Twitterの方で#ふぁぼされた数だけ自分の好きなCDアルバムを紹介するのタグを誤用してやってきた標記内容のツイートのまとめ+若干の追補です。順位はなく、アルファベット順に並べていきます。ほぼ聴いた新譜全部という感じですが…。
25枚+シングル1枚ほどあります。各タイトルのリンクはAmazonに、下の曲名のリンクはYouTubeに繋がります。
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Twitterの方で#ふぁぼされた数だけ自分の好きなCDアルバムを紹介するのタグを誤用してやってきた標記内容のツイートのまとめ+若干の追補です。順位はなく、アルファベット順に並べていきます。ほぼ聴いた新譜全部という感じですが…。
25枚+シングル1枚ほどあります。各タイトルのリンクはAmazonに、下の曲名のリンクはYouTubeに繋がります。
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正直間が開きすぎて何枚か入れ替わってしまいましたが…2002年1位はいったい何キー・ホテル・フォックストロットなんでしょうか?というか、1位は別記事にしますので、今回は2位までを書きます。
(2022年7月追記)
前半記事と同じく、見やすくするためにいろいろ手を加えています。それにしても、このランキングの1位の記事を書き始めるのに、この記事からさらに2年もかかってしまうなんて…。
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先日(けっこう前!)投稿した2002年ベストも終わらないうちに2016年が終わりかけていて、それで慌てて、というわけでもないけれど、毎年させてもらってるこの1年で聴いた音楽の備忘録的なものをします。例年は2回くらいに分けて投稿してますが、今回は30位から2位までを一気に以下でアップします。なので記事が無駄に長いですが、お時間の許される方はご覧下さい。(1位は特に長くなるので隔離します)
ベスト30と言っても、分母が少なく、特に洋楽に関しては手元のitunesに入ってる作品はあと3、4枚くらいを残して出し切ってしまっているのでは…。「もしかして、洋楽ちゃんと聴いてる感を出すために無理矢理ランクインさせてないか」という不安も無くはないですが。
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この前、何に気もなしにこんなことをツイートしていました。
自分の音楽史が2002年と2003年で完結してるのでは…?という不安に駆られて2002年の好きなアルバム20枚くらいをitunesまさぐって選んでみたらどれもこれも良過ぎて、しかしこの感覚はどこまでがタイムレスな感覚でどこからが世代的なアレなのか分からないけど楽しかった寝ます
— おかざきよしとも (@YstmOkzk) 2016年10月25日
折角選んだので、ここで発表します。
ちなみに2002年頃は自分はまだ音楽を聴くようにはなっていなかったような気がします。どうだったかなあ。ツタヤとかで邦楽のメジャーどころのCDとかを借りて聴くようにはなっていたっけな?確か2004年頃にはブライアン・ウイルソンの『Smile』をそのバックグラウンドをある程度理解した上で新譜として買ってたので、洋楽含めて広く聴こうとし始めたのはこの年か次の年かもしれない。
何にせよ、今から挙げる2002年の20枚は、決して当時の自分が聴いていた20枚ではなく、今、今日の自分の立場からテキトーに選んだ20枚だということです。最近知ったものさえある。ただ、当時聴いていたものも無い訳ではないし、また案外人間の記憶やその把握能力はテキトーなもので、後追いでその年の作品を聴いて「この年は確かにそんな年だったのだなあ」なんてことを思ったりするかもしれない。
まあ何はともかく、何の意味があるかはともかく、以下が最近好きな2002年リリースのアルバム20枚です。順番はとりあえずのランキング的なやつ。気楽に読み散してください。思いのほか長くなりすぎて前編・後編に分割するハメになったけど。
(2022年7月追記)
見やすくするためにレイアウト等調整・リンク先をSongwhipに変更、動画貼り付けなど様々な調整をしました。文章自体は正直見返したく無いくらい今からすると恥ずかしいものもあったりしますが、極力触らないようにしています。
あと、2002年の邦楽ギターロック勢(所謂「ロキノン系」などと呼ばれていたような)についての記事も書いてましたので興味ある方は併せて読んでみてください。
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前編分を投稿しましたところ多数のファボ・リツイートいただきありがとうございました。ここまで自分のブログ記事がもてはやされたの人生でかつてなかったので嬉しかったです。後半も頑張ります。
という訳で後半です。はじめる前に一応、幾つか断りを入れておきますが。
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ブログをFC2からはてなに移しました。はてなブロガーという響きやムードに騙されたためで、色々な設定のし直しが面倒くさくて死んでます。ブログ名も変えてみました。
そんな挨拶は早々にアレして、表題について。
ukproject.com結構前から木下理樹が「B面集出したい出したい」とtwitterとかで言ってたのはファンにもそこそこ知られた事実でしたが、遂に…!という感じ。というかレコード会社3つか4つか5つくらい跨ぐことになりますが、版権上手いこと引き上げられたんでしょうか。
なんにせよこれは、アートスクールというバンドの“意外と”多面的な魅力に気付いて公式にリリースされた全楽曲に耳を傾けてきたそこそこのファンにとっては嬉しくも気が狂いそうな案件。
しかしそれがまさかの!ファン人気投票だって…?
