ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

野田努『ブラック・マシン・ミュージック』のレジュメ(後半)

 レジュメと銘打つ割に文字数が多すぎる気がしないでもない記事の後半です。前半は以下の記事です。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 なお、新装版の方を購入したので、初版の2001年から16年の時を経て、何が変わってしまったのか、何が変わらずにまだそこにあるかについての書き下ろし『16年目のブラック・マシン・ミュージック』も読みました。そこも含めてレジュメしたいと思います。

 

 

プレイリスト

open.spotify.com

 

 結局、全部で155曲、16時間以上という長大なプレイリストになりました。そして何より、この本の真の主役といえるであろうUnderground Resistanceの楽曲がSpotify上に全然無いので*1、肝心な部分がすっかり抜けてしまったようなプレイリストにも作ってて感じられました。この記事上では代わりにYouTubeによってかろうじてその辺を補っています。

 ちなみに本の各章とプレイリストの楽曲の対応関係は以下の通りです。Tr.90以前については前の記事を参照してください。

 

・第4章:Tr.91"The Robots"〜Tr.121"Ocean to Ocean"

・第5章:Tr.122"Can't You Feel It"〜Tr.132"At Les"

・第6章:Tr.133"Sea Quake"〜Tr.155"Negative Revolution"

 

 

第4章:デトロイト音楽研究所 -デトロイト・テクノの始動-

あらすじ

 この本の主役であるデトロイトテクノの、その発祥の時代である1980年代の各アーティストの活躍を、「The Belleville Three」と呼ばれる3人を中心に見ていく章。

 はじめにJuan Atkinsがテクノを想像し形作り、Derrick Mayが外部とコネクトして広がりを与え、Kevin Saundersがヨーロッパ圏での大ヒットとなる。しかし、ヨーロッパでのヒットと遠征の増加は、シカゴハウスと似たようなシーンの停滞を生み出す。やがてメディアや業界に嫌気がさしたDerrick Mayはレコード作りを一旦辞めてしまう。しかし、Carl Graigや、また1980年代のうちから激烈なDJとして知られていたJeff Millsをはじめ、様々なアーティストの活動により、次の第5章で書かれる“テクノの季節”がやがてやって来る。

 

 

Juan Atkinsデトロイトテクノの幕開け

 デトロイトテクノを最初に始めたのは彼だ。経済的に恵まれた環境で育ち、子供の頃から音楽に傾倒し、The Electrifying Mojoのラジオで聴いたKraftworkに熱中した。

 

「未来であり、回答でもあり、そしておれがずっと探し求めていたものだった。“The Robots”にはシンバルの音がなかった。ゲイト・ノイズがかけられたスネアとキックドラムの音が正確に繰り返され、そこにはシンバルの音がなかった!おれは凍てついた」

P208

 

・The Robots / Kraftwerk(1978年)

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※ちなみにライブではシンバルも入るっぽい

 

 Kraftwerkのアフロミュージックにおける並々ならぬ影響力については同時代のヒップホップ勢、Afrika BambaataaやGrandmaster Flashなども言及していて、黎明期ヒップホップに大きな影響を与えたことがわかる。しかしデトロイトでのそれは特に凄かったとされ、Juan Atkinsが熱中したそれはヒップホップとは別の流れの革命となった。伝統的なブラックミュージックを拒絶し、かつゴーストタウンと化したデトロイトへの倒錯した感情を想起させた。

 

Numbers / Kraftwerk(1981年)

 

 デトロイトダウンタウンから郊外の比較的治安の良いビルヴィレ地区に引っ越してから、彼は後にデトロイトテクノの同志となるDerrick May等と出会う。とはいえ、ハイスクールの時点で音楽についてシリアスに考えていたのはJuanだけだったという。

 彼はベトナム帰還兵だったRichard Davisと音楽ユニットCybotronを1980年に結成し、これがデトロイトテクノと呼ばれる音楽の始まりとなるエレクトロニクスに関する知識も機材も大いに有していたRichardとの出会いにJuanは大いに興味を示し、その中でテクノの精神的バックボーンの一つとなる一冊の本、Alvin Toffler『第三の波』を紹介された。農業革命、産業革命といった二つの波を経て、これから第三の波である情報革命が始まり、脱産業化社会が押し寄せてくる、といった主張の本だが、その第二の波から第三の波への移行はまさに当時のデトロイトの状況を感じさせ、そしてそこには彼がこれから創始者となるジャンルの名前が殺し文句のように潜んでいた。

 

テクノの反乱は、それを認めようが身とめまいが、“第三の波”の代理人である。それは消滅したりはしない、むしろ増えていくだろう。彼らは来るべき文明の先導者なのである。

『第三の波』Alvin Toffler

 

後にJuan Atkinsは雑誌の取材で自分たちの音楽ジャンルが何なのか尋ねられて思わず「テクノさ!」と声高に宣言する事になる。ここに、KraftwerkYMOなど(“テクノポップ”とされる)と区別される“テクノ”というジャンルが誕生する。

 Cybotronはシングル『Alleys of Your Mind』で自主レーベル「Deep Space」からリリースしてデビューする。彼らの楽曲はThe Electrifying Mojoのラジオでプッシュされて、1万枚以上のセールスを記録した。次のシングル『Cosminc Cars』も1万枚以上のヒットを果たす。が、それらは所詮ローカルヒットであり、世界的に注目を集めたエレクトロサウンドAfrika Bambaataaの『Planet Rock』だったことを苦く思った当時の心境をJuanは後に語っている。

 

・Alleys of Your Mind / Cybotron(1981年)*2

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Cosmic Cars / Cybotron(1982年)

 

 しかしながら『Planet Rock』の大ヒット等の出来事はエレクトロブームに火を付けることとなり、Cybotronもカリフォルニアの中堅レコード会社と契約し、1983年にはアルバム『Enter』をリリースしている。筆者はこのユニットの最高の瞬間をこのアルバム冒頭に置かれた“Clear”に見ている。

 

・Clear / Cybotron(1983年)

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筆者は特にこの曲でのヴォコーダーの使用により、ブラックミュージックにおいて命のように大切な要素である「声」をこのようにロボティックに処理してしまうことについて、影響元であるKraftwerk等の“さわやか”な質感とは異なる“暗さ”“メランコリック”を感じると言及している。

 しかし、このアルバムの時点でCybotronの2人の音楽的な内部分裂が起きており、それは実際にアルバムを聴くと、ひたすらエレクトロニクスなトラックと、そうでなくて生ギターの音とニューウェーブな歌心のボーカルの曲が複数収録されていることに気づく。これらのロック的なサウンドはRichard Davisの意向であり、よりロボットファンク的なJuan Atkinsの方向性と食い違いが発生している。

 

・Industrial Lies / Cybotron(1983年)

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これを聴くと、Richard Davisって人は案外Jimi Hendrix志向だったんだなあと思わされる。

 

 結局Cybotron1984年に終了する。最後の曲は“Techno City”という楽曲で、これはサブスクで見つからなかったのでプレイリストに入っていません。

 

・Techno City / Cybotron(1984年)

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ノリの良さよりも不思議な切迫感・メランコリアがあり、筆者もDerrick Mayもそこにデトロイトテクノのある種の原風景を見ている。

 

*3

 Cybotron解散後もJuan Atkinsは精力的に活動し、むしろ筆者はデトロイトテクノ初期の最良の瞬間を、彼がModel 500名義で1985年にリリースした"No UFO's""Night Drive"のシングル2曲に見ている。発売当時はデトロイトとシカゴのアンダーグラウンドでしか知られることのなかったものだが、特にシカゴでは驚きをもって迎えられたという。ここにはDerrick Mayがシカゴで衝撃を受けたシカゴハウスの感覚も巧みに混ぜ合わせてある。

 

・No UFO's / Model 500(1985年)

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希望はないという UFOはないという

それならばなぜ、おまえは高みを見るのか

やがておまえは飛ぶのを見るだろう 飛べ!

