ブンゲイブ・ケイオンガクブ

本を読まない文芸部員と楽器を練習しない軽音楽部員のような感じのブログ。適当な創作・レビュー等々。

『3』麓健一(2022年12月リリース)及び彼について

 新年最初の記事です。今年もよろしくお願いします。

 昨年末の2022年年間ベストの記事に書いたとおり、このアルバムの単独記事を書けなかったことが2022年にやり残した最も大きなことだと思っていたので、今回早速書いておこうと思います。成り行き上、彼のディスコグラフィーを簡単に追う箇所もあり、例の如く内容が散乱しているかもしれませんが、しかしながら是非多くの人にこの、サブスクにはおいていないアルバムを手に取って聴いていただきたい気がしますので、どうぞよろしくお願いします。

 というか、Bandcampにもこのアルバム置いてないのか。なんかそのうち置いてくれそうな気はします。

 

diskunion.net

 一応Amazonの方も。結構売り切れとか多くて、期待(需要)に対してあまり数を作ってなかった感じがあります。筆者はどうにか購入が間に合ってますが、発売日から数日後までにはもう在庫切れの状態になっていた模様。

 

www.amazon.co.jp

 

 それにしても…2011年の最後となっていた音源『コロニー』以降にライブで演奏されて、その完成度の高さから、もし音源になれば名盤になってしまうことが不可抗力だろうと思われた『Pentagon』『ヘル』『幽霊船』等々の名曲が、もうこのまま不可抗力的に世界から消えていってしまうのかと思ってた人たちからすれば、今回のリリースはひょっとしたら未だに夢見心地かもしれません。後追いの自分ですらそんな気持ちもあったのに…何というか、本当にリリース、おめでとうございます!

 

 

 

 やはりいつもの如く前書きから始まり、そしてそこそこ長いです。今回はディスコグラフィー概観も入るから尚更長い…なんと前置き部分だけで1万2千字になりました。「そんなの分かっとるわい!」という方、ホントに上の目次から本編のところを選んで前書きを飛ばして読んだ方がいいかもしれません。

 

 

麓健一というSSWについて

 

誰?どういう人?

 まず彼は誰なのか、というところ。“知る人ぞ知る”になってしまった感のある「東京インディー」なるシーンがかつて(おそらく2010年前後〜2010年代の中頃くらい迄?)あった中で、その中でも様々な要因があって、よりマイナーな存在になってしまったかもしれません。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 簡単に、どこかのパーソネルや本人の文章等を読みながら書いてみましょう。特に以下の2022年の沖縄での弾き語りライブでのかなり長文のメッセージは、彼の“成り立ち”をこれで完全理解する…のは流石に人間の生育というものを舐めていますが、しかし何となく「そういうことなのかな…」と思わせるのに大いに役立ってしまう色々があります。

 

https://twitter.com/Gshelter/status/1522777735818481665?s=20

 

 

hhttps://twitter.com/Gshelter/status/1522777735818481665?s=20ttps://twitter.com/Gshelter/status/1522777735818481665?s=20

 奄美大島生まれ。4歳の時に親族のつてで一家で埼玉県に引っ越す。その親族がプロテスタントキリスト教会の関係者であり、そこでのコミュニティに幼少時は一番所属感があったように感じているらしい。

 やがて彼は音楽、それも日本のテレビ等に長い時間映るようなメジャーなものではなく、もう少し自分の好奇心を伸ばして辿り着く場所、有り体に言えば“洋楽”的なも等に辿り着いた。後に昆虫キッズを結成する高橋翔とフジロックに忍び込むようなことをしたり、東京インディーシーンのメンターの一人であった豊田道倫と出会ったり、家賃が払えなくなってピンチなシェアハウスに七尾旅人が参加して家賃を払った理、といったことなども起こった。

 そして、緩やかに形成されつつあった“東京インディー”のシーンの中で彼の音楽活動も始まる。にせんねんもんだい主催「美人レコード」で宅録のSSW作品をリリースするようになり、2008年にはそれらの集大成となる1stフル『美化』をリリースする。その一方で、東京インディーというブームならではの、様々な活動主体・バンドを跨いだ客演でも彼は活躍し、oono yuuki bandへの参加や昆虫キッズでの客演なども行なっている。

 東日本大震災が起こった年である2011年の12月14日に、ライブ活動を共にしたバンド編成による録音の2ndフル『コロニー』をリリース。少しばかり脚光を浴び、さらにライブで出てくる“新曲”群の素晴らしさにシーンやリスナーの期待は膨らむも、その後彼の活動はなかなか音源リリースという形に結びつかず、素晴らしい“新曲”群は散発的に開催されるライブのみでしか聴けない状態が長く続いた。ファンも「伝説のベールの向こうに消えて行きそうになっている彼とその名曲群」を複雑な思いで見ていたかもだが、2022年、突如彼はTwitterを始め、そこで新作アルバムの制作が進んでいることを告知、半ば諦めさえ感じつつあったかもしれないファンを驚かせた。

 そして物事は予定より若干遅れつつも順調に進み、彼の3枚目のフルアルバムとして直球すぎる名前を与えられた『3』が、前作から11年と7日ぶりの2022年12月21日にリリースされた。

 

 「簡単に」とか言っときながら長いな…。

 

 

その音楽性

 その説明をする前に、今回のアルバムの録音より後に出来たという“新曲”『HOW』が公開されていますのでお聴きください。実にしみじみと麓健一な1曲!

 

www.youtube.com

 

How 何を 見ても 替えれない心

How まさか 荒地 ふりだしに戻る

How 三度 その扉を 開いている 

How 馬鹿な 呪いを またかけ続けてる

 

火を載せて おどけてよ  記憶のよう その顔も   

血は巡る  ここも消え  記憶のよう この雨は

 

歌詞も含めて見事に麓健一イズム!

 

 一言で説明できるほど彼の魅力だってそんな陳腐なものでは決して無い訳ですが、それでもおそらく、彼の音楽を初めて聴く人はその多くが「おどろおどろしい」といった方向の感想を抱くんじゃないかと思います。

 本当に強引に、彼の音楽性を一言で表すならば「普通に演奏して歌うだけで何がしかの“おどろおどろしさ”を引き出してしまう歌と楽曲の力」だと示せるかもしれません。ここで言う“楽曲”にはもちろん歌詞も含まれます。彼名義の作品における彼は基本、ギターを演奏しながら歌う、という、ピアノと並んで典型的な“シンガーソングライター(SSW)”のスタイルの演奏家です。

 SSWという語から多くの人はギター弾き語りのスタイルを思い浮かべるかもしれません*1が、彼は割とそれを地で行くタイプの人物と言えます。実際、2011年よりも後の彼のライブの多くが、彼がアコギなりエレキなりのギターを弾きながら歌うスタイルで演奏されてきました。そして、それだけで十分に彼の“歌い手としての異様さ”みたいなものは伝わってくることを、彼のシンプルなライブを観た人は感じることでしょう。

 つまり彼の作家性は、弾き語りでもシンプルに伝わって来るレベルの内容、即ち歌と曲の次元にて強く感じられる、と言えるでしょう。アレンジについても、1stアルバムではかなり苛烈な作家性の強さを感じられましたが、もっと楽曲自体や歌にこそ、彼の異様な才能は宿っているのだと感じます。

 

 

呪い・生と死の境界の曖昧化のロマン

 “彼の異様な才能”というのを、とてもつまらない形で文字にすればこういうことなのかもしれません。

 このブログは2022年末に突然4ADレーベルとか、Deerhunter特集とかそういうことをやっていましたが、特にDeerhunterについては、東京インディーの範疇の幾つかのバンド、特にシャムキャッツや昆虫キッズが割としっかりサウンドに影響が残るレベルで強く憧れていましたが、酷いことを言えば、最も天然でBradford Coxと同じ種類の霊感を持っていたのは麓健一その人でしょう。『美化』と『Microcastle』が同じ2008年に出たことはただの偶然でしょうか?…多分これは本当にただの偶然だと思われますが*2

