たとえばアメリカのロックバンドのアルバムの解説文なんかで、
「ちょっと待って、それって具体的にどういう感じ…?」
と、時々思ったりすることがあります。最近はなんとなくこういう感じの要素を言いたいんだなあみたいなのは分かってきた気がしますけど、まあそもそも、音楽性を指して「アメリカンロック」という形容詞は、いささか大きすぎる感じがするのも事実。アメリカのロックバンドはみんなアメリカンロックなんじゃないの?的な。
一方で、近年は「アメリカーナ」という語もロック音楽のジャンルのひとつとして扱われることが増えているように感じます。こちらはThe Americana Music Association (AMA) なる組織がアメリカにあったり、そこが色々イベントをやったりで、またこの語に括られるアーティストの顔ぶれなんかでも、アメリカンロックよりかはより音楽性を限定した感じがありますけれども、しかしそれでも、なんかフワッとした感じが抜けないような…。
…などと言いながらも、この二つの語が意味するところの音楽に自分の好きなものが沢山あることも事実です。なので今回は、この二つの語について、全く学術的ではないし研究も十分とは到底思えない、筆者個人の思い込みによる整理によって色々その意味を決めつけて見て、その後に、いつものように自分の好きなアルバムそれぞれについてコメントをつけるやつを20枚やります。「牽強付会」というやつなのかな…と思いますが、自分の趣向を整理する上でも、ひとまず最後まで書けそうなので書いてみようと思います。
序章:ほら、分かるだろ、あれだよあれ
ひどい章題ですけど、ここでは、今回ここで取り扱うような「アメリカンロック」「アメリカーナ」の内容についてある程度定義しておきます。勿論、筆者による勝手な定義であり、文献等を引いてるわけでもないし、何の根拠もなく、またこの定義により除かれてしまう多くの音楽があることをある程度承知の上で、書き散らしていきます。
●逆にアメリカンロックじゃないものって何だ?
いきなりこの二つの語の中身を考えるよりも、それらに含まれないものを考えることで、逆説的にこの二つの語の意味する姿が浮かび上がるのでは、という試みです。別に「このジャンルはアメリカンロックじゃねえ」と言って何かを否定したいわけではありませんが、しかしながらここで言及することでそれらのジャンルに対する何らかの偏見・レッテル付けが生まれてしまう可能性があることには留意が必要です。
①ヒップホップ
いきなり暴論だと思いますが、ヒップホップはそもそもロックと大きく異なる概念・音楽スタイルだと自分は思っています。それは様々な意味からです。
まず演奏方法。ロックの場合、複数人のメンバーがそれぞれギターやベースやドラムといった楽器を持って(ピンボーカルの人も場合によってはいますが…)演奏する、というのが軸になるかと思いますが、対してヒップホップについてはそれぞれの楽器を合奏する、というよりも、打ち込みのトラックやサンプリング、といったスタイルが中心になるかと思います。楽曲の形式的にも、ロックがバタバタした曲展開みたいなのが魅力だとすれば、ヒップホップは逆に同じトラックをループさせることで魅力を醸し出すのが大元にあるところで、この辺も異質に感じます。
勿論ロック音楽にもヒップホップ的な要素を取り入れたものは幾らでもありますので、ロックとヒップホップが異質だから混じり合わない、などと言いたいわけではありません*1。でも、たとえばKendrick Lamarをアメリカンロックって言うか?とかそういうレベルの話です。
90年代末頃以降のミクスチャーロック・ヘヴィロックは確かにロックとヒップホップを融合したジャンルとも言えるかと思いますし、確かにそれは誕生当時新しい「アメリカンロック」だったかもしれないと思います。しかし、「アメリカーナ」の方に掛かるかというと、どうかなあ、という感じがします*2。
そして、よりえぐい話をすれば、「アメリカンロック」「アメリカーナ」というジャンルは個人的には結局のところ“白人の文化”だと思ってます。そこが、現代の黒人文化の代表と言えるヒップホップとの、致命的な差異だと思います*3。
②テクノ・ハウス・エレクトロニカ
やはり「楽器を生演奏しない」ジャンルの類です。勿論、これらのジャンルとロックが合わさることがあることは分かっていますが、ことそれが「アメリカンロック」とかましてや「アメリカーナ」とかジャンル付けされるかな…と考えると、やっぱ異なるものなのかな、と思います。
③クラウトロック・ニューウェーブ
この二つを同じくくりにするのがおかしいのは承知してますが、ここで言いたいのは、この二つのジャンルがどちらかといえば人間の体温感とか自然な感覚とか、もっと言えばリズムの揺れとかそういうのを受け付けない類のものだということです。というか歴史的にはむしろ、クラウトロックに影響を受けた人たちがポストパンク・ニューウェーブの音楽を作ってた、ということかもですが。
しかしこの辺は、アメリカーナ扱いされるバンドもこっそりこれらの要素を持ち込んで自身の音楽性を広げるジャンルでもあるなあと思います。
④クラシック
楽譜に基づいて大人数で正確に合奏することで美やダイナミズムを得るクラシックというジャンルも、やはりアメリカンロック的・アメリカーナ的に感じられない気がします。あの二つの語が意味する音楽性はもっとルーズでユルい、そして格式張ってない感じがするものだと思います*4。
しかし、クラシックで用いられる楽器単位で見ると、アメリカンロックで使われない楽器はあまりない気もします。チューバやホルン辺りはあまりイメージじゃないかな。あとは結構使われてる気がします。
なお、ハードロック等でクラシックの旋律にインスパイアされたもの等が沢山あるかと思いますしその中でアメリカンロックと呼ばれてるものもあるかとは思います。しかし、多分アメリカーナの方には合致しないので、今回はハードロックバンドは取り上げておりません*5。申し訳ありません。
以上、物凄く雑な括りで挙げてみました。逆に言えば、ここに挙げなかったジャンル、ブルース、ジャズ、R&B、ロックンロール、ファンク辺りは、アメリカンロックもアメリカーナもどちらも、全然含む感じがあるなと思います。パンクも、後述しますが全然含みます。下手するとアンビエントR&Bすら含んでしまう例もある*6くらい、この二つの語が含むことのできそうなジャンルは多岐に渡ります。
●要はカントリーロックのことだろ?
いきなり実に身も蓋もないけれども、自分の趣向的には、今回の二つの語が意味するところの音楽の軸は、結局はどうあってもこれなんだなあと、特に実際に20枚選んでみて、強く思わされました。
まず「アメリカン」という語自体に、「大胆・大ざっぱ・ルーズ」みたいな意味合いや「都市よりも田舎・農場・荒野」みたいな風景を見てしまうきらいがあり、また「ロック」という語も多分にルーズさを含むイメージがあるため、この二つが組み合わさったアメリカンロックという語には「田舎者が数人集まって演奏する、ルーズで楽しげな音楽」みたいなのが個人的にはイメージされてしまいます。
勿論、実際にはカントリーロックは当時の天才たちの血の滲むような努力の蓄積で生まれ、その後も同様の努力によって継続発展しているジャンルだとは思いますが。むしろ、西部劇的なものに象徴されるような類の「アメリカっぽさ」を最も現代も引きずってるジャンルこそがカントリーであり、カントリーロックであり、その印象がアメリカンロックに直結してしまう感じがしますし、アメリカーナの方もそういった類の伝統を引き継ぐ自負の上でのジャンルのように思えます。
以下、すごく雑にカントリーロック成立〜発展の流れを(あくまでも筆者の史観ですけども)記します。この辺が多分この後の20枚のセレクトに直結するので。
a. 1960年代:カントリーロック誕生まで
Wikipediaの記載にもあるとおり、元々ロックンロール自体、カントリーの要素も含んだ上で成立したジャンルです。しかし、よりどっしりとカントリーの雰囲気を含んだロック音楽として、1960年代半ば以降に「カントリーロック」というジャンルが徐々に成立していきます。
ポイントは、「フォークからのアプローチ」という点。Bob Dylanがフォークギターをエレキギターに持ち替えてバンド編成で演奏することで「フォークロック」というジャンルがまず成立し、その系統としてThe Byrdsというバンドが生まれますが、この2者こそが初期のカントリーロックの立役者になるかと思います。
Bob Dylanがアルバムをカントリーの聖地ナッシュビルで録音し、ここにすでにフォークロックのカントリー化の兆候が見られ、そしてその流れに追随したThe Byrdsが1968年に録音した『Sweetheart of the Rodeo』が「なんかカントリーっぽさのあるロック」を決定的に表現した、という流れ。スライドギターの感じや、野暮ったい具合のビート、フィドルやバンジョーといったカントリー音楽用の楽器の使用、といった、カントリーロックのベタな要素がここに一通り収められています。
何気にこの辺の「フォークロックがカントリーロックに変異した」という経緯は大事な気がします。だって時々これフォークなのかカントリーなのかよく分からん〜みたいなことが全然起こるので。
その後カントリーロックは、上記The Byrdsのアルバムに参加したGram Parsonsの活躍等々でより明確に「こういう感じ」が示されていきます。大雑把すぎる…。
ここでもうひとづ言及しないわけにはいかない存在がThe Bandです。怪我して隠遁してた時期のBob DylanがThe Bandとセッションを繰り返していたことが始まりで、そして彼らが1968年と1969年にそれぞれリリースした『Music from Big Pink』と『The Band』の2枚のアルバムは、彼らがカントリーやそれ以外の土着の様々な音楽を様々につまみ食いながらごちゃ混ぜにして整然と成立させたことで、カントリーロックの発展どころか、カントリーロックを中心としたアメリカ音楽史の縦覧が行われ、それはとても大ざっぱな話「アメリカンロック」像の重要な要素になりました*7。
それにしても、ここで出てきたカントリーロックの立役者、みんなB始まりの名前なんだな…。
b. 1970年代:ウエストコーストロック・SSW
ウエストコーストロックって日本でしか使われない呼称なんだそうです。しかしながら便利なので使わせてもらえば、1960年代末ごろに種が撒かれ1970年代前半に一斉に花開くアメリカ西海岸の音楽シーンのアーティスト群(ここには多数のシンガーソングライターも含まれます)をこのように呼称することがありますが、彼らのうち多くの者の音楽性がカントリーロックを下敷きにしていたこと、そしてそこから多くのヒットが登場していったことは、結果的にカントリーロック=アメリカの音楽という図式をより強めていきました*8。
本当に多くのアーティストが登場し、様々な手法でカントリーロックの深化が図られた時代。とりわけ言及したいのが、この段階にて多くのカントリーロックにはっきりと「悲しみ」の属性が付与されていったことです。ヒッピー幻想が色々あって破綻した1970年代以降の精神性もあってなのか、またはSSWの作品が多いこともあってか、全体的に「悲しい」雰囲気が漂ってる印象があって、これが本来「家庭的」「安心で愉快なな我が家」みたいな幸福のイメージのあったはずのカントリーミュージックから、カントリーロックが情緒的な面でかなり変質してきたような感じがします。つまり「庶民のかったるさを歌うカントリーロック」というのが生まれたというか。まあそもそもがフォークロックからの遷移だと思うとこういう方面に情緒が伸びるのはそうかも、と思いますけども。
