が言う*15
適当なソングライターも タバコに火を点ける
テレビの中では込み入った ドラマで彼女はこう言った
「話もしたくはないわ」それなら最初にそう言って*16
テレビの中では込み入った ドラマで彼女はこう言った
「話もしたくはないわ」そこだけ俺も同意した 同意した
健康になりたいなと*17
4. 末期症状(4:24)
本作的な楽曲構成のシンプルさが極まった例のひとつで、たった二つのコードだけを反復させ続け、アルペジオにシューゲイザー展開にカッティングにと手を替え品を替えながら、メロディを次々に展開させてヤケクソ気味に疾走していく楽曲。ハッキリ言ってたった2コードの繰り返しで作曲しようとするのが無茶なのに、その無茶を無理矢理力技で通してしまったような、この時期の五十嵐のヤケクソなポテンシャルだけで突破したような感じがして、この無茶な曲構成が分かるとむしろ突き抜けた爽快感すら感じさせる。変な言語センスといい、突き抜けてる。
4カポでCadd9とAsus4を、アルペジオは1,2弦解放を織り交ぜながらひたすら繰り返し続けるだけ、サビ等ではシューゲ的に歪ませてコードを弾き倒すだけ。このシンプルさ+αで、本当に1曲をやり切ってしまう。その上で、アルペジオの方はそれでイントロにAメロ、間奏を引き受け、轟音の方はサビと間奏、そこから続く発展サビを受け持つ。それぞれ、リズムが変化したりベースが頑張ったりといった工夫で変化をつけたりはするものの、結局この単調な繰り返しが曲として成立しているのは、五十嵐のメロディセンスと勢いによるものと言える。ミドルテンポの楽曲かとイントロで思わせておいてから加速していくリズムの中で、五十嵐がキレッキレに勢いよく発する第一声が、これなんだもの。
抱きまくら 抱きまくら 抱えて眠れ
抱きまくら 抱きまくら 挟んで眠れ
「何を言ってるんだ…?」と思わせた段階で掴みはOK*18。このワードチョイスの勢いっぷりにこの曲の全てが現れてるのかもしれない。
ギターが歪んでメロディが変化し、サビでシャウトとファルセットを織り交ぜて歌う五十嵐の姿はダークながら突き抜けたものがある。その後のギタープレイの、ギターリフ的にリズミカルにコードを強く弾いてるだけ、という力技っぷりもまたチャーミングで、さらにそこからメロディが発展していくに至って、この時期の彼は本当に同じコード進行からメロディを飛翔させるセンスに富んでたんだと分かる。木下理樹と同系統のセンスだけど、本作の場合使うコードが少なすぎることがミソ。
その後も、一度ブレイクしたり、リズムが落ち着いたりしつつも、結局また全開な疾走モードに突入して、そのままの勢いで最後まで行ってしまう。最後のシャウトは本作でもとりわけヤケクソさがパワフルな方向に極まっている。
冒頭のワードに象徴される歌詞の破茶滅茶さも、でも韻とリズムに導かれながら、しっかりとぶっきらぼうにどこか自省めいた内容を書き込んでくる。
寂しさを振りまいて サービスし過ぎるのが余計だ
危ない
寂しさをフリーマーケット セールスし過ぎるのが不快だ
危ない 危ない
ちゃんとやんなきゃ 素敵な未来がどこかに
逃げちまうのかなぁ
ちゃんとやんなきゃって 素敵な未来なんてもんは
初めからねぇだろう ねぇよ ねぇよ
殆どダジャレめいていつつも、自身の憂鬱を歌にして金を取る、という自分たちのバンド活動に対する率直な疑問をここでは撒き散らす。挙句、消極的にちゃんとやろうと思っても、そもそも論で投げやりに終わってしまう、この自問自答のとっ散らかりっぷりはやっぱりどこか漫才めいていて、リスナーは落ち込めばいいのか笑えばいいのか分からなくなってしまい、とりあえず叫ぶ五十嵐がひたすら格好いいことだけどを確かに認識する。
5. ローラーメット(2:52)
五十嵐隆がかねてから敬愛し続けていたThe Policeの代表曲のひとつ『De Do Do Do, De Da Da Da』からリフを盛大にかっぱらってきてコミカルにファニーにそしてシニカルに戯けてみせるメジャー調の楽曲。本作で初のはっきりとメジャー調の出た楽曲だけど、コーラスの効いたフニャフニャなギターサウンドや明らかにチープなコード進行、そしてさりげなく入ったサブドミナントマイナー要素により、本作全体のダークな印象に奇妙なシュールさを添える程度にサッと終わるのが的確。
www.youtube.comちなみにこの曲が入ってるアルバムの録音中辺りが一番バンド内が険悪だったらしい。
イントロがまさに、The Police『De Do Do Do, De Da Da Da』のリフからの引用。原曲のイントロやサビ等で聴ける展開ひと回し終わるたびに添えるタグの部分を借用しているけど、ここでのそれはギターのトーンもコーラスの掛け方も明らかに原曲に寄せて演奏されている。コード的にはただのEとAの繰り返しで、その部分をひたすらAメロの伴奏として使い回すところに、五十嵐が狙ったであろうアホっぽさが出ている。
そのリフに合わせて割と高めの声で歌う五十嵐だけど、メロディを展開させるところではA→Am7/Gという形でサブドミナントマイナーを入れ込み、メジャー調バリバリだったコード感をしっかり腐らせる。更には、2度目のサビから追加されるメロディにはC→Bmの展開を付け加えて、このCのコードがキーEにおけるサブドミナントマイナーの代理コードに当たるので、やっぱりコード感を腐らせてくる。
あとこの曲もかなりコーラスワークに凝った作りになっていて、2回目のサビ以降でサブドミナントマイナー進行の周りに奇妙にコーラスが纏わり付いて、どこかT-Rex的な要素も感じさせてくる。ロックスターをお題にした曲だし、ということなのか。特に終盤のC→Bmの繰り返しのところの執拗さと、その後の「ヅラ」と絶叫する箇所は、初見だとどう反応していいのか困ること請け合い。
歌詞は、ロックスターを皮肉った内容。ただこれは、その皮肉はそのまま、まさにロックスターになろうとしている/レコード会社にそうさせられようとしている自身に向けられる。
ロックスターがテレビの前で悲しい振りをしてる
ロックスターがテレビの前で悲しい振りがうまい
Baby I want you, girl Baby I want you, girl
Baby I want you, girl Baby I want you, girl
貴方の歌
明らかにからかえそうです アホ面だ
明らかにからかえそうです アホ面だ
明らかにからかえそうです アホ面だ
ヅラ ヅラ ヅラ
ここでは「ラブソングでいたいけな少女を騙して稼ぐ商売」としてのロックスターに対する皮肉となっている。それを自分にも向けて歌う、というのは「せめて俺はいたいけな少女を騙すだけな軽薄なラブソングは書かないようにしよう」という自戒の念も感じられる。雑なように見えて、五十嵐隆は相当潔癖な人間だと思う。潔癖だからこそ色々見えるんだろうなと。それにしても歌詞の流れで「ヅラ」とシャウトするのは適当が過ぎるけども。
曲タイトルは向精神薬のロラメットから来ている。ソラナックスで『空をなくす』としたのと同じパターンだけど、それにしても「ローラーメット」という単語は意味不明だ。「ロックン“ローラー”」が「ヅラ(“メット”)」を被るから「ローラーメット」…ってコト!?
