ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

サニーデイ・サービスの“夏”にまつわる曲【20曲】

 一個前に書いたスピッツの同種の記事で味を占めたので、今回は同じくサニーデイ・サービスの夏にまつわる歌を集めました。予想はしていたけども、スピッツ以上にサクサクと曲が集まり、20曲のチョイスということになりました。

 一個前のスピッツの夏の記事はこちら。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 サムネ画像のコラージュは今回のリストに入っていない曲のPVからも引っ張ってきましたが…それにしても海岸沿いを舞台にしたサニーデイのPVやたら多いな*1

 

 

 

サニーデイ・サービスにおける“夏”について

 代表作のひとつであるアルバム『東京』のジャケットなどもあってか春のイメージも強いサニーデイ・サービスですが、それ以上に夏についての曲は数が多いように感じます。このバンドがいつしかそこに全てを懸けるようになった“メロウ”という概念に、夏という季節の有するどこか切なげで儚げなファンタジーの要素がうまく作用するんだと思います。というか、ロックバンドの歌の中における“夏”の扱い方についてはある程度パイオニアめいた部分もあるかもしれません*2

 先に書いてたスピッツにおける象徴化された異様さのある“夏”に比べると、サニーデイの方の夏はまだ常識的な範囲というか、割と現実的で、恋人同士のちょっとした、時にドラマチックでロマンチック、時に感傷的な夏の光景がメインとなっています。サニーデイの場合、スピッツみたいに初めから超越的なことを歌ってたのではなく、もう少しチャラいところから始まってるというか、渋谷系っぽいマンチェっぽいことをやってたところから急にやたらと野暮ったい『若者たち』に移行してしまうくらいのいい意味での“節操のなさ・思い切りの良さ”が基本にあるように思います。その中でバンド自体が制作のカルマにどんどん引き摺り込まれ、やがて「美しくも儚い光景の歌を病的な制作体制で作り上げるバンド」になっていった末に2000年に一度解散。

 その後再結成し、屈強で幅広いソロ活動を行うようになりまた自身の名前を冠したバンド活動も並行的に行っていく中で、サニーデイ・サービスは「昔の懐かしくもメロウな思い出を大切にしていくバンド」になるんだと、2014年のアルバム『Sunny』くらいまでは誰もがそう思ってたと思います。しかし2016年の『Dance To You』からまた偏執的な制作体制に突入、そこから『Popcorn Ballads』『the CITY』と続く三部作では実質の制作体制がほぼ曽我部恵一宅録であることを逆手に取った、非バンド的な同時代的プロダクション(トラップやプリズマイザーの使用等)を駆使しつつドラッギーで破滅的な世界を作り出し、まるで命を削っていくかのような快進撃を見せます。

 しかし2018年にオリジナルメンバーの丸山晴茂が死去、ここにおいてバンドは活動を停滞させ、様々なトライアルの果てに、新たなドラマーとして大工原幹雄をメンバーにし、スリーピースバンドとして精力的なライブバンドに転身、曽我部ソロでの散発的なリリースなども並行させつつ、現在に至っています。

 …サニーデイの夏曲の解説ではなく、バンドの歴史の解説になってしまった。ただ、このような変化があるため、同じ夏の楽曲でも解散前後期の楽曲はやたらと完成され尽くした音像と歌詞になっていたり、再結成後でも『Dance To You』以降については奇妙な毒々しさや苦味などが加味されて、ただただ「きみとぼくの少しだけ幸せな夏」で終始してしまうような夏の曲の書き方をしてこなかったところがあります。本編に入ったらその、おそらく制作者本人もここまで多様化すると思っていなかったであろう夏ソングのあり具合を見ていきたいと思います。

 

 

「海」と「夏の終わり」:サニーデイの伝家の宝刀

 それにしてもサニーデイ含む曽我部恵一の歌には「夏」と「海」がよくセットで出てきます。いや他のアーティストでも夏の曲に海が出てくるのは定番中の定番だろってもんで、サザンオールスターズとかを挙げなくともまあ特に日本の音楽業界では一種の王道的な組み合わせではあるでしょう。

 サニーデイおよび曽我部恵一の「夏の海の曲」に特徴があるとすればそれは、「マリンスポーツや海辺のパーティー的なのとはかなり無縁」ということでしょうか。彼らの曲の上では冗談でも比喩でもサーフィンなんて出てこないし*3、海辺でバーベキューなんてしないし、もしかしたら海辺で花火すらしてない気もします。

 サニーデイ曽我部恵一の歌における海というのは「恋人と淡い感情と感傷を交わす場面」あるいは「ひとりで物思いに耽りながら歩き回る場所」のような感じがあります。この辺は元々“文系”バンドとして売り出していたところも関係するんでしょうが、単純に作者の性格がそういう、映画の一場面みたいに感覚や物語が凝縮する場としての“夏の海”を求めてるのかなとも思います*4

 なので、彼らの歌に出てくる「夏の海」は夏だというのに静かだったりします。そして、「静かな海」というシチュエーションを成立させる上でも「夏の終わり」という語の重要性が出てくるところがあります。夏の盛りを過ぎ、クラゲとかが出てきて泳ぐ人がいなくなり、人がまばらな寂しい光景が戻ってくる、ついでに気温も少しばかり下がってくる、そんな「夏の終わり」のチルな感覚を、彼らはバンドとしてずっと志向してきた印象があります。そうでなくても「盛りを過ぎた」という意味が何重にも「夏の終わり」という語には載せられるというのに。

 実際に東京近くの砂浜がある地域、湘南とかでそこまでチルになれるほど人がまばらな時期ってあるのか*5、というところはともかく、彼らの「夏の終わりの海の曲」はおしなべて静かな光景を舞台にしていると言えるでしょう。

 

 

本編

 たまたまですが、再結成より前と後でそれぞれ10曲ずつのチョイスとなりました。ここに入っていない夏の曲も色々とあります。予想はしてたけどさすがサニーデイ・サービス、夏の曲の層が厚い…!

 そういえば2022年のアルバム『DOKI DOKI』によって再結成前と再結成後のオリジナルアルバムの枚数が並んでたんですね(2023年8月現在でどちらも7枚ずつ)。

 

 

1. サマーソルジャー(1997年 3rd『愛と笑いの夜』)

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いつでも夏は ふたりを放り出す

血を流させてそれでもそのままで

ビルの群がグラリと波打ったら

おおいかぶさってふたりを狂わせる

 

その唇 染めるのは 彼方に沈む夕陽なのか

ぼくの心つかまえて 青ざめさせる恋の季節

 

愛しあうふたり はにかんで なんにも喋らず 見つめあう

それから先は hey hey hey…

 

八月の小さな冗談と真夏の重い病

天気のせい それは暑さのせい それから先は…

 

 このリストの先頭に彼らの夏の曲の代表格であろうこれを持ってこれたのは、意外にもこれ以前にそんなにこれといった夏の曲がないからだ。その後の歩みからは意外なくらい、サニーデイ・サービスというバンドははじめから夏重点なバンドではなかった。むしろ彼らの出世作『東京』においては春を前面に出し、春の「これからワクワクが広がっていく感覚」みたいなものをよく拾っていた。そういう意味では、夏の曲ではあるけどもこの曲もまだそういう「夏を謳歌する可能性」について高らかに歌っていて、しばらく後の、焦燥やら、もしくは諦観やらに彩られた夏の光景とは随分と雰囲気が違う。当時は『Don't Look Back in Anger』に代表される当時のOasisの大仰なバラッド形式が流行った時代でもあるけど、そういうのに影響を受けた壮大な楽曲の中でミクロでネガティブなことはなかなか歌いづらいものでもある。

