ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『HEY WHAT』Low 及び"声"と"ことば"について

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 すごいアルバムが出たもんだ、と思ったので緊急でレビューします。

 もうここまで来るとかつてスロウコアバンドだったとかいう前史殆どいらないんじゃないか…とさえ思えてきます。勿論その頃の経験があっての今のメンバー二人ではあるんですけども、でも音楽的にはもう全然変貌してしまってる。

open.spotify.com

Lowの「Hey What」をApple Musicで

 

 

はじめに(概要)

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A. 経緯

 今作は、2018年にリリースされた『Double Negative』以来となる、彼らにとって第13作目となるオリジナルスタジオアルバム。ただ、音だけを聴いてると、前作『Double Negative』以降はまるで別アーティストみたいに音が変貌してしまってる。

 前々作『Ones and Sixes』(2015年)以来、彼らはアルバム制作に共同制作者・エンジニアとしてBJ Burtonを招いていて、確かにこの2015年の作品から、彼らの音が大いに変化し始めた。BJ BurtonはBon Iver『22, A Million』(2016年)をはじめ、2010年代中盤以降のそういうエレクトリックでアブストラクトなサウンドを担ってきた重要人物の一人だろう。『22, A Million』より前の『Ones and Sixies』の時点では、あくまでLowのスロウコア的無骨なバンドサウンドをどのようにより深淵に展開させていくかに注力している感じがあり、その関与はそこまで激烈ではない。

 でも、『Double Negative』は大御所バンドになりつつあった彼らの立ち位置ごと吹き飛ばすような、強烈さが吹き荒れる作品だった。

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聴けばわかることをあえて書けば、『Double Negative』で彼らは最早”バンドの音”に囚われずに、アンビエントを無理やり歪ませたかのような嵐のようなノイズか、もしくはアンビエント的なサウンドに振り切った。その音像の中では、ボーカルさえ時に言葉の判別がネイティブでも難しくなりそうな程に加工されて音の一部として取り扱われ、人力であれ打ち込みであれリズムは多くの場面で取っ払われた。ドラムにベースにギターにボーカル、といったバンドの基本的な演奏形態はまるで牧歌的なものであったかのように、遠くに置き去りにされてしまった。そこにBJ Burtonのより積極的な関与を見出すことは、今思えばとても自然なことだった。でも、あのプロデューサーの他の先鋭的な作品と比較しても凶暴なサウンドなあのアルバムには、確実にLowのメンバーの何らかの意志が強く入っていた。

 その後、元々ギターボーカル・ドラムボーカル・ベースの三人組でバンドをやってきていた彼らは、2020年にベースが脱退*1すると、そのまま夫婦である残った二人での活動を続行、引き続きBJ Burtonとの共同制作を経て、この2021年9月に『HEY WHAT』をリリースしたところ。

 

B. 『HEY WHAT』概要

 長いけど、一言で言うなら、『Double Negative』よりもグリッチ的分解の進んだよりアグレッシブにパラノイアックなサウンドで、そこにはっきりと「人の声」であり「ことば」であることが認識できる歌が帰ってきて、”うた”と”無機質”のせめぎ合いの妙が神々しく感じれる作品だと思う。

 人によっては、こうもはっきりと”うた”が帰ってきたことに「『Double Negative』から後退してる」と感じることもあるかもしれない。弱々しいことを言えば、人によって”後退”と取られるかもしれないその部分が、”うた”がかなり消えかかった前作を物凄いと思いつつもド熱中できなかった自分が今作をこうして取り上げるくらい好きになった理由なのかもしれない。

 でも、サウンドも確実に前作から変化してきてる。『Double Negative』の最後の曲『Disarray』はグリッチ的に分解されて反復されるサウンドを背景に比較的”うた”が明瞭に響く楽曲だったけど、これが今作の先駆けだったように今だと感じれる。嵐のように吹き荒れたりアンビエント的になったりする前作の音は、でも割と連続して鳴り続ける音を扱って、その攻撃性とは裏腹に丁寧にレイヤーを重ねている印象。それに対して今作のサウンドの扱いはかなり粗暴で、前作よりも”無音”に近い音数・音質に絞られている上で、数々の箇所で極端にグリッチされている。当然ドラムやギター・ベースといったバンドの基本的な楽器の音は滅多に聞こえて来ず、打ち込みのリズムすら前作に引き続き滅多に出てこない。詳細はこの後の本編に回すけれども、”無音”というのは”虚無”を思わせるもので、その世界をひどく無機質で非人間的なサウンドが流れる様はある種の破滅的光景を思わせる。

