1980年代のPrinceといえば、ファンクとかR&Bとかいう領域を超えて、時代のポップスターの一人として、Michael Jacksonのライバル的なポジション*1として絶大な人気を誇り、一方で前人未到の表現領域を切り開いていた挑戦者としての存在感が一番高かった時代でもあります。
この時代の彼の作品について下手な言及をするのはこう、色々と危ないんじゃないかなあ…とは思いもしますが、折角それなりに何か書けそうなくらい聴き込んだり調べたりができたので、前回の記事と同じ形式で、つまり概要やら簡単なアルバムレビューやらをしつつも、筆者の趣味としてギターにやっぱり目が行くので、それらに着目した30曲のプレイリストも込みで色々と書いていくのが今回の記事になります。
前回のはこちら。この形式で書くとクソ長くなること*2がこの前回の記事で証明されてる感じもしますが如何に…?とりあえず書いてて物凄く長くなることがわかってきたので、前編と後編に分けることにします。今回は前書き(これも長い)と30曲リストのうちの最初の10曲までを書いていきます。
はじめに:1980年代のPrince
前回の記事で「Princeのキャリア・特徴概要」ということでこの大音楽家のキャリア全体のことについて色々と書いたので、その辺については前回のそれを見てください。ここでは今回対象とする、1980年代の彼について色々書いときます。
1970年代のPrince
1980年代の彼を見ていくのに、幾らかはそれ以前の彼のことも見ておくと得があるかもしれません。
Princeは1978年にデビューし、最初のアルバムから全ての楽器・歌・コーラスを自分一人で担当するという、Stevie Wonder形式*3の制作体制で作品を作り上げています。しかしあまり売れず、2ndではやはり全曲自分で演奏した上でヒット曲も得て、しかしなぜかここでルックス面で全裸を選択し、変なキャラとして結果的に売り出されていくことになります。
この2作、全部自前演奏というのは確かに凄いと言えば凄いけど、作品として聴くと、1枚の中でR&B含め様々なことをして、高品質ではあるけども、1980年代作品以降の作品に出てくる「これPrinceだって嫌でも分かるな!」みたいなのはまだそんなに出て来ていない作品になっています。逆に言うと、1980年の3rdからいきなり、本人がどこまで計算してたか謎ながら、この濃厚なPrince色は現れて来ます。
“ミネアポリス・サウンド”について
本人がわざわざ2009年に『MPLSound』というド直球な名前を付けたアルバムを出している例があるように、特に2004年以降の、彼が過去の自身のサウンドをシグネイチャー的に見返すことが出来た際に立ち返るのが、俗に言う“ミネアポリス・サウンド”というやつです。
端的に言えば、“打ち込みのミニマムなリズム、かなりクリーン気味なギターのカッティング、そしてチープなシンセのリードフレーズにより演奏される、キャッチーなメロディをしたファンク”が、そのサウンドの特徴になります。“ミネアポリス”という大都市の名前が付いているためまるでそこのシーンで流行したサウンドのように思わせてますが、これはPrinceが当時、自分の作品はもとより様々な地元のアーティストをプロデュースし、それらでも同様のサウンド様式を用いたことで、擬似的にシーンを作り出したという、かなり規模のでかい自作自演によるところがあります。
一例を貼ります。これはギターはあまり聴こえて来ませんけども。
このスカスカ具合。打ち込みドラムの無表情で均一な単調さ*4が印象的ですが、これは同じく1980年代のR&Bで流行したブラック・コンテンポラリーのサウンドでも聴かれるものであり、もっと言えばロック界隈のニューウェーブ等でも打ち込み、もしくは人力でも打ち込みっぽくなるようリズムを録るなどもあり、時代の音じみたところがあります*5。
とはいえ、ミネアポリス・サウンドの場合、ある程度の幅でBPMが固定というか、そんなに極端に遅くなるイメージはあまりないところ*6。かつ、プリセット音をそのまま使用していたというシンセのチープな音色が引っ張るところもあり、この形式のサウンドは全体的にチープな、まるで“ファンクのパチモン”じみた仕上がりとなり、ディープなソウルとかそういう感じはあまりしないもの*7と思われます。ただ、代わりに即効性のキャッチーさが、彼のボーカルの回し方や重ね方の妙もあり、聴き手に人懐っこく刺さってくるところ。
ミネアポリス・サウンドについて一番気を付けるべきところは、当のPrince本人が実はそんなにこの手の楽曲を大量に作ってる訳ではないことだと思います。マジでそんなに多くない。そもそも大ヒット作『Purple Rain』からしてその手のサウンドが見当たらないし、その後もそれっぽい曲はたまにしか見当たらない、そういう不思議なところがこの音楽様式にはあります*8。もちろん、純ミネアポリス・サウンドなところから外れたPrinceのファンク曲にも凄いものが多く、というかむしろ外れて以降が物凄い気もしなくもないですが。
以下、2004年以降の本人によるミネアポリス・サウンドの再現例。
超多作・超何でもやる
ミネアポリス・サウンドという語だけで全然1980年代のPrinceを表現できないのは、彼が1980年代の途中から、そのような枠にまるで収まらないほどに多種多様な楽曲・アルバムを大量に制作し続けたためだと思われます。むしろ強引にミネアポリス・サウンドの範疇で呼べそうなのはせいぜい1980年代最初の3枚まででしょうか。
彼の多作っぷりは本当はアルバムの枚数分に表れている部分を遥かに超える量ですけども、単にアルバムだけ見ても、1980年から1989年まで、1983年を除いて毎年アルバムをリリースし、しかもうち2つは2枚組アルバムだという時点で、それだけでも相当なリリース量になっています。シングルのカップリングに突っ込んだ曲を含めて、彼が公式に1980年代のうちにリリースできた楽曲はゆうに100曲を超えます*9。
そして、それら公式リリースしたものの背後に広がる、大量の未発表曲の存在。これは彼の生前からもベスト盤でのちょっとした棚卸しや『Crystal Ball』などの未発表曲集などで色々と出て来ていましたが、ファンの間ではブート等でそれらを遥かに上回る数の楽曲が存在することが確認されていました。そして皮肉にも彼の2016年の死去の後に出たデラックスエディションにて、ようやく多少なりともそのサイズが掴めるようになりました。2017年の『Purple Rain』の際にCD1枚分、2019年の『1999』の際にCD2枚分、そして2020年の『Sign O' the Times』の際にはCD3枚分(!!!)というボリュームの「未発表曲集」が付属しました*10。それらにしても、同時期の未発表曲でブートで聴けたものの収録漏れがあることが確認されており、他のアルバムの時期についても未発表曲は大いにあるし、更にはアルバム単位でボツになった『Black Album』のような例もあります。他者への提供曲のセルフカバー集『Originals』もあります。とりわけ、デラックスエディションでリリースされた未発表曲についてはデモ音質・作りかけの断片みたいなのは全然なく、どれも完成した曲として聴けるものになっており、それらのクオリティはリリースされた楽曲と遜色ないどころか、時折「どうしてこれをリリース作品に捩じ込まなかったんだ…アホなのか…」と思うほど素晴らしい曲が平気であります。特に『Sign O' the Times』期はこの傾向が酷いくらい凄い*11。
特に1985年の『Around the World in a Day』以降は、Prince本人が売り上げを気にせずに、無限に拡散していくかのような自身の興味関心に沿って振り幅の広すぎる楽曲制作を繰り返し、その中で時代の先端となるような鋭いプロダクションを連発しているところもあり*12、それらについてはいちいち解説してもキリがない話になると思われます。
…とはいえ、1970年代の段階で幅広い曲調をカバーしていたはずで、その頃と1980年代と何が違うのかというと、それはPrinceの傍若無人っぷりということになるのかもしれません。平気でベースの入ってない曲やボーカルの音程を大幅に弄ったりするような曲を作ったりするのは、1970年代の頃は流石に無理でしょう。ファルセットからシャウトに繋げる、時折ギャグめいてさえ聴こえるボーカルも1980年代以降になってから出て来たもの*13で、ともかく、破天荒な結果を生み出した楽曲が1980年代の彼の作品にはゴロゴロあるということです。
ちなみに、そんな何でも凄いクオリティでやってしまう彼の凄さが率直に分かるオリジナルアルバム筆頭は『Sign O' the Times』、次点は『Parade』辺りかと思います。
“密室ファンク”なるターム
本来これで1個記事が書けるやつなんでしょうが。
Sly & the Family Stoneの1971年のアルバム『There's a Riot Goin' on』は、制作過程としては麻薬中毒に陥ったSly Stoneがスタジオに篭ってリズムボックス等を活用し、それまでの活き活きとしたバンドサウンドと打って変わった、オフビートで実に生気のないR&Bを作り上げたものになります。これが革新的だったのは、James Brownが発明しパワフルに伝導していったファンクの様式と真っ向から反発する、日陰者的なファンク感を世に生み出したことにあると思われます。変態的な感性が溌剌とした形で表出されず、むしろ自身を害するかのように毒々しく内側で渦巻くその様子は、見方によってはバッドトリップ的なサイケデリックとも言えて、それゆえに非R&B的な、もっとエクストリームなジャンルとも接点を持つことのできる、重要な発明品です。日本ではそれを時折“密室ファンク”なるタームで呼称する向きがあります。
Princeもまた、密室ファンクと呼称されることがしばしばある音楽家です。その原因として、制作環境が一人で完結していることはとても重要だろうと思われます。彼の場合むしろ、そんな環境で密室から平気で飛び出るようなパワフルな楽曲を作ってリリースしてるのは面白いところですが、それにしても、ドラムマシンを用いたベタっとしたリズムというのは、JB式のパワフルなグルーヴに比べればずっと“死んだ”音であることは間違いなく、なので、そのようなリズムを多用する彼の作品は密室ファンク的な性質をもとより帯びやすいところはあると思います。