 つまり、色々と比喩やら何やらを用いて夏の残酷さみたいなのを歌ってはみるけれども、どんなに文学的っぽい修辞を尽くしても、結局は大サビの「それから先は hey hey hey…」にたどり着く。つまりはまあ、セックスということで。初期の曽我部恵一は『あじさい』のPVで歌詞の中の赤線的な表現を拾ってもらえず抗議するなど、しれっとエロな要素を入れたがるところがある。いやでも、夏の情緒と残酷さに触れながら、ロマンチックな雰囲気にふたりで呑まれて、そのまま勢いで行ってしまうのは、若者の夏かくあるべし、くらいのものではある。悶々とこんな文章を書くなどして夏を浪費してはいけないと、筆者は忠告すべき義務があるかもしれない。

 ちなみに曽我部恵一は八月が誕生日のようで、なので夏にこだわりがあるところもある程度はあるんだろうし、特に「八月」には何かと思い入れを感じさせるところがある。コロナ禍の際にオープンさせたカレー屋に「八月」と名付けるくらいの入れ込みよう。

 

 

2. 海岸通り(1997年 3rd『愛と笑いの夜』)

 

渚には語られなかった物語が眠ってるんだ

熱く焼けた砂浜を歩く 真昼の夢を探しに行こうか

渚にてふたりは冬を待つ ふたりだけで季節を越えようか

麦わらをまぶかに被った可愛いあの娘が微笑みかけた

 

すぐに秋がきて 海にはだれもいなくなる

砂浜にパラソルの色が溶け出して遠くまでひろがった

どこからか子供たちの声が聞こえて来た そんな夏の午後でした

 

 むしろ『サマー・ソルジャー』よりもこの曲の方に、その後の曽我部恵一の夏ソングの方向性を決定づける要素が凝縮していると個人的には考えてる。

 だって、2023年にそのままソロかバンドかの新曲って形で出てきても、違和感があまりない気がする。それは実際この曲が曽我部によるエコーを効かせたギターアルペジオと若干のムーディーなソロとそして囁くような歌だけで作られていて、当時のバンドの演奏のあり方とは全然関係ない場所で生まれているからかもしれない。そしてこの囁くような歌い方がスウィートさだけでなくどこか虚しさのようなものも含み、また歌詞においても「夏が終わってしまうこと」のなんとなくな寂しさに大きく踏み込んでいくので、この曲はまさに、きたるセンチメンタルな夏を詰め込んだ傑作『MUGEN』の前哨戦のような感覚が静かに漂っている。

 それにしても、情景描写や投げやりに観念的な提案が見事な歌詞だ。とても程よくリリカルでメロウ。

 アルバム『愛と笑いの夜』は2曲目で早々に冬の曲な『白い恋人』は出てくるものの、全体的には夏のアルバムという感じがする。明確に“夏”と設定されてはいないけども『週末』という曲から『サマー・ソルジャー』そしてこの曲と連なるアルバム終盤が特にそう思わせるのかもしれない。

 

 

3. NOW(1997年 4th『サニーデイ・サービス』)

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いつだってぼくは 道間違って 見当はずれの場所にたどりつく

恋の終列車 駅を過ぎて 窓の外から夏がささやきかける

 

なんとなく会いたくなって 風の便り あの娘へと

 

 『東京』が春、『愛と笑いの夜』が夏、ときて、どことなく枯れたアコギの音がリードする感じのあるアルバム『サニーデイ・サービス』は秋のアルバムな情緒が全体からは漂ってくる気がする。しかし、少々意外だけどもアルバムのリードトラックであるこの曲は夏の曲である。もうはっきりと過去でも未来でもなしに「窓の外から夏がささやきかける」んだからこの曲の中の季節は間違いなく夏で確定。春でも秋でも、ましてや冬でもないのがこの曲の中の「NOW」なのだ。

 それにしてもこの曲の的確な「野暮ったさ」は徹底してるなと思う。かき鳴らすアコギも、シャッフルのリズムも、ちょっとずつ鈍臭くて野暮ったい。そして歌詞も、「ぼく」という主語は出てくるものの、全体的にそんなに強い感情は籠っておらず、スッと通り過ぎていくような爽やかさと呆気なさがあって、まるで1970年代くらいの旅のキャンペーンソングみたいな作りをしている。おそらくそれは徹底的にそうなるよう狙って作られてるんだと思う。強い執着心なしにサラッとこういう旅情を出せたところが、あのセルフタイトルのアルバムの成功の一因だろうか。

 

 

4.(1997年 4th『サニーデイ・サービス』)

 

夏が目の前を通りすぎた その瞬間に気づくこと

静かな場所に恋のピアノが流れるそばでまただれかが叫ぶ

魔法のように消えたのは白い太陽さ

やがて雨が降りだすんだ

 

 実に淡々と、本当にスリーピースの演奏しか録音してません、といった風にスッカスカな音像の中を淡々と進行していくこの曲の冒頭で、「夏」は早々に目の前を通り過ぎてしまう。なのでこの曲はおそらく秋の曲なんだろうけど、ここで「夏が過ぎた」ことについて少しの湿ったセンチメンタルさも感じさせず「その瞬間に気づくこと」とだけあっけらかんと記すのがこの時期のサニーデイ・サービス、といった風情。アルバムで一番起伏なく演奏が連なっていくこの曲には、このくらいの無感動さがよく似合う。

 というかこれだけ乾いた演奏のくせに、この曲は「雨」なのか、というのはひょっとしてちょっとした笑いどころなのか。本当にエレキのギター1本だけで、まともにコードも弾かずスカスカ具合に任せるがままにヘロいフレーズを弾き倒していくのは、これはこれでハードボイルドの一形態かもしれない。

 

 

5. さよなら!街の恋人たち(1998年 5th『24時』)

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日曜日に火を点けて燃やせば 失くした週末が立ち昇る

デブでよろよろの太陽を見つめれば 白い幻がホラ映るんです

 

夜がやって来てぼくに囁くんだ

「ねぇ早く ねぇ早く キスしなよ」って

雨が次いつ降るか分からないから

あの娘を連れてどこかへ行きたいんです

ウーラ・ラ・ラ ウーラ・ラ・ラ さよなら

夏が来てるってだれかが言ってたよ

 

 『サニーデイ・サービス』の自由奔放で朗らかな無感動さのモードは長く続かず、というか本人も長く続ける気もなかったんだろう。まるでその反動のように、グツグツと煮滾った感情があちこちで感動的だったり暴発的だったりドロドロとしてたりとともかく噴き出したり溢れ出したりしてくるアルバム『24時』の登場となった。この頃からアルバム制作は一気に過酷さを増したようで、その混乱と苦悩の有様こそを「これこそロック的なカルマだろ?」と言わんばかりにライナーノーツ的に付けてきて、そのもどかしさと暴発とのままならないバランスこそがあのアルバムだとすれば、そのリードトラックとして、この古臭いフォーキーな疾走感の中に沸々として悶々とした感覚が浮かび上がる曲は相応しかったと思う*6

 ろくにサビもなしに、ひたすら焦燥感だけで疾走し、ブリッジで行き止まりだからこその切迫した吹き上がりを見せるボーカルのエモーショナルさは、むしろソロ以降の情感たっぷりにライブで歌う様を先取りしていたかもしれない。言葉についてもその、綺麗な感覚や言葉だけではもう取り繕えない、といったパツパツな雰囲気が感じられ、特に演奏が静かになるセクションに曲中最も性欲の迸りを感じさせる「夜がやって来てぼくに囁くんだ」以降のラインが入るのは実に的確に張り裂けている。ここでの迸りの切迫した雰囲気は、『サマー・ソルジャー』の「それから先は hey hey hey…」と仄めかす様とは対照的だ。

