最近この本を読み終わり、何というか非常に圧倒されました。正直自分の興味範囲外の話が延々と続く内容なんですが、文章の中に満ち満ちた切迫感がどんどん読ませてくる本で、全然興味がなかったハウスやテクノについて、ちゃんと聴き始めようかな…と強く思わされるくらいにガツンときました。
惜しむらくは、書籍であるが故に、そこで取り上げられた様々な歴史的名トラックやら壮絶な名曲やらをすぐに聴いて理解することができないという、そりゃ書籍なんだからそんなこと無理だよ…という点。なので今回は、この本の内容を簡単に雑にレジュメしながら、各人物の写真や各楽曲の動画などを貼って後で読み返すときにイメージしやすくなったり、すぐ曲を聴いたりできるよう整理しておこうという、とても自分本位な、自己満足的な内容の文章です。文章…?
ちなみに自分が読んだのは2017年に出ているらしい増補新版ではなく、サムネ画像に挙げた表紙の、2001年発行の元々の版の方であることを申し添えます。増補新版にはどうやら「16年目のブラック・マシン・ミュージック」なるこれまたかなり興味深い追記がなされているようであり、今回図書館で借りて読んだものなので、この増補新版の方をちゃんと買い直すか考えています。
- 本のあらすじ・及び雑駁とした感想
- プレイリスト:第1章〜第3章・90曲
- 第1章:女王たちのアンダーグラウンド DJカルチャー誕生
- 第2章:混乱の国 1980年代のシカゴ・ハウス
- 第3章:ブラック・サイエンス・フィクション デトロイト・ブラックとPファンク
- 中締め
本のあらすじ・及び雑駁とした感想
この本は元々は、日本におけるテクノのライターの第一人者である野田努氏が、その源流であるデトロイトのシーンの流れと、その精神性について、しっかりと書こうと思って執筆が計画されたものと思われます。実際全6章あるうちの4章はデトロイト・テクノに割かれたものになっています。
しかしながら、その音楽的・精神的源流をしっかりと辿るためには、ディスコから始まりハウスを経てデトロイト・テクノに辿り着く一連の流れや、黒人としてのメンタリティをギャングスタラップ的でない、もっとファンタジックな方向に消化していく触媒としての”宇宙”の概念、特にPファンクについての言及を必要としており、あとがきを見る限りは筆者がそれらのシーンのリアルタイムの当事者ではなかったために色々と苦労しつつも、第1章と第2章が書かれた、とのことで、しかしこれが結果として「ヒップホップやR&Bといった主流でマッチョな黒人文化とは異なる、ディスコやハウス、そしてテクノ」という、正直世間的にはあまり黒人文化と思われていない感じもあるジャンルにおける、様々なエポックや精神性を包括的に外観することが出来て、個人的にはそこにこそ蒙が開けたような思いがありました。
何しろ自分は、KraftwerkやYMOみたいなのから始まる音楽ジャンルを「テクノ」だと認識していて、本来はデトロイト・テクノ以降のものを「テクノ」と呼び、YMOとかそういうのは「テクノポップ」とか海外だと「シンセポップ」などと呼び表すということさえ知らなかったし*1、またディスコはともかくとして、ハウスやテクノを白人由来の音楽とさえ思ってました。
なので、この本で示された、ニューヨークにおけるゲイカルチャーの下でアンダーグラウンドなものとして育まれたディスコから文化がDJを伴って連なって、シカゴでのハウスやデトロイトのテクノの誕生に繋がっていく、という流れには「そういう歴史だったのか…」という、幾らかの不知だったことへの申し訳なさ・恥ずかしさと、それ以上に視点がずっと広がっていくような思いとが去来しました。というか、所謂「ブラックミュージック」と呼ばれる音楽の幅が単純に広がったわけで、それと同時に、R&Bやヒップホップはいかにもブラックミュージックな感じがあるのは分かるけど、テクノやハウスに全くそういう雰囲気を感じてなかったのはどうしてなんだろう?という疑問もまた出てきます。何もかもを白人やメジャーレーベルによる”文化的盗用”だとは思いたくはないですが、しかしながらこの本によると、デトロイトの黒人が連綿と継承しているテクノのシーンがあまり取り上げられない事においてはそのような要素もあると、実例も含めて掲載されているところで、そういうところで“感化”されてしまうものもこの本にはあるなと思います。
正直、自分はテクノやハウスというジャンルが特別好きというわけでないし、クラブカルチャー全般をよく知らないし、それらに特有の陶酔感とかを感じれたこともあまりない人間ではあって、なのでこの本に書いてある内容を左脳的・知識的なものとしてある程度の驚嘆をもって理解することはできても、それをもっと右脳的・感覚的なものとして実感することは全然十分にできていないように思います。
そこで、せめてこの本に取り上げられた楽曲を並べて、実際に聴いてみて、それらの感覚や光景・精神性なんかを、せめてほんの少しでも感じておきたいな、と思い、この、レビューでもなんでもない、プレイリストと曲目と動画ばっかりの記事を書こうと考えたところです。要するに自分がこの本を少しでもまともに理解するためのメモみたいなもので、なので個人的な内容ではあるのですが、もし誰かがこの本を読むときの参考になればそれはそれで幸いなので、書いておこうと思います。
なお、これからレジュメ的に、というかメモ的に各章の内容を少々書いていきますが、各章の名前は本のままですが、それよりも小さい単位の各項の題は本のままではなく、ぼくの方で適当にメモ的に分かりやすく書いたものです。悪しからず。
プレイリスト:第1章〜第3章・90曲
ということで今回は、いきなりプレイリストをここに置いておきます。幾つかSpotify上で見つけきらなかった曲もありまた省いた部分もあり完全に本の内容を網羅できてはいませんが、それでもある程度は、本の中で語られている音楽の雰囲気が掴めてくるなと思いますし、そもそも非常に良質なダンスミュージックだらけのプレイリストになっています。
しかしながら、ボリュームも物凄い…これでまだ前半のみの内容なので…。なお、この本の第3章においてはデトロイトテクノが誕生するその土地であるデトロイトの街の歴史や光景、というか惨状について、そしてその精神性に重要な影響を与えた「ブラック・サイエンス・フィクション」の思想について語られる章です。第4章以降で本格的にデトロイトテクノの誕生と発展が描かれていくため、後半の曲目はおそらくそのほとんどがデトロイトテクノの楽曲で占められると思われます。
なお、プレイリストでは楽曲を登場順で記載しているので、年代などは前後することがままあります。また、第3章の最後の方についてはアーティスト名が列挙されている箇所があり、それらに関する楽曲はぼくが勝手に選曲しました*2。それぞれの何曲目までが第何章かは以下のとおりとなります。