6. I'm 劣性(4:00)
少しばかりファンク的なリズム感でギターリフを掻き鳴らす、単調ながらエネルギッシュに躍動する形式の楽曲で、前作『Delayed』収録の『落堕』を経て、より軽薄で軽快なテンションとテンポで16ビートを扱えるようになったバンドが割と気軽に産み落とした1曲、という感じがする。シンプルで勢い任せでテキトー過ぎる、と思ったのか、シュールに退廃的なエフェクトの類が色々と充実していたりするのも特徴。
冒頭からして、ワーミーか何かを活用したと思われるギターのリフが左右を行き来して、それが弾けるかのようにアンサンブルが始まっていく。メインとなるギターリフには相変わらずコーラス、というかもう少しフェイザー的なモジュレーションが濃く掛けられて、シンコペーションも織り交ぜたリズムで躍動するそれにしかし生命力的なのは全然感じられないので、そこはこういうことしたら自然と湧いてきそうなそういうチャラいヤンチャさを殺し切ったバンドのグルーヴの勝利なのかもしれない。
五十嵐のボーカルはやはり今作的にポンポンと言葉を吐き出す。同じリフの繰り返しのままサビでタイトルを連呼する楽曲の作りはいい具合にチープで、というか前曲とこの曲とで、これより後は言うほど音的にチープでもない*19本作にチープさの印象を刻み込んでる節がある。そういう雑ささえ味になるのが本作の強みだけど。
流石にこのリフだけで完結させるのは軽薄が過ぎると思ったのか、そこからしっかりと別の展開を付け加えてくるが、このセクションもAadd9一発らしい。というかコード進行サイトによると8カポとかになってる。カポの位置が高過ぎる。ここでの不穏なメロディ回しを見ても、本作のAadd9は普通に使われる際の爽やかな透明感みたいなのがつくづく感じられなくて興味深い。
歌詞の方は、雑にちょっと挑発的で攻撃的な感じを装ってみせる。歌詞までやや軽薄ぶってるところにこの曲の可愛らしさがあるのかも。
明日の天気なんて知らなくたっていいじゃん
明日の敵なんて知らなくたっていい
朝になってみりゃ分かるんじゃねえの?
傘が無くたって死ぬ訳じゃねえさ
天気予報を見ずに日々暮らしてしまう自分としては密かに共感するフレーズ。あと、「30代いくまで生きてんのか俺」という歌詞もあるけど、本作リリース時点で29歳だったことは留意しておく。ちなみに30代どころか、2022年現在でもうすぐ50歳になろうという年にまた新譜を出そうと頑張っていたりする。いい話じゃん。
適当なリアルはもう十分あるさ ここには
敵のいないリアルはもううんざりなんだ
Tell me why?
この次の年にリリースされる楽曲『リアル』を少しばかり想起させるフレーズ。「本当のリアルはここにある」と歌うあの曲のことを思うと、そんな「本当のリアル」に辿り着く以前のことを描いた前日譚のように読めなくもない。
7. (This is not just)Song for me(3:29)
タイトルやミドルエイトの歌詞以外にどこにもシニカルな含みの無い、「エヴァーグリーンなメロディ」とか言われたりする類の澄み切ったメロディと煌めきを備えたギターポップ曲。これまでのこのバンドのイディオムに無かったタイプの楽曲が唐突に投入されるけど、当時五十嵐がThe La'sに熱中していたりがあって、『There She Goes』等の名曲に“あてられて”作ったんだろうな、と思わされる。しかし習作感は薄く、いきなり名曲然としてこの曲が出てくるのは流石。
同じエヴァーグリーン系のメロディでも、同じ年のうちに出てくる『My Song』はギターポップ感は共通してももっとJ-POP的なメロディだけど、こちらは参照元となるイギリスのギターポップに沿ったメロディ展開をする。イントロから鳴るDのコードをこねくり回したような煌めきのあるアルペジオが美しくて、本作のローファイな録音はかえってこのフレーズをノスタルジックに濁らせるという好アシストをしている。五十嵐のボーカルもこれまでの自由自在な捻くれっぷりはどこへやら、楽曲の求める素直さをどこからか引き出してきて、グッドメロディと共に優しげなボーカルを披露する。この人本当に歌が上手い。曲展開はDとGの繰り返しなのにどこからかしっかりとしっとりしたメロディを引っ張ってくるのも何気にすごい。
明確なサビではなくブリッジ的に展開していくのも、参照元のギターポップ群へのリスペクトのように感じられ、またそのささやかな佇まいがまた、この曲のさらりと感傷的でノスタルジックな味わいをより深いものにする。
唯一不穏な箇所として、最初のブリッジからの間奏が終わった後に現れるミドルエイトのパートがある。キーとなるDのコードとひとつの音が半音ズレたDmを響かせるこのパートの存在は明らかにこの曲のエヴァーグリーンさに不穏な影を差し込む行為で、まるで「陰気な自分にはこんなエヴァーグリーンな曲似合わない」という自嘲を曲展開で行なっているような面白さが見出せる。そういえばタイトルも「これはぼくにぴったりの曲じゃない」ということであるし。
歌詞も実に素直なノスタルジーめいたものを少し寂しげに綴っていて、興味深いのは、その光景には歌い手本人しか出てこないこと。まるで『ローラーメット』で茶化した「恋の歌」を歌わないことを自分で実践してるかのようなところがある。
爪先で蹴飛ばして 石コロを転がして
昨日覚えたばかりの 歌を口ずさんで 家に帰る
そんな魔法が 今は何故 魔法みたいに思えるのだろうね
8. 月になって(5:06)
淡々と2コードで進行しつつもサビで感情をサウンドと共に爆発させる、ミドルテンポで、そして五十嵐が初めて書いた*20、素直にラブソングしている楽曲。言い方が迂遠なので初見ではラブソングって気付きづらい気もする。この辺りからしばらくはアルバム中でも深い奥行きを持った楽曲が連なっていく。
この時期の五十嵐はともかくカポを付けてローコードのCを基調に工夫をすることに長けていて、この曲はCとGを少し変形させて、C6add9やG6add9とでも言うべきコードを延々と繰り返していく。この、曖昧さと感傷さが増したコード感の反復の中を、アルペジオを弾いたり、ブリッジミュートしたり、シューゲイザー的に炸裂させたりしながら、しかし淡々と切実さの滲んだメロディを紡いでいく。歌詞の内容もあって、ここでは『Delayed』で多く見られた類のソフトタッチなボーカルと激情とが見られる。
Aメロでひたすら淡々と進行したからこそ、切実さが積もったサビでの感傷の炸裂は効果が大きく、ギターサウンド以外は引き続き淡々としたプレイに徹するリズム隊をよそに声を跳ね上げる五十嵐の姿は中々にロマンチックなものがある。特に2度目のサビでは、本作ならではの同じコード展開で新たなメロディを編み出す手法が登場し、不安げな感情が散らばっていくかのようなメロディを新しく披露したまま最後の長い後奏に入っていく。
間奏や後奏においては、ギターを重ねずに歪んだギター1本でアルペジオを弾くだけで空間埋めを凌ぐアレンジになっている。淡々とした演奏なので音のスカスカ具合に効果が生じてきて、6度コードなこともあり、いい具合に寂しさが無音から引き出される。特に終盤では、ベースが次第にエモーショナルさを肩代わりするようになり、その勢いから元の淡々としたイントロに回帰して終わる。最後の歌声から1分くらいかけて演奏が終わるので、それによってこの曲は5分を超えている。