No UFO's / Model 500

 

筆者はここにまた、本人のインタビューを交えて、殺人と空っぽのデトロイトの感覚と、そんな絶望的状況の絶望を否定し、ありえないことを表現したいという願いを見出す。その上で次のシングル“Night Drive”に彼の変容願望、そしてブラックエレクトロの真骨頂を指摘する。

 

・Night Drive (Thru Babylon) / Model 500(1985年)

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 この後もJuan Atkinsの絶好調は続き、それはやがて自主レーベル「Metroplex」のサブレーベル「Transmat」を産み、こちらはDerrick Mayが運営し、彼が大活躍する場となっていった。

 

Technicolor / Channel One(1986年)

 Juan Atkinsの別名義でのリリース。アシッドテクノの先駆的作品とされる。

Play it Cool / Model 500(1986年)

Goodbye Kiss / Eddie "Flashin" Fowlkes(1986年)

 

 

Derrick May:シカゴ、デトロイト、そして世界

 ハイスクール卒業後、Cybotronの手伝いなどをしていたDerrick Mayは、1983年ごろからシカゴに通うようになり、「The Power Plant」のFrankie KnucklesのDJに衝撃を受け、そして「Music Box」のRon Hardyに吹き飛ばされた。彼は積極的にデトロイトの知り合いをシカゴのクラブに連れ出すようになり、またデトロイトJuan Atkinsが起こしている“事象”をシカゴに紹介する役にもなった。生まれたばかりのデトロイトテクノがシカゴという市場にまずありつけたことは小さくないことだったはず。

 そしてJuanの自主レーベルMetroplexのサブレーベルとして生まれたTransmatの運営をDerrickが行うこととなり、ここにおいて彼はJuanとは異なる方向の音楽性を開花させていった。彼は自分をハウス側の人間だと認識している節があるようで、そしてまさにシカゴのダンスフロアでやられた感覚を追い求めようと、ダンサブルなリズムを執拗に組み立てていくのが特徴か。

 

Let's Go / X-Ray(1986年)

 いきなり変名ユニット。本人はあまり気に入ってないらしいが、リズムへの執着をすでに感じさせる。

 

 1987年のシングル二枚で彼は一気に飛翔する。どちらも「Rhythm is Rhythm」名義でのリリース。

 

・Nude Photo / Rhythm is Rhythm(1987年)

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 細かいシンバルと四つ打ちが作り出すポリリズムの感覚。

 

The Dance / Rhythm is Rhythm(1987年)

 筆者曰く、彼がとりわけ大好きなシカゴハウスの名曲"Can You Feel It"からの影響が感じられる楽曲。途中から入ってくるパッドのこと…?

 

Strings of Life / Rhythm is Rhythm(1987年)

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 彼の代表曲にして、この後に展開されるヨーロッパでのレイブカルチャーにおいて必須の楽曲と言われるほどまでになった名曲。ベースレスで、代わりに延々と扇情的に旋回するシンセのストリングスが、リズムと化したピアノのリフとともに大いにキャッチーな要素になっている。途中で展開が変わってリリカルなピアノのリフが前に出てくるところも実に格好いい。

 そして、デトロイトで何かが起きていることをかぎつけてきたイギリスはバーミンガムのDJであるNeil Rushtonがこのデトロイトの音楽のコンピレーションアルバムを大メジャーであるヴァージンレコードから出したいと打診した際に、自らコーディネイターとなって企画を進めたのが彼だ。結局それは1988年に『Techno! The New Dance Sound of Detroit』としてリリースされ、大きな反響を得る。その中からシングルカットされた『Big Fun』がイギリスのヒットチャートを駆け上り、デトロイトテクノはまずイギリスで火が点くこととなった。彼もイギリスでDJをすることが増え、“セカンドサマーオブラブ”と呼ばれるレイブの狂騒の先頭走者の1人となった。

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Kevin Saunderson:NY生まれのディスコなテクノ

Kevin Saunderson(ケヴィン・サンダーソン) - ハウスミュージックラバーズ

 上記二人とともにデトロイトテクノの始祖「The Belleville Three」と称される彼は3人で唯一出身はデトロイトではなくNYで、その後15歳の時にデトロイト郊外のビルヴィレ地区に引っ越し、部活でからかってきたDerrick Mayを殴り飛ばした(!)ことがきっかけで親友になり(!!?)、その後自主レーベルからリリースし始める。

 彼の場合、出身地NYの「Paradise Garage」をフェイヴァリットにしていたため、DJのLarry Revan等から受けたディスコの影響が非常に強く、歌やメロディのある、ディスコ的な外連味の効いたトラックはキャッチーで、イギリスで大ヒットしデトロイト勢の活躍の突破口になった上記『Big Fun』も彼がInner City名義でリリースした曲。

 

Triangle of Love / K-Reem(1986年)

・Big Fun / Inner City(1988年)

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 ここまで来るとテクノとか以前にディスコでは…?という気持ちもしてくる。ポコポコ入るパーカッション類に大いにLarry Revanっぽさを感じる。

 

Good Life / Inner City(1988年)

 こちらもヒットした。

 Inner Cityは連続ヒットを受けて、最初のアルバム『Paradise』*4はやはりヴァージンからのリリースだった。

 彼はまた自分の名前を冠した自主レーベル「KMS」からリリースを重ねていく。

 

 

The Music Institute:デトロイトを象徴するナイトクラブ

▷ DETROIT: historia del TECHNO 🎛️ ✓ - DESIRE TECHNO

 コンピレーションによって世界にデトロイトテクノが知れ渡る中の1988年夏には、デトロイトテクノ人脈によってDIY的にナイトクラブが作られ、そこにはまるでナイトクラブらしからぬ「The Music Institute」(音楽研究所)という名前がつけられた。そこではDerrick Mayをはじめ有力DJが参加し、そこにはそれまでクラブカルチャーと接点を持てなかった人間も多数やってきた。その代表的な人物にCarl Craigがいる。真っ暗な中にストロボだけが明滅する、という、今では“デトロイトスタイル”と呼ばれてアンダーグラウンドなテクノパーティの基準ともなったスタイルもここが発祥。

 しかし、コンピ等で有名になったクリエイター達は、シカゴハウスと同じように海外からのDJのオファーが多数届き、海外でDJをすることが増えていったため、デトロイトで活動する時間は減っていった。The Music Instituteは結局1年と4ヶ月しか続かなかった。しかし、最後の夜のフライヤーの中には、このクラブがNYのParadise GarageやシカゴのMusic Box、イギリスのFantaziaといった有名クラブと肩を並べる存在になったんだという自負が記されていた。

 

 

絶頂と最初の波の退潮、あとCarl Craig

 デトロイトテクノは1989年から1990年にかけてその最初のピークを迎えていた。

 

・Beyond the Dance / Rhythm is Rhythm(1989年)