なお、自分はこれまでこのサイトで様々なウエストコーストロックのアーティストを知ることができました。本当にありがとうございます。
c. 1980年代後半〜1990年代:オルタナカントリー等
上記のウエストコーストロックの潮流は1970年代後半には落ち着いてしまい、その後1980年代初頭〜中頃はカントリーロック的には大きな変化があったのかよく分かりません。時代的にどうしてもシンセとかが表に出てきがちな頃で、Bruce Springsteenなんかがそれこそ派手なシンセの使い方で『Born in the U.S.A.』をヒットさせたのがこの時期です。こうなると最早カントリーロックなのかな…という気がしますがでもアメリカンロックではあるなあ…アメリカーナからは外れてきそう。
カントリーロックの新たな潮流はアンダーグラウンドから出てきます。パンク・ハードコア出自である幾つかのアメリカのバンドがカントリー的なアコースティックなサウンドを取り入れ始めます。The ReplacementsやMinutemen、Hüsker Düといったバンド達。1985年にはよりガッツリとカントリーロックサウンドを追求したインディーバンドとしてThe Jayhawksが結成され、よりそういった嗜好性が広まり、そして1990年のUncle Tupeloの1stアルバム『No Depression』のリリース以降、この「オルタナカントリー」なるジャンルが認知されていきます。
オルタナカントリーは「パンクを通過したアーティストによる新しいカントリーロック」とされています。ギターは時にどっしりと歪み、曲によってはパンク的な破壊的な疾走感を伴ったりします。確かに初期Uncle Tupeloを聴くと、そういった典型的なサウンドが散見されます。
この概念のポイントは「“オルタナ”という語は付くけどもオルタナティブロックとは関係ないしむしろ別物」のように扱われているところ。これを知らなくて最初筆者は勘違いをしていたし、そして正直、この取り扱い方のせいで今だに色々と混乱してて、なんであのバンドやこのアーティストはオルタナカントリー扱いされないんだ??ってことをよく思います。オルタナティブロック的なザラザラ感が出てくるとオルタナカントリーから外されがちになる雰囲気が、なぜだかあります。パンクとカントリーの融合、と言うけどそんなにパンクの要素が前に出てこないような。
むしろ自分は、90年代にかけて元々ハードコア発だったオルタナティブロックというジャンルがどんどんカントリー的な滋養とメロディを得ていくことの方が、この語にふさわしく感じたりします。Dinosaur Jr.とか次第にかなりカントリー要素出してくるし、もっと言えば、Lemonheadsなんて曲によっては殆どカントリーじゃん!って思うけど世間ではオルタナカントリーとは扱われてないです。ローファイの象徴的存在として広く知られるPavementも、スロウコアの代表者として知られるRed House Painters(の特に中期以降)も、ある意味ではカントリーロック派生の音楽と捉えられるのでは、などと思ったりしますし。
何よりも、カントリーロックの大御所Emmylou Harrisが1995年にリリースした実験的でスケールの大きい『Wrecking Ball』みたいな音楽を内包できないように書かれがちなオルタナカントリーというジャンルが、なんだかよく分からなくなってきます*9。なんとなくですが、「こんなのカントリーじゃない!」みたいなことを言われそうな音楽性になるとオルタナカントリーって呼ばれなくなる傾向にある気がします。
なお、同じく90年代にはカントリー“ロック”に非ずなカントリー界隈においてより大衆的な存在が現れ*10、売上げが飛躍的に向上した時代であることは、頭の片隅に置いておきたい気がします。中身は全然ちゃんと聴けてないのだけれども。
d. 2000年代以降:「アメリカーナ」という新たなラベルとその他
“Americana”という語自体を冠して定義もする上記Americana Music Association(以下“AMA”と呼称)は1999年に設立され、この当時新しいラベルを以下のように定義しました。
カントリー、ルーツロック、フォーク、ゴスペル、ブルーグラスなど、アコースティックなアメリカのルーツ音楽のスタイルを組み込んだ現代的な音楽であり、それら各々の純粋な形態とは別にこの世に現前します。アコースティックギターはしばしば現代的で重要な楽器として扱われますが、しかしアメリカーナではエレクトリックなバンド編成も頻繁に用いられます。
つまり、伝統的なアメリカっぽさがある、楽器演奏による音楽なら大体はアメリカーナですよ、っていう、とても広い範囲を含められてしまう定義になってます。オルタナカントリーでは含められなかったアレやコレも入るし、もっと言えば明らかにカントリーロックではなかったVan Dyke ParksとかHarpers Bizzare等のソフトロックの系統も含めることができそうです。
なんというか、いいところどりで横断的すぎるジャンルに感じられる気もします。白人がアメリカの歴史の中で作ってきた様々なアメリカ音楽の集合体、みたいな。メインストリームを黒人的なヒップホップやR&Bで占拠された白人ロック側の“伝統”という名の寄る辺、みたいな。
ただ、そういう性質なものだからか、筆者が好きな音楽の多くがこのアメリカーナなる語で括ることができてしまうところがあるのも確か。むしろ、荒々しさを何処と無く感じすぎてしまうきらいのある「アメリカンロック」よりも、自分の趣向的には合ってる言葉なのかも、と時々考えたりして、複雑な気持ちを抱きます。
●序章まとめ:アメリカっぽいバンド音楽
「序章」と言うには長すぎたけれども、この序章で検討した類の音楽を一言で言うならばもう、この「アメリカっぽいバンド音楽」にしかならないわけで、なんでこんなシンプルなことを言うためにここまで延々と文章を書いてきたんだろうという気もしてしまいます。
「アメリカっぽい」の部分をより詳細に書こうとしたら、とてもじゃないけれどこの1記事に収まる量じゃない文章になってしまうと思います。音楽的にはブルースまで辿るのは勿論、さらにそれとは別に「フォークロア」的な方面のフォークの歴史やら、あとラグタイムだとかそういうのも出てくるわけで。で、そうなるとアメリカの歴史自体や社会構造・都市と田舎の形態等についても色々と触れざるを得なくなったりして、そもそも筆者の手にを得なくなってくると思います。
なので、本来であればそれだけ膨大な要素を経た上で生み出されてきたアメリカンロック等の性質のことを「野暮ったい・いなたいバンド演奏」みたいな言葉で単純に語ってしまっていいわけがない。ないですけど、でも、そういうところや、そんなことによって何故だか、音からどこと無く、アメリカの郊外や田舎の方っぽい、土や風や草なんかの光景や匂いや質感が感じられたりする、そんな具合が好きなんだよなあ、と、延々書いてきたまとめとしては締まりませんが、そう思います。
本編:ぼくの好きなアメリカンロック/アメリカーナ 20枚
以上の認識を踏まえまして、今回以下の20枚を選ばせていただきました。正直本当にアメリカーナというジャンルを正しく把握している人やそれこそ本家AMAが見たら怒るようなリストかもしれませんがそこか「こいつ本当に何も分かってないな…」で済ませてくださいホントお願いします…。
1970年代
1. Muswell Hillbillies / The Kinks(1971年)
www.youtube.com いきなりイギリスのバンドでごめんなさい。いやでも、これは相当にアメリカンでアメリカーナな音楽集ですよ。
“hillbilly”という単語は現代では「野蛮で愚かな田舎者の白人」的な意味を指す差別用語となっているので、このアルバムタイトルは現代ではややセンシティブだけども、そもそもを辿ればこのhillbillyというのは元々、現代で「カントリー」と言われる類の音楽の昔の呼ばれ方でもある*11。“Muswell”というのはThe Kinksの中心人物Ray Daviesの出身地であるロンドンの中の地名らしく、ということでこのアルバムは「自分の地元の大都会のパブとアメリカのクソ田舎の光景とを重ね合わせるアルバム」というテーマであり、こう書くと余計に性格悪いアルバムのように聞こえてしまう。
でも上記の重ね合わせのために彼らが取った努力とサウンドの感じは実にアメリカンな要素の色濃いところを上手く拾い上げている。実際のアメリカ音楽よりも大袈裟にアメリカ「風」音楽を演奏する様は可笑しさがありつつも心地よい。大袈裟に揺れるリズムのアコギやピアノのリズムも、調子外れ風に吹き鳴らされるホーンの類も、それこそカントリーがヒルビリーと呼ばれてた頃の音楽まで降りて雰囲気を拾い上げてきたような、そんなアメリカ音楽の歴史のエミュレーションとして、ある意味ではThe Bandに引けを取らないところまでちゃんと「庶民のかったるさを歌うカントリーロック」をやっている。これによってかえって、イギリスの伝統的な音楽ってこういう感じだったかも…みたいな錯覚さえ生まれてしまうのが変な感じだけど、でもその混濁はまさにアルバムの目指すテーマそのものだから、やっぱりなんだかとっても可笑しい。
The Bandと違うところとすれば、The Bandがどちらかと言えば虚しさを押し出すのに対して、こっちはひたすら悲喜劇的なファニーなノリで貫き通すところ。それはある意味では不真面目な態度のようにも思えるけど、でも今作はその不真面目であることに対してひたすら真面目に取り組んだ結果のようにも思える。
ちなみに、Ray Daviesはそもそもアメリカ音楽に対する愛着が深く、今作からかなり後の2017年にはThe Jayhawksのメンバーをバックにソロアルバム『Americana』を製作している。本人はイギリス的な音楽性の立役者であり代表者のひとりという感じがするので、この辺は不思議なところ。というか、この人のせいで伝統的なアメリカ音楽とイギリス音楽のイメージが自分の中で混濁してしまってるかもしれない。
2. In My Own Time / Karen Dalton(1971年)
www.youtube.com その生涯でアルバムを1970年前後に2枚だけ残し、その後は音楽シーンから姿を消した女性フォークシンガー。彼女の晩年はホームレスでドラッグ漬けで路上で死亡した、などと広く言われているけど、今回これを書くために調べたら、そうではない、とする記述もある。ボロボロの晩年あってこその伝説化的なところもあったのかもだけれども、それは下手すると後世のファンが勝手に望んだ幻想だったのかもしれない。極力音楽だけを聴いて良さとかを感じたい、と思っていても、こういうストーリーだとかはどうにもこびり付いてしまう。以下の文章も、それに囚われていないとは言えない。
