ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『Yankee Hotel Foxtrot』Wilco(8/12 I'm The Man Who Loves You)

 アルバムも8曲目にして、聴いてると初めて「?」って思う曲。このポップながらマッドな音作りが随所に見られるこのアルバムにおいて「あれっ…?」って思ってしまうこの曲とはどういう曲なのか。

 また、ここではこのアルバムに限らず、世に数ある名盤のなかで「あれっ?」って感じの楽曲が時折あったりすることについての考察も、ちょっとしてみます。

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Yankee Hotel Foxtrot

Yankee Hotel Foxtrot

Yankee Hotel Foxtrot

Yankee Hotel Foxtrot

 

8. I'm The Man Who Loves You

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前書き

 率直に言って、このアルバムでこの曲だけなんか普通なので違和感を感じてしまう。前曲に続いて底抜けなポップさを感じるけれども、前曲にはまだあった「このアルバムらしさ」のようなものが、この曲だけ全然無い感じがする。特別悪い曲ではないし、ちょっと不思議な感じもするけれども、今回はその“不思議”が何故なのか、もう少し踏み込んで考えていきたい。

 

楽曲精読

 唐突に結論から言えば、以下の3点こそがこの曲がこのアルバムの収録曲っぽくなく感じてしまう原因かなと思ったところ。

 

本作特有のオブスキュアーな要素がほぼ登場しないこと

・曲展開が概ねブルース進行で、スワンプロック的であること

曲のリズムが8ビートではなく16ビートであること

 

 具体的に曲調等を見ていこう。

 この曲は激しくファズで歪んだギターから始まる。90年代USオルタナ的というよりは、もっと本当にブチブチした音になっていて60年代ロック的なクラシカル感がある。このファズファズしいギターがこの楽曲において大きなトレードマークになっていることは間違いない。

 ソングライティング的には前曲と同じく安心感のある長調でありながら、前曲以上にファニーなメロディの組み方になっている。言葉数多く細かい符割りで、かつ強引かつ大味でルーズに展開していくそれは、要はいわゆるブルース的なコード進行になっている。タイトルコールでしっかりコード展開を完結させるのはサクッとした良さがあるし、こういうラフな感じはビターな声質のJeffのボーカルとも相性のいい形になっているが、この辺の荒々しさは、このアルバムの他の曲に見られる繊細さや、ある種の単調さ・淡白さとは全く異なる性質のもの。どっちかと言えば『Being There』の時期のWilcoっぽい感じがしてるかも。

 このルーズにスイングするブルース展開が、この曲のリズムを必然的に16ビートにしている感じがする。いわゆるスワンプロック的な横揺れ感、ちょっと猥雑な横揺れの感じが色濃く出ている。16ビートの緩やかさの中で躍動するGlenn Kotcheのプレイはシャープな音質で、そこまで前には出てこないものの所々でユニークなフィルインが入る。そしてそれは、このアルバムで16ビートな楽曲がこれだけであることから、やはりこの曲のアルバムにおける特異さを感じさせる。

 アコギの演奏はコードバッキングだけでなく、細かくフレーズをつけて伴奏になっていく。よく聞くとアコギのスライドギターのフレーズなども間奏等で聞こえてくる。この辺のプレイ具合はなんともカントリー的で、彼らのかつての呼称であった“オルタナ・カントリー”な感じがとてもよく出ている。

 1回目のメロディ回しの後の間奏ではやはり例のファズギターがフリーきーにのたうちながらも、上記のスライドギターや、また可笑しげなコーラスなどが付き纏う。けれども、そこから2回目のメロディ回しに入ると、リズムがブレイクして、管楽器隊のファンファーレ的な伴奏が挿入される。ここの管楽器隊の登場は、例えば他に管楽器の出てきた『Ashes Of American Flags』での感傷的な使われ方と比べると、はるかに呑気で朗らかな使われ方をしている。特に、歌の終盤でタイトルを繰り返していく箇所では、歌の切れ目に対応して管楽器がオブリを付けていく。この辺の光景は「村の音楽隊」チックな素朴な良さがあり、ひいてはThe bandとか、もしくは中期The Beatlesのファンファーレ的な楽曲などと同じような華やかさを感じる。