 前作ではその音による光景の中に”うた”も溶け込んでいたけれど、今作では”うた”はその破滅的光景のサウンドとは別個の存在として明確・明瞭に響く。虚無の光景の中で響く”うた”というのは荒地に咲く花みたいなもので、そしてその”うた”は今作では多くの場面で夫婦2人が並走し、時にゴスペルのように多重に重ねられて響く。そのサウンドと相対した有様は、やはり神々しいとか、美しいとか、そう呼べる類のもので、そしてそれは”うた”がサウンドに埋没していた前作には無い価値だと思う。

 というか、そんなサウンドとも言えないような音の断片に”うた”が乗るだけで、しっかりと”曲”という感じがしてくる、という部分でのエキサイティングさも結構あると思われる。スロウコアという元々音数少ない音楽をやってきた彼らだからこそのバランス感覚もあるだろうし、何より今作での”うた”の存在感の強さ・尊さを思う。

 

 なお、サウンドについては以下のインタビューで少し興味深い話がされている。以下一部を筆者翻訳で引用。

www.thecurrent.org

Alan Sparhawk:

 ああ、じゃあちょっとだけここで秘密をバラそう。ぼくのイマジネーションを刺激したある道具について。これはBossっていう会社で作られてるギターエフェクターで、ギター・シンセサイザーとか何とかそういうやつ

(中略)

エフェクターってのはアンプに行く前のギターの音の信号を変えてしまって、それで様々な変化を生じさせる。それはエコーだったりディストーションだったり、ペダルやエフェクトで生成されたりするけど、この独特なシンセエフェクターはギターで出力した情報ー音程だったり、ああ、それこそ叩いてみたりしてーそういう情報を取り出してシンセサイザーの音に変換してしまうんだ。そして色んな弄れる数値があって、それらで様々な違った音が出せるって訳。でもね、この機械はまあ作れる音の可能性を広げることができて本当に役立ったけどね、でも、それでも尚ギターを使ってるし、基本的にはぼくが慣れ親しんでる楽器を使ってるんだね。キーボードやドラムマシンにはそんなに時間を割かないんだ。なので、よりオーガニックで親しみのあるものを使うことができて、それをより融通の効くサウンドに変換できて、つまりそういった新しいことが今回のキーになったのさ。(引用終わり)

 

今作で色々と出てくる様々な有象無象のノイズや効果音のような音の数々は、キーボードシンセではなくギターをエフェクターに通して無理やり出しているらしい。しかもおそらくはBossのシンセエフェクターと様々な歪み等の組み合わせで。この作品の様々な超越的な音が、でもなんだかんだでギターで出力されている、というのは、なんだかちょっとロマンのある話に聞こえてくる。ギターロックの世界を超越した作品だけど、作り方は案外ギターロックの手法の延長線上でやりくりしてる。そういえばLowはギターサウンドをメインとしたスロウコアバンドだったな、と思い出すような話。

www.youtube.com

 

本編1:各曲レビュー

 以下、アルバムに収録された10曲を1曲ずつ見ていきます。意外と1曲1曲個性ある形態をしているなと思うのも今作の好きなところ。贔屓にするから細かいところが見えてるだけかもだけども。

 

1. White Horses(5:04)

www.youtube.com

 本作の基本スタイルをここで彼らは壮絶に提示する。冒頭からインダストリアルなノイズがザッピング的に響いた後、早々に、安定して反復されるグリッチ的に引き裂かれてリズムを形成するディストーションギターの音が頼りなくも無機質に響き、時にエフェクト等が移り変わるそれの上で、それだけを伴奏にうたが連なって曲が形作られていく。この心細すぎる音響の中で、夫婦で歌われるラインだけは力強く響く。Lowの歌のメロディは元より、繊細さやリリカルなポップさよりもどこか、厳しい自然の光景からそのまま取り出されたかのような無骨で超然的なところがあったけども、今作においてはその超然具合が、粗野で心細すぎる伴奏をものともせず楽曲を成立させていく感じがある。