 Bradford Coxは確かに曲も歌詞も異様なものを書きますが、彼の場合さらに音も相当にサイケデリックなものを引き出そうと常に努めています。麓健一も、時折サウンドに凝る場合はそういう霊的なサイケデリアを引き出して来る場合がありますが、彼の場合もっとソングライティングと歌によってそういうのを引っ張ってくる傾向が強いように感じられるのは、弾き語り的作品が結構多いからなのでしょうか。

 「歌声と歌詞だけで弾き語りをサイケデリックなものにできる」。はっきり言ってこれ、誰にでも出来ることでは無いどころか、これが出来る人はかなり限られるんじゃなかろうかと思われます。正直、これを目指して努力する、というレベルでは中々辿り着けない要素のようにも感じられます。

 麓健一の声、落ち着いた大人の声というよりも、むしろ幾らかの幼さ・音の高さを残したまま、そのまま成人したタイプの声ですが、彼が時に声を掠れさせ、時に低くつぶやいたりファルセットを用い高音を描いたりするその様に、何故かもう強く、呪いだとか生と死の境界が曖昧になる感じが出てきてしまいます。カラオケとかで楽しく歌うことができたりするんだろうか、などと勝手な心配をするほど*3、彼の声は絶妙に、豊かな“曖昧さ”を含むことが出来ます。そしてそれによる緊張感は、バックの演奏が打ち込みであれ、バンド演奏であれ、弾き語りに近いスタイルであれ、それぞれのスタイルに沿った形で、大いにその霊的な振動を導けるものです。

 

 

言葉

 声質というのは受取り手によって感覚も変わるものだと思いますが、彼はもっと能動的に「呪い・生と死の曖昧化」に作中で努めています。コーラスワークとかにもその意思は感じられますが、最もそれが端的に感じられるのはやはり、彼がメロディにどのような言葉を選んできて載せるか、という部分でしょう。彼の魅力を紹介するにあたってブログという基本文字だけのこの形態にも一番相性がいいので、幾つか拾ってみましょう。

 

新しい腕 切り落として お前はもう 若くはなくて

語り出す声 あふれ出す夢

疲れた目は それすらやめても

 

         『新しい腕』麓健一 より一部抜粋

 

あなたを想いたい あなたを想いたい

途切れることが怖くてたまらないだろ

途切れることが怖くてたまらないんだろう

 

          『名前』麓健一 より一部抜粋

 

さあ 嘘をついてみてよ 私は耐えれるから

さあ 唾、吐きかけてよ それで楽になるんなら

腐った花びら見てなよ 誰もいない湖で

さあ 飛び込んでみせて 私を驚かせて

 

笑い合いたい 笑い合いたい

あんたを殴る前に

 

 『FUCK YOU, I LOVE YOU』麓健一 より一部抜粋

 

どうでしょう。もう、分かる人はこれらを読んだだけでピンとくると思います。

 身も蓋もない暴力性・残虐性、時間の経過に対する恐怖と諦め、美と醜の転倒、皮肉や悲観を前提にしないと結べない愛、etc。それ自体にそんなに激しい攻撃性を有するわけでもない、どちらかといえば全然おとなしそうなその声で、彼は実にとんでもない世界観をするすると導き出してしまいます。ただ、“ネガティブ”と呼ぶには泣き言めいた感覚が薄く、まるで「そうなる運命」みたいな冷淡さがそこにはあります。そして大切なのは、これだけグズグズの世界観でも、どこかにロマンチックなものが感じられること。日々の隙間から立ち登るどうしようもない退廃感の中で、しかし彼は確かに何かに甘美に甘えられる対象を有しています。それは散々な目に遭わせ合う恋人だったり、様々な滅びや綻びの中に見えてくる運命めいた法則性だったり、ちょっとした日々の祈りだったり。

 世の中において控えめな存在感ではありながら、彼の音楽や言葉もまた、ある種の音楽の大切な効果である「どこか現実的なことが揺らいでしまう場所」に、聴く人をロマンチックに導くことでしょう。

 

 

ディスコグラフィー(入手が簡易な限りの)

 この記事の本編である『3』について入る前に、彼の他の音源を聴いたことがない人も、聴きたいけれどサブスクにないので聴けてない人もいるかもしれないので、ここで簡単に彼の、Bandcampでダウンロードできるので聴くことが比較的容易なものを順番に見ておきます。ある程度の前提が共有されてないと「今回の『3』はこれまでと比べて…」等の話が書きづらいので苦肉の策ですが。

 今から紹介する音源は全てBandcampで有料で聴けます。

 

 

EP1. 『THEY DON'T SPEAK JAPANESE』(2007年1月リリース)

 ダウンロードはこちら

 Bandcampで手に入る限りでは最初っぽい音源*4宅録で製作された7曲入りで、いきなり彼の狂気に満ちた閉じ切った世界が炸裂していて、彼はおよそ初めから“彼”として完成していたんだなあ、ということが分かります。

 冒頭からピアノアルペジオに合わせた短い歌もので、言葉共々いきなり不思議な厳かさを感じさせます。2曲目『新しい腕』も弾き語りに妙な旋回するエフェクトとピアノが乗り、上述のおかしい歌詞共々、やはり危険な雰囲気が溢れています。3曲目からは初期の彼の作品でよく出てくる打ち込みのリズムが出てきて、その硬質さが初期の彼の楽曲の最も冷たい側面を形作ります。『都へ』中盤の展開はビビります。

 不穏な形で反復しバックのエレキギターの曖昧なカッティングが薄くシューゲイザー的音像を作る『王子たち』は本作でも出色の出来で、彼自身もそう思ったのか後の1stフルに収録されます。あと最後の『郵便 #2』も。とはいえ、本作に限らずですが、1stフルに収録されなかった楽曲も彼の独特のセンスがいきなり全開な、彼の作品でしか聴けないような雰囲気が渦巻いていますので、結局は1stフルを聴きまくって満足した後に、他の作品に手を伸ばすことになりそう。

 

 

EP2. 『炎上する、それ』(2007年6月リリース)

 ダウンロードはこちら

 4曲入り。前作で早々に完成した「弾き語り+冷たい打ち込み+α」な作風がまた展開されます。冒頭『文化』からしてシンセの果てへ伸びていくようなフレーズやコーラスにドスッ、ドスッと打ち込みのリズムが刺さり続けるのがもう独特のヒステリックな雰囲気をすぐに作り上げてしまいます。

 アコギのエコーに対してボーカルのそれが薄いために声が浮かび上がる『名前』においては、歌い出しから強烈な言葉が並んで、ナチュラルに一直線で危険な領域に飛び込んでいく彼の姿が見れます。段々重なってエコーが増していく声も狂気的。シンセ+打ち込みリズムの『ダンスホールの雨』はやはり1stフルアルバムにも収録。最後の『重なってく皺』は音でびっくりさせる要素のないスタンダードな弾き語りだけど、薄ら掛かったエコーと録音時のヒスノイズ、そして彼の声だけでも十分に不安な雰囲気が広がっていくから、かえって演出なしでそれなのが恐ろしい。

 

 

EP3. 『YOU DON'T LIKE LOVE SONG』(2008年4月リリース)

 ダウンロードはこちら

 別に筆者が便宜的に適当に作った訳でなく、本当にこういうジャケットです。7曲入りのこの音源は、宅録ではありますが、彼以外のゲスト参加が色々とあり、少しばかり世界観が広がっていく感じがします。1stフル『美化』前最後の音源でもあります。