ニューヨークのフォークカフェでかのBob Dylanなどとも交流があったとされる彼女はやはり本来はフォークシンガーで、1stアルバムもフォーク作品集だけど、このアルバムでは腕利きのミュージシャン達を伴ったバンド編成での楽曲が大半を占めている。そして演奏のいちいちが、実にアメリカン・ルーツな土っぽく、時にジャケットに現れてるようなヒリヒリするような質感と、時に家の中の暖炉の周りで演奏するかのような暖かな感じに満ち溢れている。彼女は自作曲を作らなかったので、曲目は全て他の作曲家のカバーだけど、どれも今作的な充実した演奏と、彼女の嗄れたボーカルとによって、素晴らしくアメリカーナな滋養に満ちた作品集になっている。中にはMarvin Gayeが原曲の『How Sweet It Is』なんかもあるけど、都会的なソウル感がある原曲に対して、ここでは実に田舎のバーでの小粋な楽団の演奏みたいな、痛快でアーシーなスウィング感に満ちてる。コーラスワークも楽しい。それでいて、いくつか残ってるフォーク調の曲を聴くと、日々の生活の中にある、音楽の華やかさとかとは性質を異にする、日常の無味乾燥さで底冷えするような感覚があったりもする。
この実に落ち着いた「田舎の楽団」の感じは、かえって全ての楽曲がカバーという、彼女が自作曲によって何か尖ったことを表現しようとしなかったことが、かえって効果的に作用しているのかもしれない。そんなリラックスしてぼんやりと温もりさえ覚える今作のことを思うと、やっぱり彼女の最期は広く知られるようなボロボロなものであって欲しくない気がしてくる。
3. Hervest / Neil Young(1972年)
www.youtube.com この、名盤としてとても広く知られ、語り継がれてきたアルバムについて正面切って何かを書こうとするのがずっと怖い感じがしてた。けど、このアルバムほど自分のアメリカンロック観の中心にある作品もないのかもしれないので、今回は頑張って何かを書こうと思う。
アルバム自体は、Neil Youngの代表作と言わざるを得ない。なにせ、彼唯一の全米ナンバーワンヒットを記録した『Heart Of Gold』を収録し、アルバムとしてもカントリーロックを軸に実に充実した作品となっていて、『After The Gold Rush』とこれを共に彼の代表作とすることにケチのつけようなど無い*12。
ただ、その代表曲『Heart Of Gold』が典型的に示しているように、今作はカントリー的な趣が多数あるけれども、しかし本来カントリーミュージックが持っていたはずの「楽しさ」や「暖かさ」のような要素はかけらも見られない。むしろカントリーの荒涼とした要素だけをかき集めたかのような作品集で、むしろ彼の作るカントリーは基本的にそっちに寄ってしまう。アルバム冒頭の『Out on the Weekend』からして、音数少ない中をぼんやりとスローに進む感じは虚しさが強くあって、これは後のスロウコアの感覚に近いのかもしれないとさえ思ったりする。続くアルバムタイトル曲も、音はより柔らかくなるのに、同じ類の虚しさが抜けない。ヘロヘロとした彼の声質が、実にこの虚しさを効果的に響かせるから、体質と才能の一致という幸福が、こんな不幸そうな音楽を作ってるんだなと不思議になる。
そんな彼の悲しげな才能を思うと、マイナー調カントリーの『Heart Of Gold』の哀愁はむしろ物凄く力強く、凛々しく感じられる。荒涼として寂寞な日常やら世界やらについて、ぼんやりではなくしっかりと意志を傾けている。スライドギターの名手ben Kiethの素晴らしいプレイがぼんやりとした空虚・不安を描くなら、Neil Young本人によるハーモニカのプレイは痛切ながらも力強くそのぼんやりを切り込んでいくような存在感と生命力に満ちている。マイナー調のカントリー曲でこれほどに逞しいものを聴いたことが無いような気もするし、それくらいにこの逞しさはきっと何か特殊なものなんだと思う。
アルバムとしては、やっぱロンドン交響楽団が絡んだ2曲はアルバムの流れ的に「なんで…?」って感じ全開で訳が分かんない気が未だにするし、彼の作品を初めて聴く人はやっぱよりなんらかの純度を感じる『After the Gold Rush』から入る方がいいと思うけれど、でもこの、『After〜』よりも疲れ切った・磨り減った感じのするカントリーサウンドは、やはりこの盤ならではの良さが刻印されてる。本当に独りぼっちで世界を彷徨い続ける人は自分が独りぼっちだとか考えさえしないのかもな…みたいな乾いた乾き過ぎてバグった力強さすら感じる今作の情緒には、やっぱりずっと憧れがある。
4. Holland / The Beach Boys(1973年)
www.youtube.com 典型的なThe Beach Boysのサーフロックサウンドもまたアメリカンロックの重要な要素のひとつとしてあるけれども、今回はそれよりも、彼らのアメリカーナ的な性質を重視してのアルバム選択をした。伝説的な制作失敗アルバム『Smile』でVan Dyke Parksと組んで以降、彼らの音楽にしばらく付き纏っていた、アメリカの歴史や自然を表現しようとする姿勢は不思議な感じがする。『Smile』まで中心だったBrian Wilsonがダウンして以降も他メンバーの楽曲は何故かそういう性質を引き摺り、発展させていった。
今回のアルバムは色々あって気分転換で、アルバムタイトルどおり本当にメンバーがオランダまで行って一時的に移住までして録音したのに、オランダどころかヨーロッパ的な要素も薄く、そしてアメリカーナな濃度がやたらと高いアルバムに仕上がった*13。わけがわからないよ…。冒頭の「アメリカのタフな海の男」感溢れる『Sail On, Sailor』は出来たアルバムがあまりに地味すぎたのでアメリカ帰国後急遽追加録音された曲だけど、BrianとVan Dyke Parksとの共作で、やっぱりアメリカーナじゃん!って仕上がり。というか実際のアルバム2曲目の『Steamboat』*14が元々の1曲目だったとすればそれは商業的自殺すぎる…。
本当に色々ちぐはぐで可笑しい要素に溢れてるアルバム*15だけど、でもここでは1970年代半ばまでの、Brian抜きでも現代的なロックを作ろうと奮闘する各メンバーの努力の、その最良なものが幾つも含まれている。特に『The Trader』はカントリーロック的などっしり感を習得した彼らが辿り着いた最高傑作で、しかし持ち前のコーラスワークと『Smile』以降の不思議な音響感を保ったサウンドはカントリーロックには全くならず、むしろこのアルバムや他の彼らの数枚のアルバムでしか聴けないタイプの透明感と艶やかさとドリーミーさ、そしてアメリカ臭さに溢れている*16。最後にどうにかオランダ入りしたBrianが辛うじて作った『Funky Pretty』が収録され、そのBrian式におもちゃ箱めいた世界観で奏でられるへなちょこファンキーさが実に可愛らしい。
The Beach Boysの歴史が初期のサーフロック期、伝説としての『Pet Sounds』周辺、この2点のみで語られがちなのは、やや仕方ないか…という気持ちがありながらも、実はそうじゃない、むしろ1968年〜1974年までの、Brianがダウンしてる時期の彼らこそが一番面白いかもなんだということを、自分はなかなか文章にできずにいたけど、ひとまず今回このアルバムを取り上げられて良かったです。地味だけど、本当にサウンドがなんか不思議なぼんやり感があるんだ。ぼんやりした夏を過ごしてる(過ごさざるを得なくなってる)人にもオススメです。
5. Dreams Come True / Judee Sill(1974年制作?リリース2005年)
www.youtube.com 上で挙げたKaren Daltonと並んで、地味に悲惨な末路を迎えた1970年代女性シンガーとして見られてる節が彼女にはあるのではと勝手に思ってるけどどうなんだろう。こちらは自作自演だけども、リアルタイムでは売れなくて、その後業界から離れ、やがてオーバードーズで死んだ、というのが共通する。こっちのオーバードーズ死は本当っぽい。そんなの、本当はどうでもいいことのはずなんだけども。
生前にリリースされたものとして2枚のアルバムが知られていてどちらも名盤だけども、今回はその後に3枚目のアルバムとして制作されたのに、ほとんど完成してたのに、何故かリリースされずに捨て置かれ、彼女の死後相当経った2005年にようやくリリースされた本作を。このあまりに勿体なさすぎるアルバムを世に出すのに尽力したのが、かのシカゴ音響派の重要人物Jim O'Rourkeなところが面白い。彼はアメリカーナ系の音楽の熱烈なファン・研究者の側面も持っている*17。
冒頭の『That's the Spirit』1曲だけをもってしても、何故これが当時リリースされなかったのか全く意味が分からない、完全無欠のピアノゴスペルなカントリーロックで、彼女のピアノも歌も実に饒舌で優美で、バタバタしたバンドの感じも実に気持ちいい。終盤のタイトル連呼でリズムが加速するところなんてひたすらに高揚して最高だ。日本のピアノ中心のロックバンドであるクラムボンが自身のカバーアルバムでこれを選曲したことは実に納得できる*18。
2曲目以降も、曲も演奏も実にいい具合の楽曲が多数続いていく*19。面白いのは、生前リリースされてた2枚よりも全面的にバンド演奏が付いていて、どれもカントリーロックとして実に素晴らしい仕上がりなこと。復刻時の追加録音など無いはずなので、これが当時きちんとリリースされてれば、彼女の評価は「悲劇のSSW」などでは留まらないもっと正式にアメリカンロックの重要なエレメントとして見られてたのでは、と思ってしまう。特に、ここで複数の曲で聴かれる彼女自身によるピアノの軽快でウィットに満ちたプレイとそれに沿った軽やかな歌は、他の何者にも代え難い。結局、この作品が素晴らしければ素晴らしいほど、これを何故か世に出せずに死んでしまった彼女の哀れさが止めどなく深まっていく*20。せめて、この素晴らしい作品が世に広く聴かれるといいなと思う。個人的にも、1970年代の女性アーティストの作品でも1番好きなアルバムはこれだけど、一応リリース2005年な作品を1970年代の作品として扱っていいのか分からないけども。
6. Northern Lights - Southern Cross / The Band(1975年)
www.youtube.com アメリカンロックにしてもアメリカーナにしても、その歴史や音楽性的に、The Bandを全く無視して成立することは不可能だと思う。The Bandが全てとは言いたくは無いけれど、でも欠かせないものだとは思う。特に思うのは、彼らはアメリカ音楽「らしさ」に溢れたリズムのいなたさとか、楽器演奏のルーズさとかの様々を発明・蓄積していったんだな、ということ。カナダ人という外様のポジションであることが、かえってアメリカ音楽のエミュレーションを効果的に行えたんだとすれば、その構図は上に挙げたThe Kinksのアルバムとさして変わらない。アメリカンロックにしてもアメリカーナにしても、そこには常にアメリカ音楽のエミュレーション、という視点が付き纏う気がしてて、この2者はどちらもそのことに凄く自覚的だったと思う。
で、そんなThe Bandがアメリカ音楽の原液をドバドバと掘り当ててみせたのが初期の2枚のアルバムだとすれば、このアルバムはその原液をどのように加工すれば鮮烈で、感傷的で、景色の見える音楽になり得るか、ということを真剣に考え直して制作された1枚と言えそう。それが、この後ロックバンド史に残る歴史的裏切り行為を遂行していく、メイン作曲者・ギター奏者Robbie Robertsonによる、非常に恣意的で戦略的なものだったとしても、彼のいかなる悪しき意識がこの作品に封入されているとしても、この作品の楽曲が持つリリシズムや演奏のダイナミックさは少しも傷つかない。このアルバムにはそう言い切れるくらいの完成度がある。