 その楽曲として成立するか怪しいほどのスカスカな音で強引に押し通す様は、同じ荒涼感であっても前作の曖昧模糊とした音が飛び交う様とは一線を画していて、今作の方向性をここである程度明確に示すものとなっている。そして、それらが次第にコントロールが壊れたかのように歪み倒して吹き出していく様も、今作的な強烈さの現れ方だろう。

 グリッチの細切れがそのままリズムになったサウンドはEQやエコー具合等を少しずつ変化させながら旋回し続けるけども、曲の中盤ではついにグリッチをやめて、思うがままに吹き荒れる。こういうのを聴くと、確かにシンセというよりもギターの音だなこれは、と思える。

 この曲の本体部分みたいなのは3分過ぎくらいに終了して、そこからはいよいよ、本当に何の音だ…?と思うような、再生機器の故障を疑ってしまうような機械的グリッチ音が延々と続いていく。加速したり微妙に音程が変わったりするけど、途中で一定のペースでなり続けるようになり、特に車の中で聴いてると、何かの計器の故障かな?みたいな、昔の時速100km越えで鳴ってたやつかな?みたいな風に聞こえる。終盤にようやくまたエフェクトが乗って音程が生まれて少し音楽的になったところで、そのまま次の曲に引き継がれる。

 あと、今作の歌詞の示唆的なフレーズも、色々な想像を挟める。

 

ぼくが立ち去ることで

居続けるよりもより残酷なことになるだろう

"分かってるよ"なんて言えないだろうけど

でもまだ 白馬がぼくらを家に帰す

 

かつての信仰なんてあまりなく

愚か者だけが信仰を抱いていたのだろう

"分かってるよ"なんて言えないだろうけど

でもまだ 白馬がぼくらを家に帰す

 

前作『Double Negative』がトランプ政権と絡めて論じられているように、本作の歌詞をそのような時代やコロナウイルスの蔓延る世界情勢に関連して読み解くことも可能だろう。だけど、ここではそういうことはあまりする気にならない。もしその方向で読み解くならば、2つ目のパラグラフは少し言葉が強すぎる気もするし。

 

2. I Can Wait(4:02)

 前曲から引き継いだ、割と音楽的になってきたインダストリアルノイズをそのまま引き継ぎ、その上に歌を載せることで強引に成立してる感じのある楽曲。今作の楽曲の成り立ち方の無茶具合を代表するような楽曲で、もはやSuicideとかみたいな楽曲の作りだけど、でも案外自然に聴かせるところが上手いというか、歌の存在って大きいなと思わされる。こちらの歌のメロディは結構キャッチー気味だし。

 シーケンス的に展開される音は楽曲が進むにつれてどんどんその音の感触を変異させていく。この辺はやはりBJ Burtonの仕事なんだろうか。歌が途切れた箇所ではシーケンサー的に展開されたフレーズがより歪んだりすることでサウンドが増強され、またディストーションギターと思われる強く歪んで拡散する音も様々に聴こえてきて、そういえば元々ロックバンドだな、とも思える。そして、これらのトリートメントによって平坦なはずの繰り返しの中に”曲展開”を強引に作り出しているような面白さがある

 それにしても、シーケンスフレーズのみをバックに歌いそのシーケンスフレーズにエフェクトを掛けて楽曲の展開を作り出すという手法で楽曲をやり抜く辺りに、もうLowはバンドではない何かにすっかり変貌したんだなあと、前作からの状況を再確認する思いがする。そんな音楽において、意外なくらいギターという楽器が重要な位置にあることは興味深い。

 歌詞は、同じ言葉の繰り返しの多い中で、どこか倦んだ具合でいる。

 

 

待てるさ 待てる 待てる 待てるよ ああ待てるとも

けどずっとは待てない そう長くは待てないよ

 

ぼくは醒めている 醒めて 醒めて 醒めて 醒めている

もう1日待たないと どのくらい待たないといけない?