 ここまで彼が作品をリリースしてきたレーベル・美人レコードの主催であるにせんねんもんだいのメンバーがそこかしこに参加しており、冒頭のタイトル曲ではシャープにポストロック的に反復するドラムを提供し、続く『うぐいすの谷』では女性ボーカルを添えています。『うぐいすの谷』はその2人の声と、コード進行やアルペジオが存外にART-SCHOOLっぽい曲展開、そしてそこに不思議なリズムで声を乗せる、弾き語りスタイルでありながら彼の代表曲のひとつと言えそうな不思議なキャッチーさを有する楽曲。本作からはこれと、同じく弾き語りスタイルの『余りに短い』、やはりシンセ+打ち込みのリズム形式の『踊り続けて』の3曲が1stフルにも収録。

 しかし残りの曲も、やはり女性ボーカルとの並走による、しかも対話形式になっている歌詞に、彼の不可思議にすれ違い続ける男女観が垣間見えます。最終曲『シスター』のクリッピングするまでボリュームの上げられていくシンセやドラムの凶暴さは、溢れ出してはいけないものが常に溢れ出しそうな彼の音楽の中でも、レッドゾーンに触れまくった感じの仕上がり。かと思ったら後半から…という仕掛けもなんともな寂寥感。

 ここまで3作は当時主にCD-Rでリリースされ、ディスクユニオンやJet Setといった一部のインディーに強いレコード店にて販売され、一気にカルトな人気を集めていきます。そしてその総決算として、最初のアルバムが登場する訳です。

 

 

1st Full. 『美化』(2008年11月リリース)

 ダウンロードはこちら

 上述のとおり、3枚のCD-R作品で繰り広げてきたことの集大成として、それらの収録曲の一部再録も含む、実に16曲75分弱、CDの容量ギリギリのパツパツまで、とてもヒステリックな初期の麓健一がこれでもかと詰め込まれた、75分弱の間彼の内なるデーモンやゴーストが叫び倒し続けるかのような“狂気”のアルバム。正直最初は聴き疲れするかもしれません。ただただ圧倒的すぎるので。

 本作については、以下の宅録をテーマにした弊ブログ記事でも触れていました。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

書く内容が少々上記と被りますがご容赦ください。

 冒頭『自治』の妙に郷愁を誘う、サイレンみたいなシンセの静謐なヒステリックさからもう強烈で、そこから初期の彼のお約束である打ち込みのリズム+シンセの『十字』に移るけども、リズムは歪み、奇妙なピアノのリフレインも交えるこの7分半近くの圧倒的すぎるトラックが終わった段階で、聴き手はこの神経症的な世界観の中でなかなかの疲労感を覚えるかもしれません。この後に静かで聴きやすく否応なしにワードチョイスがキャッチーな『うぐいすの谷』が続くのは、サービスのようなこれはこれでギャップがかえって重たいような。

 どこかで彼自身も供述していたとおり、初期の彼の作風のひとつ大きな柱は「ループ」にあって、打ち込みのリズムとシンセとで形作られるループ曲が、時に静かで霊的な楽曲になったり時に狂気的な金属音を放ったり時にその両方(大体全部そう?)だったりするその合間にアコギベースの弾き語りスタイルの楽曲が入ってくる、というのが本作のスタイルで、流石に75分も詰まると少々ワンパターン気味に聞こえたりしなくもないけども、それでもおそらく、当時の彼にはこれだけの過剰な尺の作品を出して、ここまでの自分を一度全て吐き出してしまう必然性があったんでしょう。

 ループ曲に挟まれた静かで休まる曲のようで、しかし実際は極端な声のミックスがやはり神経質で、言葉共々休まる感じゼロでむしろさらに追い詰められるような『バリケード』から、やはり歪んだリズムに、さらに珍しく歪んだギターでループリフを奏でるハードな『尖塔から』、ゆったりとしたリズムに冷たく響くピアノと、間奏のトチ狂ったピチカートが入ってくる『コールドハート』の流れはもうヒステリックにヒステリックを重ねていく展開で、彼のオブセッションの重たさを最高に感じさせる流れ。その後に来る『五月と永遠』は流石に素朴なアコギ作品で、ロウな音質がクる以外は癒し、と思ってたら終盤やっぱり…。

 たとえば正座して聴くスタイルでこの作品に取り掛かると、75分という長い時間を彼の全開の凶暴な音響と言葉で襲われ続けるし、かといってその性質から作業用BGMには全く向いていない、という作品ではありますが、しかしその過剰さが詰まりに詰まっていることそれ自体が、このアルバムの“価値”な気がします。いやあおっかない。

 それにしても、なんでこのアルバムは美人レコードではなく、kitiというレーベルからだったのか。ちゃんとCDで出すのに必要だったことなのか。

 

www.youtube.com

 

 

EP?4. 『あるいはその夏は』(2009年8月リリース)

 ダウンロードはこちら。リリースはまた美人レコードに戻る。

 9曲で38分以上もあるので、まあ普通にフルアルバム扱いしていいような気がしますが、しかしこれをアルバムカウントしてしまうと今回の本題である『3』というタイトルの前提が崩れますので…ミニアルバム、かなあ。これの次の音源はもう2ndフルアルバムになる訳ですが、それとの曲被りも一切なく、二つのアルバムに挟まれた時期の、完全に独立した作品となっています。

 そして、そんなふたつのアルバムに挟まれて少々地味な存在感だけど、尺のこともあるし、2枚のアルバムの割と中間くらいの世界観であることといい、とても色々とちょうど良くてそして聴きやすい作品になっています。もしかして最初に聴く人は『コロニー』かこれのどっちかがいいんじゃなかろうか。すなわち、全面的にバンド体制の『コロニー』ほど宅録から離れている訳ではなく、しかし流石にもう出し切ったのか『美化』ほどにヒステリックでもない、そんな具合が色々と聴きやすさを生み出しています。タイトルの柔らかそうな質感に偽りない作品。

 冒頭『WHAT ARE YOU WAITING FOR?』はいきなりゲストボーカルのにせんねんもんだいの人の声から始まる、穏やかなアコギの響きがエコーの厚いボーカル共々穏やかに続いていく楽曲。6分40秒という長尺だけど、男女ボーカルが交互に現れては歌詞を切々と歌っていくその様、その落ち着いた具合は、それこそRed House Painters的なスロウコアさをさえ感じさせてくれます。続く『花火』は前作で散々聴かせた打ち込みリズム+シンセのスタイルですが、極端さは抑えられ、程よく中途半端にスペイシーなループ感覚や男女ボーカルが重なる切ない様は、ポップさと、彼の詩的センスの内向性の静かな提示に成功しています。ノイズと歌とは言えない謎の言葉の連呼が狂気的な次曲『部屋とYシャツと私と嫉妬』も2分弱という長くない尺でサクッと終わるのでインスト的にいけます。『LISTEN TO YOUR HEART』とか、エレポップとかドリームポップだとか呼んじゃっていいかもな、くらいには綺麗にポップに纏めてあります。

 個人的な一押しはタム回しのリズムとアコギと鮮やかなピアノ、そして彼の割と素直にポップセンスがキャッチーに滲み出したメロディに、彼のシニカルさが実にキュートな形で露出した『FUCK YOU, I LOVE YOU』です。このタイトルでこんなに可愛らしい曲だというのがもう実に麓健一ですが、この曲本当に大好きです。そこから謎インスト風でやっぱり歌もちょっとある『オープニングナイト』から、シンセ+打ち込みスタイルの総決算な透明感と果てしなさが胸を打つ『葬列』での締めは本当に素晴らしい。

 もしかしてこれを最高傑作に思う人もいるんじゃないかと思う完成度。どうしてこれをCD-R作品にしたのか。ちゃんとCDで出せばよかったのに、と思いつつも、その辺の不思議さもまた彼らしいとも思える訳です。

 

www.youtube.com

 

 