アルバムを再生して最初に聞こえてくるドラムの音、これだけで既に伝説的。アルバム全編において、録音されたドラムの音の、特にスネアの、その実にタイトで「死んだ木」そのものといったデッドな鳴りは素晴らしく、1970年代的なドラムサウンドを代表するものだと思う。派手なフィルインはしないけど細かく短いフィルを効果的に入れるLevon Helmのドラムはロック的なシックさのひとつの極みだと思う。特に今作は。これで歌も歌うなんて。他の演奏も、ピッキングハーモニクスをひたすら使い倒すギターを中心に、充実していない部分がない。出せるものを全て出し切らんとする気迫を、余裕綽々のようなルーズな感じのする楽曲の合間にいちいち感じる。『Jupiter Hollow』では逆にシンセ中心のフワフワした全然カントリーじゃないサウンドも見せたりして、今作のサウンドは本当に様々に面白い。
アメリカ音楽だけでなく、アメリカ史さえ楽曲を通じて編纂しようとする姿勢については、今作の『Acadian Driftwood』にその成果が結実している。途方もなくて、おまけに情けも無いアメリカ大陸の荒涼として広大な大地の感じは、この、Robbieの想像力の果てのような楽曲において、実に冷たくも神聖に描かれている。
このアルバムの後に伝説的な『Last Waltz』でもって彼らは解散し、その1ヶ月後にやはりアメリカンロックを象徴するバンドThe Eaglesが、やはり何かの終わりを象徴するアルバム『Hotel California』をリリースした。この流れはこういった土臭いカントリーロックの潮流の、その終焉として見なされている。歴史は、時々こういう出来過ぎな事態を引き起こす。どちらも1976年の出来事で、海の向こうの英国ではSex Pistolsが本格的な活動を始め、翌年1977年に唯一のアルバムをリリースする。ロックの年表は、それだけでは確かに取りこぼしてしまうことも沢山あるけれども、でもこうやって眺めるとそれはそれで時々興味深く思えたりするものだ。
1980年代
7. Joshua Tree / U2(1987年)
www.youtube.com 1980年代はこの1枚だけ。AMA等のメディアが編纂するところのアメリカーナ史においてはこの年間も様々な重要なアーティスト、特にオルタナカントリーに結びつくアーティストがいるのは分かってるけど、でもなんか自分には合わなかった*21。
この、海の向こうのアイルランドからはるばるアメリカにやってきて、そのスケールの大きさにヤられて、それを自分たちなりに咀嚼・再現しようとして、なんか再現できてしまったこのアルバムの存在自体がナチュラルにヘンで面白い。Bonoの野太くて直情的な声と、The Edgeのディレイエフェクトを効果的に使用した音響的なギターとが、アメリカの荒涼とした大地の感じを表現するのにここまでジャストフィットだったということには、本人たちも驚いたのではないか。そのスタイルはおそらくこのアルバムより前のアメリカンロックには、少なくともカントリーロックには決してありえないサウンドなのに、でもこうやって演奏されると実に広大で荒涼としたアメリカの感じがする、というのは、実はとんでもない発明で、彼らはアメリカ音楽のエミュというよりもむしろ、自分たちの音楽性をアメリカに寄せることで「新しいアメリカンロックのサウンド」を作り上げてしまった。それは結果的に彼らとプロデュースしたBrian Enoの、途方も無い想像力の結晶とも言える。
冒頭『Where the Street Has No Name』の威風堂々とした姿てアメリカの大地の上を滑空するようなサウンドは、確かにその滑空中に見下ろす大地はアメリカの形と匂いがしてくる。世界一スケール感が広大なブルーズ形式の楽曲じゃないかと思う『I Still Haven't Found What I'm Looking For』(本当にくどい言い回し。。)の、地に降りて荒野の中の国道を歩いてるみたいな感覚は、なぜだか実際に見たこともないアメリカの国道の感じがする。『With Or Without You』の曲進行に従って神々しく広がっていく空の感じはやっぱりアメリカの乾いた空と空気の感じがする。何故そう感じるのか。コードや音響の組み合わせで科学的に説明が付くのか。ともかく、彼らのイマジナリーな感覚がアメリカを描き切ってしまったということ。やっぱいつ聴いても『Bullet The Blue Sky』はなんかダサいけども。
今作はアメリカの大地を移動してそのスケールの広さに打ちのめされた感じをそのまま音楽にしたようなアルバムだ。だから、アメリカの人々の日々の営みの感じとか、歴史・伝統みたいなものはそこまで重視されてなくて、その点でいくと「アメリカのスケール感広すぎる大地に対するフェティシズムに特化したアルバム」とさえ言えるかもしれない。なんだか失礼な呼び方かもしれないけど、でもやっぱりこのアルバムは旅の感じが凄くする。それもやっぱり、アメリカ在住者じゃない、外様の人間がアメリカを旅したことによって生まれた情緒なんだろう。アメリカ人がこのアルバムを、日々の暮らしの感じがするカントリー音楽と同じように聴いたりはしないんだろうな、と勝手に思ったりもするけど、でもU2がここに作り上げた幻想の「厳しくも美しくて果てしないアメリカの大地」は、自分みたいな人間のアメリカに対するイメージを操作し続ける。それがいいことなのか分からない。でもその幻想は否応なしに、胸が熱くなる感じがすしてしまう。
1990年代
8. Without a Sound / Dinosaur Jr.(1994年)
www.youtube.com 1990年代、ここから先はこのリストはインディロック的なものばっかりになります。あれもこれもアメリカンロックだしアメリカーナしてるでしょ?ということを自分の中で位置付けを整理しておきたい趣旨で書いてますので。
早速、オルタナカントリー「に含まれない」、オルタナティブロックから彼らのこの作品。でもたとえば、Sonic YouthやNirvanaなんかと比べると、Dinosaur Jr.って遥かにカントリーロックじみてると思えると思う。エレキギター中心の曲であっても、そのコード進行やメロディのどっしりとした感じとか、ギターサウンドやリズムの適度にルーズで土臭い感覚とか、カントリーじゃなくても、少なくとも多くのアメリカンロックが持つ土の感じと共通してるように思える。むしろロックが土の感じを出せれば、それはアメリカンな要素がある、ということになるのかも。
この時期の録音は大半がJ Mascisひとりによる多重録音となっていて、そのスタイルでギターがギンギンに鳴るロックチューンばかり作り続けると疲れるし飽きてきたのか、今作ではアコースティックギターを中心に置いた楽曲も複数あって、特に『Outta Hand』のエヴァーグリーンな感じは彼のフォークロックへの愛着とメロディセンスとが実に素直で効果的に表現されている。エレキギターを弾く楽曲でも、ギターフレーズや疾走感よりも、ゆったりテンポにザラついたギターコードの掻き鳴らし感こそを聴かせようとする楽曲が数多くある。そうしたスタイルの楽曲を聴くと、彼はNeil Youngのエレキギター路線を継承しようとしていた人間なんだなあということがしみじみと分かってくるし、その引きずり倒すような歪んだギターのコードカッティングは、シンプルなのにやたらと格好いい。こういうのはタフさと感傷的な雰囲気とが両立できることが魅力だと思う。
この後のDinosaur Jr.解散*22後のソロではよりアコースティック方面の楽曲が増加する彼は、比較的金太郎飴的と言われる彼のディスコグラフィの中で実は、自分なりのカントリーロックの世界をじっくりと開拓し続けているのかもしれない。
9. Stoned and Dethroned / The Jesus and Mary Chain(1994年)
www.youtube.com このアルバムがこのブログで出てくるのが、この記事も含めて3つ連続となってて、多分全部読んでくれてる人からしたら「またこれかよ…もういいよ…」となるだろうな…そもそもまたアメリカ人以外のエントリーだよ…というところで辟易してるかもしれないけど、取り上げます。今回のテーマにはやはり欠かせない存在。
彼らが彼らなりのバブルガムギターロックをアルバム『Honey's Dead』でひとまず完成させた後に、どうしてアメリカンな方向に向かったのかはよく分からない。でもここで面白いなと思うのは、The Velvet Undergroundをルーツとしてる人たちがアメリカンロックに向かったこと。個人的には、The Velvet Undergroundは都市の音楽であって、ここで言うところのアメリカンロックでもアメリカーナでもない、という認識だけど、そんなところから根本的なメロディセンス自体影響を受けた存在であるところの彼らが、アメリカンなサウンドに向かうというのは「もしLou Reedがコテコテのアメリカンロックに接近してたら」という想像が部分的に実現したとも考えられて、ヴェルヴェッツ的なメロディセンスがアメリカンロックに出会ったという意味で、このアルバムは非常に価値がある気がしてる。
彼らが今作で行なった、そんなにディープじゃないし結構テキトーなアメリカンロック要素のエミュレーションが、でも案外要点をついて効果的に、短い各楽曲に封入されたことは、彼らの要領の良さを思わせる*23。そして、その後彼らの現役時代最終作『Munki』においてより必死に、彼ららしくないくらい必死にオルタナティブロック要素を追い求めていくことを踏まえると、ここでのアメリカンロックの受容の仕方にはまだ彼ら的な「クールさ・必死じゃなさ」が保たれていて、やっぱり面白く感じられる。
10. Wowee Zowee / Pavement(1995年)
www.youtube.com 1990年代において現実的にも象徴的にもアメリカの「荒野」を駆け抜けていった1番のバンドはもしかしたら彼らかもしれない、とずっと思っていた。ダラダラグダグダとしているように見せて、しかし彼らのサウンドは時に軽快に、時にやたらダルそうに、かの国の大地や道路を駆け抜けていくような情緒を醸し出していた。その駆け抜け方には、当時の人々のかったるい暮らしの感じが確かに滲んでいた。そういう意味で彼らは、「庶民のかったるさを表現する音楽」としてのカントリーロックを、更新させたことは間違い無いと思う。
この3作目は、2作目『Crooked Rain, Crooked Rain』によって彼らが得た「平板に駆け抜けていくビート」の感じをよりバリエーション持たせたと同時に、最初期から行なってきた「ローファイ的な」デタラメな楽曲作りを本腰入れて連発した、彼らの密かな努力の頂点にあるアルバム。確かによくよく考えると次のアルバムである『Brighten the Corners』は今作のマテリアルを効果的に組み替えた「だけ」と言えなくもない楽曲が多数を占めていて、見方によってはネタ切れ感が結構あるもんだなあと思える*24。
「軽快に駆け抜け」系の楽曲でもジャンク系の楽曲でも、今作に見られるのはそのいちいちに拘り抜いた形跡だ。駆け抜け系の曲であれば、メロディをどう通すか、通すにしてもどうローファイ的におとぼけを入れながら通すか、構成をどうして差別化するか、伴奏に何を流すか、どう不穏さを挿入するか、ギターソロをどうフリーキーに展開するか、等の様々なアイディアが各曲に散らされている。下手をするとスライドギターさえ伴奏に使われている。ジャンク系の曲でも、様々な思いつく限りのアイディアを矢継ぎ早に投入し、かつ何だかんだでゴミになりすぎないようなギリギリのバランスも取られている。この二つの路線が劇的にアホに交差した奇跡の1曲が『AT & T』で、コーラスの訳わからないボーカルのシャウトが抜き抜けていく様は「ローファイ的な」爽快感の頂点かもしれない。