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 リズムが抽象的でイマジナリーな音として処理され、より音像はドリーミーに駆け抜けていき、後半でキックが入る時のシックな快楽、ブレイクからのリズムの氾濫といった展開がどこかドラマチック。Derrick Mayが自分の曲で最も気に入ってる曲と公言している。

 

R-Tyme / R-Theme(1988年)

 これもDerrick Mayの変名によるリリース。やはりドリーミーな質感が強い。

 

 このようにドリーミーになっていくテクノは、ダンスフロアを飛び出してその外にも届くようになっていった。この流れを引き継ぎ、アンビエント方面へのテクノの進化を大いに促したのがCarl Craigだった。彼が18歳の時に作った"Neurotic Behavior"にはそもそもリズムがなく、そのイマジナリーな音の広げ方は、ダンスミュージックとしてのカテゴリーを超えた“音楽”ないし“表現”としてのエレクトロニック・ミュージックだった。

 

Carl Craig

・Neurotic Behavior / Psyche(1989年)

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Elements / Psyche(1989年)

Crackdown / Psyche(1989年)

・Galaxy / BFC(1989年)

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 どの曲にもどこかもの寂しくも涼しくなるようなファンタスティックさが浮かんでいる。

 

 Derrick mayの名声は1990年のシングル"The Beginning"によって頂点に達する。

 

・The Beginning / Derrick May(1990年)

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 よりイマジナリーなリズム処理が進み、それがよりはっきりした存在感のスネアの乱れ打ちとポリリズムを構成する。筆者曰く「明確なまでにアフロ・ディアスポリック・ダンス・ミュージック」。

 この曲により彼はイギリスの主要音楽雑誌全ての取材に応じているが、インタビューでは自身を何か世間に都合のいいカテゴリーに当て嵌めようとする意図を鋭く察知し派手に拒絶する場面が多く見られた。イギリス側も"Strings of Life"に触発されたと思しき楽曲が登場しつつあった。

 

Voodoo Ray / A Guy Called Gerald(1988年)

Pacific State / 808 State(1989年)

 

 そんな中、イギリスのレーベルはデトロイトテクノのオリジねイターたちを捕まえて「Pet Shop Boysみたいなのをやれ」などの要求をするなどして、次第にDerrickとイギリスの、というか音楽業界との軋轢が大きくなっていった。彼は1990年代はかなり寡作となっている。

 しかし、シカゴハウスの面々がメジャーと契約し、パッとせずに消えていったのと異なり、デトロイト勢がここでメジャーを拒否し、インディペンデントにやっていくことに舵を切ったことはとても重要だったと筆者は言及する。Juan Atkinsが1990年にリリースした"Ocean to Ocean"等の歌詞に、筆者は彼らの自由が故に厳しさと寂しさがつきまとう放浪者の側面を見る。

 

・Ocean to Ocean / Model 500(1990年)

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Mind Changes / Model 500(1992年)

 

 

デトロイトのDJたち:Ken Collier、そしてJeff Mills

Ken Collier

 上記のとおり本での順番と前後するけども、「The Belleville Three」の活躍を中心としつつも、その時代のデトロイトアンダーグラウンドのDJたちについても触れてある。NYのParadise GarageやシカゴのThe Power PlantやMusic Boxのような存在感のものはなかったにせよ、むしろそういうものがなかったことがデトロイトテクノの多様性に結果的に繋がっていると筆者は指摘する。

 その中において、デトロイト郊外のバンドWas(もしくはNot Was)のいくつかの曲のミックスを手がけたKen Collierについては、デトロイトにおけるFrankie Knuckles、ディスコとデトロイトテクノの溝を埋めた存在、などと言及され、Derrick Mayや次の章以降の主役となるMike Banksが影響を受けたことを公言している。

 

Wheel Me Out / Was(1981年)

Tell Me That I'm Dreaming / Was(1981年)

 

 そして、そのような初期のパーティーシーンで1人、孤立を恐れずに独特の衝撃を有するDJが1983年にデトロイトに現れる。The Electrifying Mojoがラジオで唯一掛けなかったジャンルとされるヒップホップを掛け、しかしそれを相当高速なピッチで操作し、超高速でカットするそのDJ捌きでヘヴィ・ファンクの太い響きを別の次元まで高めたのはDJ Wizzardと称する人物で、本名はJeff Mills

 彼は短い期間インダストリアルバンドに参加した後、そして彼にとって最も重要な共演者となるMike Banksに出会う。

 

 この辺の章は正直、第5章へ向かう繋ぎの要素が大きい。

 

 

第5章:メッセージ・トゥ・ザ・メジャース -アンダーグラウンドレジスタンス-

あらすじ

 この本の思想的な流れにおける中心となる存在であるUnderground Resistance(以下“UR”と記載。)と、そしてその主導者であるMike Banksの活動がまず大きく描かれていく。Jeff Millsと組んだ初期URにおいてハードテクノを実践し、しかしそこに虚しい消費の影を見るや、より思索的でイマジナリーなギャラクティックコンセプトに到達し、しかもそれはむしろJeff Mills脱退以降より深まっていった。

 また、他の1990年代前半くらいまでのデトロイト電子音楽シーンもここで記載されており、特に前の章でもそこそこ触れられたCarl Craigが、URの2名とともに影響力が大きいとしている。URを脱退した後、執拗にミニマルな音楽の創作に向かったJeff Millsについても書かれる。

 

 

Mike Banks:タフにデトロイトシーンを支えることになる男

 この章から本格的に、この本がここまで書いてきたことが収束する地点として、彼及び彼が主催するURの記述がメインになっていく。上述のとおり、そのどこか地元密着の秘密結社めいた活動方針からか、サブスクに全然曲が上がっていないので、ここではせめて主要そうな曲をYouTubeで掲載していく*5

 屈強な肉体を持ち、街のごろつきのボス及びストリートレーサーとして過ごしていた彼は、借金取りの仕事さえしており、仕事のパートナーであった親友も殺害されるなど、デトロイトにおける典型的な"希望の見えない黒人”の一角だった。しかし同時にスポーツとそして音楽にも関わりを持ち続け、特に音楽についてが楽器演奏者として、NYでライブをしたりPファンクのサポートをしたりなどしていたことはのちのキャリアにおいて重要となる。

 Funkadelic、The Electrifying Mojoを通過し、シカゴでアシッドハウスに衝撃を受けた彼は機材を見に行った楽器屋でJuan Atkinsとたまたま出会い、Cybotron等のテクノやThe Music Instituteを知った彼は同時にデトロイトアンダーグラウンドシーンを知り、その一員になっていく。彼がテクノに興味を持った理由のひとつは、何よりもテクノは安く製作することだった。彼はR&Bという音楽が、お金を十分に掛けないとクオリティコントロールの壁に阻まれてしまうことに毒ついている*6

 1989年、彼とJeff MillsはURを設立。これはプロジェクト名であり、同時にレーベル名でもあった。URはアンダーグラウンド・ミュージックの反抗者であり、政治性や社会性から遠ざかることでその効力を高めてきたダンス快楽主義を、むしろ政治性と結び付け、そしてシステムに牙を剥く獣の如きものに変質させた、とされる。

 

UR初期(ハードテクノ):1989年〜1992年

 時期としてはDerrick May達がメジャーレーベルからの出鱈目な契約を持ちかけられてうんざりしつつあった時期、彼らの音楽は最初ハードコアとして始まった。

 