しかも選曲範囲が広過ぎ?タイトル曲以外ならシングル・ミニアルバム・フルアルバムの別なく選曲可能?「ライブでの人気曲をコンパイル!」???B面集とは一体…?
そんなこんなで、千々に心が乱れているファン、「っていうか廃盤とかのレア曲集めたアルバムでええやんか…」と俯くファンや、またはもしかしたら、「ART-SCHOOLがなんか色んな意味で面白いのは分かってきたけど、でももうちょっと“ツウ”を気取れる楽曲に出会ってセンスいいオレをアレしたい」とか考えるヤングパーソン(その考えは間違っている…そんなのミジメにしかならないヨ…)等々のために示すことの出来る、なんか指標めいたものはないだろうか。または、投票等の結果出来上がったB面集をより楽しむことが出来るような、そんなアップリフティングな記事を…。
なんて全部嘘だ。ただおれが聴きたい、こういう感じのコンピだといいなーと思って並べた全20曲75分を、ここに紹介しましょう!という、これはそんな企画です。
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あいうえおシリーズ。
「さ」ということは、第11回目ですね。
あえてニコニコ動画の方を。
自分はレビューとかを書くとき、なかなかいきなり自分の思ったとおりに書けるタイプではなく、とりあえずレビューする作品で検索して、他の先駆者の方々のレビューを手の届く範囲でざらーっと読んだ上で、ああなんか書こうかなあよっこらせ、っという感じのタイプなんですが、今回もそれで検索して色々観てたら、今回のこの曲が入ってるアルバムを既に自分は前のブログでレビューしてましたね…。最近こういうの結構あるから恥ずかしいやらすっかり忘れてたりでつらいやら。
自分の前ブログのレビューにもあるとおり、このアルバムは前半がやたら緊張感ある力作揃いで、後半から急に脱力したポップソングが続くという、割とあからさまに“そういう構造”になってるようなアルバムなのですが、この前半でバンドの集中力を燃やし尽くしたようなアルバムの、その燃やし尽くしポイントが今回のこの曲なんです。
CD入手したらとりあえずパソコンにインポート世代だったら、インポートする際に各曲の名前と、あと演奏時間とかを見ることになると思います。そのときにこのアルバムは何曲入りで、そしてこの曲とこの曲がなんか尺長いな、アーティストのオナニー垂れ流し壮大プログレソングか?とか思ったりする訳です。するんです。する人もいるんですよ。「いちいちそんなん見ません」とか人の話の出鼻をくじかないで…。
で、この曲。明らかに突出している。なにせ9分もありますから。今自分のitunesを見る限りだと筋少の曲で最長。『いくじなし』(『SISTER STRAWBERRY』収録)の方が長いかなーとか思ったけど微妙な差でそんなことなかった。アルバム的には、筋少史上でも最高水準にハードで感情的なメタルソングが3曲続いたあとにこれが来るので、そこまでで既にお腹一杯気味なところにこの曲が執拗でどっしりした腹パンでとどめを刺しに来るような構成。ゲボが出るぜ。
さて、そんなポジションのこの曲が所謂“アーティストのオナニー系壮大プログレソング”なのかというと、半分そうだと言ってもいいかもしれない。いいやむしろ、この曲ほどの壮絶なオナニーソングが他にあるだろうか!?どういうことだろうか。
冒頭の「照射!」の連呼だけで既にこの曲の異様さは香ってくる。そこからの90年代後半ラウドロックの匂いもあるハードファンクな演奏をバックに始まる少年少女+おっさん合唱団という風情によるタイトルを含んだテーマ部の合唱は昭和のヒーローもののような凛々しいメロディで、この後のオーケンの脆弱で壮絶な語りのような、叫びのような歌唱と好対照を成す。