 

恐れている 恐い  恐い  恐い 恐いとも

間違いがあったんだ 支払われるべき代償がある

 

具体的に何かについて言及するわけではないから、何を待っているのか、何を恐れているのかも聴き手の想像のまま。でも、ベテランならではの優しいところもある。

 

もし取引できるなら 取引 取引 取引 それができるなら

きみに休息を与えたい その重荷を運ぶのを手伝いたい

 

3. All Night(5:15)

 ハードで虚無的な”うた”の放浪、という本作の基本軸を早速外してくる、ともすればドリームポップと呼称することも可能かもしれない、夢見心地のサウンドとメロディを持った美しい曲。最初聴いた時はかなり意外に思えたけど、ここにこのポップな曲があることが本作を確実に聴きやすくしてるし、また本作における”うた”のあり方についても多面的になるよう一石を投じているとも考えられる。

 遠く夢の向こうから静かに忍び寄ってきては、ワウのようなフィルターによってふやけ切った何らかのサウンドがコード進行を伴っていくつも湧き上がってくる。出てくる歌のメロディも明らかに展開があって、歌メロの曲構成が出来上がっていて、しっかりと”楽曲”としての存在感が備わっている。歌メロの処理はエコー等のエフェクトが多量で今作よりもむしろ前作的にも思えるけども。むしろ、ハードなアンビエント世界だった前作のサウンドをもっとポップに活用して見せたのがこの曲なのかもしれない。ビートもあったりして安心できる世界観。間奏部の「ラララ〜」というコーラスの享楽的な具合は今作では異色の存在だ。

 そんなこの曲に今作的なハードさを感じさせるとすれば、それは間奏や終盤における極端なディストーションの付加だろう。ドリーミーに揺蕩う世界観を深刻に冒していくこの激しさは、楽曲自体が甘ければ甘いほどに、よりその醜悪さ・凶悪さを深めていく。そこには、一種の楽天的な夢やロマンといった概念が、何らかの”邪悪”によって蹂躙されていくような構図が立ち現れる。その壮絶さは、ずっと壮絶だった前作ではあり得ない、ポップなメロディを持つこの曲だからこその激しさや痛みだ。

 歌詞についても、音がこうだからか、イメージがふわふわしてる気がする。

 

隠さないで きみの秘密は内側で安全にしてるよ

きみの目には影が見える

 

見つけにきて 足止めされ その背後につまづいて

ぼくは極めて静かにしようと努めた

 

全体的に何の話をしているのか、その想定すら上手く像を結ばない。その取り留めのなさはやっぱりどこか夢見心地な言葉だからなのか。

 

4. Disappearing(3:32)

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 先行公開されたシングル曲のひとつ。アルバム全体の中だと地味な存在になってる感じもあるけど、前作的なアンビエントを深め、段々と極端に歪ませていく音像の中、メンバー二人の”うた”が彷徨い潜り抜けていく、という構図は今作の作風の典型だ。

 絶え間なくフェードインしてくる音は段々と歪みを強めていく。そんな静かに深刻で醜悪となっていく音に囲まれながらも、二人の”うた”はずっと変わらぬ調子で同じメロディを繰り返し歌っていく。やがて音が爆音的な歪みに達しても、同じメロディをハミングで繰り返していく。今思えば、この段々と変化していく音も元の音はギターで出力されているのか。音の強烈な移り変わり具合はやはりBJ Burtonによるコントロールなのか。そしてそのフェードする音像からそのまま次曲の冒頭の静寂なノイズに接続する。この辺はまるで組曲的だ。

 この、不思議と不穏の海中を漂うかのような楽曲について、歌詞もやはり海的なフレーズが重ねられていく。Bloodborneというゲームに出てくる「呪いと海に底は無く、故に全てを受け入れる」的な、あてもなく無限なイメージが浮かぶ。曲タイトルも出てくる最後のセンテンスが印象的。

 

あの消失していく地平線

ぼくの魂に冷たい慰めをもたらす

記憶の呼び水は常に在り

見知らぬ顔が絶え間なく浮かぶ

 

5. Hey(7:41)

 本作のタイトル曲にあたる楽曲か。「Hey what」と終盤で歌われるし。今作でもとりわけ前作的なダークアンビエントさが渦巻き続ける楽曲で、”うた”の在り方も前作的な曖昧さに染め上げてある

 ひたすら抽象的なサウンドが重ねられ続けていく中で、エフェクトでぼやけまくった声は辺境の民謡のような超然的な旋律を奏でていく。この声はプリズマイザー的な処理がなされていて、それこそBon Iver他でBJ Burtonがやり倒してきたことの援用、という趣がする。しかし、歌詞のあるラインは3分弱までのうちに全て終わってしまい、そこから先はより歌声も抽象的なサウンドとして取り扱われるようになる。様々な曖昧なサウンドの中を頼りなく声が響いていく様は、本作でも一番”うた”から離れた、深くも寂しい茫洋とした地点のように感じられる。Radioheadが『Kid A』でやっていたようなことを、現代の技法で現代の混迷の中にいるロックバンドが行っている、とも取れるけど、最早彼らはロックバンドなのか。