・The Theory / UR(1990年)

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 彼らの最初のリリース。Carl Craig主催のコンピシングル中の1曲として発表。

 

・Your Time is Up / UR(1990年)

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 レーベルとしてのURからの最初のリリース。早速「お前の時代は終わりだ」とブチ上げるアジ力。

 

 URの音楽的特徴、それはDJ的なトラックとMike Banksの生演奏のコンビネーションだ。James Brownやら、この本ではやたら嫌われるモータウンやら、Jimi Hendrixやら、Public Enemyやらを一通り聴きあさった生粋のブラックミュージックファンである彼はその生演奏の投入によって楽曲にソウルやジャズの感覚を強力に注ぎ込む。

 しかしそこから、次のシングル『Waveform EP』でURは一気にラディカルに進化する。いわゆるハードテクノをひたすら邁進していく。Jeff Mills曰く、リスナーに何かに気付いてもらうべく、曲を作る前にまず話し合ってコンセプトを決めてから曲作りを始めていたらしい。

 

・『Waveform EP』UR(1991年)

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 一聴して、音から生っぽいソウル感が消え失せ、一気にアブストラクトで無機質な攻撃性に変異したことが窺える。

 

 1991年に彼らは怒涛のリリースを決行していった。『Sonic EP』『Elimination』『Riot EP』『The Punisher』『The Fury』。さらにURから」の他アーティストや別ユニットでのリリースも始まった。

 

・Punisher / UR(1991年)

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 URはレコードリリースだけでなく、彼らのスローガンを印刷したビラも配った。それは1967年の暴動を今に伝えつつ、しかし暴力ではなく、ソニック・ウェポンを手にした音楽による暴動として、人種暴動ではなく、アンダーグラウンドの人達による暴動を目指した。それはデトロイトと宇宙を結ぶ暴動でもあった、とされる。その意思の現れ方は、1992年の彼らのアルバム『Revolution for Change』のスリーヴ裏面に記載されたメッセージに集約される*7。それは音楽によって変革を促し、George Clintonがいうところの”ソーシャル・エンジニアリング”である"プログラマー”を粉砕していこうとする闘争である。

 

・『Revolution for Change』UR(1992年)

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 1991年から1992年にかけて彼らはヨーロッパツアーも行い、レイブシーンに湧くヨーロッパにおいてそのハードテクノは目新しさもあって話題となった。

 

Rave New World / X-101(1991年)

 

 しかし、メジャーレーベルからの様々な誘いを、その裏にある「URをゲットー出身のいかれる有志にカテゴライズしよとする目論見」を、Mike Banksは全て拒絶した。

 

・Message to the Majors / UR(1992年)

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 彼らのハードテクノサウンドはヨーロッパのシーンに大きな影響を与えたが、しかしそのレイブトラックはやがて白人の商業主義に取り込まれ、エピゴーネンを大量に生み出す契機になってしまった。Derrick Mayは自分たちのリリースが退潮した際にデトロイトを継承したのがURや同じくハードテクノレーベルの「Puls 8」で、デトロイトテクノはむしろハードコアシーンへの影響の方が大きいことを指摘している。Mike Banksはここにおいて自身のハードテクノへの反省、“Rave New World”への挫折もあり、その思想的方向性をより宇宙的なものに変異させていく。

 

 

宇宙遊泳するUR:1991年〜ひとまず1995年

 ハードテクノを力強く生み出す傍ら、1991年の『Nation 2 Nation』の段階ですでに彼らのギャラクティックソウルの探究は始まっていた。

 

・Sometimes I Feel Like / UR(1991年)

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・The Final Frontier / UR(1992年)

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 1992年には『World 2 World』を発表。曲目は一気にスペイシーになり、特に収録曲の『Jupiter Jazz』は彼らの代表曲の1つとなった。

 

・『World 2 World』UR(1992年)

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 しかし、ヨーロッパツアーを経て世界の広がりを目の当たりにしてそこへの発展を求めたJeff Millsと、あくまでデトロイトという地域社会に根付いているからこそのURだとするMike Banks、それぞれの意図がすれ違ったことにより、『World 2 World』を最後にJeff MillsはURを脱退する。

 Mike BanksひとりとなったURだが、彼はまず新たなプロジェクト"Red Planet"を始めた。作者のクレジットを”火星人(The Martian)”として、その孤独な宇宙遊泳の記録が連なっていく。

 

Meet the Red Planet / The Martian(1992年)

Stardancer / The Martian(1993年)

Sex in Zero Gravity / The Martian(1993年)

Journey to the martian Polar Cap / The Martian(1993年)

 

 そしてRed Planetの活動と並行してUR本体から二枚組シングル『Galaxy 2 Galaxy』をリリース。この人リリースペースおかしい…。ここに収録された"Hi-Tech Jazz"もまたURの代表曲のひとつだろう。本ではこのシングルについてもはや詳細な全曲解説となっており、筆者は「ソロプロジェクトとなって以降のURで最も輝かしく、深く、魂を揺さぶる作品」としている。開始早々聴こえ始めるサックスをサンプリングしたキーボードの生演奏はトランシーなトラックに反して力強いけれど、不思議な調和と突破のバランスを保っている。

 

・Hi-Tech Jazz / UR(1993年)

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レコード最終面に刻まれた「おれはそれを見つけた」のメッセージの答えは、その1年後にリリースされたRed Planetシリーズ第6弾“Ghostdancer”にこそある、とされる。

 

・Ghostdancer / The Martian(1995年)

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 かつて白人に滅ぼされつつあった19世紀末のネイティブアメリカンの間で流行した、ゴーストシャツを着て踊れば白人に撃たれても死なず、その踊りによって新世界の誕生を祈り、白人の滅亡を願う、というのがゴーストダンス信仰だが、彼はそこに"白人的なるもの"(抑圧的なプログラマーと掛かるものであろう)の滅亡のためのダンスミュージックを作った、とされる。そしてこの確信をもとに、『Galaxy 2 Galaxy』から2年後にURは帰還を果たす。

 URについての第5章での記述はここで一旦終わり、続きは第6章で書かれていく。

 

 

1990年代前半のデトロイトテクノ(?)概況

 第5章の残りはそんな感じの内容だ。そんなに多い訳でもない誌面に沢山のレーベルがひしめいている。とりわけ、1980年代の3人に対して、1990年代デトロイトではURのオリジナルメンバー2人とCarl Craigがその影響力の大きさでは突出している、と指摘される。

 Mike BanksがURのCDリリースのために1991年に作ったレーベルであるSubmergeはしかし、段々その役割をデトロイトアンダーグラウンドレーベルのディストリビューションを手がける組織へと進展していった。そのモットーは“We will never surface!”。

 

・KMS

 Inner Cityで商業的成功を収めたKevin Saundersonのレーベル「KMS」からはテクノの影に隠れがちなデトロイトのハウスシーンの良質な作品をリリースしている。

 

Can You Feel It / Chez Damier(1992年)

The Choice / Chez N Trent(1993年)

『Classic EP』Chez Damier & Stacey Pullen(1993年)

 

Tresor

 ベルリンのテクノレーベルだが、Eddie FowlkesやBlake Baxterといった1980年代以来のデトロイトのハウスDJがドイツのテクノユニット3MBとの共作を1992年にリリースしている。このレーベルはデトロイトアンダーグラウンドにかなりコミットしていた。1993年のコンピ『Berlin Detroit a Techno Alliance』にはURやJeff MillsJuan Atkinsなどの錚々たるメンツが収録された。