彼の作品で特に密室ファンク度が高いのは、ミニマルな作曲が極まった『Parade』、ひとり量産体制の極みの中で何故か特にSly Stoneリスペクトなスモーキーな楽曲を多く作り出した『Sign O' the Times』及びこの時期の未発表曲、そして更なる内向きなファンクの追求に走った末にリアルタイム未発表となった『Black Album』辺り。そういえば、彼が音質にあまり拘らなかったためにローファイ気味な録音が多いことは、ことこの密室ファンクという要素に対してはプラスの効果がある気がしますね。
www.youtube.com今回ギター縛りのせいでプレイリストに入れれなかった名曲の供養。
最上級ポップスターとしてのPrince
これについて深掘りする気はないけど外せないのが、この時期に彼が「Michael Jacksonに対抗しうるビッグスター」として一気に成長したということです。Michaelといえばモータウン時代のJackson 5の頃から大ヒットし続けて来たスターの中のスターで、1982年のアルバム『Thriller』の超大ヒットにより時代の先頭に立った大スターとなっていた存在です。
Princeは同年ではシングル『Little Red Corvette』がスマッシュヒットをしてスターの仲間入りを果たした、くらいの存在でしたが、映画を伴って制作された『Purple Rain』が超大ヒットしたことにより、一気にMichaelに並ぶアフロアメリカンの大スターとして頭角を表しました。パフォーマンス面でも、Michaelに張り合うかのようにダンスを大きく取り入れつつ、ギターソロ等で好き放題モードにも入る、鉄壁のライブを展開していました。
ただ、『Purple Rain』以降出す曲出すアルバムが全部No.1ヒットになったかというとそんなことはなく、むしろPrince本人が『Purple Rain』の大ヒットでレコード会社に大きな“貸し”を作って以降はひたすら傍若無人に振る舞っていたような節もあり、売り上げ自体は正直どんどん右肩下がりにはなっています。それでも、激烈なライブパフォーマンス等もあって大スターの地位はずっと維持し続けるし、また彼の場合多作であり*14、他者への提供曲でヒットを飛ばしていること*15なんかもありますので、Michaelとの単純な比較はできませんけども。
それにしても、PrinceのNo.1ヒットの楽曲はかなりクセが強い傾向にあります。1980年代に4つある彼のNo.1ヒット曲のうち3つは後ほど個別に見るとして、残り一つの『Batdance』もバットマンとのコラボとはいえ、えらく曲調が変化し続ける変な構成の曲で、必殺の掛け声があるにしてもよくNo.1ヒットしたなっていう。
www.youtube.comジョーカーに扮したPrinceがすげえ楽しそうだからまあいっか。
1980年代のPrinceの各アルバム
順番に見ていきます。ちゃんとリリースされたもののみで、未発表作は完成していても含めていません。まんで丸々完成したアルバムのボツが複数あるんだよ…*16。
『Dirty Mind』(1980年)
ジャケットが前作の変態路線を継承してる感じでなかなかにキワモノですが、作品としては制作途中のデモテープをそのままリリースしたかのような(実際そう?)演奏のスカスカっぷりの中に、彼のポップセンスの骨組、そして遂にミネアポリス・サウンドの産声が聴こえてくる、また結果的に同時代のニューウェーブ等との呼応さえ感じさせる1枚となっています。時代が無茶苦茶前後しますが、彼にとっての『Is This it?』(えっこれでいいのか…?)的な作品だったでしょう。あとかなり高年のSteve Lacyの1stはそのスカスカっぷりでこのアルバムに対するリスペクトを捧げまくってる。
実にプリセットそのままなシンセに、アンプすら繋がず卓に直じゃないかとさえ思えるほど歪無くショボい音質のギター、デッドな録音のドラム、そしてこの時期はまだほとんどをファルセットでこなすボーカル、そして自ら録音エンジニアも務めると、そりゃそれらが集まったらスカスカな音響になるしかないじゃない…という組み合わせで開き直ったように楽曲が連発されていく。それでもA面についてはまだ前作までの洗練されたポップフィールを大いに含んではいる。けども、このスカスカな音で実に正面からポップソングしようとする『When You Wre Mine』は最早そういうコンセプトのインディーロックだろ、とさえ思える。
B面にて遂に、ミネアポリス・サウンド式のファンク『Head』が登場する。機械仕掛け的な単調なリズムの中をチープなシンセがリードをしつつスカスカの空間の中に生まれる不健康そうなファンクのムード。歌詞がアレな内容なのもまた露悪的な変態性が彼の1980年代モードへの移行を象徴する。その後もスカスカなひとりバンドサウンドを駆り呆気なくアルバムを終わらせる様には、決してリッチなプロダクションでは実現できない類のある種のクールネスが漂う。それは世界に無数にいるであろう、ベッドルームでチープなバンドサウンドを目指すという倒錯した趣向持ちにこそ深く刺さりうる。こんくらいチープだからこそ実現できるファンクがあるという事実、それ自体が金字塔。
『Controversy』(1981年)
前作で「これだったのか…!」と気づいた彼がその方向でブラッシュアップを掛けてきて、ジャケットでも彼のパーソナルカラーとなる紫色を着込み、ナルシスティックさが幕発するバラードも遂に登場する、大ヒットの準備が固まっていく、という具合の、過渡期的な作品。1980年代の他のアルバムと比べると立ち位置が少し微妙か。
A面に位置した冒頭3曲は強力で、タイトル曲は完全に完成を見たキャッチーさの塊のミネアポリス・サウンド。『Sexuality』は彼が何故か好きな駆け出すテンポ*17で無理やりファンクをやってるところがヘンテコで面白い、これもミネアポリス・サウンドの範疇か。『Do Me, Baby』は遂に満を辞して登場する、この後の彼の定番のひとつとなるねっとりした情感から始まりギャグじみた絶叫まで高まっていくスローバラッドの最初にして早速の完成品。もっとシュッとした形で洗練された出来にできただろうに、どうして激情を炸裂させてしまうのか、その微妙に職人になりきれない人間臭さこそがPrinceなのかもしれない。
B面はチープさが爆発していて、A面と力の入り方が明らかに違いすぎる。あまりにチープすぎるパワーポップ『Ronnie, Talk To Russia』は音質まで極端にローファイだし*18、語りメインの感じがいい具合に気味悪いニューウェーブ感がある『Annie Christian』など、よく言えば多様さがあり、まあ普通に雑にとっ散らかってる。見方によっては独特のローファイさを見出せるかも。
それにしても、音質に頓着なかったという彼の作品の中でも特に音質が悪い。というか録音レベルの時点から低い感じがあって、プレイリストを作る際にはちょっと選曲に困ってしまうところがある。
『1999』(1982年)
Princeがアルバムで最初にトップ10入りしたのはこのアルバムで、デラックスエディションからも明らかになった大量の極上品質のボツの山から彼がリリース作品として取り出したのは、ロングプレイを想定した長尺曲を多く含み、前作で完成を見たミネアポリス・サウンドの充実やそこからの実験を多く含みつつも、基本的にはシンセが特に目立つように選曲された感のある、LPだと2枚組の楽曲集。一応ここからバンド「Prince & the Revolution」名義になるけども、実際の制作は楽器演奏は殆どPrince一人で完結させる相変わらずのスタイル。あとCDだと1枚に収まったのか1枚組でのリリース。
冒頭に置かれたキャッチーなミネアポリス・サウンドの完成形その2という趣のタイトル曲は、しかしレコーディングの最後の方で完成したらしい。続いて1980年代ポップスって感じ全開の『Little Red Corvette』はこれだけポップス感満載でまあ浮いてはいると思われるけど、本作より後にどんどん明らかになる彼の卓越したポップセンスの先触れ的存在か。流石に音が古い感じが実に1980年代ポップス感。
単調なリズムの上で展開される長尺曲が3連発。LPだと『Let's Pretend〜』と『D.M.S.R.』で1枚目片面、『Automatic』が2枚目片面冒頭の配置。何を思ってこんな長い曲を沢山入れたんだろう、もっと短くすれば1枚にしたりもっと収録すべきだったろうボツ曲の中の名曲を収録できたのでは、と色々と考えてしまうけども、歴史にifはないので。シンセの使い方も、チープなポップスさだけでなく、神経質な内向性を発揮する『Something in the Water』みたいなのもあったりする。バラッドも、正統派な『Free』とそして後半の歌詞の悪ノリがイってしまってる『International Lover』の2つを何故か両方とも2枚目に収録。そして、必殺の人力ファンク『Lady Cab Driver』は今日においてもまるで古びない強靭さがある。
この時期のボツ曲は相当大量にあったらしく、シングルのカップリングもアルバム未収録曲が多く登場するようになる。ボツ曲の中には後にしっかりリメイクされてリリースされる楽曲*19もある。ギター重視の楽曲が多くボツになっており、個人的にはデラックスエディションの未発表曲集の方が本編より好きかも。『Moonbeam Levels』を生前未発表で終わらせるとかほんとどうかしてる…。未発表曲集やそれにさえ収録されなかった『Extraloveable』『Lust U Always』*20などを聴くと、この時期は特に執拗に単調なリズムと展開の上で曲を練り上げるスキルを急激に完成させた時期なんだろうと思われる。
『Purple Rain』(1984年)
映画制作と並行して制作され、ファンク要素を大概削ぎ落とした上で“新たなロックスター”としての自身を過剰に演出しまくり、歪みの効きまくったギターが随所に登場し、挙句終盤3曲はライブ録音という、唐突なくらい“ロックバンド感”がこれでもかと強調された、言わずと知れた大ヒット作品。実際クレジットを見ても、ライブ録音の3曲以外にも結構な部分を他メンバーに演奏させてる。一番大事な曲で他メンバーのクレジットが一切無いのは笑ってしまうけども。
冒頭『Let's Go Crazy』からして、シアトリカルな導入の後はこれでもかと1980年代式のハードロックバンド感全開のサウンド。ファンク?なんだそれ食えるのか?と言わんばかりの楽曲の連なりに、順番にアルバムを聴いていくときっと笑ってしまうだろう。このアルバムにファンクを求めるのはそれは初めっから間違ってます。ある意味、Princeによるロックバンドのカリカチュアなのか…とも思うけど、それにしては皮肉では無く実にベタにロックバンドをやり切っている。