筋肉少女帯の、というか大槻ケンヂの歌にはいくつかの特性がある。二つ取り上げるとすれば、ひとつは楽曲中の総ての曲構造的な仕掛けや演奏が、歌の歌詞の印象を高める目的のために機能させられてしまうこと。この曲における機械のような鈍重なリズムや所々で浮かんでくるヒステリックなアコギやエレキの唸り高鳴りは、または次第に歌唱の展開が増えていくという巧みな曲構成は、まさにこの特性の最たるもので、総てをオーケンのこの曲における作家性のために捧げきっている。
そしていまひとつの特性、筋少の歌の排他性、とでも言えばいいのか。その歌詞の独特かつ毒々しくも朗々と歌われる怪しさと残酷さと虚しさのブレンドされた世界観に没入しすぎると、他のアーティストの普通な風景の歌詞が聴けなくなってしまうという特性。筋少は用法容量(アルバム一枚通してだけでも十分危険では…)を守って聴かないと、結構冗談抜きで健全なリスニング環境の妨げになるのでは…と思ってしまうことがある(そこまで濃厚なものを作れるオーケンの作家性な)。
そんな中毒的な特性のうちでも、この曲の効き目は格別だ。ただそれは、ある程度オーケンの作風に触れた、耽溺した上でこそ最高最悪の効果を発生させる。それはこの曲自体の楽屋ネタ・メタ構造、というかかつてないほどに過剰な自己言及性によるもの。
「やあ!詩人/最近なんだかマトモだなあ?
やあ!詩人/随分普通のこと言うなあ?
やあ!詩人/奇をてらったりしないのかい?
やあ!詩人/世の中すねてる歳でもないかい?」
「なんか賞でも欲しいのかい?あんた何様のつもりだい?」
「サーチライトのつもりかい?
サーチライトのつもりかい?
サーチライトのつもりかい?
サーチライトのつもりかい? 」
以下、野暮な解説を。
この曲でのオーケンは結局、自分の歌唱部分ではほぼ自己言及しかしていない。ここで彼は自身を「マトモじゃない詩を沢山書いて、その為に評価されたり、他人を救ったりする人物、というか詩人」と認識の上で、執拗な攻撃を加えていく。「普通になっちまったなあお前!」みたいな方面からのディスは、これは前々作『レティクル座妄想』でまさにピークを迎える筋少の退廃的・悪夢的な世界観の歩みを経た上で、今作の悲惨でありながらも比較的逞しく他者に何かしてあげようとする彼のスタンスを踏まえてあるのだろうか。
「いや、ちがう/我々が思うほど/この世界は
哀しくプログラムされちゃいない
何より/もうこれ以上君の周りに/不幸の存在を
俺は認めない」 (『小さな恋のメロディ』)
うんざりするほどの絶望を振りまきながら最後に“それでも”な救いを掲げる、という作品構造はまま見られる形式であり、感動的であり、同アルバム収録の上記『小さな〜』もその構造を高い水準で構築した曲である。であるが、それを彼は攻撃・自嘲する。
そして、そのような作品を作ってしまう自分の動機に、彼は踏み込む。「なんか賞でも欲しいのかい!?」という俗物根性を用意する。しかし、『レティクル座〜』みたいなアルバムをさえ作り挙句自身が鬱病になってしまう程の創作をする目的の重みは、そんな動機だけで背負いきれるものではない(この一文読みづらいな…)。
そして彼は、この曲中間部の、演奏が凪いだ辺りから始まる“語り”、稀に見る長さの語りで、その“業”な部分に手を伸ばす。ある意味身も蓋もない、こっ恥ずかしくもなりそうな、創作の秘密を。
ここでぼくは筆を置かねばならない。このオーケン一世一代の大演説を歌詞を掲載していちいち解説するのは、いくら愚かなぼくでも愚かすぎることだもの。ただ、ここにこそ筋少の、大槻ケンヂの情けなくも感動的な要素の根源が秘められていることは間違いない。まあそんなこと、こんな拙い文章を読まなくても、ファンの方々はとっくにみんな知っていると思うけれど。。。またはある種の使命感みたいなのでもって創作してる人とか。