2nd Full. 『コロニー』(2011年12月リリース)

 ダウンロードはこちら。これもkitiからのリリース。

 こちらについては、以下の弊ブログ記事ですでに書いていました。ランキング形式になっていますが、この記事の一番下の方にあります。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 以下、改めて文章を書きます。

 今回扱う『3』が出るまでは長らく彼の最後のリリースになっていた作品。全11曲で48分と程よい尺。そして彼とライブを共にしてきたバンドメンバーによる録音を中心とした作品で、彼の作品の中でも最も“SSW+バンド”としての、人力の演奏による温もりや楽しさ・ポップさが味わえる作品。反面、これまでの彼の宅録における神経質な打ち込み+シンセ作品は消滅したので、そういうのが好きだった人には少々物足りなかったとかもあったのかもしれません。彼的な狂気がマイルドになっている、というのはそうだけど、でもその分とても聴きやすくなっているのも事実だと思います。

 いくら狂気が薄まったかもしれないとはいえ、冒頭『コロニー #1(End of May)』から、この世とあの世の狭間から歌いかけるかのような彼の不思議なボーカルの存在感は依然として変わりません。むしろバンドによる演奏、特にスッパマイクロパンチョップによるパーカッションも含めてバタバタした泥臭いリズムが、彼のソングライティングのドラマチックさを浮かび上がらせている風にも思えます。それは続く『パフ』でも存分に展開され、もはやリードドラムとさえ言いたくなるそのドラムの賑やかさは本当に楽しく、そんなファニーな雰囲気の中で展開される麓健一ワールドのシュールさもまた実にいいもの。続く『ピーター』の実にロマンチックな夜の感じが過ぎていく頃には、すっかり本作的な夜の帳の向こうに連れて行かれていることでしょう。そこからもっとずっとポップな『Party』で一度雰囲気をズラして見せる様といい、本作はインディーロックとしての最高な流れが本当によく詰まっています。

 彼の“記憶を鮮やかに慎みをもって辿るリリシスト”としての側面は中盤『ドントストップ』→『Do you remember?』の流れで大いに味わえるでしょう。前者の次第に演奏が増えていく手際の、どんどん世界が記憶の中で膨れ上がっていくような様は見事だし、一転『Do you remember?』による繊細なアコギつま弾きが少しシャッフルなリズムで煌めいていく様はRed House Painters『Over My Head』麓健一ワールドに咀嚼し切ったかのような切なさが本当に素晴らしい。

 終盤の壮大で土着の信仰の感じも思わせる『鏡、鏡』から、いよいよ本当にどこかの田舎町の民謡を引いてきたみたいな『たたえよたたえよ』で締める終わり方の、その別にスッキリする訳でもなく、微妙に心ざわついたまま通り過ぎていく様には、「音楽を通じたハラハラドキドキのイリュージョン」として本作をそもそも作っていない、そのどこまでも彼のスタイルであることの厳しさと誠実さが感じられます。そして、また彼がこの寂しさに続く物語を紡いでくれるのはそんなに先じゃなくても、それを録音された作品としてまとまった形で世に出すまでには、実に11年の月日がかかった訳です。

 あと、上記弊ブログ別記事で本作を「日本でも有数のスロウコア作品かも」と言っておりますが、正直それは今回扱う『3』の方がより相応しい感じになりました。『3』と比べるとバンドメンバーの様々な演奏が入って、案外に賑やかだなあと思えました。本作、彼の作品の中で間違い無く一番賑やかな作品です。勿論、チェンバーポップとかそんなことを言い出すほどの話ではないんですけども。

 

www.youtube.com

 

 

本編:『3』について

 ここより上は全てこの記事の前段部分であり、既に1万2千字となっていますが、ここからがようやく、2022年についにリリースされた新作アルバム『3』についての話となります。

 

 

制作概要

 どのようにして作られたかは、その作品の出来も勿論のこと、特にどういうベクトルの作品かという点において大いに左右します。特にその主体が、基本的な演奏形態を常備するバンドではなく、作品ごとに様々な選択肢が考えられるSSWという形態であるならば尚のことの話。麓健一であれば、『美化』がヒステリックな宅録で、『コロニー』が比較的柔和なバンド編成であったように。

 その点で行けば、本作は石橋英子(!)がプロデュースし麓健一の弾き語りに石橋英子とJim O'Rourke(!!)が演奏に参加したスタイルでベーシックを録り、そこに石橋英子がキーボード等を足して、Jim O'Rourkeがミックス・マスタリングをした、という体制での作品です。麓健一の録音作業は2021年10月に一旦終わり、あとは二人の編集作業だったということなのが驚きでした。というかJim O'Rourke、すっかり日本の人だなあ。石橋英子と一緒に出てくることがかなり多い印象。

 

 

 

こうやって本人の証言が入ると尚のこと、石橋英子さん、獅子奮迅の大活躍すぎる…。

 

 

どういう音楽か

 しかし、上記の情報を受けて「最近の石橋英子・Jim O'Rourke関連作品みたいなアトモスフェリックな作品」と早合点するのは全く宜しくないと思われます。あくまでも控え目なドラムやベースのプレイで、キーボードも弾き語りメインの演奏に幾つかの響きを少し足す、程度のプレイに極力徹していて、イントロ等を弾くことがあっても、それで華やかになりすぎないよう努めているかのよう。ミックスもどこかの『Yankee Hotel Foxtrot』みたいなブッ飛び方はしません。

 その結果本作は、麓健一の声と、彼の弾く主にエレキギターのコードカッティングの音が終始もの寂しげに響き続ける、それこそ本当にスロウコアじみた音響の作品に仕上がっています。いやホント、本作を聴いた後じゃ『コロニー』をスロウコアなんて呼べなくなっちゃうな、といったことを少し考えてしまいます。

 これはおそらく、プロデュース陣が何よりも「彼が弾き語りのライブ演奏でこれらの楽曲を演奏し続けてきたこと」を最優先し、そこに本当に必要最小限の演奏を添えるだけに留めることこそが、これらの楽曲の良さを引き出すに相応しい、と考えた結果だろうと思われます。ひいては、音源が出ない間も続いてきた彼の弾き語りライブの時間に非常に敬意を払った結果なのかな、とも思います。なので、『美化』のようなガリガリに尖り切った打ち込みやシンセも、『コロニー』の案外に賑やかだったバンドの躍動感もここには無く、代わりにあるのは本当に、クランチ気味のエレキギターでコードを柔らかく不穏げにゆったりかき鳴らして歌う麓健一と、それなりのリズム隊やキーボードのバックアップの様子で、その結果としてそのシンプルなバンドサウンドが“スロウコア”っぽく聴こえているのかな、と考えました*5

 それにしても、ライブではアコギ弾き語りも結構多かっただろうに、この作品からは意外なくらいにアコギの音はなかなか聴こえてきません。SSWと言えばアコギ弾き語りだろうと思われるのにそれを基本的に封印してエレキギターで通しているのも、本作がスロウコア気味に聴こえる理由なのかも。ロック的なケレン味のあるリフや極端にサイコな音響も少なめの、楽曲に宿る霊感をそのまま引き出しただけ、程度の演奏の追加の仕方にはなかなかの緊張感があります。

 また、ピアノが比較的伴奏に使われる場面が多くありますが、どれも必要以上の饒舌さは見せず、静かに退廃的に響くことを選択しています。そういえばピアノという楽器もまた、スロウコアで時折見られる印象的で象徴的な楽器だったなあと、本作を聴いてて思いました。

 楽曲については、2011年以降に生み出され、多くは2010年代半ばにはライブ定番化していたナンバーがひしめいているものであり、流石に2022年の日本の社会や、あと2022年2月24日以降の世界を云々…とかそういう空気ではない*6、と思いますが、まあ別に時代の空気云々をそのまま表現したりしないのはこれまでの彼の作品も同じことであり、歌詞の世界観も、ある程度は“普段の麓健一”と言えるものではないか、とも思います。つまり、上で見てきたとおり、初めからブッ壊れてたあの世界観の続きが、ここでは語られています。

 …それにしても、スロウコア的な静寂感に麓健一ワードの溢れる歌詞の歌って、その取り合わせってものすごく最高じゃないか…?