ここまで手を尽くしアイディアを尽くした彼ら、「適当さ・ローファイさ」を演出するために全てを出し切らんばかりの彼らの制作に対する逆説的なその姿勢に、もはや「みんなで集まってテキトーに演奏したら曲できたぜそのままリリースしようぜ」的なローファイな要素など微塵もない、ということとそれが生み出した「ローファイ」という概念についてのややこしい事態についてはかつて弊ブログにて多少言及したとおり。バチバチにハイテンションでふざけ倒した曲の後に来る『Fight This Generation』における実に不穏で冷めきった様子と、テンポチェンジした後半以降の呪詛的なタイトルコールは、当時の彼らがどこまでロックというものに、アメリカのロックというものにマジで対峙していたかがかいま見える瞬間だ。逆に、ここで彼らが全てを尽くして暴れ倒した分だけ、アメリカンロックの世界は余計に広がった、とも考えられる。その余計は、全世界のインディロックファンを永遠に祝福し呪い続ける類の余計さだ。
2000年代
11. Nixon / Lambchop(2000年)
www.youtube.com ここからより、所謂ピッチフォーク的なインディアーティストばかり出てきてしまうけれども、それは今回筆者が、そういうもののいくつかをアメリカンロック/アメリカーナの文脈に乗せて捉え直してみたかった、ただそれだけのことです。実際にそう扱われてるのか、そう扱うべきなのかについては、知らない。
でも、Lambchopが、このアルバムが、アメリカーナ的要素に溢れたものであることをあえて否定する人はそんなにいないと思う。ナッシュビルを拠点とする大所帯バンドである彼らの2000年リリースの今作は、元々から洗練されきったソフトでジェントリーなアメリカンロックを奏でてた彼らが、よりそのサウンドを幻想的な方面に舵を切った作品。Yo La Tengoの人が「2000年代の10枚」で選んだことでも有名で、これはその両者のサウンドの方向性の類似からも納得できてしまう話。
ひたすらにノスタルジックで淡い音世界においては、幻想の中の「アメリカ」の光景が実にシックに映し出される。それを「観て」いるとなんだか気分が呆けてしまう。その性質はよく考えると、かつてVan Dyke ParksやHarpers Bizzareなどが作っていた幻覚をより現代的な手法で、より陰鬱さも混ざった形で構築し直したものなのかも。彼らは一応オルタナカントリーバンドとして紹介されることが多いけど、上記のオルタナカントリーの定義だと、ここまで幻想めいた作品作りになるとまたあの定義から外れてしまうのかな、と思った。ここでの過去への憧憬めいた「アメリカの光景」を幻惑的に描く手法は、もはや「アメリカ音楽のエミュレーション」の領域をはみ出してしまってる。出所不明の繊細さや艶やかさや遠くの賑やかさが、しかしそれでも「過去のアメリカはこんな光景だったのかも」みたいな感覚に繋がるのは、それはやっぱり、制作者たちの想像力のなせる技だ。こんな素敵な幻想の遊園地に、皮肉たっぷりに“ニクソン”という名前を付けてしまうところ*25は、どんなに音がソフトであっても製作者の内面はちっともソフトじゃない、どころかどこまでも怜悧なんだなあ、とか思ってしまうところ。
アメリカンロック/アメリカーナ音楽は演者によって、実際的なアメリカと、幻想のアメリカの、それぞれを描いてしまうことがある。どっちを信じればいいかとか、どっちを演奏することがより誠実か、ということではなく、どっちも楽しめるんだなあ、と考える。そんなスタンスは現代のアメリカの様子を思うといささか呑気すぎて、もしかしたら不謹慎で不誠実なのかもしれない。ぼくはアメリカ音楽が奏でるアメリカの光景を好き勝手に“消費”している。そんなんでいいのか、と不安に思ったら、時々なんかそういうリアルタイムな問題に取り組んでいるところに募金とかをして、自分の中でお為ごかしをしている。
12. The Moon and Antarctica / Modest Mouse(2000年)
www.youtube.com アメリカの広大な郊外の荒野をのたうち回るバンドだったのがModest Mouseだと思う。彼らの初期シングル等や最初2枚のフルアルバムは確実にそんな性質を有していた。自身の感覚ごとささくれ立って、内側から幾らでも攻撃的な情念がコントロール困難なほど吐き出されるような、そんな情緒不安定な情緒を3ピースのスカスカのサウンドを勢いと言葉数とノイジーさとで埋め尽くすことで表現する、それが彼らの基本スタンスだった。
でも彼らのそんなブッ壊れた感覚の横に、彼ら流の歪なフォークソングの感覚は確かにあった。ブチ切れアルバム『The Lonesome Crowded West』にも終盤のアコースティック曲や、LPのみのボーナストラックだった『Baby Blue Sedan』のような、彼ら的な神経質さからしか生まれなさそうな類のフォークミュージックが存在していた。そしてそれは、彼らのメジャー進出後1枚目である本作でひとまずの完成を見る。
冒頭に置かれた『3rd Planet』の、捩じくれていながらもポップさと勇敢さを放つその姿に、あんな捩じくれたままでもどこまでも行けるんだ、っていう感覚になれるのは、こういった拗れきった精神がアメリカの大地に相応しいもののように感じれる瞬間でもあると思う。続く『Gravity Rides Everything』のより軽やかなフォーキーさは、これまでのたうち回ってたアメリカの国道を少し上空から見下ろすような、そんなファンタジックさが備わっている。初期の彼ら的な激情が噴出する場面も所々あるけれども、それよりも今作では、荒涼としたいつもの国道やら草原やらを一歩引いてぼんやり見つめてるような、そんな形での「ディスカバリー・アメリカ」が数多く詰まってるように思う。地味に楽器のダビングも増え、音楽性自体の「感情の表出」と「映像的演出」との割合が後者に偏ってきている。その映像はやはり、彼らの捩じくれたフィルターあってこその美しさに彩られている。
この映像的感覚をより発展させて、『Float On』『Ocean Breathes Salty』のようなカラフルでポップな世界に行き着くのはドラマチックだけど、でも今作の、カラフルになる直前で留まって見渡すモノクロ感のある世界観も実に味がある。そのモノクロさによる心細さは、アメリカ的な孤独のあり方がより生々しく匂ってくる気がする。
13. Yankee Hotel Foxtrot / Wilco(2002年)
www.youtube.com 「アメリカンロック/アメリカーナ音楽の徹底的な解体と再構築」による音楽を、それでもアメリカンロック/アメリカーナとして受容できるか、という問いをこのアルバムは常に突きつけてくる。フォーク・カントリーといった伝統的な音楽の感じが各曲からちゃんと伝わってくるのは、作曲者であるJeff Tweedyがその出発点である伝説的オルタナカントリーバンドUncle Tupelo時代から自身のソングライティングの中心に常にそれらを大切に抱き続けて来たから。そしてそれら丁寧に作られた楽曲を、徹底的に破壊し尽くさんとする研究と努力の積み重ねが、この盤には渦巻いている。その伝統を破壊する構図は、アメリカという国や社会の崩壊のイメージと重ねられ、911の衝撃の直後のツインタワージャケットのこのアルバムが、本人たちの意図しないところで黙示録的な神々しい扱いを受けてしまった、といったことは、去年書いた以下のやたら推敲の甘い文章に溢れた兵ブログ記事のどこかで書いたと思う、多分。
出涸らしになりそうなくらい何でもかんでも書いたつもりのこの文章群に付け足せることは多くないけど、このJeffとJay Bennettのマッドな共同作業によって録音され、最後にJim O'Rourkeによってミックスされた数々の挑戦的な楽曲が映すアメリカの不安な光景の数々は、ある意味では幻想的なフィクションにも聞こえる音の中から、ある種のリアルさをなんとなく聞き手に感じさせる。それが何なのかを明確に言えてたら多分自分はもっと今と別の仕事をしていたかもしれないけど、少なくともそのリアルさは、上記のLambchopのアルバムで感じるぼんやりした幻覚とは逆のベクトルのものだと感じる*26。別にどっちが良い悪いという話ではなく。
14. Taking The Long Way / Dixie Chicks(2006年)
www.youtube.com カントリー界のスターユニットが様々な事情がありアメリカンロックに「転向」したという珍しい事例がこのアルバム。Dixie Chicks*27はカントリー界でGarth Brooks等のトップスターたちの一角として広く認知され人気を得ていたガールズユニットだった。しかし、メンバーが911以降のアフガニスタン攻撃やイラク戦争に邁進する当時のブッシュ大統領を批判したところ、保守的なカントリーファン*28からの執拗な攻撃を受け、全米の多くのカントリーのラジオ局においては選挙区から外され、中には不買運動や、酷いものではCDのブルドーザーでの破壊や、本人や親族への脅迫まで行われるという、ヒステリックな事態に陥った。
この混沌として殺気立った状況でも彼女らは結局初志を曲げず、シングルにこの騒動を振り返った『Not Ready to Make Nice』をリリース。この曲から一気にメロディックなアメリカンロックに転向し、そしてRick Rubinのプロデュースにより完成したのが今作。作品の背景を語るだけで相当なややこしさのある作品だけど、今作における彼女たちの楽曲は、少々大味なメロディの曲も目立つけれども、しかしカントリーロックの現代的なスタイルとして整然として堂々とした楽曲・演奏を備え持っている。元々カントリーを演奏していた彼女たちのスタイルもアレンジには生かされ、結果的にアメリカのオーバーグラウンド的なメロディの強さがカントリーロックによく絡んだ力強い作品に仕上がっている。というかこの辺のアレンジの巧さは、現代的なロックやヒップホップをプロデュースする傍でJohnny CashとのAmerican Recordingsシリーズをはじめとするアメリカ音楽界の巨匠たちとのタッグでも知られるRick Rubinの手腕がゴリゴリに光っている。強いメロディの隙間に的確にカントリーロック的なガジェットや空気感を挿入していく彼の手腕は、彼もアメリカーナ音楽の重要な担い手なんだなあと思わされるし、それを全開に活かしきるグループの強さも伺える。特に『Lullaby』の落ち着いて幻想的な感じは実にアメリカーナ的な恍惚感に溢れてる。
今回この記事を書くにあたって、オーバーグラウンドなカントリーを一応ちゃんと調べて聴いておこうと思って、それでこのアルバムを今更ながら発見できたことは嬉しかった。カントリーのアメリカでの広がり方を知るに、あの国の現在進行形の問題についても考えさせられて暗澹としたりもしたけど、でもこの素敵なアルバムがそれでもしっかり売れたことは、なんかやっぱり凄い国だなあ、と呑気なことをまた思った。
15. The Reminder / Feist(2007年)