語り終えた後、元の演奏に戻ってより強烈に、抉るように歌唱する彼の姿。身をすり減らすことを突き詰めたことでよりその消耗の度を加速させたかのようなこの壮絶さは、決してボーカリストとして天性に恵まれた訳でもない彼にしか成し遂げられない類の歌唱の最たるものだ。
「I'm fallin' fallin' fallin'/君は救ってくれるのかな?」
(『foolish』ART-SCHOOL)
突然、オーケンとはおよそ関係なさそうなアートスクールの歌詞を引用した訳だが、たとえばこういう問いかけがあるとして、そこで本気で、なけなしの屁理屈でもって救おうとするのが、詰まるところ大槻ケンヂの作家性の一端なのだ、ということ。『レティクル〜』辺りでどん底った前後に彼が、おそらくそれによって自分も救われるために、編み出した術のこと。
「香菜、君の頭僕がよくしてあげよう
香菜、生きることに君がおびえぬように
香菜、明日 君を図書館へ連れていこう
香菜、泣ける本を 君に選んであげよう
香菜、いつか恋も終わりが来るのだから
香菜、一人ででも生きていけるように」
(『香菜、頭をよくしてあげよう』)
この後彼が彼の別バンド特撮や『さよなら絶望先生』各主題歌等も含めた諸作品で、妙に身近で閉塞したシチュエーションと対置させ拮抗させる(しょっちゅう負ける)この類のヒロイズムこそ、彼の祈りなんだということ。そういうことなんです。そこを「現実は厳しい。なんだかんだで救おうとするオーケンは甘え」とか「オーケンの歌詞に救われるような奴はクズ」とか言って冷笑するだけの厭な人間には、死んでもなりたくないな。
この、結果わけ分かんなくなっちゃった文章の最後にひとつ。結論を「祈り」で文章を締めるとそれっぽく感動的になりますよ。ね。
「愛は祈りだ。僕は祈る。」
(『好き好き大好き超愛してる』舞城王太郎)
創作の秘密をぼくらの手に。レビューの機能・野望のひとつはその辺りにあるのかもしれません。
相当に久々になってしまったブログ更新は、さらに相当久しぶりになってしまった、あいうえお順になんか1曲取り上げてブログ書く企画のやつにします。投げ出した訳じゃないやい(もうやらないと思ってた…)
「こ」の段は、曲名では「恋の〜」とかでいくらでもいい曲があるけれど、でもやっぱ、久々の更新だったらなんかデカいのブッ込みたいですよね。というところからの、このチョイスにしました。
アルバム『Eclectic』は、90年代に渋谷系の中心人物として、そしてオシャレでキュートな“王子様”として、音楽好きからお茶の間までを射程に活躍した東大出の才人・小沢健二が、98年頃から活動を実質フェードアウトさせた後に、2002年に突如リリースした作品。それまでのポップで溌剌とした作品から一転、ひたすらにダークで密室的で術祖的なR&Bサウンドが展開されており、当時のファンから激しい賛否両論を受けた作品である(それでも次作『毎日の環境学』におけるファンさえも半ば無反応にならざるを得なさそうっぷりに比べたらマシでしょ…)。
作品解説は以上。あと最近ceroが収録曲をカバーしたりアルバム『Obscure Ride』のサウンドの参照元にしてたりで再評価の気運が高まっている。正直今このアルバムをディスってもいいことなさそうだ。いやこのアルバム好きだからいいんだけど。
あまり書きすぎるとこの記事が『今夜はブギーバック/あの大きな心』でなくてアルバム自体のレビューになりそうなので手短に追記すると、このアルバムの特徴(いびつさと言い換えてもいい)を思いつきで言うならば、「華奢な日本人が華奢なままで黒人ばりのR&Bをやろうとすることの不可能性」だろう。思想的な面で日本人が黒人的な“リアル”と全く同調することは困難であろうし、それが大学教授を親に持つ控えめに言っても“お坊ちゃん”と言われても仕方のない身である小沢健二ならなおのこと。