 この曲の歌詞は、ある恋人たちのひと夏の恋の行方を、男性サイドの沸々とした情念でもって描き出した物語のようにも思うけども、大事なのは、物語から作者本人の情念が明らかに貫通してきてしまっていること。ある意味では、この曲からようやく曽我部恵一という人は「自身の中にある、他人に理解され得ない感じの何かの感覚」を歌えるようになったのかもしれない。そこについての詮が抜ける曲だと思うと、この「サニーデイらしくない」焦燥感も大いに意味があることだったろうと思う。

 ちなみに、意外にも再結成前のサニーデイのPVのある曲で「砂浜の海辺」がはっきり出てくるのは実はこの曲くらいなもので、なので再結成後に製作された『夏は行ってしまった』のPVで過去のサニーデイのPVをサンプリングする際にはこの曲のシーンが比較的多めかつ目立つ作りになってる。まあ、画面が白っぽい『サマー・ソルジャー』よりもはっきりと海辺を映したこっちの方が使いやすいわな。

 

 

6. 果実(1998年 5th『24時』)

 

あの星砕け散って あとにはただ風が

俺たちのこの髪が風になびけばいい

 

街のはずれへ 知らない場所へ

沈みかけた太陽がきみの頬を染めてゆく

 

誰かが忘れていた花をつんで行こう

夏の日の雨が全部濡らせばいい

 

 アルバム『24時』のヘヴィさは、上記の『さよなら!〜』からこの曲、そして『今日を生きよう』と、6分越えの曲3連続で幕を開けるところに端的に現れている。最後にも10分越えの実質タイトル曲『24時のブルース』が置かれ、さらにそれでも慊らず、やはり10分越えの『ベイビー・カム・ヒア組曲』をボーナストラックに付けるほどに、この時期のバンドは尺など気にせずに何でもやることでなんとか息をしてた。

 ところで、そんな破滅的な感じとは別に、実はこの時期はキャリアでもとりわけヴィンテージなロックスタイルに接近した時期でもある。具体的にはNeil YoungとかThe Band*7とかいった、ラフで程よく歪んだ音像にこの時期バンドはかなり取り組んでいて、シングルのカップリングとなった『成長するってこと』『からっぽの朝のブルース』、アルバム収録の『月光荘』『経験』そしてこの曲が存在することを思うと、この時期のこのバンドは破滅的・実験的なことも志向しつつ、同時に、少々保守的とさえ言えるかもしれないカントリーロックスタイルも目指していて、確かにそのような相反してそうなスタイルを上手く折衷して成功するWilcoみたいなバンドも稀にいるけども、彼らはそこまでは行かず、曲単位で実験的だったり暴発的だったり保守的だったりと切り替わっていくことになる。『24時』のカオスさの根源はその辺に埋まってる気がする。

 ここまでほとんどこの曲について触れていないけども、この曲もまた明確なサビがない、なんならブリッジもかなり渋めな路線の曲で、三連のリズムはかなり鈍重に進行して、歌も情感たっぷりではあるが、それは前曲のような荒ぶりではなく、もっとシンガーとしての漲りをオーセンティックに表現しようとするスタイルのように思える。この時点での、ある種のR&B的表現というか。しかし、性欲を無視したような歌詞の作りはそのボーカルの行き先を割と意味不明なものにしていて、メインのメロディの歌詞の結論が「髪が風になびけばいい」とか「夏の雨が全部濡らせばいい」とか、割と投げやりな感じになっている。「俺たち」なんて主語を使うのも珍しい。奇妙な堅苦しさがでも、この曲をこの曲たらしめてるような気もする。少なくとも、長いけど勢いのあった前曲の勢いを全力で削ぐことには貢献していて、アルバムの複雑さを思う。

 

 

7. 恋はいつも(1999年 6th『MUGEN』)

 

あの娘はお洒落して 真夏の庭

オレンジの花びら舞った 正午過ぎ

あの娘はおしゃべりさ いつもこの調子

夕立がやって来る音も気付かない

 

きみの瞳の奥で揺れるものは

隣りに座る誰かのものになる 恋はいつも

 

 前作『24時』でアンコントローラブルな状況そのものを作品化したことの反省としてなのか、アルバム『MUGEN』は徹底したサウンドや情緒の抑制が図られた。バンドから自然に出てくるものをほぼ否定して、楽曲の雰囲気づくりのために全てを捧げるその制作は解散前でも最大の地獄を作り出し、結果としてあの、美しいものとメロウなものしか存在しないかのような“夏の箱庭”めいたアルバムに結実した。『Pet Sounds』だとか『A LONG VACATION』といった過去のポップス超名作を批評しつつ志向したようなこの作品は、その制作過程からバンドの生命力を著しく削ぎ、またポジティブな活力も弱いためか後年制作者本人からやや低い評価を受けているきらいがある。そんなの関係なく、これに勝るほどの“夏の名盤”なんて存在するの?と言いたくなるくらいの作品だと思うけども。

 全体に“夏”の雰囲気がまぶされ、その範囲の物語に制限されたアルバムであるからこそ、このソフトなメロウさを極めたような楽曲の舞台も、実にナチュラルに真夏なんである。徹底して歌詞に「ぼく」的なものが出てこない歌詞は、そんな夏のどこかにいた可憐な女の子とメロウにやんちゃな男の子の恋模様を眺めるような視点で描かれる。その恋の当事者ではないからこそ描ける光景なのかもしれない。しかし、じゃあこの随分と低く柔らかなトーンでエロティックに囁くようなボーカルのそのエロスは、いったい何に向けられているのか。声さえも陶酔感を生み出すための香水のような扱いなのか。徹底的に抑制し、自身の感情と歌をここまで切り離したからこそのエロティックな声のトーンなのかと思うと不思議な感じがある。もちろん、こんな口笛がえらくクリアに聞こえるくらい清潔に上品に透き通った淫靡さのみで成立する夏なんて現実には存在しないだろう。でも、ここまでの作り込みの前に現実の夏がなんだって言うんだろう。

 

 

8. 江ノ島(1999年 6th『MUGEN』)

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学生鞄の女の子がゆく きみは見とれて目が離せない

ゆるやかなカーブ 恋模様道行き 昼からぼくらは海へと走る

 

いつもそうさわれないよ 感じるだけ 昼の荒野

道端の花がその日だけなぜか 鮮やかに見えた 海沿いの空に

 

 シングルでもないし、歌詞をよく読むとどこにも“夏”の語が入っていないけども、しかしこの曲こそを『サマー・ソルジャー』以上にサニーデイの夏の代表曲だと推す人はかなりいて、歌詞の情景描写を見ても、いくら“夏”の語が無いとはいえこの曲を夏の曲じゃないなどと言えるはずもない。スピッツの『渚』と同じく、“夏”の文字はなくとも、バンド屈指の夏の代表曲であることに全く異論はない。美しく閉じ切った“夏の箱庭”アルバムの中でもさりげなく、ラフな作りのようで、その実最も気が遠くなるようなメロウさを感じさせる楽曲。

