ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

Pavementの歌詞を読む(10曲)

 Pavementのライブ記事を書いたついでにプレイリストを新たに作った、その余勢でもってもうひとつ記事を書こうと思い、今回は彼らの楽曲のうち10曲の歌詞を改めて翻訳して読んでみよう、という内容です。

 ご承知の方も多いかと思いますが、バンドの中心人物であるStephen Malkmus(以下「S.M.」と呼称)はソングライター・コンポーザーとしての実力は勿論、その批評眼においてとりわけ特質的な才能を有していて、何かとシニカルになってしまう人物ですが、それが歌詞に出ないはずがなく、なので彼の書くこのバンドの歌詞は、シュールなものや雑なものや難解なものも色々とありつつ、しかし押し並べてどこか鋭いものを持ち合わせています。最近筆者はこのバンドのことを「USインディーにおけるThe Smithsのポジション」みたいに強く感じるようになりましたが、歌詞の面においても、ベクトルは違えどその鋭さについて共通するものがあるのかも、と思うようになりました。

 歌詞botからの流用や再掲など色々ありつつ、ともかく10曲見ていきます。年代順で並べてます。

 

 

 

1. Zürich Is Stained(from 1st『Slanted and Enchanted』)

 

そんな十分に力強く歌える訳ないだろ

そんな強靭さとか持ち合わせがないんだもの

信号が変わるのを見たからって

あいつらを吊し上げないでやってくれ

 

(※)

簡単と思うだろ 違うんだ

ぼくはその問題の半分も悪くないね

チューリッヒは汚される でもぼくのせいじゃない

もくぼくを押さえつけるか去らせるかしてくれよ

シャララララ…

 

何だって言うんだ? ミスがひとつ? ふたつ?

それが我々が犯したその大元を誰も辿れない類の

そういう問題だったとして

それでもあいつらを吊し上げるのか?

 

※繰り返し

 

 1stアルバム『Slanted and Enchanted』は「バンドの最もローファイで好き放題やっていて自由な瞬間を捉えた作品だ」などと解説されがちで、S.M.本人もそのことを強調しがちで、確かに短い尺のテキトーな馬鹿騒ぎをガチャガチャやってるみたいな曲が多く入っていてその感覚は大いにある。けども、いくつかの曲においてはそういうのは全く当てはまらず、むしろ何か社会的な不自由さ・救いのなさに打ち拉がれたり愚痴をこぼしたりといった、批評精神が大いにあるが故に味わう苦渋が毒々しく表出している

 この曲はそんな類の曲のひとつで、僅か1分42秒をさらっと駆け抜けていく曲だけど、でも同作の似た尺の曲と違ってきちんと歌があり展開がある。カントリーロックが骨だけになったかのような頼りなさすぎるスライドギターめいたオブリガードもこのこじんまりで妙に辛気臭い具合によく合っている。

 冒頭2行からしていきなりエクスキューズな歌詞だけども、これは「確かな信念がないから強いことは歌えない…」という消極的なものではなく、むしろ「“確かな信念で強いことを歌う”なんてこと自体が、それって本当に可能なのか?(そんなものそもそも不可能だろうよ)」という静かに冷水を浴びせてくる姿勢だと解すべきだろう。でなければ曲タイトルとなった「チューリッヒは汚される でもぼくのせいじゃない」のラインの確信に満ちた開き直りが説明できない。

 我々は確かに同じロックバンドで、誰かの幸福が地球の別の場所の誰かの不幸によって作られるカニバリズムの構造について歌ったRadioheadの存在を知っている。そう歌うのはこの曲より10年近く後のことだけど、Radioheadのように考えることができる人は世界にそれほど沢山はいないだろうし、少なくともこの歌での「チューリッヒが汚されること」と「それが歌い手の責任であること」の間には、全く無関係とは言えないかもしれないが、でも確実に関係があるとも言えない、程度の曖昧さが横たわっている。おそらく世の中の多くがそのくらい曖昧なものであって、その上で加害意識に震える側に回るかそれともそんなの知るかよと振り切るかは、人にもよるだろうし状況にもよるだろうし体長にもよるだろう。様々な因数が相互に関わり合ったり合わなかったりして、結局その全てを理解することは誰にもできない。

 

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2. In the Mouth a Desert(from 1st『Slanted and Enchanted』)

 

地下で目に付かない油井みたく扱うのか

ただ娼婦の合図みたいな場所だとしても

十分に意味が感じれるものだろうか

 

卓上には硬く結んだ信頼があると偽った上で

我々はレッテルを扱き下ろし 信仰も降ろされる

糸玉が解れていくのを目の当たりにして

そして元に戻すなんて出来なくなるさ

 

それこそぼくが求めてたもの(求めてたんだ)

それこそぼくが欲してたもの(糸が垂れ落ちる)

それこそぼくが求めてたもの 求めてたんだ

判らないか? きみにはそうして貰おうか

し給え し給え し給えよ

 

イドの王様の冠を被らされ続けてさ

イドが我らの総てだって じゃあ待てよ

ダイヤみたく研ぎ澄ましたこの言葉を聞けよ

つま開きにしてやるよ 上下に狼狽るがいいさ

 

それこそぼくが求めてたもの(求めてたんだ)

きみが仔犬みたく懇願するのを見る(糸が垂れる)

判らない?それがぼくの欲したものだと(求めてた)

きみが乞うのを見れる そして乾き果てていく

きみも ぼくも 乾き 果てよう

 

這いつくばったままのイドの王様

イドが我らの総てだって 這いつくばったままに

ぼくは待っていられるよ

今日のダイヤみたく研ぎ澄ました言葉を聞くために

 