しかし、このアルバムはハナからそんなリアルなど求めていない。このアルバムにあるのは、乾いた概念や比喩に満ちた言葉の数々で“本質的でねっとりとした性”を描こうとする逆説めいたアプローチだ。それは直接的な肉体性というよりはむしろ、光と闇のファンタジーじみた、性の実験室じみた“非現実性”に傾いてる。身も蓋もないこと言うと、村上春樹っぽいというか…。
その思想面での「本来の黒人性からの乖離」が、音にも出ている気がして、それがこのアルバムを一層いびつなR&Bアルバムにする。音が全体的に、“本場の黒人音楽”と比べるとクリアな気がする。黒人音楽的な「くすみ」「暴力性」「ギラギラ感」のようなものがここにはない。それがこの音楽を“R&Bっぽいけどなんか違う、いびつで特別で非現実的な音楽”にしている(んだと思う)。ceroがディアンジェロと自分を結びつける触媒にこのアルバムを用いたとされるのは、そういった部分が関係あるかもしれない。
(以上、普段さして黒人音楽を愛聴しない人間によるアルバム評でした)
そんな寄る辺のない、妙な孤独と焦燥ばかり募るアルバムにおいて一番ホッとする瞬間が、この彼のかつての代表曲の再録であったことは、こればっかりはもう明らかだ。彼のキャリアの最も華やかなりし頃にリリースされ、その後日本語ラップの代表作にして最大級のヒット作品として大いなる存在感を今でも保ち続けるこの曲。
しかし、この新録では少なくともその「日本語ラップの名曲」たる部分、つまり原曲でスチャダラパーが担当したラップパートはごっそりオミットされている。しかし、原曲で結構な尺を占めるラップが全部削除されたのに、曲の尺はそこまで短くなっていない。
その訳こそ、このリメイクにて追加された歌詞、およびセクションなのだ。ぼくはこの部分がとても好きだ。
「やがて陽炎が空を焦がすこの街で/あなたに会えたよ
それを最高に感じる
南へ行く高速道路/あなたと下る時
欲望と愛の行方を見てる魔法のように」
原曲が持つ歌詞の情景はパーティー会場であり、その点でこの曲は本作の他の曲の多くの場面がベッドルームじみていることと異なっている。しかしながら、この新規挿入部により、この曲のストーリーはベッドルームへ向かう過程へと書き換えられており、他曲との接続が図られている。
ただ、そんなことよりも「やがて陽炎が空を焦がすこの街で」や「南へ行く高速道路/あなたと下る時」といったフレーズが持つ、「ああ、小沢健二っぽいなあ…」と思わずにはいられない類のダンディーな響きに惹かれる。そしてそれらは次の追加フレーズに吸い込まれていくのだ。
「あの大きな心/その輝きにつつまれた
あの大きな心/その驚きが煌いた
あの大きな心/その輝きにつつまれた
あの大きな心を!」
ここには結局、彼がかつて
「愛すべき生まれて育ってくサークル
君や僕をつないでる緩やかな/止まらない法則」
とか
「心すっかり捧げなきゃ/いつも思いっきり伝えてなくちゃ
暗闇の中挑戦は続く/勝つと信じたい今は!」
とか
「強い気持ち/強い愛/心をギュッとつなぐ
幾つの悲しみも残らず捧げあう
今のこの気持ちほんとだよね」
とか歌ってるのと、結局は同じことなのかもしれないなと。言い方は大人っぽくなってても。それは、チャラい言葉で言うならば、とてもエモいことだよな。
サウンド的にも、今作の他の曲のような変態おばけR&Bサウンドではなく、原曲のキラキラチャラチャラした部分こそ削ぎ落としながらも、幾分スタンダードで肉感的で小気味よくて落ち着いたソウルでファンクなアレンジが施されている。アルバムから浮きかねないくらいのストレートなアプローチは、ある意味この曲にかつてからと同じメッセージを載せてしまいたくなった、それを曖昧さで誤摩化したくなかった、彼の今作ではらしくない油断、もとい静かな熱さの現れなんだろうか、とか思ったり。