 歌が終わってしまえば、また自由時間!という風にファズギターの縦横無尽なギターソロ的な展開が、1分ほど展開していく。演奏はどんどんチンドン屋的な乱雑さを増していき、特にソロ終盤はどんどん各楽器がいなくなっていき、最終的にはエレキギターとドラムとスワンプなスライドギターだけが残って、いよいよヘンテコでグダグダな曲の締め方をする。そこにはこのアルバム的なストイックさよりもむしろ、演奏することの楽しさみたいなのが強くにじみ出ている。

 上記のとおり、この曲は楽曲の形も演奏も、典型的なアメリカンロック、それもスワンプ的な感じに片足突っ込んだロックになっている。こんな曲調なのはこのアルバムでこの曲だけである。入ってくる楽器を注意して見ていっても、この曲においてリバーブの濃いピアノやエレピとか、妙にうねるシンセやノイズとか、そういう不穏さを生じさせる余地のある楽器は全然登場してこない。ファズギターはけたたましいけれども、これも破滅的というよりはもっと無邪気さの方が勝ったプレイが続いていく。

 無邪気さ。そう、アルバムにおけるこの曲の立ち位置を象徴するのは、そんな形容詞かもしれない。アレンジ何度も繰り返してシンプルかつ奇妙で不穏なアレンジに辿り着いたような光景が垣間見えるアルバムの他の楽曲と比べても、この曲の製作工程は「バンドで楽しくジャムセッションして作ったんじゃないかなあ」って印象を強く受ける*1。何よりも、間奏でのドンチャン騒ぎ的な楽器のプレイ*2に、このアルバム的な神経質さは非常に見出しにくい。

 

アルバムにおけるタイプの違う曲の存在について

 上記のような性質があるので、この曲がアルバムで浮いていると思われることがしばしばあるんだと思う。私もそれ自体はそう思う。丁寧に奇怪に作られた他の楽曲の連なりを、アルバムコンセプトを、この曲の存在が阻害しているんじゃなかろうか、ということさえ、ちらりと考えてしまうこともある。

 だけども、こういうアルバムのテーマに関係ない楽曲も必要なことが、多くの場合で存在すると思う。例を挙げていけば、絶対的な名盤にも時折「えっこんな曲も入ってるの…?」って曲が紛れ込んでいる場合がある。

 たとえば『Pet Sounds』。言うまでもない、The Beach Boys、というかBrian Wilsonが作り出した、ロック史に残る奇跡的な美しさと切なさを体現した、名盤中の名盤。だけどもそんなアルバムに1曲だけ『Sloop John B』というカバー曲が入っていることは「Pet Soundsの不完全さ」の話になるときに必ず出てくる。この、他メンバーの趣味等をBrianが汲んでカバーしシングルを切ったところヒットし、続くアルバムにも収録されたという、“完璧主義者”Brian Wilsonの象徴たるこのアルバムを語る上で、完全な汚点になりかねない1曲である。けれども、この曲の呑気な感じは、息が詰まるような美しさに満ちたこのアルバムにおいてちょっとしたブレイクになっていて、これはこれでアルバムのバランスに結果的に貢献している、という評価もある*3

  日本の例なら、たとえば『Dance To You』。典型的な“再結成バンド”になりかけていたサニーデイ・サービスが、偏執的な製作体制に回帰した上で、“リアルタイムの先進的なバンド”として*4の名声を一気に獲得した名作。アルバムタイトルのとおり「踊れること」を徹底的に軽薄に追求したと曽我部恵一本人は語るけれども、だとしたら『青空ロンリー』『パンチドランク・ラブソング』と、あまり踊る感じに繋がらない曲が収録曲数9曲中の2曲も収録されていることは何なのか。いや、個人的にはこの2曲あった上でとても好きなアルバムだけども、こっちは本当に何でこの2曲をアルバムにしかも連続して収録したのか、その意図や理由が未だによく分からない…。それでも大好きだし、名盤だと思うけれども。