www.youtube.com 今回のこの記事を書くまで、このカナダの女性SSWがBroken Social Sceneの準メンバーだということを知らなかった。それを知ると、彼女のなんか普通の女性SSWとは異なるようなメロディに対するゴツゴツした付き合い方について、なんか妙に納得がいった。いや、別にBSCに参加してたからメロディがああいう感じになってる、というわけではないんだろうけども。
このアルバムの1曲目を聴くと「ボサノバからの流れのSSWなのかな?」とか勘違いするけど、それよりも先に『1234』や『I Feel It All』のPVを見ておけば、この人がもう少しアバンギャルドでハチャメチャな感覚を根っこに持ってる人だと分かる。上記のリード曲に典型的に現れているとおり、彼女の場合、アメリカーナ要素は適時に引き出して楽曲のアクセント的にガジェット的に利用するスタイルが結構目立つ。楽曲自体は質素な伴奏のみだけど、所々に派手な仕掛けとして古き良きアメリカなサウンドが吹き荒れたりする。そのサウンドエディットの感覚は、ゼロ年代以降のSSW的なものかも。曲によってはそういったガジェットを用いずひたすら音の闇に沈み込んでみせたりもする。その辺の闇った感覚に、数々の女性SSWの中でもとりわけ独特のヒステリックさがあるように感じていたけど、それは2017年のアルバム『Pleasure』で凄くおどろおどろしい形で表出していた。
それにしても、ゼロ年代以降の、多分Cat Powerあたりから端を発する女性インディーSSWの系譜は、色々とブッ飛んでる要素持ちの人が多くて、ちゃんと辿って聴くと面白い。かえってバンドメンバーとして女性が歌ってるものの方がオーセンティックだったりするというか、様々な曲芸的なアレンジが求められるのが女性インディーSSW界隈なのかなあと思わせられて、それを踏まえて上記のPVを観ると、最初のメロディのリズムに合わせてドラム缶殴って花火が出るところがアホらしすぎてなんか可愛い…って感じで和んだ。
16. April / Sun Kil Moon(2008年)
www.youtube.com Modest Mouseがこんがらがった自意識をフォークソングにしてアメリカの「新たな光景」を楽曲にしたように、Mark Kozelekはそれよりも早くから、スローでメロウな楽曲と持ち前の低く淀んだ歌声でもって、アメリカンロックの表現する光景を広げていった。“スロウコア”と呼ばれたそのジャンルも、彼の最初のバンドRed House Paintersが中期ごろからカントリーロック的なサウンドになってくると「あれっ、スロウコアって案外カントリーロックなのか…?」みたいな混同が発生する。まあ上記のNeil Youngで書いたように、その混同は別に間違ってないような気もしますけども。
Red House PaintersからSun Kil Moonに名称が変わって、その活動において「最後にアメリカンロック的な要素が大だったアルバム」はこれだと思う。この後は、地味なフォークの世界に埋没していくのか…と思わせて『Benji』でストーリーテラー路線を発明し、しかしその後はその手法をどんどん先鋭化していくあまり、前人未到・唯我独尊の境地をひたすら独走してる気もする。
冒頭2曲の素晴らしさに尽きる。『Lost Verses』の彼的なフォークソングとバンドサウンドのソフトで夢見心地な融合具合は、終盤のギターロック化も込みで、10分近くという曲の尺を感じさせずに流れていくし、続く『The Light』のイントロから聞こえてくるギターサウンドのいなたさは、彼がRHP中期から続けてきたNeil Young的ギターロックサウンドの、美しくも穏やかな終着地点だ。雑に掻き毟るようでいて実に鮮やかに揺れ動くギターサウンドの様はそのザラザラさの割に、まるでそよ風に揺れるカーテンのような優雅さに満ちている。そしてそんなカーテンを眺めているかのように、聞き手はぼんやり呆け切ったような恍惚の中にある。こんな程よい風の吹き方・カーテンの揺れ方をする土地がアメリカにあるのかは知らないけども、でもその感じは無国籍風と言うよりかはまだ全然アメリカ的なのかなと思う。こっちも8分近くあって、冒頭2曲だけで18分弱もあるので、下手するとこの2曲で満足して再生を止めてしまう。
冒頭2曲の後の楽曲も十分素敵である。ただ、『Heron Blue』のトラディショナル・フォークを彼流の退屈な暗黒に染め上げたような楽曲には、彼が奥にもつ神経質さの原液を見せつけられてるような思いがする。続く『Moorestown』の穏やかに煌めくギターサウンドに救われる。というかこの人は本当にこういう水のようなギター表現も、上記のとおりのNeil Young的なギターも上手く、ともかくとてもギターを鳴らすことに長けている。それを彼のことを知る多くの人たちが知っているからこそ、今の彼の活動スタイルは歯がゆくもなるけれども、でもそんなの彼は知ったことじゃあないから、今後も好き勝手に暮らして、アメリカに対する毒とかを吐き出して、作品を出していくんだと思う。昨年の日本公演中止は残念だったけど、そもそもなんであのタイミングで来ることになったんだろう、来てたら何を見せられたんだろう、と不思議に思う。
17. American Central Dust / Son Volt(2009年)
www.youtube.com 伝説的オルタナカントリーバンドUncle Tupeloの片割れJeff Tweedyがポップさやオルタナティブロックや音響派的な手法でカントリーロックを解体したり現代化したり時折プログレ的な方向に走ったりしてる間、もう片方の片割れJay FarrarはUncle Tupelo脱退後に掲げたSon Voltというバンドにおいて、Uncle Tupeloの先のオルタナカントリーを深化させ続けることに己の人生を捧げ続けている。時折「その活動はただの現状維持では?」などと思ってしまうこともあるけれど、彼の場合、ひたすらカントリーロックを演奏し続けることが、カントリーロックに骨を埋めることが、彼の願いそのものになってしまったのかもしれない。そのスタンスはかえってひたすら孤独に見えて、カントリー界隈の純アメリカ的な賑わいからも遠く隔てた地点で、ずっと孤独に「文化的雪かき」を続けているように感じられる。
この、何の衒いも無い「いかにもアメリカのカントリーロックバンドのアルバムジャケットです」という顔をしたこのアルバムは、しかし彼らのそういった作品の中でも、何故だかちょっとばかりWilco的な音響の揺らぐ感じが備わっている作品。それがたまたまなのか狙ってたのかがよく分からないし、Wilcoが『YHF』で行なったタイプのノイジーさとは全然出所の違う幻惑作用だと思うので、彼のカントリー音楽の引き出しのうち、幻想的に聞こえる部分が多く出たのがたまたまこのアルバムだっただけのことかもしれない。だけど『Cocain and Ashes』で聴かれる、持続音的に引き伸ばされるフィドルの音は実にドローン的で音響的で、このリズムレスでゴスペル的な楽曲をより神々しくしている。アルバム後半の『Pushed Too Far』〜『Exiles』〜『Sultana』の流れも、カントリー音楽の最もフォークロア的でぼんやりした部分を引き出していて、そこにはかの国の大地のうんざりするほどの広大さとか、その中での郊外の人々の、ぼんやりして頼りがなくて祈りたくなるような暮らしの光景が幻視される。
カントリーミュージックはゴージャスなものだってオーバーグラウンドのカントリーを見てるときっと思うんだろうなって考えると、彼らがこのアルバムで示したようなストイックでうんざりするほどぼんやりしてしまうカントリーロックは、逆にとても貧乏くさいもののように思えてしまう。こんなに豊かで滋養溢れるのに、何故そうなってしまうのか。この不思議な逆転現象に自分なんかは少し頭がクラクラしてくるけど、きっとJay Farrarはそんな脇目も振らずに、自分の「信仰」するカントリーロックにその身を捧げ続けるんだと思う。物凄く格好いい声とセンスとを兼ね備えた間違いない天才が、求道者的に同じような作品を作り続けていく様は、時々失礼ながら、痛々しささえ覚えてしまう。でも、彼の作品は聴き続けると思う。「骨になるまでロックするぜ」なんて馬鹿っぽく言ったりするけれど、彼のやってることがそういうことなのかな、とか最近は考えたりする。
2010年代
18. Sound and Color / Alabama Shakes(2015年)
www.youtube.com インディロックが沈没していった2010年代中頃の音楽業界において、彼女たちのこのアルバムが示した「ロックの現代的なあり方」は非常に注目された。残念なのが、このアルバムより先の作品が、中心人物Brittany Howardのソロアルバムくらいしか無いこと。そのソロアルバムも非常に先鋭的な作品ではあったけども、ロックバンドとしてのAlabama Shakesの次の作品は、もう見れないのかもしれない。
今思うとこれも「ロックやR&Bのサウンドやフレーズを、現代的な音響でもって解体して再構築した作品」なんだなと思う。音量パツパツのギターやリズムがスカスカな音空間の中で不思議に共存する、という、多少DTMやってる人間からするとこれどうやったらこんな不思議なミックスができるんだろう、と思うこの音響感覚は実にエポックメイキング的だった。自然で豊かなリバーブ感は楽器をビンテージ的に響かせるけれど、でもそれらの定位は不思議な地点にあって、変なことを言えばこのアルバムだけステレオのLとRが他の音楽よりも広いのかな…?みたいな錯覚に陥る。そういった音響でアクロバティックでアバンギャルドな風に鳴らされるのが、本来ならオーセンティックに響くはずのメロディやフレーズであること、この不思議な逆転。「退屈なもの」としてシーンから退けられたロックの「退屈なフレーズ」が実に刺激的に響くという不思議な逆転が、ここでは成し遂げられている。こういう芸当は、他ではSpoonくらいしか寡聞にして知らない。
正直、このアルバムでのBrittanyのセンスは、ロックを解体し尽くしてR&Bに再構成しているような節もあって、筆者の趣味の真ん中を行く曲は数曲くらいしか無いけど、でもそんなの御構いなしに、このアルバムを再生してる間は各楽曲の響きやリズムの叩き付けられ方に強く惹きつけられるのを感じる。対して良く無い音質のデータをそこそこ安価なPCスピーカーで流してるだけでそう思うんだから、ピュアオーディオ環境整えてLPで聴いたりしたらどんなことになるんだろ…という恐怖と楽しみが、もしかしたら今後の人生で待っているかもしれない。別に待ってないかもしれない。それよりもやっぱAlabama Shakesの次のアルバムが聴きたい。
19. Foxwarren / Foxwarren(2018年)
www.youtube.com 様々な楽器を用いて幻想的な楽曲を作るSSWとして、2016年のアルバム『Party』で注目を浴びたAndy Shaufが、実はバンドを組んでて、このような素晴らしく幻想的なサウンドを含んだカントリーロックを演奏してて、その作品がリリースされると2018年の終わり頃に発表された時はとても驚いた。周りに同じように驚いてる人が全然見当たらなかったことにも驚いた。じゃあこのアルバムは日本ではおれにだけ向けて作ってくれたってこと?最高じゃん!と思い込んで自分を慰めながら2018年の年間ベスト記事を書いてたことを思い出した。それにしてもカナダという国は本当に素晴らしいSSWがコンスタントに出てくる…SSWってカナダのアメリカに対する主要な輸出品のひとつなの?