 

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 他にも「Matrix」「Black Nation」「430 West」「Genetator」「7th City」「Acacia」といったレーベルが紹介されている。特に430 Westについては過小評価されているのが残念と筆者が宣い、幾つかの楽曲に言及している。「シカゴハウスとデトロイトテクノの最良の部分が黄昏のような美しさのなかで混合されている」。

 

Memories of You / Never on Sunday(1996年)

The Journey / Never on Sunday(1997年)

Falling in Dub / Random Noise Generation(1991年)

 

 このような流れの中でもCarl Craigには突出したものがある、と指摘される。第4章で書かれた内容のリフレインな箇所も多いが、自宅のベッドルームから旅先での恋人の家まで、制作する場所に個室せず、なおかるそのことが信じられないほどクオリティが高いことを筆者は指摘する。確かに彼の楽曲に宿る不思議に透き通った詩情はテクノとかの枠を超えて、ダンスミュージックというよりももっとアブストラクトで思索的なものを感じさせ、そしていい具合にセンチメンタルだと思う。

 

It's a Shame / BFC(1990年)

Andromeda / Psyche(1990年)

From Beyond / Psyche(1990年)

Wrap Me in Its Arms / Carl Craig(1991年)

No More Words / Carl Craig(1991年)

As Time Goes By / Sarah Gregory(1991年)

 

 彼はまた1991年より自主レーベル「Planet E Communications」を始め、そこからリリースされたシングル『4 Jazz Funk Classics』がまた傑作。

 

・Ladies and Gentleman / 69(1991年)

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My Machines / 69(1991年)

 

 彼の場合、よりステレオタイプの黒人文化の殻を打ち破ろうとする挑戦者的な側面があるようだ。テクノ界隈に大きな影響を与えたManuel Göttschingの『E2-E4』に執拗なまでに拘り、そのリミックスシングルまで作成したり、1992年のレーベルのコンピレーション『Intergalactic Beats』ではイギリスの新進気鋭のアーティストも多く含み、自身でも様々な名義を用いてTechnoからJazzまで幅広く展開し、多様性を目指した。

 

 この本においては1990年代前半、1991年から1993年にかけてを「テクノの季節」として、それはこの時期の“デトロイトテクノリバイバル”が促した現象だとする。もうリバイバルなのか。1991年〜1992年にかけてイギリス、イタリア、ベルギーの3カ国でそれぞれのバージョンのDerrick Mayのベスト盤がリリースされ、1993年ベルギーではさらにJuan Atkinsのベスト盤もリリースされた。Juan Atkinsも1992年に3MBと共同で“Jazz is the Teacher”をリリースし、1980年代の栄光に安住しないスタンスを見せた。

 

・Jazz is the Teacher / M500 & 3MB(1992年)

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 また1990年代初頭にはデトロイトテクノに触発されたヨーロッパ勢が台頭し、様々なコンピ盤もリリースされた。次第に、テクノが12インチシングルだけの世界でなく、アルバム単位のひとつの作品として、ダンスの約束事から自由な態度で独創的なエレクトロニック・ミュージックを創造するようになっていく。Radioheadへの影響をはじめ2000年代初頭のロックシーンに多大な影響を与えたAutechreCarl Craigをはじめデトロイトへの多大なリスペクトを公言しているのは象徴的だ。

 そして、この頃のデトロイトのアーティスト達が口を揃えたように、エレクトロニックミュージックで最も大切なのは「感情を入れること」だと発言していることは、時代が進むにつれて現実社会においてもテクノロジー支配が広がっていく中で、テクノロジーを使ったテクノのような音楽こそより人間的なものが表現されて然るべきだ、と彼らは考えたとされる。

 1993年にリリースされたコンピ盤『Virtual Sex』はこの時期の最高のコンピとして取り上げられ、特にDerrick Mayが1990年代に新曲として出したたった2曲のうちのひとつである“Icon”とCarl Craigの"At Les"が収録されていることをその大きな理由として挙げている。

 

Icon / Rhythm is Rhytkm(1993年)

・At Les / Carl Craig(1993年)

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UR脱退後、ミニマルテクノに向かうJeff Mills

Jeff Mills 、日本科学未来館にて最新アルバム『Planets』について語る|INTERVIEW - Web Magazine  OPENERS(ウェブマガジン オウプナーズ)

 そして、この章の最後として別枠で、UR脱退後ソロアーティストとして活動していくJeff Millsについての記述が始まる。

 彼は元々から独特で強烈な存在感を放つDJだったが、1992年リリースのデビューアルバム『Waveform Transmission Vol.1』から始まる彼のテクノサウンドもまた、“デトロイトテクノ”と呼ぶことが躊躇されるほど特異なものだと指摘される。

 

・『Wavefrom Transmission Vol.1』Jeff Mills(1992年)

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 このアルバムのスリーヴ裏面のメッセージといい、本に掲載されたインタビューといい、彼のどこか常に問いかけを抱き続けるようなスタンス、逆説的であることの凄さが強調される。徹底的にミニマルなトラック、その「終わりもはじまりもないミニマリズムによって前に進もうとする音楽」であることが彼の特質で、かつその終わりのなさのなかでナンセンスめいた想像力を積極的に楽しむことで突破を図ろうとする姿勢に、筆者はGeroge Clintonとの共通性を見出す。

 とはいえ、彼のUR脱退後のキャリアがすぐに成功に満ちていた訳ではなく、DJとして招来されたNYにおける阻害され続け、空虚さを抱き続けそうな暮らしがあって、そんな中で製作された初期の代表作とされるMillsart名義の『Mecca EP』について本人は「無意識のうちに出てきた心の叫びなのかもしれない」と語る。

 

・『Mecca EP』Millsart(1993年)

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 1993年にシカゴに拠点を移して以降、彼はずっとシカゴでインディペンデントな活動をし、結構な時期までレコードの包装から発送まで全部を自分で行っていたという。それでも相当にタフに勝つアクティブに活動し続け、メロディがリズムでリズムがメロディという、なっている音同士の勇気的な結合によって生まれる複合性をその独特でかつ現実的な未来志向とともに武器として活動を続けていく。

 

 

第6章:真夜中のソウル -ドレクシア、ムーディーマン、そしてURふたたび-

あらすじ

 どことなく第5章と連続している感じもある内容だけど、おそらく筆者は1993年をひとつのピークとして、そこから段々とデトロイトブームが下降していく中、それに抗うように力強く活動していくUR軍団を描きたい、という意図だろうか。

 UR軍団の一員としてまずDrexciyaアンダーグラウンドからの新たな脅威として登場し、その奇妙な世界観をヘヴィ・ファンク要素の効いたトラックでぶち撒いていた。またURはレコードに載せたメッセージどおりに帰還し、宇宙遊泳から路上の生命力に回帰し、そして楽器演奏を再開し、やがて1998年の大作(にしてなぜか唯一Spotifyに存在する作品)『Intersteller Fugitives』に結実する。

 1990年代にはシカゴハウスが復活してくる状況も現れたが、それは皮肉にもデトロイトテクノのブームが下火になった時期にも重なる。やがてヨーロッパから”白人による”テクノがアメリカに流入し、アメリカで「テクノは白人の音楽」と広く思われてしまう事態が発生、デトロイトテクノアメリカの黒人音楽から孤立してしまう。