そんな中で、彼の最初にして最大のヒット曲である『When Doves Cry』だけ異様な存在感を放っていて、まさにこれが完全Prince単独で録音された曲で、なんでこんな異質なものがあんな超絶大ヒットしたのか、相当に謎。その後はライブ録音3連発で、特に最後のタイトル曲の大団円を延々と引っ張る過剰すぎる演出がまた笑えるし感動する。
「こんだけ大ヒットすりゃ別にもういいだろ?」とばかりにこの後唯我独尊な作品を連発していくけども、本作から『Lovesexy』までを彼の絶頂期とする見方は多い。
生前に彼自身により選曲され死後リリースされたデラックスエディションにはCD1枚分の未発表曲集が添えられ、同時期にもファンク要素の高い曲は作ってたんだな、ということがしっかりと確認できる。そもそもシングルのカップリングとして発表されたりもしていて、つまり、アルバム本編ではそこまで徹底して“ロック以外を排除”してたんだと分かる。元々アルバムを2枚組でリリースする計画もあったらしく、そうなるとこの辺のファンク的な楽曲も本編として入ってくる可能性があったのかも。
『Around the World in a Day』(1985年)
唯我独尊な作品群の始まり。1960年代サイケデリック風のジャケットに納められたるは、まさにThe Beatles的なポップさも実験的無国籍感も取り入れ、更にはグラムロック的成分も取り入れ、かと思えば本当に信心掛かったゴスペル要素さえ盛り込まれた、楽器の種類が一気に増えた、ファンクかよく分からないどころか、前作のロック全開さも捨て、割とサイケポップじみたカラフルな情緒を含む、現代の用語で言えば、歪なチェンバーポップ的傾向を比較的多く含む作品。チェンバーポップと思って聴くと、むしろ過去の存在がチェンバーポップ概念を傍若無人にハックしてるような痛快ささえあるかもしれない。
冒頭の無国籍調なタイトル曲の時点で「本当にPrinceの作品なのか…そうだとしたら何やってんだこの人…」という感じがするけど、それはそれとして実に完成度が高いことに気持ちが変に捻れていく。『Paisley Park』『Raspberry Beret』という2大ポップソングに挟まれてえらくスピリチュアルなバラッド『Condition of the Heart』が置かれてたり、急にファンクさを取り返す『Tamborine』『America』の2曲の存在が逆に謎だし、トドメのような素晴らしいポップソング『Pop Life』はギター不使用のため今回のリストに入れれないのが残念でならない名曲だし、ゴスペル的な真摯な『The Ladder』の直後にその余韻をグッダグダのブルーズ『Temputation』で自ら破壊する。全体的にアルバムの流れに「?」が浮かぶ、やりたい放題の曲順の中に、かえってそう演出したい作者の意図を淡く感じもしたり。それにしても『Temputation』終盤の展開はアホすぎるけど、これはどこまで本気なんだ…。
本作のリアルタイムの売り上げは前作の半分だったらしい。そりゃそうもなる。けどもそんなこと何も気にせず、彼は彼のやりたい放題の道を、レコード会社の制約を受けながらも*21歩んでいく。
『Parade』(1986年)
ファンの間で最高傑作候補として挙げられることが多々ある1枚。それは本作に他作品と比べても突出したコンセプチュアルな側面が見出せるからだろうか。ファンク要素が大いに復活した上で、作曲の方法論を紐解き、解体し、限界を求めるかの如く極端な引き算が施された編曲を沢山含み、かつ全体的に短い尺で抑え、かつ全然趣の異なるポップソングやインストも散りばめられた、ミニマルな楽曲で編まれたコラージュのような作品集。実験的な度合いでは、制作過程により様々なものが混合する『Sign O'〜』よりも濃度が高くなっていて、そこにこそ最高傑作性を見出しうるのかなと。そしてジャケットは所謂ジョジョ立ちの中でも最メジャー級なものの元ネタ*22。
冒頭からしてセレモニー的な楽曲ながら、どこか機械的な作りと、2分少々であっさり終わってしまう様に、そのドライな編集感覚が伺える。続く『New Position』が早速リズムとスティールパンめいた何かとベースとボーカルのみで構成された骨々しい構造をしていて思い切りが良すぎる。本作では『When Doves Cry』的な思い切った楽器選択が普通だという状況。映画サントラの側面もあるからか、そのタイトル曲『Under the Cherry Moon』はPrince的コテコテバラードから離れた、彼の器用さをさらりと表現する。けど、その直後に、あまりにPrince的なふざけ切ったファンクの『Girls & Boys』が始まるのには笑ってしまう。この曲や、ミネアポリス・サウンドを水墨画的にシンプル化した極地のNo.1ヒット『Kiss』に見れる音の出し入れ感覚は、彼がファンクにサンプリング的感覚をヒップホップと微妙に異なる方法論で見出した記念碑的作品で、この辺から彼のファンクはいよいよ前人未到の領域をどんどん開拓していく。
こんなやりたい放題のコラージュめいた作品のくせに、終盤にはしっかり作られたR&Bポップス『Anotherloverholenyohead』に、そして本作の締めとしては卑怯が過ぎるであろう丁寧でアコースティックな作りの落ち着いた名バラッド『Sometimes It Snow in April』が置かれる。それまでの方法論的ローファイめいたコンセプトはどこ行ったんだという丁寧さ。終わり良ければすべて良し、という言葉を彼が知ってたか知らないが、まさにそんな感じ。この作品から自然に出てくる締めやないやろ、という笑い。
『Sign O' the Times』(1987年)
凄すぎ。LPでもCDでも2枚組となる分量に含まれた、彼の真摯さなりおセンチさなり思い詰め切った変態性なりが多種多様に表現された濃縮密室ファンクなり、当代随一のポップソングなり、「なんでそんなアレンジにしたの…?」となる思い切りすぎた実検作なり、“本物のR&B”を正面から演奏する名曲なり、ともかく色んなものが次々と現れては通り過ぎていく、極上の混沌が商業ベース上ギリギリで許される範囲で詰め込まれた約80分。2枚のアルバムをボツにした末に出来た3枚組『Crystal Ball』をレコード会社の求めに応じてさらに厳選して2枚組にしてようやくリリースできた作品*23。
本作についてそのいちいちを説明してたらそれだけで数万字を要するだろうし、本作の数倍の量がある未発表曲について触れだすともっと大変なことになるし、まるで収拾がつかないので、この辺の話はそれこそまた別の機会にちゃんと書こう…。
『Lovesexy』(1988年)
1987年、超大作『Sign O'〜』をリリースした舌の根も乾かぬうちに、より内出血的な密室ファンクにのめり込んだ『Black Album』を制作し、年末にリリース、する直前で「やっぱなし」と引っ込められ、その8週間後に全然収録曲も趣も違う作品としてこれがリリースされた。ジャケットからして「うわ…」ってなること請け合いだけども、作品としては、前作で一気に増加した手管を“愛”のコンセプトと1980年代的プロダクションの下に再結集させ、基本ポップな調子ながら、1曲の中で様々なサウンドの出入りを縦横無尽にやり倒したりと、自由さとコンセプチュアルさを両立させた、集中力の感じられる一作。本人の集中力への思いが強すぎてか、長らくCDでは全9曲を1曲のトラックとして扱い、自由な曲選択や選曲を封じてさえいた作品。不便だったけど、いつの間にかサブスク上でも曲単位で聴けるようになった。本人死去ゆえかもだけど、便利な時代だ…。
本作の楽曲にはちょうど『Parade』収録曲と真逆の印象を受ける。あちらが1曲の情報量を極度にカットした性質のものだとすれば、本作は1曲ごとの情報量が半端ないことになっていて、実に濃密。かつ、短期間で集中して作成したためか、楽曲としての方向性も程よい散らばり幅に抑えられていて、1枚の作品としても濃厚なものを感じられる。だから全曲1曲みたいな暴挙に走ったんだろうけど、それは製作者の自信の表れでもある。そしてそれだけのことある作品であることは間違いない。それにしてもリードギターの歪んでリヴァーブな感じといいシンセの音色といい均一にゲートエコー盛りで響くスネアの音といい、ここにきてえらく“典型的な1980年代サウンド”っぽい音が増えてるのは何だろな。
この後のリストにおける本作からの選曲が結構多いのでアレだけども、スピリチュアルな語りからP-Funkもかくや、という猥雑ファンクをバッキバキに行う『Eye No』の時点から全開で、その流れが、幻想的だったり厳かだったり獰猛だったりと様々な曲調の変化を経た上で、曲タイトルの割にはそんなにポジティブに聴こえずむしろ胡散臭い宗教感すら漂わせる『Positivity』で終わる流れは、ここに来て彼が、シアトリカルだったからこその一貫性の『Purple Rain』以来の、自分の思想で染め上げ切った形での一貫性ある作品を成し遂げた、という感じがする。売り上げはジャケットのことなどもあり比べるべくもないくらいだけども。
多くの人が、Princeの最盛期は本作まで、といった視点を持っている。筆者もそれを積極的に否定したいわけじゃないけども、じゃあこれ以降、1990年代以降の彼の作品がつまらないものばかりかというと全くそうではない、ということは、前回の1990年代Princeの記事でそれなりに説明できたつもり。
『Batman』(1989年)
1980年代のうちにもう一枚『Rave unto the Joy Fantastic』という力作アルバムを作ろうとしたがなんか頓挫、その後アメリカのコミック文化を代表する存在であるバットマンの映画のサントラの話が来て、テンション上がって勝手にサントラ的な作品としてアルバム1枚分作ったのが本作。実際の映画では別に使われてないらしいけども、売り上げとしてはここで『Purple Rain』以来のそれなりのヒットを得たという。
そういうことで舐められがちな作品だけども、ドラムマシンやシンセが多用されたマシーナリーなリズムの上で、案外よくギターを弾いてる場面も目立ち、全体的にキャッチーな仕上がりで、バラッドも複数収録、更には局所的に『Sign O'〜』『Lovesexy』のやりたい放題感の残滓も見られるという、なかなかの作品集に仕上がっている。