歌詞の方は、上でも書いたとおり、二人の不安とそれを労わろうとする気持ちとが不器用に交錯する様を描いた“ラブソング”として成立している。迂遠な言い回しながら歌ってる内容は確実にラブな感じ、という、彼のシャイネスが淡く作用している。
気にしてないから 気にしてないなら
そばにいるだけ そばにいるだけ
夜は寒いから 明日が怖いなら
そばにいるだけ 朝が来るまで
君に間違った事はなく 道を誤った事もなく
ありのまま何もない君を 見失いそうな僕が泣く
風に乗って 風に舞って 月になって 星まとって
掴めそうで 手を伸ばして 届かないね 永遠にね
何か美しいものに手を伸ばして届かないもどかしさ、というモチーフはそれこそ同期のART-SCHOOLの歌詞でしばしば出てくるシチュエーション。鬱バンドとか言われがちな両者だけど、この類の切実さに生じる甘味はそういうのに関係なく良いもんだと思う。
この曲でちょうどアルバム真ん中。ただ、この後の方が長尺曲があったりするので、演奏時間的にはまだ半分に満たなかったりする。8曲目を過ぎても半分を超えないあたり、15曲入りは伊達じゃない。
9. ex.人間(4:23)
PVが製作されたのもなんとなく分かる気がする、本作的なミニマルな構成をやはり持ちつつも、サビでのメロディの爆発的な飛翔感がどこか劇的で、終盤の必殺の天然めいたフレーズ共々キャッチーな要素が本作でとりわけ出ているミドルタイプの楽曲。もしsyrup16gを聴き始めたばかりの人が「お蕎麦屋さんの曲」を探していたらこれだよって優しく教えてあげましょう。少々設定が病んではいるけど、ラブソングとして見ても前曲よりも尖った魅力を有している気がする。
ブリッジミュートされて機械的な響きになったギターのミニマルな反復フレーズはこの曲のトレードマーク。イントロから早速登場し、これと五十嵐のダウナーな溜息めいた声だけでいい感じのイントロとして成立してしまうのはちょっとずるい。PVのこともあり、この曲における五十嵐の声の存在感はいつにも増して大きいかもしれない。
ギターの伴奏がサビ前になるまでミュートフレーズ(と、怪しく反復するSE的なサウンド)に限られるため分かりにくいけど、この曲もどうやら同じコード進行を延々と繰り返していくタイプの楽曲で、しかもその使用するコード自体が、これまで出てきたCの変形だとかそういうのではなく、案外素直なものだけで形作られていることが、コード譜のサイト等でこの曲を調べると分かる。この曲のメロディ展開に他と違うキャッチーさがあるのはこの、実は案外素直なコード進行だということが大きいのかも。しかもメジャー調。逆に、そういう本来コード進行から自然に導かれそうな朗らかさを極力隠し切ったメロディ運びやスカスカなアレンジの仕方が凄いというか、ある意味シャイさの極みというか。
密かにそんな歌心を秘めたミニマルさをリズム共々反復させていく中で、ボーカルは低い位置で軽快に転がっていく。特に、Bメロ的な形で配置されるフレーズの茶化すような言葉の内容とその掛け声めいた挿入のされ方は、初見でも十分にユーモラスだろう。
そんなBメロ的な箇所から次第に演奏がミニマルさの枠を破らんと不穏に膨張していき、そして爆発的なシューゲイザーギターの伴奏と高いメロディを持つサビに突入していく様はかなり自然で、やはり本作の他の曲には見られない類の丁寧さが感じられる。そして、沸々とした地点から一気に伸びやかに響き渡る五十嵐のシャウトの鮮やかな様が、病んだ歌詞内容に反して/もしくはそれも相俟って、大変にキャッチーだ。彼が日本のグランジヒーローとして世間に求められたことも理解できてしまう、この「シャウトひとつで持っていけてしまう具合」は、案外この淡々とした地点からの飛翔を見せるこの曲が一番分かりやすいかもしれない。まして、2度目のサビにおける必殺のフレーズさえある訳で。
歌詞の方を見ていく。「人でなくなってしまった」ということを意味する曲タイトルのこの曲について書いた本人は「一番ヘヴィな歌」だと語っている。パッと見の病みのヤバさは『正常』とか『吐く血』辺りの方が上だと思うけど、この曲の歌詞中の意思は何か本質的なところで終わってしまってる、的な意識が書いた本人にはあるんだろうか。
汗かいて人間です 必死こいて人間です*21
待ってる人がいて それだけでもう十分です
愛されたいだけ 汚れた人間です*22
卑怯モンと呼ばれて 特に差し支えないようです
道だって答えます 親切な人間です
でも遠くで人が死んでも気にしないです*23
ここに書かれた人物像が特別卑劣だとは全然思えないし、全然普通の人物像な気がするし、むしろ共感が湧く人の方が沢山いるだろうと思える。しかしむしろそれだからこそ、ここでの“自虐”はむしろ、この人物像に共感を覚える多くの人たちに向けられるのかもしれない。攻撃性が自虐に繋がるパターンの逆というか。
少し何か入れないと 体に障ると彼女は言った
拒食症は、確かに精神疾患から来る症状のひとつで、この辺のラインは実にsyrup16g的な世界観がある。まして、これをサビのラインとして歌い叫ぶバンドはそう多くはないだろう。
しかし、そんな「病みしぐさ」さえ前振りにして、この曲は最後のサビであらぬ方向へと飛翔する。上記のフレーズからの続き。
今度来るとき電話して
美味しいお蕎麦屋さん 見つけたから 今度行こう
食事摂ってないことを心配されたことに対する返事がこれかよ。天然かこいつ、という、不思議さがファンタジックに広がる名(迷)歌詞。そもそも、こんなに自身を顧みない絶唱で「美味しいお蕎麦屋さん」と歌った人がかつていただろうか。ベンジーでさえそんなこと叫ばんぞ。
でも、ちょっと落ち着いて読むと、心配してくれた彼女に対して、何か優しい楽しい返事をしたいと思って、精一杯考えて出てきたのがこれだ、って思うと、この歌の主人公はとっても優しい、いい人なんじゃないか、と思えてくる。
この曲は、そんな好人物に対して「人間じゃなくなった」、即ち「人間失格」を突きつけるところに、謎のファナティックさや強烈なオブセッションがあるのかもしれない。思えば、小説『人間失格』の主人公・大庭葉蔵もまた、感受性が良過ぎて病みつつも、外から見た際には好人物として描かれていた。そんな人物が世間一般のナチュラルな悪意だとか疾しい好意だとか行為だとかなんとかに晒されて、すっかり廃人になってしまうのがあの小説の筋書きだけど、もしかしたらこの曲の主人公も、そうなる兆候をどこかに見出して、悲観しているのかもしれない。
『人間失格』と重ねて見ると、急にナルシスティックな曲なようにも思えてくる。だけどやはり『人間失格』と似たようなキャッチーさが確実にある。本作が本当に当初の予定通りシングルになるならこの曲が表題曲になったのかなあ。彼らの輝かしい代表曲のひとつ。いつまでもライブで「美味しいお蕎麦屋さん」と絶叫していてほしい。
10. 正常(6:44)