 しかし、1997年にはMoodymannが登場し、彼は「黒いSpiritualized」などと称されて、ゲットーにおけるタフな状況とそこに時折差し込む透き通って美しい感覚とを巧みにリリカルに表現する。

 デトロイトは湖を挟んだ向こうが奴隷制度のないカナダだという地理的条件ゆえに、奴隷制度時代において重要な脱出口のひとつとして機能した。URの1998年のリリース『Intersteller Fugitivies』は力強い作品であると同時に、この本がいつからか主題としてきた「抑圧された黒人によるコズミックコンセプト」の、ひとつの収束地点として表現される。

 本で書かれた順番はこんな感じだけど、ここでは纏めて楽曲を見ていきたいために、2回登場するURの項目をまとめて最後に書きます。

 

 

Drexciya:深海探索のエレクトロ

Un court documentaire pour essayer d'expliquer Drexciya | Goûte Mes Disques 

 1992年にミステリアスな2人組音楽ユニットであるDrexciyaは『Deep Sea Dweller EP』にて活動を開始する。彼らのすべての作品に一貫するその異様さは、それらがすべて「Drexciyanという水中に生息する非人間が作ったディストピアからの音楽」とされているところだ。

 

・Sea Quake / Drexciya(1992年)

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 彼の過激な音は早々にヨーロッパで反響を呼び、URからリリースされた作品はすぐにイギリスのレーベルからライセンスリリースされた。1990年代にCarl Craigに次いでヨーロッパに大きな影響をもたらしたデトロイトテクノは彼らだと筆者は言う。

 

・『Drexciya 2 Bubble Metropolis』Drexciya(1993年)

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・『Drexciya 3 Molecular Enhancement』Drexciya(1993年)

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 確かにこの異様な音のシリアスにナンセンスな反復っぷりにはAphex Twinとかが影響を受けたっぽい感じがある。特に奇妙にブリブリいわすシンセのキュートな悪意の飛び跳ねっぷり。その毒気はしかし多様性に富み、創造性に満ちている。

 

Aquarazorda / Drexciya(1994年)

Take Your Mind / Drexciya(1992年)

Hydro Cubes / Drexciya(1993年)

 

 1997年のベスト盤『The Return of Drexciya』のスリーブノートにて、彼らのその特異な神話の正体が明かされる。それは、音楽自体のシュールさを消しとばしてしまいそうなほど重たい設定だった。あるいは、その暗いコンセプトから、暗さを超越しようとしていく態度こそが、その豊かな音楽性の根幹にあるのかもしれないと筆者は言及する。

 

世界が知る、もっとも大掛かりな大虐殺、アメリカは過酷な労働によって病気になり狂気に走った奴隷たちを束ね、海に放り投げたのだ。空気を必要とせず、海のなかで生を営む赤ん坊の存在があり得るのだろうか。ドレクシヤンは人間の貪欲さによって変形させられた水中の犠牲者たちの子孫である。

 

 なお、2017年の再発時に追加された章に記載があるとおり、この2人組の片割れで1999年からは唯一のメンバーだったというJames Stinsonは、この本が最初に出た年の翌年の2002年に亡くなった。

 

 

シカゴハウスの逆襲・デトロイトハウスの”孤立”

 1980年代末にすっかり離散して衰退したシカゴのハウスシーンは1990年代、新しい世代が動き始めた。「それはソウル系ディスコの復権であり、ハウスの故郷であるシカゴのブラック・コミュニティからの若々しい息吹による巻き返しだった」。すっかり月並みに商業化され熱が消えてしまったシーン、そのニヒリスティックな気配を振り払おうと努力する者がいた。ここもそんなに多くない紙面に多くの人名とレーベル名がひしめいている。

 その復権の火付け役になったのがこの曲だという。

 

・Preacher Man / Green Velvet(1994年)

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 牧師の説教をサンプリングしリズムトラックに乗せた「だけ」。この「だけ」な感じの雑さが実にオリジナルハウス的。この辺のナンセンスさに筆者はまたGeorge Clintonを重ねて見る。

 作者で中の人であるCurtis Alan Jonesはどうやらダークなナンセンスを得意としており、その辺のセンスはGeorge Clintonどうこうよりも、むしろどこかとてもアシッドハウス的なものを感じさせる。この本にも「シカゴ・ハウスの枠ぎみを広げ、アシッド・ハウスの悪意をエンターテイメントの次元にまで押し上げた」と書かれている。

 

Flash / Green Velvet(1995年)

The Stalker / Green Velvet(1996年)

・Answering Machine / Green Velvet(1997年)

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 1993年にRon TrentとChez Damierによって設立されたレーベル「Prescription」は「シカゴ・ハウスのもっとも美しい場面を捉えたばかりでなく、ディープ・ハウスのステイタスを築き、そして伝説的なレーベルとさえなった」。特に3つのシングルおよび2つの楽曲に触れてある。二人の決裂によりレーベル自体は比較的短命に終わってしまったようだが。

 

『Prescription Underground EP』Ron & Chez D(1993年)

『Hip to be Disillusioned Vol.1』Ron & Chez D(1994年)

『Foot Therapy EP』Chez Damier & Ron Trent(1995年)

The Wanderer / Romanthony(1994年)

 

 こうした1990年代シカゴハウスの復権とともにデトロイトのハウスシーンも活気付いたという。様々な人名・レーベル名が数行の中に飛び交う。

 しかしここで、このハウスの盛り返しがデトロイトテクノリバイバルによるブームが下火になってきた時期と重なり、またイギリスからドラムンベースが世界に向けてアピールし始めた時期、そしてトランスブームがヨーロッパでエクスタシーに熱心な白人のキッズを夢中にさせていた頃でもある。Juan Atkinsはこの時期に正式な意味でのデビューアルバムをリリースしているが、その素晴らしい作品を持ってしても、この下降の流れを止めるまでには至らなかった。

 デトロイトテクノブーム最後の産物とされるコンピ『True People - The Detroit Techno Album』のリリースに合わせた座談会では、デトロイトテクノの大物たちが実に煮え切らない、その苦境っぷりを吐露している。「なんか、すべての話はヨーロッパやイギリスに対して、おれらが怒り狂っているみたいな感じだな」という発言に、彼らの音楽を最も聴いてくれる国々が同時にネックになっているもどかしい状況が感じられるし、そしてアメリカのメディアにおけるデトロイトテクノの黙殺っぷりについてはもはや怒りを超えてどこか諦めてる節さえ見える。筆者は、ヨーロッパ発の白人「テクノ」ばかりがメディアで取り上げられて大衆の音楽の一角を占めるようになり、十分にメディアが取り上げるヒップホップ等と異なり、自分たちの音楽がすっかりアメリカ黒人文化から孤立状態になってしまったことを指摘する。

 

 

Moodymann:下手なR&Bよりもディープなハウス

 1994年に自身のレーベルを設立しリリースを始めたMoodymannことKenny Dixon Jrは、「生半可なヒップホップよりも執拗なまでに黒いソウルを高い濃度で全面に打ち出した音楽」と書かれているものを作り出した。「Moody」は”不機嫌な”といった意味。

 特に彼の個性を決定づけたのは三枚目のシングル『The Day We Lost the Soul/Tribute!』だという。この曲はMarvin Gayeが父親に射殺されたことを報じるラジオのニュースから始まっている。