・第1章:Tr.1『Out of Sight』〜Tr.27『Where Do We Go from Here?』
・第2章:Tr.28『Disc Circus』〜Tr.62『Where's Your Child』
・第3章:Tr.63『Space is the Place』〜Tr.90『Cue』
第1章:女王たちのアンダーグラウンド DJカルチャー誕生
あらすじ
1970年代末頃、ディスコは社会的に大いに嫌われたカルチャーだった。無目的で自堕落で自己中心的で非生産的なもの、表面的なもの、若者の精神や倫理を腐敗させるもの、等々の理由でロックのファンからも伝統的な黒人音楽家からも政治家からも、つまり、社会から広く批難された。
「ディスコはドラッグであり、生産性の無い消費の快楽」という“新たな絶望をともなった娯楽”と化してしまったことも批難の理由のひとつでもあろうが、それ以上に、ディスコのルーツが「ゲイ、それも黒人やヒスパニックにあったこと」が、より同性愛者に厳しい時代であった当時では問題視されたのではないかと綴られる。
しかし、そのような同性愛者が生きていくのに辛すぎる時代だったからこそ、彼らがダンスフロアで踊り続ける、その刹那的な煌めき・グルーヴが永遠に続いて欲しいと願うアンダーグラウンドの地点にこそ新たな文化が花開いていく。それはやがてミラーボールと2台のターンテーブルを駆使した“DJ文化”の誕生に繋がり、特にNYにおける伝説的なナイトクラブ“Paradise Garage”の存在はその独自の輝きの最たるものとして記録され、そしてその輝きの一端こそがシカゴでのハウスの誕生に連なっていく。
Francis Grasso:モダンDJカルチャーの始まり
1968年に初めてDJブースに立った、イタリア系ニューヨーカーの彼が、世界で最初にターンテーブルを2つ使用して楽曲をミックスするという行為を始めた。マンハッタンでも有数のスラム街に立地したクラブ"Sanctuary"では経営危機を周辺地域の芸が資金援助したことによって、そこはゲイにとって最初の堂々と入れるディスコティークとなった。そこではドラッグとセックスが溢れ、やがて暴力さえ蔓延るようになり、彼もその暴力に晒されつつもDJを続けるも、1972年に閉店を余儀なくされた。それでもかれば別のクラブでプレイし続け、アンダーグラウンドに徐々にDJ文化が広がっていく。
有名なミックスとしてChicago『I am a Man』のブレイクにLed Zeppelin『Whole Lotta Love』の間奏のRobert Plantの喘ぎ声を重ねたものがある。彼はまた特定のジャンルに拘らずに何でもプレイするという雑食性においてもモダンDJの父とされる。
彼から始まる、このような初期のDJ文化の広がり方についての様々な記載は読んでいてかなり面白い。けれど歴史的な流れにおいて特に重要な点としては、後に歴史的なDJとなる2人の人物、"Paradise Garage"のLarry Levanと、シカゴハウスの発祥となるFrankie Knucklesをこのシーンが結果として生み出したことと言えるかもしれない。「クラブDJ」という職業などまだ考えられなかった時代の話。
ディスコのルーツとしてのJames Brown
言うまでもなくファンクのゴッドファーザーですが、ディスコのルーツとして彼の楽曲が2曲紹介されている。
・Out of Sight / James Brown(1964年7月)
すげえステップ…。こうして聴くとファンクが確かにブルーズが元になっている*3ことが分かる。しかしこれディスコの源流っぽいか…?*4
・Papa's Got a Brand New Bag / James Brown(1965年7月)
James Brownについてはしかし、ディスコがブームになった際には「自分がやってきたことの多くを単純化したもの。歌がないし、表面的で、私を散々傷つけた」といったことをコメントしている。しかし1980年代には自身で『Living in America』というディスコチューンをリリースしヒットもさせている。どこかで折り合いがついたのかな。また筆者により「「歌がない」っていうのは流石に言い過ぎ」とコメントが付く。ディスコは本当に何も考えず踊り続けているのではなく、時には物語を作るような歌詞の楽曲もプレイされていたとのこと*5。
音の機能性の先鞭:Philadelphia International Records(PIR)
1971年に設立され、所謂”フィリーソウル”のブームを牽引したレーベル。その音楽には甘いバラードや社会的メッセージがうまく共存していたが、しかしながら、ディスコDJたちはむしろレーベルお抱えバンドMFSBの演奏、キックとハットが強調された反復するリズムにドラマチックなホーンが乗るそのファンタジックさにこそ注目したらしい。複数の楽曲が挙げられていて、実際に聴くと、確かに「懐かしいディスコ」の風味がする気もする。
・Love is the Message / MFSB(1973年)
まるでラジオの放送終了ジングルみたいな風味の”懐かしさ”。
・T.S.O.P(The Sound of Philadelphia) / MFSB(1973年)
史上最初にDJ用に作られ市販されたレコード
・We're on the Right Track / Ultra High Frequency(1973年)
DJが曲をミックスして繋ぐ際に歌詞のある歌の部分はミックスの制限になる。音楽産業に身を置きながらゲイでクラブ通いもしていた人間がそこに目を付け、この曲のシングルにインストバージョンを収録し、そしてそれを用いてTom Moultonという白人DJが全く継ぎ目の見えないノンストップミックスを完成させた。「リミックス」という文化の先駆けになるらしい。
しかし、1曲数分で終わってしまうシングル盤ではDJミュージックとしては心許なく、本格的にレコードがDJ用として機能するにはLPサイズと同じ12インチレコードが必要だった。Moultonもそれを1974年の時点で希望していたが、メジャーレーベルにはまだDJカルチャーへの理解など無く、そのようなロングプレイのレコードは"DJプロモオンリー"でしかリリースされなかった。
Sal Soulというレーベル:ダンス系インディレーベルの先駆者
世界最初の販売用12インチリミックスシングルはSal Soulというインディレーベルからリリースされた"Ten Percent"だったという。元々3分のものを10分まで延ばし、リズムも大幅に差し替えたもの。このリミックスを手掛けたのはWalter Gibbonsで、これが世界で最初の「DJ的ロングバージョン」の曲になるらしい。そしてこれはその当時だけで10万枚もの売り上げを記録した。