結局のところ、彼がライブ活動を再開させた際に演奏されたブギーバックは、本作のバージョンではなくかつての“J-Popのクラシック”めいた原曲バージョンだった訳で、現在の彼のライブ活動においては『麝香』くらいしか演奏されてない辺りにこのアルバムの悲しさの一端があるけれど、しかしそれゆえにこのアルバムの寄る瀬のなさ・孤独さとそれ故の崇高な感じはかえって高まるかもしれない。
ただ、近年の彼のライブを観てないので具体的に知らないのだけど、近年ライブで披露される新曲の数々というのが大変素晴らしいと聞いていて、自分は彼のライブは一般販売された『我ら、時』でしか知らないのだけど、
ここで聴くことの出来る新曲や最近の新曲などと並べたときに、よりしっくり来るのは、この「あの大きな心」バージョンなんじゃないかな、とか思ったりする。というか流石に原曲は94年の曲ですから、今聴くには流石に古いかなーみたいな、あと若いなーパーティーやなーみたいな部分もある訳で、当時よりもR&Bやらをよりシリアスに受け止められる今の我々からすれば、こっちのバージョンの方が楽曲としてしっくりくるところだと思ったりもする。
いずれにせよ、この曲のこのバージョンのメロウさや真摯さ、そして彼の宗教的とさえ言えそうな“人の繋がり”に対する哲学観が、とても好きだ。願わくば、原曲バージョンだけでなく、こっちのバージョンの他の人によるカバーとかも聴いてみたいものですね。そのような形などで、もっと語り継がれてもいいものだと思う。
私事ですが、仕事の都合で鹿児島に引っ越しました。
ブログに私事もクソもないか
なんか地震が来て揺れてるのでブログを更新してみます。
(後にこれを観ることになった方々へ:平成28年4月14日夜から15日にかけてなんか九州は全体的に揺れてたのです)
1. もといたとこにかえるゆめ
作詞を担当しました。
可愛らしい感じの曲にしっとりとキチ○イじみた歌詞が乗せれたので満足してます。特に2回目のヴァースは初期スピッツしてて自信作。コスモスって歌詞にも出てるし。
2. インナーグルーヴ
作詞作曲担当しました。
元々は私個人のサンクラに上げていた(今も別に消してないけど)『junkfood inner groove』という曲で、さらにその前にやろうとして結局しなかったバンドで別タイトルで取り上げてて(その時はストーンズの『Out Of Time』を目指したアレンジにしようとしていた)、さらに辿るとまだ学生の頃人生ではじめて野外弾き語りしたとき、その前日にさっと作った曲(歌詞がなんか性風俗の女のひとの話だった。なぜ?)で、多分このCDでも古い方の曲。たびけんさんに『junk〜』の方でカバーしてもらったりもして、嬉しかったな…。
イントロのイントロ部分はビーチボーイズの『California Girls』っぽくしたくて、その後は全体的に『Wouldn't It Be Nice』に拠った感じのアレンジ(シャッフル、一度サビを避ける曲展開、鉄琴とか)。ビーチボーイズの曲って時々ホントビックリなくらい幸せでいいですよね。アレンジ決め終盤に入ったトランペットがすごくいい。
歌詞は『junk〜』からそれほど変更はない、やけっぱち気味のもの。最後の曲に合わせて微調整。淡い喪失感があればいいなと。
3. メープルのマーブル
前作EPより。先行シングル曲的な位置。
4. 月は無慈悲な夜の女王
作詞担当しました。
本作で一番洒落た、難しいコード進行してる。弾けない…。最終的にとても品があってほわーんとした感じに収まったのはアレンジの人の力量。ソフトSF?終盤、紙めくりからの展開が寂寥感あっていい。
歌詞もそんな感じに沿って書いたつもり。「宇宙の色」辺りは引用。っていうかタイトルも引用。原作はまだ手に取ってないです…。
5. どこかに行きたい?