何故かPVがある楽曲が連続しているけども、それだけここ2曲の連なる様は強烈だということ。この曲は、本作どころか、syrup16gというバンドのキャリア全体を通じても、その暗い視点で見つめる世界観の、その最もどん底の中のどん底を見つめるかのような圧倒的に冷徹な悲観の哲学を、6/8拍子のリズムでシューゲイザーする楽曲と、そして低く這いつくばったメロディとで完全に表現し切った、彼らのダークさの結晶のような大名曲。音楽的にも情緒的にも、この曲が一番好きだというファンは数多くいるだろうなと思う。みんな健やかに過ごしていてほしいけども。
この曲は最初、雑踏を録音したと思われるものから始まる。この雑踏のSEは歌詞の内容とリンクすることを図ってのものと思われる。1分を過ぎたあたりでギターのフィードバック音と思われる低い音が入ってきて、1分20秒くらいでようやくイントロのギターのコードカッティングが入り、曲が本格的に始まる。
この曲で使用されるコードはわずか2つ。7カポにした上でCM7とAadd9をひたすら繰り返すのみ*24。非常に暗いトーンに支配された楽曲だけど、マイナーコードは全く使用していない。そして、本作の他の曲にも言えるけど、とりわけこの曲のadd9のコードの、全く透明感や煌めきのようなものが損なわれ気味悪く淀み引き攣った感覚だけ残った響きはどうだ。ギターポップ等で使用されるadd9と同じコードのはずなのに、強引に他コードと接続されたこと*25でここまで性質が変わるのは、コード進行の奥深さと言える。もっとも、この妙な響きの進行にこれほど暗くぼんやり淀んだメロディを付け、実質5分間の楽曲として成立してしまっているのは作曲者の特質と言う他ないけども。
そして、その2コード反復の不穏さが終わりなく反復する中に、フィードバックギターみたいな歪んだロングトーンが幾筋も鳴らされ、その中をクリーントーンのカッティングと印象的なアルペジオのリフレインと、そしてルート音に捕らわれずにうねり倒し続けるベースがこの曲の轟音を形作っていく。特にベースの動き方は、絶望的に躍動感が死んでいるはずのこの曲の轟音サウンドの中でやたらアグレッシヴで、歌が始まって以降の静パートのダビーなプレイとの対比が非常に効いている。この轟音には暗いながらも、不思議に安楽な浮遊館が生まれていて、それにはベースの働きも大いにあるように思える。世界的に見ても、3連のリズムでのシューゲイザー的なサウンドはそんなに例が多くない中、この曲はひとつの誇らしい成果とさえ言えるかもしれない。というかこの曲に関しては相当ギターを敷き詰めてあって、ラフな録音の本作でも例外的にダビングが多い。ミックスは本作的な“クリアでなさ”を貫かれ、そのこともこの曲の轟音の様に効果的に働いているのかも。
五十嵐の歌は本作でもとりわけ低いメロディを、人間性を排除したようなテンションでロングトーン含めてボソボソと歌う。決して叫ばないし、歌い上げもしない。そう言う情熱は一切カットされて、冷徹さだけを放つようコントロールされる。この歌は、むしろサビ的な箇所においてより低いメロディに移行し、特にこの歌の終盤においては混沌としたシューゲイザー的轟音の中をひたすら低く無感情に囁く様は、このバンドのバンドサウンドのひとつの極北を間違いなく描いている。終盤、歌が終わった後の轟音が残った際に、歌の代わりと言わんばかりに突如ベースが高い音でひたすらリフレインを続けるパートは不気味な優雅さがあり、そのまま曲の終わりまで行き着いた後にはなんとも虚しい余韻がギターノイズの残響とともに残される。
歌詞の方も、五十嵐隆の書いた他のどの歌詞よりも、何か冷めきった、親しみやすさとか良心とか言ったものを一切取り除いた末の、混濁しつつも覚醒したかのような意識の中にギョッとするような身も蓋もない感覚が覗く光景が綴られている。
使えないものは駆除し 排除されるよなぁ
雑踏その何割 いらない人だろう
前の曲で「美味しいお蕎麦屋さん見つけたから」って叫んでた人間と同じとは思えないようなこのドライさには、新自由主義的な思想を幾らか露悪的に滲ませた感じもあり、『coup d'Etat』収録の何曲かでも見られたような、意外とRadioheadめいた五十嵐の社会的目線が感じられる。そんな中では、僅かに覗いた人間性も以下の歌詞のように排除の方向性で働く。
無性にそういえばロンリー いっけねぇ 忘れてた
もういい 君はもういい いらない人だろう
しかし、五十嵐隆のバランス感覚は、こういった冷徹さを「世の中ではこれくらい厳しいのは当たり前のこと」のように決して取り扱わないこと。それが、この曲終盤の轟音が鳴り響きながら、歌が最もロングトーンで間延びして歌われる以下のフレーズに現れている。
絵本はもうおしまい 迷路はもう行き止まり
正常はもうおしまい 正常はもう行き止まり
ここには、幼い頃の正常な世界はもう大人の社会には存在しない、という、意外にもイノセントなものへの憧憬を逆説的に思わせる感覚が滲んでいる。この歌の彼からすれば、社会の雑踏というのはそもそも「正常」でないもの、と定義されていることが分かる。その上で、サビのフレーズの諦観に満ちた言葉の意味を探っていく。
進化を遂げていくものは メッキだらけの思い出か
身体は石のように硬く 荒野に転がり冷たくなった
どことなくイマジナリーなのに、そのイマジナリーさに一切の鮮明さを欠き、そしてぼんやりと諦めに満ちている。個人的な解釈としては、「正常じゃない世界を生きていく中では、成長していけるのは所詮、無味乾燥な現在との対比で相対的に輝きが増してしまう過去の幸福な思い出だけだ」というところなのかと思う。現在にいる自身の身体はどんどん石のように硬く強張っていき、その石のイメージから、荒涼とした光景に無意味に転がって冷たくなる光景が想起されていく。
この世界観の冷たさ。希望のように思える過去の幸せな思い出も「メッキだらけ」とシニカルに形容されるに至り、少なくともこの歌の思想においては、世の中に希望なんてものは存在しない、ということを、感情ではなく、普遍的な論理として歌っているということになる。これが虚無的ながらも不思議な安楽を伴った轟音の中、人間性を失ったかのような低い声で囁かれるところに、このバンドの世界観の何か最も遠く深いものが宿っている。
三の倍数のリズムで普通の人間の暮らしに対する悲観を歌う、という意味では『coup d'Etat』収録の『ハピネス』と重なる部分があるけど、軽やかでフォーキーな雰囲気の中にやるせなさが忍びこむ『ハピネス』と、残酷な視線と冷徹な重たさのあふれたこの曲とは、両方とも“世間”をテーマにしつつも好対象な印象がある。
このように、バンドの世界観そのものを左右するくらいの存在感がある楽曲なためバンドとしても代表曲扱いなのか、PVも存在するし、後のベスト盤にも冒頭の雑踏のSEをカットして5分台の尺に収まったものが収録された。製作者側の気持ちを思うと、確かに『ex.人間』とこの曲が両方とも存在する段階で、シングルは無理だな…っていう気持ちにさせられる。というか本作は、アルバム後半にいい曲が集まりすぎてるのではないか。
11. もったいない(6:18)