・Ten Percent / Double Exposure(1976年7月)
(なんか聴いてて「Pizzicato Fiveっぽい」っと思った。何かの元ネタだったか。)
なおWalter Gibbonsは数々の名リミックスを残しており、その中にはディープハウスの先駆的作品"Treehouse/School Bell"やシカゴハウスのモデルとされる"Set it Off"のリミックスなども含まれる。
その後Sal Soulレーベルは12インチシングル主体のダンス専門レーベルの先駆けとして、様々なクラシックを生み出していった。レーベル名的に“サルサ”が混じってる感じからも分かるように、ラテンの風味も個性としており、「ニューヨークならではの文化的混合を意欲的にいち早くダンスフロアに届けた」と書かれている。
・Let No Man Put Asunder / First Choice(1977年)
・Make it Last Forever / Inner Life(1981年)
・I Got My Mind Made Up / Instant Funk(1979年)
・Bumblebee Rap / Gregory Carmichael(1980年)
これとか「ラップ」と付くだけあってヒップホップの先駆の感じも。
・Love Sensation / Loleatta Holloway(1980年)
・Runaway / Loleatta Holloway(1977年)
「どっかで聴いたことある!」ってなったやつのひとつ。何かのCMで使われてたかなあ。ギターのカッティングが小粋でかつ歌が強い。
サルソウルはまた、DJをリミキサーとして積極的に使用したことでも知られる。上述のTom MoultonやWalter Gibbons、そして後の項に出てくるLarry Levanのリミックスワークなどもリリースしている。DJの名前を冠したミックス・アルバムをリリースしたのもこのレーベルが最初でそれがParadise Garageで録音された『Larry Levan's Paradise Garage』だとのこと。
世間的なディスコの興隆:"The Hustle"と"Love to Love You Baby"
アンダーグラウンドの動向とは関係なしにこの2曲の大ヒットによってディスコは爆発的な流行を見せ、またそれに伴い、それまで裏方で目立たない存在だったプロデューサーの立場が注目される土壌が生まれた。
ところで、この2曲の聴いた感じは中々に好対象で、"The Hustle"の方はおそらくテレビのCMなどで聴いたことがあった(車のCM?)ので「えっあっこれかぁ〜」となった。とても明るく華やかな感じ。それに対してDonna Summerの"Love to Love〜"はもうなんか「聴くセックス」みたいな淫靡さがボーカルから漂いすぎていて笑った。
・The Hustle / Van McCoy(1975年)
爽やかなフルートのせいか春めいてさえ聞こえる。ギターのカッティングもとてもスムーズだ。
・Love to Love You Baby / Donna Summer(1975年)
こっちはもうはじめの方から淫靡な喘ぎ声に満ちている。暗いトーンの中を延々と気怠げなウィスパーと喘ぎ声が流れ続ける様はなんかもう「聴くセックス」って感じがする。同名のアルバムではLPの片面全部をこの曲のロングバージョンが占め、その尺実に17分弱。
ニューヨーク最高のゲイ・クラブ:Paradise Garage
おそらく第1章最大の山場。1977年に誕生し、Larry LevanがDJを務めるこのクラブこそ、1970年代のニューヨークのDJカルチャーの集大成だと書かれている。贅沢なサウンドシステム、最高のライティング、最高のDJそして最高のドラッグ。企業経営のクラブではなくあくまで個人経営で、オーナーやLarry含む首謀者3人ともゲイで、「彼らが長年夢見た自分たちの楽園であり居場所だった」と。3台のターンテーブルを駆使し自分の気に入ったものなら何でも回し、「音だけではなく、空間をコントロールし、クラブそのものを巨大なトリップ装置として完璧なまでに仕上げた」とある。
首謀者3人のうちのもうひとりMel Cherenが経営したインディレーベルのWest End Recordsがまた、夜の雰囲気を漂わせたダンス専門レーベルとして、多数のDJをリミキサーに起用し、様々な名曲をリリースした。
ダブ・ディスコのプロトタイプとして以下の2曲が挙げられている。両方ともLarry Levan絡み。
・Don't Make Me Wait / Peach Boys(1982年)
・Is It All Over My Face / Loose Joints(1980年)
West End RecordsはまたLarry Levanのリミックスも多く残している。
・Heartbeat / Taana Gardner(1981年)
・Work That Body / Taana Gardner(1979年)
この辺のLarry Levan絡みの曲を聴いてると、所謂いかにもディスコな音楽とは全然違う感じがするし、確かに演奏が生音だから違うんだろうけども、殆どハウスな気もしてくる。執拗に反復される細かいパーカッションがとても印象的だ。ダークな音響感覚にはジャマイカのダブからの影響が見え、彼はディスコの文脈でダブをプレイした先駆者でもあった。
そんなLarry Levanのダブディスコの感覚は、彼のDJに感化されたフォロワーでもあるFrancois Kevorkianの1980年代のリミックスワークスにも引き継がれている。
・You're the One for Me / D-Train(Remixは1985年)
・Situation / Yazoo(1982年)
・Go Bang / Dinosaur L(1981年)
しかし、そんなParadise Garageの繁栄も永遠ではなく、1980年代を通じて金とエゴとドラッグ、そして1981年にニューヨーク・タイムズが初めてセンセーショナルに報道しその恐怖が世界中に知れ渡っていったエイズの問題が、このゲイの理想郷を無惨にも解体していった。Frankie Knucklesのインタビューの引用が示唆的だ。