特に何も関わってませんが、この曲がこの位置にあるのはほっとします。地に足ついたまったり加減。オルガンのオブリがユーモラスで、こんなの全然思いつけない。
6. 彫刻刀
pitoという昔福岡にあったバンドの曲のカバー。原曲がmyspaceで聴けました。myspaceって…半ば郷愁。原曲のAdvantage Lucyっぽさはなんかなくなってる。ピアノとかのせい?ギターも意外とかき鳴らしてる箇所が少ないんですよ。ややジョニーマー的?こんなの弾けたらいいよな。曲調が今作で一番明るくて、前曲から続いてアルバムで一番快活なゾーン。
7. 世界はさみしさでできている
前作EPより。前曲からのギャップはある。いきなり歌詞に死体とか出て来るし。あと今作のぼくの曲で唯一ミドルエイト的な箇所がない。
8. バナジウム温泉キット
作詞作曲担当しました。自信作。
ぼくが今のとこ個人でやってるhasu-flowerの曲でも多いんですが、オープンコードのEの抑えを基調にずっと1、2弦解放のままコードを展開させる手法を最初にやった曲。なのでなのかほのかにシューゲ的な感触あります(当初はもっとシューゲポップにするつもりでしたが、蓋を開けてみるとこの二本のギターによるワビサビの利いたアレンジがとてもいい)。
曲展開は初回サビを抑えて二回目以降からぐわーっと広がりを持たせる、初期ART-SCHOOLが時折用いてた手法。サビ後のドラムも『プールサイド』意識なので、まあそういうことです。
歌詞は今作1難産した。一番スピッツしてると思うし、昆虫キッズ意識な部分もあったと思うし、あと丸々持ってきてるのが、フレーズでひとつ(サビ)と内容でひとつ(3回目ヴァース)。そういうのも含めて、もっとどうにかなったんじゃないかという気もするけど同時にとても満足してる。dipから「琥珀の〜」に繋げられたの達成感大きい。
あと、タイトル思いついた時は物凄く全能感あった。ネカフェで『ニッケルオデオン』読んでる時だった。ぼくは緑の巻が一番好きですね。
9. わたしの王子様
前作EPより。前二曲がやや暗かったので巻直し。剽軽なポップさがあり元気出る。
10. 磁気のあらし
作詞作曲担当しました。
この曲も、結構前(学生ロスタイムしてた頃?)に作って、割と今作のこれと同じようなアレンジで録音してひっそりと発表されたことがあったもの。アレンジこそ豪華になったものの、こっちは曲構成も歌詞もそのときから殆どいじってない。
何を置いてもビートルズ、っていう曲。メインのコード進行は『Something』(だった。後から知ったパターン)、メロトロンもあり、ピアノもあり、逆再生シンバルあり、リンゴがスターなドラムあり、そういえばギターの音色も末期ビートルズのジョージハリスン?曲自体も元から『Hey Jude』と『Across The Universe』を混合させたような。ただ、二回あるブレイクの箇所は私。
ただ、一旦曲が終わった後のリフレインのアレンジは、ジェントルではなくノイジーな拡がり。『Yankee Hotel Foxtrot』のイメージ。このアレンジがあがってきた時が今作で一番ぐっときた。
本制作で殆ど手を加えなかった歌詞は作った当時から自信作。
11. タウンバイザリバー
作詞を担当。タイトルは勿論もじり。
今作で一番儚くて切ない曲。アルバムの冒頭(近く)と末尾がシャッフルビートなのは偶然ではない(と思う)。エレピの音が夜の水滴のよう。
歌詞は短いけど、アルバムのこの位置ありきの、ささやかな締めになったと思う。結果的にだけど、岡崎京子の『リバーズエッジ』にだいぶ寄った感じになった。タイトル決まってから歌詞書いたから、無意識に引っ張られたんだろう。「川のそばでけむりが〜」のくだりはミッシェルの『サニー・サイド・リバー』。
ガールズポップ、と言うとなんか元気がありそうな響きがするのでもうちょっと用心して、少女ポップという単語を(妥当かどうかはともかく)用いて、そういう界隈で、変なたとえですが「これぞまさに少女スピッツ!」って感じの作品って、そんなに無い感じがします。なんだろう、やはり「少女」という単語が、概念が、「恋」とかそういう概念の引力に強く引っ張られてしまうのか、どこか「等身大」風なものになってしまう(それは女子が曲を書く場合に限らず男子のそれでさえも!)。そういうものが良いと、そこに生じる繊細さとか自然体とか何とかが賞賛される、という、ナチュラルな「可愛さ」なのか何なのか、そういうのをきっと世の中は好きで、今日も明日も君とわたしの爽やか果汁二人乗り、てな景色が憧れで理想で尊くて、みたいな世間だと、少なくともぼくは感じていて。