アルバムには随所に実際のバットマンの映画から引用された音声がサンプリング的に収録され、全編徹底的に機械的なドラムを敷き詰めた硬質な音は、今の時代から見ると少しばかりレトロフューチャーな光景にも見えるかも。シンセの音は全体的にフワーッとしてるものの、その隙間を縫ってギターもベースもちょこちょこファンクを効かせるところに、ファンク要素の挿入方法の教科書めいたものを見出しうる気がする。
それにしても、全体的にサイバーメタリック“風”な質感。どこかで似たようなの聴いたことあるなと思ってたけど、Smashing Pumpkinsの『Adore』『Machina』かも。一時期のアメリカ映画的サイバー感って、こういう音に収束するのかも。もしくはスマパン側が本作に音を寄せた可能性もあるけども。
1980年代のPrinceのギターに偏った30曲
ここまでで既に相当な文字数を垂れ流してしまったけども、一応ここから先が今回の記事の本編です。1990年代の時と同じく、「どこかしらギターが入っている」楽曲のみで30曲を選曲しているため、ギター不使用の数々の名曲が選曲できないのは本当にいいのか…?と思いつつも、今回のリストはこんな感じです。選曲は大変苦しみました。
なお、いくつかのリアルタイムで公式未発表な楽曲を含みます。まあある程度以上のファンはブートで聴いてたっていう話らしいし、有名な未発表曲は実質リリースされてるようなもんやろ(???)。ただ、デラックスエディションや『Crystal Ball』収録の『Sign O'〜』期の未発表曲群については思うところがあるので今回含みません。
そして、長くなり過ぎたので、今回選曲の30曲をまとめたSpotifyプレイリストは後編記事の最後に掲載します。
ロングバージョンとショートバージョンの選択について
ファンクは反復の音楽であることからか、Princeは時に、ポップな曲だろうとハードな曲だろうと、延々と演奏を繰り返して長い展開を作ることがあります。シングルだと短くされたり、またはシングルにロングサイズの別バージョンが含まれてたりします。
個人的には冗長になるよりは短くサクッとした味わいが好きなところもあるので、以下のプレイリストでは、ロングバージョンの展開が冗長に思えたものについてはショートバージョンを選んでいます。ただ、いくつかのショートバージョンは「そこで切るのは良くなさすぎやろ…」と思えるものも結構あるし、ロングバージョンにこそ一番の聴きどころがあるという場合も結構あるので、そういうのはロングバージョンを選んでいます。
#1
最初の10曲はPrince流ファンクが漲ってる10曲を選びました。
1〜5
1. Controversy(from 1981『Controversy』)
ケーブルが刺さってない明らかに当て振り演奏ながら、演奏に合わせてマイクスタンドを振り下ろしたりする様がエンターテイメント。
上述のとおり、ポップささえ兼ね備えた形のミネアポリス・サウンドを手に入れた偉業をそのままアルバムタイトルにも転用したかのような、ギターとシンセとベタっとしたリズム、そして多重コーラスが非常にバランスよく混ざり合う名曲。これ完成した時は本人色々スッキリしたんじゃなかろうか、と思えるくらいスパッといい曲。歌としても聴けるし、少しドライ気味なテンションのファンクとしても機能する。
まず最初のアタック一発。シンセとベースとキックを短く重ねたこの一発で強制的にリスナーを引き付けてくるこの仕掛けは単純にして強力で、思えば2nd以降『1999』に至るまで彼はアルバム先頭曲で毎回同じ仕掛けをしている。というかこの曲に限って言えば1枚前の『Dirty Mind』とやってることはほぼ変わらない。
しかしこの曲の、キックとシンセベースで単調に溜めてからの、シンセリードとともにギターカッティングが硬く鋭く花開いていく様は、ある種の“様式美”を遂に掴んだ者の自信を感じさせる。規律的なカッティングと、チャチさと少しの妖艶さを含んだシンセの織りなすそれは、まさにミネアポリスサウンドと本人が呼称させ、そして何より後世が語り継ぐことになる類のものだ。
シンセにしても、規律的なヴァースに合わせた固い音と、サビの少しばかりの開放感を示すパッドとの対比の付け方も鮮やか。シンセと分厚いコーラスがメインでありつつも、間隙から飛び出すギターカッティングもまた鋭く、この曲のサビは非常にキャッチーなもの。徹底的に規律的に重ねられたようなコーラスだけども、リズムとギターだけのブレイクセクションを経て展開される終盤サビでボーカルがソウル的なアドリブを決めて抜け出してくるところも実に格好いい。ギターもここぞとばかりに変な歪み方で鋭いフレーズを放ち、この曲、ショートバージョンなら3分半程度の間、聴きどころじゃないところが全くない、素晴らしい密度。ロングバージョンだと信仰、そして一切の束縛のない世界観を望むことについて歌うでもなく言及するパートが追加され、テイストが少し変わってくる。演奏も完奏するし*24。
歌詞についてもこの曲はシャープに纏まっている。「論争」というタイトルをして、賛否両論であったろう当時の自身の「とりあえず脱ぐ」芸風もネタにしつつ、しかし端的に当時まだシビアであったであろうことに言及する。
皆が論争扱いするもの全て ただただ信じられない
ぼくが黒人か白人か? ストレートかゲイか?論争
ぼくに信仰があるか? 自己本位主義者か? 論争
ロングバージョンの終盤に出てくる、詠唱じみて繰り返される歌詞が一番言いたいところなのか。
皆ぼくを失礼なやつだと呼ぶ 皆が裸のままならいいのに
黒人とか白人とかいう概念なけりゃいいのに
ルールなんてなけりゃいいのに
2. Erotic City(from 1984 Single B-side of『Let's Go Crazy』)
ファンク曲がほぼ消滅したアルバム『Purple Rain』の時期においても別にその手の曲を作ってない訳じゃないんだよと、シングルのカップリングで証明する。コンプか何かによって変に音階めいた音が反復する打ち込みのリズムに、音数絞ってスカスカなマイナー調の怪しげな中を女性ボーカルやボイスチェンジャーまで用いたキャッチーな歌を添える淡々としたファンク曲。アルバム本編ではほぼ見せていない「ファンクをどう自分流にスカスカした形で再構築するか」という実験の過程においても重要な1曲のように思える。エロというよりも退廃感寄りな感じの仕上がりな気はするけども。
アルバム本編では生ドラムが多用されている裏で、この曲では打ち込みの均一で冷たいリズムを応用した実験が冒頭から繰り広げられる。様々なリズム関係の音色を並べて変な音階みたいなものを生じさせ反復するその様子は、日本のMoonridersが似た時期にやってるのとほぼ同じ類のこと*25。そしてささやかなチープシンセが入り、楽曲内の音がスカスカなままマイナー調の雰囲気を醸し出して、歌に入っていく*26。
歌が始まって、全然Princeの声じゃないことにすぐ気づく。初めからどうもボイスチェンジャーで無理やり低音男性ボイスを出力しているらしく、その不穏なテンションから本当にゲストボーカルのSheila E.による少し華やかなメロディラインへ交差していく具合がこの曲のキャッチーさを生んでいる。不穏に揺れるシンセで少しばかり伴奏が補強されたSheila E.パート、その初回の女性ボーカルの合間でまた出てくるPrinceの声は、今度はボイスチェンジャーで少し高い不自然な声になっている。途中からいよいよ露骨にボイチェンな赤ちゃんボイスまでコーラスで出てきて、この曲本当に色々好き放題にやり倒している。っていうか、低音ボーカルはバンドメンバーじゃねえのかよ。『1999』とかと同じ形式じゃないのかよ。
この曲におけるギターは最早メインの伴奏という感じではなく、そういえば聞こえるなレベルの音量と細い音で、ひたすら細かいカッティングを挿入し続ける。音が小さいことと伴奏のコード感が薄いことをいいことに本当に様々なラインをともかく挿入し続ける様子に、カッティングフレーズのアイディア無尽蔵だなこの人、と静かに驚かされたりする。本当にかなり無駄気味に多彩で、その無駄スレスレの手数が面白い。
ショートバージョンの方も十分に完奏感がある*27が、ロングバージョンはよりEQを極端にいじった・フィルターを極端にかけたみたいな変な音が跋扈する静かにカオス気味な展開が用意されている。
歌詞の方、冒頭から「我がこの紫の人生」などと宣ってるけども、恋人との関係性で1980年代の彼の作品で時折出てくる「子供を作ることが“真実の愛”とは限らないだろ」というテーマが出てきている。
我がこの紫の人生の全てにおいて
我の伴侶となりたい女性を探していた
それこそが我が主たる意志であった
(子供は作れなくても 時間を作ることはできるかも)
とても愛しい 貴方と私 エロティックシティ 色めいて
(夜明けまで交わって 処女性が失われるまで愛し合う)
エロティックシティ 分からないか?クッソ可愛い 貴方と私
映画と並行している時期の曲だからか幾分演劇的なところはあるけども、彼のどこか歪んだ、かつそれこそが真実の愛への道なんだと真剣な要素はこの曲にも少し流れている。多分。
3. Kiss(from 1985『Parade』)
ミネアポリス・ファンクのスカスカさを極限まで突き詰め、ベースさえ抜いて、やたらでかいスネアと何の音なのか判然としない音の反復で形作られるベーシックなブルーズ進行の上でキレたファルセットとコーラスワークを通していく、1980年代Princeの極端なアレンジの極北にして、しかし奇妙に味わい深いキャッチーささえ生じさせることに成功した、全米No.1ヒットの大名曲。彼の5曲ある全米No.1ヒットのうち2曲がベース入ってないっていうのはホントおかしい。これがNo.1ヒットになるアメリカもなかなか不思議だけども面白いことだ。
妙なエフェクト*28を纏った短いカッティングの後に、掛け声と同時に鳴らされる妙に音量の大きいスネア。いかにも打ち込みな均一性を持ち、1980年代的なリヴァーブもなしの実に素っ気ないスネアの音。キックもハットも機械丸出しの音色で、ハットが少しばかり波打つように連打される以外は実に単調なリズムの上で、伴奏は心細さが極まっていて、何の楽器で鳴らされているかまるで見当のつかない妙な振動みたいな音のみ*29。ベースすら入っていない。このささやかな伴奏もディレイやリヴァーブはまるでなく、素っ気ないままに鳴るものだから、楽曲にはスカスカな空間を素っ気ない音が機械的に反復を続けるだけの空間が広がっていく。
そこに飛び込むのが、時系列順で行くと結構久々にファルセット全開で歌うPrinceのボーカル。この声もまた、次第にコーラスが厚く重なっていく以外はノンエフェクト気味なため、ファルセットなのもあって、特に最初のヴァースは不安になるくらいにスッカスカな時間が過ぎていく。楽曲のコード進行もまたシンプル極まっていて、この曲はただのブルーズ進行で形作られている。伴奏の謎楽器の僅かな音階の変化で確かにコードの変化はどうにか感じられるものの、ひたすらファルセットで捲し立てるボーカルの前ではさしたる劇的な変化には感じられない。