アメリカの産業がハウス・ミュージックをサポートしない理由は、それが彼らにとって脅威だからだよ。ハウスという大いなるジャンルは黒人のゲイ・クラブから来ていて、ゲイ・カルチャーに寄り添っているからね。でもね、ハウスはそれ以上のものでもあるんだ。ほかのすべてのジャンルと同じように、ひとりの人間が手をつけたもの以上の大きなものなんだ。ぼくにとって、それは本当に重要なことだ。それを好きになったとき、それに魅了される理由を告白するのが何故問題になるんだい?アメリカではヒップホップはぼくらの文化の強い一部分だ。そう、ブラック・カルチャーのね。でも、多くの人間はそれがハウスとリンクしていることを決して明かさない。ハウスがおかまの音楽に見えるからだ。それこそバカげたマッチョイズムのひとつだ。
P78
1987年9月26日の閉店日Larryが最後に回した曲が"Where Do We Go from Here"だったことはとても物悲しいものがある。その後彼のドラッグ依存は加速し、1992年に日本ツアーの後、38年の短い人生を終えた。
・Where Do We Go from Here / The Trammps(1974年)
初期ヒップホップにおけるディスコ
1984年に設立され代表的なヒップホップレーベルにまでなったDef Jam Recordingsの創設者Russell SimmonsがかつてParadise Garage等のディスコの常連だったことをはじめ、「初期ヒップホップは明らかにディスコと関係を保ちながら、ディスコとはパラレルに発展してきた」と本にはある。
ニューヨークのブロングスでギャングの抗争が続いた時代の後に暴力では無く音楽によって相手を打ち倒すテクニックとしてヒップホップは発生し、1978年にはビルボード誌においてついに紹介され、そしてヒップホップが大ヒットしていく時代に入っていく。世界で最初のラップ・レコードとされる"Rapper's Delight"は様々な反感を巻き起こしつつもビルボードで36位まで上がり、そこから様々なヒットが生まれ始める。
・Rapper's Delight / The Sugarhill Gang(1979年)
・The Adventures Of Grandmaster Flash On The Wheels Of Steel(1981年)
サブスクに無かったこの曲のトラックを聴くに、確かにトラック自体はLarry Levanのリミックスのひとつからそのまま引っ張ってきたと言われても「そうかも…」と思える。
・The Message / Grandmaster Flash(1982年)
・Death Mix / Afrika Bambaataa(1983年)
しかし現在、ヒップホップとダンス・カルチャーとのあいだには70年代とはくらべものにならないくらいの距離がある。それはディスコ快楽主義とヒップホップのリアリズムとのあいだに芽生えた距離である前に、何よりもゲイとマッチョの埋められない溝という現実でもあった。
P78
第2章:混乱の国 1980年代のシカゴ・ハウス
あらすじ
はじめはシカゴの「The Ware“house”」というクラブで掛かっていた音楽が「ハウス」と呼ばれた。掛けていたDJはNYから招集されたFrankie Knuckles。よりダイナミックなエフェクト操作を行ったDJがフロアをひとつにしていく光景。その後、彼はクラブの値上げにより「The Warehouse」を出ていき自分のクラブ「The Power Plant」を始める。後にThe Warehouseから店の名前が変わった「Music Box」には、より大胆で暴力的な音量やイコライジングを効かせた、Ron HardyのハードコアなDJが展開され、この二つのクラブがシカゴハウスの揺り籠となった。
ある時、そういったクラブで流れるような音楽を自分で作って売って大儲けしよう、という試みが数人によって行われ、それが最初のハウスのレコード"On & On"の誕生に繋がった。リズムマシンとシンセによって形作られたその「チープなダンスミュージック」は売れに売れ、ハウス専門の最初のレーベル「Trax Records」が生まれる。そしてこの「チープな音楽」 はシカゴの素人たちに「これなら俺の方がいいものを作れる!」と勇気を与え、ハウスは無邪気にも大胆にも無謀にも広がっていく。
偶然ベースマシンTB303のノブを変にいじっていたことで見つかった気味の悪い反復はアシッドハウスへと連なっていく。ここにおいて黒人音楽家は、全く他の伝統的な音楽と接続し得ない、故に何からも解放された音楽を手にした。
しかし、レイヴカルチャーの勃興に繋がりイギリスで「セカンド・サマー・オブ・ラブ」と呼ばれる熱狂を作り上げた当の本人たちであるシカゴのシーンは、1980年代末ごろにはその多くがNYかロンドンに移住し、代表する二つのクラブも無くなり、シーンはコミュニティとして団結できないまま発散していった。(しかし、シカゴのハウスシーンがまだ存在するうちに、後にデトロイトテクノの重要人物となる人たちがそれらに触れられたことは、デトロイトテクノに間違いなく大きな影響を与えた。そういう意味では、シカゴハウスはデトロイトテクノには「間に合った」んだと思える。)
エレクトロニックなダンス黎明期
ダンストラックにおけるエレクトロ要素の導入は1970年代末より始まり、そのトランス色を強めていくが、時代はエイズとレーガン政権の保守主義とMTVの開設による資金力のないインディレーベルの没落とが起こっていた。
・Disco Circus / Martin Circus(1979年)
・Planet Rock / Afrika Bambaataa(1982年)
・Walking on Sunshine / Rocker's Revenge(1982年)
アンダーグラウンドの新しい兆しはNYではなく、中西部の大都市にして黒人音楽の伝統的な歴史を有するシカゴにおいて成立していき、Larry Levanのターンテーブルにもそんなハウスミュージックのひとつ"Mystery of Love"が乗っていたりした。
シカゴの2大クラブ:The Power PlantとMusic Box
The Power Plant DJ:Frankie Knuckles
NYから招集された彼は「The Warehouse」でDJとしてプレイし、そこには数千人もの人間が同じDJで踊り続けるオーディエンスがいた。彼はその光景を“教会”と形容した。彼のディレイの反復やフェードインをフル活用したDJはフロアから大反響で迎えられ、その光景の中に「ハウス」的な何かが既に生まれようとしていた。「ハウス」という名前もWare"house"から来ている。
入場料の値上げを彼は嫌がり、Warehouseを辞めて自身のクラブThe Power Plantをオープンさせ、そこでも評判となるDJ活動を続けていった。
Music Box DJ:Ron Hardy