Andy ShaufのことをElliott Smith的なSSWとして認識してたので、カントリーロックアルバムのリリースに驚いたところがある。でもElliott Smithもその遺作はカントリーロック志向みたいなのが見え隠れする感じもあった気がする。そして今作はそんな、もしElliott Smithがカントリーロック作品を作ってたら何曲か入れそうな、陰気なマイナー調の楽曲も含まれてるために、それがまた、なんだかAndy Shaufに申し訳がないけれども、実にグッとくる作品になっていた。また、冒頭に置かれた『To Be』のギターソロはその少しフリーキーな動きにWilcoにおけるNels Clineみたいな要素を感じたし、アルバム後半の『Your Small Town』『Sunset Canyon』の流れは実に繊細でメロウなカントリーが続いていて可憐で美しいし、凄く「ぼくのかんがえたさいきょうのおるたなてぃぶかんとりー」みたいな要素が沢山詰まっていて、様々な要素を何回も聴いて確認して発見したりした。
こんな素晴らしいアメリカンロックを作れる才能を羨ましく思う。そこを思うと今年(2020年)の新譜はやや小さくまとまり過ぎ?とか思ってしまったけど、あれもちゃんと聴けばしみじみするのは目に見えてるけども。2018年の年間ベストで1位にしてたくさん文章書いたから、あまり書くことが思い浮かばない…。
20. Rough and Rowdy Ways / Bob Dylan(2020年)
www.youtube.com 現在進行形でアメリカーナ音楽の世界を強烈に深めていくのが、誰であろう、これらここまで述べてきた分野の始祖にして原点であるこの御方の、このとても静けさに満ちた作品集であることに、実に感動的な流れを感じて、今回の記事を書こうと思った。正直な話、Dylanは物事が始まる触媒にはなるけど、結果的に自分から始まったそれを深めていくことについてはぶっきらぼうな拘りしか持ってないよな…などという雑な理解を持っていた自分*29だけど、今作には、平伏する。
平伏しながらも、この今年出たアルバムの正体について、まるで全然掴めないというか、ずっと彼の作り出した幻惑の中にいるような気がしてる。1曲目を再生した瞬間から展開される、その甘い囁きのようなメロディと、まるでこの世のものではないようなノスタルジックさが香る演奏に、吸い込まれていくような感じ。近いもので言えば間違いなくLambchopなんだけれども、でもLambchopの音楽に宿ってるタイプの暗い安らぎとは、何か性質が異なっているような*30。それは、彼の歴史の重みが醸し出すものなのか、ノーベル賞のトロフィーから発される作用なのか(笑)、それとも、彼がここまで、彼のとても長いキャリアでもかつて無かったほどにノスタルジックな甘みを出そうと思うに至ったのかもしれない要因、遠くない将来彼の身にどうしようもなく降りてくるであろう「死」の影そのためなのか。ここ20年の彼の作品によくあるぶっきらぼうなブルーズ曲が流れてくるとかえって安心してしまうような始末。
彼が今作で描くドリーミーなアメリカーナの世界は最終的に、アルバムに先駆けて8年ぶりの「Dylan作詞作曲の」新曲として先行リリースされた『Murder Most Foul』に辿り着く。
www.youtube.com17分弱に渡るこの、メランコリックで不安なピアノを中心としたリズムレスのたゆたうような音の中で、彼が言葉数多く語り始めるのが「ケネディ大統領暗殺事件」の物語であること、それは、彼が若かりし頃に起こった事件を通じて、彼のノスタルジーの最も深い場所に降りて行こうとしてるのか。そもそも彼がこの事件を「最も卑劣な殺人」だと本当に認識してるのか、あの事件も十分陰惨だけど、それよりも遥かに陰惨で卑劣だと思える事件は幾らでもあるだろうし今日も増え続けているであろう中、あえてこの全世界的に有名な殺人事件をあえてそう呼ぶのは、どうしてなんだろう。
中川五郎氏によって翻訳された歌詞がネットで公開されている。ありがたい。これを読みながら聞く。幾つか印象的な部分を引用しておく。
国が諸君のために何ができるのかを問うのではない
樽の鏡板の上には現ナマ、
すっかり使い果たしてしまう金
ディーレイ・プラザ、左手に曲がる
わたしは十字路に向かっている、
旗を掲げて進んで行こう
信頼と希望と慈悲とが死に絶えた場所へと
男がまだ逃げているうちに撃ち殺すんだ、
さあ、やれるうちにあいつを撃ち殺すんだ
目に見えない人間を撃ち殺せるかどうか
確かめてみるがいい
グッバイ、チャーリー! グッバイ、アンクル・サム!
正直な話、ミス・スカーレットなんて、
わたしはどうでもいいんだ
彼らは彼のからだを切断し、彼の脳みそを取り出した
それ以上どんなひどいことができるというのか?
痛み苦しむその場所に彼らは杭を打ち込んだ
しかし彼の魂はそれが宿っているはずの場所には
もうなかった
というのもそれまでの50年間、彼らはずっと
その魂を探し求め続けていたのだから
自由よ、ああ、自由よ、わたしのもとへ
こんなことは言いたくないけど、
ねえ、死んだ者だけが自由になれるんだよ
少しは愛しておくれよ、そして嘘はつかないで
銃をどぶに捨てて歩いて行け
わたしのために曲をかけておくれよ、
ミスター・ウルフマン・ジャック
ストレッチのキャディラックに乗っている
わたしのためにかけておくれ
あの「早死にするのは善人だけ」をかけておくれ
トム・ドゥリーが絞首刑になった場所へと
わたしを連れて行っておくれ
「セント・ジェームス病院」をかけておくれ
そしてジェイムス王の宮廷
忘れないでいたいのなら、
名前を書き留めておく方がいいよ
様々な「?」がシークバーの動きに合わせて左から右に、0:00から16:56に向かって流れていく。けれどもこの曲において彼は、実に明確に、言葉として、実に乾いたノスタルジアを、特に楽曲の終盤の歌詞に書き込んでいる。それは、彼が愛着があるのかないのかよく分からない、様々な作品の名前だ。それらひとつひとつを、よく分からないものは読み飛ばしたりしながら、でもせめて分かるものはちゃんと拾おうと思って読んでいくと、それらの作品の中には、ケネディ暗殺事件よりも後の時代の作品も沢山含まれている。だから、やはりこの歌を歌っている主体は「現代の」Bob Dylanに他ならないんだと思う。様々な死のイメージ、死に関する思いめいた言葉をそれらとともに並べたりしながらも、終盤はひたすら作品名の連打を続けていく。なぜそんなことをするのか?それについては彼がちゃんと同じこの歌の中で歌詞として書いている。
忘れないでいたいのなら、
名前を書き留めておく方がいいよ
最後のパラグラフはもう、作品名の嵐だ。そういえば、ここに取り上げられた曲のサブスクのプレイリストとかあるのかな、と思って調べたら、YouTubeにもそういう動画が上がってるみたいだ。時間があるときに見よう。
わたしのために「ミスティ」をかけておくれ
そして「ザット・オールド・デヴィル・ムーン」も
「エニイシング・ゴーズ」と「メンフィス・イン・ジューン」
をかけておくれ
「ロンリー・アット・ザ・トップ」と
「ロンリー・アー・ザ・ブレイブ」をかけておくれ
自分の墓のまわりをくるくる回っている
フーディーニのためにその曲をかけておくれ
ジェリー・ロール・モートンをかけておくれ
「ルシール」をかけておくれ
「ディープ・イン・ドリーム」をかけておくれ
そして「ドライヴィング・ウィール」をかけておくれ
「月光ソナタ」をFシャープでやっておくれ
そしてハープの王様のために
「ア・キー・トゥ・ザ・ハイウェイ」を
やっておくれ
闇と戯れれば、やがてしかるべくして死が訪れる
偉大なるバッド・パウウェルの
「ラブ・ミー・オア・リーブ・ミー」をかけておくれ
「血まみれの旗」をかけておくれ
「この上なく卑劣な殺人」をかけておくれ
自分が読んでるのは日本語訳だけれども、思ったのは、これは読むアメリカーナなのかもしれないな、ということ。Dylan的な難解な歌詞は、正直英語を聞き取れる能力があったとしても、その全てが頭に入ってくるとは思い難い。それで読むと、この難解な歌詞ばかり書いてきてやがてノーベル文学賞を獲得した男の、その様々な地点にイメージを飛ばしながらも、何か迫ってくる物語があることが確かに感じられる。
彼は、自分に迫り来る死をケネディ大統領に重ねてる?馬鹿な。彼は本当にケネディ大統領の死を悲しんでる?それよりも、この歌を通じていくつもの場所で「死」と戯れるように言葉を紡ぐ彼の姿が、もしかしたらこのアルバムを覆ってる不思議に安らかな不穏さの、そのヒントなのかもしれないと思う。決して「答え」ではない。彼が「答え」があるものを作るとは思わないし、別にこの歌は謎解きとかそういう性質のものではないと思う。
我々は、ぼくは、様々な形で「死」というのものを一般の日本人として知ってきたつもりだ。小説や映画や漫画やゲームやアニメで物語として表現される様々な「死」も、肉親等の葬儀の折に接した「死」も、様々な報道や場合によってはSNS等で流れてくる「死」も、車で走ってるときに道路脇や場合によっては路上ど真ん中で転がってる動物の「死」も。それでも、「死」の感覚を実感したりとか、こういう雰囲気が「死」だよね、と思ったりすることはできない。「死」を沢山見ないといけない仕事だったりすると、その辺は違ってくるんだろうか。
この歌の彼だって、「死」というものを「本当に分かってる」かどうかは分からない。「死を本当に理解する」ってどういうことだ?でも、彼は今年で79歳で、人並みに「死」に近づいている。分からない。あと10年も20年も死なないかもしれない。 あのBob Dylanだぞ?死ぬもんか。そうだろうか。
この歌は、79歳になる彼が戯れに、ケネディ大統領の事件を通じて「死」と戯れてみた、そういう歌なんだと思うことにした。彼の擬似的な「死」へ向かうその途上に見える走馬灯のような景色があの夥しい作品名の列挙だとすれば、それを聴く人は彼の擬似的な走馬灯に付き合わされているのかもしれない。迷惑な話だ。けど、嫌ではない。むしろ考えてみれば、彼の走馬灯を盗み見ることができるとすれば、それこそまさに、アメリカーナの歴史そのものなのではないか。
ーー色々闇雲に書いていって、ひとまずの何か結論めいた勘違いに行き着いたので、今回のこのアルバムの考察を打ち切る。「たった17分弱の内容も読み解けないザコがアメリカーナとか知った口で言うもんかね」と彼か誰かに言われた気がするけれど、まあそれはおいおい、これから勉強していきましょう。
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終わりに