ブルーズ進行で言うところの「Ⅴ→Ⅳ」の動きの繰り返しがサビに充てられ、ここになるとコーラスが分厚く被さり、ここに突然の楽曲のダイナミクスが現れる。それほど派手な変化ではないけども、確実に音は厚くなり、そして明確に変化したメロディでもって畳みかけ、イントロと同じカッティングをバックに、沢山のキス音*30を経てタイトルコールに至る。曲構成としては間奏を除けばこれだけで構築されている素っ気なさについて、それでも全米No.1ヒットになることが全く分からなくもないキャッチーさは確かに宿っていて、それはボーカルの過剰さであり、演奏の素っ気なさすぎる様はむしろそのボーカルの過剰さを相対的にエンハンスしてると見做せる。
最初のサビ後の間奏はイントロと同じく素っ気ないが、その後は段々と音が増えていく。次のヴァースはコーラスが歌の合間を縫うようになり、またコーラスに歌詞を任せて変なアドリブをボーカルが取ったりもし始める。この辺からボーカルのテンションがだんだんおかしくなってくる。2回目のサビではボーカルはどんどんメロディを外していき、少し叫びさえもする。僅かにキーボードの加わった間奏の後にブレイクを挟み、満を辞して、細く鋭いクリーントーンのギターカッティングによるソロが始まる。ソロ後半はワウも使われるが、全然歪んでないギターなので効果が実に渋い。
最後のヴァースが始まって以降はもう全開で、テンションも色々と吹っ飛んでる。ここから先はずっとコーラス帯同で、さらにカッティングも伴奏に加わって、そしてボーカルのテンションはもはやメロディを華麗に描くことを放棄し感情任せに暴走を爆発させ始める。最後のサビではファルセットのままシャウトするような訳分からんことをして、そしてブレイクにボソッとタイトルコールをした上で、楽曲は呆気なく短いフェードアウトの後に終了する*31。この素っ気なさの貫徹っぷりと、終盤の理不尽な爆発っぷりの両立こそが、この曲が持つ異様な魅力のなんか大事な部分なのかもしれない。
歌詞は、前半は「偉大なるこの俺の女にしてやるよ」的なストーリーで進むも、後半のテンションが爆発するフェイズになると妙に受動的なところを見せるのが実にPrince的に思える。
女性 少女じゃないよ 女性はぼくの世界を統べてしまう
ぼくの世界は女性に統べられちゃうんだってば
年齢なりに振る舞いな ママ 靴のサイズ並じゃないよ
ぼくら くるくると絡まってられるかもね
ただぼくに身を任せな この愛は…きみのご馳走さ
ぼくの恋人になるのに金持ちとかどうでもいい
ぼくの世界を統べるのにクールかどうかなんていい
特別なサインもいらない ぼくはもっときみと好相性さ
ただ欲しいのさ きみとの特別な時間 そしてキスを
Princeは変に脱いだりすることはあっても、決してマッチョな肉体に向かわなかった、ワイルドなキャラに(映画『Purple Rain』上のキャラクターとして以外で)なろうとしなかった。セックスを求めつつも、どこかもどかしさを抱え、誠実さを見出そうとした。こんな大ヒット曲にも、そんな彼の影が密かに潜り込んでいる。
ライブでは流石にベース抜きって訳にもいかないだろうから、様々な演奏が追加されてド派手なファンクショウになる*33。けども、スタジオ版のこの極まったミニマルさだからこそ出せる味が確実にあって、そしてその味はこの曲でしか味わえない類のものだろう。
4. Housequake(from 1987『Sign O' the Times』)
『Kiss』に代表される引き算の美学のアルバム『Parade』の後、Princeはかつては自分で演奏できないから使用しなかったホーンを多用するようになる。また、回転数変化によるボーカルの変化も好んで使い、そこに自身のアルターエゴを見出した彼はこの曲の出来の良さをきっかけに、結局未発表となるアルバム『Camille』制作に向かうけどもそれは別の話。そのきっかけにもなった彼の自信作のこの曲は、鈍く重く絞った単調な打ち込みのリズムの上で自在にギターカッティングとアタック強めのシンセとホーンを絡ませ、そして躁状態のテンションでラップじみた歌唱で、その変調した声を存分に叩きつけていく、ハイテンションファンクな名曲。
冒頭からリズムの音が変。奥で何かをブッ叩いてるみたいな鈍い音の、一定の規則性と乱暴さを持った反復が始まる。その上で掛け声を放つ妙に不自然な声質の主、これこそが、彼がアルバム1枚分やりきろうとした、ボイスチェンジャーによって声を高くすることで生まれたアルターエゴの“Camille”だ。こんな変な声なのに、コールアンドレスポンスでテンションをぶち上げて見せ、ひたすらハイテンションでこの曲を引っ張り続けていく。女性性を手に入れるためのボイチェンの割には全然女性っぽく聞こえないけども、そんなことお構いなしにひたすら捲し立てていく。この曲はそんな彼の歌とも語りとも割り切れない勢いと演奏の掛け合い、それに尽きるし、それで余裕で4:40の尺を引っ張り続ける。ヒップホップと呼ぶには何か微妙にズレてる感じが実にPrince。
サイクルの頭でとりあえず鳴らされるオーケストラルヒットの少し時代かかった音も気にならないくらいに、楽曲には異様な空気感が流れ込む。延々と同じ音を垂れ流し続けるオルガンに催眠作用めいたものを感じる。これのせいでスカスカと言うには妙に淀んだ空間に、鋭く差し込むようなギターカッティングやホーンセクションのリフが適宜叩き込まれ続ける。それは古くからあるJames Brownスタイルでファンクの王道ではあるけど、変な浮遊感をもたらすオルガンと、その土台となっている打ち込みの単調なリズムと、そして変なトーンになった声とが異様さを加速させ展開させていく。曲構成などもはや半ばないようなそのワンコード上での畳みかけは、特にギターとホーンはコピペじゃなかろうかとも思えるけども、そんなこと気にしない作り手=歌い手のテンションの高さで、平気で乗り切っていく。始まりと同じ「Shut up already, damn!」のフレーズで曲を悠々と閉じてみせる様には、異様にハイな自信が輝いている。
タイトルの“Housequake”は「みんな踊ってフロアごと揺れてるぜ」みたいな意味合いだろうし、そう言う感じのことしか最早歌ってない。ワイルドに歌おうとしても素直に歌おうとしても拗れてしまう愛のテーマすら出てこない。己の快楽中枢のみに従って出力された曲でありサウンドであり歌詞なんだろう。刹那的で、それこそが真実だと言う一瞬、それを永遠にしてしまう暴力的な装置。
みんなでシェイク&クエイクだ
なにせここで出来うる最低最悪のグルーヴを手にしたんだ
おれたち そしてお前たちみんなで
ドラマーが叩いたら 最高までブッ跳べるかチェックだ
そう これこそ真実 ハウスクエイク
さあ言えよ(ハウスクエイク!)着いてこれねえのかい
この地上で最低最悪のジャムをするんだぜ
みんな黙ってバンドを聴きな ハウスクエイク
もう黙れ くそったれ
5. Alphabet St.(from 1988『Lovesexy』)
この映像合成のチープさが1980年代感。それにしてもチープすぎる。狙ってんのか。
『Sign O'〜』に至る過程で様々なサウンドを実践したPrinceはもはや何でもかんでも自在に様々なサウンドを使いこなせるようになり、それが未発表アルバムを1枚挟んだ後の『Lovesexy』に帰結する。この曲は、反復するギターカッティングを軸にしつつ、曲進行に沿って変なギターリフだったりコーラスだったりホーンだったりが次々と現れて、そして後半はゲストのラップやあまりにヘンテコなジングルめいたものの挿入、そして最後のあまりにバカバカしいオチまで縦横無尽にネタをかましまくる、カオスさに溢れた、バカで自由奔放すぎるファンク曲。この曲はシングルの尺では後半のカオスが出てこないので、アルバムに収録のフル尺完奏バージョンが大変重要。
『Lovesexy』はドラムの音色の幅が広いアルバムで、ゲートリヴァーブ増し増しのスネアの音の曲もいくつか入ってるが、シャープなスネアの音の曲も多い。あこごえの後に始まるこの曲のリズムは、むしろクラップ音に近いような弾け方をするスネアと、バタバタしたキック、そしてハットの代わりにカウベルが入るのが特徴で、この時点で妙に賑やかで開けっ広げな感じがある。そう、この曲は形式的にはファンクだけど、よくPrinceが言及される“密室ファンク”とは真逆の、ライブハウスとかホールでもない、大通りのファンクというか、パレードみたいな曲だ。パレードの道筋を作るように鳴るギターカッティングはかなり大味で、普段の鋭さは影さえ見えないくらい大らかで、何よりもコード進行をしっかりと作ってる。そりゃあ「みんなの歌」的なパレードだもん、怪しいことや暗いことはしなくていい。
この曲も最初はリズムとカッティングとボーカルだけで始まるけど、『Kiss』と比べるとスカスカさの性質が全然違うことに気付かされる。それに、メロディひと回し終わる直前から、えらく細い音ながらスラップ全開でベースが入ってくる。コーラスも気楽な感じで、リズムもバタバタしてることだし、『Kiss』とは全然違う曲だと思わされる。それは、この後どんどん色々追加されるアレンジを聴けばよりそうなる。
はじめは女性ボーカルがメインに追随する形で入ってきて、そしてお決まりのブレイクの箇所で車の急ブレーキのSEが入ってきたあたりで、後半の混沌を予感させるファニーな要素がいよいよ現れてくる。好きな箇所にギターソロを突っ込んでくるし、コーラスをぶった斬ってコピペしたりするし、3回目の歌パートでついにファンファーレをバックに合唱し始めて、えらくピースフルな展開になってくる。ショートバージョンはこの辺で終わってしまうけど、この先の混沌があってこそだ。
メロディを歌うことをやめてユニゾンで語りかけ始める楽団。「キャット、ラップが必要だぜ!」とか言い出して、そしてその後本当にゲストのCat Glover*34がラップをし始める展開はもう、楽しいことしか考えてないぞこいつら、って具合。ラップの後はいよいよ混沌とし始め、例のギターカッティングでのコード進行が途絶え、ウホウホ言う楽器が鳴り、急ブレーキSEやらシャウトやらが次々とワンポイントで現れ、変なギターカッティングとコーラスで呼応し合い、4分前後にコード進行ギターをひと回しした後もワンコードカッティングに変わり、メインテーマを調子外れに演奏するホーン隊の後に、この曲の混沌の象徴である変なサウンドロゴが現れるに至ってこの曲の変なテンションはいよいよ頂点を迎えた感がある。