Frankieが去った後にWarehouseから改名・移転したMusic BoxのオーナーからDJとして招集されたRon Hardyは、Frankieと似た選曲でありつつも、よりラフでワイルドでハードコアなプレイでフロアを席巻し、おーデュエンスを大いに踊らせた。物凄い大音量に、激しいイコライジング操作、さらにピッチコントロールを極端に高く設定し、楽曲をスピードアップさせるなどして、これらはテクノの原型ともなった。
Music Boxはよりドラッギーで、また同性愛者の性行もあちこちで行われた。それらとは別に、誰もが汗だくになって全開で踊るために、めかし込んだ服装にしたりせず、カジュアルで動きやすいスタイルが主流となり、これは今ではダンスミュージックをかけるどの都市のクラブでも基準となっている。
Jesse SaundersとVince Lawrence-“ハウス”トラックの誕生
地元のDJであったJesse Saundersは、商魂と性欲に満ちた若者Vince Lawrenceより自作曲を作ることを提案され、1983年に幾つかの楽曲を制作。その中のひとつに、彼が自分でDJするときに使う素材程度にしか考えていなかった"On & On"があり、はじめは様々な楽曲からのサンプリングで作っていたものがある日盗難に遭い、そこで自分の機材と演奏で正規盤を作ってしまおうと、4トラックレコーダーで録音した。
既にDJプレイで話題になっていたこの曲の正規盤を商魂逞しいVinceは上手に売り捌き、その中でシカゴ唯一のプレス工場を所有していた白人のLarry Shermanが興味を持ち、世界で最初のハウス専門レーベル"Tracks"の設立に繋がった。
・On & On / Jesse Saunders(1984年)
実にチープ!しかしこのチープさこそが多くの人々に「これなら俺の方がもっと上手に作れるぜ!」と勇気を持たせることとなった。リズムマシンのTR707かTR808かTR909、キーボードのJX8PやJUNO106、コルグEX8000、そしてテスこむの4トラックか8トラックのレコーダー、この程度の機材さえあってアイディアさえあれば楽器が弾けなくても1人で作れるハウスはいつしか、ディスコにおけるパンクだとも言われるようになった。
・Fantasy / Z-Factor(1984年)
"On & On"の大ヒットに気を良くしたVinceが自身のやっていたバンド名義でリリースしたこの曲もヒットした。
・Real Love / Jesse Saunders(1985年)
Trax Records:ハウス専門の最初のレーベル
上記の経緯でVince LawrenceとLarry Shermanのボロ儲けの欲に塗れた二人によってレーベルは回り始める。悪名高い二人であり、Vinceは他人の制作している楽曲に少しだけ口を挟んでは完成したそのレコードに「Produced by Vince Lawrence」とクレジットを挟み込み、Larryはロイヤリティの未払いやアーティストの意向を無視したリリース形式、中古レコードを再利用した音質の悪いレコード制作など、様々な悪行を用いて荒稼ぎをし、おそらくは後にハウスのクリエイターたちがもっといい契約を結んでシカゴ以外の街に移住しシーンが崩壊するきっかけのひとつにもなっただろう。
だけども、そんな欲望まみれの乱発の中から出会っても、それによって幾つものハウスクラシックがインディレーベル的な気安さで世に出ていったことも確か。功罪含んだ存在だと言える。
そんなレーベルの横暴の中でハウスクラシックを量産した人物にMarshall Jeffersonがいる。Virgo名義だったり他者との共作だったりしつつも、彼の純粋に音楽を作ろうとする姿勢はどこか儚い美しさをたたえている、とされる。
・Free Yourself / Virgo(1986年)
Spotifyで見つけきれなかったのでプレイリストに含んでいません。
・I've Lost Control / Sleezy D(1986年)
10分弱に渡って延々と絶望的な男の叫び声とロボットボイス的なタイトルコールがこだまし続ける、中々に狂気じみた曲。アシッドハウスの先駆的な曲ともされている。作者曰く「Black SabbathやLed Zeppelinみたいなムードを出したかっただけなんだ」。それでこうはならんやろ。
・No Way Back / Adonis(1986年)
Adonis自身のレーベルからリリースするつもりで共作したものの、そのマスターをLarryに渡してしまったばっかりに、売れると見込んだLarryが勝手にTraxからリリースしたことでAdonisがMarshallに激怒する、といった事態になった。ねえこの人可哀想すぎない…?
Jamie Principleという人もなかなかの被害を被っている。以下の2曲は間違いなく彼の制作だけど、自身のレーベルでリリースした後に勝手にTraxから再リリースされ、しかもより知名度の高いFrankie Knucklesの名義に変えられてリリースされた。
・Your Love / Frankie Knuckles(1986年)
・Waiting on my Angel / Frankie Knuckles(1985年)
1985年にはシカゴハウスは量産体制に入ったらしい。他からの盗用を「ジャック」と呼んでガンガンやってたためか、やたらと「Jack」という単語が出てくる。Jackにはセクシャルな意味も、また"欺く/上手くやる"という意味も含まれ、アンダーグラウンドな猥雑さを感じさせもする。
【Traxからのリリース(上記"可哀想な人たち"に加えて)】
・Jack the Bass / Farley "Jackmaster" Funk(1985年)
・Love Can't Turn Around / Farley "Jackmaster" Funk(1986年)
・Move Your Body / Marshall Jefferson(1986年)
・Baby Wants to Ride / Frankie Knuckles(1987年)
【DJ Internationalからのリリース】
・Music is the Key / JM Silk(1985年)
・Like This / Chip E(1985年)
・Time to Jack / Chip E(1985年)
・It's Alright / Sterling Void(1987年)
Lil Louisという1970年代末からDJをやってきていた人もこの時期から音楽制作を始めて、世界で最も売れたハウス・ミュージック"French Kiss"をリリースしている。
・7 Ways to Jack / Hercules(1987年)
・French Kiss / Lil Louis(1987年)