 フォーキーで朗らかに明るいコード感のアコギを主体とし、チープな打ち込みのリズム、作中でもとりわけエフェクトの加工の少ないクリアなボーカルといったシンプルな要素で構成され、曲展開もヴァースとブリッジの繰り返しのみ、というシンプルさなのに、どうしてこの曲はどこまでも夏への郷愁とかなんとかを優しく掻き乱していくんだろう。歌詞のとおりにゆるやかに伸びていくメロディの隙間に、どうしようもなく、騒がしくもない夏を淡々と送っている田舎の光景の空気が入り込んでいく。

 エフェクト加工も演技的なところもなく伸びる曽我部のボーカルは美しく、そしてひたすらに感傷的で、それは「田舎の旅行で見た別に何も特別でない場面」を切り取っただけみたいな歌詞を、とても掛け替えのないものを想う時間かのように感じさせる。車を走らせてどこか静かな海沿いの町に向かうこの恋人たちに、さしたる旅の目的は感じられないし、別に楽しそうでもないし、むしろどこか倦怠感・諦観さえ覗いてる気がする。「いつもそうさわれないよ 感じるだけ 昼の荒野」という歌詞の、しれっと必殺なことを歌っている様。この歌の中の彼らはただなんとなく夏を追いかけて、ただなんとなく感傷に浸ってる。道端の花がちょっと鮮やかに見えた気がしたからってなんだというんだ。そんな、よく考えるとさして生産性もなさそうな様子に、どうしてこうも憧れてしまうんだろう。

 おそらくはサニーデイ・サービス全曲で最も「これは自分だけの「隠れた名曲」ってことにしておきたい」というファンが多いであろう、その結果としていつの間にか最早隠れもしていない名曲になってしまった感のある「隠れた名曲」。ちなみに、歌の中で颯爽と車を運転しているけども、曽我部恵一が運転免許を取ったのはここ最近のことだという話らしく、つまりこの時点の彼は自分で運転もできないのに、完全に妄想だけでこの歌詞を描き切っている。この辺が曽我部恵一という人のとりわけ物凄いところかもしれない。この妄想力の凄まじさは後年、全然別のベクトルで『Dance To You』以降に爆発していくことになる。

 

 

9. 胸いっぱい(2000年 7th『LOVE ALBUM』)

 

OH BABY 今日の午後 一緒にこの部屋を出よう

堂々巡りの果てに最後の朝が来たけど

外にはまだ太陽のかけらが静かに降っている

 

胸いっぱいの思い出を抱えたその両手に傷

こぼれる涙が物語の始まり

夏には咲き誇り 冬には枯れてしまう恋

昨日と今日と明日を駆ける旅のできごと

 

 非シングルの代表曲が続いていくなあ。再結成前の最終作『LOVE ALBUM』は機能不全に陥り特にドラマー丸山晴茂の意欲低下が著しかった状況下で音源を作るべく、自主的に禁止事項にしていた「打ち込み」を、当時の同レーベルの盟友にして元Electric Glass Balloonのボーカルギター、当時すでにクラブミュージック方面のDJに転身していたSUGIURUMNの協力などを得て全面的に解禁し、多くのサポートメンバーの協力なども得てなんとか完成に辿り着いた作品。打ち込みの音は曽我部恵一のボーカルのエロティックな面と相性が良いけども、かつての「野暮ったい文系バンド」のイメージは遙奏多に消えていく。

 そんな中、この曲だけはかつての「野暮ったい文系バンド」の再現に躍起になっている感じがある。元々ジャニーズか誰かに提供する予定で書かれたとかだったか忘れたけど、だからなのかとりわけポップで活力に満ちたメロディと、弾けるようなシャッフルのリズムと、フォーキーさを軸に的確にはしゃいだ感のある歯切れのいい演奏とが、かえってバンドの状況の悪さをリリース当時は醸し出していたかもしれない。今となっては、曽我部恵一bandでも毎回演奏され、再結成サニーデイでもこの曲を演奏しないことないんじゃないか、くらいの位置になってしまった曲でもあるけど。

 分かりやすく恋の終わりの光景を描いた歌詞もキャッチーで、『サニーデイ・サービス』や『MUGEN』の乾いたメロウさの中ではなかなか見せなかった“涙”なんかもここでは余裕でこぼしてしまう。一方で恋の物語の一連を「旅のできごと」だと表現する様は、いつ頃からか日常から遊離したような場面を歌うことが多くなったサニーデイらしいものを感じさせる。そして「夏には咲き誇り 冬には枯れてしまう恋」というラインの夏と冬の対比は、かつての『恋におちたら』の昼と夜の対比を思わせる。明暗はっきりした夏冬の表現はベタで、夏でもどこか寂しさに満ちたサニーデイの標準からすると少し例外的だけど、この曲の圧倒的なポップさの前ではそんなの些細なことのようにも思える。

 というか、この曲はそれこそ沢山演奏されすぎて、歌詞も半ば意味を失って「なんかそういうもの」となってしまった感じがある。頭打ちのリズムで勢いのあるこの曲のサビは否応なしに盛り上がるもんなあ。この曲と『青春狂騒曲』の現在の地位はソカバンで演奏し続けてたことの影響もとても大きい。

 

 

10. うぐいすないてる(2000年 7th『LOVE ALBUM』)

 

静かな季節 湿った草のおもかげにきみを想って立ちどまる

夏が連れて行ったぼくの恋人 香りだけ残して

 

遠いかみなり うすむらさきの雲のむこう

雨がもうすぐ降るかもしれない

うぐいすないてる すがたみえない

 

 アルバムの軸であろう9分近くにわたる大作にしてバンド最初期のマンチェ感の再来とばかりにPrimalがScreamしてComeがTogetherする『パレード』のはしゃぎ倒した感じの後に静かに始まるこの曲は、これまでバンドが培ってきた「喪失のメロウさ」を極めんとしたかのような、静寂の中を徹底してスウィートでメロウに描き切った名バラッド。囁くように歌う曽我部のボーカルは基本エロティックさに満ちていて、アコギとピアノの響きが涼しさと可憐さを燻らせる演奏は徹底して美しく抑制されている。一番エモーショナルになるミドルエイトの箇所においても、エロティックな振る舞いのままに体温を感じさせない熱唱を見せる様は「サニーデイ・サービスのボーカル」の完成と同時に何か「成熟の終わり」を見てるようで、ひたすらにもの寂しい。『青春狂騒曲』で「そっちはどうだうまくやってるか こっちはこうさどうにもならんよ」と歌ってたのと同じ人間かよ、っていう。

 歌詞の方も、恋について思いと曖昧な情景描写を巡らせすぎてよく分からないファンタジーか哲学じみてきていたサニーデイ・サービスの最終章として相応しいくらいの、淡い季節と天候の色合いの中を浮遊する別れの歌に仕上がっている。「夏が連れて行ったぼくの恋人」の時点でどう解釈すればいいのか曖昧なところで、そのような物語のメロディ共々の落とし所が「うぐいすないてる すがたみえない」なので、これはもう正解の解釈とかないので皆様で様々に想像を巡らせてください、って感じのものなのかなと思う。とりあえず、別れた恋人をふと思い出してメロウな気持ちになってる歌だってことは分かる。「メロウ」という語がまた、意味するところがとても曖昧なのでこうやって使用するにとても便利だということも。

 

 

11. 恋人たち(2010年 8th『本日は晴天なり』)

 

太陽がいつだってすべての証人で

暑さに追われ まぶしさにやられて

ぼくらの大きな罪の海だって

ひからびてしまうあたたかさを待つ

 

恋人たちはいつもおんなじ顔で

くちづけしては笑っている

 