 この曲の終盤でアルバムタイトルが登場してきたら、それはもうすぐこの抽象的な世界が終わることの徴。最後はひたすら抽象的な音の残響が、弱々しくも、次曲の始まりに至るまで棚引いていく。

 ひたすら「Hey」と呼びかけていく歌詞は、超然とした意識概念からの問いかけのようでもある。しかし何の問いかけだろう。

 

もっと話を続けて 祈るべきだと請い願った

多分 きみは死んでも言いたくないんだろうけども

 

6. Days Like These(5:21)

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 極めて抽象的になった前曲の音のドローンから、この曲で一気にゴスペル的な合唱に切り替わる箇所は、本作の”うた”の存在感の、その根源的なヴァイブレーションが一気に噴出する、本作最高の瞬間のひとつ。ここの曲順はおそらく本人たちも強く意識していたはず。極端から極端への転換に、”うた”の再臨と、その尊厳の輝きが強烈に響き渡る。先行曲としてリリースされた時よりも、このアルバムの曲順で聴くのが遥かに鮮烈に聞こえるようになっている。

 この曲のゴスペル的なコーラスは、メンバー二人の声に加えて、おそらく様々な方法でボイスチェンジさせられたトラックも重ねられている。そこには明らかに人工的にいじられた声も混じっているにもかかわらず、そのゴスペル的でメロディラインも明朗で威風堂々とした声の重なりは、まるで生命力そのもの、人間の尊厳そのものであるかのように輝かしく響いてくる。彼らの国・アメリカの歴史のこともちょっとイメージに浮かぶだろうか。

 柔らかなギターを挟んで、この厳粛なゴスペルの続きを醜悪なノイズで徹底的に蹂躙していくことが、この曲の”うた”の存在を逆説的に高めていく。酷くブチブチに歪んだこれはギターだろうか。それはまさに、ゴスペルによって建てられた”神聖さ”そのものを全力で冒涜する殺意に満ち溢れている。または”伝統とその蹂躙”。この構図に何を重ねるか、歌詞も含めて聞き手にはそれが委ねられている。何もイメージしないことが難しいだろうと想像できるほどの激烈さに、彼らは何を託したのか。

 

どちらか選べるものなど無い

次善やそのまた次などやって来ない

ずっと確かなものを探すんだ

きみが死ぬほど追い求めるような

 

完全と思えることなど無い

解き放たれることなど無い

きっと見たこと無いだろうが 信じて

それがこんな日々を生きる理由なんだ

 

 この”うたの殺戮”を経て、楽曲は前作的な曖昧さが支配するアンビエントの世界に移行し、時々"Again"の呟きが虚無的な音の渦に飲まれて消えていく。それはまるで”うたの残骸”のように漂流していく。

 この曲は、冒頭のゴスペルで”うた”の根源的な輝きを表現しておきながら、その後徹底的に”うた”を破壊するプロセスそのものを辿った、本作の強烈さが最も壮絶に発揮された場面だ。その破壊の様は凄惨と言っていいと思うけど、でもそのプロセスの中に、彼らが”うた”というものに何を象徴させようとしているかが逆説的に浮かんでくる気がする。その意志の強さに、何が何だか訳が分からないなりにも、激しく胸打たれる。

 

7. There's a Comma After Still(1:52)

 アルバム終盤に入っていく前の、今作的な無骨な不穏さをもう一度招来するインスト小曲。まさに曲タイトルのとおり、アルバム中で一度コンマを打つ行為として楽曲自体が存在している感じを受ける。反復しうねりを構成していくグリッチノイズは、だんだんより強くなっていく無機的なシンセに飲まれていく。その無表情なシンセはそのまま、次曲のイントロに飲まれて消える。

 

8. Don't Walk Away(4:07)

 アンビエントでオールディーズポップスなメロディを歌ったかのような、これもまた3曲目と別の意味でドリーミーな質感のある楽曲。宇宙空間を優雅に漂うような美しい情緒が感じられる。