 『Slanted and Enchanted』の中のガチでシニカルを鋭く敷き詰めた楽曲はおそらく、上述の『Zürich Is Stained』に前回の記事に全文訳を載せた『Here』に、そしてこの曲の3曲だろう。どれも三者三様の毒々しくも虚しい現状認識が流れていて、この時期のバンドが本当に心の底から無邪気で自由だったなんて訳ないよな、という緊張感を漂わせている。そもそもが製作時は主要メンバー2人+この後クビになるドラムのおっさんの3人で録音されている代物だし。

 アルバム中で最も攻撃性・批評性が音として剥き出しになっているのは明らかにこの曲で、というかバンド全キャリアを見てもこの曲のヒリヒリ具合を超える同系統の曲は数えるくらいしかないだろう*1。なんならグランジ的な静と動の感覚がこの曲のアレンジにはあるし、荒涼とした音の風景の感じは実に1990年代的なものを有している。

 そして、この曲では上記の曲で歌えないって言っていた「十分に力強く」歌うことをしている気さえする。なにせ「ダイヤみたく研ぎ澄ましたおれの言葉を聞け」だから。実際、この曲の歌詞は『Here』と同じく、出所不明なしかし妙に説得力のある、コミュニケーションの不全と不毛に塗れた景色に強烈に裏打ちされている。その景色がより虚無的な抒情性をもって紡がれれば『Here』になるし、そこから倒錯した攻撃性を引き摺り出してくればこの曲になるような。

 それにしても「卓上には硬く結んだ信頼があると偽った上で / 我々はレッテルを扱き下ろし 信仰も降ろされる / 糸玉が解れていくのを目の当たりにして / そして元に戻すなんて出来なくなるさ」の箇所の、相互理解に対する圧倒的な不信と、不可逆的な崩壊についての認識から来る圧倒的な虚しさは凄い。こんなことを歌っている裏でジャンクみたいな短い曲を演奏したりライブでドラムのおっさんが倒立したりしてたのかと思うとそれはそれでカオスだけど、カオスであることは別にその中のメンバーの鋭い爪を鈍らせることはない。それにしても、『Here』共々なぜいきなりそこまで思い詰めてるのかという、背景が気になる話ではある。

 まして「それがぼくの求めてたもの」と続くラインの、この倒錯した感覚がどこまで本気で言ってるか計りかねる具合、この辺にまさに1990年代のThe Smiths的なエッセンスを感じるのかもしれない。一方、シャウト気味に歌う箇所の”it”の発音が”id”に聞こえる、ということでファンの歌詞の見解は割れており、上記はイドの方で訳したもの。イドについて叫ぶ様に歌ってるとしたら、思いの外この曲はバンドのイメージからはらしくないくらい“必死”な曲のように思えるけど、アルバム中あちこちに散らばる適当におちゃらけた感じは何かを隠すためのバリケードであり、その隙間にこのような鋭く訴えかけるような”必死さ”があることは、S.M.は1stアルバムの時点で初めから何か確信を抱いたソングライターだったんだろうかな、と思える。

 それは、ファンの間で伝説的に取り扱われる以下の1992年のこの曲のライブ動画からも伝わってくる。鬼気迫るボーカル、感情的に掻きむしられるギター。初めっから本気も本気だったんだと。

 

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3. Frontwards(from EP『Watery, Domestic』)

 

きみを探してるのはぼくだけだ

なのでぼくが捕まってしまえば 捜索は終わり

それに きみの聞いた話って 全然腑に落ちないだろ

原住民らはデータチャートで騒いでるって聞いた

静かに!夜の天気のニュースだ

 

空っぽのおうち プラスチックのコーン

盗まれたリムって合金かいクロムメッキかい

ああ 作法を定めたんだ 何マイルもの果てに

そう 無駄な作法が沢山さ

沢山の作法 まるで無駄 沢山の作法 まるで無駄

 

今やいつも煙草を吸ってるのは彼女くらい

パリは鉄みたいだし ややもすれば戦争ものだ

それに移民のホテルではみんな絶対眠らない

そうだろうね

彼らの魂は泥の土塊みたく崩れていく

保持しなきゃね

きみの煙草の煙が内側に注ぎ込まれていった

 

空っぽのおうち プラスチックのコーン

盗まれたリムって合金かいクロムメッキかい

ああ 作法を定めたんだ 何マイルもの果てに

消え失せてく作法だらけさ

このパターンが破られても ぼくら紡いでいくさ

パターンが破られても ぼくらどうにか紡いでいこう

 

 「前へ」なんていう、グズグズでカオスでネガティブだった1stアルバムのPavementらしくないタイトルの付いたこの曲は、しかしそのタイトルが付くに相応しいくらいのPavementなりの前向きさ、ネガティブな装丁を投げかけまくった末に残ったポジティヴさを有している。まあこのEPの後にドラムのおっさんことGary Youngがついにクビになる訳だけども。もっと普通にドラマーとして叩けるSteve Westに替わったからこれもポジティヴな変化なのか?

 見事に堂々としたスリーコードな展開を余裕でポップなメロディ載せる姿は確実によりポップな2ndアルバムに向かってる姿勢が伺えるけども、そこにギターのフィードバックノイズやら途中から出てくるシンプルすぎるけどキャッチーなリフ展開などで絶妙にローファイ“っぽい”雰囲気を付加していて、1stから7ヶ月後でこの変わり様はどういうことか。シングルなのでキャッチーに寄せたのか。

 歌詞の方もいきなり「きみを探しているのはぼくだけだ」なんて妙にヒロイックな感じにも思えるフレーズから始まり、サビの箇所で“waste”を連呼して、いい具合に1990年代式の不毛な荒野っぽさを表現しつつも、最後には「ぼくら紡いでいくさ」などと歌い始めるヒロイックっぷり。何か悪いもんでも食べたのか。曲名どおりに妙に前向きなこの辺りに、実はS.M.って結構律儀な奴なのか…?と思えてくる。じゃあ、突然終わって変な木琴の音入るのは照れ隠しなのか。

 

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4. Cut Your Hair(from 2nd『Crooked Rain, Crooked Rain』)

 

ダーリン 髪を切りに行いかないのかい

そんなので彼が心変わりすると思うかい?