 

 

全曲レビュー

 それではここから、ようやく1曲ずつ見ていく、いわゆる全曲レビューになります。歌詞はどれももうキレッキレなので全文引用したくもありますがそうすると何か法に触れそうなので、一部抜粋に留めます。

 それにしても、曲目だけでも麓健一的なおどろおどろしい雰囲気がなんとなく感じれていい感じだなあと思います。『ヘル』とか『幽霊船』とかもうタイトルの時点で麓健一イズム全開で名曲確定!みたいなもんだし、『椿事』(“ちんじ”と読む)という単語で終わるというのもなんかこう。

 

 

1. Pentagon(3:31)

 冒頭いの一番に聴こえてくるラフな電子音で「あっJim O'Rourkeの野郎…!」と一瞬本作の作風を勘違いしそうになるけれど、やがてエレキギターの音が聴こえてくると、それ程の装飾でもないことが分かってくる。柔らかなエレキギターの爪弾きと素朴なようでどこか超越的なようにも思える歌が程よくアンビエントでビートレスな装飾の中で紡がれる、本作的な霊感のあり方をナチュラルに示す楽曲か。あとタイトルから思うほどアメリカ的な要素はこの曲の歌詞には無い。

 この曲のギターがアコギでないことがまず、本作に流れる温度の低い具合を示している気がする。アコギのナチュラルな音に比べると、どんなにクリーンでもエレキギターの響きには不思議と人工的な冷たさが付き纏う。けど、この冷たい、金属の質感がより強調された音色だからこそのアンビエントがあり、それを全体で通すことで得られる作品自体の雰囲気の持たせ方というのがある。本作はこの優しい金属質な音の爪弾きによる『Pentagon』で始まり、やはり金属質なコードカッティングの弾き語りの『椿事』で終わる。そのことがどれだけ作品の印象を左右しているか。

 はじめは少しでしゃばってるように聴こえるかもしれないJim O'Rourkeか誰かによって追加された電子音やらパッドやらは、楽曲本編が始まると控えめに優しく、この曲の要所要所でそのささやかな存在のあり方を本当にさりげなく浮かび上がらせる。彼の歌の、ファルセットの際の声の震え方の不安定さすら、何かのニュアンスを表現するのに必要なものであるかのような響き方に、ランダムなノイズのようでありつつも、不思議に寄り添っている。楽曲の静かな山場とでも言うべき終盤のファルセットのリフレインに寄り添う電子音には特にそんな印象を覚えた。

 歌詞は、多くない言葉数で、何もままならないからこそ、切実に何かを認識しようと努める、つまりそんな彼の基本的なスタンスを、まるでその上澄みを掬ってきたかのように端的な言葉で、詩的な雰囲気も忘れずに送り出す。

 

流れる愛は どこへ向かう から回る 私に教えて

切り抜いた 紙の五角形 わからないことを 愛している

 

かじの音 かじの音

 

あれは何? あれは何?

 

 

2. 彼方(2:41)

 ここから本作特有の、素朴すぎてもっさりした緊張感漂うバンドサウンドが展開されていく。シンプルすぎるバンド構成を核にしつつも、奥まった音響のピアノ等がさらりと装飾し、ポップになりすぎない程度に彼の絶妙に抜けの悪いソングライティングをそんなに長くない尺でサクッと聴かせる。この抜けの悪さこそ、彼の楽曲が持つ世界観の素晴らしくエグい部分の一端だろう。

 前作『コロニー』の賑やかさを思うと、この曲なんかで端的に示される本作のリズム隊は実に淡々としている。決して歌や曲よりも前に出ないように万全に努力しているかのよう。最初に歌が入ってくるまでのしばらくの時間の、ギターのコードバッキング含めて開き直ったかのようなシンプルな導入はまさに、本作的な無骨さの象徴と言える。勿論、楽曲が進むにつれてこれに奥まったアンビエンス具合のピアノが程よく洒落た陰影を取り付けていくのだけども。

 この曲の歌の具合は、はじめからずっとファルセット気味のコーラスが追随するため、元々のリバーブ具合も含め、いいように印象がぼやけていく。これは歌から落ち着いたポップさを奪い、不安定な情緒を育む。ヴァースとブリッジの繰り返しみたいな単純な曲構成もあって、コード感はポップそうなのに絶妙に澱む歌の情緒具合は、実に麓健一的な不健康さをこのシンプルでもっさりしたバンドサウンドの曲にも持ち込んでいる。終盤の気味悪いリフレインと終わり方のあっけなさもまたそんな印象を的確に助長する。

 歌詞にはどこか不思議に日本的な、それも昔の日本の田舎の風俗的な単語が見受けられる。頻繁に混じり込む残酷なワードも含め、何かこう、普段都市で暮らしていると意識しない・目に入らない類の歴史やら土地の匂いやら呪いやらを引き込んでくるかのよう。それが何か具体的な糾弾ではなく、もっと漠然としたムードとして立ち上ってくるところに、ファンタジーと狂気の混じる彼の作家性が宿る。

 

竹槍 冷たい 夜這い ギロチン

おのろけ ヨゴレ 血祭 ふしだら

 

ついに俺ら溶け合って 誰かわからない

目くそ鼻くそを笑う 返り血を浴びて

 

 

3. 杖(3:00)

 この曲もなかなかに悶々とした楽曲だ。意識が澱んだようなゆっくりしたテンポでどこかグランジを感じるコード進行を繰り返し、しかしグランジのような“爽快な”破綻は結局見せずに、代わりに内出血が膨張するかのような終盤の展開に行き着く。勿論、麓健一が『Smells Like Teen Spirit』みたく叫ばれても困惑しちゃうので、これぞ、というスタイルなんだけども。

 この曲はピアノは使われず、いよいよギター・ベース・ドラムそして声だけの、こういう要素だけで見れば実にシンプルで華が無いように思える組み合わせで出来ている。ただ、やはり歌には常にコーラスが付き纏い*7、その響き方を不安定なものにさせ続けていることは特筆すべきで、これと解決しないコード進行共々悶々とした反復を続ける演奏からは、聴き手はずっと宙吊りになったような印象を受けるかもしれない。後期The Beatles方式なドラムのフィルインも断続的に挿入されて、これも楽曲のおどろおどろしさを強調こそすれ、爽快感につながることはない。

 この曲のダイナミズムは、そのような鬱屈とした前半部から次第に宗教的な強迫観念が膨張していくような後半に移行していくことにある。拍に沿って次第にクレッシェンドしていくドラムの勢いや、伴奏として奇怪な響きを静かに行き渡らせるコーラスが、この箇所の引き攣ったボーカルを包み込み、切実に詰まってみせるファルセットはまるでシャウトの代わりのようになり、ある意味ではシャウトよりも痛々しく聴こえる。

  歌詞はこれは一応物語形式なのか。狂ってしまうこと前提な世界観が彼らしい凄惨さをキープし続ける。

 

月の裏で ぼくたちは 暮らしていたよ

狂うことない 心を ほめてあげよう

星につられて あの娘は ここへ来たよ

杖がなければ 歩けない ぼくの身体

 

 

4. ヘル(6:27)

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 本人によって、PVこそ無いもののこのように動画がアップされていて、なので一応はこの曲がリードトラック的なものと彼自身も捉えているんだろう。それもそうだろうなと思える、ダークに幻想的なピアノを軸にシャッフルのリズムで進行し、彼ならではのしなやかさや優雅さが実に素晴らしくももの寂しい形で表現された、彼のキャリア中でも屈指の名曲。この曲がこうやって音源として形になるのを、彼のライブに粘り強く通い続けた人たちがどれだけ願っていただろう。本作の中ではこの曲と『幽霊船』が双璧だろう。