 Lowのメロディは元来割とゴツゴツしたものだったように思うけど、この曲においては実にオールディーズポップス的な、メジャー調で優雅で甘く寂しげなラインを丁寧に描く。それをとてもスローに、このアブストラクトで静かに混沌とした音像の中に広げてくる。今作が”うた”の作品なんだとここでも思い知らされる。二人のボーカルには曖昧になりすぎない程度のエコー処理がなされ、それはこの曲のタイトルと同じ歌詞を有しているJoy Divisionの名曲『Atmosphere』を思わせる。この曲自体『Atmospere』を手本に作られているところがあるのかもしれない。

 途中でバックのサウンドに挿入されるヘンテコなSEの様子は、どこか1990年代末頃の宅録作品的な情報の混線具合を思わせる。この曲単独について言えば、曲の途中で過激な歪みが入ってくることもなく、終始静かで穏やかなムードが流れ続ける。それは、程よく冷たくも気だるい心地よさに聴き手が浸りきることを目指しているのかもしれない。当然それは、次の曲の前奏として。

 

ぼくはあなたのそばで今眠っている

1000年に思えるようなもののため

あなたの夜の影が伸び あなたの耳に囁く

 

だから 離れないでいてほしい

もう耐えられない

ゲームに勝ってしまって もう遊べない

 

 ロマンチックな光景。それはある意味、次曲のためでもあるのかもしれない。

 

9. More(2:11)

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 前曲の優雅な静寂を無慈悲に破壊する、激烈に歪んだサウンドのループと”うた”だけで構成される、冷たく壊れたグランジのような楽曲。これもやはり、先行リリースで単独で聴いた時よりも、このアルバムの曲順で聴いてこそその激烈さの真価が分かる形式となっている。ここの吹き飛ばされるような鮮烈さがまた、アルバムの壮絶さのもうひとつの極みと言えそうだ。

 強引で激しく電子的な歪み方をしたサウンドは、よく聴くとThe Kinks以来のパワーコード3つのリフのように並べられており、そこに神々しくもヒステリックなMimi Parkerのボーカルが冷たく響く。ただ、ボーカルの綴っていくメロディラインはオーソドックスな4小節で構成されるのに対して、リフの方はフックのついた箇所含む3つの音で3小節だけを構成し、それを延々とループし続ける。つまり、ボーカルのメロディとカミソリのようなリフがポリリズムで進行していく。これによって、激烈な存在感を放ち続けるリフのコードに左右されず進行していく”うた”の超越的な存在感がかえって増補される構成となっていて、ほぼこのノイズと歌声だけで構成されることもあり、最小の音数で最大限に虚無的な殺伐さを振り絞る、そんな壮絶な2分ちょっととなっている。終わり方は当然、あっさりと事切れてみせ、その短い残響の緊張感が次の最終曲の淡々とした歌い出しに掛かっていく。

 言葉遊びのように展開されていく歌詞も、しかしどこか苛烈な背景を感じさせる。その苛烈さは、一体何のためなんだろうな。

 

失うべきだったもの以上を与えた

払われたであろうもの以上の代償を支払った

ぼくが持てたかもしれない何かをきみは持つ

ぼくは持っていなかったもの全てを欲す

 

10. The Price You Pay(It Must Be Wearing Off)(7:08)

 本作の最終曲は、一番オーソドックスに”バンドの歌もの”の形式を取って、しかし今作的な苛烈さを次第に孕ませながら、ダークでゴシックに進行していく。意外にしっとりした結末に、逆に驚かされる。

 ボーカル二人の合唱から始まり、裏ではピチカート奏法のヴァイオリンのように鳴らされる何かの楽曲。ギターなんだろうか。静かに今作的に音質を変異させ、途中から純粋にノイズ的なノイズも挿入され、楽曲は電子音によるクラシックのような様相を見せるけれど、歌のメロディにははっきりと楽曲としての展開が存在していて、サビ的な箇所が終わると背景では景色が炎上するかのようにギターのフィードバックノイズが暴れ回る。