ぼくも丁度髪を切ったばかり

それも可愛くてナイスな髪型だが

 

チャートってパズルみたい 殺し屋が銃口をすり減らす

躊躇いは死を招く 見てみろよ ああ 見ろよ

2人目のドラマーは溺死 電話が見つかったね

 

音楽シーンって狂ってる バンドが毎日毎日出てくるぜ

ついこの間また別のバンドを見かけたね

最高でニューなバンドさ

 

どんな嘘ついたか覚えてねえ 歌詞も覚えてねえ

セリフも覚えてねえけど

まあいい よくねえ まあマジでいいわ

ドラマーの髪型見た?

 

「ルックスとテクニックの宣伝はマストです

 デカい髪型はお断り!!!

楽曲は買われてはじめて大いに意味を持つ

きみだってそうだろ

さあすぐに練習室に戻り給え

注目や名声ってキャリア キャリア キャリア

キャリア キャリア キャリアなんだぜ

 

 こんな歌詞の曲が大変にポップでキャッチーに作られ、バンドの代表曲となり、ライブで合唱されるという。Pavementが成し遂げた「価値観の転倒」じみた仕掛けとして最大級のものであることは間違いない。楽曲・演奏等については前の記事でも書いたしもう今更なので書かない。

 それにしても、この歌詞の“皮肉”を理解するには時代的なコンテクストの把握が必要で、デカい髪型お断り!」と叫ぶのが一体何を意味するのか、の部分の本当の意味、というか実感のようなもの、おそらくはハードロックやメタルに対する蔑視みたいなものは、それはある程度歴史的な視点であって、1980年代を経て彼らと同じ時代を生きた人じゃないと分かりづらいんじゃないか。まあ分からんくても実感的にピンとこなくても、「No Big Hair!!!」と叫ぶことは誰にでも出来るし。それに、あくまでも「デカい髪型お断り!」がバンドの主張だと思われないようにするため、きちんと引用符が付されている。多分1994年の段階で「デカイ髪型をバカにすること」はかなり一般化してたはずだし、それをさらにメタっていることこそが作者の意図したいところなんだろうし、そうじゃなくてやっぱり突然叫ぶのが楽しくてキャッチーそうだからこう書いただけかもしれない。

 何にせよ、皮肉が回り回ってギャグになって、そして合唱ポイントになる。幸福な転倒っぷりなのかもしれない。

 

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5. Gold Soundz(from 2nd『Crooked Rain, Crooked Rain』)

 

あの黄金時代の音楽に回帰して

笑い転げてればいいよ

それでぼくに迷惑かかる訳でもなし

これって危機?それとも退屈な変化の時?

これが主流になると本当に主流だろね

底辺どもの考え方を嘲笑うのは良い響きだね

そして今からまさにサビだ

 

ぼくの所在はきみの内に隠しとくさ

だって秘密って必要だもの

秘密密密密密 すぐ戻ろう

 

だってきみに社会への埋没など感じてほしくない

無教養な魂じゃない 自分の意志を信じるんだね

それが主要な欠陥だと思うかい?

雨の中で立ち登るような

そしてきみが地に手をついて留まってるんなら

もう閉廷だね 武器は発見された

 

ぼくの所在はきみの内に隠しとくさ

だって秘密って必要だもの

秘密密密密密密密密密密密密密 すぐ戻ろう

 

8月の太陽の下酔っ払ってさ

きみみたいな女の子は好きだね

だってきみもぼくも空っぽだろう

過去って切り離せないものだぜ

あの12月を覚えてる?出発できみが要らなくなった

どこかに行っても 滞在なんてしないよ

だって随分長いことここに座ってるんだ

 

随分長いことここにこうしていて

もうグダグダで 最後の言葉を唱えてる

最後の言葉が来ちゃった 全部きみには無駄かもな

 

 Pitchfolkの1990年代ベストで1位に選ばれ、バンドのベスト盤にこの曲の歌詞から引用され、そのベスト盤の先頭を務めることとなったところのこの曲。やはり楽曲自体や演奏の解説は今更かなと。いやでも、2回目のサビが終わるまでにたった1分17秒しか経っていないというのは、いつ聴いても静かに驚愕する。

 冒頭から『Cut Your Hair』や『Fillmore Jive』などと連なるシニカルな音楽談義めいたものから始まり、サビの到来を自ら告げてしまうくらいにはメタなものになっているけども、しかし意外にもそのサビ以降の歌詞がなんというか、思いのほか「きみ」を励ましているような、恋愛的なものを薄ら感じられるような仕上がりなのが面白い

 特にニヒリズム塗れの恋愛模様を思わせる「だってきみもぼくも空っぽだろう」からのベスト盤タイトルにも引用された「過去って切り離せないものだぜ」のラインは、平坦な絶望から出発する共依存の物語たちーーおそらくはこれまでにも時折あり、これよりも後にもっと定式化したスタイルーーの大きな一例になっているのじゃないか

 そして、同じフレーズの繰り返しかと思ったら最後の最後で全然違うフレーズを歌い始め、歌の途切れるところまで文章が続いてグダグダそうに途切れてしまう最後のサビの歌詞の、諦めてる風でどこか甘えているような感覚。S.M.が時折書く、こういう恋や愛の向け方の、捻くれるが故に醸し出されるスウィートさ。格別のものがある。そして曲終わりに「last words」がどうとかって歌うのもまたメタいな

 

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6. Fight This Generation(from 3rd『Wowee Zowee』)

 

きみに大いにのさばる連中を尊敬しろって

そんなの出来ないし 耐えられないだろうね

運勢など打ち捨てて壊れてしまえ

破片を探すんだ どこからそんなものが生じたか解るはず

 

降りてこい 華麗なるヤードリー

落ち込ませたりなどしないよ 華麗なるヤードリー

落ち込ませるなんてしないさ 今 ここではね

 

臓物もゴアもクソ喰らえ

泣く人なんて誰もいないんだ

難詰する奴などどこにもいないのだから

 

おいで甘美なるランディ 落ち込ませはしないさ

何に負けた? 何を証した? 誰をコマした?