 楽曲はまるで打ち込みみたいな、鈍いタムの音の反復から始まる。単調な四つ打ちでなく少しスウィングしたその最低限のリズムに沿って、まるでこぼれ落ちるようにピアノの水や光を思わせるような響きが跳ねていく。この曲はギターの方はどうもアコギっぽいけども、しかしこの曲の伴奏は全編彩りを添え続けるピアノの印象が強くて、アコギはあまり目立たないかもしれない。本作の石橋英子の数々の貢献の中でも、この曲のピアノはとりわけ重要なものに思える。6分半近くという本作で最長の曲の尺をしかし退屈を感じさせないどころか、ずっと心細くなりそうなロマンチックさを供給し続けるのは、勿論楽曲の強さもあるだろうけども、彼女のピアノの存在はとても重要だ。それにしても、ピアノという楽器もまた、実に自在に空間を彩れる楽器なんだなと。

 この曲のメロディの出色の良さを言葉にするのは難しい。曲構成としてはヴァース+割とグダリ気味*8のブリッジの繰り返し、という構成で、ブリッジは省略されることも多いけども、ともかくヴァース部分のメロディの絶妙に苦味の効いたセンチメンタルさ・ノスタルジックさが素晴らしい。シャッフルのリズムであることといい、アコギベースであることといい、個人的にはRed House Painters『Over My Head』をまた引き合いに出したくなる。歌もリバーブはありつつ、奇妙なコーラスの重ね方などはせずシングルで通すので、本作の中でも不思議と爽やかな聴こえ方をする。

 二つしかないメロディの繰り返しと、間奏で幾らかピアノのソロとも言えなさそうなちょっとしたフレーズが流れるだけの展開なのに、不思議といつの間にか6分20秒という長い時間の大半が過ぎていく。グダリ気味に感じれたブリッジのフレーズも最後ファルセットで切実に歌われると実に感じれるものがある。終盤とか同じメロディを延々と繰り返していくだけなのに、言葉と相まってとても寂しく、一番最後のピアノの、繊細さと神経質さの狭間を通すようなフレージングと最後の瞬間まで、息を呑むように感覚が鋭敏になるのを聴いてて感じられる。

 言葉についても、この曲は彼の歌詞哲学の、どちらかというとロマンチックサイドの総決算のようでもある。タイトルは“ヘル”なのだけど、どうしてそんな題なんだろう。全文書き出したい気持ちもあるけど、一部だけ。

 

いざなえ さあ僕の悪魔よ 星屑を餌にあげよう

アメリカでは みんな裸だって

「愛してる」「あぁ愛している」

 

連れ出して さあ別れた妻よ

ほうきに乗ってファックしよう

アラスカの空 きれいなオーロラ

この部屋には窓もない

 

心がまた離れてしまった

ここからまた離れてしまった

 

どこかで物語を感じれそうなのに絶妙に明確な物語としての像を結ぶことのない言葉の散らばり具合、ロマンチックさと憎悪と皮肉と憂鬱と虚無その他色々が絶妙に配置されたこの歌詞も、きっと書いた本人的には「言葉を配置」したなんて感覚もなしに出力されたのかも。

 いやしかし、独特のダークな世界観を有する麓健一をして“ヘル”というあまりにもなタイトルを付けさせて、そしてそれに見合うだけのメロディと歌詞を有する名曲に仕上げられたそのソングライティング自体が、まずそもそもにして素晴らしい。本当にこうやっていつでも聴ける形になって世に出られてよかった。

 

 

5. 水晶(4:17)

 ピアノの優美なフレージングをバックに切々と死に片足突っ込んだようなノスタルジーを歌う楽曲。この位置でこういうピアノの楽曲が来るということについては、もういよいよ筆者にはRed House Paintersの『Ocean Beach』というアルバムの同じようにピアノ伴奏で歌う『Shadows』が思い起こされてしまう。

 

ystmokzk.hatenablog.jp

 

 ここまでのダークに洒落たピアノと比べると、この曲でのピアノ演奏はもっと正統派というか、堂々としたものに思えて、それは楽曲自体がメジャーキーの、割と民謡的にも感じられる部分のあるメロディをしているからかもしれない。歌詞のこともあって、他の曲よりもずっと素直に郷愁を感じさせる。ドラム等も無いままピアノと歌で進行し、そこにやがて1曲目でも見せた静かにやってくるエフェクト等も差し込まれて、それはまるである種の純度を高めるかのように凛々しく響く。

 歌詞の方までどこか民謡じみている。麓健一的な生と死の曖昧な感覚の世界観も、まるでそういえば民謡の中には標準的に仕込まれていたかのように、この曲の歌詞と歌の感じは思わせてくる。

 

見えない汽車を待っている 今日もまた

岬の村では 言葉が売られてる

大きな水車を回してる 彼らは

まばゆい水晶を隠してる 彼女は

 

 

6. ポテチン小唄(2:16)

 本作でも一番普通に穏やかで朴訥としたポップソングになれそうなポテンシャルを曲展開等に備えつつも、本作で最も短い尺であっさりと終わってしまう楽曲。次が本作でも最も危うい緊張感に満ちた『幽霊船』だからか、その前のこの曲に“全力の箸休め”みたいな不思議な印象を覚えてしまう。

 遅すぎることもない、ゆったりしたリズム隊の進行に、エレキギターとはいえ程よくフォーキーさを感じさせるコードバッキング、そして更にのペーっとしたオルガンの伴奏がさらにこの曲の平和でのんびりした雰囲気を呼び起こす。よく考えたら曲のタイトルもなんかどういう含意かよく分からないけどものんびりした風に見えてくる。歌についても極端なエコーも奇妙なコーラスも無しに、前曲と並んで清々しい響き方をしてのんびりしたメロディを朗々と辿っていく。

 この曲は本作の他の曲よりも明確にメロディが展開していって、それもこの曲の”普通さ”を強調する。中々に趣深くのんびりとメロウなメロディの展開の仕方で、こういうのも普通に書けるんだよなと、当たり前のことを思ったりする。最後の展開のちょっと切ない感じとか演奏も込みで中々絶妙だと思う。

 だけど、この流れをもう一度聴きないな、と思う頃にはもう、この曲はあっさりと終わりを迎えてしまう。この曲は一通りの展開を一度こなしたらあっさりと終わってしまう。こういうのんびりとして”普通”な楽曲がこうもあっさりと終わってしまうと、それ自体に妙な寂しさも感じられてくるからちょっと面白い。くどいけども次の曲が次の曲だというのもあるし。

 のんびりしたメロディだけど、歌詞の方はやっぱり麓健一な奇妙な世界観が連なっていく。短い歌詞なので、あやうく全文引用してしまいそうになる。

 

街は私の海 どこへ泳いで行こう

ぜんぶ壊してみたい 何も欲しくなかったのに

どこにも行けない 一人では

 

そういえば全体的に、水やら海やらに関する言及が本作の歌詞には多い気もする。

 

  

7. 幽霊船(5:30)

 上述のとおり『ヘル』と双璧の大名曲。定型のようで妙におどろしい響きも持たされたコードのギターの頼りない響きの中を、それこそ幽霊に取り憑かれたかのように歌っていく、その静かに地獄のような様がもう本当に徹底的に“麓健一”な名曲。個人的にはこの曲が本作で一番恐ろしい感じがする。