ストイックなハウスかと思って聴いてたら、後半からアンニュイでエロい女性の喘ぎ声が入ってきて、もしかして大ヒットしたのってそういう…と思ってしまう。音の質感や配置がまだ無骨で無くてスムーズなこともあって、この曲はまだ今日日本とかで意識されるところの「お洒落なイメージのあるハウス」にまだ近い方な気がする。"On & On"にお洒落ハウスの影など全然見つからないものな。
Larry Heardの存在
一際大きく紹介されているのが彼で*6、「ハウスが表現の領域を拡張し、詩情めいた豊かさを持ち得る契機を準備したのはラリー・ハードだった」と書かれている。最も巨大となった要因は1986年リリースの"Can You Feel It"だったと筆者は綴る。ハウスの中でもそれらは“ディープハウス”として把握される。
・Can You Feel It / Larry Heard(1986年)
確かに、奥の方から穏やかに広がるパッドの音は猥雑さでも無機質さでもなく、もっと透明な何かを抱かせる。Martin Luther King牧師の有名な演説「I have a dream...」の演説がミックスしたバージョンさえ生まれたが、最も人気があるのは一切の言葉の入っていないインストバージョンだという。この想像力の誘発剤から、デトロイトテクノ勢やUKドラムンベース勢などが多大な影響を受けていると明言している。
と言うか思うに、この章で上がっている楽曲のうち、今日でいうところの「お洒落な印象のある洗練されたハウス」に一番つながりうるトラックはこれになる気がする。それでもまだ遠い感じがするので、シカゴのハウスクラシックと日本で一般的にイメージされるようなハウス(ヨーロッパ方面で洗練された…?)との間の“断絶”もまた大いに感じさせる。
以下2曲も別名義だが彼の楽曲。テクノにしてもそうだけど、ダンスミュージック界隈は別名義がやたら多くてよく分からなくなる。
・Washing Machine / Mr. Fingers(1985年)
・Mystery of Love / Mr. Fingers(1985年)
アシッド・ハウス:”物語性”の欠如したブラックミュージック
シカゴハウスはダンスミュージックだということ以外、素人ゆえに一切の事柄から自由であり、また彼らは素人であることに劣等意識を持たなかった。故にハウスの音楽的多様化が短期間で為され、理性を放棄したかのような音の幻覚性、つまりアシッドハウスと戯れることさえ憚らなかった。
1987年にリリースされた「Acid Tracks」が開いた突破口は、ハウスをソウル・ミュージックから切り離し、過去のブラック・ミュージックに前例を見出すことのない突然変異めいた奇矯な音楽をもたらした。それはアシッド・ハウスと呼ばれた音楽だった。それは感情に働きかける”音楽”ではなく、麻酔薬のような”音響”だった。機械による反復だった。
P123
・Acid Tracks / Phuture(1987年)
途中から入ってくる、ベースマシンTB303のイコライザーを奇妙に効かせたことで生まれた奇怪な音の反復こそがこのアシッドな感覚の正体で、製作者たちはこれを偶然発見した。その気色が悪い反復がただ延々と続いていく様は馬鹿馬鹿しくもあるけれど、しかし何かのきっかけでこれに完全に没入してしまうと帰ってこれないんじゃなかろうか、という恐怖も少しばかり伴う。この曲はシカゴだけでなくデトロイトやヨーロッパにおいても大ヒットとなり、ダンスミュージックの構造そのものに変化を与えた。
この大ヒットを契機にまた多くのアシッドハウスが量産された。無邪気さがずっと闇の方向へ飛び込んでいくような感覚がある。
・Land of Confusion / Armando(1987年)
・Confusion's Revenge / Armando(1988年)
・151 / Armando(1988年)
・Magic Feet / Mike Dunn(1989年)
・Computer Madness / Steve Poindexter(1989年)
・Acid Thunder / Fast Eddie(1988年)
・We are Phuture / Phuture(1988年)
・Dream Girl / Pfantasy Club(1988年)
・Phantasy Girl / Pfantasy Club(1987年)
これらのトラックが偶然の産物・ジョーク的なものなのか、ということについて筆者は、果たしてそうだろうか、"Acid Tracks"のカップリングの"Your Only Friends"における、擬人化されたコカインが語りかけてくるバッドトリップの感覚や、1988年のBam Bamによる"Where's Your Child"における神経質でホラーに満ちたバッドトリップの感覚は、ダークサイドの幻影を、もしくは最悪の事態さえも楽しんでいるかのようだ、と指摘する。
・Your Only Friends / Phuture(1987年)
・Where's Your Child / Bam Bam(1988年)
アシッドハウスは製作者側さえその広がり方に困惑し、批難さえしてしまうアシッドハウスだが、それだけ“ドラッグ”音楽としてあまりに機能的だった。まだ精神性的に伝統的な黒人音楽と結びつくことが可能だったディープハウスと比べて、アシッドハウスにはそのような物語性が無い。
しかし、それが故に民族的な帰属意識に限定されない初めてのブラック・ミュージックにもなった。ある人はアシッドハウスにおける文化的変容を「仲間的な抑圧における順応からの自由」にあると指摘する。歴史や他者との断絶の先に広がるチープでクレイジーな感覚が、初期のAphex TwinやSquarepusherなどを触発し、またその断絶感こそが、ゲイカルチャーであることと同様に、ハウスがヒップホップみたいにその文化的文脈とダイレクトに結びつかない原因ともなった。
そしてこれが第3章で言うところの「ブラック・サイエンス・フィクション」と看做されPファンクの精神性と混ざることで、デトロイトのUnderground Rasistanceに引き継がれ、発展していくこととなる。つまり、この本の裏テーマ的存在である「黒人的宇宙感」をアシッドハウスは大いに左右した、ということか。「宇宙」とかそういうタイトルが付いた曲は全然見当たらんけども。
ハウス・コミュニティの崩壊とムーブメントの終焉
この本はブームの終焉についてきっちり書くのが哀愁を誘う。
上述のとおり、世界的に広がったハウスのブームは、クリエイターたちがもっとまともなレーベルと契約を結べる機会を作り出し、その結果シカゴからめぼしいクリエイターがいなくなる事態となり、ブームは終焉した。シカゴの街で黒人として暮らすことの危険さや、レーベルの杜撰な管理体制などは、彼らが後腐れなく街を去るのを後押ししただろう。