ここに来な ぼくは今 今ここにいる

 

貴方は選ばれて来たれり 改善が待たれり

世代 この世代と戦え この世代と戦え この世代と戦え

この世代と戦え この世代と戦え この世代と戦え

この世代と戦え この世代と戦え この世代と戦え

この世代と戦え この世代と戦え この世代と戦え

この世代と戦え この世代と戦え この世代と戦え

すぐ止め

 

止めろ

 

 ノーテンキなPavementが帰ってきたぜ!と言わんばかりに自由自在そうな無茶苦茶さを色々と再度取り入れた3rdアルバム『Wowee Zowee』の中で、神聖な方向に緊張感のある『Grounded』共々アルバムに緊張感を与えているのはこの曲だろう。冒頭から急にボロボロのような歌と演奏による開幕は、オルタナ的な退廃観、”腐乱”の感覚を彼らもまた実はしっかりと描けることを示している。最近のインタビューで見たけど、これ、最初のテイクのカオスさを気に入ってそのまま採用されたものなのか。崩れそうなリズム感なども確かに実に雰囲気が出てる。

 それにしても色々とセンテンスごとの変化に富んだ歌詞で、最初の誰かに手解きをするような歌詞は特に意外。ドロドロした始まり方なのに、ヤケクソそうな感覚も保ちつつ、しかしその上でどのように道理を捉えていくかを「破片を探すんだ」の箇所に入れ込んでいく。本質的な何かのようにも思えるし、いい意味で詐欺師的にも感じられる。

 人物の、特にその国の有名人らしい人物の名前が出てくると、流石にやっぱ別の国の歌なんだなあという気持ちになる。「ヤードリー」はJonathan Yardleyではないかと(少なくともGeniusでは)言われていて、ワシントンポストで活躍した書評家とのこと。手厳しい批評でありつつもスターメイカーだったとWikipediaには書かれている。この歌詞は彼にとってどうなのか。称賛されるべきものなのか手厳しく非難されるべきものか。そもそも専門外というのもそうだけども。

 対して後半の歌詞の「ランディ」は特にこれといったモデルは無いようで、曲調が変わってより神経質な”世代との戦い”を遂行していくのに関連したキャラクターとなっている。ここでの「何に負けた? 何を証した? 誰をコマした?」のフレーズの客観的にかつ非常に緊迫した形で問い詰めるような口調は強烈で、カットアップ的に様々な情景や場面の描写が平気で同じ曲の中に乱立して何が言いたいのか分かりにくくなるこのバンドのキャリア中盤以降の歌詞の中でも例外的に、1stの頃の抜き身の感覚が出ている気がする。

 曲調が転換して以降の、まるでSonic Youthかのような緊張感に満ちた不協和音のムードの中での歌詞の闘争性は言うまでも無い。延々と同じフレーズを微妙に拍足らずのまま機械的にリピートし続けるのはむしろJoy Division的表現というか、そういう神経が平坦に機械的になっていくことでの攻撃性、むしろその方がある種の悲惨さや痛切さを表現できるという逆説的な効力が出ていて、バンドがベスト盤の最後にわざわざこれを選んだことには様々な意図が感じられまくる。

 それにしても、この曲にて攻撃される”世代”というのは本来、ある一定の世代、つまり当時のバンドと同世代、いわゆるアメリカで言うところの「Xジェネレーション」を指すのだろうと思われるけど、後追いでこのバンドに接するもっと下の世代からすればそんな文脈など抜きで「この世代と戦え」というメッセージを受け取るだろう。作者がどこまで「この世代」に自由な解釈を委ねているかは分からないけども、おそらくは作者の意図を超えてそういう風に意味が移り変わっていく、移り変わっていけることがポップソングの強度というものなのかもしれない。最新インタビューを読む限りでは、作者だってそのことに自覚的なところがあるだろうし。

 あと、リアルタイム日本盤における歌詞対訳のところの「フライト・ディス・ジェネレーション」という記述は、そもそも英語の歌詞から色々とおかしいPavementの歌詞の中でもとりわけ致命的な誤訳、というか誤記。致命的すぎてちょっと笑っちゃう。

 

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7. Type Slowly(from 4th『Brighten the Corners』)

 

シェリー なんか違う匂いがするよ

早起きだから きみには朝ってのは簡単なもんかな

呪文が掛けられて 衝動は失われていた

スナイパーがぼくらの真夜中の旅の請求書を突きつけた

彼らがそうすべきそのとおりに

 

今この星に戻ってきて どういう感じか分かってきた

きみの夢をロケットに それで夢が叶うんだ

ゆっくりタイプしなよ

 

ぼくらのうち一人は煙草置き場で

他の一人は青く発熱した愛らしいギロチン

創造物の端くれはぼやけて赤面している

この革のテラリウムの中に成長の余地などない

 

耐え難いほど灰色な海辺の人たち

彼がきみのもとにやって来たら 正面を直視しな

タイプはゆっくり打つんだよ

 