 サニーデイ解散後、ソロキャリアと自主レーベル設立によって非常に屈強でかつサニーデイ時代以上にワーカホリックな創作体制を得た曽我部恵一は、2008年にサニーデイ・サービスを再結成し、すでに結成していた曽我部恵一Band曽我部恵一ランデヴーバンドとそしてソロとの、驚異の4足の草鞋をしていた。流石にこの時はサニーデイのリリースはなく、当時はこの再結成を「旧交を温めて過去を懐かしむ、一種の“集金旅行”」なのか…?などと思ってたけど、2010年に再結成後初のアルバム『本日は晴天なり』をリリース。『東京』っぽいサニーデイや『MUGEN』『LOVE ALBUM』っぽいサニーデイなどを程々に含んだ、まあ再結成らしい一枚だった。『Dance To You』以降の歴史がすっかり刻まれている今日においては、もしかしたらキャリア中で一番顧みられることの少ない作品になってしまっているかもしれない。悪い作品ではないけど、飛び抜けたものもないといえばない*8

 とはいえ、冒頭にこの曲が流れてきた時の「ああ、相変わらずサニーデイ・サービスはこんな感じなんだな」っていう退屈さと安心さの入り混じったちょっとした感動のことは覚えている。というか今改めて聴くとこの曲Bob Dylanの『I Want You』かなりそのままなんだな。本当に今更気づいた。歌詞についても、恋愛という概念についてどこか一歩引いた視点で俯瞰して眺め、そこに夏の描写の色々を重ね合わせてくる、実にサニーデイ・サービスな作りをしていて、むしろ逆に『MUGEN』以降の少し醒めたトーンがサニーデイの歌詞の基本形っぽくなったんだなあ、という感じがする。すっかり若者と呼べないくらいの大人になった彼らにおいて、『東京』の何もかもにワクワクしてそうな空気感も『サニーデイ・サービス』のフラットな心で旅する感じもそぐわず、そこで解散前でも結構アダルティックな『MUGEN』あたりになってくるか、ということを歌詞を読み直して思った。ときめきと退屈が紙一重で同居する世界。

 

 

12. 夏は行ってしまった(2014年 9th『Sunny』)

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夏は行ってしまった きみやぼくやあの娘をおいて

はなればなれだけが いつもぼくを不幸にさせる

 

ぼくとっても飢えてる 熱くて冷たい気持ち

燃え上がってしまう 夕方の蝉のように

 

夏は行ってしまった 青い吐息わずかに残し

今夜家に帰ろうか それともぼくとどこか出かける?

 

 出典を2014年のアルバム『Sunny』としたものの、実際はこの曲と次の曲は2012年にそれぞれシングルとしてリリースされたもの。この曲が8月、『One Day』が9月と、2ヶ月連続リリースだった。どちらも夏の曲というのは、ここにきてセルフイメージを夏に固めにきたのかなんなのか。

 VIDEOTAPE MUSICによる過去のサニーデイPVコラージュによる映像もさることながら、楽曲自体もまるで過去のサニーデイのテイストをなぞったような、パッと夏めいた雰囲気のヴァースと気だるくひねくれたブリッジを繰り返す構成を取る。ここに来てくすんだ処理をされた音・ダブルトラックで曖昧に処理された声がより『MUGEN』っぽさを濃くしてきた印象で、曽我部ソロ初期といいやはり『MUGEN』のサウンドやメロディや歌詞なんかはそれ以降の“サニーデイらしさ”の重要な構成要素に連なっている印象がある。サイケでメロウでノスタルジックな風にサニーデイでやると『MUGEN』っぽくなるのか。ブリッジの冴えなさすぎるコードやメロディ回しもまた、ヴァースの晴れやかさを際立たせる。

 それにしても歌詞が結構投げやり。その気だるさも込みでのこの曲の雰囲気ではあるけども。基本的にはタイトルから想起される哀愁をテーマにしてるはずが、特にブリッジの箇所のプリミティブな表現は密かにパンクめいてるかもしれないが、このへんのガキっぽさは次の曲の洗練された大人の哀愁と対照的で、あえてこういう処理にしたのかなとも思える。けどもやっぱり『One Day』とマジさのギャップが大きい気もする。

 ところで、この曲と次の曲が収録されたアルバム『Sunny』はそれ以外の曲でも夏の曲が多く、割とマジに『MUGEN 2』めいた部分がある。もちろんあの頃のようにギスギスして作った訳ではないだろうし、だからこその風通しの良さと引き換えの緊張感の緩さもあるんだけども。でも、曽我部ソロの方で非常に破滅的なワーカホリックになっていた2014年にポッと出されたあのアルバムも「オリジナルメンバーのこの3人でもう一度、夏の名作を!」という気概は、案外こっそり持ってたのかもしれない。

 

 

13. One Day(2014年 9th『Sunny』)

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暗闇駆ける魂を持つどんなときにだって光を愛す

夢の中でくちづけしてはっと目が覚めて

とても残念に思う朝

 

いつかはきみに風が吹く いつかは穏やかな雨が降る

だれもいないなんにも見えないこんな場所にこそ

きっと太陽は顔を出す

 

落ち葉の日々 静かな海 あたたかい砂の上を歩く

夏は終わりこぼれる光 やさしく波打つこの気持ち

 

 上述のとおり2012年のシングル2ヶ月連続リリースの2ヶ月目であり、リリース月の9月に沿った「夏の終わり」の歌であり、この点においてサニーデイの他の曲でこの曲より良い曲があるとも思えない、『Dance To You』より前だけで見れば間違いなく再結成後最大の名曲はこれだろう。『MUGEN』路線の情緒はありつつもレトロな音加工は無しにして、至ってシンプルにメロウな3コードのループを3人の演奏+αで美しくも寂しげに仕上げた、キャリア全体を見てもここまで「メロウなサニーデイの決定版!」と言えそうな曲もないだろうと思える、大名曲。

 本当に、この曲はたった3つのコードしか使っていない。それも、ルート音を変えるだけくらいの曖昧なトーンの響かせ方で、こんなことだけでこんな綺麗な音の広がり方をするギターという楽器の奥深さを感じる。そしてその、ひたすら同じ3コートの上に展開するAメロとサビのメロディの対比、ヴァースの中でも3周目に少しメロディが持ち上がる時の程よいエモーショナルさがあり、そしてサビのファルセットの、少し枯れた具合の声に浮かぶ年季の表れも含んでの美しさ。このファルセットの歌唱の素晴らしさをもって、この曲でサニーデイは間違いなく『MUGEN』以降の世界観を大きく一歩踏み出した。確かにこれは再結成前には生み出せなかった声の妙味がある。

 そして言葉も、自分が作り続けてきたファンタジーを自分自身でしっかり信じられるように、まるで本当に「夏の終わりの哲学」を唱えるかのように、丁寧に選ばれた言葉の連なり方をしている。もはやこれは恋の歌ではなく、上で引用した後半の歌詞に至っては、ある種の応援というか、他者のささやかな幸福への祈りとなっている。こんなことが嫌らしさなく歌えるだけの地力も、解散前のバンドには無かったものだろう。印象的な情景描写をしているだけで特に意味のあることを歌ってるわけでもないサビのフレーズもまた、その情景の眩しさにやられて気持ちが優しく波打つこともあるかもしれんなっていう、不思議な説得力が生まれている。

 仮に『Dance To You』以降の驚異的なキャリアがなく、もっと平凡にサニーデイの再結成後が進行していたとしても、この曲が放つ一際印象的な眩しさは変わりはしなかっただろう。オリジナルメンバー3人で達成できた最大の記念碑であるし、ある意味では、正攻法で持っていけるサニーデイ・サービスの最高峰はこの曲なんではないかとさえ思う。