6分越えの楽曲が連続するという、本作でも最もしんどいセクションの一角を担う、『不眠症』をもっと神経質でもっと激しくしたかのような、実に本作的なミニマルなフレーズを軸に展開される彼ら流のグランジソング。ひたすらミニマルな展開を膨張させて6分を超える、というのは、ある意味本作の成り立ちとも共通するところがあり、実に典型的に本作の色合いを感じさせるところがある。本作ではこれより後は微細なコードワークの曲は出てこない*26ので、本作的な神経質さを炸裂させる最後の曲でもある。
冒頭から聞こえてくる、この曲を象徴するそのミニマルなフレーズ、というかフレーズとさえ言えない、コード進行、と呼んでいいのかも分からないその箇所は、ひたすらワンコードを響かせつつ、ルート音だけギターの5弦の上を少し不穏気味に動かすだけというもの。この本当にミニマルな仕掛けだけで静のパートだけでなく動のパートもやってしまい、その後のセクションでやや変化させつつも、しかしほぼこれだけで6分を超える曲にしてしまうところに、当時の五十嵐の作曲センスのいい意味での煮詰まりっぷりが出ている。楽器の響き的にはルート音だけが変化し続けるため、ベースがその音を合わせるので変化の存在感が強調できるバンドサウンドならではの発想とも言える。
このコード感の神経質さを強調すべくリズム隊も追随し、極力直線的な演奏にひたすら努め続ける。最初はギターだけで始まり、リズムが入ってもドラムは最初はライドとリムだけのプレイに終始し、基本的な8ビートは曲が始まって1分以上過ぎてやっと登場する。淡々と歌われる静パートにおいては、直線的なプレイながら高音と低音を使い分けるベースとディレイ等で妙に加工されたボーカルとで、ギターのミニマルなフレーズに膨らみを持たせている。
そして、同じリフのままギターが歪んで、タイトルコールを叫ぶ五十嵐によって半ば強引にこの曲にサビがもたらされる。特にサビ後半のシャウトのしゃくり上げ方の無理矢理具合はこのボーカリストの破滅的な魅力が実によく出てくる。その後、ギターフレーズをやや変化させながら展開する箇所*27の、しかし盛り上がるわけでもなくダルく爛れるように進行する様は、この曲の神経質な雰囲気を決して脱しない。
一度ブレイクしてリズム隊が消えて、そこからまたリズム隊が入って繰り返す、という曲展開はART-SCHOOL等とも共通するグランジ方式。そしてまたサビの炸裂、その後の抜けきらない展開は共通しつつ、追加の展開が反復されギターフレーズが追加されて、最後にシャウトで締められるところはこの曲の盛り上がりのピークを成す。
しかし、この曲で最も印象に残るのは、そのシャウトの後またブレイクした後に始まる、五十嵐のファルセットの方かもしれない。この曲の気力を削いだような演奏に乗って展開されるこのファルセットの、なんとも言えないやるせなさは、この感じのためにこの曲が6分を超える事態になったんだと思わせるに十分な魅力がある。
歌詞の方も楽曲構成と同じく、やたらと繰り返しが多い。その繰り返しの中で、ひたすらどうにもならず虚しいまま停滞する、そんな情緒がこの曲では歌われている。
悲しくはない 悲しくなんかない全然
何もせずに過ぎていく
からっぽの部屋 からっぽになったMyself
何の為に生きている
ただ、この曲について言えば、案外その虚無感は恋愛絡みなんだろうか、とも思える。
謝ってもいない 反省もしない全然
ずっとここで待っている
後悔はない 感傷もくだらない
君をここで待っている
反省しないくせに「君」が帰ってくるのをただ待ってるこの歌の主人公の、ズタボロに甘ちゃんな感じはしかし人間的で、そこは『正常』とは事情が異なる。
しかし、「なんだ恋愛がらみの歌か。歌手にとっては美味しい話じゃないか」と思わされた人に対して、この曲のサビは牙を剥いてくる。
もったいない もったいないかい?
もったいないなら 代わって
もったいない もったいないかい?
そこに居ないなら わかんねえ ねえさ
メタな読みになるけど、このサビの歌詞は、歌手のパーソナルな関係性を歌った歌に対してリスナーが抱くやっかみについて、歌手の側から「お前に何が分かる?」と突きつけてくる歌のように今回思った。そうでもしないとこの、「君」に向きようのない気もする「もったいないかい?」と問いかけられる相手が見えてこない気がした。
そんな、ミニマルなリフも歌の内容もどこか閉所で行き詰まり倒したような歌だけども、2019年のツアーの追加公演として予定されながらもコロナウイルスの影響により2020年に無観客で行われたライブの2日目の方で冒頭に披露されたりする。シンプルにこのバンドの神経質さとグランジ的な存在感が炸裂する楽曲なので、スタジオ音源以上にライブ映えしそうな感じ。
12. Everseen(3:40)
重く続いた流れを断ち切るかのように配置された、本作では割と尺が短い方になる、基本的にロックなリフ1本を軸にヤケクソ気味なテンションで駆け抜けていくタイプの楽曲。明らかに「これを表題曲に!」的な気合いの感じられない、勢いだけで作った1曲という感じだけど、それでもバンドのテンションの高さだけで聴かせてくる。その、勢いだけで全て片付ける様に、syrup16gってやっぱロックバンドなんだなあ、と思わされる。
パワーコードのようでパワーコードじゃないそのメインリフは、ルート音の開放弦を鳴らしっぱなしにしてひとつ上の弦でメロディを付けていくもの。これを仮に思いついても、それでそのまま1曲にしてしまおうと普通は思わないような気もするので、この曲についてはこのリフ自体がどうこうよりも、曲がどうこうよりも、このリフ1つだけで1曲作って、ライブでこの曲を弾きながらブッ飛ばしたテンションで歌い散らす五十嵐隆そのものの格好良さを味わう楽曲のように思う。このリフひとつで不機嫌そうなAメロも格好つけたサビもやり通してしまうその強引さと、それに嬉々として追随するバンドの、そのはしゃぎっぷりにこそ意義がある。それがこの曲順で来るというところに意味がある。
楽曲は一度このリフから離れ、テンポを落としてくる。その大味さも味なら、そこからブレイクしてリフに戻った際、ドラムが復帰する直前で叫ぶ中畑大樹のところもまた大いに聞きどころ。今までの暗さが何だったんだよ…となるくらいのテンションのブチ上がり方に可笑しくなってしまう。
この曲の歌詞に別にそんな深いところはないだろうし、繰り返しも多いし、そもそも「そこにあるのはEverseen, all right」って何だよ?っていう話。だけどこの辺もやっぱり、勢い一発の美学と思うと、これはこれでスカッとするものもある。特に以下のフレーズがテンポよく乗るのは可笑しい。
さっきやったばっかだって そんなの
つまんないから帰って
さっきやったばっかだって そんなの
くだらないから帰って
いかにもライブ向けな楽曲のように思えるけど、実は本作リリースライブ以降では全然演奏されず、上記の2020年のライブの1日目に久々にライブに現れたらしい。
13. シーツ(3:45)