覚えのある弱点は大切にするんだ

マニフェストから形作られたような弱点はね

ああ ぼくはフューチャリストじゃないし

ただのぼく自身唯一の批評家だ

草原のトロールどもがまた寄り集まってる

リベラリストはそんな奴らなどいないと言う

けどぼくはそうじゃないと知ってる

 

お前らの文字どおりのアスを強くしな

1回か2回のパスでヒットするんだぜ

凍りついたイメージ あまり尊敬されないね

ゆっくりタイプする人たちからは

 

 おそらく『Fight This Generation』辺りで積極的に言いたいことの最後の部分を絞り出してしまったんじゃないか、というくらいにはそれ以降の歌詞はより焦点がぼやけていく、というか、焦点のぼやけ方を作者自身も積極的に楽しんでいる節がある。短い文節が連なり、それぞれの繋がり、というかどこまでが繋がって意味をなすのかも、ダブルミーニングの可能性なども含めてかなり判別しづらくなってくる。Geniusでの解説もいよいよ細かくなりなおかつ様々な留保が設けられ難解。上記の訳もこれまで以上に信用してはならないことに留意。

 その一端として、大文字的な”ロック”にかつてなく接近し、アクセントとしての“ローファイ”くらいまでアレンジが緻密化し、そしてミドル〜スローテンポが増えすぎた4thアルバムの中でもとりわけ大人しく上品な風情さえ漂わせている、PavementAORじゃなかろうかとさえ思えてくるこの曲の歌詞を見ていく。

 穏やかで大人びた風情を感じさせるこの曲らしく、始まりは女性への囁きかけで始まる。恋人同士それぞれの生活習慣のズレの間で育まれたロマンチックな時間は、現実的に請求書を突きつけられたとしても、あくまで甘美であるものだ。様々な留保を付けつつも「きみ」に対する想いや忠告を捧げていく様は、少々教条的かもしれないが暖かい優しさが見え隠れする。

 しかし、段々その「恋の歌」として貫徹するかの雲行きは怪しくなってくる。2回目のヴァースの段階から、もう「きみとぼく」の歌詞ではなくなってくるところに注意が必要で、そこには1stから相変わらずな1990年代の荒野と荒廃の感覚をより複雑な形で、まるで模様みたいに文章に刻み込むS.M.の姿がある。「皮のテラリウムの中に成長の余地などない」と言い切る、その発言意図は、特に”皮のテラリウム”がどういう含意なのかを中心によく分からないけども、しかし何らかのネガティヴでシニカルな認識を示していることには間違いはないだろう。

 そして、優雅さの中に仄かにローファイ的な不協和音の要素をくぐらせた間奏を経て辿り着く最後のヴァースから唐突に始まるリベラル批判。4thアルバムでは『Embassy Row』にも左派批判的な言葉が入り込む。あくまでシニカルなモザイクの一角でしかないのかなとも思うけども。当時アメリカがクリントン民主党政権だったことが背景にあるんだろうけども詳しい世情はよく分からない。少なくとも最終ヴァース〜コーラスでのリベラル批判はかなり辛辣で、この曲の始まりの恋人との甘い雰囲気はどこに行ったんだよ…と、いつの間にか訳の分からない地点にいることに気づいて困惑する。文章のつながり方も変わってタイトルが別の変な意味に、「文字をタイプするのが遅い、うすのろな連中」みたいな意味になってしまってるじゃないか…。

 このような歌詞の1曲の中での変質を「後期Pavement式の複雑性の一端」だと称賛することもできれば「恥じらいか何かで1曲を“恋の歌”として貫徹できなかった弱み」だと非難することもできるだろう。ただ、多くのバンドがそうなんだろうけど、このバンドもまた、そのような批判はどうしてもS.M.に集中してしまう傾向にある。当時の彼が抱えていたプレッシャーの高さについては他メンバーからも言及があり、その辺については次の曲でもう少し見ていきたい(歌詞の解説とは…?という感じだけど、成り行き上そうなったんだから仕方がない)。

 それにしても、この曲の緩急自在な彼のボーカル、特に柔らかさの方面がよく出ているからこそ「リベラルが〜」って素っ頓狂に叫ぶところが映えるというこのバランスは、彼の歌心の最も冴えたトラックのひとつかもしれない。誰も彼も、彼のように自在にはなかなか歌えない。独特の方向性で高みを得た、本当に凄いシンガーだ。

 

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8. Fin(from 4th『Brighten the Corners』)

 

監獄設計者への公募:至急 青写真を送り給え

息が出来なくなるほどの壁を積み上げてくれ給え

人間は永遠に養われていく 気候のせいだ

すぐに東部から逃げ出したいな

絶対などもう沢山 絶対などもううんざり

囚人服を抜け道に突っ込んで 一緒に逃げよう リー

 

マチュア海塩採集業どもが植民した

そいつらはコンラッドヒルトンには丁度良いさ

でも僕の眼には具合が悪い

ぼくが自虐すればきみは教えてくれると信頼してるよ

人間は永遠に養われていく 永遠に養われ

彼らは海辺に来て水膨れになるんだ ああ

 

 前述のとおり、幾つかのScott Kannberg曲を除くほぼ全ての楽曲を歌詞も含めて書いて歌い、ギタリストとして演奏の中心にもあったStephen Malkmusは4thアルバムの時点で大いにプレッシャーに晒されていた。それは、R.E.M.をはじめとした1980年代以降のUSインディー作品の多くをプロデュースしたMitch Easterの元であのアルバムが制作されたことも関係するらしい。このアルバム最終曲からは音からも、そして歌詞からもそんな緊張感が滲み出ていると言えるかもしれない。もちろん全て後出しも後出しでこのように語っているだけだけども。