今作で、というか前作もそうだけれど、(ぼく個人がkalan ya heidiに対するいくらかばかりの貢献の中で)試みていることの大きな一面は、そういうのをひん曲げてしまうことだった。その着想、というかシンパシー的な意味では、やはり相対性理論(バンド)の存在感というのはとてもあった。あの人らが成し遂げたとても重大なことのひとつが、ゼロ年代オタク文化の煮詰まって脱力ったやつを丁度いい具合にテキトーな塩梅でSFだとか学校生活だとかに結びつけて投入することで、純情可憐な少女ポップの「素直さ・自然さ」の部分を徹底的に脱構築ってしまったことだ。調子に乗って脱構築なんて言ってみたが、要は「さも日常のように歌ってるが、お前みたいな日常があってたまるか!」ということだ。そういう意味でやはりやくしまるえつこ節(?)というのは少女ポップの歴史の中で(その指向性は異なっているにせよその効能とかなんか雰囲気とかそういうレベル?で)最も「少女スピッツ」的な要素だったのかもしれない。
この、ここでいう「スピッツ」的要素というのには注釈をつけておくべきだろうか。それは、「果てしない闇の向こうにOh!Oh!手を伸ばそー!」的に壮大な世界の話ではなく(それはそれで好きなので他意はないです)、確かに舞台設定としてはもっと日常、せいぜいちょっとした旅行、ピクニック的なレベルの旅行程度くらいまでの世界観において、しかし色んな角度、思いもよらないような角度から(少なくとも作り手は幾らばかりかそう願いながら)「不思議」が沸き出してきて非現実的に何かを変えてしまうような、つまり「不思議」が日常をさりげなくしかし実はエグいくらいにハッキングしてしまうような感じのそれを指す(ことにしよう)。
ここで少女ポップの世界でこのような試みをするときに発生する問題が、いわゆる「不思議ちゃん」属性に閉じ込められてしまうことだ。「不思議ちゃん」属性をここでは二つ想定する(パッと浮かんだだけ)と、
・「あーああの娘あんなに変なキャラつくっちゃってー」タイプ
・「うわ…なんか怖い…少女聴くのやめて家でパラッパラッパーしとこ……」タイプ
となり、これらのどちらかに深く入り込んでしまうと、それはそれでそういう世界観としてアリかもしれないが、「少女スピッツ」というイメージのバランスからは滑り落ちてしまう感がある。アイドルだと、目立ってなんぼの世界だし、不思議キャラなら前者寄りの方がグイグイくるだろうし、逆にアーティスティックになれば後者の方面で「女の業・少女の業」みたいなの(大森○子?)があるのだろうか。
でももし自分がそういうのに関わるなら「少女スピッツ」くらいのバランスがいい。
いわゆるインディーロックとかいう音楽の良さ、その中でも特にぐっと来るのは、さりげなくも貧乏貧相な日常くさい(少なくともゴージャスとは感じない)感じと同時に、何かが全然違っていて「あれっ?」って具合に目についたり、焼き付いたりする類のものだ。Pavementだって、Wilcoだって(Wilcoをインディーバンド呼ばわりは最早ムリか…?)、Deerhunterだって、中村一義だって昆虫キッズだってミツメだって、なんかそういうところだと思う(これが例えば大げさに言えばスマパンとか、Syrup16gとかART-SCHOOLとかだとやや話は違う気がする)。
別に貧乏貧相でもないと思うし、むしろ拘り抜かれて制作されている音はいいよもぎ菓子のように味わえると思うし、そして何と言ったってボーカル二人の声の澄み具合は最高だ。どんな汚い言葉を吐いても、エグい中身を歌っても、その響きは決して濁らないんじゃないかと思う。
だからこそ、できることがあったし、することができた。本作に関わることができて、とてもとても嬉しいばかりです。聴いていただく方にどう思ってほしいとかいうのはあまり口に出したくないが、「なんか不思議だな、でも悪くない感じに不思議だな」と思っていただければ、それは大成功なんだと思う。
無駄な駄文を久々に出してみましたが、とにかくいい作品だと思います。良かったら買ってください。手売りもありますので、ぼくに連絡いただければ(アドレスは右上プロフィール欄にあります。ツイッターでもOK)送料無料・まごころ(時にそれは物理的に)を込めて承ります。ので、よろしくお願いします。