 そして、3分前後から遂に登場するドラム。壮絶なサウンドをしつつも、実にスタンダードな8ビートでバンドサウンドが進行していくことに、逆に驚きが感じられる。次第に様々なノイズが飛び交い、また1990年代末的な混沌とした音風景が広がっていって、一度それが一気に止んで、また二人の声、大サビ的なメロディだけになる。今作が徹底して”うた”にその中心を置いていることが分かる瞬間。この最後のメロディラインは、本作で一番劇的に訴求してくるものだ。それが、歪みと混沌に満ちていくサウンドと交差していく。

 最後は、録音機材が壊れたみたいに急に音が弾け飛んで、ギラついて、そしてノイズの屑になってフェードアウトしていく。最後までどこか、ゴツゴツした無骨さでもって作品を締めていく。

 「貴方が支払った価値(それはすり減っていくに違いない)」という、今作らしからぬ文章となった曲タイトルは、しかし今作に通底する、喪失も含めての経験についての思念が覗かれる。

 

そしてぼくは知っている

貴方が傷を忘れるために何を望んでいるか

でも貴方がどちら側であろうと

貴方は自身に相応しい程度を手にする

自分の言葉で生きて行きなさい

馬鹿げてるよう聞こえるのは分かるけれど

 

それはすり減っていくだろう

それはすり減っていくだろう

それはすり減っていくだろう

それはすり減っていくだろう

 

これは悲嘆か、諦観か。でも、そういう認識をした地点からでしか始められないことも間違いなくあるんだろう。

 

・・・・・・・・・・・・・・・

 以上、10曲46分程度の作品でした。

 

本編2:"声"と"ことば"について

スタンドマイクのイラスト

 『HEY WHAT』は総じて、楽曲が成立するか怪しいレベル、もしくは楽曲を自ら破壊するほどに破綻したレベルの音像に対して、夫婦二人のみとなったメンバーの”声”だけで対峙し続けていくような場面が強調された作品だった。でも、そんな激しいサウンドの中にあっても、今作での二人の”声”は、決して「サウンドの一部」ではなく、背景のサウンドと明確に分け隔てられる”うた”であり”声”であり”ことば”であると強く感じられる。

 前作『Double Negative』における声の取り扱いは、どちらかというと声もエフェクト等を掛けまくってゴースト化したような、様々に吹き荒れるサウンドのひとつ、といった側面が強いように感じられた*2。そこから今作への転換というのが、今作の音楽的に非常に大きなトピックだということは、多くの人も認めることだろう。

 今作での”うた”の強調のされ方の、そのピークは間違いなく『Days Like These』が流れ始める瞬間で、ここには、その前曲でずっと曖昧にして忘我の荒野で吹き荒れ続けた、意味などが一切抽象化された”サウンド”から、一気に”声”と”ことば”だけに転換する場面で、人の発する”声”や”ことば”が、明確にそれ以外の”音”と異なる存在なんだということをまざまざと見せつけられる。その”声”であること、”ことば”であることの尊さ・輝きに対して、サウンド側が醜悪なノイズとなって復讐し、”声””ことば”をほとんど虐殺しきってしまう展開は、先行リリースで聴いた時も絶句したけど、アルバムの流れで聴くと、より鮮明にその意味が感じられてくる。

 思うに、”声”や”ことば”というものにはどうやら、人間存在そのもののような、輝きやら温かみやら確かさやら何やらが存在している。それは、目で見る景色やら絵やら映像やらの様々な様子とは全然別の”人間性”として受け取ったものの中で反響する。

 今作はその”人間性”の響かせ方が半端ないことになっていたんだな、と認識した。前作が、エフェクト等を駆使して”声”や”ことば”の”人間性”を極力薄めて・削ぎ落として、ただの悪霊のような”音”にしてしまおうとしていたこととは、ちょうど対照的な関係性にあるんだなと思った。Lowの全作品をしっかり聞き込んだ訳ではないけれど、今作ほど”うた”が強く感じられる作品も珍しいかもなあと、『Days Like These』の始まる瞬間のたびに強く思う。

 

 以下は弊ブログの辞典記事に最近投稿した”ことば”の項から。

 

 ことばというものは意味とともに音と形を持って存在するもので、それはなので、絵やイラストの中で出てくると絵柄から浮き出た存在感を持つことになるし、音楽の中で出てくるとやはり他の演奏から浮き出た存在感を持つことになる。書かれたものであればフォントやサイズや色や書かれ方が時に個性になるし、音になったものであれば声色や歌い方が時に個性になる。