 S.M.は元々カリフォルニア州サンタモニカの生まれで、しかし彼が8歳の時に家族ごとカルフォルニア州北部のストックトンに転居、高校卒業後は西海岸側から一気に東海岸側のヴァージニア州立大学に進学、さらに1980年代後半にはニューヨーク市にて警備員の仕事をしていたりなど、全米の西と東を転々とする人生を送っていたPavementの結成自体は1989年のストックトンということなので、本当に東西を大いに行き来していたことが分かる。最初は彼とScott Kannbergの2人で結成され、最初の頃は意外とメンバーの入れ替わりが激しい。1992年には、ドラムに初期の名物ドラムおじさんGary Youngを除けばその後解散まで続くメンバーが揃う。この段階で既にベースのMark Iboldや謎パートのBob Nastanovichはニューヨーク周辺の住人で、メンバーの出身地は東と西に大いに分かれてしまっていた。1993年のツアー時にGary Youngの飲酒問題が露わになって彼はクビとなり、新しく入ったドラマーだったSteve Westは東海岸側であるヴァージニア州出身で、いよいよUSインディーによくある「この地域を拠点としたバンド」という表現が不可能な存在になっていった。

 バンドの運営に少しも携わったことがない人であっても、このようにバラバラな場所にメンバーが住んでいるバンドが活動していくことの困難さは理解されるだろう。まして少しでもバンド運営に噛んだことがある人なら尚更、「なんでこんな状態のバンドがコンスタントに音源を出しライブをすることが出来ていたのか」という時点で既に、このバンドの別の偉大さを発見してしまうだろう。しかし、そんな彼らとて、それで満足な活動が出来ていた訳ではないのは様々な本人らのコメントからも理解される。3rdアルバムにおいてはScott Kannbergがもっと時間を掛けて制作したかったとの後悔を漏らしている。3rdアルバムやその後のライブの時期はバンドが最もドラッグにやられていた時期らしく、このバンドもまたやっぱそういうのあるんだな…と思わされる。

 何よりも、歌詞や楽曲展開やアレンジなどに適当なようでその実執拗な拘りをS.M.が注いでいることはアルバムを順番に見ていくことで段々推しはかれるものがあり、彼はおそらくもっと纏まりのある作品を志向して4th、5thとバンドの歩みを進めていったんだろうと思われる。その気概の4thにおける最後の表れとして、長尺であるこの曲の殺伐とした雰囲気や、終盤のギターアンサンブルの連なりがある。ようやく、歌詞を見ていきたい。

 最初のパラグラフに現れているのは、まるで後のDeerhunterめいたアゴラフォビア(広場恐怖症)的な感覚(「息が出来なくなるほどの壁を積み上げてくれ給え」)と、それと相反するような脱出・逃亡への渇望(「すぐに東部から逃げ出したいな」)だ。彼は分裂しているのか、それとも実は同じことを歌っているのか。そんな謎解きをしたい訳ではないけども、ともかく両方とも、何らかの苦しさから発されているようには感じられるだろう。

 後半のパラグラフはかなり意味不明なメタファーめいた情景が綴られて、英語話者でも米国在住者でもない自分のような人間は置いてけぼりな感覚にもなるけども、でも、彼らの作品にしては珍しく用意された歌詞カードにおいてあえてすべて大文字で記された「ぼくが自虐すればきみは教えてくれると信頼してるよ」の一文に込められた、シニカルさとも必死さとも取れる一文の意味するところは興味深い。そして歌い終わった後に登場する、冷たく乾いたギターアルペジオの重なり、それを貫くように登場するフリーキーな、どこか”フリーキーであること”に囚われて痙攣しているかのようなギターソロの痛ましさは、このジャンクな暴れ方をせずにゆったりしたテンポの楽曲の多い作品が、そのような中からどのような地平を浮かび上がらせようとしていたかが垣間見えてくる。

 その意味で、日本盤等に入っているジャンクなボーナストラックはこの静かな余韻を散々に破壊しまくっていて蛇足も蛇足。本当に勘弁してほしいなこの位置のこれは。

 このアルバムの後にメンバーは家族を持つようになり、ますますバンドとしての集合が難しくなっていく。S.M.は後に西海岸のポートランド在住の女性アーティストと結婚しそしてポートランドに移住、現在まで住み続けている。確かに東部ではなく西部、それもいちばん西の方まで逃げてこれたみたい。ポートランドはインディーアーティストが集う街である反面、「ヒップスターがリタイアして移住しに来る街」だと皮肉られることもあるらしい。そんなくらい住み心地いいのか、ポートランド

 

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9. Ann Don't Cry(from 5th『Terror Twilight』)

 

損傷が発生した ぼくはもう楽しめないよ

きみがやる 試す 得るその限りのことをしなさい

皆に光明が見えてきた頃に 要求ラインを設定するよ

素敵な病棟でね

ぼくら暮らせる部屋はある そこで暮らせる部屋は

与えうる部屋 でも与えうる部屋はない

でも きみにチャンスなどまるでなかった

ああ きみにチャンスなんてありはしなかった

 

天の者達へ ぼくらをつまみ出して

ぼくらを投げ捨てて ぼくらを押しやって

ぼくらはとても とても痛烈に気落ちした

でも きみの下品な振る舞いに不意をつかれた

アメリカの心を持った冷たい冷たい少年

言い争って またもショットグラスを封じる

 

でも アン 泣かないで 泣かないでおくれ…

 

まあ ぼくが心の広い奴でないことくらい知ってるさ

言いたいことは幾らでもあるんだろうさ

ぼくが彼女や彼女の偽友達5人に会ったことを除いて

彼女らは行く 彼女らは行く

線路に縛られて 縛られて 縛られて

ただ事実を覚えておいてくれ

きみがまた座礁するまで繰り返し

 