 

・The Day We Lost the Soul / Moodymann(1995年)

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 さらにその黒人的な哀愁をデトロイト的に畳み掛けるようなタイトルのシングルが放たれる。

 

Inspirations from a Small Church on the Eastside of Detroit / Moodymann(1995年)

 

 どっちの曲を聴いてもわかるとおり、彼はこれまでデトロイトテクノがむしろ避けてきた過去のブラックミュージックからのサンプリングも取り入れていく。そこには彼が元々ヒップホップをしていたというところからの由来もあるのかも。

 そして1997年に最初のアルバム『Silentintroduction』をリリース。イギリスのあるメディアが「そもそも何故、ハウスを黒人起源の音楽として認めようとしないの?」という挑発的なテーゼとともにその”黒さ”を激賞し、そして本人はステートメント的な文章を寄せていて、ここまでだけを見るとまるで白人の文化的搾取に憤慨し黒人の側に立つソウル・ブラザーのようだが、彼の音楽をよく聴いていくと、事態はそう簡単ではないと筆者は言う。彼の音楽は時に「黒いSpiritualized」だとか「アフロ・ジョンレノン」だとか形容されることさえあるという。確かに、ハウスミュージックを軸にしつつも、フィールドレコーディングめいたレイヤーやSEを多用し、歌や語りがあり、そもそもリズム自体にもどこかジャズ的だったりR&B的だったりな感覚があり、テクノの延長というよりもハウスとサイケの混じった、スモーキーな空気感に満ちたR&Bといった感覚にもなる。筆者はここばかりはFunkadelicというよりむしろKLFの『Chill Out』の方を引き合いに出している。

 …というか、ここまでR&B色が色濃いとなるとこれはハウスというよりもむしろ「たまたまリズムにハウス的なものを使用したネオソウル」なんじゃないか。聴いてる人たちもハウスというよりもD'Angeloとかと同列のものとして聴いてるんじゃないか、という気持ちも*8。ベースにしてもエレピにしても、実に濃厚にR&B

 

Sunday Morning / Moodymann(1997年)

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 雑踏のざわめきとジャズテイストなライドシンバルがずっと続いて「これはもはやハウスなのか…?」と思わせてからの、エレピや歌がやっぱこれジャズでは…?と思わせてからの、リズムの入り方の鋭さが格好いい。でもやっぱりR&Bでは…?

 

Radio / Moodymann(1998年)

Sunshine / Moodymann(1998年)

On the Run / Moodymann(1998年)

 

 2ndアルバム『Mahogany Brown』の冒頭3曲の流れ。”Radio”のただひたすら黒人ラジオ番組をコラージュして作り上げた7分間に、彼の黒人性のスタンスの端的な部分を筆者は見出す。

 

 全体的にヒップホップ(とモータウン)に厳しいように思える論調があるこの本だが、特にこの節では1990年代の商業化してギャングスタやビッチや薬物があふれるストリートの光景なんかをを商業的に持て囃す当時のヒップホップに対して、Moodymannの音楽は冷静なアンチであり、もっとデトロイトの黒人コミュニティという具体的な世界の悲しさも美しさも、ただただリアルに描こうとしていたことを強調する。その結果としての“黒さ”をハウスの手法で表現したところに彼の特質があるんだろう。

 

I Can't Kick This Feeling When It Hits / Moodymann(1996年)

The Dancer/Long Hot Sex Night / Moodymann(1995年)

Amerika / Moodymann(1997年)

Black Sunday / Moodymann(1998年)

The Thief That Stole My Sad Days / Moodymann(2000年)

Forevernevermore / Moodymann(2000年)

 

 

URの帰還:”拡張されたソウル”へ

 1994年にMike BanksはSuburban Knightという変名で知られるJames Pennington主導の二枚組シングル『Dark Energy』を発表。アフリカの地図を描いたレーベル面や今までになくトライバルなビートに何かを見出しつつも、ここではまだ準備段階だったかと書かれる。

 

・『Dark Energy』V.A. (1994年)

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 本格的なURの帰還としては1995年の二枚組シングル『Electronic Warfare -Designs for Sonic Revolution』が挙げられている。『Galaxy 2 Galaxy』までの宇宙遊泳的な性質から一転してここではエレクトロの手法を用い、高専的で躍動感のある、路上の生命力を有したエレクトロ・ファンクとなっている。

 

・Electronic Warfare / UR(1995年)

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 URの活動が断続的になっていく過程でしかしMike Banksは多くの仲間を得た。レーベルとしてのURはMike Banks以外のクリエイターの作品を多くリリースするようになっていった。URの3代目DRとなったDJ RolandoことAndre Hollandはメキシコ系で、デトロイトの小さなヒスパニック系コミュニティの出身者であり、そういった者もレーベルに引き込み、またデトロイト市内での社会活動なども積極的に行い、「URの闘争は資本主義社会における文化の多様性をめぐる戦いであり、巨大な勢力と戦うための抵抗力を養うための活動だ。そしてそれが啓蒙主義的で教条主義的な堅苦しいものにならないのは、URの音楽が基本的には快楽をともなうダンス・ミュージックだからだ」。

 

『By Night EP』Suburban Knight(1996年)

Black Moon Rising / Scan 7(1993年)

Undetectable / Scan 7(1995年)

City of Fear / Andre Holland(1995年)

The Extraction / Andre Holland(1997年)

Aztec Mystic / DJ Rolando(1996年)

 

 

 1997年にはURとしてまたもや二枚組シングル『The Turning Point』をリリース。そこには時代が移り変わってシーンに蔓延ってきていた倦怠感を突破すべく、収録された4曲全てにMike Banks自身による気迫のこもった演奏が封入され、特に最後の曲である"First Galactic Baptist Church"はハードコア・ゴスペル・テクノなるすげえ単語の並びで呼ばれるほどの激烈なエネルギーがうねっていて、それは1998年の大作アルバムへのプロローグともなった。

 

・First Galactic Baptist Church / UR(1997年)

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 確かにもはや生演奏の方が多そうな具合。逆にここまでやってもテクノなのか…?

 

 1998年のURの大作アルバム『Intersteller Fugitives』(「星間の逃亡者」と訳されている)の話題に入る前に、奴隷制度があった時代のデトロイト奴隷解放を目論む自由主義者たちによる”アンダーグラウンド・レールロード”の拠点だったことが言及される。デトロイト奴隷制度のないカナダと国境を接している街であり、フリーメイソンのホールや教会、家畜小屋などをアジトとして、様々なルートとフォローを用いて逃亡をバックアップした。そのような逃亡過程の中で、デトロイト行きを示す暗号は”ミッドナイト”とされていた。

 そんな歴史をバックに、この本で紡がれてきた数々の「ギャラクティック・ソウル」のひとつの集大成としてURの1998年のアルバム『Intersteller Fugitives』は語られる。レーベルとしてのURに所属する8人のクリエイターによって形作られたこのアルバムでは、全体的にダークで神経質なサウンドの曲が多く、「おおよそ好戦的かつ肝の座った暗さをもった曲がちらばっている」。楽曲制作陣それぞれのインタビューやCDブックレットに記載された長文メッセージなどから、この本に現れてきた様々な思いやら苦闘やら何やらのひとつの収束点が現れてくる。

 