シカゴで一大ムーブメントのベースとなった2大クラブについても、The Power Plantは1986年に閉店し、Frankie KnucklesはNYに帰った。もう片方のMusic Boxも1988年に閉店し、ヘロイン中毒者だったRon Hardyの容態はその後さらに悪化し、1992年に死去した。
それにしても、この章に出てくる人たちのインタビューは妙なテンションなことが多くて、よく「メーン」とか言い出すのが可笑しかった。きっと本当にインタビューでそう言ってるんだろうな。個人的には、デトロイト勢のようなシリアスさが無く、半ば適当なままなかなかに虚無的なトラックを妙に楽しげに量産していくこの章の登場人物達の妙にエネルギッシュな様は読み物として面白く、筆者の考えるオルタナティブな黒人音楽としてのテクノのことを横に置いてもいいならば、この章がひょっとしたら一番読んでて楽しかったかもしれない。
第3章:ブラック・サイエンス・フィクション デトロイト・ブラックとPファンク
あらすじ
この章は大4章以降の具体的なデトロイトテクノ勢の紹介の前段、と言える内容で、その肝心なデトロイトテクノがどういった場所で、どういった歴史の下に生まれることになったのか、そのバックボーンを語る上で、アシッドハウス等々はともかくもう一つの柱としてここまでまだ語られていなかった、一部の黒人音楽に見られる妙にぶっ飛んだ宇宙趣味、所謂“ブラック・サイエンス・フィクション”について、特に重要なPファンクを軸に、それをデトロイトの当時のキッズたちにラジオを通じて伝導したラジオDJのThe Electrifying Mojoの影響力も交えながら、やたらとコメントが長くて熱いDerrick Mayはじめ多くのデトロイトテクノのクリエイター達のインタビューも交えながら語られていく。筆者的にはここからの章こそが本番だろう。
”モダン・シティ”の繁栄と荒廃-デトロイトの地政学-
デトロイトがどのようにして荒廃し、黒人と犯罪の多い地域になっていったのか、その歴史を概観する。
最重要なのは、そもそものデトロイトのかつての繁栄の軸として存在していたフォードモータースで、ここにおいてかつて人々は近代的分業体制の中で高所得を得て、職場と家を車で行き来するという全米でももっとの生活水準の高い暮らしを謳歌していた。そのような暮らしの中、食と人権を求めて南部からの黒人の移住が急増してきては大きな人種対立やそれに伴う事件なども発生していた。それでもフォード社が白人と同じ額の給料を黒人に支払ったりもあり、黒人は移住し続けた。
しかし時代が降って、モータウンレーベルが1960年代後半に繁栄を極めた頃には、繁栄は減衰を始めた。公民権法が成立しても変わらない、むしろそれに対する白人の反感により激しくなった迫害が時折暴動に発展し(いわゆる“ロング・ホット・サマー”)、特に1967年に起きたデトロイトでの暴動は激しく、破壊的だった。そして、街の基盤そのものだったフォーディズムが時代遅れなものとなっていき、オイルショックと日本車の輸入拡大によってついに崩壊、大規模な人員整理が始まったこと、そして白人の郊外への移住、所謂”ホワイト・フライト”も重なり、デトロイトのダウンタウンには失業した黒人で溢れかえり、犯罪が全米屈指の発生率で多発し、借り手のいないビルディングが朽ちるがままになっていく光景が現出した。報道がまたそのような光景を全米に発信し、街をますます孤立化させた。
デトロイトテクノはそんな、荒廃が進みすぎて、普通の大都市であれば備わっているような”ティーンエイジのユートピア”、たとえばDJが流す音楽で踊るナイトクラブのようなものさえ失われてしまっていた、代わりに延々と荒廃と犯罪が蔓延る街の光景の中、激しい文化的飢餓感を有した一部中産階級の黒人層から誕生することとなった。むしろその荒廃が、市民的プライドだとか人種的伝統とか因習とかを知らずに、自身のスタイルを自由に模索させることにつながった。大人達のいない、ニューウェーブばかり流れるハイスクールパーティーとよりストリートで暴力的なシーンとが離れて存在してはごく稀に交わり、そしてラジオでは、後のデトロイトのシーンの方向性を文化的な意味で決定づけたとされる伝説的な人物が活躍し、大きな影響力を残した。今日では“アフロ・フューチャリズム”などとも称される“ブラック・サイエンス・フィクション”のコンセプトをデトロイト・テクノ第一世代に浸透させたその伝道師ラジオDJの名前はThe Electrifying Mojoという。彼こそがデトロイトテクノのゴッドファーザーだと多くの人物が指摘する。
アフロ・フューチャリズム-Sun Raの絶望からGeorge Clintonの“反転”へ-
デトロイトという都市はモータウンという華やかなレーベルを有する反面、サマー・オブ・ラブと謳われた時代においてそれと真逆の破壊的なスタンスを有するMC5が登場した土地柄であり、そしてMC5はデトロイトのロックの観客ににSun Raを、そして後にはFunkadelicを教えた。
大いに宇宙的コンセプトを追求したSun Raにおける宇宙観というのはしかし、希望に満ちたものではなく、むしろその逆で、世界の終わりを通じてこの「醜い抑圧に満ちた現世」の存在そのものを否定する深いオブセッションに満ちている。
・Space is the Place / Sun Ra(1972年)
サン・ラの世界認識は、「この世界は間違っている」などというものではない。「こんな悪に満ちた世界とは何かの間違いであり、実はすでにこの世界は存在していないのだ」というものだ。(中略)彼はかつて「私はアメリカに属することなく、ブラック・ピープルにも属さない」とも言っているが、そのことを想えば宇宙とは居場所を失った者たちの居場所とも言えるだろう。
P179-180
そして、ある意味この本の裏の主役的存在が登場する。Pファンクの首領、George Clintonその人である。
こうした世界に対する”絶望”を相対化し、そして実にユーモラスに、しかも前向きなエネルギーに転化させたのがジョージ・クリントンだった。
P180
(本に掲載されているFunkadelicのいくつかの曲はアルバムごとサブスクになかったのでプレイリストには入っていません悪しからず。)
・Promentalshitbackwashpsychosisenemasquad / Funkadelic(1978年)
世界は使用無料の便所
リアリティは揚げたてのアイスクリーム
・What is Soul? / Funkadelic(1970年)
ソウルとは何か? 知るか!ハッハッハ!
ソウルとは風呂場のベルでる
ソウルとは何か? 知るか!ハッハッハ!