でも アン 泣かないで 泣かないでおくれ…

 

親愛なるアン

泣かないで きみはこの愛を裂いてしまうだろう

出かけるんだ 泣かないで 愛を裂いてしまうだろう

泣かないで 愛を裂いてしまうだろう

あいつらが言うことを信じないか

あいつらが言うことを信じなよ

信じな 彼らが残したものを信じな あいつらが

あいつらが僕について話すことを信じなよ

愛しの 愛しのアン

 

 「”ローファイ”神話で塗り固められたPavement帝国の黄昏」として、最後のアルバムのタイトル『Terror Twilight』は完璧に過ぎる。その黄昏の入口、終わりの始まりであったであろうバンド内の不和の模様が冒頭に漏れ出してしまったこの曲の歌詞を、改めて全文訳したものを見ていきたい。

 昨年のリイシューによって出てきた多くのインタビューから、この曲の出自がバンド不全の過程の中での不幸なものだったかが強調された。プログレ的になっていたS.M.の用意した楽曲に困惑しなかなか演奏が纏まらないメンバーに対して痺れを切らすように、彼は「ほら、すごく簡単な曲を書いたから、みんな演奏できるだろ」と言ってこの曲を差し出す。そのシチュエーションの痛ましさはまさに、冒頭の4行の歌詞に現れている。「皆に光明が見えてきた頃に 要求ラインを設定するよ / 素敵な病棟でね」という言い回しに至っては、どういうつもりでこんなライン書いてメンバーの前で歌ってるんだ…という気持ちになる。S.M.のシニカルさがバンドに向くとこんな悲惨なことになるのかとも。上記のようなこの曲の誕生の経緯、そしてこのような痛ましい冒頭の歌詞からして、その後どのように恋人を冷酷に拒絶する歌のように振る舞おうと、この曲の歌詞はそのようなものを作者とバンドとの関係性の破綻と被らせたものと読まれてしまう。これはもう、仕方のないことだろう。しかしここまでドキュメントめいている彼らの曲というのも珍しいかもしれない。

 作者が、これは冷たいことを言い放っている歌なんだ、という自覚を持っていることを示すフレーズもいくつかある。「アメリカの心を持った冷たい冷たい少年」だの、「まあ ぼくが心の広い奴でないことくらい知ってるさ」だのはそういうところで、しかし、ことこのバンドの歌の中において、それぞれの人物が「冷酷な他者」であることは所与のことであり、またそうあるべきものとさえ考えられている節がある。なので、何かしらの「損傷が発生した」らこうなってしまうというのも、ある意味では自然なことなのかもしれない。楽しげなローファイチームみたいに見えていながらも、しかし仲間内での結束だの親和だのを初めっから拒絶していたのは初期の『Here』とかの歌詞からもどことなく感じられただろう。

 終盤、語りかけるように歌われるセクションにて「この愛を裂いてしまうだろう」の主語は"you"になっていて、まるでこの関係性の破綻は全く自分のせいではないかのように振る舞う、この歌の主人公の冷徹さは実に一貫している。この辺りにどこまで作者のバンドに対する考え方が及んでいるのかは不穏なものがあるけども、しかし、だからこそ、そのような限界の状況で繰り広げられるギリギリの親愛の情なんかもあることはある。当初考えられたアルバムの曲順では、『Spit on a Stranger』がアルバムの末尾に来る予定だったということについて、この曲の痛ましさを踏まえた上で考えてみると、なんとも不思議に想像が広がってしまうところがある。

 ちなみにこのバンドの解散の際は、それもまたかなりグダグダだったらしく、バンドのリーダーとして解散の意思を各メンバーに伝えるべき立場であったであろうS.M.はそれを拒絶し、解散の連絡はうまく伝わらず、Steve Westはバンド解散をインターネットニュースで知ったという有様らしい。解散前のバンドの最後のライブとなったロンドン公演にてS.M.は手錠でマイクと自分の手を拘束し、これがここ数年バンドに在籍することのシンボルだと主張していた。虚無から始まったバンドがズタズタになりながらなし崩し的に虚無に還っていく、そんなものを思わせる。

 それにしても、英語詞の間違いが多々見られるPavementの日本盤ライナーにおいても、この曲はとりわけその間違い方が凄まじい。冒頭から壮絶に合っておらず、バンドに冷たく言い放つような印象はどこにも見つけられない。終盤の「セブンイレブン」に至っては今思うと笑ってしまう。まあでも、歌詞を聴き取るって難しいことだとは思うけども。

 

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10. Spit on a Stranger(from 5th『Terror Twilight』)

 これは丸々前に書いた記事からの再掲。

ystmokzk.hatenablog.jp

 

貴方がどう感じていても それがどう理解されても

それが真実であろうとも 何が待ち受けていようとも

貴方が何を望んでいても どれほど僅かなことであっても

それが真実であろうとも それが正しいのだとしても

 

ぼくは貴方が言ったことをずっと真剣に考え続けるよ

辛辣な他者みたいに

そしてぼくは理解した 要するに 全てを総合するに

ぼくは他人に唾を吐ける人間だった (つまみ出してくれ)

貴方が辛辣なる他者だったんだ(つまみ出してくれ)

 

貴方がどう感じていても それがどう理解されても

それが真実であろうとも 何がぼくを待ち受けていようとも

貴方が何を望んでいても どれほど僅かなことであっても

それにどう導かれようとも それが正しいのだとしても

 

愛する人 ぼくが景品で貴方がクレーンキャッチャーだ

だからぼくら 完全に符合する 辛辣な二人の他者みたいに

そしてぼくは理解している 要するに そしてずっと

ぼくは他人に唾を吐ける人間だった (つまみ出してくれ)