 

 逆に、そういう「無駄な曲」が全く無い、完全にアルバムコンセプトを雰囲気として貫徹した絶対的名盤というのもいくつか存在する。例を挙げれば『Loveless』とか『In Utero』とか『Kid A』とか、日本なら『宇宙 日本 世田谷』*5とか『空洞です』とか。どれもアルバム全体にそのアルバム特有の緊張感とかムードとかが溢れ、どこを取ってもその圧倒的な雰囲気を味わえると思う。しかし、思うのはこういったアルバムは少々、息苦しく無いかな…ということ。

 

 翻って、Wilcoのこのアルバムも、この曲を抜けば、もしかしたらそういう「完全にアルバムコンセプトを雰囲気として貫徹した」名作のひとつになっていたかもしれない。ここで私が思うのは、でもそれはバンドもそう思ったんじゃないかな、と、そして、バンドとしてはそこまで窒息しそうなほど完全なものにしたいとも思わなかったんじゃなかろうか、と、もしくは、そういう濁りない状態を「完全」だとは思わなかった、と。この辺ただの妄想ですけど。

 単にJeffがこの曲をお気に入りだっただけとか、単純にこの曲を抜いた曲順だと『Heavy Metal Druumer』と『Pot Kettle Black』のリズム感とかが似た2曲が連続してしまうのでそれを避けたとか、このアルバム発表前の旧来からのファン(もしくはレーベル)にも受け入れられやすくなるようオルタナ・カントリー感溢れたこの曲をチョイスしたとか、色々理由は考えられるけれど、事実としてこの曲はこのアルバムに収録された。

  リスナーは時に身勝手だから「このアルバムにこの曲が入ってなければ完璧なのになあ」と思ってしまうことが時折ある(逆に「このアルバムに、収録から漏れたあのシングルの曲とか入ってれば完璧なのになあ」の場合も結構ありますね…。)。アーティスト側は、そんなこと気にせずに好きに楽曲を作ってアルバム等に収録する権利がある。この作品のこの曲については、きっとバンドがこの曲を取り上げたかったんだろうな、ということと、その上で完成したこのアルバムは、この曲があるからといってそれを汚点だとか全然思わないし、むしろこの曲でホッとしてから、いよいよ終盤だなあ、というアクセントとして、なかなかいいものだと思っている。むしろここで楽曲単位で「古き良きアメリカ」像を提示したことで、このアルバムの虚無的なアメリカ像がより深まる気もするし。曲単位でもアルバムの流れとしても、私は好きです。

 

歌詞

genius.com

ぼくは今、白と黒しか見えない。
白色・桃色で青い区切り線のあるページの上で
ぼくはどんな言葉を書けばいいか考えている。
これをきみに送ろうと思ってた。
きみへの手紙を書き始めたけども、
ぼくの願うままに感動的な内容になってるか不安だった。

でも、上手くいったら、ひたすらきみの手を握りたい。
そんなこときみは知ってるんだろ。
そしてきみは分かってくれる、
ぼくこそがきみを愛している人なんだってこと。

ぼくはひたすら、海のように途方もなく忙しないよ。
空回りする車輪、投げる石を探し彷徨う腕、
逃げるのに家に帰ってきてしまう脚…。
どうだっていいよな、とっくに分かってるさ。
どうだっていい、とっくに分かってるけども。

でも、上手くいったら、ひたすらきみの手を握りたい。
そんなこときみは知ってるんだろ。
そしてきみは分かってくれる、
ぼくこそがきみを愛している人なんだってこと。

 

ぼくは今、白と黒しか見えない。
白色・桃色で青い区切り線のあるページの上で
ぼくはどんな言葉を書けばいいか考えている。
これをきみに送ろうと思ってた。
きみへの手紙を書き始めたけども、
ぼくの願うままに感動的な内容になってるか不安だった。