以上、序章と20枚とでした。
無闇なテーマに無闇な知識と文章で取り組んでみて、このように読みにくい、だんだん自分でも何を書いてるか分からない文章ができました。
ぼくは、物心ついた学生の頃もしくは留年してた頃くらいから、「土臭い音楽」みたいなよく分からないワードで音楽について話をしていた気がしますが、今回は、そこについてある程度きちんと考えを整理しておくつもりで書きました。しかし、かえって具体的な作品群から湧き出してくる無数のワードをうまく扱えず、とっ散らかりっぱなしになってしまったような印象があります。
ぼくは演奏もするし、むしろ自分で曲を書いて発表して褒められたり好かれたりしたい人間なので、「土臭い音楽」を表現するための具体的な技法について、もっとフォーカスする予定があった気がしますが、書いてるうちにそうではなくなってしまいました。そもそも技術的なことってよく分からないし、単純に勉強が足りてないです。
ただ、その土臭さみたいなのが、やはりどうしたってアメリカ由来であることは、ずっと前から分かってたんだと思います。こういった土臭さを取り入れて自分のものにしたい、という欲求は音楽に限らず、様々なレベルで存在すると思います。ジョジョの7部の雰囲気に堪らない魅力と憧れを覚えるように。音楽について言えば、かつてはっぴいえんどがBuffelo Springfield等からそういう類のものを学んで自分のサウンドに落とし込んでいたように。
現代の様々なトラブルと革命とが吹き荒れるアメリカの様々な問題を一切横に置いて、このように趣味的で呑気な文章を書いてていいのか、と思ったりもしていましたが、そういった諸問題が解決されて「純粋に書ける」時期がいつになるか分からないこと、及びBob Dylanのアルバム『Rough and Rowdy Ways』が今年のアルバムであるうちに書いておきたかったことから、今回のタイミングになりました。
もしこの文章を最後まで読んでいただけた人がいたとしたら、それは本当にありがたいことです。何かお土産になるようなものがあったならば、もっと嬉しいです。事実関係等で間違っている箇所があったら、是非ともご指摘ください。修正させていただきます。今後もあの憧れの「土臭さ」に触れるために、今回取り上げたような類の音楽を聴き続けていくと思います。何かあれば、また何かかければいいなと思っています。
以上です。ありがとうございました。
*1:ヒップホップのスタイルに通じるトーキングスタイル的なロックならBob Dylanの時点で既に全然そういうのあるしLou Reedなんかもそうだし、という話になります。
*2:もしかしたらRed Hot Chili Peppersくらいはアメリカーナに入れてもいいのかもしれない。けどそれはラップしてるからではない気もするけれども。
*3:この要素があることで、自分がヒップホップが割と苦手でロックばかり興味が行くことで、自分は差別的な趣向を持ってる人間じゃないか、歴史的な差別の構造を肯定してる人間の側じゃないか、という加害者意識に苛まれることが、このブログを書いてる時でも頻繁にあります。この辺の「完全に政治的に正しい」説明は今の自分には困難なので、半ば開き直って半ば自嘲し続けてその辺ないまぜのグチャグチャでやっていくしかないのかな、と思います。
*4:しかしながら、アメリカーナのイベントなどを見たり、本場アメリカのカントリーミュージックのイベント等の映像を見たりすると、むしろここれらもその「伝統」でどんどん格式張ってることが大事になってる風にも思えます。
*5:この辺の線引きの「上品さ」に、アメリカーナというジャンルが暗に持つ「嫌らしさ」があるなあとは思います
*6:Lambchopの近作が特にこれに該当。逆にあれをアメリカーナに含めていいのか…とも思いますが、でもこのブログはAMAの回し者でもなんでも無いので、純化よりもむしろあれもこれもアメリカーナじゃん、くらいのスタンスで考えたいと思います。
*7:それを作ったThe Bandのメンバーの殆どがアメリカ人ではなくカナダ人というのは有名な話。カナダ人だからこそ純粋にアメリカ音楽への憧れの数々を結晶化できたんだ、などと言われたりしてます。また、彼らが同時にアメリカ史そのものにも目を向け、そこから悲しみや虚しさ・やるせなさといったものをカントリーロックに添えたことは、音楽性とともに非常に重要なことだったかもしれません。西部劇が次第にハッピーさよりも殺伐さや悲しみが際立ってきたように、それらはアメリカを描く上でとても重要なものだと思います。
*8:ウエストコーストロックのアーティストにはソフトロック等も多く含みますが、そっちからはあんまり「アメリカンロック」を感じないのは、この当時そこまで売れなかったからなのか…?
*9:たまにオルタナカントリー扱いしてる文章もあったりして、余計に混乱します
*10:かのMichel Jacksonをゆうに超える売上をアメリカ1国のみで成し遂げてしまったGarth Brooksが代表的存在。グループだと女性三人組のDixie Chicksなど。
*11:ヨーロッパからの移民のうちアパラチア山脈周辺に移り住んだスコットランド系・アイルランド系移民は「丘の上の(バカな)連中」として”hillbilly”と呼ばれたが、彼らが持ち込んだケルト音楽等の文化がやがて大衆化されて、それらを呼ぶジャンル名としてヒルビリー、そして1940年代当時でも差別的な意味合いがあったためにカントリー&ウエスタン、そして縮まってカントリー、という風に変遷していったとのこと。
*12:このような歯に物が詰まったような言い方をしてるのは、今作が決して彼の全てではなく、むしろこれよりも好きな作品がいくつもあるからです。とはいえ、この作品が素晴らしいことには全く異存はないです。
*13:ずっとオランダへの移動を嫌がったBrianもそうだけど、他のメンバーもみんなホームシックに苛まれていたのでそうなった、という説があります。アホらしすぎる…。
*14:蒸気船を発明した人にリスペクトを捧げる、というよく分からないコンセプトで作られた、ぼんやり蒸気船で移動してる雰囲気が実によく出た佳曲。だけどアルバム冒頭に置くには地味すぎる…。
*15:一番可笑しいのは、オランダ行きがめっちゃ嫌だったBrianがひたすら自分の趣味で作った「Mt. Vernon And Fairway」というおとぎ話の朗読のトラック群で、彼は本気でこのちょっとヤバいやつをThe Beach Boysの新作としてリリースを望み、結局メンバーが折れてアルバム本編とは別のEPとして抱き合わせでリリースしたこと。このエピソードだけでも訳分からんけど、でもそこには当時の深刻なドラッグの問題が関わっていて、どこまで笑っていいんだろう…といつも不安になるし全然笑えない。トラック自体は沢山の不思議音響に満ちた、早すぎた音響派作品とも言えそう。進んで聴こうとは思わないけども。
*16:歌詞が外部ライターに書かせてるけど、この外部ライターもまた、「侵略を伴うアメリカ開拓史」というどシリアスなテーマで書ききってて、その熱意のあり方が不思議だけども面白い。
*17:前にこのブログでも紹介したBurt Bacharachのトリビュートアルバム制作も、彼のそういった側面のひとつ。また、そういう側面があったからこそ、これより下で紹介するWilcoのあのアルバムについても「適切な」処置ができたんだと思う。
*18:このカバーは2006年で、原曲のリリースが2005年なことを思うと、相当昔に作られて捨てられてたこの曲が彼女たちにとってどれだけ衝撃だったかを思うと、その素早いカバーリリースまでのリアクションに敬意を表したくなる。
*19:復刻リリースにあたってはJim O'Rourkeがミックスに当たったとのこと。マジでなんていい人なんだ…。
*20:生前の彼女は完璧主義者として知られていたらしく、その性質がもしかしたら自らこれらのマテリアルを放棄してしまう方向にしてしまったのかもしれない。でもだとしても、当時の人たちはそれでもどうにかして、彼女にこれらのマテリアルが素晴らしいことを説いて、リリースにこぎ着けてほしかった。今更すぎる話だけども。
*21:アメリカーナ系のメディアではSteve Earlが「ナッシュビル中心のカントリーとは異なる流れを作った重要人物」として扱われてて、きっとそうなんだろうけど、声の熱っぽさが苦手だった。そのうち慣れて好きになったりするかもしれない。
*22:上にもあるとおり1990年代中盤以降のダイナソーは実質J Mascisのソロだけども、でも一応解散はした。その後オリジナルメンバーと仲直りして再結成して、今日まで活動を続けている。
*23:同じ年によりディープにアメリカンロックに接近してグダグダな作品になった同郷のPrimal Screamとの対比が面白い。Primalのあのグダグダさもそれはそれで魅力的なことを申し添えます。
*24:実際に当時のレビューで「もはや彼らはマルクマスのソングライティングにしか期待できないバンドになり下がった」というものがあったとかで、自分はそこまでは思わないにしても、鋭い批評ではあるなあと思う。
*25:上記のPVの、ニクソンの映像を弄って強引に歌わせてしまうのは流石に笑う。
*26:なお、このWilcoのアルバムで感じた類のリアルさと同種のものを、Lambchopの2019年のアルバムからも感じれる気はする。何気にあのアルバムもものすごい作品だったのかもしれない。
*27:現在は、BLMによる全米的な差別の歴史の見直しを受けて、奴隷容認派の南軍的なイメージのある「Dixie」を外した「The Chicks」という名前に改名しています。
*28:そもそもが、カントリー界隈のトップミュージシャンが保守的で共和党支持者であるという面があり、Toby Keithは公然と戦争を支持し、また「忘れたのか?あの日(911)の怒りと悲しみを」とイスラムへの復讐を歌い上げるDarryl Worley『Have You Forgotten?』が大ヒットするといった事象が発生していた。
*29:『Modern Times』とかおそらくその「深めた」アルバムなんだろうけど、自分は良さがあんまり分からない…多分、メロディがないと音楽聴けないタイプの人間なんだと思う。
*30:上記のWilcoとSon Voltの退避になぞらえるならば、Bob DylanはおそらくSon Volt側だけど、そう考えるとやはり、フォーク・カントリー音楽というのは深く掘るとこのように幻惑的な作用があるものなのか。