 

 

14. ベン・ワットを聴いてた(2016年 10th『Dance To You』)

 

海で出会うものすべて 愛してるって言える いま

 

さよならぼくのBABY さよならぼくのBABY

さよならぼくのBABY バイバイ

九月の海へ行こう 九月の海へ行こう

九月の海へ行こう バイバイ

 

 アルバム『Dance To You』のレビューを書くのに筆者はすでに3回も失敗している。様々な因果がこのたった9曲40分弱のアルバムに収束していて、それを上手く書き出すことに3回も失敗している*9。いつかちゃんと書き上げないといけない。

 私事はともかく、ここまで散々名前を挙げてきたことからも『Dance To You』が再結成後の彼らの最大のターニングポイントだったことは理解されるだろう。過去最長の録音期間で大量のボツ曲が生まれ、丸山晴茂がリタイアし、費用面の問題などもありほぼ曽我部恵一宅録みたいな段階になってやっと光明が見えたという経緯からして異様だけども、サウンド的にはまさにそういう、宅録だからこその極端なサウンド編成が同時代性を楽曲に薄ら与えながらも、的確に開き直った音のチープさが、むしろ時代の先端を切り開くようなエッジさを有することに繋がった…などと書いてみるものの、あのアルバムの魅力を何も言い当てていない気がする。本当に何をどう書けばいいのか。

 『I'm a boy』の山下達郎っぷりや『冒険』の歌詞、あと永井博によるジャケットなど、全体的に夏っぽい雰囲気を有した作品ではあるけども、はっきりと“夏”という語が入った歌詞を持ってるのは『青空ロンリー』だけで、とはいえあの曲をあのアルバムの代表として取り上げるのもどうかと思われたので、代わりにこの、アルバムの末尾にて異様な強迫観念に囚われた反復を続けるこの曲を。ⅣとⅤのコードを延々と繰り返して、歌詞もやたらと繰り返しの多いこの曲からは、アルバムが『桜 super love』でひとまずの晴れやかな出口を見出したはずの流れを、しっかりと焦燥と虚無とあらくれが支配する空気に戻して沈めてくれる。いかにも宅録な感じの音質は作中でも殊更に強調されて、特にギターの歪み方のチープさは印象的で、普通にバンドで演奏するなら絶対使わなさそうな音色を間違いなくあえて使い、いかにも「不健康で視野狭窄が故にかえって自由な宅録」のテイストが引き出されている。特に一度だけ出てくる雄大なサビのような展開の時の歪ませ方の極端さが印象に残る。一方、アウトロで一度消え入りそうになってからまた戻ってくるところの音の感触はエレクトロニカ的な要素も感じられて、これまでの曽我部恵一の蓄積も抜かりなく活かされていることを思い知る。

 そしてよく考えると、上の引用でほぼ書いてあることの全てである歌詞も、「9月の海」というワードで「夏の終わり」を示し、サニーデイ的なメロウなをアホらしいくらいに最短距離で表現していつつも、それを連呼することでメロウさの深みを全く感じさせず、むしろ虚無の向こう側になにか『24時』の時以上の張り裂けんばかりの情念を覗かせていく。この辺、ひたすら快楽優先です、みたいなことをインタビューで言いつつも、どう考えてもそれ以外の怒りだとか焦燥だとか狂気だとかが隠せもせずに薄皮一枚の下にギチギチに詰まっているのを感じられる、矛盾の嵐のような『Dance To You』という作品のちょっとした種明かしのような趣さえ感じ取ることができるのかもしれない。感じ取れはしても、それをこのブログ上で上手いこと言葉にすることがずっと出来ずにいるのだけれど。

 

 

15. summer baby(2017年 11th『Popcorn Ballads』)

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空にワンツースリーで描いた 愛のコトバがひろがった

脳はいつだってフィードバックして 手がつけられない状態だね

ああ Summer baby summer baby

ちょっとおかしな summer baby

 

 『Dance To You』という一種のボトルネックを超えて以降、“サニーデイ・サービス曽我部恵一”はこれまでにもないほどに創作意欲がバグったまま制作を続け、2枚組の物量となった『Popcorn Ballads』、こちらも1時間越えの尺の『the CITY』と大作を連発した。ラッパーとのコラボなども含みつつ、混沌のSFじみた歌詞世界と、もはやほぼ全て宅録では…?とさえ思うようなトラックの連続による思い切ったサウンド処理が詰まりに詰まった『Popcorn Ballads』は、『Dance To You』のサウンドを過渡期のそれにしてしまった。混乱したまま絶好調、という作者本人さえコントロールする術を放棄したような状況がこのような事態を引き起こしたのか。

 そんなアルバムの中で『花火』やこの曲のような、比較的オーセンティックなサニーデイっぽい感じのある楽曲が時折出てくる。面白いのは、がっつりR&Bな『クリスマス』も含めて、これらがそれでもギター主体でサウンドが作られていること。宅録だとキーボードやシンセの出番が増えそうなものなのに、なんだかんだでギターがサウンドの中心だなと思える曲が多いところに、曽我部恵一って案外ギタリストなんだなあ、という不思議な気づき。この曲も透き通ったトーンで基本のコードと短いフレーズとが延々と反復される。これらはおそらく一度録音したループを反復させているんだろうけども、ギター音楽でコピペというのはそんなに世の中多くないので、不思議な感覚になる。ギターを素材に構築されたエレポップ、という趣か。ずっと同じコードの反復だけどそれを飽きさせずに、様々なエフェクト等を追加し変化を添えながら最後まで突き進んでいくのは流石の熟練の技。

 とはいえ、やはり『Dance To You』以降の時期、割とおとなしげなポップソングなのに、歌詞にはどこか頭の中がバグってしまっているようなワードが入り込んだり、行ごとの言葉の意味が全然繋がらなかったりと、かなり支離滅裂に切り刻まれた内容をしている。むしろART-SCHOOLとかの歌詞の手法の方が親和性があるような具合。そういった色々を「ちょっとおかしなsummer baby」という一言で片付けてそれらしいポップソングに偽装できてしまうのはサニーデイ・サービスという長年の老舗の成せる技だけども。

 

 

16. サマー・レイン(2017年 11th『Popcorn Ballads』)

 

何のはじまり?そろそろぼくらも

まじめな話をするべきときなのかも

だけどランナウェイ それだけでOK

そのうちふたり いい気分になって…それで…

「あー いつか見たような景色」

 

かわいそうなふたり 傘も持たずにRing a Ring

雨に降られてしまって アタマからつま先までびしょぬれ

帰るところもなくて カエルみたいな顔で

街の鐘はRing a Ring そろそろ生まれ変わりたいような気分さ

マーレイン

 

 思い切りの良すぎる混沌のアルバムの終盤に置かれた、「ワイルドなロックバンドスタイル」を標榜した感のあるこの曲もまたタイトルに夏を冠している。伝統芸能的な「サニーデイの夏ソング」を悪意たっぷりに増幅させたもののようにも思えるし、単にタイトルの語感が上手く曲にハマったからこういうタイトルになっただけのような気もする。別にこの曲の歌詞の内容なら、夏である必然性はかなり薄い気もするし。