 マイク・バンクスは繰り返す。「この音楽は、拡張されたソウルなんだ。多くのソウルは死に絶え、多くのソウルは落ち着きがない。そして多くのひとが神や精神世界を信じている。そういうひとたちこそもっと自分のソウルに向かうべきなんだ」

 

そして筆者は、今“ミッドナイト”という暗号を使うのなら、真夜中に音を響かせるブラック・マシン・ミュージックがその役割を果たす、と宣言する。

 

・Nannytown / UR(1998年)

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Mirage / UR(1998年)

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・Negative Revolution / UR(1998年)

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 このアルバムはURの音源で唯一Spotifyで全部しっかり聴けるので、聴いてみてください。

 

 

ファイナル・トランスミッション〜あとがき

 最終章的なもの。特に以下の一説は、筆者がデトロイトのカルチャーに見出した注意深くも気高いソウルの一端を示すのに特にわかりやすく感じられた。

 

 デトロイトアンダーグラウンド・カルチャーに顕著なのは、自分自身も廃墟に生息するホームレスの一部なのだという感覚だ。

 

 近年のデトロイト勢のリリースに関する記述が連なる。特に2000年に起きた、ソニーのドイツ支社がDJ Rolandの大ヒット曲のカバーバージョンを、本人たちへの何の打診も無しに、しかもトランス系レイヴシーン向けにエクスタシーの錠剤をデザインにあしらうなどの悪辣な形式でリリースしたことにMike Banks側が猛烈に抗議したエピソードは、ある意味本編以上に露骨にメジャーとの戦いの深刻さを示している。

 また、筆者がこの本を書くきっかけになったであろう、Mike Banksとの初会合の顛末もここで書かれる。『Intersteller Fugitives』に何かを感じ合いに行き、Mike Banks自ら運転する車に同乗して、デトロイトの様々な“リアル”を目撃したこと。会いにいく途中に乗せてくれたトラックの白人男性が、デトロイトダウンタウンに向かうことを告げると急に人種主義的な怒りを撒き散らして緊張が走ったこと、Mike Banksが筆者をただの取材ではなく、日本で暮らす一人の人間としての筆者と、デトロイトで生きる一人の人間として対峙していたこと。おそらくはこの時の、一文であっさりと書くことなど到底できないであろう全身を貫いた経験を、何とか整理して言葉の形にしようと努力し膨大になっていったものがこの本なんだろう。

 

 

16年目のブラック・マシン・ミュージック

 新装版で追加されたこのセクションは、黒地のページに白文字で書かれている。諸般から16年経過した2017年においては、そもそもインターネットの発達により、音楽の供給形態も、アーティストの活動のあり方も、良くも悪くも大いに多様化した時代と言える。Mike Banksが米国のレコード復権のあおりを受けて満足にプレスが上がってこないためリリースにBandcampを今後使うかもしれない、というメッセージを出して炎上したことは何か象徴的な苦しい出来事だ。新作のリリース量は減少していて、そこには12インチシングルは昔のように気軽には出せなくなった事情なども絡む。

 とはいえ、暗い話だけではなく、新しい動きにも少し触れている。UKダブステップデトロイトテクノを繋ぐ存在が出てきていたり、Jeff MillsCarl Craigがクラシックのオーケストラと一緒にレコーディングした作品をリリースしたり。

 筆者はやはりブラック・マシン・ミュージックに「ダンス快楽主義を伴いながら、ステロタイプ打破と他に開けていくこと」を見出し続ける。ある時代のストリートの暴力の鎮静化に一役買ったのが、The Electrifying Mojoが自身のラジオで、白人の、それをナンセンスの塊なニューウェーブソングであるThe B-52's『Rock Robster』をかけまくったからだという不思議なエピソードも添えられる。またMike BanksがKraftwerkについて「彼らはドイツ人でも白人でもなかった。彼らはロボットだった。長いあいだ俺たちは彼らがロボットだと思っていたんだ」と話すエピソードも興味深い。そして彼は「サウンドは物事を変えることができると俺は思っている」とも話している。筆者はもう一度、締めを作る。

 

 あるいはこうも言えよう。ヒップホップと同じように逆境から生まれたこの音楽は、しかしヒップホップ/R&Bとはパラレルに、どちらかといえば日の当たらないところかもしれないが、チャート・ミュージックではないのに関わらず、途絶えることなく拡大し続けていると。

 

 

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あとがき

 以上です。

 レジュメと言う割に、前後編合わせて5万字くらいの物量で、自分のまとめ能力のなさにうんざりしましたが、しかしながらこれを書くことで本に書いてある音楽を順番に聴くことで、正直このジャンルに全然馴染みがなかった自分でも、幾らかは理解できるようになれた可能性が出てきたように感じます。音楽について文章で完全に書き切ることはまず不可能であり、この本を読み終わった段階で得た感覚というのは、肝心の曲を聴けていないんだから、何がどうなのかまるでよく分かってなかったものかなと思われました。

 しかしながら、本当に膨大な楽曲が紹介してある本で、プレイリストは155曲16時間とかいう意味がわからない長さになってしまいました。これでも抜けが多くあったり、本の巻末にはさらに様々な紹介が載っていたり、この本で書いてある情報量の全てを追いかけきることには果てしない思いがします。つくづくすごい本だった。

 もしかしてこの記事が、この本を読むのに、またはこの本を手に取るのに役立つようなことがまかり間違ってでも起きたのであれば、大変恐縮です。ちなみに全くクラバーでも何でもないむしろ引きこもりがちの自分としては、Carl Craigの作品が一番グッときたように感じました。

 それではまた。

*1:そのスタンスを思うとこれはでも仕方が無い。

*2:本の順番から勝手に勘違いしてしまいそうになるけど、シカゴハウス最初のレコード『On & On』が1984年なことを思うと、シカゴハウスを受けてデトロイトテクノが誕生したのではなく、むしろデトロイトテクノの誕生の方が早く、両者は同時期に並行して発展していったということになる。

*3:なお、本の順番だとここで一度話がDJ時代のJeff Millsの話になり、またシカゴでハウスDJの洗礼を受けるDerrick Mayの話になり、その後に以下のJuan Atkins関係の話がはじまる流れとなっている。シーンに関係する人間の馴れ初めなども書かれていて、その段々とシーンが出来上がっていくところに読み物としての面白さがあるが、このレジュメではその辺のダイナミクスをバッサリ切ってしまうので味気ない。

*4:本当にParadise Garage大好きなんだなっていうネーミング。

*5:多分この記事みたいに簡単に概説されることも本来彼が望んでいることではないだろうな、と申し訳なさを覚えながら。

*6:この辺、全然チープな機材で1人の人間がガンガン作っていくという意味ではシカゴハウスもそうであり、「ハウスはディスコにおけるパンク」という言葉は本の中にもあったが、同時に「ハウスやテクノはブラックミュージックにおけるパンク」と呼ぶことも出来そう。まあ、サンプリングを主体にしたヒップホップの方が、世間的にはそういうポジションにあるんだろうけども。

*7:流石に全文引用は気が引けるので、本を読むかレコードを手に取ってください。

*8:もっと言えば、この本が主張するところのハウスやテクノの「黒人の伝統や因習から切り離されたところで生み出されたフューチャリスティックな音楽」としての側面は、流石にMoodymannには見出しにくいかなと思う。勿論、ハウスやテクノはすべて非R&B的・ヒップホップ的でなければならない、などということをこの本は主張していないが。