でも、上手くいったら、ひたすらきみの手を握りたい。
そんなこときみは知ってるんだろ。
そしてきみは分かってくれる、
ぼくこそがきみを愛している人なんだってこと。
ぼくこそがきみを愛している人なんだってこと。
ぼくこそがきみを愛している人なんだってこと。
ぼくこそがきみを愛している人なんだってこと。
ぼくこそがきみを愛している人なんだってこと。

 

 翻訳してやはり分かったけど、前曲以上に罪のない歌だ…ただ単に手紙の書き方について悩んでるだけじゃん。

 もちろん、その「だけ」が、このアルバムの他の歌詞にあるような複雑に混乱した二人の間でのことと思えば、それはとても困難なことなのかな、と思ったりもするけど、でもこの曲単独で聞けば、そしてこのひたすら無邪気に楽しげな演奏に乗れば、ただただ「サイコーな手紙を書いてきみに愛を伝えよう」以上の意味には取れなくなってしまう。

 あとは、この曲のラフに言葉数が多いところで、最初に一気に様々な色が出てくるところなんかはカラフルでリズミカルな感じがして、やっぱり単純に楽しい。そして最後、重大なるタイトルコールを繰り返すところが、もう実にシンプルに牧歌的なポップソングって感じがする。

 余談。Wilcoで手紙といえば最初期に『Box Full of Letters』という楽曲がある。こっちもひたすらメジャー調で牧歌的なギターポップになってて、今回の曲とそんなに方向が違うものでもないのかなと思ったりする。

 また、ラジオとか電波とかが飛び交う感じのこのアルバムにおいて、「you」に思いを伝える手段が「手紙」というアナログさも、可笑しくも案外重要なことなのかもしれない。ある種の味気なさ・淡白さに対する、精一杯の抵抗としての象徴…とかまで考えるのは流石に穿ち過ぎだとは思うけど。

 
楽曲単位総評

 本当に牧歌的で楽しげな、それだけで十分な曲だと思います。なので、このアルバムの緊張を薄めてしまう、という意味ではアルバムにとってマイナスかも、とも思うけれども、息の詰まるのをここで一息ついて、そして再び緊張がピークまで高まっていくアルバム終盤の展開に行こう、というアクセント、とも取れる。ここは、いい意味で取っておきたいところ。前曲共々、アルバムはこの辺りで牧歌的なポップさを取り戻し、リスナーをホッとさせる。

 この曲は本当に牧歌的で、下手をすると都市の感じさえしない、もっと田舎チックな感じがする。このアルバムがより虚無的に感じるのは、カントリーミュージックが都市の空虚に曝されて汚されていくような、そんな空気が漂っているからだと思っているけれど、そういう意味でもこの曲は例外的、特殊な立ち位置の曲だなあって思います。

www.youtube.com  この曲のリードギター、ライブだとJeffがリードを弾くようで、尚のこと楽しげな感じがより感じられる。ライブでもとりわけ盛り上がる楽曲のひとつ。特に重要なのが、このアルバムの他の曲や『Misunderstood』『Via Chicago』『Impossible Germany』のように圧倒されてしまうのではなく、もっとバンドとオーディエンスが一体的に盛り上がれる感じがする。そういった意味でも、やっぱりアルバム『Being There』の感じを発展させた楽曲なのかなとか思ったりします。

 

*1:いや実際はすごく剣呑な状況で作られたかもしれないけれども。

*2:ただそこは、必要以上に「ドンチャン騒ぎ感」を出そうとしているような、執拗なスタジオワークの影も感じられはするけれども。

*3:私もそう思います。『Let's Go Away For Awhile』から『God Only Knows』に直接繋がるよりも、この曲が挟まることで出てくるアルバムとしてのリズムの良さ、みたいなのを強く思います。

*4:実際は製作体制の話を見る限り、バンドとしてはとっくに崩壊していたけれども

*5:『Magic love』あたりはコンセプト外の1曲と捉えられなくも無いけど、でも個人的にはあれも十分アルバムの雰囲気の範疇だと思ってる。