ソウルとはトイレットペーパーで巻かれた
ジョイントである
このように彼には現実の何もかも、黒人文化の聖域と言える「ソウル」の概念さえも茶化してしまう度量があった。サイケデリックロック的に展開するときにはFunkadelicを用い、より馬鹿馬鹿しいサイエンス・フィクションでファンクするときにはParliamentを用い、独自のファンクのもはや宗教的とさえ言える宇宙を展開させたのが彼の最大の功績だ。その混沌は他の同時代の、もっと自身の音楽性や文化に自信を持った誇りある態度と比較しても異質で、まるでひたすら混乱することによって何かに抵抗・決別しているような意思を感じさせる。この本ではFunkadelicの曲ばかり取り上げられているが。あまり本の訳詞をここに載せるのも微妙なので、以下は一部以外は楽曲のみ掲載。
・Maggot Brain / Funkadelic(1971年)
それにしても、Jimi DHendrixもかくやと思わされる激しくも宇宙的なギタープレイだ。まるでアンプが焼き付いて自然に音が歪むかのようだ。
・Free Your Mind and Your Ass Will Follow / Funkadelic(1970年)
・Wake Up / Funkadelic(1972年)
・You Hit the Nail on the Head / Funkadelic(1972年)
・Everybody is Going too Make it This Time / Funkadelic(1972年)
後年、彼はインタビューで、Pファンクが戦うべき相手のことを“ソーシャル・エンジニアリング”(社会的操作)という言葉を使って説明している。彼はこの世のシステムをはなっから信用しておらず、その過剰なナンセンスと道化により、カオスを誘発するアナーキーや、確固たる拒絶の意思を表している。
・Atmosphere / Funkadelic(1975年)
そして、徹底的に下ネタやナンセンスをキメまくることによって、生の黒人の感性を踏み躙ることなく開放し、しかも黒人の歴史への執着をユーモラスにしかも潔く前向きに裏切る、というアクロバティックな展開を見せる。ここでようやくParliamentの曲が提示される。この側面はParliamentの方がより強烈に思える。
・Prelude / Parliament(1976年)
※この曲がアルバム『Clones of Dr. Funkenstein』の冒頭曲なことに留意
ファンク・アポン・ア・タイム。ファンクパス時代に銀河をファンクにするために設計されたアフロ飛行士の概念は最初、人間に課せられたものだった。が、その構想は取り消され、もっとも神聖なる現象である複製ファンクにポジティヴな態度が寄せられるまではピラミッドに封印された。そしてそれらは地球の公営住宅で、キングとファラオの共同住民とともに待つであろう。眠れる美女のキスのごとく、それら増殖のために開放するであろう、選ばれた者ファンケンシュタイン博士のイメージを。
Parliamentの楽曲の世界観全体に漂う「コイツ何かやべえもんキメてんのか…?」
という雰囲気に対しては、「ファンクをキメてんのさ」と返すことができるだろう。他の曲ではまるでドラゴンボールにおける“気”とか“戦闘力”とかのノリで“ファンク”を用いたりして、ともかくParliamentにおける“ファンク”のバカバカしすぎるまでの活用方法は、最強の相対化だとも言える。
1960年代にJames Brownが発明しSly Stoneを通過したファンクを彼は銀河系にまで飛ばした。
アフロ・フューチャリズムの本質には歴史的拘束からの激しい開放願望があり、その先に広がる宇宙はときとして、白いアメリカに同化することなく抵抗し続ける彼らの黒い居場所にもなり得る。しかもサイエンス・フィクションにおける未来という仮定が、黒人文化の伝統以外の要素がそこに混合されることに必然性を与える。極端な話、宇宙では何をやってもいいのだ!こうしたコズミック・コンセプトは今もなお、ラッパーのクール・キース、あるいはドラムンベースの4ヒーローなど、ブラック・ミュージックのあらゆる場所で姿を見せているが、これを大衆音楽の次元で広く最初に打ち上げたのは、ジョージ・クリントンである。
P191
・One Nation Under a Groove / Funkadelic(1978年)
The Electrifying Mojoのデトロイト:黒人音楽に拘泥しないラジオ
デトロイトの街は全米でもとりわけヨーロピアンなエレクトロニック・サウンドやニューウェーブが人気のある都市だった。特にKraftwerkの存在はデトロイトテクノに大きすぎる影響を与えている。デトロイトは全米で最もKraftwerkのレコードが売れた都市だったという。
・Trance-Europe Express / Kraftwerk(1977年)
・I Feel Love / Donna Summer(1977年)
・Fear / Easy Going(1978年)
・Give Me a Break / Vivien Vee(1979年)
・Problèmes D'Amour / Alexander Robotnick(1983年)
・It's a War / Kano(1980年)
・Holly Dolly / Kano(1980年)
・Fire Night Dance / Peter Jacques Band(1979年)
1980年代以降には上記のようなエレポップの他にニューウェーブもリストに加わってくる。本ではアーティスト名が列挙されているだけなので、プレイリストの選曲は上述のとおりぼくが行っています。
・Just Can't Get Enough / Depeche Mode(1981年)
・We Came to Dance / Ultravox(1982年)
・Don't You Want Me / The Human League(1981年)
・Temptation / Heaven 17(1983年)
・Fade to Grey / Visage(1982年)
・Cars / Gary Numan(1979年)
・Rock Lobster / The B-52's(1979年)
・Los niños del parque / Liaisons dangereuses(1982年)
・Moskow Diskow / Telex(1979年)
・Cue / Yellow Magic Orchestra(1981年)
このような、およそ当時の黒人ラジオ番組ではかからないような楽曲ばかりをラジオで流して一部のデトロイト民に「世界中がこういう音楽に夢中なんだ!」と勘違いさせた人物こそがThe Electrifying Mojoである。デトロイトテクノの登場人物みんなが彼こそがグランドファーザーだと言う。彼はJames Brownの剥き出しのソウルとGeorge Clintonのアフロ・フューチャリズム、そこにKraftwerkのヨーロッパ式エレクトロニック・ミュージックをつなぎ合わせた。彼は当時の黒人ラジオにありがちな音楽、モータウンやブルーズなどは殆どかけなかった。Princeさえ彼の自由な気風に信頼を寄せ、デトロイトを自身の第二の故郷「ぼくのモーターシティ・ベイビー」と呼んだ。彼はラジオを通じて中産階級だけでなく若いギャングたちにも語りかけ、アンチ・ヴァイオレンスのメッセージをいつだって放っていた、とこの本の後半の主役にしてこの本が捧げられた最大の対象と言っていいであろうUnderground ResistanceのMike Banksは言っている。The Electrifying Mojoは自身のコンセプトを以下のように説明する。
わたしは距離ができてしまったあらゆるギャップに橋を架けようとした。上の世代と下の世代、金持ちと貧乏人、白人と黒人、そして知と無知とのあいだにもね。
P202
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中締め
以上で前半は終了です。なるべくすぐに後半も上げないと、自分のこの本への熱が別のところに行ってしまいそうなので頑張ります。
(追記:結局2週間もかかりましたが後編です)
*1:少なくともwikipediaの「テクノ」の項にはそのように書いてある。勿論、言葉の定義なんて確実な権威があるものでもなく、YMOとかをテクノと呼んでも世間的にはさして問題ないことのが多いんだろうけど、でもここを分けることによって「テクノっていう割にはKraftwerkもYMOもバンド的な生音が結構多いよなあ。全部メカって感じの所謂テクノとは何か感覚違うよなあ」と薄ら感じていた違和感に答えが出たのは、何かスッキリしたものを感じました。
*2:Tr.91〜Tr.90。198ページに記載の「デトロイトで当時人気だったニューウェーブバンド」の名前が列挙された5行程度の部分のアーティストからそれぞれ1曲ずつ。
*3:この曲はコード進行が完全にブルーズ進行。
*4:本によると「そこにはDJミュージックの原型がみえる。反復とシンコペーション、ブレイクの使い方や音の抜き差しなどは、全くその後のダンス・ミュージックを予見しているようだ」とのこと。
*5:しかしこのフォローも、もしかしてJames側の「(楽曲としての)ディスコには歌が無い」という話と筆者の「(DJの場としての)ディスコには歌も欠かせない要素だった」という話が若干すれ違っている感じもしなくもない。
*6:それにしてもこの本は"Larry"という名前の人物がやたらと出てくる。