本作終盤の3曲はこれまでのダークなトーンが嘘のようにメジャー調のポップな楽曲が続いていく。曲順に偏りがあるのでは…?と思わないでもないけど、でもここからの3曲のどれもが本作の位置にある以外の曲順はうまく想定しきれない。もうずっとこの曲順で聴いてきたからか。そして3曲とも大変良い曲。やっぱ後半に偏ってるって。
この曲は、本作でも一番弛緩した雰囲気の中、ソフトにポップセンスとギターのカラッとしたいなたい響きとを披露し、ダウナーな地点からの朗らかさ、みたいなものを表現した楽曲。終盤3曲も病んでることについては変わりなくて、むしろ病んだ上でポップな曲であることで、ある種の罪深さが発生してる感じもする。
冒頭から聞こえてくる荒くミュートされたギターリフの、本作のこれまでと違う乾いた音色にハッとさせられる。このバンドのギターサウンドの特色でありとりわけ本作では濃く掛けられていたコーラスが、ここでは掛けられていない。それによって、ラフに弾かれるギターリフはそのコード感もあって、ボロボロ気味ながらも朗らかな調子で響く。そのフレーズに沿って侵攻するリズム隊もソフトタッチで、まるで何かを労るかのような雰囲気が醸し出される。ベースはコード弾きだろうか。これもまた輪郭が程よくぼやけてこの曲のソフトさに寄与している。
五十嵐の歌はノンエフェクト気味で、低い音程をしみじみと呟くように歌う。ギターのコード弾きのタッチもクランチサウンドで生々しく、3ピースバンドだからこそのスカスカさがやはり朗らかに聞こえるのは楽曲の力だろう。メロディの展開部では声が重ねられ、相変わらずメロディの音程は低いのに、不思議にちょっとだけ浮遊するような感覚がある。
そんな展開を2回ほど繰り返して以降のセクションがこの曲のサビ、ということになるだろうか。曲のキーとなるコードから順番に展開するコード進行は空の方に開けていくかのような解放感があり、音程を駆け上がって降りるギターソロの平和な感じを経て、歌は大サビといえるメロディを相変わらず低い音程で歌いつつ、そこを追いかけてくるコーラスは遠くで高い音程で歌唱していて、まるで寝たきりのままの身体と理想の光景とがすれ違うかのように進行していき、そして元の低いメロディに戻って、サッと中途半端な音で演奏が終わってしまう。この辺りの、束の間だけ天に登るような展開の儚さこそが、この曲の大いなる魅力だろう。
歌詞の方でも、病室の沈痛な憂鬱と開放感への憧れとの哀しげな交差模様を描いていて、これが曲展開にとてもマッチしていることが、この曲の魅力を高めている。
痛み堪えて 痛み殺した
次第にMy body's end この部屋で待つ
笑ったりできるぜ いつもと同じさ
からかわないでくれ 昔話で
今回の主人公の設定は寝たきりのようで、そこにお見舞いに来た人への応対も、どこか切ないものがある。展開部で「いつか 浴びるように 溺れるように 飲みたいよ」と歌われるのもまた、開放感を欲してのことだろう。でも、そういった状況やら願望やらを超越した、ある光景の眩しさにこそこの曲の大サビはフォーカスする。
シーツ 洗われてゆくよ 毎日交換
そこにあるのは微かな 真っ白い影
眠ってたのは誰
昨日見たよ 夢で見たよ このシーツに刻まれた英雄を
この、現実的な光景の描写からいつの間にか夢の中の話に移り変わってしまう、その取り止めのない感じに、どことなく痛ましさを感じる。でも、その痛ましさに何か美しいものを感じてしまって、少しだけ後ろめたく思うこともあるだろうと思う。
14. 吐く血(4:18)
本作でもトップクラスに明るいギターリフの展開とこのバンドらしいダークなコード進行とを往復しながら描かれる、今で言うところの「メンヘラ」とされる人物像について実に的確かつダメダメに描写しつつ、しかし終盤の一節で全て転換する、という、ポップさと業の深さを見事に両立させた名曲。リリース当時より後にサブカルチャーの中で次第にキャラクター化されていった“メンヘラ像”があると思われるけれど、その成り立ちにおそらくそれなりに寄与してしまった節もある。この曲は、そんなメンヘラをネタに楽しんでしまう趣向を終盤のたった一行で反転させてしまう様が実に絶妙だ。
最初はアッパーな曲を作ろうとして生まれた、というギターリフはとても歯切れが良くて、やはりコーラスなしのクランチなサウンドがひたすら快活に響く。同時に鳴らされる歪んだギターもネガティブさよりもパワフルさが勝っていて、リズム隊もニュートラルに豪快にリズムを刻み、歌詞を除けば「本当に『HELL-SEE』収録曲か…?」と思わせるほどの明るさを歌のメロディ共々有している。
だけど、そこは流石に「『HELL-SEE』のsyrup16g」、サビで一気に暗黒なコード感に切り替わるその様は、そのあまりの変わりようの鮮やかさに、むしろ一周回ってスカッとしたものさえ感じられてしまう。サビでメロディの音程が低くなる辺り、実に五十嵐隆なセンスって感じられる。2回目のサビ以降さらにメロディが変化して、その後に間奏に入る頃になると、今度は妙に勇敢な感じのコード進行になって、ギターソロもギターロックとしての矜持に満ちた活き活きとして堂々としたもので、単純にロックとしてのカタルシスが感じられる。
この曲の最大の特徴であろう歌詞については、まるでロックとメンヘラの相性の良さを示すかのようにリズミカルにかつリリカルに、どうしようもない光景が延々と綴られていく。そもそもタイトルの時点で、最低なダブルミーニングになっているし。
彼女と知り合ってから半年が経つ
何故かもう連絡すら取り合えてない状態
不細工でも美人でもなくやたらと暗い
内科で診てもらえない病気の主
普通の会話があんまり成立しない
自分だけの世界に入ると戻って来ない
何か、妙に生々しい描写になっているのが、可笑しいような悲しいような。妙に的確に「精神を病んで面倒くさい状態になっている女性」像が描かれていく。その上でのサビでのこの一節は、すでにこの時点でとても鮮やかな印象を与える。
「私には何にもないから」
そう言って笑った そう言って笑った
この女性と付き合っていたと思われるこの歌の主人公は、でもこんな手酷く思えるほどの描写をしつつも、どこかで女性への心配を覗かせる。
一生懸命すぎて簡単に騙される
嘘ついてよ 見破るよ そんなに人に怯えるなよ
「嘘ついてよ 見破るよ」っていうのは、格好いい言い回しだなあ。
だけど、この歌はどうも、単にメンヘラ女性を描写し慈しむだけでは終わらない。
「すべてを晒すことは 割り切ってるから平気なんだ
時々空しいのは 向いてないかなって思う時だけ」
ミドルエイトに仕掛けられたこのフレーズがまず引っかかる。何の仕事をしてるんだろうっていう。夜の仕事だとしても、それって「すべてを晒す」仕事なのかしら。
この曲最大の仕掛けは最後のサビ後半に突然現れる。
「私には何にもないから」
そう言って笑った そう言って笑った
「貴方は私と似ているね」
そう言って笑った そう言って笑った