 多分コード進行自体はⅣ△→Ⅲm→Ⅴ→Ⅳ△の繰り返しみたいな、それ自体は他の邦楽でも時折見かける王道めいた部分のある進行*9だ。だけど、シンプルにそれでは済まない、何か妙な響きがこの曲のギターコードには含まれている。何か響きがストレートでなく、妙な濁りを含んでいて、それが決定的にこの曲に呪いめいた雰囲気を呼び込んでいる。そして、かなり弱く弾こうとしているのか、音のアタック感の出方がかなり曖昧なことと、そんな音の出方のコードを断続的に弾いていくことが、この曲のメインメロディ部分の伴奏の非常に不穏な世界観を作り出している。

 そしてそれはよく考えると、鳴ってる音の大体は麓健一の演奏と歌によって出力されたものだけによる響き方でそうなっている。エレキギター弾き語りだけでこんなに不安げな雰囲気が出せるものなのか、と初めて聴いた時は驚いてしまった。彼の資質の成せる技で、もうまさに彼の真骨頂だと思った。そして実際、メロディが新しい展開を見せる中間部分以外は殆ど、ギターの響きと歌*10だけで形作られ、そしてそれだけで最大限の効果を発揮してしまう。本当にベースもドラムもピアノも不要な、恐ろしいアンビエンスが完成している。歌のメロディの、リリカルだけども不確かさも漂う具合がまた絶妙。

 そして、この曲で唯一バンドサウンドがピアノとともに入ってくる展開部については、その入ってきた瞬間のパッと冷たい世界が開ける感じは鮮やかだけど、その感覚に反して、歌のメロディは本作でも最も地を這うような陰惨さを発揮していて、ここの陰鬱加減は、洒落た響きを添えるピアノが美しいだけに余計際立つ。そしてやがてアンサンブルは消えて、元の憂鬱に曖昧な弾き語りモードに回帰して、やがて楽曲は終わる。スッキリ解決するものなど何もなく、まるで全てが闇に消えていってしまうみたいに。

 歌詞についても、本作でも最も怪しげで危うげなロマンチックさが躍動している。なにせ曲名が”幽霊船”とこれもまたあまりに麓健一的過ぎるワードだから。特に以下の箇所は本作でもとりわけ地獄めいた光景を思わせる。

 

雨が降る大きな穴へ みんなそこに埋められていった

正しさを測れるなら その棺は収まらない

届いたのは見えない銃ね みんなそれを売って暮らす

黒い水着で泳ぎに行った 砂浜に書かれた文字は

 

すべては私への知らせ すべてが私への知らせなら?

 

おそらくこの曲自体は2010年代も前半のうちに歌詞含めて完成していると思われるけども、そんな時期に書かれたこの歌詞が、不思議に2023年の、いつ終わるとも知れない戦争の続く時代に妙にマッチしてしまっていることは、いい具合に悍ましくて、なんだか笑ってしまう。笑えないことなのに。

 

 

8. Spaceship(5:59)

 2曲続けて”船”がタイトルに入った曲で、でもこっちは宇宙だけども。タイトルとも掛かっているのか、4分の3拍子でぐったりと引き摺るように進行していく前半部と、妙に晴れやかなテンションでシャッフルのリズムで駆け抜けていく後半の2段階が設けられた楽曲。前の曲の闇な具合をこの曲の土っぽさが程よく受け止めてくれる。

 前半部のじっくりと進行するバンドサウンドの淡々として地味な具合は実にスロウコア的な心細さ。ピアノの付加も避けて、ギターのコードバッキングとリズム隊の隙間の大きな演奏と歌だけで乗り切ろうとするこの部分の泥臭さは面白く、そして歌はそれに反するようにリバーブが深く掛けられ、ファルセットも多用され、その時々声が掠れたりさえする不安定さ自体にこの歌い手の味わいというか、“業”みたいなのが感じれてしまう。

 2分半を過ぎた頃にそれまでの息も絶え絶えのような演奏は一度潰えて、そして妙に爽やかなコードカッティングに切り替わったギターから、シャッフルのアンサンブルが始まって華やかな後半部が始まる。ピアノも入ってきてはシャッフルのリズムに合わせた歯切れの良いスタッカートでコードを弾き、更には何やら景気のいいサイレンめいたシンセまでバックに聴こえてくる。歌の方もなんか無理やりテンションを上げてるようなぶっきらぼうさがあって、もしかしてこの曲の後半部分は歌詞の内容も相まって、本作で一番明るい部分なんじゃなかろうか。こんなポジティブな感覚で楽しげに演奏が駆け抜けていくのは本作ではここだけだろう。恥ずかしさもあったのか、最後はバタンと演奏が強制終了してしまうけども。

 歌詞の方も、どこか後悔のような呪詛のような前半部分から、一気に爽やかで切なげなロマンチックさに展開していく後半の差異が結構際立っている。

 

赤い屋根の兵士の カートは溶けて

広がるのは夢の国? お馬鹿

水の落ちる闇夜に 二人で駆けて

震えるまま 朝を待つ さあ

 

(あの音が聞こえた)だから僕は行くんだ

(あの音が聞こえた)だから僕は行くんだ

(あの音が聞こえた)だからそこへ行くんだ

(あの音が聞こえた)だから さらばさ

 

朝靄に 消えていく 君の頬 鮮やかな お別れの 君の仕草

 

 

9. アウラ市電17系統(4:31)

 またもやドラムレスで、どこか消え入りそうなエレキギター弾き語りとファルセット気味なボーカルによる曖昧さでイマジナリーな印象を残していく楽曲

 かなりの部分をエレキギターのコード弾きを伴った弾き語りで進行していく。声にはやはり厚めのリバーブが掛けられ、静寂の中で彼の特にファルセットの微妙に不安定な感じが切実に響く音響設計になっている。メロディも歌もダークすぎずポップすぎず、まるで目の前(頭の中)に浮かんだ街の光景をただただ召喚して出力してるかのような、カメラみたいな佇まいに感じられる。

 3分手前くらいから始まる間奏部分においては、ささやかなピアノや、そして街の雑踏か何かのSEも挿入されて、曲タイトルから想起されるような架空の街を少し召喚するかのようなサウンドになる。特にちゃんと列車の走る音が入っているのは案外にユーモラスで、また不思議にノスタルジックで面白い。そういえばミックスJim O'Rourkeなんだよな、ということが久々に思い出される。この辺のノスタルジックなアンビエント感覚はくるりの『屏風浦』とかを思い出す。

 歌詞を見ても、歌の中の光景が夢の中なのか現実なのか曖昧な感触が示唆されている。もっとも、彼の歌は基本的に夢か現か曖昧ではあるけども。

 

時間の終わりを知っている? 畳の上を通る光

破れかぶれのあなたが好き 見送る人は誰もいない

 

腕を探している 夢でなくしたから

 

 

10. どじょう(4:06)

 本作でもとりわけシュールな歌詞や歌い回しが頻出しつつ、異様なサビの展開の仕方で奇妙さが極まってくる楽曲。ラスト前で相当に奇妙なやつをぶち込んでくる。そもそもタイトルからして“どじょう”ってのもすごい…。

 冒頭からバンドのアンサンブルが始まり、かなり控えめなピアノに、そして本作で唯一リードギターが聴こえてくるというのも結構特殊。間奏部分で聴こえてくるギターフレーズは流麗で、ちょっとだけThe Smithsなテイスト。だけど、歌い方については本作でも最も奇怪さが際立っていて、そもそもコーラスが常に取り憑いてくるぼやけたスタイルだし、歌詞の載せ方のシュールでやや無理矢理な部分もある。

 そして、やはりサビのファルセットの異様さが目立つ。どこか宗教的に感じれなくもないけど、それにしても突然変にスカスカな音響になるのに初見ではきっと困惑する。リズム隊もここでしっかりと奇妙な停滞感を持たせて、聴く者の感覚を宙吊りにしてくる。2度目のサビ以降はそこからさらにメロディを展開させ、それも全然スカッと抜けるフレーズでもなく、どこか理解し難い強迫観念みたいなのによってメロディは千切れ千切れて、この曲の奇怪さにさらなる困惑しうる深みを追加してくる。その後また最初のメロディに戻ってそのまま呆気なく終わってしまうのもまた、この曲の掴みどころの無い具合に貢献している。