 このことばというものの音や形としての、浮き出してしまう特性を抑えるには、極力ことばとして認識できないくらいに変形させる必要がある。絵であれば、たとえば法則性すら全然わからなさそうな言語はまだ絵に近付いてくるけど、それでも「何かの言葉なんだろうなあ」とは感じられる。本当に言葉を絵の中に埋没させようと思ったら、言葉自体も形を崩すなどしてイラストの構成要素のひとつにまで”分解”しないといけない。

 音楽であれば、やはり聞いた時に言葉として認識できない形にまで声を変形・分解させる必要がある。それは何通りかの方法があって、まずは言葉ではなく音として声を扱う、コーラスワークとかフェイクとしての方法は昔からある。はっきりと言葉がある声を”音”として埋没させるには、声にエフェクト等をかけていく必要がある。古くは歪ませたり、フィルターやフェイザーをかけて変にしたり。いつからかボコーダーも出てきて、これは典型的な「言葉をことばとして聞こえさせなくする」装置だと言えそう。さらに時代が降れば、デジタル上でデータとなった”声”にいくらでも簡単にエフェクトをかけれるようになるし、細かく切り刻んでグリッチ状にしてしまう手もある。一番手っ取り早いのは深くリバーブをかけてしまうことかもしれない。

 特に音楽については、そうまでしないと他の音と違うものとしての存在感を失わないことばと声の強さに、やっぱり”うた”ってなんかすごいな…という、根源的な畏敬の念を覚えてるようで子供みたいなことしか思いつかないような気持ちになる。

 

今作を聴き終えての、一番最初に出てきた感想も、サウンドが物凄いとか何とかよりも、「やっぱり”うた”ってなんかすごいな…」ということだった。たとえばRed House Paintersとかで感じれるようなリリカルな具合とは異なる、どこかボサボサした風情で、ゴツゴツしたメロディの性質をLowはしていると思ってて、そこが正直少しよく分からない印象をこれまで持ってた部分があったけど、かつてのバンド時代の彼らの”歌心”が十分に発揮されてたはずの作品よりも、今作の方が”うた”がもの凄いものに感じられた気がした。それは、途轍もないサウンドの切り詰め方によるものとも考えられて、本当に凄いけど、ここまでやってしまって、今後他にやることとか残ってるのか…?みたいな変な心配をしてしまうほどに、キリキリと上り詰めた壮絶さを今作には感じる。

 もうLowは普通のバンドサウンドの作品には戻らないのかもしれない。でも彼らは、前作から引き続きの壮絶な音像の中で、”うた”の用い方の手法の新鮮なやつと、それ以上にもっと根源的な”人間性”の輝きそのものを見つけ出し、世に問うた。

 ”うた”にはまだできることが沢山あると、そう思えたことが何だかやたら嬉しい気持ちにもなる。それがためか、あまり頻繁に聴きかえすようなサウンドでもないのに、リリースからしばらくは今作ばっかり聴いている。無骨で無愛想なようでいて、でもこれほど”うた”の根本的なところをキャッチーに放り出してくる作品もないんじゃないか。本当に、啓蒙されたような気持ちになる。やっぱ”声”と”ことば”と”うた”のある音楽作品が好きだな、ってことを改めて実感しました。

 

あとがき

 以上です。

 あとは、本作をライブでどんな風に再現する気なのかちょっと気になります。前作のライブ映像はこんな感じ。

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 『ゆらゆら帝国のしびれ・めまい』以降の音源のサウンドをスリーピース編成で無理やり再現するゆらゆら帝国に似たような良さがある気がします。というか音源の完全再現は無理と早々に見切りをつけてアレンジをし直してる感じか。もっと外部の音響スタッフを入れればもっとスタジオ版に寄った演奏もできるんだろうが、それをしないことの価値は確かにあるので、彼らは今後もそうやっていくのか。でもメンバー二人でライブするのか…?流石にベースにサポート入れるのかな。

 どうせ生でライブ観れることはないんだろうな…と思うとこんちくしょう…!という思いにもなりますが。コロナウイルスの世界的な収束を祈っております。

*1:ちなみにLowのキャリアではベースだけそこそこメンバーチェンジが多く繰り返され、この時脱退したベーシストで通算四人目だったらしい。Lowでの活動歴は四人のうち二番目に長かった。

*2:『Fly』とかの例外もあるけども。