この「貴方は〜」の一節で、歌の意味が幾らでも変わってしまうところに、この歌詞のミラクルさ・業の深さがある。共依存的な関係性の退廃的な甘美さを嗅ぎ取ることもできるだろうけれど、もっと穿った方向に突き詰めると、結局これは精神を持ち崩しながらもそれ込みですべて晒し出し系のロックスターとして活躍する五十嵐隆自身のことを歌った歌詞なんじゃないか、ということになってくる。そうなると、ここまで丁寧に積み上げられた数々のメンヘラ的性質が全て、五十嵐隆個人に帰ってくる。場合によっては、どこにもこの歌詞に描写された不幸で痛ましい女性はおらず、初めっから五十嵐隆という困難な人物だけしかいなかったのかもしれない。当然、アーティスト側からこの歌詞の読解の明確な答えは語られていない(し、語られていたとしてもそれが真実かなんて分からない)ので、これが正解、という解釈は無いのだけれども。むしろ、読む人の数だけ、読んだ回数だけストーリーが広がる歌詞かも。
この曲は、こういったストーリーテラーとしての妙が彼らの楽曲の中でも突出している。そんな業の深い話を、やたらと爽快感のあるロックサウンドに乗せてしまったこの時のバンドの状況*28は、そしてこれを名曲として受け止めるファンたちは、果たして幸福なのか不幸なのか。そんなこの曲を取り巻く光景も含めて、色々を悲喜劇に変えてしまうような鮮やかさを、この曲は確実に持っている。
15. パレード(5:38)
すでに前曲終了時点で14曲、1時間以上が経過しているこのアルバムの最後に置かれたのは、これ以前のどのsyrup16g作品と比較しても*29、ここまで優しい曲は無いよってくらいに、ソフトな煌めきと優しいメロディに延々と包まれ続けていく楽曲。この曲がこの位置にあるからこそ、ここまでの暗く閉じこもった作品を安心して聴ける部分が確実にあると思う。歌詞はこの曲も閉じこもってはいるけども、でも閉じこもり方に愛嬌があって憎めない。
5カポをつけてDのコードをキーにⅠ→Ⅱm→Ⅲ*30→Ⅳと上がっていくコード進行をこの曲は最初から最後まで延々と繰り返し続ける。Dのコード特有のギターポップな感じの煌めきのあるリフレインがイントロからずっと続いていく様はホッとするけれど、それと同時にどこか夜っぽい感じが曲にあるのはどうしてだろう。「パレード」という題だけど、どこか「パーティーの終わり」じみた感覚が漂ってるからだろうか。コーラスのエフェクトはギターに戻ってきてるけど、あくまで煌びやかさのためにのみ機能している感じがある。所々で出てくるギターソロのフレーズにはThe Smiths的なセンチさを感じさせる部分がある。
同じコード進行の中で寂しげなAメロと伸びやかなサビと、そして歌詞含めてちょっと悪戯っぽく面倒くさくて可愛らしいCメロとを描き出していく五十嵐のメロディセンスはやはり冴えている。この曲では終始穏やかな低音ボーカルに徹していて、その少し眠たげにふやけた様もまた独特の甘みがある。曲展開に合わせてリズムを調整するドラムの細やかな調整やちょっとしたフィルもまた、この曲の可愛らしさ・罪のなさを引き出している。終盤の「Good-bye」と歌われる箇所も、深刻な話ではなく「これでこのアルバムは終わり。またね」くらいの意味にちゃんと聞こえるから不思議だ。
歌詞の方も、引きこもってるけど引きこもりきれない、他人が恋しい感じの主人公の様がプリティな、ちょっと詩的で感傷的で、でも可愛らしい作りだ。その可愛らしさは特にCメロで静かに爆発する。
近くに来たならノックして
ココロのトビラをノッキン・ドァ
たまに開かないと不信感?君に会う為に待ってんだ
遊びに来たなら話しよう いつものみたいな発想の
少しはいなよ 長居していきなよ
近くに来たならノックしてよ
それまで詩的に感傷的に振る舞っておきながら、なんだその人懐っこさは。いい意味で『正常』と同じ人間の書いた歌詞と思えない、実に人間的な鬱陶しい可愛らしさがここにひっそりと添えられている。
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終わりに
以上15曲、総演奏時間1時間6分程度のアルバムでした。長い。この文章も長い。
通して見てきて思ったことは、本作は楽曲的・音的にはミニマルさやらローファイさやらで統一感のある作風になっているけど、歌詞の面でいくと、統一感よりもむしろ扱う感情やシチュエーションの幅の広さが目立つ作品だなあ、ということ。歌詞の統一感ということで言うなら、『COPY』や『coup d'Etat』の方があるだろうな、と思いますが、でもそんなことよりも、この歌詞の幅の広さにこそ、五十嵐隆の様々な人間性が散りばめられていて、そのいちいちがちゃんと面白く描かれていることにこそ、本作の魅力の大きな部分があるのかもしれません。そういう意味では、日本語話者以外には魅力が十分に伝わりにくい類の作品なのかも。
だって、ちゃんとシリアスな曲をやってるのに、突然曲タイトルを絶叫したり、「だっきまっくら〜」って連呼し出したり、「ヅラ〜」って絶叫したり、しまいには「美〜味し〜い!お蕎〜麦屋〜さ〜ん!」なんて絶叫する光景は、他のアーティストの作品で果たしてあるかよ、ということです。一方で、急に『正常』のような、踏み込んではいけない領域の冷徹さを見せたりと、ともかく本作の歌詞世界は、ただ暗いだけでは済まされない奥深さと、そして社会やら状況やらを様々に切り取った面白さに溢れています。勿論基本ネガティブなスタンスが共通して基にあるわけですが、そこにはもしかしたら、急造で15曲分の歌詞を書かないといけなくなって、何でもかんでも歌詞にしないと追いつかない、といった事情もあったのかもしれません。
そして、そんな歌詞の充実もありつつ、何気にサウンド的にも、本作はこのバンドの他のどの作品にも無いくらいにミニマルな構成の曲ばかりが収録され、それらミニマルな構成をどう1曲1曲ポイントをつけて響かせるかのトライアルは、このバンドに曲想の幅の広さももたらしました。特に『不眠症』『正常』『もったいない』あたりのぼんやりとした神経質さは本作ならではのものがあって、この神経を突き詰めてしまったかのような切迫の仕方は本作以外ではあまり感じられない要素のようにも思われます。The Policeをひたすら参照してた、と言う割には、本作は彼らのアルバムで最もグランジ的な要素も濃く、さらにはギターポップの参照も大いにあり、そういった音楽的バックボーンで見ても大いに充実した作品です。短期間にアレンジのアイディアもドバドバ出てくる状況は、この作品制作時のバンドの状況がどれほど可能性に満ちていたかを思わせます。
総じて、ポンと出てくる作品じゃ無いだろ、という部分と、ポンと出たからこそ、という要素とが複雑に合わさった、存在自体が冗談めいた、又は奇跡めいた作品です。不健康さの塊のような作品なのに、健全なまでにバンドが機能しきっていて、何より五十嵐隆が絶好調すぎて、様々な矛盾を呑み込んでしまう土壌が完全に出来上がっています。音が悪くてボリュームが小さいことくらいしか欠点が無かったですが、それすらリマスター以降は必要十分な形で改善されて、このバンドの最高傑作候補として絶大な存在感を持ち続けることでしょう。
以上です。『coup d'Etat』の記事より1万字以上の長い記事でしたが、おそらく書きたいことはあらかた書けたと思います。それこそ、こっちも死ぬほど好きな人が沢山いるだろう作品だけど、こんな文章で果たして本当に良かったか…?