貴方が辛辣なる他者だったんだ(つまみ出してくれ)

他人に唾を吐ける人間だったんだ (つまみ出してくれ)

貴方こそ辛辣なる他者だったんだ(つまみ出してくれ)

 

貴方の眼に陽の光が差し込むのが見える

貴方が絶対しないことをやってみせよう

貴方を見捨てられる人になろう

 

 多分、この曲よりも『Ann Don't Cry』の方が後に書かれているとは思う。だから、多分にバンドへの意思表示の意味合いも見える『Ann Don't Cry』に比べると、こっちは別に作者にバンドへの気持ちの表明なんて要素は無いんじゃないかなと思わないでもない。でも上述のとおり、この曲を当初はアルバムのラストに持って来ようとした、という事実は、あの元々殺伐さと狂乱具合を表現しようとしていたアルバムをしかしこの美しいメロディとアレンジと歌と歌詞の曲で締めて、何か柔らかく優しい印象でアルバムを閉じようとする意思がS.M.等にあったということの証拠ではある。つまり、なんらかのバンドへの意味を自分の歌詞に見出した上で彼がこの曲を最後に持って来ようとした可能性はある。結局は真逆の冒頭に置かれた訳だけど。そっちの方がいいとも思うけども。なんだ『Platform Blues』1曲目って。意図は判るが未だに慣れないよ…。

 そしてこの、S.M.が書いた全ての楽曲の中でも最も完成されたポップソングかもしれないこの曲の、その虚無からの出自、他者との関係性に対する何かしらのオブセッション・不全などを抱えた者が歌える、様々な留保の果てにギリギリ通すことが可能となる「ぼくは他人に唾を吐ける人間だった」「貴方が辛辣なる他者だったんだ」そして「だからぼくら 完全に符合する 辛辣な二人の他者みたいに」というラインの仄かな、しかし濃厚な甘美さには、よく考え出すと悶え苦しみそうなくらいの良さがある。「貴方を見捨てられる人になろう」なんて、こんな酷いようでしかしロマンチックすぎるプロポーズの言葉もなかなかない気がする。こんなロマンチックさを体現できるバンドはきっとここまで積み上げてきたPavementだからこそだろうな。

 先日の日本公演でも3公演全てで演奏された。ライブで聴くと、まあいい曲なんだけど音響的にパッと派手なところはそんなになく、地味に終わってしまう気がする。でもそれでもセットリストから外さないところに、バンドの、そしてS.M.のこの曲への入れ込みようが伺える。ベスト盤に5thアルバムから唯一選ばれただけのことはある。

 

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終わりに

 以上10曲の歌詞を見てきました。10曲の歌詞翻訳が終わった段階では、さらっとコメントつける程度であっさりしたものにしようと思ってたのに、『Zürich Is Stained』の段階から文章を長く書きすぎたので、もういいや、と書いてたら、ちょっと10曲、くらいのはずがそれなりの長さの文章になってしまいました。

 歌声を楽器のように扱う、ということは時折いろんな音楽で見かける表現ですが、しかしその歌声が何かしら意味のある言葉を発しているのならば、それはやっぱり楽器以上の、もしくは楽器以外の意味をどうしても持ってしまうものだと思います。たとえ意味のない言葉をテキトーに歌ったとしても「意味が生じるのを回避しようという意図のもと歌っている」と意味づけされてしまう可能性があります。もしかしたら言葉なしに歌ったとしても同じことかもしれず、なので歌声というものは難しく、またコンテクストが複雑で多様なんだろうなと思われます。

 Pavementは、というかStephen Malkmusはそんな、歌声にやむを得ず付随してしまう”言葉”というものについて、テキトーにやってますよ風な1stの頃から、思いの外その「意味なんて無い」みたいなところに生ずる意味を自覚し、とことんまで突き詰めたような歌を歌っていたんだと、いくつかの楽曲の歌詞から理解されます。それは時折ポップでキャッチーな研磨を受けたり、様々なカットアップをモザイク状に束ねたタペストリーめいたものになっていたり、半ば意図してか意図せずかバンドのドキュメンタリーめいた聞こえ方をしたりとありつつ、しかしバンドの10年程度の活動の中、その鋭さは継続されてきたと言えると思います。もしかして、再結成した彼らが新曲を出したがらないのには、この辺の言葉の感覚の難しさ、当時の感覚を再現することの欺瞞性や、今の時代に改めてPavementとして意味のある言葉を書くことへの抵抗や恥じらいなどがあるのかもしれません。そうでもないかもしれません。だからカバーならツアー前に録音したりしてるのかもしれません。『Witchi Tai To』のスタジオ録音があるというのか…。

 

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 なんにせよ、S.M.が書き連ねてきた、どこか毒々しくも、しかしだからこそ刺さるように感じられたり、独特の甘みを生じたりする言葉の数々は魅力的で、そして上のインタビューで本人もある程度時間するとおり、それほど月日の流れによって歴史の向こう側で色褪せてしまっている風でもありません。それはもしかしたら単に世界が1990年代から進歩していないだけ、という話なのかもしれませんが、そうじゃないかもしれません。そうじゃないとしたら、なぜそんなに色褪せてないよう感じられるのか。普遍的なテーマを歌っていた、ということなのか。こんなひねくれ倒したような歌詞ばっかりだけど、案外、そういうことなのかもしれません。

 このだらしなく書き連ねられた長文が誰かのPavementの楽しみ方に役に立つのであれば幸いです。

 それではまた。

*1:『Fillmore Jive』『Grounded』『Fight This Generation』『Fin』とか。5thの曲は別方向にヒリヒリしてるか。