 ヒップホップやらR&Bやらも入り乱れ混沌としたアルバムでも、その最後の方にこのようにガッチリとロックなテイストの曲を入れてロックバンドであることを主張してくるのはどこまでが計算でどこからが無意識的なものなのか。若干の不機嫌な不協和音のコード進行も混ぜ込みつつ、再結成後でもとりわけワイルドで露悪的な大文字の「ロック」を聴かせるが、おそらくこれも宅録+αで作られてるんだろう。なんかそういう違和感や緊張感を覚えさせるし、その違和感自体を曲も隠す気がないどころかむしろアピールしたがってるように感じられる。あらゆる歪さの表明が『Dance To You』以降3部作のテーマだったように思えるし、そしてそれらもこの時期の歌い手のどこか虚しい感覚からすれば「あー いつか見たような景色」でしかないんだろう。充血と貧血が繰り返されたり同時に起こったりするような感覚とでもいえば、何か少し近づくんだろうか。しょうもないダジャレをサビに組み込んで白けた空気を持ち込もうとするのも、なんかそういうことなんかな。この時期のサニーデイは本当に、ソロ以上になにか「言葉にしづらい本音」を自身からボロボロ引き出そうと尽力しまくってるのが伝わってくる。

 

 

17. シックボーイ組曲(2018年 12th『the CITY』)

 

ドアが閉まり行き先を聞かれる 「家まで」とぼくは答える

ポケットの中で虹 貝殻を拾う 雲の切れ間からは太陽

波 夏 光 音

 

 アルバム『the CITY』は前作以上の混沌とした楽曲をラッパーとのコラボの増加も含めてやり切りつつ、しかし、所々に野暮ったいバンドサウンドの姿もあって、どうやら「このまま消し去ってしまうのが惜しく感じられた『Dance To You』レコーディング時のボツ曲」が幾つかリサイクルされてるらしい。この曲もまた、作者が『Dance To You』のどこかのインタビューで「この形になる前は、サイケデリック組曲とかが入っていて、引き出しの多さを見せつけるみたいな感じで作ってたんですけど、そういう手癖とか身についた技が嫌で全部消しました」と書いてるけど、まさにそのものな楽曲としてアルバム終盤に置かれている。

 テンポだけで言えば、軽快なシャッフルのテンポのセクションとゆったりしたリズムとを繰り返す。けどもメロディはずっと変化し続け、一度通り過ぎた展開は以降にはもう出てこない、そんな不可逆的な構造で編まれている。そして、それら各々のセクションは、演奏を切り替えているというよりも、まるで全然別の曲を編集でくっつけているかのような挙動をしている。最終セクションに入る辺りなどはいかにもそんな風に加工されている。こういった加工を『Dance To You』レコーディングの時点で初めからしていたのか、『the CITY』収録の際に後から施されたのかはよく分からない。

 しかし、上記の引用の箇所の「夏!海辺!」という感覚にはどこか『Sunny』からの連続性も滲んでいて、やはりこれは『Dance To You』セッション初期に製作されたボツ曲のひとつなんだなと思わされる。ただ、『Sunny』の要素をもっと凝縮しようとしていたことも、「波 夏 光 音」というあまりに端的すぎる歌詞から伺える。はじめはもっとそんな感じでレコーディングが始まってたのか。それが紆余曲折がありすぎて、名状し難い名作『Dance To You』となったのか。そのような業の狭間で消えてしまいそうになったのが、やはり業の果てのような『the CITY』で拾い上げられる様は、それ自体がドキュメンタリーめいたところがある。『完全な夜の作り方』なんかもっとそうなんだろうけども。

 

 

18. 日傘をさして(2020年 13th『いいね!』)

 

足りないことばかりの 満ち足りた思い出よ

この恋は いつだって あまりにも 悲しすぎて

あなたの好きな夏が来ているわ

 

 丸山晴茂の逝去の後、あまりの痛苦にバンド活動は停滞する。いや、水面下でずっと制作を繰り返してたような噂も聞くけども、実際に世に出たものは相当少ない。いや、2016年から2018年までの3年間が異常にリリースが大量で豊穣だっただけな気もしないでもない。2020年の頭にリリースされた『雨が降りそう』の重々しいメロウさには、二人になってしまったメンバーの苦闘の様が渋みとなって浮かび、この路線でアルバムを作ってたっぽいのだけど、どこかの時点でこういうのは「振り切るべきもの」となったようで、結果として完成したアルバム『いいね!』は、新ドラマーも迎えた上で、無茶なくらい“バンド”という概念が宿す突進するような勢いこそを重視した作品になった。ここでも大量のボツ曲が作者本人から仄めかされており、色々と気になる。

 その点、この曲はもしかして「『いいね!』の前に一度ボツになったアルバム」から生き残った楽曲なんじゃないかとも思う。明らかに「バンド感こそ正義!」なアルバムの中心的雰囲気から外れてる楽曲をあの作品は幾つか含んでいて、その中でもこの曲の柔らかで朗らかなコード感なのに少しサイケでメロウな表現は、明らかにサニーデイ・サービスのかつての王道路線に立脚した作りをしている。日傘をさす光景が似合うような、柔らかな夏の日差しを思わせるコード感と、女性主観の目線を意識したであろうソフトな歌い口からは、ソフトでメロウなかつてのサニーデイ王道的なものが浮かび上がる。アコギとキーボード、そこに逆再生エフェクトなども密かに絡ませて「ある静かな夏の柔らかい日差しの中」にいるみたいな、朗らかで少しサイケな感覚を作り出すのは職人技のようでもあり、そしてそこに「恋人と別れた後の、かつての楽しくなる予感のあった夏を懐かしむ夏」というソフトに痛々しいものを持ってくるのはまさにサニーデイ王道のメロウさ。メロウとは柔らかい痛みのことなのか。

 

 

19. 冷やし中華(2022年 EP『冷やし中華』)

 

傷付いた心癒すための旅 もしくは知らない店を探す旅

どっちでもいいよ そもそも夕暮れには

海からの風で心が染まる

 

うたた寝してるぼくらを宇宙が横切る

そんなわけでぼくはおなかがすいちゃった

 

今日の日が過ぎていく場所へ行こう

東京よりすこし早く夏に気づく町

 

冷やし中華 はじめました

 

 2022年はサニーデイ・サービスのリリースがやたら多かった年で、1月に『おみやげを持って』、7月に『ライラック・タイム』をまず出し、同じ月のうちにEP『冷やし中華』を出す、という畳み掛け方。なんで『ライラック・タイム』と『冷やし中華』を分けたのかかなり意味不明だけどまあなんか事情があるんだろう。そして同じ年のうちにアルバム『DOKI DOKI』とリリースが続くけど、『DOKI DOKI』の雰囲気じゃない曲を先にどんどんリリースしてたのか、色々作ってく中で前作以上のバンド感!って感じの曲以外のが出来たらアルバムから外す前提でリリースしてたのか。

 そんなこんなで『DOKI DOKI』リリース後は一気に影が薄くなってしまったシングル群だけど、EPのタイトル曲であるこの曲は一際落ち着いたテイストのある、メロディ回しや間奏で急にロック的な硬質さを見せる展開にまるでカーネーションみたいな趣さえ感じられる、ユルい雰囲気の割に意外と手の込んだ番外編って感じの1曲だ。イントロからしてどこか異国情緒(中華風味?)のあるような、不思議な浮遊感というか、コンクリの照り返しの熱で光景が意味もなく柔らかく緩む感覚というか、そういうのを感じる。夏仕様のシティポップでも、微かな中華風味を織り交ぜつつ少しとぼけた感じ。歌詞なんかもう、「実は相当適当なんだよ」みたいな感じを自由自在に出してくる。「そんなわけでぼくはおなかがすいちゃった」って何だよ、っていう歌詞の流れのいい具合の台無しさ。