 歌詞の奔放さもまた本作一で、一体どういう論理展開で言葉が繋がればよいのか、文字を追ってても途方に暮れてしまう。

 

援護なしの登場 色めき立つ野蛮よ

あっしはあっしである よござんすね よござんすんね

どじょうへの挨拶 相思・相愛・勘当

合言葉教えよう 「愛の反対は敬意」愛の反対は敬意

 

天にいます… 我らの父よ 天にいます… 我らの父よ

 

流れよ 流れ 我よ 我よ

流れよ 流れ 我よ 我よ

 

もしかして、彼が過ごしてきたキリスト教文化と土着の感じとキリキリした哲学とを混沌のままに混ぜ込んだらこの曲の歌詞やサビの奇怪極まるフレーズになるんだろうか。

 

  

11. 椿事(4:32)

  本作最後は、エレキギターのコード弾き語り形式で、本作でも特に低いメロディを呟くように歌う、ただそれだけで他の演奏が全く入ってこない、間奏以降のサウンドエフェクトのみが寄り添う、心細さに満ちたこの曲で締められる。その低い声のスタイルやメロディの書き方・歌詞の節々などになぜだか、アルバムの最後の方などで時折低い声で弾き語る浅井健一じみたものを感じられる。

 途中から入るサウンドエフェクト以外は本当にエレキギターの弾き語りのみなので、実に心細い。伴奏もアコギではなくエレキギターなので、その響き方は鉄っぽくて冷たくて、歌声の低さもあって余計に心細く感じられる。ただ、メロディ自体は本作中でも最もストレートにメロウな気もするため、聴き終わった時は、奇怪さに圧倒されたとかよりももっと穏やかで曇りなく寂しげな情緒が余韻に宿ると思う。最後の最後に出てくるメロディの新しい展開もまた、この曲のささやかさの爽やか具合に繋がっている。

 歌詞の退廃感とロマンチックさのすり合わせもまた、この最後の曲でもしかしたら一番鮮やかに描き切っているかもしれない。

 

箱舟に乗る 君は静かだ 祈りが俺を救うという

灰色の街 壊れたホテル さびた歌声 踊ろう

アメリカの犬 ほこりまみれね 男が欲しい 君は笑う

みたまの数 幕が降りてく 眠りが俺を救うという

 

集めた心を誰に見せるの

返せない心を胸に抱えたままで

あなたはどこへ行くの あなたはどこへ

 

もしかしてこの曲が一番パートナーとの不思議にロマンチックな光景を本作で描いているかも。お互いをボロボロに扱いつつも、でも手を取り合うことにとりあえずの“救い”めいた何かを置く彼の歌詞世界旅行の、ひとつの終点かもしれない。最後のフレーズのまるでちょっと自己言及めいたところは興味深い。

 

また何かに取り憑かれているの?

ただの名前 ただの愛 ただいま ただいま

 

 

・・・・・・・・・・・・・・・

終わりに

 以上11曲、合計46分48秒のアルバムのレビューでした。

 11年ぶりの新作、ということで、これがバンドの再結成作品とかだったりしたら、まあ悪くない作品だとしても、どこか記念めいたものを優先した、何かしらの”ぬるさ”が入り込んでしまうことはままあるんじゃないかと思われますが、その点この作品は、ただただ何かの事情で本人が素晴らしい楽曲群を世に出す形で作り上げられずに、溜まっていった澱のようなものをようやく石橋英子&Jim O'Rourkeの手を借りて世に出せた、ただそれだけのものです。なので、彼が『コロニー』以後に作った彼のキャリアでも最も優れた楽曲を幾つか含んだそれらが、極力そのままの形で出力された”だけ”なので、非常に研ぎ澄まされた作品になっています。まあタイトルはやや投げやりな『3』だけども。

 そして思ったのが、宅録の陰鬱具合が別の宇宙に繋がってしまったかのような1stの過激さとも、ライブを共にしたバンドメンバーと制作されてロマンチックで案外に賑やかなインディーロックになった2ndの趣とも、本作の性質はまた異なっていて、3枚の中では一番、聴き終わった時の寂寥感みたいなのが余韻として残るな、と思いました。この感傷的な質感は、別にこれが11年ぶりの作品だから、ということではなく、本作に収められた楽曲の性質やサウンドの質感から導き出されたものでしょう。

 その制作事情ゆえに、これライブでバンド編成で再現されることとかあるのかな…とは思ってしまいます。でも、もう1回くらいここに収められた楽曲を、こうやってしっかり聴き込んだ上で、弾き語り等でも全然OKなので、ライブで直に歌うところを聴いて・観てみたいなあと思いました。

 どうしてこんなもの寂しいものに憧れるんだろうな、その辺の理由は全然言語化できないけれども、でもなんか、寂しければ寂しいほど美しい、ってことがやっぱあるのかもなって、この作品を聴いて改めて思いました。2022年の弊ブログ年間ベスト2位にしたことに全く悔いは無い、本当に素晴らしい作品です。ぜひどうにかして手に入れて、歌詞も手に取って、そして聴いてみてください。

 それではまた。


 

 

*1:特に一人多重演奏が普及してくる1990年代以降は、SSWというのはもっと器用なイメージというか、「=宅録楽家」とか「=マルチインストゥルメンタリスト」みたいなイメージが幾らか強くなったと思うけれど、それでもSSWという語には、Neil YoungやらJoni Mitchellやらがアコギ1本で歌うような、そんなイメージがカリカチュア的にへばりつき続けている。Sufjan Stevensやtofubeatsなんかも十分SSWなはずだけどもそれでもだ。

*2:この論理でいけば「『コロニー』と『Parallax』が同じ年に出たのは果たして偶然でしょうか?」とか「『3』が出た年にDeerhunterのリリースがなかったことの意味とは」みたいにクドく展開することも出来たけど本当にクドくてウザいと思われたためこうやって脚注のみの記載に留める。そもそもBradford Coxとの比較自体が相当に恣意的なやつなのに。

*3:笑。多分別にカラオケで楽しく歌ったりも出来るだろうと思います。

*4:Bandcampでは2009年リリースになっているけども、CD-Rでの発売は2007年1月っぽい。

*5:とはいえ、本人が積極的にスロウコア的雰囲気を狙いにいった可能性も排除はできません。本人のTwitterを観てたら、とあるライブでLowの『Immune』(『Secret Name』収録)のカバーを披露していて、この辺に彼のスロウコア志向の片鱗を見たりもして。

*6:というか、どちらかというと覇権国家アメリカ」に対する愛憎入り混じった感覚が散見されます。それらはおそらく2016年大統領選以降の「本格的に“病みと闇”が世界中に示されてしまった」アメリカよりも前の時代に作られた楽曲だなあ、と感じられます。ただ、彼の祖父が第2次世界大戦の沖縄戦に参加していることや、彼が2011年以降に環境保護活動に参加していたことなどが色々とアメリカに対する何がしかの想いに繋がっているのかな、とは思われ、時代どうこう、とは少し違う性質かな、とは考えますが。

*7:この曲のコーラスは多分石橋英子?終盤の展開はともかく。

*8:でもそのグダリ方自体、割と爽やかなこの曲の“呪い”の部分めいた働きをしているので、やはりこのブリッジのグダリ具合にも大いに必然性がある。

*9:もっとベタに王道なのはⅣ△→Ⅴ→Ⅲm→Ⅵmだろうけど、それと使用するコードは似ている。

*10:と遠くで鳴る若干のエフェクト。