混沌を収束するのは、少々エロティックな様子でアルファベットをAから読み上げ始めるゲストボーカルだ。次第にカッティングは元のコード進行がはっきりしたものに戻り、メロディをなぞるアホっぽいオルガンをバックにアルファベットの“詠唱”は連なり、そして、Gを飛ばして*35Hを発語した後、「"I" love you…」というアホの極みのようなフレーズを取ってつけて全力で脱力させにきた上で、しれっとフェードアウトしていく。こんなパーティーめいた曲の終わり方が、こんなアホなオチでいいのかよ。
別にタイトルがタイトルだからって、A to Zで歌詞を書いているとかそういうのではない。最後のクソしょうもねーオチがしたかっただけでは…とかも思ったりするけども、でも前半の最も盛り上がるファンファーレの箇所を読むと、ちょっといいこと言ってんなとも思われてなんだか妙にくやしい。
ぼくらどんどん下ってくさ それしか道がないならね
この残酷極まる世界に言わなきゃならんことを届けるべく
正しい文字を集めてより良い日々を作っていくんだ
6〜10
その他Prince流ファンクの様々な聴きどころ。まあ11曲目以降にファンク曲がないという訳じゃないけども。
6. 1999(from 1982『1999』)
はっきりとメジャー調なループの上にきっちりとポップなメロディを、しかも当時の活動形態がバンドであることを印象づけようとメンバーのボーカルリレーも盛り込み、世紀末の終末感をネタに妙な空元気めいた明るさでもって進行していくアルバムタイトル曲。シンセとギターがユーモラスに飛び交う、アルバム中最も典型的にミネアポリスサウンド様式なこの曲を彼はアルバムレコーディングの最終盤に制作した。「なんかやっぱ華やかで楽しいやつ1曲は作っとくか」くらいの感覚でもしかしたら作ったのかもしれなくて、そうなると『Controversy』にあったような緊張感がそんなにない大味な作りにも納得できる。けどその大味だからこその徹底的なキャッチーさの上乗せがこの曲の魅力か。以下基本的にショートバージョンの解説。
楽曲、そしてこれを先頭としたアルバムは、ブシューっとしたなんか宇宙的なスモークみたいな音で少々バカっぽくもシアトリカルに幕を開ける。いかにも1980年代なシンセリードの明るいコード感の裏で、この時期から拘り始めた細かいパーカッションのループが密かに挿入され、そして小気味良いギターカッティング*36が反復される。ミネアポリスサウンドの黄金パターンをのっけから大変ポップなコードで実践する様は楽しげでポップ。その後、このアルバムから結成されたバンド“The Revolutions”のメンバーがPrinceに代わって順番にボーカルを取り、3人目でようやくPrinceが現れそこから先はみんなでユニゾンする様は、実に大雑把に、しかし的確に「これからはバンドで楽しくやっていき〼!」的なブチ上げを見せている。一番最後に作ったからか印象コントロールも巧みか*37。
楽曲はイントロから連なるダラっとポップなヴァースと、劇的に展開するでもなく、歌ってる内容を無視すれば不穏でさえない中途半端気味なブリッジの繰り返しで構成される。“ミニマル”と言うよりも“大味”という印象が勝つし、繰り返しの中でそんなにサウンドを切り替えたりしない様も大味な感じがする*38けど、この曲においてはその安定してパーティーが続いていく感じが、歌詞の終末感とのミスマッチでいい感じに昇華されてる。なんとなくフェードアウトしていく感じも、この曲の享楽感と虚しさのダラっとした関係性に合ってる。
アルバム収録のロングバージョンは冒頭にロボットのような声の語りが入り、終盤はメインのコード進行の上でパーティー連呼しソウルフルに盛り上がるだけ、かと思わせておいて最後の最後で仕掛けが効いてる。「ママ、どうして皆爆弾持ってんの?」と問いかけるラインがあるかないかはこの曲の印象が変わる要素ではある。
歌詞は、1999年に世界が滅ぶとされていた終末論を取り入れた、享楽的ながら「どうせみんな死ぬんなら、今パーティーしなきゃでしょ」という歌。というか、歌詞を少し読むと、終末のことよりも現状の世界の悲惨をも見据えて書いてる節がある。
これを書いたときは夢見心地だったよ
なので 早すぎるならぼくを告訴してなよ
でも 人生ってパーティーみたいなもんだし
それにパーティーを最後にしたかった訳でもないし
戦争は至る所に有り ぼくは心に戦いの備えを感じる
だから もし死ななきゃいかんのなら 今夜
ぼくは自身のこの身体に聞き耳を立てるんだ
彼らは言う 2000年にパーティーは終わるって
ああ 時間切れか
なら今夜は1999年みたくパーティーするさ
ショートバージョンだと「どうせ死ぬなら今パーティーするさ」というやや悲観的なところになるけど、ロングバージョンで追加される歌詞にはもっと、抵抗の意思みたいなのが現れてくる。本当はロングバージョンを聴いた方がいいんだろうな*39。
1999年 行ってみないか 1999年 行ってみようぜ
1999年 ぼくら皆今日ここで死ぬのかもね
1999年 死にたくない この人生を踊り明かす方が遥かにマシ
実際の1999年には、1990年代半ばにケンカ別れした古巣レーベルへの嫌がらせを半ば目的にこの曲の1999年リメイクバージョンもリリース*40したりと、ちょっと特殊な位置にある代表曲となっている。そしてこのバージョンは当時の所属レーベルから出ているので、彼の死後にワーナーから満を辞して出た『1999 Super Deluxe Edition』にはこのニューマスター版はレーベルが違うから収録されないというオチまで付いた。
7. Wonderful Ass(from 2017 『Purple Rain Deluxe Edition』)
リアルタイム未発表曲の有名なやつのひとつ行きます。Princeファンクにしては結構珍しいねっとりとしたはっきりと16ビートなテンポで、しかし爽やかな切れ味のギターカッティングとヘンテコなシンセ、ヘンテコな曲展開そして変すぎる歌詞が乗っかった、実に完成度の高い変なファンク。彼が手本の一つにしていたであろうP-FUNKも大概変だけど、この曲に典型的なテンションの低い奇妙さは実にPrince的。何で未発表だったんだろうって完成度*41。Princeの数あるファンクの中でもテンポがかなり遅い方であることもちょっとユニークで、なおかつしっかりとミネアポリスサウンド。
確かめるように打ってから、ベースと共に始まるリズム。ベースは不機嫌そうなマイナー調を奏で、ハイハットが珍しく16分で細かく刻む。でもシンセは相変わらずチープでかつ妙にキャッチーなミネアポリス産フレーズで、それがセクション終わりの崩壊するような変なコード進行で墜落していく様に屈折したユーモアを感じさせるも、その直後から現れるギターカッティングの、Prince全楽曲でも随一の爽やかで涼しげな響き方にちょっと驚く。コード進行と歌詞が変でなければ、「Prince流のBreezeな香りのするシティポップ」とか言って騙くらかすことも出来そうなくらいの爽やかさ。きちんとトーンを整えてあると思った。この人、こんなキラキラしたトーンでカッティングすることもあるんだ!ってある程度聴いて回った後にこの曲に触れて思った。
そしてそのギターによる爽やかさを台無しにする、サイクル終わりのナンセンス気味で理不尽なコード進行。コード譜サイトによると「G7→G♭7→E7→B♭m7」とのことで、じつにひどい。1968年頃のJohn Lennon的な実に強引に下っていくコードの並びの上で、よりにもよって最後が4度半という絶妙に気持ち悪いルートの動きを見せる。そりゃあシンセもあんなヘンテコな動きになるよなっていう。こんなグダグダなコード進行の上で「そんなの正式にリリースする曲につけるタイトルじゃねーだろ」というタイトルをコールするんだからシュールでストレンジ極まりない。折角の珍しい16ビートのファンクをこうも王道なアフロミュージックからまるで外れたアプローチで作るところに、彼の我流の極まった楽曲制作能力を思わせる。
このように変な曲だけど、ミドルエイト的な箇所で言葉遊びに徹しつつ不思議な宙吊り感を曲にもたらしたり、Princeと、そして当時バンドメンバーだったLisa ColemanやWendy Melvoinのユニゾンで歌われたりする*42ことで、それなりにポップな要素も持ち得ているバランス感覚は絶妙。まあそこまでやった上で、作者本人が死ぬまで結果的に世には出なかったけども。なのでなのか、結局ボーナストラックとして正式に世に出たこの曲は、繰り返しが単調で冗長なところがない訳ではない。とはいえ終盤でベースが途切れて、その後それまでと全然違う動きを始めて以降の演奏の畳みかけなど、実に卓越した一人アンサンブル構築能力は流石。
元々この曲は彼が当初映画のヒロイン役として抜擢予定だったVanityという女性のために作られたとも言われており、また“ass”という語には尻の他に“頑固者”という意味もあるので、タイトルは「素敵な頑固ちゃん」要素を含むダブルミーニングなのかも説がある。まあ今日的にはセクハラチックな曲名だろうけども。
ぼくのこと愛してるってきみは言う それはよくないよ
きみのこと信じて欲しがってる そうできればいいのに
きみもプラスチックの木で家を建てるなんて無理さ
素敵な頑固ちゃんだね
8. America(from 1985『Around the World in a Day』)
Princeにしてはえらく速いテンポをした、エネルギッシュながらもどこか殺伐としたテンションで強烈にアイロニカルなメロディと歌詞を叩きつけるように歌う、色々と異色なディスコファンクな1曲。アルバム中ではこの曲とその前の『Tamborine』のヤケクソめいた浮きっぷりは不思議で、さらにこの曲の歌詞の現状認識とそこから来る強烈な皮肉と批判はファンタジックなアルバム中でもとりわけ異色、相対的に毒々しい存在。
リズムを巻き戻したような仕掛けのイントロの時点で、この曲のメカメカしさは他のPrinceの曲とちょっと違ってるのかなって感じがする。安定して4つ打ちなリズムが流れ出した後の、裏の変なノイズじみた音も気になりながら何が始まるのかな、と待ってると、珍しくシンセではなくギターで、明確にメロディを模したラインが紡がれる。この時の歪みの音が、流麗なソロという感じではなく、不機嫌なくらい素っ気ないざらついた歪み方であるところに、この曲の攻撃性の一端を感じさせる。