 しかしそうかと思うと、4分をしばらく過ぎてから歌が終わって、延々と同じギターフレーズをループさせて、演奏がどんどん重ねられて発展しながら続いていく最終セクションのゆるやかに延々と続いていく感覚は、終わりのない程々の陶酔感を覚えさせる。それは夏の観光地にふと求めたくなって、でも実際はそんなことできないのでどうにもならない名残惜しさを感じて帰るあの感覚を実現させてしまったかのようなファンタジーの実践なのか。なので、最後の最後にちょっと驚くような仕掛けで目が覚めてしまうところも含めてハッとなる。

 この曲何気に『ライラック・タイム』よりかなり手が込んでる感じがするけども、PVも多分無いし、地味なポジションだ…。終盤の演奏の重ね方的にもスリーピース演奏で再現するのは何かと難しそうな雰囲気もあるし、「隠れた名曲」に自らなりに行ってるような曲に感じなくもない。

 

 

20. ロンリー・プラネット・フォーエバ(2022年 14th『DOKI DOKI』)

 

抑圧された翌朝 夢の中の勇者よさらば

恋をしてるサリーは飽き飽きして今日街を出る

きみは短い夏に死んで それから雨が降って

白い花が咲く朝にひっそりとよみがえるんだ

 

愛想のない暗い夏にあのコと一緒にいたんだっけ

大事なことはなにひとつぼくら喋らなかったね

そして空に絵を描き続け 街の底を泳いだ

疲れ切った真夜中にとびきりの歌を持って

 

 …そして前曲と同じ2022年の11月にリリースされたアルバム『DOKI DOKI』は同じ年の他のリリースの存在自体を地味なものにしてしまうくらいには強力なアルバムで、前作『いいね!』ほどバンドサウンドに血眼になっていない感じがかえって自由なアイディアを呼び込み、ベタなパロディも恐れずにノリだけでやり切った楽しい『Goo』や、J-Popに真正面に飛び込んだかのようにキャッチーな『こわれそう』など、いよいよ「バンドを軸にしていればサニーデイに“禁じ手”はもうない」くらいのテンションと、それとは裏腹にしっかりと“バンド”という軸を持つ様子に前作からの新しい3人体制の自由気ままな充実っぷりが現れている。この印象はライブを観るとより明確になったと思う。今のライブは3人でエネルギッシュで禁じ手なくやり切っててすごい。福岡で観たライブもやっぱ記事に書くべきだったな…。

 そんなアルバムの中で、『サマー・ソルジャー』の再来とも、その元ネタである『Don't Look Back in Anger』にもう一度立ち返ってみせた作品とも言えるこの曲の存在は、その威風堂々たるメロディと尺、そしてその割に年季の入った悲しみやらそれをなんとか称えんとするソウル漲る様子やらが熱い良曲で、絶対PV作られるとアルバム全曲レビューを書いた時には思ってたのに、他の曲ばっかりがPVになりやがる。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 たまたま『サマー・ソルジャー』と同系統の楽曲を今回のこのリストの最後に置くことになったけども、同じ『Don't Look Back in Anger』系統の曲でも、歌詞の中で見せる情緒の様は実に明暗がはっきりしていて興味深い。つまり、夏の脅威を歌いつつも実際はセックスという頂点に向かって期待膨らませる『サマー・ソルジャー』に対してこの曲の、威風堂々とした曲調とは裏腹な「“儚さ”が傷ついてすり減って年老いて、それでも生きていかないといけない」みたいな泥臭い様を歌っているのは、長く続けてきたキャリアあってのものだろうし、ファンタジックな表現も大いに交えながら、しかしそういうことをこそ歌うことに何か意味を感じているということだろう。そしてそこに“夏”を絡めていくというのもまた、このバンドにおける“夏”の意味が変遷してきたことを思わせる。「美しい夏が通り過ぎていく」ではなく「惨めな夏」というのもあるんだということをこの曲は滲ませる。『Dance  To You』以降の凄惨さ前提の世界観の上で、それでもなんらかの超常的な救いを夢見て耐え続けてるかのようなこの歌の“夏”というのは、それはもういわば祈りみたいなものだ。このバンドの“夏”もすっかり移り変わってきたんだと実感できるし、年月を経たからこそのエモささえ感じさせる。

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・

あとがき

 以上20曲でした。次こそ2000年代の夏の楽曲リストの記事を書くと思います。

 サニーデイ・サービスというバンドにおいてメロウさというのは、最初は雰囲気づくりのためのツールのひとつだったような気がしますが、次第に目的そのものに入れ替わってしまったようなところがあります。メロウさに対する付き合い方にどこかドラッギーな感覚があるというか、半ば宗教じみてくるというか。何もかも押さえ込んで“美しい夏の箱庭”を作り出そうとしていた『MUGEN』にはどことなくそういう、現実にはあり得なさすぎる空気ゆえの狂気のようなものがうっすら感じられる気がします。

 『Dance To You』以降の退廃的な色彩を強めていく歌詞世界というのも、それまでとの違いはひょっとしたら形式を気取った狂気かそうじゃない狂気かという違いなんじゃないのか、という感じがします。ただ、そのように“美しい箱庭”を取っ払ったこのバンドの夏の姿はかなりドラスティックに変化しているようでもあり、なんとなくな諦観よりももっとはっきりと追い詰められた情景が浮かぶようなところがあります。それでも、そんな現実的には惨めなこともある夏というものに、何かしらの希望もまた抱き続けていることは、『ロンリー・プラネット・フォーエバー』の歌詞なんかからもうっすら感じられるところかと思います。

 うーん、夏って何なんでしょうね。

 以上です。最後に上記20曲のプレイリストを貼って終わります。それではまた。

 

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*1:どの画像がどのPVからなのかというと、

1段目左:サマー・ソルジャー 右:さよなら!街の恋人たち

2段目左:One Day 右:夏は行ってしまった

3段目左:summer baby 右:苺畑でつかまえて

4段目左:幻の光 右:ジーン・セバーグ

ジーン・セバーグだけテイスト違うかもしれんけど女の子がキモ可愛くてかなり好きなPVなので。

*2:それが松本隆など先人の作品のイメージからの借用から始まっていたとしても、それをロックバンドの作曲者兼ボーカルが自分の言葉として書いて歌う限りにおいては、後進バンドへの影響も含めて考えると、意外とサニーデイが源流になっている要素もあるのかもしれない。

*3:なかったと思う…。

*4:というか、マリンスポーツとかビーチパーティーとかそういうのを自分の表現として全然求めてない、というか。確かにファンも彼らの歌にそんなの求めてないかと。

*5:この問題をさらに解決させるべく「平日」を舞台設定に加えることも。

*6:いつかのインタビューで作者本人はこの曲を「全然サニーデイっぽい曲でもなんでもないし、シングル・カットする必要ないじゃん」などと言うけど、サニーデイの長い歴史を見れば、ここでドロドロしたものを吐き出せたことはむしろ「サニーデイはこういうこともするバンド」として、特に『Dance To You』以降の展開とか思うと重要だったと思う。

*7:この記事を書いてる最中にRobbie Robertsonまで亡くなってしまった…。

*8:同じく『Dance To You』以降地味な位置になってしまったであろう『Sunny』にはそれでも『One Day』という超名曲があるからなあ。

*9:一番最近失敗したのは2023年の春で、この時はあのアルバム制作時にボツになった楽曲のリストを複数のインタビュー記事から浮かび上がらせる段階で訳が分からなくなって頓挫した。