でも個人的には、下北沢ギターロックの界隈から生まれた作品の中でも、2003年に生まれた本作と同じ年のART-SCHOOLの『LOVE/HATE』が2大巨頭だと思っていて、後者はもう書いていたので、もう片方がようやく書けてよかったです。
それではまた。
追記:余勢でもって2003年のsyrup16gの残り2作品もレビュー書きました。
*1:腰が悪くてベースのリズム取りが苦手で、それで『coup d'Etat』ではベースをもっとリードフレーズ的に扱ったらかえって追い込むこととなり、脱退に至ったらしい。
*2:『delayedead』も15曲だけど収録時間は本作未満。なお収録時間でいくと次作『Mouse To Mouse』が最長。
*3:しかし注意したいのは、そんなローファイ気味な音質ながら、エンジニア周りも適当かというとそうではなく、初めから日本を代表するエンジニアである高山徹氏が録音・ミックスで参加しています。Flipper's Guitar等でエンジニアのキャリアを始めCornelius等で既に広く知られていたこのエンジニアにこの劣悪な環境で音を取らせていた時点で、それは作業効率的にやむを得ず、というよりも、むしろその劣悪さをバンド側が積極的に欲していた節が大いにあります。実際五十嵐隆も本作の音質について、カセットテープ的なローファイさを求めていたことをインタビューで語っています。
*4:でもこれはむしろ「『HELL-SEE』的なギターの音」として作品内の統一感を醸し出す重要な要素になっている節もある。低予算・過密スケジュールがとことん良い方向に作用してると言える。
*5:枚挙に遑がないけど、『Silver Apples』だとか『Suiside』だとか、1980年前後のポストパンク系作品とか、そういうローファイなダークさは、本作にいくらか近いかもしれません。
*6:スピッツでいうところの『インディゴ地平線』で起こっていた問題と全く同じことが起きていて、そしてリマスターによって全く同じように解決された、ということ。
*7:そもそもの話、「頑張らない」というスタンス自体が「頑張ること」が賞賛されまた強要される世間一般に対するオルタナティブになるので、そのようなスタンスでいい作品ができることは可能性の広がる話である。ただ、とはいえ流石に全く頑張らないでいい作品ができたりはしないので、「どれだけ最低限の頑張りで作品を作るか」とか「どう頑張って“頑張ってない雰囲気”を作り出すか」とかいうのは少なくないクリエイターが関わることになるジレンマめいたテーマだと言えそう。その意味において本作は100点満点の作品のひとつだと、そのように言うこともできるだろう。
*8:この辺は、リズムパターンが増えたことがとても大きいように思います。そしてそれはメンバーの成長、及び本作のレコーディングから熟練のスタジオミュージシャンであるキタダマキが曲作りの段階から参加したことによる広がり方なんだろうか。
*9:もちろんリズム隊の二人がそれについて行って良いプレイをすることは重要じゃないということはないし、バンドのグルーヴを形作るのには必要不可欠な存在なんですけども、でもそもそもそのついて行く対象がどう動くかということは、作品の表面上の出来の良し悪しにどうしても直結してしまうところがあります。
*10:でも、中畑大樹という人物がプレイヤーとして以前に、彼がいないと五十嵐隆が音楽製作をしない、という、バンドに必要不可欠な人物なのも確か。言うなれば、syrup16gというソフトを起動するためのドングルキー的な。
*11:実はシングル『My Song』の表題曲以外の楽曲も結構『HELL-SEE』的なキレッキレさが出てるのでは、と密かに思ってます。そう思うと「『HELL-SEE』的な雰囲気」というよりむしろ「2003年の五十嵐隆のモード」と言った方が正確なのかもしれません。
*12:このダウナーな世界観と、特に第1期ART-SCHOOLに代表される木下理樹の「映画や小説で描かれる美しく可憐で鮮烈な喪失」のファンタジックなダウナーさの世界観とは似て非なるもので、むしろ対照的なところがあって、どっちがいいとかではなく、実に面白い相関関係にあると思っています。2003年はまさに五十嵐隆・木下理樹両名がキャリアでも随一の爆発的な奮闘を繰り広げた年です。この年に出した新曲の数が両方とも同じ24曲だということまで考えると、これはマジで何か奇跡めいた事態だ(笑)
*13:この辺の、もう少し後に「ニート」と呼ばれる層に対する皮肉のような言い回しや、他の箇所の歌詞の「〜だと思われ」といった要素から、この曲は当時の2ちゃんねるに言及した歌だとされることがある。どうなんでしょうね。もっと直接的に2ちゃんねるに言及というか攻撃した曲としては、この時点から数年前だけどもthe pillows『Smile』がある。
*14:なお、この曲のボリュームを上げてよく聴くと、エレキギターのトーンだけでなくチャンネル右側にアコギもしくはエレキの生音も入っているのが確認できる。本作の、ラフな録音といいつつも意外と歌や楽器のダビングについては丁寧に行われてる様が窺われる。
*15:この時期の五十嵐隆のインタビューを読むと、当時の彼は少しばかり右寄りに思えるような考え方をしていて、戦後民主主義の教育が、とか、改憲が、とか、石原慎太郎や小林よしのりに惹かれていた、とか語っている。なのでこの箇所は当時の彼からしたら、「戦争反対」とかではなく、ちょっとしたアイロニーがほんの少し込められた表現なのかもしれない。ただ、そういった考えをはっきりと表に出すわけじゃ無く、「それってどうなんだ?」という客観視も同時にあるのが彼の表現。雑然としている風に見えて、この辺は実に慎重で丁寧だと思う。全然「適当なソングライター」じゃない。
*16:「面倒くさい女性のしぐさ」に対する身も蓋もない言い方。だけどこれを直接付き合ってる女性にでなく、ドラマの女性に向けて言ってるに留まるところがまた品があるなと思う。この辺のことはもっと面倒くさい状況設定によって『吐く血』で歌われる。
*17:「本当に健康になりたいと思ってる?」と本作を通して聴くと思ってしまう。だけど、人間はいくらでも同時に矛盾したことを思えてしまう生き物ながら、別にこれも全く嘘じゃないと思える。そもそも、これは「隣の奴」が言ってるだけかもしれない。
*18:インタビューによると、「末期症状だ」と韻を踏める言葉を探して出てきてしっくりきたのが「抱きまくら」だったらしい。
*19:むしろドープになってく。
*20:そう言われているが、言うほど“初”か?という気もする。そもそも『Reborn』の時点で大いにラブソングでは…?
*21:勘違いが発生しがちだけど、五十嵐隆は「頑張っても報われないこと」は歌うことがあるけど「必死になるのはだせえ」みたいなことは決して歌わない。むしろ後の『リアル』において明確にその辺を否定している。
*22:ART-SCHOOLの木下理樹とこの辺は共通するマインド。
*23:当時まさに進行中だった911後のアブガニスタンの戦争や、このアルバムリリースと同時期に始まったイラク戦争なんかの背景があった上での歌詞だったんだろう。
*24:ちなみに、似たように高い位置にカポをしてCM7とAadd9を使用する彼らの楽曲としては『神のカルマ』がある。これを知った時、確かに『神のカルマ』のコード感は『不眠症』やこの曲と類似するところがある…!と深い納得があった。
*25:CM7がキーであればAm7になるのが普通。そこをAadd9にすると、1弦と2弦がずっと開放弦となって、ぼんやりした感覚がトーンに生じる。
*26:と、このブログでは認定する。
*27:ここの歌詞の中で「So lonely」と歌われるのは、やはりThe Policeへのリスペクトの表れだろう。
*28:「全くシロップっぽくない曲になる」と思って作って、「ここまで暗い歌詞が乗るとは想像していなかった」というメンバーの声さえ、どこかギャグめいていて可笑しい。
*29:これより後もそんなに無いけど、でも『Hurt』の『旅立ちの歌』はベクトルは違えども割と同じくらい優しいかも。
*30:正確にはI/III