“Peace!”という掛け声と共に楽曲は本編に入っていく。かなり細い音色で神経質に跳ね回るギターカッティングと、乾いた笛の音みたいなので不穏な音階を反復するシンセ、そしてベース含むリズムで作られた音空間は、スカスカというよりも、ソリッドと言った方が当てはまりそうな、そんな妙な緊張感を醸し出す。要素だけを抜き出せばディスコ調と言えないこともないだろうけど、ディスコにしては楽しさや快楽性が抜け落ちてる。いや、意図的にそのようなものを的確に削ぎ落としているのか。Princeのボーカルも妙なディレイを噛ませつつ、ファニーさやセクシーさを抜いた、地声で鋭く歌うスタイル。歌詞が歌詞だからそうもなろう。
明確にサビ的な存在感のあるセクションでは、まるで愛国歌のパロディみたいに彼の国の名前を連呼し、実際の愛国歌『America the Beautiful』の歌詞の一節(“God shed His grace on thee”)を歌詞に盛り込み、その箇所は妙に浮ついたファルセットで歌われる。その後のカウンターパートとなる箇所の歌詞が“Keep the children free”であることを思うと、引用に明確に血走った皮肉を込めている。間奏で出てくるギターソロも、彼がよくするワイルドな歪ませ方ではなく、もっと細く鋭い、刺さりそうなワイヤーアクションじみた下降フレーズを繰り返す。終盤には“爆弾”を連呼し、それは『1999』での用いられ方よりも明確に批判先が用意されている。とどめのフレーズを語り終えた後にワウギターが入り始め、少し楽曲に快楽的側面が見えてきたと思ったらすぐにフェードアウトしていく。少なくともショートバージョンにおいては、この曲は“楽しいディスコ”であってはならないと自己定義しているかのよう。なお、この曲のロングバージョンも存在し、そちらは21分を超えるPrince随一の長尺となっており、ワウやディレイを用いたギターサウンドが同じ単調なリズムの上を様々なパターンを交え反響し続ける。興味がある方はYoutubeリンクを貼っておくので、時間を十分に用意してから聴いてみてください。
歌詞は、ここまで明確に国家に対して牙を剥くのも珍しいくらいの歌*43。特徴的なのは、多くの黒人アーティストが黒人の社会での抑圧について歌を残すことがあるのに対して、彼のこの曲はそうではなく、貧富の差・国家への忠誠・そして戦争についての問題を歌っていることか。自身の黒人性を殆どテーマにしてない、という意味においては、この曲もアルバム『Around the World in a Day』収録曲らしいと言えるのかもしれない。
小さな女の子は最低賃金で働いて
猿の檻みたいなワンルームで暮らす
抜け出せないまま 彼女は殆ど死んでる様子
その彼女は黒人じゃないかもしれない
でも彼女は幸せさ 共産主義のアカじゃないから
…ん?これ本当に1985年頃のアメリカに向けた歌か?もっと似合いそうな土地と時代がありそうなような…(と、様々な国の人が思いながら聴いてるのかも)。
9. I Wonder U(from 1985『Parade』)
映画の幕間めいた2分に満たない短い尺に纏められた、ぼんやりとしたサウンドとメロディの中を漂うように女性ボーカルで展開されるムード重視な、なのに後半なかば強引にファンクなカッティングが入り、それが案外曲にいいアクセントを与えた楽曲。短い曲だから、もうこれで大体言い切ってしまったような気がするけど、もう少し何か。
『Sign O the Times』も大概様々なことをやってるアルバムだけど、同じことを「映画のサントラ仕様だから…」という名目で、各曲割と短い尺でサラッとやってるところに『Parade』の強みがあり、こちらを最高傑作に挙げる人がいる理由でもあるだろう。そういう意味でこの曲はその極地であり、素朴で実に生っぽい入りのドラムの時点で、何か普段のPrinceな世界観とは違うところに迷い込んだな、と思わせてくる。その後の変なSEからのファンタジーに迷い込んだような音世界に、初見でハッとなったりした。かなりの大人数のオーケストラを集めて録音された、実に箱庭的な演奏はある意味ゴージャスの極み。
そして、歌が始まって以降の、Princeじゃない誰か女性による、ささやくような歌にまた、えっこれ今Princeの曲を聴いてるんだよな…?と分からなくなってくる。Wendyによるものらしい*44けども、普段のもっとはっきりした歌い方ではないものだから、いよいよ誰の何の曲なのか分からず、何か別のサウンドトラックに迷い込んだような錯覚を抱かせる。
しかしながら、そのまま通せばムード十分の佳曲で通せたものを、やっぱ自分の色を入れたかったのか、後半からはPrinceによるものと思われる引っ掻くようなギターカッティングが入ってくる。ソフトな音色とはいえ、こういう曲に普通そういうファンク仕様のカッティング入れんだろ…と思うけども、これが案外曲に合ってるものだから分からなくなる。どうしてこんな曲にカッティング入れようと思いつくのか。曲の最後にちょっとクリーントーンのギターソロ入るから、ついでにカッティングもしとこうと思ったのか。
ぼく きみを夢に見るよ いつだって いつだって
でも 遠くにいる きみを想う 心にきみがいる
今回のプレイリスト上のこの曲の立ち位置はまあ、5曲単位で考えた上で次に長い尺の曲を入れるから、という尺調整というのも割と大きい。でも、この曲の異物感はプレイリスト中のアクセントにとてもいいと思う。あと、どうでもいいけどジョジョ第8部のラスボスのスタンド名を最初これと勘違いしてて*45、「荒木先生もプリンス好きすぎるのは分かるけどこんな地味な曲そこに持って来るかよ」と思ったりした。
10. Lady Cab Driver(from 1982『1999』)
ミネアポリス・ファンクののっぺり感を離れ、弾むテンポの生ドラムによる疾走感と焦燥感が滲む中、楽曲の雰囲気を大きく支配するギターカッティングの端正な響きを軸に基本クールに展開し、カオスな中間セクションや間奏の炸裂などで展開を引っ張っていく、彼のファンク曲でもとりわけ殺伐とした生バンド感に溢れた大名曲。知る人ぞ知る、Princeのギターカッティングファンクとしての最高峰、もしくは、ギターでPrinceリスペクトを示した後進の楽曲を聴いてきた人が求める原点としての“Prince”が最も詰まってるのがこの曲なのかもしれない。ART-SCHOOLとかミツメとかそういうギターロックバンドからPrinceに入るルートがもしあるとすれば、その入口にして頂点はこの曲なんじゃないかな。変な要素は耐えてね。まずは一人で聴きな。
タクシーをPrinceが呼びかけて止めるところから楽曲は始まる。この曲、シリアスなトーンのくせに歌詞とか中間セクションとか色々とおかしい要素多いんだよな。同時に、いかにもな打ち込みのクラップが入って、この曲もそういうリズムの曲なのかと一瞬思わせる。けど、スネアの生っぽい鈍い音が響いた後、少し前のめり気味にプレイされる生ドラムと、スラップながらそれに歩調を合わせる弾力感あるベースによるリズムが、フレーズとリズムを兼ね備えたシャープなギターカッティングと共に走り出す。こここから、何気にPrinceでは珍しい「シンセリードの目立たない生バンドによるソリッドなファンク」が始まる。シンセも入るけども常時ではないし、音色もフレーズも支配的でなく、ソロ以外ではギターと交差してフレーズを少し添える程度に留まる。
生ドラムだからか、時折勢い付けのスネアもフィルも入る。Prince自身によるドラム演奏は微妙にヘタウマ気味だがしかしそこに、他の曲にない切迫感が生じていることは注目に値する。何よりも、時流のゲートリヴァーブマシマシのスネアではなく、実に素っ気ない、The Bandみたいなソリッドな音質で叩いているところが最高。楽器の密度の薄さやコード感、そしてこのソリッドに駆けるドラムにより、楽曲にはミネアポリスサウンド的なスカスカさとはかなり性質の異なる、引き締まったシリアスさが漂う。ボーカルも地声とファルセットを重ねることで曖昧化され、ベタつかないメロディ運びもあって、クールな緊張感が続いていく。
2分が過ぎて、控えめなシンセによる幽霊みたいなソロを挟んだ後、3分ごろに生ドラムが一旦ブレイクする。ここで溜めてから、この曲でボーカルや歌詞のテンションが炸裂しつつ、しかしある仕掛けにより公衆の面前で流せなくなるセクションが幕開けする。Princeは歌でなく語りで、これまでのジョークじみた歌詞をクールに歌ってたのと真逆の熱情を燃やし捲し立てる。そしてその裏で本当に何故か、女性の喘ぎ声が延々と流れ続ける。このセクションの歌詞を鑑みると、抑圧された魂の解放みたいなものを表してるのかもだけど…でもこの曲、タイトルからして「女性タクシー運転手」なんだから、その、どんなに歌詞が抑圧への反抗と真実の愛や祈りであろうと、実際の光景はこう、タクシー車内でアレしてますよね。なんですげえ格好いいシリアスなファンクロックだった曲が、急にエロ漫画みたいなことになってるんだ…*46*47。
訳の分からないテンションマックスゾーンを超えた後、演奏は一旦クールダウン。ショートバージョンだとこの辺りで終わるけども、この曲はその後もスリリングな展開が続いて飽きさせない。特にPrinceのドラムフィルインの「これズレてないか?」というヘタウマ加減が、絶妙に緊張感をキープさせたり、他の演奏と重なってロック的な格好良い突破感を生み出したりするのは、他のPrince楽曲でなかなか味わえない要素で、この辺のファンクらしからぬ“不安定さ”こそが、この曲の特質なのかも。5分過ぎからドラムがまた駆け出しはじめ、不穏な時計のSEをバックにシンセが不安になるラインを描き、ベースは頻繁にスラップのゴリっとしたエッジを付ける。そして、シンセとギターによるバトルが始まり、またブレイク的な展開になり*48、7分過ぎに普通に歌が戻ってきてそのまま終わっていく。この辺、時代の前後が逆だけど、ファンクの枠組みでSonic Youth的なインプロと歌戻りみたいな感覚を味わってるように、自分のようなロック目線のリスナーには感じられる。これを聴きたいからこそ、8分越えという長尺をあえて何度も聴いてるんだと思う。
歌詞については、クールに歌うパートは本当にどこまで本気か分からんくらい、なんか身勝手でテキトーなこと言ってやがる、という印象。
ねえ とっても寂しいんだ こんなのダメなんだよ
孤独なんて求めてない でも空気で震え上がっちゃう
飛ばしてよ 飛ばしてさ ぼくの中の悪魔を追い払ってよ
きみの家に連れてってよ ハニー どこだって行こうよ
助けて 溺れちゃう 頭の中が混乱してグチャグチャだ
ぼくの涙をタクシー代として受け取ってくれるかい?
運転手さんが困るようなことばっか言った挙句、運賃涙払いだって?ライドシェアでもそんなん許されんぞ。
そして、突然彼の中の義憤と祈りとコンプレックスとロマンチックさとがないまぜになった激情が、どうやったって運転手とセックスしてるようにしか思えない最低な光景の中で爆発的に開陳される。ここは全文いこう。
これはまるで無賃で走る羽目になった君のタクシーのため
なぜぼくが兄弟みたく美形高身長に生まれなかったかのため
退屈に倦んで戦争を信仰する政治家どものため
そしてこれは これはぼくのため ぼくそのもののため
差別と エゴイズムこそが至高と考える奴らのため
そして デザイナージーンズを履いたままのキスの仕方を
きみに教え込んだ奴らのため
ああ あれはそうしてでも生きてかないといけないきみのため
金持ち 全員じゃないが 与えることを知らない強欲どものため
ヨセミテ・サム*49や ディズニーランドの旅行者たちのため*50
そしてこれは ああこれは そう 創造主なるあの男のため
太陽 月 星々 ディズニーランドの旅行者 大洋 海 海辺のため
そして これもあれも きみのため 他ならぬきみひとりのため
これは女性のため 美しくもいかようにも捉え難い
これはセックス抜きで有り得る愛の形のため*51
早い遅いに関係なく吹き荒ぶ風のため
行先が分からないことなど 行く場所がないことに比べたら
宇宙レベルで遥かにマシなことさ 今なら分かるよ*52
もう、幾らでもツッコミどころが上がりまくる内容だけど、ともかくこういう形で、思いつくことを少しでも多く激しくブチまけたかったんだな、というのがエモい。
ともかく「バンドスタイルのギター主体なファンクのPrinceを聴きたい」という人には、恥ずかしいパートもあるよ?ということの承認をとった上でこれを聴かせ解けば間違いないレベルの楽曲であり、かつ、彼のキャリアでこれと同種のものを他に求められても困る*53の、高レベルにして孤高の楽曲でもある。でもともかく、Princeでファンクなカッティングギターが一番格好いい曲候補の筆頭はこの曲じゃないかと本当に思う。
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小結
ここまでですでに37,000字近くあるので一旦切って、残り20曲を見ていく後編に続きます。ここまででも十分すぎるくらい長いのにここまで読んでいただいた方は大変ありがとうございます。後編もお楽しみに。
*1:本人たちがどこまでそう意識してたかは色々と怪しいけども、レコード会社的にはそういうことにして大きく売りたい欲はあっただろう。
*2:前回の記事が6万字に達しかねない量だったので自分でも改めて唖然としてる…。
*3:この形式、メジャーなR&Bフィールドでその最初の人であったであろう当のStevie Wonderはこの制作体制を若きデビューからそこそこの年数経ったのちにレーベルから勝ち取っており、そんなに先人が苦労した制作体制をどうして当時ぽっと出の新人であったであろうPrinceがいきなり得れたのか不思議ではあるけど、これはむしろ「第2のStevie Wonderの登場」的な目論見がレコード会社側にあった部分もあるだろう。1978年はそういえば、Stevie Wonderは2枚組『Song of the Key of Life』を1976年にリリースしキャリアの絶頂を迎えた後、リリースが途切れていた時期でもある。
*4:当時リリースされたドラムマシンのLinn Drumを特に多用している。
*5:まあPrinceの場合、1980年代ドラム最大の特徴であるスネアのゲートエコーはたまにしか使わなかったりだけども。
*6:バラード曲もあるけども、そういうのは典型的なミネアポリス・サウンドって感じはしない。
*7:ミネアポリス・サウンドのもう一つの構成要素として「ホーンが“入らない”こと」というのがあると思われて、これは、初めから楽器を何でも自前で演奏できてしまう彼が、ホーンだけは演奏できなくて、代わりにシンセを使うようになった経緯からそうなってるらしい。
*8:逆に、その気になれば幾らでも作れたであろうこの手の曲を乱発せず、リード曲などのここぞという時にのみ出したことがこのサウンドの価値を高めたのかもしれない。この人は割とマジでそういう計算をする可能性がある。
*9:数えてみたけど、110曲以上あるのは間違いなさそう。
*10:若干の既発曲バージョン違いやリミックスも含むけども、大半は純然たる「公式初リリース」。
*11:そもそもがアルバムリリースに至るまでに3つのアルバムが完成まで漕ぎ着けてはボツになる経緯があり、それだけでも膨大な未発表曲が生まれているところ、実際はさらに膨大な「完成品」があったことがデラックスエディションによって公にされました。
*12:思いついた楽曲を速攻で作ることに注力し、音質とかにはそこまで頓着がなかったらしい。シンセのプリセットそのまま使用も、音色作りに時間を割くよりもさっさと完成させたい気持ちが強かったんだろうなと言われてる。
*13:『Do me, Baby』(『Controversy』収録)あたりが初出か。
*14:参考までに、Michael Jacksonの1980年代にリリースしたアルバムは2枚。それでもNo.1ヒットの数だと全然Princeより多いけども。
*15:1986年に全米No.2ヒットとなったThe Bangles『Manic Monday』や、1990年だけどSinéad O'Connorのカバーが全米No.1を含む世界的ヒットとなった、後年princeの代表曲にも追加された感のある『Nothing Compares 2 U』など。
*16:具体的には『Dream Factory』(2枚組)『Camille』『Crystal Ball』(3枚組)『Black Album』。これらは全部1986年から1987年にかけて制作されたもので、特にこの時期の楽曲生産能力は狂いに狂ってる…。
*17:この手の楽曲はファンの間で“ロカビリー系”として扱われてる。次作の『Delirious』とかも。
*18:元々Prince自体が曲や演奏のアイディアを素早く出力することを最重要視して音質にこだわりがなかったところもあるけど、それにしてもこの曲はひどい。オチまでひどくて、チープさを極めたかったのか。
*19:『Strange Relationship』や『Can't Stop This Feeling I Got』、『Bold Generation』(後に『New Power Generation』に改名)など。一度リメイクされてまたボツになった『Teacher, Teacher』みたいなのもある。
*20:2曲とも有名で人気ある未発表曲ながら、歌詞にレイプの語が入ってるために時代にそぐわないとして未発表のままとなった。
*21:そりゃヒット性とかガン無視の作品を年に何枚も出されたら、いくらクオリティが高くても、買う側の購買力も興味力も限界があるんだから、商売やっていく側としてはストップかけるのが正解に決まってる。
*22:ジョジョ立ちで音楽関係だとDavid Bowie『Heroes』のポーズとこれが2大巨頭か。
*23:その厳選作業の際に除かれた曲目がまたおかしい。よく『Crystal Ball』や『Joy in Reputation』をボツにしようと思ったな。その判断正しいか…?とさえ思う。
*24:アルバムに収録されているこれが、アルバム自体の音質や音量レベルが良くないためにプレイリストに入れづらいのが残念。
*25:時々PrinceとMoonridersは音色とかでシンクロニシティ起きてるイメージがある。2009年の『Here』という曲を聴いた時も、イントロがすげえMoonridersっぽく思えた。
*26:この頃の彼は打ち込みファンクをやると『Whe Doves Cry』やら『Wonderfull Ass』やらと、マイナー調が出てきがちな時期だったのか。
*27:ロングバージョンの最後の方をそこそこの尺で接続してる。
*28:ワウ?
*29:英語版wikipediaによるとこの音はアコギの音をノイズゲートに通して得られた音とのこと。分かるかそんなん。当然ライブでの再現は困難らしい。
*30:ここが実に絶妙にバカでキモいことが、やっぱPrinceなんだなあと思わせる。真剣にこれをやってる可能性があることも含めて最高。
*31:この曲のロングヴァージョンも存在するけども、ショートバージョンの尺が終了後、それまでと違う音のスネアが出てきたり、実にシンセめいたシンセが出てきたりと、それまでの切り詰めたトラックの感じとは随分と趣の異なるファニーなジャムが始まってしまって、個人的にはこれは蛇足、無い方が1曲としてのコンセプトは高まると思う。そもそもベース出てくるし。ただ、このジャムの様子は、様々なサウンドが現れては消えていく混沌のファンク『Alphabet St.』の先触れだと捉えられなくもない。
*33:どうせスタジオ版どおりに再現なんてできないしライブでそれやっても意味ないからと、開き直ってハジけまくってる様子。
*34:Princeが定期的に抱える「有望な新人アーティスト」枠の人物の一人で、Princeプロデュースのアルバムを出そうとして、結局出なかったパターンの一人でもある。そういう部分ではPrinceも罪なところが結構ある人物ではある。
*35:後年、「なぜGをスキップしたのか」というファンからの質問に対しては「キスされて慌てちゃったんだとぼくは思います」というクソどうでもいい回答をしてる。
*36:よく聴くとカッティングの下で密かにワウの音もしてる。
*37:実際のところ、バンド感が結構あるこの曲もボーカル以外は全てPrince一人録音。
*38:ショートバージョンだとPrinceのボーカルのアドリブとブリッジの繰り返し回数くらいしか変化する様子がない。
*39:この曲のロングバージョンが聴きづらい理由に、長さ以外に、この曲の最終音が次の『Little Red Corvette』冒頭に掛かってしまっていることもある
*40:アルバム自体も再録音してリリースすると豪語していたけど、それは結局出なかった。
*41:制作時期的に『Erotic City』と存在感が少し被るからか、歌詞がふざけすぎとるからか、アルバム2枚組構想がなくなって置き場がなくなったか。
*42:彼女らのボーカルや楽器のダビングはアルバム『Purple Rain』リリースより後なので、その後いつか何かの形でリリースするつもりがあってこの改良を加えたのか、意図が不明。
*43:とはいえこの曲より後も彼は国家や社会に対する問題提起の歌を時折発表しており、特に2010年に制作され強烈な皮肉を交えつつリリースが死後になった『Welcome 2 America』では、より複雑化した社会問題を列挙していく。月並にセンセーショナルすぎて、結局当時リリースしない判断をした理由も分からなくはない。
*44:なお、この曲がPrinceの歌あり曲で初めてPrinceのボーカルが全く登場しない曲になるらしい。
*45:スタンド名は「ワンダー・オブ・U」。元ネタ曲はElvis Presleyだけども、“U”表記のせいでPrince元ネタと勘違いしてもしょうがないと思いませんか…?やっぱPrince大好きよな荒木先生。
*46:見方によっては、女性の抑圧からの解放と自立を力強く訴えながらセックスしてるみたいな、説教しながらセックスみたいな、最低の構図では。
*47:ちなみに喘ぎ声の主はJill JonesというSSWのもの。彼女は他の曲でもPrinceの手伝いを色々しており、また恋人になったり別れたり、という数多いPrinceギャルの1人だけど、他の多くと違い(この時点で結構カルマがひどい)、彼女はPrinceプロデュースのデビューアルバムをリリースできており、その後Princeのレーベルを離れた後も作品をリリースし続けた。後述する『She's Always in my Hair』は彼女について書かれた曲だ。
*48:ここのフィルインが特に不安定。あえてやってんのか…。
*50:これだけ2回出て来るのナンデ?
*51:絶対セックスしながら言うことじゃねえ。
*52:格好いい風に言ってるけど、タクシー運転手に「どこでもいいから連れてって」って言ったのお前じゃん…。
*53:一応、『1999 Super Deluxe Edition』収録の未発表曲『Rearrange』は同種のシャープに効いたギターカッティングを主軸に進行するギターファンクナンバーではある。この曲も大変に完成度が高く、確かに『Lady Cab Driver』とやや方向性は被るものの、それだけでボツにしていい曲かよ…とも思う。今回の30曲リストに入れるかかなり迷ったくらい。未発表曲故に、最後のギターのノイジーなパートが冗長なまま残ってるのが玉に瑕。